まあ米国での規制の法制度づくりは失敗したわけですが、その後もポルノは性差別だというマッキノンとドウォーキンのラインの議論はけっこう魅力を感じる人もいるようです。
表現そのものが性差別だとかってのに疑問を感じる人がいると思いますが、人種差別的なヘイトスピーチのこととかを考えると、ポルノも女性に対するヘイトスピーチなのだ、みたいな言われ方をしたりします。わかりにくいって言えばわかりにくいんですけどね。
まあもうちょっとだけこのタイプの人々の言い分を聞いておくことにしましょう。
まずポルノってやっぱり言論だから言論の自由の方が大事なんちゃうか、言論だとしたら規制するのはおかしいだろう、という批判に対して、ラジフェミ(まあラジカルフェミニストにもいろいろいますが、今回はとりあえずこう呼んでおきます)の人々は、ポルノはそもそも言論なんかいな、言います。正直言論ってよりはマスターベーションの道具みたいなもんだろう、と。なにも新しいアイディアとか含んでないじゃないか、とりあえずたんなるオナニーの「おかず」ではないか、と。
それに仮に言論だと認めたとしても、言論の自由は絶対的なものではない、虚偽の広告とか規制しているのだから、女はいじめられて喜ぶものだとかって女性についての虚偽をばらまいているポルノを規制しても良いだろう、とか。
ポルノとか芸術とかは既成の道徳概念とかをひっくり返すものだ、みたいな見方に対しては、ポルノのいったいどこが既成の概念をひっくり返してるんだ、男が主体で女は受け身っていう旧来の考え方を繰り返しているだけじゃないか、とか。
まあもっといろいろあるんですが面倒だから途中で。とにかくこの系統の人々はいまだにポルノに対して反対しているし、法規制を求める人も少なくありません。とにかく性表現の規制をめぐる議論は、「猥褻」ではなく「性差別」が中心になってるわけですね。(もちろん性差別反対派と猥褻反対・保守派が手を結んだりしている部分もあります。)
んでまあ一番最初の会田誠先生と森美術館に対する抗議とそれへの返事の話にもどると、「ポルノ被害を考える会」とかはこういうマッキノンたちのラインでポルノを考えているわけですね。特に児童ポルノってのは、年端もいかない少女を邪悪な欲望の対象とするおぞましいものだ、と。んでおそらく会田先生なんかの作品では虐待されている少女が微笑んだりしているこそ気にくわん、女はいじめられて喜ぶというポルノ的幻想の最たるものではないか、みたいな感じだと思うんです。さらに、森美術館という一流美術館がそういう作品を堂々と展示することによって、そうした作品の作り方や欲望のあり方にお墨付きを与え、男性的な性欲とファンタジー中心社会をさらに盛り上げようとしている、と。彼らがよく使う比喩に「黒人が首輪付けられて犬扱いされて喜んでいる絵とかOKだっていうのか?」みたいなのがあるんですが、まあそういうものとしてポルノを見ているわけですね。
というわけでまあ会田先生の法律上の「児童ポルノ」や「わいせつ物」にはなりようがないですが、そういうものだとして展示を中止させようとしたってところだと思います。この戦略が正しいかどうかはわからんですね。私自身はぜんぜんだめだと思うんですが、まあ運動というのはいろいろあるんでしょう。
で、問題はこれに対する会田先生の「発表する場所や方法は法律に則ります」ですな。「考える会」などは法律は不十分だと考え、法が要求する以上のことをもとめているわけです。これに対して「法律に則ります」ってのはぜんぜん会の要求にそうつもりはありません、ってことですわね。「「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけない」とかってのは嫌いな人や不快な人や腹をたてる人がいてもアッシはやらせていただきますよ、ってことなんで、まあ「考える会」の主張にはまったく従うつもりがないってことですわ。
というわけで、さいど一番最初にもどると、こうしたポルノ批判の文脈で芸術家が「法に則って」とか「法の範囲内で」とか発言することはぜんぜん保守的でもなんでもないわけです。
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