月別アーカイブ: 2006年7月

かっこいい文章

檜垣立哉『生と権力の哲学 (ちくま新書)』。

まずフーコーの仕事を、フランス現代哲学の流れのなかに位置づけてみよう。そのためには、何よりもまず、フランスにおけるエピステモロジー(科学認識論)の系譜について押さえなければならない。

エピステモロジーとは、二十世紀の初頭においてフランスで展開された、独自の科学哲学の系譜である。(p.48)

「エピステモロジーとは」という書きだしがかっこよすぎる。こう書かれちゃうとうっかりepistemologyという言葉を使えなくなっちゃうよな。おフランス語なら「エピステモロジ」じゃないのかな。

それにしても全ページ、引用でもないのに「かっこ」入りの言葉だらけなのがかっこいい。ある概念を指すときにほとんど括弧に入れちゃってるから、カッコが入ってない行を探す方がたいへんなくらい。読みにくいし、なんかギザギザしていて目が痛いよ。

目を閉じてぱっとページを開いてみて勘定してみる。p. 188。1頁13行中、開き括弧が含まれている行は10行。開き括弧の総数は20個。ふむ。

もう1回やってみよう。p.121。13行中、開き括弧を含む行はやっぱり10行(書名の二重括弧を除く)。括弧の総数は17個。

まあ「主体という概念」とかいちいち書くのは「面倒」だから、「主体」とか「表記」しなきゃならんとか、それなりの「内的必然性」があるのだろう。しかしこれほど使うのなら「エピステモロジー」こそ括弧に入れてほしいものだ。

あれ、ふつうの「思想系」の本だとどうなんだろう。「手元」にあった伊勢田哲治先生の『哲学思考トレーニング』を同じように開いてみる。p.206 0行。p.86。2行。p.130。4行。でもおそらく「現代思想系」だともっと増える「傾向」にあるだろうということで、後藤弘子先生の『フェミニン~』p.124。総17行中7行。でもこれは「ふつうの意味」での「引用」や「発言」を含んでいるからまああれだ。

なんかこれでレポートやレビューや統計調査報告書を書けないだろうか。現代思想の文章は括弧の利用数が統計学的に有意に高いとか。(書けない)

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さらに追記(7/21)

なんで「アファーマティブ・アクション」「ポジティブ・アクション」は優遇措置を含むと思いこんでいたのだろうとちょっと考え、ふと大沢真理先生の『男女共同参画社会をつくる (NHKブックス)』を読み直してみる。(勉強不足でこれ以外にこの手の話題を扱った本に目を通していないし。)

あった。p.184。男女共同参画基本法を説明している個所。

基本法は、つぎの五点を基本理念として規定する。(中略)

ついで、国、地方公共団体および国民という各主体の責務が規定されている。とくに、国と地方公共団体が策定・実施する責務をもつ「男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」には、「積極的改善措置」が含まれることに注意したい。積極的改善措置とは、社会のあらゆる分野の活動に参画する機会において男女間に格差がある場合に、その格差を改善するため、必要な範囲内で、その機会を男女の一方に積極的に提供することを言う(第二条)。たとえば審議会について女性委員の登用を促進すること、官公庁が女性職員の採用・登用を計画的に進めていくことなどが含まれる。
いわゆるポジティブ・アクションまたはアファーマティブ・アクションである。

ここを誤解してしまったようだ。索引がないからわからないが、
ざっと目を通して、積極的改善措置やポジティブ・アクションについてはこの個所ぐらいしか触れられていないし、正当化の議論はまったくなされていないように見える。ここらへんから「ちゃんと議論されてのだろうか」という私の印象が出てきてるのかもしれん。

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田中重人先生につっこまれてしまった

「ポジティブアクション」についていいかげんなことを書いた( )のについて、田中重人先生 http://haseitai.cocolog-nifty.com/20/2006/07/_positive_actio_c836.html からつっこまれてしまった(というか、つっこんでいただいた。ありがとうございます)。非常に勉強になる。関心ある人は必読。いろいろ指導してもらっているので、お返事書いておこう。能力もなければ割けるエネルギーも限られているので、ほんとにこれまたメモだけ。ごめんなさい。この件については、いずれちゃんと勉強できるときが来るのかどうかもわからん。*1

まず、「ポジティブ・アクション」ということばの使いかた自体が、現在の日本での主な用法からかけはなれたところにいってしまっている。

もっともな御批判。ごめんなさい。反省します。

affirmative actionやpositive actionといえば、不利な立場のグループに対するpreferential treatmentを含むと勝手に思いこんでいたのだが、「ポジティブアクション」というのはなかなか広い概念なのだなあ。
によれば、
「このような差(機会や待遇の男女格差)の解消を目指して個々の企業が進める自主的かつ積極的な取組」らしい。ちょっと「言葉」の定義としては使いにくい感じがする。「積極的」の意味が若干曖昧に見える。また、「自主的」でない取組みは「ポジティブアクション」じゃないとかってのは受けいれにくいように見える。「自主的なポジティブアクション」「強制的なポジティブアクション」「社会全体が進めるポジティブアクション」は言葉としておかしいことになってしまうからね。極端な話、格差をなくすために「なにかをすること」はなんでもポジティブアクションなのだろう。私の好みからいえば、
「ポジティブアクションとは、「なにかをしない」だけでなく、「なにかをする」ことによって格差をなくすことです。この法律では個々の企業が自主的に「なにかをする」ことを求めています。」ぐらいに書いてもらえたらわかりやすいのにな、と思った。(もちろん定義ははっきしているかぎり自由にやってよろしい)

また、ポジティブアクションは「優遇措置」ではないことにはっきり理解しておく必要があるのだな。田中先生が指摘されているように、女性に対する優遇は雇用均等法の第9条で特例として許容されているだけで求められているわけではない。ここらへんはっきりと意識しないでへんなこと書いちゃだめだ。反省。

雇用機会均等法の第20条は、これらの措置をおこなう企業に対して国が「相談その他の援助を行うことができる」とさだめているのだが、実施の主体はあくまでも企業である。企業にとっては、労働力を効率よく使って利潤をあげることが究極の目標である。効率を低下させるような内容の措置はそもそも実施されるはずもない。ポジティブ・アクションのめざす「均等待遇」とは、労働力を効率よくつかうという企業の目標に抵触しない範囲内で実現されるものにすぎないのだ。

この一文の含むところがちょっとわかりにくい。

女性優遇は要求されているのではなく許容されているにすぎず、企業は効率と利潤のみを求めて政策を考えるのだから、もし女性優遇が効率に反するならば企業はそれを採用しないだろう、というわけだな。

もちろん、人類の半分を占めている女性の才能や能力を利用しないのは私企業にとっても社会全体にとっても損失だろう*2。賢い企業はちゃんと女性の労働力を使うはずだ。

しかし企業が究極的に目指そうとするものが(労働力を効率よく使って)利潤をあげること(だけ)だとすると(おそらくそうだろう)、雇用機会均等法のような法律が必要なのはなぜだろう。(1)賢くない企業が多くて女性の能力をちゃんと使ってないので企業自身の合理性のために啓発してあげたい、(2)企業が求める効率とは別に、男女の不平等はよくないことだから、(ちょっとぐらい企業の効率が下がっても社会的正義とかの実現のため)匡正したい、のどちらかに思える。(2)はすなおに理解できるが、(1)はおせっかいに見える。どうなんだろうか。

上でも述べたように、「ポジティブ・アクション」が導入されたのは、1997年の雇用機会均等法の改正のときだ。男女共同参画法成立の2年前の話である。その内容は、実際には以前の「女性活用」とほとんどかわらないものであり、しかも企業が主体となっておこなうものである、ということもすでに書いた。で、そのあたりの話は、「企業がやるんだから、効率に反したことはしないでしょ」っていうことで同意がとれてるのではないのだろうか。というか、この制度のミソは、個々の企業に知恵をしぼってもらって、できるかぎり合理的で効果的な均等策を考え出してもらう、という点にあるのだ、とだれかがどこかで書いていたのを読んだことがあるような気がする。すくなくとも国会で議論するようなものじゃないだろう。中央集権じゃうまくいかないというので、企業の自主性にまかせてるんだから。どうしても国会でのその種の論戦をみたいというなら、 障害者雇用促進法 の制定過程を追ったほうがいいのでは。

勉強になる。なるほど。

ただし、さっきと同じ疑問が残る。もちろん、「この制度のミソは、個々の企業に知恵をしぼってもらって、できるかぎり合理的で効果的な均等策を考え出してもらう、という点にある」は理解できるが、「企業がやるんだから、効率に反したことはしないでしょ」はどうなんだろうか。私はまだよくわかっていない。「とにかく男女均等を実現するよう努力しろ」と指導すれば、(制裁や圧力その他を恐れる)企業が(利己心から)最大に効率的な均等策を考えるということはありそうなことだ。しかし、完全に利潤の追求だけを目標とする企業にとって、自発的に男女均等を実現しようとする動機はあるんだろうか。さっき書いたように賢い企業は優秀な女性を優秀な男性と同じように最大限使おうとするだろう*3が、現に使っていない会社は単に賢くない会社なのか、それともなんらかの理由で使いにくいのか。もし(単なる偏見ではなく)なんらかの理由で女性を使いにくいと判断しているのだとしたら、その企業が「自主的に」女性を使うようになる動機や誘因はあるのだろうか。私には外部からの強制や圧力しか誘因はないように見える。

もうひとつ。私は国会での議論というよりは、世論の形成なり論壇での論戦なりそういうのを考えていた。総合雑誌とかほとんど(いや、ぜんぜん)読まないのでわからないのだが*4

なんだか、実在のポジティブ・アクションよりもはるかに急進的で暴力的なものを勝手に想定して勝手におびえてる人が一部にいるだけじゃないのか、という気がするのだが。

これは完全に同意。そうだと思う。っていうかそういうことを書きたかったのだが、筆力およばずすみません。ここまでは本当に勉強になった。以下の部分は(私が書いたエントリの中心部分であるにもかわらず)さらに筆力およばず、誤解されてしまっているらしいので補足しておく必要がある。

なんでこういうすれちがいがおこるのか、ながらく疑問に思っていたのだけれど、つぎの1文を見て、疑問が氷解した。

ある職種:-)の公募とか見ていて、注として「男女共同参画を~」と書かれているのを見ると、それに脅威を感じる男性オーバードクターなんてのはけっこういるんじゃないかと思う。
ああ、なるほど。「彼ら」は、あれが「アファーマティブアクション」だと思ってるのね。

残念ながら、その職種の公募において「男女共同参画を~」と書いてある場合、それが何を意味しているのかはさだかでない。私が聞いたことがあるだけでも3種類のぜんぜんちがう説がある。そして、多くの場合、求人側はそれを「アファーマティブアクション」とはよんでいないのではないか。よくわからないものについて、外国の事例まで持ち出して妄想をふくらませてもしかたなかろう。疑問があるなら、求人企業に「この「男女共同参画を~」ってどういう意味ですか」と問いあわせればいいだけだ。要するに、個別の企業の人事政策の問題なのだ。企業の答えが納得いかないなら、その企業に対して抗議すればよい。

まあああいうのをアファーマティブアクションやポジティブアクションと思いこんではいけないというのはその通りなのだが、まさに実態がわかりにくいのが困りの原因なのだと思う。それは個々の企業の考え方に依存するというポイントは理解したつもり。まだ実際にそういう人事にあたったことがないのだが、いずれチャンスがあれば問いあわせてみたい。

「そんなんじゃなくて業績だけで評価してくれ、「グループとしての男性」が女性に比べて有利な立場にいるからといって、なぜ「この俺」が社会的な差別是正のための犠牲にならなきゃならんのだ、グループとしての女性が差別されているとしても、なぜ俺じゃなくて業績の劣るあの女が就職できるのだ」っていう疑問はかなり根本的で消しにくいものだと思う。

「業績だけで評価してくれ」なんてのは、世間知らずのわがままである。そんなものを「根本的で消しにくい」とかいわれても。

だいたい、人事が業績だけで決まるはずがないのである。

(略)

まあ、「業績だけで評価してくれ」などといってること自体、企業で働くレディネスを欠いている証左である。そりゃ就職できんわな、と思う。理想的には、大学の「キャリア支援教育」とかでたたきなおしておくべきものなんだろうけどね。

これは誤解だなあ。「業績」って書き方わるかったかなあ。人事やるときに人柄だのなんだの、いろんなことを考えるのは当然。あれを書いたときのポイントは、「もしアファーマティブアクションの一つとして、性を基準として優遇措置をとるのは、「個々人は所属するグループではなく、その人の価値によって判断されるべきである」という平等の原則に反しないか」の一点。でもたしかになにか混乱しているかもしれん。

「とりあえずの形式的平等」というのがなにをさしているのかが問題である。まさか、日本国憲法の第14条と民法の第90条があればそれでいい、との趣旨ではないだろう。平等を実現するためのもっと高次の仕組みが必要ということには同意されると思うのだが、ではその具体的な内容はどういうものなのか。

うむ、もちろん憲法第十四条だけじゃだめっしょ。法によって女性に対して男性と均等な機会を与えることを保障するのは重要だと思う。あれ? 民法第90条って、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」ですよね。あんまり関係なさそうな・・・? (私なにか重大なことがわかってないのかもしれん。不安。)

まず、「形式的平等」と「ポジティブ・アクション」は、おなじレヴェルの概念ではない。「形式的平等」は、何を目指すべきかという目標である。それに対して、「ポジティブ・アクション」は、目標に近づくための方法をあらわしている。

雇用機会均等法の第20条をよむかぎり、「男女の均等な機会及び待遇の確保の支障となっている事情を改善するに当たって必要となる措置」はすべて「ポジティブ・アクション」に入る。

なるほど。さっきも書いたが、これをはっきり理解していなかったのが痛恨。すみません。

もうひとつ。「形式的平等」とは、性別そのものが基準として使われない、というだけの意味なのだろうか。それとも、irrelevant な要素がまったく基準として使われない状態を指すのだろうか。それとも、さらに、relevant な要素がその relevance に応じて評価されることまで要求するのだろうか。

これは最後の一文がうまく理解できなかった。ふたつ目と三つめの差が私にはわからない。おそらく形式的平等ってのは、ふたつ目の「その件について関係のない要素を基準として使わない」なんだろうと思う。でもこれは三つめを含んでいるように見える。もちろん関係ある点についてはその重要性に応じて評価しなければならない。よくわからない。例を見よう。

たとえば、おなじ会社に雇われておなじ仕事をしている男性Aさんと女性Bさんがいるとしよう。 Aさんは、雇用保障があり、社宅が供給され、社会保険料が会社から支払われ、退職時には退職金が支払われるという雇用条件で雇われている。逆にBさんは、雇用保障がなく、社宅にはいる権利は与えられず、社会保険料を自腹で払い、退職しても退職金は出ない、という雇用条件で雇われている。仕事上の能力は、B さんのほうがAさんよりもはるかに高い。この状況で、AさんがBさんよりも高い賃金を受け取っていると仮定しよう。ただし、この会社がAさんに高い賃金を払っている理由は、Aさんが男性だからではなく、「正社員」だからというものである。この場合、「形式的平等」が実現されているといっていいのだろうか?

これは難しい。私は給料や保障は貢献に応じたものであるべきだと思うので(つまり、能力というか業績や実績が給料や保障についてrelevantだと考えるので*5 )、上の状況は実際不正に見える*6。しかし、正社員で雇用するかそうしないかが公正に開かれていれば形式的平等が実現されているとみてもいいんじゃないだろうか。上の例が不正に見えるのは、正社員としての雇用が公正ではないからではないだろうか。なんか誤解してる? (Bさんはそんな会社はやめてもっといい会社を見つけよう、とかではだめなんだろうな。)

このあたり、現実をきちんとみた議論をするべきである。机上の空論で「形式的平等」とか「実質的平等」とかいっているせいで、過度の単純化におちいっているような気がする。

この問題についてはその通り。でも時には単純化して原理だけを考えてみる価値があることもあるような気がする。affirmative action一般における優遇措置の正当化はそういう問題だと思う。もちろん、そういう抽象的な話からいきなり現実の話に降りてくるのは避けねばならん。

最後に、つぎの部分はあまりにも不可解だったので、ひとこといっておきたい。

「甲斐性なし!」とかって罵りは恐いものだ。これは単に文化や制度の問題なのかどうか。

文化や制度以外になにがあるというのだろうか。

もはやなんでわざわざこれ書いたのかはっきりしないんだが、「これは単に特定の(あるいは「我々の文化や制度独特の」)文化や制度の問題なのかどうか」と書くべきだったかな?男性が女性に比べて経済力が求められるのはほとんどの文化で共通だと思う。したがって単に(「恣意的に変更可能という含みでの)文化や制度の問題ではないかもしれない。たしかにある意味では人間がからむのはなんでも文化の問題ではあるのだが。

追記メモ

「形式的平等でどうか」というのはやっぱりダメ。「形式的平等も結果平等もだめ。「配慮の平等」あるいは「利益にたいする平等な配慮」」なんだろうな。ただし「配慮の平等」ってやつがどういう制度や政策につながるのかはっりしないよなあ。やっぱりあたりまえだけどある程度の優遇措置を認めることになるんだろうな。

さらに追記(7/21)

なんで「アファーマティブ・アクション」「ポジティブ・アクション」は優遇措置を含むと思いこんでいたのだろう*7とちょっと考え、ふと大沢真理先生の『男女共同参画社会をつくる (NHKブックス)』を読み直してみる。
(勉強不足でこれ以外にこの手の話題を扱った本に目を通していないし。)

あった。p.184。男女共同参画基本法を説明している個所。

基本法は、つぎの五点を基本理念として規定する。(中略)

ついで、国、地方公共団体および国民という各主体の責務が規定されている。
とくに、国と地方公共団体が策定・実施する責務をもつ
「男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」には、「積極的改善措置」が含まれることに
注意したい。積極的改善措置とは、社会のあらゆる分野の活動に参画する機会において
男女間に格差がある場合に、その格差を改善するため、必要な範囲内で、その機会を男女の一方に積極的に提供することを言う(第二条)。たとえば審議会について女性委員の登用を促進すること、
官公庁が女性職員の採用・登用を計画的に進めていくことなどが含まれる。
いわゆるポジティブ・アクションまたはアファーマティブ・アクションである。

ここを誤解してしまったようだ。索引がないからわからないが、
ざっと目を通して、積極的改善措置や
ポジティブ・アクションについてはこの個所ぐらいしか触れられていないし、正当化の議論は
まったくなされていないように見える。
ここらへんから「ちゃんと議論されてのだろうか」という私の印象が出てきてるのかもしれん。

*1:匿名ブログ(いちおう匿名)書くってたいへんだということを再確認。実名なら馬鹿なことを書いても笑いものになるから大丈夫だが、匿名だとお返事書かないわけにはいかんのだな。でもあんまりショボいことしか書けないときにお返事書くのはゴミ増やすだけのような気もする。実名の方が楽か。でもそれだと慎重になっちゃって筆が伸びないから、ブログ特有のおもしろさが味わえないよな。

*2:大昔にもJ. S. ミルが『女性の解放』で主張しているし、非常に説得力のある議論に見える。

*3:やっぱり「組織は人」だと思う。歳とるにつれて痛感するようになってきた。まともな企業は男だろうが女だろうが緑色してようが、優秀な人材を使わないわけにはいないだろう。

*4:だいたい私は勉強不足で国会で実質的な議論がなされているのを見たことがないような気がする。委員会レベルでもどうなのか。議事録をちらっと見てもよくわからん。

*5:厳密に言うと、報酬は「能力」に対してではなく「仕事」に対して払われるべきだと思う。

*6:そして私の職場(というか業界)の最大の問題点の一つだと思っている。正社員とそうでないひとの格差があまりにもでかすぎて目も当てられない状態。A、B両方の立場に立ったことがある。

*7:そもそもmacskaさんの元エンリでもそうじゃないとはっきり書いてあるのに

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後藤浩子先生のファンキーな引用法

でコメント書いた
後藤浩子『“フェミニン”の哲学』。ケラーの本が届いたので読みなおして
いるかな・・・と。その前に。

・・・ヒュームもまた、同様な問題に直面し、次のように言及している。

男性と女性は幼い者の教育のためには、〔力を〕合一しなければならず、且つこの合一は相当永く持続されなければならない。ところで、この場合、男子がこの〔幼い者のための〕抑制を自己に課し且つそのさい負債する一切の労役と失費とを欣然として甘受する心に誘致させられるためには、男子は、子どもたちが自己の実子であると信じなければならないし、また、自分たちがその愛情や優美の情の赴くままに任せても自然的本性はまちがった目標にさし向けられない、と信じなければならない。さて、人体の構造を検討すれば判るであろうが、この保証は我々〔男性の〕側で得ることが困難である。我々は見出すであろうが、性交にさいして生殖原理 (the principle of generation)は、男から女へ行く。従って、〔自分の子でない者を自分の子と思う〕錯誤は、男の側でこそ容易に起ころうが、女に関しては全く不可能である(注8)。

(略)このヒュームによる男性が持つ不安の構造の指摘は注目に値する。まず、精子を生殖原理と見なし、生殖原理はそもそも男性である「この私」の内にあり、それが女性の体内で自動的に展開してゆくという認識がある。しかし他方で、その原理を男性は女性に手放さざるをえない、つまり譲渡(alienate)せざるをえないという認識がある。このような私の本質の疎外の構造が不安の根源なのである。ここには「遺伝子」という概念が男根中心的な意味合いを帯び始める枠組み、しかも現代に至るまで根強く存続している枠組が映し出されている。 (pp. 212-4、傍点は太字(strong)にした。)

ヒュームの文章につけられた出典注は、「David Hume, A Treatise of Human Nature, L. A. Selby-bigge*1 ed., Clarendon, 1978, p.570. (大槻春彦訳『人性論(四)』、岩波文庫*2、一七八~一七九頁)」

大槻先生の訳は次のよう。

男性と女性は幼い者の教育のために、〔力を〕合一しなければならず、且つこの合一は相当永く持続されなければならない。ところで、この場合、男子がこの〔幼い者のための〕抑制を自己に課し且つそのさい負債する一切の労役と失費とを欣然として甘受する心に誘致させられるためには、男子は、子どもたちが自己の実子であると信じなければならないし、また、自分たちがその愛情や優の情の赴くままに任せても自然的本性はまちがった目標にさし向けられない、と信じなければならない。さて、人体の構造を検討すれば判るであろうが、この保証は我々〔男性の〕側で得ることが困難である。我々は見出すであろうが、性交にさいして生殖原理〔ないし因子〕 (the principle of generation)は、男から女へ行く。従って、〔自分の子でない者を自分の子と思う〕錯誤は、男の側でこそ容易に起ころうが、女に関しては全く不可能である。

めんどうなので旧字は新字のまま。大槻先生の文章には傍点はなし。後藤先生の文章との異同を[del]と[ins」で示したが、うまくレンダリングされるかな。該当の文を含むパラグラフ原文。
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/hume%20treatise%20ToC.htm

Whoever considers the length and feebleness of human infancy, with the concern which both sexes naturally have for their offspring, will easily perceive, that there must be an union of male and female for the education of the young, and that this union must be of considerable duration. But in order to induce the men to impose on themselves this restraint, and undergo chearfully all the fatigues and expences, to which it subjects them, they must believe, that the children are their own, and that their natural instinct is not directed to a wrong object, when they give a loose to love and tenderness. Now if we examine the structure of the human body, we shall find, that this security is very difficult to be attain’d on our part; and that since, in the copulation of the sexes, the principle of generation goes from the man to the woman, an error may easily take place on the side of the former, tho’ it be utterly impossible with regard to the latter. From this trivial and anatomical observation is deriv’d that vast difference betwixt the education and duties of the two sexes.

  • レポート・論文を書くときには、「引用は一字一句正確に!」訂正・修正した場合はその旨を断わらねばいけません。これは基本です。大学生はぜったいに後藤先生を見習わないように!
  • 大槻先生が抜かしたeducationを「教育」として入れてよいのかどうか。「養育・育成」の方の意味だろう。
  • the principle of generation。 principleを「原理」と訳すのはどうか。大槻先生はprincipleに「【8】根源,本源;動因,素因;(本能・才能・性癖などの精神的な)原動力,素因:」(ランダムハウス)の意味があるからわざわざ「〔ないし因子〕」とおぎなっているのに、そこを勝手に飛ばして引用するのはどうか。
  • ちなみにWikiPedia(en)によれば、精子(spermatozoon)の発見は1677年(顕微鏡つくられてすぐに見つかっている :-)おどろいたろう)、卵子(ovum)は・・・あれ、載ってないぞ。哺乳類の卵細胞が発見されたのはいつぐらいなんだろう。・・・どうも精子より先に1672年には卵胞が見つかっているようだが、哺乳類の卵子を発見したのは19世紀になってからか?まああとで調べよう。なんかに載ってるだろう*3
  • さて、HumeのTreatise本文にはどこみても「譲渡 “alienate”」なんて言葉は出てこないぞ。(少なくともBook IIIには)どからこんな言葉引きだしてきたんだ?なんかおかしんじゃね? こういうのが「ポストモダンは電波系」と呼ばれる理由なんじゃないでしょうか。っていうか、後藤先生はルソーやヒュームなど、フェミな人々があんまり読まないところを読んでいて偉いなあとか思っていたのだが、こういうのを見ると、なんか全体がネタ本のパクリなんじゃないかという疑念が出てきてしまうわけだが・・・まあ、いつもいちいち「~の指摘よれば」とか絶対に書かなきゃならんというわけじゃないけどね。
  • まあ「男根中心主義」がどういうものかわたしはよくわからんが、この父性の不確実性の話は現代の進化心理学とかでも非常に重要な話だよな。配偶者防衛の話*4とか、いろいろインプリケーションあり。ヒューム先生は偉いなあ。
  • ちなみにタイトルは大槻先生のでは「第一二節 貞操と謙譲について」になってる。”Of chastity and modesty”まあ内容から言えば「貞操とつつしみ〔という特に女性に要求される徳〕について」だろうなあ。
  • あら、大槻先生が〔かっこ〕にいれているのは大槻先生の解釈じゃないのかな?凡例を見たいが、第1巻が見つからん・・・。発見。大丈夫。「〔〕のうちは譯者の補足的挿入である」。それにしてもp.180とかずいぶん解釈入れてるなあ。
  • 後藤先生とは関係ないけど、この部分のヒュームが、性道徳のダブルスタンダードを正当化していると読むのは読みすぎだろう。むしろその起源を(「人為的徳」という観点から)説明しているんだと思う。いや、この読みだめかも。正当化もしてるわ。
  • ヒュームは難しいよ。とほほ。

(つづくかもつづかないかも)続きません。もう読むのやだし、ケラーの本はあまりおもしろくなかったし。

*1:Selby-Biggeだよね。誤植。

*2:発行年つけてあげたい

*3:セックスの発明―性差の観念史と解剖学のアポリアによれば、哺乳類の卵子が報告されたのは1828年、K.E.フォン・ベーア。1840年代までは交尾が排卵を引きおこすと思われていた模様。ヒトの未成熟の卵子が発見されるのは1930年。この本は「セックスは18世紀に発明された」っていう主張自体は非常にあやしいというかどういう意味がよくわからんのだが、そこらへんの科学・医学研究事情は詳しい。

*4:長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』とかが定番の入門書だろう。

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「哲学の劇場」コンビのヒュームの法則理解

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
はもう読む気がなかったのだが、ぱらっと手にとって気になって放っておけなくなった部分がある。

ヒュームの法則とは、「~である」から「~べきである」を導くことはできないという主張のことだ。ヒュームは主著『人性論』のなかで、「である/でない」という断言と「べきである/べきでない」という断言とはまったく異なるものであり、前者から後者を導きだせる理由など思いもつかないと語っている。(ヒューム『人性論(四)』大槻春彦訳、岩波文庫、一九五二、三三-三四頁)

たしかに、現に存在する「である」(事実)の中身をいくら検分したところで、そこには「べきである」(価値判断)を見いだすことはできない。価値判断は事実の側にあるのではなく、もっぱら私たちの側にあるのだから。(p. 169)

あれ、このヒュームの解説なんかおかしいぞ。「理由など思いつかない」がおかしい。

おそらく大槻春彦先生の誤訳をさらに誤解したと思われる。

大槻訳では

・・・突然、私は見出して驚くが、私の出合う命題はすべて、「である」とか「でない」とかいう・命題を結ぶ・通常の連辞のかわりに、「べきである」又は「べきでない」で結合されて、そうでない命題には何一つ出会わないのである。この変化は、これを看取する者がないとはいえ、極度に重大な事柄である。何故なら、この「べきである」或は「べきでない」は、断言の或る新しい関係を表現している。従って、これを観察して解明する必要がある。また同時に、いかにしてこの新しい関係がそれと全く異なる他の(「である」又は「でない」の)関係から導き出されることができるか、その理由を与える必要がある。しかも、この理由を与えることは全く思いもつかないことのように思えるのである。(表記を変えてある)

これはおそらく誤訳。「理由を与える必要がある」といっておいて「それが思いつかん」とかって意味わからんし。ヒューム大先生はこういう意味不明なことを書いて平気な方ではない。この倫理学史上最も有名なパラグラフの原文は以下のようなもの。

I cannot forbear adding to these reasonings an observation, which may, perhaps, be found of some importance. In every system of morality, which I have hitherto met with, I have always remark’d, that the author proceeds for some time in the ordinary way of reasoning, and establishes the being of a God, or makes observations concerning human affairs; when of a sudden I am surpriz’d to find, that instead of the usual copulations of propositions, is, and is not, I meet with no proposition that is not connected with an ought, or an ought not. This change is imperceptible; but is, however, of the last consequence. For as this ought, or ought not, expresses some new relation or affirmation, `tis necessary that it shou’d be observ’d and explain’d; and at the same time that a reason should be given, for what seems altogether inconceivable, how this new relation can be a deduction from others, which are entirely different from it. But as authors do not commonly use this precaution, I shall presume to recommend it to the readers; and am persuaded, that this small attention wou’d subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason. (A Treatise of Human Nature, Book III, Part I, Secion 1。私のもってるOxford Univ. Pr.の Selby-Biggeのやつだと469-70。)

“for what seems inconcivable”の訳が問題。 中公の『世界の名著 ロック・ヒューム』の土岐邦夫先生の抄訳*1ではこう。

突然、「である」、または「でない」という普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出合うどの命題も、「べきである」、「べきでない」で結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、この「べきである」、「べきでない」というのは、ある新しい関係、断言を表すのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されるのか、まったく考えも及ばぬように思えるかぎり、その理由を与えることが必要だからである。(pp. 520-1)(表記は変えてある)

こっちはまずまずまともな訳だと思うが、私だったらfor what seems~は、reason ~ for とつながると読んで、下のようにしたい。

「まったく思いもよらないように見えるものに対しては、この新しい関係がいかにして他からの導出でありえるかという理由が与えられるべきだ」

あら、ちょっと違うな。上の訳まちがい。だめ。土岐訳がよさそうだ。 *2

おそらく「もし「である」から「べし」の間のつながりがよくわかんない(自明でない)ときには、そのギャップはちゃんと理由で埋めてかなきゃだめだ」
ってことだろう。

人が「である」から「べきである」に移行するとき、かならずそこには飛躍がある。飛躍は、それ自体としてはよいことでも悪いことでもない。人が意見を抱くときに、飛躍が生じるのは当然のことだ。飛躍のまったくない意見などあり得ない。問題は、それがいったいどんな飛躍であるのかということ、これにつきる。(p.170)

だから、この哲劇な人々の解釈はぜんぜんちがってしまってる。ヒュームが言いたいのは「かならず飛躍がある」なんてことじゃない。そして論理の飛躍はふつうは悪いことだ。ヒュームが指摘しているのは、「事実に関する判断から「だけ」では規範や価値に関する判断はでてこない。(どこかに規範や価値に関する前提が隠されている)だから、飛躍がないように理由でつなげ、どういう関係か明らかにしろ、読むときは飛躍に注意しろ」だろうと思う(なんか自信がなくなってきた)。

土岐訳では略されてしまっているが、大槻訳ではヒューム先生はちゃんと次のように述べている。

ところで、道義の体系を説いた人々はこうした(理由を与えるという*3)用心をしないのが普通である。それゆえ、私は読者がこれをするように敢えて勧めよう。そして私は堅く信ずるが、この僅かな注意は道徳性に関する一切の卑俗な体系を覆すであろう。*4

まあ大槻先生の誤訳は罪が重いが、ああいうのを見たら文意からして「おかしい」と思ってみるのが哲学のセンスってもんだと思う。もしセンスがなくたって(私もぜんぜんない)、 少なくとも、自説の重要な部分でこんな重要な部分を使おうとするのなら、一回原文チェックぐらいしておこうや。ネットですぐに手に入るんだし。もしかしたらこの人たちはヒュームをまじめに読んだことがないのかもしれない*5。いいかげんな科学的事実や哲学的知識を振り回して暴れる馬鹿なバックラッシュ派を叩くために必要なのは、科学的事実や哲学的知識の正確さを検討するアカデミックな誠実さだと思う。反省してもらいたい。

なんかいろいろ自信がなくなってきたが、ここではとりあえず、ヒュームの言い分は、「事実判断「だけ」からは価値判断は出てこない」というものだと解釈しておく。いちおうオーソドックスな普通の解釈。(詳しくは下の方参照)

んで、もうひとつ。

たとえば、AさんにはBさんを喜ばせたいという目的があり、誰もそれに反対する理由を持っていないとしよう。そして、Bさんがホットケーキを食べたいという事実も判明しているとしよう。されに、Aさんはホットケーキのつくり方を知っており、Bさんのためにホットケーキをつくってあげる用意がすべて整っているとしよう。そこでAさんが、以上のような事実(「である」)の積み重ねから、「自分がBさんを喜ばせるためにはホットケーキをつくるべきである」という判断を導きだしたとしても、たいていの場合その判断に反対すべき特段の理由はない。

しかし、たとえば、女性は産む性「である」という事実から、女性は家を守る「べきである」という価値判断を導きだすことには、おおいに議論の余地がある。(後略)

こっちはかなりミスリーディングな解説になってる。

くりかえすが、「ヒュームの法則」のポイントは事実判断だけからは、論理的には規範判断は出てこないってこと。したがって、「Bさんはホットケーキを作ってもらうと喜ぶ」という事実だけから「Bさんにホットケーキをつくってあげるべきだ」という規範判断はでてこない。この規範判断をするためには、「Aさんを喜ばせる「べき」だ」という規範を含んだ大前提が必要。(しかしこの前提が入ればなにも飛躍はないことに注意。)

同じように、「女は子どもを育てるのが自然だ」という事実判断から、「女は子どもを育てるべきだ」は出てこない。これを言うためには、「女は自然なことをするべきだ」という規範を含んだ(かなりあやしい)前提が必要だ。(「自然なことをするべきだ」が言えれば飛躍はないが、この前提はすごく怪しい。)

これが「ヒュームの法則」をもちだす一番のポイント。つまり、隠された前提をはっきりさせろ、そしてその前提の妥当性を問え。

で、哲劇コンビの説明のなにがミスリーディングかというと、

「自分がBさんを喜ばせるためにはホットケーキをつくるべきである」

という判断は、おそらく上のようなヒュームの法則でいわれる規範判断では「ない」かもしれないてことだ。少なくとも、もうちょっと正確に書きなおした、「AがBを喜ばすためには、ホットケーキを作ることが最善だ」のような判断は事実判断かもしれない。「Aが(あるいは「自分が」)喜ばせるためには」という条件がはいると、単なる目的合理性についての事実判断になってしまうかもしれない。

さらに重要な点として、もし「Aさんをよろこばせるべきだ」という価値判断がなければ、上にあげられている事実に加え、「AさんはBさんを喜ばせたいと思っている」「AさんはBさんを喜ばせるという目的をもっている」という「事実」(これは事実判断)を入れたとしても、ここから「AさんはBさんにホットケーキをつくるべきだ」はやっぱり出てこないのだ。

だから、ミスリードしない文章は次のようになるはずだ。

たとえば、Aさんは「Bさんを喜ばせるべきだ」と判断しているとしよう。そして、Bさんがホットケーキを食べたいと思っており、ホットケーキを食べたら喜ぶだろうという事実も判明しているとしよう。されに、Aさんはホットケーキのつくり方を知っており、Bさんのためにホットケーキをつくってあげる用意がすべて整っているとしよう。そこでAさんが、以上のような事実(「である」)の積み重ねと、「Bさんを喜ばせるべきだ」という価値判断から、「私はBさんにホットケーキをつくるべきである」という判断を導きだしたとしても論理的にはまっとうである。

しかし、たとえば、女性は産む性「である」という事実から、女性は家庭を守る「べきである」という価値判断を導きだすことには、おおいに議論の余地がある。「産む性は家庭を守るべきだ」という隠された大前提がおおいに議論の余地があるからだ。~~~

哲劇コンビの文章とこの文章がどの程度違って見えるかってのが問題なわけだが、私にとっては全然違うのだが、あんまり違わんかもしれん。そして結論も同じような「「科学的事実」から規範を考えるときにはよくよく注意しましょう」でしかない。でもそういう細かいところが大事な違いだし、そういう細部にこそ哲学とかってものの意味があるんだと思う。でなきゃ思いつきがなんでも哲学になっちゃう。

もちろん、アカデミズムに所属していない人が哲学について語るべきではないとかそういうことではない。でも最低限のアカデミックな誠実さやメディアリテレシーのようなものは必要で、それがジェンダーフリー派とバッシング派の双方に欠けていたんじゃないかと思っている。これは私個人の予断かもしれん。

うーん、説明むずかしいな。これで「飛躍」とかが問題なんじゃないってことがわかってもらえるだろうか。なんかだめそうだ。力が足りない。だめだめ。(あとでもうちょっと書くかもしれないけど、あんまり改善しそうにない。)

ヒュームむずかしいぞ

ヒューム難しい。やばい。ヒュームやばい。知ったかぶりするんじゃなかった。困ったときはまずStanfordのplatoさんに聞こう。ましな知ったかぶりのヒントをくれるはず。http://plato.stanford.edu/entries/hume-moral/なるほど、解釈がかなり分かれている部分なのだな。たしかに複数の解釈を許してしまうような書き方だ。私は以下であげられているHareたちのオーソドックスな立場から解釈していた。でもまあどちらの解釈にしても「飛躍」があるとかあって当然だとかいうことにはコミットしないようだからよかった。はあ。

5. Is and ought

Hume famously closes the section of the Treatise that argues against moral rationalism by observing that other systems of moral philosophy, proceeding in the ordinary way of reasoning, at some point make an unremarked transition from premises linked only by “is” to propositions linked by “ought” (expressing a new relation) — a deduction that seems to Hume “altogether inconceivable” (T3.1.1.27). Attention to this transition would “subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason” (ibid.).

Few passages in Hume’s work have generated more interpretive controversy.

On the orthodox reading Hume says here that no ought-judgment may be correctly inferred from a set of premises expressed only in terms of ‘is,’ and the vulgar systems of morality commit this logical fallacy. This is usually thought to mean something much more general: that no ethical or indeed evaluative conclusion whatsoever may be validly inferred from any set of purely factual premises. A number of present-day philosophers, including R. M. Hare, endorse this putative thesis of logic, calling it “Hume’s Law.” (As Francis Snare observes, on this reading Hume must simply assume that no purely factual propositions are themselves evaluative, as he does not argue for this.) Some interpreters think Hume commits himself here to a non-propositional or noncognitivist view of moral judgment — the view that moral judgments do not state facts and are not truth-evaluable. (If Hume has already used the Motivation Argument to establish noncognitivism, then the is/ought paragraph may merely draw out a trivial consequence of it. If moral evaluations are merely feelings without propositional content, then of course they cannot be inferred from any propositional premises.) Some see the paragraph as denying ethical realism, excluding values from the domain of facts.

Other interpreters — the more cognitivist ones — see the paragraph about ‘is’ and ‘ought’ as doing none of the above. Some read it as simply providing further support for Hume’s extensive argument that moral properties are not discernible by demonstrative reason, leaving open whether ethical evaluations may be conclusions of valid probable arguments. Others interpret it as making a point about the original discovery of virtue and vice, which must involve the use of sentiment. On this view, one cannot make the initial discovery of moral properties by inference from nonmoral premises using reason alone; rather, one requires some input from sentiment. However, on this reading it is compatible with the is/ought paragraph that once a person has the moral concepts as the result of prior experience of the moral sentiments, he or she may reach moral conclusions by inference from causal, factual premises (stated in terms of ‘is’) about the effects of character traits on the sentiments of observers. They point out that Hume himself makes such inferences frequently in his writings.

追記:結論部分のミスリード

13日追記

脳科学は「である」という事実を追求し、人性論は「べきである」「したほうがよい」という指針を提示する。でも、先に見たように「である」から「べきである」は帰結しない。このふたつが結び付けられている場合、そこにどんな飛躍があるかということに注意しておきたい。そのような議論には、「べきである」という主張を裏打ちしたり補強したり、ようするに説得力を増すために「である」という知見が動員されている場合が多い(人はそれを「権威主義」という)。(p.171-2)

権威主義とは関係ないだろう。事実だけから規範は出てこないといっても、規範を考えるときに事実は関係がないというわけではない。むしろ逆に、なんか規範的な判断を下す際に、事実に関する知識は非常に重要だ。特に社会政策のように統計的集団を扱わねばならない場合には、統計的事実が非常に重要な場合がある。事実とまったく独立に規範判断を下せる場合なんてほとんど考えることができない。

それに、権威主義っていうのはふつうは権威とされるものによっかかってそれを無批判に受けいれてしまうことなわけだが、権威による論証が必要な局面は多い。われわれはなんでも自分で調べることができるわけじゃないのだから、たいていの知識は、伝統や親や教師や科学者や信頼できる科学ライターやブログ書きなどのいろんな権威に頼ることになる。その「権威」がちゃんと権威である資 格がある *6のなら、それ自体は悪いことじゃない。だめなのは権威を常に無批判に受けいれてしまうこと、権威の資格のないものを権威としてしまうことだ。脳科学者は社会的規範についての権威ではないから、そんなものを規範についての権威として受けいれたらやばいってことにすぎない。(ちなみに「倫理学者」も規範とか倫理についての専門家ではないからそんなものを受けいれてはいかん。というか、倫理や社会的規範についての専門家なんてのは存在しないのかもしれん。わからん。)

どれほど脳についての解明が進んだとしても、ここで考えたことがらの枠組みが変わるわけではない。なぜなら、このような場面でいつでも問題になるのは、脳科学があきらかにしてくれる「である」という知見を、「べきである」「したほうがよい」という主張やアドバイスに結びつけるそのやり方にあるからだ。しかし、見てきたように、そうした主張の有効性はけっきょくのところ、脳の性差がどうかではなく、その主張(ママ。「が」が抜けてる?)どのような社会を望ましいと考えているのか、それを聞く人びとがどのようにふるまいたいのかということにかかっている。そんなときには、”So What?”(それで?)と問いかけてみるのも一興だ。つまり「それで、何を言いたいの?」「それで、何が狙いなの?」というように。(p.173)

前に「陳腐」と書いた主張だけど、読みなおすとちょっとあれだ。脳科学そのものはあんまり規範判断に直接に関係することは少ないだろう。むしろ、規範判断に関係するのは、脳科学がバックアップすることになるかもしれない男女の心理的な性差に関する研究だ。くりかえすが、これは集団を扱う社会政策のレベルでは重要かもしれないし、個人が多くの他人とつきあう場合の一般的な心がまえや前提知識として重要になるかもしれない。たとえば、もし仮に、「母親は父親と比較して子どもに対する心理的愛着や依存が強いことが多い」とか「女性は男とちがって、いっぱんにカジュアルセックスを好まない傾向がある」とかってことがある確実さで言えれば、それは社会政策を構想したり、個人の行動を批判したりするのに重要でしょ(別にこんなのは脳科学なしにも知ってるこどだけど)。もちろん多くの例外があるとしてもね。「戦時強姦や日和見強姦は進化論的に適応で生物学的基盤があるかもしれない」「ある環境下での小児虐待傾向はもしかしたら進化論的な適応の結果であるかもしれない」とかってのは(ショッキングすぎるが)、悪い結果を予防するために非常に重要になるかもしれない。(くりかえすが「自然」なことがよいことではないし、進化論的な適応の結果が倫理的に正当化されるわけじゃないぞ。われわれの心理的傾向を知ることはわれわれの行動を(統計的に)予測したり、場合によってそれをコントロールするために重要だというにすぎない。)

あと「一興」ていどのために”So what”(だからどうした)とたずねるのはふつう喧嘩になるからやめた方がいいと思うけどね。まじめに「その事実はどの程度正確か、そしてそれが事実だと認めた場合に規範判断にどうかかわるのか、その前提となる価値判断はどうなのか」をまじめに考えた方がいいと思うよ。「飛躍」と考えるとここへんがわからんようになると思う。

*1:大槻先生が責任編集なのだが、『人性論』は土岐先生が訳している。

*2:ここは解釈がかなり難しい。おそらくfor what seems altogether inconceivableはa reasonにかかり、how ~は what seems inconceivableの言いかえだと思うが。うーん、難しいぞ。

*3:この「用心」についての大槻先生の解釈も微妙

*4:この部分が何を示唆しているのかも難しくなってきたぞ。

*5:実は私もまじめに読んだことがないが

*6:同業者他からの多くの批判にさらされて生き残っている、とかね。

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macskaさんのアファーマティブアクションの解説

http://macska.org/article/117 。この件あんまり勉強してないのでただのメモ。このブログではネット上の情報について書くことはなかったのだが、不十分かと問われれば不十分だと思うのでメモだけは残しておくです。

米国の現状や判例に興味あるひとは http://en.wikipedia.org/wiki/Affirmative_action
、もっと哲学的な側面の方に興味があるひとは
http://plato.stanford.edu/entries/affirmative-action/
ちなみにこのStanfordの哲学事典は、哲学的な議論について調べるときの
最初の一歩にすることをおすすめ。

アファーマティブアクション(ポジティブアクション、積極的改善措置)が
実質的平等をめざすものだってのはもちろんOK。

今日から平等だから白人男性と対等に競争しなさいと言っても、それまで受けてきた教育が全然違うから同じ試験を受けても勝ち負けが目に見えているし、これまで稼いだお金や祖先から相続したお金に差があれば(差があるどころか、以前は一方が他方の所有物扱いだったんだから)ビジネス上でも対等に競争なんてできるわけがない。そういう競争は外見上平等なだけであって、実質的には社会の周縁に置かれた人たちに対して一方的に不利な「機会不平等」状態だ。だから、本当の意味で対等な競争が実現するまでのあいだ、暫定的な措置として失われた分の機会を補填しようというのがアファーマティブアクションの考え方。

これに加えて、代議士や会社役員のようなグループの代表となる地位については、競争や能力云々とは無関係に、グループの代表者、代弁者としてのポストを用意しておく価値がある。これもmacskaさんの指摘通り。

ただし、macskaさんが触れていない別の効用もあるはずだ。

ひとつは、(A)マイノリティ集団の人びとを、(特に)弁護士や医師などの専門職につきやすいようにするってのは、そのマイノリティ集団の利益につながりやすいということだと思う。黒人の弁護士は黒人が多く居住する地域で活動することが多いだろうし、同じ境遇や人種の人に対しては親身になることが多いだろう。女性の医師がたくさんいたほうが女性にとって診療受けやすいとかそういうよいことがあるだろう。瀬口先生の論文にあったように女性研究者がいるからこそわかってくるような科学的真理もあるかもしれない。

もうひとつ、(B)そういう上の階層にマイノリティ集団のメンバーが入りこむことによって、それまで一般人やその階層の人びと自身が抱いていた予断や偏見を消すことができるかもしれないということもある。会社でいっしょに働けば、黒人も女性も身体障害者も同じように「できる」ってことがだんだんわかっていくだろうから、格差や不平等を減らすために役だつにちがいない。

もう少し別の効用もあるかもしれないが、アファーマティブアクションの目的は必ずしも競争の出発点(や競争の途中の道のり)での差をなくすというだけではないと思う。

さて、macskaさんはアファーマティブアクションの問題点を大きく(1)どの程度のアクションをとるかという程度の問題、(2)クォータ制特有の難点のふたつに分けて説明していてわかりやすいが、やっぱり一番重要な問題を忘れているか書きそこねていると思う。

それはもちろん、「なぜマイノリティ集団に属しているという特徴によってそのグループのメンバーが優遇されることが正当化されるか」。もちろんその答は、「その集団のメンバーが、(皆同じように)出発点からハンデや不利益を負っているから、それを是正するため」ってことになる。逆に言うと、その集団のメンバーがそれほど同じようにハンデを負っているわけじゃない場合にアファーマティブアクションを使うと過剰に優遇してしまうことになってしまうかもしれない。そこでどういうグループがどういうハンデを負っているかに加えて、個々の成員はどの程度共通のハンデを負っているかも評価しなきゃならんことになる。

「そのグループ分けは正当な分け方なのか、そのグループはほんとうに不利益を受けているグループと言えるのか」というのも問題だよな。

60年代の米国なんかでは、黒人その他のエスニックグループや女性がそのグループに共通のハンデ負っているのが明確だったし、上の(A)(B)の効用もでかかったと思われる。

んじゃ今の国内の「男女共同参画」なるものでの「ポジティブアクション」はどうか。(この呼び方はどうも・・・「男女平等」でいいのに。)ほんとうに女性はそんなに共通に不利益を受けているのか、ってことを疑う人びとがいるのは、まあ理解できる。

特にネットとかでの「バックラッシュ」勢力の中心であると思われる大学生~大学院生男子の年頃というのは、グループとしての自分たちが同年代の女性たちに比べていろんなことで苦労していると感じ る思いこみやすい年頃なんで*1、「女性」全体を優遇しようとする政策に対してバッシングに走ろうとするのもわからんではない。「オレらがいろんなプレッシャーと戦って生きるのにせいいっぱいなのに、まだ優遇されたいだと!」「会社はいったってすぐやめてしまうんだろうが」とか。

職場での大学での成績競争とか、出世競争とかから(おそらく自発的に)距離を取ってしまう女性はまだ少なくないように見えるので、そこらへん優遇してどうすんだ、戦うなら 同じ土俵で戦え*2、と思ってる若者は少なくないだろう。

まあまちがっている認識も多いし、もうちょっと年をとると男性の方が得なことが多いことがわかってくるんだが。

http://macska.org/article/145 でmacskaさんは赤木さんという人のblogを
批判しているが、もうちょっと共感的に読んであげてもよいんじゃないかと思うんだが、どうだろう。

もし男女で生涯独身の割合は同じだとすると、弱者男性と結婚する強者女性の数は、弱者女性と結婚する強者男性と同数であるはず。それが同数でないとすると、それは強者女性が弱者男性を拒絶しているからではない。単に強者女性の絶対数が少ないからだ。*3つまり、赤木氏を主夫として養ってくれる女性があらわれないのは、女性が企業社会の競争において差別されているからだということになる。

とmacskaさんは書くわけだが、これがほんとうに差別の結果でしかないのかが問われているんだと思う。そうかもしれんが、そうでないかもしれん。私はわりと啓蒙された人びとのまわり生きているつもりで、すばらしく有能な女性もたくさん見ていて、尊敬に値すると思っている。

しかしそれでも「男なみ」に働こうとする女性はまだ一部のように見えるし、意識が低い人びともいる。ある種の男性は配偶者をバックアップ係として二人一組で戦っているようだが、女性でそれができる(やろうとする)人はまだ多くない。 (また女性の「上昇婚」傾向も問題なのかもしれん。この傾向が社会的差別の結果でしかないとかは言わせたくないなあ。*4

もちろん育児やその人自身のライフプランその他の問題はそれぞれおあるんで、ポジティブアクションがよくない制度だとは言わんが、国内で採用するまでに弊害を含めちゃんと議論されているのかなあ。そしていまやろうとしていることがほんとうに効果がありそうなのかなあ。

ある職種:-)の公募とか見ていて、注として「男女共同参画を~」と書かれているのを見ると、それに脅威を感じる男性オーバードクターなんてのはけっこういるんじゃないかと思う。「そんなんじゃなくて業績だけで評価してくれ、「グループとしての男性」が女性に比べて有利な立場にいるからといって、なぜ「この俺」が社会的な差別是正のための犠牲にならなきゃならんのだ、グループとしての女性が差別されているとしても、なぜ俺じゃなくて業績の劣るあの女が就職できるのだ」っていう疑問はかなり根本的で消しにくいものだと思う。

まあ答はそれほど難しくないんだと思うが、めんどうなので考えない。「あんたは男であるそのことでかなりの利益を受けているんだから、男であることで不利益を受けるべきだ」なんだろう。しかし、これがほんとうに受けいれられるべきなのか私はよくわからないし(いろいろ哲学的な問題がありそうだ。少なくとも森村進先生や昔のノージックは受けいれそうにない)、それが実感としてわからん時期もあれば、実感としてわからん階層の人もいる。(実際のところ、平均すりゃ男性の収入の方が女性の収入よりずっと多いだろうが、男性の収入その他のばらつきは女性の収入のばらつきよりずっと大きいはず。男性は上の方にも下の方にも広がっている。借金地獄で苦しむのも自殺するのも多くは男性。)

ジェンダーフリー論争なんてのは、こういうアファーマティブアクションについての議論のおまけというか前哨戦でしかない、ということは前から思っている。

とりあえず上の方の階層では男女不平等はすでにかなり解消されつつあるんじゃないだろうか。下の方では男性の方が苦しそうに見えるがどうなんだろうか。もしそうだとしたら、不平等感を煽ってしまうより、とりあえずの形式的平等と出産育児関係にかぎった優遇ぐらいで十分なんではないだろうか。ほんとうにもっと積極的な方策をとる必要があるんだろうか。とかってことは思ったり思わなかったり。ちゃんとした議論を読んでみたい。

で、こういうタイプの誤解をといたり、共感してあげたり、アファーマティブアクションの効用と不効用*5をあきらかにして正当化するって作業をバックラッシュ本でやるべきだったんじゃないかな。たんに二流の論者を叩いたり、「社会学」や「精神分析」の高みから分析したりするだけじゃなくてね。(まあそういうのにもそれなりの価値があるのもわかるけどね。)

(いつもながらうまく書けてないなあ。まあこういうあんまり勉強していないものに時間使うのはおかしいってのもあるのだが。)

追記(7/20)

トラックバック覧にもあるけど、
http://haseitai.cocolog-nifty.com/20/2006/07/_positive_actio_c836.html
で田中重人先生がこのエントリについて解説と批評を書いてくださっている(正直、大物すぎるです :-)。 このエントリ読んでしまった人は必読。

*1:かなり誤解をまねきやすい表現だったので修正。私自身が大学卒業時にはバブル期で、いわゆる「就職活動」をしてみて自分が実は男性として有利な立場にいることをまさに実感した。っていうかそれが自分が有利な立場にいることを自覚した最初だった。「ははあ、なるほどこういうことか」ってな感じ。だから私自身男女雇用機会均等法のようなのにはまったく抵抗感がない。

*2:実際いずれ皆同じ土俵で戦うことになるんだろう。勝負だ。当然男性と同じように徹底的に負ける女性も多数出てくる。まあそれは、最初から適度に負けてしまっているよりは(一部の女性には)よいことなのかもしれん。しかし、一部の意識の高い人びとは別として、集団としての女性がどの程度それを意識しているのか心配。そういうんでは、教育の場(特に中・高等教育)も徹底的に変わることになるのかもしれない。

*3:ちなみにこれはあやしい。macskaさんのページにもコメントがあって、それを見てはっきりしたが、男女10人ずついて、そのうち3人ずつが「強者」で、三人ずつが「弱者」で4人が「中間」だとする。さらに、男女2人ずつが生涯独身だとする。上昇婚を仮定すると、強者女性2人と弱者男性2人が生涯独身ってことは十分ありえるし、この場合、弱者男性と結婚する強者女性と弱者女性と結婚する強者男性は同数にならない。一時の「負け犬」ってのはそういうことじゃないのか。

*4:実際に自分より経済的能力が下である男性を配偶者に選ぶ女性がどれくらいいるのか。大学教授までなりあがった女性の配偶者がやっぱり大学教授だったりするのはなぜか。たんなる出会いのチャンスの問題か。もちろん「男の将来性に投資」する女性は多いが、あんまり将来性ない男(「気だてだけが取り柄」とか)はどの程度優秀な配偶者を得ることができるのか。「甲斐性なし!」とかって罵りは恐いものだ。これは単に文化や制度の問題なのかどうか。

*5:たとえば、「平等」の権利の侵害とか、(もしかしたらあるかもしれない)効率の低下とか、不公平感とか、「あいつらはできないのに優遇枠だからここにいるんだ」という偏見が助長されるとか。そういうのをはっきりさせずに「ポジティブアクションで行きます」では「単なる運動・イデオロギーだ」と言われてもしょうがない。共同参画基本法が制定されるとき、どの程度議論されたんだろうか?そこころあんまり関心もってなかったのでよくわからんのだよな。なんかいきなり制定されていたような感覚があったし、いまだにポジティブアクションについては議論が不足していると感じている。アメリカではほんとにホットでありつづけている話題の一つのはずなのに。macskaさんの書き方も、流して読むだけだと「先進国のアメリカではふつうですよ、反対しているのは「保守派」だけ、わかってない日本人は遅れてる」と読めちゃうような気がする。意図的かどうかはわからん。

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『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

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小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』

小谷野敦先生は私が敬愛する人の一人。おもしろいことを色々書いていらっしゃる。共感するところも多い。一回は御著書についてなんか書いてみてかった。死刑の問題については最近興味があるので読んでみよう。

それは対偶ではないですよ。

・・・これを、当為命題の形で言うなら「何の罪もない人を殺してはいけない」になるだろう。しかし、それと同値である対偶命題は、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」になる。(p.9)

対偶関係ってのは、「P⊃Q」に対して「¬Q⊃¬P」。当為がはいっているやつは面倒なときがあるのかもしれないが、面倒なのでとりあえず単純に「Xには何も罪がない」をP、「Xを殺してはいけない」をQとすると、対偶の¬Qは「Xを殺してはいけないわけではない」、¬Pは「Xには何の罪がないわけではない」。だから、対偶は「Xを殺してはいけないわけではないのならば、Xには何の罪もないわけではない。」もうちょっと日常語に近くすると、「Xを殺してよいならばXにはなんか罪がある」ぐらいか。(正確じゃないけど)

「罪のある人は、殺してもいい場合がある」はPとQで書きなおすと、・・・ええと・・・頭悪いからわからん。これ否定がはいってるからなおさら面倒なんだな。

もっと正確にするために「Xには罪がある」をR、「Xを殺してよい」をSとすると、もとの「何の罪もない人を殺してはいけない」は¬R⊃¬S。対偶は¬¬S⊃¬¬R。「Xを殺してよいわけではないわけではない」ならば「Xには罪があるわけではないわけではない。二重否定はふつう肯定にしてよいので、S⊃R。「Xを殺してよい」ならば「Xには罪がある。」。

ふむ、やっぱり小谷野先生のは対偶命題じゃない。「何の罪もない人は殺してはいけない」と主張する人が、「罪のある人も殺してはいけない」と主張してもなにも矛盾はないし。

小谷野先生は鋭い視点が売りなんだけど、論理的な推論が苦手のようで時々
気になるんだよな。これは本論いきなり2ページ目だったからとてつもなく
目についてしまう。三浦先生とは知り合いのようだから『論理トレーニング』ぐらいは読んだのかな。

まあ小谷野先生の名誉のために言っておけば、この文章のつづき

・・人々は、「何の罪もない人々を殺傷し」とテロリストや殺人者を非難する時、暗に、というよりはっきりと、「罪のある者は、場合によっては殺してもいい」ということを認めているのだ。

ってのはほぼ正しいだろう。(しかしこれは論理的な含意ではない)ここらへんの論理関係はたしかに素人には直観に反するので理解しにくいのだ。でも「対偶」とかって言葉を使うひとはちゃんと勉強しとかなきゃならん。

死刑制度の変遷

p.9-24あたりの歴史的叙述はおもしろいなあ。いろいろ知らなかったことが
書かれている。小谷野先生はこういうのがすばらしい。

ただし、

・・・死刑を廃止したヨーロッパ諸国は、キリスト教国である。キリスト教ならば、「ロマ人への手紙」にある「復讐するは我にあり」、つまり、人が人に復讐するべきではなく、紙の手に委ねるべきだという思想があり、死後、人々は紙の国へ行き、最後の侵犯によって悪人は裁かれる、という「信仰」がある。(p.20)

はどうか。ヨーロッパでも死刑はどうかと思われはじめたのはせいぜい18世紀だろう。ベッカーリアもベンサムも無神論的傾向が強かったはずで、キリスト教と死刑廃止が理論的にどの程度関係があるのはかちゃんと立証してもらいたいところ。

ちなみに当該個所は「ローマ人への手紙」12章19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」あたり。このパウロが引用している言葉がどこから来てるかは未調査。

あとまあ、団藤先生が死刑廃止運動のトップにまつりあげられたのはたしかに廃止派にとってあんまりよくなかったよな。ここらへんの指摘は小谷野先生鋭い。

改心しない悪人

「「嘘つきや卑怯者、乱暴者は、たいてい、悔い改めないまま一生を終わる。最近の社会生物学によれば、こうした性質はほぼ先天的なものだという。」(p.28)かなり大胆な主張だが、小谷野先生にしてめずらしく出典がついていない。私はそういう趣旨のは読んだことないなあ。

復讐、および社会からの排除が、刑罰の意義の中心をなすと私は考える。復讐とは、人類にとって普遍的な心情であり行為なのである。(p.29)

この本の中心的な主張なのだろうが、これがまさに死刑や刑罰に関する論争の中心的論争点だということを小谷野先生はどの程度自覚しているだろうか。

教科書的に言って、復讐心が「人類の普遍的な心情」であることは、死刑肯定派否定派にかかわらず、ほとんどの論者が認めると思う。また、「社会からの排除」は強すぎるが、「犯罪の抑止」が刑罰の主要な目的であることもほとんどの論者が認める。ふつう、「抑止」は、犯人の再発を防ぐ「特殊予防」と、一般の人々の同様の犯罪を防ぐ「一般予防」の二つに分けられ、「特殊予防」は教育、匡正、威嚇、隔離など、一般予防はいわゆる見せしめってことになる。ここらへんまではどういう人でも力点の差はあってもほとんどの人が認めると思う。

しかし、「復讐」が(国家による)刑罰の意義(「目的」?)がどうかは議論が分かれる。国家には市民の安全を保証する責務があるのだから犯罪を抑止する必要はあるわけだが、「復讐」を国家が市民にかわって行なう理由があるのかどうか。もちろんあるという主張をする人々は多いし、そのひとびとの多くは国家は被害者から復讐する権利を奪っているのだから、その肩代わりをしなければならないと主張するわけだ。でもその議論は簡単にはいかんので、十分な論証が欲しいところ。

小谷野先生は上の文章に続いて、「人はそれを野蛮だと言うのだろうか。」と書くのだが、野蛮かどうかではなく国家の機能がどうかという話をしてほしかったところ。

「遺族」は被害者の代理たりうるか

団藤も、多くの論者は、死刑廃止への反対論は、被害者遺族の感情を基礎としている、と言う。けれど、では被害者当人の報復感情はどうなるのか。誰も、死んでしまった者にそれを尋ねることはできない。しかし、彼に殺された当人の気持ちを尋ねれば、もしかすると天国にいてすべてを許す気になっているかもしれないが、遺族より遥かに強烈な復讐心を抱いているかもしれない。(pp.30-31)

小谷野先生は基本的に経験的に立証できることを重視して、こういう実証も反証もできないようなことは言わない人だという印象があったのだが。
筆がすべった?

まあどうでもよいことだが、私自身が近親縁者を殺されたら自分で殺しに行くですけどね。でもそれが国家がやるべきことなのかどうかはわからん。そしてそれは被害者本人の感情とはなんの関係もないかもしれんなあ。

この文脈で出てくるのが、小谷野先生のかなりオリジナルな主張だ。

「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。(p.33)

これをどう解釈するかはかなり難しい。ひとつの解釈は、復讐行為を行なう人々の心理的事実として、彼らは「自分の感情の満足のためではなく、被害者のためにやっているのだ」と感じている、というもの。これはおそらく事実として正しい。上で私は「被害者本人の感情とはなんの関係もないかも」と書いたのは、客観的に見ればかなり異常で、ふつうは「彼の(彼女の)恨みをはらす」という形になるだろう。

しかし小谷野先生はこれを「行なわれるべき」だと書く。この「べき」はどこから来ているのか。なぜ被害者(の感情)を代理すしなければならないのか。また、死者の感情ってのをどう考えるべきだと小谷野先生は考えているのか。そういうものが存在するのかどうか。そして復讐が成功したとしても、それによって
(あると主張されている)死者の感情になんらかの変化が生じるのかどうか。復讐が成功したかどうかは(おそらく)死者は知りえないだろうし。もちろん死者が天国からこの世界を見ていれば別だが、そういう形而上学的な主張にコミットしないと小谷野先生の主張は出てこないように見えるが、それでもOKなのかどうか。

ここから小谷野先生はさらにオリジナルな主張に進む。正直おもしろい。

私が「仇討ち制度」復活に賛同しかねるのは、実現の困難以上に、この理由による。呉は、仇討ちの権利を個人から国家が奪ったというが、逆に言うならば、仇を討ってくれるような家族がいない者(殺された者)にも、国家が代わって復讐する権利を与えたとも言えるのである。(p.33)

なんかよくわからんがすばらしい。そういう孤立した人間に思いを馳せることができるのが小谷野先生のすばらしいところ、私はそういうところが好きなんだなと確認。

残りの部分

残りの部分は国内のだめな廃止論者の論評とかフィクションの論評とかそういうの。それなりにおもしろいけど特に感じるところなし。

全体として、小谷野先生が「復讐」に注目しているのはよいのだが、それと国家の関係がよくわからんので死刑についての議論としてはあんまりおもしろくなかった。でもまあこんなものかな。団藤先生流の方針じゃない廃止論を誰かが紹介してくれればいいんだけどなあ。

復讐感情については、「死者の感情」とか解釈に苦しむものを導入しなくても、J.S.ミルの議論(ex. 『功利主義論』の第4章とか)にある「共感」とか参考にすれば、もうちょっとまともなことが言えそうな気がするんだが。「われわれは動物と共通に危害を加えられたらそれに報復する感情をもっていて、さらに人間は動物より拡大された共感の能力によって、共同体の仲間に加えられた危害についても同じような報復の感情を抱く」とかそういう感じ。まあ小谷野先生はそこらへんはあんまり興味ないかもしれない。

あと、まああれだ。小谷野先生が悪人はある程度先天的に決まってるとか更生させるのは難しいとかってほのめかしているのはどうなんかな。別にいいんだけど、私だってヤノマモ族のような環境に生まれてたら人の一人や二人は殺したろうし、場合によっては強姦とかもするだろうし。まあ反社会的な人々がいるってのはもちろん認めるけど。わからん。

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