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宇崎ちゃん問題 (4) 「モノ化」は「客体化」でもやむをえない

ちなみにここで小宮先生にはあんまり責任がない「客体化」もむずかしいって話もしとかないとならんかな。

牟田先生が「客体化」って使ってんのに私は「モノ化」にして、小宮先生も「客体化」にしてて、まあどうせ専門用語だからobjectificationっていう英語に対応する訳語だってわかってりゃそれでいいでんですが、私「モノ化じゃなくて客体化だろ!」「モノ化という訳語はだめではないか」って言われちゃってるので、ちょっとだけいいわけ。

これ実際カタカナ使っていいんだったらオブジェクト化でもよかったし、あるいはさらにさかのぼって「物象化」「物件化」とかそういう訳語も可能だったかもしれないわけです。十数年前に論文モドキ書いたときはかなり悩んだ末に「モノ化」にしたんですが、今思えばもう「モノ扱い」でもよかったくらいだと思ってます。その方がわかりやすいでしょ。日常的だし。

あの論文ではとにかくヌスバウム先生の分析・解釈にしたがうつもりで、ヌスバウム先生やそれ以前のフェミニスト学者の先生たちは、objectificationというのは人をモノ(thing)として扱うことだ、reify (ラテン語のres「モノ」にする1)reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。)でありthingify(そんな言葉は辞書にはないけどマッキノン先生が使ってる)、って言ってるはずなんで、モノ化にしたわけです。

実際、ヌスバウム先生は「道具化」「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」ってのをあげるんだけど、これらは全部、自発的・能動的・自律的etc.な「人」と対比される上での「モノ」の特徴なのよね。モノだから、道具にするし、自律しないし、自分では動かないし、同じように作られてたらどれでも同じだし、壊してもいいし、自分のものにできるし、感情とか考えなくていい。

これを「客体化」って訳してしまうと、客体と対になるのは「人」ではなく「主体」になるんだけど、客体であるってことだけからは「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」も出てこない。

そしてそれだけじゃない。太郎は花子を愛する、っていう文では太郎が主体で花子は客体ですが、だからといって太郎が意識不明の花子さんとセックスしてよいわけではない。太郎は花子にキスしたってとき、やっぱり花子はキスする客体(対象)だけど、花子の感情を無視していいわけじゃないし、「キスされる」からといって主体性がなにもない、ってわけでもない。実は花子さんがキスされることを期待していることもあるだろう。そしてキス「する」んじゃなくてキス「されたい」って思うことさえあるだろう。愛されたりキスされたりする対象・客体になりたい、っていう欲求は、男女ともにときどきあるんじゃないっすかね。そういう人を愛したりキスしたりする対象にするのはまったく問題がないどころか、ピューピュー、モテるねー、やけるねー、おしあわせに、ってなものではないですか。

だから「モノ化」の方が適切だと私は判断したわけです。

まあもともとのマッキノン先生以下さまざまなフェミニスト学者の先生たちは、オブジェクトという言葉を多義的につかってるので「客体化」でもまあしょうがないのではあるのですが(実はmen fuck womenという文での目的語の意味もある)、以上のような次第で私は「モノ化」の方が適切であると判断したわけでありまーす。

 

 

References   [ + ]

1. reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。

宇崎ちゃん問題 (3) 「表象」はわかりにくい

正直小宮先生の書くものはある種の魅力があって、それが多くの人を惹きつけるんだと思うんですわ。私の文章とかぜんぜんだめよね。なんか華がないというか、もってまわってわかりにくいし。あはは。

さて、私はそもそも「表象」がよくわかりません。いきなりタイトルで「性的な女性表象」ってガツーンとやられて、「あ、難しい文章だ!」って思って身構えてしまう。だって「表象」なんて私らめったに使わないじゃないですか。ショーペンハウアー先生に『意志と表象としての世界』Die Welt als Wille und Vorstellung っていう有名な本があるんだけど、あれの「表象」っていったいなんだか私いまだにわかってないです。あの本の前半はとてもむずかしい。カントわかってないと読めないんすよね。(ちなみになかば以降は楽しい)

「表象」Vorstellungとか英語でrepresentationとかっていうのは、哲学で使われるときには、非常に単純にいえば、外界にあるものを我々が感覚器官(典型的には目、でも感覚器官は他もありますね)を通して認識だかなんだかして、頭のなかに浮べたあれです。頭の外にある(かもしれない)外的な事物、それの印象とかイメージとか対応する観念(アイディア idea)、そういう頭のなかにあるのが表象。でも小宮先生のはこの意味ではない。

2000年ごろから文学とか美学とか映画学とかマスメディア文化論とか、そっちの大学関係の方面で「表象」っていうのがよく使われるようになってるみたいで「表象文化学会」とかそういうのもありますね。こういうのでいわれる「表象」っていうのは、もっとふつうの言葉でいえば「表現」とかなんだと思う。「文学」っていうと文字で書いてる小説とか戯曲とかになるけど、アニメとかマンガとかだと「文学」ってのとはちょっと違うし。絵画とか映画とか、まあそういう人間が作り出したイメージとか作品とかを「表象」って呼ぶんだと思う。しかしこの意味では、まだ辞書にもなかなか載ってない感じですよね。

それにそもそも、この「表象」っていう言葉をどう使うのかっていうのは、そっち方面の学者先生たちのあいだでもさほど合意がないんじゃないかと思う。たとえば私のbooklogから「表象」ていう言葉をタイトルに使ってる本をあげてみると、「特集=ジェンダー 表象と暴力」「視覚表象と音楽」「 “悪女”と“良女”の身体表象」「無垢の力—「少年」表象文学論」「少女マンガジェンダー表象論」「セクシュアリティの表象と身体」「オトメの行方—近代女性の表象と闘い」「イーストウッドの男たち—マスキュリニティの表象分析」「欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象」「ひとはなぜ乳房を求めるのか: 危機の時代のジェンダー表象」とかになってしまう。

どれも難しそうでかっこよさげなのは置いといて、「表現」におきかえられるようなものだけではないですね。「イメージ」ぐらいが妥当なんだろうか。

小宮先生の「女性表象」は「女性のイメージ」(頭のなかにあるもの)なのか、「女性を描いた作品」(頭の外にあるもの)なのかあんまりはっきりしない。がんばって読むと、おそらく後者の、作品、表現されたもの、だと思います。「表象は必ず「誰かが作る」ものだ」って言ってますからね。我々の頭のなかにある女性のイメージは、必ずしも誰かが作るものだとはいえないように思う。私の目の前にあるウィスキーの瓶の私の頭のなかにあるイメージが、「私が作ったもの」かというとちょっと自信がないし。

でもこんな難しい言葉、学者先生なら一言ぐらい説明してくれたっていいじゃないかと私は思うわけです。マンガやポスターの「描かれたもの」「表現物」を「表象」って呼びますよ、ぐらいなんで説明してくれないんですか、ぐらいのこと思ってしまうわけです。んな、最初っから「表象」って言われたら、われわれ一般読者は腰がひけちゃうじゃないですか。すごく高度っぽいからもう話聞くしかなくなっちゃうし。でもそんなにはっきりした言葉じゃないと思うのです。「表象」で苦しんだみなさん、そういうの要求してかまわんのです。

 

宇崎ちゃん問題 (2) 単なるいいわけ

前の「宇崎ちゃん」に関するエントリ書いたあと、すぐに続きを書くつもりだったのですが、当の『現代ビジネス』からそれについての原稿書いてみないかというお誘い受けてしまって、考えてることを書いたりして、時間がたってしまいました。ちなみにタイトルとか見出しとかは編集者の方につけてもらい、細かい表現なんかも草稿見てもらった数人の先生と編集者先生に直してもらいました。名前は出しませんが感謝感謝あめあられ。

前のエントリについて言い訳を追加しておくと、牟田先生のあの文章が詭弁だとか誤謬推理だとかっていうことを書こうとしてのではなかったのです。むしろ、他人の文章を読んでそれが詭弁だとか誤謬推理だとか判断するのがとても難しい、ってことを書きたかった。省略三段論法みたいなやつは日常生活では非常に頻繁につかわれる論証の形で、三段論法みたいに前提を明示した論証なんてめったに見ることがない。そして、どういう前提が隠されているかっていうのは、読者がいろいろ考えてみないとならんわけで、それは対象となっている論者が考えている前提とはまったくちがったものかもしれない。最終的には「どういう前提なんですか」って聞いてみないとわからんと思う。そして、そんなふうに前提を明示してしまえば、形式論理的な誤謬推理をすることはめったにないし、詭弁の余地もものすごく狭くなる。まあ、結果的にそもそもの基本的な前提について同意できないってことがはっきりするということになるかもしれません。たとえば「ポスターに大きな胸を描くことは女性差別だ」っていう前提について、AさんとBさんが同意しないってことは十分にありえるわけです。

まあそんなことを考えているうちに、知らん学会で知りもしないことを発表したり、私生活でもちょっと忙しくなったりして時間過ぎてるうちに、これまた同じメディアに小宮友根先生の「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」っていう論説が発表されてけっこうもりあがってたみたいですね。忙しくてキャッチアップするのけっこうたいへんでした。なんかみんな飽きてるのはわかってるけど、ちょっとだけコメントしないとならんかな、とか。

実は小宮先生がそれ以前に『世界』に書いた「女性表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」っていうのはずいぶん前に紙で読んでて、私が『現代ビジネス』に書いた文章でも言及してコメントしようと思ってたんだけど、一般向けの文章としては煩雑になるかもしれないし、オンラインのものでもないからカットしたんですわ。特に、私は「累積的経験」という表現自体は使ってないけど、同じような内容になったところには先生のクレジットつけたかった。原稿書きあげて数日してからオンラインになって「あらー」って思ったり。ははは。

小宮先生の文章を読んでいると、勉強にはなるんだけど「言葉」について考えこまされることが多くて、そうしたつらつらを書いてみたいと思います。詭弁だとか誤謬推理だと言いたいのではなく、また批判というのでもなく、むしろ文章を読むというのが私にとってどれくらい難しいことか、っていうのを説明してみたいのです。私は本当に文章を読むのが下手なのよね。そして、そういう悩みをもっている人は私の他にもいるんじゃないかと思う。そうした人々、特に学生様とかに、私も読めないので(それほど)心配しなくていい、みたいなことを示して、悩みを共有したいというわけです。

あら、言いわけと前置きだけで長くなってしまった。

 

詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))

『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので 1)「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。

ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。

日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

日本事情に詳しい米国人男性が英語で、過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信(10月14日)、日ごろから女性差別問題について活発な発信をしている女性弁護士がそれに同意し「環境型セクハラ」と批判を続けたところ、「表現の自由だ、表現を規制するのか」「自分の基準で勝手なことを言うな」「たかが絵なのに文句を言うな」等々の、ほとんど罵倒と言ってもよいようなものも含めて、非常に多くの反批判を受けた。

私自身もこの件で複数回ツイートしたが、いずれもリツイートや「いいね」を多数いただいたものの、上記と同趣旨のリプライも山ほど浴びた。

改めて、何が問題なのか

結論から言えばこの件は、議論する以前に答えは出ている。

女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。

たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。

男女共同参画社会基本法(1999年制定)の下で策定された「男女平等参画基本計画」(2000年)でも「メディアにおける女性の人権の尊重」が盛り込まれ、2003年には内閣府の「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」でこれを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」としている。

同じ趣旨で各地方自治体でもガイドラインを策定しているが、たとえば、東京都港区は、

「目を引くためだけに『笑顔の女性』を登場させたり、体の一部を強調することは、意味がないばかりなく、『性の商品化』につながります」「(性の商品化とは)体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされることで、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われること」(東京都港区「刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」、2003年)

としている。

最近のものでは埼玉県が、自治体のPR動画やイベントポスターなどで過度に性的な「萌えキャラ」等が問題となっている事態を踏まえて、女性を性的対象物として描くことに注意喚起し、「人権への理解を深め、男女共同参画の視点に立った表現をすることが一層重要となっています」(埼玉県「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」(2018年))としている。

今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。

牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。最後の埼玉のを使うと

a. 埼玉のガイドラインは女性を性的対象物として描くことに注意喚起している
c. それゆえ今回のポスターは埼玉のガイドラインに抵触している

とかって形になっているわけです。なんかおかしいですよね。大学の授業なんかでは、論証というのは三段論法が基本だ、みたいな話を聞いていると思います。

a. 人間は死ぬ
b. ソクラテスは人間である
c. それゆえソクラテスは死ぬ

こういう形ですよね。実は上の牟田先生のやつは、省略三段論法とか隠された三段論法といわれやつで2)省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。、本来は、

a. 埼玉のガイドラインでは女性を性的対象物として描くことは不適切だ3)実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
b. 宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている
c. したがって、埼玉のガイドラインでは宇崎ちゃんポスターは不適切だ

という形になっているはずなのです。牟田先生が「明らかだろう」っていってるのはぜんぜん明らかではなく、「宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている」という牟田先生自身の論点や主張が明示されておらず、暗黙に了解されているにすぎない4)この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。。そしてこれこそ本当の論点のはずなのです(性的対象として描くことが不適切なこと、あるいは悪いことであることを認めるとして、ね)。

国連の「女性の過度な性的描写」の方を見ても同様ですね。

a. 国連は女性の過度な性的描写には問題があると主張している
b. 宇崎ちゃんポスターは過度な性的描写である
c. 国連は宇崎ちゃんポスターには問題があると主張する(だろう)

という形になるはずなのに、宇崎ちゃんが過度な性的描写であるという指摘がない。牟田先生は、あちこちのガイドラインが過度な性的描写には注意をうながしている、ということを列挙しているにすぎず、そのガイドラインの根拠についてもはっきりしない5)そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。。宇崎ちゃんは過度に性的なのだろうか。

これ、注意深く読むと、冒頭で「米国人男性が(宇崎ちゃんポスターは)過度に性的な絵で赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信、女性弁護士がそれに同意」ということが言われていますが、牟田先生自身は「ポスターは過度に性的な絵だ」ということを主張・立証していません。

もしかしたら

a. 米国人男性と女性弁護士が共に言うことはなんでも正しい
b. 米国人男性と女性弁護士は共に「ポスターは過度に性的だ」と言った
c. したがって「ポスターは過度に性的だ」は正しい = ポスターは過度に性的である

とかそういう三段論法も隠されているのかもしれない。こうなるとすごいっしょ。まあ隠された三段論法の隠された前提にどんなものがはいっているかは推測するか質問するしかない。

『自由論』や『功利主義論』で有名なJ. S. ミル先生は、論理学者でもあって(というか、こっちの方が本職で重要)、『論理学体系』という非常に立派で重要な本を書いてます。いま、論理学っていうとA → B、A、したがってB、とかそういう記号でやるやつを連想する人が多いと思うんですが、ミル先生の「論理学」はそういうのも含んでますが、科学的推論というのはどのようにしてなされるべきか、とかそういうもっと広い範囲を扱った本ですわ。まあいまでいう科学哲学みたいなのも含んでる。ていうかまんま科学哲学。

この本の第5巻がまる1冊分「誤謬推理」(Fallacy、虚偽、詭弁、誤謬的思考)6)正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。にあてられていて、ここはちょっと難しいけどとてもおもしろい。いろんなタイプの誤謬推理が分類されて、大量の哲学者やら科学者やら迷信やらがその実例としてあげられてます。そのうち新しい翻訳が出るらしいので楽しみにしておいてください。

そのなかで、一般の議論では三段論法ははっきり明示されることはごくすくないということも指摘されてます。日常的な議論でも科学的な議論でも、三段論法みたいなのを明示する必要はさほどないんですわ。たいていの場合には二つの前提のどっちかは明白だし、いちいち書いてたら煩雑だし。そもそも三段論法というのは新しい知識を生みだすものではないのです。ソクラテスが人間だからいずれ死ぬのはだれでもわかっていて、わざわざ三段論法の形にする必要はない。

ミル先生に言わせると、

三段論法の規則というものは、人に自分の結論を主張しつづけるために弁護しなければならないこと全体を自覚させるための規則である。人は、ほとんどどんなときでも、三段論法に勝手に偽の前提を入れ込んで、自分の論証を妥当なものにすることができる。したがって、ある論証が妥当でない三段論法を含んでいるということをはっきり確かめることが可能な場合はほとんどない。しかし、こうしたことは三段論法の規則の価値を失わせるものではない。推論する人が、どのような前提を主張する用意があるかをはっきり選択させられるのは、この三段論法の規則によるのだからである。

つまり、「三段論法が基本だ!」みたいなのは、「いつも三段論法を明示しろ!」とかそういう要求ではない。むしろ、自分がなにかを説得しよう、立証しよう、あるいは主張しようとするときに、自分と他人のあいだの前提の違いを意識して、自分がなにを言わなければならないかを自覚し、また他人にへんな説得されたり騙されたりしそうなときに、相手からなにを聞いておかねばならないかを意識するための規則なのです。

こういうのを見ると、わかりにくい文章やうたがわしい文章を読むときに、その文章の主張をリストアップしてみるのはよいことですよね。そしてうたがわしい文言があったら、それを主張するための三段論法をいくつか書きだしてみる。著者は(暗黙にせよ)その結論の前提をきちんと説明してくれているだろうか、そしてまた、その明示的な、あるいは隠された前提にあなたは同意できるだろうか。

私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。その場合、「見ればわかる」「私の主観だけどみんな共有できるはずだ」という形でもかまわないかもしれないけど、一言主張するべきだったのです。もちろんそうすると、性的であるとはどういうことかとか、「過度に」性的であるとはどういうことかを説明してほしくなりますよね。宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

a. おおきなおっぱいは過度に性的である
b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。

とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。だからこれを論じてもらわなければならない7)つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

ちなみに本当の論点とはちがう論点を「論証」してしまうのも詭弁・誤謬推理の一つのタイプで、「論点相違(の誤謬推理)」Ignoratio Elenchiという立派な名前があり、また「過度に性的なのはいかん」という言明を「性的なのはいかん」のように「過度に」という限定があり、それを論証しなければならないことを忘れてしまうのには「限定あり言明から限定なし言明への誤謬推理」Secundum quidという名前がついてます。われわれが非常によくやる詭弁と詭弁的思考なので、ちゃんと昔から名前があるわけです。

 

 

References   [ + ]

1. 「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」
2. 省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。
3. 実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
4. この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。
5. そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。
6. 正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。
7. つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

性表現と表現規制(8) ポルノ批判と会田先生の答え

まあ米国での規制の法制度づくりは失敗したわけですが、その後もポルノは性差別だというマッキノンとドウォーキンのラインの議論はけっこう魅力を感じる人もいるようです。

表現そのものが性差別だとかってのに疑問を感じる人がいると思いますが、人種差別的なヘイトスピーチのこととかを考えると、ポルノも女性に対するヘイトスピーチなのだ、みたいな言われ方をしたりします。わかりにくいって言えばわかりにくいんですけどね。

まあもうちょっとだけこのタイプの人々の言い分を聞いておくことにしましょう。

まずポルノってやっぱり言論だから言論の自由の方が大事なんちゃうか、言論だとしたら規制するのはおかしいだろう、という批判に対して、ラジフェミ(まあラジカルフェミニストにもいろいろいますが、今回はとりあえずこう呼んでおきます)の人々は、ポルノはそもそも言論なんかいな、言います。正直言論ってよりはマスターベーションの道具みたいなもんだろう、と。なにも新しいアイディアとか含んでないじゃないか、とりあえずたんなるオナニーの「おかず」ではないか、と。

それに仮に言論だと認めたとしても、言論の自由は絶対的なものではない、虚偽の広告とか規制しているのだから、女はいじめられて喜ぶものだとかって女性についての虚偽をばらまいているポルノを規制しても良いだろう、とか。

ポルノとか芸術とかは既成の道徳概念とかをひっくり返すものだ、みたいな見方に対しては、ポルノのいったいどこが既成の概念をひっくり返してるんだ、男が主体で女は受け身っていう旧来の考え方を繰り返しているだけじゃないか、とか。

まあもっといろいろあるんですが面倒だから途中で。とにかくこの系統の人々はいまだにポルノに対して反対しているし、法規制を求める人も少なくありません。とにかく性表現の規制をめぐる議論は、「猥褻」ではなく「性差別」が中心になってるわけですね。(もちろん性差別反対派と猥褻反対・保守派が手を結んだりしている部分もあります。)

んでまあ一番最初の会田誠先生と森美術館に対する抗議とそれへの返事の話にもどると、「ポルノ被害を考える会」とかはこういうマッキノンたちのラインでポルノを考えているわけですね。特に児童ポルノってのは、年端もいかない少女を邪悪な欲望の対象とするおぞましいものだ、と。んでおそらく会田先生なんかの作品では虐待されている少女が微笑んだりしているこそ気にくわん、女はいじめられて喜ぶというポルノ的幻想の最たるものではないか、みたいな感じだと思うんです。さらに、森美術館という一流美術館がそういう作品を堂々と展示することによって、そうした作品の作り方や欲望のあり方にお墨付きを与え、男性的な性欲とファンタジー中心社会をさらに盛り上げようとしている、と。彼らがよく使う比喩に「黒人が首輪付けられて犬扱いされて喜んでいる絵とかOKだっていうのか?」みたいなのがあるんですが、まあそういうものとしてポルノを見ているわけですね。

というわけでまあ会田先生の法律上の「児童ポルノ」や「わいせつ物」にはなりようがないですが、そういうものだとして展示を中止させようとしたってところだと思います。この戦略が正しいかどうかはわからんですね。私自身はぜんぜんだめだと思うんですが、まあ運動というのはいろいろあるんでしょう。

で、問題はこれに対する会田先生の「発表する場所や方法は法律に則ります」ですな。「考える会」などは法律は不十分だと考え、法が要求する以上のことをもとめているわけです。これに対して「法律に則ります」ってのはぜんぜん会の要求にそうつもりはありません、ってことですわね。「「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけない」とかってのは嫌いな人や不快な人や腹をたてる人がいてもアッシはやらせていただきますよ、ってことなんで、まあ「考える会」の主張にはまったく従うつもりがないってことですわ。

というわけで、さいど一番最初にもどると、こうしたポルノ批判の文脈で芸術家が「法に則って」とか「法の範囲内で」とか発言することはぜんぜん保守的でもなんでもないわけです。

性表現と表現規制(7) エロチカとポルノ

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンのラインの考え方では、性表現はよい性表現と悪い性表現がある、と。それを分けましょう。たんに友好的で平等で自発的で楽しいセックスを描いた「エロチカ」と、女性をものみたいに扱ったりいじめたり差別したり男性に従属させている「ポルノグラフィ」に分ける、と。

このエロチカとポルノ(グラフィ)の分け方は、従来の「猥褻なもの」とかの意味のポルノと混同しやすいのでよくない言葉の再定義ですよね。いろいろ問題が起こります。

まあとにかくポルノはそれ自体が女性をモノ・物品・商品として扱い、女性を苦しめ、女性を男性より下の地位に置いているので差別的であり、性暴力である、ってわけです。

あとは無理やり写真やヴィデオ取られたり、ポルノ無理やり見せられたり同じようなことをしろって命令されたり、「いやよいやよって言ってのは喜んでいるだろう、へへへ、体は正直だぜ」みたいな性暴力の原因にもなっている、というわけです。困りますね。

というわけで彼女たちの派閥の人は、1980年代前半にイリノイとかミネソタとかあそこらへんで条例を作って、そうした女性差別的ポルノを規制しようとするわけです。ただし「そういうポルノを製作販売したら罰する」とかって刑法的なものじゃなくて、「そういうポルノによって被害を受けたっていう民事倍賞を求めることができる」みたいなタイプの民事的な条例です。

まあ刑事だろうが民事だろうが、こういう法律は実際に表現を規制することになります。だってなにかるたびに「これは性差別的な表現だから賠償を請求する!」って裁判起こされたらおちおち出版とか制作とかしてられないですからね。

まあそういうふうにしてマッキノン=ドウォーキンの条例とかは表現の自由っていう大原則と真っ向からぶつかることになります。すごい議論になってみたいね。それまでわりとまとまってがんばって運動していたフェミニスト陣営もこれをどう扱うかっていうので真っ二つに割れる。マッキノンたちの批判はもっともだからポルノ規制しようという派閥と、いや表現の自由はすごく大事だからフェミニストとしてこそ表現の自由を優先するべきだ、みたいな。

実際にマッキノンらが作った条例はどれも違憲判決が出てつぶれます。でもフェミニスト内部にはしこりが残ったままだし、彼女たちが主張したポイントは一応じゅうようなものだと思われています。

いまアメリカとかのAVとか見ると、女性は「おー、いえーす、いえーす、いえーす、おーカモーン、オーイエ〜〜〜ス」とかやっているわけですが、あれは昔はおそらく「おー、ノー」だったんですが「ノー」だって言ってんのにエッチなことをするのはやばいので、「イエス」っていうようになったらしいですね。ポルノ女優じゃなくて一般人がどういうふうに言ってるのかはしりません。あと必ず女性が上になったりもするわけです。そういうのもフェミニストの人々が運動した成果といえるのかどうかはまあよく知らんですが。まあとにかくそういうふうにすることによってポルノじゃなくてエロチカです、というわけでしょう。まあああいうのエクササイズやってみるみたいでどの程度エロいのかよくわからんですな。

マッキノンの本は難しくて読みにくいです。英語で呼んでもよくわかんない部分が多いいし、昔の翻訳もあまりよくないですが、APP研の中里見先生たちのやつは正確でグーです。反マッキノン陣営のストロッセン先生のもいっしょに読んどいたほうがよいです。

 

私もここらへんの勉強はじめたときにちょっと研究ノートみたいなのかいたことがあるんですが、これ読むよりは下の『ポルノグラフィと性差別』の解説とか読んだほうがいいんじゃないかな。でも一応貼っておきます。「ポルノグラフィとフェミニズム法学」 http://hdl.handle.net/11173/345

ポルノグラフィと性差別
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ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性
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性表現と表現規制(6) 性差別としての性表現

しかし1980年代からは、「猥褻」としてではなく「性差別」や「性暴力」として性表現を見る考え方が現れて注目をあびるわけです。この一連のエントリの始まりに書いた「ポルノ被害を考える会」なんかの思想的背景はこういうところにあるはずです。

1960年代に米国あたりでは黒人の公民権運動とかがあって人種差別に対してみんなが非常に敏感になったわけです。でももう一つ大きな差別があるんではないか、それは性差別だ、と。ジョン・レノン先生はオノ・ヨーコ先生に教えられて「女は世界中でニガーだ」みたいな曲を歌ったりして。まあ女性は経済的な差別だけじゃなくて、痴漢強姦その他の性暴力にもさらされているのに放って置かれているじゃないか、それは黒人に対する暴力や差別が放置されていたのとおんなじだ、ってわけです。(同じ意識から「動物も食べられたり毛皮剥がれたり実験に使われたりして差別されている!種差別だ!」って発想も出てきます。)

まあそうして第二波フェミニズムって呼ばれる動きが出てくる。70年代前半とかに女性が集まって、「こんなことに苦労している」みたいな話をすると、旦那やボーイフレンドや上司から侮辱されたり無理やりセックスされたりしているわけです。強姦・レイプっていうと道を歩いているといきなり暗がりに連れて行かれて「あれー、きゃー!」みたいなを連想してしまうけれども、実際に無理やりやられるのはデートとか夫婦関係とか職場の権力関係のなかでなんだ、ってんでデートレイプだのドメスティックバイオレンスだのセクシャルハラスメントだのってのが問題に上がってくる。今となっては、3、40年前にはそういうのが問題にされてなかった、って方が驚きですけどね。人々の意識は変わるものですね。

まあそういう性差別や性暴力を考えて、なんでそういうのがそれほど社会に蔓延しているかっていったら、それはポルノが悪いんではないか、ポルノが男たちが性差別したり性暴力振るったりする教科書になっているのではないか、ってのが基本的な発想ですわ。

まあ性表現とかエロとか、やっぱり圧倒的に女性が描かれる対象になってるし、男が無理やり嫌がる女をあれする、とかってのが典型的な表現だし。雑誌のグラビアなんか見ても女の子はちゃんとにこやかに笑っておっぱいを強調してなきゃならん、ベッドに横たわってなきゃならん、みたいな。背筋伸ばしてしっかり前を見ている姿とかあんまりエロくないっすからね。SMとか好きな人は縛られたりするのはだいたい女性だしねえ。まあ中年男性が縛られたりするのもいいのかもしれないですが、体の緩んだ中年男性が縛られてるだけだとなんかちゃんとエロにならないので女王様も同時に描かないとならんわけです。

まあとにかく性表現では男性と女性は別の扱いを受けていて、女性はだいたい受け身でいじめられたり暴力振るわれたりする側になってる、と。ケイト・ミレットって評論家が『性の政治学』って本書いたり、アンドレア・ドウォーキンっていう作家・評論家が『インターコース』って本買いたりして、フェミニズム批評みたいなのが流行するわけです。それまでの性表現なんてのはぜんぶ男の視点から男の都合の良いセックスを描いているだけだ、みたいな話になる。1960年代に超大物だったノーマン・メイラー先生とかが槍玉に挙げられたり。猥褻で問題になったヘンリー・ミラー先生も。まあでも今回は「猥褻」っていう切り口ではなく、「性差別」なわけです。

こういう動きの中で、セクハラ訴訟とかですごい成果を上げたキャサリン・マッキノン先生がドウォーキン先生と組んで性差別的な性表現を問題化しようって運動を立ち上げるわけです。

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性表現と表現規制(5) 猥褻規制の問題点

しかしまあ猥褻だから規制してしまえ、って考え方は多くの批判にさらされていて、一般にうまくいかないと思われています。

まずはなにが猥褻なのかが常に曖昧なことですわね。

まず定義そのものが曖昧。「いたずらに性欲を刺激する」の「いたずらに」ってのがどういう意味か。無駄に、ってことなのか。無駄に性欲を刺激するってんだったら、どういう場合に無駄じゃない性欲の刺激なのかとか。まあ他にも。

さらに判断の基準が曖昧。「いたずらに性欲を刺激する」とか「性的羞恥心を害する」とか言われたってどういうものが性欲を刺激するのかは人によって違うだろうし、どの程度刺激したら猥褻なのかとか謎。まあ人間のやることはある程度「だいたい」でいかなきゃらんので裁判官がだいたいで判断するしかないわけですが、まあこういうのはちょっと困りますよね。

性欲を刺激する度合いとか性的羞恥心とかが時代によって変化するってのを気にする人もいます。1970年ごろの日本だったら性器が丸出しになっている写真とかすごく入手しにくかったからいたずらにひどく性欲を刺激されたり性的羞恥心をひどく害される人もいたでしょうが、いまとなってはネットとかでそういう画像は嫌ってほど見てるのでなかなかそんなに刺激されませんね。残念なことです。

まあ欧米では1960年代後半から1970年頃に「セックス革命」が起こって、(一部の)若者がばんばん見境なくセックスするようになって、セックスの話をオープンにするようにもなったんでそういうのの影響もあります。セックス革命については立花隆先生の『アメリカ性革命報告』なんかが時代を感じさせて楽しいです。

「善良な性道徳」みたいなのも問題ですよね。いったいどういうのが善良な性道徳なのかわからん。まあそりゃ強姦とか平気でしてしまう人は道徳的にだめなわけですが、性的に活動的だったりセックスを楽しんでたりエロが好きだったりするのが特に道徳に反しているとは思えないし。セックスとか性欲とかそういう個人的なことに政府権力みたいなのが絡んでくるってのも問題がある気がします。公の感知しないプライベートな領域があるべきだ、って考え方が1950年代ぐらいには一般的になってました。

芸術か猥褻か、みたいなのも問題です。日本の判例でどうなっているのか知りませんが、米国のミラー判決とかでは「芸術的価値がないもの」が猥褻ってことになってるわけですが、芸術的な価値とかってのがどうやって判断されるのかわからない。やっぱりエロは芸術の基本なので、優れた芸術にエロは入り込んでくる。っていうか画集とか見てると、もう優れた芸術家はみんなエロいんではないかと思わされますね。私も画家になればよかった。まあこれは優れた芸術作品だから猥褻じゃないけど、これは下手くそだから猥褻、とか困ります。猥褻だけど芸術なものがあってもいい。

一番大きな問題として、それにそもそもなんで猥褻なものだから規制していいということになるかがさっぱりわからない。たしかに街中にそういう猥褻なものがあったら羞恥心を害されたり不快になったりする人もいるでしょうから困りますが、閉鎖された店からこっそり買ってきて家でこっそり見る分には誰もこまらない、っていうか制作者と本屋さんは本が売れて嬉しいし読者もエッチな楽しみを得ることができる。

だからまあ「猥褻だから規制しよう」ってのはよくわからない考え方ですし、憲法第21条で「表現の自由は保障する」っていってんだから刑法175条みたいなのは違憲なんちゃうか、すくなくともあんまり必要ないもんではないのか、みたいなのが憲法学者たちの主流の意見なんじゃないですかね。つまり、「猥褻」の議論は古いし、ほとんど終わった議論かもしれない。

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性表現と表現規制(4) 猥褻猥褻

ええと、んで猥褻なんですが、どういうわけかエロい表現は国家が規制してもかまわん、とみんな思いこんでた時代があるみたいなんですね。いまもそうかもしれないですけど。とにかくある種の表現はわいせつでいやらしくてけしからんので流通させないようにしよう。ロック先生やミル先生がそういうについてどう考えていたかはしりません。とにかくちょっとエロいのは許しますが、猥褻なのはいかんです。いかんエロい表現、それが猥褻。

まあ文学の話でいけば、19世紀半ば以降の自然主義とかってのが人間の本当の姿を描こう、みたいにしていろいろやばいことを書いたりして。でもまあそんなエロいわけではなく、人間ってこうだよね、みたいな感じで表現を拡張したわけですわね。でもふつうの人間っていろいろエロいことばっかり考えてるから、ふつうの人間を描こうとするとどうしてもエロくなったり、エロいと喜ばれるので芸術家もどんどんエロ描いたり。20世紀ぐらいにはもう露骨にエロを目指すものも多かったし、D. H. ロレンス先生やヘンリー・ミラー先生みたいに「エロこそ人間性」みたいな描き方をする人も出てきたりしてもうたいへんです。なんていうか、20世紀前半は芸術家みたいなキレてる人ががいろんなタイプのエロに挑戦し、半ば以降は中流の人もみんな性の解放を目指した、みたいな感じですかね。もちろん階級がもっと下の人はいろいろしてたでしょうなあ。実際は19世紀末〜20世紀前半の人たちはみんないろんなことしてたんでしょうけどね。

えーと、んで猥褻猥褻。

誤解されやすいんですが、「猥褻」obsceneっていう概念は、たんに「エロい」という意味ではないです。単にエロじゃなくて、プラスアルファがある。それはだいたい不快なものです。

日本だと、「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」が猥褻なもので、こういうものは頒布とか規制しても憲法第21条に反しないってことになってます。おもしろいですね。ふうつの人が見て恥ずかしくならないものは猥褻じゃないし、善良な性的同義観念に合ってればいい。普通の夫婦が「同衾した」ぐらいの文章だったら大丈夫なんでしょうが、善良な人は性器のアップ写真とか見たらなんか羞恥心を害されたり道義観念に反していると思うかもしれませんね。当然のことながら、医学写真とか「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ」ないので猥褻ではないです。

米国だと猥褻ってのは(1)平均的な人が、今日の地域社会の基準を用いて考えた場合、全体的に見て、好色な興味に訴えるものであり、(2)その作品は、当該の州法によって具体的に定義された性的行為を、明白に不快な仕方で、描写あるいは記述しており、(3) その作品は、全体的に見て、重要な文学的、芸術的、政治的、あるいは科学的な価値を欠くものである、みたいな感じです。猥褻は「不快」じゃないとならんのですが、まあなにが深いかってのは平均的な人が判断するってのでよい。

英国だと「当該物件が、それを入手する可能性のある者でその種の不道徳な影響に心を閉ざしてはいないものに対して、これを堕落、腐敗させる傾向を持つもの」とか。

まあ猥褻というのはこういうふうに、とりあえずは性的な関心を喚起するものであって、かつ、不快なものなのですね。そういうのは政府が規制してもかまわんのである、ってのが1970年ごろまでの話。

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性表現と表現規制(3) エロな表現

んでやっと猥褻の話なんですが。猥褻って字は難しいですね。私は書けません。猥褻猥褻。

言論の自由ってのはまあ政治的にはとても重要なので、民主的な先進国の市民ならほとんど誰でもその重要性を認めるわけですが、それでも言論の自由や表現の自由ってのは絶対的なものではないです。前にも書いたように、誰かについて嘘だとわかっていることを言いふらすとか、嘘の宣伝をするとか、誰かを面と向かって侮辱するとか、誰かの私的な生活を暴き立てるとか、暴動やリンチを扇動するとか、不快な話を聞きたくない人々の前で大声で話すとかなんでも自由です、ってなことになると具合が悪いです。そういうわけで日本の法律と判例でも表現の自由は公共の福祉に反しない限りで保護されるとかそういう限定がついているわけです。

ところでこれまで言論の自由と表現の自由を区別しないで使ってきましたが、まあ面倒なのであんまり区別しませんが、言論の自由ってfreedom of speechでやっぱり言語的な表現なわけで、なんからの思想の表現なわけですが、表現の自由でfreedom of expressionで図像とか動画とかはいってもっと複雑ですわね。

んで、18〜19世紀的な言論の自由ってのはやっぱり思想の自由なわけでありまして、あんまり画像のこととか考えられてなかったはずです。実際にあるアイディアを伝えるために絵を印刷するのが難しかったからでしょうね。いまなら本にイラストとかはいっているのはふつうというか、私はマンガ大好きなわけですが、図像を印刷するのはけっこう大変みたいですね。19世紀はじめの新聞とか線画みたいなのか銅版画見たいなのしかなくて、あんまりエロくない。絵画は一品物でカラー印刷とかできないですしね。エロが活躍するのは写真の技術ができてから……あ、まだエロの話じゃなかった。

いやまあエロの話にしますか。まあ表現の自由に関する議論のなかでも、エロ表現に関する規制は非常に面白いですね。人間のかなり多くはエロなことをしたりするだけでなく見たり読んだりするのもすごく好きなので、昔からいろんなエロが制作されているわけです。まあ芸術家も人間なのでエロが好きだし、人々がエロが好きなのでエロい作品を作ったりするのでまああれです。おもしろいことに、政府とかお堅い方々というのはあんまりエロが好きじゃないのですね。どうもエロには風紀を乱す力があるようで、文化が栄えるとエロが栄えて為政者がそれを作る人を処罰する、ってのが繰り返されるわけです。

特にエロい部分をあれしているのがエロいです

これたとえば古代ローマ時代のオウィディウスとかエロい詩を書いてたらアウグストゥス皇帝からローマ追放されたりしている。ギリシアやローマのエロチックな絵画や彫塑がどの程度エロいものとして見られていたかってのはよくわからんですが、少なくともルネッサンスとかのあの美術作品とか文学作品とかってのは当時の人にはとにかくエロくてすばらしかったでしょうなあ。中世のとは全然違いますしね。まあいま読むとボッカチオの『デカメロン』なんてそんなエロい感じはしないですが、それでもまあ当時はかなり赤裸々な感じだったろうし、ボッティチェリの絵とかもエロいですよね。とにかくエロはいい。まあそういうのは禁書になったり。18世紀イギリスでのクレランドの『ファニーヒル』とかいま読んでもエロいかもしれません。あと19世紀後半の匿名筆者による『わが秘密の生涯』とかすばらしい。むかしの富士見ロマン文庫はすばらしいです。

なかなか猥褻にならんですね。

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性表現と表現規制(1)

会田誠先生の森美術館というところでの展覧会に、ポルノ被害と性暴力を考える会(http://paps-jp.org/ 以下「考える会」)という団体が抗議をしたのをきっかけに、ネット界隈では芸術と表現の自由とかについての議論が盛んになっているようです。まあ性表現と表現の自由の問題は愛好者も多いし、もしかしたら深刻な問題を含んでいるかもしれないので興味深いですね。

私自身は「芸術」みたいなもの全般はとにかく、造形美術の方はまったくダメというかよくわかんなくて、造形美術とかについて語る資格はまったくないし、芸術一般というくくりを超えてはそんな興味があるわけでもない。造形とかで興味があるのはアートではなくむしろずばりエロ。でもまあ性表現と表現の自由の問題はセックス哲学の問題として興味深いし、本物の問題があるように思っていますので少しずつ書いてみたいと思います。

「考える会」の抗議に対しては森美術館と会田先生本人から声明が出ていて、そのなかで会田先生は

僕の作品群の中には、性的なテーマとは限りませんが、人によってショッキングと受け取られる表現があると思います。そういう場合、僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。また「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけないとも考えています。発表する場所や方法は法律に則ります。 http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html 

てなことを言ってる。

ちょっと前にツイッターで、この「発表する場所や方法は法律に則ります」について、芸術家がそうした宣言をすることは危険だという趣旨のつぶやきがリツイートされて流れていました。その一人にお話を聞いてみると、そうした宣言は刑法175条のわいせつ物頒布罪という悪法を承認することであり、国家権力が表現に介入することを是認することであって、また会田先生という有力な芸術家がそうした宣言を行うことによって他の芸術家や表現者たちが萎縮してしまう(萎縮効果)という危険がある、ということのようでした。(誤解があるかもしれません)

しかし私の理解では上の会田先生の宣言をそう読むのはあまりよい解釈じゃない気がしたんですね。それを説明するには、まずは考える会の主張をちゃんと理解してあげる必要があるように思います。

考える会や、おそらくこの団体と近い関係にあるポルノ・買春問題研究会 http://www.app-jp.org/ の背景になっている理論はそれなりにおもしろいんですよね。基本的には1980年代にキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンといったラジカルフェミニストたちが生み出した物の見方。これらの人々は、ある種の性的な表現「わいせつ」だから規制するべきだってんではなくて、ある種の性表現はそれ自体が性暴力や性差別や性虐待であり、またそうした暴力や差別を生み出す社会を生み出している原動力だから規制するべきだ、ってな議論をしているわけです。とりあえず古臭い「猥褻」は直接には関係ないんですわ。

まあ長くなるんですこしずついきます。