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ラッセル先生のセックス哲学(3) ワンチャンはいかんのじゃ

んで実際に「性の解放」ってのはどうすんのかですわね。どうするんですか、先生。

まあ今では愛し合う若者たちはすぐにセックスしちゃって、セックスしないと童貞だとか草食系男子だとか添い寝系男子だとか言われちゃうわけですが、1928年当時っていうのはジャズエイジとは言え、そんなエッチなことをめちゃくちゃしている人々はそんな多くなかったみたい。前にも書いたように、中上流の女性はしてなかったみたい。でも下層とかはあれだし、男性は買春とかするのが普通、ってところかなあ。やっぱりちゃんとした家の女子とおつきあいするのはむずかしかったっぽい。そんでも20世紀に入ると避妊手段が入手しやすくなって、女子の活動も変わってきた。

ラッセル先生が女性の性的欲求なり性的衝動なりをどう考えてたかっていうのはよくわからない。どうも男性とたいしてちがいがないんちゃうか、単に教育のせいで性欲とか表に出さないようになってるだけでしょ、みたいに考えてたんではないかという雰囲気はある。

「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(p.85)

「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」p.126

写真とったりする、とかスマホで自撮りを送ってもらう、なんてのは信じられないっしょね。

でも最近はちがうよ、みたいな。まあこういうのは禁欲的な教育の結果だから、ちゃんとした性教育をすればよい、と。まあラッセル先生自身いろいろ女性との情事をもった人なので、「女性というのはそういうもんじゃないだろう」ぐらいの実感あったんだと思う。マリノフスキーとかマーガレットミード先生のをまにうけて、ラッセル先生はそもそも未開の社会ではみんな楽しくセックスしまくってんだから、西欧の女性が性的なものを嫌っているのは文化的な抑圧のせいだと考える。文化的な抑圧がなくなれば、女性も男性と同じようにセックスしたいっていう衝動を認めて、それにしたがって活動するようになるだろうし、女性自身も性的に満足してハッピーになるだろう、と。なんかラッセル先生はけっこうフロイト先生の議論も好きみたいですね。

我々のような非モテが見ると、女性というのはとても選択的で、「ただしイケメンに限る」みたいなのをごくごく自然にやってるわけだけど、ラッセル先生はそういうのを意識した形跡がないっていうか。まあそりゃ若いときからあのそこそこのルックス、いや人によってはかなりイケる、むしろイギリス貴族の典型イケメンみたいな見方もあるだろうしねえ。首相を祖父にもつ貴族であり、金もあり、当然のことながら世界でトップの知性のもちぬしであり、ユーモアもあり、まあラッセル先生とお話できるだけでハッピー、スイッチ入る、なんて女性はたくさんいたっしょね。というわけで、非モテのことなんかラッセル先生なにも考えてなかったと思う。

んでまあとにかく、彼の考える性の解放は、結婚と関係して語られる。西欧の伝統では、結婚はふつう当然一夫一婦の性的に排他的な永続的な関係、ぐらいなわけだけど、ラッセル先生は、その機能のコアの部分だけが本当の結婚である、って考える。

「合理的な倫理の立場では、子供のない結婚は、結婚の名に値しないだろう。子供の生まれない結婚は、容易に解消できるようにしなければならない。なぜなら、ただ子供を通してのみ、性関係は社会にとって重要で、法律上の制度によって認められる価値を持つものとなるからだ。」(p.154)

ラッセル先生によれば、第一次世界大戦のあとに避妊手段が入手しやすくなったみたい。まあそうなんしょな。それが人々の性行動を変えた。これはよく指摘されることだわね。

「アメリカ、イギリス、ドイツ、スカンジナビアでは、〔第一次〕大戦後、大きな変化が生じている。堅実な家庭のじつに多くの娘たちが、自分の「純潔」 [1] … Continue reading を守ることが価値のあることだと思わなくなり、若い男たちは、娼婦にはけ口を求めるかわりに、もっと金があれば結婚したいと思うような娘たちと情事をもつようになった。この過程は、イギリスよりもアメリカのほうが進んでいるようであるが、その原因は、禁酒法と自動車にある、と私は思っている。禁酒法のために、どこの楽しいパーティーでも、だれもが多かれ少なかれ酔っ払うことがぜひとも必要になった。大多数の娘が自分の車を持っているために、両親や隣人の目を盗んで恋人と会うことが容易になってきた。

これおもしろいね。なんで禁酒法のせいで酔っ払いが増えるかっていうと、禁止されてることはやりたくなるもんだから。みんなで「法の裏をかく」みたいなのは楽しいものだ。ラッセル先生に言わせばセックスも同じで、法に反して酒を飲み、道徳に反してこっそりセックスするのは楽しい。というわけで若者たちはセクロスセクロスになってしまう、と。こういうの、60手前のラッセル先生アメリカ行ったときに、「行きずりの旅行者にできる範囲で、……骨を折って若い人たちに質問してみた。若い人たちは、何ひとつ否定する気もちがなかった」とか。“I took pains to test 〜”みたいで、そういうことを若者たちに聞くのはラッセル先生には苦痛だったようだ。「こんなことを、君たちのような誇りの高い若者に質問するのはまことに心ぐるしいのだが、哲学者として私は社会に関心があって、率直にこうした質問をするのを許してほしいのだが……」みたいな感じだろうか。ほんとはあれなのに、まあいいでしょう。

まあそういう苦しい努力のすえに、「ちゃんとした女性も最近は結婚もしないでけっこうな人数とやりまくっているらしい」ということをラッセル先生は確信する。

「最高に立派な身分に納まる娘たちの大多数が、しばしば数人の恋人と性体験をしているというのが、アメリカ全土に及んでいる実情のようだ。」p.155

完全なセックスしなくても、ペッティングとかネッキングとかしているらしい、許せん、それは倒錯ではないか、みたいなことも言ってる。まあ許せんとは言ってないけど。

しかしラッセル先生は、若者が酒飲んでよっぱらってワンチャンセックス、とかっての、これも気にいらないのね。うらやましいから気にいらないわけではないと思う。

「若い人たちの性関係は、からいばり(bravado)から、しかも、酔っ払ったときに結ばれるという、愚劣きわまる形をとりがちになる。」p.156

「からいばり」って訳語だと感じがわからんよね。なんか「虚勢をはって」「見栄はって」みたいな。禁酒法下で密造ウィスキー飲むのがかっこいいように、純潔教育のもとでセックスするのは一見かっこいいんだけど、それはあんまり自発的じゃないしホンマもんのよいセックスではない、みたいな感じ。

「全人格を挙げて協力する、品位ある、理性的な、真心のこもった活動としての性関係」っていうのがラッセル先生の考えるところのグッドセックス。よっぱらってワンチャンではだめだ、と。あと、ペッティングとかネッキングとかだけして、「完全なセックス」を避けると「これは、神経を衰弱させ、後年、性を完全に楽しむことを困難ないし不可能にする恐れがある」とか。

これがラッセル先生が若者のセックスについて心配している問題。先生は親切なので若者のことを気にしている。ほっときゃいいのではないかと思うのだが、先生は超インテリの社会の指導者なのでほっとけないわけです。んじゃどうするか。

ラッセル先生のこの問題に対する回答は、「試験結婚」trial marriageやあるいは友愛結婚 companionate marriage と呼ばれるやつ。

まあ1920年代、すでに法律家の人々がそういう結婚制度を提案してたんですな。形式的には結婚してお互いにいろんな権利と義務をもつけど、(1) 子供を作ることを考えないでちゃんと避妊する、(2)妊娠してない場合には離婚できるようにする、(3) 離婚しても女性には金をやらない。っていう形の結婚生活を社会的に認めたらどうかってわけだ。

でもラッセル先生はもっとつきつめて、結婚という形もとる必要ないと考えてみたいね。

「私としては、友愛結婚は正しい方向への一歩であり、大きな利益もたらすものである、と固く信じているけれども、これではまだ不十分であると考える。私見によれば、子供を含まないすべての性関係は、もっぱら指示とみなすべきであり、したがって、かりに男女が子供を作っらないで、いっしょに生活しようと決心したとしても、それは、当事者自身の問題であり、余人の感知するところではない、と考える。

つまり、まあ「「結婚」とか公的な形にたよらないで、同棲とかしたきゃしたらいいじゃろう、世間はとやかく言う必要はないじゃろ。」だな。そしてラッセル先生はこれはおすすめだ、って言うわけね。

「私の考えでは、男にせよ女にせよ、あらかじめ性体験をしないままに、子供を作るつもりの結婚という重大な仕事を開始するのは望ましいことではない。性の初体験は、予備知識のある人とするほうがよいことを示す証拠はふんだんにある。人間の性行為は、本能的なものではないし、a tergo(後背位)からおこなわれなくなってからは、明らかに、そうでなくなっている。」(p.162)

『2001年宇宙の旅』の話っすね。

「この議論は別にしても、お互いの性的な相性について少しも予備知識なしに、人々に終生続けるつもりの関係に入ることを求めるのは、不合理であると思われる。それは、ちょうど、家を買おうとする人が、購入が完了するまではその家を見ることを許されないのと同様に、不合理である。結婚の生物学的な機能が十分に認識されたなら、妻が最初に妊娠するまでは、いかなる結婚も法的な拘束力をもたないとするのが、適切な方針であろう。」p.163

というわけで、若者もばんばんセックスしてください、って感じね。酒飲んでワンチャンとかしてないで、ちゃんとしたおつきあいをしてください、と。ステディな関係でセックスすんのは許されるどころかどんどんやりましょう。

私がやった授業ではこれ説明したあとに、上村一夫先生の『同棲時代』1972とかぐや姫の「神田川」コンボを決めた。まあここらへんの世相とラッセル先生がどのていど関係あるか、っていうのには興味がある。ラッセル先生をみんなが読んでたとは思えないけど、間接的な影響はあったろうなあ、みたいな。もっとも、この前当時そこらへんの人々にちょっと聞いてみたんだけど、「読んでない、関係ないんちゃうか」とかだった。まあ本人たちが関係ないっていうんなら関係ないんだろうと思う。でも上野千鶴子先生なんかが、一見ラジカルそうなのに実は恋愛みたいなのにけっこう思い入れがあって、ラジフェミの主張を受けいれたわけではなく、むしろラッセルっぽいのはなんかありそうな気がしているんよね。

まあとりあえずラッセル先生のおかげで、とりあえず「つきあって」いればセックスできるようになり、したいひとは同棲もできるようになりました。めでたしめでたし。(まだ続く)

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References

References
1「純潔」って訳されてるのは’Virtue’なのね。女子がセックスすると失なわれる「美徳」。まあこの文章、基本的にrespectableな家で育った男女に向けて書かれてんのよね。それにまあ、男女は基本的に同じクラスどうしでおつきあいしたり結婚したりする、っていうのがあまりにも当然視されてる感じ。まあ実際話も通じない感じだったんだろうな。上と下が出会うのは、売買春の場だけだったのだろう。

不倫・浮気・カジュアルセックスの学術論文ください

不倫(婚外セックス)とか浮気とかカジュアルセックス(いわゆる「ワンナイト」)とかについての哲学・倫理学の議論を紹介しようと思って、しばらく国内の文献をあさってたんですが、これって国内の学者さんによってはほとんど議論されてない問題なんすね。 続きを読む

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過去1年間、あなたは配偶者(夫・妻)恋人以外の人何人とセックスをしましたか

不倫っていうかカップル外セックスはどの程度の人がどれくらいやってるのか、ってことですが、あんまり信用できるデータがなくてねえ。

NHKの調査は信頼できるだろう、と思うわけですが、こんな感じですね。もっと新しいデータ欲しいっすね。

質問は「過去1年間、あなたは配偶者(夫・妻)や恋人以外の人何人とセックスをしましたか。ただし、お金を払ったりもらったりしてセックスをした相手はのぞきます。」です。

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カジュアルセックスは不正か(2)

ハルワニ先生が紹介していたフロイト先生の「性愛生活が誰からも貶められることについて」読んでみました。岩波のフロイト全集第12巻。この全集は読みやすくて優秀です。

精神分析の開業医が、どのような苦しみのために自分はもっとも頻繁に助けを求められるからを自問するなら、その答は……心的インポテンツのため、となるにちがいない。

とかってのからいきなりはじまってびっくりしました。1910年ごろのウィーンの精神科医ってのはそういうのの相談係だったんですね。まあフロイト先生は当時わりと名士で、ウィーンの知識人たちのセックス相談役でもあったわけです。

情愛の潮流と官能の潮流が相互に適切に融合しているのは、教養人にあってはごく少数の者でしかない。男性は性的活動をするときにはほとんどいつも、女性への敬意ゆえに自由が利かないと感じており、その十全たるポテンツを展開できるのは、貶められた性的対象を相手とするときに限られるのである。このことはまた、男性の性目標には、尊敬する女性相手に満足させようとは思いもよらない倒錯的成分が入り込んでいることからも、確かめられる。十分な性的享楽がえられるのは、男性がなんらの憂いなく満足に向かって専心するときだけなのであって、この専心を彼は例えば自分の礼節正しい妻相手にやってみようなどとはしないのである。こうしたことのために男性には、貶められた性的対象への、すなわち、美的懸念を示すのではないかと心配する必要がなく、生活のほかのかかわりで彼を知ることもなければ評価することもできない、倫理的に劣等な女への、欲求が芽生えることになる。そうした女には男は自分の性的な力を、博愛の方はより地位の高い女性に全面的に向けられている一方で、嬉々として捧げることになる。もしかしたら、最上位の社会階級の男性に頻繁に観察される、低い階層の女を長期の愛人にしたり、それどころか配偶者に選択したりするという嗜好も、十分な満足の可能性と心理的に結びついている、貶められた性的対象に対する欲求からの帰結にほかならないのかもしれない。

おもしろいのでおもわず写経してしまいました。なんか女性をママやお姉さんみたいに尊敬する対象と考えたりするとセックスがうまくいかなくなります、みたいな。むしろ無教養だったり下品だったりした方がいい、メスブタみたいな女との匿名のセックスの方が燃える、とかそういう感じ。岡崎京子先生の『Pink』っていうマンガで、テレビで正しいことを語ってる大学教授が主人公をメスブタ扱いしている、みたいな話おもしろいですよね。まあ人間は複雑だ。

まあこの「貶める」がおもしろいですね。一部のフェミニストが「男性にとってセックスは女性を貶めるものだ」とかって解釈したのの意味がだんだんわかってくるような。

同じようなことは性科学の創始者のハブロック・エリスや、20世紀に社会的にも大きな影響をもった哲学者のバートランド・ラッセル先生も言ってるんですよね。

(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。……しかし……女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(ラッセル『結婚論』)

まあここでラッセル先生が言ってることがどういうことなのかってのを考えるのはおもしろくて、女性もどんどんカジュアルにセックスするようになれば売買春はなくなるぞ、そういうふうに教えこもうぜ!みたいな。それでいいんすかね。まあ「金払わなくてすむようになるぞ」っていうんじゃなくて、ラッセル先生は売買春は不道徳だと考えてたんですけどね。

あとこのフロイト先生の論文のタイトルは、 Über die allgemainste Erniederung des Liebeslebensなんですが、これ「性愛生活が貶められれること」なのかなあ。「セックスライフでは「貶める」ってことがよくあることについて」じゃないのかな。Erniederungは性愛生活を貶めるんじゃなくて対象(特に女性)を貶めるんだろう。まあセックスライフにはそういう側面があるわけです。

あ、英訳だとやっぱりタイトルは “On the Universal Tendency to Debasement in the Sphere of Love”になってるね。




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カジュアルセックスは不正か (1)

今日は1日カジュアルセックスまわりの文献見たりしておりましたです。

まあ基本はソーブル先生の事典(Sex from Plato to Paglia)のRaja Halwani先生のCasual Sexの項目見ながらもってる文献見なおしたり。 続きを読む

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