月別アーカイブ: 2015年12月

マルクス先生たちが女性を共有するそうです

近代西欧的な一夫一婦制の婚姻制度っていうのはいろいろ問題があることは19世紀にはみんなわかっているわけです。たとえばマルクス先生たちの『共産党宣言』にはこんなところがある。

家族の廃止!もっとも急進的な人々さえ、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては、激怒する。現在の家族、ブルジョア的家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強いられている。ブルジョアの家族は、この補足物がなくなるとともに当然なくなる。そして両者は資本の消滅とともに消滅する。

共産主義者よ、君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう、と全ブルジョア階級は、声をあわせて我々に向かって叫ぶ。ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。ここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位だ、ということにはブルジョアは思いもおよばない。

何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐ我がブルジョワ道徳家ぶりほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有を新たにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。わがブルジョワは、かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。

ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有のかわりに、公認の公然たる婦人の共有をとりいれようとする、とでもいったらよかろう。いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。

マルクスとか共産主義とかまったく勉強してないけど、ちょっとだけ素人解説してみる。18世紀から19世紀にかけてブルジョワ的家族、一夫一婦で永続的な関係をむすんで、子供つくって二人でちゃんと育てて教育を与えて財産つがせる、っていうのが完成するわけです。ある見方によれば、これが資本主義に見られるエゴイズムの源そのものである。けっきょくのところ、我々がお金ほしいのは結婚して子供を育てるためだ、と。「すべてはモテるためである」みたいですね。

封建制の農村社会では、別に教育なんかなくたって畑仕事はできるし、逆に言うとどんな勉強したってたいしてお金にならない。教育いりません。でも商業や工業が発展して、技術や知識、商売上の才覚なんかによって大金を稼ぐことができるようになると、ちゃんと教育受けてる人はものすごく有利になる。子供が幸せになるために、ぜひいろんな投資をしたい。それによい食事を与えて健康な体を作り、よい服を着せたい。教育みたいなのは実は部分的には地位財、つまり他の子供との差によって意味をなす価値でもある。みんなが公立学校に通って同じ教育を受けているときに、自分の子供だけ学習塾に通わせることができれば、よりよい大学に進学しやすい、とかそういうことですわね。

そういうわけで人間は子供を持つと特にお金が欲しくなる。前に紹介したラッセル先生の文章でも、「思うに、大半の人は、自分は子供ができてからは前よりはるかに欲深くなった、と証言できるのではないか」(『結婚論』pp.178-179)という観察が出てくる。子供のために他の人より多く欲しい。

んで、資本主義の近代市民社会で競争すると、もちろん勝ち組と負け組ができちゃう。稼ぐにはリスクとって競争しないとならんし、悪い目が出たら失敗。その結果、財産もってて人を雇って使うブルジョワ vs なにも持ってなくて人に雇われてこきつかわれるプロレタリアート、っていう形になる。もちろんプロレタリアートは不幸。そっちは財産ないからちゃんと結婚もできない。そもそも金のない男はもてないわよね。金のないのは首のないのと同じ。相手を見つけても子供育てられない。

プラトン先生の『国家』以来、みんながいっしょに働いて財産を共有するのが理想の社会です、みたいな共産主義的な考え方があるわけですが、これうまくいかないのは人間が利己的で自分の子供のための財産を作りたいからですわね。平等で平和な社会のためには格差をなくさなきゃならないけど、妻や子供がいると競争になるし、負けた方はさぼっちゃう。なんで他人の子供を育てるためにあくせく働かなきゃなんないんだ。どうせ金もってかれるんなら、俺は適当にサボるよ。

そこでプラトン以来、そういう社会では一夫一婦、一人の男に一人の女、なんて婚姻制度は破棄されないとならんことになる。妻と子供を共有しましょう。みんなが平等にセックスできる社会を作ればいいのです!子供は誰の子かわからない状態で生んで、みんなで育てればいいのです!

実際、19世紀にはアメリカあたりでこういう共産主義コミュニティーを作ろうっていう実験がおこなわれたんですね。
オナイダ・コミュニティー実験とかが有名。倉塚平先生の『ユートピアと性』っていうのがものすごくおもしろいので読んでほしい。これは主にキリスト教を背景にした共同体の実験なんだけど。

とりあえず共産主義社会を実現するためには従来の家族制度を破壊する必要がある、っていうのは19世紀の人々の共通理解だったぽいわね。だから、マルクス先生たちみたいに「共産主義社会を実現するぞ!」みたいなのに対しては、「おまえら大事な大事な家族制度を壊すつもりだな」みたいな罵詈雑言が飛んでくる。アカめ。

さっきのはこういうのに対する反論の部分ね。

「現在の家族、ブルジョア的家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強いられる。」

マルクス先生に言わせれば、実は「尊敬しあう一夫一婦の夫婦が結婚して貞操を守りちゃんと子供を育てて」みたいなブルジョワ家族っていうのは、ほんの中上流階層にしか存在しない。貧乏人は安定した家計を営めないから、ちゃんと結婚しないままにセックスしたり、でも生活できないから別れたり、子供できたりしても育てられなくて里子に出したり孤児院に預けたりしなきゃならない。こういうのがまあ「家族喪失」だと思う。さらに貧乏だから女性は売春とかしなきゃならない。前のエリス先生やラッセル先生が指摘してたように、買春するのは、金がなくてまだ結婚できない若者男性だけじゃなく、夫婦生活に性的に満足してない夫でもある。一夫一婦の結婚が永続するためには、余剰な性のはけ口としての売買春が可能である必要がある。貧乏人女性がそのはけ口となっている。

「共産主義者よ、君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう、と全ブルジョア階級は、声をあわせて我々に向かって叫ぶ。ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。」

財産のあるブルジョワ男性にとって、妻はとにかく子供を生む(再生産 reproduction)ためのもの。工場とかの生産手段をもってる人はそれによってモノを生産してお金をかせいでさらに生産手段を手にいれてどんどん豊かになる。妻を手に入れた男は自分自身を再生産して子供を作り、子供を育ててお金を稼げるようにしてさらに豊かになる。貧乏人は子供作れないし家庭も持てないから貧乏なまま。一夫一婦制は財産ある人間に有利。女を共有されてたまるものか、不道徳だ、いやらしい、と考える。

マルクス先生の答は、

「何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐ我がブルジョワ道徳家ぶりほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有を新たにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。わがブルジョワは、かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。」

いやだって、あんたら実は女性を共有してるっしょ。まずあんたら、妻がいても足しげく買春してんじゃん、と。さらに、あんたら、社交とかしておたがいの奥さんを誘惑してうまくいけばエッチなことして楽しんでんじゃん、と。これは強烈ですね。まあ中上流階級で女性が他の男性と関係をもったら「姦通」でスキャンダルです。でも実際の社交界でのパーティーみたいなのがそれが起こるかもしれないような危険をわざわざ作ってる、っていうのもその通りっすよね。パーティーといえば女性はドレスとか着て他の男性と仲良くお話したり、ダンスではパートナーを交換したりして。あれ儀礼的スワッピングですよね。まあいやらしい。不潔。

授業でこれ読んでるとき、マルクス先生が怒ってるのは特にJ.S.ミル先生かな、みたいなことをふと思いました。マルクス先生たちの一番の論敵は、実はイギリスの功利主義者だった。ミル先生は知ってのとおり人妻ハリエット・テイラー先生と旦那公認の仲を続けてましたからね。これはスキャンダルでしたが、まあ子供生んだあとの女性は少しぐらいそういうことしてもかまわん、という雰囲気もあったんだろうみたいな。

「共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有のかわりに、公認の公然たる婦人の共有をとりいれようとする、とでもいったらよかろう。」

「おれらを非難しようってのなら、おまえらが偽善的に裏でこそこそやってることを、おれらは正直に認める、ってことだけだぜ!」

怒ってます怒ってます。

「いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。」

共産主義社会ではみんな自由にばんばんセックスできるから売買春なんてのはなくなるよ。みんな共産主義者になりましょう、と。私はやばいと思うけど魅力を感じる人もいるかもしれんですね。好きな『自殺島』ってマンガ [1]現在最強の倫理学マンガ。 でも悪役がそういうフリーセックスなコミュニティー作って成功している。

セックスと結婚に関するこうした議論が、素人にもわかりやすい形で読めるようになってないのは残念なことな気がする。まあでもふつう書きにくいわよね。高校倫理の教科書あたりに「マルクスは女性の共有を提案した」とか書いたらおもしろいだろうに。まあ誰か、マルクスやエンゲルスのセックス論、わかりやすい解説書いてくれるといいなあ。いや、けっこうありそうだから調査するべきか。


追記 (2021/8/3) 上のはまあ冗談まじりに書いたもので、もちろんマルクスの読みとしてはおかしなのかもしれません(というかおかしいでしょう)。田上孝一先生という方が『99%のためのマルクス入門』という本を2021年に出版されて、それのなか(第4章)でマルクスの結婚制度論みたいなのを書いてくれていますので、興味あるひとはそちらを見てください。 → 記事書きました。

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References

References
1現在最強の倫理学マンガ。

シュラミス・ファイアストーン先生がお怒りのようです

ラッセル先生の革命的な著作以降、まあ避妊手段の開発とか映画の普及とか車の普及とか禁酒法の廃止とかロックとかいろいろあって、セックス革命は完成する。まあとにかくばんばんセックスセックス。

ビートルズのPlease Please Meの歌詞は知ってますね? 君はトライさえしようとしないじゃないか。君がやらせてくれないから僕の心には雨が降ってる。僕をよろこばせてくれよ。プリーズプリーズ。 続きを読む

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ラッセル先生のセックス哲学(4) ばんばん不倫しましょう

ラッセル先生にとって、家族は子供を作りそだてる、っていう目的のために重要なわけっすわ。そしてそれはお金もち以外は一夫一婦制になる。子供への投資と養育はびっちりやりたいからですわね。教育とか、とにかく他の子供との比較で有利な方がよいのでびっちりやりたくなるのだと思う。さらにコンパニオンシップっていうか、男女ともに信頼できる相手と結婚しているのには心理的な利点がある。ラッセル先生にとっても結婚は基本的にはよいものです。 続きを読む

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ラッセル先生のセックス哲学(3) ワンチャンはいかんのじゃ

んで実際に「性の解放」ってのはどうすんのかですわね。どうするんですか、先生。

まあ今では愛し合う若者たちはすぐにセックスしちゃって、セックスしないと童貞だとか草食系男子だとか添い寝系男子だとか言われちゃうわけですが、1928年当時っていうのはジャズエイジとは言え、そんなエッチなことをめちゃくちゃしている人々はそんな多くなかったみたい。前にも書いたように、中上流の女性はしてなかったみたい。でも下層とかはあれだし、男性は買春とかするのが普通、ってところかなあ。やっぱりちゃんとした家の女子とおつきあいするのはむずかしかったっぽい。そんでも20世紀に入ると避妊手段が入手しやすくなって、女子の活動も変わってきた。

ラッセル先生が女性の性的欲求なり性的衝動なりをどう考えてたかっていうのはよくわからない。どうも男性とたいしてちがいがないんちゃうか、単に教育のせいで性欲とか表に出さないようになってるだけでしょ、みたいに考えてたんではないかという雰囲気はある。

「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(p.85)

「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」p.126

写真とったりする、とかスマホで自撮りを送ってもらう、なんてのは信じられないっしょね。

でも最近はちがうよ、みたいな。まあこういうのは禁欲的な教育の結果だから、ちゃんとした性教育をすればよい、と。まあラッセル先生自身いろいろ女性との情事をもった人なので、「女性というのはそういうもんじゃないだろう」ぐらいの実感あったんだと思う。マリノフスキーとかマーガレットミード先生のをまにうけて、ラッセル先生はそもそも未開の社会ではみんな楽しくセックスしまくってんだから、西欧の女性が性的なものを嫌っているのは文化的な抑圧のせいだと考える。文化的な抑圧がなくなれば、女性も男性と同じようにセックスしたいっていう衝動を認めて、それにしたがって活動するようになるだろうし、女性自身も性的に満足してハッピーになるだろう、と。なんかラッセル先生はけっこうフロイト先生の議論も好きみたいですね。

我々のような非モテが見ると、女性というのはとても選択的で、「ただしイケメンに限る」みたいなのをごくごく自然にやってるわけだけど、ラッセル先生はそういうのを意識した形跡がないっていうか。まあそりゃ若いときからあのそこそこのルックス、いや人によってはかなりイケる、むしろイギリス貴族の典型イケメンみたいな見方もあるだろうしねえ。首相を祖父にもつ貴族であり、金もあり、当然のことながら世界でトップの知性のもちぬしであり、ユーモアもあり、まあラッセル先生とお話できるだけでハッピー、スイッチ入る、なんて女性はたくさんいたっしょね。というわけで、非モテのことなんかラッセル先生なにも考えてなかったと思う。

んでまあとにかく、彼の考える性の解放は、結婚と関係して語られる。西欧の伝統では、結婚はふつう当然一夫一婦の性的に排他的な永続的な関係、ぐらいなわけだけど、ラッセル先生は、その機能のコアの部分だけが本当の結婚である、って考える。

「合理的な倫理の立場では、子供のない結婚は、結婚の名に値しないだろう。子供の生まれない結婚は、容易に解消できるようにしなければならない。なぜなら、ただ子供を通してのみ、性関係は社会にとって重要で、法律上の制度によって認められる価値を持つものとなるからだ。」(p.154)

ラッセル先生によれば、第一次世界大戦のあとに避妊手段が入手しやすくなったみたい。まあそうなんしょな。それが人々の性行動を変えた。これはよく指摘されることだわね。

「アメリカ、イギリス、ドイツ、スカンジナビアでは、〔第一次〕大戦後、大きな変化が生じている。堅実な家庭のじつに多くの娘たちが、自分の「純潔」 [1] … Continue reading を守ることが価値のあることだと思わなくなり、若い男たちは、娼婦にはけ口を求めるかわりに、もっと金があれば結婚したいと思うような娘たちと情事をもつようになった。この過程は、イギリスよりもアメリカのほうが進んでいるようであるが、その原因は、禁酒法と自動車にある、と私は思っている。禁酒法のために、どこの楽しいパーティーでも、だれもが多かれ少なかれ酔っ払うことがぜひとも必要になった。大多数の娘が自分の車を持っているために、両親や隣人の目を盗んで恋人と会うことが容易になってきた。

これおもしろいね。なんで禁酒法のせいで酔っ払いが増えるかっていうと、禁止されてることはやりたくなるもんだから。みんなで「法の裏をかく」みたいなのは楽しいものだ。ラッセル先生に言わせばセックスも同じで、法に反して酒を飲み、道徳に反してこっそりセックスするのは楽しい。というわけで若者たちはセクロスセクロスになってしまう、と。こういうの、60手前のラッセル先生アメリカ行ったときに、「行きずりの旅行者にできる範囲で、……骨を折って若い人たちに質問してみた。若い人たちは、何ひとつ否定する気もちがなかった」とか。“I took pains to test 〜”みたいで、そういうことを若者たちに聞くのはラッセル先生には苦痛だったようだ。「こんなことを、君たちのような誇りの高い若者に質問するのはまことに心ぐるしいのだが、哲学者として私は社会に関心があって、率直にこうした質問をするのを許してほしいのだが……」みたいな感じだろうか。ほんとはあれなのに、まあいいでしょう。

まあそういう苦しい努力のすえに、「ちゃんとした女性も最近は結婚もしないでけっこうな人数とやりまくっているらしい」ということをラッセル先生は確信する。

「最高に立派な身分に納まる娘たちの大多数が、しばしば数人の恋人と性体験をしているというのが、アメリカ全土に及んでいる実情のようだ。」p.155

完全なセックスしなくても、ペッティングとかネッキングとかしているらしい、許せん、それは倒錯ではないか、みたいなことも言ってる。まあ許せんとは言ってないけど。

しかしラッセル先生は、若者が酒飲んでよっぱらってワンチャンセックス、とかっての、これも気にいらないのね。うらやましいから気にいらないわけではないと思う。

「若い人たちの性関係は、からいばり(bravado)から、しかも、酔っ払ったときに結ばれるという、愚劣きわまる形をとりがちになる。」p.156

「からいばり」って訳語だと感じがわからんよね。なんか「虚勢をはって」「見栄はって」みたいな。禁酒法下で密造ウィスキー飲むのがかっこいいように、純潔教育のもとでセックスするのは一見かっこいいんだけど、それはあんまり自発的じゃないしホンマもんのよいセックスではない、みたいな感じ。

「全人格を挙げて協力する、品位ある、理性的な、真心のこもった活動としての性関係」っていうのがラッセル先生の考えるところのグッドセックス。よっぱらってワンチャンではだめだ、と。あと、ペッティングとかネッキングとかだけして、「完全なセックス」を避けると「これは、神経を衰弱させ、後年、性を完全に楽しむことを困難ないし不可能にする恐れがある」とか。

これがラッセル先生が若者のセックスについて心配している問題。先生は親切なので若者のことを気にしている。ほっときゃいいのではないかと思うのだが、先生は超インテリの社会の指導者なのでほっとけないわけです。んじゃどうするか。

ラッセル先生のこの問題に対する回答は、「試験結婚」trial marriageやあるいは友愛結婚 companionate marriage と呼ばれるやつ。

まあ1920年代、すでに法律家の人々がそういう結婚制度を提案してたんですな。形式的には結婚してお互いにいろんな権利と義務をもつけど、(1) 子供を作ることを考えないでちゃんと避妊する、(2)妊娠してない場合には離婚できるようにする、(3) 離婚しても女性には金をやらない。っていう形の結婚生活を社会的に認めたらどうかってわけだ。

でもラッセル先生はもっとつきつめて、結婚という形もとる必要ないと考えてみたいね。

「私としては、友愛結婚は正しい方向への一歩であり、大きな利益もたらすものである、と固く信じているけれども、これではまだ不十分であると考える。私見によれば、子供を含まないすべての性関係は、もっぱら指示とみなすべきであり、したがって、かりに男女が子供を作っらないで、いっしょに生活しようと決心したとしても、それは、当事者自身の問題であり、余人の感知するところではない、と考える。

つまり、まあ「「結婚」とか公的な形にたよらないで、同棲とかしたきゃしたらいいじゃろう、世間はとやかく言う必要はないじゃろ。」だな。そしてラッセル先生はこれはおすすめだ、って言うわけね。

「私の考えでは、男にせよ女にせよ、あらかじめ性体験をしないままに、子供を作るつもりの結婚という重大な仕事を開始するのは望ましいことではない。性の初体験は、予備知識のある人とするほうがよいことを示す証拠はふんだんにある。人間の性行為は、本能的なものではないし、a tergo(後背位)からおこなわれなくなってからは、明らかに、そうでなくなっている。」(p.162)

『2001年宇宙の旅』の話っすね。

「この議論は別にしても、お互いの性的な相性について少しも予備知識なしに、人々に終生続けるつもりの関係に入ることを求めるのは、不合理であると思われる。それは、ちょうど、家を買おうとする人が、購入が完了するまではその家を見ることを許されないのと同様に、不合理である。結婚の生物学的な機能が十分に認識されたなら、妻が最初に妊娠するまでは、いかなる結婚も法的な拘束力をもたないとするのが、適切な方針であろう。」p.163

というわけで、若者もばんばんセックスしてください、って感じね。酒飲んでワンチャンとかしてないで、ちゃんとしたおつきあいをしてください、と。ステディな関係でセックスすんのは許されるどころかどんどんやりましょう。

私がやった授業ではこれ説明したあとに、上村一夫先生の『同棲時代』1972とかぐや姫の「神田川」コンボを決めた。まあここらへんの世相とラッセル先生がどのていど関係あるか、っていうのには興味がある。ラッセル先生をみんなが読んでたとは思えないけど、間接的な影響はあったろうなあ、みたいな。もっとも、この前当時そこらへんの人々にちょっと聞いてみたんだけど、「読んでない、関係ないんちゃうか」とかだった。まあ本人たちが関係ないっていうんなら関係ないんだろうと思う。でも上野千鶴子先生なんかが、一見ラジカルそうなのに実は恋愛みたいなのにけっこう思い入れがあって、ラジフェミの主張を受けいれたわけではなく、むしろラッセルっぽいのはなんかありそうな気がしているんよね。

まあとりあえずラッセル先生のおかげで、とりあえず「つきあって」いればセックスできるようになり、したいひとは同棲もできるようになりました。めでたしめでたし。(まだ続く)

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References

References
1「純潔」って訳されてるのは’Virtue’なのね。女子がセックスすると失なわれる「美徳」。まあこの文章、基本的にrespectableな家で育った男女に向けて書かれてんのよね。それにまあ、男女は基本的に同じクラスどうしでおつきあいしたり結婚したりする、っていうのがあまりにも当然視されてる感じ。まあ実際話も通じない感じだったんだろうな。上と下が出会うのは、売買春の場だけだったのだろう。

ラッセル先生のセックス哲学(2) 女性の性を解放するのじゃ

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実は若いときはけっこうイケてる。 コメディアンのようでもある。

まあラッセル先生はそうしたキリスト教、特にプロテスタント的な性的禁欲を捨てちゃおうってわけです。でもラッセル先生は売買春とかには大反対。前のエントリでも書いたと思うけど、19世紀〜20世紀のイギリスとかって、表はヴィクトリア朝的な禁欲的な雰囲気でセックスの話なんてジェントルメンやレディーズはしないわけですが、ジェントルメンも夜になるとへんなところで下層の女性を安くあれしていた。中上流の女性は岩よりも堅い貞操を求められてた。そしてそれはみんなで守らねばならぬ。 続きを読む

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ラッセル先生のセックス哲学(1) キリスト教とかディスる

実は今年度後期、教養科目とかって授業で、「西洋思想史での愛と性」みたいな話やってんですわ。女子大でセックスを議論する、セクハラすれすれ、いやむしろすでにセクハラ、セックスセックス、素人にはおすすめできない、みたいな感じですね。いろいろ古典とか読みなおしてみてて、やっぱりこの分野おもしろいなあ、みたいな。内容的には、さっと恋愛心理学での恋愛タイプ [1]ここらへんでやってる。 の話してから、サフォー、プラトン、アリストテレス、オウィディウス、初期キリスト教、宮廷風恋愛、モンテーニュ、ラロシュフコー、ヒューム、ルソー、カント、ダーウィン、クラフトエビング、フロイト、みたいにすすんでる [2]トマスもやりたかったが今年は無理。 。もちろんまあ表面かすってるだけだけど、自分ではそれなりに楽しくやってます。

最近はバートランド・ラッセル先生の『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)読みなおしてたんですが、これやっぱりすごい影響力もってたんだな、みたいなの確認したり。ラッセル先生に与えられた1950年のノーベル文学賞の対象はこれとかって話ね。

もう90年近く前の本なわけだけど、恋愛・セックス・結婚について巷でよく聞くような発想や知識や表現はぜんぶこれなんね、みたいな。ほんとおもしろいので、読んでない人は必ず読みましょう。

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たとえば「人間の性行動は本能じゃないよ」みたいなのが本を開くとすぐに出てくる。

「性関係の中の本能的な要素は、普通考えられているよりもはるかに少ない。」(p.18)

「本能」ということばは、性にかかわる人間の行動のおうに、まるで厳密さのないものに使うには、適切なことばとは到底言えない。この領域全体の中で、厳密に心理学的な意味で本能的と呼べる行為は、ただひとつ、幼児期における乳を吸う行為である。未開人の場合どうなっているのか、私はつまびらかにしないが、文明人は、性行為をおこなうすべを学ばなければならないのである。」p.19

こういうのよく使われるじゃないですか。もちろん内容的にもまあそんな問題はない。こういう文化人類学っぽいのはマリノフスキー先生やマーガレットミード先生が参照されていて、70年代〜80年代のジェンダー論とかでここらへんの人々が頻繁に言及され援用されてたのは、文化人類学の人々がこうした先駆者の研究を高く評価していたからというよりは、むしろこのラッセル先生の本が影響してるんじゃないですかね。

授業ではキリスト教の性的禁欲主義みたいなのもパウロとかアウグスティヌスとかヒエロニムスとか使ってやったんですが、ラッセル先生に言わすと「聖パウロの脳裡では、私通が舞台の中心を占めていて、彼の性倫理は、すべて私通と関連して展開されているのである。」(p.49)とか。そうなんよね。パウロ先生は結婚における生殖の話はしてない。まあ当時のパウロ先生たちにとって、「裁きの日」はほんとにすぐ間近で、子供なんか生んでる場合じゃなかった。やばい。「男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」だもんね。単にいろんな人とエッチしたり、人妻に手を出したりして罪を犯さないために、結婚してそのなかでだけしなさい。それなら先生許しますよ、と。

しびれたのは次ですわ。

聖パウロの見解は、初期教会によって強調され、誇張された。独身は神聖なものとみなされ、人々は世を捨てて砂漠へ行き、サタンと戦ったが、その間、サタンは人々の想像力を好色の幻影でいっぱいにしたのだった。教会は、入浴の習慣を攻撃したが、その根拠は、肉体をいっそう魅力的にするものは、すべて罪を生むというのであった。

(p.50)とかってやってて痛快。笑える。これはヒエロニムス先生のことだわね。このころのキリスト教の偉い人は、修行のために砂漠にいって超禁欲生活、っていうかもう人間とは言えないくらい貧しく厳しい生活おくってたんですね。ごはん最小限にするだけでなく、風呂入らないとか布団使わないとか。ひどい。

砂漠のあの寂しい荒野で、隠遁者に荒々しい住まいを備える灼熱の太陽に身を焼かれながら、わたしはどれほどしばしば、ローマのもろもろの快楽に取り囲まれている幻想を見たことか!わたしは独りで座っていたものだ。苦々しい思いに満たされていたからだ。わたしの汚れた四肢は形もない袋のような衣服に包まれていた。わたしの皮膚は、長いこと手を入れていなかったので、エチオピア人のように荒く黒くなっていた。涙と呻きが日ごとの業であった。そして眠りに抗しきれず、瞼が閉じられると、わたしの疲れた骨は裸の大地で傷ついた。食べ物や飲み物については語るまい。隠遁者には、病んでいるときでも、水しかない。料理されたものを食するなど罪深い贅沢である。だが、地獄を恐れるがゆえに、この独房なる家に自ら居を定めたにせよ——ここでの仲間といえば、蠍と野獣だけなのだ——わたしはしばしば踊る少女の群に取り囲まれているのを見た。わたしの顔は断食のゆえに蒼白であり、四肢は氷のように冷たかったが、わたしの心は欲情に燃え、肉体は死んだも同然であったのに、欲望の炎は燃えたぎり続けていた。(ヒエロニムス『書簡』22)

食べるものも食べてないのに、エッチなことだけは忘れられない。がんばれヒエロニムス先生。

若くて健康な乙女であるお前、たおやかで、ふっくらとした、バラ色の乙女であるお前、贅沢のなかで燃え盛っているお前、ブドウ酒や風呂につかり、既婚の女性や若い男たちと並んで座っているお前は、いったい何をしようというのか。彼らがお前に求めるものを、お前が与えるのを拒むとしても、求められること自体が、お前の美しさの証拠だとお前は思うかもしれぬ。まさにお前の衣服すらが・・・見苦しいものを隠し美しいものを見させるようなものであるならば、お前の隠れた欲望を顕にさせるのだ。お前が音を立てる黒い靴を履いて歩き回れば、若い男を誘うのだ。……お前は、公衆の間では、淑やかさを裝って顔を隠すのだが、売春婦のような巧みさで、男が見たならば、より大きな快楽を感じるような特徴だけを見せるのだ。(『書簡』117)

もうほとんど女性憎悪ですわね。いや気持ちはわかりますよ。

ヒエロニムス先生とかのはこれに入ってたやつだったと思う。

砂漠の師父の言葉―ミーニュ・ギリシア教父全集より
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ラッセル先生のこういうのは、ウィリアム・レッキー先生という19世紀後半に活躍した思想史家の先生によっかってんですけどね。この本すごくおもしろくて、誰か翻訳してくれないかなと思ってる。実は昨日、明治時代に翻訳されてたのを発見したんだけど。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754837

続きます。

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References

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1ここらへんでやってる。
2トマスもやりたかったが今年は無理。