セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。

まあ80年代のフェミニスト内部でのポルノグラフィ論争というのは非常に重要だったんよね。ポルノグラフィを男性優位社会の象徴であり原因であると見て規制してしまえっていう派閥と、やっぱりフェミニムはリベラルじゃなきゃな、って派閥に分かれた。ポルノグラフィの問題によって、セックスそのものに対するフェミニストの態度も問われることになった。アンチ・セックスかプロ・セックスか、みたいな。国内でそこらへんをうまく紹介している本があるかどうか。ヴァレリー・ブライソン先生の『争点・フェミニズム』ぐらいか。これは良書。

その研究会でアンソロジーの翻訳を出そう、みたいな話になって、まあ一応フェミニズムの基本文献はラディカル、リベラル、レズビアン分離派、批判人種理論、ポストモダンまでいちおう主なものは目を通せた、と思う。テキストに使ってたのはBecker先生の『フェミニスト法学』。(この翻訳は結局出なかった。私も悪かったです。ごめんなさい。)

とにかくマッキノン先生とかには苦しめられた。とにかく読みにくいんよね。過去のマッキノン先生の翻訳に目を通すことで、この業界がぜんぜん翻訳だめだってことに気づいたのもこのころ。議論がぜんぜん読めてないんだもん。とはいえ、マッキノン先生たちの「セックスは男による女の支配」みたいな主張にはなにか重要なものが含まれていると思った。もう少し勉強してみよう、みたいな。まあマッキノン先生たちに敵対するナディン・ストロッセン先生のDefending Pornographyみたいな立場の方に共感はすれども、ラジカルな人々の言い分ももっと聞きたい。んでおそまきながら勉強。「ポルノグラフィとフェミニズム法学」  とかくだらん文章書いてみたり。

そうこうしているうちにジュディス・バトラー様のExcitable Speechが出ていることに気づいた。まあ『ジェンダー・トラブル』は知ってたんだけど、私が関心あるようなポルノグラフィとかにはまったく関係がないだろうと無視してたんだけど、Excitable Speechはいちおうフェミニズムとかクィア理論とかからポルノグラフィの問題を扱っているそうだから目を通さないわけにはいかない。そしたらもうJ.L.オースティン先生とか滅茶苦茶な扱いされててねえ。言語行為論とか専門と違うけど、まあそれなりにはあれしているわけだし、でたらめ書かれたら困っちゃう。そんとき、そのフェミ研究会で発表担当して紹介して、「おそらくこれ翻訳されて、国内のアレな学者様たちが言語行為論とかについておかしげなことを言いはじめるだろう」って予言したのを覚えている。

その予想はExcitable Speechが『触発する言葉』って邦訳になって、そのすぐあとに斉藤純一先生たちの『表現の〈リミット〉』で実現するのであった。斉藤先生自身や北田暁大先生があれなこと書いててもうねえ。これはもうほうっておけないから論文書いておいた。これが目にとまったのか北田先生に誘ってもらって、似た内容で文章書かせてもらったりもした。北田暁大(編)『自由への問い(4)コミュニケーション』(岩波書店)の「ポルノグラフィと憎悪表現」。北田先生ありがとうございます。

あとその研究会のメンバーがかかわってドゥルシラ・コーネル先生がドロドロのフェミニズムやっててね。カントとラカンとかあれすぎるだろう。そういうおかしげなものとは縁を切って、ちゃんとしたセックス哲学やりたい、と思うようになった。

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