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ヌスバウム先生のバトラー先生批判、全訳

柳下先生から昔彼がやっていたヌスバウムの「パロディの教授」の訳をもらったので、ここにあげておきます。著作権関係はクリアしていません。これをここにあげた点の責任は江口にあります。昔私もちょっとだけやったのですが、ちゃんとやってもらってよかった。作業の関係で強調とか落ちてるかもしれないので、あとで直します。


ザプロフェッサーオブパロディ マーサ・ヌスバウム

この文章は、Nussbaum, M. C., 1999, “The Professor of Parody,” The New Republic, February 22.を柳下実minoruyagishita@gmail.comが無許可で適当に翻訳したものである。著作権関係は処理していないので注意してほしい。本文はこちらで公開されている。途中で訳出してあるバトラーの文章の正誤はとてもあやしいので、識者のコメントを待ちます。

この記事は、『ジェンダー・トラブル』、Bodies that matter、『触発する言葉』、『権力の心的な生』のレビューである。

I

長い間、アメリカの学問に携わるフェミニストは、女性のために正義と平等を達成する実践的な闘いと密接に連帯してきた。理論家たちはフェミニスト理論のことを,紙のうえにならぶ精妙な言葉なのだ、と理解してきたわけではない.フェミニスト理論は社会変革のための提案と結びつけられていた。それゆえフェミニストの学者たちはさまざまな具体的なプロジェクトに携わってきたのである。とえば、レイプに関する法律の改革、ドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントの問題へ人びとの関心を引き付け、法的な救済策を勝ち取ること、女性の経済的〔成功の〕機会、労働条件そして教育を改善すること、女性の労働者のための妊娠に関する福祉手当を勝ち取ること、売買春における女性と女児の人身売買に運動すること、そしてレズビアンやゲイ男性の社会的政治的平等のために取り組むことである。

それどころか、一部の理論家たちは学術からまったく離れてしまい、実践的な政治の世界にすっかり居着いている。そちらの方が,こうした喫緊の問題に直接とりくめるのだ。学界に残った人びともしばしば、実践的なことにかかわっている学者であることが、体面にかかわることだと思っている。実践的なことにかかわっている学者とは、現実の女性の具体的な状況に目を向け、いつも女性の現実の身体と葛藤を認めるような仕方で論文を書く学者だ。たとえば、法的制度的変革というほんものの問題を思うことなく、キャサリン・マッキノンの著作の1ページを読める人がいるだろうか。もし、ある人がキャサリン・マッキノンの提案に同意しないのだとしたら――多くのフェミニストはマッキノンの提案に同意しないが――、彼女の論文によって提示された課題は、彼女が鮮明に描き出した問題を他の方法でどう解くのかということを模索することだ。

フェミニストたちは何が悪いのか、そして物事を良くするために何が求められているかについて、いくつかの問題では一致しない。しかしながら、すべてのフェミニストたちが同意していることもある.それは,女性をとりまく状況は不正義であり、法律と政治的措置によってそれらをより公正にすることができるということだ。ヒエラルキーと従属をわたしたちの文化に根深くはびこっていると描いたマッキノンもまた、法――レイプとセクシュアル・ハラスメントに関する国内法と国際的な人権法――を通じた変革に取り組んでおり、法を通じた変革に慎重にではあるが楽観的である。ナンシー・チョドロウは『母親業の再生産』[1]で子育てにおける抑圧的なジェンダーカテゴリーの複製のゆううつな説明を示したが、彼女でさえその状況は変革しうると論じている。これらの習慣の不幸な帰結を理解することで、男性と女性は彼らがこれ以降物事をこれまでとは、違ったやり方でおこなう、と決心することができるのだ。そして法律や制度における変革が、そのような決心を手助けしてくれるだろう。

いまでもフェミニスト理論は世界の多くの地域でこのような状態である、たとえばインドでは、学問に携わるフェミニストは自らを実践による厳しい努力に投げ込み、そしてフェミニストによる理論化は実践的なコミットメントに密接につながっている。たとえば、女性の識字率、不公平な土地所有法の改革、レイプ法の変革(今日のインドのレイプ法には、アメリカのフェミニストの第一世代が攻撃した、多くの欠点がある)、セクシュアル・ハラスメントとドメスティック・バイオレンスの問題の社会的な認知を得るための努力というコミットメントだ。これらのフェミニストたちは、自分たちが激しく不正義な現実の真っただ中で生活していることを知っている。理論的な論文を書く際にも、セミナー室の外で活動する際にも、彼女達は毎日こうした問題に取り組まなければ自尊心を保つことができないのだ。しかしながら、アメリカにおいて事情は変わってきている。そこには、新しい気がかりな傾向が見受けられる。人は新しい、そして気がかりな傾向に気づくだろう。このことはフェミニスト理論がアメリカ外の女性の闘いへ注目していないということだけではない。(この嘆かわしい特徴は,もっと以前からつねづね,最良の業績の多くにすら見受けられた。)そして〔アメリカ中心的という〕偏狭さというよりは、より油断ならない狡猾なことがアメリカの学界で顕著になっているのだ。それは、生活の具体的な側面からの、現実の女性たちの現実の状況ともっとも薄っぺらくしか関係のない言葉と象徴の政治への、実質的に完全な転向なのだ。

新しい象徴的なタイプのフェミニストの思想家はフェミニスト的に政治をおこなう方法を、高慢なほど不明瞭で、軽蔑的に抽象的な学術的な出版物の中で、ことばを転覆的に用いることだと信じているように思われる。これらの象徴的なジェスチャーというのは、信じられているところでは、それ自体が政治的抵抗の一形態なのである。そして、立法や運動などの厄介なことにはかかわらずとも、人は大胆に行為できるのだ。さらに、新しいフェミニズムはそのメンバーに大規模な社会変革の余地はほとんどなく、そしておそらくまったくないと教授するのである。わたしたちは全員、およそわたしたちのアイデンティティを女性として規定している権力の構造の囚人である。わたしたちはこうした構造を大規模に変革することは決してできず、それらから決して逃れられない。わたしたちにできるのは、せいぜいそうした権力構造のなかでなんとか空き地を見つけ、そこで発話によってこれらの構造をパロディー化し、笑いものにし、境界を踏み越えることだけだ。それゆえ象徴的で言語的な政治が実際の政治の一類型として提示されることに加えて、それだけが現実に可能な政治として残されるのである。

こうした展開は近年のフランスポストモダン思想の卓越に多くを負っている。多数のわかいフェミニストは――彼らの具体的なあれやこれらのフランスの思想家との関係はなんであれ――知識人は政治を煽動的な発話によっておこない、これこそが政治的行為の意義深い型だというフランスの観念に極端に影響されてきた。その多くの人は(正しいか間違っているかはともかく)ミシェル・フーコーの論文から、わたしたちはすべてを包み込む権力の構造の囚人であり、そして実生活の改革運動はたいてい狡猾なそして新しいかたちで権力に役立つことに終わるのだ、という宿命論的な着想を取り出すのだ。それゆえそのようなフェミニストたちは転覆的な言語の使用がいまだフェミニストの知識人にとって利用可能だという観念に慰めを見出すのである。もっと大規模でより長続きする変革の望みを奪われても、わたしたちはそれでも言語的なカテゴリーを書きかえることによって抵抗することができ、そしてそれゆえ、かろうじて、それらによって構成されている自己を書きかえることによっても抵抗することができるのだ。

一人のアメリカのフェミニストがほかのだれよりもこれらの発達をかたちづけてきた。ジュディス・バトラーは多くのわかい学者にとって、現在のフェミニズムを定義する人物のようである。哲学者として訓練を積んでいるので、彼女はしばしば(哲学者というよりも文学研究者によって)ジェンダー、権力、そして身体についての主要な思想家と目されている。フェミニストのふるぼけた政治とそれが献身してきた物質的な現実というのがいったいどうなっているのかを、知りたいと思っているので、ジュディス・バトラーの業績と影響を査定し、そして無抵抗主義と退却そっくりにみえる立場を多くの人に採らせた〔彼女の〕主張を精査するのは必然的なことに思われる。

II

バトラーの着想を把握するのは難しい、なぜならそれが何であるのかを理解するのが難しいからだ。バトラーはひじょうに頭の切れる人である。人前での議論において、彼女は明確に話すことができ、そして自分に何を言われたかを俊敏に把握する力量があることを示している。しかしながら彼女の文体は長たらしく退屈でそして不明瞭である。文中では,陰に陽に他の理論家たちが次々と引き合いに出される。しかも,その理論家たちが属する理論的伝統は多岐にわたる。フーコーを筆頭に,最近ではとくにフロイトに強く関心を寄せているほか、バトラーの著作が多く依拠する理論家には次のような人たちがいる。ルイ・アルチュセール、フランスのレズビアンの理論家モニカ・ウィティッグ、アメリカの人類学者ゲイル・ルービン、J.L. オースティン、そしてアメリカの言語哲学者ソール・クリプキである。これらの人びとは、控えめにいっても互いに見解が一致するわけではない。だから、バトラーの文章を読み始めるとすぐに問題にいきあたって当惑してしまう。これほど多くの矛盾し合った概念と学説を自説の支えに持ち出しておきながら、そうしたあからさまな矛盾を解消する方法をたいてい説明なしですませているのだから。

さらなる問題は、バトラーの無頓着な略式な参照のやり方にある。これらの思想家の着想は、門外漢の読者にわかってもらえるほどじゅうぶん詳しく解説されることもなければ(もしあなたがアルチュセールの「呼びかけ interpellation」という概念に精通していなければ、何章もさまようだろう)、多少手ほどきを受けた人でも,こうした難解な考えがそこでどう理解されているのか正確なところを説明することもない。もちろん、多くの学術的な文章はなんらかのかたちで略式に参照してすますことはある。それは特定の学説と見解の事前の知識を前提にしているのである。しかし、大陸式と英米式,どちらの哲学伝統でも、専門的な読者へ学術的な文章を書く人は自分が言及している著者たちが込み入っており、さまざまに異なる解釈がなされていることを通常は承知している。それゆえ一般的に彼らは競っているものの中で決定的な解釈を提示する責任を引き受け、そして議論によってなぜ彼らがしたようにその人物を解釈したのか、そしてなぜ彼ら自身の解釈が他の解釈より優れているのかを示す責任を引き受ける。

バトラーの著作にはこれがまったく見当たらない。相違する解釈はたんに考慮されないのだ――フーコーやフロイトの場合のように、多くの研究者に受け入れられないきわめて異論含みの解釈も、バトラーはひたすら言い立てるのだ。だから、こうして略式な参照は通常のかたちでは説明しようがないのだという結論が導かれる。通例のように、なにか深遠そうな学問的見解があればその詳細を議論したがる専門家たちを対象読者に想定して説明できないのだ。バトラーの著作は貧弱すぎて、そうした読者の要求に応えられない。バトラーの文章は現実の不正義に取り組もうと躍起になっている非学術的な読者に向けられたものではないというのは明白である。そのような読者はたんにバトラーの散文のゴテゴテしたスープに、内輪でだけわかり合っているような雰囲気に、説明に対する人名の極端な高比率ぶりに、まごつかされてしまうだろう。

それではバトラーはだれに向けて語っているのだろうか?彼女は、アルチュセールとフロイトとクリプキが実際何を言ったかということを気にかける哲学徒ではなく、また彼らのプロジェクトの性質について知らされたい、彼らの価値について説得されたいと思っているアウトサイダーにでもなく、学界のわかいフェミニスト理論家の一群に語りかけているようにみえる。この暗黙の読者はとてつもなく御しやすいと甘く見られているのだ。バトラーの文章の予言者的な声に屈従し、そして広くアピールする要素を持つ抽象性の風格に惑わされ、想像上の読者はほとんど疑問を持たず、議論も求めず、用語の明確な定義も求めない。

さらにまだ奇妙なことに、想定される読者はさまざまな問題に関するバトラーじしんの最終的な結論について気にかけないようと想定されているのだ。バトラーによるすべての本では――とくに章の最後に近い部分の文は――文の大部分が問いなのである。時には問いの予期する答えが明白なものもある。しかしたいてい物事はより明瞭でないのだ。非疑問文の文の中で、多くの文は「~と考えてみよう」もしくは「~と示唆することもできるだろう」という文で始まっているのである。こうした方法でバトラーは描写された見方を彼女が承認しているかどうかを決して読者に完全に伝えようとはしない。神秘化はヒエラルキーと同様、彼女の実践の道具であり、神秘化はほとんど明確な主張をなさないため批判を逃れる。

ふたつの代表例を引いてみよう:

主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということはどういうことを意味するか?前提とする行為と復元する行為とは同じ行為なのだろうか、それとも前提とされる権力と復元される権力の間には不連続があるのか?主体がそれ自身の従属の状態を再生産するまさにその行為においてそのことを考えてみると、主体は一時的にそれらの状態に属しており、厳密に言うと、再生の要求に属している脆弱性に基盤を置いていることを例証している。(The Psychic Life of Power: Theories in Subjection p.12)

また:

そのような問いはここでは答えることができない、しかしそれらは良心の問いにおそらく先立つ思考への道のりを示唆してくれる。その問いとは、言いかえれば、スピノザ、ニーチェ、そして最近では、ジョルジオ・アガンベンの心を奪った問いである。どのようにわたしたちは欲望を構成的な欲望として理解するのだろうか?そのような説明の中に良心と呼びかけ interpellation を位置づけなおしながら、わたしたちは他の問いを付け加えることもできる。どのようにそのような欲望は単数の法によってだけでなく、たとえば社会的で「ある」という感覚を保持するために従属に屈するというさまざまな種類の法によって搾取されるのか?

なぜバトラーはこのように厄介な、癪に障る書き方を好むのだろうか?その様式はまったく前例がないわけではない。もちろんそれらのすべてではないが大陸哲学の伝統のある領域では、対等な者同士で議論する哲学者ではなく、不幸にもしばしば曖昧さによって人を魅了する哲学者をスターとみなす傾向がある。あるアイデアが明確に述べられた時、結局のところ、その思想は著者から切り離してもかまわないものになる。人はアイデアとそれを考え付いた人を引き離して、そのアイデア自体を論議することができる。アイデアが神秘的なままであり続ける時(実際は、それらがきちんと主張されていない時)、人はそのアイデアを考え出した権威に依存したままになる。彼もしくは彼女の膨れ上がったカリスマによって、思想家は留意されるのだ。不安な状態にいて、次の動きを切望するのだ。バトラーがその「考えるための方法」に従ったら、彼女はいったい何を言うだろう?教えてくださいよ、主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということってどういう意味なんですか?(今までわたしが見たところにいると、この質問への明確な答えはいまだ現れそうもない)。人は、たいへん深淵な思索をおこなっているため、なにごとについても軽々しい表現をつかわない知識人だという印象をうける。そのためその人はその深みの畏敬のためにそれが最後にそうするために、待つのだ。

こういったやり方で、曖昧さはいかにも重要だというアウラをつくりだすのだ。それはまた他の関連する目的のためにも役立つ。曖昧さは読者をいためつける。いったい何が起こっているのかわからないのだから、読者はなにか重大なことが起こっているのにちがいない、なにかとっても複雑な思考が進行しているのだろうと思いこまされる。しかし実際には、そこにあるのはたいていはよく知られた考え、あるいは古くさい考えでしかな い。そしてそれはわれわれの理解になにか付け加えるには、あまりにもシンプルであまりにもぞんざいに述べられている。バトラーの本の痛めつけられた読者が勇敢にもそのように考えることを会得したなら、彼らはこれらの本の中の着想は薄っぺらいものであることがわかるだろう。バトラーの考えが明確に簡潔に述べられたなら、さまざまな対比や議論がなければ、それらは役立つものでないことがわかり、そしてそれらがとくに新しいものでないこともわかるだろう。それゆえ曖昧さは思考と議論の現実の複雑さの不足によって残された空虚を埋めているのだ。

昨年バトラーは、『哲学と文学』誌が後援する「今年の悪文」賞の最初の受賞者となった。受賞作を下に引こう。

資本が社会関係を比較的均一な方法で構築すると理解する構造主義の説明から、権力関係は反復、一体化、再分節に影響を受けるとするヘゲモニーの観点への移行は、時間に関する疑問を構造の思考にもたらした、そしてそれは構造的な全体性を理論的対象として扱うアルチュセールの理論のひとつの形態から、構造の偶然の可能性の洞察によって、新たにされたヘゲモニーの構想が、権力の再結合の偶然の場と戦略と密接な関係のあるものとされつつ、創始されるべつの形態への転換を特徴づけた。

さて、バトラーはこう書いてもよかった。「マルクス主義者の説明、すなわち社会関係を構築する中心的な力として資本に着目するものは、そのような権力の作動をすべての場所で均一であるかのように描いている。それに対して、アルチュセールの説明は、権力に焦点を合わせ、権力の作動を時によって移行し、変化に富むものとして把握している」と。むしろ、彼女は饒舌を好み、その饒舌は彼女の散文を判読するために読者の多大な努力を払わせ、読者を主張の正しさを判定するためにほとんど気力が残らない状態にしてしまう。受賞発表の際、機関紙の編集者は、「おそらく不安を引き起こすようなこのような記述の曖昧さが、南オレゴン大学のウォレン・ヘッジズ教授をしてジュディス・バトラーを『おそらくは地球上でもっとも頭のいい十人のうちの一人』と評せしめたのだろう」と発言している。(このように偶然にもひどい作文というのは、決してジュディス・バトラーが関わっている「クィア・セオリー」の理論家たちによくあるというわけではない。たとえば、デイビッド・ハルペリンはフーコーとカントの関係と、ギリシャの同性愛について、哲学的な明確さと、正確な歴史的事実でもって、書いている。)

バトラーは哲学者であることによって、文学研究の世界で威厳を得ている。多くの崇拝者が彼女の文章の書き方を哲学的な深淵と結びつけている。しかし人は結局のところそれが、詭弁法や修辞法という近しいが敵対する伝統よりも、ほんとうに哲学的伝統に属しているのかどうかを問うべきである。ソクラテスが雄弁家やソフィストがやっていることから、哲学を区別して以来、それはいかなる反啓蒙主義的な手先の早業を抜きにした議論と反論をやりとりする等しい人びとの談話となってきたのだ。このやり方では、ソクラテスが断固として主張するには、哲学は魂への配慮を示すのであり、一方で他の人を巧みに操る手法は、無礼を示すだけである。ある午後、長い飛行機の旅の途上、バトラーに疲れ果てて、わたしはパーソナル・アイデンティティに対するヒュームの見地に関する学生の論文草稿を見始めた。わたしはすぐにわたしの魂が復調してきたのを感じた。彼女は明確には書いていなかったが、わたしは考えた。楽しみつつ、ちょっと誇りもあった。そしてヒューム、なんと素晴らしい、なんと丁重な魂だろう。何と気立てのよく、読者の知性を配慮してくれていることだろう、みずからが確信のないことをさらすという代償さえ払っても。

III

バトラーの主要な着想は、ジェンダーは社会的な作りものであるというもので、それは1989年に『ジェンダートラブル』で最初に発表されてから彼女の本のいたるところで繰り返されている。なにが女性で、なにが男性かというわたしたちの認識は自然の中に永久に存在するなにかを反映しているということはまったくない。その代わりに、それらは権力の社会関係を埋め込んだ慣習に由来しているのだ。

もちろん、この考えには新しいことはなにもない。ジェンダーの脱自然化はとっくにプラトンにも見られ、そしてジョン・スチュアート・ミルの議論によって後押しされた。ミルは『女性の解放』(1861=1957訳)で「現在女性の本性と言われているものは、まったく人工的なものだ」と主張している。ミルは「女性の本性」に関する主張が権力のヒエラルキーに由来し、そして支えられていると考えた。女性を隷属させるのに役立つものはなんでも、女らしさとされているのだ。つまりは、ミルが言ったように、「女性の精神を隷属させる」ようになっているのだ。封建主義と同様、家族とともに、本性のレトリックは、それじたい隷属の原因として役立つ。「女性の男性への隷属は普遍的な慣習であり、それがどのような逸脱も当然のように不自然にするのだ。しかし、これまで支配力をもつ人々にとって自然に映らないような支配などといったものがあるだろうか?」

ミルは最初の社会構築主義者ではまったくないだろう。怒り、強欲、ねたみ、そして私たちの人生の他の目立った特徴についての同じような構想は、古代ギリシアからの哲学の歴史の中にありふれたものである。またミルの社会構築というよくある考えのジェンダーへの応用はさらなる豊かな発展を必要だし、いまだ必要としている。彼の示唆的な発言はジェンダーの理論にはなっていなかった。バトラーが姿を現すずっと前に、多くのフェミニストたちはこのような説明を明瞭にすることに貢献していたのだ。

1970年代から1980年代に発表した論文のなかで、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、性役割の伝統的な理解は公的領域における男性の支配に加えて、性的領域における支配をを続けることを確実にするやり方だと論じた。彼女たちはミルの洞察の核をヴィクトリア朝時代の哲学者がそれに関してほとんど言っていない生活の一領域に持ち込んだ。(もっとも何も言っていないというわけではない。1869年にミルはすでに婚姻内のレイプを刑事罰の対象にできないことは、女性を男性用のツールとし、また彼女の人間としての尊厳を否定することだと理解していた。)バトラー以前に、マッキノンとドウォーキンはフェミニストの幻想に立ち向かっており、それは女性の牧歌的な自然のセクシュアリティが「解放される」必要があるというものだった。彼らは社会的な力はとても深くいきわたっているために、わたしたちは「本性」という考えを利用できるなどと、想定してはならないと論じた。バトラー以前に、彼らは男性が支配している権力の構造は女性を周縁化し、隷属させているだけではなく、同性の関係を選びたいとしている人びとも周辺化し隷属させているのだということも強調した。マッキノンとドゥオーキンは、ゲイやレズビアンに対する差別は、よくあるヒエラルー的に秩序づけられた性役割を強制するものであることを理解していた。それゆえ彼らはゲイやレズビアンに対する差別も、性差別の一形態として把握していたのだ。

バトラー以前に、心理学者のチョドロウがどのようにジェンダー差が世代を超えて複製されているか、についての詳細で説得力のある説明をした。彼女は、こうした複製のメカニズムが遍在していることから、人工的なものなのがほぼ遍在しているのだということが理解できるようになる、と論じている。バトラー以前に、生物学者の、アン・ファウスト・スターリングは、慣習的なジェンダー差の自然さを擁護するとされている実験研究の綿密な批判を通して、社会的な権力関係が科学者の客観性を危うくしていることを示した。『ジェンダーの神話』は彼女が当時の生物学で発見したことへの適切なタイトルであった。(他の生物学者や霊長類研究者もこの企てに貢献している。)バトラー以前に、政治理論家のスーザン・モラー・オーキンは、家庭における女性のジェンダー化された宿命をつくりあげる上で、法と政治思想がどのような役割を果たしているかを探究した。そしてこのプロジェクトも、法と政治哲学で多数のフェミニストによってさらに推し進められている。バトラー以前に、ゲイル・ルービンの『女たちによる交通』での従属に関する重要な人類学的説明は、ジェンダーの社会組織と権力の非対称性の間の関係について有益な分析を提供した。

じゃあバトラーの研究はこの豊饒な論文群にいったいなにを付け足したのだろうか?『ジェンダー・トラブル』と『問題なのは身体だ』〔未邦訳〕は、生物学的な「自然な」性差の主張に対してもまったくなにも詳しい議論を含んでいないし、ジェンダー複製の機構の説明もなく、家族の法的な形成についての説明もなく、それどころか法改正の可能性については詳しくはまったくふれられていない。それでは、バトラーは、これまでのフェミニストの論文では十分になさていないような何かを提示したのだろうか?それは何だろうか?比較的独自の主張の一つは、わたしたちがジェンダー差の人工性を認識し、それらが独立した自然的な事実の表現であると考えるのを控える時、わたしたちは同時にジェンダータイプが、三つや五つやあるいは不定の多数ではよくなく、それが二つである(ふたつの生物学的な性と相関連して)ということに従わざるをえない理由など、どこにもないことを知る。バトラーはこう書いている。「構築されたジェンダーの身分が本質的に生物学的な性から根本的に独立に理論化されるのであれば、ジェンダーそれじたいは自由に浮遊するごまかしとなる」。

バトラーにとって、この主張からは、わたしたちは自由に好きなようにジェンダーをつくりかえられるのだという意味ではない。それどころか、わたしたちの自由にはきびしい制限があると彼女は考えるのだ。彼女の主張によれば、「社会の背後に手つかずの自己なるものがあって、社会をとりさってみれば、いつでも純粋無垢で解放された姿が現れるだろう」などとウブな想像をするべきではないのだ。「〔社会と〕一体化する前に自我があるわけでもなく,さまざまな力がぶつかり合うこの文化的な場に参入する前から「〔1人の人間としての〕一体性」を保持している人などいない。できるのはただ〔すでにある〕ツールをそこにある場で取り上げるしかないのだ、そして「とりあげる」その場はツールそのものによって可能にされているのだ」と。しかしながら、バトラーは、古いカテゴリーの上手なパロディーによって、わたしたちはある意味新しいカテゴリーをつくることができると主張する。それゆえ彼女のもっとも知られた着想は、パロディー的なパフォーマンスとしての政治という構想であり、それは、(きびしく制約された)自由という感覚から生じており、さらにこの感覚は、人のジェンダーについての考え方は生物学的というよりは社会的な力によって形づくられてきたのだ、ということを認めることから来ている。わたしたちは、わたしたちが生まれおちた権力の構造の反復をするよう運命づけられているが、しかし少なくともそれらを笑いものにすることはできるのだ。そして笑いものにすることのいくつかはもともとの規範への転覆的な攻撃となるのだ。

ジェンダーがパフォーマンスであるという着想はバトラーのもっとも有名な着想であり、そしてより詳しく精査するために、しばし立ち止まって、もっと詳しく検討してみる価値がある。彼女はその考えを直観的に『ジェンダー・トラブル』で導入しており、理論的にはなにも前例を引き合いに出していない。後に彼女は、彼女が演劇のようなパフォーマンスに言及していたということを否定し、そしてその代わりに彼女の考えを『言語と行為』におけるオースティンの言語行為の説明に関連づけている。オースティンが言う「遂行発話」の言語学的な範疇は、言葉の発話の一範疇で、それじたいが単独で主張ではなく行為として機能するものを指す。わたしが(適切な社会的状況で)「10ドル賭けるよ」か「ごめんなさい」か「誓います」(結婚式において)もしくは「この船に~と名づける」と発言する時、わたしは賭けること、謝罪すること、結婚すること、もしくは命名の儀式を報告しているのではなくて、それを行っているのだ。

ジェンダーについてのバトラーの同じような主張は自明のことではない、なぜなら問題となっている「遂行発話」は言語に加えてジェスチャー、服装、動き、そして行為を伴うからだ。オースティンの主張は、ある特定の種類の文のかなり専門的な分析に制限されているのだから、彼女の着想を発展させるのに実際べつだん役に立たないものだ。それどころか、彼女は彼女の見地を劇場と結び付ける読みを断固として拒絶しているとはいえ、けれどもオースティンについて考えることよりも、ジェンダーに関する「リヴィング・シアター」の転覆的な作品について考えることは、はるかに彼女の着想をはっきりさせているように見える。

またバトラーのオースティンの扱いもあまり信頼できるものではない。彼女は奇怪な主張をしている。オースティンの文章のなかで、結婚式が遂行発話の数多い例の一つとなっていることは、「社会的絆の異性愛化は、名付けるということそのものを生じさせるという言語行為の典型的形態なのである」というものである。まさか!結婚というのは、賭けること、船に名前を付けること、約束すること、謝ることと同程度にオースティンの典型例となっているにすぎない。彼はある種の発言の形式的特徴に興味を持ち、そして彼の主張にそれらの発言の内容が重要性を持つと仮定する理由はわたしたちにまったく与えられてない。哲学者のありふれた例の選択に地を揺るがすかのような重要性をみるというのはたいてい誤りなのだ。実践的三段論法の解説にアリストテレスがよく例の低脂肪食を使うからと言って、鶏肉がアリストテレスの考える美徳の中心をなしているのではないか、などと考えるべきだろうか?もしくは、ロールズが実践的推論を解説するのに旅程を持ち出しているからと言って、「これをみれば『正義論』の狙いが私たちみんなに休暇旅行を与えることにあるとわかる」などと言うべきだろうか?

これらの奇妙なことは置くとして、バトラーの主眼はおそらくこれであろう。すなわち、ジェンダー化された仕方で行為し話す時、わたしたちはたんに世界にすでに定着した物事を報告しているだけでなく、わたしたちはさかんにそれを構成し、複製し、強化しているのだ。まるで男性や女性の「本性」があるかのように振る舞うことで、わたしたちはともにこれらの本性が存在する社会的虚構をともにつくりあげているのだ。男性や女性の本性などといったものは、我らの行いを離れては存在しない。わたしたちは、つねにそれがそこに存在するようにしているのである。と同時に、少し異なるやり方でこれらのパフォーマンスを行うことによって、すなわちパロディーのやり方で行うことによって、わたしたちはおそらくほんのちょっと壊すことができるのだ。

それゆえ、ヒエラルキーによって拘束されている世界の中で、行為能力(agency)が発現できるのは、性役割が形作られる瞬間たびに、その性役割に反対する小さな機会の中だけなのだ。わたしが女性らしさを行っていると分かった時、それをひっくり返し、あざけって、ちょっと違った仕方でやることができるのだ。バトラーの見方では、そのような反応的な発されたパロディーのパフォーマンスというのは、より大きな規模なシステムを決して揺るがすことはない。彼女は抵抗のための大規模行動や政治改革のためのキャンペーンをもくろんでいない。良くわかっている、ほんの少しの演技者によって行われる個人的行為だけを見据えているのだ。まるで下手な脚本をあてられた役者が悪いセリフを奇妙に言うことによって、脚本を転覆することができるように、ジェンダーについても同じなのだ。脚本は悪いままであるが、役者にはほんの少しの自由があるのだ。それゆえ、バトラーが『触発する言葉』で言うところの「アイロニックな楽観」への基盤をもっているのだ。

ここまでのところ、バトラーの主張は、比較的ありふれたものであるのだが、もっともらしく興味深くさえある。もっとも読者は、変革の可能性についてのバトラーの狭い見方に不安になるだろうが。しかしながら、バトラーはこれらのジェンダーに関するもっともらしい主張に、二つのより強くそしてより論争的な主張を付け加える。第一は、自我をつくりだす社会的力に先だってもしくは背後に行為能力(agency)は存在しないということだ。もしこのことが赤ちゃんはジェンダー化した世界に生まれおち、その世界では瞬時に男性と女性が複製され始めるものなのだとしたら、この主張はもっともらしい、しかし驚くべきものではない。ずいぶん前から実験によって、赤ちゃんが抱かれたり話しかけられる仕方や彼らの感情が説明される仕方が、大人が信じている赤ちゃんの生物学的性によって形作られている、示している。(同じ赤ちゃんが、男の子だと大人によって信じられた時は、弾むようにあやされ、女の子だと大人によって信じられた時は、抱きしめられる。赤ちゃんが泣いている時、女の子だと考えられているときは、怖がっているのだと説明され、男の子だと考えられているときは、怒っているのだと説明される。)バトラーはこれらの経験的な事実にまったく興味を示さない、が経験的な事実は彼女の主張を擁護するのだが。

しかし、もし赤ちゃんが、まったく自力で活動できなず、ジェンダー化された社会での赤ちゃんの経験にある意味で先行する傾向も、能力もなにも持たばない状態で生まれて来るということを、彼女が意味しているのであれば、これはまったくもっともらしいことでなく、経験的に裏付けることは難しい。バトラーはそのような裏付けを与えず、形而上学的抽象の高みから降りてこようとはしないのだ。(それどころか、彼女は最近のフロイトに関する論文でこうした考えを否定さえしているようである。フロイトを用いて、最低限ある前社会的な衝動と傾向があるということがその文章によって示唆されているが、いつも通り、この思考方針は明確に発展されていない。)さらに、そのように誇張された前文化的な行為能力(agency)の否定は、チョドロウたちが、良い方向への文化的な変化を説明しようとした時、用いたリソースの幾分かを捨て去ってしまっている。

バトラーは結局、わたしたちは行為能力(agency)の一種を持っていて、その行為能力(agency)とは変革と抵抗を行う能力なのだと言いたいはずだ。しかしながら、もし、パーソナリティーのなかに、まったく権力の生産物ではない構造などないとしたら、いったいその能力とはどこから来たのか?バトラーにとってこの質問に答えるのは不可能ではないだろう。しかし、今までのところ、人間は最低限ある前文化的な欲望――食への、快適さへの、認識の熟達への、生存への欲求――を持っており、またパーソナリティにおけるこうした構造は道徳的政治的行為能力(agency)としてのわたしたちの発達の説明に極めて重大だと信じる人びとを納得させるようなやり方では、もちろん彼女は答えていない。読者はそのような見方のもっとも強力な形態にバトラーが取り組むのを見たいと思い、そして、明確に専門用語抜きで、彼女がそれらをなぜ、どのように拒絶するのか、何を言うのか聞きたいだろう。人は現実の幼児について彼女が語ることを聞きたいだろう。幼児はその誕生から、文化の型の反復に影響を与える、奮闘の構造を明示しているように見えるのだから。

バトラーの二つ目の強力な主張は、身体それ自体、そしてとくにふたつの生物学的な性の区別もまた社会的構築なのだ、というものだ。彼女は男性と女性がどうあるべきかという社会規範によってさまざまに身体が形作られているということだけを言っているのではない。彼女は生物学的な性のふたつに分割することが基礎的であって、社会を順序立てる鍵とされているという事実自体が、身体の現実によっては与えられない社会的な考えであるということをということも言っているのだ。ではこの主張はなにを意味し、そしてどのくらいもっともらしいのか?

フーコーの両性具有研究についてバトラーが簡単に触れているところでは、人がその箱にはまろうとはまるまいと、すべての人間をこれか、その箱に分類しようという社会の心配性のこだわりをわたしたちに示してくれる。しかし、もちろん、それは多くの確定できない例があることを示しはしない。さまざまな多くの身体類型をもっていてもよかったのではないか、必ずしも男女の二分法をもっとも目立ったものとして採用する必要はなかったのではないか、と彼女が主張するのは正しい。そしてだいたいにおいて、彼女が科学的研究に則ったとされる生物学的な身体的な性差の主張は文化的偏見の投影だと主張することも正しい。しかしながら、バトラーは、ファウスト・スターリングの綿密な生物学的分析と同じくらい説得力のあるものを示せていない。

しかし、権力が身体のすべてだ、と言い切るのは単純すぎる。わたしたちは鳥の、恐竜の、ライオンの身体を持っていてもよかったかもしれない、しかし現実にはそうではない。そしてそうではないということがわたしたちの選択を形づけているのだ。文化はわたしたちの身体存在のある側面を形作ったり、また再び形作ったりすることができる。しかし、すべての側面を形作るというわけではないのだ。「飢えと渇きで苦しんでいる人に、議論と信念によってその人がそれほど苦しんでいないと思わせるのは不可能だ」と昔セクストゥス・エンピリクスが述べている。このことはフェミニズムにとっても重要な事実である。なぜなら、女性の栄養に関する需要(そして妊娠時と授乳期の特別な需要)はフェミニストの重要なトピックであるからだ。性差が問題になっている時さえ、すべてを文化だと書き捨てるのはもちろん単純が過ぎている。またフェミニストはそのようなすべてを一気に掃きすてるような身ぶりをすべきではない。たとえば、走ったりバスケットボールをしたりする女性は、男性支配による想定の産物である女性の運動能力に関する神話の打破を喜んで迎えたのは正しかった。しかし彼女たちは女性の身体に特化した研究を要求したのも正しかった。そうした研究は女性のトレーニングに関する必要と故障に関するよりよい理解を醸成してきている。要するに、フェミニズムが求めそして時々に得てきたものは身体的な差と文化的な構築の相互作用のきめこまやかな研究なのだ。そしてバトラーのすべての問題から高くとまっている抽象的な見解は、わたしたちが求めていることを一つももたらさない。

IV

ここまで見てきたバトラーのいちばん興味深い主張を、仮に受け入れたとしよう。それは、ジェンダーの社会的構造が遍在しているが、転覆的なまたパロディー的な行為によってそれに抵抗できるというものだ。しかしふたつの重要な問いが残る。なにが抵抗されるべきなのか、そしてどういう根拠で抵抗されるべきなのか?抵抗の行為というのは、いったいどのようなものなのか、そしてそれらを達成したらなにが起こると期待してよいのだろうか?

バトラーは、悪いものであって、抵抗する価値があると彼女が考えているものについていくつかの単語を使っている。例えば、「抑圧的な」もの、「従属させること」、「圧迫的な」ものである。しかし彼女は、例えば、バリー・アダムの魅力的な社会学的研究に見られるような抵抗の経験的な議論をなにも提出しない。そう、アダムが『支配の存続』(1978)〔未邦訳〕において、黒人、ユダヤ人、女性そしてゲイやレズビアンの従属と彼らを圧迫する社会権力の諸形態態と格闘する方法を探究したような論は。そしてわたしたちの手助けとなる抵抗や圧迫の概念を全く説明しないため、わたしたちはまったくもってなにに抵抗すべきなのかわからなくなる。

この点について、バトラーは彼女以前の社会構築主義のフェミニストとは、たもとを分かつことになる。初期の社会構築主義のフェミニストは、非階層性、平等、尊厳、自律、といった概念を使い、現実の政治の目標を示すために、それらの概念を手段というよりも目標として扱ったのだ。彼女はいかなる積極的な規範的考えも練り上げようとしない。それどころか、フーコーと同様バトラーは、本質的に専制的だ、という理由で人間の尊厳のような規範的概念や、人間性を目標として扱うことに断固として反対するのだ。彼女の見方では、わたしたちは、政治的な尽力に参加する人たちに「こうするべき」と規範を示すよりも、そうした政治的な尽力からおのずともたらされるものを座して待てばいい、ということになる。彼女が言うには、普遍的なそして規範的な概念は、「同じものというしるしのもとに植民地化する」のだ。

結果を座して待つという考え方――言いかえれば、この道徳的無抵抗――はバトラーにおいては、もっともなように見える。なぜなら、彼女は暗黙のうちに、なにが悪いのか――ゲイとレズビアンに対する差別、そして女性の不公平でヒエラルキー的な扱い――について(いちおう)一致し、なぜそれらが悪いのか(というようなこと)についてさえ一致する、同じ考えを持つ読者を想定しているからだ(その悪いとされる考えとは、ある人を他の人びとに従属させ、そしてその人たちが持っているべき自由を享受させないということである)。しかしこの想定をとりさってみると、規範的側面の不在は重大な問題となる。

わたしがしているように、現代の法科大学院でフーコーを教えてみればよい。そうすればすぐに、転覆というのがさまざまな形態をとることが分かるだろう。転覆のすべての形態が、バトラーとその支持者に友好的というわけではない。察しの良いリバタリアンの生徒が言ったように、「わたしはなぜこれらの着想を税制に抵抗するために、あるいは反差別法に抵抗するために、またおそらく市民ミリシアに参加することにさえも用いられないのか?」そこまで自由を好まない人は、クラスでフェミニストの発言をばかにするという転覆的なパフォーマンスを行うことができるし、レズビアンとゲイの法学生組織のポスターを引きちぎるという転覆的なパフォーマンスを行うこともできる。これらのことは実際に起こっている。それらはパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、彼らは大胆不敵で良い、というわけではないのだろうか?

さて、バトラーやフーコーには見ることのできない、それらの問いへのすばらしい答がある。こうした問いにこたえるためには、人間が持つべき自由と機会に関する議論を要し、そして、手段としてではなく目的として人間を扱うというのは、社会制度にとってどういうことなのか、ということに関する議論も要する。手短に言えば、社会正義と人間の尊厳に関する規範的な理論が議論されるべき。わたしたちの普遍的な規範に謙虚であり、圧迫された人びとの経験から学ぶべきだと言うことと、わたしたちはいかなる規範もまったく必要としない、と言うのはとてつもなくかけ離れたことである。バトラーとは違ってフーコーは、すくなくとも後期の論文においてこの問題をつかんでいた兆候を示している。そして彼の論考は、社会的な圧迫の本質とそれが与える害についての熾烈な感覚によって駆り立てられている。

考えてみてほしい、人格的な徳として理解される正義は、バトラー的な分析においてぴったりジェンダーとおなじ構造を持っている。それは生まれながらのものでも、「自然な」ものでもない。それは反復されるパフォーマンスによってつくりだされ(またはアリストテレスが言ったように、わたしたちは徳を行うことによって、徳を修得するのである)、そしてそれはわたしたちの傾向性を形作り、また一部の傾向性の抑圧を強要するのだ。これらの儀式的なパフォーマンスとそれらに付随する抑圧は社会的権力の取り決めによって施行されるのだ。遊び場を一人占めしたい子どもがすぐわかることだ。それに、正義のパロディー的な転覆は、個人的な生活でもそうであるように、政治のいたるところにある。しかし重要な違いがそこにはある。一般的にわたしたちはこのような転覆的なパフォーマンスを嫌い、そしてわたしたちは、若い人びとがそのようなシニカルな見方で正義という規範を理解するようには推奨されるべきではないと考えている。バトラーは規範としての正義の転覆が社会的な悪である一方、なぜジェンダー規範の転覆が社会的な善であるのかということを、純粋に構造的もしくは手続きに則ったやり方で説明できない。わたしたちは覚えておくべきなのだが、フーコーはホメイニを応援した、なぜいけないことがあろうか?ホメイニの革命は、もちろん抵抗であり、そしてまったくのところそのような抵抗が、市民権と市民的自由への闘争より価値がないと、われわれに告げることは、フーコーのテクストのどこにもないのだ。

それゆえ、バトラーの政治の考えの中心は、空虚がある。この空虚さは人びとを解放してくれるもののようにみえる。なぜなら、読者が暗黙のうちに人間の平等や人間の尊厳の規範的な理論によって、その空虚さを埋めるからだ。しかし間違いは一つも残さないようにしておこう。フーコー同様、バトラーにとって、転覆は転覆なのであり、そしてそれは原則としてどの方向に行くこともできるのだ。それどころか、バトラーのあまりに単純で中身のない政治は彼女が奉じているまさにその大義ゆえに、とても危険なのである。バトラーのお友だちは、抑圧的な異性愛の性的規範を公然と非難する転覆的なパフォーマンスに従事したがるが、納税順守の規範から、反差別の規範から、仲間の学生のまともな扱いから逃避する転覆的なパフォーマンスに従事したいと思っている人はバトラーのお友だち以上にもっとたくさんいるのだ。そのような人びとへ向けて、わたしたちは何が悪いかを示す、公正さ、品位、尊厳という規範があるために、単純にあなたがしたいように抵抗することはできないのだと言うべきである。しかしそれゆえに、わたしたちはそれらの規範をはっきりと表現しなければならない。そしてこれがバトラーが拒否しているものなのだ。

V

バトラーが転覆を勧める時、正確にはいったい何を提示しているのだろうか?彼女は我々にパロディー的なパフォーマンスに携わるようにと告げるが、同時に彼女は抑圧的な構造から完全に逃げるという夢はやっぱり夢なのだなのだとわたしたちに警告している。わたしたちが抵抗のためのほんのわずかの空き地を見つけなければいけないのは、抑圧的な構造の中にであり、またこの抵抗では全体的な状況の変革を望むことができないのだ。そしてここに危険な無抵抗主義がある。

もしバトラーがただ生物学的性がまったく重要な問題を生じさせない牧歌的な世界を空想する危険性を警告しているだけなのだとしたら、それは賢明なことだ。しかし頻繁に彼女はさらなる言及をする。彼女はわたしたちの社会において、レズビアンやゲイ男性の周縁化し、女性に対するいまだ途切れない不表どうを保障している制度的な構造が根本的に変化することは決してないと示唆するのである。ゆえに、わたしたちの最善の策は、それらをあざけり、そしてそれらの内部に個人的な自由を味わえるちょっとした場所を作りあげることだけなのだ。「侮辱的な名前で呼ばれて、わたしは社会的な存在になる、そしてわたしの存在にある種のさけえない愛着を抱いているがために、ある種のナルシシズムが、存在を与えてくれる言葉をすべて捉えてしまうので、わたしを社会的に構成してくれるがゆえに、わたしを傷つける用語を受け入れるようになる」と。言いかえてみよう:わたしは自分に屈辱を与える構造から逃れでるいことができない。そうしようとすれば、自分が存在しなくなってしまう。わたしができる最善のことは、からかうことであり、人を従属させようとする言葉を皮肉な仕方で使うことだ。バトラーにおいて、抵抗とはつねに個人のこと、およそ私的なことであり、皮肉などふくまない真面目な、法的、制度的変革への組織だった公的な活動はまったく含まないものとして想像されているのである。

これは、奴隷に向かって、奴隷制は決してなくなることはないが、奴隷であるあなたは奴隷制をあざけったり転覆するやり方を得ることができ、それらの綿密に制限された抵抗の行為の中で個人の自由を得ることができるというのと、似ていることではないのか?しかしながら、奴隷制は変革することができ、実際に変革されたというのが事実である。それを行った人はバトラーのような可能性の見地に立つ人ではない。奴隷制を変えることができたのは、人びとがパロディー的なパフォーマンスに満足しなかったからである。彼らは社会的な大変動を要求し、そしてある程度それを得たのである。また女性の人生を形作る制度的な構造が変化してきているというのも事実である。いまだに欠陥はあるが、レイプに関する法は少なくとも改善してきている。セクシュアル・ハラスメントに関する法は、以前は存在しなかったが、今は存在している。婚姻は、女性の身体に対する専制君主的な支配を男性にもたらすとはもはやみなされなくなった。これらのことは自分たちの解決策としてパロディー的なパフォーマンスを取らないだろうフェミニストたちによって変革されてきた。変革を成し遂げたフェミニストたちは権力が悪しきものである場合に、それは権力は正義の前に屈するべきだし、屈するであろうと考えていたのだ。

バトラーはそのような望みを控えるだけでなく、彼女はその不可能性を好むのだ。彼女はいわゆる権力の不動性を夢想することに楽しみを見出し、そして彼女はそのような状態にあるべきだと説得された奴隷の儀式的な転覆を想像する。彼女はわたしたちにこういう。わたしたちは全員、わたしたちを抑圧する権力構造をエロチックにしており、そしてそれゆえわたしたちは権力構造の中でのみ性的快楽をえることができるのだと――これらは『権力の心的な生』の中心的な主張にあるものである。これらゆえに、彼女は持続的な具体的または制度的な変革よりも、パロディー的なセクシーな転覆的行為を好んでいるようにみえる。現実の変革は、性的な満足を不可能にしてしまうほど、わたしたちの精神の根っこを掘り起こしてしまうのだ。わたしたちのリビドーは悪く隷属させる力の産物であり、それゆえ必然的に構造においてサドマゾヒスト的なのである。

さて、転覆的なパフォーマンスはそれほど悪いものでないかもしれない。もしあなたがリベラルな大学で有力な終身雇用資格を得た学者ならの話だが。しかし象徴的なものの重視、すなわち、バトラーの尊大な生活の物質面の無視が、致命的な無知になるのがこの点である。腹をすかせ、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされている女性にとって、それがどれほどパロディー的であったとしても、飢え、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされるという状況を再現することは、魅力的なことでも、解放することでもない。そのような女性は、食料、学校、投票そして、自分の身体の一体性を選ぶ。彼女らが、サドマゾヒスト的に悪い状態に戻ることを切望していると信じる理由は一つもない。もし従属・非従属関係の性的魅力なしに生きることができない個人がいるとしても、哀しいことに思えるが、それはわたしたちの関与すべき問題ではない。しかし、絶望的な状態にある女性たちに向かって有名な理論家が、人生は彼らに束縛を与えるだけであると伝えたならば、彼女は無慈悲な嘘を伝えている。邪悪さにこびへつらう嘘を伝えているのであり、その邪悪さに実際以上の権力を与えてしまっているのだ。

〔本論が書かれた当時の〕バトラーのもっとも最近の著作である『触発する言葉』では、ポルノグラフィとヘイトスピーチを含む法的論争についての彼女の分析が提出されている。その本では、正確に彼女の無抵抗主義がどこまで拡張されたのかを正確に示してくれている。なぜなら彼女は法的変革が可能で、それがすでに実際におこなわれているときに、わたしたちは法的改革がなくなるのを祈念すべきであるとすすんで言おうとするのだ。それは抑圧された人々がサドマゾヒスティックなパロディーの儀式を演ずるための空間を保持しておくために。

言論の自由に関する論考として、『触発する言葉』は良心のかけらもなく、ひどい本である。バトラーは修正第一条に関する主要な理論的説明にまったく意識を払わないし、言論の自由に関する理論が考慮すべき幅広い判例についても同様である。彼女は法的に馬鹿げた主張をする。例えば、彼女は言論において保護されないとされている唯一の言論形態は、以前から言論というよりは行為として規定されている言論だと述べている。(実際のところ、さまざまな言論があるのだ。これらの言論形態とは、嘘や誤解を招きかねない広告から、名誉毀損、そして現在わいせつなものとして規定されている表現などである。これらはそれにもかかわらず、修正第一条の保護を認められていないのだ)。バトラーは、わいせつな表現は「けんか言葉」と同等のものとして判断されてきたとさえと誤った主張をする。バトラーは、修正第一条の対象とされるべき、現在保護されていないさまざまな言論についての新しい読みを提示するが、バトラーがそれらを裏付ける主張を持っているわけではないのだ。彼女は、様々な判例があること、もしくは彼女の見地が広く受容されている法的な見地ではないということに気が付いていないだけなのだ。法に興味のある人で彼女の議論をまともに受け取る人はいないだろう。

しかしとにかくヘイトスピーチとポルノグラフィに関する議論からバトラーの立場の核を取り出してみよう。それはこうである。ヘイトスピーチとポルノグラフィの法的な禁止は、問題がある(結局、彼女は明確にそれらに反対しているというわけではないのだが)。なぜなら、そのような言論によって傷つけられた人びとが、抵抗を行うことができるような場を狭めるからというものである。このことによって、バトラーは違反が法的なシステムによって対処されるであれば、非公式的な抗議のための機会がその分少なくなると訴えているように見える。そしておそらく、違反がその違法性のために珍しくなれば、わたしたちがその存在に抗議する機会が少なくなってしまうと訴えているのだ。

さて、それはそうだろう。たしかに法律は抵抗する場を狭めることになる。ヘイトスピーチとポルノグラフィは特に込み入った主題であり、フェミニストたちが意見を異にするのは無理もない(それでも、自らの主張と対立する見地について、人は正確に述べるべきである。バトラーによるマッキノンの説明は丁寧になされているとは言い難い。バトラーはマッキノンが「ポルノ・グラフィーを禁止する条例」を支持していると言い、そしてマッキノンがはっきりと否定しているにもかかわらず、それが検閲の一形態を含むと示唆している。バトラーはマッキノンが実際に支持していることは、ポルノグラフィによって傷つけられた特定の女性たちはその製作者と、それの配給業者を訴えることができるとする、被害に対する民事賠償措置であるとどこにも書いていない)。

バトラーの論はヘイトスピーチとポルノグラフィの事例をはるかに超えた含意を持っている。それはたんにこれらの領域において無抵抗主義を支持するのではなく、より一般的な法的無抵抗主義を――それどころか、ラディカルなリバタリアニズムを――支持しているようである。つまりこういうことなのだ。すべてのものを廃止しよう。建築基準法から、反差別法から、レイプ法まで。なぜってそれらは被害を受けた借家人や差別の被害者、そしてレイプされた女性が彼らの抵抗を行うことができる空間を狭めてしまうから。さて、これは、ラディカルなリバタリアンが建築基準法や、反差別法に反対するために使う議論と同じものではない。リバタリアンでさえ、レイプ法の一歩手前で線引きをしているのだ。しかし、〔バトラーとリバタリアンの〕結論は近づいている。

もし万が一バトラーが自らの議論は言論だけに関連しているのだと返答したら(そしてバトラーが有害な言論と行為を同じものとしていることを考えてみれば、そのような制限ができるという理由はバトラーのテクストには一つもない)、わたしたちは言論の分野で返答することができる。虚偽の広告と免許なしの医療に関する助言を禁じる法律を取り除いてみよう、なぜなら害された消費者と手足を切断された患者が抵抗を行うための空間を狭めてしまうから!さて、もしバトラーがこれらの拡張を承認しないのだとしたら、彼女はこれらの事例から彼女の事例を分かつ議論をする必要があり、そして彼女の立場が彼女にそのような区別を許すかどうかは定かではない。バトラーにとって転覆の行為はとてもうっとりするもので、とてもセクシーで、世界が実際によりよくなると考えるのは、悪夢なのである。なんと平等はつまらいのだろう!拘束がなければ、喜びなどない。このように、彼女の悲観的でエロティックな人間学は道徳観念のない無政府主義の政治を擁護するだけである。

VI

バトラーの論文に固有の無抵抗主義を考慮してみると、わたしたちはフェミニストの抵抗の模範例として、ドラァグと異性装にバトラーがなぜ魅了されているのかを理解するいくつかの手がかりを得る。バトラーの信奉者は彼女のドラァグについての説明が、そのようなパフォーマンスは女性が大胆にそして転覆的になるための方法であると示唆していると理解している。わたしはバトラーによってそのような読みが拒絶されたという試みを知らない。

しかしここではいったい何が起こっているのか?男性的に装った女性というのは新しい像ではない。それどころか、男装した女性が19世紀には比較的新しかったとしても、別の意味でずいぶん古くかった。なぜならば、そうした女性はたんにレズビアンの世界において現存する男性-女性社会のステレオタイプとヒエラルキーを複製していたからだ。こう尋ねてもいいだろう。いったいこうした領域でいったいなにがパロディー的転覆になっているのか、裕福な中産階級がそれを好んで受けいれているのはどういうことなのだろうか?ドラァグにおけるヒエラルキーとははやっぱりヒエラルキーではないのか?そして支配と従属は、女性がどのような領域でも果たさなければならない役割であり、そ従属してなければ、男性的に支配しているということになる、というのは実際のところ事実なのだろうか?

手短に述べれば、女性にとって異性装は使い古されてふるぼけた脚本――バトラー自身がわたしたちに述べるように――なのである。しかし、彼女はその脚本が、異性装者の抜け目ない象徴的な衣服に関する振るまいによって、転覆的で新しくされているということを、わたしたちにわからせてくれるかもしれない。しかしわたしたちは再びその新しさと、そして転覆性さえをも疑問に思わなければならない。安全でアカデミックな快適さ態度から発言する、アンドレア・ドウォーキンによる(彼女の小説『償い』における)バトラー的でパロディー的なフェミニストのパロディーを見てみよう。

悪いことが起きたという観念は教義のプロパガンダにすぎず、女の精神を萎縮させるものである。……女性の人生を理解するためには、快 楽や(時には)苦痛、選択や(時には)拘禁の中に隠された曖昧な要素があることを、絶対に見逃してはならない。私たちは、秘められた合図を見抜く目を養わ なければならないのだ。例えば洋服を見るとしても、洋服以上の意味、現代の対人関係の装飾とか、表面的な画一性の下に隠された反逆とかの意味を見抜かなけ ればならない。犠牲者なんてものは一切存在しないのだ。

バトラーの散文にほとんど似ていない散文の中で、この文章はバトラー風の文章のいくつかの想定上の筆者の両義性を捉えている。作者は、おなかをすかせ、文字も読めず、強姦され、打たれた女性の物質的な苦しみから、彼女の理論的な目を断固としてそむける一方で、冒涜的な実践に喜びを感じる。そこに犠牲者などはいない。ただ、合図が不足しているだけである。

バトラーは彼女の読者に、この現状の狡猾なものまねが人生が提示する抵抗のための唯一の脚本だと示唆する。それは残念ながらノーである。人生は、個人生活において人間らしくある多くの他の方法を提供しているし、そして伝統的な支配と屈従の規範を超えて、人生は多くの抵抗の脚本を提示する。そしてその抵抗は、個人の自己提示に自己陶酔的に焦点を合わせるわけではない。そのような脚本は、女性がじしんの身体をどう提示するか、そして女性の身体とジェンダー化された本性がどう提示されるかといったことをそれほど重視せずに、法律や制度を形成するフェミニストを(もちろん他の人も)含む。つまり、こうした脚本には、苦しんでいる人々のために働くということが含まれているのだ。

アメリカの新しいフェミニストの理論における最大の悲劇は、公的なコミットメントの感覚が失われたことだろう。この点では、バトラーの自己陶酔のフェミニズムはひじょうにアメリカ的であり、そしてバトラーがこの国でウケていることは、驚くことではない。アメリカは、成功した中産階級の人びとは、自己を陶冶することに焦点を置きたがり、他人の物質的状況を改善するようなかたちで思考することは好まれない。しかしながら、アメリカにおいてさえ、理論家たちが公共善に献身し、そしてその努力によって何かを成し遂げることは可能なのだ。

アメリカの多くのフェミニストはなお物質的な変革を援助する形で、またもっとも抑圧されている人びとの状況に答える形で理論化を行っている。しかしながら、だんだんと学界と文化的な傾向は、バトラーとその信奉者の理論化に代表される悲観的な浅薄さへ向かっている。バトラー的なフェミニズムは、さまざまな点で古いフェミニズムより手間いらずなものである。バトラー的なフェミニズムは大勢の若い才能のある女性たちに、彼女らは法律を改正すること、腹をすかせた人に食べさせること、物質的な政治に結び付けられた理論を通して権力を攻撃することに従事しなくていいと告げる。彼女らは大学内で安全に政治を行うことができるのだ。象徴的な水準にとどまりながら、言論とジェスチャーによって権力へ転覆的なジェスチャーをすることによって。これが、バトラー的な理論が言うには、政治的行動という手段によって、わたしたちに可能なまさにほとんどすべてなのであり、そして刺激的でセクシーではないか。ささやかだが、もちろん、これが望みのある政治なのだ。それはいますぐ自らの安全を犠牲にすることなく、なにか大胆なことができるのだと人びとに教授する。しかし、その大胆さというのは、すべてジェスチャーに関することなのだ。そしてこれらの象徴的なジェスチャーというのが、社会的な変革なのだと本当に示唆する限りにおいて、バトラーの理想はニセの望みを提示するだけだ。おなかをすかせた女性はこれによって満たされるわけではない、虐待された女性はこれによって保護されるわけではない、レイプされた女性はこれによって正義を実感するのではない、そしてゲイとレズビアンはこれによって法的な保護を達成するわけではない。

最終的に、朗らかなバトラー的な試みの中心には絶望がある。大きな望み、それは法や制度が平等とすべての市民の尊厳を守る、本物の正義が達成された世界への望みは、放逐され、おそらくは性的に退屈だとしてあざけられる。ジュディス・バトラーの瀟洒な無抵抗主義はアメリカで正義を実現する難しさへの反応としては理解できる。しかし、それは悪い反応である。それは邪悪さと協働している。フェミニズムはもっと多くのものを要求するのであり、女性はもっとよい扱いを受けるにに価するのだ。

[読書案内]

  • Butler, Judith, [1990] 1999, Gender Trouble, Routledge。(=ジュディス・バトラー、1999、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社。)
  • Butler, Judith, 1993, Bodies that Matter: On the Discursive Limits of “Sex”: Routledge.
  • Butler, Judith, 1997, Excitable Speech: A Politics of the Performative: Routledge.=(ジュディス・バトラー著、2004、竹村和子訳、『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店。)
  • Butler, Judith, 1997, The Psychic Life of Power: Theories in Subjection: Stanford University Press.(=ジュディス・バトラー、2012、佐藤嘉幸・清水知子訳、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』月曜社。)
  • Chodorow, Nancy, 1978, The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender: University of California Press.(=ナンシー・チョドロウ著、1981、大塚光子・大内菅子訳、『母親業の再生産』新曜社)
  • Dworkin, Andrea, 1900, Mercy: Arrow.(=アンドレア・ドゥオーキン、1993、寺沢みづほ訳、『贖い』青土社。)
  • Fausto-Sterling, Anne, [1985]1992, Myths Of Gender: Biological Theories About Women And Men, New York: Basic Books.(=アン・ファウスト・スターリング、1990、池上千寿子・根岸悦子訳、『ジェンダーの神話―「性差の科学」の偏見とトリック』 工作舎 。)
  • Mill, John Stuart, 1869, The Subjection of Women.(=ジョン・スチュアート・ミル、1957、大内兵衛・大内節子訳、『女性の解放』岩波書店。)
  • Rawls, John, [1971]1999, A Theory of Justice Revised Edition: Harvard University Press.=(ジョン・ロールズ、2010、川本隆史・福間聡・神島裕子訳、『正義論』紀伊国屋書店。)
  • Rubin, Gayle, 1975, The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex, in Rayna Reiter, ed., Toward an Anthropology of Women, New York: Monthly Review Press; also reprinted in Second Wave: A Feminist Reader and many other collections.=(ゲイル・ルービン、2000、長原豊訳、「女たちによる交通 性の 「政治経済学」 についてのノート」『現代思想 特集=ジェンダー 表象と暴力』青土社。)

ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (1)

藤田尚志・宮野真生子「愛・性・結婚の哲学」シリーズ3巻本ってすばらしいものが出版されて、セックス哲学に関心をもつ者としてよろこんでいます 1)ぼやぼやしてたら先越されちゃった 。偉い。すばらしい。

 

愛 (愛・性・家族の哲学 第1巻)
藤田尚志 宮野真生子
ナカニシヤ出版
売り上げランキング: 351,811

 

そのうち2冊は執筆者の先生たちから献本いただいて(ありがとうございますありがとうございます私のようなものにありがとうございます)、書評や紹介書かねばと思ってたんだけどおもしろいけどけっこう難しくてなかなか書けない。でももっと売れてこの分野に読者が関心もってほしいから、ちょっとずつ紹介と短評してみたいけど、けっきょく簡単な読書ノート。私が書くとどうしても批判的になってしまったり茶々入れたりしてしまうんですが、そういうのは差し引いてください。おもしろくてたいへんよいシリーズです。まじめな書評はいずれ書きたい。

まずは『愛』の巻の論文3本から。

近藤智彦「古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚:プラトンからムソニウス・ルフスへ」

近藤先生の関心は同性婚にあるようで、ムソニウス・ルフスという古代ローマの哲学者の結婚論を中心にして、現代のカソリック哲学者ジョン・フィニス先生とフェミニスト哲学者マーサ・ヌスバウム先生の論争を検討したりプラトンに遡ったりかなり複雑な構成の本物の哲学論文で、概説ではなく、一般的な読者には歯が立たないように思いました。実は私自身も歯が立たなかった。読者としてはとりあえずプラトンの「エロース」やら「合一」や「産出」やら解説してアリストテレスのフィリアと家政やって、のちにギリシア社会とローマ社会での「(エロティックな)愛」と「結婚」の地位の変化を説明してから、必要ならムソニウス先生を検討して、それがキリスト教っていうか西洋文化に及ぼした影響みたいなのを論じる、ってふつうの順番にしてほしかった。そもそもギリシアとローマでは女性の地位がぜんぜん違うと思うし。でも近藤先生の思考の足跡みたいなのが見えて勉強になる。

 

小笠原史樹「聖書と中世ヨーロッパにおける愛」

分担のなかで、古代ギリシアの「エロース」の話は小笠原先生がやることになったわけですわね。エロースは足りないものを求める欲求としての愛です。それは美に向かいます、みたいな。んで聖書のアガペーってのは神から人間への愛。隣人愛とか。まあキリスト教の人が「愛」の話すると、かならずこういうふうになるんだけど、正直これってどうなんすかね。こういうのってドニ・ド・ルージュモン先生あたりがやりはじめた対比なんだろうけど、これって(おそらく)このシリーズ全体でやりたかった性欲と関係するエロティックラブの話とどの程度関係あるんだろう、っていつも思うです。あと、まずはいわゆる旧訳聖書でのいろんな恋愛話・エロ話は紹介してほしかった気はする。サムソンとデリラぐらい紹介してあげてほしい。サムソンかわいそうすぎる。

中世となるとアウグスティヌス先生がやっぱりセックス哲学者としてものすごく重要なわけですが、エロス/アガペーに対応するクピディタス(欲望)/カリタス(愛)、っていう対比のなかで話が進む。もっとアウグスティヌス先生がいろいろ悩んだ話書いてほしいし、例の原罪と性欲の関係の話も欲しいと思いますた。まあこのクピディタスを克服してカリタスとか隣人愛とか実践しなきゃなりません、ってな感じで中世思想は進みます。

カペラヌス先生の『宮廷風恋愛の技法』はオウィディウスの『愛の技法』と同じく、とてもおもしろく滑稽な読み物なのですが、この紹介だとなんか真面目な本みたいであれですね。アベラールとエロイーズの話も純愛ってよりはかなりひどい話(アベラール先生はこの件に関しては善人とは言いがたい)なわけですが、そこらへんもあんまり批判されてない。でもまあ愛ってのを宗教的に理解しようとするとまあこういう感じになるんでしょうか。もっとエッチな話が読みたかったけど、キリスト教学や宗教哲学の伝統の枠内で恋愛やセックスの話をするのはけっこう難しいのかもしれない。まあ中世ってたって1200〜300年ぐらいあるから一章でカバーするには広すぎる気がするけど、ポイントをうまくおさえてある。

アウグスティヌスか、アベラールか、どっちかにしぼった方が読者は理解しやすかったかもしれない。中世ヨーロッパといってもいろいろ厳しいこと言われながらみんな楽しく邪悪なセックスしていた、っていうかみんなめちゃくちゃしてから禁止したり勧告されたりしたわけで、そこらへんの歴史的事情もちょっと紹介してほしかった気はします。エッチな告解の話とかもおもしろい。フランスで研究が進んでいて、藤原書店あたりからおもしろい本がたくさん出てますね。キリスト教で結婚がどう扱われてるか、特に結婚が「秘跡」ってことになって離婚できなくなるあたりの話はおもしろいと思う。

佐藤啓介「近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論?:聖と俗、愛と情欲のあいだで」

小笠原先生がキリスト教中世までやってるので、佐藤先生はプロテスタント以降を担当する、って形になってるんだと思う。プロテスタントってことでルターからはじまってるけど、当然パウロに遡ることになる。愛と情欲の関係はどうなってますか、と。

実はこの論文には見落しがちなけっこう大きな欠陥があって、この「愛と情欲の関係はどうなってますか」という問いの情欲の方はわかるんですが、この問いが設定されるまで、「愛」の方はほとんど説明されていない。佐藤先生自身や研究会のメンバーは近藤先生や小笠原先生が設定した友愛みたいなやつか、カリタスみたいなやつって理解しちゃうんだろうけど、読者にはわからん。佐藤先生の説明では、パウロ先生もルター先生も特に夫婦間の愛情みたいなのについてはたいして言ってないわけで。パウロの「それぞれ、妻を自分のように愛しなさい」のところで出てくるけど引用内だから目に入りにくいしそれをどう理解すればいいのか、って解釈が必要だったと思うです。まあこの「自分のように愛しなさい」は「自分だと思ってエッチに愛しなさい」の意味ではないですわね。ははは。

さて、バルト先生によれば正しい結婚はどういう関係ですか。

(1) 結婚の決断がものすごく重要で、それは神の命令に服従することです。ちょっとわかりにくいんですが、まあ神様が誰と結婚するか決めてるわけでしょうが、それを「自由に」選択する、っていうそういう形になってます。佐藤先生はけっこう淡白な書き方しているんですが、まあ「運命の人」とか「私はこの人と結婚するために生まれてきたんだわ」って決断する、そういうのにすごい価値があるよ、ってことでしょうね。結婚式の日とかそういう高揚した感じをもつひとはけっこういるかもしれないし、それが神様信仰を強化するってのはありそう。

次に、(2) 生の交わりとしての結婚は「遂行すべき課題」とならねばならない、そうです。「生の交わり」っていうのはまあ性も交わってるんでしょうが、それだけじゃなくてまあいろいろ交わるわけですね。我々は結婚生活をうまくやるようがんばれねばならない、だってそれを神様が決めたことでもあり自分が決めたことでもあるから、みたいな感じですかね。たんに他人にとやかく言われずにセックスするためとか、子供つくるためとか、生活のため、とかってんではなく、人間どうしがちゃんと交わるのが目的であり課題であります。まあ神の計画なり予定なりをちゃんと遂行するのが課題。佐藤先生は「愛や情欲だけでは、神の命令を遂行し続けることはできない」っていうわけですが、それだとまあ遂行できるのはせいぜい3ヶ月や3年ぐらいでしょうからね。

(3) 正しい結婚は完全で全体的な「生の交わり」です。ここ「完全で全体的に交わる」って佐藤先生くりかえしているけどどうするのが正しく交わるのかよくわからない。まあいろいろ二人で生活をがんばる、価値観もすりあわせる、思ってることもちゃんとコミュニケーションする、とかそういうことなんですかね。ちがうような気がする。

(4) 結婚は排他的な生の交わりです。浮気とか不倫とかだめです。神様と人間の関係は一対一なので、それと同じように男女の関係も一対一であるべきだ、みたいな感じらしい。神様と人間の関係が一対一って言われると宗教的でない人間は「いや、神様はみんなの面倒見てるんちゃうか」って思ってしまうけどそういうわけではなく、信仰という形でつながるときは一対一なのだ、ってことだろうけど、それだったらセックスや結婚だって複数としても、それぞれについては一対一なんちゃうか、とかつっこみたくなってしまう。

(5) 結婚は永続的な交わりです。試験結婚とか許しません。佐藤先生ははっきり書かずに「当時の結婚に対する風潮」ってほのめかしているけど、このバルト先生の議論は1932年で、たとえば前にちょっと紹介したラッセルの『結婚論』が1929なので、直接の敵はラッセル先生あたりですわね。もちろん風潮っていうか当時の若者がいろいろしていたのもある。

とかってのが条件。異様なことに、夫婦間の愛情とかさっぱり入ってこない。これ佐藤先生は「端的に言って、バルトの結婚論において、愛はその本質を占めていない」って正しく指摘している。さっきの「愛についてはほとんど説明してないよ」っていうのは、バルト先生がほとんどなにも言ってないからかもしれませんね。でもそれならなおさら佐藤先生が結婚に必要な愛ってのはどういうタイプのものか述べておいてほしかった。

まあ横にそれちゃうけど、「神様が決めた相手とがんばる」っていう考え方の魅力もわからんではないんですよね。昔統一協会っというカルト団体とされている宗教が日本でも流行してたんですわ。この宗教では結婚がものすごく大事で、まず信者は基本的に童貞処女が望ましく、その人々は教祖が決めた相手と結婚する。集団結婚とかで100〜200人ぐらいずらーっとその日にあった相手と結婚式をあげる、みたいなんですげー。んでそれテレビでインタビューやってたの見たことあるんですが、インタビュアーが「はじめて会う人と結婚して大丈夫ですか、合わなかったらどうするんですか」みたいなこと聞いたら「神様が決めたことですから、合わないなりに二人で努力していくのです」みたいなの言ってて、感心しました。好きだほれたとかで結婚しちゃったら好きじゃなくなったら終りだけど、最初からそういうの期待してなければまあ別にロマンチック・エロチックにうまくいかなったとしても生きて交わりを保ちつづけることは可能なのかな、よくできてるな、みたいな。とりあえず神様を挟んでおけば安心。

もとにもどって、佐藤先生は「そんな正しい結婚できてる人いるんですか」って問いを建てる。バルト先生は「そんなやつおらん」とか答えてるらしい。すごいですね。ここにキリスト教の秘密がある。すごく高い要求をして、それに従えない人は罪人です。「人は誰もが情欲にまみれた「姦淫する者」であり、結婚に関する神の「命令」は、人を罪人として告発し続ける厳しい「誡め」でもある」(p.94)というとらしいです。でもキリストであられるところのイエス様はそれをゆるしてくれるのかもしれない。こういうキリスト教的なの、私はもう受けつけられない。でもキリスト教を信じるってのはこういうことなんだろうとは思うです。

References   [ + ]

1. ぼやぼやしてたら先越されちゃった

カジュアルセックスは不正か (1)

今日は1日カジュアルセックスまわりの文献見たりしておりましたです。

まあ基本はソーブル先生の事典(Sex from Plato to Paglia)のRaja Halwani先生のCasual Sexの項目見ながらもってる文献見なおしたり。

カジュアルセックスってのはまあいきあたりばったりの「ワンナイトラブ」とかそういうのね。それは道徳的に不正ですか、みたいな。不倫とか浮気とか売買春とかの流れでまあ一応おさえておかないとね。でもまあこれもあんまりおもしろくない。個人的には不正なわけないじゃん、やりたい人どうしでやりたいようにやったらどうか、みたいな感じ。

まあだいたい教科書的にどうなるのかっていうと、まずは「カジュアルセックス」て言葉を定義するのは難しいよ、みたいな。まあ哲学の議論の基本ですわね。

んでカジュアルセックスを悪いっていう人がいるけどそれはどういう根拠からそう言うのですか、みたいな。すぐに思いつくのは性病の伝染と望まない妊娠で、まあこうのはよくない。でもまあそういうのちゃんと気をつけてやることにしたらどうですか、とか。

女性がやりまくると “Slut” とか日本だと「ビッチ」「ヤリマン」って言われるけど、男性はあんまりそういうことは言われないね、みたいなことも指摘されますわね。まあSlutやビッチって呼ばれるのは女性にとってはかなり不利なんだろうけど、こういうのは社会がそういうレッテルを貼るってことだからべつにカジュアルセックスそのものが悪いわけじゃないだろうし、そう呼ばれても平気な人々もいるだろう、とか。

まあ日本では「ヤリチン」とか「チャラ男」とか言われるけど、そんなにネガティブなイメージはない気がする。どうなんすかね。まあ「そういう男と遊んでいるのは馬鹿な女だ」みたいなのはあるだろうけど、その男自体が非難されることはないような気がします。

超有力な哲学者のアンスコム先生は1972年ごろに “Contraception and Chastity”って論文書いてて、これでやりまくる人々を非難してるんですよね。「そういう行為は人間を軽薄にします」みたいな。(ちなみに与謝野晶子先生も「貞操に就いて」って文章で「貞操ってのは大事なものです」みたいな話をしてますね。)アンスコム先生がそう考えるのは、あんまりやりまくってるとミーニングフルな愛情関係が結べなくなりますよ、と。Halwani先生は「いや、それは見境なくやりまくってたらそうかもしれないけど、カジュアルにやるのがそうだとは言えないだろう」みたいな反論してます。ハルワニ先生はバスハウスとかでその場で知りあった人とするセックスにもけっこう価値があると思ってるみたいです。詳しくは知らんけど。

あとおもしろいのが、ここらでアルバート・エリス先生が出てくる。あの認知療法の「ABC」技法で有名な人。この人は60年代から70年代にかけてセックスについてけっこういろんなもの書いてるですよね。つまらない罪悪感とかで鬱になんかなってないでばんばん楽しいセックスしましょう、みたいな人。んで、エリス先生は、「性的なアドベンチャーはパーソナリティーを向上させるのじゃぞ!」みたいなことを射ってるらしい。性的に冒険すると、自己をよく知り受容すること、他の人々に寛容になること、柔軟になること、曖昧さに耐える力をはぐくむこととかそういう御利益があります。なんか大江健三郎先生の小説みたいっすね。実際なんか影響があるんだと思う。まあ冒険しておけばよかったなあ、みたいな気もしてくるものです。

それにまあ教科書的には、ここらで、たしかに親密な愛情関係はたいていの人にとって一対一とかの愛情関係は重要だろうけど、それはなによりも重要なのか、必ず必要なのか、みたいな話が出てくる。ハルワニ先生のもプリモラッツ先生のもソーブル先生のもそうなる。まあそりゃそうなんだろうけどねえ。こういう議論読むと哲学者ってつまらんなとか思っちゃいますね。男性の哲学者がこういう議論する傾向がありますね。スタインボック先生とかヌスバウム先生とか女性哲学者はやっぱり「愛情とコミットを含んだパーソナルな関係が大事なの!」みたいに力説するわけで、ここらへん性差感じます。

んで、こういう議論の本論はやっぱりモノ化ってことになるわけですわ。カジュアルセックスは基本的には(自分の)快楽のためにおこなうわけなんで、快楽のために他人を道具や手段としてあつかうのはどうか、みたいな話になる。まあこれは「性的モノ化」の議論になるわけで、カジュアルセックスそのものの問題とは言えない気がします。

あと倫理的じゃない問題として、カジュアルセックスは楽しいのか、みたいな。これは心理学的にも哲学的にもおもしろい課題かもしれないですね。(カジュアル)セックスの予感はほとんど常に楽しいけど、カジュアルセッスそのものは期待ほどよくありません、みたいな。ははは。

でもフロイト先生はなんか愛情ある関係ではセックスはうまくいきません、特に男性は配偶者より行きずりの相手の方が満足する傾向があります、みたいなことを言ってるらしいですね。まあフロイト先生らしい洞察な気がします。またフェミニストの人に怒られますよ。とりあえず確認してみよう。

まあこういうのも私は進化心理学やら社会心理学やら社会学やらの知見入れて議論したいと思いますねえ。どうも読んでて議論がつまらん。哲学者たちのよりフロイト先生やエリス先生の方がおもしろいと思っちゃう。こういうの読んでるより『江古田ちゃん』とか『アラサーちゃん』とか読んでる方が勉強なるんちゃうか、みたいなことも思ったり。

まあここらへんそんなおもしろくならない、っていうか私自身があんまりおもしろいとは思ってないわけですが、なんかチマチマ書いてるうちにおもしろくなってくるのではないかと思ってメモ。

あんまりカジュアルセックスしてる人(男性)はちょっと脆弱な女性のなんか搾取してることもけっこうあるんちゃうか、とか、女性にとってやっぱりあんまり性的に活発なのは(それが大丈夫な人は別として)自傷傾向のひとつなんちゃうか、みたいな感じはないわけではないけど、まあそれも余計なお節介かもしれないんで、簡単にそういう判断しちゃうのは避けたいですね。あとまあ性的にそれほど活発でない女性からすると活発な女性は邪魔者というかそういう側面はあるんちゃうか、みたいなことも考えます。でもこれもあんまり倫理学や哲学の領域ではない気がする。

まあここらへんの不倫やらヤリマンやらのセックスまわりの問題は20世紀前半までは神学や倫理学の問題だったけど、フロイト先生たちの努力で精神医学やセラピーとかの問題になった、っていう知見を得たような。「どうやって我慢しますか」みたいな問題から「まあとにかく夫婦で楽しいセックスしましょう」みたいなのに問題が移っていったんだわね。道徳の問題から病理の問題へ、みたいな。ヴァンデヴェルデの『完全なる結婚』とか。フーコー先生は怒るかもしれないけど、まあそれ自体は悪いことじゃない気がする。

あとあれですな。セックスと愛情を結びつけたい、結びつくのが当然だ、結びついてないのは不正だ、みたいな女性ライターたちと、いやそういうもんではないだろう、みたいな男性ライターたちの態度の違いがはっきりしていて、こういうのからするともう男女の間のセックスの見方ってのはほんきでぜんぜん違うもんかもしれないと思わせますね。まあ誰でもわかっていることなんだろうけど。

さらにあれですな。どうもここらへんの議論は「〜は不正ですか」「許されますか」みたいな話ばっかりになっちゃってあれなんだよな。哲学とか倫理学とかって非難や禁止とその理由ばっかり考えてればいいもんではないだろうという気はするです。よい人生においてよいセックスはどんなセックスですか、みたいな話が読みたい。意外に「ある程度非難されたり馬鹿にされたりしても、いろんな人とセックスした方が人生豊かになるんちゃうか」みたいな話はあるんではないかな。そういうんでエリス先生の論文は読んでみたいので注文しますた。

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『フェミニストの法』続き(おしまい)

メモだけ。今日のはあんまり重箱ではないはず。

法において身体の具体性を考えるとき、具体的な身体を有する者として我々の頭に真っ先に浮かぶのは誰であろうか。女性、障害者、中間的セックスの人びと、性同一障害者、ゲイ・レズビアン、子ども、老人として名付けられた人びとではないだろうか。 (p. 166)

  • 私の発想とはずいぶん違うけど。法学者はそうなのかな。中年男と若くて健康な女性を思いうかべる。これはすでにスケベオヤジだから。
  • 「中間的セックス」。だいじょうぶ?
  • なんかへんな二分法やカテゴリーにとらわれてるのは若林先生じゃないのか?っていう疑問が。

そうした人びと〔ゲイ、レズビアン、中間的セックスの人びと*1〕は自身がヘテロセクシスト的なジェンダー規範を内面化しているがために、自己評価が低く、ともすれば、自己の身体、欲望、活動、人生設計を価値のないものとして捉えてしまうことになるのである。(p.167)

  • ほんとにだいじょうぶ?
  • セクハラ関係で裁判で使われる「合理的な人間」という基準を、「通常人(=男性)」でも「通常の女性」の基準でもなく、ドゥルシラ・コーネル風の「自己と他者の性的な自己想像を尊重する人間の基準」として解釈しよう(pp.169-170)ってのはわからんでもないが、実質的にどういうことかはっきりさせてくれないと。自分と相手の「両方」の性的な自己想像なるもの「平等に」配慮する人はどういう判断をするのよ。そんな基準があるの?それ自体が正しいセックス*2、あるべき性的人間像、正しい性的自己想像のありかたをを人びとに押しつけることにはならないの?
  • p.170下の方。これがふつうのリベラルな理想でなくていったいなんなのかわたしにはわからん。

こうして既にジェンダー化された女性が、自由な人格となるプロセスに従事する条件が与えられることによって、性的な欲望も含めて繰り返し自分自身を解釈し、肯定し、また自己のあり得る姿を想像することができるる。それによって、女性は自尊心を育て、自己の選択にも自身をつけていくだろう。このことは、男性、ゲイ・レズビアン、トランスジェンダー、トランスセクシュアル、中間的セックスの人びとの自己解釈と自己肯定にもつながると思われる。(p.170)

  • たとえばポルノマニア、ロリコン・ペドフィリアの人とか真正サディストの人とか、共依存する人びととかどうよ。ドンファンや風俗マニア、痴漢実存、穿き古しパンツフェチ、女子大生ゴミフェチはどうよ。そういう人びとは繰り返し自己解釈し自己肯定するべきじゃない?*3やっぱり結局危害原則みたいなもので線ひきするんだろうな。でもそういう人びとのことを本当に考えているかな?若林先生の頭に一瞬でも思い浮かんでいるだろうか?
  • 自由な人格。若林先生が思っている「自由」ってだけ?それとも「本当の」自由があるの?積極的自由?消極的自由と福祉リベラルで十分じゃないの?
  • 自尊心重要。でもそんなに若林先生以外の女性は自尊心を奪われてるのかなあ。「本当の」自尊心を奪われてるの?
  • 「「女性の仕事」の価値を正当に評価する」p.171。この表記だいじょうぶ?女性女性ってそういうのが二分法なんじゃないのかいな。ここの節のむすびはこんな感じ。

以上のような想像的な議論から、これまで女性と関連付けられ、賃労働と比べて低い価値評価しか得られなかったケア労働が、重要な基本財として正当に評価され得るのではないだろうか。それによってまた、女性が—そして将来的にはジェンダー、セクシュアリティにかかわりなく人びとが—ケア労働にかかわりつつ、自己の善の構想を「自律的に」追求していくことができるようになるのではないかと思われるのである。(p.181)

  • わかるんだけど、二分法うたがうってのなら、やっぱりこの「女性が」ってのがまず出てくる書き方は不用意すぎるんじゃないのか。まあフェミニズムだからそれでいいんだけど。
  • 「自律的」が引用符でかこまれているのはやっぱり「本当の」自律とそうじゃない自律があるのかもなあ。
  • (若林先生の議論とは直接関係ない自分用メモ。ケアが基本財だってのは当然だし、「ケア」を労働ととらえるってのはわかるんだけど、それって大丈夫なんかなあ。もちろん、「ケア」って呼ばれてるものの物理的な側面が労働になりえるのはわかる。でもたとえば「愛情労働」ってのはありえるのかな。ここらへんは私が「ケア」まわり勉強してないからわかってない。)
  • やっぱり若林先生の本もミル、セン、バトラー、アイリス・ヤング、アーレント、ベンハビブ、ロールズ、ロナルド・ドゥオーキン、マリ・マツダ、コーネル、ナンシー・フレイザー、井上達夫、岡野八代と華々しい名前がどかどか出てきてけっこう肯定的に評価されてるけど、これらの相互に矛盾するように見える考え方をどう整合的な筋にまとめているかってのがわからない。こういう人びとの議論の結論だけが使われていて、その議論の中身を捨象しちゃってるから。これはすごく不満。ヌスバウム*4もこういうのは不満だと思う。

〔多田富雄先生が同性愛にも生物学的基盤があるようだという見解を紹介していることについて〕同性愛が人間の意志によってどうにもならないことであると想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだことについては非難可能性が高いということを意味する。二元的なジェンダー構造にあてはまらない人びとの中には、トランスベスタイト、トランスジェンダー、トランスセクシュアルの人、ホモセクシュアル、バイセクシュアル指向を有する人、相手の身体にではなくジェンダーに性的欲望を抱く人……と様々であり、その中には生物学的な要因が見つからない場合もあれば、自分で選択する場合もあるだろう。(p.16の注)

  • だいじょうぶ?不用意すぎる。この手の話をしようとするにはあまりにもナイーブすぎるんじゃないの?
  • 生物のどんな欲望も生物学的な要因をもっているはずです。そうでないなんて考えられない。
  • だから、上のような「逸脱的」な人びとについて「生物学的な要因が見つからない場合もあるだろう」なんて考えることそれ自体が、若林先生が実はそういうのがなにか説明を要する異常だ(ホモにはなんか「特別な原因」があるはずだ)と考えていることを暴露しちゃってます。だめすぎ。
  • 生活様式や行為についてはたいていの人は自分で選択しているでしょう。
  • 若林先生はなんらかの欲望を意志できますか?ライフスタイルは選択できるとおもいますが、性指向を「選択」できますか?
  • ある物理的動作について、それが「意志」によって選ばれたものであるばあい(そしてそれが人びとに危害を加えるものである場合)非難可能性が高くなるのは当然だと思います。
  • 誤解のないように書いておくと、私は上にあげられてるのはどれも非難に値するものではないと思います。ヘテロセクシュアルな欲望がいくら生物学的な要因にもとづいたとしても、それにしたがって強姦したらそりゃ非難されるべきだとも考えてる。
  • この部分で参照されている伏見憲明先生の本(『ゲイという経験』)は未読だけど、伏見先生はこういう不用意なことは言わないんじゃないかと思う。あとで読んでみよう。
  • 全体を通して、若林先生はもっと性的マイノリティーについて真面目に考えてみるべきなんじゃないかと思う。いまのところ多数派女性のため*5の「フェミニズム」を、もりあげたり修正したりして政治的に正しいものにするための道具に使っている印象を受けちゃって、どうしても厳しい読み方しちゃう*6。これが誤解であるとよいと思う。最近のフェミニズムまわり読むと不快な気分になることが多い。いやもちろん私は常にマジョリティーの一員であることをめざしているので詳しくは知らんのだけど、この本で書いてあるようなものではないんじゃないかという印象はある。よくわからん。
  • あと若林先生が典型なんだけど、法学・政治学関係の人が自然科学的な知見*7の引用に、自然科学者じゃなくて社会学・人文学者参照するのがぜんぜんだめだめ。社会学関係の人はあやしげな一昔前の自然科学を根拠にしてるわけで、それの孫引きみたいな形になっちゃうから。自然科学の発展は人文社会系よりはるかに速いので、そこらの社会学者なんかをその手の話の権威としている場合ではない。もちろん社会学者の知見を導入するのはとてもよいことだけど、直接自然科学の知見もとりいれてほしい。法学者は法学者として法学の伝統をもうちょっと教えてほしい。
  • 正直なところ、フェミニズムにはまたさらにちょっと距離を感じ、それに批判的な立場に近づいてしまった。まあ私凡庸なオヤジだからなあ。

二日前のに対する追記

バトラーのクラスの怪文書事件がなんでこんなに気になるのか考えてみた。あの文章は、ダートマス大学に対する誹謗中傷になってるからなのだ。あれほどなにが起こったかわからない文章にもかかわらず、とりあえず読者にはダートマス大学というのがレイシストやセクシストのスクツであるように見え、学生の質は小学生なみに見え、さらに、大学当局の対応を書かないことで、なにも対応できない無能な当局であるような印象を与える。これやっぱり明らかな不正な行為だろう。

そんな事件が起こったらクラスで真面目なミーティングしなきゃならんし、当局に相談もしてそれなりの対応をとらなきゃならんだろう。シャレですまんよ。ダートマス大学と学生に対する名誉毀損じゃねーの?

これが民主主義に必要な遂行的矛盾とやらなのだろうか?すくなくとも、言論や表現の自由とその規制について真面目に考えている人間がやることではない。

そしてそこを素通りする若林先生も、ほんとうに表現について真面目に考えたのか疑わしくなっちゃう。(いや、考えているとは思うんだけど)

おそらくあそこの記述は、中傷的表現のパロディーになってんのね(ちなみに全体はおそらくデリダとサールとの論争のパロディー)。とにかく国内のジェンダーまわりの研究者はまじめすぎて、そういうのが見えなくなってしまうのかもしれんなあ。パロディーパロディーとか言うんだったらもっと軽く笑わせてくれ。とにかくもっとクリティカルにいってほしい。私も真面目にクリティカルにやりたい。*8

二分法に関するメモ

あんまり否定的なことばっかり書くのはあれだから、読者にちょっとだけ情報提供してみよう*9。(どうも誰でも知ってることだろう、とも思えないので)

諸概念に関する二元的指向は二つの作用を内包しており、それらの作用によって女性は差異化されている。一つは性別化(sexualization)であり、もうひとつは階層化(hierarchization)である。能動/受動、文化/自然、精神/身体、理性/感情、論理/直感、仕事/家庭、公/私などの二項対立的諸概念は、前者が男性、後者が女性に結び付けられるという性別化と、価値的に前者が高く、後者が低いという階層化を同時に伴う*10。(p. 165)

とかまあそういう話。第一章とかでも男性/女性とかっていう二分法はやめたらどうかっていう話が出てきていて、まあそれはそれでわかる。

問題は、それに替えるべき対案としてどういうのを用意するか。90年代のジェンダー論とか、こういう「二分法や二項対立を捨てよう」ってときに、「中間もあるから」とかって話になっちゃうのがだめなんだよな。たとえばそれはセクシュアリティと性自認の関係とか考えるとわかる。

80年代ぐらいまではそういう一元的スペクトルが流行ってたみたいね。片方に女性的なんがあって、片方に男性的なんがあって、それぞれの人はそのどっかに位置すると考えられたりする。しかしこんなナイーブな考え方はもう多くの分野で捨てられていると思う。残ってるのはフェミニズム関係ぐらい。身体にしても性欲にしても、そんなきれいなグラデーションになんかなってないじゃん。ポピュレーションにちゃんと山があってかなり明確に分かれているのは誰だってはっきりわかってるはずだ。そもそも男っぽいとか女っぽいとかってそんな単純が概念じゃないっしょ。性欲とかってのはもっと複雑でしょ。性同一性障害の人とか身体的に半陰陽の人とか、「中間の人」とかじゃないっしょ。それなのに古くさいグラデーションだの中間だのっての言ってるのがもうだめだめ。

私がセクシュアリティとかジェンダーとかについて可能性がありそうだと思っているのは因子分析的多元的理解(これ自体古くさいけど・・・なんかはずかしいなってきた)。性格心理学なんかでもパーソナリティーをいくつかの主要な因子に分解して理解されているはずだし(現在はbig5とか)。

たとえばLoftus et al., Human Sexuality (Peason) *11 っていう性科学の教科書では、ホモセクシュアリティに関しても、キンゼー流の一元的スペクトル的理解(かたっぽにホモがいて、かたっぽに異性愛がいて、その中間にバイセクシュアルがいる)に替えて、異性愛傾向と同性愛傾向の二つの尺度によるマトリックス的な理解が紹介されている。異性愛傾向と同性愛傾向は独立で、両方好きな奴(性の巨人?)もいればどっちにも消極的なやつ(アセクシュアル)がいる。私自身はこれ見たときにはたと膝を打ちたくなった。ほんとは二次元じゃなくて、もっと詳しく見れば他にも「犬好き」「ストッキング」「コップ」とかいろんな次元があるんだろう。性欲は難しい。まあやっとそういうレベルに性科学が進んできたということでもある。

「男らしさ」なんてのは多様な因子のクラスターのようなものにすぎん。「スケベ」とかだって、おっぱい好きとお尻好きとクビレフェチとかもそれぞれ独立かもしれんぞ。レズっ気あんまりなくてもおっぱい好きな女性とかも多いだろう。

こう見ると、以前に逸脱的と思われていた傾向がよりよく理解できるようになるかもしれん。とにかくこういう理解ってのはずいぶん見通しをよくしてくれるのがわかる。「性自認」と「性的指向」もまた分けて考える必要があるし、ここらへん昔ながらのジェンダーもセクシュアリティーもごっちゃにしている理解は時代遅れなわけだ。

まあそういう心理的・社会的な欲求その他を要素に分けてみると、いくつかは伝統的な見解と一致したクラスターをなしている可能性も十分にあるんだろうけどさ。でもいったんこういう分析的な視点を手にいれれば、なんかいいことがいろいろありそうだ。最近とあるブログで話題にされていた「男と女は相互補完的で」とかって馬鹿げた発想のどこが馬鹿げているかもこういう視点を手に入れれば理解しやすくなるんじゃないだろうか。

でまあ「中間が」とかって話を見るたびに、なんかそういう理解自体が二分法/一元的理解やタイポロジーにもとづいているのがわかってしまい、もう古くさくて使えないだろうと言いたくなるわけで。

で何が言いたいかというと、フェミニズムもそろそろ古くさい「二分法は卒業しましょう」とかってスローガンだけじゃなくて、それに影響されて発達しているもっと実質的な研究をとり込んで刷新するべきなんじゃないかなとかそういうこと。若い人にはがんばってほしい。あら、まとまらなかった。まあこの項はただの与太話。

*1:女性も入るのかもしれない。

*2:それはどんなものか。

*3:フェミニストの多くがよくわかってないのは、上に書いたような人びとってのは「男社会」のなかでもなにも肯定されてないってことなんだけど、わかってもらいにくいみたいね。

*4:あ、昨日から敵だったんだ。

*5:あるいはエリート女性のため。上野千鶴子が「ゲイとはいっしょに戦えん」とかっていってたのは、ある意味正直で好感もてないわけではない。

*6:いや、かわいそうなマイノリティをダシにしてはいけません、ってんじゃなくて、もうちょっと調べてみたいものだ、と。うまく説明できない。ただのとおりすがりに言及するだったらとくに気にならないんだけど。なんか表層的な理解のまま重要な論点(あるいは中心的な論点)に使っている場合が多い印象がある。もっともマイノリティを自称する人びと自身が書くものもいろいろ問題があるような気はする。これ難しいやね。

*7:ここでは心理学も自然科学の組に入れましょう。

*8:おそらくアメリカのその手の業界の人びと(学会ホッパー)は学会だのなんだので顔会わせて、いろいろ個人的なこと(たとえば飲み会でなに喋るか、どういう冗談を言うか、誰を連れて二次会から消えるか)とか知ってんだよな。狭い世界だし。それを本や論文とかでは婉曲的な表現でいろいろやってる。国内にいて真面目に本だけ読んでるとそういうのわからず真面目に読んじゃったりして。かっこわるい。後進国。参考文献はデビッド・ロッジの一連の大学ものとか?

*9:稲葉先生からトラックバックいただくといきなり読者が増える。

*10:この若林先生の文章は、「二分法」と「二元論」の区別をちゃんとしていないかもしれない。

*11: ISBN:0205406157 高いよ。でもそれだけの価値がある。

『フェミニストの法』続き

昨日書いた部分はけっこう気になっているので、もうちょっと。(下では最初、subversiveを「攪乱的」と訳してたけどやっぱりなんかおかしいので「転覆」に一括置換した。よけいにおかしくなったかもしれない。)

pp. 136-139 でだいたいジュディス・バトラーの立場を共感的に紹介。まあだいたい国内で標準的な理解*1。で、次にヌスバウムの批判の紹介。(1)現実問題の解決に役立たない。(2)規範理論がない。

(1)の方は実践的に重要なんだけど若林先生の反論があんまりおもしろくない(「いろんなやりかたがあっていいでしょ」っていう感じ)ので、とりあえず(2)。

彼女〔ヌスバウム〕の批判の第二点目は、〔ジュディス・〕バトラー理論に規範理論が欠けているということに関してである。ヌスバウムによれば、バトラー理論に規範理論が欠けているために、抑圧的なジェンダー・システムの攪乱が社会的に良いことであり、正義規範の攪乱が社会的に悪いことであるという区別をつけることはできない。バトラーの理論が開放的に見えるのは、読者がそこに、人間の平等と尊厳という規範理論を暗黙のうちに挿入するからである。バトラーが、普遍的な規範的諸観念を、「同一」という記号のもとで植民地化しようとするものとして批判するのに対して、ヌスバウムは、我々は普遍的な規範に謙虚であるべきであり、抑圧されている人びとの経験から学ぼうとしなければならないと主張する。(pp. 140-141)

 

ヌスバウムの翻訳がないと思うから、該当する箇所を超訳。

私のように、現代のロースクルールでフーコーを教えてみればよい。すると、すぐに、転覆てのもがいろんな形をとりかたをすることがわかるだろう。それらがすべてバトラーやその仲間たちにとって好ましいものというわけではない。リバタリアンの鋭い学生は私にこう言った。「なぜ僕が、こういうアイディアを税制や差別禁止法に反対したり、あるいは民兵になったりするのにするのに使っていけなんでしょうね?」と。彼ほど自由解放が好きではない人びとは、転覆的なパフォーマンスをクラスでのフェミニスト的意見を茶化すのに使うかもしれない。あるいは、レズビアン・ゲイ法学学生団体のポスターを剥ぎとるかもしれない。これらのことは実際に起っている。こういうパフォーマンスは、たしかにパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、こういったパフォーマンスが革新的でよいものだ、とはいえないのか?

そう、こういった問題にはよい答がある。しかしそれをフーコーやバトラーに見つけることはないだろう。こういう問いに答えるためには、人間がどういう自由や機会をもつべきであるかを論議する必要があり、社会制度が人間を手段ではなく目的として扱うということはどういうことかを話しあう必要がある。つまり、社会的正義と人間の尊厳についての規範的理論が必要なのだ。我々は自分たち自身の普遍的規範(our universal norms)については謙虚であるべきでありそれゆえ抑圧さている人びとの経験から学ぼうとするべきだと考えることと、規範はなにもいらないと考えることとはまったく違ったことである。フーコーは、バトラーとは違って、少なくとも後期の著作ではこの問題に取りくんでいる様子はある。そして彼が書くものは、社会的抑圧とそれがもたらす危害についての激しい感覚によって活気づけられている。

たとえば、(個人的徳として理解される場合の)「正義」が、バトラー的な分析ではジェンダーの構造をもっていることを考えてみよう。正義は、生得的なものでも「自然的」なものでもない。それは反復的なパフォーマンスによってつくありあげられ(あるいはアリストレスが言うように、それをなすことによって学ばれ)、われわれの性向を形作り、またその一部の抑制を強制する。このような儀礼的パフォーマンスと、それにともなう抑圧は、社会的権力のarrangementによって強要される。それはたとえば、遊び場を独り占めしようとする子どもがすぐに身をもって理解することだ。個人生活だけでなく政治においても、正義のパロディー的転覆はどこにでも存在する*2。しかし、ある重要な違いがある。一般にわれわれはそういった転覆的パフォーマンスを嫌い*3、また、若者たちが正義という規範をそのようなシニカルに見ることは強くdiscourage*4されるべきだと考えている。バトラーは純粋に構造的・手順的な仕方では、なぜジェンダー規範の転覆が社会的によいものである一方、正義規範の転覆が社会的に悪いものであるのかを説明することができない。フーコーがアヤトラ〔ホメイニ師〕を応援したことは記憶しておくべきだ。たしかに、なぜ彼がそうしてならないのか?あれもまたレジスタンスだったのであり、〔フーコーの〕テキストのなかには、あの〔ホメイニの〕闘争が、市民的権利や市民的自由を求める〔ヌスバウムにとってもっと重要な〕闘争ほどの価値はないと教えてくれるものは実際のところなにもないのだ*5

けっきょく、バトラーの政治の観念の中心はからっぽの空き地なのである。この空き地は解放的に見えるかもしれない。なぜなら、読者が暗黙のうちになんらかの人間の平等や尊厳などの規範的理論でその空き地を埋めるからだ。しかしここでまちがいがないように。バトラーにとっては、フーコーにとってと同様、転覆は転覆であり、それは原則的にどんな方向にでも行けるのだ。実際のところ、バトラーの素朴な空っぽの政治は、彼女がこよなく愛している大義causeにとって特別に危険なのだ。というのは、異性愛的ジェンダー規範の抑圧性を明らかにしようという転覆的パフォーマンスに熱心なバトラーのお友達たち一人一人それぞれに対して、1ダースほどもの納税規範に反対し、差別禁止に反対し、同級生に敬意をもつことなどに反対し、それらをあざけり笑おうとする人びとが存在するのだから。そういう人びとに対して、われわれは、「あんたはあんたの好きなようになんにでも抵抗できるわけじゃない」と言わなければならない。というのは、これらのふるまいを悪しきものだとする公正、品位、尊厳といった規範が存在するからである。しかしそうしようとするならば、われわれはそういった規範を明確に表現しなければなない—そしてこれがバトラーが拒否することなのだ。
(http://www.akad.se/Nussbaum.pdf だと9ページ目から。)

うまく訳せないところがけっこうある。ごめんなさい。このヌスバウムの批判についてはまあちょっとアレすぎるかな、とは思うけど、まあ全体としてはそうなんじゃないかとか個人的には思うのだが、どうか。ヌスバウムの文章は骨太で怒りに満ちててかっこいい。

一番上の若林先生の要約がここらへんのうまい要約になっているか、というとちょっと微妙だと思う。「ヌスバウムは、我々は普遍的な規範に謙虚であるべきであり、抑圧されている人びとの経験から学ぼうとしなければならないと主張する。」ここで終るのは微妙におかしいっしょ。あ、それに「普遍的規範に謙虚であるべき」はあきらかに大きな誤読だね。「自分たちが信じてる規範が普遍的だと思いこむのはだめだよ」って言ってるわけで。ぐは。かなり致命的。だいじょうぶかな*6

んで、上のヌスバウムの紹介につづくのが昨日書いたこれ。

確かにバトラーは、規範理論を明示的な形で展開してはいない。しかし、『触発する言葉』において、教育の場における憎悪表現の使用がその種の言葉の使用を煽ることになったというバトラー自身のエピソードは、ヌスバウムが危惧しているところと一致しており、また別の場所でバトラーは、民主主義を擁護することを示している。 (p. 141)

「ヌスバウムが危惧しているところと一致」はアナクロかもしれない。むしろヌスバウムはExcitable Speechの昨日あげた部分を読んだ上で、自分の体験もまじえて批判書いているはず。おそらくヌスバウムは現場の教師として、あの曖昧模糊としたバトラーの記述からなにが起こったのかを十分具体的に推測できたのだろう*7

問題は、「民主主義を擁護することを示している」。ほんとか?

この論点の根拠として示されているのは『触発する言葉』のp. 137とp. 140。

あいかわらずなにが書いてあるのかわからん文章だけど、該当箇所は

自分の発言に他人がどんな意味を与えるか、どんな解釈の衝突が起こりうるのか、解釈の差異をどう裁定すればよいのかをまえもって知ることなどできないゆえに、この種のリスクや被傷性(ヴァルネラビリティ)は、民主主義のプロセスにはそもそもふさわしいものである。(p.137)

上のはハーバーマスの議論をいつものようにごちゃごちゃやっている部分の一部。
ハーバーマスの言い分なのかバトラーの言い分なのか、ハバマスあたってみないとかわからんような
書き方。しんどいので今日はやめ。

行為遂行的な矛盾を発することができるというとは、けっして自己破壊的な試みではなく、逆に行為遂行的な矛盾は、普遍に関する歴史的基準を継続的に定めなおし、練り上げていくためには、必要であり、それこそ民主主義が未来に向かって進展していくときには不可欠である。(p.140)

こっちはとりあえずバトラー自身の主張に見えるが、実質的にどういうことを言っているかはわからん。原文は “In this sense, being able to utter the performative contradiction is hardly a self-defeating enterprise; performative contradiction is crucial to the continuing revision and elabration of historical standard of universality proper to the futural movement of democracy itself.” なんじゃこら。”proper to” がどこにかかるのかわからんなあ。historical standardなのかな。最初の”hardly”も曖昧すぎる。

まあともかく、こんな文脈の参照二つ程度で、ヌスバウムに噛みついて「バトラーは民主主義を擁護している」と言えるのかな。そういってしまいたいのなら、ヌスバウムが指摘している「空き地を自分で埋める」を若林先生がやってしまってないって証拠が欲しいところ。かつ、もしバトラーが民主主義なりなんなりを擁護しているとしたら、そのバトラーの立場が、単なる彼女の好みとかっていう偶然的なものではなく、彼女の理論的枠組のなかでうまくなんかの形で必然的にわれわれに要求されることを示さないとならんことも上のヌスバウムの引用からわかると思う。これは難しい課題に見える*8

だからこれじゃ私は納得しない。

追記思いつきメモ

  • 「正義」という言葉の重さヘビーさを国内の論者はあんまり理解していない可能性がある。ヌスバウムがなぜバトラーに怒るのかってのは「正義」の重さがわからんとわからん。おそらくある種の人びとにとっては、「なにを茶化してもいいけど正義だけは茶化してはいかん」なんだと思う。あるいは、「正義」と「怒り」は密接な関係にある。単なる「公正 fair」だけではない。その重さがわかるかどうか。「善意benevolance」や「慈善charity」とかとは質の違う重さがある。「正義」は人びとの「幸福」だけではなく、人の生き死に、殺しあいにかかわるものだ。もちろん善意や慈善が正義より価値が低いと言いたいのではない。「正義」の血腥さを理解しているかどうか。

別のところに書いたが、

ヌスバウム一問一答

Which living person do you most despise, and why?
あなたがもっとも軽蔑する人はだれですか?

I don’t waste time despising people. Anger is much more constructive than contempt.
わたしは誰かを軽蔑したして時間を潰したくはないわ。怒りの方が軽蔑よりずっと建設的よ。

  • 真面目。ドイツ人であれば Ernst って呼ぶやつ。ヌスバウムはこれこそが重要だと思ってるんだろうけど、現代ではかっこわるいかもしれん。若林先生自身はこの徳をもってると思うんだけど、なんでそういう人がポストモダンなんだろうか。わからん。

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ショック

実は私は今日までヌスバウムの写真とか見たことがなくて、Hiding from Humanityの表紙絵はヌスバウム本人が脱いだんだと思っていた。勇気があるなあ、とか。だから私のなかでのイメージはこれだった。(なんかいろんなものが伝わってくるよい絵だと思う。)

 

ところが、Wikipdeia見るとこれ。http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Nussbaum_Martha2.jpg

 

ぐは。パツキンスマートベッピン金持ちエリート正常健康貴族的、つまり無敵。

やられた。うかつだった。そりゃ保守的にもなるだろうよ。アレテーもエウダイモニアも好きだろうよ。バーナード・ウィリアムズもかわいがってくれたろうよ。もうヌスバウム応援するのやめるし。今日から敵。

*1:もちろん私にははっきりとはつかめない形なのだが。

*2:ここの訳特に自信がない。

*3:おそらく英語圏ではバトラーの「転覆的パフォーマンス subversive performance」という表現は、「おふざけのおバカさわぎ」の婉曲な表現と理解されているのだと思う。この理解が正しいのかどうかは難しいが、渋い竹村訳とかではそういうニュアンスはわからんと思う。「クィア」な人びとの一部とカタブツのひとびととの現実生活での断裂がかいま見える。国内の研究者はどの程度そういうのを意識しているのか。特にフェミニストの人びとはどう考えているのか知りたいところ。私はどっちも知らない。

*4:すぐに訳せなかった。こんなのも訳せないなんて!

*5:イラン革命とフーコーの関係については誰かちゃんと解説してほしい。とりあえずここらへんか。

*6:もしこれほんとに誤読してるんならたいへん。私の勘違いであることを祈る。

*7:ここらへんはアメリカで教師をすることの困難さを感じさせる。ヌスバウムの書いていることはわかる。ヌスバウムは大学名を明かさずにだいたいどんなことがあったのか推測させてくれるが、バトラーは大学名学科名は明らかにしたのに何が起こったのかはあきらかにしてない。

*8:それがまったく不可能だとは思わないので、バトラーで行くぞってのなら腕を見せてほしかったと思う。

若林翼先生の『フェミニストの法』読んでみる。

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

気鋭の若手法学研究者*1。私は若手研究者が好き。若い人は覇気があり勉強していてすばらしい。気になったとこだけいつものように重箱の隅。

〔ポルノに反対する〕第二の議論は、ポルノグラフィの撮影において、現実に男性によって女性が暴行され、強姦され、そして時には殺人まで行われる、というものである。 (p.84)

バクシーシ山下やバッキー栗山とかルーシー・ブラックマンさん事件とか実際に起こってるんでまあOKなんだけど、この「ポルノ撮影のために殺す」ってのはなんか誤解をまねくんじゃないかなあ。ブラックマンさんのは殺してついでにビデオとったんじゃないのかな。わからんけどね。まあ闇でなにがあるかわからんけど。この一文についている注がマッキノン。

〔注〕14 女性は、「猟奇ビデオ(snuff film)を創るために実際に殺されている。MacKinnon, Not a Moral Issue ~ 略。(C. マッキノン『フェミニズムと表現の自由』のp.455)

こういうのはちょっと困るんだよな。スナッフフィルムの実在の注にマッキノン使われるのは困る。マッキノン自身がスナッフフィルムの実在を確認したわけじゃないので。これマッキノン読んでない人は、マッキノンの本にはその事実が書いてあるんだろうと思いこむだろう。まああっても不思議はないんだけど、誰も見たことがない、それがスナッフフィルム。

だいたい、その手の興奮を味わうために実際に人を殺してビデオ作る連中がいるとしたら、そりゃ若い女の方があれかもしれないけど男だってあれなんじゃないのかな。だからもしあるとすれば、「殺人ビデオのために人間を殺すやつらもいる」なんじゃないかな。「女が」と強調する必要あるんだろうか。あるか。

アクション映画とかのために死んでる男もけっこういるだろうし。ボクシングやプロレスも危険。そういやタルコフスキーが牛に火をつけて走らせて地域の農民から囲まれて殺されそうになったとかって話もあり。まあここらへんとポルノの話はぜんぜん違うか。すまんすまん。

しかし、『触発する言葉』において、教育の場における憎悪表現の使用がその種の言葉の使用を煽ることになったというバトラー自身のエピソードは、ヌスバウムが危惧しているところと一致しており、また別の場所でバトラーは、民主主義を擁護することを示している。 (p. 141)

さらっと書かれているけど、これも気になる*2。正直なところ、このバトラーのエピソード(Excitable Speechのpp.37-8、『触発する言葉―言語・権力・行為体』だとpp.58-9)記述がぼんやりしていてわけわからんのでずっと気になっている箇所なんだが、若林先生はどう読んだんかな。

そういえば、1995年の夏、ダートマス大学の批評理論学科で、その種の言葉の例を出すことがその言葉の使用を煽ることになるという、やっかいな体験をした。たぶんシラバスに反応したのだろう、ある学生が、その授業を受講しているさまざまな学生に悪意に満ちた手紙を送り、彼らの人種やセクシュアリティについて、「じつは知っているのだぞ」という憶測の文面をよこした。・・・例としてあげたトラウマが、いわば無署名の手紙というトラウマとなって返ってきたのだ。のちに教室の中で、教育的目的のためにこのトラウマがふたたび反復されることになった。しかしトラウマについての言説を刺激したことは、トラウマの改善のためにははたらかなかった。ただし、感情を交えずそういった言葉を吟味していくことは、その発言に付随して(一部の者に)触発される感情の奔流を、若干改善することになりはした。・・・(『触発する言葉―言語・権力・行為体』, p. 58)

わけわからんよな。翻訳もあやしいと思う。「実は知っているのだぞ」のところは “A student, apparently responding to the course content, sent hateful letters to various students in the class, offering “knowing” speculation on their ethnicity and sexuality;”とか。「シラバス」じゃなくてcourse contentだから実際に授業している内容。「知ったかぶった憶測を」じゃないのかな。わからん。。knowingがわざわざ引用符に入っている意味もわからん。「触発される感情の奔流」のところは書名の「触発された~ excitable」に直接関係しているように見えるけど、実は”the rush of excitement”で関係あるのかないのかわからん。

まあなにが起こったのかが(おそらく)意図的に曖昧にされている文章なので、これ訳せなくてもしょうがないと思う。ふつうだったら「これこれこういう内容で」「クラスではこういう話をして」「そしたら学生はこう反応して」ぐらい書くもんだろう。この文章はバトラーから見た思い込みだけが書いてあって、私にはなにも信用すべきところがない。こういう文章は私には読めない。

私の想像では、「攪乱するんだ!」「意図的に誤用するんだ!」とかってみんな言ってるから、「ほんとにおまえらそんなことできんの?」とかって挑戦してみたんじゃないかと思うんだけど*3。(竹村和子先生が考えているであろう)「おまえは実は日本人の男だって知ってるぞ」「おまえ童貞だろ」とかって文面じゃなくて、「ジャップは~だそうだな」「日本の女は~が~なんだってな」とかそういう文面じゃないのかな。わからん。わからん。

だからむしろ若林先生がこのバトラーの文章にあるエピソードが具体的にどういうものだったと考えているのか知りたい。この一文を含んでいるのは、ヌスバウムの非常に厳しい批判に対してバトラーを擁護しようとする論証なのだから(全体をうまく紹介できないけど)、「バトラー自身のエピソード」とかで一行でさらっと済ませる部分ではないと思う。

あとp.145の注で、以前にも書いた角田由紀子先生の『性差別と暴力』の「被害者資格」の話使っていて、これもどうなんだろうな。どう読んでもあの裁判で裁判官たちが原告の貞操観念と証言の信憑性との間に関係があると考えてるとは読めないんだが。でもこれは「それがあんた自身のバイアスやねん」と指摘されたからそうなのだろう。『性差別と暴力』読んだ人は、『判例時報』1562号読んで感想教えてくださいよー。

全体として若林先生がやりたいことはわかる。セクハラだのポルノだのリベラルだの正義だのって話はわかるし、「単純な二分法を疑いましょう」「自律は重要です」「女性の仕事をもっと評価しましょう」とかっていう結論のところとかははっきりしていて共感できる。わからんのは主体だのなんだの持ちだすとこで、その議論が具体的な結論とどう関係があるのかがわかなん。そういう難しいポストモダン理論とか持ちださなくても同じこと言えるんじゃないかというかもっとうまく言えるんじゃないかという気もする。さっさと縁切っちゃえばいいのにとか思うわけだが、そうもいかんのだろうなあ。

*1:『キャプテン翼』とは関係ないと思う。それは大空翼と若林源三だ。

*2:こっちは若林先生がジュディス・バトラー擁護のためにヌスバウム(前に触れた"Professor of Parody"論文)に噛みついるとこなので、必ずしも重箱の隅ではない。でもここの議論全体が難しくてうまく書けない。

*3:ダートマスはお金もちのぼっちゃんとが通うそこそこよい大学のはずなので、言葉教えたら使っちゃった、なんて小学生レベルではないと思うんだが、どうなんだろうか。

安藤本 (1)

統治と功利
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安藤 馨
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格闘中。てごわすぎ。

ベンタムが残した厖大な著述を見ればわかるように、彼にとって功利主義は何よりもまず統治の原理であった。それはあるべき統治、あるべき法を指し示す理論として構想されていた。
(p. 3)

good。しかし、

しかし、ミルを経てヘンリー・シジウィックに到ると、功利主義の理論的課題は第一義的には、統治の原理ではなく個々人が従うべき道徳の原理とされたのである。
(p.3)

こっちはどうかな。ミルの『自由論』『女性の隷属』、や、シジウィックの『政治学原理』Elements of PoliticsPrinciples of Political Economyを過小評価してる?いや、そんなことはあるまい。

他メモ。

  • 私とはなんというか概念の理解の解像度のようなものが段違いだね。こういう人に世界はどう見えてんのかなあ。思考のスピードもぜんぜん違う。こういうタイプの人ってはじめて見るよなあ。
  • 統治功利主義の「名宛人」は公務員とか。
  • ベンサム以来の功利主義の魅力の一つは、個人道徳から世界制服までぜんぶ一貫した原理で行けるぞってのだから、話を統治に限定しちゃうのは「ずるーい」と言いたくなるのだが、まあ戦略としてはいいよなあ。うらやましい。
  • 「統治」だけ分離するってのについてはGoodinはどう考えてるのか見てみる必要がある。この人の重要性は安藤先生から教えてもらうまで知らなかった。以前から某君とか時々言及してくれてたんだけどね。
  • まあ安藤先生の関心からして当面それで十分ということだから、文句つける筋合いはない。
  • 統治に限定することについては、Y君からもらった覚え書き参照。ミルのベンサム批判。濱先生の思想論文「リベラリズムの再定義」のやつ。
    サンキュ。
  • でも安藤先生の「方法」はどんなものなのかな。天下り式に功利主義を採用している、あるいは、統治の究極的原理の候補の一つとしての功利主義を所与とみなし、それを洗練させようとしていると見ていいんだろうか。そして洗練された功利主義が、競合する他の理論と少なくとも同じ程度にはよさげ、と言えればよい、のか。まあ、どっかに書いてるだろう。あ、本人に聞けばいいか。正月あけに聞こう。
  • シジウイックの『政治学原理』のやり方との違いは重要そうだ。
  • 2章と3章は私には読めんな。あきらめ。「間接功利主義」をちゃんと理解するのは重要なのはわかってるんだけど。
  • 功利の指標説。厚生(幸福)以外の価値が厚生に還元されるとまで言う必要がない。価値の対立を調整する際の指標としての厚生。
  • 内在的価値を例示するときにハイドンの「絃」楽四重奏をひきあいにだすp.95。しびれるなあ。しぶすぎ。
  • 4.1.1.2 内在的価値は個人的(personal)か。personal/impersonalを個人的/非個人的と訳すか人格的/非人格的と訳すかは微妙だな。あとで人格personをパーフィット風にばらしていく話をするわけだが。ここではとりあえず「ひとに依存するか」なんだろう。
  • 不偏性impartialityと非個人性impersonalityを混同してはいけません。そうですよね。p.99
  • 仁愛それ自体は功利主義によっては論証されない。

    理論的レベルでは、仁愛の採用は一種の決断である。もちろん、統治の場面で統治者がエゴイズムを採用することを推奨すればろくなことにならないのは明らかなので、統治理論を求める立場からは実践的にはエゴイズムが排除できるかもしれないが、それは功利主義の外部にある問題であるというしかない。(p.99)

    これでいいのかなあ。もちろん「論証」はされないだろうが、こういう片付けかたでよいのかどうか。よくあるベンサムに対する批判だと、事実として心理学的利己主義が正しいなら、なんで統治者が功利主義を功利主義を採用するべきだとされるのはなぜか?そもそも統治者は(事実として)自己利益を最大化しようとするのではないか?おそらく安藤先生のやり方は、だからこそ統治される人民が、法と各種サンクションによって統治者に不偏性を強制するのが重要なのじゃってことになるんだろう。「統治功利主義」の問題意識からすればこれで問題をパスできるのか。 うーん。でも人民が何組かに分かれて、力に差があったらどうなるかな。これもうしろで議論されてるはずだからそのとき考えよう。

  • 道徳判断と動機付けについては外在主義を採用。はい了解。
  • 「演奏会に行ってモーツァルトのオペラを実際に聞いてみたら、・・・ハイドンの室内楽に比較してそれがあまりにも凡庸なので・・・落胆を覚えるとしよう」p.101。うははしびれる。こういう例を書けるだけで凡人ではないのがわかる。ハイドン聞かないといかんですかー。
  • 「問題は、理想的自己がなにゆえ蒙昧なる私のことを思い煩うのか、が明らかではない点にある。」p.104。ここわからん。逆じゃないのかな。なぜ蒙昧なる私が理想的自己のことなんか考える必要があるか。あれ、私ここのわかっとらんな。その前の「事実的情報と合理性に於いて理想化された主体が現実の我々に持たせたいと思うだろう欲求の充足と内在的価値を同定する」p.102を読みそこねてたからだ。でもそれでも問題がよくわからんな。むずかしいです。ここらへん、もうちょっと頭悪い読者に親切に書けるような気がするな。
  • おそらくこの4.1.2.2の議論は、問題設定自体が安藤先生のオリジナルでその分読者にわかりにくくなってるんじゃないかな。なんか重要なところを見ているようだが、 私にはまだわからん。注意しつつスルーしなければならんなあ。しくしく。
  • 4.1.2.4。「快楽は常に正確なのである。自分が快楽を感じているか否かを間違うなどということは殆ど考えられない。」p.112。こういうのをさらっと書けるのがこのひとが問題をよくわかっているのを知らせてくれる。でもこれ、ほんとうかな。「苦しみ」ならそうだと思うんだけど、快楽/喜びもそうかな。苦痛だとどうか。sufferingのようなそれに対応する欲求が必ずともなっているものと、快楽や苦痛のような感覚についてもそういうことがいえるかな。言えるるか。ある意味では言えそうだな。快を感じていればそれはまちがいなく快だ。でも快を感じているときにはつねにそれを意識しているかな。あれ、そういう意味ではないのか。んじゃ「殆ど~ない」と限定する意味はなにか。「絶対に~ない」じゃないのか。安藤先生はなにを考えてるんだろうか。めずらしく腰ひけた表現だから気になってくるな。快楽と苦痛の非対称性にも注意。私は正義とかそういうのにはあんまり興味ないんだけど、こういうのはおもしろいねえ。私にとって功利主義が魅力あるのは、むしろこういう価値の理論を含まざるをえないからだ。
  • 4.1.2.5の議論が成功してるかどうか。「善の功利説は、個人的な非道徳的価値と厚生が概念的に等価であるといっているのではない。・・・善の功利説が主張するのは、個人的な非道徳的価値と厚生とが特質に於いて等しい、ということである。」p.113。「特質において等しい」かあ。例は熱と分子の運動エネルギー。この両者の「特質」とはなんだろうな。あったかいと感じることの原因になっていることかな?
  • 4.2.1でやってる卓越主義批判「卓越主義を含む客観的リスト説一般はある主の個人に対して自己論駁的であるか、或いはその個人を異常者扱いして自らの大将とすることを拒むかの二つの道しか採ることができない」(p.116)は、まあ実践的な含意は、よくわかるけどちょっとポイントが違うような。わからん。
  • 安藤先生の卓越主義に対する厳しい態度ってのは、あれだよな。生身の本人としてもさっぱりなんにも魅力感じないのかなあ。ここらへんが人間として著作家としてすごい。平凡な中年男としては、いやそれはそれで魅力があってね、とか言いたいとこだが、説得どころか耳をかしてもらえるように説明するのさえ無理だろう。
  • 安藤先生の方法(2)。4.2.1のところで「我々はそういった陥穽を避けるためにこそリベラリズムを採用したいのである。」やっぱりこういうのが前提にあって、その理論的基盤として功利主義を採用するっていう順番なのかな。常識的な道徳の分析から功利主義に辿りつくミルやシジウィックとはずいぶん違うように見えるな。できればシジウィック流のハードラインをとってほしいんだけどな。まあここはおそらく書きすぎなのかもしれない。まあそういうのがぽろっと出てくるのはいい感じだよね。
  • この前別の研究会でもJames Griffin話題になったし、卓越主義についてどういう議論をしているかちょっと目を通したいけど見つからん。コピーしかもってなかったような。
  • それにしてもこういう本を読むと、どういう問題についてもぼんやりとしか理解してないのが自覚されてつらい。人生短かすぎるよ。
  • 正直私もコンテナ扱いされるのはいやだし「人間はそんなに情けないものではないはずだ」とか思っちゃう。この「情けない」という形容詞の選択がいいよなあ。まあコンテナでもしょうがないねえ。ははは。せめてもっと大きいコンテナだったらよかったなあ。はは。
  • 時点主義もなあ。言いがかりだと言われるのは承知の上で、理論的困難によってではなく、なんか心理的障壁のために、ふつうの人間にはそういう理論は採用できんのですよ、とか言ってみたい。勘弁してくださいと泣き付くか、採用しにくさをなにも感じないのか手前は!と殴りかかるかどっちか、そういう感じ。でもまあシジウィックもすでにアレですけどね。ヒュームも?
  • あ、そうか、安藤先生の本では、パーフィットがやってるタイプの常識道徳に対する攻めがちょっと足らんかもしれんのだな。
  • やっぱりおそらく「密教的道徳」のところ3.2.1はいろいろ考える必要がある。統治の理論だから、と逃げることは本当にできるのかな。統治の理論だからこそ、となっちゃわないのかな。わからん。
  • おっと、時点主義と現在主義を混同しちゃだめなんだな。ちゃんと理解しよう。
  • アリストテレス~ヌスバウムの機能主義批判。まあたしかに機能主義はおかしいところがあるが、ちゃかしすぎかなあ。思考実験は笑える。それにしてもこの本誰に向けて書いてるんだろうな。それが知りたいような気がしてきた。
  • あ、児玉先生の博論や戒能先生の世界の支配者ベンサムも読まなきゃならんのかな?いやそりゃ無理だな。
  • 快楽。自分が快楽を味わっていると意識している時は必ず快楽をあじわっている。うむ。OKだ。しかし一方で、快楽を味わっているとはっきりとは意識していないけど快楽を味わっているってこともありそうだな。これが安藤先生の「ほとんど~ない」の意味なのかな。苦痛だとどうなんだろうか。安藤先生の用語法では、快楽と苦痛がいりまじっている状態というのはあるのかな。それは(用語法として)ありえないんだろうか。おそらく快楽を広い意味で使いたいだろうから、苦痛といりまじった快楽なんてのはないという意味で使うってるんだろうな。やっぱり快楽はふつうに「望ましい意識状態」や「望ましい心理的状態」だろうなあ。でもこのときの「望ましい」ってのはどういうことなんだろうな。それは「(合理的な?)欲求の対象になっている」なのか、他になんかあるのか。あれ、おかしいか。ここはいろいろトリックかけられちゃうところなんだよなあ。慎重にチェック。
  • それは5章で扱われるのです。
  • まず記述的快楽説と規範的快楽説を分けます。問題は規範的~の方。さらにまず感覚的快楽説と分けましょう。さらに残りを内在的快楽説と外在的快楽説に分ける、と。
  • こういう分類好きがベンサム主義者たちの真骨頂だよな。ついていくのがたいへん。なんか認知のあり方が違うんだと思う。あとベンサム的な人々の造語癖みたいなんとかも苦手。安藤先生にもその一面がかいま見えるなあ。informed disireに「知悉的」をあてたり、sufferingに「艱苦」あてたりね。「艱苦」の方は辞書に載ってますけど。どっちも好きな人は好きみたいね。まあ言葉に敏感じゃないとこの手のはできないもんなあ。
  • hedonic tone。ふむ。これがさっきの「特質」に対応するんだな。いや、ちがうか。
  • へえ、外在的快楽説とかってもの(「様々な心的経験それ自体ではなく外在的な要素が関して初めてそれらの諸経験が快楽となる」)を採用するのか。これは斬新そうだ。安藤先生の議論のミソなんだんだろう。
  • fall-back。後退戦線。ここらへんが安藤先生の著述方針の斬新なとこだ。あえてつっぱらない(ように見せかけて実はつっぱる。あるいは誘いこんで戦う)。へんなやつだ。
  • あら、外在的な要因とは、「我々がそれ(感覚経験)に肯定的態度を取れば「快楽」であり、否定的態度を取れば「苦痛」である」p.145とかってことなのか。なんか肩すかしくらった。
  • 「外在的快楽説を採る場合、そういった態度の対象は狭義の感覚経験だけに限定されるわではない。」p.145そうですか。
  • 「その対象は欲求の対象の場合と同様に、命題或いは命題相当物である。それゆえ、外在的快楽説は命題的態度の一種として「快苦」を考えることになる。」p.145。なんか怪しげな雰囲気がたちこめているように思う。わからん。
  • 「このような快楽説に於いて「欲求」が快楽の定義に出てこないことに注意しよう。」。ってことでブラント先生の欲求概念をもちいた「幸福」の定義を批判する。勇気ありすぎ。すげー。
  • 「「肯定的態度・否定的態度」は欲求とは異なった原始的概念である」p.146か。ふむう。欲求を離れて態度が言えるってわけか。理解しにくいな。
  • 態度的快楽。猛烈にあやしい。わからん。やっぱり昼間から気になっている問題がここに集約されるんだわな。Fred Feldmanとか読んだことないですよっと。国内で何人ぐらい目を通してるんだろう。ここのあたりは最後までひっかることになりそうだなあ。でもとにかく野心的な奴だ。

メモ

ちなみに『ジュディス・バトラー』のSara Salihは英文学、http://www.utoronto.ca/english/faculty/bios/salih.htm、『ポスト構造主義』のCatherine Belseyも英文学っぽい。公式ページ見つけられないけどhttp://www.english.heacademy.ac.uk/intconf/plenary/belsey.htm

もっともまあ、哲学ってもの一般と、学問の専門分野としての哲学とか哲学学?のようなものは区別しなきゃならん。どんな学問にも広い意味での哲学ていうか自己反省は必要だからして。方法論もってない学問ってのはありえん。また専門的な知識をもっているという意味で「知者」でなければならん。ある意味で、学者のほとんどは哲学者でかつ知者だし、またもうちょっと別の意味で学者じゃないひとにも立派な哲学者は多い。

ヌスバウムが指摘している問題は、広い意味での哲学者にすぎない人が、他の分野の学者のなかにまじって狭い意味での哲学者とみなされたり自称したりすることだな。ジュディス・バトラー自身は、狭い意味での哲学者を自称してはいないと思う。しかし、他の分野の人々(特に文学畑)がバトラーを狭い意味での哲学者である(そして「(文体だけではなく引用とか前提知識の点で)わからないのは私たちより哲学的に深いからだ」)ととらえていることは十分ありえる。プロフェッションとしての哲学ってのは成立するかとかそういうことだなあ。狭い意味での哲学者はthe learned professionと呼ばれるもののなかに入るかな?前にも書いたけど(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060320)、新しい学問分野が成立するときとか、学際とかってのはあぶないものが成長しやすい場所だと思っている。前には(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061126 の注)、哲学者ってのは「「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人」って書いたけどこれじゃだめだ。

続き(charis先生攻撃)

カントの文体

のコメント欄でid:charis 先生がゲーテがカントの文章を褒めたという話を紹介している。文体なんてどうでもよいのだが、数日前に同じ話を読んだところだった。

カントの悪文は同時代人にとってもそうだった(同時代人でゲーテのようなくろうとになるとカントの文は名文だとほめるが、これは後の話である)。(野田又夫「カントの生涯と思想」, 中公世界の名著『カント』, p.8)

しかしこれ、具体的にはどこでどういうふうにほめたんだろうな。もちろん野田先生は知ってるんだろうけど、出典ついててないから探しにくい。googleではうまく探せない。カントの文章はそれほど悪くないような気がする。(あと余計だけど、岩波文庫読んで「カント難しい~」って嘆いている学生さんはとりあえずこの野田先生編集のやつで『プロレゴメナ』なり『基礎づけ』なり読めばよいと思う。名翻訳。三批判も野田先生にやってほしかった。)

ヴィトゲンシュタイン

ヴィトゲンシュタインがカルト的な人物だったのはわりと有名なんじゃないだろうか。火かき棒を振り回すウィトゲンシュタインに、ポパーが敢然と立ち向かった話は胸を熱くする。私はモンクの『ウィトゲンシュタイン〈1〉―天才の責務』で読んだ気がするが、『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』の方が入手しやすいかな。まあでもポパーも人物としてはかなり高圧的で反論を封じこめようとする人だったとかて話は、なんで読んだんだったかな。『哲学人―生きるために哲学を読み直す〈上〉』かな。それにウィトゲンシュタインの直弟子たちはまともな人が多い印象。

『天文対話』

これ読んだことないのはやっぱりはずかしいか。でもあれだよね。哲学みたいなものにはいつもカルトや詐欺師が付随しているのはその通りなんだけど、哲学とかの歴史ってのはソクラテスの時代からカルトや詐欺師との戦いって見た方がいいんじゃないかと思うのだが、どうなんだろうか。

Anything Goes.

日本人であると思われるcharis先生がわざわざ英語で書いているのは、ファイヤアーベントかな。『哲学、女、唄、そして…―ファイヤアーベント自伝』でいいのかな。でもファイヤアーベントだって、なんでもありとはいえ、ほんとに「なんでもあり」じゃないですよね。「黒い太陽からの毒電波が半減したんデス」とかはやっぱり困るから。

ヌスバウムの感動

んで昨日のヌスバウムの続きだけど、これは主として文体の話。なんども書くけど私にとっては文体はどうでもよいのだけど、まあ感動的な部分だから紹介。

バトラーは、文学の世界で哲学者であることによって名声を得た。称賛者の多くは、彼女の書き方から哲学的な深さを連想する。しかし、そんなものがそもそも、哲学の伝統に属するものなのか、むしろ哲学と敵対関係にある詭弁術(ソフィスト術)やレトリックの伝統に属するのではないかと問うべきなのだ*1。ソクラテスが、ソフィストや修辞家たちがやっていることから哲学を区別して以来、哲学というものは、対等な人々が、一切の曖昧主義的ないかさまを用いずに、主張と反論を交しあう対話でありつづけている。ソクラテスの主張によれば、こうすることで、哲学は魂への敬意を示しており、一方、ソフィストや修辞家たちの他人を操作しようとする方法は、魂に対する軽蔑を表わしているのだ。ある午後私は、長い飛行機旅行の間に、バトラーを読んで疲れはてたあと、人格の同一性についてのヒュームの見解に関する学生の論文を読むことにした。私はすぐに、自分のスピリットが息を吹きかえすのを感じた。「あら、この子、明晰に書いているじゃないの」、私はよろこびを感じながら考えた、そしてちょっとしたプライドも感じた。そして、ヒューム、なんというすばらしい、なんという優雅な精神だろう。いかにヒュームが心優しく読者の知性を尊敬していることか。そしてそのためには、彼自身の不確かさを曝けだしてしまう犠牲さえいとわないのだ。

大きな伝統に自分が属しているという確信に満ちていて力づよく、感動的ですな。私自身も似たような経験を何度もしている。昨日紹介したサラ・サリーに反対して、ヌスバウムは、バトラーがレトリックの教授であることはなんの「看板に偽り」のないことだと主張するでしょうなあ。

おそらく、バトラーのタイプの思想表現の一番の害は、上でヌスバウムが感じた哲学する学問する喜びとプライドを、人々からうばうことにあるんじゃないかな。これが学部学生大学院生に与える害。

あとほんとにメモ

あとせっかくコメントいただいているのにどう答えてよいのかわからないので、こっちにメモ。ひとつはコメント欄に書くのが技術的に面倒(hatena-mode.el使ってるから)で、もうひとつはネットワーク上の議論のようなものに慣れてなくて、公開独白しかできないので。すみません。特に下のメモに対する回答が欲しいわけではないです。もちろんどなた様からのコメントも歓迎ですが、私はあんまり上手くコメントを返すことができません。

charis先生の、「あと、上記で論じられているバトラーの文章ですが、単純なことを言っているだけじゃないでしょうか。」以下が、「いかなるテキストも、それ自身で”意味”は完結していませんから、つねに解釈と批判を許します。」以下とどう結びついているか私にはうまく理解できない。上のはたんにcharis先生の解釈ってことでよいのだろうか。そうなのだろう。しかしそういう「たんなる一解釈」であるようなものを提出することにどういう意味があるのだろうか。それはやはり「よりよい解釈」でなければならない。あるいは少なくとも「よい解釈」の基準がなんかあるだろうというな気がする。ほんとうにanything goesでよいのだろうか。ファイアアーベントの議論はこのような文脈でも使えるんだろうか。

「哲学の議論が必ず水かけ論に終る」というのはほんとうなんだろうか。その根拠はどこにあるんだろう?これまでの哲学の議論がほとんど水かけ論に終っているということから*2必ず水かけ論に終るっなんて強いことまで言えるんだろうか。また、それは人間的な制約によるものなのか、それとも事柄の必然なのか。そういうのを考えるのがそもそも無駄なのかどうか。

頭悪いからこういう基本的なことさえおさえるのに時間がかかってだめだめ。少年易老学難成、一寸光陰不可軽、ってのは昔から知ってるわけだがさいきんやっと本当の意味がわかってきた。(あれ、これ誰の言葉がわかんないのか。へえ。)

あとあれだ。なにかを憎んだりするのは人間の心理に関する事実で、ふつうの人は自分ではなかなかコントロールできないから「憎むな」と言われてもこまってしまう。もちろん認知のあやまりが不合理な態度を生んでいる可能性はあるから注意しなければ。でも別に出版するなとか焚書にしろとか穴に埋めろとかそういうんではない。たんに憎んでいるだけ。まあ憎んでいる人がいるということを知っておいてほしいってのはある。ここらへん徳がないのは反省している。憎まずにすめば健康にもよいらしいので、努力してみる価値はありそうだ。

あ、私ソフィスト見習いって設定なんだった。はてなでの名前は「ポロス」ぐらいにするべきだったなあ。お借りしている尊敬すべきカリクレス先生の名前は、荷が重いや。ソフィストへの道も遠い。アルフォンゾとかの方がよかっったなあ。

*1:ここちょっと訳が正確じゃないけど許して

*2:これは「ほとんど」の範囲にもよるけど、おそらく偽の命題だと思う

カルト対象としてのバトラー

charisさんにつっこんでもらったので ( )、バトラーをなぜ憎んでいるのか少しずつ書いてみよう。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20050718 に関連。

バトラーのやばさをはっきり理解したのは、ちょっと前にサラ・サリー『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』を読んだときだと思う。

ジュディス・バトラー(略)はカリフォルニア大学バークレー校のマクシーン・エリオット冠教授で、修辞学・比較文学教授という地位にある。しかしこの大学でのこの公式の称号は、いくぶん「看板に偽りあり」である。というのも、バトラーには、紛れもなく修辞学、あるいは比較文学と言える著作がないからだ。・・・一九世紀ドイツの哲学者G. W. F. ヘーゲルがバトラーの仕事に与えた影響は計り知れない。というのもバトラーは、一九八〇年代に哲学を学び、彼女の最初の本はヘーゲル哲学が二〇世紀フランスの思想家たちに与えた影響を分析したものだったからである。しかしバトラーは二作目以降、精神分析、フェミニズム、ポスト構造主義など、広範囲にわたる理論を使っている。(pp. 13-14)

どうもバトラーは難しい哲学をたくさん勉強した哲学者だと強調したいようだ。

ここ数年は、バトラーの散文の文体は彼女の概念と同様に、批評家*1の関心を惹く傾向にある。おそらくバトラーの文体に文句を言うことで内容が理解できないことの代わりになっているのだろうし、内容を拒絶する安易な口実にもなっているのだろう。
(中略)
バトラーの文体が拙劣であるとか、扱う概念の説明に労を取らない傲慢な思想家と片づけてしまう代わりに、バトラーの文体そのものが、バトラーが理論と哲学で試みる介入の一部であると認識することが肝要である。(サラ・サリー『ジュディス・バトラー』, 竹村和子訳, 青土社, 2005, pp. 32-33)

これって、カルトや一部の宗教が使うのと同じ手口だよな。「わからないのはあなたの勉強が足りないからです」「非難している人は無能か怠惰なのです」「実は裏に政治的な意図があるのです。」「ジュディス様は皆さまのことを真に心配しておられるからこそ、このような態度をお取りになるのです。」

ヌスバウムなんかはこういう感じで批判している。ヌスバウムの批判については上のサリーも触れているが、主として文体の問題と解釈しているようだ。しかし以下読めばわかるように、単に文体だけの問題ではなく、「学問」としての方法の問題を指摘している。(ヌスバウムに批判のもうひとつはバトラーたちの議論の政治的含意についてなんだが、そっちには触れない)

バトラーの思想を把握するのは難しい。それがなんであるかを理解するのが難しいからである。バトラー自身は非常に頭の切れる人物である。公開討議の場では、彼女は明晰に話し、また彼女に対して何が言われているのかをすぐさま理解する。しかし、彼女の文章の書き方は、ぎこちなく曖昧である。彼女の文章は、雑多な理論的伝統からひきだされた他の理論家たちへのほのめかし(allusion, 間接的言及)に満ち満ちている。フーコーと(最近注目しているらしい)フロイトに加え、バトラーの作品はルイ・アルチュセール、フランスのレズビアン作家モニク・ウィティッグ、米国の人類学者ゲイル・ルービン、ジャック・ラカン、J. L. オースチン、米国の言語哲学者ソール・クリプキなどの思想に依拠している。控え目に言っても、これらの人物の見解がお互いに一致することはない。したがって、彼女の議論があまりにも多くの互いに矛盾する概念や学説によって支えられており、ふつうはそういった一見して明らかな矛盾がいかにして解消されるのかについてなにも説明がないのを発見して読者は途方にくれざるをえないことがバトラーを読む上でまず最初の問題だ。

さらに問題なのが、バトラーのいきあたりばったりのほのめかし方にある。上のあげた理論家たちの思想が、初心者に向けて十分に詳細に説明されることはけっしてない(もし読者がアルチュセールの「アンテルペラシオン」という概念に不案内なら、本のなかで迷子になるだろう)。また、上級者に向けて、難解な思想がどう理解されているかを説明することもない。もちろん、アカデミック文章というものは、どうしたってなんらかの仕方でほのめかしを含むことになる。アカデミックな文章はある学説や立場についてのあらかじめなんらかの知識があることを前提としている。しかし、大陸系でも英米系でも哲学の伝統では、専門家を相手に書く学者は、一般に、彼らが言及する思想家たちが理解しにくく、さまざまな解釈の対象になることを認めるものである。それゆえ、学者たちが典型的に想定するところでは、学者は対立する複数の解釈のなかでひとつのたしかな解釈を提出し、また、その人物を自分が解釈したように解釈する理由を議論せねばならず、また他の解釈より自分の解釈が優れていることを示さねばならないという責任がある。

バトラーはこのようなことをなにもしない。さまざまに相違する解釈は、単に検討されずにすまされる。フーコーやフロイトの場合のように、ほとんどの学者は受けいれないであろうかなり異論の余地のある解釈を提出している場合でさえそうである。そこで、バトラーの文章を読む読者は、そのようなほのめかしの多用は、深淵な(esoteric)学問上の立場の詳細について議論しようとする専門家が読者として仮定されているのだと思いこみ、普通の方法では説明することができないという結論に至ることになる。また、バトラーの著作が、現実の不正義ととりくもうとしている一般人に向けられたものでないことは明白である。そういう読者は、それがグループ内での知識を前提としているという雰囲気や、説明に対してさまざまな名前が果たしている高い割合から、バトラーの散文のどろどろのごたまぜスープに途方に暮れるだけだろう。(Nussbaum, Martha, The Professor of Parody: The Hip Defeatism of Judith Butler, New Republic, Vol. 22, 1999.)

 

同じようなカルト性は、デリダについても見られる。

Q. デリダを読むのはひどくむずかしい。どうしてもっと簡単に書かないの? 意味を伝達したくないの

A. デリダを読むのが難しいのには、三つ理由があるわ。まず最初は、彼が(大陸の)哲学者だってことね。この伝統の外ではあまり行きわたっていない対象に幅広く言及するの。彼のとりわけ不可解な言明の多くは、わかってみるとプラトンとかヘーゲルとかハイデガーに間接的に触れていて、わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ。つぎには、たいへん細かいところにこだわるということがあるわね。繰りかえしが多くて気取りすぎだと思えることがあるかもしれないけど、それは厳密さを求める欲望から来ているのよ。でもこれ意外にもね、ロゴス中心主義に対抗する議論をするという観点からは、言語が透明な窓ガラスのようなものでその向こうに完璧に理解できる観念を認知できるわけではないことを、実例でしめすことがだいじなの。(キャサリン・ベルジー『 ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 』, 岩波書店, 2003, p. 121, 。)

「わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ」が素敵すぎる。

ちなみに、どんどんずれていくけど、このベルジーさんはおもしろい人で、ラカンについても
こんなこと書いている。

・・・彼の『エクリ』は、初読では異様にとらえがたく、謎めいており、読解に難渋する。・・・これらの著述や口頭発言は、精神分析家に向けられたものだった。ラカンの考えでは、精神分析家のしごとは、この上ない注意を払って患者の発言を聞くことだった。分析家は、謎々やほのめかしや削除や省略などによって意識の検閲をくぐり抜けてくる無意識の声を聞くのである。そしてラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。

称賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテキスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。

だが、徐々に前よりはわかるようになるものだ。しかもこの苦労は報われる。ラカンは途方もなくよく本を読んでいて、きわめて知性が高かった。彼は折りに触れてたとえば絵画、建築、悲劇などにコメントしているが、ずっと重々しい学問的著作何冊かにそのコメントが匹敵することも珍しくない。(p. 95)

この確信と批判力のなさはどっから来るのか。この人の実人生だいじょうぶなんだろうかと不安になる。この岩波の「1冊でわかる」シリーズは一般に水準が高くてどれもおすすめなんだけど、なんでこんなものがはいってるんだろうか。

(続く)

*1:ついでに。この本、原文見てないけど、「批評家」と訳しているのは「批判者」の方がいいんじゃないかな。

北川東子先生のポエム

さて、「ジェンダー」とは流動的なパフォーマンスである。誰かがなにかを言って、なにかを指差す。すると、男が女を見つめることになり、女は見つめられていると思う。法は「違・法・外」を定め、そのことで、犯罪者を名指し、罪そのものが成立する。派手な衣装をまとったドラッグ・クィーンたちが甲高い声で笑う。すると、ふたつのセックスがちらちらして、互いが互いを模倣してみせる。そのとき、ジェンダーが行なわれている。(北川東子「哲学における「女性たちの場所」—フェミニズムとジェンダー論」,『哲學』, 第58号, 2007, p.50)

あんまり素敵だったので写経してしまった。『哲學』は日本哲学会が出している雑誌で、おそらく(会員でもないのでよくしらんけど)哲学業界では一番権威がある雑誌のはず。難しい哲学的散文を覚悟して読んだら素敵なポエムだったので得をした気分。

誤解されないように書いておくと、これは「3 「女性的なアプローチ」の意味」と題された一節の最初の一段落。次の一段落はこんな具合。

ジェンダーは遂行的な性格のものであり、固定した場をもたない。ジェンダーは、その場の配置のなかで、その場で行なう者たちが生みだすなにかである。「母たち」や「主婦たち」や「女性たち」という場所にあって、そうしたすべての場所にはないものである。フェミニストたちが、女性たちの場所にこだわるのにたいして、ジェンダー論では「女たち」は構成された主体にすぎず、セックスはパロディーでしかない(バトラー)。ジェンダーの場所は、「ないものがあって、あるものがない」場所である。ただし、「ないものがあって、あるものがない」という謎かけのようなジェンダーの場について語ることがえできるようになったのは、フェミニズムが「不在とされた場所」を可視的にしてくれたからである。(同上)

上で(ジュディス・)バトラーの名前があげられているが、どっからどこまでがバトラーかわからん。「セックスはパロディーでしかない」だけなのか、そこまで全部なのか。素敵なポエム*1が北川先生のオリジナルか、バトラーなのかどうか気になる。文献表に挙げられているのはGender Troubleだけ。最初の段落のも『ジェンダー・トラブル』からの引用かなにかなのかな。見たことないような気がするから、Undoing Genderあたりかもしれんがよくわらかん。

あんまり関係なく上のポエムからふと思ったのだが、ポストモダンフェミニズム(あるいは北川先生の、「フェニズム」と対比される意味での「ジェンダー論」)では「男」「女」「ドラッグクィーン」などの定義ってのはどういうものになるのかな。ドラッグクィーンが「派手な女装をした生物学的な男」ではありえないと思う。「ドラッグクィーンの服装をし、ドラッグクィーン的な思考をする人」かな。この場合、再帰的になってもやむをえないかもしれない。「派手な社会的に女ジェンダーとして認められる服装をして特有の伝統的なパフォーマンスをする、社会的に「生物学的に男」と思われているような人」か。「伝統的にドラッグクィーンと呼ばれるふるまいをする人」しかないかな。男は「社会的に男だと思われている人」でいいのかどうか。あんまりよくないよな。まあ定義なんかどうでもよいと思うが、私は基本的なところが理解できていないな。北川先生の次に掲載されている舟場保之先生の論文でも、

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだっと」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。(p.77)

と書いておられる。その次の引用はGender Troubleの原書 p. 10/ 邦訳p.29の超有名な部分。(どうでもいいが、舟場先生は 「Butler, op. cit., pp. 10/29」 という表記を使っているけど、pp.は「pages」の訳なんじゃないかな。ふつうはpp. 10-11のように使うと思う。1ページだけの時はp.10のように使う。おそらく校正ミスだろう。いや、原書と翻訳のページの複数という意味なのかな。それなら私の誤解だ。出典も調べずに勝手に推測した。ごめんなさい。)

それにしても私が憎んでいる*2ジュディス・バトラーが哲学業界でも大人気。バトラーのこの部分は超人気でこの手の議論するときには必ず出てくるわけだから、やっぱり近いうちゃんと理解できるようになりたいものだ。

前にも書いたけど、哲学業界とかってところでも、だんだん地味な研究をするのはむずかしくなっているのかもしれないが、大学院生やオーバードクターの人には地道にアカデミックに典拠のはっきりした散文でがんばってほしい。ポエムは論文の最初か最後ぐらいだったら許してもらえると思うし、かっこつけるなら偽名使って偽書でっちあげて、エピグラフとして使うとかがよいのではないか(ついでに本文でもそれに言及したりするともっとかっこいい)。生物学的女性院生や女性ジェンダー大学院生や生物学的オーバードクターや女性ジェンダーオーバードクターやそれ以外のジェンダーのオーバードクターもやっぱり地道にやってほしい。

追記

ポエムは秘密クラブかハプニングバーかなにかの場面描写なのだろうか?そうだとすればわかるような気がする(し、バトラーがそういうこと書くのはわかる)が、『哲學』の読者はそういうものになれてるのかなあ。あれ読んでぱっとなんの話かわかるとか。学会の懇談会ではそういうシーンがあるとか。私の知らない世界は広い。

追記2

上の舟場先生のバトラーの引用箇所あたってみたけど、私のもってるGener Troubleだと(Routledgeの1999年のプリント)だと該当個所はp.10じゃなくてp. 11が正しい。おそらく校正ミスだろう。そうでなければどっかで起こった伝言ゲームのミスか。邦訳ページはp. 29で正しい。*3

ところでこの有名な箇所の翻訳だが。竹村訳だとこうなる。

したがって、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」—-つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面 —- として生産され、確立されていくのである。

It would make no sense, then, to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered category. Gender ought not to be conceived merely as the cultural inscription of meaning on a pregiven sex (a juridical conception); gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established. As a result, gender is not to culture as sex is to nature; gender is also the discursive / cultural means by which “sexed nature” or “a natural sex” is produced and established as “prediscursive,” prior to culture, a politically neutral surface on which culture acts.

こうしてみると、竹村訳の「セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない」は「ジェンダーと文化の関係は、セックスと自然の関係とは同じではない(/違う)」ぐらいがよさそうに見える。”pregiven”も「生得の」は訳しすぎかもなあ。「あらかじめ存在する」ぐらいでどうか。

それにしても難しい文章ですな。なぜ難しいかというと、今指摘した”gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established”の一文なんかにおける無冠詞単数形の”gender”が「genderという語」の意味で使われており(上の意味でのdesignateという動詞の主語は私には「語」に思える)、それに対して”sex”の方が「セックスという語」ではなく「性」という概念内容(conception)か、あるいは「性」という対象を指していて、それをごっちゃにして一文のなかで使っているからのような気がする。わからんけど。難しい。とにかくこの一文でバトラーはジェンダーという概念の分析をしているというよりは、彼女が(勝手に)使う「ジェンダー」という語の操作的な定義をしているように見えるのだが、どうなんだろうか。

“gender is not to culture as sex is to nature”はどう読めばいいのかな。「ジェンダーという語と文化との関係は、セックスという語と自然との関係とは違う」なのだろうか。

“sexed nature”や”a naturel sex”はどう訳したらいいんかな。これも冠詞(a natural sexだから男女どっちか一方の性のはず)とかよくわからんよなあ。「性的本性」と「ある自然的性別」なのかな。竹村先生は”a natural sex”を「自然なセックス」と訳しているが、これはおそらくわからないというか訳しようがなくて逃げたんだろう。

あと竹村訳だと”Gender ought not to be conceived merely as ~”のmerelyが抜けてるね。けっこう大きい抜けだと思う。「たんに、あらかじめ存在するセックスに文化が意味を書き込んだものだとしてのみ理解されるべきではない。」あれ、バトラー的にはinscriptionは「書き込んだもの」でいいのかな。「書き込むこと」なのかな。ここも原文があいまいだな。

“discursive”と”prediscursive”も私にははっきり概念の内容が理解できない。「文化的」と「前文化的」に対応すると読んでいいのかな。ここらへんがポストモダン的な言語理解の難しいところだな。わからん。

一行目の”It would make no sense to define~, if ~ is“も気になる。このwouldは英語的にどういうニュアンスなのかな。あ、これは「もし~なら、~なんてことをしようとしたも意味ないよ」でいいのか。if以下じゃなくて、to define以下に仮定がはいっていてそれを受けたwouldなのね。OK。これは読めないとはずかしい。

竹村先生の「つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面」は「つまり、文化がそのうえで作動する政治的には中立な表面」の方がよいと思う。でも「表面」の意味がわからん。あるいは、「~は「前言説的」なもの、すなわち、文化に先行し、また(それゆえ?)政治的には中立なものとされ、その表面で文化が活動しているのだということになる。」ぐらいなんだろうか。

こういうぼんやりした思考や概念が本当にいやだ。それが無批判にどんどん使われて「ジェンダー論」とかの主流になっていくのもいやだ。私の理解では、哲学ってのはまずはまさに吟味することで、おもしろいことを言うことではない。

やっぱりわからん。バトラー読んだり引用している人は、ここらへんちゃんとわかっているのだろうかと疑問におもう。日本語の明晰な解説があれば教えてください。コメント欄に「これ読め」と書いてくれれば必ず読みます。

*1:The DoorsのStrange Daysのレコードジャケットを連想した

*2:これも前にも書いたけど、マッキンノンやヌスバウムについては愛憎いりみだれるって感じ。少なくとも言ってることや魅力はわかってるつもり。

*3:2007/6/4訂正。詳しくは

マーサ・ヌスバウム、ジュディス・バトラーを批判する

それでは、バトラーはいったい誰に向って語っているのだろうか。彼女は若いフェミニスト理論家たちにむかって話しているように見えるかもしれない—そのフェミニスト理論家たちというのは、アルチュセールやフロイトやクリプキが本当はなにを言ったのかをちゃんと気にかける哲学の学生でもなければ、問題の本性について情報を必要としており、また自分の価値についてはっきりとしたことを知りたいアウトサイダーたちでもない。ここからすると、読者たちは驚くほど御しやすいと想像されているのだ。バトラーのテキストの預言者的な声にお追従をし、高度な概念の抽象性の緑青に目をくらまされて、想像上の読者たちは質問もせず、議論を要求もせず、言葉の定義も要求しないのである。(Martha Nussbaum, “The Professor of Parody”, The New Republic, Feb 22, 1999. Vol 220 Iss. 8.)

バトラーに関しては、私も同意見だな。そういやドゥルシラ・コーネルという人もいた。彼女も非常に曖昧でカントとラカンだのといった有名人を使ってほとんど意味を把握できないようなことを言っていると思う。日本でバトラーやコーネルをもちあげている人びとは、いったいどういう理解をしているのだろうか。多くの場合、そういう人びとは政治哲学や法哲学や文学の専門家で、バトラーやコーネルを「哲学者」と見ているような気がする。正統の哲学の人びとは彼女たちを哲学者とは認めないだろう。

そういや私はマッキンノンも曖昧で嫌いなのだが、ヌスバウムはそれなりに評価しているようだ。まあマッキノンはバトラーのように有名人たちの名前だけ借りてくるようなことはないからな。マッキノンの議論の迫力と実効性は認めざるを得ない。