今日は1日カジュアルセックスまわりの文献見たりしておりましたです。
まあ基本はソーブル先生の事典(Sex from Plato to Paglia)のRaja Halwani先生のCasual Sexの項目見ながらもってる文献見なおしたり。
カジュアルセックスってのはまあいきあたりばったりの「ワンナイトラブ」とかそういうのね。それは道徳的に不正ですか、みたいな。不倫とか浮気とか売買春とかの流れでまあ一応おさえておかないとね。でもまあこれもあんまりおもしろくない。個人的には不正なわけないじゃん、やりたい人どうしでやりたいようにやったらどうか、みたいな感じ。
まあだいたい教科書的にどうなるのかっていうと、まずは「カジュアルセックス」て言葉を定義するのは難しいよ、みたいな。まあ哲学の議論の基本ですわね。
んでカジュアルセックスを悪いっていう人がいるけどそれはどういう根拠からそう言うのですか、みたいな。すぐに思いつくのは性病の伝染と望まない妊娠で、まあこうのはよくない。でもまあそういうのちゃんと気をつけてやることにしたらどうですか、とか。
女性がやりまくると “Slut” とか日本だと「ビッチ」「ヤリマン」って言われるけど、男性はあんまりそういうことは言われないね、みたいなことも指摘されますわね。まあSlutやビッチって呼ばれるのは女性にとってはかなり不利なんだろうけど、こういうのは社会がそういうレッテルを貼るってことだからべつにカジュアルセックスそのものが悪いわけじゃないだろうし、そう呼ばれても平気な人々もいるだろう、とか。
まあ日本では「ヤリチン」とか「チャラ男」とか言われるけど、そんなにネガティブなイメージはない気がする。どうなんすかね。まあ「そういう男と遊んでいるのは馬鹿な女だ」みたいなのはあるだろうけど、その男自体が非難されることはないような気がします。
超有力な哲学者のアンスコム先生は1972年ごろに “Contraception and Chastity”って論文書いてて、これでやりまくる人々を非難してるんですよね。「そういう行為は人間を軽薄にします」みたいな。(ちなみに与謝野晶子先生も「貞操に就いて」って文章で「貞操ってのは大事なものです」みたいな話をしてますね。)アンスコム先生がそう考えるのは、あんまりやりまくってるとミーニングフルな愛情関係が結べなくなりますよ、と。Halwani先生は「いや、それは見境なくやりまくってたらそうかもしれないけど、カジュアルにやるのがそうだとは言えないだろう」みたいな反論してます。ハルワニ先生はバスハウスとかでその場で知りあった人とするセックスにもけっこう価値があると思ってるみたいです。詳しくは知らんけど。
あとおもしろいのが、ここらでアルバート・エリス先生が出てくる。あの認知療法の「ABC」技法で有名な人。この人は60年代から70年代にかけてセックスについてけっこういろんなもの書いてるですよね。つまらない罪悪感とかで鬱になんかなってないでばんばん楽しいセックスしましょう、みたいな人。んで、エリス先生は、「性的なアドベンチャーはパーソナリティーを向上させるのじゃぞ!」みたいなことを射ってるらしい。性的に冒険すると、自己をよく知り受容すること、他の人々に寛容になること、柔軟になること、曖昧さに耐える力をはぐくむこととかそういう御利益があります。なんか大江健三郎先生の小説みたいっすね。実際なんか影響があるんだと思う。まあ冒険しておけばよかったなあ、みたいな気もしてくるものです。
それにまあ教科書的には、ここらで、たしかに親密な愛情関係はたいていの人にとって一対一とかの愛情関係は重要だろうけど、それはなによりも重要なのか、必ず必要なのか、みたいな話が出てくる。ハルワニ先生のもプリモラッツ先生のもソーブル先生のもそうなる。まあそりゃそうなんだろうけどねえ。こういう議論読むと哲学者ってつまらんなとか思っちゃいますね。男性の哲学者がこういう議論する傾向がありますね。スタインボック先生とかヌスバウム先生とか女性哲学者はやっぱり「愛情とコミットを含んだパーソナルな関係が大事なの!」みたいに力説するわけで、ここらへん性差感じます。
んで、こういう議論の本論はやっぱりモノ化ってことになるわけですわ。カジュアルセックスは基本的には(自分の)快楽のためにおこなうわけなんで、快楽のために他人を道具や手段としてあつかうのはどうか、みたいな話になる。まあこれは「性的モノ化」の議論になるわけで、カジュアルセックスそのものの問題とは言えない気がします。
あと倫理的じゃない問題として、カジュアルセックスは楽しいのか、みたいな。これは心理学的にも哲学的にもおもしろい課題かもしれないですね。(カジュアル)セックスの予感はほとんど常に楽しいけど、カジュアルセッスそのものは期待ほどよくありません、みたいな。ははは。
でもフロイト先生はなんか愛情ある関係ではセックスはうまくいきません、特に男性は配偶者より行きずりの相手の方が満足する傾向があります、みたいなことを言ってるらしいですね。まあフロイト先生らしい洞察な気がします。またフェミニストの人に怒られますよ。とりあえず確認してみよう。
まあこういうのも私は進化心理学やら社会心理学やら社会学やらの知見入れて議論したいと思いますねえ。どうも読んでて議論がつまらん。哲学者たちのよりフロイト先生やエリス先生の方がおもしろいと思っちゃう。こういうの読んでるより『江古田ちゃん』とか『アラサーちゃん』とか読んでる方が勉強なるんちゃうか、みたいなことも思ったり。
まあここらへんそんなおもしろくならない、っていうか私自身があんまりおもしろいとは思ってないわけですが、なんかチマチマ書いてるうちにおもしろくなってくるのではないかと思ってメモ。
あんまりカジュアルセックスしてる人(男性)はちょっと脆弱な女性のなんか搾取してることもけっこうあるんちゃうか、とか、女性にとってやっぱりあんまり性的に活発なのは(それが大丈夫な人は別として)自傷傾向のひとつなんちゃうか、みたいな感じはないわけではないけど、まあそれも余計なお節介かもしれないんで、簡単にそういう判断しちゃうのは避けたいですね。あとまあ性的にそれほど活発でない女性からすると活発な女性は邪魔者というかそういう側面はあるんちゃうか、みたいなことも考えます。でもこれもあんまり倫理学や哲学の領域ではない気がする。
まあここらへんの不倫やらヤリマンやらのセックスまわりの問題は20世紀前半までは神学や倫理学の問題だったけど、フロイト先生たちの努力で精神医学やセラピーとかの問題になった、っていう知見を得たような。「どうやって我慢しますか」みたいな問題から「まあとにかく夫婦で楽しいセックスしましょう」みたいなのに問題が移っていったんだわね。道徳の問題から病理の問題へ、みたいな。ヴァンデヴェルデの『完全なる結婚』とか。フーコー先生は怒るかもしれないけど、まあそれ自体は悪いことじゃない気がする。
あとあれですな。セックスと愛情を結びつけたい、結びつくのが当然だ、結びついてないのは不正だ、みたいな女性ライターたちと、いやそういうもんではないだろう、みたいな男性ライターたちの態度の違いがはっきりしていて、こういうのからするともう男女の間のセックスの見方ってのはほんきでぜんぜん違うもんかもしれないと思わせますね。まあ誰でもわかっていることなんだろうけど。
さらにあれですな。どうもここらへんの議論は「〜は不正ですか」「許されますか」みたいな話ばっかりになっちゃってあれなんだよな。哲学とか倫理学とかって非難や禁止とその理由ばっかり考えてればいいもんではないだろうという気はするです。よい人生においてよいセックスはどんなセックスですか、みたいな話が読みたい。意外に「ある程度非難されたり馬鹿にされたりしても、いろんな人とセックスした方が人生豊かになるんちゃうか」みたいな話はあるんではないかな。そういうんでエリス先生の論文は読んでみたいので注文しますた。
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