← 発端
パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり
加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。
「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。
サポートページは https://yonosuke.net/eguchi/abortion/
Views: 16
← 発端
パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり
加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。
「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。
サポートページは https://yonosuke.net/eguchi/abortion/
Views: 16
昨日書いた部分はけっこう気になっているので、もうちょっと。(下では最初、subversiveを「攪乱的」と訳してたけどやっぱりなんかおかしいので「転覆」に一括置換した。よけいにおかしくなったかもしれない。) 続きを読む
Views: 19
訳文は読みやすくていいんだけど、ちょっと文学臭が薄くなってしまっているような気がする。まあしょうがないかな。
たとえば
At first I hoped that the cloud would pass away of itself; but it did not. A night’s sleep, the sovereign remedy for the smaller vexations of life, had no effect on it. I awoke to a renewed consciousness of the woful fact. I carried it with me into all companies, into all occupations. Hardly anything had power to cause me even a few minutes oblivion of it. For some months the cloud seemed to grow thicker and thicker.
有名なこの「危機」 [3] … Continue reading の箇所は次のようになってる。
はじめのうち私は、すぐに抜け出せると思っていた。だがそうはならなかった。日々の小さな悩みを忘れさせてくれる一夜の眠りも、このときばかりは効き目がなく、朝になればたちどころに自分の惨めな状態を思い出す。友といるときも、仕事をしているときも、逃れられない。ほんの数分でいいから忘れさせてくれるものがあればよいのに、それもなかった。数か月の間、私はますます深みにはまるように感じられた。
岩波文庫の西本正美先生の訳だとこんな感じ。(戦後の版のやつが見つからないので戦前のやつの表記を変更して引用。みつかったら入れかえる)
最初私は、こうした心の雲はひとりでに消えるだろうとたかをくくっていた。ところが中々そうはいかなかった。人生の些細な煩悶を医するにはこの上もない薬である一夜の安眠も、私の悩みには何の効き目もなかったのである。私は目を覚ますと、新たにこの痛ましい現実に対する意識が更生するのを覚えた。いかなる友と交わるにも、如何なる仕事をするにも、この意識は私に常につきまとっていた。せめて数分間でもそれを私に忘れさすだけの力をもったものはまずなかったのである。数カ月間は、この雲はますます濃くなって行くのみであるように思われた。
この暗い雲 [4]リストに”Nuages gris”っていう曲があるね。あら、International Music Score Library Projectって閉鎖したのか。 っていうイメージは大事だと思うんだけどね。陳腐だけど、陳腐さはミルの魅力の一部文学作品だとやっぱり残さないわけにはいかないだろう。でも村井先生の訳し方もありだな。装丁とか悪くない。このシリーズはけっこう楽しみだ。けど、2000円以内に収めたかった。無理か。
Views: 26
References
↑1 | 生前は出版されなかったし、養女のヘレン・テイラーがいろいろ手を加えた部分がある。ミルが自分の性生活について書いてるのが残っていればおもしろかったのにね。ハリエットテイラーとはずっとプラトニックでした、とか。 |
---|---|
↑2 | そりゃAutobiographyに決まってるけど。 |
↑3 | どうでもいいけど、ミルの「危機」の時代にインターネットがあったらどうだったろうとか考えちゃう。やっぱり2ちゃんねるメンヘル板や半角板に出入りしたかな。 |
↑4 | リストに”Nuages gris”っていう曲があるね。あら、International Music Score Library Projectって閉鎖したのか。 |
だいたい同じような話だろうと思っていると、ちょっとづつ進んでるのね。この手の学問やってる人はたいへんだろうけどやりがいもあるだろうなあ。ただ、たしかにこの本はかなり誤解されやすような気がする。
的確な書評は http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080116#1200490717 。もう私は shorebird さんが紹介してくれたものを順に読んで生きていくわけだ。
個人的におもしろかったのは、この人たちが金髪碧眼嗜好をわりと普遍的なものと考えている様子なところ。私自身の内観ではそういう嗜好をさっぱり見つけられないのでなんか愉快。さすがにバイキングたちの息子は違う。風に飛ばされてきた髪の毛一本から、「金髪のメリザンドよ」とやっちゃうに違いない。きっとわたしのご先祖にはそういう淘汰がかからなかったのだろう。南方系? カナザワ先生もブロンド好きなのかなあ。あ、ブロンドの女は馬鹿偏見の説明 [1]それは若いから。 もよかった。 でもニキビ面馬鹿 [2]若いから 仮説とか背の低いのは馬鹿 [3]若いから 仮説が成立しなかったのはなぜか?他のところも、この人々独自の説明はなんかちょっと甘いんだよな。
Views: 20
『ザ・リバティ』1999年10月号が届いた。スティーブという仮名になってるけど、これはやっぱり”T.K.”の事例だよな。
一体なぜ彼女たちはスティーブが意識を持ち、自分の母親を識別できると感じているのだろうか? 結論を言えば、それは近代科学と現代医療が見落としてきた霊的真実、つまり脳死状態になっても人間の肉体には、「魂」が宿っているからである。(p.38)
人間の思考力や判断力は、単なる脳の神経作用ではなく、魂、なかでもその中核的な心の機能に他ならない。脳はその思考内容を言葉や行動に表すための仲介機能を果す、いわばコンピュータにすぎず、このコンピュータを操作するオペレーター、即ち考える主体こそ「魂」なのである。だからこそ、スティーブは脳に重大な損傷を受けながらも、母親の呼びかけを理解できるのだ。(p.38)
なるほど、勉強になる。最初は「彼女たちは~感じているのか」という慎重な問いなのに、うしろで「呼びかけを理解できる」になっちゃってるのは愛嬌。
p. 36で医師の丸岡功先生の談話がある。「編集部の取材に医学的アドバイザーとして同行」したらしい。それほどへんなことは言ってない。視床下部と下垂体は生きていると。無呼吸テストはパスしてないが、「臨床的診断」は「疑うべくもなく脳死」っことらしい。
ところで、小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』だと、次のような記述がある。
私たちは母親のこういた物言いを、母親に特有の感情移入だと思うかもしれない。母親の目にはそう映るだけだと。だが、そうした判断は彼女に限ったことではない。スティーブのもとには、重度障害児専門の教師が週に三度来訪し、母親とともに機能回復の訓練を行って彼から感情や反応を引き出すことに努めている。そして、教師もまた母親と同じ認識に達しているのである。(p. 396)
でももと記事にはそういう記述はないみたい。っていうか母親のジーンさんが「私たちは~試しました」「私たちは~を察するのです」と語っているけど、この教師のウラはとってないみたいね。すべてジーンさんに対するインタビューから得られた情報。
あ、無呼吸テストしてないことは小松先生も認めているな(p.400)。まあいやなテストなんだよね。
Views: 10
パラパラ読んでる。まあおもしろいような気がする。でも、全体にせっかくのディベートなのに、両論並記で「いろんな見方があるね」で終ってしまい、おたがい批判やあげあしとったりしてないんで、あんまり「論理」的な分析とは関係ないような気がするけど、だいじょうぶかな。
p. 101で「猿脳」の話が出てくる。
理学部D (略)僕がこれまで聞いた中で最も残酷だと思ったのは、略「猿脳」という料理です。これはアカゲザルの頭をハンマーで殴って(残虐なので略)
この料理は、アカゲザル乱獲につながり、「動物愛護の精神」からしても、あまりに残酷という理由で、中国政府は1977年から禁止しています。(p.101)
ソースはなし。これ、ソースさえついてないwikipedia (ja)の記事うのみにしてるんじゃないのか。英語版はもっと典拠がしっかりしているから、こっちを参照すりゃいいのに。食うやつはいるけど生きたまま食うやつは少ないだろうよ。中国政府の禁止の理由も憶測じゃないの?
学生の発言ってことになってるからこれでいいのかな。でもこんな発言があったら、「ソースは?」ってつっこむのが論理的思考とか批判的思考のポイントなんじゃないのか。 倫理的問題については、論理よりなにより、先にまずは事実を抑えるクセつけさせたいところだと思うんだが*1。もちろん、論理的な欠陥を指摘するのはアームチェアーでできるからいったん覚えてしまえば楽だけど、そればっかりやってると嫌われるし。教育上は、とりあえずソースを疑うようになれば、いずれ論理にも敏感になるような気がする。
野矢茂樹先生は『新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)』で他人の議論を批判するために
って四点のチェックリストを提出している(p.149、記号は面倒なので変ってます。)。私はとにかく「独断的なところはないか」が一番ポイントだと思うんだが、どうなんだろうか。これさえ疑えればあとはなんでも疑える。高橋先生のディベート本は、登場する学生が互いの議論につっこみ入れないから本当のディベートの形(たとえばソクラテスがやってたような)になってないんだよな。特に「教授」には誰も反論さえしないし。
でもまあ、こういう広範な話題を一人の人間が扱おうとするとこの程度の問題が生じてしまうのはしょうがないのかもなあ。業界では「応用倫理学」とかってのがはやってるらしいけど、そりゃ普通の人間には無理なんじゃないかなと思ったり。でも、それでもやる意義や意味はあるのかもしれんし。こうやって論点をまとめてくださる方がいいと、見取り図をえがくことさえ難しいわけだから。やっぱりこの本は価値がある。
その上で、学際的研究が必要だとかってことになるのかな。そのときにテツガクを専攻している人間はなにをする必要があるのか。なにをする資格があるのかってのはどうしても考えてしまう。
おそらく、「教授」がいて、複数の学生がディベートする、って形がだめなんだろう。
(1)学生を「教授」が殺しに行く(ふつう)、
(2)若者男子学生ふたりがクラスの女子学生をかけて殺し合いをする(書き方によってはおもしろそうだ)、
(2)テツガク教授がネットすれした学生につっこまれまくって汗をかく(よい)、
(4)分野の違う中年男性「教授」どうしがクラスの女子学生をかけて殺しあいをする(おもしろそうだ。古典哲学対理論社会学あたりがよい。)、
(5)中年女性教授(理系。生物学ぐらい?)が男性教授(テツガク)をハイヒールでふみにじる、
(6)女子中学生(男子中学生の方がよい?いや、大学1年生男子がいいかな)が中年男性教員(テツガク)を色つきストッキングパンプス足でふみにじる、っていうどれかが正しい。いや、もっとありそうだぞ。
小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』で引用されてる『ザ・リバティ』、国会図書館にも収納されてないそうな。うう。バックナンバー注文することになりそうだ。
*1:もちろんなにが重要な事実かってことは論理によって決定されることも多いわけだが。
Views: 11
なかなかおもしろそうな本。肉食、代理母、死刑、終身刑、メーガン法、売買春、安楽死、自殺とおもしろそうなネタがてんこもり。ゆっくり読んでみよう。なるほどこういう論述はおもしろいかもしれない。
とりあえず、
ハリー (略)どちらかというと、私は自分自身を快楽主義者に分類したいと思います。私は、人生における自分の喜びが最大になるように計算しながら行動しているのです。ただ、だからといって、ジョージほど利己的でもありません。私は、自分自身に対してほどではありませんが、他人の幸福にも何らかの価値を認めています。そして、長期的に見れば、私がいつも正直であれば、私は最も幸福でいられるだろうという理性的な根拠が十分あるのです。
(略)
教授 ハリーの主張していることが、「最大多数の最大幸福」と呼ばれる功利主義のスローガンですね。ベンサムは、社会全体の「幸福」は、個人の「快楽」の総計だと考えました。一人より二人、二人より三人と、より多くの個人が、より多くの快楽を得ることのできる社会を目指すべきであり、それが新しい道徳だと考えたわけです。(p. 56、強調原文)
うーん、なんか困るなあ。ハリーさんは功利主義者ではなく単なる(善意benevolanceも持ちあわせた)合理的利己主義者なのではないか。功利主義者であるためには、「誰もを一人と数え、誰も一人以上には数えない」、つまり、誰の幸福(ベンサムの場合快楽と苦痛の欠如)をも同じに扱う必要がある。自分を特別扱いに するハリーさんは(一応)功利主義者ではない。もちろん、功利主義者は、皆がハリーさんのように自分の幸福をまず考え、他人にも一定の配慮をするように考えることが、長い目で見れば社会の幸福を促進すると考えるかもしれない。でも自分を特別あつかいにするのは功利主義じゃないのははっきりしている。
また、ベンサムは社会の「幸福」と個人の「快楽」とかってのも(とりあえず)使い分けてない。「より多く」はいいんだけど、数はあんまり関係ない。うーん。
まあハリーさんが規則功利主義者や間接的功利主義者である可能性は十分ありそうだけど、上のハリーさんの言い分そのものは功利主義的ではないと思う。こういう例文の出典らしいスマリヤンがおかしいのかな。
Views: 33
ふつう「合理的」と訳されるrationalとreasonableの区別ってのは、ほんとにわからん。
おそらくrationalってのは、ある目的があるときにそれを達成するのにもっとも効率的な手段を選択することについていわれる性質で、reasonableはもっと広くて、なんらかの「理にかなっている/道理にそってる」。もちろん、その「理」「道理」がどんなものかは難しいけど、まあぶっちゃけ、「理性的な人ならばふつう認める(承認する)であろうような」だと思う。
たとえばカント先生が言うような意味で「ウソをつくことは人間の義務に反するので私はウソはつきません」は理性にかなっているという意味でreasonableかもしれないけど、自分の利益を大事にすることを第一の目的にしている場合にはrationalではない。
英文とか読むときにこの二つを混同してしまうといろいろ問題が起こるし、翻訳するときも気をつけてほしいけど、どうすればいいのかはいまだによくわからない。
てなことを読んで思った。
「障害者権利条約」の英語原文らしい*1 http://www.nginet.or.jp/box/UN/61th106conventionRPD.pdf
だと問題の箇所は当然reasonable。
“Discrimination on the basis of disability” means any distinction, exclusion or restriction on the basis of disability which has the purpose or effect of impairing or nullifying the recognition, enjoyment or exercise, on an equal basis with others, of all human rights and fundamental freedoms in the political, economic, social, cultural, civil or any other field. It includes all forms of discrimination, including denial of reasonable accommodations;
“Reasonable accommodation” means necessary and appropriate modification and adjustments not imposing a disproportionate or undue burden, where needed in a particular case, to ensure to persons with disabilities the enjoyment or exercise on an equal basis with others of all human rights and fundamental freedoms;
私の読みでは、単に「差別禁止」とすると、当然の必要を満たすためのさまざまな優遇(?)措置も差別だと反対されたり批判されたり言い逃れされたりするかもしれないので、あたりまえだけどいちおう「個別の理にかなっている措置は差別じゃないよ」「むしろそういう措置しないのが差別だよ」と言っておく必要があるのだと思う。そういう措置をしないための言い訳を封じるために入れられた但し書きで、ロビーストたちはこれ入れるのだけでもけっこう 苦労したんじゃないだろうか。*2男女共同参画~にもこういう但し書きがあったと思う。こういう法的な文章ってのは難しい。
reasonable accomodationは「合理的配慮」より「理にかなった調整」ぐらいの方が理解しやすいのではないかと思うが、だめか。
ちなみにこの条約の目標も第一条と第二条でいちおうはっきりしていると思う。こういう条約とかは、詳細・明細的にすればするだけ、そこから漏れたところに文句をつけにくくなるんじゃないだろうか。なるべく広い方がよいのかもしれない。rationalと書いてしまえばその目的をはっきりなきゃならんけど、reasonableなら、まあ、理性的なひとだったら同意できるようなものならなんでもOKになるから。でも政治的には難しいのかな。
あ、誤解しやすい書きかたしてた。理性的なひと reasonable man person も一定の意味があって、カントみたいなすごい理性をもっているようなひとって意味ではなく、「通常人」。それほど常に理にかなった考え方ばっかりする人でなくてもよい。reasonable meansといえば「まずまずの手段」。つまり「ぼちぼち」。「合理的な」と訳すのは余計な誤解をまねいてだめやんね。でも法律屋さんは気にならないのかもしれない。
角田由紀子さんについてももう一つ驚いたことがあったのだが、また今度。
なるほど、”reasonable accomodation”がなんではいってるか、ってのは下のコメントでmacskaさんが書いているような経緯なのかもしれん。そこらへんの経緯や意図を私が勝手に憶測してもしょうがないので、上で私が書いてたのようなのは無駄で有害。むずかしいなあ。
まあでも、上の”discrimination”の定義の最後にはdenial of reasonable accomodationがはいってた方が、(その句がはいってないよりは)障害者には有利なように見える。
でもその”reasonable accomodation”の定義に”not imposing a disproportionate or undue burden” が含まれているのが「なんでもかんでもコストを度外視して「平等にしろ」と要求するのを制限する」ためだという読みは可能な感じではある。やっぱり条約にもとづいて国内法を整備するときに、ここらへん、なにが、reasonableなのか、なにがdisproptionateかとかundueかとかってのが争われるんだろうなあ。勉強になる。っていうか勉強しないと。ここらは勉強足らんのでコメント歓迎。っていうか、ネットとか見るよりまともな本を読めってことだな。
上と直接は関係ないけど、hannnah さんから “reasonable accomodation” についてのカナダの議論の有益なリンクおしえてもらったので読みやすいように直リンしておきます。なるほどこういう文脈で使われる言葉なわけね。どもども。
http://en.wikipedia.org/wiki/Reasonable_accommodation 下のwikipediaの記事の” Reasonable accommodation is a legal term used in Canada to refer to the obligation to modify a law or a norm where its strict application could violate the equality rights …”
「合理的配慮とは、カナダで、ある法や規範を厳格に適用すれば、「権利と自由に関する宣言」第15条で述べられている平等権を侵害するかもしれない場合に、その法や規範を修正する責務を指す法的用語である」か。
ふーむ。この言葉をめぐっては、いろいろ難しい問題が山積みなんだな。それにやっぱりなにが”undue hardship”かとかそういうのが問題になるのね。なにがreasonableかってのはほんとうにずーっと問題なんだよな。それにくらべれば、なにがrationalかって話はまだましか。
まあこのwikipediaの項目はカナダのその話に特化してしまってるので、
そのうち大きく書き換えられることになるんだろうな。
わからないこと・知らないことは適当に半端なことをブログに書きなぐっておくと誰かがコメントくれるのではないか、とかヘンな癖がつきそうだ。ブログは意見発表の場ではなく、能動的情報収集の場である、なんちゃって。まあそういうのを期待しているところはある。出不精人間に必要なキャリブレーションの一部。っていうかそうやって使えるかな。ある程度有益な情報を提供しないと誰も読んでくれないから結果的にキャリブレートしてもらえないだろうから、そこが難しいかも。教えて君ではだめだ。でも有益な情報もってるかなあ。もってるエロ画像とか貼っておけば・・・(だめ)
*1:本当の原文探す元気がないのですまんです
*2:なんかぜんぜんちがうようだ。下のmacskaさんのコメント参照。
Views: 478
粘着しはじめてはや1年になろうとしている。まだ心の目は得られないまま。
・・・ある二人の患者の紛う方なき現実を見ておきたい。一人は医師から全臓器提供を勧められる程の状態から社会復帰を遂げた日本人女性であり、(略)前者の女性については、脳外科医の山口研一郎らが、「『全臓器提供』より奇跡的に 生還した女性」(山口他[2002] [1]kallikles注。山口研一郎、西口嘉和、中出幸子、和田志乃「『全臓器提供』より奇跡的に生還した女性」、『月刊総合ケア』、Vol.12 No. 8, 2002、pp. 84-7 )という論文で詳細にレポートしている。
取りよせてみた。これ、「詳細にレポート」ということなので、小松先生の2ページにわたる記述は要約だと思ってたんだけど、どうも違うね。詳細なのはハワイから帰ってきてからの社会復帰への道のり。4ページある原論文のうちハワイでの出来事を記述したのは2列分ほど、小松先生の文章の分量とさほど変わらない。重要な情報はすべて小松先生の方で記述されている。もうちょっと詳しい情報があるかと思ったのだが。また、原論文で家族が「臓器提供を勧められた」のかどうかははっきりしてない。
それに遺書 [2]山口先生によれば「ドナーカードのことと思われる」。 持ってるか確認するとか、費用が1日30万かかる、とかってことを伝え説明するのは米国の医師の義務のような気がするなあ。その時点でいろいろ説明しないとあとで訴えられるだろう。娘が脳挫傷で意識不明なんてことになってショック受けてる家族に臓器移植の話するのはたしかにアレだと感じるひとは多いだろうなあ。アレだろう。医者が説明したという記述のあとで、「第三章第二節で見たように、アメリカの病院では脳死に至る以前にモルヒネを投与して臓器を摘出できるという規定をもっているところが少なからずあるのだ」と小松先生が挿入しているのだが、これは小松先生の文章。このハワイの病院がそうかどうかは原論文ではわからん。またこのモルヒネ投与の話はありそうな話だけど、ソースがTBS(米CBS?)のテレビ番組で、検証しにくくて困る。でもまあ小松先生はそういう情報源にこそ、隠されている重要な情報があるのだと考えているんだろうからある程度しょうがない。
論文の残りはこのケースのリハビリ実践の報告で、山口先生たちにはがんばってほしい。
げ。
サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(略)を繙いてみたい。この”童話”は、主人公の少年と王子さまとの出会いから別離までを描いた物語である。二人が地球を出発して宇宙の星々を旅する過程でさまざまな人間や動植物にめぐりあい、再び地球に帰ってくるといった構成をとっている、と読みうる。(p. 34)
ぎゃー [3]こういう装飾は嫌いでいままで使ったことなかったけど、驚きを示すため一生に一回使ってみよう 、こんな話だった?
と、Amazonの書評を見るとさすがに指摘している人がいる。よかった。誰も指摘してなかったらどうしようかと思った。しかし、さすがにこれはどうなのよ・・・心の目をもってると、そういうふうに「読みうる」のか・・・まあ「物語全体に対する筆者の解釈は別稿にゆずる」ということなので、そういう読みを可能にしたり必然にしたりするなにかがあるのだろう。でも本当に驚いたですよ。心臓がドクっていうのを感じた。本読んでそんなのは久しぶりだ。
あ、もしかしたらそういう情報をちゃんと選別できるのかが重要だってことをすでにこのページで逆説的に指摘しているのだろうか。「この本は信用できませんよ」「心の目で読まないとこの本は読めませんよ」ってことを最初の方で宣言しているのかもしれない。それだったらイジワルな仕掛けだなあ。わけわからんようになってきたぞ。
Views: 203
References
やっと出た。翻訳ごくろうさん。3400円におさめたのも偉い。これから読もう。
重要な本なので一応宣伝しておこう。
オビに「松沢呉一発掘」とか。うーん、そうか。
ポット出版からこのタイトルだと、なんだかアレな本ではないかと思われてしまいそうだが、ちゃんとした人のちゃんとした本。これちゃんと紹介してないフェミニスト/非フェミスト学者どっちも怠慢だよな。松沢先生偉い。ポット出版をおとしめるつもりはないけどこれがポット出版からしか出ないってのも問題な気がする。もちろん、ポット出版はいろいろ勇気ある本を出してて偉い出版社だ。これから硬軟とりまぜて伸びてほしい。がんばれー。
上でポット出版について余計なこと書いたけど、この出版社のセクシュアリティ関係の本は(リベラルではあるけど)むしろどれも硬派なんだよね。なんか誤解をまねく書きかたしてごめんなさい。
Views: 13
橋本努『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会編 (ちくま新書) 』。前半、知らないことが多くて楽しんで読める。
この手のでは一番のおすすめのような気がする。後半のジョー→尾崎→オウム→エヴァってのはどうなんかな。よくわからん。でもそういう話はみんな好きなのね。
全体にとってははどうでもいい細かいことだが、イギリスのパブリックスクールのところ。
食事は、朝は、オートミール少量、燻製鰊、またはソーセージ一片など、この他に、三寸角のパン二切れと紅茶がつく。日曜日には卵一個が追加されるが、これが最大のご馳走となる。昼食は、ジャガイモを主とした肉少量の一皿で、これに人参、キャベツのたぐいがすこしつくこともある。この他に、菓子一皿と、パン一片がつく。午後のお茶[おやつ]の時間は、パン三片とマーガリン少量、そして紅茶である。夕食というものはない。池田潔によれば、「質から言えば、この食事はイギリスのもっとも貧しい家庭の一歩手前のそれであり、量の点では、夜食[夕食]が全然ないことからいっても、その標準すら及んでいない」という。(p.47)
これは池田潔先生の言いぶんを橋本先生がそのまま書いているだけなのだが、とても信じることができない。質はともかく量がこれってことはないだろう。まあ戦争とかで社会全体に物資が極端に不足しているときとか、イスラムのラマダンのように一年のうち一ヶ月ぐらいなら可能だとは思うけど。
十代男子に対して恒常的にこういう食事が続けば、食いものをめぐる搾取や暴力、脱走と暴動が恒常的に起こるんじゃないだろうか。人間腹減るとなにするかわからん。
学校としては危険すぎる。武装した看守やガードマンみたいなのが10人対1ぐらいで必要になりそうだ。寄宿舎生活する学期が短かかったのかな?2ヶ月ならOKか?それとも「パン一切れ」「ソーセージ一片」「ジャガイモ肉料理」はかなり大きいのかな?それともこれは最初の1年で、上回生になるともっと食えるとかか。まあともかく実態とはぜんぜん違うだろう。買い食いは実は黙認されてたとか。まあ池田先生がなんかインチキしているのだろう。いや、1949年の本らしいから、
こんなものなのかな。戦後すぐにイギリス見に行ったのなら、たしかにそんなもんだったかもしれん。でもそれじゃ「パブリックスクールってのはこういうところ」って話にはだめな一般化だよね(それに最後の最貧層の人びととの比較があれになる)。
こういう文章を使うのなら実際にちょっと調べてほしい、あるいは少なくともこれが信じにくいねってことぐらいは指摘してほしいところ(っていうかそういう留保や指摘が見あたらないのでショックだった)。われわれはどうしても紙に書いてあることを信じるわけだけど、紙に書いてあることはやっぱり実態とは異なることが多いわけでねえ。思想史とか社会歴史学とか言説分析とかってのはむずかしいなあ。
ところでまあ、みんな自由って気にしてるのね。そんなに自由じゃないって感覚に悩まされているのかな。そうだろうなあ。あと、いまの30代後半~40代前半の世代にとって、尾崎豊ってのは踏み絵みたいなもんだね。そういう意味で偉大だったんだろう。
Views: 11
(3エントリに分けていたものを統合しました。)
これはよい本だなあ、と思っていたのだが。
次に詳しく紹介する1994年の東京地方裁判所の判決は、強姦罪の被害者になりうるには、貞操観念が強固であることを求めているといってよい。「被害者資格」と呼んでもよい。(p.189)
判決は無罪の理由の一つに被害者の証言が信用できないことをあげている。信用できない理由の一つとして、この女性に大きな落ち度があったこと、「貞操観念」に乏しいことを指摘した。(p.190)
A子のように、「淑女ぶって」いながら、実は性的に奔放で慎しやかでないと烙印を押された女性の被害はなかなか信用されないことを、この判決は示している。(p.193)
こういうのを読んで、先週まで私は「90年代になっても法曹関係者はだめな人ばっかりなのだなあ」と思っていた。のだが。
でも判例時報 1562号「強姦致傷事件、東京地裁平5(合わ)167号、平成6・12・16刑八部判決、無罪(確定)」ってやつ読むとずいぶん印象違うよ。困ってしまう。これで有罪にするのは無理だろう。
うーん、比べて読んでほしいのだが、裁判所の判例データベースhttp://www.courts.go.jp/search/jhsp0010?action_id=first&hanreiSrchKbn=01 は使えん。だめか。
とりあえず角田先生が引用している判決の一部再掲。
(A子は)「甲野[ディスコ]で声を掛けられた初対面の被告らと「乙山[スナック]」で夜中の3時過ぎまで飲み、その際にはゲーム[エロ系王様ゲーム]をしてセックスの話をしたり、A子自身は野球拳で負けてパンストまで脱ぎ、同店を出るときには一緒にいたD子、E子と別れて被告人の車に一人で乗ったというのであるから、その後被告人から強姦されたことが真実であったとしても、A子に大きな落ち度があったことは明らかである。(角田p.190。[]内はkalliklesの補。)
A子については、慎重で貞操観念があるという人物像は似つかわしくないし、その証言には虚偽・誇張が含まれていると疑うべき兆候がある。(角田p.193)
たしかにここだけ読めば「これはひどい」だよなあ。この本読んでから5年近くずっとそう思ってた。なぜ被害者の「落ち度」や「貞操観念」や(面倒だから引用しないけど)過去の職業歴が強姦致傷の裁判で問題にされる必要があるのだ!男権主義的司法制度粉砕!ってのが正しい態度だろう。
しかし(面倒なので今日はやめ。続く。)
の続き。
しかし判例時報 1562号の「強姦致傷被告事件において、被害者の信用性が乏しく、和姦であるとの被告人の弁解を排斥できないとして、無罪を言い渡した事例」を読むと、ずいぶん印象が違う。
事件は物証とかがないので、「証言の信用性」が問題とされたらしい。被告人の言い分は「乙山からA子を送っていく途中、同女がワゴン車内で嘔吐したことからトラブルになった」ってことらしい。
そもそも受傷状況についてもいろいろ問題があるようだ。
結局、アないしケの証拠を総合しても、本件の直後にA子が左下腿部・両側大腿部の諸々に皮下出血の傷害(全治約1週間)を負っていたことが確認できるだけであって、それ以上にA子に本件に起因する受傷が存在したと認定することはできない。
ってことらしい。それくらいは酩酊状態でもどっかにぶつけてもできるだろう、ということらしい。問題は、A子さん側がどうも傷を大き目に訴えていたらしく、
逆に、これらの傷害に関する証拠を比較検討しただけでも、A子やD子らA子側の者の証言等に客観的事実に反する部分やことさらに誇張した部分が含まれている疑いが濃厚であるということができる。
ここらへんで裁判官の心証がかなりわるくなっている。
さて、問題の箇所。
このようにA子は、自分は一応慎重に行動していたという主旨の証言をしている(特に、第12回公判では「セックスすることを承諾したと受け取られるような言動は全然していない」と証言する)。しかしながら、A子証言によっても、「甲野」で声を掛けられた初対面の被告人らと「乙山」で夜中の3時すぎまで飲み、その際にはゲームをしてセックスの話をしたり、A子自身は野球拳で負けてパンストまで脱ぎ、同店を出るときには一緒にいたD子、E子と別れて被告人の車に一人で乗ったというのであるから、その後被告人から強姦されたことが真実であったとしても、A子にも大きな落ち度があったことは明らかである。
やっぱりこの判決文はどうかって感じだ。ちなみに被告人側の証言なんか考慮に入れた裁判官の推測では、「A子はパンティーまで脱いで振り回したのではないかとも疑われる」らしい。
以上のようにA子は、初対面の被告人らの前で、ゲームとはいえセックスに関する話を抵抗なくしている上、少なくともパンストまで脱いでこれを手に持って振り上げるという大胆かつ刺激的な行動をとっているのであるから、かなり節操に欠ける女性であると言わざるをえない。
と判決文は結論しているのだが、これも「節操に欠ける」とはなんだかなあという感じもある。大酒飲んで王様ゲームして、露骨なセックスの話をしてさらにパンツ脱いで振りまわして一人で男の車に乗ってしまったら、強姦されても当然とはとても思えないし。「落ち度」と呼ぶのはたしかにあれなんだけどね。うーん。
でもまあそういう判決文の書き方はともかくとして、問題はA子さんやその友人のD子さんの証言がどの程度信用できるかってところなのね。んでかなりそれが疑わしいというのが裁判官の判断。そっちがポイントで、A子さんのセルフイメージや、彼女自身の裁判での主張と、A子さんを「客観的」に見た場合の評価との食い違いを、A子さんが十分に認識できてないんじゃないかとか、そういう感じ。「落ち度」があったから強姦されても当然とか、派手な生活をしていたから信用できないとか、そういう判決ではない(おそらく一応のところは)。
うーん。んで、
A子は、「乙山」における言動及び同店を出発する際の状況に関し、和姦の可能性を曲げて証言していると認められるから、A子証言のうち被害状況に関する分(すなわち核心部分)についても慎重に判断する必要がある。そこで、被害状況に関するA子証言を子細に検討すると、次のとおり、不自然、不合理な点が多く見られるのである。
(略)
以上のとおり、A子証言の確信部分というべき被害状況自体に関する部分にも、不自然、不合理な点が数多く存するのである。
とされちゃってる。まあ判決文を読むかぎりでは、これで有罪にしちゃうとやっぱりまずいだろうという感じ。うーん。
判決文から私が推測したのは、おそらく、被告とA子さんはセクースするまではなかよしだったけど、セクース終ったあとでA子さんが車のなかでゲロを吐くことになり、セクース終ってしまえば女性よりも車が大事な鬼畜被告が怒ってA子さんに対してひどい扱いをして、さらにA子さんにとってはあんまり仲のよくない(一応)ボーイフレンドFさんとの関係もあって、D子さんと口裏あわせて訴え出たのだろう、鬼畜な被告人にはなんか罰を与えてもよいような気もしないではないが、でもこれを有罪にするのは「疑わしきは罰せず」の原則からしても無理だと裁判官は思っているようだ、ってことかなあ。なんだかなあ。なんか気分が落ちる。
まああんまりおもしろくならなかったけど、角田先生のこの本のこの部分に関しては?マークがついちゃう感じ。角田先生の本読んでこの部分に優れたものがあると思っていた人は、判例時報の記事を入手してみてください。まあ角田先生の主張にとって、あんまり適切な判例ではないような気がする。「落ち度」とか「節操」とかって表現がアレなのはそうなんだけどね。正直なところ、私はどう考えたらいいのか困ってしまった。
もちろんこういう事件が重大であるし、スーザン・エストリッチの『リアル・レイプ』その他多くの文献をひきあいに出すまでもなく実際に被害を受けた人が訴えたり裁判で勝ったりするのはほんとうに難しいのだろうし、それはなんとかしなきゃならん(被害の発生を防ぐのはもちろんのこと)のはそうなんんだけど、角田先生が主張しているように貞操観念が薄い女はそれだけで信用ならんとか強姦されて当然だとかってことを司法関係者が思っているだろうってことではないような気がする。わからん。
ちなみに書いておくと(あんまり書きたくないけど目にしちゃって書かないのも あれだ [1]この件書きはじめたときは岩国の事件についてはほとんど考えてなかった。本当。 )、岩国の米兵レイプ事件不起訴についてで署名活動をしようということらしいけど、大丈夫なのかな。
広島地方検察庁は、「本件の事案の性質」を理由として、不起訴とした根拠の説明を拒みましたが、被害者のプライバシーに配慮しながらも、説明責任を果たすことは可能なはずです。
というけど、上のような判決文を読んでしまうと、そんな簡単ではないように思う。どうもセカンドレイプというか被害者バッシングや、「夜中まで遊んでいる」女性一般に対する社会的な非難感情を引き起こしてしまいそうな気がする。上のA子さんの事件について判決文写経しているだけでさえ、いろいろ気になる。この記事消すかもしれん。
もちろんアジア女性センターが被害者側と連絡がとれてたり裏が取れてればそれでいいんだと思うけど、そうなのかな。そうじゃなくて「とにかく情報を出せ」と主張しているのなら、なんか心配。そういの、どうなんだろうなあ。困り。
続き。
p. 194からの事例。
角田先生は、現在の法廷で、性暴力の被害者としてみとめられるには、貞操観念がしっかりした女性であることが要求されるという意味のことを主張している。貞操観念がしっかりしていることが、「被害者資格要件」であり、それにあわない女性は性暴力の被害を認めないという風潮が法曹関係者のあいだに根強いってわけだ。
「被害者資格要件」がもっともらしく議論されるのは、性暴力犯罪の場合だけである。できるだけ、この犯罪の成立を認めたくないという暗黙の願望がその根底にあるのではないだろうか。・・・女性に対する人権侵害を温存することで、利益を得るのは、あるいは、既得権を守りたいのは誰なのか。(p. 194)
疑問文でおわっているが、答はおそらく「集団としての男性」なんだろう。
で、今回見たのは角田先生がそういう事例の典型としてあげてる『判例タイムス』No. 796 (1992.12.1)の「事前共謀による強姦致傷の訴因に対し、被害者が少なくともホテルへの同行を承諾していたとして、現場共謀のみを認定した事例」
この事件は、居酒屋で「ナンパ」した男二人が家出女子大生をラブホテルに連れこんでセックスしようとして失敗して殴ってオーラルセックスさせたという事例。財布から金も抜いている。最悪。強姦致傷や窃盗なんかが認められて、一人は懲役3年執行猶予4年、一人は懲役1年6月、失効猶予3年。もっと重くてよいと思うが、いくつか情状酌量され執行猶予がついている。
角田先生が批判しているのは、この判決文で「貞操」という言葉が無批判に使われてしまっているところ。先生が引用しているのはこんな感じ。
右(角田注:救助を求めなかた行動)は、意に反して男性二人にホテルへ連れ込まれ、まさに貞操の危機に瀕していた(kallikles注:強調は角田による)という若い女性の態度としては、にわかに理解しがたいものと思われる。」(角田p. 196)
同女が、軽率な行動により、ホテル内で危うく貞操を侵されそうになったのが事実であるとすれば(角田 p. 196)
んで、角田先生はそのあと「貞操」とかって「黴の生えたような」言葉が残っているのは、森喜朗元総理の「神の国」と同じような無意識のなにかが影響してるんだろう、ってなことを議論している。
でもこの議論はなんかミスリーディングだし、その前に出している
と
で議論したディスコナンパ強姦事件で使われている「貞操」ともずいぶん意味が違う。ディスコ事件では、貞操観念という言葉は、「あんまり多くの人とセックスしないほうがよいと思う」 という内容なのに対して、この居酒屋事件判決文での「貞操」はおそらく「処女性」[2]それも単なる肉体的な処女性。くだらんけど。。で、「貞操の危機」は「やられる危機」にすぎないし、被害者の女子大生の行動はたしかになんだか軽率には見える。ナンパされてラブホに二人で入り、ベッドで受け入れ体制をとるが処女で挿入できなかったので「小っちゃくなっちゃんだったからやめようよ」とか。そのあとは主犯の男が殴ったり殴りかえしたりしていて、私は強姦だと思し、判決文もそれを認めている。(主犯の男は前歴もあって、もっと重い罰を与えていいやんね。)でも、「貞操」が全体に大きな意味を持っているわけではないようだ。
まあ判決文は被害者の「落ち度」について述べている。
被害者Aの側にも、自らの意思により、初対面の若い男性二人の誘いに乗って、その車に乗り込んだだけでなく、しつこく誘われた結果とはいえ、 こともあろうに、ラブホテルの一室に一緒に入り、全裸になって入浴の上((kallikles注:男といっしょに入浴している。))、寝室のベッド上で、右男性の一人との性交を受け容れる態度を示すという、軽率極まりない行動をとった重大な落ち度があるという点である。(判例タイムズ p. 251)
これが「落ち度」なのかどうかは私にはよくわからん。事件全体からすれば、おそらくそれは「落ち度」と呼ばれるようなものではないのではないかと思う。だからここを批判するのはわかるのだが、判決文の「貞操の危機」とかを批判するのは無理矢理で、ポイントがはずれていると思う。まあ少なくとも、強姦の被害者であるには「貞操観念がしっかりした上品な女性」であることは要求されていないように見える。
あ、やっぱりこれもうまく書けなかった。難しいんだな。とにかくこの件も角田先生の主張と、判決文を引き比べて読んでほしい。私は角田先生を非常に高く評価していたのだが、この二つの判決を読むかぎり、まさに彼女の専門に近いと思われる裁判の事例において、角田先生の書き方は信用できないという心証を得てしまった。どうするかなあ。でも角田先生は民事の方の専門で、刑事事件はあれなのかもなあ。次は先生の本当の専門であるセクハラ関係の判決文を見てみるべきなのか。
Views: 18
哲学・思想関係の卒論指導をしたことはないんだけど、どうなんかな。こっちは特に凡才・非エリート・スロウラーナー向けに考え中。秀才やエリートはあっち行け。
Views: 68
References
↑1 | あと波多野精一先生の『西洋哲学史要』本棚から発掘してめくってみたけど、もうこういうものであらましだけを勉強する時代じゃないね。そういう時代は遠くなった。 |
---|---|
↑2 | isbn:0826469485 とか。いまだに読まれてるのね。 |
↑3 | これ興味があるので優秀で生産力の高い人によく質問するんだけど、たいていはぐらかされちゃう |
↑4 | あまりにも他人と違う精神生活を営むと電波扱いされるし、生活にも不便だろう。 |
・・・倫理的問題とは、結局のところ価値意識の問題であり、感情の問題である。われわれの倫理的価値意識は、〈特定の〉他者を思いやる善意と、その善意を正しいものだと感じる感情によって支えられている。倫理的問題がえてして水掛け論になり、感情的なののしり合いに発展することの理由はこの辺りにある。そうしたののしり合いのなかで、人は、倫理的な動機ないし感情に従うまさにそのことによって、非常に非倫理的に振る舞うことになる。論争がののしり合いになるのは、自分の正しさ(実は自分の感情にすぎないもの)のもとに相手を屈服させようという感情に突き動かされるからである。そして、相手を思いやることが倫理の根本だとすると、相手を屈服させようとすることは、論争相手のことを思いやっていないがゆえに、非倫理的である。(山口裕之「生命科学の非倫理性」、石田三千雄他『科学技術と倫理』ナカニシヤ出版、2007、 pp. 97-8。強調は原文傍点。)
うーん。わりとナイーブな主観主義・相対主義。どうして他では優秀な人も、道徳判断の話になるとこういうナイーブな立場になってしまうのだろう。もちろん、生身の人間が倫理的な問題を議論するとしばしばののしりあいになり、その背景には倫理的判断に不可欠の感情があることはよい指摘だ。しかし、道徳判断は単なる感情だという主張は、大昔からたいていの哲学者によって反駁されている。感情に加えて少なくともなんか首尾一貫性が必要だとされているはず。また、「〈特定の〉他者を思いやる」善意とそれに付随する感情が倫理的価値意識だとすれば、特定の論争相手を思いやらないことは特に非倫理的であるとは思えない。あと少なくとも「相手を思いやることが倫理の根本だとすると」という条件節に対して筆者が肯定するのか否定するのか単なる仮定なのかぐらいははっきりさせないと、最後の「非倫理的である」がたんなる感情の表明なのか、なんらかの一般的な主張なのかがわからん。ここらへん推敲が不足しているだけかもしれん。
ちなみに、この文章の前では
・・・「自分の考えが正しい、それは相手も従うべき普遍的な正しさなのだ」とやみくもに信じて、相手の「善意」には思いいたさずに、相手が間違っていると一方的に決めつける者がいたとすると、私の言いたいことはやはり同じである。「勝手に決めるなよ!」。(p. 96)
私はこの方の善意にはまったく疑問をいだかないが、「勝手に決めるなよ!」はたんなる感情の記述か表出のどちらかだと考えざるをえない。これがたんなる「感情の表明」と解釈されていいのだろうか。
ドーキンスのタイプの「社会生物学」について(ドーキンス自身は「社会生物学者」を自称しているのかな?まあいいか。)。
例えば私が純粋な親切心からしている行動について、はなから私自身の意図を質問する気もなく、「それは血縁者を多く残すための行動である」などと説明するならば、私の言いたいことはやはり、「勝手に決めるなよ!」である。(同書「科学的認識の倫理性」、p.108)
これは至近因と究極因を混同している。っていうか、その手の学問を完全に誤解していると思う。社会生物学者や進化心理学者はそんなまちがいはしない(もしそういう混同をするようであれば、学界から追いだされるだろう)。まあでも、この二本の論文全体を通して主張されている「地獄への道は善意によって舗装されている」はまったく同意。
Views: 8
に書いた「社会の幸福を有意義かつ正当に増大」の出典調査中。英文ざらっと見ても見つけられない。誰か助けて。
特に重い先天的障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって、「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」(トゥーリー[1988:39])
出典がまちがっている。トゥーリー1988は文献表によれば加藤尚武・飯田亘之(編)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会1988だが、39ページはトゥーリーの論文ではなくプチェッティの論文。あれ、この一文は前にも見たことがあるが、出典があやしいぞ。あら、これ翻訳(抄訳)に出てこないんじゃないかな(原典にはあるかもしれんけど)。またエライこと発見してしまったかもしれん。まああとで調査。ぐびぐび。
だれかのロンブンでも同じ引用文を読んだことがあるんだ。だれだったかなあ。
For in the vast majority of cases in which infanticide is desirable, its desirability will be apparent within a short time after birth. Since it is virtually certain that an infant at such a stage of its development does not possess the concept of a continuing self, and thus does not possess a serious right to life, there is excellent reason to believe that infanticide is morally permissible in most cases where it is otherwise desirable.
っていう文章はあるんだけどね。(最後から二つ目のパラグラフ)。和訳では
嬰児殺しが希望される大多数のケースでは、出産後の短い時間内に嬰児殺しの希望がはっきりする。生長のその段階の嬰児が持続的自己の概念を所有せず、したがって、生存する重大な権利を所有していないのは、事実上確実である。それゆえ、何かの理由で嬰児殺しが望まれるほとんどのケースで、嬰児殺しは道徳的に許されうる、ということを信じてよい十全な理由が存在することになる。 (p.109)
まあたいていの人にとって恐るべき結論だ。ただし訳文の「希望」はちょっと訳しすぎかも。(なんらの理由からもうちょっと客観的に)「望ましい」だろう。嬰児殺しって書いちゃうとどうしたって「面倒だから殺しちゃう」とかそういうのを考えてしまうけど、このころに問題になってたののは新生児を殺すってよりは、治療をひかえて死なせること。これもかなり多くの人が非常に強い抵抗を感じると思う。私も感じる。
でもまあ考えてみなきゃならないのは、たとえば超未熟児(超低体重児)に対する対応なんだよな。
この本で東京女子医大の仁志田先生たちは、24週500g未満の新生児を助けることさえ可能になってるんだけど*1、どうにも予後が悪いので、「生育限界」という考え方を入れなきゃならんのではないかと提唱している。
日本全体のコンセンサスとして、このくらいの児は治療を受けるべきであるとするレベル、すなわち一般的な同意としての生育限界は28週、1,000g前後であろう。この生育限界以上の児は、どこで生まれようともすべての日本人同様に現在の医療のレベルを受ける権利があると考えるべきである。 (p. 27)
ということらしい。逆に言うと、28週未満の子はそういう権利がないかもしれない(治療せず死なせることも許されるかもしれない)ということを含意していることに注意。もしどんな新生児も生きる「権利」や治療を受ける「権利」をもっているのならば、仁志田先生たちの立場は道徳的に許容できない。したがってなにがなんでも治療するべきだってことになってしまうかもしれない。「権利」っていうのはそういう厳しい意味で理解されるべきで、たんなる「道徳的配慮の対象となる」ってのとは区別されるべきだ。
これほんとに難しい問題で、私はこういうのを考えようとすると頭がマヒしてしまうのを感じる。産科のお医者が減ってるとかってのもこういうのと関係しているのかなあと想像している。
Kさんに教えていただきました。ありがとうございます。第1節の最後の方にある。もっと後の方にあると思いこんで目に入っていませんでした。ほんとに私は目のなかに丸太はいってても気づかないだろう。
Most people would prefer to raise children who do not suffer from gross deformities or from severe physical, emotional, or intellectual handicaps. If it could be shown that there is no moral objection to infanticide the happiness of society could be significantly and justifiably increased.
翻訳にもちゃんとある。
たいがいの人は子どもを育てるからには、重大な欠陥や重い肉体的・感情的・知的なハンディキャップを背負っていない子どもの方がいいと思う。もし嬰児殺しに対して道徳的反論が存在しないことを示すことができたなら、社会の幸福 happiness of societyを有意義かつ正当に増加させることが可能となるのである。 (邦訳p.96)
「重大な欠陥」は「著しい形成異常」かなあ。”suffer from”ももうちょっと子ども本人の主観的な苦しみだってのを訳出したいような*2。If ~ couldの仮定法の感じも本当はもうちょっと出したい(「もし仮に~できるならば、~できるだろう」)し、significantlyはコメントにあるように「有意義」はちょっと違うけど、これくらいだと思う。まあなんにしてもちゃんと出典あります。
ついでにその次のパラグラフの文章も紹介。
The typical reaction to infanticide is like the reaction to incest or cannibalism, or the reaction of previous generations to masturbation or oral sex. The response, rather than appealing to carefully formulated moral principles, is primarily visceral. When philosophers themselves respond in this way, offering no arguments, and dismissing infanticide out of hand, it is reasonable to suspect that one is dealing with a taboo rather than with a rational prohibition. I shall attempt to show that his is in fact the case.
嬰児殺しは、それが引き起こす強い感情[的反発]という点においてもまた興味深い。嬰児殺しに対する典型的な反応は、近親相姦や食人に対する反応、あるいはマスターベーションやオーラル・セックスに対する古い世代の反応に似ている。その反応は、注意深く形成された道徳原理に訴えるものというよりも、むしろ主として本能的な[反発]であると言った方がよい。哲学者自身が、何の議論も提出せずに嬰児殺しの問題を却下し、さきに述べたような反応を見せるとき、その哲学者は嬰児殺しを理性的に禁じたのではなく、むしろタブーとして扱ったのではないか、と疑ってみる必要がある。事実そのとおりであることを私は示してみようと思う。(p.96)
primarily visceral は、「主として本能的な反発」でもいいけど、「まずなによりはらわたからの反発なのだ」ぐらい?哲学者はタブーを破って合理的な議論をしろとトゥーリー先生は言いたいのだろうが、まあ実際この問題を考えると頭はマヒし、考えただけで「胸が悪くなる」「吐きそうだ」と思う人は多いだろう。
おそらく国内で最も急進的な功利主義者である安藤馨先生は、『統治と功利』で
肉食の肯定について一貫的な立場を採るなら、親や周囲の愛情や配慮という外在的な要因が総て取り除かれるならば新生児を食用のために殺すことも原理的には否定されないだろう。(p.244)
とか書いちゃうわけだが、私はこういう書き方はできないなあ。こういうあざといはっきりした書き方をしちゃうから功利主義者はアレだと言われてしまうわけだが*3、まじめに考えれば安藤先生の主張はかなり説得力がある。それにこれも前提に注意。
オーラルセックスやマスターベーションやホモセクシュアルや人種間結婚に対する態度はずいぶん変ったけど、近親相姦や食人のタブーはもっと深く普遍的でなかなか変わらん。新生児治療停止に対する反発はどっちに近いか。
あともうちょっと「権利」について補足しておくと、「治療の予後が悪いことが予測される超低出生体重新生児は治療を受ける権利がない」という考え方は、「新生児はみんなそういう権利がない」という考え方よりもおそらくさらに受けいれにくい前提を必要とする。「権利」は難しい。
*1:人工子宮なんてのは、受精卵や胚の方からではなく、こっちがわから試行錯誤で攻めていけばいずれは実現されるのかもなあ。でもおそらくそれまでの過程がどこか非人道的になるのかもしれない。こういう発想は自分で考えてもショッキング。
*2:もちろんここから「社会の幸福を増大」させるってことにつなげるには問題の「非同一性問題」を解かないとならない。
*3:あと、「それを知る人々に与える不快感」とかも外在的な要因にはっきり数えあげた方がいいかも
Views: 8
http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071002
遺伝病(=相続病)とされる病気において、孤発例が観察されることがある。例えば、遺伝病の典型と思われている血友病(X染色体連鎖遺伝)では、稀に女児の発病例が報告されるだけでなく、何と三分の一が孤発例とされている。これは、どういうことだろうか。教科書的な説明は二つある。新生突然変異の故にとする説明と、家系の種々の事情(追跡不能、病歴記録欠如、他病による早世など)の故に孤発に見えるだけと示唆する説明である。しかし、それで説明が付くことになるだろうか。そこに嘘はないにしても、何ごとかが解明されずに曖昧にされてはいないだろうか。
孤発例の人間が子孫を残すなら、家系を創出することで、いわゆる創始者効果を発揮することになる。そのまま進行するなら、孤発例は消失して、すべてが通例の遺伝様式に従うことになるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、それでも孤発例は出現するはずである。ところで、孤発例の人間が<優生>によって(殆ど)子孫を残せずに歴史が推移してきたとするなら、どうなるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、やはり孤発例は出現するはずである。以上を勘案しながら、(発病に<都合のよい>)突然変異率や遺伝子分布均衡などについて語るにはどうすればいいのだろうか。ここでも明らかなのは、<優生>には如何なる集団的合理性も無いということだが、それ以上に気にかかるのは、例えば、<三分の一もの孤発例を伴う遺伝病>が起こるようなポピュレーションとは何なのかということである。他の人びとは、<孤発例を必ず伴う遺伝病>なる概念に理論的不安を感じていないのだろうか。その不安をめぐる問いを正しく定式化する力は私には無いので、識者に教示を願いたい。
なんにも曖昧なところはないし、「孤発例を必ず伴う遺伝病」という概念になにもおかしいことはない。これからも運悪く血友病になる変異遺伝子をもつ人が出てくるだろう。宇宙線とか化学物質とかいろんな作用で遺伝子に影響があるのは避けられないのだから。
もしかしたらdesdel先生は、実体として特定のDNA配列の「血友病の遺伝子」ってのがなんか一種類ある、さらには一種類しかないと思ってるかもしれない・・・いやいくらなんでもそんなことはないだろう。あれ、私自身最初は「血友病の遺伝子」って書いちゃってるけど、まあこれは実体としてそういうのがあるってんじゃなくて、ある部分に異常があると血友病になっちゃうってことで。なるほどこういう書き方が誤解をまねくんだな。失敗失敗。
識者に教示してもらうまえにそこらへんの遺伝学や遺伝病の本でも読んだらどうか。木村資生先生の『生物進化を考える (岩波新書)』ぐらいでもいいじゃんね。木村先生がわりと単純な優生主義者だから読むのがいやだというわけでもあるまい。コメント欄あけておけば誰か生物学の基本を知ってる人が教えてくれるんじゃないかと思う。はてな人力検索で質問してもいいじゃん。「孤発例を必ず伴う遺伝病という概念はおかしくないですか?」とかけば、たくさんの人が答えてくれるはずだ。100はてなポイントで十分だろう。
まあブログで出版原稿を書く試み(これはかっこいい)で、「識者に教示を請う」のはただの飾りなのだろう。
まあ好意的に読めば、よくわからない劣性の遺伝病因子とかきっととんでもなくたくさんあるね、とか、変異もっちゃうことってけっこうあるんだな、とか、血友病は伴性遺伝だから目立つんだな、とかそういうことなのかな。哲学者とかは「どんな病気も遺伝病である」とかっていいたくなるのかもしれない。実際、われわれがもっとよい免疫システムもってれば感染症さえかからないかもしれないわけだし。もっと生物として優秀ならガンも糖尿病にもならないかも。人間じゃなければ老化もないかもしれん。でもこういうのって「遺伝病」ってのを医学的な文脈とは違う使い方しちゃってるよね。
そういや上の木村先生の岩波新書のちゃんとした批判て見たことないような気がするな。先生はたしか(手元にないので正確じゃないけど)「現代の福祉社会では変異が淘汰されずに蓄積されて有害だから、ある程度優生考えないと」とな感じの主張してたはず。なんかそこのところは根拠があやふやで議論がおかしかった記憶があるんだけどね。ビッグネームで岩波新書だから一般読者には影響力大きいんじゃないだろうか。だいじょうぶなのかな。もう古いからどうでもいいのかな。お亡くなりになってるらしいから改版もしないだろうし。
Views: 12
*1:やっぱりソウル・ヨガをうっかり見てしまったからだが。っていうかイダ先生リンクがまちがってますよ。っていうか、こういうのにリンクするときはまずトップページにリンクしてあげて、さらに紹介したいページがあればディープリンクしてください。
*2:ふつうのひとが物心つくのは何歳なのかわからないけど、いまだと18才ぐらい?わたしはつい最近。
Views: 1
でも一回書いたが、運動にネット使うときの注意事項ってのはどういうのかあるんだろうなとか上のエントリとは関係なく勝手に考えてみる。
Views: 1
酔っ払って書いてしまい、いったん消したけど
表現をやわらげてのっけておくか。
から読んでしまった自衛官の陳述書。たしかに21歳の人間が書くらしい文章で、執筆者の心理の描写としては非常にリアルだと思うが、同時に法的・社会的な文脈で他人に説明し説得する抗議する文章としてぜんぜんだめだとも思う。なにが起こったのかがさっぱりわからない。まあ二十そこそこの人間が裁判の場にでて、これくらいの陳述ができれば立派なものだが、ネットで流す文章としては未熟で危険すぎる。
どういう経緯でこの文書が出回っているかしらないが、こういうのは誰かがちゃんと相談に乗り話を聞き添削し、ちゃんと他人を誤解なく説得できる文章にしてあげるべきだ。大学の試験やレポートではないのだから、他人の力を借りてもぜんぜん問題がないのだし、まわりの人間は力を貸すべきだ。もちろん、この文章を書いた人がこの文章が他人にどう理解されるかをちゃんと理解しており、あえてこのまま流してほしいと判断しているのなら話は別。でもこの文章のできからして、そうじゃないだろうと推測する(っていうか確信している。21歳で他人を説得できる文章を書ける人間はめったにいない)。まちがってたら本当にごめんなさい。
なんだかまわりにいるはずの大人や、それをそのまんま流してしまい、結果的に、被害者に対する不信や疑いをひきおこしてしまうかもしれないことを理解していない人間に対しては、他人事ながら腹が立つ。 なんでせめて経緯の説明ぐらいつけてあげないんだ。vulnerableな立場にいるひとはちゃんとまわりの人間が守るべきだ。
googleでひっかけてみるかぎり、http://peace-asahikawa.cocolog-nifty.com/blog/ が発信源なのかな? 事件の経過はやっぱりわからず、どういう経緯でこの文書が公開されているのかの説明はないようだ。・・・・・あーこれは。なんか、まさに下手なネットでの活動が二次被害をひきおこしてるんじゃないのか?旭川の人々と被害者やその関係者はどういう関係なのかな。ちゃんと信頼関係あるんだろうか。そしてやっぱりこのブログはコメントどころかトラックバックも固定リンクも表示されないのか・・・・こういう運動にネット使おうとする人間はちゃんと責任もて。
と、やっと http://jinken07.10.dtiblog.com/ にたどりついた。ここはちゃんとした被害者支援団体なのかな。3人の共同代表者の名前もわかる。ちゃんとしてそうだ。がんばれ。でもやっぱり陳述書は添削するべきだったと思う。ここのを勝手にコピーして説明なしで流している人がいるということかな?
Views: 7
ファンだからブログも楽しく読んでいるkanjinai先生がゲーテについて触れている。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070614/1181749067
。批判とかそういうんじゃなくて興味深いのでメモ。粘着とかかまってほしいとかそういうんではない*1。
から転載。レイプ魔ゲーテも超訳詩人近藤朔風先生もずっと前に死んでるので著作権は大丈夫。
Heideröslein Sah ein Knab ein Röslein stehn, Röslein auf der Heiden War so schön und morgenschön, Lief er schnell, es nah zu sehn, Sah' s mit vielen Freuden. Röslein, Röslein, Röslein rot, Röslein auf der Heiden. Knabe sprach, Ich breche dich, Röslein auf der Heiden! Röslein sprach, ich steche dich, Daß du ewig denkst an mich. Und ich will's nicht leiden Röslein, Röslein, Röslein rot, Röslein auf der Heiden. Und der wilde Knabe brach s' Röslein auf der Heiden; Röslein wehrte sich und stach, Half ihm doch kein Weh und Ach, Mußt es eben leiden. Röslein, Röslein, Röslein rot, Röslein auf der Heiden.
一、童(わらべ)は見たり 野なかの薔薇(ばら) 清らに(きよらに)咲ける(さける) その色愛でつ(めでつ) 飽かず(あかず)ながむ 紅(くれない)におう 野なかの薔薇 二、手折りて(たおりて)往かん(ゆかん) 野なかの薔薇 手折らば(たおらば)手折れ(たおれ) 思出(おもいで)ぐさに 君を刺さん(ささん) 紅におう 野なかの薔薇 三、童は折りぬ(おりぬ) 野なかの薔薇 折られてあわれ 清らの(きよらの)色香(いろか) 永久に(とわに)あせぬ 紅におう 野なかの薔薇
*1:なんか「はてな」はそういうの一々気にしなきゃらななくてうざい。あれ、自動でトラックバックしないようにもできるのかな。→設定にあった。これで安心。
Views: 3