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セックスの歴史書

 

作成中。自分でも何読んだかわからんようになってるし。

 

 

ちょっと難しめか。

愛と結婚とセクシュアリテの歴史―増補・愛とセクシュアリテの歴史
ジョルジュ デュビー
新曜社
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性の歴史

性の歴史

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J‐L・フランドラン
藤原書店
売り上げランキング: 653,422
図説 不倫の歴史―愛の幻想と現実のゆくえ
サビーヌ メルシオ=ボネ オード ド・トックヴィル
原書房
売り上げランキング: 965,081

古代

 

原書は1960年で古いがとてもおもしろい古典。古代ギリシアの同性愛、セックス、結婚などについてだいたいのことは書いてある。

愛の諸相―古代ギリシアの愛
R・フラスリエール
岩波書店
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同性愛にしぼった名著。

古代ギリシアの同性愛

古代ギリシアの同性愛

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K.J. ドーヴァー
青土社
売り上げランキング: 899,500
古代ギリシアの女たち―アテナイの現実と夢 (中公文庫)
桜井 万里子
中央公論新社 (2010-12-18)
売り上げランキング: 704,663
ヴィジュアル版 ギリシア・ローマ文化誌百科〈上〉 (世界史パノラマ・シリーズ)
ナイジェル スパイヴィー マイケル スクワイア
原書房
売り上げランキング: 596,115
愛欲のローマ史 変貌する社会の底流 (講談社学術文庫)
本村 凌二
講談社
売り上げランキング: 695,874

古代ローマ人の愛と性

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アルベルト アンジェラ
河出書房新社
売り上げランキング: 275,802

中世

 

図解 ヨーロッパ中世文化誌百科 上 (世界史パノラマ・シリーズ)
ロバート・バートレット編
原書房
売り上げランキング: 108,750
図説 快楽の中世史

図説 快楽の中世史

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ジャン ヴェルドン
原書房
売り上げランキング: 647,930

 


近世

 


19世紀

 


20世紀

インターネットはFAQ文化

インターネットに親しむと、FAQというものの存在に気がつくと思います。これは「Frequently Asked Questions」、つまりよく尋ねられる質問を意味します。いろいろな問題について、よくある質問事項それに対する答をリストにしたものです。

私がはじめてインターネットを利用したのは、京大のD1の時でした。興味のあるnews groupを読んでいると、時おりFAQと題して、非常に有益な情報が流れているのを知りました。ネットワークは非常に便利なコミュニケーションの道具なのですが、同じ質問が何度も寄せられることが非常に多いのです。そこで、あらかじめ皆から寄せられた回答をリストにしておけば、無駄なコミュニケーションをせずにすむわけです。他の人々とその問題について議論する上での必須情報、必読の資料等がコンパクトにまとめられています。

個人的なことを書くと、はずかしながら、はじめて面白いと思ったのは、alt.sex FAQと呼ばれるものでした。もちろん、セックスの手引書などというものは世の中にあふれているわけですが、それがネットワーク上で多数の人の手によって集団的に書かれ、編纂されていることを知って、ここにあたらしい可能性があると感じたものです。

その後、私は多くのFAQを読むことになります。たいていの有力ソフトウェアには、その開発を支援する人々がいます。彼らは必ずしもプログラミングに詳しいわけではないので、直接プログラムを改善したりすることはできません。しかし、あらかじめFAQを編集しておくことで、開発者が同じような質問に答える手間をはぶいてあげるという貢献のしかたもあるわけです。

我々はネットワークから多くの恩恵を受けています。メールのやりとりでさえ、ボランティアたちによって作られた基本ソフトウェアによって転送されているのです。あなたも、ぜひ、あなたなりに共同体に貢献したいと思いませんか?


「まとめサイト」文化

上の文章はずいぶん前(2000年ごろ)に書いたのですが、最近はFAQを含む
「まとめサイト」の時代ですね。

オウィディウス先生にナンパを学ぼう

詩人はモテそう

アウグスティヌスとかが生きてたローマ時代っていうのは、その後のヨーロッパが禁欲的なキリスト教に席巻されてしまった以降に比べると性的に自由だったとか、放埒だったとか言われることが多いようです。特に帝国になった最初の方(初代皇帝のアウグストゥスからティベリウス、カリグラ、クラディウス、ネロあたり)は浮気だの不倫だの殺人だのいろいろやばいことをしていて性的に乱脈だったみたいな感じで紹介されることが多いっすね。物語や映画も多い。

まあ金と地位を手に入れたひとがいろいろひどいことをするのは人類の歴史ではよく見かけますね。一般の人がどうだったのかはよくわからないけど、まあそこそこ楽しんでたんだろう、みたいなに思われている。

そういう印象がどっから来るかというと、古典文学とかにエロ話が見かけられるからですわね。特に有名なのが、初代皇帝のアウグストゥスと同時代人のオウィディウスという大詩人が書いた『恋の技法』 (Ars Amatoria、『恋愛指南』)の影響だと言われます。この本は現代人が読んでも楽しめるのでぜひ読むべきです。

当時のギリシアやローマでは、「教訓詩」ってのがあったみたいですね。「人間ちゃんと働かなくちゃだめだ」「燕が来たら種をまけ」みたいなそういうためになることを韻文の形にしたもので、まあ真面目。オウィディウス先生はそういうのも書けたんでしょうが、それを男女のいちゃつきの作法みたいなのでパロったわけです。「恋の技法」とかっていうから甘い恋愛の話かというとそうではなく、完全にナンパとセックスの教則本、いまでいうナンパ本みたいな感じですわ。女性と仲良くなりたい男性はどうしたらいいか、男性の気をひきたい女性はどうしたらいいか、あとベッドでどうするか、とかそういうのをお説教するわけです。こういうの書いたからオウィディウス先生は皇帝アウグストゥスからローマを追放されちゃったりします。文学者というのはたいへんですね。

古代ギリシアではなんか恋愛といってもプラトン先生だと男性同士のパイデラステアの話とかになっちゃうのですが、古代ローマでこらへんの男女の「恋愛」やその技術が注目された裏には理由がある。古代ギリシアに比べ古代ローマは女性にも財産権とかあって相対的に地位が上がった。それに古代ギリシアでは結婚とかは女性の父親と旦那(候補)の間の契約だったので女性の意思は反映されなかったけど、古代ローマではいちおう女性が男性を選ぶこともできた、みたいなのがまあ女性が性的に発展したり、女性の歓心を買う技術に価値が出てきた理由だ、みたいな感じで説明されます。女性が選択することができるから男性がいろいろ努力する必要が出てくるわけですね。最近の国内の「モテ本」みたいなのもそういうことだと思う。

実際にローマの人びとがそんな自由に楽しんでたのか、というと最近出た佐藤彰一先生の『禁欲のヨーロッパ』とか読むとそんな簡単なもんじゃないですけどね。

そういうものは読んでられないからモテる方法を早く教えろ、という忙しい人のために書いておくと、中身はそこらへんのナンパ本とほとんどかわりません。

男性用だと

  • まず身なりをととのえろ。清潔さが大事だ。靴にも気をつかえ。
  • とにかく人の多いところに顔を出せ。劇場、競馬場、格闘技場、飲み会。
  • 適当にきっかけをつくって話かけて、女性の言うことに異議をとなえずそうだそうだとうなづけ。
  • 小間使いと仲良くなれ。
  • 旦那と喧嘩したりして感情が不安定なときに攻めろ。
  • 贈り物をしろ。
  • まめに手紙を書け。
  • 飲み会では歌ったり踊ったりして芸を見せろ。

とかそういう感じ。まあ人のやることは文化も時代も変わっても同じようなものですな。「無理矢理でもいいからチューしてしまえ」みたいなあぶないのもあり。

私が読むかぎり、一番大事なのはこれだ。

まずは、君のその心に確信を抱くことだ。あらゆる女はつかまえうるものだ、と。網を張ってさえいればつかまえることができるのだ。女が若者の甘いことばに誘惑されて撥ねつけるようなことがあれば、春には鳥たちが、夏には蝉がうたうことをわすれて沈黙し、猟犬が兎に背を向けて逃げ出すくらいのものだ。嫌がっているのだと君が信じているかもしれない女も、その実それを望んでいるのだ。こっそりと楽しむ愛が男にとって心をそそるものであるように、女にとってもそうなのだ。男は愛欲を隠すのが下手だが、女はもっと秘め隠した形で愛欲を抱くものだ。

まあとにかく自信が大事なようです。

恋愛指南―アルス・アマトリア (岩波文庫)
オウィディウス
岩波書店
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恋の技法 (平凡社ライブラリー)
オウィディウス
平凡社
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ローマ人の愛と性 (講談社現代新書)
本村 凌二
講談社
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禁欲のヨーロッパ - 修道院の起源 (中公新書)
佐藤 彰一
中央公論新社
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古代ローマ人の愛と性
古代ローマ人の愛と性

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アルベルト アンジェラ
河出書房新社
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ヒエロニムス先生とかも性欲に悩んでいた

アウグスティヌス先生は人生は紀元354-430ぐらい。ほぼ同世代にヒエロニムス先生(340-420)がいます。どっちも「聖・セイント」がつく偉い聖人です。ヒエロニムス先生は聖書のラテン語作ったりして偉い。

なんか知らんけど、この3〜5世紀ごろはキリスト教の修行するひとは砂漠にいってわざわざ苦行するんですね。砂漠の聖者、砂漠の師父ねえ。砂漠ったってゴビ砂漠とか鳥取砂丘みたいなんじゃなくて、町からはなれた荒地ってことだろう。ご飯ちゃんと食べなかったり、草ばっかり食べたり、ベッドに布とか藁とか使わないで岩の上に寝たり、あるいは寝るときも横にならなかったり。数年間風呂に入らなかったぞ!とか自慢する人もいる。不潔で馬鹿ではないかと思うのですが真面目です。まあイエスさんが布教活動はじめる前に砂漠で悪魔と対決したとかって話があるからそれにならってるんでしょうが、ふつうの人がやったら悪魔にとりつかれますわね。あんまり不潔だったり無理な苦行とかするからあとでイスラムの人から馬鹿にされたりすることになる。

隠遁されておられます

ヒエロニムス先生の手紙はこんなん。

  砂漠のあの寂しい荒野で、隠遁者に荒々しい住まいを備える灼熱の太陽に身を焼かれながら、わたしはどれほどしばしば、ローマのもろもろの快楽に取り囲まれている幻想を見たことか!わたしは独りで座っていたものだ。苦々しい思いに満たされていたからだ。わたしの汚れた四肢は形もない袋のような衣服に包まれていた。わたしの皮膚は、長いこと手を入れていなかったので、エチオピア人のように荒く黒くなっていた。涙と呻きが日ごとの業であった。そして眠りに抗しきれず、瞼が閉じられると、わたしの疲れた骨は裸の大地で傷ついた。食べ物や飲み物については語るまい。隠遁者には、病んでいるときでも、水しかない。料理されたものを食するなど罪深い贅沢である。だが、地獄を恐れるがゆえに、この独房なる家に自ら居を定めたにせよ——ここでの仲間といえば、蠍と野獣だけなのだ——わたしはしばしば踊る少女の群に取り囲まれているのを見た。わたしの顔は断食のゆえに蒼白であり、四肢は氷のように冷たかったが、わたしの心は欲情に燃え、肉体は死んだも同然であったのに、欲望の炎は燃えたぎり続けていた。(『書簡』22)

しかし寝てると踊る少女の夢を見るんですなあ。どきどき。少女が踊っている、っていうのもいいですね。やはり女性はダンスできてほしいと私も思います。はたして「いい夢見て得したなあ」って思ったかどうか。

若くて健康な乙女であるお前、たおやかで、ふっくらとした、バラ色の乙女であるお前、贅沢のなかで燃え盛っているお前、ブドウ酒や風呂につかり、既婚の女性や若い男たちと並んで座っているお前は、いったい何をしようというのか。彼らがお前に求めるものを、お前が与えるのを拒むとしても、求められること自体が、お前の美しさの証拠だとお前は思うかもしれぬ。まさにお前の衣服すらが・・・見苦しいものを隠し美しいものを見させるようなものであるならば、お前の隠れた欲望を顕にさせるのだ。お前が音を立てる黒い靴を履いて歩き回れば、若い男を誘うのだ。・・・お前は、公衆の間では、淑やかさを裝って顔を隠すのだが、売春婦のような巧みさで、男が見たならば、より大きな快楽を感じるような特徴だけを見せるのだ。(『書簡』117)

苦しんでる苦しんでる。ははは。 女性が裸でいるのも許せんが、きれいな服着てるのも許せん、おっぱいふくらんでるのが許せん、なぜワシを惑わすのじゃ、許せん許せん、という感じですね。ヒエロニムス先生がどうやってその苦境に耐えたのかはしりません。女性の方からすれば、ただ服着て歩いてるだけでヒエロニムス先生みたいな真面目な人を誘惑してることになっちゃうので迷惑ですよね。やばい。

上の訳は自分で英語から作ったんだったか、他からひっぱってきたんだったか忘れてしまいました。ごめんなさい。

まあ禁欲いいですよね。セックスするにはモテないとならないけど、禁欲はモテなくてもお金なくてもできるし。基本的に意志以外にはなにも必要ない。「なんで彼氏/彼女つくらないの?」とか言われたら「出会いがない」とか言わずに、「ずっと禁欲の苦行しててねー、苦しいけど真理のためにはしょうがない」とか答えればいい。

砂漠の師父の言葉―ミーニュ・ギリシア教父全集より
知泉書館
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キリスト教のそういう禁欲的なあれについては、19世紀後半の歴史学者のレッキー先生のがおもしろいです。

キリスト教とセックス (3) ベンサム先生はイエス先生は同性愛もいけた、と推測している

イエスさん自身は、飲み食いしたりセックスしたりすることを非難したことはない、ってのはベンサム先生が言ってるようです。まあ実際飲んだり食ったり好きな人ですしね。売春とかしている人にも「やめろ」とか言った形跡もない。さらにベンサム先生によれば、イエスさんは同性愛もぜんぜん非難してない。それどころか、イエス先生自身同性愛に積極的だったのではないか、とベンサム先生は考えてます。

「マルコによる福音書」でのイエスさん逮捕のシーンはこんな感じ。

イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 14:44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。 14:45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46人々はイエスに手をかけてつかまえた。 14:47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。 14:48イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。 14:49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。 14:50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

「耳切りおとす」ってのはすごいですね。武器とか用意しているし。イエスさんのまわりはおそらく反権力暴力集団でした。でも当局によって壊滅的打撃を受ける。このあと。

14:51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、 14:52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。

なんか滑稽なシーンで、モンティパイソンとか思い出しますけどね。でも悲劇的。この若者は他の偉い弟子がイエスを見捨てて逃げたのに最後までついていった一人。亜麻布ってのは当時は高級品で、この若者は男娼だったのではないかという解釈が昔からあるらしい。ベンサム先生によれば、人びと(訳によっては「若者たち」になってる)がその若者をとらえようとしたわけだけど、これつかまえてなにをするつもりだったのか。ベンサム先生がほのめかしているのは、男色レイプをしようとしたんではないか、とかってことらしい。

あとはまあヨハネによる福音書の最後の晩餐でも、弟子の一人がイエスの「胸によりかかっていた」とか。時代や文化が違うけど、まあそういうのってふつうあれですよね、というわけです。男同士ってふつうそんな身体的に親密にはならんですからね。

ここらへんの話はスコフィールド先生の『ベンサム』で読みました。おもしろいので読んでください。

ベンサム―功利主義入門
フィリップ・スコフィールド
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ベンサム先生自身のセックス観、同性愛観みたいなのはわりと注目されています。「同性愛について」とかいろいろ文書残してます。まだ十分に解明されてないけど、おそらく性の巨人。最近も哲学関係のブログでベンサムの私生活はどうだったか、みたいなのが研究されてるって話読んだけどURLわからなくなってしまった。

怪物ベンサム 快楽主義者の予言した社会 (講談社学術文庫)
土屋 恵一郎
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キリスト教とセックス (2) んじゃイエスさん本人はどうだったのか

んじゃイエスさん本人はセックスどうだったのか。

イエスには妻や子がいたんではないかとか、側近だったマグダラのマリアは売春婦だったみたいだから性的サービスも受けてたのではないか、とかいろいろ言われてますね。でも福音書にはほとんどそういう恋愛・セックスに関するネタがないっぽい。

私が好きなのはここです。ヨハネによる福音書12:2-8。

イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子(でし)のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人(ぬすびと)であり、財布(さいふ)を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。

 

画像はイメージです

よくわかんないですね。このマリアさんは「マグダラのマリア」さんとは別人みたい。よくある名前なんすね。でも高級アロマオイルを買ってきて(どうやってその金を手に入れたのか)、足(どの足?どこまで?)にだばだば塗って自分の(おそらく黒くて長い)髪でマッサージする、というのはこれはエロすぎます。300デナリってどれくらいかしらんけどとらいえず30万ぐらいでしょうか。ユダさんが「そんな無駄づかいするんなら貧乏人に寄付しようぜ、おれたちだって腹へってんだし」みたいなこと言うのもわかる。泥棒あつかいするのは気の毒な感じ。イエスさんはマッサージされるのを選ぶ。この箇所っていうのはすごく印象的だし、イエスさんの言葉には異常な魅力があるのもわかりますね。ユダさんの考え方はたしかに効率性とかそういうの重視してるけど、もっと大事なものがあるんだよ、みたいな感じでもあります。ユダさんが泥棒だったかどうかはわからんけど、なんか「浅薄な」功利主義者みたいな感じではあります。でも会計とかまされて四苦八苦しているのに、こんな使いかたされたら怒りたくなりますよね。余ったアロマで自分にもしてほしかったろうし。なんで俺はこんな苦労しているのにこのロクデナシばかり女にもてるのだ。殺す、殺してやる、ってな感じになっても不思議がない。太宰治先生の「駆け込み訴え」も読みましょう。へへへ。私はユダ、イスカリオテのユダ。

もう一つ好きな説教はこれです。

「あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げこまれない方がましである。」(マタイ5:27)

画像はイメージです

ここで言う「姦淫」ってのは、結婚している女性とセックスすることです。結婚してないのとはしていかんということにはなってないみたい。それに結婚している男性が他の女性とするのも姦淫じゃないみたいではある。でも結婚してないのにセックスする女性は売春婦やヤリマン扱いされてたと思う。

まあ厳しいですねえ。この厳しさ、外面的な行為ではなく、その動機みたいなのを責めたてるのがイエスさんお教えの基本ですね。こうされちゃうともうほとんど誰でも罪人である。

あなたがたも聞いているとおり、「セクハラするな」と命じられている。しかし、私は言っておく。セクハラな思いで女子学生を見る大学教員はだれでも、すでに心のなかでセクハラしているのである。もし頭があなたをつまづかせるなら、首をもいでしまいなさい。

キリスト教とセックス (1) おそらくぜんぶパウロさんが悪い

キリスト教についてもあんまりよく知らんのですが、ちょっとだけ。

ask.fmでコメントもらいましたが、カント先生の性的禁欲主義や結婚観はまったくキリスト教です。まあ宗教はどれも性的なことがらについての教えや禁止を含んでいるとはいえ、キリスト教はほんとうにセックスにこだわる宗教ですね。

あんまりモテない雰囲気

あのカント先生のセックスと結婚に対する考え方は、イエスさん自身というよりはキリスト教の教義の確立に貢献したパウロさんのものだと思います。っていうかキリスト教ってのはイエスさんが作ったわけじゃないです。「俺は神だ」とか言ってない。むしろ当時のユダヤ教の伝統のなかの改革者というか過激派というかそういう人だったはず。イエスさんは実は神さまで、自分はなにも悪いことしてないけど我々のいろんな罪を賠償するために十字架にかかったのであーる、みたいな中心的教義を開発したのがおそらくパウロさんです。新約聖書にはイエスさんの伝記みたいなの(福音書)の他に、弟子たちの手紙みたいなのも収録されてるんですが、それがイエスさんとその教えをどう解釈するかってのの手引きになってる。

パウロさんはイエスさんと直接会ったことがない。おそらくヤバい人だったイエスさんを理想化した姿やそのお説教を伝え聞くだけだったので、いろいろ過激な主張ができるようになる。

パウロさんは偉かったので、あっちこっちの集会所から「〜についてはキリスト教徒としてはどうしたらいいですか」とか問いあわせが来るんですね。んでそのなかには実は悩み相談も多い。「セックスのことを考えて夜も寝られないんですがどうしましょう」とかそういうのもあったと思います。そういうこまごましたことに答えてる手紙の一節。

 

男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。(コリントの信徒への手紙7章1〜9節)

基本的にセックスはしない方がいい。でも我慢できないんだったら結婚して一対一でやりなさい。でも本当は禁欲した方がいいです。

まあこれがセックス自体が悪いものであるからかどうかというのは微妙なところで、別のところではこんなことを言ってます。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

独身の男が神様のこととか考えるかどうか怪しい気がしますねえ。独身の哲学研究者は哲学に身も心も捧げるかどうか。でもまあ「独身の本気で神様を信じている男は」ってことでしょうね。

しかしこの「(世俗的なことに)思い患うな」というのはキリスト教の中心メッセージです。まあパウロさんのころには、イエスさんの予言した世界の終りはすぐ近くに迫っていると本気で考えてたみたいなので、それまでエッチなことなんかしているヒマなんかないだろう、救われるために神様のことだけ考えなさい、ぐらいの意味かもしれません。やっぱり目の前の女体とどこにいるかわからない神様を比べたら、女体を優先するでしょうからね。

キリスト教のセックス・結婚観についてはここらへんからはじめるとよいと思うです。

デートレイプ魔としてのジャンジャック・ルソー

ルソー先生。イケメンだけどあやしい。

ルソーには「先生」つけたくない、みたいなこと書いてしまいましたが、いけませんね。ルソー先生の言うこともちゃんと聞かねば。しかしこの人やばい。やばすぎる。まあ実生活でもかなり危険な人でしたが、書くものもやばい。私はこの先生の書くもの、なにを読んでもあたまグラグラしますね。理屈通ってないわりにはなんか情動に訴えかけるところがあって、健康に悪い。肖像画とか見てもなんか自信満々の怪しいイケメンで、なんか恐いものを感じる。

ルソーはセックスと恋愛について大量に書いてます。『新エロイーズ』とか、元祖恋愛小説ベストセラー作家でもある。『エミール』とか教育論の元祖・名作ってことになってていろいろ誉められてるけど、そんないいもんでもない気がする。その内容を見てみるとこんな感じ。

性のまじわりにおいてはどちらの性も同じように共同の目的に協力しているのだが、同じ流儀によってではない。そのちがった流儀から両性の道徳的な関係における最初のはっきりした相違が生じてくる。一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。必然的に、一方は欲し、力をもたなければならない。他方はそんなに頑強に抵抗しなければそれでいい。

男は強く暴力的に荒々しく迫り、女はちょっと抵抗していいなりになるのが自然だ。

この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。男性のねうちはその力にある。男性は強いというだけで気に入られる。……

男は力がすべて。肉体の力も金も権力も。そういうのある男性がモテるってのは、まあそうでしょうね。

女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心が結びついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。そういうことから攻撃と防御、男性の大胆さと女性の憶病、そして、強い者を征服するように自然が弱い者に与えている武器、慎しみと恥じらいが生じてくる。

征服だー。「男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ」。迫られてもすぐにチューさせたりしないで抵抗しろ。その方が燃えて無理矢理迫りたくなるからね。

自然は差別なしに両性のどちらにも同じように相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望をいだいた者が最初にはっきりした意思表示をすることになる、などとだれに考えられよう。それはなんという奇妙な、堕落した考えかただろう。そういうもくろみは男女にとってひじょうにちがった結果をもたらすのに、男女がいずれも同じような大胆さでそれに身をゆだねるのが当然のことだろうか。……

女から迫ってはいかん、ということです。不自然だから。迫られるのを待ってろ。

そういうわけで、女性は、男性と同じ欲望を感じていてもいなくても、また男性の欲望を満足させてやりたいと思っていてもいなくても、かならず男性をつきのけ、拒絶するのだが、いつも同じ程度の力でそうするのではなく、したがって、いつも同じ結果に終わるわけでもない。攻める方が勝利を得るためには、攻められるほうがそれを許すか命令するかしなければならない。攻撃する者が力をもちいずにいられなくするために、攻撃される者はどれほど多くのたくみな方法をもちいることだろう。

最後のところが注目ですね。女は男が暴力を使うようにしむけているのだ、ということです。

あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。自然と道理はそういうことに反対している。

でもそのときに使う暴力は、ケガするような本気の暴力ではないですよ、と。

自然は弱い者にも、その気になれば、抵抗するのに十分な力をあたえているのだし、道理からいえば、ほんとうの暴力は、あらゆる行為のなかでもっとも乱暴な行為であるばかりでなく、その目的にまったく反したことなのだ。

女は本気になれば本気で強く抵抗できるのだが、たいていそうしない、なぜならそれは嘘んこの抵抗だからだ。

というのは、そんなことをすれば、男性は自分の伴侶である者にむかって戦いをはじめることになり、相手は攻撃してくる者の生命を犠牲にしても自分の体と自由を守る権利をもつことになるし、また女性だけが自分のおかれている状態の判定者なのであって、あらゆる男が父親の権利をうばいとることができるとしたら、子どもには父親というものはいなくなるからだ。……

まあけっきょく、女性は力いっぱい抵抗することもできるのだが、セックスの場面ではそんな強く抵抗することはない。最初にちょっと抵抗するとあとはぜんぜん抵抗しなくなる。これは無理矢理セックスされるのを実は望んでいるからだ。

とか危険なのがいっぱい。まあ早い話、女は迫られるのを待っていて、迫ると抵抗するけどそれは本気じゃないからそのままやってもかまわん、それが自然だ、ということですわね。

こんなものが戦後教育の推薦図書とか信じられんですね。「なに?ジャンジャック、やめて、やめてジャンジャック、本気なの? おうおう」「(やっぱり女は最初抵抗してみせるだけだな)」とかってことになった人がたくさんいるのではないか。まあルソーほど有名人でイケメンだったら好きでそういうふうになった人もいるかもしれんけど、そうじゃない人も多かったろう。いやほんとにシャレならんすよ。そういうの読んで女はそういうものだ、みたいにまにうけた戦後知識人もたくさんいたと思う。こういうのは、単なる時代的な限界とかそういうのではないのではないかな。

まあでもルソーの近代社会に対する影響は巨大なので、どの本も読むに値する。読まないでいると、いま一般に言われている政治的・社会的な議論とかがどこに出自があるのかわからなくなってしまう。「あ、日本の〜という人がいっていたあれはルソーの引用なのか」とか気づくことがたくさんあります。あとウルストンクラフト先生という元祖フェミニストみたいな先生がいるんですが、この方はルソーが嫌いでその批判で1冊本書いてます。かならず読みましょう。でもさすがにセックスの話はできなかったみたい。

まああえて好意的に読めば、こういうのも人びとのセックスや性欲に関するある種の真理や理想を描いている、みたいになるんすかね。攻めと受け、っていうBLとかで一般的な構図ですしね。実は人びとはやっぱりそういうのが好きだってのはあるんかもしれない。

まあどう評価するにしても、ルソーとかカント先生とかの著作が一般には非常に抽象的なものとして読まれていて、我々の実際の生活や関心事とかけはなれたことを論じているように紹介されるのは私は不満です。どの哲学者もセックスとかには関心をもっていて、かなりの分量の思索を残してます。そういうがまったくといっていいほど議論されることがないのは、やっぱりおかしいのではないか、みたいな問題意識からもセックスの哲学はおもしろい。でもまあやっぱり堅い(ことが求められている)大学教員としては書きにくいことも多いのはわかんですけどね。

2018年の日本にも同じようなことを考えている人がいます

 

エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )
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女性の権利の擁護―政治および道徳問題の批判をこめて
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ルソーの一般向け紹介本みたいなのはでは仲正先生のがまともで読みやすくてよかったです。「なんとか2.0」みたいなのはまにうけてはいけません。

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右翼・保守の人はルソー嫌いが多くて、もう人身攻撃みたいなのしてます。話のネタには読んでおいてもいいかも。

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カント先生とセックス (6) 結婚が唯一の道徳的なセックスの条件です

セフレもカジュアルセックスも売買春もオナニーもだめ。ではどうしたらいいですか? 結婚だけが唯一の道です。

全人格を意のままにするという権利、それゆえ性的傾向性を満足させるために性器をも使用する権利を私はもつのだが、いかにして私は人格全体に対するここのような権利を獲得するのだろうか。──それは私が他の人格に私の全人格に対するまさにそのような権利を与えることによって、すなわちただ結婚においてのみ生じる。結婚は二人格の契約を意味する。この契約において、双方が相互に同等の権利を回復する。つまり各人が自分の全人格を他方に完全に委託するという条件に同意することで、各人は他人の全人格に対する完全な権利を手に入れる。もはや、いかにして性的交渉が人間性を低劣にしたり道徳性を毀損したりすることなしに可能であるかを、理性によって洞察できる。つまり、結婚がその人の性的傾向性を使用するための唯一の条件なのである。

自分のすべてを相手にあたえ、相手のすべてを自分が得る、という形での関係のなかでだったらセックス許されます。しかしここでカント先生がどういうことを考えているのかっていうのはなかなか難しい。ふつうのセックスは相手を性欲の対象のモノにすることだからだめだ、でも結婚セックスは相手をモノにして自分のものにするけど、自分も相手の所有するモノにするからいいのだ、みたいな感じですかね。でも、これと結婚してない恋愛関係・愛人関係とかの違いがよくわからない。

どうもカント先生が注目しているのは、恋愛や愛人関係では必ずしもお互いがお互いの「所有物」になるわけではないし、時には不平等なときがある。二股とか三股とか。一方だけがぜんぶを捧げて、片方は「いや私は私のもので、あんたのものじゃない、一発やったからって彼氏ヅラするな」とか言うこともありえる。それに対して、結婚してしまえば、「私が自分の全人格を他の人格に渡し、それによって他方の人格をそのかわりにえる」ってことになって、「それによって双方の人格は意志の統一を形成する」ってことらしい。これも難しいんですが、結婚してしまえば幸福も不幸も、満足も不満も二人一緒に味わうことになるのだ、とにかく夫婦は一体なのだ、みたいなことらしいですね。すげーロマンチックな結婚観ですね。これはおそらく結婚しなかった人にしか考えられない。永遠の中二病という感じですねえ。

まあ「相手を所有する」ってのはやっぱり相手をモノ、所有物として考えてるわけで、これがなぜ人間性の定式に反しないのか謎。

カント先生が結婚という条件をどう考えていたのかっていうのはいろいろ解釈の歴史があってちょっといまは追いきれない。一つ目立つのは、カント先生がルソー(なぜかルソーには「先生」つけたくない)から受け継いだ社会契約っぽい考え方をつかってるんだろう、って感じですね。ルソーの問題というのは、国家の成立や正当化を考える場合に、平和に協力して暮すために人びとは政府に従って、自分の自由を放棄しなきゃならないように見えるけど、それじゃ自由が失なわれてしまう。自分の自由を保持しながら、みんなとうまくやっていくにはどうしたらいいか?っという問題ですわね。「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従しない」ことはどうすれば可能か、みたいな感じで問われる。ルソーの答は、民主主義。勝手にふるまう自由をみんなが同じように放棄しながら、みんなが政治に参加し法と定め政治をおこなうことで、人民として一つの意志をつくりあげるとき、人びとは自分たちの意志にしたがっているという意味で自由である。選挙に行くと人間は自由になるのです。まあ法律とかも自分たちで決めていると思えば従う気になれるものですよね。選挙はぜひ行きましょう。

カント先生はこの発想を結婚にもちこんでいるんですかね。おたがいに他の人とセックスする自由を放棄し、二人で一体として合議制で(?)性生活を営むことによって、相手の自由を奪ったり人間性を貶めたりせずに楽しいセックスをすることができる、それはお互いに自由なセックスである、みたいな。「イエス/ノー枕」を両者が使用し毎夜投票をおこなうことによって、人間は自由になるのです。

まあよくわからないけどこのラインの解釈するのが主流っぽい。こういう解釈が可能なら、お互いの性的魅力以外の人間性に対する尊敬と、一対一での排他的な関係、あたりが重要だってことになるでしょうか。

まあ本当によくわからないんですが、こういうカント先生のセックス観は、男女の間の平等ってのもを重視している点ではなかなり近代的なんですわ。カント先生が愛人関係とか内縁関係を攻撃するのは、そこになんか不平等が入りこむ余地があるからみたいなんですよね。まあたしかに「私はあなたとかセックスしません」みたいな約束みたいなのが存在しなければ、モテる女性はたくさんの人とセックスできるだろうし、モテない男性はそれにバッグとか貢ぐだけ、みたいな不平等な関係になっちゃいますからね。もちろんその逆もある。

ふつうの若者が「つきあう」って言う場合には、「(場合によって)セックスする」という意味と「他の人とつきあわない、他の人とはセックスしない約束を結んでいる」「お互いの幸福を真剣に考える約束をしている」ぐらいの意味が含まれている気がしますね。これ、カント先生意味だったらある種の「結婚」をしていることになるのかもしれない。

まあそういうことで戸籍とかに載る意味での「結婚」が大事なんじゃなくて、二人の間の尊敬と排他性とケアみたいなのが大事なんだろう、とかって解釈するくらいでいいんかなとも思います。となれば一対一でちゃんとおたがいをよく知っておつきあいしてセックスするのはカント先生から責められずにすむかもしれませんので、みなさんもそれくらいを目指したらどうでしょうか。

カント先生とセックス (5) オナニーも禁止です

カント先生によれば、売買春やセフレがだめなだけではありません。オナニーもいかんです。いいですか、オナニーもいけません。

性的傾向性(性欲)の濫用が「情欲の罪」です。んで、売買春とか姦通とかは「自然にしたがった」罪で理性に反しているのですが、自涜(オナニー)は自然に反した罪です。

自然に反した情欲の罪には、自然本能や動物性に対立するような性的傾向性の使用が属する。自涜はこれの一つとして数えられる。これはまったく対象を欠いた性的能力の濫用である。すなわち、われわれの性的傾向性の対象はすっかりなくなっているが、それでもわれわれの性的能力の使用がまったくなくなっていずむしろ現存する場合のことである。これは明らかに人間性の目的に反しており、しかもその上動物性にも対立する。これによって人間は自分の人格を投げ捨てて、自分を動物以下に置く。……自然に反した情欲の罪はすべて人間性を動物性以下に低め、人間を人間性に値しないものにする。このとき人間は、人格であるに値しない。だから、それは、人間が自己自身に対する義務に関して行うことのできる最も卑しく最も低劣なことである。自殺も確かに人間が自分に関して冒す可能性のある最も身の毛のよだつことではあるが、あそれでも自然に反した情欲の罪ほどには卑しくも低劣でもない。こちらは人間の犯す可能性のある最も軽蔑すべきことである。まさにそれゆえ、自然に反した情欲の罪は口にできないものでもある。というのは、この罪を口にすることによってでさえ、吐き気が催されるからである。

えらい言われようですね。みなさんは動物以下です。人格であるに値しません。

カント先生のころは「自然の目的」とか生物の「合目的性」とかってのがもてはやされた時代で、まあ人間、広くは生物はみんな生きるとか繁殖するとかって「目的」にあった体の構造をしていると考えられてました。

自然において性欲というのは子どもをつくる「ため」にあるものだろうから、子どもができないような性的活動というのはすべて性欲をまちがった方向につかっているよ、ってことですね。同性愛や獣姦も子どもを生むという「自然の目的」に反しているから同罪。

この自然の目的とか合目的性とかを使って、カント先生はけっこう重要な議論をしてるんですよね。たとえば、先生に言わせれば、人間の生存の目的は、快楽や満足という意味での「幸福」ではない。なぜなら、快を味わったり満足したりすることは人間以下の動物でもできる。むしろ人間は理性があるからいろいろ考えちゃって快楽や満足を味わうことができなかったりするし、セックスとかも動物の方がうまくやってる。理性は幸福の邪魔をしているじゃないか。ってことは、人間が理性をもっているのは快や満足のためではないはずだ。だから人間が生きる目的は快や満足のためではないはずだ。そんな議論を『道徳の形而上学のための基礎づけ』の最初の方でやったりしてます。たしか西田幾多郎先生もパクってたような。

まあこういう生物に「目的」があるはずだ、みたいなのは19世紀なかばのダーウィン先生以降だんだん弱くなってるんですが、こういう「本来の目的」とか「自然」とかってのはいまだに人びとの思考のなかでは意義があるみたいですね。「人間は自然にしたがって生きるのが一番だ」みたいな。人間が「自然」に生きたら、まあ殺人とか強姦とかいろいろやるだろうし、女性は10人ぐらい子ども産んでぼろぼろになるだろうし、あんまりいいことじゃないと思うんですけどね。

人間の指はなにかものをつかむ「ため」にこういう構造になってるんでしょう。もとはサルと同じように木登りとかするためでしょうね。でもこれが指の本来の目的だ、とかっていわれたら、鼻をほじくったりするのが自然に反した使用法なのか。少なくともキーボードを叩くのは自然に反してますよねえ。困ります。数学とか論理学とかやるのでさえ、なんか人間の能力を自然に反した使用しているのではないか、みたいなことさえ言えなくもないかもしれない。

カント先生の議論でもうひとつ気になるのは、オナニーでは性的傾向性の対象は存在しない、みたいなやつなんですが、これどうなんですかね。まったく対象が存在しないで意識が自分だけを向いているオナニーとかありえるのかどうか。私はAVとかポルノとかBLとか見たり、あるいはクラスメートとか思いうかべたりして、なんか意識の対象が自分以外に向かってるのが普通じゃないかと思うのですが、どうでしょうか。ここらへんは現象学者とかに研究してもらいたい。そういう話を以前そういうのに詳しい偉い先生としたときには「いや、オートエロティシズム(自己性愛)というのはもっと複雑なものだ」みたいなことを言われました。ここらへんはおもしろい。

まあオナニーの他、同性愛と獣姦がこの種の「自然に反する」行為に含まれます。獣姦はともかく同性愛の方はそういうこと言われても困りますね。まあ西洋人がこういうカント先生的な偏見から人びとが脱出するまで150年かかります。っていうかまあいまでもあれですね。

オナニーに対する社会の態度まわりはいろいろおもしろい研究がありますね。この前読んでたのはこれ。

快楽の歴史
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コルバン先生はエロ本とか、教会の「告白の受けつけマニュアル」みたいなのとか狩猟してインテリ向けエロ本みたいなのを作ってる人。ぶ厚くて読んでも読んでも終りません。

国内でも明治〜大正〜昭和中期のオナニー禁止教育のことを書いてた本があったと思うんですがどれだったかな。赤川学先生だったか、他の先生だったか。

あと映画だと『キンゼイ』がおもしろかったです。キンゼー先生は初期の性科学者で、それまでやってなかった大規模な聞き取り調査とかして人びとの性行動を明らかにして『キンゼイ・レポート』出版して、人びとは実はオナニーや同性愛、不倫、その他ばんばんいろんなことをしているのだ、ってやって世界を変革した偉人です。どうも子どものころの教育のせいでオナニーに対する罪悪感に苦しんでたみたいで、そこらへんもこの映画で描かれてます。性の巨人。

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書いてはみたものの、「オナニー」じゃなくて「マスターベーション」を使うべきだったかな、とか。

カント先生とセックス (4) 恋人関係でもセックスしてはいけません

前エントリで「利害関心にもとづいて」と訳されているのは主に金銭的利益とかを考えてって、ことです。まあ「売買春はいかんです」というカント先生のご意見に「我が意を得たり」みたいな人は少なくないかもしれませんが、カント先生が偉いのは、売買春だけじゃなくて、お互いに性的に求めあってる関係でさえセックスはいかん、と主張するところですね。前エントリでは「金銭とかの利益のために体をまかせる」のが問題だったように見えるけど、実は「性欲のためにお互いに身をまかせる」のも同じ。カント先生は結婚してないでセックスするのを「内縁関係」と呼ぶのですが、こんな感じ。

では、自分の傾向性を第二の仕方すなわち内縁関係によって満足させることは許されないのだろうか。──この場合、それぞれの人格は相互に自分の傾向性を満足させるのであり、意図として何ら利害関係をもたず、一方の人格が他方の人格の傾向性を満足させるために奉仕しているのだろうか。──この場合はなんら目的に反するものは存しないように見える。しかし、ひとつの条件がこの場合をも許されないものにする。内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねるが、自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく場合である。しかし、自分を他の人格に対してただたんに傾向性の満足のために差し出す人は、やはり依然として自分の人格を物件として使用させている。傾向性はやはり依然としてたんに性へと向かうのであり人間らしさには向かわない。とにもかくにも、人間は、自分の一部分を他人に任せるときに、自分の全体を任せているのだということは明らかである。人間の一部分を意のままに処理することはできない。なぜなら、人間の一部分はその人間全体に属しているから。

ここはおそらくかなり解釈が必要なところなんですね。「内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねる〜」ってのはどういうことか。まあ結婚してない短期的〜中期的な性的なおつきあいっていうのは、まあお互いにセックスしたいからセックスする関係なわけですが、それもやっぱりお互いをお互いの性欲の対象にすることだ、と。「自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく」。「人格」はあんまり深読みする必要はないです。単に自分。つまり、自分の幸せとか将来とかについては自分が決める。どこで就職するかとか、誰とつきあうかとかっていうのは自分で決めますよ、他の人の命令にはしたがいませんよ、っていうのを保持したままで(あたりまえですね)、相手とセックスする状態なわけです。まあふつうですよね。でもこうした態度はカント先生には問題があるらしい。

これは内縁関係と対になる結婚関係をどう考えているかを理解しないとわかりにくいですね。カント先生の考えでは、男女が結婚すると、自分の幸せとか将来について自分だけでは決められないようになるのです。キリスト教的な、結婚によって男女は「一体になる」みたいな考え方。もう身も心も性的能力もぜんぶあなたのものよ、あなたのものはぜんぶ私のもの、だからあなた自身のことでも私の許可がなければ勝手に処分できませんよ、みたいな関係が結婚関係なんですね。セックスはするけど自分のことは自分で決めます、みたいな関係は、自分と相手の性欲を満たすために下半身だけの関係をもつことで、それによって自分をモノにすることだからいかん、それは自分も相手も単なる性欲の満足のための手段とすることだ、と。セフレ禁止。

しかしカント先生、なんだって恋人・内縁・セフレ関係を「性に向かって人間性に向かうものではない」とかって考えちゃうんですかね。モテない雰囲気がただよってます。おたがい納得づくで、自分と相手を性欲を満すためのモノにし獣にする、みたいなのむしろよさそうですけどね。「んじゃ今夜も獣なっちゃう? エブリバディ獣なっちゃう?チェケラ!」「やだーもうエッチなんだから……なる……」みたいな。でもチェケラってはいかんです。

カント先生とセックス (3) 自分の体であっても勝手に使ってはいけません

まあ性欲はそういうわけでいろいろおそろしい。だいたい、いろんな犯罪とかもセックスからんでることが多いですしね。性欲は非常に強い欲望なので、道徳とバッティングすることがありえる、っていうより、他人の人間性を無視してモノに貶めるものだっていうんでは、ほとんど常に道徳とバッティングしてしまう。

例の人間性の定式「人間性を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」にてらして考えてみると、性欲とセックスは相手を自分の欲望を満たすための単なる手段にしてしまうわけで、どうすれば同時に目的として扱うことになるのか難しい。

まあふつうに考えれば、床屋さんやマッサージ屋さんと同じように、相手が自律的・自発的に望んでいることを尊重すればいいんちゃうか、と思いたいところですが、カント先生はそれじゃ満足しないみたいなんですね。ここらへんちょっと入りくんでいてわかりにくいのですが、性欲とセックスは人間をモノに貶める行為であって、他人をモノとして扱うのが許されないだけでなく、自分自身を(自発的・一時的に)モノとして提供することも不道徳で許されません、みたいな論理のようです。だから売春とかもだめ。床屋さんやマッサージ師さんとは違う。あれは技術を売っているわけだけど、売春は自分をモノにおとしめてその体を売ることだ。実は、(一時的な)恋人関係・愛人関係みたいなのでさえだめなんですわ。それはお互いを性的傾向性にもとづく愛によってモノにしてしまう関係である。

カント先生はこんなふうに書いてます。ちょっと長いけど、いつか使うために写経した。

人間は、当人も物件ではないのだから、自分自身を意のままに処理することはできない。人間は自己自身の所有物ではない。それは矛盾である。なぜなら、人間は、人格である限り、他の事物に関する所有権をもつことのできる主体だからである。さてしかし、彼に人間が自己自身の所有物であるとしたら、人間は、その当人がそれに対する所有権をもつことのできる物件であることになろう。しかし、とにもかくにも人間はいかなる所有物ももたない人格なのであり、したがって、当人がそれに関して所有権をもつことのできるような物件ではありえない。なぜなら、実際、同時に物件でも人格でもあること、換言すれば、所有者でも所有物でもあることは不可能だからである。

したがって、人間は自分を意のままに処理することはできず、人間には自分の一本の歯もその他の手足も売る資格がない。さてしかし、ある人格が自分を利害関心に基づいて他人の性的傾向性を満足させる対象として使用させる場合、すなわち、ある人格が自分を他人の欲望の対象にする場合、その人格は自分をひとつの物件として意のままに処理しているのであり、それによって自分を物件にしている。他人はその物件で自分の欲を鎮める。ローストポークで自分の空腹を満たすのと同様に。ともかく、他人の傾向性は性に向かうのであり人間性に向かうのではないので、この人格がその人間性を部分的に他人の傾向性に与えること、そして、それによって道徳的目的という点で危険を冒していること、それは明らかである。

したがって、人間は他人の性的傾向性を満足させるために、利害関心に基づいて自分を物件として他人の使用に供する資格をもたない。なぜなら、その場合、その人の人間性は、ひとつの物件として、すなわち誰彼なくその人の傾向性を満足させる道具として使用される危険を冒すからである。(『コリンズ道徳哲学』39節「身体に対する義務について──性的傾向性に関して」、御子柴訳)

我々自身は我々のものではない、っていう主張は目をひきますね。「我々は自分(特に自分の身体)を自由に処分することができるのか」ってのは生命倫理とかフェミニズムとかで非常に議論されているところですね。自殺の自由はあるか、とか。カント先生ははっきりないって言います。これはずっと一貫してる。売春の自由とかってのも認めないわけですね。ただし、「私の体は私のもの」みたいなフェミニストの標語をカント先生が認めないかどうかはわかりません。フェミニストの意味では認めるんちゃうかな。

カント先生による自殺の禁止の議論は倫理学のテストで出題されるかもしれませんね。「人間性の定式」では「あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず〜」っって言われているわけですが、この「あなた自身の」の方はわすれられやすい。他人だけじゃなく自分も単なる手段としてあつかってはいかんのです。

だいたい、自殺とかってのは苦しいことから逃がれたくて自殺したいと考えるわけですね。おそらく、死ぬことそのものを望む人はあんまりいない、っていうかおそらく現実には存在しない。「生きてんのがやになりました」とかってのは実はなんか夏休みの宿題しなきゃならないとか、そういう面倒なことが苦痛だからそれから逃げたいだけ。面倒なことがなくなれば死ぬことそのものを望んだり意志したりするっていうのは考えにくいですね。とりあえず生きてりゃ音楽聞いたり本読んだりできるし、ひょっとしたらいつかはうまいもの食ったりセックスしたりして楽しいこともあるかもしれないし。

んで、人生の苦しみから逃れるために自殺するというのは、自分自身とその生命を、苦痛を逃れるという目的のための単なる手段として扱うことになる、自分の体をたんなるモノとして処分することになる。だからだめっす、という議論です。これがうまくいってるかどうかはよくわからんですが、おもしろいこと言いますね。ちなみにカント先生はこの議論だけでなく、別のやりかたでも自殺の禁止を立証しようとしてます。

カント先生とセックス (2) 性欲は直接に他人の身体を味わおうとする欲望

カントのセックスについての話は、『人間学』、『コリンズ道徳哲学』(死後出版。カント先生の講義ノートをまとめたもの)、『美と崇高の感情性に関する考察』、『人倫の形而上学』、『人類の歴史の憶測的起源』あたりにばらまかれてます。けっこういろんなこと語ってますわ。『コリンズ道徳哲学』の有名なセックス論はこんな感じ。

……もしその人が相手を単に性的傾向性に基づいて愛しているのだとすると、これは愛ではありえず、むしろ欲である。……そのような人々が、相手を性的傾向性に基づいて愛する場合には、相手を自分の欲の対象にしているのである。さて、そうした人たちは、相手を手に入れ、自分の欲を沈めてしなったなら直ちにその相手を投げ出してしまう。それはちょうど、レモンから汁を絞ってしまえば、ひとがそれを投げ捨てるのと同様である。確かに、性的傾向性は、人間愛と結び付きううるし、人間愛のもつさまざまな意図を伴なってもいる。しかし、性的傾向性はただそれだけをとりだしてみれば、欲に他ならない。そうしてみれば、やはりそのような傾向性には人間を低劣にするものが存している。なぜなら、人間が他人の欲望の対象になるやいなや、関係を道徳的にする動機がすべて脱落してしまうからである。すなわち、人間は、他人の欲望の対象としては、他人の欲望がそれによって鎮められる物件なのであり、誰によってもそのような物件として濫用されうる物件なのである。(御子柴訳)

性的な局面では、性欲の相手は享楽の対象ってことになる。食欲が料理を味わい咀嚼しおなかに飲み込むことに向かうように、性欲というのは直接に人間の体に向って、それを触覚とか味わうことを目指す。まあ手で触ったり口で味わったり粘膜をすりつけたりね。

性的傾向性が根拠になっている場合を除いて、人間が他人の享楽の対象となるようすでに本性上決定されているなどという場合は存在しない。

これはあれですね。他人を直接に享楽の対象としようとする場合、っていうのは、日常生活ではほとんどない。たしかに犯罪とかってのは他人からお金を盗んだり殴ったりするわけですが、泥棒はお金が目標だし、殴るのは殴りたいから殴るというよりは、殴って言うことを聞かせようとか、痛めつけて恐れさせようとか、そういうのが目的であって、相手を味わおうと思ってるわけじゃない。『人倫の形而上学』では「肉欲の享楽は、原則的に、カニバリズム的である。……お互いは、お互いにとって実際に享楽されるモノである」って言ってます。まあカニバリズムとかと並べられると困ってしまうわけですが、性欲にはたしかにそういうところがあるかもしれませんね。カニバリズムに独特の恐しさがあるのは、泥棒や強盗とは違って、それが他の人間の肉体を直接に欲望しているからですね。これは恐い。解剖して楽しむために解剖されるのとかも恐い。他人をそういう目で見る人がいると考えると、すごく異常な感じがする。でもセックスの場合はそれが普通なわけです。「へへへ、いい体だ、パイオツがたまんねーぜ」みたいな。他に他人の肉体を味わうっていう時は、たしかに私にはあんまり想像つかないなあ。

マッサージや整体みたいなサービスがあるわけですが(私苦手です)、あれも体つかうから同じようなものか、っていうとそうでもない。あれは筋肉をもみほぐしてもらったりするのが目的で、相手が能動的に動作することを必要とする。マッサージ師さんの体を味わっているんではなく、もみほぐされることを楽しんでいるわけですが、性欲はそうではない。

まあ男性や女性を「食う」「食われる」「味見する」みたいな表現を使うひとがいるみたいですが、そういう表現がふさわしいこともあるかもしれない。性欲は他人の体を味わおうとする欲望なのです。セックスでは人間はいじくりまわされ使用される物体にされる。それに、相手にそうした操作や使用を許すことで、セックスにおいて人は自分自身もそういうモノにする。性欲とセックスはおたがいをモノとして扱い、それによって自分も他人も動物的存在にしてしまうおそろしい欲望であり行為である、ってな感じ。我々が性的な目で他人を見るとき、肉体として、味わうべきモノとして見ているわけです。まあたしかにそう言われるといやな感じがしますね。

私あんまり性的な目で他人から見られたことないような気がしますが(コンパとかで財布として見られたことはあるような気がする)、ナイスバディな女性とか毎日そうやって見られてるんでしょうなあ。「せまられる」「触られる」「味わわれる」「食われる」とかいつも「〜される」な感じでちょっとあれかもしれないですね。

『コリンズ道徳哲学』は下のに入ってます。これはひじょうにいろんなネタをあつかったおもしろい本なので図書館で読んでみるといいです。他に『人間学』もおもしろい。カント先生っていうとなんか猛烈に難しいことを書いた人というイメージをもっている人が多いと思いますが、あの『〜批判』とか以外はけっこうたのしめます。

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カント先生とセックス (1) いちおう「人間性の定式」の確認

哲学者・倫理学者といえばカント先生。しかしそのカント先生を専門的に勉強していた人が犯罪で逮捕されたというので話題になっているようです。まあ正直なところまったく同世代なのでいろいろ考えちゃいます。でもまあ別に倫理学勉強したから犯罪しなくなるってわけじゃないですからね。物理学勉強したってビルから飛んだら落ちるし、医学や生物学勉強したって100年ぐらい生きたら死んでしまう。私には因果関係とかよくわからんですし、限られた報道からは容疑者の人がどういうことを考えていたのかは想像もつかない。

しかしまあカント先生は本当に影響力のある先生で、道徳の一番基本的な形は「あなたは、あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず、常に同時に目的として扱いなさい」っていうものだっていうのは(もうちょっと別の訳の仕方もありますが)、倫理学者の言葉で一番有名な文句になってます。「定言命法の人間性の定式」とか呼ばれてる。おそらく一番有名なんじゃないですかね。これより有名なのはイエス様の「あなたがしてほしいように他の人にしなさい」とか孔子様の「汝の欲せざることを人に為すことなかれ」ぐらいになっちゃって預言者聖人はては神様の領域になってしまう。

しかしこの「単なる手段としてではなく〜」ってやつはけっこう解釈が難しくて、これがどういう意味かってことと、カント先生はなぜそうしなきゃならないって考えたのか、ってことをすっきり説明できれば哲学の修士論文としては十分すぎるくらいになってしまう。博士論文でもいけるだろう。実はわたしはうまく説明できません。

でもまあぱっと見たらわかることもある。とりあえず人を手段・道具として使ったらいかんのだな、と。性犯罪とかってのは(上の犯罪は誘拐や監禁でしょうから性犯罪なのかどうかよくわかりませんが)、他人を自分の性的な目的、性的な快楽のための単なる道具とすることだ。もう相手の気持ちとかどうでもいいから、あれをあれしてあれしてしまいたい、とそういうことでしょうからね。性犯罪だけじゃなく、多くの不道徳な行動ってのがけっきょくは他人をなんらかの利己的な目的のための道具とすることなのだ、というのはまあわかる気がします。

「常に同時に目的として」の方はちょっとわかりにくい。授業していても一番難しいのはここですね。私はまあ標準的な解釈として、「その人の自由、自律、自己決定を尊重するということなのだ」ぐらいでお茶を濁しています。実はそんなうまくいかないんですが。他人を道具として使わないってことは、自分の目的の手段として使わないということで、その人の自由な意思を尊重することだ、ぐらいに読むんですね。私らは社会のなかでいろいろ他人を手段として使わないと生きていけない。床屋さんにいったら床屋さんを自分の髪の毛を短くするという目的のための手段として使うことになる。でも床屋さんは自由意思で床屋さんになることを選び、そういうサービスを提供することで私から4000円もらいたいと思っていて、サービスを提供してくれる。床屋さんのそういう意思を尊重して髪切ってもらって4000円払うことによって、私は床屋さんを単なる手段としてではなく同時に目的として扱うことになるのです、ぐらい。

まあそんで、この「人間性の定式」っていうのは非常に影響力があって、それ以降のふつうの人びとの道徳的な思考に巨大な影響を与えてるんじゃないかと思いますね。「人を道具として扱うな!」ってのはまさにフランス革命から19世紀〜20世紀にかけての奴隷解放とか女性解放とかそういうのの原動力になっている信念です。カント先生のころはまだ身分とか奴隷とかあった時代ですからね。

セックスの哲学にもこの「道具として扱うな!」てのはすごい大きな影響を与えてます。たとえば、痴漢強姦はもちろん、売春とかってのが批判されるのは、お金で女性を性的快楽のための道具とするからだ、っていう考え方ですね。あるいは専業主婦とかってのも家事とセックスのための道具として妻を見ているのだ、とか。グラビアアイドルも女性をモノとして見ていて許せん、ミスコンも女を商品として扱ってる!現代的な感じではこれは「モノ化」「物象化」objectificationの問題と呼ばれていてすごくおもしろいネタです。

カント先生のセックス哲学がおもしろいのは、強姦とか誘拐監禁だけじゃなくて、実は結婚してない人びとがするセックスはぜんぶだめ、それにマスターベーションとかも許せん、って主張していることなんですが、今日はこれくらいで。続きます。

「モノ化」については昔1本論文書いて、最初の方でカント先生の文章紹介しているので、だめな論文ですがよかったら読んでみてください。ここらへんからセックスの哲学・倫理学やりたいと思ってたんですが、なかなかうまいこといかないんですよね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/380/1/0130_009_008.pdf

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アリストテレス先生とともに「有益なおつきあい」について考えよう

まあ「有益な関係」みたいなのっていうのはどうなんですかね。世代的なものかもしれませんが、私なんかだと、そういう損得感情が入っているのは恋愛ではないのではないか、みたいなことをすぐに考えてしまうわけですが、女子はわりとプラグマチックに男性をスペックで見たり、その金とか学歴とか地位とかで見ることもそんな珍しくない感じで、そういう話を聞いてるととまどってしまうことがあります。

しかしプラトン先生自身が恋愛についてなにをいっているのか、というのはすごくわかりにくいんですわ。基本的にプラトン先生は熱情的な人で、こう理屈通ってないこともがんばっちゃうタイプの人で、私自身は苦手です。好きなのはアリストテレス先生。こっちは大人で落ちついている。

ザ・哲学者

ザ・哲学者

アリストテレス先生の恋愛や友情なんかについての考え方は『ニコマコス倫理学』で展開されてます。すごく有名な議論です。

まず「愛する友なしには、たとえ他の善きものをすべてもっていたとしても、だれも生きてゆきたいとは思わないだろう」(1155a)ってことです。この「友」が同性なのか異性なのかていうのはあんまり意識されてないっぽい。いちおう同性を中心に考えますが、異性との話も含まれていると読んでかまわないはずです。お金もってて仕事できても、友達がいないと生きていく甲斐がないです。ここでいう友達っていうのはたんにいっしょにいるんじゃなくて、もっと深い結びつきをもって、お互いが幸せに生きることを願いあうような、そういう関係。

単に趣味をもってるとか、車が好きだ、とかっていってそれが友達のかわりになるわけではないですね。

「魂のない無生物を愛することについては、通常、友愛という言葉は語られない。なぜなら、無生物には愛し返すということがないからであり、またわれわれが、無生物の善を願うということもありえないからである。」

恋愛とか友情とかってものは、一方通行じゃない。少なくとも私らが求めるのは、相手からも同じように好かれたいってことで、これが友情や恋愛のポイントです。片思いしている人も相手に好きになってほしいわけで、「電柱の陰から見つめているだけで十分」っていうのは相手にしてもらえないからそれで我慢しなきゃってだけですよね。

「だが友に対しては、友のための善を願わなければならないと言われているのである。・・・しかし、このような仕方で善を願う人たちは、相手からも同じ願望が生じない場合には、相手にただ「好意を抱いている」と言われるだけである。なぜなら、友愛とは、「応報」が行なわれる場合の「好意」だと考えられているからである」

この「好意」がまあ片思いとかでしょうな。「彼は私の友達です」「あの子は僕の彼女だよ」ってときはやっぱり相手にとって自分が特別なことが含意されてます。

ところで、「劣ったものや悪しきものを愛することはできない。愛されるものには(1)善きもの、(2)快いもの、(3)有用なもの、の三つがある。(1155b)」っていうことです。よく「ダメンズウォーカー」とかっていて「ダメな男」にはまる人がいるようですが、隅から隅じまったくだめな人ってのを好きになることは不可能だとアリストテレス先生は考えるわけです。まあ「だめ夫」っていったってどっかいいところはあるわけですからね。金もなければ仕事もできないけど、セックスはうまいとかちゃんと話聞いてくれるとか笑顔だけはいいとか。愛というのはそういう長所を愛することなわけです。

「快いもの」っていうのは楽しいもの、いっしょにいいていい感じを与えてくれるものですね。美人やイケメンとはいっしょにいるだけで楽しいということはよく聞きます。以前、ある女子大生様が「やっぱりイケメンといっしょの方がご飯食べてておいしいじゃないですか!」と発言するのを聞いて衝撃を受けたことがあります。たしかにそういうことはありそうだ。すごい実感がこもっていて感心しました。これはおそらく、イケメンがご飯をおいしくするわけじゃないけど、イケメンといっしょにいることによってひきおこされる快適な気分がご飯をおいしくしてくれるのですね。

「有用なもの」っていうのは、それ自体が快楽をもたらすものじゃなく、快楽のために役に立つものですね。お金もっているということはイケメンとちがってそれ自体では快楽をもらたらさないとしても、いろんな楽しい活動をするのに役にたつ。お金いいですね。私も欲しいです。

他にも前のエントリであげたプラトン先生の議論に出てきたような有用さっていうのはいろいろあるでしょうな。古代アテネのパイデラステアでは、年長のオヤジは少年にいろんなものを提供してくれることになっていた。まずもちろんお金。社会的に成功するには教育とか必要なわけですが、そういうののお金のかかりを面倒見たり。服とかも買ってあげたかもしれんですね。それ以上に重要だったと思われるのが、さまざまな知識の伝授ですわね。本の読み方とか演説の仕方も教えてもらってたかもしれない。学生様だったら年上の彼氏からレポート書いてもらったりしたことある人もけっこういるんじゃないですかね。仕事上のアドバイスを受けることもあるだろう。それに人脈。これも古代アテネでは重要だったようで、「有力者の愛人」とかってのはそれなりにステータスで、いろんなところに出入りするチャンスを得たりすることができたんじゃないでしょうか。やっぱり有力な人と親密なおつきあいするのはとても役に立ちます。

説明が最後になった「善きもの」っていうのが一番どう解釈するのかがむずかしくて、まあ美徳(アレテー)をもっている、ってことですわね。アリストテレス的な枠組みでは、たとえば「勇敢」「知的」「正義」みたいな長所が美徳と呼ばれていて、そういう長所のために人を好きになる。私はここでなんで「イケメン」や「話がおもしろい」が長所に入らないのだろうかと考えてしまうのですが、まあそういうんじゃなくて人格的な美徳を考えてるようですなあ。

アリストテレス先生は最後の美徳にもとづいたお互いが美徳を伸ばしあうことを願う似たもの同士の友愛が一番完全な友愛だと言います。たとえば知性という美徳をお互いに認めあった人びとが、お互いの知性が成長することを願いあう関係とかですかね。まあ今例として「知性」とかをつかったのであれに見えますが、たとえば「サッカーの技能」「忍者としての技能」みたいなものにおきかえることができれば、一部の人びとが大好きなボーイズラブの構図そのものですね。「お前、やるな!」「お前こそ俺のライバルたるにふさわしい!ライバルであり終生の友だ!」みたいに読めばどうでしょうか。このときに攻めとか受けとかあるのかよくわかりません。

まあそういうのが最高の友愛ですが、アリストテレス先生は有用性にもとづく関係とかだめな関係だ、とまでは思ってないみたい。多くの関係がおたがいの快楽をもとめる関係だったり、有用性をもとめる関係だったり、あるいは一方は快楽を提供し、一方は有用性を提供する、みたいな関係ってのもあるかもしれない。最後のは前のエントリで触れた典型的パイデラステアの関係ですわね。年長者は有用さを提供し、年少者は若さと美と快楽を提供する、というそういう関係。先生はどうも人びと自身の優秀さとか階層とかによって相手とどういう関係を結ぶかが違ってくる、みたいなことを言いたいみたいで、快楽や有益さをもとめた関係とかがすごく劣ったもので軽蔑すべきものだ、みたいなことは言おうとはしてない感じです。すぐれた人びとはもっとよい関係を結ぶものだ、程度。

でもそういう関係ははかない。お金や地位を失なってしまえば有用さを提供することはできなくなるし、若さと美なんてのはもうあっというまに色あせるものですからね。どんなイケメン美人でも10年ピークを維持することは難しいでしょうな。まあそういう持続性の点でも「似たもの同士の美徳のための友愛」が一番だそうです。

『ニコマコス倫理学』は朴先生の訳で読みたいです。岩波文庫のは古い。でもさすがに5000円は出しにくいですよね。光文社でなんとかしてもらえないだろうか。

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もっとも、実際にアリストテレスとかの専門家筋には岩波も悪くないという評判みたいです。

プラトン先生の『パイドロス』からオヤジらしい口説き方を学ぼう

最近「倍以上男子」という言葉を流行らせようとしている雰囲気があるようですね 1)2017年だと「パパ活」か。 。私はこういうのはなんかバブル時期のことを思いだしてあれなんですが、まあそういうのもあるでしょうなあ。 http://howcollect.jp/article/7240 まあ流行らないと思いますが、こういう記事を書いている人がなにかソースをもっているってことは十分にありそうだとは思います。

しかしまあこういうので言われている女子とか年少者にとって有利な恋愛の形というのは当然昔からあって、あの偉大なるプラトン先生も検討しておられます。プラトン先生は恋愛とセックスの哲学の元祖でもあるのです。おそらくソクラテス先生もね。

プラトン先生が考えている恋愛っていうのは、『饗宴』でもそうですが、男同士、年長の男(30代とか 2)40才ぐらいになったらそろそろ少年愛やめて結婚して子供つくるのが正しいと考えられてたようです。 )と年少(10代)とかの関係ですわね。少年愛。パイデラステア。どうも当時のアテネの一部の階層ではそういうのが一般的だったんですね。美少年が勢いのある中年に性的な奉仕をして、中年男の方は金銭面とか人脈とか各種の知識や技術を教えたりする関係。まさに倍以上男子です。

プラトンが恋愛について書いたものというと、例の「人間はもともと2人で一つの球体だった、それがゼウスに怒られて二つに分けられちゃった、それ以来人間は自分の半身を求めて恋をするのだ」というアリストファネスの演説が入っている『饗宴』が有名ですが、『パイドロス』も同じくらいおもしろくて重要な本ですわね。その最初に、「君は自分に恋していない人とつきあうべきだ」っていうリュシアスという人の演説が紹介されているのです。話はそこから始まる。

まず、「ぼくに関する事柄については、君は承知しているし、また、このことが実現したならば、それはぼくたちの身のためになることだという、ぼくの考えも君に話した」って感じで話をはじめます。まあ自己紹介みたいなのして、自分がどれくらいお金もってるかとか、どれくらい地位が高いかとか仕事ができるかとかまずは説明するわけですね。んで「このこと」っていうのはまあお付き合いですわ。それは両方のためになるよ、ともちかかけるわけです。

口説きは、「ぼくは君を恋している者ではないが、しかし、ぼくの願いがそのためにしりぞけられるということはあってはならぬとぼくは思う」と意外な展開を見せます。君のことを愛しているわけじゃないけどお付き合いしよう、まあセクロスセクロス。

若い人は、自分を愛している人より愛してない人とつきあうべきなのです。なぜか。リュシアス先生は理路整然と説明します。おたがいそうする理由がたくさんある。

(1) 恋愛というのはアツくなっているときはいいけど、それが冷めると親切にしたことを後悔したり腹たてたりする。恋人がストーカーになっちゃった、とかっていうのは今でもよく聞きますよね。でも恋してない人はそういう欲望によって動かされれてるわけじゃなくて冷静な判断から相手に得なことをするから後悔したりあとでトラブルになったりしない。

(2) 恋しているからおつきあいをする、っていうことだったら、新しい恋人候補があらわれたらさっさとそっちに行ってします。「誰より君を大事にするよ」とかいってたって、他に新しい恋人ができたらそっちの恋人を「誰より大事」にするだろうから、古い恋人はひどいめにあうってこともしょっちゅうだ。実際「恋」とかってのは熱病みたいなもので自分ではコントロールすることができないものなのだから、そんなものに人生かけるのは危険だ。

(3)  おつきあいをする相手を自分に恋している人から選ぼうとすると数が少ない。ふつうの人はそんな何十人も候補があるわけじゃないっすからね。でも冷静におつきあいを望んでいるオヤジは多い。よりどりみどりになる。

(4) 恋している男というのは、有頂天になって自慢話におつきあいのことをペラペラと周りにしゃべるものだが、冷静な愛人はそういうことはちゃんと秘密にしてくれる。

(5) 恋している男は嫉妬ぶかい。今どこにいるだの誰とメールしているかとかいちいち詮索してうざい。

(6) 別れるときも恋している男はいろいろうざい。恋してない奴はさっさと納得して別れてくれる。

(7) 恋している男は、相手がどういう人かを知るまえにセックスしようとするが、恋をしてない理性的な人はちゃんと相手を見てからおつきあいする。

(8) 恋をしている人は相手の機嫌をそこねないようにってことばっかり考えて、本当にタメになることは教えてくれない。それに対して恋してない奴はいろいろ有益なアドバイスをくれる。今の快楽だけでなく、長い目で見たら将来のためにこうするべきだ、みたいなことを教えてくれるだろう。

とかまあ面倒になったからやめるけど、こういう感じ。これは今でもオヤジの口説きに使えそうな部分もあるわけですな。まあいつの時代も人は同じようなことを考えるものです。このリュシアスさんの演説に対して、ソクラテス先生が「おれはもっとうまい話ができるぞ」とか言いつついろいろ検討くわえて「恋愛やおつきあいというものはそういうものではないぞ、もっとええもんなんや」とやっつけていきつつ、その実、実は美少年パイドロス君をナンパしてたらしこんでいく、というのが筋です。そういうのが好きな人は読んでみてください。名作です。

『パイドロス』は岩波文庫のでいいと思います。『饗宴』はいろいろあるけど、光文社の新しいやつ読みやすかった。『パイドロス』訳している藤沢先生は授業受けたことありますが、モテそうな先生でした。

 

→ プラトン先生の『パイドロス』でのよいエロスと悪いエロス、または見ていたい女の子と彼女にしたい女の子に続く。

パイドロス (岩波文庫)

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アテネとかの同性愛がどういう感じだったかというのは、まあまずはドーヴァー先生の本を読みましょう。まちがってもいきなりフーコー先生の『性の歴史』とか読んじゃだめです。

古代ギリシアの同性愛

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ハルプリン先生のはゲイ・スタディーズとかの成果をふまえたものでもっとドーヴァー先生のより現代的なものだけど、ちょっと難しいし評価もそれほど定まってない。

 

同性愛の百年間―ギリシア的愛について (りぶらりあ選書)
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アテネで女性がどういう暮しをしていたかっていうのは、これかな。

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References   [ + ]

1. 2017年だと「パパ活」か。
2. 40才ぐらいになったらそろそろ少年愛やめて結婚して子供つくるのが正しいと考えられてたようです。

アンソロジーの計画をしてみたり

英米系セックス哲学アンソロジーを組んでみたいと思ったり。まあ私自身がアンソロジー好きなんよね。翻訳して出版したい。

たとえば売買春だとどうなるかな。

  • Jaggar, “Prostitution”
  • Ericsson, “Charges against Prostitution”
  • Pateman “Defending Prostitution”
  • Shrage, “Should Feminists Oppose Prostitution?”
  • Green, “Prostition, Exploitation, and Taboo”
  • Nussbaum, “Whether from Reason or Prejudice?”
  • Primoratz, “What’s Wrong with Prostituion?”
  • Schwarzenbach, “Contractarians and Feminist Debate Prostituion”

うーん、これでは多いね。ここでセンスが問われることになるわけだ。ShrageとPrimoratzとNussbaumでいいかなあ。大物度でいけばPateman入れたい気がする。

まあ
  • 概念的問題
  • 同性愛とか「倒錯」とかクィアとかまわり
  • 結婚、不倫、浮気、カジュアルセックス
  • 売買春
  • ポルノ
  • モノ化、性的使用
って感じになるだろうなあ。3〜4本ぐらいずつと考えるとこれでも20本越えてしまう。同性愛関係は需要からも政治的にも入れないわけにはいかないだろうなあ。あえてポルノは外すかな。

歴史的哲学者たちのセックス論のアンソロジーも出したいんよね。こっちも実は準備はしている。

そういや出版予定の(?)ソーブル先生の翻訳はどうなったんだろう?

セックス哲学アンソロジー The Philosophy of Sexの第6版が出たよ

Alan Sobleが編集していたアンソロジー The Philosophy of Sexの第6版が出てました。

中身がずいぶん変わって、1.(セックス概念の)分析と倒錯、2.クィア問題、3.(性的)モノ化と同意の理論的問題、4.モノ化と同意の具体的問題、という構成になってます。ずいぶん大きな変更です。

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ソーブル先生はあんまりLGBTとか詳しくなくて第5版までの扱いは小さかったのですが、今度のは大々的。Raja Halwani先生がトップ編集者になってます。「今回は、比較的安全なセックスそのものの領域を離れて、ジェンダーの問題につっこんでみた。実は5年前(第5版で)はそうする気にはなれなかったのだが、それは編者のニコラス・パワーとアラン・ソーブルがあんまりクィアの問題扱う気になれなかったからだ。というのも、あんまりアカデミック哲学的にたいしたことないように思えたからだ。でもそれから学界も発展してより論文も出たから、今回はハルワニも加えて充実したよ」みたいなことを序文に書いてます。みんな買って読みましょう。

実はアンソロジーにどういう論文が収録されているかリスト作ろうとしたんだけど挫折。もうばらばらで「これは絶対」みたいなのはまだ存在してない感じ。

https://docs.google.com/spreadsheet/ccc?key=0Al25GTQ1cYTtdFlHNWRtTklaaDFYX3lINmJadm5BYWc

こうして見ると論文の栄枯盛衰みたいなんも感じる。ネーゲル先生強い。

生命倫理のアンソロジーなんかだともっとはっきり「これが大事」みたいなんが決まってる気がするけど、セックス哲学ではそういうのはまだまだ。それに生命倫理なんかだとハンドブックみたいな形でとりあえず定説と基本的批判みたいなんを提示することができるけど、セックス哲学はそういうのもあんまりない。どういう問題を中心的だとみなすか、どう編集するかってのも試行錯誤中。まだ未開拓の領域ですわね。

セックス哲学史:サッポー先生に恋を学ぼう

古代ギリシアの恋愛詩というと女流詩人のサッポー先生が有名です。レスボス島に住んでて女性どうしてあれしていたのでレズビアンの言葉のもとになったとか。名前は聞くわりには作品を読むことめったにないですよね。断片しか残ってないからのようです。

下のは一番有名な断片31と呼ばれているやつ。呉先生が典雅に訳しちゃっててふつうの人は読めないので、もっと簡単な訳の方とそのうち入れかえます。

この詩がなんで有名なのか、ってのはセックス哲学史的にけっこうおもしろい課題です。まあギリシア語ですごく響きがよいんでしょうが、それはギリシア語知らない私にはわかない。そもそも私文学も文学史もよく知らんからたいしたことを語れるわけでなはない。でもこの前読んでみて思ったことを少しだけメモ。

男女が語らっていて、それを遠巻きに見ている女性がいて、その女性はさわやかに笑っている女性の方に目を惹かれ、男に対して嫉妬を感じている、っていう状況なんでしょうね。どうしてもレズビアンとしての側面に目が行ってしまいますが、私が注目したいのは、身体的な感覚の描写なんですわ。この詩は「草よりも蒼ざめて」って表現で有名なんよね。他にも胸はドキドキ、体の皮膚は真っ赤、へんな汗出てるし、みたいな。私はあの人に恋をしているのだわ、今気づいたわ!なんてこと!みたいな。こういう表現が新しかったんじゃないですかね。実際、そうした生理的な反応を感じるのが一番「恋」ってのと近いんじゃないかと思ったり思わなかったり。そういうのがなんにもないのはなんか恋じゃない感じするっしょ? たんなるほんわか「この人といると楽〜、ご飯も作ってくれるし」なんてのが「恋」と呼べるものなのかどうか。やっぱり身体的になにかを感じないと恋ではないのではないか。まあ私はよく知らんですが。嫉妬という感情によって恋を自覚するでってのもおもしろいですよね。

いまじゃどんなマンガだって「ドキ!」「胸キュン!」とか表現されるわけだけど、そういうのっていうのは実はすごく子どものころは気づかない。「ドキドキした?」って聞かれてはじめて、「あ、私ドキドキしてる」とか自覚するもんでね。まあドキドキより下半身への刺激を先に感じる人もいるかもしれんですがね。『なにわ友あれ』って名作ヤンキーマンガで主人公の友人が、「XXがXXしてるのを見たら、それまでXXだったXXがXXしたんやー!」とかやってて、恋にはそういう側面がある。まあヤンキーはヤンキーなりに純情だ。

よく知らないんですが、おそらくホメロスとか読んでても、こういう表現は出てこないんですよ。アキレウスは軍神アレースのごとくうんにゃら、とか三人称の観点から外面的な行動だけが描写されるんよね。でもこの詩では、一人称の人が自分の身体内部の感覚を語っている。この時点で人類は自己意識みたいなのを手に入れたんですね。

実はこの人類はごく最近(ここ2、3000年)になって自己意識を手に入れたのだ、みたいな話はけっこうおもしろいんですよ。ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』てのがトンデモも入っているけどけっこうおもしろい。

万葉集なんか見ても「君が好きさ」「いっしょに寝たい」「一人で寂しい」とか多いけど、こういうタイプのはあんまりなくて、今古〜新今古ぐらいになってでてくるんじゃないっすかね。知らんけど。

サッポー先生は伝統的にバイセクってことになってるらしく、この絵では若い歌手をうっとり見てます。盛んな人だ。もう少し詳しい解説は画像をクリック。

 

  その方は、神々たちにも異らぬ者とも
見える、
その男の方が、あらうことか、
あなたの正面に
座を占めて、近々と
あなたが爽かに物をいふのに
聴き入っておいでの様は、
また、あなたの惚れ惚れとする笑ひぶりにも。
それはいかさま
私へとなら 胸の内にある心臓を
宙にも飛ばしてしまはうものを。
まったくあなたを寸時(ちょっと)の間でも
見ようものなら、忽ち
声もはや 出やうもなくなり、
唖のやうに舌は萎えしびれる間もなく、
小さな
火焔(ほむら)が膚(はだえ)のうえを
ちろちろと爬(は)つていくやう、
眼はあつても 何一つ見えず、
耳はといへば
ぶんぶんと鳴りとどろき
冷たい汗が手肢(てあし)にびつしより、
全身にはまた
震へがとりつき、
草よりもなほ色蒼ざめた
様子こそ、死に果てた人と
ほとんど違はぬ
ありさまなのを。…………
(呉茂一訳『ギリシア・ローマ抒情詩選』岩波文庫)

サッポー先生の詩はこれに入ってます。

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解説はこれがものすごい名著。どうもサッポー先生は女子向け音楽学校みたいなのの先生だったのではないか、とかって話。宝塚っすね。

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セックスの哲学史: エピクロス先生に我慢を学ぼう

エピクロス先生は古代ギリシアの哲学者で、ソクラテス先生より一、二世代下ですかね。

エピクロス先生
私のヒーローの一人

いっぱんにエピクロス派っていうと「快楽主義」ってことになってて、英語でエピキュリアン(エピクロス派)って言うとおいしいもの食べたりぜいたくな風呂に入ったりそういうのを連想することになってますが、快楽の追求よりは苦痛の回避をまず考えた、ってのが正しい理解ってことになってます。快楽を追求するのは難しいけど、苦痛を避けるのはちょっと工夫するだけで簡単だよ、ってな感じですね。なんか消極的であれなんですが、私は魅力を感じてます。

先生自身は本とか書かなかったわけですが、しゃべったことと手紙の断片みたいなものが残っていて、岩波文庫にはいってますから買いましょう。

飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。

なんて言葉が残ってます。われわれの関心としては、セックスへの欲望とかってのもなかなか強烈なんだけどそれどうすんのよ、って感じですよね。

いっさいの善の始めであり根であるのは、胃袋の快である。 知的な善も趣味的な善も、これに帰せられる。

これ「胃袋」ってなってるけど、英訳とか見るとbellyだったりして、訳によっては「腹」とか「下腹部」とか訳されることもあるみたい。下腹部といえばあっちの法の快楽も気になりますわねえ。

エピキュリアン、快楽主義てことになればセックス大好きであざといこともするのかと思いきや、エピクロス先生は基本的にはあんまりセックスをおすすめしない。それはセックスそのものが悪いことだからじゃなくて、セックスするために告白したりお金つかったりいろんな面倒なことをしなきゃならないからね。

(おそらく)「セックスしたくてしょうがないんですがどうしたらいいんでしょうか先生」とかたずねられて、上野千鶴子先生は「熟女にお願いしろ」って答えたようですが、エピクロス先生はこう答えています。

肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が、法律を破りもせず、良風を乱しもせず、隣人のだれかを悩ましもせず、また、君の肉体を損ねもせず、生活に必要なものを浪費しもしないのならば、欲するがままに、君自身の選択に身を委ねるがよい。だが君は、結局、これらの障害のうちすくなくともどれかひとつに行き当たらないわけにはゆかない。というのは、いまだかつて性愛が誰かの利益になったためしはないからであって、もしそれがだれかの害にならなかったならば、その人は、ただそれだけで満足しなければならない。

立派ですね。上野先生とは格が違います。まあ熟女にお願いしてとりあえずあれしてもらっても、あとでその熟女にしつこくされたり、関係者から「ゴルァ」ってされたり、友だちに笑われたりいろいろいやなことがあるでしょうからね。セックスなんかしないにこしたことはありません。でもんじゃ性欲の苦とかどうすんですかね。まあ一人であれしときゃいいんですかね。「隠れて生きよ」っても言っておられますし。セックスなんかしないでセックスについて哲学していれば穏かに苦痛なく生きることができるわけです。ははは。

犬に見守られながらはずかしいことをする準備をしているディオゲネス先生

そういやエピクロス先生たちの派閥と対立(?)してた派閥に「キュニコス派」(犬儒派)って人々がいたんですが、それの一番有名な「樽のディオゲネス」先生(樽で寝起きしてたから樽のディオゲネス。シノペのディオゲネス。犬みたいな生活したから「犬のディオゲネス」とも呼ばれる)は人前で自分のあれをあれして、「こんなふうにこすっただけでお腹がいっぱいになったらいいのになあ」って言ったとか言わなかったとか。まあこすれば幸福になるんだったらこすればいいですよね。

古代ギリシアの哲学変人たちの言行についてはディオゲネス・ラエルティオス先生の『哲学者列伝』が楽しいので必ず読みましょう。

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