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翻訳ゲリラ:ピケット「同性愛」

B・ピケット「同性愛」(スタンフォード哲学百科事典、2002年8月、改訂版2006年11月) Brent Pickett, Homosexuality ( Stanford Encyclopedia of Philosophy 、First published Tue Aug 6, 2002; substantive revision Wed Nov 29, 2006)

誰かと共同作業で訳したのですが、Dropboxの事故で誰だったかわからなくなってしまいました……「私だ!」って人は連絡してください。

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翻訳ゲリラ:スティーブン・ドレイク「まだ死んでないぞ!」

この文書は Stephen Drake, “Not Dead Yet”, in Jerey A. Schaler (ed.), Peter Singer Under Fire: The Moral Iconoclast Faces His Critics, Open Court Publishing, 2009を江口が無許可で試みに翻訳したものである。著作権関係を処理していないので配布には注意してほしい。現段階では荒い試訳にすぎない。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2015/02/drake2012.pdf

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翻訳ゲリラ:ピーター・シンガー「最も小さな赤ちゃんを治療するべきか(そうでないか)」

ピーター・シンガー「最も小さな赤ちゃんを治療するべきか(そうでないか)」

ちょっとシンガーの障害者に対する立場について気になるところがあるので訳出してみた。最後のところはちょっと味が悪いかもしれない。

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翻訳ゲリラ:メアリ・アン・ウォレン「妊娠中絶」

Mary Anne Warren, “Abortion”, in Helga Kuhse and Peter Singer, A Companion to Bioethics, Blackwell,1998 の勝手な訳。大学での生命倫理学などの授業で使用してもらってもかまいませんが、著作権者および出版社の許可をとっていません。

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翻訳ゲリラ:マイケル・トゥーリー「パーソン性」

Michael Tooley, “Personhood”, in Helga Kuhse and Peter Singer, A Companion to Bioethics, Blackwell, 1998 の勝手な訳。大学での生命倫理学などの授業で使用してもらってもかまいませんが、著作権者および出版社の許可をとっていません。

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ソース

\section*{基礎的道徳的原則とパーソンの概念}

日常的な会話では、「パーソン」という言葉はかなり違う二つの意味で使われている。時として、この言葉の意味は純粋に生物学的なものであって、それは単に私たち自身の種であるホモ・サピエンスに属する個体を指すために用いられる。しかし、私たちはしばしば、人間ではない存在者{\——}例えば神々、天使、もしかしたらいるかもしれない宇宙人{\——}を、「パーソン」として言い表わす。また私たちは、クジラやイルカや霊長類といった一部の動物が、パーソンではないだろうかと疑問を抱くことがある。こうした場合、「パーソン」という言葉は先とは非常に異なった使い方をされている{\——}つまり、ある特定の生物種に属する個体ではなく、正常なおとなの人間の特徴となるようなタイプの心的な生活に匹敵する何ものかを享受している個体を表しているのだ。

倫理学において中心的な役割を果たすのは、後者の概念である。そしてその理由は、以下のような諸々の考察を踏まえると、パーソンの概念が多くの\kenten{基礎的な}道徳的原則の定式化にとって中心的であることにある。こうした基礎的な道徳的原則には、殺すことの道徳性に関するものなどが含まれる。まず最初に、ある人に起こりうる末路を二つ考えてみよう。一つは、殺される場合であり、もう一つは、上部脳が完全に破壊されるが、下部脳は万全な状態で残ってい場合である。大脳半球からなる上部脳は、自己意識のような高度な心的活動や熟考、推理力や記憶のみならず、最も原始的な意識の神経生理学的基盤であり、上部脳が破壊されれば、あらゆる心的生活の能力が破壊されることになる。その結果として、上部脳の破壊は、各種の一般的な能力の破壊だけでなく、人間の自己同一性の基盤となる心理状態をも破壊することを伴う。下部脳つまり脳幹が損なわれていないならば、その部分が呼吸を含む生命プロセスを統制しているのだから、依然として、生きている私たちの種の一員と言えるだろう。対照的に、殺される場合においては、その人はもはや、生きている私たちの種の一員としては扱われないだろう。それにもかかわらず、これら二つの結果は、同じくらい悪いことだと思われる。さらに、誰かが故意にこのどちらかの結末を引き起こしたと考えてみれば、どちらの行為も同じように不正であると思われる。

これに関係する二つ目の考察は、\ruby{洗脳}{リプログラミング}というアイディアに関わる。ある人が、殺されるかわりに、\kenten{トータルな}リプログラミングを行なわれると想定してみよう。それによって、記憶や信念、態度、好み、能力、性格などが破壊され、完全にそれまでとは無関係のニセ記憶や信念、態度、好み、能力や性格で置き換えられる。もしこうしたことがなされたらい、生きている我々の種の一員であるだけでなく、心理的に正常な、大人の人間であるような存在者がまだ存在はしていることになるだろう。しかし、この結果は、上で考えた災難にまきこまれた二人の観点に比べて、いくらかましなものだろうか?それとも、そうした操作を行うことは、正常な大人を殺したり、上部脳を破壊したりすることに比べて、その不正さはいくらかましなものだろうか?おそらくほとんどの人はそうは考えないように思われる。それは、リプロプラミングの例では、当人は生存しておりまったく正常な大人の人間ではあるのだが、かつて存在していた個人は破壊されてしまったと考えるだろうからである。

第三の考察は次のようなものだ。 ある人があなたの上部脳を破壊し、もう一人の人が、そうしたことがあなたになされたと知りつつ、あなたの下部脳を破壊するとする。 あなたはこの行為によって、より不幸になるだろうか、またそれを行なった人は、最初の人がおこなったのと道徳的に同程度のことをしただろうか。もしあなたはより不幸になったと考えるならば、そのためには、誰かの脳をすべて破壊するのは、上部脳だけを破壊するよりも道徳的により悪いことだと考える必要がある。もし、多くの人々が感じるように、この結論が疑わしいとするならば、次のように結論することを強いられることになる。つまり、二番目の人の行為は生きている私たちの種の一員を殺すことを含んでおり、最初の人の行為はそうではないのだが、非常に不正なのは、最初の人の行為の方であり、二人目の行為ではない、と。

私たちがこうした直観群を理解できるのは次の場合のみである。第一に、人を破壊することは少なくとも特段の理由がなければ非常に不正であるということは基礎的な道徳的原則であると結論すること、また第二に、正常な成人の人間を殺すことの不正さは、そうしたケースでは殺すことにはパーソンの破壊が含まれているという事実から導かれていということを結論する場合のみである。この見解が採用するならば、私たちは、まず、上部脳を完全に破壊されることや完全にリプログラミングされることが、殺されるのと道徳的に同じようなものであることを説明することができる。これら三つはすべて、\ruby{人}{パーソン}を破壊することを含んでいる。また、いったん上部脳が破壊されてしまえば、さらに下部脳が破壊されたとしても、それによってさらに不幸にはなることはない理由も説明できる。つまり、この行為は私たちの種の生きたメンバーの死を結果するが、\ruby{人}{パーソン}の破壊は含まないからである。

上での考察はすべて人間を含むケースをとりあつかっていた。最後の四つ目のラインの考察は、かわりに他の種に属する動物を含むケースを扱う。最後の論点を提示する方法の一つは、私たちが実際に知っている動物を殺すことの道徳性について考えてみることだろう。たとえば、身振り言葉をおぼえたチンパンジーに注目して、そうした動物を痛みなく殺すことが道徳的に問題あることなのか、また問題があるならどの程度あるのかを尋ねてみるのもよいだろう。しかし、私たちが関心をもっているのは、殺すことにかかわる\kenten{基礎的な}道徳的原則であるので、別の議論の方法がある。基礎的原則は私たちがすでにであったことがある状況だけに適用されるものではなく、まだ生じていない状況にも同じように適用されるものである。したがって、私たちの考察をすでに地球上に存在することが知られている種だけに限定せずに、ひょっとしたら存在するかもしれない異星人に目を向けてもよい。仮定によって、そうした異星人の心的生活は私たちと同じようなものだとしてみよう。もしそうした存在者がいるならば、それを殺すことは非常に不正であるだろうか、あるいは、たとえば植物や虫を殺す程度のものだろうか? ほとんどの人は、私たちの種のメンバーではないが私たちと同じかそれ以上の心的生活をもっている存在を殺すことは、非常に不正だと感じると思われる。もしこの見解が正しければ、私たちはまたしても次のように結論しなければならない。殺すことの道徳性をしっかりと説明してくれるような根本的原則は、パーソンの破壊は少なくとも他に特段の理由がなければ非常に不正である、というものである。

\section*{パーソンの概念と殺すことの不正さ}

パーソンの破壊行為は非常に重大な不正であるという原則は、それ自体でたいして論争の的になるようなものではない。哲学に通じた人が、上で簡略にスケッチしたタイプの考察を十分に知れば、この原則を否定したいと願うことはめったにない。しかし、この原則のまわりには、議論の余地ないとはとてもいえない多数の問題がある。最も重要なことの一つは、例えば次のようなことである。もしなにかがパーソンであるならば、他の事情が同じなら、それを破壊することは重大な不正であり、それは内在的\footnote{訳注:intrinsically。他のものを目的としてではなく、それ自体が、という意味。}にそうである。しかしそれに加えて、もし誰かがあるパーソンを破壊するならば、その人は破壊する存在者\kenten{に}不正なことをすることになる。これは、パーソンについてだけ真だろうか?あるいは、パーソン性は、他に特別の理由がないならば、その存在者がこうした種類の道徳的地位(moral status)をもつ\kenten{十分}条件ではあるが、\kenten{必要}条件ではないのだろうか。

どのような存在者が、パーソンと同じ道徳的地位をもつと思われるだろうか。まちがいなく、考えてみる必要がある二つの候補が、妊娠中絶の道徳性についての議論なかで示唆されている。第一に、潜在的パーソンである。潜在的パーソンの概念は、パーソンではないが、それ自体のうちに、それがパーソンになるために必要なすべての積極的要素を含んでいる存在者という概念である。第二に、パーソンでも潜在的パーソンでもないが、通常その成熟したメンバーがパーソンであるような生物種に属する存在者である。(後者の例は、人間の無脳症児である。脳の重篤な先天的形成異常のためにせいぜい基礎的な脳半球しかもっておらず、持続的な植物状態にあり、潜在的なパーソンでさえない。)

二つ目の論争の的となる問題は、パーソン性の境界に関することである。心理的性質の一定の組み合わせ{\——}私たち自身の種の成人に見られるような諸々の性質{\——}が、あるものをパーソンにするに十分であるということについては広い合意がある。しかし一方、そのうちのどの性質が、道徳的に意味のある性質なのかということについて、また、パーソン性の\kenten{最低限の}基礎をなすものはどの性質であるのかということについては、大きな意見の食い違いがある。

最後の重要な問題は、パーソン性は「すべてか無か」であるかということ、それゆえ、すべてのパーソンは、パーソンとして、まったく同じ道徳的地位をもつのか、あるいは反対に、パーソン性には程度の差があるのか、という問題である。この問題に関しては、これまでのところ主流は、パーソン性は程度の差を認めないというものである。しかしながら、以下で見るように、この見解に疑問を抱く理由は十分にある。

\section*{何があるものをパーソンにするのか}

どんな性質が、あるものをパーソンにするに十分だろうか?なんらかの性質の集まりであれば十分だろうということは、哲学者の間ではほとんど全員によって受け入れられている。たとえば、次のような存在者を考えてみよう。意識をもつ、選好をもつ、意識的欲求をもつ、感情をもつ、快苦を経験できる、思考をもつ、自己意識的である、合理的思考ができる、時間の感覚をもつ、自分自身の過去の行為と心的状態を記憶し、自分の未来を構想する、時間を通じた欲求の統一などを含めて一過的ではない欲求をもつ、合理的な熟慮が可能である、可能な行為の間で選択するときに道徳的な配慮をすることができる、まずまず秩序だったしかたで変化していく性格特性をもつ、他者と社会的に関わりコミュニケートできる。そうした存在者である。そうした存在がパーソンであることに異議を唱える人はほとんどいないだろう。しかし、この17の特性のリストから私たちはなにをすればいいのだろうか?このうちいくつかの条件はかなり密接に関連している。そのためこの17の項目をなにかしらの方法で短縮することは可能である。しかしそれでも、私たちの手元には、かなり多様な質の雑多なコレクションが残る。これらの特性のすべてが、ある存在がパーソンであるかどうかにとって重要なのだろうか。重要なもののなかで、どれかだけでもあるものをパーソンにするのに十分なのだろうか?

いったんこうした問いが提出されてしまうと、まったくさまざまな回答がありそうであって、全体としてみると、ほとんどなんのコンセンサスもありそうにない。このようにして、どのような性質がそれだけであるものをパーソンにするに十分かという問題について、重要だと思われる選択肢は次のようになる。自己意識で十分である、合理的思考の能力で十分である、道徳的行為者であることで十分である、非瞬間的な利益の主体であれば十分である、記憶による継続性と連結性についての適切な説明を含む心的生活をもっていれば十分である、あるいは単に意識があれば十分である、など。これらの主張の中で正しいものを一つ決めるにはどうすればいいだろうか。この分野では、単なる直観に訴えてもほとんど実りは期待できず、体系だった道徳理論を論じ上げることをしないままに、こうした問題を解決するというのは望み薄である。その上、この問題はまったく切迫したものである。その理由はこうである。上にあげた見解のうち最初の五つは、私たちの現在の判断に大きな影響をもたらさないだろう。それら五つの見解では、その存在者の心的生活が、時間を通じて統一されてない限り、パーソンではないということになるからである。しかしもし仮に、単なる意識があるものをパーソンにするのに十分であるとしたら、それが私たちの現在の慣行の多くの道徳的な受け入れ可能性について重大な含意をもっていることは明らかである。というのは、その場合には、多くの動物種(まちがいなくすべての哺乳類が含まれる)の成体が、パーソンとして分類されるべきであるということになり、食料にしたり、科学的・医学的・商用の実験材料にすることは、まったく不正であるということになるからであろうからである。

倫理学理論が立ち向かわなければならないもう一つのより深い問題は、ある一般的な\kenten{能力}(capacities){\——}自己意識や合理的思考の能力{\——}があるものをパーソンにするのか、ということである。倫理学分野の多くの哲学者は、サポートする論証を行なわないままに、上のように想定する傾向があった。しかしながら、心の哲学内部では、しばしば、なんらかの仕方で心理学的に相互に結びついた一連の現実の意識経験が成立する以前には、パーソンはまだ存在していないと主張されることがある。もしこの見解が正しければ、まだ行使されていないある種の能力をもっているだけでは、さらには、なんらかの意識経験にまだ行使されていない能力を加えてすら、まだパーソンが存在しているとは言えない。問題に関連する能力が、すでに行使されたことがあるか、あるいはいま現に行使されているということが決定的なのである。

しかし、たとえば、あるものが、一度も行使されたことのない思考の能力をもっている、などということがありうるだろうか。おそらくありうるのだろう。生命体は、それがある種の複雑な神経結合組織を含む脳をもっていれば思考する能力をもっているだろうから、その生命体に意識がなくとも、必要な神経学的発達が完了しているということがありえる。それゆえ、ある時点で、まだ行使されたことのない思考の能力というものが存在することになるだろう。

したがって、あるものが、関連する能力を獲得したらすぐにパーソンになるのか、あるいははじめてその能力を行使した後の時点にやっとパーソンになるのか、という純粋に理論的な問題が存在することになる。しかしながら、先に述べた問題とはちがって、この問題にはたいした実践的な含意がない。殺すことの問題はそうしたケースではめったに生じないからである。しかしながら、パーソン性と殺すことの道徳性の基礎、包括的な道徳理論をもとうとするならば、この問題について満足いく回答をするのは重要である。

\section*{パーソン性は程度の問題か?}

もしパーソン性について考えるにあたって、ヒトのパーソンだけに注目するならば、すべてのパーソンはパーソンとして、同じ道徳的地位をもつのが当たり前だと考えるてしまうのはまったくたやすいことである。しかし、正常な成人のヒトがもっている心理的な特性の一部だけをもっている存在者、あるいは、そうした特性をかなり低い程度しかもっていない存在者の可能性を考えたとき、すべてのパーソンは必然的に同じ道徳的地位をもつのか、あるいはパーソン性は程度の問題なのか、ということを問うのは重要であることがはっきりする。

この問題は、一般的道徳理論をもとたないままでは非常に解決が難しいかもしれない。しかしながら、そうした道徳理論がないとしてもこう考えてみるのが、助けにはなるかもしれない。第一に、パーソンを破壊することの不正さは、個体の生命がその個体\kenten{に対して}(for)もつ価値になんらかのしかたで結びついているだろうか? もしそうであるとしたら、第二に、パーソンをつくりあげる性質のなかで、生命が当人にとってもっている価値についてなにか違いをもたらすようなものがあるだろうか? もしこの二つの問いに対する答がどちらもイエスであるならば、パーソンは程度の問題であるとする理由があることにある。

例として、自分の過去の行動や心の状態を覚えておく能力や、自分の将来を思い描く能力、そして、目標やプロジェクトを追い求める能力が、パーソン性を作り出すと想定してみよう。多分、各種の生命体が、こうした能力をどの程度もっているかはさまざまだろう。さらに、それは、ある生命体はこうした能力をずっとかぎられた程度しかもっていないので、たとえば、以前の自分のことを1分間以上覚えていられず、また現在から1分後程度のことまでしか考えることができないと想像してみよう。このような変化は、個体の生命がその個体にとってもつ価値にどのような違いをもたらすだろうか?もしその答が、価値が大きく下がるというものであれば、そしてまた、パーソンを破壊することの不正さが、生命が当人にとってもつ価値、あるいはもちえた価値に関係しているとすれば、過去を記憶し将来を構想する能力が非常に限定されているようなパーソンを破壊することは、通常の人間のパーソンの特徴であるずっと制約されていない能力をもつパーソンを破壊することほどは不正ではないということになるだろう。

もし以上の議論が正しいのならば、いくつかの重大な結果がある。第一に、人間とは別の種に所属している動物が、ある種の重要な特性を通常の人間よりもはるかに少ない程度しか持っていないという事実は、そうした動物はまったく道徳的な地位を持っていないということを意味しない、ということだ。第二に、私たち自身の種においても、パーソン性の獲得は漸進的なプロセスであるのもっとなことであり、また同じように、少なくともある種のケース{\——}たとえばアルツハイマー症、この病気は、最終的には永続的で退行性の植物状態に陥いることになる{\——}では、パーソン性を喪失することも漸進的であるということである。

\section*{潜在的なパーソン性は道徳的に重要か?}

パーソンと同じ道徳的地位をもつ非パーソンは存在するか、という問いに関して、もっとも重要な候補は潜在的なパーソンである。この問題を考えるときには、受動的潜在性と能動的潜在性を区別することが重要である。これを区別すれば、人間の精子の近くにある未受精の人間の卵子は、ある意味で、潜在的にはパーソンであるが、その潜在性は受動的潜在性である。というのも、究極的に一人のパーソンを生み出すことになるプロセスを開始するには、外部からの介入が必要だからである。それに対して、未受精の人間の卵子が、いったん精子と合一したならば、それはパーソン性の能動的潜在性を持つ{\——}すくなくともそう思われる。それゆえ、潜在的パーソンというのものは、パーソン性の能動的潜在性を含むなにかであると理解されるべきであり、そうした潜在的なものを破壊することこそが、一部の論者によって、パーソンを破壊することに道徳的に同じようなことだとされるものである。

なぜ、卵子と精子の合一における位置のちょっとした変化が、それほど大きな道徳的な違いを生むのだろうか? たとえばもし、この純粋に物理的な変化には、一部の人々が信じているように、受精した人間の卵子に付随する非物質的で不滅の魂の創造が伴なっているとすれば、そしてその魂が、自己意識や合理的思考の\kenten{能力}をもっているとすれば、その場合にはなぜ道徳的に重要な変化が生じていると主張するかの理由を理解するのは難しくない。しかし、このラインの思考になんらかのメリットがあるとしても、これは潜在的パーソンがパーソンと同じ道徳的地位をもつという主張とはなんの関係もない。というのも、上の思考に含まれているのは、そももそものはじめから\kenten{パーソン}が存在している{\——}単なる潜在的パーソンではなく{\——}という考え方だからである。

それでは、物理的な変化そのものが道徳的に重要なのだろうか?そうではない、とする少なくとも二つの理由がある。第一に、未受精の卵子および精子の状況と、受精した卵子の状態を比べてみよう。どちらのケースでも、その結果生まれる個体の遺伝的性格を完全に決定することになる遺伝物質はそこに存在している。しかし、受動的潜在性と能動的潜在性の違いについてはどうだろうか?その答は、どちらのケースでも\kenten{完全に}能動的な潜在性{\——}つまり、干渉されなければ現実化するような潜在性{\——}は存在していない、というものになる。受精卵が、温度、栄養などが適切な環境におかれない限り、受精卵の発達は非常に制限されたものになる。したがって、いずれのケースにおいても、パーソンが生み出されるためには、まったく大きな外部の援助が求められるのであって、二つのシチュエーションに大きな違いを認めようとするのは説得力に欠ける。

第二に、完全に能動的な潜在性が存在\kenten{している}次のケースを見てみよう。人工子宮が完成して、一台に未受精卵が精子とともに入っている。また確実に受精が起こさせる装置もあり、したがって介入がなければ、9ヶ月後には、正常な人間の赤ちゃんが生まれることになる、その子は適切なケアを受け、成長しつづけることになる。したがって、この上京は完全に積極的な潜在性を含んでおり、これは孤立した人間の受精卵のケースとは対照的である。すると、重要な問いは、たとえば受精が起こる前に機械のスイッチを切ることによって、完全な積極的潜在性を破壊することの道徳的な地位についてのものである。そうした行為が道徳的に不正だと考える人はほとんどいないように思われる。もしこれが正しければ、パーソン性の完全に積極的な潜在性の破壊は、道徳的にパーソンの破壊に匹敵するどころか、そもそも道徳的に不正ではないということになる。

\section*{ある生物種の一員であることは道徳的に重要か?}

パーソンと同じ道徳的地位をもつかもしれない存在者に関して、よく提出される二つ目の提案は、パーソンでも潜在的パーソンでもないが、正常な成人のメンバーがパーソンであるような生物種に属するならば、それはパーソンである、というものである。この観点からすると、無脳症の人間の幼児を殺すことは、パーソンを殺すことと道徳的に同じということになる。

しかし、この見解は多くの理由から満足いくものではない。第一に、ある存在者の道徳的地位は、他の個体との関係よりは、その存在者の内在的な性質に基づいて決定する方が説得力がある。したがって、たとえば、ある存在者がパーソンであるかどうかは、他人がそう見なすか見なさないか、あるいはそれをどう扱うか、という問題ではないはずである。また、他の存在者がたまたま存在しているかどうかに依存するべきでもない。道徳的地位は個体に内在的である。第二に、他の物理的な関係はそうではないように思われるのに、同一生物種に対する純粋に物理的な関係が、道徳的地位について違いを生むべきなのはなぜだろうか。第三に、道徳的地位をもつことと、保護される必要のある利益をもつことを結びつけるのは自然に思われる。しかしながら、「利益」(interest)という言葉は、まったく色々な意味で使われうる。言葉の意味の一つでは、あるものが正しく機能するために役だつ場合に、それは利益にかなうとされる。こう解釈すると、たとえば、過剰な温度にさらされないことはコンピュータの利益になる。しかしこの意味は、なんの道徳的地位ももたない物に適用される。対照的に、「利益」の道徳的に重要な概念は、意識をもつ存在者であること、また欲求をもつことができることと結びついている。この意味での「利益」では、たとえば無脳症の新生児は意識をもつことができないので、利益をもっておらず、またもつこともできない。したがって、もし道徳的地位がこの問題に関連する意味で利益をもつことと繋っているのならば、生物種のメンバーであることは道徳的地位を授けに十分ではないのである。最後に、上で提案されている原則には反例があげられる。つまり、上の原則のもとにあるケースであり、それゆえある存在者がパーソンと同じ道徳的地位をもつことになるが、それが直観的には説得力がないようなケースがある。たとえば、この原則によれば、上部脳が完全に破壊された我々の種のメンバーはパーソンと同じ道徳的地位をもつことになるが、これは正しくないように思われる。こうしたわけで、種のメンバーであることはそれ自体では道徳的には重要ではないと結論する十分な理由があるように思われる。

もしこの結論が正しいのなら、そこにはいくつかの非常に重要な含蓄がある。もっとも直接的なものは、無脳症や重篤な脳障害を負った人間にかかわる。現在、こうした人々は、医学の進歩によって生き永らえるものの、相当な金額が必要なことがしばしばである。しかし、種のメンバーであることが道徳的に重大なことでないとしたら、パーソンでもないし、またなりえない個体の生命を、しばしば多大なコストをかけて、長びかせる道徳的な理由はないことになる。

\section*{人間の胚、胎児、新生児の道徳的地位}

もし先の諸結論が正しいならば、ヒトの胚や胎児や新生児がある種に属しているという事実も、それらが潜在的なパーソンであるという事実も、それに特別な道徳的地位を与えるものではない。すると、それらの道徳的地位は、パーソンであるかどうかということに基づかなければならないように思われるだろう。ヒト胚については、少なくとも原初的な意識の能力を持っていなければパーソンではありえない、というかなり穏健な主張でさえ、ヒト胚はパーソンではないという結論につながる。ヒトの胎児と新生児の場合、問題はそれほど明白ではない。しかしながら、二つの考え方が少なくとも役に立つということになるかもしれない。まず第一に、いったん潜在性を脇に置いておくことにして、享受する能力をもっている心的生活に焦点を当てることにするならば、新生児をパーソンとして分類するようなパーソン性の判断基準は、他の多くの種の成体をもパーソンとして分類することになるだろうし、それゆえ、私たちの日常的な道徳的意見には大きな変革が必要になることだろう。第二に、伝統的に提出されてきたパーソン性の判断基準の多くは、思考する能力を持つか持ったことがないかぎりそれはパーソンではないということを含意しており、そしてこれが意味するのは、もしそうした伝統的な判断基準が仮におおまかには正しいとすれば、ヒトの胎児や新生児は、誕生以前のどこかの時点で思考する能力が発達するものでないかぎりパーソンではないということである{\——}そしてこうしたことは、現在のわれわれが知っている早期の人間の行動や神経生理学的発達からすれば、ほとんどありそうにない。

正常な新生児はパーソンではないという結論は、もし正しければ、私たちが新 生児に対して負っている責任に関して非常に重大な帰結をもっている。という のは、もし潜在的パーソン性は道徳的には重要ではなく、またもし正常な新生 児がパーソンでないとすれば、そうした個体がもっている内在的な道徳的地位 は、無脳症の小児と違わないということになるからである。そしてこのことは、 神経生理学的には正常だが、身体的に重篤な障害を負っている新生児のケース を考えるならば、そうしたケースでは生命を苦痛なく停止させることが道徳的 に最善ではないだろうかという問いを提起するからである。

\section*{まとめ:倫理学とパーソンの概念}

社会が直面している最も論争的な問題の多くは、殺すこと、または死なせることのどちらかに関わっている。これらは、死の概念はどうすれば最もうまく定義されるのか、非自発的安楽死はどんなときに道徳的に正当化されるのか、中絶の道徳的地位、そして私たちのヒト新生児{\——}無脳症や重篤な脳障害を負った新生児、また神経学的には正常だが重篤な障害を負った新生児{\——}に対する責任などについての問いを含んでいる。殺すことと死なせることを当つかう基礎的な道徳的原則は、パーソンの概念を中心に定式化される必要があるということがもっと広く理解されるまでは、こうした諸問題の解決は非常に難しいままであろう。

パーソンの概念が明らかに重要な最後の領域は、他の種の動物の道徳的地位にかかわっている。人間以外の動物の心理的な能力について、増えつつある私たちの知識からすると、パーソンの概念についての私たちの現在の理解からすれば、おそらく、人間以外のある種の動物もパーソンであると結論する十分な根拠があることになる。しかし、心理的な能力がもっと限定されている動物を扱う場合には、正確にはどんな性質があるものをパーソンにし、またパーソンにしないか、ということについてのもっと詳細な理解が必要になることだろう。

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翻訳ゲリラ:アラン・ゴールドマン「プレイン・セックス」

Alan H. Goldman, “Plain Sex”, Philosophy and Public Affairs, 6 (1977), pp.158-67。坂井昭宏先生の訳文に江口が省略された個所を補い、さらに全体を若干修正した(修正しつつある)。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-goldman-plain.pdf

ソース

\begin{center}
\large{I}
\end{center}

最近、セックスについての数本の論文が出版され、分析哲学の正統的なトピックとして受けいれられつつある(もっとも、それはプラトン以来のトピックであったわけだが)。概念的分析はこの領域では不必要だと考える人もいるかもしれない。ポルノグラフィを定義しようとする裁判官や立法者たちの悪評紛々のどたばたにもかかわらず、私たちは自分たちがセックスがなんであるかを知っており、少なくとも\ruby{典型}{パラダイム}的な性的欲望や活動を難なく同定できると考えている。しかしながら、ここではいまだに哲学は重要なのである。セックスの概念が、私たちの、そしておそらくすべての社会での道徳的・社会的意識の中心部分に位置しつづけているという理由からである。セックスと道徳や性的倒錯や社会統制や結婚とのあるべき関係について、分別ある見解に到達する前に、私たちはこのセックスという概念そのものを分析しなければならない。すなわち、セックスを動物的快楽へと切り下げるのでもなく、また、なんらかの特定の理論や価値体系のなかでその重要性を過大評価してしまうこともないような分析が必要なのだ。私は「〜の前に」と伸べたが、その順番はさほどはっきりしたものではない。というのも、この領域での問いは、道徳哲学の他の領域と同様に、概念的でもあると同時に規範的でもあるからだ。私たちのセックスの概念は、部分的には私たちの道徳的見解を決定することになるだろうが、しかし哲学者として私たちは、道徳的に適切なその地位と調和するような概念を定式化するべきだ。私たちがここで要求するのは、他の領域と同様に「反照的均衡」であって、これは道徳的含意と、伝統的・現代的な分析をまとめあげただけでは到達できない。性的活動は、食事行動や身体的運動のような他の自然的活動と同様に、文化的・道徳的・迷信的な上部構造のレイヤーに埋めこまれていて、ごく単純な語句によっては把握することは難しい。しかし、部分的にはこの理由のために、私たちがこの概念的均衡を獲得できるのは、\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}を考えてみることによってのみである。

私がここで提案したいのは、セックスが最近の論議で誤って理解され続けてきたということ、少なくとも哲学的論議においてそうであったということである。また私は、私が「手段-目的分析」(means-end analysis)と名づける支配的な分析形式を批判するつもりである。このような考え方は、セックスに生殖、愛情表現、たんなるコミュニケーション、人間関係の自覚などの外的な目標や目的が必要だと論じようとする。そうした分析は、性的活動をこれらの目的のひとつのための手段として分析してしまい、性的欲望を、それは生殖の欲望であるとか、愛し愛されたいという欲望であるとか、他者とコミュニケーションしたいという欲望であると考えてしまう。この種のすべての定義は、これらのモデルのいずれかに合致しない性行為や、こうした機能の一つを満たさない性行為をなんらかの点で逸脱的であり、不完全であると考えさせてしまうことによって、セックスと倒錯、そして道徳との関係に関する誤った見解を教示してしまうものだ。

上のものより単純な、私が提案する分析によれば、性的欲望とは「他人の身体との接触と、それが生み出す快楽に対する欲望」である。性的活動とは、行為者のそうした欲望を満たす傾向がある活動である。アリストテレスと〔ジョセフ・〕バトラーが正しく主張しているように、通常は、快楽は意図的行為の目標(goal)ではなく、むしろ副産物であると考えられる。しかし、セックスの場合にはこれはそれほど明白ではない。他人の身体に対する欲望は、身体的接触が生み出す快楽に対する欲望である。一方で、この欲望は、その因果的状況から切り離すことができる特定の感覚、つまり身体的接触以外の仕方でも得られるような感覚に対する欲望ではない。性的欲望を、個々の性的活動をもっと明示的に枚挙して定義しようとする試みよりも、こうして性的欲望の一般的目標によって定義した方が好ましいはずである。というのは、キス、抱擁、マッサージ、手を握るなどのさまざまな活動は、状況次第で性的な場合もあればそうでない場合もあるからだ。もっと正確には、そうした活動があてはめられる目的や必要や欲望次第で、性的にも非性的にもなりうるからである。このように性的活動を一般的に定義することは、同様に性的欲望の目標としてオーガズムを強調することや、性器セックスを性的活動の唯一の規範として強調することの否定にも対応している(これは現在の心理学テキストでは一般的な傾向である)。

この定義の核心にあるのは、性的欲望や性的活動の目標は身体的接触そのものであり、この接触が表現する他の何かではないという事実である。これとは対照的に、「手段-目的分析」は、\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}とは異質な目的(ends)と私には思えるもの設定して、セックスをそうした目的に対する手段と見なす。こうした分析の誤りは、セックスをその一般的な目標によって定義するところにではなく、分離可能な他の目的に対するたんなる手段と見ることにある。この分析については、「手段-分離可能目的分析」の方がより説明的だがあまりに煩雑なので、便宜的に「手段-目的分析」と呼ぶことにする。他人の身体に触れたいという欲望は、(正常な)性的欲望の規準として最小限のものではあるが、普通の欲望を性的として規定するのに必要かつ十分である。もちろん、私たちはさまざま状況において性的活動を通して他の感情を伝えようとする。しかし、身体的接触それ自体を求める欲望がなければ、またそれが他の理由のために求められる時には、その接触が含まれる当の行為は優先的な意味では性的と規定されない。さらに、愛情や他の感情を伝えたいという希望を伴わなくても、身体的接触それ自体を求める欲望はそれを充足する行為者の活動を性的にするのに十分である。ある状況におけるキスや愛撫のように、身体的接触という目標を伴うさまざまな活動は、たとえ性的興奮による性器の状態変化がなくてもそれだけで性的と規定される。それゆえ、性器の状態変化は性的活動に必要な規準ではない。

この最初の分析は見る人によって、性的欲望を規定するには広すぎるか、狭すぎるかどちらかに見えるかもしれない。広すぎるすぎるというのは、この分析によれば、フットボールや他の身体的接触を含むスポーツ活動での接触もまた性的欲望として解釈してもよさそうに思われるからである。しかし、こうした事例では、欲望は他人の身体との接触それ自体を求めるのでも、特定の人物との接触を目指すものでもない。身体的接触はこうした活動の目標ではない。目標は勝利すること、能力を発揮すること、誰かをノックアウトすること、高い技能を示すことなどにある。もしその欲望が純粋に他の特定の人物の身体との接触を求めるものであるなら、それを性的として解釈しても誇張とは思われない。もう少し困難な事例は、抱きしめられたいという乳児の欲望や、それに応えて乳児を抱きしめたいという私たちの自然な欲望という事例である。乳児の事例では、欲望はたんなる身体的接触、愛撫という快楽を求めるのかもしれない。もしそうであるなら、とりわけフロイトの理論に従って、この欲望を性的、あるいは\ruby{原-}{プロト}性的として特徴づけることができる。しかし、それはまだ明確な形をもたず、他人の特定の身体へと向かうのではないという点で、成熟した性的欲望から区別されるだろう。幼児が無意識のうちに求めているものは、身体的接触それ自体ではなく、愛情、優しさ、安心の印であるかもしれず、こうした事例では乳児の欲望をはっきりと性的なものとして規定するのを躊躇する理由がある。私たちの乳児に対する応答の意味は愛情を示すことであり、たいていは純粋な身体的接触を求めるものではない。したがって、\kenten{行為者の側の}性的欲望充足のための行為という観点からの私たちの定義は、こうした行為には当てはまらない。男性どうし、女性どうしの間の愛情の印(あるいは一部の文化での礼儀正しい挨拶)にも同じことがいえる。こうしたものはそれがたんに友情を示すものである場合には必ずしも同性愛的ではなくく、それが付加されるなら価値を増すことはあるかもしれないが、\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}とは異質のものである。

身体的接触への欲望による定義は、あまりに狭すぎると思われるかもしれない。というのは、たんなる彼あるいは彼女の身体ではなく、ある人物のパーソナリティが他人には性的魅力となりうるからであり、また身体的接触がなくても、状況次第ではなんらかのしかたで見たり会話を交したりすることも性的でありうるからである。しかし、性的な\ruby{訴求力}{アピール}をもつのは、人の思考の内容それ自体ではなく、彼のある種の振る舞い方に具体化される彼のパーソナリティである。さらに、たとえある人が他の人のパーソナリティに性的な魅力を感じたとしたら、彼はたんに会話を続けたいとだけでなく、実際に身体的に触れたいと思うだろう。ある状況では誰かを見つめたり話をすることが性的として解釈されることがあるが、それが性的なのは、それらが基本的な性的関心にとっての準備段階として、それゆえ性的関心に寄生的であるような場合である。覗き見やポルノ映画を見ることはたしかに性的活動として規定されうるが、それも現実の事柄の想像的代用として性的活動であるかぎりにおいてである(さもなけば、私たちの定義で表現されている標準からの逸脱事項である)。パートナーなしの性的活動であるマスターベーションについても同様である。

私がとりあえず提出した定義は、少なくとも、性的欲望と性的活動の素材は曖昧で論じにくい、ということを示している。私たちはみな、少なくとも明白な事例ではセックスがなんであるのかを知っており、哲学者にそれを教えてもらう必要はない。私の準備的な分析は、少なくとも必然的にはセックスではないのものを示すための対照物として意図したものだ。私は他者の身体に対する身体的に顕示された欲求に注目し、自分自身の実存の身体的側面への没入と、他者の身体的具現化への注意を中心的なものだと考える。人は、性的行為のなかで、パートナーにある感覚を表現することから、またパートナーの態度を意識することから、快楽を得ることがあるだろうが、しかし性的欲望は本質的には身体的接触そのものに対する欲望である。それは、他者の身体に対する身体的欲望であり、私たちの心的生活を多少の短い時間といえども支配する。伝統的文書群が、セックスの純粋に身体的あるいは動物的側面を強調したのは正しかった。それらがまちがっていたのは、それを非難したという点だけである。セックスを強烈な快楽をもたらす身体的な活動と強い身体的欲望とするこの正確づけは、そのぎりぎり最低限のレベルのものしかとらえていないように見えるだろう。しかし、こうして、最小公分母を区別しそれに焦点をあてることは、性道徳と倒錯(perversion)についてのあやまった見方を避けるために価値があるのだ。そうした見方は、セックスをなにか別のものと考えることから生じている。

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\begin{center}
\large{II}
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では、セックスは何ではないのかという問題に移ろう。本来は概念的に区別する必要がある、セックスと他の活動の間の概念的なつながりを想定する議論を見てみたい。異質な目的をセックスに組み込もうとする試みの中でもっとも理解しやすいのは、セックスの目的を、そのセックスの生物学的機能である生殖に置く考え方である。これは「自然の」目的であるだろうが、私たちの目的である必要はないのはたしかな話である(食事とのアナロジーは、時に過剰になってしまうことはあるものの、ここでは適切である)。セックスと生殖との同一視はかつては合理的基礎をもつとされ、セックスの価値と道徳を生殖と子育ての価値や道徳との同一視する基礎になっていたが、避妊手段の発達は両者の結合を弱めてしまった。今ではさまざまな避妊法はすでに身近で広く普及しているので、その発展がセックスという概念それ自体と、この概念に依存している理性的なセックス倫理にもたらした変化について長々と論じる必要はないであろう。過去においては、常に存在する妊娠の可能性が、セックスの概念とセックス倫理を現在のものとはまったく異なったものにしていた。母親と父親の両方がきちんと存在していて世話してくれることが子供とって利益になるならば、生殖を結婚内に制限する十分な理由があるということになるだろう。社会が子供の利益を保護する正当な役目をもつかぎりで、社会が結婚に一定の法的地位を与えることを正当化できるかもしれない。もっとも、未婚の母のもとに生まれた子供たちはいかなるペナルティも値するはずがないという事実(そして他のもろもろの事実)がこの問題は複雑にしている。いずれにせよ、ここでの要点は、こうした問いは現在ではセックス道徳と社会規制にかかわる問題には無関係だということである。(結婚との関係については後で論じる。)

性的欲望は必ずしも生殖に対する欲望ではないこと、また、その心理学的発現は生物学的根源からは、常にではないにせよ区別されてきたことは明らかである。先に触れたように、セックスと他の自然的機能との間には平行関係がある。食べたり運動したりする時の快楽は、栄養や健康に関するそれらの役割とはほとんど関係がない(ジャンクフード企業がこれまで徹底的に明らかにしたことだ)。セックスとこうした行為との明白な平行関係にもかかわらず、セックス行為は生殖の行為でもありうるとき、それがいっそう道徳的だとか不道徳だとはいえないまでも、少なくともいっそう自然であると考える傾向がある人々は多い。 道徳的であるというカテゴリーと、「自然さ」(naturalness) ・正常さ (normality)というカテゴリーは、以下で示すように同一視されてはならないし、どちらも生殖との関連によってセックスに適用可能だとされるべきではない。生殖をセックスに概念的に連結された目的である見なす傾向は、現在のカトリック教会の諸宣言に広く見られる。そこでは、誤った分析が明らかに制約的な性道徳に結合する。そのセックス道徳によれば、性的行為はそれが生殖に向けられていないとき、不道徳で反自然的である。この道徳は、パウロに由来するキリスト教性倫理に独立した根っこをもつ。しかしながら、手段-目的分析は首尾一貫した性道徳を生み出すことができない。同性愛やオーラル-性器セックスは受精に結びつかないという理由で非難されるが、キスや愛撫などそれ自身では同じように生殖と関係をもたない行為は非難されないからである。後者(のキスや愛撫など)も私たちの定義では適切な仕方で性的行為と定義されることはいうまでもない。

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\begin{center}
\large{III}
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目的‐手段分析と、虚偽的で整合性を欠く性道徳や性的倒錯の概念との関係を論じる前に、こうした分析法のもうひとつの事例を考察しよう。よくある立場では、セックスは本質的にパートナー間の愛情表現の一つだとされる。愛情には性的なもの以外のタイプが存在することは広く認められているが、セックスそれ自体は愛情の一つのタイプ、しばしばロマンティックラブ\footnote{この領域に関する著作が、少なくともその時代には合理的思考のモデルとされるバートランド・ラッセルでさえ、このような〔セックスと愛情表現の〕同一視をおこない、プレインセックスを愛情欠如として非難している。「愛を離れたセックスにはほとんど価値がなく、基本的には、愛を視野にいれた実験とみなされるべきである」、という。Marriage and Morals (New York: Bantam 1959), p. 87。}と呼ばれる愛を表現するものであると一般的に認められている。ここでも、さまざまな要素がこの同一視を弱体化するはずである。第一に、性的に表現することが適切な愛以外にも、他に多くのタイプの愛が存在するし、また、「ロマンティック」ラブそのものも、他のいろんな仕方で表現できる。愛とやさしさという感情の表現媒体となる時に、セックスが特段に高尚な価値や意味を帯びることを私は否定しない。しかし同じことは、日曜日の朝に早起きして朝食の準備をすること、家を掃除すること、など他の多くの日常の平凡な活動についても言える。第二に、セックスそれ自体が、愛以外の他の多くの感情を伝達するのに使用されうるし、また、以下で論じるように、セックスそれ自体がなにもコミュニケートすることがないとしても、それでもよいセックスでありうる。

もっと深いレヴェル見ると、身体的-心理的欲望としてのセックスと、二者間の個人的で長期にわたる深い情緒的関係としての愛との同一視から、ある内的な緊張が生じることになる。このタイプの人間関係として、愛は少なくとも意図としては永続的なものであり、多かれ少なかれ排他的なものである。普通の人は一生かかってもせいぜい数人より多くの人を深く愛することはできない。多くの人を愛そうとしたり愛していると主張するような人については、実はまったく愛しては言わないまでも、ごく弱く愛しているにすぎないのではないかと疑ってもよいだろう。しかし、つかの間の性的欲望は、性的な魅力が感じられるさまざまな他者との関係において生じる。一部の人が主張するように、人間の性的欲望は自然本性的に多様性を求めるものであるかもしれないが、これは愛に関しては明白に偽である。こうした理由で、排他的な夫婦間のセックスは、もしそれが正当化されるものであるとしても、ほとんどつねに配偶者双方の犠牲あるいは自己抑制を必要とするわけだが、しかし、一夫一婦制の愛一般はそうではない。私が「\ruby{愛}{ラブ}」という言葉で意味したいものについては、\ruby{行きずりの愛}{カジュアルラブ}のようなものはありえない。既婚者が配偶者以外の誰かと急に深い恋愛関係に陥ることは、往々にしてありうることである(特にセックスが愛と結びつけて考えられているときには)。しかし、それは一時的に他者に対する性的欲望を感じることに比べれば比較的まれである。前者〔婚外恋愛〕のようなケースはしばしば結婚関係に弱みや欠点があることをしめすことになるが、後者〔一時的な性的欲望〕のケースそうではない。

もし実際、愛はその対象に関して性的欲望よりもいっそう排他的傾向が強いといえるならば、このことは、セックスを本質的に愛情表現の手段として考える人々が、なぜ抑圧的で狭隘な性倫理を主張する傾向があるかを説明してくれる。セックスを生殖の手段と見なす場合と同様に、深い愛という全面的な献身を、結婚や家族という脈絡に限定する十分な理由がある。普通の人は、おすそわけ程度のコミットメントや献身などといったものにはたえられないだろう。結婚自体をもっともよく維持してくれるのは、深い情愛で結ばれた関係であることはまちがいがない。たとえ愛が自然本性的には一夫一婦的ではないとしても、家族という単位が子供にもたらす利益が、家庭以外の場所での深いコミットメントを避ける付加的な理由を与える。それは家族の絆を弱めるからである。同様に、排他的な夫婦間のセックスは、性的欲望の充足を夫婦間に限定し、その充足を保証することによって家族を強化すると主張される。しかし、次の議論にはさらに大きな説得力がある。セックスと恋愛の明確な区別を知ることによって、性的欲望を恒常的な愛と取り違えるという青年期に特有の混乱から帰結する悲惨な結婚を避けることができる。健全な結婚における情愛は、青年期のさまざまなタイプのロマンティックラブとはまた別のものである。後者は、しばしば抑圧された性道徳という文脈下でのセックスのたんなる代用物にすぎない。

実際のところ、愛についての手段-目的分析に結びつけられた制約的なセックス倫理もまた、整合的であることはできない。少なくとも、それはこれまで整合的に適用されることはなく、また、女性の自由を狭めてきた\ruby{二重基準}{ダブルスタンダード}の一部となってきた。この歴史からすれば、一部の女性が現在セックスを他の種の手段としてつかおうと提唱していることは予測できたことである。彼女たちは、セックスを政治的な闘争手段として、あるいは不正に奪われたきた権力と自由を獲得する手段として使おうとしている。典型的にセックス-愛分析にむすびつけられたセックス倫理は、それが男性に適用されるときには、せいぜいひとつまみの塩程度のものとして一般的に考えられている。この不整合は、セックスを概念的に異質な要素に結びつけて考えるというやりかたに、この分野でのまともな道徳理論をうまくあうようにしたてあげることが不可能であることを示している(★このパラグラフ全体再検討)。

むろん、セックスは愛と結びつくことができるし、また愛と結びつくことによって、いっそう多くの意義と価値をもつ活動になることができる。私はこうしたことを否定するつもりはない。さらに、各個人はセックスと同じように愛を必要としており、感情的には少なくとも双方をともに含む一つの完全な関係を必要としていることも否定しない。セックスが愛を表現することができ、またそうする時には高い意義をもつように、愛はしばしば自然本性的に断続的な的欲望を伴う。しかし、愛にはセックス以外に、他の共通の活動に対する欲望も伴いうる。性的欲望を他よりもいっそう親密に愛と結びつけるものは、相互的な性的行為の自然的な特徴であると見られる親密さ(intimacy)である。愛と同様に、セックスは人を身体的にも心理的にも裸にするものだ。セックスは間違いなく親密なものである。しかし、しばしばセックスに結びつけられる心理的なうしろめたさという代価は、とうぜんなされるべき自己弁明というよりは、狭隘な性倫理の作用によるものかもしれない。愛に含まれる親密な関係は、一般には、心理的に健全な仕方で人々の集中をもとめるものだが。他方、性的関係の心理的対価は、しばしば親密さに対応したきまりの悪さを伴うが、かなりの程度、人為的な性倫理やタブーの結果に他ならない。愛とセックスに含まれる親密さは、これらを素材にした手段-目的分析を適切なものにするには不十分である。(★ここも再検討)

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\begin{center}
\large{IV}
\end{center}

最近の論文で、トマス・ネーゲルとロバート・ソロモンは、セックスは愛を伝えるたんなる手段ではないことを認めてはいるが、それでもこの分析を拡張し維持しようとしている。ソロモンにとって、セックスはコミュニケーションの手段であるが(彼はボディーランゲージのメタファーを明示的に使っている)、伝達される感情は愛とやさしさに加え、支配、依存、怒り、信頼などを含むものにされている\footnote{Robert Solomon, “Sex and Perversion”, Philosophy and Sex, ed. R. Baker and F. Ellistion (Buffalo:Prometheus, 1975).}。ゲーゲルは明示的にはコミュニケーションには言及していないが、彼の分析はセックスを複雑な対人間意識作用と見るもので、そこでは欲望そのものがさまざまなレベルで伝達されるとされている。ネーゲルの分析では、セックスにおいて、二人は互いに〔性的に〕覚醒させられ、相手の覚醒を知覚し、そしてその知覚によってさらに覚醒させられる、ということになる\footnote{Thomas Nagel, “Sexual Perversion”, The Juornal of Philosophy, 66, No. 1 (1960). トマス・ネーゲル、『コウモリであることはどのようなことか』収録。}。こうした自分自身と他者の欲望のマルチレベルでの意識的知覚は性的関係の\ruby{標準}{ノルム}とみなされる。このモデルはそれゆえセックスを対人間コミュニケーションの手段として見る立場に接近している。

より重要な点として、セックスをコミュニケーションの手段として分析すると、その行為自体の内在的な本性と価値を見逃してしまう。セックスはたんなるジェスチャーでも一連のジェスチャーでもなく、実際のところ必ずしも他の目的のための手段ではなく、むしろそれ自体強烈な快をもたらす身体的活動である。言語が用いられるときには、シンボルはそれ自体では重要性をもたない。シンボルは単にそれによって伝達されるもののための乗り物にすぎない。さらに、言語の使用におけるスキルは、注意深く学習されなければならない技術的獲得物である。もしよりよいセックスが、より熟練したボディーランゲージによっていっそううまく伝達されるコミュニケーションであるならば、私たちはそのボキャブラリーや文法を学校で学ぶべきだということになるだろう。ソロモンの分析は、言語というメタファーを使うものだが、それによれば、セックスマニュアル的なアプローチが適切であるように見られる。それは、感覚と欲望に強制されることなく服従する自然な快楽を、ある種の技術的な能力に置き換えてしまうものだ。

ソロモンの立場は、言語ではなく、コミュニケーションの美的形式としての音楽のアナロジーをもちいれば改善されそうに思えるかもしれない。音楽は美的コミュニケーションの一形態であると考えられ、そこでは「音素」それ自体の経験が一般に快をもたらす。そしてまた、音楽を聞くことは、誰かと話をするというよりは、性的経験に近い。しかし、音楽がそれ自体で美的で快をもたらすものであるとはしても、それが特定の感情を伝達する手段であると考えるのが適切であるとは私は考えない。そうした分析は、性的経験そのものを落しめるようなセックス-コミュニケーションと同様なしかたで、美的な経験を不当にとりあつかっているように思える。

ソロモンにとって、十分に自覚的なコミュニケーション的な行為でないようなセックスは卑俗さに向かう傾向があるというのだが\footnote{Solomon, pp. 284-285.}、私はこれはまったく反対に考える。これは、私の説では完全に自然で正常なセックスに思われるものを非難する手段-目的分析の傾向のまたひとつの例証になる。しかしながら、ソロモンとネーゲルは双方とも、自分たちの定義を、先の分析で見たようににセックスの道徳的\ruby{標準}{ノルム}を制定するためにではなく、倒錯の度合いを測ろうとする\ruby{標準}{ノルム}を定義するために使っている。ここでもまた、どちらの定義も、なにが\ruby{標準未満}{サブノーマル}なセックスと考えられるべきかということに関する私たちの根強い直観との整合性あるいは反照的均衡を埋みだすのには失敗している。問題は、どちらも、正常な性的欲望や活動の恋愛物語化されていない見方には異質な要素を、その\ruby{標準}{ノルム}に持ち込んでしまっているところにある。もしソロモンが主張するように倒錯がコミュニケーションの崩壊を表現するものであれば、不首尾におわったり誤解された口説きなどは倒錯的だということになってしまう。さらに、すでに数年結婚している夫と妻や、おたがいにすでによく知っているパートナーの間でのセックスは、倒錯的ではないとしても、\ruby{標準未満}{サブノーマル}だったり陳腐で退屈なものということになるだろう。コミュニケーションされる内容が少なく、なにも新しいところがないからだ。実際のところはセックスの快楽はなじみになってもすり切れていくとは限らないが、もしセックスの快楽が感情などのコミュニケーションの内容に依存するのならばそうしたことになってしまうだろう。最後に、マスターベーションは、代理的な創造的なはけ口による身体的な欲望を解放し軽減する行為というよりは、自分のコミュニケーションのテクニックやボキャブラリーを訓練したりリハーサルしたり、あるいはソロモン自身が認めるように、単に独り言をつぶやくことに近くなる\footnote{同上、p.283。ウディ・アレンの自分のテクニックについてのセリフを思いだす人もいるだろう。「一人の時に何回も練習しているんだ。」}。

ネーゲルも、過剰に知的なものにされた\ruby{標準}{ノルム}がもつ含意では、ソロモンと同じようなものである。二人のよくなじんだパートナーの間の自発的で熱の入ったセックスは、彼が言うところの複雑な意識的なマルチレベルの対人間知覚などは含んでいないかもしれないが、だからといってなにも倒錯的なところはない。自分のパートナーが自分の欲望によって興奮してほしいという自己中心的な欲望は、性的に駆り立てる衝動の基本的な要素であるようには思えないし、またセックス行為の間、パートナーが能動的で興奮していることを好むことはあるだろうが、そういう人も時にはより受動的であることを好むこともあるだろう。愛がコミュニケートされているときにセックスがいっそう意義あるものになるのと同様に、相手の欲望を知覚することによってセックスがより高められることはあるだろう。しかし、時にはまた、パートナーの熱意ある欲望の知覚が単に気を散らすものになっていまうときもあるだろう。ネーゲルが言及する意識的知覚は実際のところ、私が上で言及した肉体的なものへの没入を妨げるところがあるかもしれない。これは自分の「 ボキャブラリー」やテクニックなどといったものにに集中しようとすることが没入を妨げてしまうのと同様である。セックスは他者とかかわる方法だが、基本的には知的というよりは肉体的なものである。ネーゲルにとって、変質あるいは倒錯の最極端は、おたがいの心の状態を知覚することのない「相互的な皮膚表面の刺激」\footnote{Nagel, p. 15.}ということになるだろう。しかしこれは私には、たしかに理想的ではないにせよ、ごくノーマルなセックスに思われる(おそらく単にセックスの最小限の記述ということになるだろう)。彼のモデルはたしかに、性的行為そのものというよりは洗練された誘惑の一風景にふさわしいものであって、このモデルにしたがえば、セックスはしばしば知的な前戯のあとでの\ruby{標準未満}{サブノーマル}な\ruby{竜頭蛇尾}{アンチクライマックス}ということになるだろう。ネーゲルの説はソロモンのセックスの手段-目的分析に似ているが、ネーゲルにいては性的行為そのものは対人間コミュニケーションという目的のために望ましい手段としても中心的な手段としても失格ということになりそうである。

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\begin{center}
\large{V}
\end{center}

私はここまで、一般的な手段-目的形式を共有するさまざまなタイプの分析を批判した。私が示してきたのは、こうした形式をもつ分析は道徳的あるいは自然的なセックスを、基礎的な性的欲望に外的な何らかの目的や機能を遂行するそれに制限しようと試みに繋がるということである。こうした試みは理想化されたモデルから外れるまざまな形態のセックスを不道徳あるいは倒錯的という烙印を押す。しかし、それ自身が直接には疑問視しない直観との整合性を保ちえない。たとえば、生殖モデルはオーラルセックスを逸脱と見なすが、キスや手を握ることなどを説明できない。コミュニケーション説は覗き見を逸脱と考えるが、あまり意識的な思考をともなわない性的行為や、誘惑的で非身体的な前戯をうまくとりあつかえない。セックス‐愛モデルはほとんどの性的欲望を他人を侮蔑(degrade)する卑しいものと見なす。生殖モデルとセックス-愛モデルは、生殖と深いコミットメントは、家族という文脈にこそ限定されるべきだとして、健全にみえるが実は無関係な根拠から婚外セックスを非難する。セックスの\ruby{恋愛物語化}{ロマンチック化}と、性的欲望と愛との混同は、二つの方向で作用する。ロマンティック・ラブという脈絡を外れたセックスは抑圧される。それがいったん抑圧されると、セックスのパートナーを見出すことはいっそむずかしくなる。またセックスはさらに恋愛物語化されることになり、個人個人にとってのその本当の価値にまったく釣り合わないほどのものになってしまう。

こうした分析すべてが共通の形式に加えて共有するのは、プラトン主義的キリスト教的道徳の伝統との合致とそこからの逸脱である。この伝統によれば、人間の動物的要素、すなわち純粋に肉体的要素は不道徳さの源泉であり、私が規定した意味での\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}は、この動物的要素の一表現であり、それゆえそれ自体として非難されるべきである。これまで検討してきた分析はすべて、性的欲望それ自体から距離をとり、それを身体的なものを越えるものとして概念的に拡張しようと試みているように思われる。愛とコミュニケーションによる分析は、性的欲望を純化し知性化しようとしている。身体的セックスそのものは卑俗なものとみなされ、すばらしき大脳の働きのオーラを必要とするようなコミュニケーションを伴わないあまりに直接的な性的な出会いは回避されるべきであるとされる。ソロモンはセックスは「たんなる」欲望ではありえないと明示的に述べる。もしそれがたんなる欲望であるなら、地下鉄の露出狂や他の形の卑俗な行いも同じように快楽を与えるであろう、と\footnote{Solomon, p.285.}。しかし、性的欲望は肉体的であると同時に、対象選択的でもありえる。下等な動物も自分の種の他の個体に対しても同じように魅力を感じるわけではない。すえた臭いのする食べ物を喉の奥に突っ込まれるのは心地のよくないことであるが、しかし、このことは食欲が肉体的欲望でないことを示すわけではない。性的欲望は私たちが肉体的存在であること、実際、動物であることを私たちに教えてくれるのだ。これが伝統的なプラトン主義的道徳が、かくも徹底的に性的欲望を非難した理由である。手段-目的分析は、しばしば意図せずして、今なおこの伝統を反映している。すなわち、肉体的欲望としてのセックスそのものは私たち自身の「低位の自己」(lower selves)の表現であり、私たちの動物的本性に屈服することは人間以下であり卑俗である、というのである。セックスを概念化する際、連綿と続くこうしたプラトン主義的疑念から私たちを解放することは、この領域における革命なるものにもかかわらず、いまだに困難であることを示している。

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\begin{center}
\large{VI}
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これまで批判してきた手段-目的分析が含意する性倫理と私の自説とを対比させなければならない。私の分析がどのような性道徳を含意するかという問いに対する答えは、私の説明はいかなる道徳的含意ももたないというものである。セックスそれ自体に道徳的性格を負わせるいかなる分析も、まさにその理由によってすべて誤りである。セックスに内在的ないかなる道徳も存在しない。ただし、道徳の一般的諸規則がすべての人間関係に適用されるように、こうした規則はセックスにおける他人の取り扱いにも適用される。私たちはセックス倫理について、ビジネス倫理と同じように語ることができる。ビジネス倫理について語るとき、私たちはビジネスそれ自体が道徳的か不道徳かを問う必要はないし、また、ビジネス以外にも適用される諸規則に由来しない特別の規則がビジネスの実践を判断するために必要であると主張する必要はない。セックスそれ自体は道徳的なカテゴリーではない。私たちはビジネスと同様に、セックスによって他人との関係に置かれ、この他人との関係に道徳諸規則が適用されるのである。セックスは私たちにこれとは別の状況で不正として認められることなす機会、他人に危害を及ぼす機会、彼らの意志に反して他人を欺き、他人を手段として扱う機会を与える。ある行為が性的であること以外の理由で不正であるとしても、その行為がそれ自体として性的であるという事実は、けっしてその行為を不正にしたり、その不正さを増したりしない。後で論じるように、未成年者に対するセックスが不正であるのは、それがセックスであること以外の理由による。したがって、いかなる不正な行為もそれが性的な動機からなされたという理由だけで、非難されるべきではない。もし「痴情による犯罪」(crime of passion)がいくぶんか情状酌量されるべきであるなら、それは性的なコンテキストでおこなわれたからではなく、一時的な精神的錯乱においておこなわれたからであるべきである。性的な動機は他の一部の動機と同様にとりわけ人を錯乱させやすいものかもしれないが、それが性的であるという事実は、それ自体ではそこから生ずる行為の道徳的性格とは無関係である。戦争においてなにが真理であるかはさておき、愛とセックスにおいてはなにをしてもかわないというわけではないことは確かである。

それゆえ、道徳とセックスに関する私たちの最初の結論は、他の状況で不道徳などんな行為も、それが性的な行為であるという理由で責任を免除されるべきではないし、それ以外のところで同様に適用される規則によって非難されないなら、セックスにおいてなされる何ごとも不道徳ではないということである。後者に関しては、さらに説明が必要であろう。セックスはセックスそれ自体にのみ関係する特殊な規則に支配されうる。しかし、そうした規則が具体的な性的関係に適用される時には、道徳の一般的規則に含まれなければならない。同様のことが公正なビジネス、倫理的な医療、自動車運転の規則にも当てはまる。最後の事例では、路上での特定の行為、たとえば前を走る自動車の後尾に接近密着して運転したり、道路の右側から追い抜いたりすることなどは非難されるべきであるが、行為としては高速道路の安全という脈絡以外では他のどんな行為とも類似性ももたない。しかし、そうした行為の不道徳性はそれが他人を危険な状況にすること、それが回避可能なときには、どのような脈絡でも非難されるべき状況に置くという事実から派生する。このような一般的で特定の事例に適用可能な規則の構造が、同様に理性的な性道徳を記述する。極端な事例を挙げれば、レイプはつねに性的行為であり、つねに不道徳である。したがって、レイプを禁じる規則は、明白に性道徳一部分であって、これは性的ではない行為となんの関係ももたないと考えられるかもしれない。しかし、レイプが不道徳であるのは、それが人の身体への暴行であり、侮辱されない権利の侵害であり、他人を意思に反して使用することを禁止する道徳の一般的規則の著しい侵害であるからであって、それがセックスだからではない。

道徳の一般的規則のセックスへの適用は、その適用が性的パートナーの特別の欲望や選好に相対的であるという事実によっていっそう複雑になる(これらの欲望や選好は性道徳のものによって影響を受け、それゆえその意味でなじまげられた信念を含んでいるかもしれない)。これは性倫理の領域には、自動車の運転などのような他の行為の領域に比べて、規則の数が少なくなるだろうということを意味する。自動車運転の場合、運転者の選好が多様であってもそれは客観的に危険な行為を禁止することとは無関係である。他方、セックスの領域では、道徳の一般的規則はパートナーの選好や欲望や関心を考慮すべきであるとを主張するにすぎない。この規則はおそらく性的関係を規制するために詳細に定式化されるものではない。これは道徳の中心的原則の一形態のそのものである。しかし、これがセックスに適用されると、子供に対する性的虐待のような特定の行為を禁止する。子供に対する性的虐待は、それが同時に性的として分類されるのでなければ、規則の侵害というカテゴリーに入れることはできない。この子供の性的虐待という事例が、性的\kenten{であるがゆえに}不正であるという行為にもっとも接近した事例である。しかし、この事例においてさえ、それが不正であることは、そうした行為が純真な被害者の将来の感情的・性的生活に及ぼす有害な結果から導きだされるものとして、またそうした行動が無垢な人間を、その人の利益を無視して操作し使用することであるという事実に基づくとして性格づけられることから導かれると考えたほうがよい。それゆえ、この事例も別の領域に同じように適用される道徳の一般的規則の侵害を含む。

セックスに関する誤った概念的分析とプラトン主義的道徳の伝統の影響の他にも、セックス自体に内在する道徳的次元があるかもしれないと考えさせる他の二つの理由がある。第一は、セックスが通常は強烈な快楽をもたらすことである。快楽主義的な功利主義の道徳理論によれば、性的行為はそれ自体として道徳的に中立というよりは、少なくとも\kenten{他に特段の理由がなければ}\emph{prima facie}道徳的に正しいとされるはずである。これは私にはまちがっているように思われるため、功利主義倫理学理論にとっては不利なことになる。セックスに内在的な快楽はよいものであるが、私にはそれはポジティブな道徳的意義をもつ善であるようには思われない。私がこうした快楽を追求する義務をもたないことは明らかであるし、また他人にどんな形であれ快を与えることは親切なことではあるが、私は私の身体に関する権利をもつことからすると、他人に快を与える道徳的な要求は存在しない。この件に関する例外は、セックスの文脈では一方は他方から快楽を引き出すわけだが、その恩恵を相手に返すべきだ、ということである。恩恵を交換するという義務は、私たちを快楽主義的功利主義の領域から、カント主義的な道徳の枠組みへ連れ出すことになる。その中心的原則は人間関係におけるこうした互恵性を要求するからである。性的活動についてのそれぞれ独立した★道徳的判断は、倫理学理論がテストされるべき一領域を構成する。したがって、上で示されたような考察は、他の領域と同様に、功利主義と対比されるものとしてのカント主義的原則が、理性的な道徳意識を再構成するためうえでもつ豊かさを示していると私には思われる。

カント主義的観点からは、セックスはそれ自体として少くとも\ruby{一応のところ}{prima facie}不正であるように思われるかもしれない。というのは、セックスはそれぞれの段階でつねに、自己のパートナーを自分の快楽のための手段として使用するからである。他人を自己自身の個人的な目的のための手段として取り扱うべきではない、とするカント主義的原則に基づくなら、これは禁止されるように思われるだろう。しかし、普遍化可能性の第一原則と同義として意図されたものとして、この原則をいっそう現実的に翻訳すれば、こうした絶対的禁止を求める必要はない。人間関係の多く、たとえば経済的取引のほとんどは他人を個人的な利益のために利用することを含んでいる。こうした関係が不道徳であるのは、ただそれが一方的である時、利益が相互的ではない時、取引がすべての当事者によって、自由にかつ理性的に支持されるようなものでないときのみである。同じことがセックスにも当てはまる。セックスを規制する中心原理は、性的関係の互恵性に対するカント的要請である。自然本性的に他人を「モノ化する」(objectify)行為においてさえ、人はパートナーを必要と欲望をもった主体としても認め(ネーゲルが記述するように、単に相手の欲望によって興奮させられるだけではない)、その欲望に服従し、自分自身も性的なモノとなり、快楽を与え、その行為の快楽が相互的であることを保証しようとする。セックスにおける道徳の基礎を形成しているのは、この種の互恵性である。これが他の領域でと同様に、性の領域において正しい行為を不正な行為から区別するのである。(もちろん、性的行為に先だって、人はそれが潜在的なパートナーにおよぼす影響を評価し、より長期にわたる利害を考慮にいれねばならない。)

\vspace{1zw}

\begin{center}
\large{VII}
\end{center}

私はすでに手段-目的形式の誤った概念的分析が、性的行為の正不正に関する混乱を助長することに加えて、個人にとってのセックスの価値に関わる混乱を引き起こすことを示した。私の説明によれば、欲望の満足とそれがもたらす快楽とが、個人にとっての性的行為の主要な心理学的機能と認められる。セックスは私たちに快楽の基本的なパラダイムを提供するが、価値の土台を与えるものではない。それは私たちの多くにとって欲望の必要なはけ口であるだけでなく、私たちの知るかぎりでリクリエーションのもっとも楽しい形式でもある。それにもかかわらず、その価値はセックスが本質的に愛の感情の表現と見なされると、簡単に誤解されて愛の価値と混同されてしまう。セックスの快楽は強烈ではあるが持続するものではないし、反復するものではあるが累積するものではない。快楽はそれを生み出すセックスに価値を付与するものであるが、それは人生全体を高め豊かにするような持続する種類の価値ではない。セックスの快楽が持続しないことはその強烈さに貢献しているだろうが、このことがセックスの快楽をよき人生の合理的計画の周辺部に追放してしまうのである。

これとは対照的に、愛は典型的には長期の関係において発展する。愛がもたらす快楽はセックスの快楽に比べて強烈でもなく肉体的でもない。しかし、その快楽はいっそう累積的な価値である。個人にとって愛は、価値の合理的体系のなかで中心的位置を占める。それはいっそう深い道徳的重要性をもっていて、他人の関心と自己自身のそれとの同一視させ、また他人との関係の可能性を広げてくれる。結婚は大人どうしと子供たちの間でこうした関係を維持する点で重要である。結婚は子供にとってと同様大人にとっても重要で、自己本位になりがちな関心を広げてくれるものだ。これと対照的に、性的欲望は対照的に、他人を求める欲望であるが、本質的に自己中心的である。性的な快楽はたしかに個人にとって善であり、また、多くの人には溌剌と生活するために必要であるかもしれない。しかし、性的快楽と今しがた論じた他の諸価値の関係は、いくつかの分析が誤って示唆するような概念的な関係ではない(★この一文訳しすぎ)。

\vspace{1zw}

\begin{center}
\large{VIII}
\end{center}

私がはじめに提出した分析は、それ自体では道徳的な含意を含まないが(そしてそうあるべきだが)、対照的に、「性的倒錯」の概念を示唆するものではある。「倒錯」の概念はそれ自体性的な概念であり、常に\ruby{正常な}{ノーマル}セックスの定義に相対的に定義されることになる。そしてその\ruby{標準}{ノルム}の考え方は、倒錯的な形態という正反対の観念を意味するものである。私の説で示唆される概念は、ここでも、上で検討した手段-目的分析が含意する概念とははっきり異なったものになる。倒錯は生殖機能からの逸脱を指すものではないし(さもなければキスは倒錯ということになるだろう)、また愛の関係からの逸脱でもなく(さもなければ多くの異性愛的行為は逸脱ということになるだろう)、またコミュニケーション性能からの逸脱でもない(さもなくば下手くそな誘惑は逸脱ということになるだろう)。倒錯とはある\ruby{標準}{ノルム}からの逸脱ではあるが、その問題の標準とはたんなる統計的なものである。もちろん、統計的に異例な性的行為のすべてが倒錯というわけではない{\DDASH}3時間にわたる性的行為は普通ではないだろうが、必ずしもこの言葉に必要な意味で異常だというわけではない。問題になっている\ruby{異常}{アブノーマル}さは、性的倒錯を構成する\kenten{欲望の形式}そのものに関連していなければならない。たとえば、他者との接触ではなく単に見ることに対する欲望、危害を加えることあるいは危害を加えられることに対する欲望、衣装などとの接触に対する欲望などがそれにあたる。性的異常という概念は、典型的な欲望にもとづいた正常なセックスという私の定義によって示唆される概念である。しかしながら、すべての通常的でない欲望もまたすべてが倒錯とされるわけではない。それを満足させようとする個人に、典型的な肉体的・性的な影響があるものにかぎられる。たとえば男性の勃起などのこうした影響は、性的欲望をもちいたセックスのもともとの定義には含まれていない。そうした影響は、性的であると適切に特徴づけられるような活動、たとえば快楽のためのキスなどのすべてに必ず伴っているとはいえないからである。しかし、倒錯的とされる活動の定義については、もっと密接に結びついているように思われる。(性器セックスだけが性的だと考える人々にとっては、そうした兆候を狭い方の定義に組み込んでしまってもよい。その場合は広い意味でのセックスも「\ruby{本来の}{プロパー}」セックスと呼ぶことができるだろう。★)

ソロモンとネーゲルは、倒錯についての統計的観念には同意しない。彼らにとっては、倒錯の概念は統計的というよりは評価的なものである。私は「倒錯的」という後がしばしば評価的に(そしてそのために純粋に情動的に)使われていること、そして、平均的な話者にとってはネガティブな含みがあることも否定しない。私が否定するのは、私たちが統計的に普通でない欲望という以外のなんらかの\ruby{標準}{ノルム}を見つけだして、それによって、性的な倒錯と正当にカウントされるような活動のすべて、そしてそれだけを特定できるという発想である。倒錯的なセックスは単に\ruby{通常的でない}{アブノーマル}セックスであり、かつ、もしその\ruby{標準}{ノルム}なるものが〔セックスとは〕異質な目的を理想化したり\ruby{恋愛物語化}{ロマンチック化}したものであるべきではないとすれば、それは人間の性的欲望が通常あらわれるその仕方を表現するものでなければならない。もちろん、他の領域での言説における\ruby{標準}{ノルム}のすべてが、このように統計的である必要はない。身体的健康は、比較的クリアな\ruby{標準}{ノルム}で、それは健康な人々の数に依存しないように見える。しかし、この場合の概念は、そのクリアさを、身体的健康と、他の明白に望ましい身体的機能や特徴、たとえば長寿などと結びつけることから得ている。セックスの場合は、統計的にアブノーマルなものは必ずしも他の点で人の能力などを奪うものではないが、そうしたアブノーマルな欲望とそれの主体に対する性的な影響は、その対象物が通常の対象物から逸脱する程度に応じて倒錯的であるとされる。こうした、異常さ・統計的逸脱とのつながりを越えた倒錯という概念の含みは、行為そのものの特定可能な特徴というよりはむしろ、ある種の行為を倒錯的と呼びたいという態度に由来するものである。こうした含みは、\ruby{異常}{abnormal}という概念に、標準\kenten{以下である}{\emph{sub}normal)}という概念をつけくわえるものだが、後者については、直観的に倒錯的だと呼びたい行為のすべて、そしてそれだけをまともなしかたで計る\ruby{標準}{ノルム}などは存在しないのだ。

セックスに関して、唯一の正当な評価的\ruby{標準}{ノルム}は、その行為における快楽の程度と道徳的諸\ruby{標準}{ノルム}であるが、どちらのスケールも、倒錯の度合いを計測する統計的な異常さの程度と一致するものではない。この三つのパラメーターは独立である(セックスの快楽は善であるが、必ずしも道徳的善ではない、ということ以上のことが言われようとしているのならこれは最初の二つのパラメーターについてもいえる★)。倒錯的なセックスは特定の人々にとっては正常なセックスより楽しいものかもしれないしそうでないかもしれず、またその参加者の特定の人間関係によって、より道徳的なものである場合もそうでない場合もあるだろう。羊をレイプすることは女性をレイプすることよりもいっそう倒錯的であるだろうが、より道徳的な非難に値するというわけではない\footnote{Michael Slote, “Inapplicable Concepts and Sexual Perversion”, Philosophy and Sex, 261-67.}。しかしながら、「倒錯的」という言葉にむすびつけられた評価的な含みは、ほとんどの人が倒錯的セックスをひどく不道徳なものだと考えているという事実に由来する。多くのそうした行為は、長年のタブーによって禁じられており、しばしば禁止されていることと不道徳なことを区別することすら難しくなっている。他の、サディスティックな行為のようなものは、純粋に不道徳であるが、しかしここでもまた、それがセックスや異常さに結びついているからなどではない。こうした行為を非難する原則は、それがありふれていたり非性的なものであっても同じように非難するものである。諸社会でごくありふれていると判明した慣習的実践を、倒錯していると正当に非難しつづけられるなどということはありえない。そうした行為が、もし有害なものであるならば、不道徳であると正当に非難されつづけることはありえあるが、ある行為の不道徳さは、その倒錯の程度に依存するなどといったことはありえないことは上に示した通りである。もし害がないとしても、アブノーマルだと思われていた害のないありふれた行為が、道徳主義的なマイノリティによってしばらくのあいだ「倒錯的」と呼ばれることはありえる。しかし、この言葉は、そうした〔害のないありふれた〕行為に適用されるときには、単に情動的にネガティブな含みしか維持しておらず、その適用に際しての整合的な基準はもっていない。それはたんなる偏見的な道徳判断を表しているだけである。

倒錯的な行為をそれほどひどく非難しようとする傾向があるのかを説明することは、心理学的な考察を必要とする事柄であって、この論文の範囲を越えている。その理由の一部はうたがいなく、抑圧的なセックス倫理の伝統とセックスについてのまちがった考え方にかかわっている。またその一部は、すべての異常さは、われわれの心を掻き乱すと同時に魅了もするという事実から来ている。前者はなぜ性的倒錯が他の種類の異常さよりも嫌悪感を誘うのかということを説明する。後者はなぜ私たちがそもそも倒錯に対して情動的・評価的な反応をする傾向があるのかを示してくれる。フロイト主義の流れによって示されているように、私たちの不安は自分では認めたくないような潜在的な欲望に由来するものかもしれない。しかしこれは心理学的な問題であって、私にはそれを判断する能力がない。心理学的な説明はどうあれ、ここでは、倒錯と本来的・整合的な道徳的評価の間の概念的つながりはいいかげんなものであり、ここでもまた、あやまったセックスの概念の手段-目的的理想化によって示唆させるものにすぎないということを指摘するだけで十分だろう。

こうした諸概念に反対すべく本論で私が採用した立場は、さして新奇なものではない。私の立場に似たものはフロイトのセックス観に似たようなものは見られるものであり、彼のものはもちろんまさに革命的なものだ。またフロイトに由来し現代にまでいたる大量の著作物にも見られる。しかし恋愛物語化され抑圧的な考え方を転覆するために、フロイトはあまりに遠くまで進みすぎた{\DDASH}セックスをたんなる手段とする見方を拒絶するところから、セックスをあらゆる人間の行動の目的、特に入念に偽装された目的、とみなす見解へと進んでしまった。この汎性欲主義は、けっきょくのところ、(特に)抑圧は社会的規制の不可避かつ必須の一部である、というテーゼにつながることになった。これは手段-目的的な見方の抑圧的な側面に対する反発からはじまったにしては奇妙な帰結である。おそらく、最終的には、私たちがこの領域でまずまず理性的な中間的な居場所に到達できる日が来ることだろう。社会ではともかくとして、少なくとも哲学的には。

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翻訳ゲリラ:C. L. テン「犯罪と刑罰」

C. L. Ten, `Crime and Punishment’ in Peter Singer (ed.), A Companion to Ethics (Oxford: Blackwell, 1993), pp.315-26の勝手なゲリラ訳。著作権等クリアしていません。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2018/08/ten-punishment.pdf

ソース

刑法は殺人、暴行、強姦、窃盗などのようなある形の種の行為を禁止するものである。犯罪者は刑罰を受ける責任があり、それはしばしば投獄などによる。何が刑罰を正当化するのだろうか。刑罰は剥奪行為であり、犯罪者から、彼自身が価値があるとみなしているもの{\——}自由や、罰金刑の場合は金銭{\——}を奪うことである。ふつう、こうしたものを人々から奪うことは正当化されていない。もし我々が有罪とされた犯人を罰することが正当化できるとしても、刑罰には限界がある。もし単なる万引き犯に10年の刑務所入りを宣告すれば、これはやりすぎであると思われるだろう。一方、もし冷血な殺人鬼がたった1週間のあいだ刑務所に入れられただけで釈放されるとすれば、これはあまりにも甘い刑罰であると非難されるだろう。しかし我々は様々な犯罪者について、どのようにして適切な量の刑罰を決めるのだろうか。

刑罰の理論には二つのタイプがある。功利主義理論は刑罰をその望ましい帰結によってのみ正当化する。刑罰はそれ自体で善いものとは見なされない。むしろ反対に、刑罰は犯罪者から当人が価値があるとみなす何かを剥奪することなのだから、刑罰そのものを単独で考慮すれば悪いものであると見なす。功利主義者はすべての種類の苦痛をそれ自体では悪いものとみなし、さらに大きな苦痛を防止したり、より大きな善をもたらしたりする場合のみ正当化されると考える。したがって、もし犯罪者に刑罰を与えることによって、彼が同じ犯罪を繰り返すことを防いだり、潜在的な犯罪者が同じような犯罪を犯そうとするのを防ぐことができるのであれば、刑罰は犯罪者への害をしのぐ望ましい結果をもたらすと言える。刑罰の主要な機能は犯罪を減らすことである。

二つの目のタイプの理論は応報理論である。この理論には様々な形態があるが、中心的な主張は刑罰が正当化されるのは、犯罪者が自発的に不正な行為を犯したからであるとする。犯罪者は自分がやったことに見合うだけ苦しむのが当然であり、それはその苦しみがよい結果をもたらすかどうかとは関わりがない。功利主義者とは違い、応報主義者は刑罰による犯罪者の苦しみをそれ自体では悪いものとは見なさない。罪のない人の苦しみは悪いものであるが、有罪の人間のそれに見合う苦しみは正義に適っている。

この二つの理論とも様々な批判にさらされている。功利主義者にとっての最大の問題は、刑罰は有罪の者にのみ適用されるべきであり、無実の者に加えられるべきではないことがないのはなぜかを説明することである。一方、応報主義者には、なにもよい結果をもたらさないにもかかわらず有罪の者が罰されねばならないのはなぜかを説明する困難がある。

ほとんどの法体系においては、刑法に違反した者だけが罰を受ける。しかし、もし無実の者を罰することが最善の帰結をもたらすのであれば、功利主義者はそうしなければならないように思われる。たとえば次のような例を考えて見よう。ある人種的あるいは宗教的なグループのメンバーによって、別のグループのメンバーに対して恐るべき犯罪がなされたとする。加害者を含むグループの無実のメンバーを犯罪者に仕立てあげなければ、被害者グループは加害者グループの人間を攻撃することになりそうである。二つのグループの関係を友好に保つにはすばやい刑罰が必要である。しかし犯人は見つからない。一方、無実のひとを犯罪者に仕立てあげる証拠をでっち上げるのは簡単である。

こうした反論に対して功利主義者は、長い目で見れば、無実の者を犯罪者にでっち上げ、罰することの悪い帰結は、短期的に見られるよい結果をしのぐだろうということを指摘して答えようとする。真実はいずれ判明するだろうし、正義の運用に対する信頼は破壊されてしまうだろう。無実の人々は、自分も将来、社会の善のために犠牲にされるかもしれないということを知ることになるだろう。

しかし、無実の者を罰することの望ましくない帰結に関するこの功利主義者の計算は、もしそれが正しいとしても、そのような刑罰に対する反論の意を十分に汲み取っていない。他人が行なった犯罪について無実の者を罰しないのは、無実の者を社会の利益のための手段として用いるのは不公平であり正義に適っていないからである。これが、例えば犯罪者の家族を罰することが重大な犯罪の発生率を下げると予想される場合にも、そのようなことをしない理由であると言えるだろう。

また、刑法で禁止されている行為を行なうことを避けられなかった加害者を罰することは不公平に思われる。したがって偶然や脅迫や精神的な疾病によって、害を及ぼした加害者は刑罰を減免されるべきである。功利主義者ならば、このような減免を次のような理由から正当化しようとするだろう。すなわち、このような場合に加害者を罰することは、法に従うように強制するためにはまったく不必要である、という理由からである。確かに、意図的に法を無視しようとする人は罰を受ける蓋然性を考えてそうすることを止めるかもしれないが、刑罰を与えられる事に対する恐れによって偶然法に違反してしまった人の行為が妨げられるわけではない。わたしの偶然的な行為は、わたしの意識的選択の結果ではなく、したがって私はそれをコントロールすることができないのである。

このような法的免責措置の功利主義的な正当化は、完全に満足の行く者ではない。免責を認めることは、意図的に法を破るような人々に偽りの弁明の機会を与えることになる。犯罪の増加に関して言えば、このような弁明を受け入れるコストは少なからぬものでありえるし、その利益がそのコストよりも大きいかどうかはそれほど明らかではない。

最後に、刑罰の功利主義的説明は害の重さに比例しないような刑罰を許すことになる。もちろん功利主義者は犯罪を罰しないことの結果よりも悪い結果を産み出すような刑罰を与えることを認めないだろうが、しかし、課せられるべき刑罰の量に関するこの制限は、比較的軽い犯罪の多くの潜在的な加害者を抑止するために見せしめとして重い刑罰を与えることは妨げないはずである。それぞれの違反によってもたらされる害は小さくとも、多くの犯罪による害の総計は大きなものになることがあり、それは、一人の加害者に加えられる苦しみよりも大きなものになるかもしれない。刑罰が、それが数多い加害者たちを抑止することによって妨げる害の総量に対して比例しているとしても、個々の加害者によってなされる現実の害には比例しないということになる。しかし、加害者は自分自身が行なったことにのみ責任があるのであって、他人が犯した行為については責任はないのだから、見せしめとしての刑罰を貸すことはやはり不公平であると言わねばならない。

これに対して応報理論は刑罰を自発的に法を犯したものにのみ限定する。というのは、そのような人々のみが道徳的悪行の罪があるからである。無実の者は罰されてはならない。なんらかの適切な事情によって法を犯したものも、行なったことについて責められるべきではない。私は偶然の事故によってなしたことについて道徳的に責任はないし、それについて罰を受けるには値しない。また、応報論者は当人の過去の悪行に基づいて刑罰を正当化するのだから、刑罰の程度はその悪行の程度によって変わる。人を意図的に殺した者はシャツを一枚盗んだ者よりも、重大な不正を行なったという罪があるのは明らかであり、したがって、殺人者は重く罰されるべきであり、一方コソ泥はそうではない。このような点については応報論は功利主義よりもすぐれているように見える。しかし、もし我々が応報論を受け入れるならば、有罪の者を罰するその論拠が明らかではないものになってしまう。なぜなら、この場合刑罰の目的は犯罪を減らすということではないからである。

次のような例を考えて見よう。我々が、犯罪者はその人の過去の行為のために、苦しむに値するということを認めるとしよう。このこと自体は、犯罪者を苦しめるために国家が刑を課すことを正当化するわけではない。なぜ、犯罪者が報いを受けることが国家の機能となるのだろうか?もちろん、国家は市民を保護するという機能を持っており、もし刑罰が犯罪を防止するならば、刑罰はそのような保護の機能となると言える。しかし、応報論は刑罰を正当化するために、刑罰の結果をあてにすることはできないのである。したがって、応報論は犯罪者を苦しめることを正当化するために、それが保護という機能を持っているということに訴えるわけにはいかない。また、犯罪者が、犯罪の結果によって、あるいは別の原因ですでに苦しんでいる場合もある。不法侵入犯は進入の際に足の骨を折ってしまっているかもしれない。武器の扱いに不慣れな強盗犯は自分の脚を打ち抜いてしまっているかもしれない。暴行犯は犯罪と無関係な病気で苦しんでいるかもしれない。彼らは刑罰によって苦しんでいるのではない。国家は刑を課すことによってさらに彼らを苦しめるべきであろうか?

このような難点を避けるために、犯罪者は苦しむに値するといった露骨な主張をしない応報論者もいる。彼らは刑罰を正当化するにあたって、犯罪者は法を尊守している市民から不公平な利益を得ており、それによって社会生活の利益と負担の正義にかなったバランスをくずしてしまっていると主張する。刑罰は、犯罪者から不正な利益を奪うことによって、正しいバランスを回復するのである。刑法はある種の行為を禁止して、市民それぞれが他人から邪魔されずに自分自身の目標を追求することを可能にしている。このような利益は、人々が禁止された行為を行なわないという自己制限の負担を受け入れている時のみ獲得できる。法を守っている市民はこの負担を受け入れているが、犯罪者は利益だけをとっている。例えば、泥棒は他人から所有物を盗まれないという保護を他の市民と同じように享受しているが、他人から物を盗んでいる。

このような理論は、犯罪者の悪行を不当な利益を得ていることとしてとらえる。しかし、これはしばしば誤解をまねきやすい。殺人者によってなされた不正は、主にその被害者に対するものであって、第三者に対するものではない。我々が殺人者を罰するのは殺人者が他の市民から奪った不当な利益を取り除くためではなく、第一には、より多くのひとが殺されることを妨げるためである。さらには、普通の市民は自己抑制の負担を受け入れているという主張は、普通の市民が法を破りたいという欲求を持っているということを仮定している。しかし普通の市民は、殺したり盗んだりしたいという欲求は持っていない。したがって、多くのケースで法律は自己抑制の負担などは要求していないのである。また、利益と負担が平等に配分されているかも疑わしい。ある種はその社会的環境によって、他の人々より犯罪の犠牲者になりやすい。また、貧者や搾取されている人々は、金持ちや利権を握っている人々よりも盗みを働かないためにより大きな制限を受けなければならない。

応報主義者は刑罰の社会的な影響を考慮に入れない。しかし例えば、思考実験として、何らかの事情によって刑罰が犯罪を増加させるというような事情になっていると仮定してみる。心理的に不安定な人は刑罰を受けたいと望むかもしれない。犯罪者は刑罰によって社会から疎外された意識をもち、それがかえって再犯を増やすなどということがあるかもしれない。このような場合には、功利主義者は刑罰に反対し、より効果的な犯罪対策を模索するだろうが、応報主義者はそれでもなお刑罰の存在を主張するだろう。この場合には、何も罪のない人が応報の正義のために犯罪の増加に苦しむということになってしまう。このような場合、刑罰が制度化されているのは誰の利益のためだろうか?もちろん、犯罪の犠牲者になるリスクが増える法を守っている人々の利益のためではない。なぜ無実の人が、応報の正義のために苦しまねばならないのだろうか。

功利主義と応報論の欠点を補うために、二つの要素を兼ね備えた混合理論を提出しようと試みがある。このような混合理論は、刑罰を制度化する目的は、功利主義的な犯罪の抑止であると主張するが、しかしこの目的の追求は、自発的に法に違反した者のみが罰され、その刑罰は犯罪の重大さに比例するという要求によって制限されるとする。誰が罰されるか、また、どの程度罰されるかに関するこの制限は、個人の公平性の要求によって指示される。つまり、個人は社会の利益のために用いられてはならない、というのである。一方、もし我々が自発的に法を犯した人が再犯を犯すことを防ぐため、あるいは潜在的な犯罪者を抑止するために罰を与えるならば、我々は彼らを不公正に扱っているわけではない。このような場合に罰を加えないならば、さらに無実の犯罪の犠牲者が増えることになる。自発的に法を侵した人は、犯罪行為を控えることができたのであり、それゆえ刑罰を与えられることを避けることができたはずであるが、刑罰を控えることによって生じる犠牲者たちは、犯罪行為によって犠牲になることを避けることはできないのである。

刑罰の理論は、死刑(特に殺人に関するもの)に関して現在さかんに行なわれている議論で重大な役割を果たしている。応報主義者は、適切な量刑を定めるに当たって復讐法に訴える。この原則は、刑罰は加害者が被害者に加えたものと同じ程度の者であるべきだというものである。「目には目を、歯には歯を」そして「命には命を」。死刑はそれゆえ殺人に対する唯一の適切な刑罰である。しかし、復讐法は不備な点が多い。復讐法は、加害者の心理状態を考慮することなく、ただ彼が行なったことにのみ注目する。意図的に生命が奪われることもあれば、事故や偶然による場合もある。例えば私利をはかるために殺すこともあれば、末期の病の苦しみから救うために殺すという場合もあるだろう。仮に復讐法を完全に意図的な犯罪にのみ限定するとしても、刑罰が犯罪を模倣する程度についても問題がある。殺人者は犠牲者を殺したのとまったく同じ仕方で殺されるべきだろうか。いずれにしても、復讐法を多数の加害者に対して適用することには無理がある。無一文の泥棒や、犠牲者の歯を折った歯のない強盗や、脱税犯はどのように罰するべきだろうか。

復讐法の欠点を意識して、もし応報論者が単に刑罰はその犯罪の重さに比例してく堕されるべきであると主張するのであれば、殺人者はそれより軽い犯罪者よりも重く罰されれば十分であるということになる。死刑の必要性はないことになる。

功利主義的観点からすれば、死刑が正当化されるのは、他の軽い刑罰より良い結果が望めるときということになる。つまり、死刑が投獄などの他の刑罰よりも優れた抑止力を持っているということが示されればよい。しかし、死刑がある国とない国、同じ国で死刑がある時代とない時代などを統計的に比較した結果、まだ死刑が他の刑罰より優れた抑止力を持っているという証拠はない。

しかしながら、この功利主義的アプローチは、無実のひとの命は犯罪者の命より重いと考える人々によっては退けられる。統計的証拠は、死刑が優れた抑止力を持っていないということを証明したわけでもない。もし死刑を存続させたと仮定して、後に死刑がよりよい抑止力ではないということが判明したとする。この場合、殺人者は不必要に処刑されてきたことになる。一方、もし死刑を廃止したときに、死刑がよりよい抑止力であるということが判明したとすれば、殺人の(無実の)被害者が増えたということになる。この二つを比較考慮した場合、前者の方が望ましい、というわけだ。しかしこの議論は受け入れられない。というのは、死刑に死ぬことは確実だが、死刑を廃止した場合に殺人が増えるかどうかは不確かだから。いずれにしても、死刑がある限り誤審によって無実のひとが処刑される可能性がある。このことは、死刑廃止の方に有利に傾むく要因になる。

近年、刑罰にかわり別の犯罪取締方法を用いるという試みが為されている。これらの試みが刑罰の特定の形態へ不平不満を反映する限りにおいてはそれらは歓迎される。みさかいない投獄は、超満員の監獄と言う結果になる。ある種の犯罪に対処するには、新しい想像的に富んだ刑罰の形態の探究が必要となるだろう。しかしこれらは、刑罰制度そのものの内部における変化について述べているにすぎない。より急進的な比判者は全体的な刑罰の制度を社会衛生のシステム、社会的弊害行為を減らすことにより効果的であるシステムに変えるように求めている。このような批判者にとっては、例えば故意に殺人を犯した人は厳しく罰し、しかし偶発的に、あるいはほかの理由によって殺人を犯した人は刑罰を免れるといった現在の刑罰制度には何かはっきりと奇妙な点がある。より多大な社会的弊害は意図的でない殺人——例えばあらかじめ考えられた殺人よりは交通事故——によって起こる。もし刑法の機能が悪しき心を罰するよりむしろ社会的弊害を防ぐこととであるならば、犯罪者がどほような心理状態にあったかは度外視して、また犯罪者の再犯を防止するという見地から考え得る処置を受けさせるべきでる。刑事裁判において有罪判決をするには、人が法で禁止された行為を犯したという事実だけで十分なのである。彼らの為したことに対して責任を持っている者のみが有罪であるとされる必要はない。有罪判決を受けた犯罪者は刑罰を与えられる。この後の段階になって犯罪遂行時における犯罪者の精神状態が考慮されるかもしれない。しかしそれはその人の責任の程度を決めるためではなく、適切な種類の処置(治療)を見つけるための参考としてなのである。この取扱いは犯罪の再発を防ぐことに向けられている。

しかし社会的衛生(無菌状態?)とでもいうべきシステムの主張することには納得するわけにはいかない。有害な行動を阻止したり、減少させるという目的を達成するのに最も効果的であるという理由からだけでは、犯罪に関する法は、いかなる方法によっても道徳的に正当化することはできないのだ。例を挙げるなら、広範囲に盗聴網を広げたり、プライバシイーに極度に介入し行動を監視することによっても、十分に犯罪を減らすことが可能であるに違いないからである。しかしそれにはコストがあまりにも高すぎる。また避けようがなかった、意図的でない罪のために人々を有罪としたり、強制的な治療に服させるのは、あまりにも不当なことである。もし、個々人の自由な選択とは関係のない行為について、法に干渉される可能性があるならば、人生を思いどおりにすることができなくなるだろう。わたしの意図的な行為が自分の為した選択の結果であるのに対して、私はいつ他人に偶然危害を与えることになるのか分からない。この場合にも判決の段階において、違反者が社会的な厄介者として扱われ、彼らの処遇は道徳的にとがめられる度合いに相応しいものに留めるする必要はないとして、正当な権利の保証もなく不定の期間拘置されることになるという危険がある。

ウィストン・チャーチルは「他のあらゆる支配体制がなかったら、民主主義は最も悪い支配体制なのである」と言った。刑罰を正当化しようという諸試みは似たような状況に直面している。刑罰の現在の形態においては、その制度を正当化することにいかなる倫理的理論も見られない。刑罰の理論を論議していると、競合する刑罰の諸理論は刑罰制度における異なる欠点を見い出し、別の相容れない変更が示唆される。話は移るが、現在我々が刑罰を実施していることは、本質的な社会の目的に適っているように思えるし、大まかではあれ、ある意味で、広く支持されている倫理的見解と両立できるのだから、刑罰の制定はこれからも続き、将来長きにわたって続いていくことについて十分な標を示すのである。

\section*{参照文献}

Conway, D. A., “Capital Punishment and Deterance: Some Considerations in Dialogue Form”, Philosophy and Public Affairs, 3 (1974), 431-43.

Hart, H. L. A., \emph{Punishment and Responsibility} (Clarendon Press, 1968).

Wooten, B., \emph{Crime and the Criminal Law} (Steven and Sons, 1981).

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翻訳ゲリラ:グレタ・クリスティナ「私たち、いまセックスしているの?それとも?」

「セックス」の定義に関する非常に有名なエッセイ。非合法訳だけどこれはあんまり心配してない。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-christina-having.pdf

ソース

\begin{document} \maketitle

\begin{framed}
Greta Christina (1992) “Are We Having Sex Now or What?”. 昔から有名なエッセイで、いろんなセックス哲学アンソロジーに収録されている。初出は David Steinberg (1992) \emph{The Erotic Impluse}, Tacher Press.
グレタ・クリスティナの自己紹介はここにある。 \url{https://gretachristina.typepad.com/about.html}。ライター、ブロガー、無神論者、LGBT活動家。 Wikipedia記事 \url{https://en.wikipedia.org/wiki/Greta_Christina}

\end{framed}

\vspace{2zw}

他人とセックスをしはじめたとき、私はその相手を数えていたものだ。何人とセックスしたのかを記録しておきたかったのだ。一生に何人とセックスをしたかということはある種のプライドやアイデンティティの源だった。だから、私のなかでは、レンが\ruby{一番}{ナンバーワン}であり、クリスは二番であり、もう名前を思い出すことができない、小柄なヘビーメタル狂のバルビツール中毒は三番であり、アランは四番だ、などなどということになっている。そうするうちに、新しい相手とはじめてセックスをしはじめたとき(そのころは男性としかセックスしていなかった)に、頭に思い浮ぶことが、「オーベイビー、君は私のなかでとってもいい感じ」や「こんなキモい奴と私はいったいなにしてんだろ?」や「退屈。テレビではなにやってるかな?」といったものではなくなっていった。私の頭に思い浮んだのは「七番!」だった。

こうしたことは興味深い結果をもたらした。私は数字にパターンを探そうとした。しばらくのあいだ私が立てていた理論は、4人ごとの恋人はベッドでとてもよい、というもので、しばらくのあいだ、この現象がもつ宇宙的な意義について思いをめぐらせていた。時には、私はセックスした相手の数によって、私自身がどういう人間であるかを決定しようとした。18才のとき、私は10人とセックスをした。そうすることによって、私は、正常であるのか、抑圧されていることになるのか、まったくの\ruby{ヤリマン}{スラット}なのか、自由を愛するボヘミアンになるのか、それとも別のなにかだろうか。私は自分の数を他の人と比べたわけではない{\DDASH}比較はしなかった。それは私だけの排他的構造であり、私の頭のなかでだけおこなわれるゲームだった。

そうこうするうちに、数字が少々大きくなってきた。数字というものはそうしたものだ。そして記録しておくのが難しくなった。最後に数えたのが「17」であったことは覚えているので、覚えきれなかった数字は「18」にちがいないのだが、そこで私は記録が正確なものかどうか疑いをもつようになった。夜横になってから一人で考えるのが好きだった。ブラッドがいて、それに誕生日の時の男がいて、デヴィッドがいて……いやまてよ、大学最初の週のコンパで酔っ払ったときの男がいる……それが七、八、九……午前2時に私はやっと数えあげた。しかし、誰かを数えそこねているかもしれないという疑いは晴れないままだった。自分の体のなかに招きいれてしまったのを忘れたいと思っている、みすぼらしくうすぎたないクズ野郎がまだ残っているのではないか。そんなうすっぺらな泡クズを忘れたいと同じくらい強く、私は数字を正確にしたかったのだ。

だが、私はさらに強硬になった。私はなにがセックスとして数えられ、なにがそうではないのかを問題にしはじめた。たとえば、ジーンとの場合がある。私は、ボーイフレンドのデヴィッドが浮気したために喧嘩していた。これはけっこうな出来事で、私と友達だったジーンはそれまで数週間私を狙っていて、私も彼をきちんと拒絶したわけではなかった。私はジーンの部屋に行き、デヴィッドについての不満をうちあけた。ジーンはもちろんとても同情的で、私の背中をなでてくれた。そして私たちは話をしてタッチして抱きしめあった。そして私たちはキスしはじめ、ベッドにいっしょに横になって、おたがいの体をなであい、その先はわかるだろうが、なにもかにもぐずぐずに、ベッドの上でころがり、まさぐりあい、こすりあい、もみあい、あちこちキスしあい、おしあいへしあい抱き締めあった。彼は実際には入ってこなかった。彼はそうしたがったし、私もそうしたかったのだが、私はボーイフレンドに操を立てていた。そこで私は言いつづけた。「ノー、それはだめ。イエス、気持ちがいい、ノー、それはやりすぎ、イエス、やめないで、ノー、もう十分」。私たちは服さえ脱がなかった、\ruby{いやはや}{ジーザスクライスト}!それはちょっとした夜ではあった。本当のところ最高の夜のひとつだ。しかし長い間、私はそれをセックスした日の一つとしては数えてこなかった。彼は中には入ってこなかったし、だから私はそれを数えなかった。

数ヶ月か数年後、寝転がりながらリストを考えときに、疑問に思いはじめた。ジーンをカウントしないのはなぜ?中に入らなかったから彼は数に入らないのだろうか?それとも、私のデヴィッドに対する道徳的な限界を維持していたから、我慢づよい、貞操堅固な殉教者的ガールフレンドとしての私の立場を守りつづけたからジーンはカウントされないのであり、もしジーンをカウントしてしまったら、傷つけられたとか、より優越していると感じることができなくなるからだろうか?

さらに数年後、けっきょくジーンとファックすることになり、私は深い安心をおぼえた。少なくとも、彼にははっきりした番号がついて、実際にカウントされることになったからだ。

その後、私は女性ともセックスしはじめた。そして、なんと、\kenten{そのこと}がシステムに穴を開けることになった。私はセックスをペニス-ヴァギナセックス{\DDASH}まあ、\ruby{挿入}{スクリュー}{\DDASH}と定義することによってリストをつくっていた。それはごく単純な区別で、ストレートな二値システムだった。入るか入らないか?イエスかノーか?1か0か。オンかオフか?たしかにこれはまったく恣意的な定義ではあるが、慣習的な定義でもあり、その背後には古代からの尊重すべき伝統が存在しており、男とやっているかぎりは、それを疑問視する理由はなかった。

しかし女性とのこととなるとむずかしい。なにもよりもまずペニスが存在しておらず、したがってそもそも最初から記録システムは欠陥を抱えていることになる。さらには、女性どうしがセックスする方法はたくさんある。さわったりなめたりグラインドしたり指を使ったりコブシをつかったり{\DDASH}ディルドやバブレーターや野菜や、その他部屋のそこらへんに転がっているものを使ったり、あるいは人体以外は使わなかったり。もちろん、女性と男性のセックスについても同じことは言える。しかし女性どうしでは、一つになることとして数世紀にわたった伝統とされる方法はないのだ。私たちが御互いをファックするときもディックは存在しておあらず、だから客観的に言って、「これが重要なことである、我々は今現在セックスをしているのだ!」そして他のことがらは前戯や後戯にすぎないのだ、といった感覚を得ることはできない。だから私が女性たちとセックスしはじめたとき、二値システムはお払い箱になり、もっと包括的な定義が求められることになった。

このことが意味するのは、私がそれまでセックスした人の数のリストは、完全にゴミ箱行きになった、ということである。それを維持するには、最初にもどってすべてを再構成し、ネッキングしたり着衣のままいちゃついたりした人々を含めるようにしなければならない。以前には少しも疑問をもつこともなかった、もっとも重要な「ナンバーワン」の地位を誰が占めるかという問題すら、再評価されねばならなかった。

この時点までに、私はリストに少し興味を失なっていた。それを再構成することは労多くして益が少ない。しかし、重要な問いは残っている。誰かとセックスするとカウントされるものはなんであるのか?

これは私には重要な問いだった。私たちはなにがセックスとされるべきかを知る必要がある。私たちが誰かとセックスすると、その関係が変化するからだ。\ruby{そのとおり}{ライト}?。\kenten{そのとおり}?それは、セックスそのものがものごとをそんなに大きく変えてしまわねばならない、ということではない。しかし、自分がセックスしたのかどうかを知ること、性的な繋がりがあることを意識すること、「私はこの人物とセックスをしたことがある」と考えながら礼儀正しい立ち話をすること、こういうことがものごとを変えてしまうのだ。いずれにしても私はそう信じていた。そして、もし友達とセックスをすることが、その友人関係を混乱させたり変化させたりするならば、自分が相手とセックスしたのかどうかがはっきりとはわからないということがいかに奇妙なことをもたらすのかを考えてみるがよい。

問題は、私がもっといろんな性的なことがらをするようになるにつれて、\kenten{セックス}と\kenten{非セックス}の間の境界線がさらにぼんやりしてはっきりしないものになってきたことだった。私が性的な経験にもっと多くをもちこむようになると、境界線に当たるものごとが私の注意をひくようになった。私が「セックス」として囲いこむテリトリーが広がったのではない。そのライン自体がふくれあがって広い灰色の領域に変化したのだ。それは国境線というよりは非武装地帯のようなものになった。

そこは生活するには奇妙な場所だ。悪い場所ではない、たんに奇妙なだけだ。それはジャグリングや、時計製作や、ピアノ演奏に似ている{\DDASH}完全に集中した意識と注意力を要求するなにものかだ。それは認知的不協和のようなものだが、快適なものでもある。それは真にせまったおそろしい悪夢から目覚めることに似ている。それは、いままで自分が知っていると思っていたことはまちがってるとわかったときに感じることに似ている。それはマジでいいことだ。そんなものは苦痛を与えるだけだし、馬鹿げているし、自分をめちゃくちゃにしてしまうからだ。

しかし、私にとっては、問いのなかで生きるということは当然答を探すことにつながる。私は肩をすくめて両手をあげて「クソ、答がわかったらなぁ!」などと言って済ますことはできない。財宝を持ち替えることができないとしても、誰も知らないフロンティアを探検する必要がある。だから、もしそれが不完全で暫定的なものにせよ、私は何がセックスでありなにがそうでないのかという定義をどうしても見つけたい。

私は、どういうときに自分がセクシュアルだと\kenten{感じる}のかは知っている。セクシーだと感じているとき、私のプッシーが濡れ、乳首がかたくなり、手のひらが湿って、頭に霧がかり、肌がひりひりしてとても感じやすくなる。尻の肉が緊張し、心拍が上がり、オルガスムを得る(明白な証拠だ)、などなど。しかし、誰かをセクシュアルだと感じることは、その人とセックスすることと同じではない。\ruby{なんてこった}{グッドロード}、もし私が誰かに魅力を感じ、相手も私をそう感じたときにときにそれをセックスと呼ぶならば、私はいまよりさらに混乱してしまうことになるだろう。誰かといっしょにセクシュアル\kenten{であること}は、その相手とセックス\kenten{をする}ことと同じではない。私はあまりにも多くの人々とダンスして\ruby{気のあるそぶりを交換}{フラート}し、あまりにも多くのセクシーで\ruby{誘惑的}{セダクティブ}かもしれない背中タッチを受けまた与えてきたので、セクシュアルであることとセックスすることは違うと考えないわけにはいかないのだ。

友達の一人が言うには、自分がセックスしていると思ったら、それがセックスだ、ということらしい。これはおもしろいアイディアだ。たしかに、このアイディアを採用すれば、歴史修正主義者のブタにならずに整合的な性的歴史を構築することができる。しかし、実際にはこれは論点先取になってしまう。私がそう思うならそれはセックスだ、というのはよい。しかしでは、それがセックス\kenten{である}と思うものはなんだろうか?もし、私がそれをしているときに、それがセックスに数えられるのかどうかに\kenten{疑いをもった}(wonder)ときにはどうなるのだろうか?

おそらく、誰かとセックスするとは、意識的で、同意の上で、おたがいに承認しあった、共有された性的快楽の追求でである。これは悪い定義ではない。私たちがお互いを興奮させ、それを伝え、そうしつづけるなら、それはセックスだ。この定義は広いもので、性器どうしの接触やオルガスムを越えた、多様な性的活動を含むことができる。また、十分判明(distinct)で、性的な知覚や興奮ならどんなものでも含めてしまうということは\kenten{ない}。またこの定義は、私が感じる諸要素を含んでいる{\DDASH}承認、同意、相互性、そして快楽の追求。しかし、一方がセックスには同意しているが、本当はそれを楽しんでいない状況についてはどうだろう?多くの人々(私を含め)は、満足にはほど遠く、本当はやりたくないような性的交流の経験があるものだ。そして、それが実際に私たちの意思に反して強制されたものでないかぎり、ほとんどの人はそれをセックスに分類するだろうと私は考える。

ひょっとすると、あなたたちの\kenten{両方}(あるいは全員)がそれをセックスだと思えば、あなたが楽しかろうがそうでなかろうが、それはセックスだ、ということになるかもしれない。これは、同意はされているものの望まれたり楽しまれたりはしていないセックスの問題を払拭できる。しかし残念ながら、これもまた論点先取になるか、あるいはさらに悪い。今度は、私たちは、なにがセックスでありなにがそうでないかについての、さまざまな人々のぼんやりとしてはっきりしない観念を重ねあわせて、オーバーラップする場所を見つけなければならない。これはやっかいすぎる。

セックスとは、意識的な、同意の上での、相互に承認された、関係者の少なくとも一人の性的快楽の追求である、という定義はどうだろうか。これは前のよりはましだ。上であげたキーになる要素をすべてもち、参加者の一人が性的快楽以外の理由{\DDASH}地位、自信、お金、自分が愛している人の満足や快楽、など{\DDASH}からそれをしている状況も含むことができる。しかし、もし二者の\kenten{どちらも}それを楽しんでいない場合はどうなるだろうか。たとえば、両方が、他方がそれをしたがっていると思いこんでいるからそれをししている、という場合は?うぐっ。

これは難しい。定番の発想{\DDASH}セックスとはインターコースである{\DDASH}にすら致命的な欠陥がある。それはレイプを含むものであり、これは私は受け入れることを断固として拒否したいのだ。私に関していえば、同意がなければ、それはセックスではない。しかし、私はこれは沼地でしがみつける唯一のもののように感じられる。この問題について考えれば考えるほど、疑問が増えることになった。出会いのどの段階で、それはセクシュアルに\kenten{なる}のだろうか。もし、非セクシュアルな交流がいずれセックスになるのだとすれば、それはずっとセックスだったのではないか?寝ている人とのセックスはどうだろう?一方はセックスしていて、他方はそうではない、という状況があるだろうか?どういう定義を考えてみても、その定義を疑問視することになる実生活の経験が思い浮かぶことになった。

たとえば、数年前、私は全員女性のセックスパーティーに参加した(実は私がホストした)。他に12人の女性がいるなかで、私が本気で身体的に\ruby{いやらしく}{ナスティに}なれたのはほんの少数だった。他の人と私はキスをしたりハグしたり下ネタを話したり単にスマイルしたり、あるいは彼女たちが本気で身体的にいやらしいことをしたりしているのを見るだけだった。もし私たちがそれぞれ別々にいたら、私はおそらく、自分がほとんどの女性たちとしたことは、セックスには数えられないと言うだろうと思う。しかし、この経験は、ホットでスイートで\ruby{馬鹿っぽくて}{シリー}とてもとても特別な経験で、私たち全員によって作りあげられたものであって、私が実際にやったのはごく少数だったけれども、私が感じるにはそこにいた女性全員とセクシュアルであった、と感じた。さて、私がそのパーティーに出た女性の一人と会ったとき、私はいつもこっそり疑問に思ったものだ。私たちはセックスしたのかしら?

たとえば、私がはじめてサドマゾキズムを経験したとき、私は本当にホットな女性といっしょになった。私たちはそのとき、そこで何をするのか、なにがOKでなにがそうでないかを相談した。彼女は、自分はセックスしたいのかどうかわからないと言った。さて、私たちはあらゆるプレイやゲームをはっきりプランした{\DDASH}スパンキング、ボンデージ、服従{\DDASH}私はこれらは性的な活動だとはっきり同定する。だが彼女の考えでは、\kenten{セックス}は性器の直接的接触であり、彼女はそれを必ずしも私としたいとは思っていない、というわけだ。彼女とのプレイはとてつもなくエロチックな経験となった。興奮をうながし、刺激的で、ほとんど耐えがたいまでに満足いくものだった。しかし、私たちはお互いの性器にタッチさえすることなく、一夜を過ごした。あれはセックスだったのだろうか?

たとえば、私は数ヶ月の間、\ruby{覗き部屋}{ピープショー}でヌードダンサーとして働いたことがある。ピープショーに行ったことがない人のために説明しておけば\footnote{訳注:映画『パリ・テキサス』で舞台になってましたね。}、それはこんな感じだ。客は、電話ボックスのような狭い暗い小部屋に入る。小銭を入れると、メタルのプレートが引き上げられる。客は窓ごしに、裸の女性が踊っている小部屋/ステージを見る。ある時、一人の男がブースにやってきて、私を見てマスターベーションしはじめた。私は彼の正面でしゃがみこんで、自分もマスターベーションしはじめた。私たちはお互いにんまり笑い、おたがいを見つめつつマスターベーションし、どちらもすばらしい時間を過ごした(私はマスターベーションにお金が払われているのではないと考えている{\DDASH}それはたいへんな仕事だ、しかしそうしなければならないひともいる{\DDASH})。彼が行ってしまってから、私は考えた。私たちはセックスしたのかしら?つまり、それが私の知っている誰かで、さらに、ガラスや小銭がなければ、私にはなんの疑問も浮かばなかったはずだ。相手から2フィートの距離に座り、相手がマスターベションするのを見る?うん、私はこれはまったく問題なくセックスと呼べる。しかし、このケースはちょっとちがう。知らない人だし、ガラスや小銭があるからだ。あれはセックスだったろうか?

私はまだ答を知らない。

\nocite{christina92:_are_we_havin_sex_now_or_not}

\renewcommand{\refname}{書誌情報}

\end{document} %———————————————————-–—

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翻訳ゲリラ:レイモンド・ベリオッティ「セックス」

Raymond A. Belliotti, `Sex,’ in Peter Singer (ed.), \emph{A Companion to Ethics} (Oxford: Blackwell, 1993), pp.315-26のゲリラ訳。

セックスと倫理の関係を論じたもの。古い。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/sex-belliotti.pdf


LaTeXソース

Raymond A. Belliotti, `Sex,’ in Peter Singer (ed.), \emph{A Companion to Ethics} (Oxford: Blackwell, 1993), pp.315-26

\section{はじめに}

よい生活におけるセックスの果たす役割についての問いは、古典的な哲学では中心的な問いであった。しかし、セックスにまつわる問いは、詩人や放蕩者によっては熱く議論されてはいたものの、次第に哲学者の間ではその意義が減じられていった。しかしながら、応用倫理学に対する近年の関心の高まりによって、セックスについての議論はふたたび正当かつ重要な哲学のトピックであると見なされるようになってきた。哲学者たちの性欲が昔よりも盛んになってきたのか、あるいは、セックスに対するオープンな社会的雰囲気に反応しているだけなのかは、想像するしかない。

この論文は、哲学者たちを悩ませている主要なセックスに関する問題のいくつをあつかう。性差(ジェンダー)や生殖の役割は自然的なのか、あるいは社会的に構成されたものか? 道徳的に許されるセックスは、たったひとつの機能しかもたないのか? それは異性間のものであるべきか? それは結婚という制度のなかでのみ行なわれねばならないか? どのような種類の性的行為が、どのような環境のもとで道徳的に許されるべきか?

ここで二つの警告がある。「道徳的に許される」というフレーズは、「道徳的に禁止されていない」を意味する。しあたがって、ある行為を道徳的に許されると分類することは、必ずしも、その行為が「道徳的に要求」されている、あるいは、「最善の行為である」「長い目で見たときにその人の最善の利益になる」などということを意味しない。さらに、この論文はさまざまな種類のセックスを、行為そのものの観点から考察するのであって、その行為が生みだすさまざまな帰結の観点から考察するわけではない。それゆえ、この論文は、性的な行為それ自体は道徳的に許されるように思われるが、それに付随する状況によって、その行為が第三者に極端に害のある帰結をもたらすといった特殊なケースを無視することにする。

\section{西洋の道徳的伝統}

\subsection{古代ギリシャの二元論}

紀元前6世紀頃、ピタゴラス派の人々は、死すべき人間の肉体と、不死の魂というはっきりした二元論を説いていた。ピタゴラス派は生命の合一を信じており、個々の魂は神的なもの、すなわち宇宙霊魂の断片であるとした。ピタゴラス派は、地上の人間は、宇宙霊魂に戻るための準備として霊魂を清らかに保つべきであると考えた。魂の「清め」は沈黙、瞑想、肉食を断つことを通して得られる。ピタゴラス派の主張によれば、個々の魂が宇宙霊魂に戻るまで、魂は肉体に閉じ込められており、輪廻転生を経験する。死が個別の魂と特定の肉体の統一を解消し、魂は、新しい身体(人間の場合もあれば他の動物の場合もある)に転生する。

ピタゴラス派は、魂の不滅、理性界における普遍の存在、人間の神との合一の準備としての哲学といったプラトンの教説に重大な影響を与えた。のちに、ストア派は自己統制と情念からの解放に基づく心の静寂という理想を建て、またエピクロス派は、激しい物質的欲望を抑制したりすることから生ずる心の平和を求めた。

このようにして、紀元前に二元論の種はしっかりと根づき、西洋のセクシュアリティの一つの流れ、すなわち\emph{禁欲主義}が現われた。禁欲主義は性的情念からの離脱と解放を求め、あるいは少なくとも性的欲望を理性へ服従させるよう勧奨した。肉体は不滅の人間の魂の牢獄であり、このような思想はしばしば世界は「真理」と「実在」の代用品でしかないという考え方をともなった。

\subsection{ユダヤ=キリスト教思想}

旧約聖書の支配的な見解は、性行為の喜びを強調し、多産を推奨し、結婚や親子関係は自然であるとみなした。家系の保存という動機によって、司教やイスラエルの王侯は一夫多妻制を実践した。新婚の男性は夫婦が結婚での性的喜びを享受するように一年間兵役を免除された。また、レビレート婚が認られており、子供がいない未亡人は夫の兄弟によって受胎することができ、その結果生まれた子供は故人の子孫とみなされた。ギリシャの二元論と禁欲主義と比べるなら、旧約聖書の性と物質的世界への態度は圧倒的に肯定的であった。

聖書に記されたイエスの性に関するごく少数の言葉は、姦通と離婚を非難している。しかし、けっして性的衝動を本性的な悪とはしていない。イエスは愛の法を説き、性や物質的世界は偶像としての役割を果たすときのみ、永遠の救済に対する障害として厳しく非難した。「貞潔」(独身)というキリスト教の理想を最初に表明したのは聖パウロであった。彼は貞潔を妨げる衝動をもつ人々に、結婚生活における長期の性的禁欲をしないように忠告した。しかし、彼は性はその他の世俗的事柄と同様に永遠の救済に従属すべきであると警告した。彼は旧約聖書の助言とは対照的な理想を建て、ギリシャの二元論的傾向に影響されていたが、性が本性的な悪であるとは主張していない。

キリスト教会が異教徒の改宗を試み始めると、ユダヤ教の影響は減少し、ギリシャの影響が強まった。グノーシス派の台頭とともに、処女性が徳となり、結婚は霊的弱者に認められることになった。聖アウグスチヌスは人々に瞑想という崇高な目的のために、肉体的喜びを排することを強く促した。この考えによれば、堕落以前のアダムとイブは激しい情念に汚されずに、心によって制御されていた。原罪とともに激しい性的欲望が生じ、肉体の制御が失われた。したがって、性的欲望はその起源のゆえに悪で汚染されたと考えられた。さらに、原罪は性交渉を介して後の世代に伝播すると考えられた。ここから、処女受胎の要請が生ずる。すなわち、イエスが原罪から自由であるのは、性行為を介して生まれなかったからに他ならない。貞潔が最高の理想として再認され、結婚における性行為は種の保存のための必要悪と見なされた。それは子供を望むことに動機づけられるなら、その本性からして生殖を妨げない行為によって実施されるなら、適度に品よくなされるなら、道徳的に許される。数世紀後、トマス・アクィナスはアウグスチヌスの性に関する説明を繰り返したが、結婚生活における肉体的快楽と喜びに関する彼の嫌悪をある程度和らげた。

ルターはアウグスチヌス-トマスの立場の多くに同意したが、貞潔を理想とすることに反対した。ルターは性的衝動から解放された人はほとんどいないこと、また神は少数者ではなく、すべての人々に結婚を義務として求めたことを認めた。カルヴァンは貞潔=理想という主題を繰り返し、ふたたび結婚生活における性行為は制限されるべきであり、品位がなければならないと主張した。生殖がプロテスタントの宗教改革者にとって性の積極的機能であり続けた。

ローマ・カトリックの性に関する立場は、『性の倫理の諸問題に対する宣言』 (1975) に至る数次の教皇回勅によって確認されている。すなわち、性行為が道徳的に許されるのは、結婚の下で、故意に人間の生殖と両立不可能にされない場合のみである。結婚制度の外で生ずるすべべの性行動 (たとえば、姦通、乱交) と、故意に人間の生殖と両立不可能である性の表現 (たとえば、自慰、同性愛、口腔および肛門性交、避妊具の使用) は不自然であるから、不道徳であると非難される。

\subsection{キリスト教の立場への批判}

こうした立場は通常はその基礎をなす前提のために批難される。人間本性の非歴史的概念、自然にお ける性に固有の位置に関する変わることのない制限された見解、家族の容認可能な一形態を特権化す る見解、人間の性行為の役割に関する狭い見解である。人類にとって何が「自然」であるかについて 主張する人々は、人間本性の客観的分析から道徳的理論を導くよりも、しばしば我々はいかに振る舞 うべきかに関する彼ら自身の先入見に対応する諸要素を我々の本性から選び出すように見える。なぜ 生殖を目的とする結婚内の性行為は、快楽を目的とする結婚以外における性行為よりも人間本性に合 致するのか。

\subsection{愛と親密さ}

古典的立場の基本的見解を発展させる一つの仕方は、愛と親密さの経験において生ずるなら、性は道 徳的に許されると主張することである。ヴィンセント・パンツォ『反省的自然主義』とロジャー・ス クラットン『性的欲望』は形式的結婚という制限を除去し、それを相互の信頼の必要性、受容、内奥 の思想の共有という深い関係で置き換える。愛や親密さは通常は成功した結婚の一部分であるが、論 理的に結婚にとって必要でもないし、それに限定されない。

そのような立場は、主として次の二つの主張によって支持される。第一は、性は人間の活動の頂点で あって、人格の我々の存在にもっとも近い諸側面を反映するという主張であり、他は愛を伴わない性 行為は人格を汚し、遂には人間人格を断片化するという主張である。このアプローチは機械的で、場 当たりの性交渉のもついわゆる非人間的結果を退け、性交渉を人間的自我のもっとも親密な身体的表 現として賛美する衝動に生気づけられている。我々の実存の全一性 (integity) に対する独自の効果 のゆえに、それは特別な関心に値する行為である。

このアプローチにはさまざまな修正がある。ある者は愛と親密さという要件は排他的であり、道徳 的に承認できる性交渉はただ一人の人格との間に限られると主張する。他方、人間は同時に複数の人 間を愛する能力をもつから、性交渉は排他的ではなく、同時に複数の愛の結合が道徳的に許されると 主張する者もある。

\subsection{愛と親密さへの批判}

愛と親密さのアプローチは、実存の全一性や心理的開花のための性的活動の重要性を過大評価し、普遍化しているという批判がある。第一に、多くの人々が愛を伴う性交渉の範囲を逸脱していることは明らかであり、またこのような人々は非人間化とか心理的崩壊という結果を必らずしも示さない。第二に、愛のない性交渉が実存の断片化に至るとしても、そうした性的関係が道徳的に許されないことは帰結しない。我々は必ずしも実存の全一性を促進する行為をなすように道徳的に要求されないから、 そこから帰結するのは、愛のない性行為は戦略的に不健全であり不謹慎であることにすぎない。「道徳」の領域は私の「最大の利益」の領域と重り合わない。人は自分の最大の利益を促進するすべての行為を、またそれだけをなすように道徳的に要求されているのではない。最後に、愛や親密さは人間人格の重要な側面であるが、それらがつねに優先することは明らかではない。我々は、愛や親密さを伴わないが、価値のある多くの活動に従事している。なぜ性行為はそれらと異なっていなければなら ないのか。性行為は人間人格に深く必然的に結びついていると答えるなら、その結びつきは非歴史的事実なのかと問うことができる。愛と親密さなしの快楽は、多くの人にとって性行為の正当な目的ではありえないのか。実存的全一性に対する性行為の重要性は生物学的事実なのか、それとも社会内部の下位集団による社会的構成物にすぎないなのか。

\section{契約論的アプローチ}

契約論者のアプローチは、性交渉は人間の他の行為と同じ規準で道徳的に評価されるべきであると主 張する。したがって、彼らは相互的で自発的で、十分な情報を与えられた同意の重要性を強調し、性 的多様性を人間の自由と自律の認知として寛恕することの適切さを強調した。たとえば、R. ヴァノイ 『愛のないセックス』は性を大胆かつ頻繁に行使されるべき価値ある賜として描く西洋思想の一つの 流れ (ラブレー、ボッカチオ、カザンザキスなど) の影響を受けている。他方、他の契約論者は性は 慎ましく賞味されるべきであるという古い見解に同意する。

\subsection{リバタリアンの見解}

リバタリアンの立場は、契約の権利を人間の自由の尊厳に不可欠と見なす。したがって、性行為は相 の自発的で十分な情報を与えられた同意をもって行われるなら、またその場合にのみ、道徳的に許 される。リバタリアンにとって、もっとも価値のあることは自由と自律である。したがって、ある特 定の性的関係を強調し、受け入れることのできる性行為を特定の範囲を限定することは抑圧となる。 道徳的に容認可能な性行為のテストは単純である。すなわち、当事者が暴力、欺瞞、脅迫なしに特定 の性的関係を自律的に選択し、自発的にそれに同意するのに必要な基本的能力をもつか、である。反 対に、一方あるいは双方の当事者がこうした能力を欠いているなら、道徳的に許されない。

\subsection{リバタリアンに対する批判}

リバタリアニズム (libertarianism、自由尊重主義) の最大の弱点は、契約という領域で起こる数多く の道徳的歪曲を無視することである。契約の当事者達は根本的に不平等な交渉能力をもつ。一方は、 困窮状態という抑圧の下で取引するかもしれない。あるいは、その契約は人間人格を構成する重要な 属性をたんなる商品として扱うかもしれない。こうした歪曲が特定のある契約が本当に道徳的に許さ れるのかという疑問を招く。契約の存在そのものが道徳的に自己立証的ではない。すなわち、契約が 「自発的な同意」を介して存在することを知るとしても、その契約の条項は果たして道徳的に許され るのかという問いが残る。リバタリアンの立場は自発的な契約上の相互関係が道徳の完全性を含む場 合にのみ成立し得る。

ロッコは貧乏だが正直な理髪店の息子であり、彼の家族は生活の必需品に事欠く状態にある。彼はさま ざまな仕方で生活資金を得ようと試みるが、うまく行かない。ロッコは隣人のヴィトが奇妙な嗜好をも つことを知る。ヴィトは裕福だが残酷な男であり、右手の中指を切らせてくれるなら、5000ドルと医 療費を払うという。細かい条件について交渉した結果、彼らの取引が成立し、ロッコは5000ドルを手に 入れたが、指を一本失なった。

この契約は暴力も欺瞞も脅迫もなしに自発的に合意されたと考えられるが、多くの人々はこうした契 約を非道徳的と主張するだろう。ヴィトはロッコの過酷な状況、弱さ、完全な絶望を不当に利用してい るからである。さらに、双方ともにロッコの身体の一部をたんなる商品のように扱っている。 ヴィトはロッコに危害 (harm) を与えた[彼らの相互行為は他者危害排除の原則に反するので、契約 と見なされない]から、リバタリアンはこのような反証例を回避できると反論されるかも知れない。 しかし、この反論は説得的ではない。なぜなら、リバタリアンは中指の損失と5,000ドルの収益が危害 に当たるか否かの判断をロッコに委ねている。リバタリアンにとって、同意は他者危害排除原則を無 効にするから、ヴィトはロッコの危害を受けないという消極的権利 (negative right) を侵害したと 主張することはできない。リバタリアンは道徳の重要な側面、すなわち個人の自由と自律という概念 を認識しているが、それらが道徳性全体を構成するかのように誇張する。

\subsection{カント主義的修正}

上述の反論に答える一つの方法は、リバタリアンの見解をカント的原則「他人を自己の目的に対するたんなる手段として扱うことは道徳的に不正である」で修正することである。この試みは、R. ベリオッチ『性倫理の哲学的分析』に見られる。カントの格率は、各個人が被害者を客体化する、すなわち、他人をたんなる事物や道具として扱い、自己の目的のために操作し利用するなら、彼は非難に価することを意味する。他人に危害を加えることは、彼に固有の価値を否定することであり、彼を目的自体として、経験の平等の主体と認めないことである。人間人格を構成する重要な属性を、あたかも市場で売買される商品であるかのように扱うことは、広い意味において搾取の一例である。ここに、リバタリアンの理解できない重要な洞察、契約は道徳的に自己立証的ではないという洞察がある。したがって、カント主義者のアプローチでは、性行為は詐欺、約束違反、不当な強制、搾取を含むなら非道徳的である。

このアプローチは性的関係の本性を契約に求め、相互性の概念を含むことを認める。二人の人間が自発的に性的結合に同意するとき、彼らは自己の欲求と期待に基づいた相互的義務を生み出す。我々は自己自身で達成できないある種の欲求、たとえば生殖への衝動、快楽への欲望、愛と親密さの切望、他人による正当化の願望などを達成するために他人と性的関係をもつ。また、性的活動の道徳的評価は、他の人間の行為を評価するのと同一の規則と原則による。ここには、「道徳的なもの」と「打算的なもの」の領域を合体させようとする試みはない。ある行為が道徳的に受け入れられるという主張は、それを追求することが望ましいを含意しない。言い換えれば、ある行為が道徳的であることは、その行為を追求すべきか否かを決定する際に使用されるべき唯一の規準ではない。ある行為は道徳的に承認できるが、それは当人の最善の長期的利益ではない、我々の嗜好に反する、我々をいっそう価値ある努力から引きなすという理由によって、戦略的に不健全であるかも知れない。

\subsection{カント主義的修正に対する批判}

このアプローチは性的関係を企業間の取引に固有の冷たい利益計算に解消する。契約の範囲をそのような親密な領域にまで適用すべきではない。実務的な契約と異なって、性的契約が明示的に文章化されることはない。我々は契約が成立するのは何時か、どんな合理的期待が可能であるのかを知ることができない。どうして性的関係は道徳的に承認され、しかも我々の最善の長期的利益と幸福に反することができるのか。「搾取」という概念は柔軟すぎて曖昧である。「他人を利用することは不正である」とか、「構成的属性を商品として扱うのは不正である」という曖昧な標語は、道徳的評価の指針として価値がない。

\section{政治的左翼からの挑戦}

マルクス主義者とフェミニストは、人間関係の本性の分析に基づいて他のアプローチを批判し、西欧諸国で支配的な社会における純粋に平等な性的関係の可能性を否定する。

\subsection{古典的マルクス主義}

エンゲルスは『家族、私有財産、国家の起源』で、ブルジョワ家族では妻は安価な家事労働と社会的に必要な仕事を提供し、資本家の財産の適法的な相続人を生むように期待されるのに対して、夫は賄いつきの宿を提供すると観察した。この交換は女性の側の夫婦間誠実の必要性を説明し、家族内の男性特権の存在の経済的基盤を与えると考えられた。ブルジョワ家族は資本主義の土台である私的利益に基づいて考えられた。ブルジョワ女性は資本主義社会では公共の職場から排除されているから、男性に経済的に結合することを余儀なくされた。夫婦間の性的関係では情緒的で人格的な愛情が作用すると考えられるが、それは事実上一連の商取引に解消され、そこでは相互の契約に基づく利益が交換される。したがって、商品というレトリックは資本家の生活の内的で私的な聖域に浸透している。

エンゲルスによれば、ブルジョワ家族における性行為は売春の一形態であり、不道徳である。なぜなら、その起源は権力者による非抑圧者の経済的搾取にあり、その結果は女性の深奥の自我を構成する属性の商品化である。ブルジョワ家族の悪弊を解決するには、家事労働の社会化、女性の公的領域への完全な包摂が必要であり、階級区分や経済的搾取の温床である資本主義体制の解体なしには不可能である。資本主義社会では十分な情報を与えられた同意が、経済的生存の必要のために汚染されている。「相互の合意」や「相互的利益」という報告は、資本主義的唯物論の虚偽意識に由来する幻想かもしれない。当事者がある程度の平等という規準を共有し、経済的必要によって動機づけられず、彼らを構成する属性を商品として扱わないなら、性行為は道徳的に許される。しかし、こうした条件すべてが資本主義の除去を要求する。

\subsection{マルクス主義に対する批判}

古典マルクス主義による性の説明に対する批判は、虚偽意識に関するマルクス主義の説明、その搾取の起源に関する歴史的解釈、資本主義経済に関する理解、さまざまな社会階級の関係に関する描写に対する一般的な不満に収斂する。しかし、こうした批判の十分な紹介や分析は別項に委ねる。

\subsection{フェミニスト的見解}

A. ジャガーは『フェミニストの政治学と人間の本性』で、社会的フェミニストの立場からマルクス主義は経済的基盤での女性の抑圧を強調しているが、女性の抑圧、すなわち男性による攻撃と支配の真の起源を明らかにしていないと主張する。資本主義の経済機構が除去されても、社会主義諸国においてそうであるように、女性の地位は実態として何ら変わらない。資本主義社会で労働者の受ける搾取と、女性が受ける抑圧を区別しなければならない。ジェンダーの不平等は経済的原因によって十分に説明されない。彼女はこう指摘する。

自然法的および契約論的説明も否定される。C. マッキノン『真正フェミニズム』は、伝統的説明の基礎をなす「自然法」と「自律的な選択」の概念には致命的な欠陥があると主張した。マッキノンのような急進的フェミニストは、社会的に構築された性役割は女性が自己の欲望と必要を識別し、育成することを極端に困難にしていると主張する。女性は自己自身の価値を証明し、社会的に作り出された彼女の義務を果たすために、男性の性的欲求と必要を満たすように社会化されている。男性の支配や女性の服従は性行動に関して受け入れられた規範であり、男女両性の相互の役割を一般的に定義する。自然法に依るキリスト教徒が誤っているのは、我々の性的欲求や必要は主として社会的条件づけの問題だからであり、十分な情報を与えらえた同意を信頼する契約論者の信念が瞞着であるのは、同一の社会的条件づけが女性の機会や選択の範囲を制限し、女性の社会的位置と男性との関係について虚偽意識を育てるからである。

マッキノンのようなフェミニストは性行動の政治的含意を暴露し、性現象を根本的に考え直さないかぎり、女性はつねに男性に従属し続けるであろう結論する。もっとも急進的なフェミニストであるレズビアン分離主義者は中道穏健体制において推奨される性的活動、たとえば既婚者の、異性愛の、一夫一婦制の、生殖-出産の、限定された関係内、などの性行為に懐疑的な傾向がある。多くのフェミニストはこのように注意深く定義された性的活動は、直接的に女性の政治的隷属を助長すると考える。G. ジョンストンは『レズビアン国家』で分離主義の立場から、政治的言明をなし、男性の抑圧を超越する一手段としてのみ女性間の性行為を承認する。

道徳的に許される性行為に関して、フェミニストの間の見解に一致は少ない。男性支配と女性服従という伝統的役割がないなら、女性が自己の性別によって政治的犠牲者とされないなら、女性が自己自身にアクセスする権力と制御の能力をもつなら、性行為は道徳的に許される。どのような事件がこうした条件が達成されたことを示すのか。この点で、見解の不一致が露呈する。男性と女性を完全な分離。女性の側の異性愛の放棄。女性の身体を商品化しないこと。子供の出産と養育という基本的に不平等な役割から女性を解放するための生物学的革命(たとえば人工出産)。男性からの経済的独立。家事と社会的奉仕を提供する女性に報酬を払うこと。「男性の仕事」と「女性の仕事」という区別の廃止。女性が公的領域に完全にアクセスすること。

\subsection{フェミニズムに対する批判}

フェミニズム批判はしばしば特殊である。穏健なフェミニストや非フェミニストは、レズビアン分離主義者の主張する女性の男性からの完全な分離は不必要であり、そうした態度は女性の選択肢を制限し、搾取に基づかない異性間の性行為に携わる理論的可能性を否定すると主張する。それは男性を本性的に抑圧と搾取以外には何もなしえないかのように描き出す。非歴史的な人間本性という観念の批判から始まったのに、結局はそうした観念に終わるから、分離主義者の見解は誤りである。

いっそう一般的な批判は「自由な同意」という概念とフェミニストによる「虚偽意識」という概念の革新に焦点を当てる。フェミニストのなかには、女性は男性支配の社会で犠牲になり、長期にわたって条件づけられているので、十分に情報を与えられた同意の能力がないと主張する人もいる。しかし、こうした譲歩はパターナリズムの正当化として使うことができる。また、女性が男性との性的関係から満足感や達成感を報告するなら、その内容があるフェミニストの基本理論とは異なるという理由だけで、自動的に虚偽意識から生ずるとして機械的に非難すべきではない。

なぜ我々は性的役割が人格性 (personhood) や女性性 (womanhood) にそれほど本質的であると想定すべきなのか。フェミニストは、性的活動は女性の内奥の存在ともっとも重要な構造的属性に密接に関わるという仮定を立てた。しかし、そうした事実は、生物学的必然性なのか、あるいは男性支配の社会が作り出した人工物なのか。どのような原理的な仕方で、我々は通常の賃金労働に携わる構造的属性と性的活動において活性化する構造的属性を区別できるのか。もし区別できないなら、マルクス主義が賃金労働も性行為も商品化されるべきではないと考えたのはおそらく正しい。あるいは、契約論者が労働も性行為もある条件の下では商品化されると考えることも正しい。

最後に、政治的自由主義者は次のように論ずるであろう。公的機会が徐々に女性に開かれている。家事や子育てに対する公平な資源配分や福祉介護センターに関する社会的意識が高まっている。早期の教育と社会化が性的平等にいっそう適合する。女性の社会的政治的権力に参加する機会が増加している、と。自由主義者には、これらが異性間の性的活動が搾取、商品化、同意の欠落を必然的に伴うのではないことの証拠である。

\section{むすび}

性道徳に関してもっとも説得的な立場は、おそらくカントの格率によって修正されたリバタリアン・モデルに基づくそれである。しかし「搾取」を古典的マルクス主義の経済的強制に対する感受性と、フェミニズムのいう男性の抑圧の残滓との関連で定義する場合には特に注意を必要とする。

このアプローチは以前に提起された批判の幾つかに答えることができる。性的相互関係に関する契約論的原則は、相互の必要と欲望が満されるという期待に基づく自発的同意に由来する。親密の感情が性的相互関係と通常の実務的相互関係を区別するが、このことは性行為が契約的でないことを証明しない。むしろ、それは性的相互関係が我々のなすもっとも重要な合意であることを示している。また、性的な出会いは通常は実務的契約ほど明示的ではないが、特定のコンテキストに基づく合理的期待の概念が我々を指導するに違いない。さらに、この立場では「道徳」の概念と「幸福」の概念の外延は同一ではない。もし我々が道徳的に許される行為のみを行うなら、ある程度の幸福が確保されると考えるが、このことは保証されえない。幸福の達成には多様な身体的物質的なものが必要であるが、それらは道徳的な行為そのものからは生じない。

他方、異論あるいは反論の余地は多数残されている。第一に、「搾取」は自己遂行的概念ではない。「他人を手段として利用する」、「自己自身の構造的属性を不法に商品化する」、「他人を客体化する」という表現の趣意は、一般的な社会的政治的理論によって与えられるべきである。批評家たちは、カント主義者はしばしばこのような言葉をその魔法の意味がすべての人に直観的に明らかである呪文として使用する。たしかに、この立場は以下の事例を搾取の図解と見なす。他人の選択肢が制限されていること、絶望的状況、差し迫った欲求を利用すること。力の差を利用して相手の同意を得ること。詐欺やさまざまな身体的・経済的強制によって、他人の自発的あるいは十分な情報に基づく同意を覆すこと、である。しかし、「搾取」に関するこうした説明でさえそれ以上の詳しい説明を必要とする。もしカント主義者が搾取の概念を解釈する際に過度に先走るなら、彼らはごく当たり前の賃金労働契約を不法として裁定し、排除するマルクス主義の立場に位置を占めることになる。というのは、賃金労働者は選択肢が制限され、部分的には彼らの基本的必要を満たすために働くのに対して、雇用者は交渉能力において有利な立場を占めるからである。

さらに、ある当事者が他の当事者よりも有利であると論ずるとき、カント主義者は「正当な説得」、「不正な操作」、「暗黙の経済的強制」を適切に区別すべきである。おそらく、どのような当事者もつねに説得の技法、論証の専門的能力、個人的カリスマ性において不平等である。このような属性は内在的な優位とイデオロギー的歪曲の源泉なのか、あるいはたんに合理的説得の合法的な道具なのか。このようにして性道徳に関する問いは社会関係に関する一般的問題に繋がるのである。

\section*{参照文献}

\begin{itemize}
\item Aquinus, Thomas, \emph{On the Truth of the Cathoric Faith}, trans, V. J. Bourke (New York; Doubleday, 1956) , Book 3, Providence, Part 2.

\item Augustine, \emph{Of Holy Virginity and On Marriage and Concupiscence}, In Fathers of the Church, ed. R. Defferari et al. (New York, 1948-)

\item Belliotti, R. A.,`A Philosophical Analysis of Sexual Ethics,’ \emph{Journal of Social Philosophy} 10 (1979) , pp.8-11

\item Engels, F., \emph{The Origin of Family, Private Property}, and the State (New York; International Publishers, 1972)

\item Johnstone, J., \emph{Lesbien Nation: The Feministe Solution} (New York: Simon and Sdhuster, 1974)

\item Luther, M., \emph{Lettre to the Knights of the teutonic Order}. In Luther’s Works, ed., J. J.pelocan and H.T. Lehman (St Louis, 1955)

\item MacKinnon, C. A., \emph{Femistm Unmodified: Discourses on Life and the Law} (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1977)

\item Punzzo, V. C., \emph{Reflective Naturalism} (New York: 1969)

\item Sacerd Congregation for the Doctrine of the Faith, \emph{Declaration on the Sexual Ethics} (Vatican City: 1975)

\item Scrunton, R., \emph{Sexual Desire: A Moral Philosophy of the Erotic} (New York: 1986)

\item Vannoy, R., \emph{Sex Wihtout Love: A Philosophical Explanation} (Buffalo: Prometeus, 1980)

\end{itemize}

\section*{Further Readings}

\begin{itemize}
\item Baker, R. and Elliston, F. (eds.) , \emph{Philosophy and Sex Ethics} (Buffalo: Prometeus, 1984)

\item Cole, W. G., \emph{Sex in the Christianity and Psychoanalysis} (New York: Oxford University Press, 1955)

\item Hunter, J. F. M., \emph{Thinking About Sex and Love: A Philosophical Inquiry} (New York: St Martin’s Press, 1980)

\item Jaggar, A. M., \emph{Femist Politics and Human Nature} (Totowa, Nj.: Rowman and Little Field, 1983)

\item Soble, A. (ed.) , \emph{Philosophy of Sex} (Totowa, NJ.: Rowman and Littlefield, 1980)
\end{itemize}

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翻訳ゲリラ:ジェンダー役割

(Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005のp.175からの項目を江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com が勝手に訳したもの。著作権クリアしておいません。版も古いです。)だれかいっしょに訳出しませんかね。出版社はどこに相談したらいいかなあ。医学系のところじゃないとだめだわね。


ジェンダー役割とステレオタイプ

「どうして女はもっと男のようになれないだ?」読者はこんなふうにため息をついている、『マイ・フェア・レディ』でヘンリー・ヒギンズ教授の歌詞の一部を思い出すかもしれません。歌のなかで教授は、女性は感情的で気まぐれで、男性は論理的で頼りがいがあると嘆いています。「感情的な女」はステレオタイプです。「論理的な男」もまたステレオタイプです──ただし女性に対してのものよりは寛大ですが。感情さえもステレオタイプ化されています。人々の想定によれば、女性は男性よりも恐怖や悲しみや同情を経験しやすく、男性は女性よりも怒りやプライドを経験しやすいということになっています(Plant et al., 2000)。

Q: ステレオタイプとジェンダー役割とはなんでしょうか?

ステレオタイプとは、ある人々のグループに対する固定化した、因習的な──そしてしばしば歪んだ──考えです。性割り当て──自分を男性と思うか女性と思うか──がそのまま、私たちの文化で男性的だとか女性的だとか考えられている役割や振舞いを決定しているわけではありません。文化には、ジェンダー役割と呼ばれる男女のパーソナリティーや振舞いについての期待が含まれています。

ステレオタイプ的に女性的な役割には、やさしさ、依存的であること、親切さ、人の助けになること、忍耐、従順であることなどが含まれます。男性的なジェンダー役割のステレオタイプは、タフさ、紳士的であること、誰かを守ることなどが含まれます。女性は一般に温かく感情的であると見なされています。男性は独立心があり、自己主張をし、競争的であると見なされています。時代は変わっています──少しは。私たちの社会の女性は現在、男性と同じ程度に労働力になっています。しかし女性は一般に子どもの養育や家事の第一責任者であると一般に考えられつづけています。30ヶ国での調査によれば、こうしたジェンダー役割のステレオタイプは広く見られます(Williams & Best, 1994; 表6.1参照)。

ステレオタイプ的な見方をすることの結果の一つはセクシズムです。次のセクションで見ます。

セクシズム

私たちは皆セクシズムの影響に出会っています。

Q: セクシズムとは何でしょうか?

セクシズムは、性を理由にしてある人がなんらかのネガティブな特性をもっているとする先入観(prejedgement)です。そしてこうしたネガティブな特性からして、ある人はある種の職業につく資格がないとか、仕事やなんからの社会的状況でそのひとは十分うまくやることができないと想定されてしまいます。

セクシズムによって、私たちは同じ振舞いでも、男性によっておこなわれるときと、女性によっておこなわれるときで、先入観のはいった見方をしてしまいます。「感じやすい」女性は単に感じやすいだけですが、感じやすい男性は「女々しい」(sissy)と見なされるかもしれません。女性であれば礼儀正しいとみなされることを、男性がおこなえば受け身とか弱いとか見られることになるかもしれません。男性は「自信がありげ」に見えるのが、同じようにふるまう女性は「押しつけがましい」と見られるかもしません。男性であれば柔軟だとされる場合に、女性であれば気紛れだとか決断力がないとされるかもしれません。男ならば合理的でも女だと冷いとされます。男ならば必要なときにはタフであるとされるのに、女であれば意地悪bitchyとなります。ビジネスウーマンがステロタイプ的に男性的なふるまいをすれば、セクシストはその人を以上だとか不健康だとかレッテルを貼るかもしれません。

子どもたちは、「男の仕事」と「女の仕事」の間の区別についてのステレオタイプをだんだん身につけます。女性は歴史的に「男性の仕事」から排除されており、「男の仕事」と「女の仕事」についてのステレオタイプ的な期待(expectation)は、小学1年生の時点からはじまっています。たとえば、伝統的なステレオタイプによれば、女性は算数で優秀な成績をおさめることを期待されていません。こうしたネガティブな期待にさらされつづけることによって、女性は科学や技術の分野での仕事をすることを思い止まらせられます。女性が科学や技術に関する職業を選択したとしても、女性はしばしば、雇用や、昇進や研究施設の使用や、研究資金などで差別にさらされます(Loder, 2000)。同じように、やっと最近になってから、男性は以前にはほとんど女性によって占められていた職業上の地位につきはじめました。たとえば秘書、看護、小学校の教員などです。最近になってやっと、女性にも伝統的に男性のものであるとされてきた職業に門戸が開かれました。エンジニアリングや法律、医学などです。

セクシズムは心理的に不健康な影響もあります。ある実験によれば、セクシズムは一般的だと信じるようにされた女性は、セクシズムはまれだと信じるようにされた女性よりも自己評価が低くなりました(Schmitt et al., 2003)。別の実験では、男女が自分が大学の授業コースをとることを拒絶されたと信じるようにされました(Major et al., 2003)。その理由はセクシズムであるか、個人的な要因であるかのどちらかであるとされました。拒絶されたことを個人に対する評価ではなく、偏見のためであるとすると、自己評価を保護する効果がありました(「私のせいではなく、社会の問題なのだ。」)。

幸運なことに、教育は伝統的なセクシスト的態度を変更することができるようです。ある研究によれば、女性学の授業コースが、学生がセクシズムをより意識するようになり、より平等主義的な態度をとる手助けになること、そしてその程度を報告しています(Stake & Hoffman, 2001)。この研究では、548人の女性学の授業を受けていた学生が、コースの前後に、女性学に対する開放性、女性とジェンダー問題についての平等主義的態度、セクシズムや女性差別に対する意識についての質問に答えました。女性学のコースをとらなかった学生に比べて、コースをとった学生はセイクシズムやその他の偏見に敏感になり、女性やその他のスティグマを科せられたグループに対して平等主義的な態度をとり、社会的大義のための活動に参加することに興味をもつようになりました。

次のセクションでは、ジェンダー役割のステレオタイプが性的活動とも結びついていることを見ます。

ジェンダー役割と性的活動

Q: ジェンダー役割はデートの仕方や性的活動に影響を与えているでしょうか。

ほぼ確実に影響を与えています。子どもたちはまだ小さなうちから、ロマンチックな関係(恋愛関係)ではふつう男性が女性にアプローチして性的活動を先導すること、女性は「門番」となることを学びます(Bailey et al., 200b)。門番としての伝統的な役割において、女性はアプローチされるのを待ち、求婚者を選抜することを期待されています。男性は(性的な)第一歩を踏み出すことを期待されており、女性はどの程度まで許すかを決定することが期待されています。

男性が先に手を出し、女性が門番になるという文化的な期待は、男性は性的に攻撃的で女性は性的に受け身であるというもっと大きなステレオタイプのなかに埋め込まれています。男性は女性よりも多くの性的パートナーをもつことが期待されています(Mikach & Bailey, 1999)。男性は性的な出会いを開始するだけではありません。男性はそれ以後の「発展」のすべてを支配することが期待されており、それはあたかもダンスフロアでダンスをリードするかのように思われています。男性であれ女性であれ、男性的なジェンダー役割に固執する人は、性的にリスクのあるふるまいをする傾向があります(Belgrave et al., 2000)。ステレオタイプによれば、女性は男性に[セックスするかどうかの]選択やタイミングや体位やテクニックを決めされせることが期待されています。不幸なことに、ステレオタイプは男性の性的な好みを優先し、女性が好む種類の刺激を与えたり受けたりすることを認めません。

女性は騎乗位[女性が上になる体位]の方がオーガスムに逹しやすいのですが、パートナーは男性上位の体位を好むかもしれません。もし男性が支配しているのであれば、女性はオーガスムのチャンスがないかもしれません。自分の好みを伝えることでさえ「レディーらしくない」と考えられるかもしれません。

ステレオタイプ的な男性役割は、男性にもさまざまな制約を課します。男性はパートナーをオーガスムに逹させるリードをすることが期待されていますが、パートナーになにが好きかを聞いてはなならないことになっています。なぜなら、男性な生まれつきのエキスパートであることが期待されているからです。(「本当の男」はキッシュなんか食べず、女にセックスのことなんか聞く必要もないのです。)

幸運なことに、もっと柔軟な態度が現れています。女性は以前よりも性的に主張するようになり、男性もより受容力がありやさしさを表現するようになっています。しかし、伝統的なジェンダー役割はまだ深いところで活動しています。

また別のステレオタイプによると、男性は思春期に性的に興奮しはじめ、大人になってからもずっと性的に興奮する準備があることになっています。しかし女性は男性のようにセックスに対して自然な関心はもたず、男性が女性を性的な枠組みでとらえたときのみ自分のセクシュアリティを発見するということになっています。男性は女性の性的な燃えさしを常にかきたてつづけて消えさらないようにしなければなりません。このステレオタイプは、「普通の」女性は自発的な性的欲望をもっていることや、簡単に性的に興奮することを否定しています。

ステレオタイプに反して、女性が生物学的に男性より興奮しにくいかどうかは明らかになってしません。しかしながら、女性はコミットメントのある人間関係に性的活動を制限することを欲求する傾向があります(Peplau, 2003)。一方、UCLAの心理学者Letitia Anne Paplauは、男性は一般的に女性よりも多くの性的欲望をもつことの一環した経験的なサポートを発見しています。

ジェンダー役割ステレオタイプと関係した性差が、どれくらい自然本性を反映しているのか、どれくらい文化や伝統の影響を反映しているのかという問題は解決されていません。性差は性的活動を含むものよりさらに広範に染みわたっています。次にそれを見ます。

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翻訳ゲリラ:性的アイデンティティ

(Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005のp.175からの項目を江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com が勝手に訳したもの。著作権クリアしておいません。版も古いです。)だれかいっしょに訳出しませんかね。出版社はどこに相談したらいいかなあ。医学系のところじゃないとだめだわね。

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翻訳ゲリラ:性的指向

Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005の一部「性的指向」(p.292以下)勝手な訳。誤植とか見つけたらコメントしてください。選択して上の「コメント」ボタンを押す。


性的指向を指向して

性的指向(sexual orientation)とは、ある人が自分の同性あるいは異性の人に対してエロチックな魅力を感じたり、ロマンチックな関係を築いたりすることにかかわります。Q:どんな種類の性的指向があるでしょうか? 異性愛的指向(heterosexual orientation)とは異性にエロチックな魅力を感じたり、ロマンチックな関係を気付いたりすることを好んだりすることです。(同性愛の人々の多くは異性愛の人々を「ストレート」straightあるいはstraightsと呼びます。)

同性愛的性的指向とは、自分の同性の人にエロチックな魅了を感じたり、ロマンチックな関係をもとことに関心をもつことです。同性愛という言葉は自分と解剖学的な性が同じ人に性的な関心を抱くことを指し、男性にも女性にも使われます。同性愛の男性はしばしばゲイ男性と呼ばれます。同性愛の女性はしばしばレズビアンと呼ばれます。ゲイ男性とレズビアンは、集合的に「ゲイ」や「ゲイピープル」と呼ばれることもあります。バイセクシュアルという言葉は男性にも女性にも性的な魅力を感じ、ロマンティックな関係をむすぶことに関心をもつことを指します。

用語に親しむ

さて、上で一応同性愛を定義しましたが、この言葉はかなり論争のまとになることに注意しておきましょう。ゲイピープルの一部の人々は、同性愛(ホモセクシュアル)という言葉に反対します。というのは、この言葉は性的な行動に注意を引いてしまうからです。さらに、この言葉は社会的なスティグマもともなっています。APA(米国精神医学協会)のレズビアン・ゲイ委員会(1991)は、同性愛という言葉は歴史的に異常や精神病とも結びつけられてきたと指摘しています。同性愛という言葉を使うことによってゲイピープルについてネガティブなステレオタイプを継続させることになります。また、この言葉はしばしば男性だけに使われます。そしてそれよってレズビアンの人々を目立たなくさせてしまいます。それゆえ、ゲイ男性的・レズビアン的性的指向という言葉の方を好む人も多いのです。

同性愛(ホモセクシュアル)という言葉は両義的でもあります。それは性的な行動を指すのでしょうか、それとも性的な指向を指すのでしょうか?この本では、私たちは(ヘテロセクシュアル行動ではなく)男性-女性性行動、男性-男性性行動、女性-女性性行動という言葉を使って、性的行動と性的指向を区別しやすいようにします。

性的指向とジェンダー・アイデンティティ

Q:同性愛の人はむしろ反対の性なのではないでしょうか?

ゲイピープルは自分と同じ性の人に魅力を感じるのですから、自分自身が異性であることをこと望んでいるのではないかと想定する人もいます。しかしながら、ゲイピープルの大多数の人は異性愛の人と同様に、自分の解剖学的な性と一致したジェンダーアイデンティティを感じています。J. Michael Bailey (2003b)のこう書いています。「極端にゲイ」な人々トランスセクシュアルになる——つまり、自分の文化で異性の人々が送っているライフスタイルを採用する、と。しかし異性の身体に「とらわれた」感覚は、ゲイであることの定義には含まれていません。

異性愛者が同性愛者について考える場合、男性・男性関係や女性・女性関係の性的な側面に注目してしまいがちです。しかし、同性愛者の愛情関係は、異性愛者と同様に、セックス以上のものを含んでいます。異性愛者と同様に同性愛者は、性的活動に少ししか時間を使いません。ゲイ男性的・レズビアン的性的指向にとってもっと基本的なのは、自分と同性の人とロマンチックな愛着関係を形成しようとするところです。こうした愛着関係は、男性・女性間の愛着関係と同じく、愛情と親密さのための枠組となります。性的関係と愛情は人間関係という共通の特徴をもっているわけですが、どちらも人間関係のための必須条件ではありません。性的指向は性的活動そのものによって定義されるのではなく、むしろロマンチックな関心やエロチックな魅力(を感じること)によって定義されるのです。

性的指向の分類: イエス・ノーかで十分か?

ある人の性的指向を決定することは、クリアカットな仕事だと思われるかもしれません。ある人々は完全にゲイで、性的活動を同性とのものに限っています。また他の人々は厳密に異性愛的で、性的活動を異性のパートナーとのものに限っています。しかしながら、多くのひとはその中間に位置しているのです。

Q: ゲイ男性やレズビアン的性的指向と、異性愛的性的指向の間のどこに一線を引くべきでしょうか?またこれらとバイセクシュアルの間のどこに線を引くべきでしょうか?

異性愛の人々が同性の何人かと性的経験をもつのは可能ですし、それどころか珍しいことでもありません。Eisenberg & Wechsler (2003)は119大学の10,000人以上の大学生に調査しました。6.1%が同性と性的な経験をもったことがあると返答しました。あとで見るように、6%という数字は人口おける同性愛者の数のおそらく2倍程度です。異性愛的なはけ口がないために、思春期の少年少女や、刑務所収容者のように隔離された人々は、異性愛者としてのアイデンティティを保持したまま同性と性的経験をもつ場合があります。

ゲイ男性やレズビアンも、ゲイ性的指向を保持したまま、男性・女性間の性的活動に参加することがあります。ゲイ男性やレズビアンのなかには、異性と結婚しながら、同性に対する満たされない欲求をかかえている人もいます。また、バイセクシュアルではあるが、同性に対して感じる魅力にもとづいては行動しない人々もいます(Edser & Shea, 2002)。

性的指向は必ずしも性的行動において表現されるとは限りません。多くの人は、同性とセックスするずっと前から、自分がゲイか異性愛者かを理解しています(Diamond, 2003a; Savin-Williams & Diamond, 2000)。ゲイも異性愛者も同じように、宗教的あるいは禁欲主義的な理由から、性的に不活発(celibate)なライフスタイルを採用しています。

人のエロチックな関心や空想が時間も時間とともに変化することがあります。ゲイ男性やレズビアンは散発的にヘテロエロティックな興味関心を経験します。異性愛の人々も時折ホモエロティックな関心をもつことがあります。女性の性的指向は男性の性的指向より柔軟で可塑性があることが明らかになっています。女性の方がより社会的経験に依存しているのです(Bailey, 2003a, Diamond, 2000, 2002, 2003a)。同性愛者に関する古典的な調査では、調査対象となったレズビアンの約50%が時に男性に魅力を感じたと報告しています(Bell & Weinberg, 1978)。Lisa M. Diamond (2003b)は、5年間にわたってレズビアンとバイセクシュアルの女性を調査し、3人をインタビューしました。彼女の発見によれば、25%以上の女性が時間の経過につれて自分のレズビアン的・バイセクシュアル的指向を放棄しています。これらの人々のうち、半分は自分を異性愛者だと考えなおすようになり、もう半分は自己規定することを放棄しました。異性愛の人々の一部は同性との性的活動にかんする空想を報告しています(第9章)。同性愛者についての古典的な研究であるMasters & Johnson (1979)は、多くのゲイピープルは異性との性的活動のついての空想をレポートしています。

このように、異性に魅力を感じることと同性に魅力を感じることは、相互に排他的ではありません。人々はさまざまな程度でどちらかの性の人々に関心を抱き、性的体験をもちます。キンゼーと共同研究者は、ゲイ男性・レズビアン的性的指向と、異性愛的性的指向の間の協会は、時にぼやけていることを認識しました。キンゼイと共同研究者らによれば次のようです。

世界を羊と山羊に分けようとするべきではない……人間の精神がカテゴリーを作り、事実を別々の整理棚に入れようとするのだ。生きた世界はどんな側面においても連続体なのだ。(Kinsey et. al., 1948, p.639)

キンゼイと同僚(1948, 1953)は性的指向の連続体の証拠を調査した人々から見つけました。この調査では、バイセクシュアルが、排他的に異性愛的な人と、排他的に同性愛的な人の中間に位置づけられました。被験者は異性愛-同性愛連続体の上に7段階で位置づけられました(図10.1)。人々は性的な魅力の感じ方と行動によって、連続体のどこかに位置づけられました。カテゴリー0の人々は排他的に異性愛です。カテゴリー6の人々は排他的にゲイです。

Q: 人口のどれくらいがゲイでしょうか?

キンゼイと同僚たちは男性の4%、女性の1〜3%が排他的にゲイ(彼らの尺度で6)と報告しました。もうすこし多くの割合の人がゲイ優勢的(尺度で4か5)であるか、異性愛優勢的(尺度で1か2)。総計して、キンゼイのデータによれば、米国の10%ほどがゲイであるかゲイ優勢的でした。これは現在の見積りより大幅に大きなものです。一部の人は指向において同じ程度にゲイであり異性愛的で、バイセクシャルとラベルづけすることができました。ほとんどの人は排他的に異性愛(尺度で0)でした。

1993年のLouis Harrisの調査によれば、男性の4.4%、女性の3.6%が過去5年間に同性との性的活動を報告しています(Barringer, 1993)。キンゼイ研究所のJune Reinsich (1990)は入手可能な証拠を使って、米国の25%以上が十代または成人してから男性・男性性関係をもったことがあると見つもっています。

同性との過去の性的活動に関する統計は誤解をまねきやすいものです。これは、思春期の実験の単独のエピソードや短期間の活動を指しているかもしれません。キンゼイの調査で男性・男性性活動を報告した男性の半分は、その経験は12才から14才に限られるとしていました。さらに1/3の男性・男性性的経験をもった人々は、その経験は18才までのもので、それ以降は経験していませんでした。

キンゼイの研究が示すもう一つの点は、性的行動のパターンは変化するものであり、時には劇的に変化するということです。同性との性的経験や同性に対する性的感情はありふれたもので、とくに思春期においてはありふれています。またそれは成人になってからの排他的に同性との性的活動をおこなうことを必ずしも意味していません。

どれくらいの数の人がゲイなのかについての論争は続いています。人口におけるゲイピープルの割合についての現在の見積りはキンゼイのものよりは低くなっています。米国、アジア、南洋諸島の国々での調査で得られたデータを考察してMilton Diamond (1993)は、さまざまな文化を通じて男性のたった5%、女性の2〜3%が思春期から少なくとも一回以上同性と性的活動をおこなったと見積っています。ダイアモンドと他の研究者たちは、ゲイ男性やレズビアンよりバイセックシャル指向の人々はより少ないと見ています。

米国、英国、フランス、デンマークでの調査結果では、調査対象の男性の3%が自分自身をゲイだと考えて(identify)います(Hamer et al., 1993; Laumann et al., 1994)。調査対象の米国女性の2%が自分がレズビアンだと考えています(Laumann et al., 1994)。米国、英国、フランスでの調査結果によれば、もっと多くの男性(5%〜11%)と女性(2%〜4%)が過去5年間に同性と性的行動をおこなったと報告しています(Sell et al., 1995)。さらに、もっと多くの男性(8〜9%)と女性(8〜12%)が同性に性的魅力を感じたが、15才以来性的交渉はもっていないと報告してします(Sell et al., 1995)。

調査結果に影響を与える以下の要因を心に留めておきましょう。

  • 質問の文章(たとえば、その文章は性的自認を指しているのか、性的行動を指しているのか、性的魅力を指しているのか——そしてどんな期間での話なのか)
  • 申告された行動の社会的な望ましさ
  • インタビューする人の性別
  • 調査がなされる方法、対面インタビューなのか、電話なのか、書類による調査なのか。
  • 回答者のバイアス。たとえばボランティアで回答する人はそのバイアスがある。

キンゼイの連続体説への挑戦

アルフレッド・キンゼイは、排他的に異性愛的性的指向とゲイ的性的指向を連続体の両極に置きました。それゆえ、ある人がより異性愛的であれば、よりゲイ的ではなくなりますし、その反対も言えます。ゲイ指向と異性愛指向を連続体の両極とすることは、男性性と女性性の伝統的な見方に近いものです。より男性的であればより女性的でなく、またその反対も言える、というふうに。男性と女性を対立物とする見方は、誤解につながりますし、場合によっては両性の間の敵意にさえ結びつきます(Bem, 1993)。

Q: キンゼイ連続体に対して、別の選択肢としてどのようなものがありますか?

私たちは男性性と女性性をパーソナリティーの別々の次元と見ることもできるのです。同じように、ゲイピープルと異性愛者を対立物として見ることは誤解と敵意に結びつきます。しかし、事実として性的指向は両極ではなく、別の次元かもしれないのです。少なくとも女性については。

性的指向を示すものとしてエロチックな空想の内容の自己申告を用いて、Michael Storms (1980)は、男性・女性間の性的な刺激(ヘテロエロティシズム)と、同性を含む性的刺激に対する別々の反応を発見しました(図10.2 )。このモデルによれば、バイセクシュアルは両方の次元で価が高く、両方の次元で低い価の人は本質的にアセクシュアルです。キンゼイによれば、バイセクシュアルの人は異性愛の人に比較して、異性による刺激にはより反応せず、同性による刺激にはより反応することになります。しかしこの二次元モデルによれば、バイセクシュアルの人は異性愛の人と同じくらい異性による刺激に反応し、かつ、ゲイピープルと同じくらい同性による刺激に反応しやすいことになります。

しかしながら、Ricahrd LippaとSara Arad (1997)はより複雑な尺度にもとづいて、もし二次元モデルが正しいとしても、それは女性にしか妥当しないかもしれないということを発見しました。彼らはさまざまなパーソナリティー尺度をもちいて148人の男子大学生と246人の女子大学生に対して調査をしました。中央値は18才です。用いられた尺度のなかには、「男性的」な道具性(instrumentality)や「女性的」な感情表出などに加え、外向性、調和性、良心性、神経症傾向(心理的安定性)、経験への開放性などの性格特性が含まれていました。学生は性的行動や態度の質問紙に答えました。男性や女性に魅力を感じるか、性的関係にたいする感情的なコミットメント、性的空想やエロチックな刺激に対する関心などがたずねられました。数学的なグループ分けテクニックを用いて、因子分析をおこなったところ、男性について4つ、女性について4つの性的行動と態度についての因子が発見されました(表 10.1)。男女は重要なしかたで異なっていました。おそらく、もっとも説得的なのは、男性は「両極」的性的指向をもっている点でキンゼイのモデルに大部分のところフィットするということでしょう。つまり、男性は、女性に興奮する傾向があればあるほど、男性に興奮する傾向はなく、またその逆も言えるのです。対照的に女性は、異性愛的因子も同性愛的因子ももっています。つまり、女性が男性に興奮するかどうかは、その人が他の女性に興奮するかどうかとは独立で、またその逆も言えるのです。興味深いことに、性的行動と態度は他のパーソナリティー尺度とはほとんど関係がありませんでした。

表10.1 男性 両極的性的指向 感情的コミットメント 性衝動 性的空想 女性 同性愛 異性愛 感情的コミットメント 性衝動

LippaとArad’sの発見は、女性の性的指向は男性より柔軟であり、社会的経験により深く結びついているという研究と整合的です(Bailey, 2003a; Diamond, 2000, 2002, 2003a)。あとでホモフォビア、つまり同性愛者嫌いを議論するときに、男性は女性よりもホモフォビア的になりやすことを紹介します。ホモフォビアは伝統的な「タフ」な男性的態度と結びついています。しかしながら、ホモフォビアにおける性差の理由の一部は、異性愛男性は異性愛女性よりも、男性が同性に魅力を感じることがありえるということを理解するのが難しいからなのかもしれません。

バイセクシュアル

(インタビューの答とかの引用)

Q: バイセクシュアルとはなんでしょうか? バイセクシャルの人々は、男性にも女性にも魅力を感じます。バイセクシュアルの人はときどき「どっちにも搖れる(swing both ways)」とか「A/C-D/C」(交流-直流)などと呼ばれます。しかし、多くの人はどちらかの一方の性により強く惹かれます。実際のところ、Weinrich & Klein (2002)はバイセクシャルは三つのカテゴリーに分けられると言っています:バイ-ゲイ、バイ-ストレート、そしてバイ-バイです。これらはそれぞれ、同性により強く惹かれる(バイ-ゲイ)、異性により魅力を感じる(バイ-ストレート)、そして同性にも異性にも同じように惹かれる(バイ-バイ)人々を指します。バイセクシュアルをどう定義するかにもよりますが、おそらく人口の1%〜4%がバイセクシュアルです。NHSLSの研究(Laumann et al., 1994)で調査された人々のうちほぼ1%(男性の0.8%、女性の0.9%)が、バイセクシュアルとしてのアイデンティティをもっていました。しかしながら、およそ4%の人が、女性にも男性にも性的に魅力を感じると答えています。

一部のゲイの人々(そして一部の異性愛者)は、自分はバイセクシャルだと主張することは自分がゲイであることを否定するための「言い逃れ」だと信じています。おそらく、そういう人々は、配偶者と別れたり、「カミングアウト」(ゲイ男性やレズビアン的性的指向をおおやけに宣言すること)することを恐れているのだというのです。別の見方では、バイセクシャルというものは、ほぼ異性愛の人が同性と性的な実験をしているだけだということになります。600人超の大学学部生に対する調査は、バイフォビア、つまりバイセクシャル嫌いが異性愛者集団でも同性愛者集団でも発見されました。

しかし多くの人がバイセクシャルだと公言していますし、研究者もバイセクシャルはどちらの性にもエロチックな関心をもち、ロマンチックな関係をむすぶことができると肯定しています。彼らによれば、バイセクシュアルは彼ら独特の発達パターンをもった真正の性的指向であって、単なるゲイ男性・レズビアン的性的指向の「覆い」ではありません(Brown, 2002; Weinrich & Klen, 2002)。

バイセクシャルの人々のなかには、その二重の傾向性を満足することができるようなライフスイルを採用している人々がいます。また、異性愛者やゲイピープルと同じようにどちらかにコミットしなければならないというプレッシャーを感じている人々もいます(lEdser & Shea, 2002)。ゲイピープルのなかには、バイセクシャルのライフスタイルを採用して自分の性的指向を隠している人もいます。つまり、そういうひとは結婚はするものの、同性と秘密の性的関係を結んでいるのです。

それでも、バイセクシャルの男性は結婚のような異性愛関係にコミットすることにそれなりに満足しています。キンゼイ尺度でバイセクシャルとしてスコアされた20人の既婚者男性に対する綿密な調査によれば、彼らはある種の不安や罪悪感や、喪失感を経験していますが、高いレベルのストレスを感じるほどではありません(Edser & Shea, 2002)。全体としては、こうした男性たちは心理的には安定しており、結婚生活はEdserとSheaが言うには「相対的によい状態にある」とされます。彼らの結論では、女性との長期間にわたるコミットした関係は、バイセックシャル男性にとって「よいオプション」です。またEdserとSheaは道徳的なわけではありません。つまり、彼らはバイセクシャル男性は女性とのコミットした関係を求めるべきだと言っているわけではないのです。彼らはたんに、そうした関係はうまくいくことがある、と言っているだけです。

(このあと、大きな見出しとして「ゲイ男性とレズビアンに対する視線(歴史的、現代社会の〜、生物学的〜)」「ゲイ男性とレズビアンの社会的適応」「カミングアウト」などの項が来るけどまあ面倒なのでやめ。おもしろいっしょ。どっか出版社がC受けてくれるならネットで人集めて訳出してみたい気はする。しかしフルカラーでA4のちょっと小さな版で700ページもあるからねえ。文章は簡単なので、大学生の学力があれば楽勝。)

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翻訳ゲリラ:トム・ビーチャム「パーソン論の失敗」

Beauchamp, Tom L. “The failure of theories of personhood”, Kennedy Institute of Ethics Journal, Vol. 9, No. 4 (1999): 309-324の勝手な訳。著作権・コピーライトをクリアしていないゲリラ訳です。誤訳・誤植だらけ。脚注は面倒なので訳さず。文献表は原文を参照のこと。


パーソンであるとはどのようなことかということは、形而上学の基本的トピックの一つである。理念的には、純粋に形而上学的な理論は、パーソンと非パーソンをどのように区別するかということについて、道徳の問題を離れた関心しかもたない。しかしながらパーソンの形而上学は、形而上学を倫理学のしもべとして、ある好ましいと思われている道徳的な結論を弁護するように提案されることもしばしばである。ある個人が権利をもっているかどうかという問い、またパーソンについての理論が中絶、生殖技術、新生児殺し、治療拒否、老人性痴呆、安楽死、死の定義、動物実験といった実践的問題に向かうにあたって、形而上学が援用されることがある。

パーソンの理論のさまざまな目的を考えに入れると、形而上学的パーソンと道徳的パーソンの区別を導入するのが明瞭にする方法だろう。私の区別では、形而上学的パーソン性は、パーソンを他と区別するような心理学的性質のセットによって完全に構成される。それらはたとえば、自己意識、自由意志、言語習得、苦痛の感覚、情動などである。形而上学の目標は、すべてのパーソンがもち、またパーソンだけがもつような心理学的な特性のセットを見つけだすことである。対照的に、道徳的パーソン性は、道徳的行為者性や道徳的動機といった特性や能力をもいつ個人を指す。こうした性質や能力が、道徳的パーソンを非道徳的存在者から区別する。原則的に、ある存在者が形而上学的パーソン性のために必要なすべての特性を満たしているとしても、道徳的パーソン性に必要な特性をすべて欠いている場合がある。

しかし、公表されているパーソンの理論のほとんどは、この二つのタイプに明確に分けることはできないし、形而上学的パーソン性と道徳的パーソン性の区別に注意さえしていないこともある。これらのパーソンについての理論の提唱者たちは、一般にこうした区別をせずにテーマに近づこうとしている。彼らの目標は、まずは、個体に道徳的地位のために必須であり、それを与えるパーソン性──それが道徳的なものであれ非道徳的なものであれ──を区別する特性を描き出すことであった。30年の間、そしておそららく数世紀の間、パーソンに関する研究書は、形而上学のなかで個体の非道徳的な性質、通常は\kenten{認知的}な性質を描き出しており、ここから、道徳的地位についての結論が引き出された。典型的な例はマイケル・トゥーリーの有名な分析であって、これは形而上学的な前提から道徳的な結論に移行している(Tooley 1972, sec. 3)。

何かが、パーソンであるために、つまり重大な生命に対する権利をもつためには、どんな特性をもっていなければならないだろうか? 私が擁護したい主張は以下のものである。生命体が生命に対する重大な権利をもつのは、以下の場合でありまた以下の場合に限られる。それは、その生命体が、経験や他の心的状態の持続する主体としての自己の概念をもっており、自分自身が継続する存在者であることを信じている場合である。

トゥーリー(Tooley 1983, p. 51, cf. p.35)は次のように明示的に述べている。

「パーソン」という言葉は、その定義が道徳的概念を含む語としてではなく、純粋に記述的な語として扱うのがよさそうに思える。というのは、これが普通「パーソン」が解釈されている仕方のように思われるからである。

この説によれば、「パーソン」は純粋に記述的な内容(「自己意識や合理性をもつ存在者」)をもち、この形而上学的立場でのなにかをパーソンにする性質が、その所有者に道徳的諸権利や他の道徳的保護を与えることになる。

哲学、宗教、科学、そしてポピュラー文化においては、次のような信念がなお存続している。つまり、自己意識のようなパーソンに特別な認知的な特性・性質がそれに道徳的地位(moral standing)を与え、おそらく道徳的地位についての排他的な基盤を形成している。しかし私が信じるところでは、なんらかの認知的性質やその組み合わせが、道徳的地位を与えるということはなく、またこの種の形而上学的パーソン性は道徳的パーソン性にも道徳的地位にも十分ではない(もっとも形而上学的パーソン性の条件は、道徳的パーソン性の\kenten{必要}条件ではあるかもしれない)。また私の信じるところでは、道徳的パーソン性だけが道徳的地位の基盤ではない。したがって私がこれから主張するのは、形而上学的パーソン性は道徳的パーソン性や道徳的地位を含意せず、またどちらのパーソン性も道徳的地位の唯一の基盤ではない、というものになる。

形而上学的パーソン性の概念

パーソンの日常的な意味は、おおざっぱに行って、人間の概念と同一である。人間的な心理学的諸性質も、パーソン性についての哲学的論争では中心的な役割を演じ続けている。しかしながら、生物種としてのヒトのメンバーに特有の性質だけが、パーソン性に重要であうとか、道徳的地位を与えるという保証はない。もし、ヒト種のメンバであることと強く相関している特性が他の種のメンバーよりもヒトに当てはまるということが言えるとしても、これらの性質は単にヒトであることと偶然的に結びついているにすぎない。こうした特性をもっている個人が、ある特定の自然生物種に属しているということがありえるとしても、それはたまたまそうなっているにすぎない。そうした特性はヒト意外の種のメンバーももっているかもしれないし、コンピューター、ロボット、遺伝子操作された種など、自然生物種意外の領域の存在者ももっているかもしれない。

幸運なことに、パーソンについての形而上学的説明は、ヒトだけがもっている性質に言及しなければならないわけではない。(たとえばトゥーリーのような)認知主義的理論においては、ある存在者は、それが\kenten{ヒト}だけの性質をもっていることによってではなく、ある\kenten{認知的}性質をもっていることに場合そしてその場合のみパーソンである。形而上学的パーソン性の条件については、古典および現代の論者たちによって、だいたい次のようなものが提出されている。(1)自己意識(時間にわたって存在する自分自身についての)、(2)理由にもとづいて行為する能力、(3)言語を用いて他者とコミュニケートする能力、(4)自由に行為する能力、(5)合理性。

こうした諸特徴は、おそらく、種や起源やタイプからは独立にパーソンを非パーソンから区別するものである。たとえば、ロボットやコンピュータや類人猿、あるいは神が、形而上学的パーソン性の基準をクリアするかどうかは議論の余地がある。方法論的には、パーソン性である性質は、我々がパーソンについて共有している概念に訴えることによってアプリオリに決定されると想定されている。理論は経験的発見を必要としないのである。唯一の経験的な問いは、ある存在者が実際に概念的な条件を満しているかどうか、ということだけである。こうした方法の古典的な例は、ジョン・ロック(1975, 2.27.9、2.288.24-26も見よ)の以下のようなものとしてのパーソンの分析である。彼によれば、パーソンは「思考する知的存在者であり、理性と反省力をもち、それ自体をそれ自体として、別の時間と場所においても同一の考える物」である。ロックが指摘するところでは、「人間man」と「パーソン」は密接な関係をもってはいるが、この二つの概念ははっきりちがったものであって、彼は同じ人間が必ずしも同じパーソンでははないことを示す事例を提示してこの主張を擁護している。

時に、上の(1)-(5)に似た基準を弁護する論者によって、形而上学的パーソン性のためにはこれらの基準の一つ{\——}たとえば、自己意識、合理性、言語能力のどれか{\——}だけで十分であると主張されることがある。また、基準のそれぞれがすべて充たされる必要があり、五つの条件の組み合わせが必要にして十分な条件なのだ、と主張する論者もいる。典型的な見解では、五つの条件の\ruby{いくつか}{サブセット}が必要にして十分というものに思われる。

形而上学的パーソン性の問題点

こうした認知主義的理論はすべて、「パーソン」についての言語に生めこまれているコミットメントの深さを捉えそこねており、また時に純粋に形而上学的な主張から、道徳的パーソン性や道徳的地位についての主張にずれてしまうことによって、混乱をひどく悪化させている。こうした認知的な性質それ自体では、なんの道徳的含意ももたない。そうした含意は、分析がそれとは独立の道徳的原則、たとえば「パーソンに対する尊敬」といった原則を前提するかあるいは取り込むことによってのみ生じる。そうた原則は、形而上学理論とは独立であって、それとは独立に弁護される必要がある(そして適切な内容を与えられる必要がある)。

この点を明らかにするために、ある存在者が合理的で、目的をもって行為し、自己意識をもっているとしてみよう。この事実から、道徳的パーソン性や道徳的地位がどのようにして立証されるだろうか?こうした性質が存在していることから、道徳的結論が導き出せるだろうか?このような記述に適合するような存在者は、必ずしも道徳的行為の能力をもっているとか、正邪の判断ができるということにはならない。道徳的動機や責任の感覚をまったくもっていないかもしれない。我々が道徳的に判断できるような行為はなにもしないかもしれない。それはコンピュータかもしれないし、危険な\ruby{捕食者}{プレデター}かもしれないし、邪悪なデーモンかもしれない。この存在者の認知的な能力をどれほど高く評価しようが、こうした認知能力は道徳的パーソン性にはつながらないのである(またまちがいなく道徳的地位を立証するものでもない)。言語能力、合理性、自己意識やそうしたものは、道徳的行為者性や道徳的動機のような道徳的性質とは内在的な関係はもっていないのである。

トゥーリーの理論で見たように、形而上学的な探求においてしばしば引きあいに出されるのは自己意識、すなわち時間を通じて存続し、過去と未来をもつものとしての自己の概念である。鳥や熊のような動物が自己意識や時間を越えた継続性を欠いているならば、それらはパーソンではない(次を見よ。Buchanan and Brock 1989, pp.197-99; Harris 1985; Dworkin 1988, esp. Chapter 1)。しかし、人間以外の動物はなんらかの自己意識やそれと機能的に等価のものをもっていないということは実証されているというよりは想定されているにすぎない。動物の自己意識のタイプや程度についてとりあえず手元にある証拠はかなり印象的なもので、注意深い研究をしなければ、それらが自己意識をもっている可能性は捨て切れない。言語の訓練をした類人猿は自己言及をおこなうし、多くの動物はその過去から学習し、その知識を将来の狩りの計画や行動に生かしたり、エサを貯めたり、巣を作ったりすることに用いている(Griffin 1992を見よ)。こうした動物たちは、自分の身体と関心を意識しており、自分の身体と関心を他の固体の身体と関心ととりちがえることはない。遊びや社会的生活においても、動物は割り当てられた役目を理解し、自分がどういう役目を演じるべきかを決めている。鏡に反射した姿を自分だと認識する動物もいる(cf. Gallup 1977;DeGrazia 1997, p.302; Patterson and Gordon 1993; Miles 1993)。したがって、こうした動物たちには、少なくとも原初的な自己意識がありとみなす理由があるし、また、この能力には、それを分析する際の各種の基準において、程度の差があると考える理由がある。

こうした結論を避ける戦略の一つは、自己意識の概念に組込む要求を増やすことだ。ハリー・フランクファート (Frankfurt 1971)のよく知られた学説は、しばしば自律に関する理論として提示されるが、上の目的のために採用することができる(Dworkin 1988, Chapters 1-4;l Ekstrom 1993も見よ)。この理論では、すべてのパーソンが、そしてパーソンだけが、一定の距離をとった自己反省を含む形態の自己意識をもつ。パーソンは、自分の基本的な一階の欲求を、二階の欲求や判断や意思を通して判断し自分に重ねあわせる。二階の心的状態は、一階の心的状態を志向対象とし、一階の欲求や信念について考慮の上での選好が形成される。たとえば、ある長距離ランナーは、1日に数時間走りたいという一階の欲求をもっているが、その時間とコミットメントのレベルを減らしたいというそれより高階の欲求をもつかもしれない。二階の欲求からの行動は自律的であり、パーソンに特徴的なものである。一階の欲求からの行動は自律的ではなく、動物行動に典型的である。下階の欲求や選好を合理的に受容したり拒否したりする能力{\——}高尚な認知的能力あるいは一定の距離をとった自己反省{\——}がこうした理論の核心部分である。

しかしながら、この理論にはいくつかの問題がつきまとっている。第一に、二階における受容や拒否が、一階の欲求の強さによって引き起こされたり強化されたりすることを妨げるものはない。すると、個人が一階の欲求を受けいれたり自分のものと認めたりするということは、すでに形成されている選好構造の因果的結果でしかなく、新たな選好の形成や、特段魅力的なパーソン性の基準ではなくなってしまう。二階の欲求は(二階のものであることを除けば)一階の欲求と大きく違ったものでもなければ、因果的に独立のものでもないことになる。この二階の理論を自律やパーソン性の説明として説得的にするには、もう一つ部品となる理論、つまり、個人から自律やパーソン性を奪うことになる影響や欲求と、自律やパーソン性と整合的な影響や欲求とを区別する理論を追加しなければならない。

第二に、自分から一定の距離をとり、反省的コントロールをもつという条件は厳しすぎて、多くの人間的行為者(human actor)がパーソンではないということにされたり、その行動が自律的でないということにされてしまう。二階のレベルで自分のものとみなすということなどは、我々が通常行なっている行動において成立しているかは疑わしい。こうした要求の厳しい理論が潜在的にもっている道徳的なコストは、自分の欲求や選好をより高次のレベルで反省していない個人は、そのもっとも深い欲求や選好から行った行動についても、なんの敬意にも値しないということになってしまうということだ。ある理論の要求が厳しくなればそれだけ、その理論はこの種の問題に悩まされることにあり、パーソンに対する尊敬や自律の尊重といった道徳的原則の射程と要求を解釈するのが難しくなってしまう。

こうした問題に対処するため、要求される認知的活動性のレベルやクォリティを下げるにつれ、それを通過する人数は増えるが、これはヒト以外の動物についても同様である。より緩やかな条件{\——}たとえば、理解力と自己コントロール程度{\——}を満たす場合に、これには程度の差があることになるだろう。それゆえ、十分な理解力と自己コントロールと、不十分な理解力と自己コントロールとを分ける閾となるラインが理論のなかで定められねばならない。ここでもまた、閾を高くすれば、我々がふつう自律的なパーソンだとみなしているヒトの多くが排除されることになり、閾を低くすれば少なくとも人間以外の動物も含まれることになる。

実質的には、パーソン性や自律の基準のすべては程度の差を許すものであり、そのほとんどは時間につれて発達する。合理性と理解力は明らかに程度の差を許す(もっとも自己意識はもっと難しいケースである)。自律に程度の差を認めるような{\——}そしてそれゆえおそらくパーソン性にも程度の差を認める{\——}理論は、ある種のヒト以外の動物が、ある種のヒトより自律のレベルにおいて高い地位におおかれるという可能性を認めなければならない。ヒトが一般にこれらの基準で他種の動物より高いスコアを持つということは、偶然的な事実であり、ヒトという種に必然的な真理ではない。なにかの事故にあった後や、能力が衰退してしまった後のヒトよりも、ヒト以外の動物が上回るかもしれない。たとえばもし、言語実験室でトレーニングを受けたチンパンジーが、悪化したアルツハイマー患者を認知能力のあるスケールで上回れば、チンパンジーはより高いパーソン性を獲得しており、それゆえより高い道徳的地位をもつということになってしまう。しかし先に指摘したように、パーソン性について認知的基準にのみ訴える形而上学理論は、道徳的パーソンについても道徳的地位についてもそうした結論を含意することはない。この二つのトピックに移ることにしよう。

道徳的パーソン性の概念

形而上学的パーソン性と比べると、道徳的パーソン性は比較的単純である。私は道徳的パーソン性の必要十分条件についてを説明を試みることはしないが、次のような生物は道徳的パーソンであると想定してもかまわないように思われる。(1)行為の正不正について道徳的な判断をおこなう能力がある、(2)道徳的に判断されうる動機をもつ。これは道徳的能力と認知能力の基準でああるが、道徳的に正しい行動や性格の十分条件ではない。道徳的パーソン性の基準をクリアしても不道徳な個人が存在しうる。この基準を明確に説明するには、先に議論した認知的能力の一部が必要である。たとえば、道徳的判断をする能力は合理性を要求することになるかもしれない。上の二つの条件を擁護し、それを先に議論した認知的条件に結びつけるには、道徳的パーソン性についての一般的な理論が必要になるだろう。

しかしながら、そうした一般的理論は私が擁護しようとしている二つの基本テーゼのためには必要はない。最初のテーゼは、道徳的パーソン性、形而上学パーソン性(の認知的理論)とは異なり、道徳的地位の十分条件である。道徳的行為者は道徳的地位をもつ典型的な存在である。道徳的パーソン性の基準をクリアしている存在者は、道徳的コミュニティのメンバーであり、その恩恵、負担、保護、罰を受けとる資格がある。道徳的パーソンは道徳的互恵性と他者を道徳的パーソンとして扱うという共同体の期待を理解している。道徳性という制度そのものの核心にあるのは、道徳的パーソンは尊敬に値し、道徳的行為者として阪南されるべきだということである。道徳的パーソンは、我々がその動機や行動を非難し、無責任な行動を責め、不道徳な振舞いを罰することを知っている。コミュニティによって提供される道徳的保護は、道徳的パーソンの基準をクリアしていない弱者たちにも広げられうるが、こうした個人の道徳的地位は、道徳的パーソン性とは別の基盤にもとづけられなければならない。

第二のテーゼは、ヒト以外の動物は、類人猿やイルカや同様の特性をもった動物は例外となるかもしれないが、道徳的パーソン性の候補としては見込みがない。ここで私はチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』(Darwin 1981, Chapter 3)を引きあいにすることにしよう。彼は動物が時に道徳的感情や傾向性を示すことを断言しつつも、道徳的判断をおこなうことを否定している。たとえば、彼によれば、動物が他の個体を罰するときには本当の非難の判断をしているのではないが、好意や愛着や寛大さを示すことはあるとしている。ダーウィンは良心(ヒトにおける道徳感覚)をヒトという動物に見いだされる「属性のなかでももっとも高貴なもの」と読んでいる。「私は、人間とそれ以下の動物のあいだに見いだされる違いのなかで、道徳感覚ないし良心が最も重要であると主張する人々の判断にまったく同意する」。ダーウィンはこうして、ヒト以外の動物は道徳的パーソン性のテストに落第だと考えた。

ヒトもまた、道徳的パーソン性の条件のどれかに欠ける場合には道徳的パーソンの基準に落第する。もし道徳的パーソン性が道徳的権利の唯一の基盤であるならば(私はそうは考えない)、このようなヒトは権利をもっていないことになる{\——}これはヒト以外の動物と同じ理由からである。保護されないヒトはおそらく胎児、新生児、サイコパス、重篤な脳障害患者、各種の認知症患者などになるだろう。私はここでこうした個人はなんらかの権利をもち道徳的保護に値すると論じるつもりだが、それは道徳的パーソン性によってではない。こん点で、こうしたヒトたちは多くの動物たちと同じ状況にある。彼らの道徳的地位の根拠は、形而上学的パーソン性あるわけではないのと同様に、道徳的パーソン性にあるのでもない。

パーソン性を欠く場合の道徳的地位

動物や道徳的パーソン性を欠くヒトにとって、道徳的地位をもつためにはタイプのパーソン性も必要ないことは幸運なことである。なにひとつ認知的あるいは道徳的能力をもたなくても道徳的地位をもつ生物もいる。その理由は、ある種の\kenten{非認知的}な性質や\kenten{非道徳的}な性質が、道徳的地位の尺度を与えるに十分だからである。

少なくとも、二種類の性質が生物に資格を与える。痛みと苦悩の能力という性質と、情動剥奪★という性質である。 ジェレミー・ベンサムが指摘したように、認知的性質よりも痛みを感じ苦しむ能力の方が、ヒト以外の動物の道徳的地位にとって重要である。最近までめったに議論されることがなかったとはいえ、動物の情動的生活も同じくらい重要である。 動物は愛、喜び、怒り、恐れ、恥、孤独などや、環境によって大きく変更され歪められ制限されうる広い範囲の情動をもっている(Griffin 1976; Orlans et al. 1998; Masson and McCarthy 1995)。

ヒト以外の動物は、痛みや苦しみの回避や情動剥奪に多くの利益をもつ。原則的に、そうした個体の地位は、ある種のパーソンの道徳的権利や利益を凌駕するほど道徳的に重要でありうる。たとえば、動物の利益は、調査をし、動物園をもち、博物館を運営し、農場を営むといったことについてのヒトの(認められた)権利を凌駕することもありえる。

苦しみや情動的喪失や他の多くの種類の害を与えることを避けるべきだという禁止命令は、道徳の原則のなかでも最も確立されたものである。この禁止命令は個体を保護するためのものだが、それは害がそれ自体悪いものであるためであり、その個体が属するある生物種やタイプのメンバーにとって悪いものであるからではないし、また個体が道徳的パーソンであるから、あるいはそうではないかといった理由からではない。動物は痛みや苦しみや情動剥奪以外の害を避けることに利益をもっている。たとえば、動物は動作の自由や生命の継続を奪われないことに利益をもっている。動物の利益の範囲については私の議論の射程にはない。私が主張したいのは、単に、我々は動物に対して少なくともなんらかの責務を負っており、それは動物のパーソンとしての地位からは独立であり、また道徳的地位を与える非認知的・非道徳的な性質が、その責務の基礎にあるということである。この結論は、形而上学的・道徳的パーソン性を買いているヒトにも同じように当てはまる。

どんな動物が権利をもつか?

ここまでのところ、私はヒト以外の動物の道徳的地位が\kenten{権利}を含むかどうかを議論しないままだった。よく知られた論文で、カール・コーヘンが主張するところでは、権利とは一方の当事者が他方の当事者に対して行使することが妥当であるような要求であり、そうした要求はあるコミュニティの内部でのみ生じる。彼が論じるところでは、権利は「必然的に人間的なものである。その所有者は」道徳的判断を下し道徳的要求をおこなう能力をもった「パーソンである」。動物はこうした能力をもたないために、権利をもつことができないと彼は言う(Cohen 1986, p.865; 1990)。

こうした見解は広く受けいれられているものの、動物と人間の両方を危険にさらすものである。よりよい見解は、形而上学的あるいは道徳的パーソンであるかどうかにかかわりなく、ヒトも動物も権利保有者となりうるとするものである。この結論は、道徳的責務の多様な基盤についての私の各種の議論から帰結するのだが、これらの議論はここで、権利は責務と相関的であるという方と道徳で広く受けいれられている学説と組み合わせる必要がある。この説によれば、責務には、それが\ruby{本物の}{ボナ・フィデ}責務であるならば(つまり、芸術のための募金をする「責務」のような、単なる思いこみによる責務や個人の道徳的理想ではなく)、常にそれに対応する権利を含意する。「XはYをする、あるいはYをもつ権利をもっている」はそれゆえ、規則の道徳的体系(あるいは、場合によっては法的体系)が、誰かに対して、XがYをおこなったりもったりすることを可能になるように行為する責務、あるいは行為を控える責務を課しているということを意味する。権利についての言語は、常にこうした仕方で責務についての言語に翻訳することができる。たとえば、もし研究者が被験体動物にエサをやる責務や、研究中に極度に苦痛のある手順を避ける責務を負っているとすれば、被験体動物はエサを与えられ、研究中に痛みを味あわない権利をもつ。相関性は、責務を認識している者は誰でも、動物がそれに対応する道徳的権利をもつということを\kenten{論理的に}認め\kenten{なければならない}。コーヘンや思慮深いパーソンのほとんどは、ヒトには、なんらかの源泉から発生するヒト以外の動物に対する責務があると信じているのだから、動物はそれに相関する権利をもつということになる。

また権利の保有者は、その権利を主張できる立場にあるかどうかとは独立である。ある権利保有者が特定のケースで必ず原告である必要はない。たとえば、幼ない子供や心理的にハンディキャップを負っている人々は、自分の権利を理解し主張することができないかもしれない。しかしながら、そういう人々も権利をもっているのであり、そうした人々のための要求は適切な代理人によってなされうる。同じように、動物はヒトがそれに対して負っている責務に対応する権利をもっており、また、動物自身やその代理人が権利を行使することのできる立場にあるかどうかにはかかわらずそうした権利をもっているのである。

動物や道徳的パーソン性に欠けているヒトの諸権利が正確にはどのようなものであるとしても(またその道徳的地位がどのようなものであるにしても)、そうした権利は道徳的パーソンが享受する諸権利と同じではないだろう。熊やビーグル犬は、道徳的パーソンに見られる責任能力や道徳的行為者性に欠けているため、その権利はちがったものになる。道徳的パーソン性の理論は、なぜある種の存在者は完全な道徳的地位をもつのかを教えてくれることになるだろうが、部分的な道徳的地位から他の存在者を締めだすに十分なほどパワフルなものにはならないだろう。このポイントはトリヴィアルではない。というのは、我々がヒトやヒト以外を使用することについての最も重要な道徳的問題{\——}たとえば、臓器の提供元として、あるいは実験の被験体として{\——}は、こうした動物たちが正確にはどういう道徳的地位をもっているかということ次第だからである。

パーソンの概念の曖昧さの問題

パーソン性理論の最後の問題は注意に値する。パーソンの基準についての文献群は、胎児、新生児、不可逆的昏睡、神、異星人、大型類人猿などさまざまなケースでのやっかいな論争でぬかるみにはまっている。こうした存在者についての事実は、論争の源泉ではない。問題は、パーソンの日常言語的な概念の曖昧さと本質的な論争可能性によって作り出されており、この概念は、心理的特性のかなりかなり\ruby{綻びのある}{オープンテクスチュアド}組合せによって構成されているヒト個体へのコミットメントをともなっている。

この概念の曖昧さは、パーソン性についての一般的理論によってはおそらく解消されそうにない。それが可能なのは、そうした理論が\ruby{改革的}{リヴィジョナリ}な場合だけである。理論というものは、たいてい、パーソンの概念の曖昧さを反映するものであり、人々を啓発するよりはむしろ意見の対立をかきたてるものである。理論はパーソン性についての複数の十分条件のセットがあるという主張の根拠しか与えてくれない。パーソンであるための必要にして十分な条件が見いだされる可能性は現在では霞んでしまっている。単純に言って、パーソンの概念は、、ある一般的哲学理論が他の理論を排除することを支持してくれるほど秩序だってもいなければ正確でもなく体系的でもない。

このパーソンの概念の曖昧さの問題を解決する一つのはっきりした方法がある。それを規範的分析から消去し、もっと特定化された概念と問題に関連する性質で置きかえてしまうのである。私は、形而上学的パーソン性と道徳的パーソン性の両方について この選択肢を選びたい。そうすれば、実質的な道徳的問題の核心に直接に迫ることができ、現在パーソン性の理論によって作りあげられてしまった遠まわりの道を歩まずにすむ。つまり、そうすれば、理性や道徳的同期など、ある特定の非道徳的・道徳的特性をもつことの道徳的含意を直接に検討することができるし、あるいは権利を付与するための実質的な基盤について討論することができる。胎児を中絶することができるか、異種間移植は許されるか、無脳症新生児は人体実験に使用できるかといった問いは、それが道徳的根拠にもとづいているか、またその根拠はどのようなものかという問いによって見直されることになる。

こうした提案は、我々は形而上学的パーソン性や道徳的パーソン性についての哲学的理論を放棄すべきだということを含意していると理解されるべきではない。私の意図は、この両者の理論が規範的分析における乱用を根絶したいということのみであり、理論のものを根絶することではない。

結論

私が規範的問題や私が到達した結論の実践的な含意については比較的少しのことしか述べなかったが、これはこうした問いが重要でないからではない。最後にそうした問題がどれほど重要なのかについてコメントして終ることにする。

ヒトとヒト以外の動物の間に伝統的に引かれていた線を壊そうとしてたくさんのことがなされてきた。 もしヒト以外の動物がこれまで考えられていたよりもずっと発達した能力をもっていると判明すれば、そうした動物の道徳的地位はもっとヒトのレベルに近づくことになる。しかし、この可能性はいまだ思弁的であってもう一つのテーゼほどは重要ではない。その重要なテーゼとは、多くのヒトはパーソンの特性を欠いている、あるいは完全なパーソン以下なののだから、道徳的地位において、ある種のヒト以外の動物と同じかそれ以下の地位におかれるとするテーゼである。もしこの結論が擁護可能だとすれば、我々はそうした不運なヒトは関連する点で似たようなヒト以外の動物と同じようには扱われることはできないという伝統的な見解を考えなおす必要があることになる。たとえば、そうした人々が、実験の被験者や臓器提供者として攻撃的に使用されることになるかもしれない。

おそらく、我々は伝統的な慣行を、パーソンや非パーソンという地位もとづく以外の仕方で正当化できるだろう。しかし、もし我々が説得的な別の正当化を見つけられないならば、我々は動物を現在のように使うべきでないか、あるいは、ヒトを現在使っていないように使うべきであるということになる。

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注は面倒なので訳してないです。参考文献等は原文 \url{http://faculty.risd.edu/dkeefer/mow/failure.pdf}をどうぞ。

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翻訳ゲリラ:スタンフォード哲学辞典「所有と所有権」

Jeremy Waldron (江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com 訳) http://plato.stanford.edu/entries/property/

某授業のためのゲリラ訳。英文と読みくらべて誤訳誤字などご指摘ください。この文書に適当にコメントしてもらってOKです。スタンフォード哲学事典は権威ある哲学事典で、哲学入門にぴったりです。Jeremy Waldron先生はニューヨーク大学の教授で、すごく偉くて所有権の権威。 http://en.wikipedia.org/wiki/Jeremy_Waldron

(江口による語句についての解説: 「property」はしばしば「所有」と訳されるわけですが、ここでは基本的に「財産」として訳してたんですが、けっきょく「所有」に一括変換しました。いちばん基本的な意味は「〜のもの」。自分のもの、彼のもの、彼女のもの、というふうに所有者が決まっているのが所有物であり財産。この用法では、財産権はproperty right。ただ、propertyっていうのが個々の物体ではなく、抽象的に「〜のもの」であることを決める制度や慣習を刺す場合もあって、ここらへんいろんな日本語文献で混乱するわけです。まだちょっと訳語決めかねてるところがあるです。)


所有propertyとは、土地やその他の物質的資源の利用と支配力を統制するルールを指す一般的な言葉である。こうしたルールは一般論に関してもそれぞれの特定の適用方法に関しても論争の的になっているため、所有の正当化に関しては興味深い哲学的論議がある。現代の哲学的議論が注目しているのは、多くの場合、(共有所有 common property や集団的所有 collective propertyに対立する意味での) 私的所有権 (private property rights)である。「私的所有」とはある範囲の土地を、特定の個人に割り当てるシステムを指す。当の個人は、その土地を好きなように使用・管理し、他の人々を排除し(その資源を当人よりもっと切実に必要とする人々さえも排除する)、また社会からの細々とした支配もまた排除することになる。こうした排除からすると私的所有は疑わしいものに見えるのだが、哲学者たちはしばしば、個人の倫理的発達のため、あるいは、人々が自由で責任ある行為者として反映できる社会的環境を作りだすために、私的所有は必要だと主張する。

1. 分析と定義の問題

所有についての議論は、他の政治哲学者が扱う各種政策の問題領域にもまして、定義の問題に悩まされている。最初の問題は、所有(property)と私的所有(private property)の間をどう区別するかというものである。

厳密にいって、「所有」は人々が土地や天然資源や、生産手段、製造物、さらには(学説によっては)テキストやアイディア、発明、その他の知的生産物などの利用と支配力を統制するルールをさす一般的な言葉である。こうしたものの使用についての意見の不一致は深刻なものになりやすい。資源の利用は人々にとって重大なことだからである。その対象が希少でありかつ必須である場合には特に深刻なものになる。所有関係は稀少性という条件においてのみ意味をなすと主張する人々もいる(Hume [1739] 1888, pp. 484–98)。しかし、他にも意見の衝突の原因もありえる。たとえば、土地一般が希少であるかどうかにかかわらず、その土地の歴史的・象徴的意味からして、ある土地がどのように使われるべきか、について争われることがありうる。(知的所有は、稀少性に直接には対応しない所有のルールの一例となる。そのうえ、物質的対象とちがって、知的所有の対象は利用が混雑してしまうなどということはない。誰かが知的所有の対象を使用していても、他の人が何人でもそれを使用することができるからである。)

衝突を避けることで利益を受けるどんな社会も、そうしたルールのシステムを必要としている。その重要性はどんなに評価しても評価しすぎになることはほとんどない。というのは、そうしたルールのシステムなしには、協力も生産も交換も、実質的にまったく不可能になってしまうか、そうでなくとも、「ブラックマーケット」で見られるようなひどく不完全な形でしか可能でなくなってしまうからだ。こうした必要性は、しばしば私的所有を擁護する議論として取り上げられる(Benn and Peters 1959, p. 155)。実際のところは、こうした議論が立証するのは、なんらかの種類の所有のルールがあるべきだ、ということにすぎない。私的所有のルールはそのヴァリエーションの一例にすぎないのである。土地や他の経済生活での主要な資源についての私的所有やそれに類したものを認めずに、メンバーの必要と欠乏を満たしてきた社会は数千年にわたって存在してきた。したがって、所有についての健全な論証のための第一歩は、所有一般の存在を支持する議論を、特定の種類のシステムの存在を支持する議論から区別することである(Waldron 1988)。

所有制度には三つの種類がある。共有 common property、集団的所有 collective property、そして私的所有 private propertyである。共有システムでは、資源は、社会のメンバー全員誰でも使用してよいというルールによって統制されている。たとえば共有地 common landは共同体の誰もが牛に草を食べさせたり食べ物を蒐集したりするために用いてよい。公園は誰もがピクニックやスポーツやレクリエーションに使ってよい。使用になんらかの制限を課すとすれば、その目的は、他の人々の使用を排除するような仕方で共通の資源を使うことを防ぐため、公正な利用法を保証するためにすぎない。集団的所有はこれとは違った考え方である。こちらの場合、全体としての共同体が、重要な資源がどのように使われるべきかを決定することになる。こうした決定は、集団的意志決定による社会的利益にもとづいて行われることになる——こうした決定は長老たちの気の長い談論から、ソヴィエト風の「5ヶ年計画」の計画と実施まで、さまざまな仕方で行われうる。

私的所有は、集団的所有と共有の両者に対する代替案である。私的所有システムでは、所有のルールは、さまざまに争われている資源は個々の個人(あるいは家族や企業)の決定権に割り当てられるのだという考え方をめぐって組み立てられている。ある対象が割り当てられている人は、その対象に対する支配力をもつ。つまりその対象になにがなされるべきであるかを決めるのはその人なのである。その人は、他の人になにも説明をせずに自分の発案で扱ってよいし、他の人々と共用してもよい。自分の好きなようにしてよい。それどころか、この決定権を誰か他の人に譲渡してもよい。この場合、その譲渡された人がもとの人と同じ権利をもつことになる。一般的に言って、所有所有者proprietorが自分の所有している資源について自分の好きなように決める権利は、他の人々が所有者の決定によって影響をうけるかいなかにかかわらず適用される。もしジェニファーが製鉄所を所有しているとすれば、それを閉鎖するか、プラントを動かし続けるかを(自分自身の利益のために)決定するのは彼女である——たとえ鉄工所を閉鎖するという決定が労働者や地域共同体にどんなに困ることになっても。

私的所有は個人の意思決定のシステムではあるが、社会のルールでもある。所有者は自分に割り当てられた対象について自分の利益にかなった決定をする権利を守るために自分の力だけに頼らなければならないわけではない。もしジェニファーの意に反して、雇っていた労働者たちが製鉄所を占拠して操業を続けた場合には、警察を呼んで労働者たちを退去させてもらうことができる。自分自身で労働者を退去させる必要はないし、それにお金を払う必要さえない。したがって私的所有はいつでも公的に正当化されていることが必要になる——なぜなら第一に、私的所有は、希少資源の使用法について他の人々の必要や公共の善に必ずしも配慮しないかたちで決定する権威を個人に与えるからである。また第二に、私的所有はそれを許可するだけでなく、それを支えるために公的な費用を使って公的な武力を動員することになるからである。

東欧や旧ソヴィエトの社会主義体制が崩壊し、世界中で市場経済が勝利した現代では、こうした正当化の問題はもはや意味がないと思われるかもしれない。経済的集産主義(economical collectivism)がもはやまったく信頼に値しないのであるから、私的所有を正当化するという問題はもはやいわずもがなの問題だと結論したくなる。つまり、単に他の選択肢がないのだ{からしょうがない}、というわけだ。しかし、ある制度の正当化の議論を行うのは、単にその制度を競争相手に対して弁護するためだけではない。正当化というものはしばしばそのシステムをまともに理解し、またそれをうまく運用するためにも行われる。所有について考えるとき、私的所有というものを認める理由はどこにあるのかということを意識して議論しないかぎりほとんど意味をなさないような問題群がある。そのうちの一部はごく専門的なものである。たとえば、永代所有を禁じるルールや、土地所有の登記{という制度}、あるいは遺言の自由に対する制約などを考えてみよう。こうしたものはすべて古風で理解しがたい単なる決まり事で、せいぜい丸暗記して憶えるしかないことがらのように思われるかもしれない。しかし我々がこうした決まり事を、なぜ我々は物質的資源に対する個人の支配力(あるいは個人の支配力に対する傾向性)の背後に社会的権威を与えるのか、ということの理由と結びつけて理解しようとするなら話は変わってくる。

同じことはもっと大きな問題についても言える。米国憲法修正第5条は、私的所有は賠償なしに公共の用途のために取り上げられることはないと定めている。明らかにこの条文は、たとえば射撃場や空港のために誰かの土地を徴収することを禁じている。しかし、国家が所有者に対して、近隣住民の歴史的美的見地に配慮して近代高層ビルを建ててはならないと告げて土地の利用を制限するとしたらどうだろうか。明らかに、所有者は損失を被ることになる(彼女は高層ビルを建てるつもりで土地を購入したかもしれない)。しかし一方、我々はなんらかの制限が課されたときにはいつでも{憲法で禁じられた}「取り上げ」takingが行われているのだ、などとは言うべきではない。私は自分の車を時速100マイルで走らせることは許されていないが、それでも私はその車の所有者である。こうした問題は、私的所有にこうした憲法上の保護を与えることにどういう理由があるのか(もしそうした理由があるとしてだが)ということを再度考えてみなければまともな答えを出すことができないものである。私的所有が保護されているのは、国家が資源の利用についてまともに決定する能力について我々が疑問を抱いているからだろうか?あるいは、公共の善のために個々人に期待されることになる負担の重さを制限したいからだろうか?私的所有産権(private ownership){を認めること}が寄与するとされている究極的な価値をどう理解するかということが、先の「取り上げ」条文や他の規則の解釈に大きな影響を及ぼすことになることになるだろう。

もちろん、私的所有と集団による管理は、二つに一つの選択ではない。現代社会では、共有ルールによって統制されている資源もあれば(道路や公園など)、集団所有ルールによって統制されている資源もある(軍事基地や武器など)。また、私的所有者が自分に割り当てられた資源を自由に使える度合いもちがう。所有者の自由が、背景となっている行動ルールによって制限されているのは明らかである。たとえば、私は他人を殺すために自分のピストルを使ってはならない。こうしたものは厳密な意味では所有のルールではない。もっとポイントに近いのは、ゾーニング規制のようなものである。結局のところこうした規制は、資源の利用のある側面について、集団的な決定を{所有者に}押しつけることなる。たとえば、歴史地域にある建築物の所有者は、その建築物を販売店や住宅やホテルにしてもよいが、解体したり高層ビルに立て替えたりしてはならないと指示されるかもしれない。このケースでも、歴史的建築物は私的所有として考えられていると言うことができる。しかし、公的機関によって、他にもあまりに多くの決定事項が支配力されることになるとすれば、それは実は集団的所有ルールの支配下にあるのだ(「所有者」は社会の決定にしたがった管理人の役目をしている)と表現したくなる。

それゆえ、私的所有の定義について、所有者が自分の資源について絶対的な支配力をもっているという含意をもたせようとするのはおそらく誤っている##。法学者のなかには、「所有」や「所有権」という言葉は、専門的な議論からは排除されるべきだと考える者もいる(Grey 1980を参照)。こうした法学者らによれば、ある人をある資源の「所有者」と呼んでも、その資源に関する当人の権利についてはっきりした情報を何も伝えてくれないのである。たとえば法人所有者は、個人所有者とは違う。また、知的所有{物}の所有者は、自動車の所有者とはちがった権利群をもっている。またさらにはまったく同一の資源についても、所有地になにも抵当がかかっていない地主の権利(と義務)は、抵当権所有者の権利(と義務)とはまったく別のものである。

こうしたわけで{所有や所有権という言葉を}排除してしまえという提案が意味が理にかなってくる。つまり、私的所有者の地位というものは、問題になっている対象の排他的な使用と支配力についての単一の権利としてではなく、場合によって多種多様な、複数の権利の束であると理解するのが最善なのである(Honore 1961)。「排他的な使用」という観念でさえ複合的な観念である。第一に、これは所有者が自分の好きなように(一般に受けいれられている利用の範囲内で)自由に対象を使用できるということを含意している。第二に、他の人々は所有者の許可なしに対象を使うことを控える義務を負っているということを含意している。この許可という点は、さらに、所有者は他人に自分の所有物の使用を認可する権力をもっているということを含意している。所有者は自分の自動車を貸し、家を賃貸し、土地を通行する許可を与えることができる。こうした権力の結果、また別の所有益(property interests)が生みだされ、所有権に関する各種の自由や権利や権力が複数の個人の間で分割されるということになる。

さらに印象的なのは、所有者は自分が所有している対象に対する権利の束を誰か他の人に全面的に移譲してしまう権限を法的に与えられていることである——ギフトとして、あるいは当人の死後の遺産として。この権限によって、私的所有のシステムは自己維持的になる。いったん対象を所有者に割り当ててしまえば、共同体や国家が配分の問題についてさまざま煩わしいことを考える必要はなくなる。{所有の}対象は個人所有者やその譲り受け人の思いつきや決定が命じるところにしたがって流通することになる。その結果、富が広範に配分されることもあるだろうし、また非常に限られた数の人の手に集中することもあるだろう。こうした大きな構図に関わる責任を誰も負っていないということが、私的所有の論理の一部なのである。社会は単に所有権が含意する排他的な権利を強制することに配慮するだけでよい。富める者と貧しい者の間のバランスに対する配慮は、公共政策の別の問題として扱われる(税制や福祉政策の問題として、あるいは極限的in extremis に広範な再配分の問題として)。あとで見るように、これが私的所有のシステムの長所であるのか、あるいは非難されるべき点であるのかということについて哲学者たちの見解は分かれる。

こうした分析を続けていると、最終的には私的所有の概念はまったくのところ完全に論争の的?になってしまう。所有権が相続権を含むと信じている人々は多い。しかしミルが述べたように(Mill 1994 [1848], p. 28)、私的所有というアイディアは、ただ「各自の、自分自身の能力に対する権利、当人がその能力によって生産するものに対する権利、そしてその生産物と引き換えに公正な市場で入手することができるものに対する権利」しか含意していない。ミルが言うところによれば、生涯においてなにも所有物を処分しなかった個人が、その所有物を子どもに相続させることは「正当な取り決めかもしれないしそうでないかもしれないが、とにかくそれは私的所有の原則からの帰結ではない(同上)」。こうした論争に対してはっきりした決着をつけるのはおそらく不可能である。ある種の概念は「本質的に論争のタネになる概念」としてみなされるべきだと主張する哲学者もいる(Gallie 1956参照)。もしこうした示唆にかなったものがあるとすれば、私的所有はまさにその一つである(Waldron 1988, pp. 51–2を参照)。

2. 所有の歴史

所有に関しては、プラトン、アリストテレス、トマス・アキナス、ヘーゲル、ホッブズ、ロック、ヒューム、カント、マルクス、ミルといった{哲学者の}著作のなかで広範囲にわたる議論が行なわれている。こうした哲学者たちが考察した正当化に関するテーマは非常に広範囲なので、その要約からはじめることにしよう。

古代の哲学者たちは、所有と徳との関係について考察した。これは彼らにとっては自然な議論の主題だった。というのも、私的所有を正当化しようとすることは、自己利益にかなった活動の正当性という重大な問題を引き起こすからである。プラトン(『国家』462b-c)は共通の利益を追求する共通の企てを促進し、「{国ないしは国民について起こっている}同じ状態に対して、ある人々はそれを非常に悲しみ、ある人々はそれを非常に喜ぶ(藤澤訳)」といった、社会的な不和を避けるためには、集団的所有が必須であると論じた。アリストテレスはこれに対して、私的所有は思慮や責任といった徳を促進すると主張した。「所有の配慮・責任が人々のあいだに配分されるなら、彼らはたがいに文句をつけることもないであろうし、かえって各人が自分のものに打ちこむから、いっそう大きい効果をあげることになるだろう(『政治学』1263a、牛田訳)」。利他性を促進するためですら、私的所有制度そのものを問題視するよりも、むしろ私的所有の権利を行使するあり方に倫理的な注意を向けた方が有効だとアリストテレスは言う(同上、{牛田訳p.60})。アリストテレスはまた私的所有{物}と自由の関係についても考えた。所有権はひとを自由な人間にし、それによって市民権をもつにふさわしい者にする。古代ギリシア人は自由であることを奴隷であることとの対比のものでとらえた。そしてアリストテレスにとって、自由であることは自分自信に属することであり、自分自身のもちものであって、奴隷はその本性によって他人の所有物である。自己所有self-possessionとは、自分の欲望から十分な距離をとり、有徳な自己コントロールを行うことである。こうした考え方によれば、自然の奴隷は、理性が身体的な欲望に対してルールに従うことを命じることができないのだから不自由なのである。アリストテレスはこの論点を、奴隷制を超えて、「労働者」the meaner sort of workmanにまで拡張することを躊躇しない。あまりに{生活の}必要性に迫られているため、貧乏な人々は「あまりにも品格を欠き」、そのため、自由人のようには政治に参加することができない。アリストテレスは「奴隷からなるポリスを作ることはできないように、貧困者からなるポリスを作ることもできない」(1278a ★発見できず)と述べている。奴隷と同じく、貧困者は支配されなければならない。さもなければ、労働者たちの差し迫った必要性が、嫉妬や暴力の問題を引き起こすからである。こうしたテーマのいくつかは公民的共和主義の理論でも最近あらわれている。ただ、現代の公民権citizenshipに関する理論は、誰が公民であるべきかに関する感覚から議論をはじめ、次に公民は皆所有(権)をもつべきだという議論する傾向があり、公民であるための独立した条件として、現に所有をもっているという条件を用いることは少ない。

中世においては、トマス・アクィナスがある人物の徳はその所有物の使用法に表われるとするアリストテレス的な考え方を継承し議論した。しかしアクィナスはそれにこうした議論の刃をさらに鋭く研ぎ澄ませた。裕福な者は寛大に振る舞う道徳的義務があるだけなく、貧困な者も裕福なものに要求する権利をもっているのである。アクィナスは「神の恩寵によって確立された自然的秩序にしたがえば、より下位の事物は、人間の必要を満たすという目的を命じられている」という前提からはじめる。そして彼は、人間の法にもとづく資源の分け方が、貧困と結びついた必要性より優先することはけっしてありえないと主張した。これは我々の伝統において、私的所有の正当性について述べたてられる事柄に対する本質的な制限としてなんども繰り返し現れるテーマである——もっとも有名なのは、ロックの統治論第一編(Locke 1988 [1689], I, para. 42)だろう(Horne 1990)。

近代に入ると、哲学者たちは所有が制度化されているありかたに注意を向け、ホッブズやヒュームは自然な「私のもの」や「あなたのもの」は存在しないこと、そして所有は主権国家の創設物であること、あるいはせいぜい協約(convention)による人工的な生産物であると主張した。こうした協約に「社会の成員が参加するのは、外的な財external goodsの所有を安定させるため、また各人が自分の幸運と努力によって獲得したものを平和的に享受することができるようにするため」である(Hume 1978 [1739], p. 489)。一方ジョン・ロック(1988 [1689])は、なんら特別な協約や政治的決定が存在しない自然状態においても、所有は成立しえたはずだと強硬に主張した。

ロックの理論は所有に関する正統派の論議のなかでも最も興味深いものであると広く認められている。これはひとつには彼の論述のはじめかたが興味深かったからでもある。ロックは自分の出発点として、神は人類に共通に世界を与えた、ということを出発点にしているので、私的な権利の保有というのはそもそものはじめから問題含みになることを認めざるをえなかった。我々はいかないして共通で与えられた状態から、「不均衡で不平等な地上の所有」に至るのだろうか?先行する論者たちとは異なり、ロックは(暗黙的かもしれないが)普遍的合意の理論、などといったものにもとづいてこうした問題を解決しようとはしなかった。かわりに彼は、以下の最も有名なパラグラフで、単独的占有の正当性を道徳的に擁護しようとするのである。

大地は……人類の共有物であるが、しかし、すべての人が自分自身の身体に対しては所有権を持っている。これに対しては、本人以外の誰も、いかなる権利をも持っていない。彼の身体の労働とその手の働きは、まさしく彼のものと言ってよい。そこで、自然が与え、そのままにしておいた状態から彼が取り出したものは何であっても、彼はそこで労働をそこに加え、彼自身のものをつけ加えて、それへの彼の所有権が発生するのである。そのものは自然のままの状態から彼によって取り出されたものであるから、この労働によって他の人の共有権を排除する何かが付け加えられたことになる。(Locke 1988 [1689], II, para. 27)(伊藤訳)

ロックの理論のおもしろい点は、最初の占有に関する理論の構造と、労働に関する実質的な道徳的意義についての説明を合体させていることである。「最初の占有」理論がもとづく基盤は、自然資源——たとえば土地——の最初の利用者は、それを自分の所有物にするために他の誰かを押しのける必要はなかったという点で、他の人々からはっきり区別されるということである。そのひとがどのようにしてそれを所有したか、あるいは、それをどのように使用したか、ということは特に問題にならない。さて、ロックはこの理論の論理を用いたのだが、彼にとっては土地を耕したり、なんからの仕方で生産的な利用を行ったりすることが重要だった。(このため、ロックは現地の狩猟民や遊牧民が、歩きまわっている土地の所有者であると本来的な意味で言えるのかということに疑義を表明している。)これは、ロックが労働の所有権を、自分自身に対する根源的な所有権と実質的に結びつけているからでもある。しかしまたそれは、「最初の占有」理論に見いだされる難点の一部に、労働の生産性によって答を与えることができると彼が考えたからでもあった。最初の占有者はたしかに誰も排除しないが、彼がそれを自分のものにしたことは、もし、(ロックの言葉で言えば)他の人にも「共有物として十分なものが同じように残されて」(Locke 1988 [1689], II, para. 27)いなければ、他の人の利益を害していることになる。この難点に対するロックの答は、生産的な労働による所有取得は、実は社会において他の人が利用できる財の量を増加させているのだ、というものである(ibid., II, para. 37)。

イマニュエル・カントの所有についての考察はロックのものほど知られておらず、またロックよりも形式的で抽象的である。カントは所有と行為者との一般的関係を強調し、有益な対象が利用されることを許可するシステムが成立していなければ、行為者への、それゆえ人間の人格性への侮辱が行われることになる。カントはここから、「外的なもの(使用できるもの)が、だれかの自分のものになることができるように、他の人びとに対して行為することは、法の義務である」(Kant 1991 [1797], p. 74, Gregor訳p.42、岩波邦訳p.76)と推論する。こうしたことは一方的取得を正当化するが、しかしそれは暫定的なものにすぎない。資源を私的所有として取得することは他のあらゆる人々の立場に影響を与えるため(そういう事情でなければ追わなかった義務を課すことになる)、一方的な行為によっては完全な合法性を得ることはできないのである。したがって、外的な対象が所有物として使用できるように行為することを人々に要求する原理の力は、人々が市民的政体に参加することをも求める。そして市民的政体が、誰が何の所有者であるかを、全員にとって公平な基盤にもとづいて定めるのである。

G.W.F.ヘーゲルの所有の説明は、所有の自己の発展に対する貢献、すなわち「人格の主観性を止揚(『法の哲学』§41a)#」し、個人の自由という単なる観念にすぎないものに外的な実在を与えることに注目している。こうしたかなり曖昧な定式は、イギリスの観念論者たち、とくにT. H. グリーンなどによってもとりあげられた。グリーンは所有権が倫理的発達、意志や責任の感覚の育成に対してもつ意義を強調した。しかしヘーゲルもグリーンも、個人の成長が究極のものであるとは考えなかった。両者ともに、所有として具現化されている自由は積極的自由——すなわち、より広範な社会的全のために合理的に責任をおいつつ選択する自由であるとみなした。カール・マルクスの哲学においては、積極的自由の成長には段階があるというヘーゲルの感覚は、個人の成長よりはむしろ社会の発展の段階として捉えられることになった。マルクスが言うには、近代社会の発展の道筋全体は、大規模な協働へ向かっている。このことは、大企業を私的所有者とみなす所有の形態によって覆い隠されてしまっているかもしれないが、最終的にはこうした覆いは放棄され、集団的経済関係が出現しそうしたものとして祝福されることになる。

こうして、社会主義と比較した場合の私的所有の一般的な長所という問題が19世紀から20世紀にかけての本物の論争の主題となった。ジョン・スチュワート・ミルは彼らしく開かれた心で共産主義を正真正銘の選択肢の一つであるとして扱った。彼は集団主義的理想に対する各種の反論に対して、現存の資本主義社会における所有の不公正な配分はすでに多くの難点を伴っているという示唆した。しかし彼は、私的所有もまた正しく長所を見られるべきだと主張した。

もし……共産主義と、苦しみと不正義に満ちた現在の状況の間で選択しなければならないのなら、共産主義にまつわる難点は大きなものであれ小さなものであれ、天秤の上では埃のように軽いものにすぎない。しかし、こうした比較を適用するためには、最善の形の共産主義を、現状ではなく、ありえる個人的所有体制と比較しなければならない。……所有に関する法制度は、いまだに私的所有の正当化がもとづいている諸原理に適合したものになっていないのである。(Mill 1994[1848], pp. 14–15)

ミルは確かに正しい。少なくとも、所有に関する哲学的論議がなにを目指しているのかということに関しては。実際のところ、ここまで簡単に調べてきた歴史は、現に存立している偏った配分や搾取の塊から、理想的な私的所有のシステムを正当化できる本当の原理のなんらかの意味や、そうした制度が役に立つことになる道徳的取り組みの意味を梳き出そうとしていると見ることができるのである。

3. 所有は哲学の問題か?

所有のなにか哲学者の興味を引くのだろうか?なぜ哲学者は所有に興味をもつべきなのだろうか。

特に興味をもつ必要はない、という人々もいる。ジョン・ロールズは所有権のシステムは第二義的あるいは派生的な問題出会って、政治哲学的問題というよりはプラグマティックに扱われるべきだと論じた(Rawls 1971, p. 274)。どんな社会でも、経済の組織化が市場と私的所有権を基盤とするべきか、あるいは中央集権的な集団的支配を基盤とするべきかを決定しなければならないが、どちらにもしても哲学者がこうした論議において貢献できることはほとんどない、と。ロールズが言うには、哲学者は、社会的・経済的戦略についてのアプリオリな問いを解決しようとするよりは、いかなる社会制度の成立をも制約すべき正義についての抽象的な原理を議論していたほうがマシである。

一方、近年ますます公共政策一般に注目が集まっているので、所有に関する問題が哲学者が扱えるぐらいには抽象的な言葉で議論できるということを否定するのは難しい。ロールズは、われわれは所有よりもむしろ正義について語り合ったほうがよいと助言してくれているのだが、実際のところは所有の問題は近年政治哲学者たちを夢中にさせている正義の問題のなかに不可避にふくまれているのである。ある種の所有制度は他の所有制度よりも正義のためになるのはまちがいがない。社会のすべての資源あるいは資源の大半をカバーするような市場と私的所有のシステムは、平等、必要に応じた配分、あるいは一部の論者が主張するように――たとえばハイエク1976を見よ――功績に応じた分配といった原則をしっかり適用することをたいへん難しくしてしまう。一部の論者によれば、市場経済における所有の権利は、再分配分に抵抗的なものとして扱われるべきであって、またおそらく、最初の資源配分の瞬間を除いては、分配の正義一般へのインセンティブとして扱われるべきである(Nozick, 1974)。もし我々がこういう見解を採用し、分配の問題をまじめに考えようとすならば、私的所有による純粋な市場システムよりは、もっと妥協的で折衷的なシステムを支持しなければならないことになるだろう。

所有権関係そのものはどうだろうか?ある人の物質的始原にたいする関係の本性に内在的な哲学的に興味深い問題があるだろうか?ある人が「Xは私のものだ」といい、Xが行為であるとき、志向性や自由意志や責任といった興味深い問題があらわれてきて、哲学者はそれを追求したいと思う。あるいは誰かが「Xは人物Pに属する」といい、Xが出来事や記憶や経験であるとき、人物の同一性について興味深い問題がある。しかしXがリンゴや土地や自動車である場合には、XとPの間には、我々の興味をひくような内在的な関係は存在しないように思われる。

これがデビッド・ヒュームの結論だった。私的所有についてはなにも自然なものはない、とヒュームは書いている。我々の情念と、[物質的対象が]「遊動的である人から他の人に容易に移行する」ことの「対立」が意味しているのは、私が保有し使用している資源が常に破壊されてしまうかもしれないとうことである(Hume 1978 [1739], p. 488)。社会的ルールによって所有が安定するまでは、人と物の間には確固たる関係は存在しない。我々はそうした関係が存在するべきだと考えるかもしれない。たとえば我々は、人は自分が作ったものに対して道徳的権利を持っているとか、社会はこの道徳的権利に法的な裏付けを与えるべきだと考えるかもしれない。しかしヒュームによれば、特定のひとと特定の物との関係の規範的な意義について結論を下そうとする前に、まず一般にこうした種類のルールを取り決め実施することにどういう意義があるのかを当必要がある。

我々の所有とは、社会の法すなわち正義の法によって恒常的所持が確立されている物財に他ならない。したがって、正義の起源を解明し負えないうちに所有とか権利とか責務という言葉を使用し、あるいは正義の起源の解明にそれらの言葉を用いさえする者は、はなはだ大きな誤謬を犯す者であり、堅固な根底に立って論究することは決してできないのである。人間の所有とはその人間に関連した事物である。この関係は自然なものではなく、道徳的なものであり、正義にもとづいている。それゆえ、正義の本性を完全に把握し、その起源が人間の人為と工夫にあることを示さないままに、所有についてなんからの観念を得ることができるなどと想像するなどといったことは途方もないことである。正義の起源が所有の起源を説明する。まったく同じ人為が両方を生み出したのである。(ibid., p. 491)(岩波文庫p.64)

所有をめぐる問題は、社会体制の一般的な基盤についての問題を引き起こすということは、すでにトマス・ホッブズによって示されていた。実際のところ、ホッブズは所有を政治哲学の鍵であるとみなしていた。「人間がある物を他の人のものではなく自分のものと呼ぶべきだということはどこから由来しているのだろうか、ということが私の最初の探究だった」(Hobbes 1983 [1647], pp. 26–7 )。ホッブズにとって、所有のルールは権威の産物だった――公認された権威は、平和を保障し、人びとがそれぞれの力を使うだけでは守りきれないような社会的・経済的な活動に乗り出すことを安全にしてくれるのである。対照的にヒュームは、合意は権威を認められた人物によって課されるものというよりは、ふつうの人間の交渉から慣習(コンヴェンション)として生まれくるという可能性に興味をもっていた。

仮に譲歩して、所有は社会的ルールの産物であり、所有について規範的なことを考えるには社会的ルールについて規範的なことを考えなければならないということを認めるとして、所有関係は他でもないある一定の仕方で確率されるべきだと主張する哲学的な前提となる人間の条件なり具体的存在としての我々人間の活動agencyというものがあるかもしれない。明らかに、人が法以前の関係としてもっているように思われる物質的対象が少なくとも一つあり、哲学的分析に値する――それはすなわち、その当人の身体である。我々は身体をもった存在であり、ある程度自分の四肢や感覚器官などの使用と支配力は、我々の活動に欠くことはできない。ある人がこれらの支配力を奪われたとしたら――他人がその人の物理的身体の動きを妨げたり操ったりする権利をもっているとしたら——その人の活動はごく切りつめられたものになり、その人が自分の生活だとみなしているなにかをする意図と行為の能力を使うことができなくなってしまうだろう。現代の論者たちはジョン・ロックにしたがって、これを自己所有という観念のもとで考えようとしている。G. A. コーヘン (1995) によれば、ある人が自分を所有しているといえるのは、その人が奴隷だったらその主人がもつことになるような身体に対する支配力をその人がもっている場合である。さて、奴隷の主人は自分の利益のために奴隷をさまざまに使用する権限をもっているのだから、自己所有という観念からは、当人は自分の精神的・身体的資源に対する支配力から同じようにさまざまな利益を得ることが許されなければならないように思われる。所得に対する課税は(他人や国家のための)強制労働の一形態であるとするノージック(1974)からヒントを得て、コーヘンはさまざまな平等主義的政策(税金からの福祉支出など)は富裕者の自己所有と両立しないと結論する。それゆえ我々は平等の原理と自己所有の原理との間で選択しなければならない。この問題についての論議は続いている。自分自身や身体や物質的資源を所有するということを問う前に、まず我々がお互いに負っているものをはっきりさせねばならない。また別の論者によれば、きちんとした議論をしようとすれば必ず直感に反する結果になってしまう(Nozick 1974, p.234)。

自己所有権が、私の身体以外の外的な事物の所有を考える基盤を与えてくれるのかという問題もある。ジョン・ロックはたしかに与えてくれると考えた(Locke 1988 [1689], II, para. 27)。ロックは、私がある対象に対して作業したり、土地を開墾したりすることによって、私は自己所有している自己のなにものかをその物に投影する。この私が作業したなにものかが私のある部分を具現化している、ということは非常によくある感覚だが、これに分析的に性格な意味を与えることは難しい。ある対象が現状のようになっているのは、私の行為の結果そうなっているのだということはある。しかし、行為は通時的に成立しつづけていて、それがおこなわれた時点ののちにも、その行為はずっと対象のなかに存在しつつけている、などということはできない。労働を混入するという観念は、私的所有を擁護する他の議論を強化するレトリックではあるが、それ自体自立できる論証ではない。

まったく反対の方向への作用を考える論者もいる。自己を対象に投入するというよりはむしろ、事物を自己に併合するという作用を考えているのである(Radin 1982)。こうしたものがヘーゲルの著作での一つのテーマだった。そこでは、所有を所有することは、個人が「人格性の単なる主観性を止揚する」のを手助けすることになる(Hegel [1821] 1991, 73)。平明に言うと、所有の所有は、頭のなかでぐるぐるまわっているだけの企画や計画を具体的なものにする機会を個人に与え、また作業している対象の物質的事物――住宅や彫刻家の大理石の塊――が、彼らがおこなった決定の刻印を押されるということで、その意図についての責任をとる機会を個人に与えてくれるのである(see Waldron 1988, pp. 343–89)(★読めない)。ジェレミー・ベンサムのような功利主義者でさえもこうしたアイディアを云々している。ベンサムが言うには、所有は実定法にもとづいてはいるが、所有の法は、再配分を特段に反対すべきものにするような影響を自我に与えている。法は我々の期待に安全を提供する。そしてこうした安全が特定の事物に集中すると、その事物は当人の活動の構造の一部となる。「したがって我々は行動の一般的計画を形成する力能をもつことになる。それゆえ生の持続を校正するそれぞれの瞬間は孤立し独立した点でなあく、ひとつの全体の持続的部分となるのである。」(Bentham 1931 [1802], p. 111)★ (読めなくて現在ふて寝しております)

4. 所有の系譜学

我々の哲学的伝統では、所有の正当化についての議論はしばしば系譜学的に示される。つまり、それまでのところそうした制度をもっていなかった世界において私的所有が現れる仕方についてのストーリーとして示される。

もっともよく知られているのはロック的なストーリー(Locke 1988 [1689] and Nozick 1974)である。まず、自然状態と、土地は誰も特定の人のものではないという前提から話をはじめる。次に、個人が土地や他の資源を自分のものにして、個人的に使用ことがなぜ賢明なことなのか、またどういう条件でなればそうして自分のものにすることが正当化されるのかというストーリーを語る。個人は、自分のまわりに必要を満たしてくれる物があることに気づく。しかしそれぞれの人Xは、神や自然がそれをXだけ使用するようにはしてくれていないことにぼんやりと気づいている。他の人もそれを必要としているのである。すると、Xはなにをするべきだろうか?一つ明らかなことがある。もしXが、自分の身の回りにある資源を使う前に、それによって影響を受ける人びとによる集会が開かれるのを待たねばならならないとしたら、ロックが言うように「神が豊富に与えてくれているにもかかわらず、人間は飢え死にしてしまったであろう」(Locke 1988 [1689], II, para. 28)。したがって、個人は待っていないでそれを取らねばならない(ibid., I, para. 86)。人間は自分が必要とする物に「労働を混入し」、そうすることによって自己保存という自分の根本的な義務を果たし、また資源の価値を増大させることによって、それが間接的に他の人びとに対する利益にもなる。ロックのストーリーの最初の段階では、個人は共通に与えられた贈り物から、このように有徳で自律的な仕方で自分の必要を満たすことになる。ストーリーの第二段階では、個人はそれぞれ自分が獲得した財の余剰をお互いに交換することになる。ロックは余剰を人びとの共通の相続所有として残すとは言わない。むしろロックは、個人が自分が使い切れるよりも多くのものを獲得し、育て、作ること、そしてそれによって市場と経済的な繁栄一般が可能になることを容認している。しかし、市場と経済的繁栄によって不平等と貪欲と妬みが生じる。ロックの説明の最後の第三段階は、このようにして発生してきた所有権を守る政府の設立である(ibid., II, paras. 123 ff.)。このストーリが前提しているのは、政府の保護なしに誰が財を獲得し交換する権原をもっているのかという問題を個人は推論することができるということ、また、第一段階でも第二段階でも、所有についての社会的・政治的な意思決定は必要とされないということである(★reason throughがちょっと)。

もっとも基本的な一面において、ロックの系譜学は「最初の占有」理論の特徴をもっている。第一に、個人の獲得の正当性の大部分は、他人から直接に取り上げたりはしていないということから生じている。定義によって「最初の占有」は平和的なのである。もちろん、ロックの説明においても功利主義的な要素や徳理論的要素は色濃く存在している。労働の生産性や、「喧嘩好きで争いやすい人びとの貪欲」よりも「勤勉で理性的な人びと」とロックが呼ぶ人びとが特権をもつことなどである(ibid., II, para. 34)。しかし、歴史的先取という論点は欠くことができない。ある資源を誰が最初に使ったかということは重大であり、財が次第に手から手へと移譲された順番は現在の権原の正当性を理解する上で欠かすことのできないものである。ロバート・ノージック(1974)はこの種の「歴史的権原付与」理論をはっきりさせるために誰よりも重要な仕事をした。

すべての所有の系譜学がこうした形態をとるわけではない。デビッド・ヒュームはまったく違うストーリーを語っている。彼のアプローチでは、まず太古以来、人びとは資源を争ってきたのであり、いかなる時点でも事実上の de facto占有の配分は恣意的であって、それは力や欺きや幸運によってそうなっているにすぎない。さて、そうした戦いは無制限につづけることができる。しかし、重要な資源を所有している人びとと、他人から資源を奪いとりたいという誘惑にかられている人びとが、さらに収奪活動をおこなう限界費用が、限界利得と等しくなるとわかる安定した均衡状態におちつくというともありえる。こうした状況下では、「平和的な配当」のようなものが可能になるかもしれない。おそらく誰もが、もはや占有物をめぐって戦わないと合意することによって、葛藤の減少や、社会的関係の安定や市場での交換の見込みを得ることができるだろう。

私の見るところでは、他人が私について同じしかたで行為するとするならば、他人に他人の持ち物を他人に持たせておくのが私の利益にかなうだろう。他人も自分の行動を規制することに似たような利益を感じとる。こうした共通の感覚がお互いに表明され、お互いに知られれば、それに適合した決意と振舞いが生み出されることになる……。(Hume 1978 [1739], p. 490)

こうした決意は、それが継続すれば、時が経つにつれて事実上のde facto所持を法的なde jure所有として承認することにつながる。ロックの理論と同じように、ずっと後になれば、こうして非公式に発生した所有の慣習を強制するために、国家が図式のなかに現れることになる(ibid., pp. 534 ff.)。しかし、ヒュームのストーリーがロックの理論よりも道徳的な主張についてははるかに穏健なものであることに注意しておこう(see Waldron 1994)。このようにして生じてきた配分は正義とはなんの関係もないし、また財が獲得された行為の道徳的性質とも関係がない。おこなわれた配分は公正な場合もあればそうでない場合もあり、また平等な場合もあればそうでない場合もある。しかし参加者は、もはやふたたび他人と力比べをしても、ずっとよい配分を期待することなどはできないことをすでに知っているのである(このアプローチの現代版についてはBuchanan 1975を見よ)。

所有に起源に関する説明として、ヒュームの理論はライバル理論よりすぐれている点がある。それは、人類の歴史の初期は、原理原則などといったものによってほとんど規制されない葛藤があり、後代の道徳的探究には不透明な時代だった、ということを認めている点である。ヒュームの理論によれば、我々は歴史を探究して誰が誰に何をしたかとか、そうしなかったらどうなっていたであろうか、などということを考えなくてもすむ。いったん占有のパターンが生じたならば、あとは適当な線を引いて、「所有の権原がここから始まる」と言いさえすればよい。このモデルには現在にとっても重要な規範的帰結がある。現在成立している所有の配分を疑問視し、転覆させたいという誘惑に駆られている人々は、いくら頑張ってそんなことをしたところで、正義の新時代を切り拓くどころか、すべてが白紙で、計画や協同が実質的にまったく不可能な葛藤の時代を開始させるだけだということを認めなければならない。ヒューム的アプローチの弱点はその長所と裏腹である。ヒューム的なアプローチが軽視している道徳的考慮は、我々には重要なのである。たとえば、ヒューム的慣習が奴隷制やカニバリズムを承認するとしたら我々はうれしくない。しかし、ヒュームが示したのは、誰かが他の人の身体を所有するということが葛藤の時代から生じてきた平衡状態の特徴であってもさしつかえない、ということなのである。結局のところ、正義の感情はお互いの事実上のde facto 占有を尊重するうという慣習から築きあげられてきたというヒュームが正しいとしても、このいったん確立されたこの正義の感情はそれ自身の生命をもってしまい、のちにはこの感情自体を生みだした平衡状態に反するものになってしまうことがあるのだ。

所有物語のバラエティの三番目は、社会契約をロックやヒュームのアプローチよりもさらに根源的なものにするものである。自分が必要としたら欲しいと思う資源を占有するために、自分自身の身体的・道徳的主導権を使いそれに頼っている時代を想像してみよう。そこでは、次第に、信頼できる所有の取り決めが社会的決定を含まざるをえないことが明らかになってくる。最終的には、所有は合意にもとづかねばならない——資源の使用やコントロールについての決定によって影響を受けるすべての人の合意にもとづかねばならない。こうした理論はジャンジャック・ルソー(1968 [1762])とインマニュエル・カント(1991 [1797])の規範的政治哲学と結びつけられている。すでに見たように、ロックによるこうしたアプローチへの批判は常に、物質的必要の緊急性からすると、社会的合意を得るための時間は残されていない、というものだった。実のところは、ルソー/カント的アプローチはこうしたポイントについては問題を抱えているわけではない。一方的な仕方でおこなわれる暫定的な占有も可能である(Ryan 1984, p. 80)。しかし、そうした占有もすべて原則的には全員の合意のもとになければならないし、社会的に承認されなければならない。言い替えると、深刻に異常な配分が生じてしまっている場合には、直接的な必要が緊急だからといって、それが占有を見直し再配分することを疑う根拠にされてはならない。

こうしたことが資源を個人に合法的に割り当てるという点で生み出すことになるのは、一般意志による承認というテストをくぐりぬけた分配の原則の問題である。ロールズ主義や平等主義や功利主義のアプローチはこうした説明の助け借りることでやっと想像できるものになる。ルソー/カント的なアプローチの本質は、社会がこうした分配の原則をすでに成立している分配を評価するために用いることは、権原付与の歴史などによってはくつがえされることはないということであり、実際に占有している人々の間でのなれあいによる平衡状態として生じてきたヒューム的慣習などによって排除されることはありえないということである。

こうした複数のストーリーについてどんな主張がおこなわれてきただろうか?われわれはこれらのうちどれか一つが文字通り正しいと想定するべきだろうか? あるいは、われわれは(かりに歴史的に不正確なものであるとして)これらのストーリーの誤りからなにを推論するべきだろうか。近年かなりの数の哲学者が、文字通り真ではないにしてもこうした系譜学は現象を理解するために重要な貢献をなしえると示唆している。エドワード・クレイグ(Craig 1990)の知識の概念の所有についての系譜学的説明にしたがって、バーナード・ウィリアムズ(Williams 2002)は言語と真実告知の発生について上のようなことを示唆している。ロバート・ノージックもまた「潜在的な説明」と呼ぶもの——もし現には成立しなかったことが成立していたならばなにが起こったであろうかを説明するストーリーについて次のように論議している。「原則として領域全体が根本的に説明されうるということを知ることは、その領域についてのわれわれの理解を大きく拡大してくれる……国家がどのようにして生じることができただろうかということを知ることことは、実際にはそのようでなかったとしても、われわれにたくさんのことを教えてくれるのである(Nozick 1974, pp. 8–9)」。

この点からすると、われわれが見てきた系譜学は様々である。ルソー/カント的アプローチは、なぜ私的所有が内在的に社会の関心事であるのか理解する手助けになる。またヒューム的アプローチは、われわれの正義についての独立した直観に対する答となっているか否かは別にして、とりあえずは、その他の社会生活はこの基盤となる、安定した相互に承認された所有の基盤の価値を理解する手助けとなる。しかし、ロック的系譜学は、それが実際に真でなければ、所有の権原付与についてほとんどあるいはなにも説明してくれない。ノージックが認めているように(1974, pp. 151-2)、近代国家は、過去にはロック的な血統書をもっていたかもしれないが、現にはそんなものはもちあわせていない所有所有などというものに道徳的に制約されると感じるべきではない。こうした点で、最近のロック的理論の主な使用法の一つが、先住民の所有を弁護することだということは興味深い。──そこでは、資源の最初の占有者についての主張や、その後の収奪にまつわる不正義を正す必要が文字通り行われている(see Waldron 1992)。

最後に、ここまで見てきた系譜学がすべて、説明しようとしている慣行や制度に好意的だというわけではないことは忘れるべきではない。カール・マルクス(1976 [1867])の本源的蓄積の説明や、ジャンジャック・ルソーの『人間不平等起源論』(Rousseau 1994 [1755])での所有の発明の非規範的記述は、正当化の探求というよりは、ニーチェ的な病理学の精神で書かれている。こうしたネガティブな系譜学が我々に思いおこさせるのは、ミルの意見である。ミルが言うには、私的所有の正当化にあたって、我々は「現在のヨーロッパ諸国における現実の{私的所有の}起源については考察から除外しなければならない」のである。

5. 正当化:自由と帰結

正当化の問題はそれゆえ、歴史や系譜学的な語りを用いずに直接に向かわれることになる。

制度としての私的所有に対する賛成論や反対論を扱うにあたって、私的所有の一般的な正当化と、個々の所有権は別々の問題として扱われるべきだとされることがある。むしろ、刑罰の一般的な正当化と、その分配を定める原則とは分離するよう一部の哲学者たちが示唆しているのと同じような仕方で扱われるべきだ、というのである(Hart 1968, p. 4; see also Ryan 1984, p. 82 and Waldron 1988, p. 330)。しかしどちらのケースでも、こうした分離は完全なものにはならない。ある種の一般的な正当化についてはうまくいくが、そうでないものもある。刑罰の理論においては、応報主義者は、刑罰を統べる原則は、必然的に刑罰の個別の分配をも規制するものになるはずだと信じる傾向にある。これと同様のことが、所有の理論においても存在する。ロバート・ノージック(1974)が主張するところでは、ロックの議論の流れにしたがった歴史的権原付与は、所有の制度の完全な正当化と、その合法的な分配の厳密な基準の両方を提供するものである。ノージックによれば、所有権は、我々が分配の正義についてもっている直観と理論にもとづいて行為する権原を制約するものである。しかしながら帰結主義的理論は、上のような仕方で制度の問題と分配の問題を分離できるかもしれず、また、ある種の自由の理論もそうであるかもしれない(もっとも、自由の分配はそれ自体リバタリアンがしっかりとした──そして平等主義的な!──見解を抱いているものではある)。こうしたわけで、我々が分配についての議論を評価しようとする際には、その議論が分配についての直接的・間接的な含意をもっているかどうかという問いを心にとめておくのがよいだろう。

もっともよく見られる正当化の議論は、帰結主義的なものである。人々は一般に、資源が私的所有という社会秩序によって統制されている場合の方が、他の体制によって統制されているよりも暮しむきがよくなる、というのである。私的所有のもとでは、他の体制より資源はより賢く、あるいはより広い(そしておそらくより多様な)必要性を満たすために使用されることになるだろう。したがって、人間が一定の資源のストックから引き出す全体としての享受が増大することになるだろう、とされる。この種のものでもっとも説得力のある議論は、「共有地の悲劇」と呼ばれることがある(Hardin 1968)。もし誰もが一定の土地を利用する権原を与えられているならば、誰もそこに作物を植えたり、過剰に使用されないようにするインセンティブをもたない。あるいはもし誰かがこうした責任を引き受けるとしても、そういう人々はそうするコスト(作物を植えるコストや自己抑制するコスト)の全部を引き受けねばならない見込みが高い。一方、そうした人々の賢慮によって生まれる便益は、あとに続く人々すべてに渡されることになる。そして、多くのケースではなんの便益もないことになるだろう。というのは、ある人が植えたり抑制したりすることは、他の人々が強力してくれないかぎり無駄だからである。したがって、共有所有というシステムのもとでは、入り会権利保有者それぞれは、できるかぎり早く、できるかぎりたくさん土地から多く獲得するインセンティブをもつことになる。そうすることによる便益は短期的には集中的で保証されてものである一方、自己抑制による長期的な便益は不確実で拡散的だからである。しかし、それまで共有地だったところを区画に分け、それぞれを、個々の何が起こるかコントロールできる人に割り当てれば、計画や自己抑制が有効になる可能性が出てくる。こうなれば、抑制のコストを担う人はその便益のすべてを手にすることができる立場のある。したがって、もし人々が合理的であり、抑制(あるいはなんらかの将来を見通した活動)が実際に費用効果が高いものならば、引きだされる効用の総量は向上するだろう。

この種の議論はよく見られるもので重要ではあるが、他の帰結主義的な議論と同様に、注意して扱う必要がある。ほとんどの私的所有システムでは、ほとんど、あるいはまったくなにも所有しておらず、完全に他の人々の世話になる個人が存在する。したがって、私的所有のもとでは「人々は一般に」暮しむきがよくなるというとき、私たちは問わねばならない。「どの人々が?みんなが?多数が?それても、単に少数の所有者たちの暮し向きがすごくよくなって、功利計算の結果、他の人々の困窮を相殺するほどだ、ってことなの?」と。ジョン・ロックは思いきって、誰もが暮し向きがよくなるだろうと示唆した。共有地が急速に私的所有者によって囲いこまれたイギリスと、先住民が土地に対する普遍的な共有アクセスを享受していた植民地化される以前のアメリカとを比較して、ロックは「大きな豊かな領地の国王が、イングランドの日雇い労働者より粗末な物を食べ、貧しい家に住み、粗末な服を来ているのである」とする(Locke 1988 [1689], II, para. 41)。労働者は何も所有していないかもしれないが、彼の生活水準はより高い。雇用の見込みが繁栄した私有経済(privatized economy)によって提供されているからである。あるいは、帰結主義者のうちでももっと楽観的な人々は、今日ならば「パレート改善」とでも呼ばれるものによって{私的所有}を正当化しようとする。おそらく、以前に共有だった土地を私有化することは、誰にとっても利益になるということはないだろう。しかし、それは一部の人々の便益を与え、かつ、他の人々を以前より暮らし向きが悪くすることはない。この説明によれば、貧しい人々が家をもたず、ますます悲惨になることは、私的所有の結果ではない。こうしたことは人類の自然な境遇であり、そこからなんとか抜け出すことができたのは、少数の精力的な占有者たちだったのだ、とされる。

ここまで、共有所有よりも私有所有を擁護する帰結主義者の主張を考察してきた。集団所有よりも私有所有が望ましいとする帰結主義者の議論は、資源利用に関する責任や自己抑制の必要性といったことがらよりも、市場に関わるものである。市場を擁護する議論は、複雑な社会では、特定の生産プロセスに対して、特定のそれぞれの資源ごとをどう配分するかということについて数限りない決定がなされなければならない、というものである。ある量の石炭を使用するのに、それを発電に使い、その電力をアルミを精錬するのに使い、さらにそのアルミ鍋や飛行機を製造するのに使うのと、その石炭を製鉄に使い、それを線路を作るのに使い、さらにそれを使って家畜やボーキサイトをある場所からある場所へと輸送したりするのと、どちらがよりよい使い方だろうか?ほとんどの経済体制では、数十万もの別々の生産ファクターが存在しており、その配置の効率的な決定が、共同体の名において活動し、全体としての経済を監督する役目にあたる中央エージェントなどといったものによってはうまくなされてないということがわかっている。現実に成立した社会主義社会では、中央計画は経済的寄生や、非効率、浪費などを促進することが判明している(Mises 1951)。市場経済では、こうした決定は、価格シグナルに反応する何千もの個人と企業によって分散ベースでなされる。個人や企業はそれぞれ自分のコントロール下にある生産資源を使用することから利益を最大化しようとしており、こうしたシステムはしばしば効率的に機能する。こうしたことを私的所有なしになしえる市場といったものをと想像した人々もいるが(Rawls, 1971, p. 273)、希望がないように思われる。市場における個々のマネージャーが、投資と配分の決定において個人的利益を考慮することによって直接的・間接的に動機づけられなければ、彼らが価格に効果的に反応すると期待することはできない。こうした動機は、資源が私的に所有されている場合にのみ生じる。その場合には、市場のシグナルが見落されれば損失は彼ら(あるいはその雇用者)のものになるし、しっかり有利に配分された場合の利得も彼らの(あるいはその雇用者の)ものになる。

先に、帰結主義的な擁護は、私的所有システムのもとで誰もが暮しむきが良くなるということ、あるいは少なくとも誰も暮し向きが悪くなることはないということが示されなければ、うまくいかないと述べた。さて、経済の私有化からすべての市民が大きな利益を得る社会というものは、おそらく実現不可能な理想ではない。しかし、現存する私的所有システムでは、ほとんどあるいはまったくなにも所有していない階級の人々が存在しており、彼らは社会主義的な代替案のもとでよりも暮しむきがずっと悪いと主張できる。正当化する理論はこうした人々の苦境を無視することはできない。それが、正当化という課題を提示しているのがそもそもこうした人々の苦境だという理由からにしてもである(Waldron 1993)。強硬派の帰結主義者は、私的所有から利得を得ている人々に対する利潤は、下層階級に対するコストを上回ると言いはろうとするかもしれない。しかしながら哲学的には、この種の強硬路線はまったく不評である(Rawls 1971, pp. 22–33; Nozick 1974, pp. 32–3)。もしわれわれが道徳的正当化の焦点として「社会の善」のような観念的な存在よりは個人に注目するなら、擁護している制度が支持に価するのはなぜかということについて、個々の人に言うべきなにかがあるはずである。そうでなければ、(我々が無理矢理そうさせる権力と数をもっていないかぎり)その人がその制度のルールを守ることを期待されるべきである理由が明確でなくなってしまう。

おそらく、貧しさのなかで苦しみ暮す人々もいるにもかかわらず、私的所有制度の果実を味わえる人もいるということに正当性があることを示すためには、帰結主義的な議論を功罪応分desertについての議論で補強することができるかもしれない。もし私的所有が資源のより賢くより有効な利用を含むとすれば、それは誰かが思慮や勤勉、自己抑制といった美徳を行使したからである。この説明では、貧困に喘ぐ人々は、大部分、その怠惰さや放蕩、進取の精神のなさなどのためにそうなっているのだ、ということになる。こうした理論は、それが現存の私的所有経済のもとでの現実の富の分配を正当化しようとするのであるならば、簡単に疑いを投げかけることができる(Nozick 1974, pp. 158–9; Hayek 1976)。しかし、功罪応分の理論が採用できるもっと穏健な立場がある。すなわち、私的所有だけが、勤勉さを犠牲にして怠惰が報われるということのないシステム、思慮や生産性という負担を担う人々が、こうした人々をなんの努力もしなかった人々から区別するものである美徳の成果を収穫することを期待できるシステムを提供できるのだ、とする立場である(Munzer 1990, pp. 285 ff.)。

こうして主張されている市場の長所の多くは、私的所有が一定の仕方で分配されるときのみ生じる。数少ない個人や企業による産業の主要要素の独占的なコントロールは、市場の効率性を破壊することがある。また、私的な権力を集中させることによって、自由や意義申し立て、所有制度についての民主主義などにもとづく議論を無効にしてしまうかもしれない。分配の平等は、非帰結主義者の議論についっても肝要である。所有所有は美徳を促進するという考えは、すでに見たように、アリストテレスまで遡る。そして今日でも、市民的共和主義者によって、経済的集団主義に反対する議論として用いられている。この議論によれば、もし経済的資源のほとんどが皆の便益になるように共有され、あるいは集団的にコントロールされるならば、市民の生活状態が共和主義的な美徳を促進するようなものになる保障がなにもない、ということになる。共産主義的・集産主義的社会では、市民は国家の受動的な受益者となるか、共有地の悲劇への無責任な参加になるかのどちらかである。一、二世代がそうした性格をもって育てば、社会全体の統合性が危うくなる。こうした議論は興味深いものだが、こうした議論が所有の分配についてどのていど敏感であるかに注意しておく必要がある(Waldron 1986, pp. 323–42)。T. H. グリーンが言うように、資本主義社会で何も持たない人は、「所有の所有が奉仕するはずの倫理的目的の観点から、所有権をまったく否定されることになるかもしれない」 (Green 1941 [1895], p. 219)。

最後に、所有を自由と結びつける正当化の議論を考察したい。私的所有を認める社会は、しばしば自由な社会として記述される。これが意味するものの一部は、たしかに所有者は自分の所有を好きなように使う自由があるということである。所有者たちは、社会的・政治的決定に縛られない。(また関連して、経済的意思決定における政府の役割は極小化される。)しかし、これが意味されていることのすべてではありえない。というのも、私的所有を不自由のシステムとして記述することも同じようにぴったりしているからだ。それというのも、私的所有は、他人が所有している資源から人々を社会的に排除することを必然的に含んでいるからである。いかなる所有システムも、なんらかの制限がなければ自由のシステムとは記述できない。他人に属するものを使用する自由は、自由ではなくライセンスであり、したがってその排除はリバタリアン的計算においては私的所有システムに反対するものとはならない、と応答する人がいるかもしれない。しかしこうした戦略の対価は非常に大きい。こうした戦略をとれば、リバタリアンはいつもは避けようとしている(積極的自由の場合のような)道徳化された自由の概念にコミットすることになるだけでなく、そのように定義された自由は、もはや論点先取になるような仕方以外では所有制度を支持するためには使えなくなるからである(Cohen 1982)。

二つのことがリバタリアン的な性格づけによって含意されている。第一は、独立性に関するポイントである。ある程度の私的所有—たとえば住宅と収入源—をもっている人は、他の形態の所有制度が優位である社会の市民よりも、他者からの意見や強制を恐れることが少ないだろう。前者は、かなり文字通りの意味で、リベラルたちが個人ために尊んでいる「私的領域」—自分自身以外には誰にも答える必要のない行為の空間—に居住している。しかし、美徳についての議論と同様、リバタリアンのこの主張もまた、分配の問題に左右される。私的所有経済において何も所有しない人々は、—この議論によれば—社会主義的社会における人々と同じくらい不自由だとみなされることになるだろうからである。

しかしながら、この最後の点については拙速だたかもしれない。私的所有が自由に貢献する別の間接的な道があるからである。ミルトン・フリードマン(Friedman, 1962)が主張するところでは、政治的自由は、知的・政治的生産が多数の—非常に多数のというわけではないにしても—私的な個人、団体、企業によってコントロールされている社会において強化される。資本主義社会では、反体制の人は、自分のメッセージを流布させたければ(公務員以外の)複数の人々と交渉する選択の余地をもっており、そうした人々はメッセージの内容を考慮することなしに、単に金銭のためにメディアを利用可能にしている。対照的に、社会主義社会では、政治的にアクティブな人々は、国家期間を説得して自分たちの見解を配布してもらうか、地下出版のリスクを冒すかのどちらかになる。フリードマンの議論では、もっと一般的にいって、私的所有制度社会はなにも所有しない人々に対して、社会主義社会で提供されるよりも生計を立てるもっと多種多様な手段—お好みであれば、より大きなご主人様のメニュー—を提供する。こうした仕方で、ある人々が私的所有をもつことは、皆の自由に対する積極的な貢献となりえる—あるいは少なくとも、選択の強化になりえるのである。

文献

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  • Williams, Bernard (2002), Truth and Truthfulness, Princeton: Princeton University Press.

Other Internet Resources

  • The Right to Private Property, by Tibor Machan, in The Internet Encyclopedia of Philosophy
  • Original Assignment of Private Property, (in PDF), by Boudewijn Bouckaert (University of Ghent), in Encyclopedia of Law and Economics
  • Property, in the Wikipedia

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翻訳ゲリラ:生物学的性はバイナリーだ、たとえ性役割がレインボーだったとしても

SNSで生物学者の先生が「人間の性は男と女の2つに生物学的に決定されている」と発言して少し話題になってたので、生物学者が考えている「性」についての論説をゲリラ訳。地の塩のみんなでがんばりました

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レポートでのWeb記事の参照法についての提案

大学教員のみなさん、レポート等で、学生様にWeb記事を参照してもらわねばならないことが増えてると思うのですが、インターネッツが一般化してずいぶん経つので、そろそろ見直ししませんか? これは学生様が勝手に判断できないところがあるので、教員の側の指示を考えなおす必要があると思うのです。

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オペラを見よう

(学生様向け)

クラシック音楽好きな人は多いと思いますが、オペラはあんまり知らないという人は多いと思います。私もあんまり知らない。これはやはりオペラはちゃんと舞台見ないとならからですね。そしてDVDが高い。

でも図書館とかにいけばDVD見ることができますのでぜひ見ましょう。実はオペラは有名作はそれほど多くないので、5〜10本ぐらい見ればすでにかなりの教養人です。YouTubeでもけっこう見ることができるんですよね。ただしこういうのは音響がよくないとおもしろくないので、しょぼいPCのスピーカーなどで聞いてはいけません。せめてイヤホンとか使いたい。

私のベストテン。

  1. モーツァルトの『ドンジョヴァンニ』 https://www.youtube.com/watch?v=NBt2vjTdCh0
  2. モーツァルトの『フィガロの結婚』。モーツァルトは誰でも見なくてはならない。 https://www.youtube.com/watch?v=xKhY7aV3KzY
  3. ビゼーの『カルメン』。オペラらしいオペラ。 https://www.youtube.com/watch?v=u_fh84Iqetc
  4. リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』。奇っ怪。シュトラウスは他のもおもしろい。 字幕つきのはなさそう https://bit.ly/3GGgOIm
  5. プッチーニの『トゥーランドット』。プッチーニもどれもおもしろいです。字幕つきのはなさそう https://bit.ly/3gukjHa

これでいいと思います。これだけ見ましょう。ヴェルディさんのオペラが入らなかったけどまあ「椿姫」と「アイーダ」。

ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」とかはおもしろくないのに長くてしんどいので、せいぜい「さまよえるオランダ人」ぐらい。「マイスタージンガー」は実はおもしろいんですけどね。

↓は以前に書いたもの。

他に有名ミュージカルもじゃんじゃん見たいですね。ハブ・ファン!

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ポップ音楽リテラシーのは査読落されてしまった……

夏前ぐらいに、ポップ音楽を大学のリテラシーに使うというアイディアはどうだろう、みたいなのを某学会に投稿してみたんですが、査読落とされちゃいました。恥ずかしい。ははは。まあでも査読落とされてもくじけず投稿したりするおじさんの会会員なのでよいのです。知らん分野のことを好き勝手に書く、というのは新鮮な経験でよかったっす。

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