セックスの哲学」カテゴリーアーカイブ

堀あきこ先生の「メディアの女性表現とネット炎上」はフェミニスト的メディア批判をうまく説明しているので勉強しよう

堀あきこ先生のインタビュー記事についてツイッタでいろいろ失礼なことを書いてしまって、反省して論文も読んでみました。学者のインタビューだけ読んで論文読まないほど失礼なことはないですからね。

堀あきこ (2019) 「メディアの女性表現とネット炎上:討論の場としてのSNSに注目して」,『ジェンダーと法』,No. 16

この論文「メディアの女性表現とネット炎上」は、ここしばらくずっと論じられてるのに対する堀先生からの答えという感じでとても勉強になったので、ぜひ紹介しておきたいですね。この論文はとてもまじめなもので、最近の広告表現とかについてのネット議論について、目下のフェミニスト主流的立場をわかりやすく書いてくれているので、みな読むといいと思う。入手しにくいのよねえ。学会雑誌はこれからはオープンアクセスを目指してほしいと思う。

女性を使った表現については、(1) 固定的な性役割、(2) 性別役割分担、(3) 性的な対象としての女性描写、が問題だとされてきています、と。「固定的な性役割」ってのは男/女らしいとかそういうので、役割分担というのは「男は仕事女は家庭」みたいなやつのはず。「性役割」と「役割分担」の区別がちょっと微妙で、混乱しそうだけどとりあえずOK。

ルミネの2015年のCMが「固定的性役割」、ユニチャームの2016年のが「性別役割分担」、(3)の「性的な対象としての女性」が宮城の壇蜜先生のおもてなしのやつだそうだ。「萌え絵」の方だと、人工知能学会のやつと君野イマ・ミライが(1)、キズナアイのノーベル賞が(2)、碧志摩メグと『のうりん』が(3)だそうだ。

性役割、性別役割分担

論文の核の部分はそういう表現に対する批判に対する再批判に対する答えで、ここが読みがいがある。

「固定的な性役割や性別役割分担の肯定的描写には、旧来的なジェンダー規範を繰り返し描くことで再生産装置となる、という批判がなされてきた。」

これに対しては、たとえば「専業主婦差別だ」「女らしい/かわいい女性批判だ」みたいなことを言われることがありますよ、と。もうちょっと批判者の言い分を十分とってあげたい気はするけど、OK。堀先生によれば、こういう反論というのは、「表現批判と現実の女性のあり方を混同している」と堀先生は言う。

「性差別的な社会をそのまま肯定的に描くことは現状追認に過ぎず、ジェンダー平等な社会の推進や性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる。」

「ワンオペ育児が当然とみなされたり、賛美して描かれることが、さらなる性差別を生み出し強化してしまうというメディア作用への批判なのである。」

この、メディア表現が既存の社会的規範を拡大再生産します、だからそういうのは批判して数を少なくします、っていうのは基本の発想よねえ。「メディアが偏見を再生産」みたいなのはやっぱり認めないとならないと思う。

しかし、問題になっている広告などがモメた理由は、個々のルミネやユニチャームのやつやキズナアイや人工知能学会のやつがそうした偏見助長的・差別的なものかってことだと思う。私が見るかぎり、あれらが偏見とかの「肯定的表現」になってるかというとよくわからない。ルミネやユニチャームのは、基本的には「上司が馬鹿で無神経だったり、旦那がちゃんと協力してくれなったりして、女性はたいへんよね」ってな感じで描かれているように思うし、制作者もそうしたコメントをしているようだ。

まあルミネとユニチャームのは、どっちも全体にネガティブで味がよいものではないけど、現代社会での女性の苦労みたいなのを描いていて、性役割や性別分業を「肯定的に」描写している、みたいなのとはちがうように思う。肯定的に描くっていうのは、ふつうはそれが「よいものだ」っていう感じで描くという意味だと思うけど、どっちでもそうはなってないように思う。ルミネのやつは、上司たちに無神経にいろいろ言われて「おしゃれしないと!」みたいな結論になってるらしいけど、それが「肯定的に描いているの」かどうか。たしかに対人的・社会的な問題を自分の努力と工夫と商品とお金で解決するという形なので、それが「肯定的に描く」って言われるのかなあ。これは解釈が分かれるところか。

とりあえずルミネとユニチャームのは、働く女性の問題がルミネやユニチャームの商品で一気に解決!みたいなことにはなっていないと思う。むしろその問題の描き方がリアルであるからこそ不快だという話なのではないかと思う。「女らしさ」や性別役割分業を肯定しているとはいえないように思うし、ましてや性的モノ化ではない。

もうひとつ気になっていることがある。伝統的で優勢な性役割規範みたいなのをCMなんかで描くのは当然といえば当然な話で、だって実際に社会がそうなっているならそれを使わないというのは人工的で不自然になりすぎる感じがある。たとえば架空のケースの表現を考えるとして、複数の女性が登場するときに、伝統的に女性らしいと言われるような女性が まったく 出てこないような表現を作る、っていのはなんかへんな感じがある。偏見の解消をめざして、少数派をを実際の比率よりかなり多めに描く、みたいなのはありえると思う。たとえばLGBTとか、その国での少数民族とか外国人とか。でも登場人物をLGBTと少数民族と外国人だけにしてしてしまう、みたいなのはやりすぎに思える。そこらへん、企業CMとかはほんとうにむずかしい。まあ各位努力してもらって多様性を確保しておいてもらえばいい、ぐらいなのではないかとおもうんだけどどうだろう。

私自身は、ルミネやユニチャームのが非難されたのは、それが偏見や性役割分業を肯定しているからというよりは、単に特に不快なものだったからなんじゃないかと思っている。化粧炊事掃除洗濯なんかの女性が購買する関係のCMの多くは性別役割分業ばりばりだと思えるし、「肯定的に描いている」というのでは他のそうしたCMの方が肯定的だと思う。それらはOKだけどルミネやユニチャームのがだめだったのは、不快だからだろう。私には、ACの暗いPRなんかも私には同じように不快だ。

もどって、たとえばメディアで専業主婦を肯定的に描くことを批判することは、専業主婦を批判することだ、というのは 批判のレベルがちがう 、という堀先生の主張はどこまでうまくいくのだろうか。たとえば、アイドルをCMで肯定的に使うことを批判するのは、アイドルを批判することとはちがう、とか、軍人を肯定的に使うことを批判することは軍人を批判することとはちがう、っていうのとどのていど違うだろうか。

「性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる」は、社会学者たちの文章全般について何度も指摘しているように主語がないんだけど、「女性一人一人が」だろうか。あるいは「日本の社会が」だろうか。ステレオタイプから脱却しようとしている人を非難するような表現ならたしかに「足枷」「邪魔」って言いたくなるけど、ふつうにやってる分には少なくとも邪魔はしてないように思うんだけどどうだろう。「ジェンダー脱却に 協力的ではない 」みたいなことは言えるかもしれないけど、邪魔だとか足枷だとかって言えるかというと微妙だと思う。

蛇足だけど、こうしたメディアが社会に影響を与えるというのはなかなか否定しにくいけど、いったいどのように影響・作用するかというのも実はなかなか実証的には示しにくい。メディア全体が人々の考え方に影響を与えているのというのはもちろん否定できないが、個々の表現がどう作用するかを示すのはものすごく困難で、そもそもマスメディアという巨大な海みたいなところから、個々の表現を切り出してその影響を云々するのはむずかしい。個別のCMの他にいろんな記事や番組があり、さらにはマンガも映画もあり、となると、ぼんやり「メディアは社会に影響を与える」ぐらいのことしか言えない。でもまあこれはしょうがない。

(ii) 解釈の多様性

とにかく、上の一番基本的なところはOKってことにする。この点で私が興味あるのは、個別のCMが実際にそうしたものか、ってところだわ。ルミネやキズナアイは実際に差別的だったのだろうか。ネットでのあれやこれやの炎上について、大筋では「性差別的なのはだめ」「偏見を助長するのもだめ」っていうのは同意されていて、個別の作品がそうしたものかが争われていたように思っている。

この「個別のCMなりが実際にそうしたものか」っていう問題を、堀先生は「人によって受け取り方は違う」「そう感じない人もいる」という反論がなされる、って言ってる。これが堀先生の(ii)の「読みの多様性」についての反論。先生は「メディアのメッセージは一義的ではなく、解読は多様である」って認めるんだけど、「しかし、こうした反論は、メディアの影響力を低く見積り過ぎではないだろうか」という。これはわかりにくい。

「人の心を深く傷つける表現に責任はないだろうか。メディアは大きな力を持つのだから、人生に大きな負の影響を与える可能性に敏感でなければならない。」

「差別と感じない人もいる」という意見によって、不快に感じている人は我慢を強いられるし、どのような表現が誰にとって不快なのか、という議論の糸口が閉ざされしまうことにもなる。」

ここのところで、堀先生はとんねるずの保毛尾田保毛男のコントをもってきている。あれは(私が見るかぎり)たしかに(実は新しい方は見てないのだが)差別的で、ゲイの人々を傷つけている。2000年代には通用しない表現だろう。(見てないけど)ゲイの人々の容姿や行動を笑い者にしたりするというのはステレオタイプ偏見をあらわしているし、明確に差別的であり侮辱的だろうと思う。まあ私とんねるずの笑いは嫌いなので見たくない。

しかし堀先生はとんねるずをもってきても、もとのルミネやユニチャームやキズナアイがどうなのかってのは触れないわけよね。これはあんまりよくない論法だと思う。論点ずらしとかレッドヘリングとか呼ばれている誤謬推理・詭弁だと思う。フェミニストの表現批判に対して問われているのは、ルミネやキズナアイが差別的であり、とんねるずのコントのように 人をひどく傷つける表現であるのか 、ということであるのに、それに答えるのを回避している。

フェミニストに対する反論者たちは、「解釈なんでさまざまなんだからなにも批判なんかできない」とかっていうタイプのラジカルな相対主義みたいなものを採用しているのではない。あくまで「キズナアイが差別的だと指摘されるのはなぜなのか」ということのはずだ。たしかに人を傷つける表現は存在するし、そうしたものは解釈はそれほど難しくない。問題は、もっと微妙な個別の表現が本当に人を傷つけるものと言えるのかどうかだ。

というわけで、この(ii)のところの堀先生の論法は私は認めません。

(iii) 表現の自由

(iii)は「どういう表現も表現の自由だ」っていうタイプの反論。

これにたいしては、「メディア表現は多くの人の目に振れることが目的の一つとなっており、そうした公共性を持つものが、性差別的であることは目を閉じてすむ問題ではない。」「求められているのは、情報制作者側の女性表象に対する考慮である」

「ヘイトスピーチ禁止条例に見られるように、表現の自由はどのような表現も無条件に認めるものではない。表現の自由は守られねばならないが、ヘイトスピーチのように他の人権と衝突する場合には制限を受けざるをえない表現があり、表現の自由には制約があると考えるべきであろう」ここはまあOK。細かいつっこみは可能だけど余計だろう。

(iv) 公共性

「アイキャッチャーの多くに若い女性が登用されることへの批判に対し、「若い女性がアピールした方が商品は売れる」「若い女性に魅力を感じるのは生物としての本能」といった反論がなされる。」

「本能」はやめましょう。本能撲滅委員会を結成してほしい。まあ「人間の本性的な傾向」ぐらいならOK。この、魅力的な男女をアイキャッチに使うというのは、たしかにルックスが魅力的な男女は人目をひきやすいし、好意的な対応をされやすい人間の本性みたいなところを利用していると思う。そして、魅力的な男性より魅力的な女性の方がはるかに多いように思う。これはいわゆるエロティックキャピタルの話に関係があって、そのうちいろいろ議論してみたいと思っているけど今回はパス。

さて、堀先生は「行政広報は「特定の意図をもったり、特定の対象者だけに行ったりする広報は許されない。あくまで行政広報はサービスの公平な提供のために行うもの」っていうのを引用し、「したがって、PRターゲットを男性に限定することは、サービスの公平な提供に適っていないといえる」と言う。

これも論点がずれているように思う。へんよね。(確認してないけど)これはたとえば福祉サービスを提供の広報をするときに、サービスを受ける人のなかの一部の人だけに向けた広報をしてはいけませんよ、ってことだろう。しかし今回はそのタイプの「行政広報」の話をしているのではないはずだ。論点相違・レッドヘリングだと思う。

たとえば碧志摩メグは男性に対するサービスなのかというとそうではなく、(せいぜい)メグを餌にしてオタ男性の注目をひいて知名度を上げ観光客になってもらおういうもので、別にサービスを提供しているのではない。またユニチャームも人工知能学会もキズナアイもそうしたものではない。

一番その雰囲気のある宮城の壇蜜先生のCMでさえ、男性だけにサービスを提供しようというものではないように見える。壇蜜先生が亀をなでるところを鑑賞させてくれるなら行くという男性はいるかもしれないが。むしろ、当時人気の壇蜜先生を使って下品な広告をして話題になろう、という意図があるように見えた。まあ下品であることは認めるけど、そうした壇蜜と下品なセクシーさとの組合せがおもしろいと制作者たちは考えたのだろう。下品だ。下品ではあるが性差別なのかというとよくわからない。

「特に、性的な表現は、女性の人権からは、肌の露出の程度だけが問題とされているのではなく、女性を「トータルな人間存在としてこの世界に生きる者」として明確に把握しようとしているかどうかが重視されている。」

これは加藤春恵子先生の「性別分業批判・らしか固定批判・性的対象物批判」という文章の引用なんだけど、まずそもそも壇蜜以外に話題になっている広告等は、「性的な表現」と呼ぶようなものではないので、突然こうした引用があらわれて。さらに、ルミネもユニチャームも「トータルな人間存在としてこの世に生きる者」として見てると思う。あれがトータルでなければトータルな人間存在として描くというのがどういうことか私にはわからない。

ちなみにこの加藤春恵子先生の文章はクリアでおもしろいので一読してみるとよいと思う。谷崎潤一郎〜市川崑先生の映画『鍵』が女性の「性的対象物化」「性的モノ化」の典型例あるとして批判している。あれはまさに道徳的に怪しげなモノ化の典型だからこそ芸術になっているわけなので、興味深い論説だと思う。

とにかく、私は堀先生のこの(iv)も受け入れられない。もっとも、公共的な団体は私企業より性的に魅力的な表現を避けるべきだというのはありえる主張かもしれないので、その理由をもうすこしつめてもらえるとよかったと思う。

萌え絵の特殊性

萌え絵については堀先生は特に節が設けて論じていて、これはえらい。萌え絵をどうしようが被害者がいないって言われるけど、「表現される女性イメージと現実の女性は無関係ではなく、イメージが参照されている。」これはOK。

「キズナアイは、舌足らずな喋り方や上目遣いの「接待モード」で表現されている。それが女性らしさや可愛らしさに結びつけられている記号であるからこそ、そうしたイメージを女性キャラクターが再生産していることが批判の一端となっているのである。」

このキズナアイの評価はオタの人達が反論したところよねえ。かなり反論されたからここでは触れない。でもまあキズナアイがかわいいっていうのは認めていいと思う。そして萌え絵の「コード」とやらの話が出てて、先生は次のように指摘する。

「そうしたコードやコンテクストに親しんでいない人にとっては過激な表現と感じられるものが、制作者やファンには自然化されているため「性的なもの」と認識されないことがある。」

この堀先生の論文2019年7月出版で、その前の年の12月の学会の発表をまとめたものだと思うんだけど、私知らなったのよね。「コード」の話をした小宮友根先生はこの論文ポイントしてくれてもよかったかもしれない。あの界隈の人々のあいだでは、「萌え絵コード」みたいなのが共通理解なのかもしれない。私はなんかそういうのうたがわしいと思ってんだけど。

「また、イラストはデフォルメの技術(意図的な誇張)が使用されるため、かわいい・優しい・甘えている・従順・無知といったジェンダー・バイアス表現と性的表現が重なり、女性性の表現が過剰になりがちという特徴がある。」

「萌え絵をPR等に使用する場合、コードとコンテクストが共有されている狭い領域から、コードとコンテクストが共有されない公的領域への進出がなされるという点に注意が必要だろう。」

ここの堀先生の指摘はたしかにおもしろいと思う。えらい。SNSの女性を使った表現で炎上するケースでは、たしかに萌え絵(私この言葉あんまり好きじゃないので「アニメ絵」ぐらいにしたいんだけど)にまつわるものが多くて、ああしたアニメ的表現には、生身の女性をつかったものとはちがうタイプの問題があると多くの人が考えているだろう。

キズナアイに代表されるアニメ・AIキャラたちは若い女性の姿を使うことが多い。これはやはり、我々が若い女性が好きだからだと思う。我々というのは我々高齢者男性という意味ではなく、もっと広く、女性も男性も若い「かわいい」女性が好きなのだと思う。

以前は、「そうしたものは男性が金と権力をもっていて主要な消費者だからだ」と説明されたわけだけど、そろそろ見直してみたらどうだろうか。

フェミニストの先生たちはよくこの社会は男性中心的だというんだけど、実際には現代社会は非常に女性化 feminize されていると思う。マンガやアニメのファンは男女を問わず多いんだけど、最近は「けいおん!」や「ガルパン」その他、主人公たちは若い女子ばっかりで、もう男子はアニメ世界からは死滅したんではないかというほどだと思う。男子主人公たちもイケメン中心で、表現が女性化されていると言えるように思う。歌謡アイドルたちもやはり女性の方が優越していて、女性ファンも多い。女性的な魅力や発想・行動などが非常に肯定的に描かれているわけなのよね。こういう意味で現代社会は女性化され、またセクシー化(sexualize)されていると思うので、社会学者の先生たちは「男性支配!」みたいな固定的な発想を見直して、女性化・セクシー化された文化というものを批判的あるいは肯定的に見たりしてみてほしいと思う。

まあここはもっといろいろ議論できそうなところで、とにかくとっかかりを作っている堀先生はえらいと思います。みんなで議論しましょう。

残り

ここまでが本論で、残りは、こうした表現の問題は「人権問題です」っていうのと、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」のでたいへんだっていう話。

女性イメージには、作り手と受け手が共有しているジェンダー規範が反映されている。商品PRと女性の”若さ”のつながりが当然視されていたり、女性が教わる側でしかなかったり、女性の身体の一部がクローズアップされるのぞき見的なカメラワークが多用されたりする描写などは、性差別的社会を映し出すものだ。ジェンダーは構造的な問題であり、社会に深く埋め込まれているからこそ、意識しなければ自由になりづらい。

女性の「若さ」というか、若い女性が魅力的だから使われるという話よね。問題は、「ジェンダーは構造的な問題である」というのと「ジェンダーは人権問題である」っていう表現が、フェミニスト以外にはわかりにくいことだと思う。短い論説だからしょうがないけど。

よく「構造的な問題だ」「構造を見ないと」ってな話を聞くわけですが、これ紋切り表現になってしまっていて、私は具体的にどういう話なのかよくわかないのです。一つの理解は、「男性が金と権力を独占しているから、女性はそれにしたがわざるをえず、そのためにかわいくしたり化粧したりするのだし、メディアでもそうした女性を使用するのだ」とかそういう話だと思うんだけど、これはかなり疑わしい主張だと思う。論じるとかなり長くなるしまだよくわからないので先送り。

「人権問題だ」というのも紋切りで、言おうとしているのは「人間の平等に反する」なんだろうけど、どういう意味で平等に反するかはやはり議論が必要だろうと思う。まあこういうのは根本的な話なので、堀先生がこういう書き方をしているのは今回はしょうがないと思う。この「構造」と「人権」の話もみんなで議論してつめていきたいですね。

堀先生の残り一つは、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」「SNSは物を言う女性が女性であるがゆえに差別を受ける現場である」ために、「言論の自由市場」はあまり有効でない、という指摘。

女性ツイッタラーに対して、論点と関係のない侮蔑をする人々とかはたしかにいて、非常に下品であり不道徳だと思う。しかし「女性への侮蔑がはるかに多い」かどうかは微妙に思える。たしかにフェミニスト女性に対するツイッタとかでの侮蔑や罵倒はひどいものがあって、ああいうのはやめるべきだと思う。ただし、そうした侮蔑や罵倒する人々は、男性にも同じようにそうした表現を使う人々だと思う。政治的な対立があると侮蔑的な表現や攻撃的な表現を使ってもかまわないと考える人たちがいるようで、これもやはり男女ともに存在する。そうした下品で不道徳な発言をする人々をどう扱うか、というのはやはりむずかしい問題だと思う。ツイッタ社のようなところが、一定の基準をもうけて凍結などをするのは私はやむをえない派。しかし、あんまりやりすぎないように寛容であってほしいとも思うわけです。

まとめ

ってなわけで、この堀先生の論文はとても勉強になるので、入手できる人は入手して検討してほしいですね。えらい。

途中で出てきた加藤先生の文章が再録されているのはこれ。

2020/3/21 (土) セックス哲学懇話会やります

コロナでなにも予定がなくなって暇だという声があるので、ヒマならごろごろしてりゃいいわけですが、ゴロゴロついでに3/21に京都でセックス哲学懇話会を開こうと思っています。単にその分野に興味ある人間が集まってネタをしゃべってみるだけ、というものです。今年度の自分たちのセックスと哲学について反省し(「自分たちの」は「セックスと哲学」にかかります)、来年に向けて計画したりもします。希望者は twitterのeguchi2020 か eguchi.satoshi@gmail.com に連絡してください。場所はおそらく京都女子大S校舎のどこか、2時から5時ぐらいの予定。いまのところの予定話題は

  • ながと先生の「ロバートソロモン先生のセックス快楽の話はステキだ」という話。Robert Solomon, “Sexual Pradigms”の話かな?
  • あいざわ先生のウーマンリブと中絶あたりの話
  • 江口の「応哲で性的な表現の話することになってるけどどうしたらいいだろう」という相談。宇崎ちゃんとかあそこらからんでしまってあれだった、という話も?Mari Mikkola先生の議論はどうなんですか、Haslanger先生はこわすぎませんか。
  • 江口の「ことしは生涯学習講座でルソー・ウルストンクラフト・ヒューム・カント・ショーペンハウエル・ミル」ってやったけど、これは許されるだろうか、専門家から非難されたときどうお詫びするべきか」
  • 翻訳や出版の企画ってどうするんだろう?
  • セックスの哲学を学部生にどう教えるか問題のつづき

などです。

 

ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

んで、ろくでなし哲学者列伝のメインはショーペンハウアー先生に決めてたのですが(キェルケゴールも列伝にいれたかった)、ショーペンハウアーとキェルケゴールで終わってしまうと味が悪すぎるので、あんまりろくでなしじゃないミル先生にお説教してもらうことにしました。

アルトゥール君、いいですか、後輩の言うことを聞きなさい。

両性の天性が、現在の職務および地位に、彼らを適応させている、あるいは天性がその職務と地位とを彼らにふさわしいものとしている、という議論も、何の役に立つものでもない。常識からいっても人間の精神の構造からいっても、両性の天性を知っている人、あるいは知ることのできる人はいないと私は考えている。というのは、彼らは誰にしても、自分の現在の地位から他の性をながめるしかないからである。

われわれは男はこうだとか女はこうだとか言うための知識をほとんどもってないのです。せいぜい、私から見たら女性はこうだ、ぐらいなわけですが、それは私から見てる女性一般の単なる勝手な印象にすぎない。

たとえば、地主にたいして小作料をひどく滞納している小作人が、あまり勤勉でないという事実から、それを理由に、アイルランド人は生来怠け者であるという人がいる。……これと同じ論法をもって、女性は自分たちの身の回りのことばかり気にして、政治などには関心をもたないから、女性は公益の問題には天性男性ほどに興味をもたないのだ、という人もすくなくない。

同じ条件のもとで、税金払わない人がいたら、その人は払う人に比べて勤勉じゃないからかもしれない。それを認めても、税金を払わないひとがアイルランド人に多くてがイングランド人に少なかったからといって、アイルランド人の方が怠慢だとかは言えない。税金の割合とか国家との関係とか、その他の条件が等しくないからだ。そういう条件をそろえてはじめて「〜は〜だ」と言える。こういうのは『論理学体系』の正しい帰納の方法とかで延々議論したことなわけです。

同様に、当時の女性が政治に関心を持たなかったとしても、たとえば参政権の有無なんかが影響しているだろうから女性が公益に関心がないのだとか言えませんよ、とそういう話です。環境要因を見ないで勝手に天性の話にしてはいかん!

それゆえ、両性のあいだの生来の相違はなんであるのかというもっとも難しい問題にかんして、現在の社会状態においては、それについて完全正確な知識をえることは不可能である。一方においてはほとんどすべての人がそれについて独断的な意見を持っているのであるが、他方、それを部分的ながらも洞察することのできる唯一の手段をおろそかにしたり軽んじたりしない人はいないのである。

性差やジェンダー差みたいなのについて、はっきりしたことはなかなかいえない。でも、ショーペン君のように独断的な意見をもっている人たちはたくさんいる。まあ独断的だからおもしろいんだけどそれは科学・学問とは別の世界。そして、もうすこしマシな洞察する手段はたくさんあるのに、それを無視しちゃう。我々は独断的な奴らだからだ!

男性と女性との知的および道徳的差異がいかに大きくいかに根絶しがたいものであるとしても、それが生まれつきの相違であるとする証拠はみな消極的なものである。ただどうしても人為的でありえないもの、すなわち、教育あるいは外部の環境によって説明することのできる両性の特徴をすべて除いてそのあとに残るもの、それのみが、生来のものと考えうるであろう。それゆえ、……両性のあいだになんらかの差異があるということでだけでも、それを主張するのには、人間の性格を形づくる法則についての深遠な知識がなくてはならない。しかし、いまだかつてこのような知識を有するものはいない……(70)

「道徳的差異」はわかりにくいかもしれませんが、まあ心理的な差異ぐらいに広くとってOKのはずです。男女の生まれつき・本性的な差とか考えるときは、教育や環境の違いをとっぱらってしまわないとならないけど、実際にはそれはものすごく難しい。実験室で同じ環境で育ててみようなんてのは虐待だし、さらにはそういうことしても環境要因をまったく消去できるかどうかはわからない。そもそも我々は人々の性格やらパーソナリティやらがどうやって形成されるかよくわからっておらんのです。まあ最近では一卵性双生児とかの研究で少し改善してますが、それでも性差についてはわからない。一卵性双生児は少なくとも生物学的には同性ですからね。

こっからがおもしろい。

この問題〔女性の性格や能力〕にかんしては、それを真に知っている唯一の人々、すなわち女性自身がほとんど証拠を提供しないし、またたといいたとしても、それは大抵にせものであるために、決定的なことはなにも言えないのである。むろん愚かな女性を知ることは簡単である。その愚鈍さは世界中どこへいっておたいてい同じようなものであって、愚かな人間の意見や感情は、その周囲の人々がもっているものから十分推断することができる。

「女性自身がほとんど証拠を提供しない」がいいですね。一つには、女性にたいする教育その他が男性とは大きく異なっているので、どんな能力をもっているかとか男性と比較することができない、ってのがあるわけですが、その他に、女性自身が、どんなことを考えているか、どんなことができるかをはっきりしたことを言わない、というのもある、ということだと思うです。まあ教育ちゃんと受けてない人が多いので、文章とかスピーチとかで表現するのが苦手だっていうのもあったのかもしれませんが、それだけではないかもしれない。ニセモノ、つまり嘘を言うこともけっこうあるというわけです。でもこれは男性についてもそうよね。

「愚かな」人々、つまり子供やあんまり気のきかない人々は観察してれば、その人々が何を求めてなにができるか、だいたいわかるわけですが、人間、賢くなってくるとお互いにだましあいするのでそんな簡単ではない。

ところが、自分自身の意見と感情とかみずからの性質みずからの能力から発露する人々の場合には、そうはいかない。だから、自分の家庭内の女性についてすら、その性格をかなりの程度にしっている男性はめったにいない。

おもしろいのはこれです。自分のママや姉妹がなにを考えているのか、どういう生活をしているのか、たとえばムダ毛はどのように処理しているか、知っている男性はめったにいないということだと思います。特にミルの生きていたヴィクトリア朝時代は女性にいろんな抑圧が加えられていた時代なので、なにをしているのか男子にはさっぱりわからない、そういう感じだったんじゃないですかね。ご家庭も今理想とされているような和気あいあい、みたいなのではなく、自分の旦那に「ロード、今日は召使いのメアリが粗相をしたので私がきつくお仕置きしました」「なるほどレイディー、それは正しいことだ」みたいなそういう会話だったかもしれんし(『高慢と偏見』の映画とか見ると、実際旦那をミスターで呼んでますわね)。

多くの男性は、自分こそは女性を完全に理解している、なぜならば、自分は二、三の女性と、いやもっと多くの女性と恋愛関係にあった経験があるから、という。もし、彼が立派な観察者であり、その経験が量と同様質にまでおよんでいるならば、彼は女性の性質の狭い一面についてはあるていど知りうるかもしれない。

アルトゥール(そしてセーレン・キェルケゴール君!)、聞きましたか?頭よい人が女遊びしたら、たしかにそれなりのことはわかるかもしれません。

しかしそれ以外のあらゆる部面については、彼は他の人と同様無知である。というのは、女性は、恋愛関係にある男性にたいしてはそれらの性質をきわめて用心深く隠すものであるから。

でもミル先生はなんでそんな事知ってるんでしょうか。

そこで女性の性格を研究する場合、男性にとってもっとも都合のいい場合は、自分自身の妻を研究することである。というのは、こういうことは機会も多く、女性にたして十分な同情をもってする場合もそれほど稀であるとは言えないからである。

ほう。研究するわけですか。まあ自分の奥さんとなればシンパシーもあるから研究しやすいというわけですな。

そして事実これこそは、この問題にかんして立派な知識をえることのできる唯一の源泉であると考えられる。しかし多くの男性がこのようにして女性を研究する機会はただの一回であった。

わはは。女性についての知識を得たときはもう遅い、そういうことですね。

ソクラテスとそれを引用したキェルケゴールが、「結婚するがいい、君は後悔するだろう、結婚しないがいい、やっぱり君は後悔するだろう」みたいなことを言っているのですが、まあ結婚が1回だとだいたいわかったときは手遅れなので、離婚や再婚できたほうがいい、そういうことですね。でもそれってその女性についての知識だから次は違うだろうし、やっぱり後悔するんじゃないんかなあ。

っていうかそもそもミル先生結婚したのはハリエットさんと20年以上おつきあいしてからじゃないっすか。いったいそんな晩年に結婚して何を経験したのですか、みたいな心配が浮かんできますけど大丈夫ですか。ははは。

まあそういう意味じゃなくて、結婚したりっていうのは当時だったら1回、離婚できたとして2,3回なので、女性一般にについて知るのは無理でしょ、一般化の誤謬推理避けられないから「女性とは」みたいなのするのはやめましょ、って話ですわね。

ミルの(初版は若い時の)『論理学体系』は、主にドイツ観念論とかの頭でっかち、独断的な哲学の方法はよくない、ちゃんと実験や観察して証拠を集めていきましょ、じゃないとまちがいますし、特に社会科学(道徳科学)では独断的方法はやばいです、ということを主張するために書かれたそうな。ショーペンハウアー先生みたいに、自分の身の回りの女性を見て「女は」ってやるのは典型的にだめな方法。つつしみましょう。(でもつつしめない)

 

上の本読むときは下の本の解説もいっしょに読みなさい。名著。

上の水田先生の本、『論理学体系』の誤謬推理/詭弁推理の話にもがっつり言及していて感心しました。

ショーペンハウアー先生に本当のミソジニーを学ぼう

大学の公開講座で、「生涯学習」としていろんな年代層の人にお前らが勉強していることをわかりやすくしゃべって、教養や楽しみにしてもらえ、という業務があり、私も参加しています。んじゃまあ哲学・思想や人生なんかについて考えてもらいたいなあ、みたいなので学生様相手にやってる「愛と性」の年長者バージョンみたいな感じで。去年はやはりオリジナル哲学者たちへの敬意から、プラトンとアリストテレス。エロースやらフィリアやら。今年は近代がいいだろうってんで、18〜19世紀でルソー、ヒューム、ウルストンクラフト、カント、ショーペンハウアー、J. S. ミルみたいな感じ。キェルケゴールも予告してたんだけど時間の都合で結局できなかった。無念です。

予告には、「本年度は、18世紀から19世紀の有名哲学者を中心にとりあげる予定です。彼らの以外な一面を知ることができるでしょう」とか書いたけど、実際の受講生の方々には、「男性中心の哲学者たちがどんだけろくでもない話をしていたのかを紹介します、哲学者のろくでもなさを味わってください」みたいな感じで始めました。

私が考えているろくでもない哲学者ナンバーワンはやはりショーペンハウアー先生で、先生はこのブログでももとりあげる価値がありますね。ろくでもなさがすばらしすぎる。

ショーペンハウアーがろくでなし哲学者ナンバーワンなのは、もちろん有名な「女について」の著者だから。主著はもちろん30歳すぎぐらいで書いた『意志と表象としての世界』ですが、よく読まれているのは60すぎで出版した『余録と補遺』に収められているエッセイみたいなやつらですわね。文庫本なんかでは編集されて切り出されている。「女について」もそういう形で有名ですね。

とにかくこの「女について」は女性にたいする無根拠の悪口を書きまくっていてろくでなさ最高なので、ちょっと紹介します。私が書いてるんじゃないですからね。全部ショーペンハウアー先生です。それでもたくさん紹介するとやばいので、ほんの一部だけ。

「女がいなければ、われわれの生涯は、その始めには助けを欠き、その中期にはよろこびを、その終わりには慰めを欠くことになろう」(362節)

これはルソー先生が「男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ」って言ったのとまったく同じ発想ですね。バブバブー。グヘヘ。そして最後は「わかってくれるのはお前だけだ」。ほんとにそんなひとたちがいれば男子としては言うことないですなあ。ははは。

しかし、ショーペン先生は若い女が好きです。

娘ざかりの女にたいして自然がたくらむことは、芝居用語で言う、きわめつきの見せ場である。つまりその少女の残りの一生涯がどうなろうとかまわず、自然はそのほんのわずかな年月のあいだに限って、彼女らに美と魅力と豊満をふんだんに与えるのだ。それというのも、この数年間に、男の空想力を完全にとらえようという算段だからだ。男はそのため夢中になって、なんらかの形で、その女の面倒を一生まともに引き受けようとする。

若い女は美しい!なぜならそれは生物としてその美によってオスを引き寄せて出産と養育の面倒をみさせるためだ!現代の進化心理学までつながる発想です。ショーペン先生はカント的な「自然」と「目的」を使ってますが、現代の進化的な発想なら「目的じゃなくて、そういう形質(美とか豊満とかでオスを引き寄せ世話させる)をもった個体が子孫を残したので、結果としてそういうのが遺伝的に生き残ってる、とかになるのだと思います。でも生物学者とかでも面倒だから、「オスを引き寄せ世話させるために美しくなってるのです」みたいな省略形の説明したりしますね。バラシュ先生たちの本を参照

……こうして自然は、他の被造物のすべてにたいするのとまったく同様に、女にも、その生存を確保するために必要な武器と道具を付与するわけだが、その与えられる期間は、自然がいつも使う節約のやりくちに従って、必要な期間に限られるのだ。

ダーウィン以前の考え方では、こういう「自然の節約の原理」みたいなのを想定しなければならなかったわけですね。そしてそれは「自然というのは倹約家だから」とか勝手にそういう想定を置いていた。進化的な発想からすると、「美によって生殖と子育てがうまくいけば、生殖と子育て移行はそれは関係ないので」みたいになる。ほんとうにそうなのかというのはもっと研究しないとわかりませんね。でもたとえばバラシュ先生たちは、女性のおっぱいが若い時は上の方にパツンパツンで、齢をとると下がってくるのは、上むいたおっぱいが若さの印になるのだ、みたいな話はする。おっぱいの位置を上げるのは相当コストかかるんでしょうな。

そういうわけで若い娘たちは、家事や事務的な仕事などは、内心どうでもいい片手間のこと、それどころかただの戯れと考えている。彼女たちがただひとつ真剣な仕事とみなしているのは、恋愛や男心を征服すること、およびそれに関連すること、たとえば化粧やダンスといったことどもだ。

なんてことを言うんですか!許しません!弊社の学生様はそうではありません!

それにしても男性哲学者のダンス好きっていうのはおもしろくて、ヒエロニムス先生が苦行して死にそうになってもダンスするアイドルグループを夢に見て怒ったり、ルソーが女子にはピアノとダンスを習わせてほしいとか、ホントに好きなんですね。現代社会でアイドルがあんなに人気がある理由がわかる。男子はみんな哲学者だからですね!

女が腹の中で考えていることはこうだ。金を稼ぐのは男の仕事、それを使い果たすのは自分たちのつとめで、できれば夫の生きている間に使い切るのがよく、少なくともその死後にはこれを浪費するのが自分たちの役目だ。

ショーペン先生はアイドルみたいに歌うまくてダンスがうまくて明るい女子が好きなのですが、金づかいが荒いのがいやなんですね。ケチ!なんでそうなったんですか、っていうとまあ個人史的な理由があるんかもしれないですね。

ショーペンハウアー先生のパパはお金持ちの商人名家だったんですが、先生がティーンエイジャーの頃に逝去なさり、その遺産を派手な才女のママと妹が食いつぶして破産したとかそういう話。明るくて派手なママは、いつも陰気でうじうじしているアルトゥール君が嫌いで会いたくもない、みたいに言われてたとか。かわいそすぎる。

そんな悪くないけど根暗そう

悪い人じゃないかもしれないけど、三つ子の魂百まで

 

左がママのヨハンナ、右がやっぱり才女の妹のアデーレ

妹さんはおとなになるとこういう感じ。才女な感じですな。

かっこいいと思う

若い時はさまざまな商売をされている女性とけっこうおつきあいして(おそらくお金の関係)、10歳以上上の女優・歌手のKaroline Jagemann (1777生)さんに片思いするけどふられる。

30すぎてから、やっぱり歌手のCaroline Medon (1802生、14歳下)さんと(なんとか?)おつきあいしたけど、カロリーネさんのおつきあいした動機に疑いをもって結婚しなかったとか。お金目当てだと思ったんでしょうか。老年になってからやっぱりお金むしられたようです。

40すぎてから15歳ぐらいのFlora Weißさんに惚れ上げた?このひとは肖像画とかみつからないなあ。まあ先生が派手なタイプの女性好きなのははっきりしてますよね。老年になってから隣近所のやっぱりカロリーネっていうお姉さんと暴力沙汰になって賠償金を年金で払ったりもしてますな。まさに女難の男。『うる星やつら』の錯乱坊(チェリー)やさくらさんに人相見てもらえばよかったのに。定めじゃ。まあ女性が好きなんだか嫌いなんだかわからない、頭のなかが女性しかない、あるいはせいぜい、哲学、女、唄、それが女嫌いである、ってことがわかります(ファイヤアーベント先生がそうだと言っているわけではないです)。

諸星はこの美人霊能者のさくらさんと関係をもったために、彼女にとりついていた物の怪すべてを引き受けるさらなる女難を味わう……

そういう個人的な経験から「女とは」とかやってはいかんですな。次のエントリも読んでください。 → ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

まだお金払いたくないけどもう少し読んでみたいって人は、ここらへんに誰かが写経した痕跡がのこってましたので買うかどうか考えてください(私ではないですが、読むと写経してみたくなる感じはわかる)。ショーペンハウアー先生は名文家だし、ものすごく明快な哲学者で、誰でも読めばすぐに言ってることがわかる。わかりすぎるぐらい。こういうの読むと、ごちゃごちゃ難しげな書き方したほうがよいときもあるのかもしれんな、みたいな。ははは。

 

 

これは(とりあえず)関係ないです。

カント先生から未婚化・非婚化の原因を学ぼう

性的傾向性のなかのまったく単純で粗雑な感情は、なるほどまっすぐに自然の大いなる目的へと導いて行き、その要求を満たすことによって、回り道せず、手際よくその人物を幸福にするが、対象の大きな普遍性のゆえに放蕩と放縦に変質しやすい。(p.361)

カント先生はアリストテレス的な「目的論的説明」が好きで、我々がもつ性欲とか、首尾よくセックスできたときの満足感・幸福感とかは自然の目的を達成するよう、うまく作られているのだ、っていうわけです。まあ我々生物は、種の保存とかそういう自然の目的にしたがって生きてるわけです(注意!現代の読者は「種の保存」とか真に受けてはいけません!現代の生物学者たちがやる目的論的な説明も、簡略化のための比喩的な説明であると考えてください)。あんまり洗練されてない人々はさっさとセックスして幸福になれれる。それなのに、人間が高級になって洗練されてくるといろいろ注文が多くなってきてなかなか満足しない、幸福になりにくい。ていうかそもそも幸福のけっこうな源泉なのに、セックスできない。ははは。

他方、非常に洗練された趣味はなるほど激しい傾向性から野生を取り去り、それを非常に少ない対象のみに限ることによって、それを行儀よく、上品にするのに役立つが、それは通例、自然の大いなる究極意図を外すことになり、この意図が通例なす以上のものを要求したり期待したりするので、これほど繊細な感覚をもった人物を幸福にすることは、非常にまれであるのがつねである。

まあなんというか、我々は文明化され洗練されることによって、性欲その他の原初的な欲望にまつわる原初的な衝動性を押さえつけるようになってるわけだけど、それって逆に人々を満足という意味での幸福から遠ざけてます、というカント先生がルソーの『エミール』あたりから学んだ発想のあらわれですな。そしてこの「洗練され道徳的になると幸福から遠ざかる」っていうのは『道徳形而上学のための基礎づけ』や『実践理性批判』までずーっとカントが意識している人間生活の問題1)実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。。ミル先生とかもそういう悩みをかかえていたのは有名よね。

前者の種類の心意は、一方の性のすべての人に向かうので、粗雑になり、後者は詮索的になる。なぜなら、それは本来いかなる対象にも向かわず、一つの対象だけに心を向けているが、その対象は恋する傾向性が頭のなかで作り上げ、あらゆる後期で美しい諸性質で飾り立てたものであり、これらの性質を自然はめったに一人の人間のうちに、一つにまとめたことはないし、それらの性質を評価でき、おそらくそのような対象を所有するにふさわしいであろう人に、これを引き合わせることは、なおさらまれである。

これまたカントらしい面倒な文章。単純な性欲は女だったら誰でもいい、とかになるので粗雑です。洗練された異性の好みの方が、「本来いかなる対象にも向かわず」は解釈が難しいですが、 indem sie eigentlich auf keinen geht, sondern nur mit einem Gegenstande beschäftigt ist, みたいになっていて、「一人の対象を決めたらそれ以外にはあちこちむかうことがなく、一人の対象にじっと粘着する」みたいな感じのはずです。「♪あんまりそわそわしないで」ってやつですね。「一人」じゃなくてある「タイプ」かもしれない。つまり、女性の好みっていうのは一回固まってしまうと、あるタイプじゃなきゃいやだ(メーテルみたいなのじゃなきゃやだとか、峰不二子)ってことになる。きっとこっちですね。

 

んで、そしたラムちゃんや音無響子さんでなければいやだ、それ以外は愛せない、って一見すると洗練された趣味は、実は頭のなかで作り上げた妄想に恋しているのでしかなくて、実際には一途で電撃を発生できるナイスバティの宇宙人とか、23歳の世話好きの未亡人の大家さんとかはいないわけです。音楽にくわしくて文学も哲学も好きで映画も楽しめてナイスバディでさらに気立てがよくていつも笑顔、とかもいない。特に内面的な美徳は目につきにくいもので、そうした人がいるとしても、それと出会うこともお互いにとてもむずかしい。

ここから結婚の結びつきを遅らせたり、結局まったく諦めることが生じ、あるいは、おそらく同じように悪いことには、自分に対してなした大きな期待を満たしてくれない選択をした後で、痛ましく後悔することが生じる。というのは、ありふれた大粒の麦のほうがもっとふさわしいイソップの雄鶏が、真珠を見つけることが珍しくないからである。

前半はわかりやすい。あんまり妄想を激しくして異性に対する期待を高くすると、セックスや結婚の相手をみつけられなくなる、ってな話。まあまったく平凡な話ですが、これはまあ人類共通の知見なわけです。

この最後のところは解釈が必要ですね。すごい高嶺の花と結婚しようと思い込み、あれやこれや努力し貢ぎあげても、けっきょくそんなのは実現しないという痛ましい例です。イソップの雄鶏の話というのは、解説の久保先生によれば、イソップ〜ラフォンテーヌの『寓話』だと、「ある日、一羽のオンドリが、ひとつぶの真珠を掘り出し、そこらの宝石屋にくれてやった。「きれいなものとは思うけど、僕には粟の一粒がはるかに貴重な品物さ」だそうです。

カント先生が言いたいのは、「たしかにそこらへんに真珠(知性ある美人とか)は存在しないではないんだけど、それは「そこらのレベルの低いオンドリみたいなやつが手に入れてしまっているので、我々高い知性をもつ教養人には回ってこないのだ!」ってな話じゃないっすかね。これは「モテない男」論のハシリではなでしょうか。どうですか小谷野先生。

まあとにかく、カント先生のお説教はこうです。

どんな仕方であれ、人生の幸福と人間の完全に対して、非常に高い要求をしてはならないということを決して忘れてはならない。というのは、常に平凡なもののみを期待する人には結果がめったに彼の希望を裏切らず、反対に、時にはまた、予想していなかった完全性が彼を驚かすという利点があるからである。(p.363)

まあこれまた平凡ではあるのですが、モラリストというのはこういうのでいいのです。古来から伝わる人類の智慧みたいなのを、自分の生活のなかで苦い思いとともに再発見し、古の人々の思いを何度も何度も反芻する。それがモラリスト。モラリストとしてのカント先生はいいすね。興味あるひとは中島義道先生のやつ読んでみるといいと思う。よく書けてる。

 

 

References   [ + ]

1. 実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。

カント先生に女性のルックスの鑑賞法を教えてもらおう

前のエントリの続き。

紹介したいと思ったのは、第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」の後半にある、女性のルックスの美についてカント先生が語っているところです。こんな感じにはじまる。

美しい性〔女性〕の姿と顔立ちが男性に与える多様な印象を、できるかぎり概念化して捉えることは快適でなくもないかもしれない。この魔力の全体は、根本的には性的衝動の上にひろがっている。(p.358)

カント先生らしい面倒な言い回しですが、男性の女性のルックスの好みは様々なので、それがどうなってるか把握してみましょう、ってわけですね。そして女性のルックスは(男性に対して)魔力的な力をもつことがあり、それは(男性の)性的衝動に根拠がある、というわけです1。なんか現代の進化心理学みたいですが、カント先生の時代だと「種の保存」みたいなのはいってくるのでまだ特に進化的な話ははいってない。おもしろいのは次です。

つねにこの衝動のごく知覚に身をおいている健全で粗野(derb)な趣味は、婦人における外見や顔立ちや眼の魅力等々にはほとんど悩まされることはなく、本来ただ性だけをめざすことによって、たいていの場合、他人の繊細さを空虚なおふざけとみなすのである。

これは、性的衝動を感じたらすぐセックスするような男性は、女性のルックスとかあんまり頓着しない、女性の顔についてああだこうだいって悩んでるのは馬鹿にする、ってな話ですね。カント先生は女性の美について関心がある方だったんでしょうなあ。まあこの、そうした粗野な人々について一連のおもしろい皮肉がある。さて。

高雅な趣味のためには、婦人の外面的な魅力の間に差異を設けることが必要となるが、それに関して言えば、この趣味は姿と形における 道徳的なもの か、あるいは* 道徳的でないもの* にかかわっている。(p.358)

「もっと繊細な趣味をもつためには、女性のルックスのよしあしをみわけられなければなりません」というわけです。先生、ポリティカルに正しくありません!

「道徳的なもの」「道徳的でないもの」っていわれているのは moralisch / unmoralisch なんですが、このモラルってまあ「道徳的」って訳しちゃうとうまくつたわらないかもしれない。精神的なってな意味の英語のmoralと同じやつだと思います。カント先生がいいたいのは、「女性の(外面的な)ルックスについてよい趣味をもつには、外面だけじゃなくて、そこに精神的なもの、内面的なものを見分けることができる必要があるんだよ、ってことです。顔がかわいいだけじゃなくて、なにかそこに優れた性格みたいなものがみえてないとならん、ということなわけですね。

後者の種類の快適さにかんして、婦人は可愛い(hübsch)と呼ばれる。均整のとれた体つき、規則正しい顔つき、眼の色、優雅に際立つ顔は、花束においても気にいるような、冷ややかな賛同しか得られない単なる美にすぎない。

「均整のとれた体つき」は ein proportionierlicher Bau, プロポーションいい体。「規則正しい顔つき」はregelmäßige Züge、まあ左右対象だとかそういう感じですか。「きれいな顔はたしかに美schönなんだけど、それって花みたいな物体としての美とあんまり変わりないのである、そんなものは男性の熱狂的な愛を受けたりするものではないのだ」というわけです。hübschはやっぱり「可愛い」てしか訳せないと思うんですが、可愛いというより顔が整ってる、って感じですね。

顔は可愛くても、それ自体はなにも語らず、心に語りかけない。

まあただきれいなだけじゃやっぱり恋愛の対象とかにはならんわけですよね。忌野清志郎先生のこの歌みたいな感じっすか。

顔立ち、眼差し、顔つきの道徳的である表情にかんして言えば、それは崇高の感情か美の感情かのどちらかにかかわる。彼女の性にふさわしい快適さが、主に崇高の道徳的表現を際立たせている婦人は、本来の意味で美しい(schön)と呼ばれ、また顔つきや、顔の特徴認められる限りでの道徳的な印が、美の諸性質を告げている女性は快適(annehmlich)であり、その度合が高い場合は彼女は魅力的(reizend)である。

訳語の選択は難しいですね。私が訳すならどうするかなあ。いいたいことはわかりますよね。おじさんになってきたりして女性をたくさん見てくると、単に顔が整ってる、ってだけでは魅力を感じないことがある。魅力を感じるのは、なにか内面的なものが表情にあらわれているような女性だ、とそういいたいわけです。んで、その表情に表れる内面的なものが、カント先生がこの本で注目している「崇高」と呼びたくなるようなものをもっているひともいれば、同じく「美」と呼ばれるべきものをもっている人もいる、とそういいたいわけです。

前者〔崇高型〕は、落ち着きを示す顔つきと高貴な外見のもとで、慎み深い眼差しから美しい悟性のきらめきを輝かせ、彼女の顔にやさしい感情と善意の心が描き出されることによって、男性の心の傾向性も尊敬の念を我がものとするのである。

こっちは知性や教養をもっていて、おちついた感じの内面を見せてくれるような人。レディー。マリアテレジア女帝とかですかね。

後者〔魅力型〕は笑った眼のうちに陽気と機知を、またいくらかの繊細な茶目っ気、あだな諧謔、おどけたつれなさを示す。

こっちは明るくて楽しいおちゃめさん、マリーアントワネット様?

前者が感動させるとすれば、後者は魅惑し、みずからのよくするものであり他人に吹き込む愛の感情は、うわついているが美しい。(p.359)

こう、威厳のある美人と陽気でコケティッシュな美人、みたいな区分けをしているわけです。

さて、性欲との関係ですが、

この衝動がまだ新しく、発達しかけた時期に、最初の印象を与えた姿が原像として残り、そして将来、空想的なあこがれを刺激することができ、またこのあこがれによって、かなり粗雑な傾向性が、性のさまざまな諸対象から選ぶようにしいられるあらゆる女性の形態は、多かれ少なかれその原像に適合しなければならない……。(p.360)

性の目覚めの対象になった人のタイプが、その後の人生の性欲生活でも重要な役割を果たす、みたいな感じですね。もうカント先生の時代からそういうこと言ってたんだ。

いくぶん高雅な趣味にかんしていえば、われわれが可愛いと呼んだ種類の美は、あらゆる男によって、かなり一様な仕方で判定され、これについては通常考えられているほど意見の違いないと、私は主張する。(p.360)

単純に顔立ちがととのっているという意味での美人っていうのは、判断はだいたい皆同じ、世界各国共通だ、とかってことですね。

しかし、繊細な姿の判断に顔つきにおける道徳的なものが混合するときには、さまざまな男子において、趣味はつねに非常に異なってくる。彼らの人倫的感情自体に従っても、また顔の表情が、各人の妄想におおいてもつかもしれない様々な意味に従っても異なってくる。

おもしろいっすね。単なる「ととのった顔」については男性あんまり意見の相違はないが、内面的なものを含めると性の目覚めとかその後の妄想の積み重ねとかで好みがいろいろ分かれるようになりますよ、ってな話です。これ、ラブライブとかアイドルマスターとかガルパンとか、最近のアニメは大量の女子が登場しますが、あれは男子の多様な好みに対応するものなのですねえ。それぞれ違う性の目覚めをしたから。ははは。

決定的に可愛くないがゆえに、初め見たときには、とりわけて作用を及ぼさない形態が、よりよく知るにつれて気に入りはじめるや、通例、はるかに多くの心をひきつけ、たえず美しくなっていくように思われるということが見られる。可愛いが外見は一挙に知られるが、ときの経過に従ってますます大きな冷淡さでもって知覚される。道徳的な魅力は、それが目に見えるようになったときには、より強く心を捉える。これに対して、可愛い外見は一挙にさいられるが、時の経過に従ってますますおおきな冷淡さでもって知覚される。

「決定的に可愛くない」っていのはひどい言い方だとおもいましたが、weil sie nicht auf eine entschiedene Art hübsch sind」なので、まあ「すごく可愛いってわけではないので、最初はたいして印象をいだかなかったクラスの女子が、隣の席になってだんだん中身がわかってくるとだんだん可愛くみえてくる」ってそういう話ですね。カントくんも可愛いじゃないっすか。一方、美人なのはすぐにわかるけど、だんだん興味なくなるってやつですね(ルソーが妻について言ってる例のやつのうけうりっすかね)。まあ女性が美人なのはいいことだし、鏡やお化粧その他に気をつかうのもわかるけど、やっぱり内面が大事ですよ、知性と教養をはぐくみ、またポジティブな性格を身に着けましょうね、みたいなそういう話。男性のがわも、女だからなんでもいいってのは粗野だし、美人がいいとかってのも外見だけの話だったら馬鹿らしい、やっぱりその内面の崇高と美を見抜けるようにならないとなりません。まあごく普通の常識的でお説教っぽいものだけど、それはそれで楽しい。

まあこんな感じでおもしろい。見ての通り、「美と崇高」で趣味を二つに切っていくっていうのはけっきょくたいしてうまく行かず、矛盾しているっぽいところもあるんですが、まあそうういうの気にしないで軽く楽しい文章を書く、っていうのも、実はカント先生好きだったんでしょうな。カント先生軽さの美に挑戦する、ぐらいっすか。

女性のルックスの話となると、桂枝雀師匠の「仔猫」って話のおなべさんのことを思い浮かべるんですわ。まあルックスに恵まれない女性にたいする評価みたいなの、昭和な感じで、いまとなってはちょっとつらいところもありますが、枝雀先生すごいですよね。

この枝雀先生の芸は、すごく機知に飛んでて楽しくて美であると同時に、それを実現するための苦しい修行や、彼の(おそらく)鬱っぽい気質なんかも見せてくれて、見るたびに圧倒される「崇高」なものでもある。まあ「美と崇高」はどっちかだ、両立しない、みたいな考え方しちゃだめなんだとは思います。男女の特性や美徳悪徳についても同様。そういう単純な話っておもしろいけど、けっきょくはだめなんですよね。これはカント先生も認めてる。

 

 


  1. これ、中島義道先生と解釈ちがうかもしれない。 

カント先生の『美と崇高』はおもしろいなあ

去年と今年、過去の大哲学者たちが、男と女、そしてその関係について、いかにろくでもないことを言っていたかというのを紹介する一般向け講座みたいなのをやっているのですが、読み直してやっぱり軽い哲学っていうのはおもしろいなと思いますね。昨日は大哲学者のヒューム先生とカント先生を取り上げたのですが(先週はルソーとウルストンクラフト)、その一部を紹介してみたいです。

カント先生は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『人倫の形而上学』『啓蒙とかなにか』『永遠平和のために』とかギザギザした難しいタイトルのとても難しい本を書いていて有名なのですが、若いときはわりと軽い文章も書いてるんですよね。ドイツの大学の「私講師」というポジションで、一般受けしそうなネタを扱って受講生集めないとお金もらえなかったり、サロンや食事会とかでうまいこと言ってウケたいとかそういうそこそこ人間らしい事情があったのだとはおもいます。カント先生はふつう思われてるほどガチガチの融通きかない人ではなく、そこそこ助平心もあったのかもしれない。

『美と崇高の感情に関する観察』っていう1763〜4年ごろの作品(カント先生40歳ぐらい)のは徳に軽くて陽気で冗談とか入りまくって楽しい。これはカントっていう名前から想像される、ガチガチ体系哲学じゃなくて、「観察」というタイトルに表れているように、先生が自分や他の人々の社交などを観察しておもしろおかしく書いたエッセイですわね。

中心的なテーマは、我々がそれを見聞きしたり体験したり交際したりすると快や満足を感じる人や対象があるわけですが、特に「趣味」にかかわる話です。趣味は、プラモ作成とかキャンプとかのホビーじゃなくて、あの人は趣味がいいとか悪いとかっていうときの好みの方です。特に、「美」と、「崇高」のふたつに注目して、この二つで我々が好むものを分けていっておもしろい話をしましょう、というわけです。

「美」はもちろんふつうの「美しい、きれい、優美だ〜」っていうやつ、崇高の方は難しくて面倒なんですが、基本的には「すごい!えらい!」「ごつい!」「強えー!」とかそういうのにかかわるやつですね。カント先生の文章引用するとこうなる。

雪をいただく頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かに花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群におおわれた谷間の眺望、エーリシュウム〔ギリシア神話での死者たちの至福の世界、桃源郷ですか〕の叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。

この文章はまあ面倒ですが、「崇高は感動させ、美は魅惑する」ということらしいです。すごいのでこっちを圧倒してきて感動させるけど、ちょっと遠くから眺めていたいのが崇高で、きれいだったりかわいかったりしてうっとりさせてくれるのが美、と。まあわかりやすいですね。カントはいろんな優れたものをこの二つに分けていくわけです。

自然物とかだと上のよう感じですが、人間の性質でいうと、こんな感じ。

悟性は崇高で、機知は美しい。大胆は崇高であり、手管は卑小だが、美しい。……真実と誠実は単純で高貴であり、諧謔と快い媚〔こび〕は繊細で美しい。……崇高な諸性質は尊敬の念を、しかし美しい諸性質は愛をつぎ込む〔呼びよせる〕。 (p.328)

崇高なものは努力や堅さや重さや力と関係があり、美しいものは才気ややわらかさや軽さなんかと関係がある、まあそう言われると、我々が好きないろんなものが、この二つによって特徴づけられるような気がしますね。まあだからどうだってことはなくて、単なるおもしろい「お話」ではあるけど、こういう二分法とかやると、酒の席とかだといくらでも話が続けられる。太宰治の『人間失格』のなかで、主人公が友達といろんなものを喜劇(コメ)と悲劇(トラ)に分けて遊ぶ印象的なシーンがありますが、あれと似てる。ふたつに分類する、っておもしろいんですよね。まあカント先生にいわせればトラは崇高でありコメは美である、とかになると思う。

んでまあ美と崇高の話、どうしたって人間の話になるわけです、っていうかそれが目的で、自然物とか建築物とかそういうのは導入。私が興味あるのは当然男女の話。せっくすせっくす、せっくすの話しろー。ていうか私もここまで前置きが長すぎるわ。

第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」で、この章をいろいろ紹介したいのですが、今日は女性の顔の話だけ。あれ、前置きだけでかなり長くなってしまったから次のエントリに。


テキストは久保光志訳『美と崇高の感情にかんする観察』

実はカント先生とはずいぶん前に同じネタでお話させてもらっている。→ カント先生とおはなししてみよう

 

 

 

伊藤公雄先生のマーガレット・ミード

性差の科学編集委員会 (2011) 『性差の科学の最前線』、京都大学大学院文学研究科社会学教室、っていう報告集があるみたいなんです。google bookにひっかかってきて発見しました

まだ入手できてなくてよくわからないのですが、そのなかの伊藤公雄先生の文章がとてもひっかかりました。こんな感じです。

まあミードの『サモアの思春期』デレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』でかなり厳しく批判されて、それがフェミニズム/ジェンダー論に対するバックラッシュに利用されたよ、でもミードのサモアの話と、(前のエントリで紹介した)伊藤公雄先生たちが使ってるSex and Temperamentのニューギニアの話は違うよ、ってな話ですね……。そうか……。……。

お前は何をいっているんだ

 

デレク・フリーマン先生の『マーガレット・ミードのサモア』は有名なのですが、パプアニューギニアの方の研究についてもデボラ・ゲワーツ先生が再調査してます。それらをもとにして、ドナルド・ブラウン先生が『ヒューマン・ユニバーサル』(1991、翻訳は2002)でミードの研究の問題についてかなり詳しく論じています。

サモア

  • デレク・フリーマンが再調査。
  • ミードはサモアの思春期にはストレスが少ないといってるが、彼女のデータでも25人の女性中4人が非行行動をとっている。最近(80年代?)のデータでも他の文化とかわらない
  • サモアにはかなり極端な性的行動のダブルスタンダードがある。
  • レイプも頻繁にある。暴力も頻繁。

パプア・ニューギニアのチャンブリ族

  • ゲワーツが70年代に再調査。
  • チャンブリの伝統的概念では男性は攻撃で女性は服従的。
  • 生産は女性がおこなうが、その産物をコントロールするのは男性。
  • 男性から女性に対する暴力も頻繁。
  • ミードが調査したとき、チャンブリ族は他の部族との戦争に負けた直後で危機的状況だった。つまり、一時的に男性の活動や男性どうしの競争がよわまった時期だったにすぎない。
  • 民族誌において、女性が公的な場で男性よりも優位にたつ社会はいまだに発見されていない。

ここらへんはものすごく有名な話なのに、2011年で伊藤先生みたいなことを書いていて平気っていうのは、いったいどういうことなのですか。もちろん、アカデミックにはまだまだ論争は続くと思う。我々素人には、偉い学者先生たちがちゃんとした研究をすすめるのを応援するしかない。がんばれー。お金まわしてあげてほしい。

でも、いかにも「バックラッシュ」勢力が、ジェンダー論を攻撃するためにフリーマン先生の適当な研究を使ってバッシングしている、みたいな表現をして、恥ずかしくないのですか。そしてそれを見ていた社会学者の先生たちはいったいなにをしていたのですか。

 

 

なぜ私はフェミニストを信頼しなくなったのか:「ミードの表」昔話

あんまり幸福じゃないのでで、友原章典先生という先生の『実践幸福学:科学はいかに「幸せ」を証明するか』っていう本よんでたら(良い本なので読みましょう)、年寄になったら昔話をすると幸せになるって書いてたのでやりましょう。

まあ加藤の論文をきっかけに、2000年代のことを思い出してたんですが、やはり印象強いのは、フェミニズムとかジェンダー論とかってものが、学問的におかしいんじゃないかと思いはじめたころのきっかけですね。2000年代にはいって今働いている会社に就職して、事情から「ジェンダー論」みたいなものを担当しなければならなくなり、それなりに勉強したんですよ。そしたら、どれ読んでもなんかへんな感じがするわけです。何読んでも出典がはっきりしなかったり、怪しげなことが書いてあったり、今では(2000年当時としても)おかしげなことが大手振るって説明されているわけです。そのなかで出会ったのが「ミードの表」問題。これは文献を調査しながらはてなブログで連載したんですが、今読んでも読者にはよくわからなくなっているので、簡単に昔話したいと思います。ジェンダー論読んでたら、マーガレット・ミードのSex and Temperament あたりの話について、同じような表が掲載されていることに気づいたんですよ。

みんな同じような表を貼ってるんだけど、どれもこれも同じようでなんかおかしい。そしてそれを読むと、なんか孫引きを繰り返しているように見えるし、途中でいろいろ変わってるし、この人々は学者としてやばいな、って思いました。

簡単に問題を整理すると、Mead (1935) Sex and Temperamentから、村田 (1987)で作成された表を、井上(1989)が引用し、それを伊藤(1996)が縦横変換して誤植を入れ、それを伊田(2004)がさらに伊藤の名を出さずにパクリ、別の本の出典を加えてる、感じですか。村田1987(初版は1979)はごく初歩的な発達心理学の教科書であり、ジェンダー論の基礎文献につかえるようなものではありません。

私がこの一連の表を調査して発見したのは、ここらへんの人はマーガレット・ミードの本(Sex and Temperament)をほとんど読まないままに、仲間内かなにかで表だけ真似しあっているのかもしれない(推測)、ということでした。

こういう人々の言うことは信頼できない、とそのとき確信したのです。伊田先生は男性フェミニストということで一時期脚光を浴びて話題になってましたが、影が薄くなりましたね。伊藤先生はその後も第一人者として活躍していますが、色々変なことを言っていて私はまったく信頼していません。


伊藤公雄『男性学入門』(2005)

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』2004

 

『ジェンダーというメガネ』(2003)

出典は「マーガレット・ミード「男性と女性」 1935」

「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」

 

 

 井上知子他『生き方としての女性論』(1989)

 

 

村田孝次 『教養の心理学』4訂版、培風館、1987

「ジェンダー論と生物学」 (8) 「循環的」「権限が及ぶ」がわからない

んで、加藤先生は「自由意志」の問題をつかって、自然科学者(この場合は神経関係の人々)がいろいろ勝手なことを言うのを戒めたり。ここらへんはまあいいです。そんな素朴な自然科学者たちっていないだろう、ぐらいは思うけど。

……人間に特有の現象として措定されたジェンダーという対象について,生物学は何も言うべきことがなくなるのではないか,という疑念をもつ読者がいるかもしれない.それは半分は正しく,半分は間違っている.

うしろ読むとわかるけど、実際には生物学はなにも言うべきでない、と言っているっぽいのよね。でもとにかくお話を聞きましょう。

正しい面とはこういうことだ.人間における女と男の分類について考えてみよう。男とは, あるいは女とは誰のことだろうか.それはわれわれが女として,男として名指す対象者のことである.この循環的な規定がすべての,そして唯一の出発点である.

はい、出発点なのはよいです。しかし、それがなぜ 循環的 だといわれるのかよくわからない。机、イス、ペンギンとはなにかといえば、我々が机と呼ぶもの、イスと呼ぶもの、ペンギンと呼ぶものだ。イスや机は我々が座るために、あるいは物置にするために作られたものであり、ペンギンは南極とかにいる飛べない鳥だ。なにも循環していない。なぜ「男」と「女」が循環的な規定と言われる必要があるのだろうか。

これまでのところ,それは「卵を作る個体が雌,精子を作る個体が雄」といった生物学における定義と概ね整合的である.生物学の方が自然言語における「性別」概念に依存しながら実践されてきたのだから,これは当然のことではある.だが現在においてすら,両者は完全に一致しているわけではない.われわれの自然言語は,無精子症の男性も「男」と呼ぶし,卵巣をもたない女性も「女」に分類するからである.(pp.161-162)

これは例が悪い。この意味でのオスやメスは、生物学においては、典型的には大きな配偶子をつくったり小さな配偶子をつくったりする性というにすぎない。環境や発達の過程によって配偶子をつくらない個体もいるが、それは生物学者にはなんの問題もない。そして、それぞれの個体がどういう配偶子を作るように成長するかは、大部分遺伝子が定めていることもわかっている。無精子症の男性や卵巣を持たない女性がいてもなんの問題もない。したがって、加藤先生が言いたいのはそういうことではないのだろう。

さらに近年では,諸々の社会制度における性別の取り扱いを,生殖機能にもとづいて各個に割り当てられた性別ではなく,当人の性自認(ジェンダー・アイデンテイティ)にもとづかせるべきだという主張が影響力を増している.今後,この趨勢が続くかどうかは分からない.(p.162)

生物学的な性ではなく、社会的な性の話をしているわけよね。無精子症の男性がいる話はまったく関係がない。

だが,性別の基準がどのように変化しようと,その基準にもとづく「女」「男」という人間の分類が社会的に有効であるかぎりにおいて,それがわれわれにとっての「女」「男」の,すなわち性別という概念の意味である.(p.162)

この「分類が社会的に有効であるかぎりにおいて」と「性別という概念の意味」がわかりにくい。でも我々が社会生活において「男/女」と呼んでいるものと、生物学的な「オス/メス」が同一でないというのは認めたい。

このとき,どのような基準が採用されているか,そこに生物学の知見がどのように関わっているかといった事態を明らかにすることは社会科学の固有の課題であって,生物学の関わりは二次的なものでしかない.(p.162)

これはOKではあるんだけど、我々が性別をどう判別するかとかっていうことには、心理学や認知科学や脳科学や生物学がからんでくることもあるだろう。「社会科学固有の課題」といわれてるときのポイントが私にはわかりにくい。我々の日常生活における男女の区分けがもっぱら社会や文化による恣意的な区分けである、と言いたいのだろうか。

他方,生物学の方にも,もちろん固有の課題がある.生物学の体系内で定義されたヒトの性的二型にかんする研究の意義は,ヒトが有性生殖によって繁殖する生物種である限り,なくなるはずはない.また,たとえば「性自認」といった現象が遺伝子や生育環境とどのような因果関係をもつのかといったことも興味深い問題である.あるいはさらに,「自由」という概念をヒトがもつに至る自然史的プロセス/メカニズムさえも,将来の進化生物学は解明するかもしれない.だが同時に忘れてはならないのは,これらの課題はすべて,「性別」「性自認」「自由」といった民間概念の理解に立脚し,それを媒介として,初めて可能になるということである.そして,われわれがこれら諸概念を運用するやり方を解明することは社会学の,また,それらの規範的な正当性を問うことは倫理学,法哲学,政治理論といったディシプリンに固有の課題であって,そこに生物学の権限は及ばないという,ただそれだけのことだ.(p.162)

日常的な男女の問題を考えるときには、日常的な男女の概念をよく考えねばなりません、自由の問題を考えるときは、まずは日常的な意味での自由というものを考えねばなりません、というのはもちろんまっとうな主張だと思う。文句はない。でも「生物学の権限が及ぶ」という表現の意味がわからない。「生物学的にオスである」とか「SRY遺伝子を含む染色体を含んだ細胞によって構成され身体をもっている」ということが、社会的に男性として扱われることを正当化するわけではないということかな?それなら当然認める。しかし、そんなことを考えている生物学者がいるとは思えない。

進化生物学者や進化心理学者がやろうとしているのは、進化という発想を背景にして、我々がどのような傾向性をもっているのか、環境にたいしてどのように反応する傾向があるのか、我々の生活や社会がどのようにして成立しているのか、などを解明しようとすることだと思う。まともな科学者は、簡単には社会的な規範の正当化などはおこなわないものだ。ハエやタコやカッコウや犬やネコの生態や繁殖や性生活がどのようなものであれ、そこから人間の生活についてすぐに規範的な判断や価値判断を行おうとする人々はただのインチキ科学者である。そんなの誰でも認めることではないか。それでは「権限が及ぶ」というのはどういうことなのだろうか。

一方で、生物学者が提供してくれる、進化や性淘汰といった発想や、他の動物と人間の社会や生態の比較は、我々人間とその社会についていろんなことを教えてくれる可能性がある。社会的な性差と呼ばれているものは、我々人類が、長年にわたってかわりゆく環境におうじて試行錯誤してきた結果かもしれない。それは直接には我々の社会の規範を指示するものではないけど、規範的な判断をするときの参考にはなる。我々は、生物学や進化心理学の知見を取り入れることで、性犯罪やポルノグラフィー、結婚制度、家庭内の男女分業などの問題を、もっとうまく処理できるようになるかもしれない。

つまるところ、私は加藤先生が「生物学」としてなんか批判したい見解がどのようなものかよくわかららないのよね。まともな生物学者で、加藤先生が危惧しているようなことを考えている人がいるのだろうか?私はよくわからない。そして、2019年から2020年にこういう論文を読んでよくわからないと思って苦しんでいる自分にうんざりしているのです。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。

ここで改めて性暴力(と呼ばれる人間の行動)について考えてみよう.性犯罪を犯した少年たちの治療教育に長らく携わった藤岡淳子によれば,性暴力とは「性的欲求によるというよりは,攻撃,支配,優越,男性性の誇示,接触,依存などのさまざまな欲求を,性という手段,行動を通じて自己中心的に充足させようとする」行為であるという(藤岡2006: 15). (pp. 156-157)

ここで挙げられている藤岡淳子先生の『性暴力の理解と治療教育』は国内ではよく読まれている本のようです。私はちょっと問題があると思っているのですが、ここでは触れません。「性的欲求によるというよりは」を、「性的欲求だけではなく」ぐらいに解釈してよいならとりあえずOK。

「性的欲求」が性暴力の一要因ではないというわけではないが,それだけには収まらないさまざまな欲求, しかも対他者関係的な欲求が複雑に絡み合うことから性暴力が引き起こされるという事実を,性犯罪者の証言という具体的なデータをふまえて,藤岡は明らかにしている.

これもOKです。ただ、「具体的なデータをふまえて〜明らかにしている」というのはちょっと言い過ぎだと思う。藤岡先生の解釈は、おもに海外の古めの文献の解釈にもとづいているもので、現代の犯罪学者の人々がまるっきり賛成するものではないと思う。でもそれはよい。問題はそれにもとづいた加藤先生の議論。

ここで,分析を簡略化するために,百歩譲って「性的欲求」がヒト以外の生物種(の雄)にも通底する何物か,たとえば主体的にはコントロール不能な衝動であると仮定したとしても―ドーキンスのいう「無力な麻薬中毒患者」のメタファー(Dawkins 1976=:389) を想起してもよい一一それ以外の諸要因まで同じように片づけるわけにはいかない.

まず、「ドーキンスの「無力な麻薬中毒患者」」なんて、その文脈や意味の説明なしにいきなり出してくるのが私は気にくいません。こういう、「当然知ってるよね?」みたいなのやめましょうよ。ハッタリはやめてください。、私は、そういうことする人々とは人生かけて戦いたいと思います。この一文で、加藤先生もその憎いリストに入りました1)実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

ドーキンスの出典は、『利己的な遺伝子』の1992年の方の翻訳なら399頁(翻訳数種あるので頁がちがう)。話は、カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けて、そのヒナの赤い口が、(他の種の「里親」となる)鳥にとって麻薬的に作用する、っていう文脈ですね。

カッコウの雛の大きく開けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。……突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛び込んでくる。鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子どもの口の中に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。……カッコウの開いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているのかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。……その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者でもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.399)

加藤先生、現実世界での性暴力や性欲について、これ本気で想定するんですか?つまり、鳥がついカッコウ雛の口にエサを投げ入れてしまうのと同じように、神経系が刺激されて、ほとんど不随意の運動として、男性が女性をレイプしてしまったり、電車で痴漢してしまったりするのだと(議論のためにさえ)認めてよいのですか?もしそんな「麻薬」「悪癖」「超刺激」が与えられてたら、「他の要因」なんか考える必要ないじゃないですか。選択の余地ないんだし。なにを言ってるのですか。こんなことになるのは、ドーキンスちゃんと説明しないからじゃないですか。いいかげんにしてください。

とりあえず、性欲やそれを引き起こす刺激がこんなものではないと想定して、加藤先生の文章に戻ります。

藤岡が挙げる他の諸側面は,男であるならば性的に活発であるべきであり,女を従わせることは正しく,また女が男の欲求を満たすことは当然であるといった正当化文脈と切り離して理解することはできない.

なぜですか。私にはわからない。「正しい」とか「べき」とか、加藤先生自身はなにも説明してないじゃないですか。「(男が)女を従わせることは正しい」というのは、一部の加害者の証言にあるのかもしれないけど、それ抜きでは性暴力を理解できないのは藤岡先生や加藤先生じゃないのですか。なにか客観的に、そうした正当化の文脈と切り離しては、性犯罪者の動機やその行動の原因を説明できないのでしょうか。それならそれなりに論証してもらわないとならないと思う。(もちろんそれは不可能ではないと思うけど、なされていない)

そして「性的欲求」さえも, こうした文脈と関連することで初めて性暴力を駆動する一要素になることができるのであり(人間が何をどこまで我慢するかという基準が当該社会の規範によって変わることは自明である),かくのごとく性暴力とは深く〈正当化の回路〉に属する現象なのである.

わからない。加藤先生自身はさっき性的な刺激と性欲は麻薬のように強力だと想定しているんだからなおさらわからない。その麻薬としての想定は抜きにしても、なにも社会的な正当化や規範と関係なく、強制的なセックスや性的な暴行をおこなう人々というのを私はなんの苦もなく想像できるし、じっさいそうした見境のない人や半道徳というよりは道徳をまったく気にしない「アモラル」な人々もいると思う。なぜ、ある人々の行動の至近的/究極的原因を解釈するために、道徳的あるいは社会規範的な正当化が必要になるのか、私には理解できない。

以上の考察からも,人間以外の生物に見られる強制的交尾を人間における性暴力と同一視する進化心理学的な「レイプの自然史」といった試みがかなり根本的に的はずれであることが示唆されるだろう.さらに言えば,おそらく以上のような特性は,性暴力に限らず,およそ人間における「性」と呼ばれる現象全般に通底する特質であろう.

ぜんぜんわかりません!

 

 

References   [ + ]

1. 実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

「ジェンダー論と生物学」 (6) 理由と原因は切り離せないとはどういう意味だろう?

さて、次の文章がおそらく重要なんだけど、読みにくいんですよね。

……ここで注意すべきは,性的二型という自然史的事実が性役割・性差別という規範的制度と関係する回路は二重であるということだ.一つは性的二型の現象それ自体が性差別をもたらす原因(cause) となる一一逆に性役割・性差別は性的二型を生じさせることもある―という〈因果関係の回路〉であり,もう一つは,性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉である.人間においても前者の水準と無縁であるわけではない.人間は自らを記述し規範性によって自らの行動を律するという性能を有する特殊な生物ではあるが,それでも生物の一種なのだ.しかし,〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである.(p.156)

前で指摘したように、「性的二型」だの「性差別」だのが具体的に何を指すのかが明確になってないのに加えて、「回路」だの「水準」だの見慣れない言葉が出てきて、社会学者以外の人々にはかなり困難な文章だと思う。がんばって読む。

一つ言われているのは、(1) 「性的二型(男女の身体的・行動的な違い)が、性差別の因果的な原因となる」ということだと思う。具体例一つぐらい出してくれればいいのにね。それに、「性差別」というのが、個別の人物がやってしまう性差別なのか、社会規範としての性差別なのかわからない。まあおそらく社会規範なんだろうけど、性差別、というのでどういうものを指しているかもわからない。たとえば、性的二型(たとえば女性におっぱいがあること)が、過去に女性が参政権をもっていなかったことの因果的な原因となっているだろうか?なってませんわね。だから、「性的二型が性差別の原因になる」とか抽象的なことを言うときには、少なくともいくつか例を示してほしいものだと思う。たとえば、「女性は男性より体力がないことが多いので、力仕事は男性にまかせて体力の必要ない作業をする傾向を持つ」とかですわね。社会学者には性的二型が性差別の原因になっている例はあまりにも多すぎて自明なのかもしれないけど、いちおう確認してほしい。でもまあがんばってそういうことがあると認めることにする。

もうひとつ言われているのは、(2) 「性役割・性差別が性的二型を生じさせることもある」。ここで混乱するのは、まえに指摘したように「性的二型」が何をさしているのかはっきりしてないからよね。おそらく体の大きさや生殖器の構造・機能とかではなく、行動の違いまで指しているはずだ。おそらく、「人々の社会的な通念や思い込みが、人々の性に応じた振る舞いや他人の扱いに影響を与える」ぐらいなんだと思う。「男は仕事、女は家事」っていう思い込みがあるので、人々はそういうふうに振る舞うようになる、ぐらいの話だと思う。まあOK。

「性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉」はものすごく理解しにくい。この文章、「性差」じゃなくて「性的二型」じゃだめなんかな。それに「意味づけ」が社会学者以外にはわかりにくい。ふつうの人々の言葉づかいなら「解釈」ぐらいのはず。つまり、言われているのは、(3) 「性的二型をどう解釈するかということが、社会や個人の性差別を正当化する(当人たちにとっての)理由になる」ぐらいだと思う。

ここまで読むのでぜいぜいっていう感じですね。そしてやっと問題の「〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである」が来る。

あれほどがんばっても、私はこの文章を理解することができない。加藤先生の言いたいことをふつうの書き方でいけば次のようになるはずだ。

人間の男女の 性差(性的二型)が存在することから、因果的に、社会での性役割分業や性差別が生じることがある。また、社会にすでに存在している性役割分業や性差別から、因果的に、男女の行動の差が生じることもある。さらには、そうした性差/性的二型が、性役割分業や性差別の正当化の理由とされることもある。

ここまではOK。しかし、続きがわからない。因果関係の話と、正当化の話が切り離せないのはなぜだろう?どういう意味で切り離せないのだろう?なぜ切り離せないのだろう? それはなにか概念的に必然的な話なのか、人間の心理的で偶然的な話なのか、どちらなのだろう?因果関係の話は正当化の話に「包摂される」とはどういうことだろう?因果関係の話が正当化の話を構成する一つの水準としてしか把握することができない、というのはどういいうことだろう?「把握する」のはいったいだれだろう?学者?

こういうの私わからんのですよね。私だけが読めないわけではないと思う。社会学者の先生どうしもよくわからず読み書きしてるんじゃないかと疑ってるんですが、どうですか。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (5) 「レイプ」という語を人間以外に使えるか?

進化心理学者たちの擬人法的な言葉づかいについて、前のエントリに書いた、ソーンヒル先生たちの『人はなぜレイプするのか』での言い分を引用して紹介しますね。わかりやすい文章なので解説はなにも必要ないと思う。

ごく初期の論文(Thornhill 1980)を批判するなかでゴワティやハーディングは、「この論文中では進化的機能を含めて“レイプ”を定義しているが、そうした定義は、この用語が人間についての出来事に関して一般的に用いられるのとは、異なるものである」といったことを述べている。しかしながら、定義に進化的要素を含めているからといって、その著者が、レイプは進化によってもたらされた自然なものであることを根拠にそれを正当化しようとする隠れた意図を持っていると考えるべき合理的な理由は、どこにもない。(p.224)

なにを指しているのかはっきりしていて、またそれを単純に人間の行動の道徳的な価値判断とかに利用しないならば問題はない。

自然主義の誤謬があくまでも誤謬であることを理解している人にとっては不合理きわまりなく思えることだが、レイプを“正当化”することへの恐れから、進化的説明に反対する多くの批判者が、レイプは人間だけのものだと考えようとする。これまで数多くのひはんしゃたちが、レイプは人間だけにしかないという意味をこめて、「どのような状況下においても、人間以外の生き物については“レイプ”という言葉を使うべきではない」と強硬に主張してきた。しかし現実には、この言葉を聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのが人間についての例であるせよ、それを人間以外に当てはめていけない理由はない。たとえば“セックス”という言葉にしても、それを聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは人間のことだろうが、それとともに他の生き物についても、この言葉はごく日常的に用いられている。(p. 226)

これおもしろいですね。ハエのセックスとかタコのセックスとか、人間のとはずいぶんちがうかもしれませんが、まあそれなりにどういうことかわかるし混乱もしない。タコやイカが触手つかってセックスするからといって、そうしない人間が道徳的に不正だということにはなりませんしね。

 

……レイプは人間独自のものだと定義してしまうと、人間のレイプの要因について参考になるかもしれない、それ以外の生き物たちの行動を、最初から除外して考えることになってしまう。実際、要因を理解する上で生物学の基本的な手段となっている比較分析の重要性を、そうした限定的な定義は否定することになってしまうのだ。(pp. 226-227)

レイプを、かならずしも物理的に暴力的であるとはかぎらないなんらかの意味で強制的な(あるいは強制的に見える)交尾と定義してみると、いろんな生物でそういうのは見られて、そういう行動がどういう条件下で起こるかそれぞれの動物の特性や環境や条件など考え合わせるとおもしろいことがわかってくる。人間もそういう研究の対象になりうるわけです。「浮気」も同じですね。

 

     

    「ジェンダー論と生物学」 (4) たしかに鳥は「結婚」しないかもしれないが……

    なぜ、つがいになっているメス鳥が、オスの配偶者防衛をかいくぐって他のオスと交尾して卵を産もうとすること、そしてオス鳥が他のオスとつがいになっているメス鳥と交尾することを「浮気」と呼んではいけないのだろうか。

    これは加藤先生の文章を読んでも私にはピンとこない。というわけでズック先生のを見なければならないのだけど、ズック先生が言いたいことも実はよくわからんのですわ。

    鳥たちは、「浮気している」のではなく、ただするべきことをしているにすぎない。(ズック p.120)

    これ読むと、「鳥は浮気をするべきなのか!」と読んでしまう人がいるかもしれないけど、原文は ‘The birds aren’t “cheating”, they are just what they do’ なので、鳥というのはそういうことをするものだということですわね。べつにしなきゃならんとか、しないと道徳的に非難されるとかそういうことではない。

    まあよく読むと、ズック先生が言いたいのは、加藤先生が引用していない次の箇所。

    もし鳥たちの行動を、私たち自身の行動のためのモデルや正当化の手段として使用しようとするなら、私たちは自分たちのモラルについてきわめて不確実な根拠に基づいて決定を下す危険を冒すことになる……(p.120)

    これはまったく正しい主張ですね。つまり、鳥が「浮気」と呼べる行動をする、そしてそれは我々人間の行動とよく似ているとしても、だからといって我々人間が鳥と同じように「浮気」することが道徳的に正当化されるとか、当然のことだとか、許容されるべきだということにはならない。当たり前のことです。しかし、「浮気」という言葉を鳥の行動に適用してしまうと、鳥では許されるのだから人間でもゆるされるべきだ、と考えるやつが出てくるということだろうか。まあそういうことを考える人はいるかもしれないけど、それは生物学の専門用語や比喩としての「浮気」を批判するよりは、鳥と人間の区別がつかないような人々の考え方を非難した方がいいのではないか。

    まあでも、言葉づかいによるバイアスが、生物学研究や、人間社会研究に影響を及ぼすということは十分ありえるので、どんなに注意しても注意しすぎることはない、ぐらいは認めてもよい。

    しかし加藤先生の続く箇所はまた別の意味でわかりにくい。

    同じ理由から,ズックは『ネイチャー』誌に掲載された論文の一つが鳴禽類のヒナたちを「婚外子」(“illegitimate”)と呼んだことについて,「鳥の親たちが鳥用の小さな結婚証明証でも持っていて,誓いの言葉でもさえずったかのよう」だと批判している(Zuk 2002: 71=2008: 121) .言うまでもないことだが,鳥ーーだけでなく人間以外のすべての生物—は「結婚」などしない.かれらは自らの行動を「結婚」という規範的制度に結びつけて意味づけたりはしないからである.鳥類の一部が「一夫一妻」風のつがいを形成するのは,進化の結果としてそのような行動上の傾向性を獲得した結果であり,そしてそれがすべてであって,人間のように,それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているからではない.

    たしかに、結婚証明書を作る、という意味では鳥は「結婚」なんかしない。しかし、同じように結婚証明書を作らないでカップルになったりセックスしたり子供をつくったりした人々は世界中にたくさんいたし、いまもたくさんいる。というか結婚証明書を作るという意味で結婚した人々など、人類の歴史のなかではほんのわずかにすぎないだろう。では、結婚証明書を作らなかった人々は結婚しなかったのか?

    そうではない。加藤先生が言いたいのは、自分たちの行動を「結婚」という規範的制度なるものに結びつけて意味づけている人々だけが結婚したといえる、ということだろう。これは社会学者らしいものの見方だと思う。社会学者にとっての関心事は、こうした再帰性というか自己意識的というか、そうした性質をもつ社会制度が現在の社会でどのように機能しているかとか、歴史的にどのようにして成立してきたかとか、今度どうなっていくかとか、そういうことであるというのはよくわかる。

    しかし、人間社会の結婚制度を考えるときに、生物として、哺乳類としての人間がもっているさまざまな生活や繁殖の上での条件制約を考慮に入れることは当然必要であるように思われる。人間の生殖に関しても、他の動物、他の哺乳類や、特に鳥のようにつがいになって繁殖する傾向のある動物との類似や対比から学ぶことことは多いはずであり、鳥のつがい行動を、それは結婚証明書を作ってないので、あるいは自分たちが結婚しているとは理解していないので、「結婚」ではないのだ、と一蹴してしまう必要があるだろうか。また、人間が性的なペアや集団になる傾向をもっているのは、単に「それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているから」と考えて十分だろうか。もちろん、人間は現在どの文化においても「結婚」という排他的制度をもっているわけだけど、そうした制度をもっているのは単なる偶然ではないはずだ。そして、結婚関係をむすんでペアやグループになるのは、それにしたがわないと社会的なサンクション(制裁)を受けるからという理由だけではないはずだ。そんな単純な話になっているはずがない。私の読みが悪いのかもしれませんが、かなり不用意な文章になってるんではないかと思うのです。

     

    「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

    まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。

    これは見た目よりも複雑な主張ですよね。性差別は人間社会以外には存在しない、っていうのはありそうな話だってのはみとめてもよい。なぜなら性差別は(おそらく定義からして)性によって人々を不適切に、差別的に扱うことであり、人間以外の存在者について、「道徳的に不適切な振る舞いだ」などということが言えるとはおもえないから。

    「性別役割」の方はそれに比べるともっと面倒になる。オスとメスがちがった行動をとったりすることは人間以外の生物について認められる。もちろん、「ネコのメスはこうするべきだ、そうしないと不道徳なメス猫だ」などということはありえないが、たとえば鳥のつがいや、ゴリラやオットセイのハーレムのなかでなんらかの役割分担があるというのは事実だろうし、生物学者が好むネタでもある。

    だからここで加藤先生が言いたいのは、「オスは道徳的にこうあるべきだ」という判断は人間以外の生物については言えないし、生物学者がそういうことをいうのはおかしいということだろう。こう読めばOK。しかし、「人文社会系のジェンダー研究」なるものも、「オスは道徳的にこうあるべきだ」などということを主張することも同じように怪しいと思うのだがどうだろうか。とりあえず倫理学はそんなに偉くないとおもう。なぜ社会学はそんなに偉いのか。

    「おしどり夫婦」という日本語すらあることが示唆するように,生物学にくわしくない人々は,鳥類がいわゆる「一夫一妻」の結びつきを長期にわたって維持すると信じている。しかし近年の研究から,そうした鳥たちも実際には繁殖期ごとに相手を変えていたり,雌がつがい相手とは別の雄たちと交尾することが明らかにされている.問題は,生物学者や科学ライターたちが,そうした「つがい外交尾」行動を「雌の乱婚」と表現したり「浮気」と表現したりすこの点について,進化生物学者のマーリン・ズックがきわめて的確に批判している.

    鳥たちは「浮気している」(“cheating”)のではなく,ただするべきことをしているにすぎない.それに鳥たちは,雄と雌の間で夫婦の絆についてルールを発案したりしなかった.発案したのは私たち人間である.違反になるルールがないのなら,それは浮気なのではない。(Zuk 2002: 70=2008:120)

    この部分、私ものすごく理解しにくいのですわ。

    なぜ、オスメス1羽ずつのつがいをつくり、そのつがいのなかでだけ子孫を作ると思われていた鳥(ここではハゴロモガラス)のメスが、実はつがいの外のオスの卵を生んでいることが判明したときに、それをとりあえず「浮気」cheatingと呼んではいけないのだろうか。進化的に考えた場合、つがいのメスが他のオスの卵を生むことはつがいのオスにとっては非常に大きな適応的な損失になるので、メスがそうした「浮気」をしないようにさまざまな努力をするように進化していると推測され、実際そうした活動の傾向が発見されるわけだ(いわゆる「配偶者防衛」)。そして、人間社会でもそうした婚姻・カップル外の男性の子どもを育てているカップルや男性が少なからずいることが推測され、一部確認されている。こうした発見は生物学(動物行動学)では20世紀後半のものすごく大きな発見であり、ハゴロモガラスのメスの行動を「浮気」と呼ぶことにさほど不適切なものがあるとは思われない。なぜ、生物学者たちがやっているように、問題をはっきりした理解を容易にするために、はっきり定義した上で言葉を使うことに不適切なことがあるのだろうか。

    っていうか、前にも書いたけど、加藤先生がたとえばバラシュ&リプトン先生たちの『不倫のDNA』や、他のよくある進化心理学本を読むように読者に促してくれたら、もっと問題がわかりやすくなるだろうに、なぜそうした本を紹介しないのだろうか。読んでないってことはないだろう。(まだまだ続く)

     

     

     

    「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

    んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。

    ジェンダー研究と生物学研究がすれ違いつづける理由の一つは、実は関心の対象が異なるのに、そのことがしばしば理解されていないということである。

    まず、「生物学」っていう学問のくくりについて先生がどう考えてるのかよくわからんのよね。フェミニズム/ジェンダー論などとバッティングしているのは、生物学そのものというよりは、社会生物学、そして 進化心理学と呼ばれる分野 だと思う。まあウィルソンの「社会生物学」とトゥービー&コスミデス組やデヴィッド・バス先生たちの進化心理学は同じものだ、っていう話もあるわけだけど。とにかく基本的に問題になるのは、心理学や人間行動学という分野で扱われるような人間の行動の話が中心であるということは認めてあげないとならないと思う。そうした学問(心理学)が1990年代以降、急速に「人間の進化」という発想を背景にした学問に組み替えられている。単に身体や臓器の問題を扱ってるんではなく、心理や行動を扱っている実証的な学問が、社会学系のジェンダー論に襲いかかっているわけよね。そして社会学系のジェンダー論はそうした批判や攻撃に耐えられるだろうか、というところがポイントだと思う。

    生物学者はヒトを含む生物における性的二型の実態や由来に主たる関心を向ける。それに対して、ジェンダー研究者にとって生物学者の言う性的二型は固有の研究対象ではなく、それとは異なる水準の社会現象としての性役割規範や性差別の実態や由来を明らかにする際に留意すべき要素の一つとして注目されるにすぎない。(pp.154-155)

    ここで先生が「性的二型」っていうのでなにを考えてるのかが問題だ。たしかに、体の大きさや生殖器の機能とかはまさに生物学的な性的二型と呼ばれるものだ。しかし、この加藤先生の論文全体では実はそうではないはずだ。先生がわざわざひっぱりだしてきた古い古いシュルロ編の『女性とは何か』に収録され、先生自身が批判の対象にしたビショフ先生でさえ、「性的二型」という言葉にはいくつかの意味があることを指摘している。性別に固有の行動や能力みたいなものもビショフ先生の文章では「性的二型」に含められてる。

    ビショフ先生によれば、性的二型という語は、(1) 精子と卵子という配偶子二型、(2) 卵子を作る個体と精子を作る個体という意味でのオスメス、(3) 生殖器官の分化、(4) 狭い意味での性的二型、オスメス、男女の解剖学的な差。これには性器だけでなく、声の音域とか、平均的な体の大きさとか、筋肉の付きやすさとか、いろんなものが挙げられる。そして、(5) 性別に固有の行動のちがい、行動パターン、感知・応答するシグナル、能力、動機づけなど。

    上で加藤先生があげている「社会現象としての性役割規範」といわれている性役割規範、男女の振る舞いや行動についての社会的な通念や理想、期待、要求などの一部は、社会的・文化的に恣意的なものなのかもしれないけど、一部は人類に共通のものかもしれず、また我々のもつ期待や欲求の背景には生物学的な基盤をもつものも多くふくまれているだろう。

    もちろん、人間の心理や行動についてそんな簡単に生得的だとかそうでなく文化的だか、そんなことはいえない。我々は文化や環境の影響がまったくない人間なんてものを想像することさえできないからだ。そんなのはミルの『女性の隷属』の時代から誰だってわかってることだわいな。だから、私が思うに、自然科学者たちが、「生物学」とかって言葉を使ってもっぱら身体的な特徴だけを問題にしていると思いこむのをやめて、彼らは文化的側面や心理的側面まで考えようとしていると認めるべきだと思う。加藤先生の文章のタイトルが「ジェンダー論と生物学」ではなく「ジェンダー論と進化心理学」だったらぜんぜん印象がちがうっしょ?もう心理学はそういう学問になってしまったと思う。

    ここで何よりも理解しておかなければならないポイントは、ヒト以外の生物についてはもちろんのこと、ヒトにおける性的二型の研究も第一義的には生物学に属する課題であるのに対して、生物学の言う意味での性的二型が人間における各種の性差や性役割や性差別にどのように関係するかという課題は生物学には属さず、本質的に「人文社会系のジェンダー研究」、たとえば社会学に固有の課題だということである。(p.155)

    なぜそんな社会学に固有といえるのだろうか。心理学にも、哲学や倫理学にも、経済学にも、政治学にも関係すると思う。生物学がヒトという生物種とその社会について考えたいならやはり生物学にも関係するだろう。ここらへんものすごく難しいですね。

    なぜそう言えるのか。最も簡潔な答えは、人間以外の生物にはそもそも「性別役割」や「性差別」は存在しないから、というものである。これらの現象にとって構成的な規範性が、他の生物種には見出されないからである。(p.155)

    社会学者が関心をもつのは「規範性」であり、それは単なる事実ではないので社会学者のものである、ってな話になるんだと思う。しかしここで「規範性」が未定義あるいは未説明なのが気になる。多くの哺乳類では雄と雌の行動はずいぶんちがっているはずで、われわれホモサピエンスが属する霊長類も例外ではない。男女にかかわる多くの性別役割やら性的な規範やらは、歴史のある時点で誰か偉い人が思いついて命じたようなものではなく、長い歴史のなかで形成されてきたものであり、その一部は我々の遠い先祖たちがはっきりとは自覚せずにつくりあげてきたものだろう。われわれ人間の「性別役割」も、そうした生物としての人類の歴史的・生物学的ありかたと密接に結びついているだろうと予想される。

    まだまだ難しいけど今日はこれくらい。

     

    読んでる加藤先生の論文は下に収録されているもの。「ジェンダー論と生物学」

    途中で引用したのは下の。

    加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

    年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。

    まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』セーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』バスの『女と男のだましあい』なども重要。まあこの4冊あげてくれれば文句はないし、オルコックとソーンヒル組の2冊でもいい。ぎりぎりしぼってオルコック1冊でもなんとかします。(あげたのはごく古いものばかりで、最近はよい本が増えてる)

    (特に、加藤先生が応援しているゴワティ先生についてはソーンヒル先生たちの本でも触れれてるよ。特にpp.224ff

    ビショフ先生

    p.135で加藤先生は、ビショフという生物学者の引用を使って、「「文化規範」は「人間の本性」の「言い換え、解釈、解明」にすぎない──、。これはきわめて強い意味における還元主義の表明である」(p.137)とする。しかし「すぎない」は先生の勝手な付け加えですね。

    このビショフ先生という方の主張はたしかに解釈が必要なのですが、あとまわしにします。

    あとp.139のシュルロ先生が「苦言を呈している」という加藤先生の解釈にも疑問がある。

    遺伝子決定論なんて信じてる人はいません

    メイナードスミス先生が「実際に遺伝子決定論を信じているまともな進化生物学者などいないと主張している」と紹介しながら、注の12で斎藤成也先生ひきあいにだして「それは事実か否かはなんともいえない」とか言っちゃって、大丈夫なんですか。まさか斎藤先生がまともじゃない進化生物学者ではないと言いたいわけじゃないと思いますが。そら、ナスからはふつうナスの味がするだろうし、それはナスの遺伝子が環境の影響を受けてナスの味するんでしょよ。キュウリを同じ環境に植えてもナスの味がするようにはならない。それに、ナスの遺伝子もってても、ちゃんとナスの苗に育って、花が咲いて実がならないとナスの味にならない。必要な栄養とか不足しがらちゃんとしたおいしいナスの味がしないかもしれない。でも適切な環境で花が咲いて実がなったら、その実にナスの味を発現してくれる遺伝子なかったらやっぱりナスの味はしないだろ、これが斎藤先生が言いたいことでしょ?

    そもそも加藤先生が「遺伝子決定論」っていうので言いたいことはいったいなんですか。

    「フェミニスト認識論」については話がよれている

    p.145からのハーディングに代表される「フェミニスト認識論」についての中途半端な議論(中途半端なのは、加藤先生自身がこの問題については判断しないことを宣言して途中で放り出すから)は、筋がよれていて読みにくい。なぜガワディ先生が開いたシンポジウムとその成果の書籍の話をしているのに、ハーディングやグロス先生やソーカル先生たちや、いわゆる「サイエンスウォーズ」の話に流れていってしまうのかよくわからない。もちろん関連があるのはわかるのだが、ガワディ先生たちはどこいったのよ。時代が前後していてわからん。アナクロニズムだ。

    日本学術会議の「学術とジェンダー」公開講演会記録

    ジェンダー論者と生物学者の対話として、三つめに加藤先生がとりあげるのが2005年の日本学術会議の公開講演会ですが、まあこれいまとりあげる意義がよくわからなかった。昔ぱらっとめくっただけだけど、ごく簡単なものだし、学問的な意義がそんなあったのかどうか。

    まあそれはともかく、加藤先生は「ジェンダー論者(社会学者)も、生物学者も、おたがいに勉強不足だった」ってことにしたいようですが、これどうなんですか。

    少なくともこのとき、「セックスはジェンダーである」とかわかりにくいことが社会学者の先生たちを中心に提案されて、生物学者その他の自然科学者たちは「はてなー?」ってなってた時期ですよね。んで加藤先生の分析によれば、そのときの上野先生の講演にはなにほどかの理論的な問題があるという。でも加藤先生は、問題のジュディスバトラー様の主張を放っておいて(!)、「いずれにしてもこれはバトラーのテクストからの正確な引用ではなく、上野による要約である。そしてその要約のプロセスには、上野によるかなり強引な解釈が入りこんでいる。」(p.152)とかってことにしちゃうんですが、この前数年から2010年代に至るまで、社会学者の先生たちの本みたら「セックスはジェンダー」とか頻出じゃないっすか。いったいそんなわけわからん状態で、社会学者の先生たちの話をもっと勉強しろ、とかよく言えたものだと思うのです。

    バトラー様なんて、パフォーマティビティその他、すみからすみまで、なにを読んでもなに言ってるかわからないじゃないですか。加藤先生自身がバトラー様の本や論文使ってけっこうな知的生産した人であり、そんな人が「「バトラー自身がそのような乱暴な主張をしているのかどうかは措くとして」(p.152)とかよく言えますね。私はこれ本気で批判したいです。

    せめてここで、2005年の「セックスはジェンダーだ」なんて不思議なこと(あるいは読みようによってはとても瑣末なこと)を社会学者の人々がみんな一様に言いはじめたときに、社会学者自身はなにをしなければならなかったのか、それを考えるべきなんではないでしょうか。生物学者その他の人々に向かって「ジェンダー論を勉強不足だ」と言う前に!いまでも遅くないので、「セックスはジェンダーだ」について、社会学者の先生たちの本で読むに値するものを教えてくださいよ、と言いたくなる。生物学者たちの本で読むべきなのは上にあげました。たとえば『社会生物学の勝利』と『人はなぜレイプするか』です。加藤先生は同じくらい読みやすく、ためになるものあげられるだろうか。

    加藤先生は、p.153で学術会議の講演会に出てきた長谷川真理子先生は勉強不足だと言う。しかし先生はその時にはすでにオルコックの『社会生物学の勝利』の翻訳出してたんですよ!

    先生の本論であるところの第3節、「ジェンダー研究と生物学の生産的な関係をつくりだすために」は丁寧にやる手間かかるので別エントリにします。

    (続く)

    日本学術会議でのシンポの様子は下の本でわかるはず。

    海外の論争の様子は下。

     

    宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

    宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう」からの続き。
    その後、ポロック先生たちの「記号」やら、ゴフマン先生の「コード」やら、ちょっとだけ原文めくってみたんですが、よくわかりませんでした。

    「記号」と「スザンナと長老たち」

    まずポロック先生たちの「記号」はsignですね。codeではない。

    一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

    「文化的、社会的記号について熟知している」は familiarity with the signs of the culture or societyなので、まあ翻訳どおり「熟知してる」でもいいけど、学者みたいに熟知しているってことではないとおもう。むしろそれに慣れ親しんでいる、ぐらい。マンガ読むひとはフキダシやいわゆる漫符の意味について慣れ親しんでいるのですぐにその意味がわかるわけです。コマ割りや視点の移動その他の技法についてはあんまり意識してない可能性もある。

    とりあえず(西洋)絵画というのは、構図や人物の描きかたにくわえて、画面に登場するいろんな物品や動植物がなにかのシンボルである場合が多いので、そういうのの知識まで含めて鑑賞しないとならない。

    正体不明自称プログラマのuncorrelated先生が、小宮先生の論説に一連の批評を加えているのですが、そのなかでティントレットの「スザンナと長老たち」がとりあげられてます。これ、それのとてもよい題材になってますよね。wikipedia記事に、登場するカササギや鹿や鏡その他について簡単な解説がある。これ詳しくなると図像学っていう学問になってしまいます。

    ジョン・バージャーの『イメージ:視覚とメディア』って本めくってみたら、このティントレットの絵について解説があって、それもおもしろかった。ティントレットは「スザンナと長老」のタイトルの絵を数点描いてるんですね(そもそも私がティントレット知らなかったのは秘密にしておいてください)。

    絵画がしだいに世俗的になっていくと、他のテーマもヌードを取り入れるようになる。そしてそのほとんどが主題(つまり女性)が鑑賞者に見られていることを意識しているという雰囲気を絵のなかに暗示した。……「スザンナと長老」が好む主題のように(ママ)、多くの場合、このことが絵の実際のテーマなのだ。我々は入浴中のスザンナを盗み見ている長老と一緒になる。そして彼女はふりむきながら彼女を見ている我々を見る。

     

    ティントレットの別の「スザンナと長老」では、スザンナは自分を鏡のなかに見ている。そしてこれによって彼女自身も、彼女の鑑賞者の仲間入りを果たす。

    まあこういうの、スケベイハゲじゃなくて薄毛の長老さんの描き方とかも含め、ものすごい批評性があっておもしろいですよねえ。さすが名画!って感じです。私は、これくらいのレベルになると、単純な女性のモノ化とか客体化とかそういうんではないと思う。

    鏡は女性の虚栄心のシンボルとしてしばしば用いられてきた。しかしそうした道徳的観点はほとんど偽善的なものだった。(下のメムリンクのやつが「虚栄」3枚組。バージャー先生は真ん中の女性像(女性「表象」!)について書いてる)

    メムリンクの「虚栄」(中央)

     

    画家が裸の女性を描くのは、画家が彼女の裸を見るのが好きだからである。しかし、画家は彼女の手に鏡を握らせ、その絵を「虚栄」と名づける。このようにして画家が自らの快楽のために描いた裸の女性を道徳的に非難するのである。しかし実は鏡の本当の役割は別のところにある。それは鏡の存在により女性に彼女自身を光景として扱うことを黙認させるということなのである。

    まあ名画というのはいろいろ工夫に工夫が重ねられていて、小宮先生が参照しているポロック先生たちやイートン先生みたいなフェミニスト的な読みももちろんあるんですが、もっといろいろ批評の道はあるかもしれない。美術おもしろいですね。私、「美術も勉強しよう」とか「エッチな絵からギリシア神話を学ぼう」とか書いてるけど、ぬるすぎ。人生をエッチに豊かにするためにこれから勉強します。

    ゴフマンの「コード」

    一方、ゴフマン先生のGender Advertisementもめくってみたんですが1)入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。、こっちでは「ふるまいのコード」っていう語はほとんど見つかりませんでした。けっこう難しい文章で読みにくくて、見つけにくい。”encoded”ならある。私の下手な訳だとこんな感じ。

    まちがいなく、(広告が)表示するもの(ディスプレイ)は、表示されているもののなかで、複数の社会的情報が記号化されているという意味で、多声的で多義的でありうる。

    とかそういう感じ。これは社会的関係(優位/劣位とか支配/従属とか、親密さとか、愛情とか)そういうのが広告ポスターとかのなかでわかりやすく表示されてるってことですね。これは小宮先生の説明がほぼ正しいと思う。

    しかしそうなると、「ふるまいのコード」っていうのは、「ふるまいの規則」だっていう私の解釈はなんかあやしくなってしまう。でも記号っていう意味のコードと、規則っていう意味のコードは別のものだと思うんですけどね。ここらへん曖昧なのはあんまりよくないと思う。これがゴフマン先生に由来するのか、その解釈者に由来するのかはまだよくわからない。いずれにしても、私が考えるべきことではない気がします。専門に近いひとがんばってください。

    副産物として、是永論先生の論文でのゴフマンの引用が微妙に問題あるんではないかということにも気づいた。先生はこういう感じで訳してるんだけど、

     

    このnegative statementは「否定的な意味合いをもったコメント」ではないような……よくわらんけど。私が訳すとこうなる。

    端的に言って、ここで示されている写真たちは、現実生活でのジェンダー的ふるまいを代表しているものではないし、また特に広告一般や、個々の広告出版を代表するものでもないが、おそらくこれらの写真について否定形の言明を提出することは可能であるだろう、すなわちすなわち、*写真としては*特にかわったところも不自然なところもない、ということだ。

    まあそれはさておいて、ゴフマン先生の指摘が、こういうふうに、広告では、現実ではそうでないものがいかにも自然であるかのように受けとられる、みたいな話だとすると、アニメやマンガを使った広告というのは、非常にデフォルメが効いているし、あきらかに現実では成立しないようなセリフや状況が多いですよね。たとえば最近の問題の日赤の献血ポスターとか、カイジとかが「倍プッシュだ!」とかいってるのはあきらかに現実からかけはなれてるし、『働く細胞』とかもあれだし、宇崎ちゃんもなんか少なくともステロタイプはない。

    とか考えると私ぜんぜんわからなくなってきました。まあここらへんの非実在人物をつかった広告の美的・倫理的問題ってやっぱりおもしろいと思う。

    まあ前のエントリで、小宮先生の論説は哲学的な思考を刺激してくれるって書いたんですが、実際に美学・美術史の問題とか、ゴフマンの解釈とか、そういうかなりアカデミックな興味をそそらせてくれるっていうのでとてもよかったっすね。ゴフマン自身の文章を読むと、とても繊細でありながら、「そんな簡単には規範的な主張は提出しませんよ!」みたいな意思も感じられてとてもよい。公共広告の道徳性みたいな話も、いきなり規範的な話に突入しないで、とりあえずみんなで勉強しながらいろんな意見交換してみたらいいと思うのです。

    まとまりがなにもないけど、こういうの適当に書いていきたい。

    References   [ + ]

    1. 入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。

    宇崎ちゃん問題 (10) 小宮先生の論説についてはおしまい

    というわけで、もう疲れたのでおしまい。ちょっとだけ書き残したことを。

    「性的」

    これあんまり小宮先生の文章とは関係ないのですが、宇崎ちゃんその他の表現に関するネットでの騒動では「性的だ」「たいして性的でない」とかそういうやりとりがあったようですが、「性的」自体が曖昧なので「性的に魅力的」とか「性的に露骨」とかそういう表現をつかった方がまだましな気がします。女性や男性を描いたら、そりゃ一つの意味では性的ですからね。そして、魅力的とか露骨とか書けば、それが感受性とかと関係していることがわかりやすくなると思う。

    小宮論説全体について

    小宮先生の2本の論説には、いろんな混乱があると思うんですが(そしておもしろい指摘や、なんか哲学的な思考を刺激してくれる論点もある)、もう面倒なので細かいところをつっこむのはやめます。最後に、思ったことだけ簡単に。

    先生が言おうとしている規範的主張自体は非常に弱いものだと思うのです。私がその難解な文章表現にタックルして理解したいくつか(すべてではない)をあげてみます。

    先生の主張の一つは、(1) 「フェミニストやポスター等を批判する人々にも一理あるのだから、ちゃんと言うことを聞きましょう」。賛成ですね。異議なし。

    (2) 「表現物からはいろんなことが読みとれます」。賛成ですね。ただ、「表現物には(一つの)正しい読みがある」、とか、「みんな〜と読むべきだ」って言われたらノーです。でもそうは言ってませんね。あと「表象(表現)の意味」みたいな書き方には注意してほしい。それは作品というよりは、我々がなにを読みとるか、の問題だと思う。

    (3) 「表現物が、差別その他の問題を含む場合がある」。これも強く同意します。そして、その読み方はさまざまありえるので、おおやけの評論や議論が必要だ。これも同意。

    小宮先生の「現実の(たとえば統計的な)人々への影響とは別に、表現自体の道徳的評価ができるはずだ」という発想は私も同意するところです。街中で「XX人は殺せ!」とか叫んでいる人がいると仮定して、それに現実には誰も従うことがなくても(そして賛同する人が増えるということもないとしても)、やっぱりそうした発言は悪しきものであり邪悪なものである。そうしたものの道徳的悪さ、邪悪さ、思慮のなさ、というのは、現実的な影響がほとんどないとしても考慮されるべきだと思う。

    ただし、前にも書いたけど小宮先生が「悪さ」という言葉を選択したのはやっぱりあんまりよくなかった。私だったら、そんなに差別などの不正さがはっきりしないものは「道徳的に悪い」ではなく、「(道徳的に)問題がある」「問題含み」problematicぐらいにしておくんじゃないかと思います。

    (4) 「性的な関心をより満足させるためのさまざまな表現方法がある」。これはOKなんですが、ただ、そうした表現方法を使っているからといって、性的な関心をより満足させるためにその表現方法を使っているとはいえない。

    小宮先生とふくろ先生は、どういうわけか例にあげた手法を「これは〜のための表現だ」って強く主張しているように見えますが、それは主にふくろ先生とかがそういうふうに「理解」している=考えてるっていうだけの話かもしれません。ポルノ作者もマンガ作者も、つねにさまざまな手法を学び、開発し、より満足のいく作品をつくろうとしているわけであって、クリエイターに共通のできあいの「記号」みたいなのがあり、それを組合せて作品をつくり、その記号そのものに鑑賞者が反応している、なんてことになっているとは思えない(そうしたことを主張しているのかどうかはむずかしいのでよくわからない)。

    たしかにポロック先生たちやイートン先生は、絵画表現におけるさまざまな技法をもちいていますが、そうした技法を使うことはすなわち性的なモノ化であるとか、それ自体に問題があるとか、そうしたことは主張していないと思う。

    (5) 「これからいろいろ議論しましょう」。そうですね、みんな好きなことを言って批評すればいいと思います。でも、簡単に電凸とか不買運動の呼び掛けとかするのはやめてほしい。みんなでよく考えて議論してからにしましょう。

    (6) あ、目玉の「累積的経験」の話ももちろんOK。えらい。ただし、もっとわかりやすいふつうの表現にはできそうだと思う。個人的な経験のなかで、Aにいやな思いをさせられたら、Aに関連するいろんなものに対して嫌悪感や反発や問題意識を抱くことになりやすい、っていうことよね。累積的経験なるものによって一部の表現物に対する感受性が変化するのだとか、それはふつうは連想と呼ばれるものだ、ってところまではっきりさせてほしかった感じはある。

    もうひとつ、こうした累積的経験というか個人的な経験からさまざまな問題意識をもつこと(そして嫌悪感や反発の傾向を身につけること)自体は悪いことではないかもしれないが、そうした経験から偏見を育てあげてしまったり、過剰に攻撃的になったりすることはよくないことかもしれない、っていうことにも触れてほしい。(累積的なネガティブな経験はフェミニストだけがもつものではない)

    さらには、一部の表現に対するフェミニスト的反発が累積的経験なるものから説明できるからといって、そうしたフェミニスト的反発や問題意識が正当化されることにはならない(他の人々についても同様)。小宮先生が、累積的経験の話から、どのような規範的な判断を導こうとしているのかよくわからない。「だからフェミニストの言うことをそのまま聞け」ではないだろうと思う。それとも、単にどのようなメカニズムで論争が起こるのかを記述的に分析しているだけなのだろうか。

    小宮先生の主張は弱すぎる

    むしろ小宮先生の論説の問題は、おそらく、その主張が弱すぎることなんですわ。上のような先生の主張は、私だけでなく、一連の論争みたいなのになにかコメントしている人々は皆同意すると思う。論争みたいなのはむしろ個別の作品(ポスターや雑誌表紙等)が、そうした問題含みのものになっているか、という点でおこなわれていて、それが長く続いているので、小宮先生の論説が出た時点では、「問題含みの「可能性がある」」というだけでは満足しない雰囲気が形成されていたと思う。そこに「問題がある可能性がある、道徳的に悪いものである可能性がある」っていう主張をもってきても、「んじゃ悪いっていうんだな!なんで悪いんだ!」っていうふうに読まれちゃったのだと思う。よく読むと先生はそうしたことはなにも言ってないんですよね。ふくろ先生の模範作品しか言及されないし。

    せめていくつかの作品について、それが実際に小宮先生が指摘するような「悪さがある」って主張するようなものなのかどうか判断してみてもらえればよかったんではないかと思います。でもそれは先生のような立場(どういう立場かわからないけど)の人が書くことではないのかもしれない。でもそれでいいのかなあ。

    でも、やっぱり我々が関心をもっていることに、学者として(あんまり人気がないかもいしれない立場から)コメントするっていうのはやっぱり偉いし、この件についてはずいぶん議論が深まったと思います。えらい!特に、マンガやアニメなどの非実在人物のあつかいみたいな話は、もっと若い世代の人々もいろいろ勉強しておもしろいことを言ってくれそうな気がします。そうした議論をすすめていくのはやっぱり対立とかないとならないので、矢面に立ったのはほんとうにえらい。私も書くべきだと思ったことを、ブログていどでもいろいろ書いていこうと思います。

    てなわけでおしまい。

    後記:この一連の記事、「誤謬推理と詭弁に気をつけよう」というタイトルのシリーズにしてたのですが、実際にはそういう話にはならなかったし、そもそも小宮先生のやつが詭弁だとか誤謬推理だとか言いたいわけでもなかったので(実は牟田先生のやつも)、タイトルあらためました。(1)だけはそのままにしておきます。いずれ誤謬推理についての(2)も書くと思う

    宇崎ちゃん問題 (9) 「意味づける」を意味づけることに疲れました

    もう疲れてきたので途中でおわってしまいたいのですが、まあはじめてしまったものはしょうがない。「意味づけ」です。小宮先生のこの言葉の典型的な使いかたはこんな感じ。もちろんこれまで同様「意味づける」ということがどういうことかはほとんど説明がなく、手掛かりもありません。

    「表象の中で女性がどのように意味づけられているのか」
    「女性ヌード画を成立させているのは、女性(の身体)に対して特定の文化的・社会的記号を用いて「意味づけをする」制作行為なのである。」
    「「表象を作る」ことが「女性に対する意味づけ」と関わっている」
    「「鑑賞の対象としての女性(の身体)」という意味づけ」
    「女性に対する抑圧的な意味づけ」
    「女性のみを一方的に性的客体として意味づける」
    「「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づける」
    「相手の身体や経験に勝手にエロティックな意味づけをする」

    「意味」も曖昧だけど「意味「づけ」」てなんでしょうね。英語にするとどうなるんかな、とか思いましたがあんまり思いうかばない。「attribute A(性質) to B(対象)」かなあ。「意味」を「つける」って日本語の語感だと、レッテルみたいな「意味」を対象(ここではおもに女性)にくっつける感じなわけですが、私が宇崎ちゃんという実在の女性が魅力的だと考え、その意味で宇崎ちゃんに「魅力的」っていうレッテルをペタっと貼ったとしても、そのレッテルは私にしか見えないし、私が関心を失なったり、死んじゃえば剥がれちゃいますよね。なんてメタファーでお話をすすめたりして。ははは。

    でもまあとにかくこの「意味づける」は「〜と考える」で十分なんじゃないっすか。「意味づける」っていう難しい表現をつかってなにを得するんだろうか。

    私が宇崎ちゃんを魅力的だと考えてそう意味づけしたからといって、私には権威も権限も超能力もないので、他の人が宇崎ちゃんを魅力的だと考えるようになるとは思えない。でもまあ有力な作家が、宇崎ちゃんというこんどは創作キャラクターをつくりだし、性的に魅力的な格好やポーズをさせたら、「宇崎ちゃんに性的に魅力的な意味づけをした」、ということになるかもしれない。これはさっきの単なる私がある人物を魅力的だと考えるのとはちがいますね。こっちの方がおそらく小宮先生の本意に近い。

    しかし、これは宇崎ちゃんに性的に魅力的だという意味づけをしたのであり、まだ「女性」に意味づけしたわけではない。なぜ宇崎ちゃんを性的に魅力的に描き性的に魅力的だという意味づけをすることが、「女性」に意味づけすることになるのだろうか。

    答は、宇崎ちゃんが(仮定により)女性だから。宇崎ちゃんは女性だから、宇崎ちゃんに意味づけすることは、女性に意味づけるすることになる。

    しかし、これは宇崎ちゃん「という」特定の女性(あるいは女性キャラクター)に意味づけしただけで、女性全部に意味づけしたわけではない。女性一部に意味づけしたとは言えるが、女性一人(宇崎ちゃん)だけだ。

    そこで、解釈としては、クリエイターが魅力的な女性を描くことは、女性の一部/多く/全部に魅力的というレッテルを張るということだ、ってことになるけど、これはダウトだ。いくら魅力的な女性を描いても、さほど魅力的でない女性はいるだろう。

    したがって、もうひとつの解釈、「クリエイターが一人の魅力的な女性を描くことは、女性はみな魅力的であるべきだという主張をすることだ」っていうのになる。これが「意味づけする」ってのの小宮先生の言いたいことだろうと思う。しかしこれはかなりあやしい主張ですよね。私は簡単には認めないです。