月別アーカイブ: 2006年11月

『情況』を買ってみた。

ちょっと前に大庭健先生の名前を出したばっかりなのだが、おもしろいという評判なので(http://d.hatena.ne.jp/haecceitas/20061122)『情況』11/12月号を買う。(この雑誌はじめて買ったかな)『状況』だと思ってたけけど違うのね。無知はいやだなあ。

p.51 の特集扉が「諸論理のポリティクス」になっていて驚く。雑誌表紙と目次と次のページでは「諸倫理のポリティクス」なのでそっちが正しいのだろう。すげー。

特におもしろいという大庭・伊吹対談と中島論文を読む。おもしろいかな。

生命倫理学というのはよく知らないのだが、p.54で大庭先生と伊吹先生は脳死の問題からはじまったと言ってるが、中島先生は、p.66で大戦中のナチスの人体実験の問題からはじまったと言ってる。どっちが正しいのだろうか。どちらかと言えば中島先生かな。哲学をまともに勉強した者がその手の問題を扱いはじめたのは一時期はやった「情況倫理」あたりかからだと思っていた。よく知らないけど、脳死じゃなくて植物状態の治療停止や新生児の治療停止とかそこらへんじゃないのか。バイオエシクスとかも本職の哲学者というよりは医療よりの人びとがはじめたと理解しているが、ここらへん記憶がさだかでなく、本ひっぱり出さないと不明。

それにしてもこの二本の記事はよくわからない。そもそも生命倫理とかってのが国内でそんなに流行っているのも知らなかった。

対談にしても中島論文にしても、生命倫理学とか生命倫理学者ってのが誰のことがよくわからんよな。「脳死を認めて臓器移植をもっと推進しましょ」「12週以内の中絶は自由にしましょ」「22週以降でも「医学的」適応があれば中絶許容しましょう」とか言ってる論者ってのはかなり少ないと思うし。正直ほとんどそういう文献は見たことない。

というか、そもそも「生命倫理学者」なんて人(特に哲学を背景にした研究者)が国内に実際に存在しているのかどうか。いてもかなり希少だと思う。生命倫理の論文はたしかに多いように見えるけど、その多くは法学者や社会学者や政治学者だし。私が「生命倫理学者」という呼び名にぴったりだと思うのは森岡正博先生と立岩真也先生ぐらいしかいないのだが、どちららも脳死や安楽死や(選択的)中絶にはかなり慎重な立場なんではないかと思う。松原洋子先生や玉井真理子先生、斎藤有紀子先生、柘植あづみ先生、金森修先生あたりも非常に影響力のある人びとだと思うけど、これらの人は「生命倫理学者」とは呼びにくいと思う。やっぱり加藤尚武先生なんだろうが、あまりにもいろんなことやってて生命倫理学者とは言いにくいんじゃないか。「哲学者」だよな。米本昌平先生や広井良典先生も「生命倫理学者」ではなかろう(すぐに名前があがらなかった先生はごめんなさい)。国内での生命倫理とか生命倫理学ってのは雑多な領域の人びとの学際交流の場で、一番偉いのは法学者で次が社会学者で、哲学やってる人間はうしろからついて行く感じなのではないか。(現場や大学の医者の地位が意外に低いように見えるのが興味深いところ)

まあいつものようにコメント。

(大庭先生)[生命倫理の問題は]政治問題であるかぎり、生物学者は生物学者で、脳科学者は脳科学者で、法律家は法律家で、それぞれ分かるかぎりのことは出し合って、あとは市民が決めることがらなのです。(pp.54-5)

まあそうなんだと思うけど、脳死やらなんやらは、少なくとも多数決で決めることがらではないという意見もあるんじゃないのかな。倫理学者なるものがいるとして、そういうひとがなんか「決める」こともできないっしょ。なんか言うしかできないだろう。まあ政府の委員会かなんかに食い込んで力をつければ別かもしれないけど、そういう人いるのかな。梅原先生は失敗したしな。そもそも政治的問題は市民が決めることかどうかも哲学者なら議論したいところ。中島先生ならもちろん突っ込むだろう。だいたい、生や死の問題について、大多数の市民が「これこれの人は死人ということで」と合意すりゃ死んだことになるわけでもあるまいと思うのだが。

(臓器移植を推進しようという動きについて)

(大庭)独立法人化あたりからはっきりしているのは、役に立たない人文系を切り捨てて、いわゆるアクチュアルな、「社会的なニーズ」に答える学問へと再編成するという至上命令が出てきた。では「社会的なニーズ」とは何かというと、・・・新鮮で若い生きた臓器がほしいという移植医のニーズであり、・・・

まあ、この文脈で、重要かもしれない「患者のニーズ」をあえて無視するのはプロパガンダと呼ばれてもしょうがないんではないか。

(大庭)生命倫理学にすでに乗ってしまっている人は、脳死は死であり、したがって臓器移植は問題ではない、今問題なのはドナーの数が少ないことであり、どうやって新鮮な臓器を欲しがっている人に公平に分配するかであると言っています。

これは特定の個人なんだろうか?それとも国内の生命倫理学者の主流なんだろうか。なんか特定の個人のような気がするが、気のせいだろうか。特定の個人なら同定できそうな気もするのだが、それならそんなはっきりした見解をもっているなら貴重な生命倫理学者だろうから名前出してあげたらいいのに。名前をあげるまでもないということなのか、わざと名前を出さずに大勢いるように見せるプロパガンダなのか。

中島先生の方。

生命倫理学は「死」をめぐって活発な議論を展開するが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」という問いには立ち入らない p.62

「〈生きる〉とはいかなることか」という問いは見事に欠落している。p.62

そうなのか。国内の脳死や障害に関する議論とか見てるとそういうのばっかりだと
思ってたんだが。加藤尚武先生の本にそういうのがないってことかな。

すべての議論は「ひとの生命には価値がある」という大枠の内で進んでいる。p.64

それはよいことだと思うんだが。でも国内で議論されているのは、ある種の生命倫理学者(たとえばピーター・シンガー)とかは「ある種の生命には価値がないかもしれない」と主張している(本当かどうか知らんが)のをどうするか、ってことのような気がするんだが。

中島先生のは他にもいろいろあるんだが(エンゲルハートのとことか)、まあそのうち考えよう。しかしまあ、中島先生がやっている議論そのものが国内の哲学系「生命倫理学」の主流のやり方のように見えるし、もう中島先生は「生命倫理学者」を名乗る資格が十分あるんじゃないかな。

なにかを批判するためだけに勉強しちゃう、ってのが哲学っていう学問の特殊性なんではないかと思う。昔っから、哲学を批判する活動がまさに哲学の核の部分にあて、それでいけば生命倫理学を批判するひとはすでに生命倫理学者なんじゃないのか。っていうか哲学者がこの手の話に参加するんだったら、求められている一部はそういうものに見える。わからんけど。哲学者が「生」や「死」の専門家であるわけでもあるまい。おそらく哲学(史)の標準的な教科書(あるかどうか知らないけど)にはそういう問題はあんまり取りあげられていないような気がする。それに、もっぱらそういうのを扱うのを生業にしている文学者やほとんどそればっかりの宗教者とかもいるぞ。

もちろん、「そういうを考えるのこそがまさに哲学で、そういうのをまじめに考えはじめると誰でも哲学者になるのじゃ」という立場はあるだろうけど、そりゃ「生命倫理学」と哲学者・倫理学者の関係とか言うとき、あるいは生命倫理学の裏にあるポリティクスだのなんだのってのを考えるときの哲学者・倫理学者の意味じゃないよね。そういう広い意味でならほとんどの誰もが哲学者になっちゃうわけだから。*1

それにしても、大庭先生も伊吹先生も中島先生も、誰だかわからん人に「生命倫理学者」とかってレッテル貼って不十分な知識で批判して得意になるんじゃくて、自分でやってみりゃよいのではないかと思う。でないと少なくとも私は哲学者である資格を放棄していることになるじゃないんじゃないかと思う。まあこれらの記事は先生たちの哲学的活動の一部ではなく、ただの漫談や印象エッセイにすぎないというなら話は別だが。

それはそうと、いま標準的な生命倫理学のテキストって何なのかな。

あ、上の二本の記事より、むしろ、浜野喬志先生の「エコテロリズム:アメリカ環境運動の現状と歴史的系譜」は知らない情報が多くておもしろくて収穫だった。ただし、『情況』という雑誌からして市民的不服従としてそんな悪くないぞという主旨かと思ったのだが、そういうわけでもないのか微妙な論旨。

エコテロリズムはヘンリー・ディヴィッド・ソロー以来の「市民的不服従」の伝統に属している。・・・しかし他方で彼らの活動は、その暴力性において、この市民的不服従の伝統を踏み越えているようにも見える。にもかかわらず、そもそも市民的不服従という概念自体が、常に歴史的には、暴力への逸脱、という傾向との、絶えざる緊張関係にあったと言えまいか。 (p.151)

論文は最後にスティーブ・ベストという人が言ったという言葉で締め括られている。

財産破壊と市民的不服従はアメリカの伝統の一部なのだ…

なのだそうだ。この引用で終わっちゃうのはかっこつけすぎか腰が引けているかのどっちかなんではないのか。まあ市民的不服従のグループから時々暴力的集団が出ちゃうの
はほとんど歴史的必然のようだなあ。浜野先生がそういう暴力についてどういう規範的判断しているのか知りたいのだが。『情況』だし書いてもいいやんね。

*1:うーん、中島先生が自分を特権的に「哲学者」と考えるときの意味はなんなんだろう。哲学することを職業にするという意味ではないよな。生と死について高度に考えて知見を得ている人ってのなら、職業的哲学者(というか哲学研究者・教員)のほとんどは哲学者じゃなくなってしまう。私は哲学者・倫理学者ってのは「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人ぐらいの意味に考えてるようだ。よくわからん。

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レスポンシビリティ

英語の「責任」に当たる言葉、responsibilityという言葉は、だれだれに答える、応答する、respond toという動詞表現に関係していて、要するに応答できるということですね。他者からの呼びかけ、あるいは訴え、アピールがあったときに、それに応答する態勢にあることを意味すると考えられるのです。・・・英語のresponsibilityはもちろんフランス語のresponsabilité(レスポンサビリテ)から入ったもので、フランス語はもちろんラテン語から来ています。(高橋哲哉『戦後責任論』p.24)

印欧語では、「責任(リスポンシビリティ)」という語は、「応答(リスポンス)の能力・可能性(アビリティ)に由来する。・・・互いに「問いかけ・呼びかけうるし、応じうる」間柄を生きること、これが「責任がある/負う」ということの語幹である。(大庭健『責任ってなに?』p.16)

responsibilityの初出はJ. S. ミルの文章が最初だと聞いた記憶があるんだが、OEDがもってる情報では、1787年のFederalistでのハミルトンの文章みたい。(これはresponsibleである状態 the state or fact of being responsibleという意味での)”Responsibility in order to be reasonable must be limited to objects within the power of the responsible party”

次は1796のバークの文章があがってる。まあそういう文脈で使われる最近できた言葉だったわけね。
1796年には義務とか責務とかそういう意味でのresponsibilityが使われている。これもバーク。
もちろん”reponsible”の方はもっと古くて、「なにかに応答している」という意味では1599年。

「答えることができる」という意味では1647年。「誰かに対して答えられる」「説明するよう要求できる」という意味だと1647年。これは重要な意味で、誰に答えるかっていうと王様とか法廷。

“To hold this Popish erronious opinion, that they are in no case responsible to their Kingdoms or Parliaments for their grossest exorbitances.”

とか

“Being responsible to the King for what maight happen to us.”

かなり具体的に「申し開きをする」って感じだ。

「道徳的に自分の行動を説明することができる」って意味では1836年、上の意味からこの意味に来るまでずいぶん時間がかかったことがわかる。

また別の枝で、「義務を果たせる」という意味では1691。

あたりに初出があるらしい。高橋の「もちろんフランス語から来た」ってのはどっからの情報だろう?文字通りresponsibilitéの形ではいってきたと言いたいのか、あるいはresponsableの形ではいってきて-ityがついて名詞化したのか。ミルトンやバークはもちろんフランス語ぐらいできたろうが。ラルースもひいてみないとならんのだろうか。あ、少なくとも-ableや-ityの語尾がどうしてはいってきたかも知っておく必要があるな。これはもちろんおフランス語からだろうし。どれくらの時代にはいってきたんだろう?ほとんどの-ityがフランス語から来て、英語で新たに作った-ityはあんまりないとわかればそれでいいか。Verantwortung は responsibilityからの訳語のような気がする(だから19世紀のものかも)が、知らべなきゃだめかな。世の中には知らんことが多いな。

大庭先生が「印欧語」ととてつもなく大きく出たのもなにか根拠があるんだろうか。印欧祖語(PIE)にresponsibilityに当る言葉があるとかかなあ。こんな複雑な概念がPIEにあるとは思えんのだが。

まあ概念の姓名判断ってのはどの程度信用になるかわからんよな。なんでも姓名判断するとこからはじめてる、ってにに、プラトンからハイデガーを通ってレヴィナスやヨナスに至り、さらに高橋先生や大庭先生にまで届いているヨーロッパ哲学の長い長い歴史を感じて悪くないですけどね。

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