昨日書いた部分はけっこう気になっているので、もうちょっと。(下では最初、subversiveを「攪乱的」と訳してたけどやっぱりなんかおかしいので「転覆」に一括置換した。よけいにおかしくなったかもしれない。)
pp. 136-139 でだいたいジュディス・バトラーの立場を共感的に紹介。まあだいたい国内で標準的な理解*1。で、次にヌスバウムの批判の紹介。(1)現実問題の解決に役立たない。(2)規範理論がない。
(1)の方は実践的に重要なんだけど若林先生の反論があんまりおもしろくない(「いろんなやりかたがあっていいでしょ」っていう感じ)ので、とりあえず(2)。
彼女〔ヌスバウム〕の批判の第二点目は、〔ジュディス・〕バトラー理論に規範理論が欠けているということに関してである。ヌスバウムによれば、バトラー理論に規範理論が欠けているために、抑圧的なジェンダー・システムの攪乱が社会的に良いことであり、正義規範の攪乱が社会的に悪いことであるという区別をつけることはできない。バトラーの理論が開放的に見えるのは、読者がそこに、人間の平等と尊厳という規範理論を暗黙のうちに挿入するからである。バトラーが、普遍的な規範的諸観念を、「同一」という記号のもとで植民地化しようとするものとして批判するのに対して、ヌスバウムは、我々は普遍的な規範に謙虚であるべきであり、抑圧されている人びとの経験から学ぼうとしなければならないと主張する。(pp. 140-141)
ヌスバウムの翻訳がないと思うから、該当する箇所を超訳。
私のように、現代のロースクルールでフーコーを教えてみればよい。すると、すぐに、転覆てのもがいろんな形をとりかたをすることがわかるだろう。それらがすべてバトラーやその仲間たちにとって好ましいものというわけではない。リバタリアンの鋭い学生は私にこう言った。「なぜ僕が、こういうアイディアを税制や差別禁止法に反対したり、あるいは民兵になったりするのにするのに使っていけなんでしょうね?」と。彼ほど自由解放が好きではない人びとは、転覆的なパフォーマンスをクラスでのフェミニスト的意見を茶化すのに使うかもしれない。あるいは、レズビアン・ゲイ法学学生団体のポスターを剥ぎとるかもしれない。これらのことは実際に起っている。こういうパフォーマンスは、たしかにパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、こういったパフォーマンスが革新的でよいものだ、とはいえないのか?
そう、こういった問題にはよい答がある。しかしそれをフーコーやバトラーに見つけることはないだろう。こういう問いに答えるためには、人間がどういう自由や機会をもつべきであるかを論議する必要があり、社会制度が人間を手段ではなく目的として扱うということはどういうことかを話しあう必要がある。つまり、社会的正義と人間の尊厳についての規範的理論が必要なのだ。我々は自分たち自身の普遍的規範(our universal norms)については謙虚であるべきでありそれゆえ抑圧さている人びとの経験から学ぼうとするべきだと考えることと、規範はなにもいらないと考えることとはまったく違ったことである。フーコーは、バトラーとは違って、少なくとも後期の著作ではこの問題に取りくんでいる様子はある。そして彼が書くものは、社会的抑圧とそれがもたらす危害についての激しい感覚によって活気づけられている。
たとえば、(個人的徳として理解される場合の)「正義」が、バトラー的な分析ではジェンダーの構造をもっていることを考えてみよう。正義は、生得的なものでも「自然的」なものでもない。それは反復的なパフォーマンスによってつくありあげられ(あるいはアリストレスが言うように、それをなすことによって学ばれ)、われわれの性向を形作り、またその一部の抑制を強制する。このような儀礼的パフォーマンスと、それにともなう抑圧は、社会的権力のarrangementによって強要される。それはたとえば、遊び場を独り占めしようとする子どもがすぐに身をもって理解することだ。個人生活だけでなく政治においても、正義のパロディー的転覆はどこにでも存在する*2。しかし、ある重要な違いがある。一般にわれわれはそういった転覆的パフォーマンスを嫌い*3、また、若者たちが正義という規範をそのようなシニカルに見ることは強くdiscourage*4されるべきだと考えている。バトラーは純粋に構造的・手順的な仕方では、なぜジェンダー規範の転覆が社会的によいものである一方、正義規範の転覆が社会的に悪いものであるのかを説明することができない。フーコーがアヤトラ〔ホメイニ師〕を応援したことは記憶しておくべきだ。たしかに、なぜ彼がそうしてならないのか?あれもまたレジスタンスだったのであり、〔フーコーの〕テキストのなかには、あの〔ホメイニの〕闘争が、市民的権利や市民的自由を求める〔ヌスバウムにとってもっと重要な〕闘争ほどの価値はないと教えてくれるものは実際のところなにもないのだ*5。
けっきょく、バトラーの政治の観念の中心はからっぽの空き地なのである。この空き地は解放的に見えるかもしれない。なぜなら、読者が暗黙のうちになんらかの人間の平等や尊厳などの規範的理論でその空き地を埋めるからだ。しかしここでまちがいがないように。バトラーにとっては、フーコーにとってと同様、転覆は転覆であり、それは原則的にどんな方向にでも行けるのだ。実際のところ、バトラーの素朴な空っぽの政治は、彼女がこよなく愛している大義causeにとって特別に危険なのだ。というのは、異性愛的ジェンダー規範の抑圧性を明らかにしようという転覆的パフォーマンスに熱心なバトラーのお友達たち一人一人それぞれに対して、1ダースほどもの納税規範に反対し、差別禁止に反対し、同級生に敬意をもつことなどに反対し、それらをあざけり笑おうとする人びとが存在するのだから。そういう人びとに対して、われわれは、「あんたはあんたの好きなようになんにでも抵抗できるわけじゃない」と言わなければならない。というのは、これらのふるまいを悪しきものだとする公正、品位、尊厳といった規範が存在するからである。しかしそうしようとするならば、われわれはそういった規範を明確に表現しなければなない—そしてこれがバトラーが拒否することなのだ。
(http://www.akad.se/Nussbaum.pdf だと9ページ目から。)
うまく訳せないところがけっこうある。ごめんなさい。このヌスバウムの批判についてはまあちょっとアレすぎるかな、とは思うけど、まあ全体としてはそうなんじゃないかとか個人的には思うのだが、どうか。ヌスバウムの文章は骨太で怒りに満ちててかっこいい。
一番上の若林先生の要約がここらへんのうまい要約になっているか、というとちょっと微妙だと思う。「ヌスバウムは、我々は普遍的な規範に謙虚であるべきであり、抑圧されている人びとの経験から学ぼうとしなければならないと主張する。」ここで終るのは微妙におかしいっしょ。あ、それに「普遍的規範に謙虚であるべき」はあきらかに大きな誤読だね。「自分たちが信じてる規範が普遍的だと思いこむのはだめだよ」って言ってるわけで。ぐは。かなり致命的。だいじょうぶかな*6。
んで、上のヌスバウムの紹介につづくのが昨日書いたこれ。
確かにバトラーは、規範理論を明示的な形で展開してはいない。しかし、『触発する言葉』において、教育の場における憎悪表現の使用がその種の言葉の使用を煽ることになったというバトラー自身のエピソードは、ヌスバウムが危惧しているところと一致しており、また別の場所でバトラーは、民主主義を擁護することを示している。 (p. 141)
「ヌスバウムが危惧しているところと一致」はアナクロかもしれない。むしろヌスバウムはExcitable Speechの昨日あげた部分を読んだ上で、自分の体験もまじえて批判書いているはず。おそらくヌスバウムは現場の教師として、あの曖昧模糊としたバトラーの記述からなにが起こったのかを十分具体的に推測できたのだろう*7。
問題は、「民主主義を擁護することを示している」。ほんとか?
この論点の根拠として示されているのは『触発する言葉』のp. 137とp. 140。
あいかわらずなにが書いてあるのかわからん文章だけど、該当箇所は
自分の発言に他人がどんな意味を与えるか、どんな解釈の衝突が起こりうるのか、解釈の差異をどう裁定すればよいのかをまえもって知ることなどできないゆえに、この種のリスクや被傷性(ヴァルネラビリティ)は、民主主義のプロセスにはそもそもふさわしいものである。(p.137)
上のはハーバーマスの議論をいつものようにごちゃごちゃやっている部分の一部。
ハーバーマスの言い分なのかバトラーの言い分なのか、ハバマスあたってみないとかわからんような
書き方。しんどいので今日はやめ。
行為遂行的な矛盾を発することができるというとは、けっして自己破壊的な試みではなく、逆に行為遂行的な矛盾は、普遍に関する歴史的基準を継続的に定めなおし、練り上げていくためには、必要であり、それこそ民主主義が未来に向かって進展していくときには不可欠である。(p.140)
こっちはとりあえずバトラー自身の主張に見えるが、実質的にどういうことを言っているかはわからん。原文は “In this sense, being able to utter the performative contradiction is hardly a self-defeating enterprise; performative contradiction is crucial to the continuing revision and elabration of historical standard of universality proper to the futural movement of democracy itself.” なんじゃこら。”proper to” がどこにかかるのかわからんなあ。historical standardなのかな。最初の”hardly”も曖昧すぎる。
まあともかく、こんな文脈の参照二つ程度で、ヌスバウムに噛みついて「バトラーは民主主義を擁護している」と言えるのかな。そういってしまいたいのなら、ヌスバウムが指摘している「空き地を自分で埋める」を若林先生がやってしまってないって証拠が欲しいところ。かつ、もしバトラーが民主主義なりなんなりを擁護しているとしたら、そのバトラーの立場が、単なる彼女の好みとかっていう偶然的なものではなく、彼女の理論的枠組のなかでうまくなんかの形で必然的にわれわれに要求されることを示さないとならんことも上のヌスバウムの引用からわかると思う。これは難しい課題に見える*8。
だからこれじゃ私は納得しない。
追記思いつきメモ
- 「正義」という言葉の重さヘビーさを国内の論者はあんまり理解していない可能性がある。ヌスバウムがなぜバトラーに怒るのかってのは「正義」の重さがわからんとわからん。おそらくある種の人びとにとっては、「なにを茶化してもいいけど正義だけは茶化してはいかん」なんだと思う。あるいは、「正義」と「怒り」は密接な関係にある。単なる「公正 fair」だけではない。その重さがわかるかどうか。「善意benevolance」や「慈善charity」とかとは質の違う重さがある。「正義」は人びとの「幸福」だけではなく、人の生き死に、殺しあいにかかわるものだ。もちろん善意や慈善が正義より価値が低いと言いたいのではない。「正義」の血腥さを理解しているかどうか。
別のところに書いたが、
ヌスバウム一問一答
Which living person do you most despise, and why?
あなたがもっとも軽蔑する人はだれですか?I don’t waste time despising people. Anger is much more constructive than contempt.
わたしは誰かを軽蔑したして時間を潰したくはないわ。怒りの方が軽蔑よりずっと建設的よ。
- 真面目。ドイツ人であれば Ernst って呼ぶやつ。ヌスバウムはこれこそが重要だと思ってるんだろうけど、現代ではかっこわるいかもしれん。若林先生自身はこの徳をもってると思うんだけど、なんでそういう人がポストモダンなんだろうか。わからん。
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ショック
実は私は今日までヌスバウムの写真とか見たことがなくて、Hiding from Humanityの表紙絵はヌスバウム本人が脱いだんだと思っていた。勇気があるなあ、とか。だから私のなかでのイメージはこれだった。(なんかいろんなものが伝わってくるよい絵だと思う。)
ところが、Wikipdeia見るとこれ。http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Nussbaum_Martha2.jpg
ぐは。パツキンスマートベッピン金持ちエリート正常健康貴族的、つまり無敵。
やられた。うかつだった。そりゃ保守的にもなるだろうよ。アレテーもエウダイモニアも好きだろうよ。バーナード・ウィリアムズもかわいがってくれたろうよ。もうヌスバウム応援するのやめるし。今日から敵。
*1:もちろん私にははっきりとはつかめない形なのだが。
*2:ここの訳特に自信がない。
*3:おそらく英語圏ではバトラーの「転覆的パフォーマンス subversive performance」という表現は、「おふざけのおバカさわぎ」の婉曲な表現と理解されているのだと思う。この理解が正しいのかどうかは難しいが、渋い竹村訳とかではそういうニュアンスはわからんと思う。「クィア」な人びとの一部とカタブツのひとびととの現実生活での断裂がかいま見える。国内の研究者はどの程度そういうのを意識しているのか。特にフェミニストの人びとはどう考えているのか知りたいところ。私はどっちも知らない。
*4:すぐに訳せなかった。こんなのも訳せないなんて!
*5:イラン革命とフーコーの関係については誰かちゃんと解説してほしい。とりあえずここらへんか。
*6:もしこれほんとに誤読してるんならたいへん。私の勘違いであることを祈る。
*7:ここらへんはアメリカで教師をすることの困難さを感じさせる。ヌスバウムの書いていることはわかる。ヌスバウムは大学名を明かさずにだいたいどんなことがあったのか推測させてくれるが、バトラーは大学名学科名は明らかにしたのに何が起こったのかはあきらかにしてない。
*8:それがまったく不可能だとは思わないので、バトラーで行くぞってのなら腕を見せてほしかったと思う。
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