研究生活」カテゴリーアーカイブ

日本ポピュラー音楽学会で発表しました

そういや、12月には日本ポピュラー音楽学会で発表させてもらったのでした。タイトルは「大学初年次教育におけるポピュラー音楽の利用」。

私は実は「自発的に学会で個人発表するオヤジの会」会員なので、毎年なんらかの形で自発的に発表しなければならないんですわ。偉い先生たちはシンポジウムに招待されたり、研究会でも強くお願いされたりしてやむなく話をするのが普通なのですが、我々自発的オヤジの会会員は、そうした要請とかないので自分で出張るのです。

私は会員歴も長いので、「ぜんぜん自分の本来の専門と関係ない学会に自発的に新規入会して、さらに発表する」という非常に難度の高い課題に挑戦しました。50歳を超えてこういうのするの、学会としては迷惑なんでしょうけどそういうの無視する、会費払ってるんだから発表させろ、そういう強い態度が望ましいとされています。

まあこの学会とても楽しかったですね。倫理学とか生命倫理学とかジェンダー論とかって、どうも暗い。人々の苦しみを想像して辛い。でも音楽は基本はもう美しく楽しいばっかりっすからね。懇親会も、学会当局がちんどん屋さん呼んでくれて、ちんどん屋にひかれて会場に移動、会場でも演奏を聞くってんでとてもよかったです。

チンドン屋さん

学会員を懇親会に誘導するチンドン屋さん

というわけで、まあいちおう発表につかったスライドのPDFあげときますね。そのうちまともな文章にしたいとおもっていますが、だいぶ先になるでしょう。

 

大学初年次教育におけるポピュラー音楽の利用

 

 

関係した翻訳がいちおう出版されましたので買ってください

2019年度、関係していた翻訳が2冊出版されたんですよね。

どっちも予定や締切を大幅に遅れに遅れて、関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。ウィリアムズの方はどろどろの文章で訳すどころか言いたいことを読み取るにも苦労しました。ミルの方は知識が足りなくてうまく訳せない。

なにより訳語の不統一や誤字誤植が最後まで残ってしまって、私そういう作業がほんとうに苦手で何度もヘソを噛み切って死なねばならないとつらい思いをしました。もうこういう経験はしたくない。特にミルの方は途中で投げ出してしまい、「もう私なにもできないのでそちらで適当におねがいします、名前出さなくてもかまいません、むしろ出さないほうがいい」ぐらいの話にまで至ってたのですが、いろんな事情から名前がでてしまった。いろいろ忸怩たるものがあります。

でもまあ可能なら買ってください。ウィリアムズの方はいちおう20世紀の後半、80年代ぐらいの倫理学の方向性を決めたような重要な本だし(私はそういうの納得してないのですが)、ミルの方は誤謬推理(詭弁)の研究で、とてもおもしろいはずです。誤訳や誤植残っていると思いますので教えて下さい(他力本願)。岡本先生や佐々木先生の解説もよいです。誤謬推理の話はおもしろいから、時間があったら少しずつ紹介したい。っていうか、前の「宇崎ちゃん」の話はそれやるつもりだったのですが、なんかへんな方向に進んでしまった。ははは。

まあ正直、このふたつの仕事がずっと残っていて、自分がやるべき仕事ができなかった、みたいな感じもあるのです。これが終わってさあやりたいことをやろう、とか思ったのですが、もう浦島太郎でおじいさんすぎてなにもできませんわね。まあ失敗した勉強人生な感じ。とにかく私は下手な翻訳関係で時間つぶしすぎましたね。

個人的な思いとしては、この2つはどちらも共同作業なので自分の好きなようにはできなかったのですが、これもよくなかった。私は協調性が足りないので、とにかくなんでも自分の好きなように、自分がすみからすみまでコントロールできないと意欲がわかない男だったようでもあります。これからは全部自分が決定できることしかしない。(そしてそんなことはこの世には存在しないのでなにもしない。ははは。)

私から若い人々にアドバイスするとすれば、翻訳の仕事はとても勉強になるので声がかかったら1、2回やってみるのはよいと思うのですが、人によってはかけた労力ほどの実りがないと思うことも多いだろうし、現代ではとにかく出版が大事なのでやっぱりそっち優先するべきじゃないかと思いますね。

 

 

認知の歪みと『ファクトフルネス』

ずっと前に「認知の歪みと研究者生活」っていうエントリ書いたんですが、その後も認知の歪みとは闘いつづけてますわ。ほっときゃ認知が歪むのが人間ってもんでねえ。

前のエントリでも書いたように、倫理的な問題とか社会的な問題とかっていうのは人々の苦しみとかどうしても考えざるをえないので、そういうのにあんまり入れ込んでしまうとどんどん認知が歪んで鬱的になったり逆に攻撃的になったりしてしまう。研究だけじゃなくてネット生活というのも、意見や判断を異にする人々と共存しなきゃならないものでストレスがかかります。

大学教員生活も、他のサラリーマン生活ってほどじゃないにしても、まだ発展途中の学生様や微妙に気難しい他の大学教員の先生たちとつきあわねばならないのでけっこうストレスかかるし。まあストレスのない人間関係というのはおそらく無理、っていうか人類が群居的動物として進化している最中ずーっと人々を苦しめているものでもありますわね。しょうがない。

前のエントリでは、デビッドバーンズ先生の10個のよくある認知の歪みリストを掲載しましたが、ハンス・ロスリングの『ファクトフルネス』でも似たような10の思い込みのリストがあげられてるので写経したい。第1〜10章のタイトルはこんな感じ

  1. 分断本能 Gap:「世界は分断されている」という思い込み
  2. ネガティヴ 本能 Nagativity:「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
  3. 直線本能 Straight Line:「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
  4. 恐怖本能 Fear :危険でないことを、恐しいと考えてしまうという思い込み
  5. 過大視本能 Size:「目の前の数字がいちばん重要だ」という思い込み
  6. パターン化本能 Generalization:「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
  7. 宿命本能 Destiny:「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
  8. 単純化本能 Single Perspective:「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
  9. 犯人探し本能 Blame:「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
  10. 焦り本能 Urgency:「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

 

バーンズ先生のリスト再掲すると

  1. すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
  2. 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
  3. 心のフィルター。悪いことしか見えません。
  4. 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
  5. 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあれは悪いものだ、あいつは悪いやつだ。
  6. マイナス思考。だめだー。
  7. 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
  8. 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
  9. レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
  10. 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」

ロスリング先生のとバーンズ先生のとのあいだに対応関係がありそうで、表作ってみようかと思ったけど面倒だからやめます。でもまあなんとか生き延びるために認知の歪みに注意して年末を乗り越えましょう。それにしても10個ってのは多くて覚えにくいわよね。7個ぐらいにおさめてほしい。

 

 

 

 

北田先生から怒られてしまった (4) どんなとき行為はパフォーマティヴ?

というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。

前にも書いたけど、この「パフォーマティブ」はオースティン先生たちの意味ではない。それはありえない。んじゃ、ある行為が「パフォーマティブである」っていうのはどういうことか?一番素直なのは「パフォーマンスである」ですね。パフォーマンスとしての行為。この「パフォーマンス」はふつうは演技とか楽器の実演とか、そういうのですわね。でもそれじゃおもしろくない。

たとえば私が学会懇親会で、浪速大学教授たちが性的に活発なことを指摘したら、その「パフォーマティブな行為」の意味はなにか。ていうかそれじゃパフォーマティブじゃない行為っていうのはどういう行為なのか。

こういうのぜんぜん説明してくれないからわからんけど、北田先生みたいなルーズだけどかっこいい言葉づかいする人々は、おそらく、「直接やっているように見える行為と別の行為が同時におこなわれている場合に、その行為はパフォーマティブだ」とかそういう感じになるんだと思う。

浪速大学教授の性的活発さを記述するのは、それによって浪速大学教授たちを貶めたいという江口のパフォーマティブな行為だ、とかそういうふうになるんちゃうかな。

でもこれってほんとにつまらない。だって、われわれの行為って、別に二つ三つの意味とか意義とかがあるのってふつうのことじゃん?誰かとセックスするとき、コミュニケーションしたり射精したり愛を確かめたり、性器を接触させたり、オルガズムスを経験したり不快を経験したり、労働したり、男性優位社会を確認しつつ女性の優位を推定したり、まあいろんなことしてるじゃん。「一つの動作に一つの行為の意味」みたいなふうにはなってないし。行為においても発話においても。だから「パフォーマティブ」っていうのが指摘するのがおもしろい概念や特徴であるとしたら、たんに二つ以上の行為をどうじにやってるってことじゃないと思う。

んじゃなんなよ、って話になるとこれまた面倒ですわなあ。もうちょっとつめられるとは思うけど、もう面倒だからやめ。ヒントだけ書いておくと、字義どおりの発言や行為と、それによって目指されてる全体的な(他者への)影響の違い、とかになるんだろうけど、そういうことになったときに、北田先生とかがなんかやってる「意図にかかわらず」みたいなの可能なのかどうかよくわからん。でもそういうのも、まじめに考えたきゃバトラー様の難解すぎるか、さもなくば無内容であるか、あるいは難解で無内容かもしれない文章いっしょうけんめい読むより、ふつうの行為の哲学とかそういうのやった方がいいんちゃうかな。とにかくバトラー様はうんざりしたし、北田先生のおかげでほとんど理論的なことも具体的なことも考えてないのがはっきりしたと思う。まあでも好きな人はがんばってほしい。

 

 

北田先生から怒られてしまった (3) 具体例がないとわからない

そもそも、北田先生の、バトラー様(や北田先生や小宮先生の)「準拠問題」(=問題設定?)を認めるとか精査するとか、そういうのっていうの抽象的にはよいことだと思うけど、具体的にどういうことなのか考えてみるとよいと思う。

北田先生はバトラー様が二つの「準拠問題」を立ててるといっている(と思う)。一つめは、(1) 「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」とからしい。

しかし、ふつうの読者はここまでで、ポルノグラフィは中傷的表現である、っていう立場があることを十分説明してもらってないから、話がわからないはず。そもそも「ポルノグラフィ」の定義ももらってないし、「中傷的発言」もどういうのが中傷的なのかはっきりとはわかってないと思う。たとえば「お前は馬鹿だ」みたいなのが一般に中傷的発言かどうか……罵倒ではあるだろうけど、これ中傷(「根拠のないことを言って他人の名誉を傷つける」)なの?なんか具体例考えてくれないとわからん。

さらに、北田先生の「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」という定式化は曖昧すぎて使い物にならない。(a) 「理解する」の主語が誰かわからない。私?北田先生?我々?、(b)「意図によらずに」がわからない。「発言者の意図を考慮せずに」ってこと? (c) 「いかにして可能か」はよくつかわれるみたいだけど、「実際やってるけどその理論的背景はどうなってるの」っていう意味と、「どうしたら可能になりますか?」っていう意味が曖昧。このままでは使いものにならない。こんな曖昧で自分たちが書いてる意味さえわからないようなのが「準拠問題」であるとは思えない。

「中傷的発言の発言者の意図によらずにその行為を理解する」は実際わからんでしょ。「中傷的発言の発言者が、どのような意図にもとづいたものかにたよらずに、我々がその発言の内容や発言全体の意味を理解する」、だったら少しまし。

具体的に考えましょうか。たとえば、たとえばですよ、学会懇親会で「浪速大の男性教授たちは性的に活発で偉いですなあ、繁華街でとんでもないお金をつかったりとお聞きしましたし、複数の学生様とも交際したりしているらしいですなあ、いやあすばらしいことです」とか私が発言したとするじゃないですか。そういうとき、私はいったい何を言おうとしているのか、って問題になるときがあるかもしれない。

でもまあおそらく私が浪速大学の男性教授個人、あるいは集団に対して、皮肉とか侮蔑とかの意図がなければ皮肉や侮蔑ではないといえるのかどうか、微妙ですな。また、この発言に根拠がないなら中傷かもしれないけど、十分な根拠があったらどうだろう。つまり、根拠がしっかりしていて侮蔑中傷の意図がある、根拠がなくて侮蔑中傷の意図がない、根拠があるけど侮蔑中傷の意図はない、根拠がなくて中傷の意図がある、みたいなの考えたいわけかね。

北田解釈でのバトラー準拠問題はいったい、こういう具体例にしたときにどういう問題なのですか。別の問題でいいから具体的に説明してください。まあ具体例は、東大の社会学教授が、現実の性暴力を題材にとった小説家に対して、小説が事実とちがっていることを指摘することとなにか関係があるとわかりよい。

なんかわからなくなってきた。私がいいたいのは、北田先生が「江口はわれわれの準拠問題に興味をもたない」とか非難しているように見えるんだけど、その準拠問題だかなんだかがそもそもわけわけわからんし、そんなものにつきあってる時間はない、みたいな。もっと具体的な問題を考えるのと、主語とか目的語とかはっきり書くっていうのを大事にしたらどうだろうか。しかしこれ、私が北田先生におねがいするようなことなのだろうか。あいまいでわけわからん文章で質問されたり非難されたりしても、困ってしまうだけです。

バトラー様の準拠問題(2)は「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる」なんだけど、これももう最初からわからんし、やっぱりこういうの文章で書くの無理ですわ。北田先生の頭のなか想像するのも苦しいし。いっておきたいのは、まず具体例を出してほしい。「浪速大学の先生は助平だ」という発言があったとして、それを発語内行為として認めるとは?私が浪速大学の先生は助平だとして侮辱した、でいいですか?助平であることを指摘するのが侮辱することならそれでいいのではないか。私が浪速大学の先生が助平であることを指摘して、その発言において浪速大の先生を侮辱していることを認めたら、私の意図やその文脈の適切さを認めることになるのですか?なにを言ってるのかわからない。こんな準拠問題だか問題設定だか認められるわけがないではないですか。具体的に考えましょ。

 

というわけでおしまい。話になりませんでした。

 

 

 

北田先生から怒られてしまった (2) 「準拠問題」ってなんですか

これ、たずねられたり怒られたりしていることじゃないから書く必要ないのかもしれないけど、そもそもこの北田先生の論文で何回も使われてる「サイレンシング」とか「トーンポリシング」とか、いったいどういう概念で、ある人の発言や行動がサイレンシングだったりトーンポリシングだったりする基準はなんですか。それにそれは常に不正なことや悪いことなんですか。そういう説明なしに瀬地山先生は小説家や性暴力の訴え(?)をサイレンシングしている!それはバトラー様の準拠問題のもとでわかる!とかっての、ほんきですか。

そもそも、バトラー様の準拠問題ってなんですか。たとえば論文だか著書だからしらないけど、「アセンブリ」まわりの話で、「そこに人間が集るだけでたむろするだけで行為になる」みたいな話があるみたいだけど、そらそうでしょう。別に難しい言語行為論もパフォーマティブもいらんのんちゃうかと思う。必要ですか?

もともとのジェンダーのパフォーマティヴィティとかだって、われわれは社会で男らしいとされている服装したり、そうしたふるまいをすると、男らしいと思われる、ってなぐらいの話でしょ?そこで使われる慣習みたいなのを尊重することもできるし、ちょっとひねりくわえたりするとおもしろかったりする。こんなわかりやすい話のどこに、ラカンだのアルチュセールだの必要なんですか。関係ないじゃないっすか。

私が思うに、傷つきやすさは大事だとか、人権が大事だとか、連帯がだいじだとか、そういうバトラー様が言ってるかもしれないことはそらみんな最初からわかってるわけですわ。問題は、卵が壁に次々にぶつかって割れていくようなとき(そして、壁の向こうがわではその衝撃でやっぱり卵が割れてしまってるとき)に、私らどうしたらいいかってことでしょ? 卵が壁にぶつかって無駄に割れるの気の毒だから、壁に少しヒビでも入れといた方がいい?卵が動けないようにもっと監視した方がいい?それに対してバトラー様やそのフォロワーの先生たちはどうしたらいいか具体的な方策や考え方本当にしめしてくれてますか?

ていうか、そんなシビアな話までいかなくても、北田先生はバトラー様が『触発する言葉』でポルノグラフィーと中傷的発言や差別発言を社会的にどうしたらいいと主張していると考えてますか? 暴力的なポルノもそのまんま制作・流通させてOKなの?中傷的発言そのまま流通させてていいの?それともなんか法的規制をしてもかまわないって言ってると思いますか?どういう規範的判断しているの?そしてその規範的正当化どうしるの?それ紹介できますか? 私あの本何回読んでできませんよ。ふつうできないと思う。

 

 

北田先生から怒られてしまった (1) パフォーマティヴってなんですか

『現代思想』のジュディス・バトラー特集号に載ってた、北田暁大先生の「彼女は東大を知らないから:実践のなかのジェンダー・トラブル」という論文で、私が日頃ツイッタやブログで適当にかきなぐってることについて怒られてしまったのでお返事しようかと思ったのですが、先生の論文はものすごく難しくて何を言ってるのか理解するのにとても時間がかかりました。けっこうがんばって読んだんだけど、結局よくわからなかった。バトラー様まわりはほんとうに時間ばっかりかかって人から憎まれるだけでなにもよいことがないので、泥沼みたいなのところにひきづりこむのやめてほしい。

どうも北田先生がやりたいのは下のような議論らしい。

  1. 東大の瀬地山角先生は東大でおこなわれたトークショーで小説家の先生に対してトーンポリシングだかサイレンシングだかをおこない、そしてそれは悪いおこないである。
  2. 瀬地山先生の行為がそうした悪いものであるという北田先生自身の問題意識は、バトラー様の問題意識と重なる。
  3. ところでバトラー様の「パフォーマティヴィティ」について、江口とかいう倫理学チンピラがなにかいっているので叩きつぶすしておく。
  4. ちゃんとしたバトラー様の「パフォーマティヴィティ」やそれに関連する問題意識を理解すれば、瀬地山先生が悪人なのが理解できます。

とかそういう感じの話なんだと思うけど、全体も細部もよくわからない。あちこちわからなくすぎてどうしようもない。

しょうがないので、とりあえず怒られてるあたりだけコメント返しておきますが、そもそも日本語がわからないところが多い。たとえば「意弁」とか『日本国語大辞典』にも出てきませんよ。「準拠問題」もどういう問題なのかわかりません。主語や目的語などを省略されるとわかりにくくなります。こういうの困るので今後は推敲おねがいします。

  • 一番問題のバトラー様「パフォーマティビティー」なんですが、これ、北田先生自身が「パフォーマティヴィティ」をどういう意味で使っているのか説明してくれないから何を言ってるのかわからないです。私が「パフォーマティヴィティ」について説明しているまともな論文は国内に1本もない、っていってるのを北田先生はどうも非難しているみたいだけど、だって実際まともに思えるものは存在しないんだからしょうがないじゃないっすか。小宮先生の『実践のなかのジェンダー』にだって「パフォーマティビティ」がなんであるかはっきり書いてある個所ないでしょ? あるならいったいどこにあるんですか。どっかに書いてあるならはっきりページだしてくださいよ。なんでページぐらいつけてくれないんですか。1冊ぜんぶまた確認しろって話ですか?
  • んな言葉の説明も出典の表記もできないのに、他の問題設定だか準拠問題だかに興味もてないのあたりまえじゃないっすか。「パフォーマティヴィティーをちゃんと説明してくれてる論文がない」っていってるのに、先生自身が簡単な説明さえしてくれないっていうのはもういじわるなのかなんなのかわからない。
  • そもそも北田先生、「言葉がなくても達成されるパフォーマティブな行為」とかって書くじゃないっすか。パフォーマティヴな「発話」とか「発話行為」とかならまだ理解できますが、パフォーマティヴな行為ってなんですか。それにパフォーマティブじゃ*ない*行為っていうのもなんですか。それは、(言語行為論での意味で)「行為遂行的な行為」じゃないですよね? だって行為が行為遂行してるのはあたりまえだから馬から落馬したりしてしまう。つまり先生の「パフォーマティブな行為」は、そもそも、言語行為論とかとはまったく無関係ですね?しかしこういうのひどくないっすか?説明してください。無関係なら無関係でいいんですわ。そしてそれが私が10年まえからずっと言ってることだし。無関係なのに関係あるかのようなほのめかしはやめてほしい。
  • 江口が「間接発話行為についてどのように解釈」しているか聞いてみたいってんですがなにを聞いてみたいのかわからないです。「塩とれる?」っていう疑問文で、塩を渡してくれるようお願いしているって話でしょ。「マヨネーズありますか?」っていってマヨネーズもってきてもらうんでしょ。なにが問題なのかしら。サール先生はそれなりにうまく説明してくれてると思う。なにが「苦闘」なのかわからんし、サール先生の枠組みのなかで間接発話行為を説明するのにそれなりに手間がかかるからといって、サール先生の枠組みがだめなわけじゃない。複雑で精妙なことを説明するのに複雑になってしまうのはあたりまえっしょ。それとバトラー様のフォロワーの先生たちのよくわからない説明はぜんぜんちがうはなし。
  • ていうか、「マヨネーズある?」ってのを、サール先生的な言語行為論ではなく、お得意のエスノメソドロジーだかなんだかで説明するとなにがちがうのよ。同じようなことしてるっしょ。
  • ツイッタにもごちゃごちゃ書いたけどもういいや。とにかく「パフォーマティブな行為」っていったいどんな行為かぐらい説明してくれたらどうですか。

(続くかどうかわからない)

 

 

 

学術論文における言及とクレジット (2) 河野有理先生のエントリーへの疑問

んで、このクレジットの問題を考える上でのとっかかりになった笹倉秀夫先生の書評と、それに対するネット民(ネット人士?)、そして専門家の河野有理先生の「初期消火」論説についてやっぱりどうしても触れないとならない。このシリーズの予定では、この問題に直接関係はない、って書いたんですが、やっぱりどうしても触れないわけにはいかないですよね。正直、私は河野先生の文章がよくわからない。

(本エントリーのみ公開仕様にします。拡散していただけますと幸いです)下記のような論文が一部で話題のようです。業界の評判に関わることですので簡単に一言します。結論から言うと、この論文での著者の主張(苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』と…

河野 有理さんの投稿 2018年12月4日火曜日

この件につき公開エントリーはこれで最後にします。(※12月15日に二つの追記をしました)前エントリーでは、早急な初期消火の必要を感じていたため、笹倉氏の書評を真に受ける必要がない旨のみお伝えしました。また、手元には笹倉氏の『丸山眞男論ノ…

河野 有理さんの投稿 2018年12月7日金曜日

疑問やコメントを順不動の箇条書きで残しておきます。

  • まず、二つ目のエントリーの方、「笹倉書評の主張は、「苅部本(2006年)の記述は、笹倉本(1988年)と「通常考えられないほど重なっている」というものです」は、正しくは「笹倉本 (2003)」だと思います。書評で笹倉本と呼ばれているのは1988年の『丸山眞男論ノート』ではなく、それを増補改訂した2003年の『丸山眞男の思想世界』です。苅部先生のが2006年ですので、執筆直前に出たような感じでしょうか。これずいぶん印象違いますよね。実はこれ、もとの笹倉先生の文章も全体に読みにくいといころがあって、私のようにそそっかしい読者は把握してない可能性がある。私1988年の方は見てないのでわからないのですが、2003の『思想世界』は『丸山眞男論ノート』を第二部にしていて、さらに『方法としての丸山眞男』(1998)を第一部に、「複合的な思考」(1996)を第三部に加えてるようで、まあぜんぜん違う本と見てもいいんではないでしょうか。
  • 苅部先生が独創性を主張していると笹部先生は執拗に指摘してる、って話。当然の確認だと思います。これはふつうの著作は独創性を主張しているわけですが、教科書、事典などはそうではない。新書は判断がむずかしいときがあるが、岩波新書はあきらかに著者を前面に出したオリジナルな研究のはずで、苅部先生だって自分の独創性がないなんてまったく主張しないように思います。笹倉先生はそれ(「単なる教科書的な概説じゃないんだな?」)を確認しているんだと思う。
  • 笹倉先生の主張する「重なり」が「字面レベルではほとんどまったく似ていない」、ということですが、字面が似ていればこれは笹倉先生の主張するアイディアの無断借用などではなく、まったくの著作権侵害で話は別。「アイディアの無断借用」や「剽窃」plagiarismと、著作権侵害 copyright infringement とはまったく別の概念だと思います。ちなみに私は剽窃はわれわれが非常に犯しやすい行為で、かつ、必ずしもとても重大な悪と呼ばれるべき行為とも言えない場合がある、と主張したいのですが、それはまたあとで。
  • 学術的なクレジットは必ずしも「第一発見者」につけるものではない。また「専売特許」のようなものではない。基本的には情報の流通の依存関係をあらわすものだと思います。「アイディア使われたかもしれない」というような訴えを「専売特許を主張するのか!」みたいなのはあまりよくない反応だと思います。(ちなみに著作権と特許、そして専売制度もまたぜんぜんちがったものです)
  • 「「たった一行なぜ俺の名前を書けないのか」的なことなのではないかとも邪推」ということですが、これはどうでしょうか。わたしはたった一行でいいから笹倉先生の書いてあげるべきだという考え方は十分なりたつと思います(このケースで実際にどうかという判断はしませんが、そうした要求をすることは悪いことではないし、正当な場合も多いと思う)。苅部本では文献リストは8ページもあるし、丸山の文献については本当に必要なのかか門外漢には判断できない情報も載せているのだから、1行笹倉2003を載せるのは何の苦もないはずだと思います。一般読者にも、丸山研究のまとまった書籍の代表的なものの存在をいくつか示すことは有益だろうと思いますし。
  • 「松澤、石田、飯田諸氏による丸山論の方が使いやすい」ということですが、使いやすさの問題ではないように思います。実際にそれらを使ったかどうかが問題のはずです。その文献を参考にしたかどうかは執筆者本人しかわからないように思います。
  • 笹倉先生が主張する「重なり」の1の「あい矛盾する二つの要求」はたしかに陳腐かもしれません(だいたい思想家は葛藤する要求やアイディアをもっているものです)。しかし2の「型」の強調はわりと印象的で(これは笹倉1988ではなく2003のものです)、3、4、5、7などでの使用文献の重なりが偶然的なものなのか私には判断できません。そうした論の進めかた、文献使用の選択などそれ自体が「アイディア」であるように思います。
  • 河野先生のエントリーについてもっとも大きな違和感は、「優れた先行研究だけが参照され、言及され、文献リストに載せられるべきだ」というような考え方をもっておられるのではないかという点にあります。研究史において重視されている文献だろうがそうでなかろうが、参照しアイディアを借りたり批判したりするときには言及する、というのがふつう要求されている態度であって、もちろん参照しなかったのなら言及する必要はない、というそれだけのことに私には思えます。
  • また、優れた書籍、優れた論文はもちろん大事ですが、昔の文献に仮に誤りが含まれていたり情報不足の面があるとしても、部分的に、情報として有益なもの、オリジナリティを認めるべきものは存在するはずです。そうしたものを参照したのならそうはっきり書くべきだと思います。
  • 「先行研究は誘惑するものである」といった文学的な表現は魅力的ではありますが、そうした考え方は必要なく、見たものは見たと書き、参照しなかったのなら「参照しなかった」あるいは「見たけどぜんぜん参考にならなかったので省いた」でOKであるように思います。ただしこれは本人が答えねばならない。もっとも、そうした「アイディアを無断借用したのではないか」という(特に本人からの)疑義にさらされないためには、前のエントリに書いたように「迷ったら言及しておく」ぐらいしか手段がないように思います。
  • 「この12年間、笹倉氏以外の専門研究者コミュニティから疑義の声(「苅部本が笹倉本を参考文献表に加えないのはおかしい!」)が出ていないのはそういうことです、としか言いようがないのでは」ということですが、これはだからこそ問題で笹倉先生自身がああした書評を書かざるをえなかった理由なのだと思います。文献表やアイディアの流通のようもののチェックは、一般読者・門外漢には不可能です。文献リストを眺めて「欠けている」ものを見つけるができる非専門家はいません。したがってそうしたことは専門的な研究者に期待される役目なわけですが、そうした専門家が皆、河野先生のような考え方をしているのであれば、12年間疑義の声が出ないのは当然ではないかと思います。
  • またそうしたことを指摘するのは非常に難しく、さらには笹倉先生本人が指摘したのをネット人士が「あれ?」と思い話題にする程度のことさえ専門家によって非難にされるのであれば、そうした指摘が出ないのはまずます当然ではないのかと思います。「無断借用」、剽窃だの盗用だのという指摘は非常に重大なものだと考えられているので(私はそうでもないケースもあると思うのですが)、よほどはっきりしたケースでなければふつうの人間にはできませんし、そもそも専門家であっても気づかないものです。また気づいたとしても、そういうことをはっきり指摘できる人はめったにいない。だから通常はそういしたものは本人以外が指摘するしかない。
  • 河野先生のこのエントリの最初の「1988」がまちがっていることさえ、他の人々によって指摘されず「プロの仕事」として大量にリツイートされているのだから、アイディアの借用などのようなもっと微妙で危険な問題について誰もなにも言えないのは当然ではないかと思うわけです。だから門外漢の「あれ?」ぐらいのは許してほしいし、そういうの簡単に非難するのはやめてほしい。私は、弟子とかいないし関係者も少ないしいちおうテニュアもってることになってるからこういしたことが書けるわけですが、それでもものすごく怖い。それでも私みたいな人間が書かないとならない、っていってがんばってるわけです。勘弁してください。
  • 現状では笹倉先生がうったえるようなことは「研究不正」とはされておらず、その点は笹倉先生自身もよく理解していると思います。そしてどれくらいそうした参照や言及が必要なのかということは、国・個人・読書界・学術業界や出版形態に依存して相対的なものであり、また我々がいま現在つくり作りあげている規範であって、だからこそ私は笹倉書評に注目しました。

 

 

↑これの最後の法に「著作者とあれる人々の保護」というおもしろい論文がはいっています。以降はこれと、前回エントリに書いた↓のをちょっとずつ紹介したいです。

 

学術論文における言及とクレジット (1) 迷ったら参照せよ

ちょっとだけクレジットの問題ついて書いておきたいことがあるのです。最近ツイッタでちょっと怒られが発生したようようなんで1)ちなみに、怒られの対象になったのははっきりしないけどおそらくここらへん。最初はなんか怒られてるっぽいけど誰から何を怒られているのかよくわからなかった。まあ書きかたよくなかったような気もするし、特に簡単に笹倉先生を「信頼できる」とか書いたのはたしかによくなかった。、その件と関係してはいるけど、その件自体には直接は関係しない2)もともとは笹倉秀夫先生という方が書いた苅部直先生の本の書評。現行のわれわれの世界での意味では苅部先生が剽窃だの盗用だの研究不正だのをしているとかは最初から思ってはいませんが、笹倉先生がこういうものを書いた「気持ち」みたいなのは、その書き方のよしあしとは別に、わかるような気がする、という立場です。笹倉先生の言い分にどのていど理があるのか、ということは私には判断できないし、判断するべきでもないと思います。それはこのシリーズが続けばなぜそうなのか書けるかもしれない。。学問の世界での引用や参照、クレジットや「剽窃」の問題には前から興味があるので、ちょっと思うところだらだら書いてみたいと思っています。

学生様にレポートや卒論を書いてもらうとき、やっぱりコピペや剽窃といったクレジットの問題については頭を悩まさざるをえない。自分で論文やブログ記事を書くときはさすがにコピペはしないものの、やっぱりクレジットについてはずいぶん悩むものです。そういうのは大学で授業してレポート書いてもらいはじめてすぐに悩みはじめたことだし、20年以上ずーっと悩んでることですわね。これは大学教員はみんな同じだと思う。

10年以上前に昔なつかしの「ホームページ」に「レポートの書き方」とか「剽窃を避ける」みたいな文章書いて、ずいぶんリンクしてもらったりして、まあ最初はネットもそういう話を直接にあつかったページは少なかったように思う。いまではたくさんあるのでよい時代になった。私のページとかもう価値なくなってる。「レポートの書き方」系のよい本もたくさんあるし。

私自身は「コピペ問題」とかはもうあんまり悩んでないわけですが、難しいと思ってるのは学生様にクレジットのつけかたをどう教えるか、みたいなことで、基本的には「迷ったときはなんでもクレジットつけろ、ページまで」みたいな指導になってるのです。それだといわゆるコモンノレッジ、共有知、あたりまえのものまでクレジットつけるようになって、まあ安全ではあるけどうざいというか。

「剽窃を避ける」https://yonosuke.net/eguchi/archives/2878 を書いたときも、「多くの人が共通に知ってること」を説明するのにずいぶん苦労して、まあ「5冊以上の本で出典なしに挙げられてるのは共有知」みたいな説明になってるけど、これでいいのかどうかわかららない。

マクミランの学生向けのページだとこんなになってる 。https://www.macmillanihe.com/studentstudyskills/page/Referencing-and-Avoiding-Plagiarism/

「特定の分野の人が(当然)知ってることが期待されるような知識」みたいな感じっすか。でもこれじゃ学生はわからんわけですわね。

このマクミランのページでは「授業に参加する前にその情報知ってましたか」「自分の脳味噌から出てきましたか」とかたずねてみて、どちらも「ノー」なら、少なくともあなたにとっては共有知ではない、だったらリファレンスつけましょう、みたいな感じになってますね。

ちなみに引用・参照しなければならないのは、(1) 独特distinctiveなアイディア。これはまあ当然か。これおそらく、他のソースと違う、ってことよね。国内ではわりと軽視されているのが、(2) 特徴的な構成あるいは構成手法。ある問題にとりくむにあたっての問いの立てかた、問題を検討するにあたっての文献や論者の選択、こうしたものも広い意味でアイディアなので、これにもクレジットつけないとならんと考えるのだと思います。(3) 特定のソースからの情報、データ、(4) 逐語的フレーズ、パッセージ、(5) 共有知でない情報とか。

(3)や(4)は当然で、特に(4)の逐語的フレーズ/パッセージはクレジットなしに他人の文章を使ったら著作権法違反ってことになる。ただし著作権で保護されているのはアイディア(思想・発想)ではなく「表現」でしかないので、特定のアイディアを他人から借りてもなにも著作権法に反することはない、と私は理解しています。(5)はさっきの「共有知」問題にかかわるやつ。

まあどれもいろいろ面倒で、だからこのページでは、実践的な指針として、(6)「 迷ったら、言及せよ!」というのが主張されている。このページでは、そうしていちいち引用・参照して言及する一番の利点はトラブルを避けることだとはっきり言われていると思う。 “good referencing is essential to avoid any possible accusation of plagiarism.” ちゃんとした参照は、剽窃の疑いをかけられるのを避けるために重要です、とのこと。おそらく、あるアイディアの使用が盗用だとか剽窃だとかという疑いはあまりにも簡単にかけられてしまうので、疑いをかけたりかけられたり、弁明したり、証明したり、他の人々が検討したりしなければなかったりするトラブルとコストを避けるためにはやはり参考にしたものはいちいち言及しておきましょう、という話だと思います。これはたしかにうざい。

まあそういうのは、場合によっては、あるいは手法によっては書くのも読むのも非常に煩雑になるので時に有害でもあるかもしれないけど、でもトラブル避けるためには多めに言及しとくっていうのは英語圏の流れだと思う。だから自己啓発本みたいなのもリファレンスだらけになる。

ワシントン大のだとこんな感じ。 https://depts.washington.edu/psych/files/writing_center/howtocite.pdf

Even if you arrived at the same judgment on your own, you need to acknowledge that the writer you consulted also came up the idea.

先行研究と同じようなやりかたや結論になったとしても、他の人の研究にコンサルトしたら、つまり論文読んで参考にしたのなら、ちゃんと名前あげなさいよ、みたいな指導がされている。

しかしこのレベルを実践しようとすると、新書のような日本の主流の出版形態が維持できない、っていう問題があるのだと思う。そういうのをどう考えるか、っていうのが私が関心があることなのです。

どういうわけか私年配の先生はわりと苦手なのに、なぜか話あいてになることは多くて(なぜだろう?)、名なり功を遂げた先生たちでもそうしたこまかいことを気にしているのはよく耳にしている。「偉くなったんだからそれくらいいのではないか」とか言いたくなったりもするんだけど、そうして偉くなる先生はむしろそうした功名心が背景にあってこそ偉くなれたのだ、みたいなのを感じることもある。

我々が勉強したり研究したり論文書いたりする一番大きな動機はおそらく功名心あるいはクレジットなので、「たった一行でも私の名前を入れてくれ」みたいなのは非常によくわかる欲求だからわたしはそっちがわに立ちたい。これはそんな簡単に却下できる望みではないと思う。

んじゃ具体的にどうするか、っていうのはまあみんなで話あうのがよいのではないかと思うわけです。というわけで続きます。

 

 

References   [ + ]

1. ちなみに、怒られの対象になったのははっきりしないけどおそらくここらへん。最初はなんか怒られてるっぽいけど誰から何を怒られているのかよくわからなかった。まあ書きかたよくなかったような気もするし、特に簡単に笹倉先生を「信頼できる」とか書いたのはたしかによくなかった。
2. もともとは笹倉秀夫先生という方が書いた苅部直先生の本の書評。現行のわれわれの世界での意味では苅部先生が剽窃だの盗用だの研究不正だのをしているとかは最初から思ってはいませんが、笹倉先生がこういうものを書いた「気持ち」みたいなのは、その書き方のよしあしとは別に、わかるような気がする、という立場です。笹倉先生の言い分にどのていど理があるのか、ということは私には判断できないし、判断するべきでもないと思います。それはこのシリーズが続けばなぜそうなのか書けるかもしれない。

学会司会学が必要だ

秋から年末は学会シーズンで、あんまりそういうの出席せずさぼってる私も行かざるをえないのですが、司会、特にシンポジウムなど大人数が参加するディスカッションの司会は難しいですね。私経験が浅いので、いまだにどうしたらいいのかわからない。

まあ学会シンポジウムでおもしろいのはめったに見たことないし、むしろストレスを感じる方が多いというかほとんどで、けっこうダメージ受けたりしますし、終了後にどっかに不満を書かざるをえない感じなったりもします。

私はディスカッションというのは短い問いと答えの一発勝負、あるいはその連続によるソクラテス的対話であると思っているので、「質問が二つあります、一つは〜長々〜。え、二つ目は、なんだったかな、そうそう、〜長々長々、長〜〜〜〜〜〜」とかやられるとそれだけでイライラする。答えるほうも「えーと、なんでしたっけ?」みたいになって馬鹿みたいだ。

今年つらかった1件目は、パネラーの一人の年長の先生が長々しゃべる方で、要点もつかめずすごいストレスになったやつ。質問にも長々答えるのでもうなにがなにやらわからなくてつらい。あれを黙って聞いてる人々もえらい!

もう一件も近いもので、パネラーの発表がおわったあとの質疑の時間の半分を5人いるパネラーの1人が一人で、休憩時間に集めた質問紙を読んで答える、っていうので使ってしまった。このケースでは、パネラーどうしのディスカッションもなく、けっきょく発表者と質問紙しかなく、ライブな刺激がまるでないもので、相当こたえました。

「マンスプレイニング」とかそういうので男性がわかりきったことを説明したりしてとにかく長々しゃべる、っていうのが問題視されたりされなかったりしているようですが、本当に一人で長々しゃべる人はいますね。シンポジウムだけでなく個別の学会発表とかでも延々時間をつかう特定の人々がいて、もっと若い人々、勢いのある人々に時間ゆずってあげたらいいのに、とか思うのに、やはり年嵩の人は優先権がある感じでそうもならんですね。司会者っていうのはそういう長々話す人を抑えこむ義務があると思います。後者の学会は特にジェンダーとか家父長制的権力とかに敏感なはずの学会だったので、けっこうショックでした。

シンポジウムでときどき使われる質問紙っていうのもあんまりよくないように思います。あれ使って成功しているシンポ聞いたことがない。たいてい、休憩時間に会場から質問紙があつめられ、それが発表者に渡され、それを発表者が読みあげてだらだら答える、だけどこれはやっぱりよくない。せめて司会の人がライブな感じで読みあげて、ライブ感を出してほしい。

まあ司会はほんとうにむずかしい。どれくらい質問でるか、議論がもりあがるか事前にはわからんですからね。私が考えるよい司会のために気をつけるべきことは

  1. えらい先生に(不必要に)長話させない
  2. 問いと答は短くなるように促す
  3. なるべく多くの人にわりふる
  4. 若い人々に積極的に時間をわりふって支援する
  5. 対立を恐れない

とかでしょうか。とにかく長話は避けてほしい。まあ話の進行の上で、司会や会場がその人の長話を聞く必要がある、むしろぜひ聞きたい、みたいな判断したときにはそのかぎりではないですが。でも基本的には問いと答はどちらも短い方がいいですよね。その方がわかりやすい。ソクラテス先生がわれわれに教えてくれた一番大事なことはそれなわけだし。あとまあ多様性は大事なのでいろんな人に発言をうながしたいし、特に若い人々に名をあげるチャンスはまわしてあげてほしい。

対立を恐れないというのは、やはりシンポジウムというのは対立をもとめて聴衆があつまるわけでね。だいたい企画の段階で対立している問題をあつかうわけだし、聴衆は血に飢えている。昔の日記見てたら、「シンポはサーカスにしなきゃならん。学会は年に一度の祝祭であり、シンポはサーカスである。そして時に血が流れなければサーカスではない」とか書いてて、まあこのころの私は血に飢えてたような。でもシンポに人呼ぶってそういうことよね。下手すりゃ学問的に殺されるぐらいでやってほしい。質問紙を発表者が読む、とかだと面倒な質問、答えにくい質問、答えたくない質問をを軽くあつかったりできてだめだと思う。そもそも選択を発表者にまかせるみたいなのも当然だめ。司会が選ぶべきだ。

時に乱入とか、具合の悪い質問とかコメントとか、あるいは怒り出す人とかもあるんだけど、まあこれは司会者の判断かなと思う。プラトンの『饗宴』がシンポジウムの起源だとすれば、あれにならって、ディスカッサントは前の人の話をあるていど引き継いで話すのがよかろうし、ディスカッサントどうしの問答はどうしても必要だし、最後にアルキビアデスが乱入してきて語ったことによってディスカッサントとテーマについて理解が深まる、というのもありだと思う。これはまあ司会と会場の腕よね。まあそんなこと考えたりしちゃいますね。

「司会上手だな」とおもった時もまああって、その人は「それではこれからディスカッションします、質問は手短かに一つずつおねがいします、まずどれらいご質問があるか確認したいと思います、この段階でご質問があるかたは挙手おねがいします」みたいなので挙手させて、「それでは〜人ぐらいですので手短に、そこの方」みたいな感じ。あとでまた「さらに質問されたい方は何人おられますか?〜人ぐらいですか、〜分ぐらいありますのでまた手短かに」とかでこの先生はうまかったですね。

質問紙ももし使うのであれば、そのまま読まれるように書いてもらうのもたいへんだし、発表者にまわすのもあれなので、質問用紙には「なにをご質問されたいですか」ぐらいのおおざっぱなことを書いてもらって、それで名前確認しておいて、「それじゃまず〜についてご質問がありますが、同じような質問が多いようですので、代表して〜所属の〜さんおねがいします」ぐらいでやるのがいいんじゃないですかね。

これはやってみたい。わりとさばきやすくなるんじゃないだろうかという期待があって、実は来年小さな学会のシンポ司会しなきゃならんみたいなので試してみたい。

世界は変えることができる

んで、まあ問題を発見しただけではやはりだめだし、学生様には世界は変えられると信じて欲しい。そのためには私自身が信じないとだめだ。かげで文句いったり、個人を攻撃するだけは世界はよくならん。問題を発見するだけでなく、どうすれば解決するか考えて、ある程度は手も動かさないとならん。知恵をしぼって改善するのだ。そういう態度を教えられないようでは、大学でえらそうなこと言ってらない。ってなわけで面倒でも改善案を書きました。通るといいなあ。

字が汚なくてはずかしい。べつのところで「世界を変える」ってタイトルでこの粗末な紙がその手段か、っていうコメントがありましたが、まあそういうものです。はははは。歌でも歌った方が有効だったろうか。

歌詞の和訳はこっち

 



(後記)

  • さっそくカウンター前に誘導ベルトが設置されてました。えらい。うれしいなあ。(7/14)
  • これはうまく意図が通じてなかったぽい……一言相談してもらえればよかったのだが……まあ私が悪うございました。もう一回提案するか……でも少しは見やすくなたような気もするからこれでいいのか……(7/23)

悪いデザインは人を苦しめます

「Togetterで炎上しそうになってしまった……」のつづき)

んで、どういう問題があったか、ブログでは書いておきますかね。

ここにプロ(Yashiro Photo Officeさん)の写真があるので、それを参考にしてください。 http://846-photo.com/archives/portfolio/kyoto-wu-ac-library/ ここでの写真もこのページから使わせていただきます。

この図書館、こういう感じですごくおしゃれでかっこいいんですわ。私は建物としては気にいってる。5階分の吹き抜けになっていて、音や空調や床面積や動線の関係でそれがどうかって話はあるんだけど、今回はそれにはあんまり触れない。

本は壁面書架と、階によってはフロアのまんなかにある書架、そして閉架(自動化書庫)に収められている。

図書館の本を利用する場合、いまはやはりOPACで検索して十進分類にしたがって本をとりにいくって形になりますよね。この図書館は、そのもっとも重要な十進分類が明示されていないのです。

フロアの書架にはこういう形で連番が降られているんだけど、この32・33・34という番号は十進分類とはなにも関係がない。

これはけっこうなストレスになるのです。だって「372.2 A34はえーと」って行くと「34」って目に入るわけだから。まあ運営が管理するためには、棚に番号を振ることは必要なわけだろうけど、それは利用者には関係がない。利用者が知りたいのはその棚に何番台が入っているかで、上の「34」の棚だったら、片面に「372〜375」、もう片面に「375〜375.76」が入っているということを知れば十分。そして十進分類の中身の説明が必要かどうかは微妙。それこそ大学図書館なので、「374.94には学校給食関係がある」みたいなのはいらんかもしれん 。そもそもこの部分的で断片的な枝番説明の選択は、なにが基準なんだろうか?(もしかしたらデザイナーが十進分類をよく知らない可能性まである?)

壁面はもっとひどくて、これはもうほとんど手掛かりがない。上は「K」とか「S」というサインがはいってるけど、このSも上の「34」と同じただの連番で、四方の壁にA〜Zまで入ってるけど、そのA〜Zと十進分類がどういう関係になっているかを知る手掛かりはない。

上の2枚目の方の写真(シャレオツ!)だと中央に「100 哲学」という木製の箱みたいなのが置かれてるけど、手掛かりはこの10番ごとだか50番ごとだかの見えにくい箱みたいなものしかないわけですわ。実際には100番ごとだろうが50番ごとだろうが見えないから関係ない、っていうかこんなもの意識してませんし、何番ごとに置かれてるか1年通ってるけど知りません。これ、どういうことかわかりますか?つまり実際には、とにかくいちいち本の番号をてがかりにして、そこからずーっと棚を見ながら歩いていくわけです。

私はかなりよく図書館を利用するのですが、さすがに十進分類がどこにあるか頭にはいってるわけがない。1階と2階を一周ずつする、さらにフロアのまんなかの棚を見て、例の数字に幻惑される、みたいなの毎日おこってますがね。

書架は8段あるので、最上段は2メートルを越えているので、私の目では何番がはいっているかとかもちろんわかりません。(まあこれくらい高いと本をとろうとして脚立や台座に載るのも危険ですが、それはおいといて)

フロアごとに何番台が置かれているかのサインもない。こんなものがプロの仕事か。

そりゃこれを発注したのは大学で、それは委員会やらコンペやらやってるわけなので最終的には大学が悪く、それを支持している我々一般教職員にもおそらく責任がある。でもデザイナーとか建築家っていうのはプロなんだから、なにをどうすればどうなるかちゃんと考えて提案するもんじゃないのでしょうか。そういう話でした。

大学の優秀な学生様たちは、この使いづらさに気づいているので、こういうものを自作して(あんまり目立たないところにだけど)貼らせてもらってるみたい。(先週やっと見つけました)

私これ見つけたとき、正直ちょっと泣けてきましたよ。「私ら教員がしっかりしてないために君たちにこんなことさせちゃってごめんね」みたいな。

世界は変えることができる」へ続く。

ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。

たとえば、最近出た藤高和輝先生の『ジュディス・バトラー:生と哲学を賭けた闘い』という本があります。藤高先生は若い人なんでしょうね。

そのなかにこんな一節がある。

「私は約束します」という発話がうまくいくかどうかは文脈によって条件づけられる。仮に、約束した当人が電車の遅延などによって集合場所に遅れた場合はその「約束」は「失敗した」ことになるが、しかしその約束を「偽」とはいえないだろう。当人にはその約束を守る意志があったかもしれないからである。つまり、「約束」という発話は「真偽」で計れば矛盾してしまう。先の例でいえば、それが約束された時点では「真」であるが、それが実現されることに失敗した瞬間から遡れば「偽」である、ということになってしまう。むしろ、この場合の「私は約束します」という発話行為は単に「失敗した」発話であるというべきなのである。 (p. 191)

これ、J. L. オースティン先生の『言語と行為』(How to do things with words)っていう重要書の一節を紹介している(らしい)のですが、ぜんぜんまちがってると思う。

今日18時に、「私は明日9時に君に京都駅で会うと約束します」と、私が誰かを前にして言えば、私はその人と明日9時に京都駅であう約束をしたことになります。今日ワールドカップを見て寝坊してしまい、明日の朝京都駅に行けないことがあれば、私は約束を破ったことになる。でもだからといって、今日18時に約束したことがオースティンの意味で不適切だったということはならない。単に「約束を守る」ことに失敗しただけであり、「約束する」ことに失敗したわけではない。「約束する」 という行為が成功しているからこそ、「約束をやぶった」ら非難されるんでしょ。どういうわけか、この箇所を藤高先生は確認していないらしい。そうした基本的な区別さえできずに、いったいどんな学問ができるというのか。

まあこっからうしろもパフォーマティヴィティとかなんだかむずかしい概念について難しいことを書いているのですが、私にはなにがなにやらさっぱりわからない。そしてそれが我々の生活とどう関係するのかもわからない。上のような誰でもふつうに考えればおかしいとわかることを書いて平気でいるのは異常だと思う。ジュディス・バトラー様やデリダ先生の権威に圧倒され、おびえているのではないでしょうか。オースティン先生を2〜4週間ぐらいかけてじっくり読むだけでいいのに。

藤高先生はおそらくLGBTとかに関心があるまじめな研究者だと思うのですが(それはよくわかる)、ポストモダンとやらに手を出してしまったせいで、誰にもわからない混沌とした議論でうめつくされた本を書いてしまっている。

同じようなことは、森山至貴先生の『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』についても同じです。この本は前半はまじめなLGBTとその解放についての歴史記述があるのに、途中からバトラー様の意味不明な議論を紹介しはじめ、最終的にわけわからないものになっている。詳しくはoptical frog先生のブログを読んでください。ここらへんから連載になっています

ポストモダンにある曖昧模糊とした不明確な概念、論理的でない思考、単なる言葉遊び、情報源をしっかりしらべようとしない態度、有名人を権威だと思いこみ、それをなんとかして解釈しなければならないと思いこむ権威主義、そういうのは学問の世界と我々の生活に大きな害悪をもたらしていると思っています。


と、授業の空き時間にカーっとなっって書いた、みたいな感じなのですが、よく考えたら別にポストモダン悪くないです。悪いのは出典をちゃんとつけなかったり、ちゃんと確認しなかったり、曖昧な言葉をつかったり、単なる言葉遊びですませたりするそういうポストモダンな人々がやる傾向だけで、思想そのものには別に文句はない。文句は、方法にあるのです。ちゃんと読んで出典ちゃんとすればいいだけの話。がんばってください。


「性的モノ化再訪」レジュメ

そういや、この前研究会で発表したレジュメおいときます。まあこんなこと考えてる。いつものようにあわてて書いたからあちこちよれていて、余計なこと書いてたり、わかりにくかったりしてだめなんですが、今年中にまともな論文にできるようにしたいとは思ってます。すみません。

 

12月22日に不倫(を哲学)しに福岡に行きます

12月22日に修羅の国福岡の福岡大学の宮野先生と九州産業大の藤田先生の合同ゼミに呼んでもらってますので、江口が袋叩きにあうのを見たい方はどうぞ。22日18時から、福岡大学A棟A803だそうです。なんか適当に話をしてということだと理解したので、時節柄「不倫を哲学する」にしてみました。時期的・客層的には「浮気の哲学」にするべきでしたね。ははは。よかったらどうぞ。自分のところの授業でいつもしゃべっているようなことをしゃべるつもりです。資料とかつくる暇があるかどうか。

んでそのあと某大学で集中講義やらせてもらうんですよね。生きて帰ってこれるかどうかもわかりません。しゅらしゅら。

Careless Whisperでも貼っときますか。

卒論生のための文献・情報関係ウェブサービス案内

卒論を書くためにはとにかく大量に本や文献を集めて読み整理しメモをとらねばなりません。(無料の)ウェブサービスを使って効率的にやりましょう。

具体的に私が書籍等あつめるときにどうしているのかというと、基本的に書籍の情報はMediaMarkerに集積してます。Amazonで「この本よまないとならんかな」と思ったら、すぐに登録して「ウィッシュ」もしておく。登録はブラウザからブックマークレットからバインダー登録一発。MediaMarkerの他に、ブクログ読書メーターといったサービスがあるので、自分の好みで。

本を買うとお金がかかってしまうので、なるべく図書館ですませたい。カーリルにアカウントをとって、自分の利用する図書館を登録しておくとよい。私は大学と市立図書館、府立図書館の3箇所を登録してる。さらに、ブラウザにChromeなどをつかっている場合は、Calilayという機能拡張を使うと、AmazonやMediaMarkerのページでその本が図書館にあるかどうかすぐわかる。FirefoxやSafari用の機能拡張もあるはず。

Webの情報は「クリップ」(保存)する。Evernoteというメモソフトの場合はEvernote Web Clipperを使うと一発でクリップできる。Google KeepOneNoteでもおなじことができるはず。これらのメモサービスは非常に便利なものなので、卒論生はどれか使いたい。とにかくWebの保存、メモ、思いつき、読書ノート、なんでもメモサービスにあずける。歩いてる時、電車のなかで思いついたこともスマホからとりあえずメモっておく。(もちろん紙でもいい)

私はPDFはMendeleyってので整理してますが、学部生でここまでやる必要あるかどうかは知りません。もっとよいサービスもありそう。Evernoteに突っ込んでおくだけでも十分かもしれない。

図書館で借りた本などは大事なところ、あとで使いそうなところはコピーするなり写メ取るなりしておく。まあ普通コピーだと思うけど。私は実際には論文などはコピーして、それをスキャナで読んでPDFにして保存することがおおいかな。


関係ありそうな古い記事。書き直さないとならんね。

進捗どうですか (20)

久しぶりの進捗だめです。

12月なかばに書いてからそれっきりでしたね。それからどうしていたのかというと……まあ私冬は苦手っていうか冬眠しちゃうんで予想通りではあるんですが。

12月はとにかく某翻訳をいったんおわらせようってんでいろいろがんばってました。翻訳ほんとに下手ね。でもその内容はおもしろいので、そのうちまとめみたいなの書きたい。ていうかどうも書かないとならんようで、それの勉強もしたり。翻訳は実際には1月第1週までかかっちゃいました。

その後はこの研修の最大の課題を達成すべくがんばってはいるのです。勉強したのを色々忘れてて馬鹿ではないか。昔のメモを読みなおしたり、文献確認したりしているとどんどん時間が過ぎていく。

あと正月から荷風先生はまって余計なことをしてしまっている。断腸亭日乗をWikiにしようっていうプロジェクト。 https://yonosuke.net/kahu/ 。1、2年、へたすると3、4年かかるかもしれないけどそれだけの価値はあるんじゃないかと思う。荷風の伝記的研究はすごい人々がけっこういて、本読んでるとほんとにおもしろいです。これは私の人生とか、人生全体における勉強プランの見直しとかなんか関係がある感じがして、単なる遊びではない感じ。一人じゃできないので協力してくれる人を求めてます。まあ心の健康のためには、目先の勉強ばっかりしているわけにもいかない。

まあ毎年12月と1月はすごいつらくて生きてるだけでせいいっぱいなんで、今年はとにかく体を動かすっていうのをやってます。とにかくまあ少しずつ進んではいる。毎年立春のあたりから調子が上がるので一気にやりたい。

あとまあ本日ブログまわりを整理して、これもそれなりに思うところがあった。本格的に人生まとめに入らないと。

進捗どうですか (19)

進捗だめです。

これの存在すっかり忘れてました。

なんと前回は11月だがね。こっそり更新しておこう。

えーと何してたのかというと、学会行ったり、某フォーラムの原稿書いたりしてたわけです。某フォーラムのは苦しんだ。まあ勉強にはなったのですが、できたものは非常に不満。でもまあしょうがない。これは継続的に勉強しないと。昨日になって新しいJournal of Practical Ethicsに2本論文が載ってるのを発見したり。もう論文多すぎてよくわからん。

あとISUSとスウェーデンで使ったやつを紀要に投げたり。いいかげん。

学会の事務仕事させられたり、来年度のゼミの面談したりっていうのも。

12月も初旬過ぎて、やっと我に帰ってきた感じ。いやはや。

とにかく一生に一度くらいは正月締切のことを考えずに過せるようにいろいろやってます。借金がいろいろあるのよねえ。がんばれば年内にかろうじて終るのではないか。

進捗どうですか (18) 計画と進捗管理はもちろん重要なのに大学教員はわかってない

10月第3週、前半はわりと落ちついて勉強してました。毎年この季節はまあ落ちつきかげんで集中できることが多いので貴重です。いつもこういう気候ならいいんですけどね。

しかし後半は例の研究費獲得のための書類を書かねばならず、そういうの苦手で四苦八苦。以前は私立大学は教員にわりと「研究経費助成」などで研究費をくれる傾向があったようですが、いまは各大学とも「とりあえず申請しろ、科研費出さなきゃ研究経費助成も認めんぞ」と強く指導されます。まあ筋は通ってますわね。

データベースとか見ると、みんながんばって研究してるなー、中年すぎてもらってる人は一流の人ばっかりだなとか。でもそのわりには論文とか出てないような気がする、とか。人文系の研究成果っていうのはなかなか謎ですね。ははは。

まあとにかく出さねばならない。ってので土日徹夜になっちゃったりして。でもまあ書いてみるとやっぱり計画は大事ですよね。人文系の人間は「自由な発想が大事だ!」とかっていって計画通りに研究するという習慣がない人が多いような気がしますが、やっぱりどれくらいの労力と時間と予算を投下してどれくらいの成果が出るかを見つもる、実行してみて進捗を計測してうまくいかなかったら計画を見なおしたり、放棄したり、っていうのはあたりまえのことですわね。企業だったらごくごくあたりまえなのに、大学教員はそういう習慣がないのは驚くべきことです。反省しました。いやはや。

進捗管理こそすべて。こころがけます。「研究者のための進捗管理」とかビジネスにも詳しいコンサルの人とかが書いたら売れるんちゃうかな。