月別アーカイブ: 2006年2月

山形の解説 (5)

山形浩生訳『ウンコな議論

「キツいシャレだなあ」と思っていったん終りにしようと思ったのだが、なんかへんな感じがする。山形がやろうとした(と私が想定している)ことは、うまくいってるんだろうか?

フランクファートの議論では、「嘘」と「ブルシット」ははっきり違うもののはずだ。嘘はなにが真理であるかがわかっていて、聞き手や読者を欺く。山形が「ファート」でやったことはブルシットではなく嘘だ。んじゃ解説全体はどうなんだろう?もしあの解説で山形が読者を(一時的にせよ)欺き、フランクファートが言ったことについて誤解させようとしたのであれば、それはブルシットではなく騙しになってしまう。

フランクファートの「ブルシット」論文自体は冗漫で曖昧だが、おそらく「嘘」は含まれていない。(出典を確かめたわけじゃないが、出典について嘘をついていたらそれはブルシットではない。)むしろ、ブルシットという彼自身がよくわからんものをいろんな出典を引いてよくわからんようにごちゃごちゃ議論しているだけだ。ごちゃごちゃしたなかで数少ないわかったことが「嘘とは違う」なわけだ。

というわけで、山形さんは(1)よく読めてない、(2)よく読めていて嘘をついている、のどちらかで、どっちにしてもあんまりうまくいってない。うまくいかない遊戯はかっこわるい。ブルシットは単なる技能ではなくある種の芸術であって、意図的にブルシットするには才能も必要なのだろう。

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山形の解説のまずいところ (3)

いろいろ調べたんだが、けっきょく山形のpp.68-70あたりの解説がどこから来たのかはよくわからん。

もうちょっとだけまずいところを指摘しておくと(細かいが)、

嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても — 強迫されても金を積まれても — 嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。・・・手が震え、舌が凍りついて嘘がつけない。(p.69)

とかって例を使ってしまうところとか。ちとミスリーディング。フランクファートの議論(“Alternate”論文と”Person”論文の両方)でもこんなふうに心理的な強迫に悩んでいるひとは、盗むことを望んでいない窃盗強迫や薬をやめたい薬物中毒のひとと同様に、やっぱり道徳的責任があるのかどうかよくわからかもしれない。こういうタイプの例はフランクファートの議論とは関係がない。

むしろ、よく使われるルターが審問されたときに言ったといわれる

「わたしはここに立つ、これ以外にどうすることもできない。」

っというケースで見られる「どうすることもできない」”I can do no other.” (原文知らないけど)での「できない」の意味が問題なんだよな。この「できない」は彼の道徳的な判断にかかわる「できない」で生理的なものではない。もしルターの手が震えたり(震えたと思うけど)、舌が凍りつき(凍りつきそうだったとは思うけど)したという理由から「できない」のであれば、ルターには道徳的な称賛も非難も与えられなかっただろう。

昨日引用した山形の

この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。

という部分の「追い込む」とかって表現が気になる。たしかに道徳的な判断とか価値観とか、そういう時にある状況であることをする傾向を自分自身に植え付けるのはとでも大事なことなんだが、フランクファートの議論で重要なのは、そういうことではなく、自分自身がその自分の一階の欲求に対してどういう態度をとってるか、ってことなわけだ。自分自身が嘘をつけないことについて、「自分自身が嘘をつけないことは望ましい」と判断しているかどうかがポイント。心理的障壁はあんまり関係ない。

だから、山形が挙げているひとが、「おれは10年前に嘘をつかないという道徳的決定をして自分を訓練してきたから本当に心理的に嘘つけないようになってしまった。でも今ここで、ほんとは嘘つきたいなあ、嘘つくべきだ、こんなかたくるしい良心なんか持つんじゃなかった」と思っているのにもかかわらず心理的障壁から嘘をつけないにすぎないのならば、そのひとは道徳的責任(この場合は称賛かな)に値しないかもしれない。(するかもしれないけど)こういう点で山形の解説はミスリーディングだ。(もちろん、そういうもともとどういう性格特性を身につけているかがポイントなのだ、という立場(「徳倫理学」とか)はあるわけだが、それはここでは関係ない)

あれ、うまく書けないや。私じゃ無理だ。ちゃんと自分なりに書けるだけ山形先生は立派だ。

なんか関西の偉い先生が書評書いているという噂だからきっとここらへんうまく解説してくれるだろう。

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翻訳を学術的業績として認めよう

たいていの大学教員の業績の評価では、翻訳はまったく業績にカウントされない。しかしこれっておかしいんじゃないのかな。わたしがこのごろよく見る社会学関係の本では、引用はたとえば

Parsons [1964=1973:120]

とかって形で行なわれる(上野千鶴子(編)の『脱アイデンティティ』p.13)。そして文献リストでは、

Parsons, Taldcot, 1964. Social Structure and Personality. Glencoe: The Free Press. = 1973 武田良三監訳『社会構造とパーソナリティ』新泉社「第1章 超自我と社会システム論」「第4章 社会構造とパーソナリティの発達—心理学と社会学の統合に対するフロイトの貢献」

とされている。どうもこういう社会学系の注のつけかたを見ると、パーソンズちゃんと読んだんだ勉強していて偉いなあ、と読者は思ってしまうわけだが、実は翻訳見てるだけ。文献表は邦訳のあるものだ、なんてことがけっこうある。

邦訳だけ参照にしているなら、

パーソンズ [1973:120]

と書いて、文献リストでも別に記載すりゃいいのにと思う。

もちろんべつに翻訳が悪いわけじゃないのだが、こういう原典と翻訳をいっしょに指示しようとする傾向には、山形がFrankfurtの論文を注につけたのと同じある権威主義的な欺瞞が感じられるんよな。なにを翻訳するかってのはやっぱりある見識にもとづいているわけだし、そこまで翻訳を信頼するのならば、翻訳する人々に対してもっと敬意を示し、業績として認めるべきだと思う。(ちゃんとした大学ではすでに翻訳も業績にカウントされるのかな?)

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山形の解説はどこから来たか

山形浩生訳『ウンコな議論

どうも山形がFrankfurtのどの論文を解説しているのか発見できない。

“Freedom of the Will and the Concept of a Person”も、山形が言っているような「自律性」なんてことには一言も触れてない。しかしあの解釈は見覚えがある。ううん。わたしがなにか勘違いしているのかもしれない。

まあとりあえず、”Alternate Possibilities~”論文と”Freedom of Will”論文を混同して注をつけた、ということはなさそうだということがわかった。

どうでもいいが、Frnakfurtの論文の一部を訳出してみようと思ったが、とんでもなく日本語にのりにくいのであきらめた。”could have done otherwise”でさえ私には訳せない。原文は平明なのに、訳読むより英語読んだ方が早いような翻訳になってしまう。おそらくそういう邦訳読める人間は英文でも読めるし、英語読めないひとは邦訳も読めないだろう。翻訳する意味なし。

それにここらへんの自由意志とかにかかわる議論ってのは細かすぎて素人向けじゃないんだよね。一部の高級なアームチェアー哲学者向けというか、特権階級のものだという意識があるような気がする。日本の哲学者(大学教員?)たちが翻訳したがらないのは、こういう問題もあるんだよなあ。「下々の者にはわからんだろう」とか。ほんとうはそうではないんだと思うのだが。そういうんでは、人々に教養を授けようとする山形先生は偉いよな。『自由は進化する』はどれくらい売れたのかなあ。

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独白

はあ。まあ私はこうして一生ブルシットの山とつきあっていくんだな、きっと。勉強になった。それはそれでいいかもしれん。これまでも大量のブルシットに悩まされてきたし、これからも悩んでいくんだろう。このブログの過去の記載を見ても、書いているのはブルシットなものについてばかりで、私はそういうものにしか興味がないのかもしれない。

あたりまえのことかもしれんが、ブルシットの一番も問題は、それを実際にほじくり返してみないかぎりブルシットかどうかわからん、というところなんだな。今回実地に確認させてもらった。とりあえず最初は「これはブルシットではなさそうだ」という構えでいかなくてはなにも得られない。もちろん、ブルシットの雰囲気をかもしだしているものからはすべて遠ざかる、という手もありそうだが、それではなにか手に入れるべきものを失なうことになってしまうかもしれない。「哲学」だの「思想」だのと呼ばれているもののほとんどはブルシットで、営み自体がブルシットを生産するだけのものなのかもしれない。われわれにできるのは意図的なブルシットを避けることだけだ、と言いたくなるが、ブルシットかそうでないかと見分けることさえ実際に触ってみなければわからんのであれば、意図的かどうかはなおさらわからん。

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山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

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山形の解説のまずいところ (3)

いろいろ調べたんだが、けっきょく山形のpp.68-70あたりの解説がどこから来たのかはよくわからん。

もうちょっとだけまずいところを指摘しておくと(細かいが)、

嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても — 強迫されても金を積まれても — 嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。・・・手が震え、舌が凍りついて嘘がつけない。(p.69)

とかって例を使ってしまうところとか。ちとミスリーディング。フランクファートの議論(“Alternate”論文と”Person”論文の両方)でもこんなふうに心理的な強迫に悩んでいるひとは、盗むことを望んでいない窃盗強迫や薬をやめたい薬物中毒のひとと同様に、やっぱり道徳的責任があるのかどうかよくわからかもしれない。こういうタイプの例はフランクファートの議論とは関係がない。

むしろ、よく使われるルターが審問されたときに言ったといわれる

「わたしはここに立つ、これ以外にどうすることもできない。」

っというケースで見られる「どうすることもできない」”I can do no other.” (原文知らないけど)での「できない」の意味が問題なんだよな。この「できない」は彼の道徳的な判断にかかわる「できない」で生理的なものではない。もしルターの手が震えたり(震えたと思うけど)、舌が凍りつき(凍りつきそうだったとは思うけど)したという理由から「できない」のであれば、ルターには道徳的な称賛も非難も与えられなかっただろう。

昨日引用した山形の

この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。

という部分の「追い込む」とかって表現が気になる。たしかに道徳的な判断とか価値観とか、そういう時にある状況であることをする傾向を自分自身に植え付けるのはとでも大事なことなんだが、フランクファートの議論で重要なのは、そういうことではなく、自分自身がその自分の一階の欲求に対してどういう態度をとってるか、ってことなわけだ。自分自身が嘘をつけないことについて、「自分自身が嘘をつけないことは望ましい」と判断しているかどうかがポイント。心理的障壁はあんまり関係ない。

だから、山形が挙げているひとが、「おれは10年前に嘘をつかないという道徳的決定をして自分を訓練してきたから本当に心理的に嘘つけないようになってしまった。でも今ここで、ほんとは嘘つきたいなあ、嘘つくべきだ、こんなかたくるしい良心なんか持つんじゃなかった」と思っているのにもかかわらず心理的障壁から嘘をつけないにすぎないのならば、そのひとは道徳的責任(この場合は称賛かな)に値しないかもしれない。(するかもしれないけど)こういう点で山形の解説はミスリーディングだ。(もちろん、そういうもともとどういう性格特性を身につけているかがポイントなのだ、という立場(「徳倫理学」とか)はあるわけだが、それはここでは関係ない)

あれ、うまく書けないや。私じゃ無理だ。ちゃんと自分なりに書けるだけ山形先生は立派だ。

なんか関西の偉い先生が書評書いているという噂だからきっとここらへんうまく解説してくれるだろう。

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山形の解説のまずいところ(2)

さて、んじゃ山形の解説が”Freedom of the will~”をもとにしたものなのかな、と読みなおしてみたけど、微妙に違うんだよな。これにも「自律性」とかって概念は出てこない? でもたしかに見覚えのある解釈なんだよな。この解説はどっから来たんだろう? 泥棒強迫とかが出てくる論文だったような気がするのだが・・・わからん。

あれ。困った。ほんとに私は頭が悪い。

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<username>論文のタイトルは</username>

<body>Alternativeではなく、Alternateではないでしょうか。</body>

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<username>kallikles</username>

<body>そうです。なおします。</body>

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<username>kallikles</username>

<body>昨日のもまちがってたので直しました。はずかしいなあ。</body>

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ウンコな議論: 解説のまずいところ(1)

山形浩生訳『ウンコな議論

「大学のレポートだったら落とされるだろう」とか書いてほっておくのはアレなので、一応解説を。

山形の解説のまずいところは、

・・・嘘がつけないこと、嘘をつくという選択肢を持たないことこそが道徳的責任の存在を示す。この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。したがって複数の選択肢がなければ道徳的責任がないという考え方はまちがいであり、選択肢がないことこそその人物の自律性なのである。(pp.69-70)

山形がこの文章に注をつけている “Altenate Possibilities andResponsibility”という論文では、まったくこういうことは言ってない。”Alternate”論文で言ってるのは、私なりにラフに解説するとこうなる。

ふつう、「ほかにどうすることもできなかった」という発言は道徳的責任をまぬがれる言い訳になると思われている。たとえば太郎が「お前も参加しないと殺すぞ」と脅迫されて集団レイプに加わった場合、われわれはその人に道徳的責任がないと思う傾向がある。しかし、太郎自身がもともと参加しようと思っていた場合を想定してみる。つまり太郎は脅迫されようがされまいが、レイプに参加したのである。こういうケースでは、たしかに太郎は脅迫されて「他にどうすることもできなかった」、つまり太郎がレイプに参加しないという別の可能性はなかったわけだが、だからといって太郎に責任がないということにはならない。だから、「ほかにどうすることもできない場合には道徳的責任はない」という原則はまちがい。道徳的責任が免除されるかもしれないのは、太郎
が「他にどうしようもなかった」という理由「だけ」からそうした場合、そして太郎がそれをするのを望んでいなかった場合なのである。

これだけ。「自律性」とかって概念はこの論文では出てこない。まあまともな英米系の哲学の論文一本なんてのは非常に単純で、肩すかしをくわせるようなやつが多いが、これもその一例。こういう細かい議論のつみかさねがちゃんとした哲学が哲学であるところだと思う。

山形があげている解釈は、むしろ”Freedom of the will and the concept of
a person”というもっと有名な論文についてのものかもしれんが、それについても誤解がありそうだ。レポートでまったく別の論文の要約を提出したら、ふつう教師は「パクリだな」と判断して単位を与えないものだ。とにかく読んでない論文を注にあげて、一般読者を圧倒しようとするのはどうもブルシットの雰囲気がある。

フランクファート先生も分析しておられる。

ウンコ議論や屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいものである。したがってそれらの生産は、何かの話題について語る義務や機会が、その話題に関連した事実についての知識を上回る時に喚起されるのである。(p.51)

続く。

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山形の解説はどこから来たか

山形浩生訳『ウンコな議論

どうも山形がFrankfurtのどの論文を解説しているのか発見できない。

“Freedom of the Will and the Concept of a Person”も、山形が
言っているような「自律性」なんてことには一言も触れてない。
しかしあの解釈は見覚えがある。ううん。わたしがなにか勘違いしているのかもしれない。

まあとりあえず、”Alternate Possibilities~”論文と”Freedom of Will”論文を混同して注をつけた、ということはなさそうだということがわかった。

どうでもいいが、Frnakfurtの論文の一部を訳出してみようと思ったが、とんでもなく日本語にのりにくいのであきらめた。”could have done otherwise”でさえ私には訳せない。原文は平明なのに、訳読むより英語読んだ方が早いような翻訳になってしまう。おそらくそういう邦訳読める人間は英文でも読めるし、英語読めないひとは邦訳も読めないだろう。翻訳する意味なし。

それにここらへんの自由意志とかにかかわる議論ってのは細かすぎて素人向けじゃないんだよね。一部の高級なアームチェアー哲学者向けというか、特権階級のものだという意識があるような気がする。
日本の哲学者(大学教員?)たちが翻訳したがらないのは、こういう問題もあるんだよなあ。
「下々の者にはわからんだろう」とか。ほんとうはそうではないんだと思うのだが。
そういうんでは、人々に教養を授けようとする山形先生は偉いよな。『自由は進化する』はどれくらい売れたのかなあ。

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独白

はあ。まあ私はこうして一生ブルシットの山とつきあっていくんだな、きっと。勉強になった。それはそれでいいかもしれん。これまでも大量のブルシットに悩まされてきたし、これからも悩んでいくんだろう。このブログの過去の記載を見ても、書いているのはブルシットなものについてばかりで、私はそういうものにしか興味がないのかもしれない。

あたりまえのことかもしれんが、ブルシットの一番も問題は、それを実際にほじくり返してみないかぎりブルシットかどうかわからん、というところなんだな。今回実地に確認させてもらった。とりあえず最初は「これはブルシットではなさそうだ」という構えでいかなくてはなにも得られない。もちろん、ブルシットの雰囲気をかもしだしているものからはすべて遠ざかる、という手もありそうだが、それではなにか手に入れるべきものを失なうことになってしまうかもしれない。「哲学」だの「思想」だのと呼ばれているもののほとんどはブルシットで、営み自体がブルシットを生産するだけのものなのかもしれない。われわれにできるのは意図的なブルシットを避けることだけだ、と言いたくなるが、ブルシットかそうでないかと見分けることさえ実際に触ってみなければわからんのであれば、意図的かどうかはなおさらわからん。

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山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

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大庭健「時-間における人-間の性」

同じシリーズの『原理論 (シリーズ 性を問う)』所収。

珍しい日本の哲学者によるセックス論。(ほかに大物(?)でこういうのを扱ってるのは神戸大の宗像恵先生ぐらいか・・・いや、大物中の大物の森岡正博さんがいた。でもあの人が狭い意味での哲学者かどうか・・・ [1]哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

どうやら独力でネーゲルの「性的倒錯』とほぼ同じような地点に辿りついているようだ。

えらいものだ。ただしいろんな概念もちだしてぶんまわしているので難解でわたしの頭ではよく把握できない。規範についての議論は直観的すぎて、彼と同じ直観もってない人間にはほとんどわからんだろう。

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References

References
1哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

細かいところつっこんでも無駄

馬鹿げた記述を見るとつっこみたくなるのだが、こういうクセはどうなんだろう。たとえば『シリーズ〈性を問う〉 (2)』の「性差」の赤川学「ジェンダー・セクシュアリティ・主体性」

ではその「主体性」とはどのように定義されるのか。『広辞苑第三版』にあたってみる。

しゅたい‐てき【主体的】

(1)ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。「〜な判断」「〜に行動する」
(2)(→)主観的に同じ。

しゅたい‐せい【主体性】
主体的であること。また、そういう態度や性格であること。「〜に欠ける」

いずれの定義の中にも「主体」という概念が中心的な要素として織り込まれ、ほとんど同語反復となっている。

p.143 (表記は変更している)

とかって平気で書く。そりゃそうだろう。しかしそれにしても、なぜついでに「主体」も辞書ひかないんだっ!

しゅ‐たい【主体】

(1)[漢書東方朔伝「上以安主体、下以便万民」]天子のからだ。転じて、天子。

(2)(hypokeimenonギリシア・subjectイギリス) 元来は、根底に在るもの、基体の意。

(ア)性質・状態・作用の主。赤色をもつ椿の花、語る働きをなす人間など。

(イ)主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個体性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。⇔客体。→主観。

(3)集合体の主要な構成部分。「無党派の人々を?とする団体」

ふつうの理解では、「主体的」っていうのは(2)の(イ)の意味で「主体」であるのに必要な特徴をそなえているってことで、主体性ってのは主体であるのに特徴的な性質だろう。ぜんぜん循環してない。まあ辞書的な定義についてどうのこうのいってもしょうがないわけだが、そもそもこんなこと考えるのに広辞苑とか論文の最初に持ちだすのは勘弁してほしい。

こういう細かいことが気になって読めない。やっぱりこういう分野の文章読むのは向いてないなあ。

ていうか、なんというか、自分のケツの穴の小ささを感じてしまうね。向いてない向いてない。

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ウンコな議論


私には大きな誤訳は見つけられなかった。いろいろ訳しにくいところをうまく処理するものだし、今これを訳出するってのも(売れはしないだろうが)山形の主張が出てる(この論文だけで出版されているのは知らなかったISBN:0691122946)。ただしp.52の「反現実主義」anti-realistだけは「反実在論」「反実在主義」と訳してほしかった。「ウンコ議論」はどうなんだろう。私の語感では「糞話」だけどな。まあブルシットはそもそも「議論」や「理屈」でさえないんだろうが。もっとブルシットなユルさと大量さにぴったりな言葉はないかな。

それにしても、こんな誰も読まず誰のなんの役にも立たない*1本を山形先生の名前だけで筑摩から出版できるってのはすごいな。ほとんど哲学やら思想やらに興味があるブロガーがブログに「読んだ」と書くためだけの本。まあそういう役に立っているわけか。山形先生が自分で書けばいいのに、と思うのだが、そういうもんでもないんだろうな。微妙な位置の人だ。

あと細かいが、訳者注2であげているFrankfurtの論文 “Alternate possibilities and Moral Repsonsibility”はたしかにJournal of Philosophyに載ったわけだが、注3であげられているThe Importance of What We Care About: Philosophical Essaysにも再録されているし、そもそもこの”On Bullshit”もこの本に入っていて、そこですでにBlackの本にも言及されているわけだが・・・。

“Alternate~”の要約はまずくて、大学の哲学の授業でレポートとして提出したら「ちゃんと読め」と単位落とされてしまうと思うだが・・・誰かこれ読んで知ったかぶりして恥をかくひとが出てくるんではないだろうか。まあいいか。

おろ、

フランクファートが原著執筆後三〇年もたったいまになってこの著作を自分の名前で発表するに至った一つの理由も、そうした研究機運の高まりを願ってのことではあるまいか。(p.104)

だから1986年にRaritanという雑誌に載ったらしく、さらに88年に本に収録してるってば。70年代に匿名文書として配布されたという話は、The Importance~本には書いてない。うーん、山形先生、やっぱりThe Importance of What We Care Aboutには目を通してないな。そういう目でみなおすとpp.71-78の(おそらく)論文”The Importance of What We Care About”の要約(?)もあやしいな。論文(Syntheseに載ったらしい)だけを見たか、あるいは誰かのどこかの解説を参考にしただけなのか。哲学業界人がこれやると叩かれるだろうが、外部の人間ならしょうがないということになるのかどうか。

まあ日本の哲学者たちが怠惰でここらへんの議論の紹介とかちゃんとしてないからこういうことになるんだろうなあ。”Alternate Possibilities~”や”Freedom of the will and the concept of person”なんて超重要論文さえ翻訳がないなんておかしいよな。

*1:bullshitなんて概念はそもそもふつうの日本人はもってないわけだし、おそらく英語圏の哲学やら思想やらを専門にしている人間ですらも、ダメな議論やお話をbullshitだとはとらえてないと思う

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