ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。彼女の中絶についての議論が紹介されたのは1998年の『現代思想』に載った「寸断された自己とさまよえる子宮」でわりと注目されたんじゃないでしょうか。それが収録されている『イマジナリーな領域』の翻訳が出たのが2006年で、それ以降はフェミニズム系の人が中絶の議論するときは非常によく取りあげられている印象です。塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブライツ』でもとりあげられてますね。

私このコーネル先生が苦手なんですわ。ジュディスバトラー先生ほどではないけど。レトリック過剰なところがあるし、ラカンの「鏡像段階とかひっぱって来るのとか、なぜその必要があるのかわからないし。

まあとにかく彼女の中絶の権利の擁護の議論は、簡単に言うと、我々にとって自分の身体の統一性は非常に大事であり、それは自分のイマジナリーを反映するものじゃないとならん。望まない妊娠は身体統一性を損うものである。したがって、女性の中絶の権利を否定して、妊娠の継続・出産を強要するのは平等に反するし、女性の格下げである。したがって女性がオンデマンドで(つまり、あらゆる事情を理由に)中絶する法的権利が必要だ、ぐらいだと思います。

私がこの議論がよくわからなかったのは、ラカンとか持ちだされてくるのもよくわからなかったのもあるのですが、プロライフの人たちが主張している胎児の権利とか生命の価値とかどうなってんの、ってことですわね。特に、国内でこの議論を紹介する人の多く(確認してないけど)が、いわゆる「パーソン論」に触れてその欠陥を指摘してからコーネル先生の議論を援用する、って形になってたのがよくわからなかったわけです。

だってそりゃ身体の統一性なるものはたしかに重要だとは思いますが、胎児が権利をもっていたり、その生命が大きな価値をもっているのならば、女性の身体の統一性という価値と胎児の生命との間で葛藤が起こるわけですからね。なぜ女性の身体の統一性が優先するのだろう、と思ってました。

まあコーネル先生の議論をそのまま使わないまでも、女性と胎児の関係は特別な関係なのであるから云々、という議論はよく見られます。これも私は同じように納得してなかった。いやもちろん言いたいことは十分よくわかるのですが、「パーソン論」とらないんだったら、プロライフの人の(けっこう堅い)理屈をどうするの、っていうのがわからなかった。

ここ数日コーネル先生の議論を読み直してたんですが、彼女の議論そのものもすごくわかりにくいんですね。彼女は基本的にほとんど、米国の中絶裁判判決文と、ロナルド・ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』の議論だけを相手にしていて、哲学的生命倫理学の文献はほとんど見てないんですわ。「パーソン論」だけじゃなく、プロライフの人々の議論さえ参照してない。

んで、私のここまでの理解では、ドゥオーキン先生が『ライフズ・ドミニオン』でだいたいロー判決(妊娠初期の中絶を禁止するのは違憲。ただし、中期〜後期になるにしたがって州が一定種の規制をおこなうのは場合によっては可能だ、ぐらいの判決)を追認する形の議論しているに対して、「いやそれじゃぬるい、もっとオンデマンドに近い形で中絶できる権利を認めろ」ってやってるわけです。

しかしこれ、ドゥオーキン先生もそうなんですが、けっきょくはっきり言って、胎児をパーソンと認めてないんすよね。そしてその理由は示されていない、っていうかまあはっきりいって、米国憲法では胎児はパーソンではないから、ぐらいの根拠なわけです。

これ私おかしいと思いますね。もしそんなことが言えるのであれば、わざわざ「パーソン論」とかトムソン先生の「自分の身体を使用する権利」とかでがんばる必要がないわけですからね。まあとにかくコーネル先生のプロライフ論者の無視っぷり、完全シカトは私おかしいと思います。女性と胎児の特殊な関係をもっと真面目に考えろ、ってのなら、Margaret Olivia Little先生の”Abortion, Intimacy, and Duty to Gestate”とかLaura Purdy先生の”Are Pregnant Women Fetal Containers?”とか優秀な論文が他にあると思うし。

少なくとも、国内で「パーソン論」に批判的な論者がドゥオーキンやコーネルの議論を採用することはできないと思う。なんらかの「パーソン論」、あるいは胎児の生命権、あるいはほとんどすべての権利を否定する議論を提出する必要があるはず。なんでこういうことになってるんですかね、とか。

まあ譲って、ドゥオーキンやコーネルの議論は米国憲法の上でどういう法が可能だったり要求されるかとう議論である、とするならそれでいいんですけど、これと道徳的なレベルの議論は混同するべきではないと思う。私は道徳的なレベルの話に興味がある。なぜ胎児は人としての権利をもってないのか、という疑問に対する答が、「憲法では人じゃないから」では満足できない。なぜ憲法や他の法で人と認める必要がないのか、というのが知りたい。

私まちがってんのかなあ。不安。もうすこし読んで考えます。

イマジナリーな領域―中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント
ドゥルシラ コーネル
御茶の水書房
売り上げランキング: 429,027

ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由
ロナルド・ドゥオーキン Ronald Dworkin
信山社出版
売り上げランキング: 547,717

産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム
山根 純佳
勁草書房
売り上げランキング: 370,602

中絶権の憲法哲学的研究: アメリカ憲法判例を踏まえて
小林 直三
法律文化社
売り上げランキング: 780,864

中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
塚原 久美
勁草書房
売り上げランキング: 50,490

んでいろいろ文献見てて雑感。

研修中とはいえ、そろそろ来年度のシラバス考えたりしなきゃならないわけです。私は哲学とかのおもしろみっていうのは、常識的な意見とか、他の人の意見とかを批判してなんか真理みたいなところに近づいていくところにあると思っているわけですが、そういうのってもちろん他の人とディスカッションしたりするのが一番なんですが、対立する論文を読み比べてみたり、論争を追っ掛けてみたりするのがいいんですよね。

でも国内では論文そのものがあんまりないから学生様に読ませることができない。さすがに英語で読めってわけにはいかんですしねえ。英米の大学のシラバスなんか見てると、毎週2、3本の抜粋なり論文なり読んでいろいろやってるみたいでうらやましい。日本で同じことをしようとすると翻訳からしなきゃならなかったりするわけでねえ。教科書そんなたくさん買わせるわけにもいかんし。だいたい、一人の人間が書いた教科書とか、あるい論争の紹介なんてのは迫力がないんすよね。

バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

lawやpolitical structureがchoiceする、というのはよく分からない事態になってしまうと思います。むしろ(ここで出てきているindividualsとは区別されるような)これまで存続してきた社会において、そこで生活してきた人々が歴史的に集合的に選択してきた慣習、という程度の意味ではないかと思います。慣習とここで言う場合、狭い意味で風俗みたいな意味合いではなく、より広い意味で(例えばヒューム的な意味で)規範をも含意しているとも考えられます(例えば、女性は男性よりも力・能力において劣っているから低賃金で働いて当然である、というような)。その慣習(規範)というのは歴史的・文化的にcontingentで、例えば(カントのように)理性がア・プリオリに選択するというような当必然的な性格を持つものではない、ということではないでしょうか。

なるほど。これも当然かもしれませんが、最初のjuridical systemからして疑似法的な慣習とその規範も含んでいるんでしょうね。

>このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

後者だろうと思います。つまり、フェミニストが実現しようとしている(例えば男女同権的な)政治的制度であっても、それが女性という法規制の名宛人を規定し、すなわちその限りで女性を主体として規定し、その後で法が女性という主体(の意志)を表現するものとして現れてくる限り、女性(フェミニスト的主体)というものは、法によって構成された主体なのだ、ということではないかと思います。

次で出てきますが、「構成」の意味も私にはまだはっきりしてないかもしれません。

discursive constitutedについてですが、discursiveというのは、次のように理解できるんじゃないでしょうか。つまり、法を慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」が言語的に表現されたものだと理解するなら、discursiveというのは、ここでは「法のなかに慣習(規範)として言語的に表現されたところの」というような意味だと取れます。ところで、constituteには「構成する」という意味の他に、「設立する」「制定する」というような法的なコノテーションを持つ意味もあります。それゆえ、discursive constitutedというのは、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されることによって、設立された」という解釈を取れます。とすれば、”the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation. “は、「フェミニストの主体は、[フェミニストにとって][法規制による抑圧からの]解放を可能にするとされるところの政治システムによって[であっても]、[その政治システムを駆動させている法規制のなかに][慣習(規範)として]言語的に表現されることによって、設立されたものであると分かる」という風に解釈できそうです。

「法の中に慣習(規範)として」は、「慣習」よりは「規範」の方がはっきりしてる気がします。

discursive formation and effectも、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されること(*)によって[法規制の名宛人として制定され、それによって法にその意志が代表されるところの主体が]形成されること、それ(*)によって[主体が]帰結すること」というふうに取れます。

はい。

そこで、representational politicsというのは、先ほどコメントしたものよりも詳しく書けば、僕はこう理解しました。つまり、法の中に慣習(規範)が言語的に表現されることによって、なんらかのcontingentな慣習(規範)の負荷がかかった形で、法規制の名宛人として法にその意志が代表されるところの主体が形成される、そうした主体が帰結するというような事態です。おそらくここでpoliticsは、利益団体がどのように多数派を構成するかとか、政治家が権力をどのように獲得するかというのではないでしょう。あるいは言論による抗議・説得というようなものでもないでしょう。むしろ、contingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現されることによって制定される主体というものがもつcontingencyに関するものでしょう。言い換えれば、どのようにcontingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現され、そしてどのように法の名宛人としてcontingentな属性を付与された主体が制定されるのか、というプロセスを意味しているのではないかと考えます。これは少なくとも普通の意味でpoliticsなのではないでしょう。

>では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」

juridical formationは、法を形作るというより、法によって主体を形作るということを指していて、それは女性をフェミニズムの主体として表象する、ということではないのでしょうか。つまり、the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminismというのは、次の文章の”the very political system that is supposed to facilitate its emancipation”に言い換えられているものではないかと思います。また、a given version of representational politicsというのは、givenを「ある」というよりも、「所与の」「すでに与えられた」というような意味があるのではないでしょうか。つまり、これまで存続してきた社会において人々が歴史的に集団的にcontingentに選択してきた仕方におけるrepresentational politicsということが示されているのではないでしょうか。

うーん、だいたいのところはわかってきましたが、まだ自信がないですね。仮に訳してみるとこうなる。

「もしこの分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象させようとするような、言語と政治によってなされる、法による主体の形成は、それ自体が、すでに存在するバージョンの「表象の政治」の言説的な形成であり結果であるということになる。そして、フェミニストの主体は、自分たちを解放させてくれると想定されているまさにその政治システムによって設立されていることになる。」

パラフレーズしてみるとこんな感じでいいのかどうか。

「もしこのフーコーの分析が正しければ、こういうことになる。法や慣習そのものがそれ自体が反映するべき「主体」を限定するものであるため、誰の意思がどう法や慣習に反映されるかということは「表象の政治」のそのものでありまたその結果である。フェミニズムは女性を政治的な主体と認めさせようとするものであり、言葉と政治によって、女性を政治的・法的な「主体」であるように設定し、その意思を法や制度や慣習に反映させようとする運動である。しかしこうした運動自身が、実はすでに存在している「表象の政治」によって、政治的主体を言語的に設定しようとするものであり、また同時に運動自体がそうした「表象の政治」の結果でもある。そうなると、結局のところ、フェミニストの主体といったものは、自分たちを解放してくれるだろうと彼女たちが考えている、まさにその来たるべき政治システムによって設定されるということになるだろう。」

→ しかしその来たるべき政治システムが従来の通念での「女らしい女」だけをその通念にしたがった形で「解放」するとか、あるいは「男っぽい・男と同格の女」だけを解放するとかってことになるとなんか目標が自己矛盾してしまうから政治的には問題だ、と続く。

まだだめそうですね。
私はsskさんの解釈はおそらく適切だろうと思いますが、そこまで行くのはたいへんですね。しかしかなりわかってきましたし、竹村先生や望月先生の訳の問題もちょっと見えてきました。

ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える(2) コメントでやっつけていただきました

前エントリは、コメントで一気にやっつけていただきました。すごい。

以下コメントへのお返事。
————————————

本格的な解説ありがとうございます。なるほどこういうのが知りたかったそのものです。あの時間でこれ書けるのはすごいと思います。

>近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。

「政府が被治者を代表する」という先生の前提こそ曖昧です。ここで先生は政府をどのような意味で理解されているのですか? 執行権を担う制度という意味なのか、立法権を担う制度を意味しているのか、それとも国家というような意味なのか。

私はぼんやり国家だと考えてましたが、たしかに他の可能性がありますね。

しかし、このいずれの意味であっても、代表するものが「政府」なのではない可能性もあります。つまり、被治者をrepresentするのが、端的に法だという場合です。この場合、被治者の意志が法として表れている(represent)のであり、被治者は意志を持つ存在者です。ここで意志を持つ存在者のことを、主体subjectと表現することは哲学的な用語法に適ったものではないでしょうか?

なるほど、その解釈の方がスマートですね。

さらに言えば、representは代表とも表現(表象)とも理解されるものであり、ドイツ語で言うならVertretungと区別して考えなければならない場合もあります。法が被治者の意志をrepresent(repräsentieren)するという場合、represent(repräsentieren)はvertretenではないでしょう。代理は例えば人民が選挙で選んだ代議士、というような事例にふさわしいものです。つまり、ここで「法は人民を代表する」と言っても、「法は人民を、代議士が人民を代理するように、代表する」という意味で解されてはならないでしょう。

なるほどなるほど。Vertretungは「代理」。

また、法が何らかの存在者の意志をrepresentするものである、あるいは法は何らかの存在者の意志としてrepresentされたものであるという理解はとりたてて特別なものではなく、神学上では神の意志が法として表現されていましたし、人民主権の文脈では人民=被治者の意志が法として表現されていました(あるいは人民主権を否定する論者でさえ、法は人民の意志を表現するものだという理解を示していた場合もあります)。

了解です。

そうであれば、juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to representを「法的な権力システムは主体をつくりだすが、それは法的権力システムが結果的に表すことになるところのものである」と訳すことができますし、その場合には次のような理解が可能になります。法は被治者の意志を表すというが、被治者という属性は法によって規定されない限り存在しない(この場合の法は単なるGesetzではなくVerfassungsrechtのような根本法でしょう)、従って、法はまず被治者を(意志の)主体として生み出し、その後で自らを被治者(の意志)を表すものだと規定する、ということです。では、被治者という属性が法によって規定されるという事態はどのようなことかといえば、その法の体系一般を受け入れるべき名宛人が法の規定する存在者だということになるでしょう。法の体系一般というのは、次の箇所で述べられるように、「~するな」という形でregulateする規則の集合体です。

ここまでよくわかりました。すばらしい説明だと思います。(これも読んでる人のために書くとVerfassungsrechtは憲法)

>individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。

なぜか先生は国民国家間での事象を考えておられるようですが、国民国家間で働くjuridical structure(国際法のような?)がここで議論されているのでしょうか?contingent and retractable operation of choicesというのはむしろ、慣習法のように偶然の産物が伝統化されて法として結晶するような状況が想定されているのではないでしょうか。例えば、日本の民法では女性は16歳以上、男性は18歳以上にならなければ婚姻できませんが、こうした規定は当必然的に選ばれているものではないですよね? こうした「偶然的で撤回可能な[はずの]選択の実行」の積み重なりを通して獲得される法的権力システムが、political structureと言われているように思います。

なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

>But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。

さきほど述べたように、法的構造はそれを受け入れるべき名宛人をまず規定します。それがここでthe subjects regulated by such structuresと呼ばれているものです。subjectsは法を自らの意志として表現することになる存在者、つまり意志を持った存在者であるので、その存在者は主体として理解できるでしょう。被治者・臣民・国民と訳してもいいですが、それでは意志の主体としてのコノテーションが失われるのではないでしょうか。

これもよくわかりました。

>私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。
>んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

このof language and politicsは「~による」と訳すべきではないでしょうか

そうですか。このofは私には非常に曖昧に思えます。最後に試訳つくります。

これまでの議論からすれば、法は被治者をregulateするものです。こうしたregulationは、「偶然的で撤回可能な選択の実行」を通じて獲得された政治的構造において、法を通じてなされるものです。法は言語によって表されるものでありますが、もっと詳しく言えば、法は慣習(「偶然的で撤回可能な選択の実行」)を言語的に表現したものでもあります。さらに、こうして言語的に表現された慣習を通じて政治的構造が成り立っています。したがってjudical formationは「言語と政治による」ものである、と理解することができるようになります。

なるほど、「選択」が法自身の選択であると考えれば、
最初のはjuridical formation of language and politicsが正しいですね。正しく読んでもらってすみません。

さらに、関係詞節も合わせて訳せば、「フェミニズムのthe subjectとして女性をrepresentするような、言語と政治による法的な形成」となりますが、ここでは「フェミニズム[運動]の主体」と訳して構わないのではないでしょうか。

なるほど。わかります。ただし、この場合”the subjects”と表現することはできないのですか? まあこの読みであれば、womenを集合的にとってるのだとは思います。
あとこれ今気づいたのですが、含意としては、「(たとえば19世紀から80年代までのように)女性をフェミニズム運動の主体として、法的・政治的に重視させようとするするような語り方の変更と法改革の動きは」ってことなんですね。あってますか?

言語的慣習とそれを通じて出来上がってくる政治的構造のなかに存在する個人は、法によって規制される対象・名宛人として規定され、規定されることで実際に法によって規制されます。同様に、女性を規制していた種々の法律(参政権の制限や離婚の制限、労働上の地位の制限など)は、その規制の以前に、その規制の対象である存在者を女性として表現します。フェミニズムが抑圧(規制)からの解放を謳う運動であり、女性は法の規制の対象として法的に形成される(法的な名宛人として規定される)存在者なのだとすれば、フェミニズムのthe subjectは能動的・積極的にその規制から女性を解放しようとする存在者であるでしょう。その場合、the subjectが「テーマ」として理解されるのは不適切ではないでしょうか。そして、フェミニズムにおいて女性を解放しようとするのは当の女性たちであり、女性たちが主体となって(能動的になって)自らを解放しようとする、という理解につながります。

なるほど。実はthe very political system that is supposed to facilitateのところの is supposed toがよくわからなったのですが、このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

>ところがですね。discursive formation and effectもわからん。…representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。

まず、representational politicsですが、もし(議会)代表制のような政治制度・政体を表すのであれば、representative politicsと言うのではないでしょうか。

これは私も気になりました。

むしろ、竹村訳のように表現による政治(ないしは表象による政治)の方が適格ではないでしょうか。

言論、特に表現の仕方による政治、抗議、説得etc.という意味ですか?

というのも、法は慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」を言語的に表現したものであり、それがまずは規制する対象を規定することで被治者という属性を与え、その後で自らを自らが規制するところの被治者の意志として表現するものであり、これをバトラーはpoliticsと呼んでいるようだからです。

なるほど。
では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。
「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」
ぐらいですか。これでよろしいですか?あれ、ofの意味がおかしいかな。まだわかってないようです。おねがいします。

要点をまとめれば、先生は、法が被治者の意志をrepresentするものだという法学・政治学的な通説を全く無視しており、それゆえに被治者は意志を持った主体である、というsubjectに込められた表現を見落としてしまっているのではないか、ということです。

すみません。とても勉強になりました。

私には「subjectの意味のすりかえ」が行われているようには思えません。こういった議論を、その前提に思い至らないまま「誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせます」とコメントするのは、どうなのでしょうか。

こうして説明してもらえれば、そうしたディスは必要ないかと思います。そうした表現は控えたいと思います。やっとわかってきた感じで、たいへん勉強になりました。あきれずおつきあいください。
—————————————–

今回、すごくよく読めている人もいることがわかりました。読めてないのは私だけかもしれない。おそろしい。

デートレイプ魔としてのジャンジャック・ルソー

ルソー先生。イケメンだけどあやしい。

ルソーには「先生」つけたくない、みたいなこと書いてしまいましたが、いけませんね。ルソー先生の言うこともちゃんと聞かねば。しかしこの人やばい。やばすぎる。まあ実生活でもかなり危険な人でしたが、書くものもやばい。私はこの先生の書くもの、なにを読んでもあたまグラグラしますね。理屈通ってないわりにはなんか情動に訴えかけるところがあって、健康に悪い。肖像画とか見てもなんか自信満々の怪しいイケメンで、なんか恐いものを感じる。

ルソーはセックスと恋愛について大量に書いてます。『新エロイーズ』とか、元祖恋愛小説ベストセラー作家でもある。『エミール』とか教育論の元祖・名作ってことになってていろいろ誉められてるけど、そんないいもんでもない気がする。その内容を見てみるとこんな感じ。

性のまじわりにおいてはどちらの性も同じように共同の目的に協力しているのだが、同じ流儀によってではない。そのちがった流儀から両性の道徳的な関係における最初のはっきりした相違が生じてくる。一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。必然的に、一方は欲し、力をもたなければならない。他方はそんなに頑強に抵抗しなければそれでいい。

男は強く暴力的に荒々しく迫り、女はちょっと抵抗していいなりになるのが自然だ。

この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。男性のねうちはその力にある。男性は強いというだけで気に入られる。……

男は力がすべて。肉体の力も金も権力も。そういうのある男性がモテるってのは、まあそうでしょうね。

女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心が結びついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。そういうことから攻撃と防御、男性の大胆さと女性の憶病、そして、強い者を征服するように自然が弱い者に与えている武器、慎しみと恥じらいが生じてくる。

征服だー。「男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ」。迫られてもすぐにチューさせたりしないで抵抗しろ。その方が燃えて無理矢理迫りたくなるからね。

自然は差別なしに両性のどちらにも同じように相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望をいだいた者が最初にはっきりした意思表示をすることになる、などとだれに考えられよう。それはなんという奇妙な、堕落した考えかただろう。そういうもくろみは男女にとってひじょうにちがった結果をもたらすのに、男女がいずれも同じような大胆さでそれに身をゆだねるのが当然のことだろうか。……

女から迫ってはいかん、ということです。不自然だから。迫られるのを待ってろ。

そういうわけで、女性は、男性と同じ欲望を感じていてもいなくても、また男性の欲望を満足させてやりたいと思っていてもいなくても、かならず男性をつきのけ、拒絶するのだが、いつも同じ程度の力でそうするのではなく、したがって、いつも同じ結果に終わるわけでもない。攻める方が勝利を得るためには、攻められるほうがそれを許すか命令するかしなければならない。攻撃する者が力をもちいずにいられなくするために、攻撃される者はどれほど多くのたくみな方法をもちいることだろう。

最後のところが注目ですね。女は男が暴力を使うようにしむけているのだ、ということです。

あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。自然と道理はそういうことに反対している。

でもそのときに使う暴力は、ケガするような本気の暴力ではないですよ、と。

自然は弱い者にも、その気になれば、抵抗するのに十分な力をあたえているのだし、道理からいえば、ほんとうの暴力は、あらゆる行為のなかでもっとも乱暴な行為であるばかりでなく、その目的にまったく反したことなのだ。

女は本気になれば本気で強く抵抗できるのだが、たいていそうしない、なぜならそれは嘘んこの抵抗だからだ。

というのは、そんなことをすれば、男性は自分の伴侶である者にむかって戦いをはじめることになり、相手は攻撃してくる者の生命を犠牲にしても自分の体と自由を守る権利をもつことになるし、また女性だけが自分のおかれている状態の判定者なのであって、あらゆる男が父親の権利をうばいとることができるとしたら、子どもには父親というものはいなくなるからだ。……

まあけっきょく、女性は力いっぱい抵抗することもできるのだが、セックスの場面ではそんな強く抵抗することはない。最初にちょっと抵抗するとあとはぜんぜん抵抗しなくなる。これは無理矢理セックスされるのを実は望んでいるからだ。

とか危険なのがいっぱい。まあ早い話、女は迫られるのを待っていて、迫ると抵抗するけどそれは本気じゃないからそのままやってもかまわん、それが自然だ、ということですわね。

こんなものが戦後教育の推薦図書とか信じられんですね。「なに?ジャンジャック、やめて、やめてジャンジャック、本気なの? おうおう」「(やっぱり女は最初抵抗してみせるだけだな)」とかってことになった人がたくさんいるのではないか。まあルソーほど有名人でイケメンだったら好きでそういうふうになった人もいるかもしれんけど、そうじゃない人も多かったろう。いやほんとにシャレならんすよ。そういうの読んで女はそういうものだ、みたいにまにうけた戦後知識人もたくさんいたと思う。こういうのは、単なる時代的な限界とかそういうのではないのではないかな。

まあでもルソーの近代社会に対する影響は巨大なので、どの本も読むに値する。読まないでいると、いま一般に言われている政治的・社会的な議論とかがどこに出自があるのかわからなくなってしまう。「あ、日本の〜という人がいっていたあれはルソーの引用なのか」とか気づくことがたくさんあります。あとウルストンクラフト先生という元祖フェミニストみたいな先生がいるんですが、この方はルソーが嫌いでその批判で1冊本書いてます。かならず読みましょう。でもさすがにセックスの話はできなかったみたい。

まああえて好意的に読めば、こういうのも人びとのセックスや性欲に関するある種の真理や理想を描いている、みたいになるんすかね。攻めと受け、っていうBLとかで一般的な構図ですしね。実は人びとはやっぱりそういうのが好きだってのはあるんかもしれない。

まあどう評価するにしても、ルソーとかカント先生とかの著作が一般には非常に抽象的なものとして読まれていて、我々の実際の生活や関心事とかけはなれたことを論じているように紹介されるのは私は不満です。どの哲学者もセックスとかには関心をもっていて、かなりの分量の思索を残してます。そういうがまったくといっていいほど議論されることがないのは、やっぱりおかしいのではないか、みたいな問題意識からもセックスの哲学はおもしろい。でもまあやっぱり堅い(ことが求められている)大学教員としては書きにくいことも多いのはわかんですけどね。

2018年の日本にも同じようなことを考えている人がいます

エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )
ルソー
岩波書店
売り上げランキング: 54,530

女性の権利の擁護―政治および道徳問題の批判をこめて
メアリ・ウルストンクラフト
未来社
売り上げランキング: 524,042

ルソーの一般向け紹介本みたいなのはでは仲正先生のがまともで読みやすくてよかったです。「なんとか2.0」みたいなのはまにうけてはいけません。

今こそルソーを読み直す (生活人新書 333)
仲正 昌樹
日本放送出版協会
売り上げランキング: 180,637

右翼・保守の人はルソー嫌いが多くて、もう人身攻撃みたいなのしてます。話のネタには読んでおいてもいいかも。

絵解き ルソーの哲学―社会を毒する呪詛の思想
デイブ ロビンソン オスカー ザラット
PHP研究所
売り上げランキング: 703,453

カント先生とセックス (3) 自分の体であっても勝手に使ってはいけません

まあ性欲はそういうわけでいろいろおそろしい。だいたい、いろんな犯罪とかもセックスからんでることが多いですしね。性欲は非常に強い欲望なので、道徳とバッティングすることがありえる、っていうより、他人の人間性を無視してモノに貶めるものだっていうんでは、ほとんど常に道徳とバッティングしてしまう。

例の人間性の定式「人間性を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」にてらして考えてみると、性欲とセックスは相手を自分の欲望を満たすための単なる手段にしてしまうわけで、どうすれば同時に目的として扱うことになるのか難しい。

まあふつうに考えれば、床屋さんやマッサージ屋さんと同じように、相手が自律的・自発的に望んでいることを尊重すればいいんちゃうか、と思いたいところですが、カント先生はそれじゃ満足しないみたいなんですね。ここらへんちょっと入りくんでいてわかりにくいのですが、性欲とセックスは人間をモノに貶める行為であって、他人をモノとして扱うのが許されないだけでなく、自分自身を(自発的・一時的に)モノとして提供することも不道徳で許されません、みたいな論理のようです。だから売春とかもだめ。床屋さんやマッサージ師さんとは違う。あれは技術を売っているわけだけど、売春は自分をモノにおとしめてその体を売ることだ。実は、(一時的な)恋人関係・愛人関係みたいなのでさえだめなんですわ。それはお互いを性的傾向性にもとづく愛によってモノにしてしまう関係である。

カント先生はこんなふうに書いてます。ちょっと長いけど、いつか使うために写経した。

人間は、当人も物件ではないのだから、自分自身を意のままに処理することはできない。人間は自己自身の所有物ではない。それは矛盾である。なぜなら、人間は、人格である限り、他の事物に関する所有権をもつことのできる主体だからである。さてしかし、彼に人間が自己自身の所有物であるとしたら、人間は、その当人がそれに対する所有権をもつことのできる物件であることになろう。しかし、とにもかくにも人間はいかなる所有物ももたない人格なのであり、したがって、当人がそれに関して所有権をもつことのできるような物件ではありえない。なぜなら、実際、同時に物件でも人格でもあること、換言すれば、所有者でも所有物でもあることは不可能だからである。

したがって、人間は自分を意のままに処理することはできず、人間には自分の一本の歯もその他の手足も売る資格がない。さてしかし、ある人格が自分を利害関心に基づいて他人の性的傾向性を満足させる対象として使用させる場合、すなわち、ある人格が自分を他人の欲望の対象にする場合、その人格は自分をひとつの物件として意のままに処理しているのであり、それによって自分を物件にしている。他人はその物件で自分の欲を鎮める。ローストポークで自分の空腹を満たすのと同様に。ともかく、他人の傾向性は性に向かうのであり人間性に向かうのではないので、この人格がその人間性を部分的に他人の傾向性に与えること、そして、それによって道徳的目的という点で危険を冒していること、それは明らかである。

したがって、人間は他人の性的傾向性を満足させるために、利害関心に基づいて自分を物件として他人の使用に供する資格をもたない。なぜなら、その場合、その人の人間性は、ひとつの物件として、すなわち誰彼なくその人の傾向性を満足させる道具として使用される危険を冒すからである。(『コリンズ道徳哲学』39節「身体に対する義務について──性的傾向性に関して」、御子柴訳)

我々自身は我々のものではない、っていう主張は目をひきますね。「我々は自分(特に自分の身体)を自由に処分することができるのか」ってのは生命倫理とかフェミニズムとかで非常に議論されているところですね。自殺の自由はあるか、とか。カント先生ははっきりないって言います。これはずっと一貫してる。売春の自由とかってのも認めないわけですね。ただし、「私の体は私のもの」みたいなフェミニストの標語をカント先生が認めないかどうかはわかりません。フェミニストの意味では認めるんちゃうかな。

カント先生による自殺の禁止の議論は倫理学のテストで出題されるかもしれませんね。「人間性の定式」では「あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず〜」っって言われているわけですが、この「あなた自身の」の方はわすれられやすい。他人だけじゃなく自分も単なる手段としてあつかってはいかんのです。

だいたい、自殺とかってのは苦しいことから逃がれたくて自殺したいと考えるわけですね。おそらく、死ぬことそのものを望む人はあんまりいない、っていうかおそらく現実には存在しない。「生きてんのがやになりました」とかってのは実はなんか夏休みの宿題しなきゃならないとか、そういう面倒なことが苦痛だからそれから逃げたいだけ。面倒なことがなくなれば死ぬことそのものを望んだり意志したりするっていうのは考えにくいですね。とりあえず生きてりゃ音楽聞いたり本読んだりできるし、ひょっとしたらいつかはうまいもの食ったりセックスしたりして楽しいこともあるかもしれないし。

んで、人生の苦しみから逃れるために自殺するというのは、自分自身とその生命を、苦痛を逃れるという目的のための単なる手段として扱うことになる、自分の体をたんなるモノとして処分することになる。だからだめっす、という議論です。これがうまくいってるかどうかはよくわからんですが、おもしろいこと言いますね。ちなみにカント先生はこの議論だけでなく、別のやりかたでも自殺の禁止を立証しようとしてます。

酒飲みセックス問題 (9) 同意したことに責任があっても同意は有効じゃないかもしれない

まあというわけで、酒を飲んで酔っ払ったからといって、行動の責任がなくなるわけではないような感じです。(場合によっては)同意したことや酔っ払ったことは非難に値するという意味で「責任がある」ということになりそうです。

しかし、んじゃ酔っ払ってした同意はぜんぶ有効validなのか、というとそうでもないかもしれない。同意の責任はあるけど同意は有効じゃないよ、だからそういう同意をした人とセックスした人を非難したり罰したりすることは可能かもしれない。

ここはわかりにくいかもしれませんね。くりかえしになりますが、まずまあ基本的に同意してない人とセックスするのは非難されるべきことなわけです。それはたとえば相手の身体の統合性bodily integrityとかを毀損する行為かもしれない。デフォルトではダメだってことです。そういうデフォルトではダメな行為が、本人の同意があることによって非難の必要がない行為になる。医者が患者にメスを入れたりするのもそういうもんですわね。セックスも手術も、ひょっとすると非道徳的にも道徳的にもすばらしい行為になるかもしれない。同意にはこんなふうにある行為の道徳性を変更する効力がある。これがHeidi Hurd先生なんかはこういうのを「同意の道徳的魔法」moral magic of consentとかって呼んでます。

で、強迫されてした同意とかはそういう同意の魔力をもってない無効な同意です。酔っ払ってした同意もそういう類のものかもしれない。つまり、行為の責任と、同意の効力は別のことなわけです。同意に「責任」があるからといってその同意が有効だということには直接にはならない。まあふつうに考えれば同意に責任があるなら同意は有効だろうと言いたくなりますが、ここで考えてみるのが哲学ですわね。

別の言い方をすると、無効かもしれない同意した責任というのは当人にあるわけで、それを非難されたり(おそらく可能性はほとんどないですが)法的に罰されたりすることはあるかもしれない。しかし、その同意をもとにして、その相手とセックスすることはまた道徳的に非難したり罰したりすることが可能かもしれないわけです。こっちの「酔っ払いとセックスしたら罰する」ってのは十分ありえる考え方です。

スーザンエストリッチ先生というレイプまわりで非常に有名なフェミニスト法学者は、車に鍵をかけわすれたからといって、車を盗む許可を与えたわけではない、って言ってます。鍵をかけわすれたことは非難できるかもしれませんが、だからといって、車盗んだ人が悪くないってことにはならんですよね。車盗むのはほとんど常に悪い。酔っ払ってしたことに責任があるからといって、酔っ払った人とセックスすることが悪くないってことにはならんのんです。

車泥棒の例を続ければ、AさんがBさんに車を貸して、Bさんが鍵をかけわすれてCが車泥棒したとき、AさんがBさんに「なんで鍵かけなかったんだ!」って非難するのは理にかなっているけど、だからといって車盗まれた責任がぜんぶBさんにあるわけではないし、Cの車泥棒が非難できなくなるわけでもない、ということです。

んじゃ、酔っ払っての同意は有効なのか、酔っ払った相手とセックスするのは問題ないのかどうか。ワートハイマー先生なんかに言わせると、これはけっきょくわれわれの社会でおこなわれているさまざまな「同意」のコンテクストによるのだ、ってことになります。

たとえば酔っ払ってした商業契約とかどうなるか、みたいなのはおもしろい例ですわね。日本の民法ではどうなってるしょうか。

米国の法律だと、古くは酔っ払った人がおこなった契約は、「ひどく薬物の影響を受けて取引の性質や帰結を理解できなかった場合」には無効にすることができたみたいすが、現在はもっと緩くて「契約の相手方が、酔った人物が取引について合理的な仕方で行為することができないと知る理由があった」ときのみ無効にすることができる、みたいな感じらしいです。これは相手がぐでんぐでんになってるな、ってことがわからないとだめだってことですわね。セックスでいえば、相手がもうなにがなにやらわからん状態だろう、ぐらいに思える程度に酔っ払ってないとならんということになりそうで、自発的に服脱いだり脱がせたりいろんなあれやこれやとかしてたら「そういうひとなんだろうなあ」とか思ってしまいそうですね。よくわかりませんけど。

でもこういう商取引をセックスまわりに適用してだいじょうぶなのかな、とかって不安は残りますね。セックスは商取引とは違うのではないか。セックスはセックスとしての同意のありかたがあるんではないのかな、という話になります。

酒飲みセックス問題 (1) 酔っ払ってセックスするのは許されるか

なんか(女子)大学生が酒飲んで街中で大量に倒れたりして話題になってますね。アルコール濫用はやめましょう。

まあ一部のサークルとかではほんとにお酒を使ってやばいことをしているようで、なんというか命の心配もあるし各種の性的暴行なんかも行なわれたりするだろうしいやな感じです。

そういや昔某学会で「性的同意」の問題をとりあげて、論文にしないでそのまんまになってたことを思いだしました。どういう同意が有効かっていうのはセックス倫理学のおもしろいネタで、特に酔っ払いセックスは実際の性犯罪やセクハラなんかと関係していて関心があります。

米国のブラウン大学で90年代なかばに有名な事件があったんですね。新入生のサラ(仮名)が土曜日に自分の寮の部屋でウォッカ10杯ぐらいのんで酔っ払って(私だったら死んでます)、そのあと近所でやってるフラタニティパーティー(まあ飲みサーのパーティーですな)にボーイフレンドに会いに行った。アダムという別の男が、サラが友達の部屋でリバースして横になってるのを見つけて水が欲しいか聞くとサラはイエスと答えた。アダムは水もってきて飲ませて、しばらく話をした。アダムがサラに、彼の部屋に行きたいかと聞くとサラはイエスって答えたので部屋に行った。サラは自分の足で歩けた。サラはアダムにキスして、服を脱がせはじめた。さらにアダムにコンドーム持ってるかとたずねた。アダムはイエスと答えて、セックスしたわけです。事後に二人は煙草吸って寝たそうな。起きてからアダムがサラに電話番号を聞くと、サラは教えたそうな。しかしサラさんはしばらくしてからやっとやばいことに気づいて、あわてたと。んで3週間後に寮のカウンセラーに相談してアダム君を訴えることにしたわけです。ブラウン大学は厳しいところらしくて、在学生規程みたいなのに「違反学生が気づいた、あるいは気づくべきであった心神喪失あるいは心神耗弱」の状態にあった相手とセックスしたら学則違反だというのがあるんですね。

まあこういう状態の女性(あるいは男性)とセックスするのは許されるかどうか。まあ正しい人びとは「そんなんもんちろんダメダメ」って言うかもしれなけど、ほんとうにそんなに簡単な話かな? 某学会ではこういう問題にとりくもうとおもってまあちょっとだけやりました。ネタ本はAlan Wertheimer先生のConsent to Sexual Relationsってので、これはおもしろい。

まあワートハイマー先生の議論はそのうち詳しく議論することにしましょう。今日 http://sexandethics.org っていうサイトを見つけて、こういうありがちなセックスにまつわる倫理問題みたいなのを議論する性教育カリキュラムを提示していておもしろいです。ここらへんのネタはやっぱりワートハイマー先生の枠組みでやってる(ただし全体の雰囲気はワートハイマー先生より女性に有利な感じなフェミニスト風味)。

たとえば次のような問題について議論してみよう、ってわけです。上のブラウン大学の学則は、飲んでセックスするのを禁止しているわけじゃなくて、意識なくなったりすごく酔っ払ってまともな判断が下せなくなっている場合にはだめだっていってるわけです。では、

  1. 女性が飲酒している場合、もし女性が飲酒していることを告げなかったとしたら、男性はその同意を信頼することができるか?
  2. もし男性が飲酒していてリバースしたばかりだとしたら、それは彼の同意の能力にどういう影響を与えるか?それはなぜ?
  3. もし男性が意識を失なったら、女性は彼に対して性的なことを続けてもよいだろうか?それはなぜ?
  4. もし女性が飲酒していて、男性に部屋に戻ってセックスしようと誘ったら、その誘いは有効だろうか? それはなぜ?
  5. もし男性が飲酒していて、女性に部屋に戻ってセックスしようと誘ったら、その誘いは有効だろうか?それはなぜ?
  6. 直前の二つの問いがジェンダーによってちがうとしたら、それはなぜ?

上のブラウン大学の実際の事例とか考えながら答えてちょうだい、と。

さらには、ワートハイマー先生はあれな人なので、もっと奇妙なケースも考えてて、上のsexandethics.comの人も紹介してます。

【パーティー】 AとBはデートはしていたがセックスはしていなかった。Aが「今夜どうかな」とたずねると、Bは「うん、でもまずお酒飲みましょう」と答えた。お酒を飲んでBはハイになり、Aの誘いにこたえた。

【抑制】 AとBはデートする関係だった。Bはまだセックスするには早いと言っていた。Bの経験と他の情報から、Bはお酒を飲むと判断がおかしくなることを知っていた。しかしそれについてあまりよく考えず、Bはパーティーで何杯か飲んだ。AがBにセックスしようかと言うと、Bはいつもよりもずっと抑制を感じずに、「なんでも初めてのときはあるよね」と生返事をした。

【コンパ(フラタニティーパーティー)】Bは大学新入生だった。Bはそんなにたくさん飲んだことがなかった。Bははじめてコンパに参加して、酎ハイ(パンチ)をもらった。Bが「お酒入っているの?」と聞くと、Aは「もちろん」と答えた。Bは何杯か飲んで、人生ではじめてとてもハイになった。Aが自分の部屋に行くかと聞くと、Bは合意した。

【アルコール混入】 Bははじめてコンパに参加した。部屋には、ビールの樽と、「ノンアルコール」と書いてはいるが実はウォッカで「スパイク(混入)」されているパンチ飲料が置かれていた。Bはパンチを数杯飲んで、とてもハイになった。Aが自分の部屋に行くかと聞くと、Bは合意した。

【空勇気】AとBはデートする仲だった。Bはまだセックスの経験がなく、セックスについて恐れや罪悪感を抱いていた。シラフではいつまでも同意できないと思ったBは、1時間に4杯飲んだ。キスとペッティングしてからAが「ほんとうにOK?」と聞くと、Bはグラスを掲げてにっこり笑って「今なら!」と答えた。

【媚薬】媚薬が開発されたとする(現在のところ存在していない)。AはBの飲み物に薬を入れた。それまでセックスに関心を示さなかったBは興奮して、セックスしようと提案した。

【ラクトエイド】Bは、お腹が痛いという理由でAとのセックスを拒んでいた。乳糖不耐症が原因であることが判明したので、Bは乳糖不耐症用錠剤を飲んだ。この「薬」のおかげでBは気分よくなり、セックスに合意した。

ここらへんのそれぞれについて、同意が有効なのかどうか考えましょう、と。おかしなこと考えますね。みんなで考えましょう。

Consent to Sexual Relations (Cambridge Studies in Philosophy and Law)
Alan Wertheimer
Cambridge University Press (2003-09-18)
売り上げランキング: 1,552,909

2018年追記。上のブラウン大の事件は下の本でも扱われてます。良書なので読みましょう。

進捗どうですか (1)

やはり研修とか研究とかといえば、進捗どうですか、ということになりますね。

この言葉私30代なかばまで知りませんでした。某プロジェクトのリサーチアソシエートとかっていうのに雇ってもらってから「シンポジウム開催準備の進捗どうなんだ」みたいな言われかたして、「シンチョクってなんですか」みたいな。「捗る」って漢字書けなかったですね。

まあ研修にはいってあっというまに2週間すぎちゃいました。「進捗どうですか?」「進捗だめです。」で終ってしまう。

やっぱりなにごもとも記録が大事っすよね。記録のこしとかないとなにしたか忘れちゃう。

ええと。なにやったかなあ。

1. 仕事環境の整備

やはりなにごとも環境です。iMac 21”をもちかえり、システムディスクを新しく作りました。外付けディスクから起動してたんだけど、10.8のままだった内蔵ディスクもMavericsに。ははは。

PDFとかはMendeleyで管理してるんですが、これなんか不具合あるような気がしたのでアカウントとりなおして再構築。時間の無駄。

あとはたいしたことしなかったな。EvernoteとかRemember the MilkとかEmacsとかMacTeXとかふつうの環境。文献リストはBibTeX。Emacsのbibtexモード。

2. 文献調査

研究計画に「(1) パーソン論の現代的検討については、1970〜90年代の古典的パーソン論を総括したのちに、Jeff McMahan、David Boonin、David DeGraziaの3人の現代の論者の「現代的パーソン論」を検討し、中絶や脳死にかかわる「人格」概念がどのように批判され更新されたかを評価する」とかって書いたんでまあここらへんからはじめます。っていうか、この3人の議論を把握して検討して紹介できたらだいたい研修成功ですね。(「現代的パーソン論」は適当すぎだけどまあ「研究計画」なのでわかりやすいように)

2週間かけてDeGrazia先生のPersonal Identity and EthicsCreation Ethicsの2冊なんとか目を通したんですが、この先生はいいですね。特にCreation Ethicsは生殖関係の生命倫理やりたい人は必読です。基本的な議論のおさらいと議論の定跡がわかる。

あと、(中絶論文翻訳本でお世話になった)塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブ・ライツ』、柘植あづみ先生の『生殖技術』、荻野美穂先生の『女のからだ』あたり読んだり。

日本の中絶とパーソン論まわりの論文を読みなおしたり。論文のコメントつき一覧を作ってみてるんですが、まだ公開できない。なにを言っているのかよくわからない論文が多くて正直つらいです。

1980年代末から千葉大学で飯田亘之先生や加藤尚武先生が生命倫理学に関する「資料集」を出していて、それを見直したり。いろいろ小さな発見があっておもしろい。この資料集シリーズは20世紀後半の日本の生命倫理学の発展を見直す上で貴重な資料なので、PDFにしてもってます。必要な人は連絡してください。

Human Identity and Bioethics
Human Identity and Bioethics

posted with amazlet at 14.04.13
David DeGrazia
Cambridge University Press

Creation Ethics: Reproduction, Genetics, and Quality of Life
David Degrazia
Oxford Univ Pr (Txt)
売り上げランキング: 270,507

A Defense of Abortion (Cambridge Studies in Philosophy and Public Policy)
David Boonin
Cambridge University Press
売り上げランキング: 268,034
The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)
Jeff McMahan
Oxford University Press, U.S.A.
売り上げランキング: 94,902
中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
塚原 久美
勁草書房
売り上げランキング: 468,602

生殖技術――不妊治療と再生医療は社会に何をもたらすか
柘植 あづみ
みすず書房
売り上げランキング: 173,165

女のからだ――フェミニズム以後 (岩波新書)
荻野 美穂
岩波書店
売り上げランキング: 11,265

不倫・浮気・カジュアルセックスの学術論文ください

不倫(婚外セックス)とか浮気とかカジュアルセックス(いわゆる「ワンナイト」)とかについての哲学・倫理学の議論を紹介しようと思って、しばらく国内の文献をあさってたんですが、これって国内の学者さんによってはほとんど議論されてない問題なんすね。

たとえば岩波書店の『岩波応用倫理学講義5 性/愛』や『岩波講座哲学12 性/愛の哲学』の2冊を見ても、そもそも「不倫」も「浮気」も「カジュアルセックス」も出てこないみたい。これは正直驚きました。これおかしいんじゃないですか。不倫はもう普通のことで倫理学的になんの問題もないとか浮気はさっぱりかまわんしみんなしている、とかそういうことになってるんでしょうか。だめです楽しいセックスは全面禁止ですー。

まあつらつら考えてみると、私はわりと国内のフェミニズムやらジェンダーやらセクシャリティやらに関する本はけっこう読んでる方だと思ってるんですが、その手の議論はさっぱり見たことないです。「不倫はだめですか」「浮気は不道徳ですか」「その日に会ったばかりの人とセックスするのはだめですか」とか、まあけっこう多くの人が関心ある倫理学的/哲学的テーマな気がするんですがね。まあ私の生活には関係ないですけどね。ははは。他の哲学研究者の人々の生活にも関係ないんですかね。

まあ国内で「セクシャリティ」とかの倫理的問題としておもに議論されているのは、売買春、ポルノグラフィ、そして同性愛をはじめとしたセクシャルマイノリティに対する差別の三つで、ここらへんはけっこう蓄積があるんですが、不倫や浮気について真面目に議論したものがない、ってのはなんかおかしいような気がする。宮台真司先生あたりのリア充な感じの学者さんとか読まなきゃならないのだろうか。

まあここらへんにも日本のセクシャリティ論だのってての問題があるような気がしますね。5、6年前に生命倫理の文献をいろいろ見てたとき、脳死とか安楽死とかそういうのはたくさん文献あるのに妊娠中絶そのものを扱ったものはめったにない、みたいなのを発見したときと同じいやな感じがします。なんていうか、本当にみんなが気にしている問題、生活に直結する問題を学者さんたちは避けている、みたいなそういう感じ。正直なことを書けば、ある種の偽善みたいなものも感じたりしないでもないです。

いやまあ私が見てないだけなのかもしれんので、「これが定番論文だ」みたいなのがあれば教えてください。おながいしますおながいします。

岩波 応用倫理学講義〈5〉性/愛
岩波書店
売り上げランキング: 763,786

岩波講座 哲学〈12〉 性/愛の哲学
岩波書店
売り上げランキング: 632,294

加藤秀一先生の『性現象論』にも出てこないし。

性現象論―差異とセクシュアリティの社会学
加藤 秀一
勁草書房
売り上げランキング: 550,299

最近読んだのだと牟田和恵先生の『部長、その恋愛はセクハラです!』はおじさん向けの良書だったんですが、既婚者が「恋愛」(あるいはセックス)するということそのものの問題についてはなにも触れてなくて、ちょっと拍子抜けしました。でもまあこの本はみんな1回は読んでおきましょう。

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)
牟田 和恵 < br />集英社 (2013-06-14)
売り上げランキング: 4,525

この鼎談はけっこう興味深く読みました。西川先生は一夫一婦の結婚生活を維持されておられるらしい。結婚制度は当然フェミニズムの中心的議論対象の一つ。婚外セックスや「愛のないセックス」の話にはある程度関心を共有している印象があるけど、つっこんで議論はなかったような気がする。

フェミニズムの時代を生きて (岩波現代文庫)
西川 祐子 上野 千鶴子 荻野 美穂
岩波書店
売り上げランキング: 261,240

まあ、んで、なんで不倫や浮気やカジュアルセックスが日本の学者によってとりあげられないのか、ってのはどうしても考えてしまいます。仮説はないわけではないけど、どうかなあ。

私の仮説は、このタイプの問題は、非常に男性と女性(あるいはその他)それぞれの集団内部での利益の葛藤にかかわっているために議論しにくいのだ、ってものです。

まあ「不倫はOK、恋愛はすばらしい」って書いちゃえば「なんでうちの嫁を誘惑するのだ!」「うちの旦那を泥棒するつもりか!」って怒る人がいそうだし、かといって「不倫する奴は不道徳だ、人間の屑だ」みたいなこと書くと「おまえはパートナーがいるからそういうことを言うのだ」「お前はやりまくってるのか!」みたいなことを言われてしまいそうだし。これ難しいですよね。ははは。

まあ売買春とかポルノとかだったら、「買う男が悪い!」「そんなもの見て喜んでる奴らは変態だ」みたいなん言いやすいだろうし、セクシャルマイノリティへの差別や偏見が悪しきものなのは当然だから書きやすいのではないか。しかしまあ不倫とか浮気とかが人々の生活に及ぼす負の(そして正の)影響は売買春やポルノと同じくらいでかい気がしますけどね。嫉妬とかってのはDVとかともある程度関係しているんだろうし。

あとはまあ「不倫とか浮気とかみんなしてるのでそれが悪いとか書きにくい」とかか。「ぜんぜん悪いとは思ってない」とか「ふつうする」みたいなので問題を感じてないとか。そんな大きな問題じゃないだろう、とか。「そういう恋愛関係は個人的な理想にかかわることだから学者が関心をもつことではない」とか。最後のやつは興味ふかい論点ですが、それならそれで一本ぐらいそういう論文見つかりそうなものです。

まあここらへんわからんです。しばらく勉強しよう。

カジュアルセックスは不正か(2)

ハルワニ先生が紹介していたフロイト先生の「性愛生活が誰からも貶められることについて」読んでみました。岩波のフロイト全集第12巻。この全集は読みやすくて優秀です。

精神分析の開業医が、どのような苦しみのために自分はもっとも頻繁に助けを求められるからを自問するなら、その答は……心的インポテンツのため、となるにちがいない。

とかってのからいきなりはじまってびっくりしました。1910年ごろのウィーンの精神科医ってのはそういうのの相談係だったんですね。まあフロイト先生は当時わりと名士で、ウィーンの知識人たちのセックス相談役でもあったわけです。

情愛の潮流と官能の潮流が相互に適切に融合しているのは、教養人にあってはごく少数の者でしかない。性は性的活動をするときにはほとんどいつも、女性への敬意ゆえに自由が利かないと感じており、その十全たるポテンツを展開できるのは、貶められた性的対象を相手とするときに限られるのである。このことはまた、男性の性目標には、尊敬する女性相手に満足させようとは思いもよらない倒錯的成分が入り込んでいることからも、確かめられる。十分な性的享楽がえられるのは、男性がなんらの憂いなく満足に向かって専心するときだけなのであって、この専心を彼は例えば自分の礼節正しい妻相手にやってみようなどとはしないのである。こうしたことのために男性には、貶められた性的対象への、すなわち、美的懸念を示すのではないかと心配する必要がなく、生活のほかのかかわりで彼を知ることもなければ評価することもできない、倫理的に劣等な女への、欲求が芽生えることになる。そうした女には男は自分の性的な力を、博愛の方はより地位の高い女性に全面的に向けられている一方で、嬉々として捧げることになる。もしかしたら、最上位の社会階級の男性に頻繁に観察される、低い階層の女を長期の愛人にしたり、それどころか配偶者に選択したりするという嗜好も、十分な満足の可能性と心理的に結びついている、貶められた性的対象に対する欲求からの帰結にほかならないのかもしれない。

おもしろいのでおもわず写経してしまいました。なんか女性をママやお姉さんみたいに尊敬する対象と考えたりするとセックスがうまくいかなくなります、みたいな。むしろ無教養だったり下品だったりした方がいい、メスブタみたいな女との匿名のセックスの方が燃える、とかそういう感じ。岡崎京子先生の『Pink』っていうマンガで、テレビで正しいことを語ってる大学教授が主人公をメスブタ扱いしている、みたいな話おもしろいですよね。まあ人間は複雑だ。

まあこの「貶める」がおもしろいですね。一部のフェミニストが「男性にとってセックスは女性を貶めるものだ」とかって解釈したのの意味がだんだんわかってくるような。

同じようなことは性科学の創始者のハブロック・エリスや、20世紀に社会的にも大きな影響をもった哲学者のバートランド・ラッセル先生も言ってるんですよね。

(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。……しかし・・・女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(ラッセル『結婚論』)

まあここでラッセル先生が言ってることがどういうことなのかってのを考えるのはおもしろくて、女性もどんどんカジュアルにセックスするようになれば売買春はなくなるぞ、そういうふうに教えこもうぜ!みたいな。それでいいんすかね。まあ「金払わなくてすむようになるぞ」っていうんじゃなくて、ラッセル先生は売買春は不道徳だと考えてたんですけどね。

あとこのフロイト先生の論文のタイトルは、 Über die allgemainste Erniederung des Liebeslebensなんですが、これ「性愛生活が貶められれること」なのかなあ。「セックスライフでは「貶める」ってことがよくあることについて」じゃないのかな。Erniederungは性愛生活を貶めるんじゃなくて対象(特に女性)を貶めるんだろう。まあセックスライフにはそういう側面があるわけです。

あ、英訳だとやっぱりタイトルは “On the Universal Tendency to Debasement in the Sphere of Love”になってるね。

フロイト全集〈12〉1912‐1913年―トーテムとタブー
岩波書店
売り上げランキング: 190,294
ラッセル結婚論 (岩波文庫)
ラッセル
岩波書店
売り上げランキング: 125,094
pink

pink

posted with amazlet at 13.06.10
岡崎 京子
マガジンハウス