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ラッセル先生のセックス哲学(3) ワンチャンはいかんのじゃ

んで実際に「性の解放」ってのはどうすんのかですわね。どうするんですか、先生。

まあ今では愛し合う若者たちはすぐにセックスしちゃって、セックスしないと童貞だとか草食系男子だとか添い寝系男子だとか言われちゃうわけですが、1928年当時っていうのはジャズエイジとは言え、そんなエッチなことをめちゃくちゃしている人々はそんな多くなかったみたい。前にも書いたように、中上流の女性はしてなかったみたい。でも下層とかはあれだし、男性は買春とかするのが普通、ってところかなあ。やっぱりちゃんとした家の女子とおつきあいするのはむずかしかったっぽい。そんでも20世紀に入ると避妊手段が入手しやすくなって、女子の活動も変わってきた。

ラッセル先生が女性の性的欲求なり性的衝動なりをどう考えてたかっていうのはよくわからない。どうも男性とたいしてちがいがないんちゃうか、単に教育のせいで性欲とか表に出さないようになってるだけでしょ、みたいに考えてたんではないかという雰囲気はある。

「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(p.85)

「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」p.126

写真とったりする、とかスマホで自撮りを送ってもらう、なんてのは信じられないっしょね。

でも最近はちがうよ、みたいな。まあこういうのは禁欲的な教育の結果だから、ちゃんとした性教育をすればよい、と。まあラッセル先生自身いろいろ女性との情事をもった人なので、「女性というのはそういうもんじゃないだろう」ぐらいの実感あったんだと思う。マリノフスキーとかマーガレットミード先生のをまにうけて、ラッセル先生はそもそも未開の社会ではみんな楽しくセックスしまくってんだから、西欧の女性が性的なものを嫌っているのは文化的な抑圧のせいだと考える。文化的な抑圧がなくなれば、女性も男性と同じようにセックスしたいっていう衝動を認めて、それにしたがって活動するようになるだろうし、女性自身も性的に満足してハッピーになるだろう、と。なんかラッセル先生はけっこうフロイト先生の議論も好きみたいですね。

我々のような非モテが見ると、女性というのはとても選択的で、「ただしイケメンに限る」みたいなのをごくごく自然にやってるわけだけど、ラッセル先生はそういうのを意識した形跡がないっていうか。まあそりゃ若いときからあのそこそこのルックス、いや人によってはかなりイケる、むしろイギリス貴族の典型イケメンみたいな見方もあるだろうしねえ。首相を祖父にもつ貴族であり、金もあり、当然のことながら世界でトップの知性のもちぬしであり、ユーモアもあり、まあラッセル先生とお話できるだけでハッピー、スイッチ入る、なんて女性はたくさんいたっしょね。というわけで、非モテのことなんかラッセル先生なにも考えてなかったと思う。

んでまあとにかく、彼の考える性の解放は、結婚と関係して語られる。西欧の伝統では、結婚はふつう当然一夫一婦の性的に排他的な永続的な関係、ぐらいなわけだけど、ラッセル先生は、その機能のコアの部分だけが本当の結婚である、って考える。

「合理的な倫理の立場では、子供のない結婚は、結婚の名に値しないだろう。子供の生まれない結婚は、容易に解消できるようにしなければならない。なぜなら、ただ子供を通してのみ、性関係は社会にとって重要で、法律上の制度によって認められる価値を持つものとなるからだ。」(p.154)

ラッセル先生によれば、第一次世界大戦のあとに避妊手段が入手しやすくなったみたい。まあそうなんしょな。それが人々の性行動を変えた。これはよく指摘されることだわね。

「アメリカ、イギリス、ドイツ、スカンジナビアでは、〔第一次〕大戦後、大きな変化が生じている。堅実な家庭のじつに多くの娘たちが、自分の「純潔」 1)「純潔」って訳されてるのは’Virtue’なのね。女子がセックスすると失なわれる「美徳」。まあこの文章、基本的にrespectableな家で育った男女に向けて書かれてんのよね。それにまあ、男女は基本的に同じクラスどうしでおつきあいしたり結婚したりする、っていうのがあまりにも当然視されてる感じ。まあ実際話も通じない感じだったんだろうな。上と下が出会うのは、売買春の場だけだったのだろう。 を守ることが価値のあることだと思わなくなり、若い男たちは、娼婦にはけ口を求めるかわりに、もっと金があれば結婚したいと思うような娘たちと情事をもつようになった。この過程は、イギリスよりもアメリカのほうが進んでいるようであるが、その原因は、禁酒法と自動車にある、と私は思っている。禁酒法のために、どこの楽しいパーティーでも、だれもが多かれ少なかれ酔っ払うことがぜひとも必要になった。大多数の娘が自分の車を持っているために、両親や隣人の目を盗んで恋人と会うことが容易になってきた。

これおもしろいね。なんで禁酒法のせいで酔っ払いが増えるかっていうと、禁止されてることはやりたくなるもんだから。みんなで「法の裏をかく」みたいなのは楽しいものだ。ラッセル先生に言わせばセックスも同じで、法に反して酒を飲み、道徳に反してこっそりセックスするのは楽しい。というわけで若者たちはセクロスセクロスになってしまう、と。こういうの、60手前のラッセル先生アメリカ行ったときに、「行きずりの旅行者にできる範囲で、……骨を折って若い人たちに質問してみた。若い人たちは、何ひとつ否定する気もちがなかった」とか。“I took pains to test 〜”みたいで、そういうことを若者たちに聞くのはラッセル先生には苦痛だったようだ。「こんなことを、君たちのような誇りの高い若者に質問するのはまことに心ぐるしいのだが、哲学者として私は社会に関心があって、率直にこうした質問をするのを許してほしいのだが……」みたいな感じだろうか。ほんとはあれなのに、まあいいでしょう。

まあそういう苦しい努力のすえに、「ちゃんとした女性も最近は結婚もしないでけっこうな人数とやりまくっているらしい」ということをラッセル先生は確信する。

「最高に立派な身分に納まる娘たちの大多数が、しばしば数人の恋人と性体験をしているというのが、アメリカ全土に及んでいる実情のようだ。」p.155

完全なセックスしなくても、ペッティングとかネッキングとかしているらしい、許せん、それは倒錯ではないか、みたいなことも言ってる。まあ許せんとは言ってないけど。

しかしラッセル先生は、若者が酒飲んでよっぱらってワンチャンセックス、とかっての、これも気にいらないのね。うらやましいから気にいらないわけではないと思う。

「若い人たちの性関係は、からいばり(bravado)から、しかも、酔っ払ったときに結ばれるという、愚劣きわまる形をとりがちになる。」p.156

「からいばり」って訳語だと感じがわからんよね。なんか「虚勢をはって」「見栄はって」みたいな。禁酒法下で密造ウィスキー飲むのがかっこいいように、純潔教育のもとでセックスするのは一見かっこいいんだけど、それはあんまり自発的じゃないしホンマもんのよいセックスではない、みたいな感じ。

「全人格を挙げて協力する、品位ある、理性的な、真心のこもった活動としての性関係」っていうのがラッセル先生の考えるところのグッドセックス。よっぱらってワンチャンではだめだ、と。あと、ペッティングとかネッキングとかだけして、「完全なセックス」を避けると「これは、神経を衰弱させ、後年、性を完全に楽しむことを困難ないし不可能にする恐れがある」とか。

これがラッセル先生が若者のセックスについて心配している問題。先生は親切なので若者のことを気にしている。ほっときゃいいのではないかと思うのだが、先生は超インテリの社会の指導者なのでほっとけないわけです。んじゃどうするか。

ラッセル先生のこの問題に対する回答は、「試験結婚」trial marriageやあるいは友愛結婚 companionate marriage と呼ばれるやつ。

まあ1920年代、すでに法律家の人々がそういう結婚制度を提案してたんですな。形式的には結婚してお互いにいろんな権利と義務をもつけど、(1) 子供を作ることを考えないでちゃんと避妊する、(2)妊娠してない場合には離婚できるようにする、(3) 離婚しても女性には金をやらない。っていう形の結婚生活を社会的に認めたらどうかってわけだ。

でもラッセル先生はもっとつきつめて、結婚という形もとる必要ないと考えてみたいね。

「私としては、友愛結婚は正しい方向への一歩であり、大きな利益もたらすものである、と固く信じているけれども、これではまだ不十分であると考える。私見によれば、子供を含まないすべての性関係は、もっぱら指示とみなすべきであり、したがって、かりに男女が子供を作っらないで、いっしょに生活しようと決心したとしても、それは、当事者自身の問題であり、余人の感知するところではない、と考える。

つまり、まあ「「結婚」とか公的な形にたよらないで、同棲とかしたきゃしたらいいじゃろう、世間はとやかく言う必要はないじゃろ。」だな。そしてラッセル先生はこれはおすすめだ、って言うわけね。

「私の考えでは、男にせよ女にせよ、あらかじめ性体験をしないままに、子供を作るつもりの結婚という重大な仕事を開始するのは望ましいことではない。性の初体験は、予備知識のある人とするほうがよいことを示す証拠はふんだんにある。人間の性行為は、本能的なものではないし、a tergo(後背位)からおこなわれなくなってからは、明らかに、そうでなくなっている。」(p.162)

『2001年宇宙の旅』の話っすね。

「この議論は別にしても、お互いの性的な相性について少しも予備知識なしに、人々に終生続けるつもりの関係に入ることを求めるのは、不合理であると思われる。それは、ちょうど、家を買おうとする人が、購入が完了するまではその家を見ることを許されないのと同様に、不合理である。結婚の生物学的な機能が十分に認識されたなら、妻が最初に妊娠するまでは、いかなる結婚も法的な拘束力をもたないとするのが、適切な方針であろう。」p.163

というわけで、若者もばんばんセックスしてください、って感じね。酒飲んでワンチャンとかしてないで、ちゃんとしたおつきあいをしてください、と。ステディな関係でセックスすんのは許されるどころかどんどんやりましょう。

私がやった授業ではこれ説明したあとに、上村一夫先生の『同棲時代』1972とかぐや姫の「神田川」コンボを決めた。まあここらへんの世相とラッセル先生がどのていど関係あるか、っていうのには興味がある。ラッセル先生をみんなが読んでたとは思えないけど、間接的な影響はあったろうなあ、みたいな。もっとも、この前当時そこらへんの人々にちょっと聞いてみたんだけど、「読んでない、関係ないんちゃうか」とかだった。まあ本人たちが関係ないっていうんなら関係ないんだろうと思う。でも上野千鶴子先生なんかが、一見ラジカルそうなのに実は恋愛みたいなのにけっこう思い入れがあって、ラジフェミの主張を受けいれたわけではなく、むしろラッセルっぽいのはなんかありそうな気がしているんよね。

まあとりあえずラッセル先生のおかげで、とりあえず「つきあって」いればセックスできるようになり、したいひとは同棲もできるようになりました。めでたしめでたし。(まだ続く)

References   [ + ]

1. 「純潔」って訳されてるのは’Virtue’なのね。女子がセックスすると失なわれる「美徳」。まあこの文章、基本的にrespectableな家で育った男女に向けて書かれてんのよね。それにまあ、男女は基本的に同じクラスどうしでおつきあいしたり結婚したりする、っていうのがあまりにも当然視されてる感じ。まあ実際話も通じない感じだったんだろうな。上と下が出会うのは、売買春の場だけだったのだろう。

不倫・浮気・カジュアルセックスの学術論文ください

不倫(婚外セックス)とか浮気とかカジュアルセックス(いわゆる「ワンナイト」)とかについての哲学・倫理学の議論を紹介しようと思って、しばらく国内の文献をあさってたんですが、これって国内の学者さんによってはほとんど議論されてない問題なんすね。

たとえば岩波書店の『岩波応用倫理学講義5 性/愛』や『岩波講座哲学12 性/愛の哲学』の2冊を見ても、そもそも「不倫」も「浮気」も「カジュアルセックス」も出てこないみたい。これは正直驚きました。これおかしいんじゃないですか。不倫はもう普通のことで倫理学的になんの問題もないとか浮気はさっぱりかまわんしみんなしている、とかそういうことになってるんでしょうか。だめです楽しいセックスは全面禁止ですー。

まあつらつら考えてみると、私はわりと国内のフェミニズムやらジェンダーやらセクシャリティやらに関する本はけっこう読んでる方だと思ってるんですが、その手の議論はさっぱり見たことないです。「不倫はだめですか」「浮気は不道徳ですか」「その日に会ったばかりの人とセックスするのはだめですか」とか、まあけっこう多くの人が関心ある倫理学的/哲学的テーマな気がするんですがね。まあ私の生活には関係ないですけどね。ははは。他の哲学研究者の人々の生活にも関係ないんですかね。

まあ国内で「セクシャリティ」とかの倫理的問題としておもに議論されているのは、売買春、ポルノグラフィ、そして同性愛をはじめとしたセクシャルマイノリティに対する差別の三つで、ここらへんはけっこう蓄積があるんですが、不倫や浮気について真面目に議論したものがない、ってのはなんかおかしいような気がする。宮台真司先生あたりのリア充な感じの学者さんとか読まなきゃならないのだろうか。

まあここらへんにも日本のセクシャリティ論だのってての問題があるような気がしますね。5、6年前に生命倫理の文献をいろいろ見てたとき、脳死とか安楽死とかそういうのはたくさん文献あるのに妊娠中絶そのものを扱ったものはめったにない、みたいなのを発見したときと同じいやな感じがします。なんていうか、本当にみんなが気にしている問題、生活に直結する問題を学者さんたちは避けている、みたいなそういう感じ。正直なことを書けば、ある種の偽善みたいなものも感じたりしないでもないです。

いやまあ私が見てないだけなのかもしれんので、「これが定番論文だ」みたいなのがあれば教えてください。おながいしますおながいします。

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加藤秀一先生の『性現象論』にも出てこないし。

性現象論―差異とセクシュアリティの社会学
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最近読んだのだと牟田和恵先生の『部長、その恋愛はセクハラです!』はおじさん向けの良書だったんですが、既婚者が「恋愛」(あるいはセックス)するということそのものの問題についてはなにも触れてなくて、ちょっと拍子抜けしました。でもまあこの本はみんな1回は読んでおきましょう。

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)
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この鼎談はけっこう興味深く読みました。西川先生は一夫一婦の結婚生活を維持されておられるらしい。結婚制度は当然フェミニズムの中心的議論対象の一つ。婚外セックスや「愛のないセックス」の話にはある程度関心を共有している印象があるけど、つっこんで議論はなかったような気がする。

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まあ、んで、なんで不倫や浮気やカジュアルセックスが日本の学者によってとりあげられないのか、ってのはどうしても考えてしまいます。仮説はないわけではないけど、どうかなあ。

私の仮説は、このタイプの問題は、非常に男性と女性(あるいはその他)それぞれの集団内部での利益の葛藤にかかわっているために議論しにくいのだ、ってものです。

まあ「不倫はOK、恋愛はすばらしい」って書いちゃえば「なんでうちの嫁を誘惑するのだ!」「うちの旦那を泥棒するつもりか!」って怒る人がいそうだし、かといって「不倫する奴は不道徳だ、人間の屑だ」みたいなこと書くと「おまえはパートナーがいるからそういうことを言うのだ」「お前はやりまくってるのか!」みたいなことを言われてしまいそうだし。これ難しいですよね。ははは。

まあ売買春とかポルノとかだったら、「買う男が悪い!」「そんなもの見て喜んでる奴らは変態だ」みたいなん言いやすいだろうし、セクシャルマイノリティへの差別や偏見が悪しきものなのは当然だから書きやすいのではないか。しかしまあ不倫とか浮気とかが人々の生活に及ぼす負の(そして正の)影響は売買春やポルノと同じくらいでかい気がしますけどね。嫉妬とかってのはDVとかともある程度関係しているんだろうし。

あとはまあ「不倫とか浮気とかみんなしてるのでそれが悪いとか書きにくい」とかか。「ぜんぜん悪いとは思ってない」とか「ふつうする」みたいなので問題を感じてないとか。そんな大きな問題じゃないだろう、とか。「そういう恋愛関係は個人的な理想にかかわることだから学者が関心をもつことではない」とか。最後のやつは興味ふかい論点ですが、それならそれで一本ぐらいそういう論文見つかりそうなものです。

まあここらへんわからんです。しばらく勉強しよう。

 

過去1年間、あなたは配偶者(夫・妻)恋人以外の人何人とセックスをしましたか

不倫っていうかカップル外セックスはどの程度の人がどれくらいやってるのか、ってことですが、あんまり信用できるデータがなくてねえ。

NHKの調査は信頼できるだろう、と思うわけですが、こんな感じですね。もっと新しいデータ欲しいっすね。

質問は「過去1年間、あなたは配偶者(夫・妻)や恋人以外の人何人とセックスをしましたか。ただし、お金を払ったりもらったりしてセックスをした相手はのぞきます。」です。

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うまくtable書けません。ははは。

男子未成年で19〜99人のところに10人も性の巨人がいますね。女子でも15人未満ぐらいのところに7人いてけっこう巨人。中高年もけっこう盛んですなあ。これ10年以上前のデータなので、いまはさらにあれでしょうなあ。

男性 女性
年齢 全体 16-19 20代 30代 40代 50代 60代 16-19 20代 30代 40代 50代 60代
0 67 42 64 68 73 70 62 53 74 72 70 64 53
1 10 26 14 11 8 10 7 27 8 9 11 10 5
2 1 0 4 4 1 1 2 27 8 9 11 10 5
3 1 11 3 9 1 1 2 0 2 0 1 0 0
4 0 0 1 0 1 1 1 0 1 0 0 0 0
5-9 0 0 1 0 1 1 1 0 1 0 0 0 0
10-14 0 0 1 0 0 0 1 7 0 0 0 0 0
15-19 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
20-99 0 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
100人以上 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
無記入 20 11 13 17 16 18 24 13 14 18 19 26 43
あと「かぜまち結婚相談所」様がネットで調査をおこなっておられます。 https://www.facebook.com/kazemachimc

カジュアルセックスは不正か(2)

ハルワニ先生が紹介していたフロイト先生の「性愛生活が誰からも貶められることについて」読んでみました。岩波のフロイト全集第12巻。この全集は読みやすくて優秀です。

精神分析の開業医が、どのような苦しみのために自分はもっとも頻繁に助けを求められるからを自問するなら、その答は……心的インポテンツのため、となるにちがいない。

とかってのからいきなりはじまってびっくりしました。1910年ごろのウィーンの精神科医ってのはそういうのの相談係だったんですね。まあフロイト先生は当時わりと名士で、ウィーンの知識人たちのセックス相談役でもあったわけです。

情愛の潮流と官能の潮流が相互に適切に融合しているのは、教養人にあってはごく少数の者でしかない。性は性的活動をするときにはほとんどいつも、女性への敬意ゆえに自由が利かないと感じており、その十全たるポテンツを展開できるのは、貶められた性的対象を相手とするときに限られるのである。このことはまた、男性の性目標には、尊敬する女性相手に満足させようとは思いもよらない倒錯的成分が入り込んでいることからも、確かめられる。十分な性的享楽がえられるのは、男性がなんらの憂いなく満足に向かって専心するときだけなのであって、この専心を彼は例えば自分の礼節正しい妻相手にやってみようなどとはしないのである。こうしたことのために男性には、貶められた性的対象への、すなわち、美的懸念を示すのではないかと心配する必要がなく、生活のほかのかかわりで彼を知ることもなければ評価することもできない、倫理的に劣等な女への、欲求が芽生えることになる。そうした女には男は自分の性的な力を、博愛の方はより地位の高い女性に全面的に向けられている一方で、嬉々として捧げることになる。もしかしたら、最上位の社会階級の男性に頻繁に観察される、低い階層の女を長期の愛人にしたり、それどころか配偶者に選択したりするという嗜好も、十分な満足の可能性と心理的に結びついている、貶められた性的対象に対する欲求からの帰結にほかならないのかもしれない。

おもしろいのでおもわず写経してしまいました。なんか女性をママやお姉さんみたいに尊敬する対象と考えたりするとセックスがうまくいかなくなります、みたいな。むしろ無教養だったり下品だったりした方がいい、メスブタみたいな女との匿名のセックスの方が燃える、とかそういう感じ。岡崎京子先生の『Pink』っていうマンガで、テレビで正しいことを語ってる大学教授が主人公をメスブタ扱いしている、みたいな話おもしろいですよね。まあ人間は複雑だ。

まあこの「貶める」がおもしろいですね。一部のフェミニストが「男性にとってセックスは女性を貶めるものだ」とかって解釈したのの意味がだんだんわかってくるような。

同じようなことは性科学の創始者のハブロック・エリスや、20世紀に社会的にも大きな影響をもった哲学者のバートランド・ラッセル先生も言ってるんですよね。

(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。……しかし・・・女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(ラッセル『結婚論』)

まあここでラッセル先生が言ってることがどういうことなのかってのを考えるのはおもしろくて、女性もどんどんカジュアルにセックスするようになれば売買春はなくなるぞ、そういうふうに教えこもうぜ!みたいな。それでいいんすかね。まあ「金払わなくてすむようになるぞ」っていうんじゃなくて、ラッセル先生は売買春は不道徳だと考えてたんですけどね。

あとこのフロイト先生の論文のタイトルは、 Über die allgemainste Erniederung des Liebeslebensなんですが、これ「性愛生活が貶められれること」なのかなあ。「セックスライフでは「貶める」ってことがよくあることについて」じゃないのかな。Erniederungは性愛生活を貶めるんじゃなくて対象(特に女性)を貶めるんだろう。まあセックスライフにはそういう側面があるわけです。

あ、英訳だとやっぱりタイトルは “On the Universal Tendency to Debasement in the Sphere of Love”になってるね。

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カジュアルセックスは不正か (1)

今日は1日カジュアルセックスまわりの文献見たりしておりましたです。

まあ基本はソーブル先生の事典(Sex from Plato to Paglia)のRaja Halwani先生のCasual Sexの項目見ながらもってる文献見なおしたり。

カジュアルセックスってのはまあいきあたりばったりの「ワンナイトラブ」とかそういうのね。それは道徳的に不正ですか、みたいな。不倫とか浮気とか売買春とかの流れでまあ一応おさえておかないとね。でもまあこれもあんまりおもしろくない。個人的には不正なわけないじゃん、やりたい人どうしでやりたいようにやったらどうか、みたいな感じ。

まあだいたい教科書的にどうなるのかっていうと、まずは「カジュアルセックス」て言葉を定義するのは難しいよ、みたいな。まあ哲学の議論の基本ですわね。

んでカジュアルセックスを悪いっていう人がいるけどそれはどういう根拠からそう言うのですか、みたいな。すぐに思いつくのは性病の伝染と望まない妊娠で、まあこうのはよくない。でもまあそういうのちゃんと気をつけてやることにしたらどうですか、とか。

女性がやりまくると “Slut” とか日本だと「ビッチ」「ヤリマン」って言われるけど、男性はあんまりそういうことは言われないね、みたいなことも指摘されますわね。まあSlutやビッチって呼ばれるのは女性にとってはかなり不利なんだろうけど、こういうのは社会がそういうレッテルを貼るってことだからべつにカジュアルセックスそのものが悪いわけじゃないだろうし、そう呼ばれても平気な人々もいるだろう、とか。

まあ日本では「ヤリチン」とか「チャラ男」とか言われるけど、そんなにネガティブなイメージはない気がする。どうなんすかね。まあ「そういう男と遊んでいるのは馬鹿な女だ」みたいなのはあるだろうけど、その男自体が非難されることはないような気がします。

超有力な哲学者のアンスコム先生は1972年ごろに “Contraception and Chastity”って論文書いてて、これでやりまくる人々を非難してるんですよね。「そういう行為は人間を軽薄にします」みたいな。(ちなみに与謝野晶子先生も「貞操に就いて」って文章で「貞操ってのは大事なものです」みたいな話をしてますね。)アンスコム先生がそう考えるのは、あんまりやりまくってるとミーニングフルな愛情関係が結べなくなりますよ、と。Halwani先生は「いや、それは見境なくやりまくってたらそうかもしれないけど、カジュアルにやるのがそうだとは言えないだろう」みたいな反論してます。ハルワニ先生はバスハウスとかでその場で知りあった人とするセックスにもけっこう価値があると思ってるみたいです。詳しくは知らんけど。

あとおもしろいのが、ここらでアルバート・エリス先生が出てくる。あの認知療法の「ABC」技法で有名な人。この人は60年代から70年代にかけてセックスについてけっこういろんなもの書いてるですよね。つまらない罪悪感とかで鬱になんかなってないでばんばん楽しいセックスしましょう、みたいな人。んで、エリス先生は、「性的なアドベンチャーはパーソナリティーを向上させるのじゃぞ!」みたいなことを射ってるらしい。性的に冒険すると、自己をよく知り受容すること、他の人々に寛容になること、柔軟になること、曖昧さに耐える力をはぐくむこととかそういう御利益があります。なんか大江健三郎先生の小説みたいっすね。実際なんか影響があるんだと思う。まあ冒険しておけばよかったなあ、みたいな気もしてくるものです。

それにまあ教科書的には、ここらで、たしかに親密な愛情関係はたいていの人にとって一対一とかの愛情関係は重要だろうけど、それはなによりも重要なのか、必ず必要なのか、みたいな話が出てくる。ハルワニ先生のもプリモラッツ先生のもソーブル先生のもそうなる。まあそりゃそうなんだろうけどねえ。こういう議論読むと哲学者ってつまらんなとか思っちゃいますね。男性の哲学者がこういう議論する傾向がありますね。スタインボック先生とかヌスバウム先生とか女性哲学者はやっぱり「愛情とコミットを含んだパーソナルな関係が大事なの!」みたいに力説するわけで、ここらへん性差感じます。

んで、こういう議論の本論はやっぱりモノ化ってことになるわけですわ。カジュアルセックスは基本的には(自分の)快楽のためにおこなうわけなんで、快楽のために他人を道具や手段としてあつかうのはどうか、みたいな話になる。まあこれは「性的モノ化」の議論になるわけで、カジュアルセックスそのものの問題とは言えない気がします。

あと倫理的じゃない問題として、カジュアルセックスは楽しいのか、みたいな。これは心理学的にも哲学的にもおもしろい課題かもしれないですね。(カジュアル)セックスの予感はほとんど常に楽しいけど、カジュアルセッスそのものは期待ほどよくありません、みたいな。ははは。

でもフロイト先生はなんか愛情ある関係ではセックスはうまくいきません、特に男性は配偶者より行きずりの相手の方が満足する傾向があります、みたいなことを言ってるらしいですね。まあフロイト先生らしい洞察な気がします。またフェミニストの人に怒られますよ。とりあえず確認してみよう。

まあこういうのも私は進化心理学やら社会心理学やら社会学やらの知見入れて議論したいと思いますねえ。どうも読んでて議論がつまらん。哲学者たちのよりフロイト先生やエリス先生の方がおもしろいと思っちゃう。こういうの読んでるより『江古田ちゃん』とか『アラサーちゃん』とか読んでる方が勉強なるんちゃうか、みたいなことも思ったり。

まあここらへんそんなおもしろくならない、っていうか私自身があんまりおもしろいとは思ってないわけですが、なんかチマチマ書いてるうちにおもしろくなってくるのではないかと思ってメモ。

あんまりカジュアルセックスしてる人(男性)はちょっと脆弱な女性のなんか搾取してることもけっこうあるんちゃうか、とか、女性にとってやっぱりあんまり性的に活発なのは(それが大丈夫な人は別として)自傷傾向のひとつなんちゃうか、みたいな感じはないわけではないけど、まあそれも余計なお節介かもしれないんで、簡単にそういう判断しちゃうのは避けたいですね。あとまあ性的にそれほど活発でない女性からすると活発な女性は邪魔者というかそういう側面はあるんちゃうか、みたいなことも考えます。でもこれもあんまり倫理学や哲学の領域ではない気がする。

まあここらへんの不倫やらヤリマンやらのセックスまわりの問題は20世紀前半までは神学や倫理学の問題だったけど、フロイト先生たちの努力で精神医学やセラピーとかの問題になった、っていう知見を得たような。「どうやって我慢しますか」みたいな問題から「まあとにかく夫婦で楽しいセックスしましょう」みたいなのに問題が移っていったんだわね。道徳の問題から病理の問題へ、みたいな。ヴァンデヴェルデの『完全なる結婚』とか。フーコー先生は怒るかもしれないけど、まあそれ自体は悪いことじゃない気がする。

あとあれですな。セックスと愛情を結びつけたい、結びつくのが当然だ、結びついてないのは不正だ、みたいな女性ライターたちと、いやそういうもんではないだろう、みたいな男性ライターたちの態度の違いがはっきりしていて、こういうのからするともう男女の間のセックスの見方ってのはほんきでぜんぜん違うもんかもしれないと思わせますね。まあ誰でもわかっていることなんだろうけど。

さらにあれですな。どうもここらへんの議論は「〜は不正ですか」「許されますか」みたいな話ばっかりになっちゃってあれなんだよな。哲学とか倫理学とかって非難や禁止とその理由ばっかり考えてればいいもんではないだろうという気はするです。よい人生においてよいセックスはどんなセックスですか、みたいな話が読みたい。意外に「ある程度非難されたり馬鹿にされたりしても、いろんな人とセックスした方が人生豊かになるんちゃうか」みたいな話はあるんではないかな。そういうんでエリス先生の論文は読んでみたいので注文しますた。

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