月別アーカイブ: 2007年10月

凡才学部学生必読文献・卒論への道

哲学・思想関係の卒論指導をしたことはないんだけど、どうなんかな。こっちは特に凡才・非エリート・スロウラーナー向けに考え中。秀才やエリートはあっち行け。

  • 読書量多いにこしたことはないだろう。でもなんでも読むのは無理だよね。時間は限られているから、いろいろ考えないとね。
  • まず山形浩生先生の『新教養主義宣言 (河出文庫)』と小谷野敦先生の『バカのための読書術 (ちくま新書)』を読んで教養にたいするあこがれを身につける。
  • 野矢茂樹先生の『新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)』をやって悪文やへんな文章を読む力をつける。読むだけじゃなくて実際に問題を解く。2ヶ月ぐらいかかるか。『101題』もやってみよう。
  • まともな記号論理学の本も一冊やりたい。命題論理だけでも十分だけど、できれば完全性定理まで。ちゃんと自分で問題を解く。頭悪いと一問解くのに一晩かかったりすることもある。でもそれを学部生のうちに一人でできるようなら、もうそれだけで研究者になる素質は十分。君は凡才ではないので以下読む必要はない。少人数の授業に出ること。
  • 中公世界の名著(と中公クラシックス)と岩波文庫、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫は安いので少しずつ揃える。でも学部生レベルでは一人で読んでも理解できないことが多い。
  • よい哲学入門書がないのが問題。おすすめできるのは、今発刊中の中公の『哲学の歴史』ぐらいじゃないのかな。ちょっとまえの岩波の『哲学講座』とかなのかな。九鬼先生の『西洋近世哲学史稿』とか山崎正一先生の『西洋近世哲学史』とかってのは古すぎるだろう [1] … Continue reading 。ある大学では、CoplestonのHistory of Philosophy[2]isbn:0826469485 とか。いまだに読まれてるのね。 を全部読めたら大学院は通るとかっていわれてたけど、いまどきそんな勉強する必要はないはず。
  • 自分で買うのは無理だろうから、図書館を有効に利用しよう!
  • やっぱり英語になっちゃうけど、Oxford University PressのA Companion to ~シリーズがなにをやるにしても非常によい。BlackwellのBlackwell Guide to ~も。大陸系やるときも読んどいた方がよい。
  • 学部生のうちに学会や(おじさんたちの)研究会に出てもあんまり得るとこはないのはほんとう。自分から質問できないところに行っても意味がない。でも読書会はやること。
    院生をつかまえて教えてもらう。院生は院生どうしで勉強するだけじゃなく、やる気のある学部生とも勉強するのが義務。テキストは上のCompanionシリーズとか、これまたOxford University PressのA Very Short Introductionシリーズとか。一人で勉強するとまちがった思いこみを直してもらうことができない。非常に危険。耳学問も大事だし。

  • まあ卒論は(1)誰もが認める偉い哲学者の1冊の本を選んでちゃんと隅から隅までじっくり読み、(2)超有名な二次文献を何本か読みその偉い哲学者の議論の功績と問題点を把握し、(3)その二次文献についての三次文献を何本か読み、(4)それをまとめる、ってので凡才ならば十分すぎると思う。ふつうはそこまでいかない。学問の道は長いよ。どれが超有名な二次文献かは、先生か大学院生に尋ねる。
  • 読書ノートは非常に重要。文献リストも重要。でも本当にどう作ればいいのかはそれぞれの企業秘密なので教えてもらえないかも[3]これ興味があるので優秀で生産力の高い人によく質問するんだけど、たいていはぐらかされちゃう。これも信頼できる先生や大学院生と仲良くなって酒飲むしかない。だから酒飲みは重要。
  • ふつうの大学に通っている人は、卒論レベルでは原典読むことができないと思う。語学はがんばろう。いきなり偉い哲学者を原典で読もうとしてもいろいろたいへんなので、やっぱりCompanionレベルの入門書を訳したりするところからはじめる。大学院生にチェックしてもらうこと。少なくとも英語だけはなんとかがんばろう。現在のふつうの大学教育では独仏語を読みこなせるようにはならんと思う。1ページ読むのに一晩かかったりするのもふつう。でもやっぱりがんばる価値はあるぞ。
  • 正直いって英語圏の哲学者の方が勉強しやすいし卒論書きやすいと思うけど、そういうことを考えて勉強をはじめるのはなんだかケツの穴が小さい。卒論書くのは一生に一回、好きなのやるべし。マイナーな思想家もいろいろおもしろいだろう。
  • 卒論用の勉強をはじめたときに、だいたいこうだろうと思いこんでたことと、できあがった卒論の結論がまったく違ってたら卒論執筆は大成功。そんな簡単じゃなかったことがわかればとにかく成功。最初に思ってたことを結論に書いちゃったらおそらく失敗。
  • 新書系はいろいろ読みたい。おそらく偉いのはNHKブックス = 中公新書 > 岩波新書 = 講談社現代新書 > ちくま = PHP > その他なのかな。後に行くにしたがって、より注意が必要になる。でもまあ新書系はつねにいろいろ注意しておくべし。読みおわったら、amazonその他の書評サイトもチェックしてみること。いちいち買ってるとおこづかいがなくなるので図書館で。
  • いわゆる理系の本もいろいろ読みたい。物理学、生物学、心理学など。でも哲学思想に比べて進歩がとてつもなく早いので、古めの新書とかは読む価値はあんまりない。生物学や心理学、言語学あたりだと、20年前の本は読む必要がないし、つねに新しいのを追っかけておかないと恥ずかしい思いをすることになる。ピンカーは「哲学やるやつはいろんな他分野の動向に関心もたないと哲学者じゃないよ」とかってこと書いてたような気がする。
  • 知ったかぶり野郎たちに注意。読書会で戦うべし。
  • 「これも知らないの?」とかっていう学問的恫喝に負けないこと。国内でそんなに勉強できる人は滅多にいない。経験的にそういう恫喝をしかけてくるひとにまともな人は少ないと思う。もちろんほんとうに賢い人もいるので、そういう人とは親しくおつきあいしてもらうこと。
  • 何度も書くけど、凡才は一人では勉強できない。無理に一人で勉強しようとするととんでもない間違いに気づかないことが多い。もちろん自分が凡才でないと思っている人は別。
  • 狭いグループに閉じ込もらないこと。流派が違う人とは話しにくいけど、なるべく機会を得るように努力ぐらいすること。
  • ソクラテス対話篇とデカルトの『方法序説』『省察』、ヒュームの『人間知性研究』だけは早めに読みましょう。
  • たとえば『純粋理性批判』を選んじゃうと、とにかく読むだけで1年以上かかる。学問の道は長い。
  • 1、2回生向けの授業ってのは教員が手を抜いてるからあんまり価値がない。3、4回生のときに院生が出てくる授業で勉強するのがコツ。1、2回生のうちはいろいろな人とつきあったり広い分野の本を読んだりして、視野を広げておくこと。
  • わかってないのにわかったフリしないこと。哲学や思想は難しいのでわからないことだらけ。
  • 自分が学問としてまじめに哲学や思想やりたいのか、文学や文芸批評のようなものをやりたいのか、あるいは広い意味の物書きになりたいのかとかってことは一度考えてみること。文学もいいもんだよ。あと狭い意味の哲学やるってことは、なんか思考を強制されているような感覚があって不愉快なもので、なにかを失う感覚をともなうってのを知ってほしい。「ほんとはこう考えたいのに、こう考えざるをえない」ね。これいやな人は哲学やらないほうがいいかもしれない。あと、わりとはっきり「できる・できない」がわかっちゃう業界なので、凡人は劣等感に悩まされることが多い。批判してなんぼ、批判されてなんぼ、お互いに批判してなんぼの商売だ。
  • 「良書を読む秘訣は、悪書を読まないことである」らしい。
  • 自分の関心に応じた雑多な読書はほんとうに大事で、哲学思想の他にどういうものを読んでいるかで勝負が決まるところがあると思う。「売り」として、どうしても他の研究者とちょっと違った精神生活を営むことが生き残りに必要で[4]あまりにも他人と違う精神生活を営むと電波扱いされるし、生活にも不便だろう。、これはもうほんとに自分のセンスで行くしかない。私は平凡なので売るべきものがない。こういう「必読文献」とか真に受ける人もいろいろ考えた方がよいかも(私はこういう「必読」とか「教養」とかハウツーものとか好きなんだけど、こういうのがまさに平凡な人間の証拠だってことだけは理解しておく必要がある)。
  • 本読むのが嫌いだとか義務だとか思うひとは、ほんとに研究とか志しちゃって貧乏院生~窮乏OD生活して平気なのかどうか考えなおした方がよいと思う。それは悲惨です。
  • ほんとに一流になりたいひとは、外国で何年もかかってPhDとったりしなきゃならんので、家族生活なんかについても考えなきゃならんようになる。学部生のうちは、国内ではボーイフレンド・ガールフレンドは作らん方がよいのではないか、なんちゃって。
  • 補足。電子辞書は非常に優秀なので、常に携帯して分からない日本語があったらすぐに引くように。学部1,2回生でこの癖をつけられるかどうかでいろいろ違ってくる。国語辞書持ち歩くのは物理的に無理だろうし、広辞苑なんかを常に机に置いとくのも普通無理だろうから。引かないよりはすぐに引いた方がずっとよい。ぜひ買ってください。ただし広辞苑は歴史的順番で並んでいるのでオススメしない。あと読み方さえ分からない漢字を見つけたら、漢和がすぐに引けるようにしてくこと。外国語については電子辞書はたしかにやめた方がいいねえ。
  • 哲学思想系ではwikipediaその他、web上の情報はまったく役に立たないからね。
  • うーん、これは私が偉そうに書くべき内容じゃなかったな。まあスロウラーナーがスロウラーナーなりに生きていこうとするときに、こういう考え方もあるって程度でゆるしてちょ。
  • これは学部学生・卒論の話じゃなくて修士・修論の話なのではないかという意味の突っ込みあり。そうかも。でもみんながんばってね。だいたいどんな分野でも20,000時間有効に使うと一丁前になるらしいです。私がまだ生きているうちにいろんな成果を見せてください。

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References

References
1あと波多野精一先生の『西洋哲学史要』本棚から発掘してめくってみたけど、もうこういうものであらましだけを勉強する時代じゃないね。そういう時代は遠くなった。
2isbn:0826469485 とか。いまだに読まれてるのね。
3これ興味があるので優秀で生産力の高い人によく質問するんだけど、たいていはぐらかされちゃう
4あまりにも他人と違う精神生活を営むと電波扱いされるし、生活にも不便だろう。

山口裕之「生命科学の非倫理性」

・・・倫理的問題とは、結局のところ価値意識の問題であり、感情の問題である。われわれの倫理的価値意識は、〈特定の〉他者を思いやる善意と、その善意を正しいものだと感じる感情によって支えられている。倫理的問題がえてして水掛け論になり、感情的なののしり合いに発展することの理由はこの辺りにある。そうしたののしり合いのなかで、人は、倫理的な動機ないし感情に従うまさにそのことによって、非常に非倫理的に振る舞うことになる。論争がののしり合いになるのは、自分の正しさ(実は自分の感情にすぎないもの)のもとに相手を屈服させようという感情に突き動かされるからである。そして、相手を思いやることが倫理の根本だとすると、相手を屈服させようとすることは、論争相手のことを思いやっていないがゆえに、非倫理的である。(山口裕之「生命科学の非倫理性」、石田三千雄他『科学技術と倫理』ナカニシヤ出版、2007、 pp. 97-8。強調は原文傍点。)

うーん。わりとナイーブな主観主義・相対主義。どうして他では優秀な人も、道徳判断の話になるとこういうナイーブな立場になってしまうのだろう。もちろん、生身の人間が倫理的な問題を議論するとしばしばののしりあいになり、その背景には倫理的判断に不可欠の感情があることはよい指摘だ。しかし、道徳判断は単なる感情だという主張は、大昔からたいていの哲学者によって反駁されている。感情に加えて少なくともなんか首尾一貫性が必要だとされているはず。また、「〈特定の〉他者を思いやる」善意とそれに付随する感情が倫理的価値意識だとすれば、特定の論争相手を思いやらないことは特に非倫理的であるとは思えない。あと少なくとも「相手を思いやることが倫理の根本だとすると」という条件節に対して筆者が肯定するのか否定するのか単なる仮定なのかぐらいははっきりさせないと、最後の「非倫理的である」がたんなる感情の表明なのか、なんらかの一般的な主張なのかがわからん。ここらへん推敲が不足しているだけかもしれん。

ちなみに、この文章の前では

・・・「自分の考えが正しい、それは相手も従うべき普遍的な正しさなのだ」とやみくもに信じて、相手の「善意」には思いいたさずに、相手が間違っていると一方的に決めつける者がいたとすると、私の言いたいことはやはり同じである。「勝手に決めるなよ!」。(p. 96)

私はこの方の善意にはまったく疑問をいだかないが、「勝手に決めるなよ!」はたんなる感情の記述か表出のどちらかだと考えざるをえない。これがたんなる「感情の表明」と解釈されていいのだろうか。

ドーキンスのタイプの「社会生物学」について(ドーキンス自身は「社会生物学者」を自称しているのかな?まあいいか。)。

例えば私が純粋な親切心からしている行動について、はなから私自身の意図を質問する気もなく、「それは血縁者を多く残すための行動である」などと説明するならば、私の言いたいことはやはり、「勝手に決めるなよ!」である。(同書「科学的認識の倫理性」、p.108)

これは至近因と究極因を混同している。っていうか、その手の学問を完全に誤解していると思う。社会生物学者や進化心理学者はそんなまちがいはしない(もしそういう混同をするようであれば、学界から追いだされるだろう)。まあでも、この二本の論文全体を通して主張されている「地獄への道は善意によって舗装されている」はまったく同意。

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これまだ見つけられません → 教えてもらいました

に書いた「社会の幸福を有意義かつ正当に増大」の出典調査中。英文ざらっと見ても見つけられない。誰か助けて。

特に重い先天的障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって、「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」(トゥーリー[1988:39])

出典がまちがっている。トゥーリー1988は文献表によれば加藤尚武・飯田亘之(編)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会1988だが、39ページはトゥーリーの論文ではなくプチェッティの論文。あれ、この一文は前にも見たことがあるが、出典があやしいぞ。あら、これ翻訳(抄訳)に出てこないんじゃないかな(原典にはあるかもしれんけど)。またエライこと発見してしまったかもしれん。まああとで調査。ぐびぐび。

だれかのロンブンでも同じ引用文を読んだことがあるんだ。だれだったかなあ。

For in the vast majority of cases in which infanticide is desirable, its desirability will be apparent within a short time after birth. Since it is virtually certain that an infant at such a stage of its development does not possess the concept of a continuing self, and thus does not possess a serious right to life, there is excellent reason to believe that infanticide is morally permissible in most cases where it is otherwise desirable.

っていう文章はあるんだけどね。(最後から二つ目のパラグラフ)。和訳では

嬰児殺しが希望される大多数のケースでは、出産後の短い時間内に嬰児殺しの希望がはっきりする。生長のその段階の嬰児が持続的自己の概念を所有せず、したがって、生存する重大な権利を所有していないのは、事実上確実である。それゆえ、何かの理由で嬰児殺しが望まれるほとんどのケースで、嬰児殺しは道徳的に許されうる、ということを信じてよい十全な理由が存在することになる。 (p.109)

まあたいていの人にとって恐るべき結論だ。ただし訳文の「希望」はちょっと訳しすぎかも。(なんらの理由からもうちょっと客観的に)「望ましい」だろう。嬰児殺しって書いちゃうとどうしたって「面倒だから殺しちゃう」とかそういうのを考えてしまうけど、このころに問題になってたののは新生児を殺すってよりは、治療をひかえて死なせること。これもかなり多くの人が非常に強い抵抗を感じると思う。私も感じる。

でもまあ考えてみなきゃならないのは、たとえば超未熟児(超低体重児)に対する対応なんだよな。

超低出生体重児-新しい管理指針

超低出生体重児-新しい管理指針

この本で東京女子医大の仁志田先生たちは、24週500g未満の新生児を助けることさえ可能になってるんだけど*1、どうにも予後が悪いので、「生育限界」という考え方を入れなきゃならんのではないかと提唱している。

日本全体のコンセンサスとして、このくらいの児は治療を受けるべきであるとするレベル、すなわち一般的な同意としての生育限界は28週、1,000g前後であろう。この生育限界以上の児は、どこで生まれようともすべての日本人同様に現在の医療のレベルを受ける権利があると考えるべきである。 (p. 27)

ということらしい。逆に言うと、28週未満の子はそういう権利がないかもしれない(治療せず死なせることも許されるかもしれない)ということを含意していることに注意。もしどんな新生児も生きる「権利」や治療を受ける「権利」をもっているのならば、仁志田先生たちの立場は道徳的に許容できない。したがってなにがなんでも治療するべきだってことになってしまうかもしれない。「権利」っていうのはそういう厳しい意味で理解されるべきで、たんなる「道徳的配慮の対象となる」ってのとは区別されるべきだ。

これほんとに難しい問題で、私はこういうのを考えようとすると頭がマヒしてしまうのを感じる。産科のお医者が減ってるとかってのもこういうのと関係しているのかなあと想像している。

おしえてもらいました。

Kさんに教えていただきました。ありがとうございます。第1節の最後の方にある。もっと後の方にあると思いこんで目に入っていませんでした。ほんとに私は目のなかに丸太はいってても気づかないだろう。

Most people would prefer to raise children who do not suffer from gross deformities or from severe physical, emotional, or intellectual handicaps. If it could be shown that there is no moral objection to infanticide the happiness of society could be significantly and justifiably increased.

翻訳にもちゃんとある。

たいがいの人は子どもを育てるからには、重大な欠陥や重い肉体的・感情的・知的なハンディキャップを背負っていない子どもの方がいいと思う。もし嬰児殺しに対して道徳的反論が存在しないことを示すことができたなら、社会の幸福 happiness of societyを有意義かつ正当に増加させることが可能となるのである。 (邦訳p.96)

「重大な欠陥」は「著しい形成異常」かなあ。”suffer from”ももうちょっと子ども本人の主観的な苦しみだってのを訳出したいような*2。If ~ couldの仮定法の感じも本当はもうちょっと出したい(「もし仮に~できるならば、~できるだろう」)し、significantlyはコメントにあるように「有意義」はちょっと違うけど、これくらいだと思う。まあなんにしてもちゃんと出典あります。

ついでにその次のパラグラフの文章も紹介。

The typical reaction to infanticide is like the reaction to incest or cannibalism, or the reaction of previous generations to masturbation or oral sex. The response, rather than appealing to carefully formulated moral principles, is primarily visceral. When philosophers themselves respond in this way, offering no arguments, and dismissing infanticide out of hand, it is reasonable to suspect that one is dealing with a taboo rather than with a rational prohibition. I shall attempt to show that his is in fact the case.

嬰児殺しは、それが引き起こす強い感情[的反発]という点においてもまた興味深い。嬰児殺しに対する典型的な反応は、近親相姦や食人に対する反応、あるいはマスターベーションやオーラル・セックスに対する古い世代の反応に似ている。その反応は、注意深く形成された道徳原理に訴えるものというよりも、むしろ主として本能的な[反発]であると言った方がよい。哲学者自身が、何の議論も提出せずに嬰児殺しの問題を却下し、さきに述べたような反応を見せるとき、その哲学者は嬰児殺しを理性的に禁じたのではなく、むしろタブーとして扱ったのではないか、と疑ってみる必要がある。事実そのとおりであることを私は示してみようと思う。(p.96)

primarily visceral は、「主として本能的な反発」でもいいけど、「まずなによりはらわたからの反発なのだ」ぐらい?哲学者はタブーを破って合理的な議論をしろとトゥーリー先生は言いたいのだろうが、まあ実際この問題を考えると頭はマヒし、考えただけで「胸が悪くなる」「吐きそうだ」と思う人は多いだろう。

おそらく国内で最も急進的な功利主義者である安藤馨先生は、『統治と功利』で

肉食の肯定について一貫的な立場を採るなら、親や周囲の愛情や配慮という外在的な要因が総て取り除かれるならば新生児を食用のために殺すことも原理的には否定されないだろう。(p.244)

とか書いちゃうわけだが、私はこういう書き方はできないなあ。こういうあざといはっきりした書き方をしちゃうから功利主義者はアレだと言われてしまうわけだが*3、まじめに考えれば安藤先生の主張はかなり説得力がある。それにこれも前提に注意。

オーラルセックスやマスターベーションやホモセクシュアルや人種間結婚に対する態度はずいぶん変ったけど、近親相姦や食人のタブーはもっと深く普遍的でなかなか変わらん。新生児治療停止に対する反発はどっちに近いか。

あともうちょっと「権利」について補足しておくと、「治療の予後が悪いことが予測される超低出生体重新生児は治療を受ける権利がない」という考え方は、「新生児はみんなそういう権利がない」という考え方よりもおそらくさらに受けいれにくい前提を必要とする。「権利」は難しい。

*1:人工子宮なんてのは、受精卵や胚の方からではなく、こっちがわから試行錯誤で攻めていけばいずれは実現されるのかもなあ。でもおそらくそれまでの過程がどこか非人道的になるのかもしれない。こういう発想は自分で考えてもショッキング。

*2:もちろんここから「社会の幸福を増大」させるってことにつなげるには問題の「非同一性問題」を解かないとならない。

*3:あと、「それを知る人々に与える不快感」とかも外在的な要因にはっきり数えあげた方がいいかも

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遺伝学の基礎を誰か教えてあげてください

http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071002

 遺伝病(=相続病)とされる病気において、孤発例が観察されることがある。例えば、遺伝病の典型と思われている血友病(X染色体連鎖遺伝)では、稀に女児の発病例が報告されるだけでなく、何と三分の一が孤発例とされている。これは、どういうことだろうか。教科書的な説明は二つある。新生突然変異の故にとする説明と、家系の種々の事情(追跡不能、病歴記録欠如、他病による早世など)の故に孤発に見えるだけと示唆する説明である。しかし、それで説明が付くことになるだろうか。そこに嘘はないにしても、何ごとかが解明されずに曖昧にされてはいないだろうか。

孤発例の人間が子孫を残すなら、家系を創出することで、いわゆる創始者効果を発揮することになる。そのまま進行するなら、孤発例は消失して、すべてが通例の遺伝様式に従うことになるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、それでも孤発例は出現するはずである。ところで、孤発例の人間が<優生>によって(殆ど)子孫を残せずに歴史が推移してきたとするなら、どうなるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、やはり孤発例は出現するはずである。以上を勘案しながら、(発病に<都合のよい>)突然変異率や遺伝子分布均衡などについて語るにはどうすればいいのだろうか。ここでも明らかなのは、<優生>には如何なる集団的合理性も無いということだが、それ以上に気にかかるのは、例えば、<三分の一もの孤発例を伴う遺伝病>が起こるようなポピュレーションとは何なのかということである。他の人びとは、<孤発例を必ず伴う遺伝病>なる概念に理論的不安を感じていないのだろうか。その不安をめぐる問いを正しく定式化する力は私には無いので、識者に教示を願いたい。

なんにも曖昧なところはないし、「孤発例を必ず伴う遺伝病」という概念になにもおかしいことはない。これからも運悪く血友病になる変異遺伝子をもつ人が出てくるだろう。宇宙線とか化学物質とかいろんな作用で遺伝子に影響があるのは避けられないのだから。

もしかしたらdesdel先生は、実体として特定のDNA配列の「血友病の遺伝子」ってのがなんか一種類ある、さらには一種類しかないと思ってるかもしれない・・・いやいくらなんでもそんなことはないだろう。あれ、私自身最初は「血友病の遺伝子」って書いちゃってるけど、まあこれは実体としてそういうのがあるってんじゃなくて、ある部分に異常があると血友病になっちゃうってことで。なるほどこういう書き方が誤解をまねくんだな。失敗失敗。

識者に教示してもらうまえにそこらへんの遺伝学や遺伝病の本でも読んだらどうか。木村資生先生の『生物進化を考える (岩波新書)』ぐらいでもいいじゃんね。木村先生がわりと単純な優生主義者だから読むのがいやだというわけでもあるまい。コメント欄あけておけば誰か生物学の基本を知ってる人が教えてくれるんじゃないかと思う。はてな人力検索で質問してもいいじゃん。「孤発例を必ず伴う遺伝病という概念はおかしくないですか?」とかけば、たくさんの人が答えてくれるはずだ。100はてなポイントで十分だろう。

まあブログで出版原稿を書く試み(これはかっこいい)で、「識者に教示を請う」のはただの飾りなのだろう。

追記

まあ好意的に読めば、よくわからない劣性の遺伝病因子とかきっととんでもなくたくさんあるね、とか、変異もっちゃうことってけっこうあるんだな、とか、血友病は伴性遺伝だから目立つんだな、とかそういうことなのかな。哲学者とかは「どんな病気も遺伝病である」とかっていいたくなるのかもしれない。実際、われわれがもっとよい免疫システムもってれば感染症さえかからないかもしれないわけだし。もっと生物として優秀ならガンも糖尿病にもならないかも。人間じゃなければ老化もないかもしれん。でもこういうのって「遺伝病」ってのを医学的な文脈とは違う使い方しちゃってるよね。

そういや上の木村先生の岩波新書のちゃんとした批判て見たことないような気がするな。先生はたしか(手元にないので正確じゃないけど)「現代の福祉社会では変異が淘汰されずに蓄積されて有害だから、ある程度優生考えないと」とな感じの主張してたはず。なんかそこのところは根拠があやふやで議論がおかしかった記憶があるんだけどね。ビッグネームで岩波新書だから一般読者には影響力大きいんじゃないだろうか。だいじょうぶなのかな。もう古いからどうでもいいのかな。お亡くなりになってるらしいから改版もしないだろうし。

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