第12章第2節
- 権利とそれに対応する他人の義務のところ(p.270)。妨害されない権利と助力される権利。(あるいは他人から見ると妨害しない義務と助力する義務)。ホーフェルドだったらもうひとつぐらいあるって言うはず。まあOK。
生存は爾余の権利が成り立つための先行条件である。それでは、生存への権利は、生存に必要な財を供給する義務を他者に課すほど強い権利だろうか。しかしながら実際には、不当に殺されない権利にとどまるほかあるまい。なぜなら、資源は有限だからである。(p.270)
- うーん?なぜだろう?そう言えるかな。資源が有限で、完全に全員に行きわたらないとしても、必ずしも「不当に殺されない」しか要求できないわけではないだろう。もちろん「無制限になにがなんでも財を配分される権利」を認めるのは難しいだろうけど、「できるかぎり財を配分される権利」ぐらいでもよいはず。「最低限文化的な生活を送ることができるよう援助される権利」とか重要そう。
(上の続き)第4章に言及した医療資源の配分はまさに資源の有限性を前提として成り立つ問題だった。延命に必要な資源を供給する義務を解除するには、正義の倫理の内部で語る限り、人間の一部を人格、すなわち生存への権利の保有者から外すことになるだろう。ここに、「できない」が「しなくてもよい」に変換される。
- あれ、なんかおかしいぞ。上の「生存の権利」はどんな権利なのかな。ここで「人格」が(おそらく定義上)もっているとされる権利は「不当に殺されない権利」か?文脈からすると「生存に必要な財を配分される権利」に見えるけどなあ。なんか変。でもまあ言いたいことはわかる。
だが、それが事態の適切な表現だろうか。権利と正義の語り口で語ることは、生きるためのニーズを保証するのに強い武器を提供するとともに、反面、その正義が現実に遂行されえないときには、今述べたような論理に通じてしまう。そこに問題が残る。
- うーん、この手の議論はよく見かけるんだけど、どうなんだろうなあ。「Aを認めるとBという結果になる。しかしBはいかん。したがってAは認められない。」まあ反照的均衡をやろうとしているわけだな。こういう論法はやっぱりある程度は重要。ただこれの場合、「Bはいかん」という判断の正当性をどうやって保証するか。「Bは不正だ」とかって直観を共有しない人を説得しようとするときにどうしたらいいか。
正義の倫理のなかでは、慈悲や思いやりは不完全義務としていずれにしても副次的なものとして位置づけられる。これにたいして、責任原理やケアの倫理はいっそう根底的な観念として責任とケアを打ち出したのである。
- ここもうーん。ぱっと見て「不完全義務」ってのに目をとられて、 「責任」や「ケア」が完全義務に対応するものだと読んでしまったが、どうも違う。「根底的な観念」であるってのはどういうことなんだろうな。理論的な基礎ってことかな?それだったら問題ない。けっきょく道徳ってのは拡張された慈愛だろうと思うんだがな。ミルやシンガーも認めてくれそうだ。
- 第3節。ホネットとかデリダとかわからん。特にデリダは難しくて私は何言ってるのかほとんど理解できないので、そういう解釈ができることを示してもらいたいのだが。とりあえず「もっと、友愛的、共感的、慈善的にいきましょう」なのかな。もちろんそうありたい。そうあってほしい。ところが違うみたい。
ホネットはケアを慈愛や親切等と同視している。それらは正義のように必ず要請されるわけではない。不完全義務にとどまる。そう考えるかぎり、倫理の基礎は正義かケアかという論争は重大な選択を迫られる問題とはなりえない。しかも、ケアする誰かがいるというのことは、ホネットにとって所与の事実なのだろう。非対称的責任は万人には要請できないとしつつ、子育てにおけるその意義を語るくだりには、誰もケアする者がいなくなるというような危機感はみられない。それゆえ、ケアが存在しないときに人間関係や人間の共同体がどうなるかといった問いに深く立ち入らないのである。(p.276)
- ううむ。ケアってもっと自然的な感情だと思っていたのだが、そうでもないのか。少なくともギリガンやノディングスではそうだと思ってた。
- 慈愛や善意とケアが違うのは、ケアは特定の(近しい/見知った)個人に対する排他的なものだってことなんだろうな。あ、排他的って書くと叱られるな。ええと、偏愛的、も叱られそうだ。なんてんだろうな。やっぱりケア。
- ハバマス。それにしてもどうもここらへんの話は功利主義は近親者への愛情の重要さを認めない、とかってありふれた誤った批判に近いものを感じるなあ。でも「連帯」とかいいよね。「連帯は相互主観的に共有された生活形式において親しく結びついた同朋の幸福に関わる」とか。よござんす。
- あ、ムーミンだ。ムーミンすてき。ムーミンも最強の哲学マンガの一つだよな。(マンガじゃなない)
- あれ、最後まで読んできたけどやっぱり「基礎づけ」ってどんなものかわからなかったな。
第6章
- もどる。ヨナスはやっぱりわからんのだが。
クローニングによって生まれた人間は、自分と遺伝的性質が同じ既存の人間、細胞核の提供者、つまりクローンのオリジナルの人生に関する情報を知るはめとなるだろうし、他の人間のなかにもクローニングが行なわれた意図と敬意を知っている人間がいるということも意識せざるをえない。そのために、導き手のない労苦を生き抜く「自発性」は力を失なう(これにたいして、自然にできた一卵性クローンは同時代に生きているからその危険はない)。(p.123)
- なんでだろう。ヨナス先生が馬鹿げた遺伝子決定論かなんかを信じてんじゃないかな。人生の労苦も自発性もそんなことではなくならんよ。なんて貧しい生物理解、人生理解なんだ。そんなもんで決まるのはハゲぐらいだろう(それさえただの統計的傾向にすぎない)。こういうのは品川先生がちゃんとつっこんでほしいんだけどなあ。品川先生もこういう理解してるのかな。やだなあ。
- 「基礎づけ」の内実は第5節でわかりそう。「未来倫理の基礎づけ」を論じているという想定でのお話しだし。期待。
- 討議倫理学とかが「基礎づけ」の典型なんだな。手続き?「まともな話しあいで決まっことは正しくて強制力をもつ」とかそういう理解でいいのかな。
- でも「なんでまともな話しあいに参加するべきか」とか「なぜ話し合いの結果が強制力をもつか」とかは基礎づける必要はないのかな。
第2章に、ヨナスの責任原理の基礎づけの遂行論的基礎づけによる解釈を提案した。・・・人類は人類が存続すべきかという倫理的な問いに人類の消滅を是とする答えを出せば、倫理的な問いを問うという今まさにしている行為を自己否定してしまう矛盾を犯すことになる。それゆえ、自然のなかで責任を担いうる唯一の存在が人間である以上、責任が存在するようにすることがまず果たされるべき責任であり、「第一の命令」となるのである。(p.134)
- ありゃ、あの議論はすごく重要だったのね。 しかし私にはさっぱり説得力がないんだけどな。
- 責任原理は共感とか善意とか慈愛とかそういうのとはまったく異質です。(p.136)「良心」とはどうだろうか。
(ヨナスの引用)「世界規模の生態学的危機の高まりつつある圧迫にたいしてたんに物質的な生活水準のみならず民主主義的自由も犠牲にし、ついには救いのためには暴政をも招くような警告的予測をしたために、私は問題解決のための独裁を支持していると非難されてきた。(中略)私は、実際、そのような独裁は破滅よりもはるかにましであり、この二者択一のなかでは倫理的に是認されると述べた。この態度を私は存在の審級のまえで固持する。・・・(p.137、中略は品川)
- まあそりゃ破滅よりは暴政の方がましですね。わかります。まあ、大袈裟に言ってるだけだろう。っていうか、ヨナスの時代と今の時代はここらへんずいぶん違うのかも。アメリカ人がガソリンがんがん使うの見て腹たってたのかも。こういうのも今の我々からはちょっと見にくくなってますわね。 20世紀なかばのもの読むときは社会・歴史的背景にいろいろ注意しなきゃならないことが出てくるくらい遠くなった感じがするなあ*1。われわれは21世紀に生きてます。なんか社会的な工夫や規制いろいろした方がいいですよね。
- でも「このままじゃ破滅するから暴政するぞ!」とかって言い出すひとがもし本当にいたら、その破滅の予測なるものがどの程度正しそうかちゃんと考えてみたいとは思っています。どっちにしても人類があと何百万年も繁栄することは考えらんないので。地球も何億年も持たないだろうし。
- そういや三浦俊彦先生は人類あと何年ぐらい持ちそうだと予測してたかな。
第11章
- 第3節。どうもこの本のケアの部分を通して、フェミニズム内部でのケア倫理批判の調査がちょっと甘いんじゃないかと思っております。私の理解では、「ケア対正義論争」っていうのは主としてフェミニズム内部での戦いだったんじゃないかと思っているわけだが。平等か、差異か、ってやつ。だからコーネルを議論する前にマッキノンあたりをちゃんと紹介してほしいんだわな。
- マッキノンのギリガンあたりに対する態度は「仮借なき批判」というよりも、 なんか両義的な感じだと思う。Feminism Unmodifiedの”Deffence and Dominance”あたり。*2
- 私はコーネルはなんか節操*3なくて信用できないと思ってるんで、そこらもあれだ。
J. S. ミル先生
- 今回はキムリッカ先生とヘア先生をぶつけるだけで十分にも見えるんだけど、もうなにやるにしても一応ミル先生におうかがいを立てる、ってのが私のいつものスタイル。関係ありそうなとこ引用のために写経しておこう。
およそ道徳の基準とみなされるものに対しては、当然のことながら、しばしばこういう疑問が提出される — その強制力はなにか。それに服従する同期はなにか。もっとはっきりいえば、その義務の源泉はなにか。 どこからその拘束力を引きだすか。道徳哲学は、この疑問に対して必ずこたえを用意しなければならない。『功利主義論』第3章。(中公世界の名著の訳*4)
- この章は「快楽の質」が出てくる第2章や、功利の原理の「証明」*5が出てくる第4章なんかに比べて軽くあつかわれることが多いと思うんだけど、重要なんだよな。
- 品川先生は「基礎づけ」を正当化ではなくて、説明の文脈で行なってるように(も)見えるから、品川先生の意味での「基礎づけ」って点では、第4章よりむしろ重要に見える。
- 原文も用意っと。 http://www.utilitarianism.com/mill3.htm
功利の原理は、他の道徳体系のもつあらゆる強制力をもっている。また、もてない理由はどこにもない。これらの強制力は、外的なものと内的なものとに分かれる。外的強制力については、詳しく述べるまでもない。外的強制力とは、同胞や「宇宙の支配者」によく思われたいという希望であり、嫌われることを恐れる気持ちである。それはまた、われわれがいくらかでももっている同胞への共感と愛情であり、結果の利害打算を離れて神の意志を行なう気持ちにさせる、神への愛と畏敬の念である。
- あら、これ翻訳正確かな。「それはまた」の部分が気になる。
The principle of utility either has, or there is no reason why it might not have, all the sanctions which belong to any other system of morals. Those sanctions are either external or internal. Of the external sanctions it is not necessary to speak at any length. They are, the hope of favour and the fear of displeasure, from our fellow creatures or from the Ruler of the Universe, along with whatever we may have of sympathy or affection for them, or of love and awe of Him, inclining us to do his will independently of selfish consequences.
- ううん、まあこれでいいのか。 “sympathy or affection for them (oure fellow creatures)” はミルの分類では外的サンクションなんだな。てっきり、内的サンクション(あとの「心中の感情」)の方に入るんだと思ったた。やっぱり勉強は楽しい。
義務の内的強制力は、義務の基準がなんであろうと、ただ一つのもの—心中の感情である。つまり、義務に反したときに感じる強弱さまざまな苦痛である。そして、道徳的性質を正しく開発した人なら、事がらが重大になると苦痛が高まり、義務に反する行為をやめさせてしまう。
- ヨナスだったら「乳飲み子の呼び声が~」レヴィナスだったら「他者の顔が~」とか言いそうなとこだと思うんだが、そうじゃないんだろうか。
義務の観念がもつ拘束力は、一段の感情が存在することからきている。正義の基準を犯すためには、この感情群を突破しなければならない。にもかかわらず基準を犯せば、この感情群は、おそらくそのあとで良心の呵責という形で姿をあらわすに違いない。良心の本性や起源について何といおうと、この感情群こそ良心の本質を構成するものである。このように、すべての道徳の究極的な強制力は、われわれ自身の心中にある主観的な感情なのだから、功利を道徳の基準とする者は、功利主義の基準の強制力は何かという質問に頭を悩ますことはいっこうにないはずだ。こうこたえればよいのである—他のすべての道徳基準の強制力とおなじおの、つまり人類の良心から発する感情である、と。
- そんなもん感じません、ってひとについてはどうかっていうと、
もちろん、この強制力は、反応する感情をもたない人間には拘束力がない。しかし、そういう人間が、功利主義以外の道徳原理によくしたがうわけでもない。こんな人間には、外的強制力を加えないかぎり、どんな道徳も効果がないのである。
- ふむ。正直でよろしい。
- こういう「良心」はカントが言うように先験的なものじゃなくて教育とかの結果だとミル先生は考えるんだな。でも「そのためにこの感情が自然さを失うわけではない。しゃべったり、理屈を言ったり、都市を建設したり、土地を耕したりするのは後天的能力だが、人間にとってはどれも自然なことである。」と。
強力な自然的心情という基礎は存在する。この基礎は、いったん全体の幸福が倫理の基準と認められれば、功利主義道徳の強味となる。この確固たる根底とは、人類の社会的感情の根底をいう。つまり、同胞と一体化したいという欲求である。この欲求は、すでに人間本性の力強い原理であるうえに、幸いなことには、わざわざ教えこまなくても、文明が進むにつれて次第に強くなる傾向をもつものの一つである。
- いいねえ。
But there is this basis of powerful natural sentiment; and this it is which, when once the general happiness is recognised as the ethical standard, will constitute the strength of the utilitarian morality. This firm foundation is that of the social feelings of mankind; the desire to be in unity with our fellow creatures, which is already a powerful principle in human nature, and happily one of those which tend to become stronger, even without express inculcation, from the influences of advancing civilisation. The social state is at once so natural, so necessary, and so habitual to man, that, except in some unusual circumstances or by an effort of voluntary abstraction, he never conceives himself otherwise than as a member of a body; and this association is riveted more and more, as mankind are further removed from the state of savage independence. Any condition, therefore, which is essential to a state of society, becomes more and more an inseparable part of every person’s conception of the state of things which he is born into, and which is the destiny of a human being.
- まあミル先生の道徳心理学だなわ。この章は思っていたより複雑で問題が多いところかもしれんな。もう少し考えよう。なんか参考書必要だな。
- もちろん功利主義(功利の原理)そのものを正当化するのは他の理論くらい難しいわけだけど、功利主義だって十分責任やらケアやらって感情が、道徳というわれわれの営みのなかで果す役割をしっかり説明することができるぞ、っと。さらにそういう感情をもつことを正当化することさえできる。(これはケアの倫理や責任原理の立場よりシンプルにやれそう。いやまあケア倫理とはイーブンぐらいか。)
政治の文脈
- ケア倫理で気になるのは、ここらへんの議論が主として政治学があつかう議論のような気がするとこだよな。キムリッカもオーキンも政治学者だし。いや、何学者でもいいんだけど。
- 一つ国内の文献でちゃんと書いてくれてるのが少なくて不満なのが、ロールズの「正義」やら「リベラリズム」ってのが、米国内ではいちおう「左翼」なんだってことだよね。あれでもあの所有権を保障するために作られた国ではかなり左なのだ。「アカ」があんまりいないからだよね。
- 実はこれちゃんと書いてくれてる文献はほんとにあんまり見なくて、最近やっと盛山和夫先生の『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』でみかけて安心した。
- 米国の法学とかではやっぱりロック流の自然法論みたいなんが強いんじゃないのかな。よくわらかんけど。そういうのに対抗したのがロールズなわけでなあ。
- 法実証主義や功利主義の伝統はもちろんあるけど、イギリスに比べるとずっと弱いわねえ。
- ロールズがやろうとしたのは、せいぜい契約説の枠組をつかって実質的に功利主義(政治的には社会民主主義?)に近い結論を出そうってことだったと私自身は理解してる。とんでもなくまちがってるかもしれないけど。
- たしかに(国際)政治学者でケアとか言ってる人びとはロールズでも足らん、もっと左いこうぜ、第三世界の人にもケアしなきゃ、って論調が多いんじゃないかと思う。
- しかし一方で、ノディングス先生みたいなひとはわたしにはかなり保守的、右派に見える。やっぱりまず自分の子どもとかケアするためには私的所有とかしっかりしている必要があるからね。ロック流の自然権を信奉している人びとこそ、「われわれの子どもたちを守れ!」って叫んでいるような気がするんだが、気のせいだろうか。ここには緊張関係があるはずだ。
- だいたい、他人や他のグループと敵対することになるのは、自分の利益を追求するためってよりは、自分のまわりの人間をケアしてるためって方が人間の真実に近いような気がするわけだしね。戦争中の兵隊さんなんかが典型じゃん。彼らの多くは(少なくとも主観的には)自分が死んでも自分の家族とか守ろうとしているわけだと思う。 仮面ライダー龍騎とかもそういう方でした。
- ここらへんオーキンとか読んでないからそういう緊張関係がよくわかんないところがあるけど、まあそこらへん品川先生はどう考えてるのかなあ。ギリガンやノディングスが「ケアの対象は万人に開かれてる」のようなことを言うけど、どうもリップサービスに見えるんだわな。これは私の性格が歪んでるからかもしれん。
- 正義がなんのために必要かとなれば、そりゃ周りの人のケアのためだろう。一方、ケアが正義のために必要だってのはたしかになんかおかしい感じはするね。
- これが品川先生の「基礎づけ」とか「優先」とかの意味なのかな。まだわかってない。
ヘア先生のケア倫理短評
ギリガンとコールバーグについてはヘア先生直接に書いてるのがあったな、とかで探しみた。”Methods of Bioethics”だね。該当箇所を超訳。
「ケアの倫理」を提唱する人びとによっても感情は強調されており、ほかに重要なものを排除してしまうほどである。このグループにはギリガンとノディングス、そしてもっと哲学的な人としてローレンス・ブルームなどが入れられる。ブルームは最近ギリガンをはっきり支持している本を書いている。ブルームの議論を細かく議論する余地はないが、彼の敵役の選択は残念なものであるといわざるをえない。ギリガンもコールバーグも、アイディアは重要なのだが、あまりクリアに考える人ではない。私はギリガンと面識はないが、コールバーグはよくしっており、彼からは多くのものを学んだ。しかし、コールバーグは自分の発達段階の理論をはっきり説明するだけの分析的能力をもっていなかった。特に、彼は、私が先に述べた普遍性と一般性の間の重要な区別をしそこねている。その結果、彼はひじょうに一般的なルールにもとづく道徳をもつ人がより高い段階にいると考え、また、われわれが特定の人びとにたちして持つべき特別な関係(特にケア)を無視したとしてギリガンから非難されることになったが、それも故なきことではない。しかし、道徳判断が普遍化可能だからといって、われわれがケア関係をもっている個別のひととの特別なかかわりにもとづいて、自分の行動をガイドするということができないというわけではないのである。私はこんなこともうまく扱えないような人といっしょに最高の道徳的発達段階にいることにはされたくない。(“Methods of Bioethics: Some Defective Proposals” in Objective Prescriptions)
なんかひどい文章だな。こういうこと余計なこと書いて人を怒らすからヘア先生はみんなから嫌われて、いま誰も読まなくなってんじゃないのか。あ、ここ本論じゃなかった。
ケアリングの提唱者の欠点は、彼女らが強調する美徳が実は美徳ではないということではない。誰だって、ケアリングや友情が・・・道徳的によい生活において重要なものだということに同意することができる。ヘルガ・クーゼは重要な論文のなかで、「ケアリング」の概念が不可解なほど曖昧であることを指摘している。提唱者たちの誰もこの概念を明確にしてくれない。またクーゼは、このケアリングという概念は、(もしそれが明確になったとしても)、われわれが実際に困難な選択に直面した場合にほとんどなにもガイドを与えてくれないことを指摘している。その後彼女は『ケアリング』という重要かつ啓発的な本を書いたので、医師や看護師におすすめしたい。とにかく、ケア倫理の提唱者たちの一番の難点は、彼らが攻撃している見解を完全に不公平で不細工なカリカチュアにしてしまっていることである。彼らが書いたものからは、あたかもこれまで哲学者は誰もケアについて語ってこなかったかのような印象を受けるだろう。
最後のとこはそうだねえ。
ギリガンは、ケアに注意が払われなかったのは哲学的思考における男性支配のあらわれであると考えている。ピーター・シンガーはジェンダーと哲学へのアプローチの間の関係について有益な議論を新しい本(『わたしたちはどう生きるか』だな)で行なっている。シンガーはたしかに、つい最近までの有名哲学者のほとんどが男性であったことは認める。しかし、彼らがケアリングや友情を無視しているというのはまったく正しくない。アンソニー・プライスの『プラトンとアリストテレスにおける愛と友情』やそれが言及しているテキストを読んでみれ。特に『ニコマコス倫理学』の1168a-69bは重要だ。そのあとで、ヒュームが共感についてどう言ってるか調べてみれ。カントだって、他人の目的を自分自身の目的であるかのように扱えって言ってるぞ。(カントの引用)これがケアでなかったら、いったいなにがケアなのかわしにはさっぱりわからんよ。
カントの引用はあとで探す。Grundlegungすぐに出てこないけど、BA69-430。おそらく「「各自が他人の目的をも、できるかぎり、促進しようと努めなければ」人間性を目的それ自体として扱っていることにはならない」だと思う(中公のp.276)。
私はあとでケアリングをカント的な枠組のなかに納めるのはとてもやさしいと議論するつもりだ。それに、注意ぶかく定式化したカント主義と注意ぶかく定式化した功利主義は矛盾せんとも主張するつもりじゃ。そういう枠組のなかで、ケアする人は必要とし求めるケアを十分行なえるのじゃ。やってはならんのは、ケアリングが道徳性の全体であると考えてることじゃ。ブルームはの点についてはとてもフェアじゃった。彼はたんにバランスを直そうとしただけじゃからして。しかし、ブルームがやりすぎたんじゃないかっていうことは考えてみてもよいじゃろ。
こういうことは、ケアする人が公平さimpartialityについてどう言うだろうかってことを考えてみればはっきりするじゃろ。道徳的生活のなかでのケア関係の重要さを強調したいと思い、一方でそういう関係を誰とでも持てるわけじゃないというあたりまえの事実を見ると、ケア主義者たちは道徳のもうひとつの重要な側面、つまり正義と共通善の公平な追求、という側面を無視しがちになってしまう。自分の子どもをすごくケアしておる医者が、希少な薬品を自分の子どもたちのためにとっておいたとしたらどうじゃ?こういう問いにはあとで答える。まあ、全体としての道徳のバランスよい説明を手に入れてしまえば、答えるのはそんな難しくないぞ。
は。なにやってんだ。ヘア先生は偉いけど、こんな文章40分もかけて訳すのは無駄。
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*1:何度も書くけど、「正義論」まわりや20世紀の倫理学そのものについても我々に見えにくくなっていることがあると思ってる。
*2:翻訳は 『フェミニズムと表現の自由』 か。「無修正フェミニズム」「フェミニズム一本道」「フェミニズムすっぽんぽん」とかの方がかっこいいと思うのだが。
*3:カント、ラカン、デリダとなんか大物を自分勝手に解釈して利用している感じがある。法学の人びとはそういう「テツガクシャ」をよく知らんからなんかそういうもんだと信じちゃってるところがある。ジュディス・バトラーよりはましかもしれないけえど、そういう狭間産業で生きる人で、マッキノンほど評価されていないはず。おそらく米本国では、法学の人はコーネルを哲学者だと思ってるし、哲学の人はコーネルを法学者か文学理論家だと思ってると思う。
*4:中公さん、手に入りやすくしてくださいよー。
*5:自然主義的誤謬やら合成の虚偽やらであまりにも馬鹿げているといわれるわけだが。
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