森岡正博」タグアーカイブ

進捗どうですか (4)

進捗だめです。

食中毒になった話は前回書きましたが、そのあともしばらく苦しんでました。私はとにかくちょっとでも体に気になるところがあると元気がなくなってなにもできなくなっちゃうんですよね。ヒポコンデリー体質というかなんというか。やっと全快という気分になったのが18日日曜日。発症したのが6日だからまあ10日以上苦しみました。

そのあとはまあなんとか本も読めるようになったのでマクマハン先生とドゥグラツィア先生の本を読む。前回のブログに書いた時間相対的利益説をいろいろ考えたい。

それにしてもマクマハン先生のThe Ethics of Killingとか500ページもあって読むのたいへんっすね。文章も英語も難しくはないけど、議論が細かい。おもしろいけど、ちょっと粘着な感じがあってつらいときもある。

500ページの本がんばって読むとしても、やっぱり2、3ヶ月かかりますわね。こういうのは本当は一人で読むのは無理だから半年ぐらいかけて読書会でもした方がいいんだけど、お友達がいないからしょうがない。ドゥグラツィア先生の方はすっきりしていて読み易いです。

こういう本を読むときは、大学院生様とかはまあ友達誘って読書会がよい。ただこんなでかい本を読書会で読むっていうのは一大プロジェクトですわよね。そうして努力して読むに値する本だっていう確信がもてないととりくめない。

そういうときに役立つのは、やっぱり書評ですね。最近はネットにたくさん書評がころがっているので、気になる本についてはタイトルとかでどういう書評が出てるか調べてみるといいと思います。数が多ければそれは重要な本だ、と。The Ethics of Killingはぱっと調べただけど7、8本手に入りました。注目の1冊なわけです。実際、中絶とか脳死とかにかかわる哲学的な議論としては2000年代で一番重要な本だったんじゃないかしら。

そういう書評を見ると、どこが重要かがわかる。引用されているページとかいちいち付箋貼っておくと、どこが引用されやすいかがわかるしそこらへん中心的に読んでいく感じ。でかい本は頭から読む必要はないです。っていうか時間的に無理。

あと、まあ6月中ぐらいでEric T. Olson先生の動物説と、Schechtman先生の物語的同一性の2冊の本も読む必要がある。少なくとも動物説の魅力や、批判に対する答かたぐらいは手に入れとかないと。しかしOlson先生の文章とはなんかすごい相性悪い感じでつらい。どうも私形而上学が苦手なんよね。つい「だからどうしたの?」とか言いたくなってしまう。どうも倫理的な含意がないと理解できないというか。まあがんばります。

ここらへんの議論知りたいならドゥグラツィア先生からの方がわかりやすいと思う。まあこういう分野は無理して書籍読むよりは、論文あつめた方がいいかもしれないし、最初はハンドブックとかその手のからはいるべき。

先週の後半は「ペルソナ論」とかちょっと読んでみたり。まあ森岡正博先生ねえ。森岡先生はほんとにオリジナルでいろいろ気になる先生なんですよね。全体としてはよくわからないんだけど、ときどき鋭いことを言っているような気がする。でもあのペルソナ論はちょっとなあ。どうあんまり納得できないのか書いてみようかと思ったけど、なんか突然トカトントンという音が聞こえてきてむなしくなってやめてしまいました。でもまあ森岡先生についてはいずれ真剣に考えてみたいとは思っている。「Taking Morioka Seriously」っていう論文タイトルは昔から考えてます。他に福田誠二先生や一ノ瀬正樹先生のも読んだけど、どれもよくわからん。

稲垣良典先生の『人格「ペルソナ」の哲学』は正直私はあんまり評価してないです。偉い先生なわけですが。一方、小倉貞秀先生の『ペルソナ概念の歴史的形成』はしっかりした良書だと思いますね。もし読むんなら小倉先生の方から読んだ方がわかりやすいと思います。

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パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ

「パーソン論」はさまざまあるとはいっても、やはり多くの論者が自己意識だとかそこらへんの心理的特徴に訴えかけているのは否定できないです。これに対してはやっぱり70年代前半からさっそくいろんな代替案が提出されています。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない

なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である

(このエントリは失敗なので書き直します)
「パーソン論は切り捨ての思想だ」っていうタイプの議論は「パーソン論」が国内に紹介された時点から存在していて、特に強い影響力のある森岡正博先生が広めた、と理解しています。先生は『生命学への招待』に収められている「パーソン論の射程」(初出は1987)から『生命学に何ができるか』(2001)、そして比較的近年の論文「パーソンとペルソナ」(2010)まで一貫してそうした主張をおこなっているようです。森岡先生の著書や論文が明示的に参照されることはそれほど多くないようですが、パーソン論に対する基本的な理解として国内で広く受けいれられているようです。

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セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。 続きを読む

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パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

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サポートページは https://yonosuke.net/eguchi/abortion/

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森岡先生の膣内射精暴力論を読んでみる

(このブログ記事から発展した研究会レジュメは https://yonosuke.net/eguchi/papers/morioka200806.pdf )

http://www.lifestudies.org/jp/sexuality01.htm森岡正博先生の文章はいろいろおもしろくて、いつかまじめに考えてみたいと思ってた。今回機会があるのでじっくり読んでみたい。でもまともなことが書けるわけじゃないから、とりあえずだらだらと印象を書きつらねてみよう。なんかおもしろいことを思いつくかもしれんし。非常にひっかかりのある文章なんで、気になるところをあげてみて、それから考えよう。

この論文が発表されたシンポジウムはしょうじき私はいろいろ不満があったんだけど、まあそれは書いているうちに思いだすだろう。

まずタイトル。「膣内射精」という耳ざわりにしなきゃならんのかな。AV用語だよな。私はかなり抵抗があるけど、まあそういう抵抗感をねらってるんだろう。「膣」とか書きたいからそういうタイトルにしてるんじゃないかとか言いたくなるんだが。膣内に射精することが問題なんじゃなくて避妊しないのが問題なんじゃないのか。「避妊しないセクロス」「妊娠の強制」じゃだめなのか。まあもとになっている沼崎一郎先生以来の問題意識が「膣内射精は性暴力」だからしょうがないのか。このタイトルや問題意識そのものがかなり男性的ななにかを感じてうーん、っていう感じなんだけど。まあいいや。

第1節の議論のまとめはとくに文句ない。

沼崎のポイントは、(1)避妊責任は女性にあるのではなく、男性にあるということ、(2)膣内射精は性暴力であること、(3)受精・受胎を起点とする中絶論は欺瞞であること、の三点である。

宮地先生の「法的になんとかしよう」ってのはいろいろ問題があると思うんだけど、まああとまわしにしよう。

第2節。まあ「女性の意に反した性行為はすべてレイプ」ってんで(とりあえず*1)よいと思うし、これは70年代からのフェミニズムの大きな成果の一つだわな。

(1)「強制膣内挿入」・・・これは、女性の意に反して、男性がペニスを女性の膣に強制的に挿入することである。

「膣」と書くなら「ペニス」じゃなくて「陰茎」の方がいいんじゃないかな。書きにくいのかな。

「強制膣内挿入」の暴力性とは、膣内に挿入してほしくないという女性の願いが踏みにじられることであり、「強制膣内射精」の暴力性とは、膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないという女性の願いが踏みにじられることである。であるから、女性が膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないと思っているときに、強制的に膣内で射精することは、女性のその願いを踏みにじる性暴力であると明瞭に言えるのである。

なんらかの行為の「暴力性」はその被害者の欲求の対象によって算定されるってことだろうな。

「強制膣内射精」の暴力性と、「強制妊娠を導いた膣内射精」の暴力性には、きわめて重要な違いがある。「強制膣内射精」の場合には、その膣内射精が生じたその瞬間に、その行為が、射精してほしくないという女性の願いを踏みにじっているわけだから、その時点でその暴力性は確定する。ところが「強制妊娠を導いた膣内射精」の場合には、膣内射精を行なった瞬間には、その暴力性は確定しない。その暴力性は、沼崎が言うように「潜在的」なものにとどまるのである。そして、実際に妊娠が判明して、それが女性の意に反していることが明らかになったときに、その原因となった膣内射精の暴力性が〈事後遡及的に〉確定するのである。

事後的にしか判断できないタイプの暴力があると言いたいわけだ。これが微妙。

まあなんかの後遺症とかを法的にいろいろやる場合は難しいかもしれんが、この手のケースに使えるかな?

第3節。ここらへんで森岡ワールドにひきこまれてしまってあれな感じになってくるのだが。

まず、男女が長く続く恋人や夫婦の関係であり、避妊について意思疎通が取れており、女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容している場合を考えてみよう。この場合、避妊をしたうえでの膣内射精は、「強制膣内挿入」でもないし、「強制膣内射精」でもないと考えられる。しかしながら、コンドームの破れなどによって避妊が失敗し、女性が妊娠したときには、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されている。問題は、このような場合に、その直接の原因となった膣内射精を、女性が性暴力と感じるかどうかという点である。それは、膣内射精の後に起きた受胎について、男性と女性のどちらの過失分が大きいと女性が感じるかによると思われる。

ポイントは「強制」という言葉だろう。このカップルの両方がそういうセクロスに同意していたとき、なにが「強制」なのか?「強制」している主体は誰なんよ。自然の摂理なるものによって強制されているわけではないだろう。むしろ「過失」だろう。あれ、この文章の「膣内射精を自発的に許容」ってのはコンドームなどによって避妊しつつ「膣内射精」することなのかな。周期法とか使ってのセクロスのこと考えてるのかな。なんかよくわからん。まあどういう手段を使っていようとも、「女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容」しているのならとても「強制」とは言えないと思う。

たとえば、コンドームを付けて性交したのであるが、コンドームが脱落して精液が漏れたのであれば、それは男性の過失であって、性暴力である、と女性が感じることはあるだろう。

わからん。「失敗」「悪い結果」ならわかる。「過失」であるには、「配慮義務」のようなもの、つまり、「ふつうの人ならば、あそれが起こらないように気を付けておくべきである」基準のようなものを守っていないことが要求されると思う。だからたとえば日本製のコンドームのように品質が優秀であることが知られているものを「正しく」使用したけど実はピンホールが空いてた、のような場合には過失とは呼べないかもしれない。コンドームはずれちゃった、とかってのは(その両者の使用の技術や経験にもよるのだろうけど)過失と呼べるかもしれん。女性がピル飲みわすれていたのも、厳しくすれば「過失」かもしれんし、周期法使って失敗したのも「過失」かもしれん。

ちなみに各避妊法による失敗の確率は
http://en.wikipedia.org/wiki/Pearl_index

日本語だとえーと、私が作ったいいかげんなレジュメ(あんまり信用してはだめ)は「一般的な使用法」と「理想的な使用法」にわかれてるところがいろいろ怪しい。

でもなぜ「暴力」なの?森岡先生は「暴力」って言葉をどういう意味で使ってるんだろう。こういうところが森岡ワールドなんだよな。情動的・評価的な言葉をわりとルーズに使ってしまう。私の語感では、「暴力」であるにはなんらかの「意図」が含まれていることが必要に思えるんだが。あるいは、「過失」に要求されるよりはるかに程度の高い無知や無配慮が必要だ。

コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「性暴力」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。

この文章のなかの「暴力」を「失敗」にすれば、なんの問題もない文章になる。やってみよう。

コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「失敗」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。 (性暴力→失敗に変更したもの)

となってくると、やっぱり森岡先生がセクロスを暴力であると考えたり理由が知りたくなる。まあわからんでもないのだが。

さて、次が一番問題の多い部分。

では次に、男女ともに子どもを作ってもかまわないと思っているときのことを考えてみよう。妊娠を生じさせてもかまわないと二人とも思っているわけだから、コンドームもピルも使わない性交を試みることになる。この場合もまた、「強制膣内挿入」も「強制膣内射精」も起こらない。ところが、やはり、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されているのである。妊娠が生じたあとで、男女のあいだの関係性に、大きな亀裂が入ったときである。

それはたとえば、妊娠後に男性が女性を裏切って不倫したり、妊娠した女性のもとから逃げたり、あるいは妊娠前から男性が他の女性と付き合っていたことが妊娠後にばれたりして、女性がその男性と性的関係を持ったこと自体を深く後悔し、そんな裏切り者の血を引く子どもが自分の胎内にいるということを、自分に対するこの上ない暴力だと感じたときである。そのようなとき、女性は胎児に対する強い拒否感を抱いて、中絶してしまいたいと思うかもしれないし、そのような感情を持ちながらもしっかりと産み育てたいと思うかもしれない。いずれにせよ、妊娠してしまったことに対するこの拒否感を引き起こした直接の原因である、あのときの膣内射精が、このようにして、性暴力として事後遡及的に構築されることはあり得るのである。あのときの膣内射精さえなければ、いまの自分の陥っている望まない妊娠という出来事は起きなかったのにというわけである。二人の関係性に対する裏切りという可能性をはらみながら膣内射精を行なった時点で、それは潜在的な性暴力を背後に抱いた膣内射精だったのであり、実際に男がそのような裏切りを行なったり、裏切りの情報が暴露された時点で、その潜在性は顕在性へと転化し、「あのときの膣内射精は性暴力であった」ということが事後遡及的に構築されるのである。

これはいくらなんでも無理だろうなあ。この手の議論をするなら、そもそも妊娠をポイントにする必要がない。「同意のセクロスしたあとに、セクロスしたことを後悔したり憤慨する」なんてことはよくあることだろう。多くの離婚カップルや破局したカップルの一方は(おそらく特に女性は)そういう感覚を抱くんじゃないだろうか。「あんな男とやっちゃったことなんか忘れたい」ってやつ。わざわざ「妊娠」を特別扱いする理由はどこにあるんだろう?それは妊娠が特別な出来事だから、なんだろうなあ。でもどう特別なんだろうか。

ここでふと思いついたただの思いつきだが、「あのときにセックスして妊娠しておけばよかった」とあとで思えば、それは「消極的性暴力」とかにカウントされたりしないかな。

セックスできそうなのにセックスさせないでおあづけ食らわすのは性暴力じゃないのかな。どれも違うだろう。でもなぜ違うんだろうか。なんか基準があるはずなんだよな。あとで考えよう。

それはすなわち、膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。

まあこのセクロスに対する罪悪感こそが森岡先生のこの文章を魅力的にしているんだよな。むしろとりえずこういうセクロスは罪である、生殖は罪悪である、っていう発想があって、膣内射精だのなんだのって話が出てきているように私には見える。男性的(?)性欲に対する嫌悪感。パウロやアウグスチヌスやカントやキルケゴールなんかが共有していた意識。私も共感するところがあるねえ。そういう罪悪感が正当化されるものかどうかはなかなか難しい。ほとんど人間であることを否定しているようにさえ見えたりもする。まあセクロスが他人をモノ化する「暴力的」な側面をもってるってのは否定できんしね。昔書いた駄文は 。だめだめ。

でも「性暴力」をこういうタイプ(「膣内射精」)の問題として扱うこと(過剰なものにしているのか、矮小化しているのかわからん)はどうなんだろうな。もっと検討すべき点は別にあるような気がする(あとで書く)。

まあぱっと見えるのが、このタイプの「暴力」(女性が妊娠する危険を負ってセックスする)は女性がピルのように簡単で確度の高い避妊方法を採用するだけでimmuneになることができるわけだが、それどうなのよ、ってなことだわな。だからこそピルは女性の性の解放の一番の道具になったわけで、国内のフェミニストたちのピルに対する冷たい視線はなんかおかしいように見える(あとで特に宮地先生のを読みなおしたい)。

ピルはなぜ歓迎されないのか

ピルはなぜ歓迎されないのか

とかそういう研究で関心あるひとにはおすすめ。文献情報もしっかりしているので役に立つ。あとリブ運動史とか参考になる。そういや新宿リブセンターの資料が出版されるとか見たけど、もう出てるのかな。

避妊しないセックスが潜在的には常に性暴力であり、悪いものであるとしたら、避妊すればいい。でもそれじゃ森岡先生の罪悪感はなくならないだろう。もしかしたら、女性にピル飲まれると罪悪感やドキドキ感がなくなって余計にセクロスが たのしくなくなるんではないかとか茶々入れたくなるほどだ。(半分は冗談*2。)

宮地先生の避妊責任

森岡先生のはちょっと置いといて、とりあえず宮地尚子先生の。まあもう10年も前の論文なので、宮地先生の現在の考え方とは違うところもあるかもしれない。

http://www.kinokopress.com/civil/0102.htm

沼崎先生のと宮地先生のについては、まず「責任」という言葉が気になるんだよな。「避妊責任」とかってときの責任。これは「避妊の義務」じゃないところがちょっとしたミソになっていると思う。(私だったら「男性が積極的に避妊する責任」として論じそう)

「責任」にはたんに「義務」の意味と「非難可能性」の意味があって~、他にも「賠償責任」とか「因果責任」とか「ハートなんかの有名な分析だと、「責任 responsibility」には四つぐらい意味があって、

  1. 因果責任 causal responsibility。単に因果的に寄与しているっていう意味。”Termites were responsible for the damage.”とかって文章で使われるやつ。これは日本語の「責任」にはない意味。この意味で「男性は女性の妊娠にresponsible」とはもちろん言える。けどあんまり重要じゃない英語特有のカテゴリ。
  2. 役割責任 role-responsibility。まあぶっちゃけ(役割に応じた)「義務」
  3. 賠償責任 liablity-responsibility。これハートでもけっこう広い概念で、刑事責任(刑事罰を負う)とか民事責任(賠償しなきゃならん)とか、さらに道徳的責任(非難に値する)がある。どういうときに非難可能(有責)かってのはけっこういろいろ条件がある。
  4. 能力責任 capacity-respoinsibility 。それをすることができる、って意味で責任があるといわれることがある。”He is a very grave and responsible man”とかの文章にあるやつだわな。これも日本語では「責任ある」じゃなくて「責任感がある」とか「ちゃんとした」とかって訳語になるからあんまり関係ない。

んで、沼崎先生や宮地先生が「責任」という言葉を使うとき(特に沼崎先生)、上の2と3の意味が混同されている可能性があると思う。宮地先生は鋭い方なのでこれには当然気づいていて、

とりあえず男女とも半々の責任がある。そう割り切った上で、それでは半々の責任とはどういうことなのかを考え、決めていく必要があるのではないか。沼崎も「女性にも男性にも同等の避妊責任が問われるべきだ」と書いている(5)。この「同等の避妊責任」の内容をはっきりしておかないと、後で述べる責任の実体化、とくに新たな法的規制なり解釈の変更が困難になる。

半々の責任とは、妊娠という事態を防ぐための負担を半々が負うということと、妊娠という事態が起こってしまった場合の不利益を半々が負うということだと、とりあえず考えることができるだろう。

どっちも負担責任として考えてるみたいだけど、まあ「避妊の義務」と「妊娠した場合の非難可能性・可罰性」に分けりゃよかったんじゃないだろうか。

あとおそらくこの宮地先生の「半々」の議論は、事実として「因果的には妊娠には男女が半々の寄与」しているということから「男女が負担を半々にするべきだ」と推論しているように見えるんだけど、これは自然だけどあんまりうまい推論ではないように見える。功利主義者ならば、どっちかが一方的に負担することが全体としてずばぬけてよい結果をもたらし、それを補うだけの補償を行なうことができるならそうすりゃよいと言うんじゃないだろうか。負担の「半々」にこだわることによって非常に悪い結果が出るのが予測されるならば、そういう平等はあまりよいものではない。 (私は具体的には避妊ピルのことを考えている。)まあここはいろいろ議論ありそうなところ。

避妊手段が女性のコントロールばっかり考えているっていう批判はもっとも。もっといろいろ方法があればいいのにね。(でもまずは女性が自分でコントロールしやすい方法を手に入れるのは私はよいことだと思う。)

避妊が失敗したときの負担は、圧倒的に女性に偏っている。そして、男性が肩代わりできる負担はほとんどない。この当たり前のことが、男性が避妊を怠る最大の要因であることは十分認識しておく必要がある。

ここらへんまでその通り。異議なし。問題は「避妊責任の実体化」の節。こっから話がヨレているように見えるんだよな。

とりあえずこの手の複雑な問題について、なんでも「法で規制しろ」ってのはいろいろ問題がある。立法措置とはなじまないタイプの問題ってのはけっこうあると思うんだよな。この手の問題が立法になじむかどうか。

さて、避妊責任の実体化についてこの辺で考えていこう。男性が孕ませない責任を実行するようにするためには、どうすればいいか。ここでは法制化の方向で考えていきたい。実体化が必ずしも法制化を必要とするわけではないが、社会規範に頼れない場合、もしくは規範自体が問題を含んでいる場合は、法的強制力に頼るしかないように思うからである。セクシュアル・ハラスメントについての大学や企業の対応が、訴訟など法的措置ぬきでは変わらなかったように。

でもまあ「セクハラ禁止法」などは作る必要はなかったろう。既存の法にもとづいた訴訟ですませることができればそれで十分。

女性は孕む性である。しかしそれは、所与である。自分の身体はできるだけ自分で守りなさい。これは、自由主義の基本とも言えるかもしれない。国家や共同体の介入を最小限にとどめておくことは、確かに重要かもしれない(19)。しかし、それなら「半々の責任」の実現は不可能だ。男女が半々に責任を負う社会にするのであれば、この自由主義的主張は一部修正せざるを得ない。「自然の不均等」をなくすのであれば、「社会的アファーマティブアクション」を求めるしかない。

まあこれなんだよなあ。私はあんまり賛成できない。「女性の性の解放」がよいものかどうかあんまり自信がないけど、女性の性的自己決定はすごく重要な気がするし、それをそういう法制度でなんとかしようとか、なにがなんでも「半々に責任を負う」とかってのを実現しようってのは実践的にどうなのかなあ。

しかしまあ宮地先生の問題意識はわかる。

沼崎が避妊責任を、女性には実際には問わない理由は二つに整理できる。一つは、現在の男女関係のあり方の中で、女性に交渉責任を課すべきでないということ(「男女間の不均等な権力関係という文脈においては、女性から男性にコンドームの着用を頼みにくいという構造がある」(21) )、もう一つは女性は妊娠による負担を重くせおうから、そのかわりに男性は避妊の負担をおうべきであるということである。

あとで見るつもりだけど、沼崎先生の「避妊責任」は事後的な非難可能性の話なんよね。つまり妊娠してしまって中絶とかってことになったときに、女性を非難するのはおかしい、むしろ非難されるべきは男だ、ってこと。まあ悪くない立場だと思うけど、ここらへんはいろんなケースがあるだろうとは思う。私自身はどういう場合でも(特に妊娠初期の中絶については)たいした非難は必要ないという立場に立ちたいと思うのだが、まあそうもいかんだろう。でもとりあえず沼崎先生がそういう文脈で「避妊責任」ってものを考えていることは重要だと思う。

んで、宮地先生は沼崎先生の議論を次のようにみる。

第一の理由は、現状では配慮に値するが、女性の主体性を軽視する事にもなりかねないので、私には賛成できない。「避妊してよ、しないならエッチしないよ」くらいは言える女性でなくてはならないのではないかと思うし、それはノースリーブを着て強姦されたときの被害者非難(22) とは違うと思うからだ。

私も宮地先生と同じように賛成できない。春先に某先生が新入生に対して「そういう男とはつきあっちゃいけません」と説教していたが、ある程度の判断力を求められる年齢になれば、それでいいんじゃないだろうか。

しかし、第二の理由はかなり説得力がある。すでに見てきたように、避妊負担は分担できても、避妊が失敗したときの負担を男性に負わせるのは困難だ。それならば、失敗したときの負担は女性が負うのだから、避妊の負担くらいは男性が責任をもつことが、全体の負担のバランスをとることになる。この論理は、妊娠期間中は女性が負担したのだから、出産後の育児は男性が中心にすべきという主張と似ている。現実には、妊娠する女性が育児責任も負わされ、妊娠して困る方が避妊しろという論理がまかりとおっているのだが。

こっちは沼崎先生の見解にも宮地先生の見解にも異論がある。妊娠に関して女性の方がより多くの負担を負うことになるのはその通りなんだと思う。男は逃げるかもしれないけど女は逃げられない。しかしここから、「避妊に失敗した負担は女性が負うのだから、避妊の負担は男性が「責任を持つ」ことが全体の負担のバランスをとることになる」といえるだろうか。

キーポイントになりそうなのは、宮地先生がこだわる「半々」であるように思える。問題がたんに「負担」であるならば、負担の負い方はもっと他にもありそうだ。たとえば、ホテル代は男が持つ、男は女にいろいろプレゼントする、デート代全部男が持つ、結婚したら男がいっしょうけんめい稼ぐなど。実際に多くの人びとの性的関係はそうなっているように見える。もしこういう対案がばかげてみえるのであれば、その理由はなんなんだろう。

それは、セックスという限定された局面で負担を平等にもつべきだ、ってことなんだろうけど、避妊は男の仕事、産んだり中絶したりするのは女の仕事、とかってのはなんだかぜんぜん半々でも平等でもないように見える。上のようなデート代の「負担」も同じ程度に平等かもしれんし不平等かもしれん。

いやいや、これは単なる経済的・精神的負担の話じゃなくて、けっきょくは「誰が非難されるべきか」の話なのだ、と考えればまだ少しわかりやすくなる。けっきょく、「女はそういうことを(文化・経済・その他の理由によって言いにくいのだから、まともな男はちゃんと避妊すべきなのだ、そういうことしない男こそ責められるべきだ」ならまあわかる。

で、まあ宮地先生のユートピアの法律。まさか本気で考えているのではないと思うのだが。

これを法制化するとどうなるだろう。

まず、女性が妊娠すると、合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる。

とりあえず妊娠は(prima facie 他に特段の理由がなければ)悪しき結果なのである。

強姦と和姦の境界をめぐる争いは一切しなくてすむようになる。男性は「女性が妊娠を望んだ」「女性が避妊つきの性交を嫌がった」と言い逃れするかもしれない。けれど、男性は自分が子どもを望まないのであれば、女性の依頼に屈することなく避妊をすればよい。

あるいはこっそりパイプカットでもしておけばよい。

また、双方が妊娠を望むなら、女性にその旨の契約書を書いてもらい、男性が保存しておけばよい。要は、双方が明確に妊娠を望むときを特殊な場合とみなし、通常では男性が避妊とその失敗の責任を負うというふうにするわけである。

子どもを作ったりすることは計画的な契約関係であるべきであって、われわれに降りかかる偶然事であってはならないのかもしれん。そうなのかな。そうであるならばわれわれの生活はより豊かになるんだろうか。わからん。

「生殖のための性」の現実の割合の低さを考えれば、また妊娠を望むカップルの相互信頼度の相対的な高さを考えれば、妊娠を望まないときではなく、望むときに契約するというのは理にかなっているのではないだろうか。性と生殖を分離しようとする欲望をすでに今の社会は認めているのだから、それを明確化するだけの話である。

宮地先生が注で認めているように、現状の世界でも、実質的に婚姻関係がそういうもんなんだろう。

そして、望まない妊娠をした女性は中絶しても出産してもよいことにする。中絶や出産による女性の労力や心身の負担、費用については男性が一切責任を負う。また、出産しても女性が特に養育を望まなければ、養育責任は男性が全面的に負う。

ここらへんの養育費の問題はいまよりもっとしっかりした方がいいんでしょうね。これは認めます。

強制妊娠罪には、強制中絶罪か強制出産罪のどちらかが必ず加わると考えることもできるだろう。女性は妊娠したから中絶をしたいのであって、中絶を元々望んでいたわけではないし、中絶は妊娠と別に女性に負担をかけるのだから。また、出産を女性が選ぶとしても、それは代理母になるのを強いられたようなものであり、女性の養育責任とは切り離すべきである。したがって、男性の認知や結婚が責任をとったことにはならない。つまり、強制妊娠罪を侵した男性は、どちらかの罪を重ねるしかない。一方、女性は身体変化を経験するという「自然的義務」がある分、その経験を経た上での最大限の選択が許されるべきである。

こういうふうになんでも「強制」と見る見方はわたしにはあまりにも主体性がないように見えるんだが、どうなんだろうか。「強制」についてはのちほど。

男性に酷すぎるという声が聞こえそうだ。しかし、いやなら避妊をすればいいだけの話である。簡単に自衛手段は手に入るのだから

避妊の失敗の可能性を考えれば、いやならセクロスしなければいいだけの話である、の方がよさそう。なぜそう書かないのだろうか。

うーん、宮地先生の議論はなんでこんなに奇妙な感じがするんだろう。おそらく、実質的な結果より「半々」とか「責任」とかそういう大義の方を優先しているからか。 この時点(1998年)ではまだ避妊用低用量ピルが認可されていなかった*3。私は宮地先生は女性の安全のためにまさにこんな奇妙で実現不可能に見える法制度を夢想するんではなく、ピルの認可こそを求めるべきだったように思えるのだが、どうなんだろう。性病の問題はピルでは解決しないけど。

まあでも、こういう宮地先生の夢想的なのは、次のようなことを言いたいがためのレトリックと読むのがよいのだろう。

男性が毎日、排精子抑制剤をのむ日を想像するとSFのように感じてしまう今の私たち。逆は既に現実になっているにもかかわらず。それほど私たちは性差別的な社会に生き、それを当然と思わされているのだ。また、以前はSFとしか思えなかったことが現実に今、医療などの分野でどんどん起こっている。セクハラやデートレイプなど、一昔前なら女性の落ち度とされ、法律で扱うことなど考えられなかったことが、徐々に法的処罰の対象になってもきている。

そもそも強姦された女性が訴えるなんて考えられなかった時代だってある。いまだにそういう社会もある。したがって、強制妊娠罪の概念もその境界線も、今は突飛なように見えても、そのうち人々の意識になじんでくる可能性は十分ある。「できちゃったのよ。責任とってよ」という程度には、望まない妊娠が「男性の非」であるという認識を、すでに多くの女性はもっている。

ここらへんは宮地先生の正統派フェミニストとしての面目躍起。ここらへんはまあわかる。でも「僕パイプカットしてるからね」は一部の人は口説き文句だと思ってるかもなあ。そのうち「僕、薬飲んでるから」とかってのが現実に使われるときが来るかな。それをSF的だってだけじゃなくて、なにか邪悪なところがあると思う人もいるかもしれない。どういうことなんかな。あんまり完全に生殖と切りはなされたセクロスはなんか邪悪なところがあるのかもしれない。想像だが、森岡先生はそう感じるんじゃないだろうか。女性が「私はピル飲んでる」と言いにくいかもしれないのと関係があるだろうか。ここは興味あるところだなあ

んで、一番大事なところ。

孕む性を負担としてのみ議論してきたが、この前提は問題ではあり得る。孕むことを喜びとする女性もいる。孕む性を武器にすることもある。孕むことのできる性をうらやましく思う男性もいる。孕みたいときと、孕みたくないときで別に考える必要があるのだろう。ここではあくまでも女性が孕みたくないときに孕まされることの害を言おうとしているだけである。

OK。ではなぜ副作用がなく確度の高いピルを求める論文にならなかったのだろうか。私はそっちの方が気になる。そりゃやっぱり男性にも「責任」なり負担なりを負わせたいからだ。でもそれってほんとに必要なんだろうか。(もちろんそうでもいいんだけど、そうしようとすることで悪い結果が出るとしてもそうなんだろうか。)

男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望と、はっきりさせずにおきたい欲望を持ち、それぞれの場合で場所を使い分けている。永田は、性の市場化をめぐる分析の中で、結婚と売買春との根本的な違いを、男性の再生産責任の有無におく。結婚(恋愛は準結婚である)とは男性の再生産責任を負わせる制度であり、売買春市場は男性の再生産責任が免除される場であるという指摘である(30)。これは、前者の場では、男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望を、後者でははっきりさせずにおきたい欲望を満たすと言い換えることもできるだろう。・・・一方、女性はどちらかの場に割り当てられ、両方の欲望を満たすことは許されない。・・・父子関係が母子関係ほどはっきりできないことは、現時点では男性による女性のセクシュアリティの管理の要因でもあり、手段でもあるのだといえよう。

この指摘は鋭い。ここらへんが正統派フェミ。まったくその通り。ヒューム以来、ファイアストーンも進化心理学も指摘している。まさにセクース論の核心の一部。おそらく問題は、たとえば父子関係が遺伝子検査によってはっきりするとしても(もう8万円ぐらい払えばはっきり時代)、われわれの心理はそういう技術革新についていってないってことかもしれん。我々の欲望は石器時代のまんまだ。人間の本性(あるいは自然的傾向性)があるとすれば、それほど簡単には変わらん。道徳教育によって変えるか、法制度によって強制するか、技術によって回避するか。教育は一部の人びとにしか効果がないかもしれん。法律ぶんまわすのはいろいろ注意が必要、となれば、わたしだったら教育(一部の人にしか効果がないかもしれない)とあんまり侵襲的でない技術でなんとかしたいと思う。もちろん法制度が有効なら使いたいけど、実践的にはむずかしそうだ。

そして最後の箇所。

そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。

女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。

宮地先生はよくわかってるなあ。妊娠だけに関していえば、やっぱり私はピルで解決したらいいんじゃないのと言いたくなるのだが、けっきょく宮地先生が言いたいのはもっと広いセクシュアリティの不平等なりなんなりなわけだ。

そういう男性的セクシュアリティの闇の部分に思いをはせていらっしゃるな。でもそういう男性的なものの闇だけでなく、おそらく同じように女性的セクシュアリティの闇の部分にも気づいているだろうから、そっちの論評も読みたくなってきた。そういや手元に新刊があるのに読んでないや。

宮地先生が気づいている(森岡先生も)のに十分論じていないと私に見えるのは、そういう宮地先生や野崎先生や森岡先生が嫌うタイプのマッチョな男に魅力を感じる女性がかなりの数いるように見えるところなんよね。宮地先生にはそこを論じてほしいんだが。そういう男が女性とのセックスへのアクセスをまったく失なってしまうのであれば、問題は起こらないのだが、マチズモは実は女性へのアクセスを増加させる一要因でさえあるかもしれない。(少なくとも一部の男性はそう思いこんでいる。)肉体的・物理的・経済的・社会的な力によって「強制」しているだけではないかもしれん。ここらへんが恐いところ。

あ、宮地論文の注15「沼崎前掲p92では、正確には「膣内射精」を性暴力としている。細かいことだが、いわゆる膣外射精でも妊娠可能性は十分あるので本稿ではこの言葉を用いない」私もその方がよいと思います。賛成。

注29も宮地先生はよく見えてると思わされる。父子関係がはっきりしちゃうと不利益を受ける女性もかなりいると思う。もうその不利益は現実のもの。でもそういう技術に反対するわけにはいかんだろうなあ。

注33「避妊に対して「自然に反している」「女性性が損なわれている」と感じる女性もいるようだ(森,飯塚,谷澤ら前掲p367)。避妊なしで性交をしてしまう女性の心理も分析が必要であろう。 」ふむ、そうです。

あ、卒論とか書いている学生のための注。宮地先生はまもってないけど、ページを示すときのpのうしろにはピリオドつけてください。p95じゃなくてp. 95ね。複数ページはpp. 91-95のように。

うーん、宮地先生の論文は昔ざっと読んだときよりずっとよく見えるな。すばらしい。他にもいくつか疑問があるけど、沼崎先生のに行くか。

沼崎一郎「〈孕ませる性〉の自己責任:中絶・避妊から問う男の性倫理」

『インパクション』105号、1997。

タイトルの「自己責任」よくわからんよね。「〈孕ませる性〉の責任」でいいのに。なんで「自己」なんだろう?

この論文はまあ中絶の責任は誰にあるかっていう論文で、中絶は不正であり、その不正の責任の多くは男性が負う、ってことだわね。まあいいんじゃないでしょうか。具体的には、中絶は男性から負わされた妊娠という損害を回復するための、あるいは権利回復のための手段とみなすべきであるということらしい。(p.94あたり)かなり微妙な主張。妊娠を従来のような「女対胎児」の問題ではなく、男女関係の問題と見るんだなあ。斬新な主張だけど、男に注意が行きすぎているような気もする。

ピルに関してはこんなかんじ。

たとえ夢のピルが発明されたとしても、それは女性にとって避妊手段の有効な選択肢が増えるということを意味するだけであって、女性にとってピル服用の義務が生じるわけではない。女性には、ピルを選ぶ自由とともに、ピルを選ばない自由もある。この二つの自由を両方ともに承認する義務が男性にはあると、私は思う。そうしなければ対等なパートナーシップは築けないからだ。

ピルの有無にかかわらず、女性だけでなく男性にも〈避妊責任〉はある。どのような避妊手段を選ぶかは、女性と男性とが対等な関係のなかで話し合い、決定すべき問題だ。まして、副作用のないピルはまだ発明されていない。ピル任せにはできないし、ピル任せにはしてはならない。現状では、膣内射精は〈性暴力〉なのであって、男たちは、主体的に〈避妊責任〉を引き受けなければならないのだ。(p. 95)

お説教としてはもちろんOK。でも、女性には避妊しない男とはセクースしない自由もあるし、そもそも男なんかパートナーにしない自由もあると思う。それに、男が「主体的に」責任を引きうけるってのはよいことだが、こういう書き方をするからたんなるお説教になってしまい、もしかするとこういう発想がより多くの不幸を生みだすかもしれんと思う。社会政策とかを考えるのであれば、「主体性」とか信用ならん。「主体的に引き受けろ」とかいって主体的に引き受けたりするのは一部の良心的な人だけだもんね。そもそもわれわれはそんないつもいつも主体的だったり良心的だったり理性的だったりするもんじゃないような気がする。こういう論文が先にあったと思えば、「そんなもん信頼できないから法によって実体化せよ」という宮地先生の論文の意味がわかるね。まあとにかく道徳なんて当てにならんので、なんか「実体化」したいわけだ。宮地先生はまともだ。なんか読みなおして宮地先生の評価が高くなってしまってちょっと意外。さて、そうなると、この沼崎先生と宮地先生の論文を掘りおこした森岡先生の意図はどうなんだろうなあ。

と、とってきたままで放っておいてた沼崎先生の「男性にとってのリプロダクティ・ヘルス/ライツ」も軽く目を通したり。ふむ、父親としての自分を自覚していろいろ考えていらっしゃるわけだ。男にはパートナーとか子どもに対する「義務を果たす権利」がある、ってことらしい。沼崎先生の善良なところがわかってけっこうよい。「男性も生殖にかかわらせろ!」って感じ。こういうのがフェミニズムに対抗する意味での「男性学」(男権主義?)なのかな。この論文が載ってる『国立婦人教育会館研究紀要』第4号、2000は他にも重要な論文載ってそうだ。あと

男性論―共同研究

男性論―共同研究

が重要そうね。手に入れにくい。

森岡先生ふたたび:(a)妊娠可能な女性

さて、森岡先生のに戻るか。

以上を振り返ってみれば、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力には、次の三つの特徴があることが分かる。(1)この性暴力は妊娠の可能性をもった女性に対して特異的に行使される暴力である。男性や、妊娠の可能性が生物学的に生じない女性に行使されることはない。(2)膣内射精によっていったん受胎が起きたら、あとは女性の意志とは無関係に妊娠が自動的に進行していくという、生物学的な不可逆性が存在する。女性が自分の意志によってそれを食い止めるには、中絶しか残されていない。(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力は、事後遡及的に構築される。この意味でそれは無期限の潜在性を持っている。

(1)はなんかすごい。どうすごいのかはよくわからん。なんで森岡先生にとって妊娠がそんなすごいことなんだろうか。

(2)はまあそうなんじゃないのかな。

(3)はぜんぜんだめだろう。このタイプの議論をとれば、どんな暴力も無限にインフレしそう。

この、「特異性」「不可逆性」「潜在性」の三点が、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力を特徴づけていると言えるだろう。「潜在性」については、強制猥褻やセクシュアルハラスメントなどの性暴力においても見られる特徴であるが、「特異性」「不可逆性」については、膣内射精という性暴力に限って見られる特徴である。

うーん、ここでよく考えると、「特異性」のポイントはよくわからんけど妊娠という現象の特異性なんだよな。でも胎児が妊娠されて不利益を受けることはめったにないと思うので(どんな人生もたいていはそれなりによいものである)、それは胎児なり新生児なりの不利益ではなく、女性の不利益なんだろう。私自身はそれを(だいたいのところ)不利益と呼んじゃうことに抵抗を感じるけど、まあそうなんかな。でもこれの意味するところをよく考えると森岡先生が考えているのは、まだ妊娠の能力のない女児や、同じく妊娠の能力のない年配の女性とセクロスして射精することは、妊娠期の女性とセクロスして射精することより(他の条件が同じであれば)よっぽど悪い、ということのように思える。そしてこれがまさにおそらく森岡先生の考えていることなんではないかと思う。

このことに気づくと、なんか気持ち悪いんだけど、ここでデイヴィッド・バスやクレイグ・ソーンヒルのような進化心理学者がレイプについて語ってることを参照するのはけっこう重要だろうと思う。

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

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女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

ここらへん。進化心理学の推測によれば、女性は妊娠の可能性があるときの方がそうでないときよりも性的な攻撃(まあレイプでいいけど)に対する苦しみが大きく、またそれは実証によっても支持されている、とかそういうこと。早い話、女性は痴漢にあってチンチン見せられたり、フェラチオさせられたりするより、膣内射精されたときの方が被害を大きく感じる。(だから刑法も強制わいせつと強姦を区別しているわけでもあるのだろう)これは年齢的なのもあるらしい。レイプのトラウマは妊娠可能な年齢のときの方が大きい、とか。(いまちょっと参照する時間がないのでこのまんまだけど、たしかどっちの本にもあったと思う。)

森岡先生のカンは、おそらくここらへんをとらえているんだろうな。さらにやばいことに、そういう射精をともなうレイプをした犯人は、めったに被害者を殺さない。っていうかレイプ犯が被害者を殺すことは予想に反してあまりない。ここらへんから推測すると、レイプとかってのは男性の生殖戦略の一部であるかもしれない。(ソーンヒルたちはもうひとつ生殖戦略の副作用であるって仮説も出してるけど)またわれわれは、そういう繁殖の成功が(至近因ではなく究極因として、つまり自分でははっきり意識はしてないけど)さまざまな行動の原因かもしれない。宮地先生や森岡先生が勘づいている「男性的セクシュアリティの闇」は、けっこう生物学的な基盤をもってる可能性がありそう。「人間の本性」の一部かもしれん。これは難敵ですよ。どっちも邦題からするとヨタ本かと思われそうだけど、そんなことはない。堅いのが好きな方は英語でもよければ

Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind

Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind

でももちちろん、「メスに子どもを生ませたい」ってのが人間のオスの行動の究極因であるとしても、それが道徳的にしょうがないとかそうそう思うべきだってことにはならない(おそらく可能ならば暴力によって他のオスを排除しようとするのも人間のオスの本性かもしれないけど、暴力がしょうがないとか正しいとかってことにはならん)。むしろだからこそ、そういうものをコントロールするのが道徳や法であり、また技術なわけで、そこらへんあれなんだけど。宮地先生のアイディアでうまくいくかな。そもままじゃうまくいかなそうだ。どうしたらいんだろうな。

(b)事後遡及

これはまあ法律とかそういうきっちりしたことを考えるときは問題にさえならないだろう。これは私には(1)法的な可罰性、(2)道徳的な非難可能性、(3)道徳的な罪悪感/良心の三つの問題を混同しているように思える。

おそらく、本気で法について考えるなら偶然的に事後的に結果が出るなんてのは採用できない。でも道徳的な罪悪感についてはそうは言えないかもしれない。森岡先生が議論しているのは、実は法の話じゃなくて、少なくともそう感じるべきだ、という罪悪感の話なんだろう。むしろ、罪悪感を法によってそれを感じない人びとに押しつけようとしているのかもしれない。

うーん、でも一眠りした方がよさそうだな。

書きかけ。まだまだ続く。

*1:あとで「とりあえず」がそんな簡単じゃないことは議論したい。

*2:半分は本気かも。あとで書く。

*3:バイアグラとの抱き合せという馬鹿げた事情によったのは関係者は爆発すればいいのにとか思う。

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一年の反省

この日記の1年分を読みなおしてみる。
まあごちゃごちゃ書いてきたが、勉強になったところもあれば
ならなかったところもあり。全体にネガティブで傲慢でoffensiveだけど、
そんなに大きくまちがったことは書いてないしまちがっているところは恥をかいていると思うので、
もうちょっと続けてみるかな。

書き方が悪くて一部の人に不快を与えているかもしれないのは
いろいろ反省。また意図的に傲慢な書き方をしてみているわけだけど、
よっぽどのことがなければもうちょっと考えた表記にするべきかもしれない。

伊藤公雄先生の「卓越性のゲーム」については
もうちょっと考えるべきかもしれん。
あんまり勝ち目もないし。でもまあ、この「卓越性のゲーム」が意義を持つ分野もあるとは思う。「ゲーム」呼ばわりして知的に不誠実なことをするのはいかん。
J.S.ミル先生は「功名心」は非常に重要だと言ってる。

種々の芸術や知的な職業においては、それによって生計を経てようとすればある程度まで上達しなければならず、さらにその名を不朽にするような傑作を残そうとすればいっそう高い程度にまで上達しなければならない。たんに前者の程度まで上達することにたいしても、職業としてその仕事に従事するものの立場からすればそれ相当の動因があるが、後者の程度にまで上達することは、はげしい功名心をもつものか、あるいは一生のうちある時期にその心を起したものでなければ到達できないことである。たとい偉大な天分に恵まれていても、すでに最高の天才による見事な傑作が数多く残されている仕事において、自分もまたぬきんでようとするためには、長い期間耐えがたい苦行を重ねてゆかねばならないのであるが、その場合の刺激剤としては、ふつうこの功名心にまさるものはないのである。
(J.S.ミル『女性の解放』大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫、pp.151-2)

まあミルが考えているような不朽のなんやらなんか私たちには関係がないが。
金銭的な報酬と別になんか「知的」(はずかしいなこれ)なことをするには、
功名心のようなものが必要だってことだと思う。この手のメディアでは「卓越性のゲーム」は必須で もあるし、学術界ではなおら必要なんじゃないだろうか*1
でもなんかもっとなんか実質的なことをやりたいものだ。

「あなたは自分の読者を馬鹿だと思ってもよいのですが*2
あなたが議論している哲学者やその見解を馬鹿げていると思ってはいけません。もし
彼らが馬鹿なら、わたしたちは見向きもしないからです。もし
あなたがその見解によいとこがなにもないと思うのなら、おそらくそれはあなたがその見解について考えたり議論した経験が十分になくて、その見解の提唱者たちがなぜそれに魅力を感じているかを十分に理解していないからかもしれません。彼らを動かしている動機をもっと考えてみましょう。」

You can assume that your reader is stupid (see above). But don’t treat the philosopher or the views you’re discussing as stupid. If they were stupid, we wouldn’t be looking at them. If you can’t see anything the view has going for it, maybe that’s because you don’t have much experience thinking and arguing about the view, and so you haven’t yet fully understood why the view’s proponents are attracted to it. Try harder to figure out what’s motivating them.

じっさいのところ、これまで取りあげてきた人々の著作や研究は やっぱり説得力と魅力があって、stupidだとはぜんぜん思ってない*3。stupidなのはむしろ私自身で、まあslow lernerの恥さらし。でも
それもなんか意味があるだろうという気はする。特に今年後半に
小松先生や森岡先生の見解をゆっくり読んでみたのはよい機会だった。
たしかになんかいいところがあるのだが、それが私はまだピンと来ないんだよな。

まあ読んでくれた人はありがとうございました。特にコメントしてくれた人には感謝。
来年もよろしく。

*1:でも政治の世界ではそういうのとは違うインセンティブがあるかもしれない。

*2:馬鹿だからわからんだろうと思えってことじゃなくて、読者にはとにかくわかりやすく書け、ということ

*3:いや、いくつかはまったくstupidなのもあったか・・・でもそういうのをとりあげたいのは、stupidを非難したいんじゃなくて裏の政治的な意味を非難したいんだよな。

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トゥーリー論文その後

論文
(Michael Tooley, “The Moral Status of Cloning Humans”, Hamber and Almeder (eds.) , Human Cloning, Humana Press, 1999)
届いた。これから読む。ドキドキするなあ。ロンブン読むのにこんなにドキドキするのははじめてだ。理系の人が予測立てて実験するとき、こんな感じなのかな。

うわ! 私がまちがっていた。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person. (p.73)

小松美彦先生児玉聡先生森岡正博先生みなさんごめんなさい。
もうしわけありません。勉強しなおします。勉強になりました。
自分の恥さらしのため、エントリはそのまま残しておきます。

粘着だから

粘着だっていいじゃないか、ぱーそんだもの (かりを)

トゥーリー先生にメール出してみた。

前の方略。

Now I am interested in Japanese history of bioethics, especially how your theory of personhood has been introduced into Japan.

My question is simple. As I understand, in your terminology in “Abortion and Infanticide”, “person” means, roughly, “an entity that has a serious moral right to life”.

But in “The Moral Status of Cloning Humans” in the Kyoto lecture and Humber and Almeder (eds.) Human Cloning, you wrote “… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person.”(p.73)

I feel somewhat strange to find the phrase “one has a person”. I guess it should be “the point in which one *is* a person” or “one has *personhood*”. Or, the word “person” in the latter paper has some different conception from that of the first paper?

I’d be very grateful if you could have some spare time to answer my question. Thank you in advance,

あら、名前の綴りまちがえて出してた・・・

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パーソン論その後

たいへんなことを見逃していた。

そもそも、Tooleyの”Abortion and Infanticede”を森岡正博先生が
「嬰児は人格を持つか」というタイトルで訳していたのだ!
(『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』)
あんまり有名な論文なんで、目の前にあるのに目に入ってなかった。
腰を抜かした。
こんなことさえ気づかないなんて
自分の馬鹿馬鹿。
そりゃみんな「人格を持つ」「持たない」って書きたくなるよなあ。
そして、「人格を持つ」と「人格である」が混用されれば
難しい議論の理解がなおさら困難になるのはあたりまえだ。

これ、ストレートに「中絶と嬰児殺し」とか
せめて「嬰児は生きる権利を持つか」というタイトルで紹介されていたら、
理解はぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。
そもそものはじめから国内の「パーソン論」の議論はまちがってた、
ってことになるかもなあ。そしてそれに誰も気づかなかった?(私は気づかなかった。)
あるいは気づいても誰も指摘してなかった?

ちなみに児玉先生の用語集の記載は、高校教師の方々に
出典記載なしでほとんどそのままでコピペされ、
高校のディスカッションとかの資料になってしまっているようだ。
おそらく大学のレポートでも同様の目にあっているだろう。気の毒。

追記 にあるように、
「~が人格をもつ」はトゥーリーの論文にもでてきます。誤用ではありません。

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小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(2)

続き。

いわゆる「パーソン論」

前からいわゆる「パーソン論」の解釈は非常に気になっているのだが、よい入門・解説書がないんだよな(あとで調査する)。

とりあえず小松美彦先生の文章を読みながら落ちいりやすい読み間違いを確認しよう。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。一八世紀に活躍したイギリスの思想家ジョン・ロックなどの伝統的な人格論に基づいていると考えられている。 一九七〇年代にアメリカの生命倫理学者マイケル・トゥーリー*1が 提唱し、八〇年代以降のアメリカやオーストラリア*2で第一線の生命倫理学者たちによって磨き上げられてきた。(p.149)

最初の「一言でいうなら」の一文はちょっと乱暴かな。まあしょうがないのかしょうがなくないのかは最後に結論出すことにしよう。

まず、人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる、とパーソン論は捉える。人間を一生物種のヒトたらしめる生命と自己意識や理性を備えた人格者(パーソン)らしめる生命である。この理念的な区別を現実に当てはめてみると、人間世界には生物的生命と人格的生命の両者を兼ね備えている者もいれば、生物的生命しか有していない者もいることになる。他方、パーソン論は、ある人間が生物学的なヒトであること、その者が「生きる権利」をもった人間であることは必ずしも一致しないとする。つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

まず注意しなきゃならんのは、「パーソン論」なんてものは存在しないってことだよな。世の中に存在しているのは、あくまでマイケル・トゥーリーの議論やエンゲルハートの議論。

この「パーソン論」って言葉はおそらく森岡正博先生が 発明して、加藤尚武先生が広めたんじゃないかと思うけど*3、非常にミスリーディングだったんじゃないかと思う。まあしょうがなかったのかもしれん。これもあとで考えよう。

とりあえず「~と捉える」のはトゥーリー先生やH.T.エンゲルハート先生で、彼らが実際になにを主張しているのかしっかりとらえないとならん。ふつうは「トゥーリーは」と書いてほしいところ。トゥーリーの”Abortion and Infanticide”という悪名高い論文は、 『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』に(抄訳だが*4)森岡先生の訳で収録されている。ここからは、いちおう、小松先生はトゥーリーの議論を考えていると想定することにする。(別の論者ならそれを考えなきゃならん)

で、トゥーリーが「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」と捉えているかというとこれはミスリーディングなだけではなく、誤解だろう。

日本語で「ひとを殺すことは不正だ」「ひとを殺してはいけない」というようなときの「ひと」にあたる英語は”person” とか “humann being”が使われる。”It is wrong to kill a person.”とか”It is wrong to kill human beings.”とか使われる(んだと思う)。

おそらく”person”の方が日本語の上の「ひと」に近いだろう。でもまあ、日本語では、「無実のひとを殺すのは不正だ」「無実の人間を殺すのは不正だ」の間に違いがあると思う人はほとんどいないだろう。英語でも、personとhuman beingはふつうに交換可能に使われているはず。

でもまあ、トゥーリーの論文が書かれた1972年のころに激しく議論されていが妊娠中絶とかを考えると、personとhuman beingを同じ意味に使うのはまずいかもしれないってことにトゥーリー先生は気づいた。

ってのは、「胎児はいつから人間human beingですか?」という問いに対して答えようとするのは、難しいというより(もっと分析しないと)ほとんど意味がないからだ。生物学的に見れば、胚から胎児を経て新生児になるまでは

連続していて、どれもホモ・サピエンスの一匹(の子供)という意味では線なんか引けない。「受精卵」と「初期胚」と「後期胚」と「胎児」は連続している。だから上の「胎児はいつから人間ですか」が「胎児はいつからホモサピエンスの個体ですか」という意味の問いであれば、「おそらく胚の時点から」とか答えることになる。(ここ、実は「個体」の定義が難しいんだけど面倒なので書けない)

しかし、「胎児はいつから人間なんだろう?」という問いにはもうひとつの(おそらくもっと重要な)意味があって、それは「ひとはみんな生きる権利を持っている。だからひとは殺しちゃいけない。そして胎児はいつから(その殺してはいけない)ひとになるのだろう?」という意味での「ひと」の意味がある。この問いで使われている「ひと」はたんに「ホモ・サピエンスの一員」という意味ではない。

なぜかといえば、先の「胎児はいつから人間ですか?」という問いは、「(ホモサピエンスの個体はみんな生きる権利を持っている。だからホモサピエンスの個体は殺しちゃいけない。そして)胎児はいつからホモサピエンスの個体になるのだろう。」という問いではないように見えるから。ホモサピエンスの個体という意味でなら、さっき書いたようにずっとホモサピエンスの個体で、あんまり疑問の余地はない。

だから、「胎児はいつから人間なのか」っていう我々が日常的に考える(実 は曖昧な)問いは*5、実は、「胎児は(いつから)生きる権利を持つのか」というもっと正確な問いで問いなおすべきだ、ってのがトゥーリー先生の第一のポイント。すばらしい。ここらへんの分析の鋭さがトゥーリー先生の論文が皆に読まれ影響力をもったゆえん。答えなきゃならない難しい問いは、哲学的に反省してより明晰な問いに直さなきゃならん。そうすれば答えに少しは近づく。(もちろん、そこでいろんなものが削り落されることになってしまうのは意識しておかなきゃならん。)

さて、いったんこうして切り分ければ、曖昧な言葉づかいをしているのはテツガク的にあんまりうまくない。曖昧な言葉は曖昧な思考をまねくし、論理的な混同を犯しやすい。そこでトゥーリー先生は、生物学的な意味での人間を a member of homo sapiens とか呼んで、「生きる権利をもっている存在」を personと呼ぶことにしよう、と提案するわけだ。

「人格」personということばはどのように解釈されるべきであろうか。私は人格の概念を、すべての記述的内容を離れた純粋に道徳的な概念として扱うことにする。特に、私の用語法では、「Xは人格である」X is a personという文は、「Xは生存する(重大な)道徳的権利を持っている」 X has a (serious) moral right to lifeという文と同じ意味を持つsynonymousことになるであろう。(トゥーリー、p.97)

これは単なる用語法についての(勝手な)取り決めにすぎない。論文を読んでいてこういう宣言があったら、読者はいつも「person 人格」をそういう意味で理解しなければならん。もちろん、学術論文で勝手にそういう定義を採用するのはぜんぜん問題がない。

国内の議論の問題は、このpersonに「人格」という訳語を当てた(これはしょうがない)ので、「人格」に勝手にいろなものを読みこんでしまう傾向があることに思える。(だから森岡先生あたりが「人格論」ではなく「パーソン論」と呼ぶのは、まあ意味があったとは思う。術語なのだ。)

ぜいぜい。面倒。

上の小松先生の文章に戻る。「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」はまったく誤解。別にそんな奇妙な二つの「生命」を持っているわけではない。

もう一回確認すると、トゥーリーは第一歩として、「胎児はいつから人間ですか」という問いは、「胎児はいつから生存する権利を持つ存在になりますか」「胎児はいつから生存する権利をもちますか」という問いで問いなおすべきなのだというポイントを指摘しているにすぎない。

さて、トゥーリーの議論はこっからが難しい(それに問題も多い)。「胎児はいつから生存する権利をもちますか」に答えるためには、「権利をもつ」ってことがどういうことかわからなきゃならん。

こういう言葉の分析が、当時はやっていた言語分析とかそういう流れで重要だったんよね。まあ「問いをはっきりしなければ答は出ない」ってのはいまだに正しい方針だと思う。だいたいの「難問」は問い自体がなにを問うているのかよくわからんわけだし。正しい問いを問うことができるようになる、ってのが哲学の最大の目標なんだと思う。

まあ実際日本語では「~する/に対する権利がある/を持つ」と表現するわけだが、権利って概念もよくわからず使ってしまうのがふつうだと思う。テツガクやっている人間もたいていよくわかってない。私はまったくわからない。

トゥーリー先生は「権利」をかなり独特の意味で使う。(どう独特なのか書いてるとロンブンになってしまうので極端に簡略化するけど、それでも面倒。)

トゥーリーによれば、そもそも「なにかについて権利をもつ」ってことは、 本人が望まなければ(欲求しなければ)それを放棄できるってことでもある*6。こういう形で「~について権利をもつ」ことと「~について欲求をもつ」ことのあいだには密接な関係がある。

たとえば、子猫は暖かい場所で寝たいとか、踏まれたくなないという欲求をもつ(踏まれたらやだ)ことができるので、「猫はこたつで寝る権利がある」とか「かんぶくろにいれて踏まれない権利がある」ということは有意味だけど、まったくなにも欲求をもたない存在(新聞紙とかチョークとか)は、「権利を持つ」ということが言いにくい。

ここで理解しにくいので注意しておく必要があるのは、「権利が決めるかどうか」をどうやって決めるのかっていう問題と、たとえば「猫は~の権利を持つ」という発言が意味を持つかどうかってのは別の問題だってことなんだが、もう眠いのでまた明日。

一寝してもうちょっと。

「誰がどんな(道徳的)権利を持つのか」ってことをどうやって決めるかって問題はもちろん非常に難しい。ある種の人々はそれは単なる社会の取り決めだと考えるし、ある種の人はそれを神によって定められていると考えるかもしれないし、他にも理性によって要求されるとか、もっと基本的な功利の原理から派生する二次原理だとか、いろんな考えかたがある。しかしトゥーリーのポイントは、こういう「どうやって決めるか」には関係がない。むしろ、「権利をもつ」という言葉の意味に何が含まれているのかという分析。

トゥーリーの提案は、

「AはXに対する権利を持っている」という文は、「もしAがXを欲求しているならば、他人はAがXをするのを妨げるような行動を慎むという当面の義務を負っている」という文とほぼ同じ意味をもつ。 (トゥーリー、p.102)

て感じになる。慣れてないひとは「当面の義務 prima facie duty」がわかりにくいと思うが、「当面の」は「他になんか重大な理由がなかったら」ぐらいの意味のとってよいと思う。

「私は幸福を追求する(道徳上の)権利をもっている」という文は、だいたい「もし私が幸せを追求しようとしているなら、(特に理由がなければ)他のひとは私が幸せを追求するのを邪魔するべきではない」ということを意味すると分析できるってわけだ。

(なんども書くけど、この分析が正しいのかどうかはかなり微妙なライン。たとえば、「子供は教育を受ける権利がある」という文や発言が、本当に「もし子供が教育を受けたいと願うなら、他のひとはその子供が教育を受けるのを邪魔するべきではない」程度のことしか意味していないのかというのはもっと議論が必要。私の理解では、この文は「(子供が教育を受けたいと願うかどうかとは別にして、)他の人々はその子供が教育が受けられるようにちゃんと手配する義務がある」というはるかに強い内容をもっているように思われる。「生存する権利」もふつうはこっちの意味のはず。まあでも、トゥーリーの「権利」の分析は「権利」の一つの意味では有力かもしれない。)

トゥーリーの議論の最後のステップは、このたんなる「権利をもつ」の分析から、「生存権(生きる権利)」を持つに進むところ。

「~について権利をもつ」ためには、少なくとも「~に対して欲求をもつことができる」が必要。それでは、「生存する権利をもつ」ためには、「生存することについて欲求をもつことができる」が必要だということになりそうだ。

ところが、「生存することを欲求する」ってのはかなり多くの条件を必要とする。

子猫も「痛めつけられないことを欲求する」「暖かいところで寝ることを欲求する」ことがおそらくできる。だからなんらかの権利の決定の手順によって、「子猫は痛めつけられない権利を持つ」ということが言えるかもしれない。

しかし、自分が「生存する」ことを欲求するためには、「自分」が時間を通じて生きていること、そもそも「自分」が存在していることを意識していなければならんとトゥーリーは考える。

ある存在者が、諸経験とその他の心的状態の主体という概念を持っていなければ、その存在者はそのような主体が存在してほしいと欲求することなどできない。さらに、ある存在者は、現在自分自身が諸経験とその他の心的状態の主体であると信じていなければ、自分自身がそのような主体として存在し続けることを欲求することはできない。(トゥーリー、p. 104)

ここもわかりにくいと思う。ショーペンハウエルやシュバイツァーのような人々はどんな生物でも「生きようとする意志」とかを持ってるとかそういうふうに考えてたわけだし。

でもまあ、われわれが「自分が自分であること」「他人と違うこと」「5年前、1年前、1年後、10年後もおなじ私であること」を意識するってのは、ずいぶん成長してからのことはふつうのひとでもぼんやりとわかるんではないだろうか。そういう「自己意識」持っているのが人間(や他の大型類人猿とか)の特徴で、他の動物や植物と質的に違うポイントだと主張されることがある。この自己意識がないと、少なくとも「自分が生き続けたい」と望むことは難しそうだ。

というわけで、トゥーリーのとりあえずの分析のたどりつく先は、「もし「ある存在者が生存する権利をもつ」ということが言えるならば、「その存在者は生存しつづけたいという欲求を持つことができる」が言えなきゃならん。そしてそのためには自己意識をもっているはずだ。」

もう一回注意しておくと、これは「自己意識をもっていれば生存権をもつ」という主張ではない。「もしあなたが(私が)「~は生存権をもつ」と言おうとするなら、「~は自己意識をもっている」ことを認めなければならない」ぐらい。

はあはあ。

でも、自己意識もってない動物やひとはいる。「自己意識をもつ」は「生存権をもつ」の必要条件なので、そういう存在者は生存権をもつとは言えない。

A ⊃ B。 でも ¬B。 しかるに、¬B ⊃ ¬A。よって¬A、という議論。

あーあ。だめだめ。時間の無駄。やっぱりふつうの人にはわかりにくいよな。これどうやって説明すりゃいいのかってのはほんとうに難しい。

もう一回あらっぽくまとめると、

(1) ある存在者が「権利をもつ」ならば、「それに対応する欲求をもつ」ことが言えるはず。

したがって、(2) ある存在者が「生存しつづける権利をもつ」ためには「生存しつづける欲求をもつ」が言えるはず。

しかし、(3)「生存しつづける欲求」をもつためには、(少なくとも)自己意識をもつことが必要。

したがって、(4) 自己意識をもたない存在者は、生存しつづける欲求をもつということはできない。

(5) したがって、自己意識をもたない存在者は、(この意味では)生存権(生存しつづける権利)をもつとは言えない。

だから、胎児とかは生存権をもっているとはいえず、妊娠中絶は正当化されるかもしれない。すくなくとも「生存権」があるから妊娠中絶は正当化できないと考える必要はない。ついでに新生児の安楽死とかも正当化されてしまう(!)。いっぽうで、子猫が(なんらかの「権利」の決定方法によれば)「無駄に苦しめられない権利」を持っていると主張することはできるかもしれないし、もちろん新生児が「無駄に苦しまない権利」をもっているとは言えそうだ、ということになる。まあこういう結論が邪悪なテツガクに見えてもしょうがない。

まあ、この議論の(1)と(3)はかなり問題を含んでいるし、この手の問題を考える場合に「生存権」がそれほど重要かどうか、あるいは実践的な議論にとって枠組として有用なのかどうかは問題だと思うが、とりあえずこれが「パーソン論」だってのをちゃんと理解したいところ。重要なので何回も書くけど、これは「権利をもつ」についての言葉の分析の結果の分析にすぎず(あやしげかもしれないけど)、「権利」の範囲をどうやって決めるのかという実質的な問題を扱っているわけではない


小松先生の解釈

で、小松美彦先生の文章に戻る。

つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

最初の方でも書いたが、「人格的生命を有している」は不正確な表現。

そしていつも気になるのは、この「認められる」なんだよな。こういう文章を書くひとは、トゥーリーが「人格だけに生存権を認めることにしようぜ」と主張していると誤解してしまっているのではないかと推測される。

一方、「生存権は人格にのみ認められる」のならば正確な表現だが、これはトゥーリーの恣意的な定義なので、別に批判の対象になることがらではない。

その証拠がすぐに出てくる。

したがって、パーソン論からすると、自己意識や理性の源とされる大脳が機能停止した脳死者や植物状態の者、もともと大脳の大部分が存在しない無脳児は、生物としてのヒトではあっても人格をもつ者ではない。 そしてそうである以上、この者たちに人間としての生存権はない。(p. 150、強調kallikles)

この「人格をもつ」という表現(そして最初の引用であげた「人格者」という用語)が、小松先生の「パーソン論」理解をうたがわせる。 「人格」は持ったり持たなかったりするものではない*7。「人格かそうでないか」つまり「生存権をもつ存在者かそうでないか」なのよ。

まあこれは「人格」って言葉が専門の論文用の術語なのにもかかわらず、われわれがよく慣れしたしんでいる言葉でもある(とくに「性格」や「アイデンティティ」に近しい意味で)ことに原因があるわけだが。むずかしい。

もうちょっとだけ補足。

たしかにパーソン論は、それなりの論理を備え、概念用語を駆使してはいるものの、私たちにありがちな例の考え方”まともに感じ考えられなくなったら人間はオシマイだ”と、本質的に変わらないのではないか。パーソン論とは、”ありがちな考え方”を学問的に根拠づけたものに他ならないだろう。(pp.150-1)

トゥーリーの議論がどの程度「それなりの論理を備え」ているかは微妙(私はうまくいってないと思う)だが、この小松先生の指摘は(書き方は悪いが)大事なところで、小松先生もあとで議論するピーター・シンガーなんかも指摘するところ。たしかに、私自身は「まったくなにも感じ考えられられなくなった私はオシマイだ」と思う(ただし「まともに」感じられなくてもオシマイだとは思わないと思う)。

もちろん、そうでないと考える人びとがいることも理解できるのだが、そういうひとが、まったく自分が何もまったく感じない場合に、自分の(他人のではなく)生命が、自分にとって価値があるとするときに何を判断の基準にしているか非常に理解しにくいとは思う。これを主張できるのは、私生命の価値が私にとって価値があるのは、私が感じるなにかのためではない、私が感じるなにかとは独立の価値があると主張できるときだけになる。

もちろん、他の(感覚のない)人の生命が私にとって価値があることは多いだろうし、私の感覚のない生命が他の感覚のある人にとって、価値があることはあるかもしれない。でも感覚のない私にとって感覚のない私の生命が価値があるかどうかはわからん。

誰かの主観的経験(つまりなんらかの「感じ」)にまったく依存しない客観的な価値ってのがあるのかどうか。これが言えるかどうか。哲学・倫理学の大問題だが、これにイエスと答えるのはかなり難しいと思う(必ずしも不可能ではないと主張する人びともいる)。

(続く)


(ところで、もしこのエントリ読んで大学の期末レポート書こうとするひとがいたら、(1)自分でもちゃんと調べてください。(2)出典にこのブログのURLを書いてください。「kallkles, 「kalliklesの日記」、2006年12月15日、ttp://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061215 」、とかでいいんじゃないかな。”kallikles”とか変な名前を書くのがいやなひとは
メールくれれば教えます。)

*1:トゥーリー先生を「生命倫理学者」と呼ぶのはあんまりよくない。生命倫理では他にたいした業績はない。むしろ因果関係とかが専門のはず。「哲学者」「分析哲学者」ぐらいがよさそう。

*2:イギリスも

*3:間違い。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061218 のコメントによれば、飯田亘之先生の論文が初出ではないかという情報。

*4:たいていのセイメイリンリガクシャはこれが抄訳であることさえ気づいていないのではないかと思わされることがある。原文はたいていの生命倫理学のアンソロジーで手にはいる。いま私の手にあるのはP. Singer (ed.) Applied Ethics, Oxford University Press, 1986. 原論文はPhilosophy & Public Affairs, Vol. 2, 1972. 印税もらってたらとんでもない額になってるよなあ。

*5:どうでもよいことだが、私は高校生のころに生物が好きで特に発生のあたりが好きだったのだが、ある日「んじゃいつから人間なのかな」とか考えて泥沼にはまったことがある。結論は「こりゃ生物学じゃなくて哲学だよな」ってことでテツガク勉強したいと思った。その選択はまちがってたんだけど。

*6:この点は強い異論がありえる

*7:この主張は怪しいかもしれません。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061217 参照。わたしがまちがっていたらごめんなさい。

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『情況』を買ってみた。

ちょっと前に大庭健先生の名前を出したばっかりなのだが、おもしろいという評判なので(http://d.hatena.ne.jp/haecceitas/20061122)『情況』11/12月号を買う。(この雑誌はじめて買ったかな)『状況』だと思ってたけけど違うのね。無知はいやだなあ。

p.51 の特集扉が「諸論理のポリティクス」になっていて驚く。雑誌表紙と目次と次のページでは「諸倫理のポリティクス」なのでそっちが正しいのだろう。すげー。

特におもしろいという大庭・伊吹対談と中島論文を読む。おもしろいかな。

生命倫理学というのはよく知らないのだが、p.54で大庭先生と伊吹先生は脳死の問題からはじまったと言ってるが、中島先生は、p.66で大戦中のナチスの人体実験の問題からはじまったと言ってる。どっちが正しいのだろうか。どちらかと言えば中島先生かな。哲学をまともに勉強した者がその手の問題を扱いはじめたのは一時期はやった「情況倫理」あたりかからだと思っていた。よく知らないけど、脳死じゃなくて植物状態の治療停止や新生児の治療停止とかそこらへんじゃないのか。バイオエシクスとかも本職の哲学者というよりは医療よりの人びとがはじめたと理解しているが、ここらへん記憶がさだかでなく、本ひっぱり出さないと不明。

それにしてもこの二本の記事はよくわからない。そもそも生命倫理とかってのが国内でそんなに流行っているのも知らなかった。

対談にしても中島論文にしても、生命倫理学とか生命倫理学者ってのが誰のことがよくわからんよな。「脳死を認めて臓器移植をもっと推進しましょ」「12週以内の中絶は自由にしましょ」「22週以降でも「医学的」適応があれば中絶許容しましょう」とか言ってる論者ってのはかなり少ないと思うし。正直ほとんどそういう文献は見たことない。

というか、そもそも「生命倫理学者」なんて人(特に哲学を背景にした研究者)が国内に実際に存在しているのかどうか。いてもかなり希少だと思う。生命倫理の論文はたしかに多いように見えるけど、その多くは法学者や社会学者や政治学者だし。私が「生命倫理学者」という呼び名にぴったりだと思うのは森岡正博先生と立岩真也先生ぐらいしかいないのだが、どちららも脳死や安楽死や(選択的)中絶にはかなり慎重な立場なんではないかと思う。松原洋子先生や玉井真理子先生、斎藤有紀子先生、柘植あづみ先生、金森修先生あたりも非常に影響力のある人びとだと思うけど、これらの人は「生命倫理学者」とは呼びにくいと思う。やっぱり加藤尚武先生なんだろうが、あまりにもいろんなことやってて生命倫理学者とは言いにくいんじゃないか。「哲学者」だよな。米本昌平先生や広井良典先生も「生命倫理学者」ではなかろう(すぐに名前があがらなかった先生はごめんなさい)。国内での生命倫理とか生命倫理学ってのは雑多な領域の人びとの学際交流の場で、一番偉いのは法学者で次が社会学者で、哲学やってる人間はうしろからついて行く感じなのではないか。(現場や大学の医者の地位が意外に低いように見えるのが興味深いところ)

まあいつものようにコメント。

(大庭先生)[生命倫理の問題は]政治問題であるかぎり、生物学者は生物学者で、脳科学者は脳科学者で、法律家は法律家で、それぞれ分かるかぎりのことは出し合って、あとは市民が決めることがらなのです。(pp.54-5)

まあそうなんだと思うけど、脳死やらなんやらは、少なくとも多数決で決めることがらではないという意見もあるんじゃないのかな。倫理学者なるものがいるとして、そういうひとがなんか「決める」こともできないっしょ。なんか言うしかできないだろう。まあ政府の委員会かなんかに食い込んで力をつければ別かもしれないけど、そういう人いるのかな。梅原先生は失敗したしな。そもそも政治的問題は市民が決めることかどうかも哲学者なら議論したいところ。中島先生ならもちろん突っ込むだろう。だいたい、生や死の問題について、大多数の市民が「これこれの人は死人ということで」と合意すりゃ死んだことになるわけでもあるまいと思うのだが。

(臓器移植を推進しようという動きについて)

(大庭)独立法人化あたりからはっきりしているのは、役に立たない人文系を切り捨てて、いわゆるアクチュアルな、「社会的なニーズ」に答える学問へと再編成するという至上命令が出てきた。では「社会的なニーズ」とは何かというと、・・・新鮮で若い生きた臓器がほしいという移植医のニーズであり、・・・

まあ、この文脈で、重要かもしれない「患者のニーズ」をあえて無視するのはプロパガンダと呼ばれてもしょうがないんではないか。

(大庭)生命倫理学にすでに乗ってしまっている人は、脳死は死であり、したがって臓器移植は問題ではない、今問題なのはドナーの数が少ないことであり、どうやって新鮮な臓器を欲しがっている人に公平に分配するかであると言っています。

これは特定の個人なんだろうか?それとも国内の生命倫理学者の主流なんだろうか。なんか特定の個人のような気がするが、気のせいだろうか。特定の個人なら同定できそうな気もするのだが、それならそんなはっきりした見解をもっているなら貴重な生命倫理学者だろうから名前出してあげたらいいのに。名前をあげるまでもないということなのか、わざと名前を出さずに大勢いるように見せるプロパガンダなのか。

中島先生の方。

生命倫理学は「死」をめぐって活発な議論を展開するが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」という問いには立ち入らない p.62

「〈生きる〉とはいかなることか」という問いは見事に欠落している。p.62

そうなのか。国内の脳死や障害に関する議論とか見てるとそういうのばっかりだと
思ってたんだが。加藤尚武先生の本にそういうのがないってことかな。

すべての議論は「ひとの生命には価値がある」という大枠の内で進んでいる。p.64

それはよいことだと思うんだが。でも国内で議論されているのは、ある種の生命倫理学者(たとえばピーター・シンガー)とかは「ある種の生命には価値がないかもしれない」と主張している(本当かどうか知らんが)のをどうするか、ってことのような気がするんだが。

中島先生のは他にもいろいろあるんだが(エンゲルハートのとことか)、まあそのうち考えよう。しかしまあ、中島先生がやっている議論そのものが国内の哲学系「生命倫理学」の主流のやり方のように見えるし、もう中島先生は「生命倫理学者」を名乗る資格が十分あるんじゃないかな。

なにかを批判するためだけに勉強しちゃう、ってのが哲学っていう学問の特殊性なんではないかと思う。昔っから、哲学を批判する活動がまさに哲学の核の部分にあて、それでいけば生命倫理学を批判するひとはすでに生命倫理学者なんじゃないのか。っていうか哲学者がこの手の話に参加するんだったら、求められている一部はそういうものに見える。わからんけど。哲学者が「生」や「死」の専門家であるわけでもあるまい。おそらく哲学(史)の標準的な教科書(あるかどうか知らないけど)にはそういう問題はあんまり取りあげられていないような気がする。それに、もっぱらそういうのを扱うのを生業にしている文学者やほとんどそればっかりの宗教者とかもいるぞ。

もちろん、「そういうを考えるのこそがまさに哲学で、そういうのをまじめに考えはじめると誰でも哲学者になるのじゃ」という立場はあるだろうけど、そりゃ「生命倫理学」と哲学者・倫理学者の関係とか言うとき、あるいは生命倫理学の裏にあるポリティクスだのなんだのってのを考えるときの哲学者・倫理学者の意味じゃないよね。そういう広い意味でならほとんどの誰もが哲学者になっちゃうわけだから。*1

それにしても、大庭先生も伊吹先生も中島先生も、誰だかわからん人に「生命倫理学者」とかってレッテル貼って不十分な知識で批判して得意になるんじゃくて、自分でやってみりゃよいのではないかと思う。でないと少なくとも私は哲学者である資格を放棄していることになるじゃないんじゃないかと思う。まあこれらの記事は先生たちの哲学的活動の一部ではなく、ただの漫談や印象エッセイにすぎないというなら話は別だが。

それはそうと、いま標準的な生命倫理学のテキストって何なのかな。

あ、上の二本の記事より、むしろ、浜野喬志先生の「エコテロリズム:アメリカ環境運動の現状と歴史的系譜」は知らない情報が多くておもしろくて収穫だった。ただし、『情況』という雑誌からして市民的不服従としてそんな悪くないぞという主旨かと思ったのだが、そういうわけでもないのか微妙な論旨。

エコテロリズムはヘンリー・ディヴィッド・ソロー以来の「市民的不服従」の伝統に属している。・・・しかし他方で彼らの活動は、その暴力性において、この市民的不服従の伝統を踏み越えているようにも見える。にもかかわらず、そもそも市民的不服従という概念自体が、常に歴史的には、暴力への逸脱、という傾向との、絶えざる緊張関係にあったと言えまいか。 (p.151)

論文は最後にスティーブ・ベストという人が言ったという言葉で締め括られている。

財産破壊と市民的不服従はアメリカの伝統の一部なのだ…

なのだそうだ。この引用で終わっちゃうのはかっこつけすぎか腰が引けているかのどっちかなんではないのか。まあ市民的不服従のグループから時々暴力的集団が出ちゃうの
はほとんど歴史的必然のようだなあ。浜野先生がそういう暴力についてどういう規範的判断しているのか知りたいのだが。『情況』だし書いてもいいやんね。

*1:うーん、中島先生が自分を特権的に「哲学者」と考えるときの意味はなんなんだろう。哲学することを職業にするという意味ではないよな。生と死について高度に考えて知見を得ている人ってのなら、職業的哲学者(というか哲学研究者・教員)のほとんどは哲学者じゃなくなってしまう。私は哲学者・倫理学者ってのは「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人ぐらいの意味に考えてるようだ。よくわからん。

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解説まちがいさがし(2)

メモだけ。山形はこの本がまんま「自由」についての本じゃなくて「意志の自由」と道徳的責任の本だってのをちゃんと理解していないかしれない。解説でも「自由」という言葉はふりまわしているけど「自由意志」という言葉は使っていない。ここには大きな違いがあるんだが。まあ自由意志の問題は根が深くて私もよく理解していないけど。それに「合理性」ということで経済学でいうような効用の最大化が意味されているのか、カントのような意味での理性にかなっているということが意味されているかの区別も曖昧なような気がする。だから森岡のような人に喧嘩を売りたくなるんではないだろうか。まあ、森岡正博さんに喧嘩売ってもなあ。成田さんの責任と自由 (双書エニグマ) ぐらいは目を通してもいいんじゃないかな。

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大庭健「時-間における人-間の性」

同じシリーズの『原理論 (シリーズ 性を問う)』所収。

珍しい日本の哲学者によるセックス論。(ほかに大物(?)でこういうのを扱ってるのは神戸大の宗像恵先生ぐらいか・・・いや、大物中の大物の森岡正博さんがいた。でもあの人が狭い意味での哲学者かどうか・・・ [1]哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

どうやら独力でネーゲルの「性的倒錯』とほぼ同じような地点に辿りついているようだ。

えらいものだ。ただしいろんな概念もちだしてぶんまわしているので難解でわたしの頭ではよく把握できない。規範についての議論は直観的すぎて、彼と同じ直観もってない人間にはほとんどわからんだろう。

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References

References
1哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。