Hakubiの「光芒」

数日前に、小倉秀夫弁護士からHakubiの「光芒」という曲を教えてもらったのですが、これものすごい名曲ですね。

透き通ったセンスあるボーカルが印象的ですね。歌詞はこんな感じ。JASRACさんすみません、おねがいです!訴えないで下さい!

作詞:片桐 作曲:Hakubi

僕達は下手くそなまま未来を思い描いて
いつかは いつかはって世界に中指を立てる

心を無くせば 強くなれるの
弱さを隠せば 強くなれるの
僕らの証が消えてゆく

容赦ない日差し
お前は甲斐性がないな
わかってるんだよ
わかっちゃいるんだよ僕も

だれかを羨んで妬み僻みを繰り返して
少し不幸でいた方がずっと楽だったんだ

何か一つ 何か一つ
確かなものを探してる
何も見えない闇の先に
かすかな希望を今日も探してる

僕たちはいつまでどこまで頑張ればいいの
果てのない道を ただ歩いている気がするんだ

みんながみんな何か背負って
それでも笑って生きてんのなんて
わかってるよ、わかってるよ
僕だって

生きてゆけ下手くそなまま 未来を思い描いて
いつかは いつかはって世界に中指を立てろ
僕たちの描いた地図がたとえ消えてしまっても
選んだ道をただ進んでゆけ

生きてゆけ

小倉先生はこの歌詞がコロナ下の若者たちの歌に聞こえるっていうんですが、まあそういう聞き方はもちろん可能だけど、このバンドがこれ作ってるときはまだコロナ問題になってなかったからら、ふつうに聞けばまだ売れてないバンドマンたちの歌ですよね。

「僕達は下手くそなまま未来を思い描いて、いつかは いつかはって世界に中指を立てる」。まあまだ下手なバンドだけど、いつかは認めさせてやる、売れてやると思っているわけです。

この歌詞を読んで気づくのが、くりかえしが多いことですね。「いつかはいつかはって」「わかってるんだよわかっちゃいるんだよ僕も」「何か一つ 何か一つ 」「わかってるよ、わかってるよ」。この歌の主人公の「僕」はとても不器用で、同じことを何回もくりかえしてしまう。

「心を無くせば 強くなれるの/弱さを隠せば 強くなれるの」のところは、私が見るところではこの歌詞の唯一の難点で、「強くなれるの」を2回くりかえしているのがださい。ふつうなら順番もいれかえて「弱さを隠せば強くなれるの?/心を無くせば(〜「強く」以外〜)なれるの?」っていう形になると思うんだけど1、あえてこのださい歌詞にしている。この主人公は徹底的にださくて「下手くそ」だ。でもそれがいい。

音楽的な聴き所も少し書いてみます。このバンドはギターボーカル・ベース・ドラムのスリーピースでバンドとしては最小限の形ですね。ギターボーカルは歌はうまいけどギターはごく初歩的なことしかできないので、音楽的に凝ったことをして聞かせるのはむずかしい。でもこの曲では、楽器を弾くところとほとんど弾かないところ、ドラムが叩かないところと暴れるところと対比をはっきりしていてリズムも多彩で、技術力があるとはいえないバンドができる最大の効果を発揮しています2。そりゃ椎名林檎先生がひきつれてるようなスーパー腕利きなんでもできる大人数バンドを使えばなんでもできちゃうわけですが、そういう道は(まだ)とらないし、またスタジオミュージシャンとかに頼んで弾いてもらうのをいさぎよしとせず、自分たちでできる範囲で最高のものをつくりだしている。すばらしい!

またこの曲は、頭っから最後までコード進行がA – B – C#m7 – G#m7 という四つのコードだけでできていて、ほとんどずっとそのまんま一本道です(間奏で2小節ぐらいはしょってるところがあるけど)。それなのに展開しているように聞こえるのは、メロディーラインがいろいろ工夫されてるからですね。とくに、2コーラス目の「僕たちはいつまでどこまで頑張ればいいの果てのない道を ただ歩いている気がするんだ」のあたりが平坦な語り口調になってるところとかが、そのあとの「生きていけ!下手くそなまま」のサビを印象的にしていてすばらしい。

ボーカルは非常に歌がうまくて、声をひっくりかえした最高音域も印象的で、ある意味セクシーな感じがあるんですが、イントロで一瞬披露したあとはそれを封印して中音域で歌っていますね。まんなかの「何か一つ何か一つ」のところできっちり最高音域を披露してギターで暴れて、最後のサビの「思い描いて!」「たとえ消えてしまっても!」でもう一回披露してくれてすばらしい。もう絶賛ですね。

最後の「生きていけ!あー!」のあたり、実はうっすらコーラスが聞こえるような気がするのですが、この歌はみんなで歌うものではない、と判断したんでしょうね。正しい判断だと思う。

最初に書いたように歌詞は全体はまあ明白で、おそらくまだ売れてないバンドが大人たちからあれやこれや言われて出口が見えなくなってる状態だけど、どっかに光芒はあるはずだ、自分たちが信じてるものを信じて進むしかない、っていう感じですか。なんかやってると、大人や外野が、「みんなたいへんなんだよ」とか「我慢するところは我慢しないと」「売るためにはもっとこうしないと」とか勝手なことを言ってくるわけですが、そんなことは我々もわかっているのだ!うるさい!おまえらの言うことなんか聞かない!自分の道を行く!F x x K!」というそういう歌ですよね。ちょっと幼ないといえば幼ない感じがあるけど、でも若いってそういうことだから。

イントロでは「いつかは いつかはって世界に中指を立てる」だったものがラストでは「いつかは いつかはって世界に中指を立てろ」ていう自分たちへの命令・決意表明になっているところもいいですね。

あんまりよいので、うっかり昨日から何十回も聞いて、自分でも何十回か歌ってみたりしてしまいました(その音源は秘密)。あと何回も歌ってみて思ったのですが、これ女性ボーカルだからすばらしい歌だけど、男子ボーカルだとちょっと微妙な感じになっちゃうかもしれないなと思いました。「出口が見えないけどがんばる!」はいいんですが、男子がこういうふうに不器用に「そんなこと僕もわかってるよ、わかってるけどね……」とかって語るのはちょっと微妙かもしれない。モテないかもしれない。AKBや欅坂みたいな秋元節の男の子歌詞も、女子が歌ってるからよいのであって男子が歌うとキモい、みたいなのはあるかもしれない。でもまあそれも含めてよい。

まあ小倉先生がこの歌をコロナ下でもがんばっていこう、っていう曲だって聞くのもわかりますね。われわれはいま暗闇のしたでいつまでがんばっていなきゃならないのかわからないんですが、でもこうした歌を聞きながら耐えて、その結果見えてくる光芒を探したいものです。カラオケとかもみんなで楽しくできるようになるといいですね。でも私この曲カラオケで歌おうとしたら自分で泣いちゃうかもしれんなあ。

あと何回も書いてるけどバンドマン世界マンガの最高峰、みうらじゅん先生の『アイデン・ティティ』、読んでないひとは必ず読みましょう。

脚注:

1

対句表現は同じようなものを並べるわけですが、まったく同じのを並べてもどんくさくておもしろくない。それに「心を無くす」と「弱さを隠す」のふたつだと「心をなくす」の方が強いのであとにもってきたい、と思うわけです。

2

最小構成でドラムは止まったり思いっきり暴れたりする、ってのいかにも「ガレージバンド」って感じでいいです。音楽的衝動とはこういうものだ!

不幸な人は活動記録をつけよう

哲学者のパスカル先生が『パンセ』という超古典のなかで、「人間が不幸なのは部屋でひとりでだまってじっとしていられないからだ、そうすると自分のみじめさを意識するしかなくなるからだ」っていうことを言ってるんですが(あとに引用貼っておきます)、まあヒマや時間があっても、なにもしないとそれだけ不幸になるタイプの人間というのはけっこういるように思います。

現代の臨床心理学者たちも、不幸な人々の活動が少ないこと、あるいは逆に活動が少ないことによって不幸になってる人々がけっこういることに気づいていて、「行動活性化」みたいなのが人気のキーワードのようです。まあ元気な人たちは楽しそうだし、楽しいと元気になりますからあたりまえといえばあたりまえ。

自分の行動を活性化する手法はもちろんたくさんあるんですが、まずは自分の気分や幸福感と活動が密接に関係していることを自覚することが大事なようです。以前のエントリ で紹介したフェネル先生なんかは、とりあえず自分の行動・活動を記録してみるのがよい、とおっしゃっておられます。これはおもしろいので、自分が調子悪いのを自覚しているひとはやってみるといいと思います。私も2月ぐらいやってみておもしろかった(まだ一応続けています)。

具体的には、1日の各時間(1時間単位でも2時間でも3時間でもいい)ごとに、(1)なにをしているか、(2)そのときの気分、をメモしていくだけです。気分は点数にしてもいい。フェネル先生は気分を二つ記録するのがよいと言ってます。一つは「楽しさ」pleasure。どれくらい楽しいと感じているかを5段階なり10段階なりで好きにつければよい。もう一つは「能力感」mastery。これは説明が必要ですが、自分の能力を発揮している感じ、作業や状況をコントロールしている感じ、あるいは集中・熱中している感じ、ってぼんやりとらえてよいと思います1。PleasureをP、MasteryをMとして記録するとよいかもしれませんが、単に4-3とかそういう自分だけわかる書き方でかまわんと思う。今の私の活動を書くなら、朝9時の欄に「ブログ書いてる 4-4」とか記入すればよい。

こうしてみると、なにか活動しているとき、特に自分が得意なことをやっているときはけっこう充実して楽しく暮らしているし、パスカル先生が言うように、なにもしてないときやツイッタ見てるときは自分のみじめさを意識して不快だし能力も発揮できてないのがわかって、「ああ、やっぱりツイッタ見るのやめて楽器練習しよう」とかになりますよね。

具体的には私は下のような1週間見開きで、縦に時間刻んでるやつ(バーチカル)のシステム手帳を使っていますが、まあ似たようなのを自作してもいいし、他のやりかたでもいいと思う。あと、バッグに入れてしまうとそのまま忘れてしまう(!)ので、私は机の上にひらきっぱなしにしています。んで、気づいたら書く。とにかく目のまえにないとすべて忘れてしまうのが人間(私だけ?)。

まあおもしろいのでぜひやってみてください。自分の時間の使いかたと楽しみについて発見があるはずです。

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パスカル先生のはこれ。

気晴らし。人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、生じるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企てなどなどについて、時たま考えたときに、私がよく言ったことは、人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだということである。生きるために十分な財産を持つ人なら、もし彼が自分の家に喜んでとどまっていられさえすれば、何も海や、要塞の包囲戦に出かけていきはしないだろう。……ところがもっと突っ込んで考え、我々のあらゆる不幸の原因を見つけただけでなく、その理由を発見しようとしたところ、私はまさに有効な理由が一つあることを発見した。それは、弱く、死すべく、そして……我々を慰めてくれるものはなにもないほどに惨めな状態の、本来の不幸のうちに存するものである。……したがって、人間にとってただ一つの善きものは、自分がどういう存在であるかについて考えることから気をそらせてくれるものなのである。ここから、賭事、女性との談話、戦争、栄誉などがあんなに求められることになる。そういうものに実際に幸福があるというわけではなく、また真の幸福は、賭事でもうける金とか、狩で追いかける羊を獲ることにあると思っているわけではない。そんなものは、それをやろうと言われても欲しくないだろう。人が求めるのは、我々が我々の不幸な状態について考えるままにさせるような、そんなのんびりした、穏やかなやり方ではないからである。……これが獲物を捕まえることよりも、狩りの方が好まれる理由である。」(『パンセ』139)

ナンパしたりツイッタで争ったりゲームしたりするのは自分のみじめさから目をそらすためなのです。あははは。

脚注:

1

おそらく「フロー」に対応するものだと思う。

「パーソン論」を何度でも:竹内章郎先生の『いのちと平等をめぐる14章』

ひさしぶりの「パーソン論」問題。

竹内先生は当事者観点から長く優生思想の問題を考えている先生で偉いのです。ただやっぱり「パーソン論」理解については微妙なところがあるので、これからこの手の話を考えたい人のために簡単な注意書きだけ残しておきます。

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(p.143)

功利主義は説明不要ですね。竹内先生のいう「道徳主義」というのは、生命倫理学上のカント主義みたいな立場で、規則や権利、人間の尊厳なんかを重視する立場です。この引用文で触れられている「生命の質」Quality Of Lifeは「生活の質」という訳語の方が適切だと私は思います。さて。

基本的に生命倫理学上の「パーソン論」とは、我々の道徳的日常で特別扱いされている「人」(パーソン)とはどのようなものであるか、をめぐる議論です。もとは生命倫理学とかで人工妊娠中絶とか考えるときに使われた議論ですね。

結核菌もドクダミもゴキブリも豚も人間も生物ですが、結核菌は消毒していいしドクダミは抜いていしゴキブリは殺してかまわないけど、人間は殴ったり殺してはいけないと我々は考えています。豚や鶏だと微妙で、殺して食ってもかまわんと思ってる人は多いけど、一部にはそれは不正なことだと考える人もいる。でもまあとりあえずほとんどすべての人が、人間はその他の生物や動物とは別の道徳的な地位をもっている、と考えてます。なぜ生物学的ヒトは他の動物やその他の生物とはちがう権利や道徳的地位をもつのだろうか?これが出発点。

んで「パーソン論」での「パーソン」には二つの論法があります。一つは、「生命その他に対する重大な/強い(serious)権利をもっている存在者」みたいに定義して、生物学的ヒトが、他の動物とちがってパーソン(権利主体)であるのはどういう根拠がありますか、と考えていくやりかたです。そして、生物学的ヒトは、他の動物とはちがって、さまざまな欲求とか関心とか、特に 自己意識 をもつからだ、のように議論をすすめます(Tooley 1972)。

もう一つの進め方は、「人・パーソン」は日常語あるいは法的な言葉としてそのまま使うことにして、我々が特別な保護を与えるべきと考えているパーソンは、一般にはどういうものだろうか、完全な定義はできないまでも、いくつかのぼんやりした特徴を抽出することはできないだろうか、と議論をすすめるものです(Warren 1973)。その場合は、知性とか自己意識とかコミュニケーション能力とか自発性や自律能力とか自由とか、まあいろいろ特徴があって、完全な必要十分な定義はできないかもしれないけど、そういう特徴をほとんどもってない存在者(たとえば受精卵や胚)は、ふつうの意味では「パーソン」ではないだろう、のように話をすすめるわけです。

でもとりあえず「パーソン」は「人」を指すのです。

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(p.143)

上の引用文で竹内先生は「パーソンが なく 」って表現してますが、これは単なるタイポではなく、非常によく見かける誤解です。歴史的事情によって、「パーソン」は日本語では「人格」と訳されることが多いのですが、これと人柄の意味での「人格≒パーソナリティ」が混同されているんですね。「パーソン論」まわりの論説でこの「人格を もつ 」とか「人格 のある 」「人格を 有した 」のような表現を見たらもうそこで読むのをやめてもよいくらいだと思います。

「パーソンではない生物を殺しても殺人(殺パーソン)ではない」というのは微妙なところですが、妊娠中絶を正当化する場合はまさにそうした議論がおこなわれているのでこれはよいとしましょう。(ただし、妊娠中絶を正当化しようとしているウォレン先生なんかは、新生児もまだ十分パーソンであるとは言えないが、パーソンであるかどうかとは別にさまざまな重大な反対理由があるので新生児殺は不正だと論じていることに気をつけてください)

上の引用文にはもうひとつ微妙なところがあって、「パーソン論」は基本的にはパーソンとそうでない存在者を二分する考え方なので、人格(パーソン)と物件(モノ)をきっちり分けるカント的な考え方と相性がよく、功利主義とはむしろ相性があんまりよくありません。むしろパーソンとモノをきっちり分ける法的な考え方の枠組み内で論じるための議論ですね。

以上、ちょっとわかりにくいんですが、若い人々はこういう文脈での「人格をもつ」という表現だけは注意して、それを見かけたら危険信号だと思ってください。

パーソン論と中絶まわりの大事な論文は下に訳出してありますので、図書館などで確認してください。

あと駄文でよかったらこれ読んでください。江口聡 (2007) 「国内の生命倫理学における「パーソン論」の受容」

ブログ記事はたくさん書いてます。新しいもの順。

セックス産業を見る「多型パラダイム」への補遺・コメント

前のエントリ https://yonosuke.net/eguchi/archives/13333 の続き。

あとワイツァー先生によれば、売買春の実証的調査とかでも、注目浴びやすいものと無視されがちがものがある。売買春を調査するんだ!ってな話になると、

女性、ストリート、非合法の売春者は注目され調査されやすいけど、客や業者、男性やトランスジェンダーのワーカー、インドアのワーカー、合法のワーカーなんかはあんまり調査されてないらしい。まあこれは下の表の左側のワーカーの人々がいっぱんに悲惨な仕事をしていて、抑圧され搾取され虐待されている被害者であるから、という意識からですわよね。(実際に被害受けている可能性も高い)

注目されやすい 調査不足
ワーカー 客と業者(マネージャー)
女性ワーカー 男性・トランスジェンダー
ストリートの売春者 インドアの売春者
非合法 合法

日本だと全体に調査が足りないと思うんですが、新書とかで話題になるのは、「抑圧パラダイム」的な傾向の著者のものだと、若年女子とか、最貧困女子とかそういう厳しい生活を送ってる人々か、あるいはセックスワーク系だとファッションヘルス(?)とかのいわゆる箱もの風俗でわりと楽しくやってる人々が中心で、お客、業者、男性ワーカーとかの話は少なそうな気がしますね。 まあそうした調査の話も大事なんですが、私がワイツァー先生ので考えたのは、やっぱり「抑圧パラダイム」の方法論の問題点ですね。

実際、抑圧パラダイム≒ラディカルフェミニズムのライターの人々の書き方には私も問題があると思っていて、たしかに世の中にはいろんな被害や差別や搾取や不正義があって、喫緊の課題なわけですが、それを解決するために、業界全体に過剰に悪しきものとして表現したり、自分たちに対する批判や、自分たちに不都合な調査や意見や文献を無視したりする傾向はあるように思うのです。

このブログではフェミニズムの文献とかの重箱の隅をつつくような記事をたくさん書いているのですが、ここ20年以上フェミニズム勉強して、どうもやっぱり文献参照その他ちょっと問題があるように思っているわけです。

まあセックス産業とかポルノ産業って実際にどうなっているのかというのはそれに実際に関係している人しか知らないところが多くて、制作・サプライヤー側はもちろんごく少数派だし、ユーザーの方にしても、前にも書いたようにたとえば風俗みたいなの使うのはたかだか男性全体の3割ぐらいしかいないようだし女性のほとんどは知らない世界、ポルノ読む男性は多いだろうけど女性は関心ない人も少なくないだろうし、けっきょくわれわれは知らない世界が広がっているわけです。そういうときに報道されたり注目されたりした悲惨だったり悪逆だったりする例を見て一般化してしまうのは危険であり、場合によっては偏見的・差別的になってしまう可能性がある。

まあそうじゃなくても、「いろいろある」みたいなのを調査したり改善を考えたりするのは面倒なので、「ぜんぶ批判!ぜんぶ禁止!」とかそういうラジカルな思考や方法をとりたくなってしまうんですが、それってそこにあるいろんな人々の利益を無視することになってよくない1

さらには我々の思考のクセとして、あるカテゴリーにはいろいろと共通する性質があるはずだ、って思いこみやすい。セックス産業・ポルノ産業っていうとそれは一つのカテゴリーであるので、そこの一部にある搾取はすべてのセックス産業・ポルノ産業に共通なはずだ、って思いこんじゃいがちですが、たしかにワイツァー先生がいうようにポリモルフィアス・多型的、つまりいろいろあるわけですわ。私らは人々の悲惨な話を見聞きするとどうしてもネガティブな気分になり、「あいつらは悪いやつだ」とか単一的な思考をしやすくなっちゃうんだけど、そこらへん気をつけながらやりたいですね。

(下の本は、SMクラブの受付で参与観察した珍しい調査)

脚注:

1

森田先生なんかは「売買春にはまったく社会的利益なんかない」みたいなことを言ってたと思うんですが、それはおかしかろう。

ワイツァー先生のセックス産業を見る「抑圧パラダイム」と「多型パラダイム」

まあ森田成也先生の本読みながらいろいろ考えてしまったんですが、少しワイツァー先生の紹介したい。この先生はアメリカの犯罪学者で特に売買春とかトラフィッキングとかの専門家です。先生はとにかく実証的なのが好きでちゃんと調査する人なんですね。売春、というかセックスワークについても翻訳がある。これはよい本なのでそういう問題に関心のある人はぜひ読んでみてください。

これは1999年のやつの翻訳なんですが、2009年のアップデートされた版もあります。

んで、その調査の中身じゃなくて、先生の考え方を紹介しておきたいんですわ。

森田成也先生たちの「ポルノ・買春問題研究会」は積極的に英語圏の議論を紹介していて読みごたえがあります。メリッサ・ファーリー先生やジャニス・レイモンド先生といった人々の名前も見えますが、ここらへんは有名な先生たちですね。基本的にはっきり「ラディカル」なフェミニズムの先生たちが中心です。ぜひ読んでみてください。

んで、ワイツァー先生はこうしたラディカルフェミニズム系の反売買春にはかなり批判的な人で、むしろその批判の第一人者っていってもよいくらいの人です。下のやつの最初の方に、2000年代から2010年ぐらいまで先生が自分の実証的な立場をはっきりさせた結論みたいなのが出ている。

Weitzer, R. (2009) “Sociology of Sex Work,” Annual review of sociology, 35(1), pp. 213–234.

まず、社会学で歴史的に売買春がどう扱われてきたかというと、最初は(1) 逸脱行動として売春を見ていたわけです。なんで売春みたいな社会的逸脱をする人々がいるのだろうか、なんらかの異常なのだろうか、みたいな話ですね。買春する方はなにも注目されない。

1970年代ぐらいの第二波フェミニズムあたりから、売買春は(2) ジェンダー関係、男グループと女グループの関係、特にグループ間の「支配/従属」関係としてとして意識されるようになる。もちろん男が女を支配しています。そしてそのあとに、(3) 職業セクターとして見られるようになる。これは他の職業と同じ「ワーク」の一種として見るわけですね。

「ジェンダー関係」「職業セクター」という見方は対立することが多くて、それを研究する人々の間で、(a)抑圧パラダイムと(b) エンパワパラダイムが対立している。

「抑圧パラダイム」 はラディカルフェミニストの考え方で、売買春はジェンダー関係であり、そこには必然的・本質的に搾取と従属化と暴力がともなう。ポルノやストリップもそうした女性の支配と抑圧そのものです。キャスリン・バリー、アンドレア・ドゥオーキン、キャサリン・マッキノン、シーラ・ジェフリーズとか早々たる面々で、ザ・フェミニズムっていう感じですね。売買春関係だと、先の「ポルノ・買春研究会」が推しているメリッサ・ファーリー先生やジャニス・レイモンド先生たちが代表格の研究者で、売春者の多くは子どものころに性虐待され、ローティーンからセックス業界に入って、ピンプに搾取や日常的な暴力を受けひどい目にあっている、というそういう図式です。

こうした抑圧パラダイムの研究者・作家の先生たちの文章では、売春女性の苦境を表現する多用されるし、「性奴隷」「金銭レイプ」「サバイバー」とかのドラマチックな表現が多用されるし、「売らされた女性」prostituted women (「買われた女性」かな)とか受け身の表現も多くてとにかく女性は被害者である、ってことになる。

ワイツァー先生はこういうのに批判的なんですね。先生に言わせると、こうした人々の研究論文は、学問の正道からはずれている。ちゃんと広く調査されずに、個別の事例(アネクドート)が過剰に一般化されているし、調査しているかのように見えても調査サンプリングが非常に選択的だし、そうした抑圧としての被害者像とはちがった反証事例が無視されてしまう。売買春にかかわってしまって最悪の境遇にある人々が典型にされてしまっている。文献も仲間うちというか、自分たちの意見にあうものだけが引用・参照されて、批判的なものは文献リストに載らない。

一方には 「エンパワメントパラダイム」 がある。これはいわゆる「セックスワーク論」で、セックスの売買がふつうの「職業」として成立すると考える立場です。そしてセックスワークは場合によっては、女性のエンパワになる、っていう話ですね。他の経済的取引と同じように、企業化・組織化されてもかまわないと考える。セックスワークがごく日常的である側面を強調して、マッサージやカウンセリングと同様の職業だとか、場合によっては一部の人には、田舎町によくある偏見や、出口のない低賃金労働や、危険なストリートや、息づまる家族関係よりもずっとすばらしい職業だと主張したりする。現状はともかく、もし道徳的スティグマが解消されれば、セックスワークは女性の選択肢の一つとしてエンパワになる可能性はあるし、現在でも一部の不利な人々にはエンパワになってる側面がある、論じる。

ワイツァー先生に言わせば、抑圧パラダイムもエンパワパラダイムも、どちらも一元的な発想だっていうわけです。「売買春」っていうので、その活動がぜんぶ「抑圧」か「エンパワ」(解放)かどっちかだ、みたいになっちゃうっていうんですね。

ワイツァーは(c) 多型パラダイム (Polymorphous Paradigm)っていうのを提唱していて、実際には売買春という活動や営みは、時代、場所、セクターでずいぶんちがった活動であり、参加者にもそれぞれいろいろちがった経験だと。つまりまあ「売買春」っていってもいろいろありますよ、って話です。あたりまえといえばあたりまえなんですが、売買春だのポルノだの性被害だのって考えてるとだんだん視野が狭くなっていって「AはBにちがいない!」ってやっちゃうけど、そういうのおかしいですよね。

ワイツァー先生たちによれば、たとえば売買春/セックスワークっていったこういう違いがある。

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「コールガール」(独立)、「エスコートクラブ」(デートクラブ?)、売買春店(日本のソープランド?)、マッサージパーラー(日本の風俗に対応?)、バーやカジノ、「ストリート」、といろんな層がある1。「コールガール」は、魅力があって自分で自分に値段をつけてお客さんを選んだりするので、値段は高いし暴力リスクは低いし搾取もされにくいけど、ストリートでお客さんひっかける人々は値段も安いし危険は多いし地廻りのヤクザみたいなのからカスリとられるしものすごくたいへん。中間のマッサージパーラー(日本の風俗?)とかはすごく安全だけどカスリもとられるので微妙とか。

まあこういうふうに売買春とかセックスワークっていっても一枚岩じゃなくて、いろんな形態があって、そういうのちゃんと分けて見ていかないと人々の不幸を減らすうまい政策はとれません、とかそういう話です。

日本だと、要友紀子先生に代表される「セックワーク論者」は上の「エンパワパラダイム」よりはワイツァー先生の多型パラダイムに近い形で産業を見ていて、やっぱり危険や搾取もかなりあるからちゃんと支援しよう、みたいな話をしていて、完全な「エンパワ」組はあんまり見かけませんね。まあ英語圏でもワイツァー先生が言うような楽天的・楽観的な人々はそんな多くないと思う。そういうんで、ワイツァー先生の実証的な派閥が、ラディカルフェミニズム/抑圧パラダイムに対立する大きな派閥になっているわけです。

同じことはポルノグラフィーに関する議論にもいえて、これもワイツァー先生いろいろ言ってるのですが、また。

下のは別の先生のだけど、アメリカのポルノ産業の調査。

脚注:

1

要友紀子先生がジェンダー法学会で売買春について講演してたときに、日本の風俗に関するこのタイプの表を見せてくれてたんですが、どっかにないかなあ。

森田成也先生のセックスワーク論批判 (4)

まあ、言いたいことはわかるけど根拠がどういうものなのかはっきりしないので飽きてきたので残り簡単に。

  • 合法化されればセックスワーカーへのスティグマが払拭される

「払拭される」みたいなのはどう考えても言いすぎですよね。でも非合法であることはスティグマの理由の一つかもしれない。この部分では「性の人格性」とかそういう私には魅力的なキーワードが出てくるのですが、いま発注している先生の別の論文見てから書きたい。私が以前「セックスと人格」みたいなのについて書いたのはこれ。 「性・人格・自己決定:セックスワークは性的自由の放棄か」 http://hdl.handle.net/11173/445

  • 売買春廃止論はセックスワーカーへの差別だ

売春合法化論者の方こそ、買春被害者の被害に無関心で差別的だ、ということです。でも当事者たちが被害減らすためにそうしたい、って言ってるんじゃないのかなあ。スウェーデンモデルもワーカー当事者からはいろいろ批判が多い。英語読めて興味ある人は → https://www.hri.global/files/2015/03/31/Advocacy_Toolkit.pdf

  • 売買春を禁止しても地下に潜るだけで、セックスワーカーをより危険にするだけだ

これは屁理屈だそうです。まあどういうことがらについても、法的な禁止にはある程度の効果があるだろうから、問題は違法にした方がよい結果になるか、合法にした方がよい結果になるか、ということですわね。さらには違法にしといて実際には運用はうやむやにしておく、みたいな手段もあるかもしれない。これはかなり慎重に議論しないとならない。スエーデンモデルはセックスワーカーが顧客を守るためにいろいろ気をつかう結果になってる、とかそういう話どっかで読んだけど探しなおすのはあとで。

  • 売買春を合法化すれば、人身売買が減少する

とくにドイツやオランダなどの先進ヨーロッパ諸国における売買春の合法化が、ちょうどソ連・東欧における「社会主義」耐性の崩壊後にあいついで実施されたことは、旧ソ連・東欧諸国における経済崩壊によって貧困化した大量の若い女性たちが磁石に引きつけられるように、西ヨーロッパの売春合法化国に(人身売買業者を通じて)吸収されていった。その数は数百万人規模に上る。

ということです。「人身売買」の定義は不明。奴隷みたいに買われていった、というのはちょっと信じにくいですが、まあ本当だとしたらまったく許せないことです。

  • 児童買春はだめだが、成人同士の同意にもとづく売買春なら問題はない

セックスワーク派は 「どうして子どもの売買春がだめなのか、彼らははっきりと語ることができない」 「セックスワーク派は何よりも児童買春の非犯罪化を主張するべきなのである」 だそうです(p.171)。ばからしい。危険な仕事だしまだ十分な判断力がないからじゃないのかと思うんですが、森田先生はなにを見ているのでしょうか。

  • 他の仕事でも危険やリスクはあるので、売買春は特別ではない

他の危険な仕事はさまざまなルールで安全性を確保しようとしているのにセックスワークはそうじゃない、という話で、これはそういう面があるかもしれないですね。でもだからセックスワーク論者は安全を確保するためにいろいろ努力してるんじゃないのかな。

ここでまたメリッサ・ファーリー先生の文献が参照されてますが、wikipedia見たらファーリー先生は理論もデータの扱いもやばいとワイツァー先生以外の人からも指摘されてたのね。研究助手から告発されてたとかやばい。そういう訴えがあったからといって彼女の研究に価値がないことにはならないけど、ちょっとショックでした。

ここでセックスワーカーが殺人の被害者になりやすい話があって、やっぱりセックスワークは(多くは知らない客と)個室でおこなわれるので危険ですわね。いわゆる「店舗型」の方が安全なんじゃないかと思うけど、日本では規制でデリヘルみたいな形が増えてより危険になってる、みたいな話は読んだことがあります。

まあこれくらいで。森田先生の議論は全体に、論敵を紹介しないし、一方的で根拠が不明でほとんど説得力を感じられませんが、先生がおそらくかかわっているAPP研究会ぱっぷすの運動のなかで把握したいろんな悲惨な事実はあるのだと思います。それは尊重したいし、書きにくいこともあるのかもしれません。リスクや安全性の問題はほんとに重要だと思うので、セックスワーク派の人々はがんばってほしいと思います。

「セックスと人格」の話はいずれ。

森田成也先生のセックスワーク論批判 (3)

自発性の問題つづき

まあ自発性とか同意の問題は難しいですね。あんまり難しすぎるから、いろんなことがらについて、とりあえず成人(あるいは18才以上)、正常な判断力をもっていて、ある程度の情報をもっているひとが選択したのであればそれは尊重しましょう、ぐらいになってるんだと思います。セックスワークとかAV出演とかセックスまわりは、セックスという人間の生活でも特別に重視される面にかかわるし、また若い女性がワーカーとして好まれる傾向がありますが、若い人は年配の人より判断力が若干劣るかもしれないので、セックスワークまわりはもっと厳しい自発性の基準で考えるべきだ、みたいな考えかたはあるだろうと思います。

ただ、森田先生は業者(「ピンプ」やスカウトマン)が狙うのはいろんな事情で「自己決定権を行使できない立場にいるか行使する能力に乏しい女性である」と言うんですが、これはうなづける点はあるにしてもちょっと極端な見方でもあると思います。ツイッターとか見ていると風俗嬢の人々がけっこういて、そういう人々がいろんなことを書いていて、いろんな考え方や感覚があるなと思わされますね。かなり搾取されている人もいるだろうと思うけど、全部がそうだとか大半がそうだとかっていうのは言いすぎだろうという印象もあります。

もちろんまともな選択をするにはやっぱり情報が必要で、そういうのでは最近はブログやSNSとかで風俗嬢の人々が大量に発信していて、だいたいどういう場所かっていうのはこれから働く人々にもあるていどわかりやすくなってるんじゃないだろうか。

ところで、森田先生とかおそらく仲間の中里見先生とかは、買春のターゲットになる女性はとにかく若くて、無力なので、困っていて、知的障害をもっていたり性被害で自暴自棄とかになってるひとだ、みたいな事を言うんですが(p.156)、これってどれくらい本当なのかなあ。私の感覚だと、身体的にも精神的にも不健康な人っていうのは、一般には、健康な人に比べるとあんまり性的魅力がないと思うんですよね。つまりあんまり売れないんじゃないかと思う。松沢呉一先生の本とか読むと、いろいろ気をつかわないと風俗嬢は売れないみたいですが、やっぱりそうした気遣いみたいな能力は必要とされる業界だろうと思います。ただセックスさせてればお金もらえる、みたいにはなってないと思う。これは私の想像。

まあ一部にはサディスティックな人や特殊な趣味の人もいるだろうからなんともいえないのですが、ほんとうに世の買春男性というのはそんなにひどい人々なのだろうか、とか思います。ツイッタとか見てるとたしかにやばい人はいるようだけど、ほんとにそんなにたくさんいるんだろうか。

とか考えちゃいますね。まあこういうのはやはり事実の話であって、森田先生の本はそうした事実の話にはほとんどまともな根拠をつけてくれないのでよくわからない。

貧困

売春を禁止するとワーカーが路頭に迷う、とかっていう議論を森田先生は反駁していますが、そもそもそんな主張している人がいるんかな。先生は「セックスワーク派は自発的だって話と貧困で路頭に迷うって話を同時にしていて矛盾している!」っていうんですが、その二つを同時に主張している人がどれだけいるかよくわからない。そもそも「路頭に迷う」とかってなんか大袈裟すぎるんじゃないのかな。

まあスカウトマンやホストとかがいろいろ売上からピンハネするのでワーカーはたいへん、、みたいな話はそういうのもあるかと思うし、風俗業にはわりにあわないところがあるだろうっていうのもわかるんですけどねえ。引用されるのがアメリカとかの話で、アメリカのストリートでドラッグやりながら売春している人々と、日本の(ふつうの?)風俗産業とかどれくらい比較できるものかと思います。

まだ続く。

森田成也先生のセックスワーク論批判 (2)

森田成也先生の『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』第4章の「売買春とセックスワーク論」の後半は、いわゆる「セックスワーク論」への反論がいろいろ列挙されていて、少し確認しときたいです。

森田先生によれば論者たちがセックスワーク擁護のためにもちだす理屈は以下のようなものらしいです。実際には誰がそういうことをを主張しているのかは明示されない。

  • セックスワーカーは自発的に売春に従事している
  • セックスワーカーは貧困ゆえに売春に従事しているので、売春が禁止されれば路頭に迷う
  • 合法化されればセックスワーカーへのスティグマが払拭される
  • 売買春廃止論はセックスワーカーへの差別だ
  • 売買春を禁止しても地下に潜るだけで、セックスワーカーをより危険にするだけだ
  • 売買春を合法化すれば、人身売買が減少する
  • 児童買春はだめだが、成人同士の同意にもとづく売買春なら問題はない
  • 他の仕事でも危険やリスクはあるので、売買春は特別ではない

セックスワーカーは自発的か

まあそもそも実は森田先生が「売買春」とか「セックスワーク」とかっていうのをどう定義しているのか私見つけられないのですが、本の前の方に書いてるのかもしれません。いずれ確認します。ここでは一般に、いわゆる「本番」(性器セックス)系のも、「ヌキ」があるもの(オーラルセックスその他の性器サービス)もないもの(いわゆる「おっぱぶ」?)も、そして身体的な接触自体がないもの(ストリップクラブとか)も含めて性風俗産業・セックス産業と呼ばれているもの全体を指してると理解しておきます。

そうしたセックス産業っていうのは、一般には社会的評価も低いし、好きでもないおじさんたちに身体的なサービスしなければならないし、他の業界にくらべて身体的、心理的、性的な暴力のリスクはかなり高いだろうし、また業者によってワーカーワーカーの搾取がおこなわれやすいだろう、ぐらいは多くの人が認めるんじゃないですかね。そういう業界に、(他の条件が同じなら)自由で自発的に参入する人々は、やはりそんなに多くないだろう。

でも、まあごくふつうに考えて、そうした仕事のイヤさやリスクを我慢しても、大きなお金が欲しいから、あるいはお金が必要だから風俗で働く、っていうのが常識的な理解だと思います。

森田先生によれば、セックスワーカーはピンプ(業者)に強制された状態で働いているのであり、(2)「ほとんどの売春従事者は、貧困、低賃金、借金、精神疾患、孤立、子どものころの虐待(とくに性虐待)、機能不全家族、若さ、依存症などのさまざまな個人的ないし社会的な脆弱性のせいで売買春へと引きこまれている」(p.155)ということです。

しかし、これ根拠あるんでしょうか。日本の風俗産業で、業者が女子をそんな強制して働かせてるってことあるんだろうか。それにワーカーの人の人々の一部に弱い立場の人がいるのはそうかもしれないけど、「ほとんどの」っていうほどなんだろうか。根拠はどれくらいあるんでしょうか。

実は森田先生のこの本、日本の風俗の現状に関する書籍とかがほとんど参照されてないんですわ。前のエントリーであげた本の他にも、風俗関係って人々の関心をひくから、ジャーナリスティックなものの他に、マジメな本もけっこう大量にあるんですけど、ほとんどなにも参照されていない。

上の個所で一つだけ根拠にあげられているのは藤田孝典先生のAbema TVでの発言ですね。(これは本書で数少ない日本語資料のひとつ)

藤田氏は「私も18年間、生活困窮者の方の相談活動をやってきていて、実態を知らないというレベルではない。性風俗産業で働いている方たちの発言をかなり詳細に聞いてきている。例えば『本当は働きたくなかった』『大学の学費を払うためにやむを得なかった』とか、家庭で虐待があって風俗店であれば社宅を用意してくれるので仕事をしているという方とか、とにかく事情がなく風俗店で働いている方を探すほうが難しい。そして、その後は労働災害にかなり近いような精神疾患の罹患率。私たちも病院に付き添ったり障害者手帳を一緒に取得する手続きをやるが、元セックスワーカーの方たちの精神疾患の罹患割合が非常に高い。要は、危険な職場なんだという認識を多くの方に持っていただきたい」と話す。

まあ困って風俗で働くひとっていうのはやっぱりいるとは思うんですよ。それもけっこうな割合になるだろうと思う。たとえばちょっと古いですが、要友紀子先生と水島希先生の『風俗嬢意識調査』という126人の非本番系風俗のワーカーに対する調査ではこういうふうになってるようです。(p.18)

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こういう調査は難しいところがあって貴重です。森田先生も少しぐらい参照してくれてもよいのではないかと思うんですが、先生がもちだすのはメリッサ・ファーリー先生。

とくに子どものころに虐待と性虐待を受けた経験は、売買春に入る女性たちにかなり普遍的な要素であり、2003年にメリッサ・ファーリーが9ヶ国で850人以上の非買春女性を対象に行なった調査では、59%の人が保護者からケガするほどの暴力を受けた経験があり、63%が性的虐待を受けた経験があった。

たしかになんか話ですよね。つらい。参照されている論文はこれです。 https://bit.ly/2PsczYu

しかしですね、ファーリー先生は有名な臨床心理学者・反買春フェミニスト運動家なんですが、ここらへんの1990年代末〜2000年代前半の調査は、ロナルド・ワイツァー先生(『セックス・フォー・セール』を編集した犯罪学者)なんかは非常に厳しく批判しているんですわ1, 2。→ https://bit.ly/2PyyJIj

ワイツァー先生によれば、この時代のフェミニスト活動家による売買春調査は理論的にも方法論的にも大きな問題がある。調査に大きなバイアスが入ってるんですね。ファーリー先生たちの調査したサンプルがどういう集団なのかわからず、それはセックスワーカーを代表するものではない。まあ多くは反買春・被害者支援団体に連絡をとってきた人とかなわけですが、彼女たちが非常に困った状態や被害を受けたりしているのは支援団体に連絡をとってきた人なのだから当然といえば当然。

さらには、たとえば精神疾患や虐待を受けた人が多い、っていうのもまあつらい事実なのだろうと思うのですが、同じ社会階層の非ワーカーの人々との比較みたいなものもなされてない。つまり対照群がない。

それにまあストリートで働いてる人(苦しそう)と高級エスコートクラブみたいなところで働いてるひと(それよりはずっとよい環境だろう)の境遇はぜんぜんちがうでしょうしね。そういう区別もはっきりされていない。

同じことは上の藤田先生の発言についても言えますよね。彼は生活に困っている人々の支援をしているので、いろいろ困っている人々が来る。セックスワークは、他の仕事に比べれば、個人的・社会的脆弱性みたいなのをもっているひとも働ける仕事であるというのはあると思います。でも精神疾患とかが重くなるとさすがにセックスワークも難しくなってしまうので、彼のところに相談に行く元ワーカーの人々のなかに精神疾患の人々が多いのはありそうな話ではあると思うのですが、だからといって大量に働いているセックスワーカーの人々の多くが精神的な不調をかかえているとか、あるいはセックスワークによって精神的な疾病をかかえることになるとか、そういうことにはならないと思う。ワイツァー先生が言うように、そういうことを言いたいのであれば、もうすこし科学的というか学術的な調査が必要なところですよね。

さらには、ファーリー先生たちに代表される調査は、「半構造化インタビュー」の形でやられることが多いんだけど、質問のワーディングとか明らかにされてない。まあむずかしい調査なのでしょうがないところもあるんだろうというのは多くの人が認めるわけですが、かといってファーリー先生たちみたいな調査をすぐに一般化するのはたいへん危険なわけです。

まだ続きます。

脚注:

1

このファーリー先生の調査は中里見博先生も2010年ごろに論文で使っていて、そのときにワイツァー先生とかに言及したブログを書いた記憶があったのですが、書いてなかった。ははは。

2

あら、英語版wikipedia見たら、ファーリー先生の研究にはデータの操作とかの疑いがあるみたいですね。知らなかった。

森田成也先生のセックスワーク論批判 (1)

森田成也先生という先生が『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』という本を出版して、読んでみたんですが、私が見るところ問題が多いと思います。いくつか問題を指摘しておきたいと思います。

セックスワーク論と呼ばれる立場は、他の仕事と同様に売春も仕事の一種であると、売買春の自由化あるいは非犯罪化をもとめる傾向の主張です。これはOK。

森田先生によれば、この立場に立つ人々が達成したいのは(江口のまとめ)、

  1. 逮捕を恐れて悪徳警官やピンプにしたがう必要がなくなり、ワーカーが安全に仕事できるようになる
  2. 不当な搾取や人身売買の被害や目撃を通報しやすくなる
  3. ワーカーに対する道徳的スティグマが減少し、そのため仕事からの離脱も容易になる

ということだそうです。まあこれもOK。基本的にセックスワーク擁護の人々はワーカーの安全を一番の目標にしていると思います。

これに対して森田先生は、売買春自由化・非処罰化より、「北欧モデル」を推奨するんですね。「北欧モデル」とは、基本的に売春は禁止だが売春婦は非処罰化で保護や支援の対象とし、仲介業者や客(買春者)を処罰する、というものです。日本の法律でも売春する女性は非処罰化で保護更生の対象で、管理者は処罰されるので似ていますが、お客も罰しようっていうのがミソですね。

セックスワーク論の目標であるワーカーの安全などは、北欧モデルでも上記の目標は達成できる、っていうんですね。

実際には、これら(1)〜(3)はすべて北欧モデルでも達成可能である。というのも、北欧モデルでは、直接の売り手である売春女性は非犯罪化され、被害者として保護・支援の対象となるわけだから、(1) 警察に逮捕されず、したがってそのことを恐れて警察の不当な要求に従ったりピンプの支配下に陥ることはない……(p.143)

びっくりしました。北欧モデルは客(買春者)やピンプ(業者)を処罰するのですから、当然のことながら客の数が減ることが期待されるわけです。ワーカーはふつうは お金が欲しいからセックスワークをする わけで、保護されたり支援されるからといって商売を邪魔されるのはいやなはずです。他人から「保護」されたり「支援」されたりすることを嫌い、自分で稼ぎたいと思うひともいるでしょうし、安い時給で働いて貧しく暮らすより、リスクがあっても大きなお金を必要としたり欲しかったりする人もいるはずだ。だからこそ「セックスワークをワークとして認めろ」と主張しているわけですから。たしかに商売が成立しなくなれば、当然逮捕を恐れる必要も悪徳警察官や悪徳ピンプに被害に会うこともなくなるわけですが、それではそもそもなぜワーカーがワークしたいのかというのをなにも考えてないわけです。こんな議論ってあるんだと腰抜かしそうになりました。

(2)の搾取や被害の目撃を通報しやすい、っていうのはいいとして、

(3) 売春は単なる労働とみなされるわけではないが、その中の女性たちは売買春という搾取システムの被害者とみなされるわけだから、スティグマも取り除かれ、そこから離脱することも容易になるだろう。つまり、セックスワーク派たちが自分たちのアプローチの効果だとしていることはすべて、北欧モデルでも達成可能なのだ。(p.143)

「売買春は搾取システム」というのはかなり議論の余地があるところですが、森田先生たちの根本信念なのでここでは問題にしません。しかし、被害者とされるのだからスティグマも取り除かれる、という論法はよくわからない。被害者であっても道徳的なスティグマ(汚点)がつけられるということはよくあることなんじゃないでしょうか。性暴力の被害者とかはまさにそうしたことが問題になりますよね。

「すべて……達成可能」の「すべて」っていうのは被害をなくすことなわけですが、まあセックスワーク関連の商売をすべてなくしてしまえば、たしかに当然関連する被害もなくなるだろう。でも本当にその商売を完全になくすことが可能なのですか、という問題意識が落ちている。

まあとにかくこの本、非常に一方的だし、肝心の「セックスワーク論」を唱えている人の文献がほとんど出てこないんですよね。デラコスタ先生のぐらいのように見える1。最近では日本でも書籍も論文もいろいろ出版されてるんだから、それくらい紹介して批判すりゃいいのにと思います。せめてちょっと前に出たSWASHの本ぐらい参照したらどうだろう。

もちろん、セックスワークといえば聞こえがよくなるかもしれないけど、その現場にはいまだに場合によってはかなり危険や搾取がある、という話は誰でも認めざるをえないと思うのですが、それにしたって当事者や論敵たちの意見をちゃんと聞いてあげないという態度は、運動としてはともかく学問としてはかなり問題があると思う。

少なくともフェミニストの先生たちは、この本をよく読んで検討してみるべきだと思いますね。これでいいのだろうか。

脚注:

1

文献情報は注にまわされてるので全部チェックするのはたいへんなんですが。

セックス経済論 (10) ちょっとだけコメント

しかし投げっぱなしだと誤解されそうなのでちょっとだけコメント。

バウマイスター & ヴォース先生たちの「セックス経済論」は、社会学でいう「社会的交換理論」の一バージョンですね。まあ経済学も含め、非常に一般的な理論というか考え方なので、名前なんかいらないくらい。バウ先生たちは、経済学者のゲイリー・ベッカー先生の The Economic Approach to Human Behavior (1976) 1 の四つの想定をひきあいに出してます。

  1. 個人は、比較的安定した選好にもとづいて、コスト・ベネフィットに応じた選択をする
  2. 希少資源は価格の調整によって配分される。
  3. 財やサービスの販売者は互いに競争する(購買者も競争することがある)
  4. 個人は結果を最大化しようとする。

まあこうしたシンプルな理論がどんだけ射程が長いか、っていうのがわかる話になってます。

2004年の段階で、バウ先生たちのが 理論として どれくらい新鮮だったかというのはよくわからない。このシリーズ読んでくれたひとの多くは「そんなんあたりまえやろ」ぐらいの印象の人が多いんじゃないかな。わざわざ「セックス経済学理論」みたいな名前つけてあざといですね。でも先生たちはその後ずっとこのラインで議論していて、そこそこいけてると思ってるみたいです。

2004年の時点で、ジェンダー問題については、社会構築主義的なフェミニズム理論(男性支配!)と急速に勃興中の進化心理学が、男女関係を考える主な「セオリー」だったわけですが、どっちも「男性が女性を支配する」っていう形で見る傾向があったわけです。2020年代の心理学はさすがにそんなに単純な形にはなってないですが、バウ先生たちの論文の新鮮さは、進化心理学と同様に男女のあいだの性的関心・性欲の生得的な性差、というのは前提にしながら、男性が単に「支配」を欲求するようなハードワイヤードな傾向をもってるんではなく(もちろん女性が支配されることを望むような欲求をもっているわけでもなく)、状況・環境に応じて戦略を変更するような存在として見るという点、そして男女の間にあるのは支配・従属ではなく、むしろ交易・交換・協力だ、ってなところでしょうな。もちろんその交易や協力が強制的・搾取的になってしまう場合もある。そんでも、男女関係におけるアクターとしての女性の有利さっていうのはまあ常識的(少なくとも私の常識)に合致しているところがあるように思います。

しかしまあ男女の間で交換しているのはもちろん、女からセックス、男から金、だけじゃないのはほぼ自明っすからね。実際には他にもいろんなものを交換し協力しているわけで、まああえてこんな単純にした「理論」というのはなんであるのか、みたいなのはよくわからない。でもまあセックスと性欲(そして生殖)を中心に考えると相当のところが説明できる、っていうのはまあ進化生物学的・経済学的な発想の強みではありますわね。

ちょっと時間があったので「セクシー化/セクシャル化」と「男性支配」についてだらだらメモ書きましたが、まあここらへんはおもしろいので、みんな(特に若い人は)勉強がんばってください。

実践的に、セックスや恋愛がんばってくださいというつもりはないです。がんばらないでください。でもセックスを中心に男女が交易しているという点にはなにほどかの真理があるでしょうから、モテたいと思う男子はちゃんと交易するための資源用意しといた方がいいだろうな、とは思いますね。素敵なテニス選手の方みたいな人から「私は高価料理メニューなので、あんたたちはそれ払えないでしょ!」とか言われるとつらいですからね。それは現ナマである必要はないはずなので、お金がないひとは海辺できれいな貝殻拾ってくるとか工夫してください。

注意として、進化心理学とかセックス経済論とか、そういうのを勉強すると、すぐに「 悪いのは 女性だ」みたいな発想する人がいるんですよね。こうした人間の「本性」や社会の仕組みみたいなのに関する「理論」や説明、解釈を、すぐに道徳的な善悪の判断や規範的判断(「よい/悪い/不正だ/罰を受けるべきだ/〜するべきだ」)に結びつけてはいかん。

実際のところ、学界でもセックス経済論をそういうふうに解釈して、「バウたちは女性たちに〜という現象の 責任 があるresponsible と主張しているが〜」のような人たちはけっこういます(Laurie Rudman先生とか)。バウ先生もヴォース先生も「女が悪い」とかそういう話はしていないし、道徳的な意味で「責任がある」みたいな話もしていない。まあ「このセックス中心の見方をすると、これこれの事象が他の理論(特にフェミニスト理論)よりはうまく説明できるっぽい」ていどの話で、誰が悪いかとか、よりよい社会(おそらく、公平で多くの人々が幸福に充実して生きられるような社会)をどう作ればいいかとういうのはまた別の話です。いろんな「理論」をすぐにまにうけて善悪の判断したり社会革命とか起こそうとするのは危険なので用心しましょう。それに「理論」っていったって、こういうのはぜんぶ 単なる仮説 だからね。他の理論より事実をうまく説明し、まだ見つけられない他の現象を予測できるかどうか、ぐらいの判断基準しかない。


(追記)

セックス経済論と「セクシー化」や「男性支配」との関係についてうまく書けてないですが、まああんまりよく考えないのでしょうがないです。

「セクシー化」は、セックス経済論が指摘し予想する女性どうしの競争となにか関係があるだろうとは思います。

「男性支配」に関してはヴォース&バウマイスター先生たちがはっきり述べてるとこがあるのでちょっと引用しておきますね。

セックス経済論(SET)は、進化的原理をもとづいた理論だが、この原理を市場という文脈の上においている。この市場という文脈は、定義によって、文化的に構築されたものである。……SETは、男性の相対的に強い性欲と、それを得るためにできるかぎり小さな代償を払おうとするという動機から、男性が女性を支配しようと試みることを説明するのだ。(Vohs & Baumeister 2015)

セックス経済論は、進化心理学的な理論とも、社会構築主義的なフェミニスト理論とも矛盾するものじゃないっすよ、と言いたいようです。ラッドマンさんなんかはセックス経済学を「家父長制的だ!」っていって非難してますが、現状とその原因の解釈としてはそれほど家父長的ではない、というかセックスと性欲という眼鏡で社会を見てみて、どう解決するか考える一歩にはなるかもしれないと私は思っているわけです。まあこの眼鏡はずいぶんとあらっぽいもので、不快に感じる人は多いかもしれませんがねえ。

【シリーズ】

脚注:

1

あれ、この本自体は翻訳ないんすか。

セックス経済論 (9) 女性のセクシュアリティの抑制

女性のセクシュアリティの抑制

多くの文化で女性のセクシュアリティ1が抑制されているとされます。まあ女性の性的な活動は好ましくないとか、性的な魅力をみせびらかすような服装はつつましくないとか、極端なケースでは女性の性的な快楽を削減するために性器に外科手術を施す(FGM)とか。

昨日飯山陽先生の『イスラム教再考』という本めくったんですが、後ろの方はイスラム文化がものすごく女性抑圧的だっていうことを力説していてあそこらの人達たいへんだなとか考えてました。

ふつうの解釈は、そういうふうな女性のセクシュアリティの抑制は、まさに男性の女性支配のあらわれである、っていうふうに解釈される。男性が自分の彼女や妻とかが自分以外の相手を誘ったりセックスしたりするのがいやだから、男性は結託して女性の抑圧している。それはこれはこれでまあ一応筋が通っているように見える。フェミニズム理論でも、(2000年ぐらいまでの)一般的な進化心理学理論でもまあそういう感じ。

こういう発想の背後には、女性のセックスの抑制が 誰の得になるのか 、を考えるという姿勢があります。”cui bono?”ってやつで、犯罪を操作するときなどに、それが誰の利益になるのか考えれば犯人の推定ができる、みたいな発想ですね。女性のセックスの抑制は男性の利益になるのだから、おそらく男性(男性支配)が犯人にちがいない。

ところがバウ先生たちのセックス経済論では、いやいや、女性もお互いのセックスを抑制することで、全体としてけっこう利益を得ていますよ、むしろ女性の利益じゃないっすか、みたいなことを考えるわけです。これは、中東とかの原油産出国が、お互いの輸出量を制限することで原油の値段をつりあげるのに似ている。

証拠はどこにあるのか、っていうと、Baumeister & Twenge 2002ってやつですね。

  • 思春期女子の性的抑制(セクシーな格好の非難とか)は、父親ではなく母親によるものであり、同級生とかの男子ではなく女性どうしによるものである
  • いわゆるヤリマン女子に対する非難も男性より女性によるものが強い
  • ボーイフレンドは自分のガールフレンドとのセックスを抑制せず、むしろ多く求める
  • 婚前セックスを非難する傾向は女性の方が強い
  • 婚外セックスのダブルスタンダード(男性は許されるが女性は許されない)的発想も女性の方が強い、先進国のダブルスタンダードを認めない現代女性も、自分以外の他の女性たちの方が男性よりダブルスタンダードを認める傾向にあると考えている

など。また、FGMの習慣があるような女性の性欲や性的活動を強く抑制する文化では、女性は男性よりはるかに社会的・経済的・政治的地位が低い。これのバウ先生的解釈として、女性は男性よりはるかに劣悪な環境で生活しているので、自分たちの性的能力から最大の利益を獲得しなければならず、そのために他の女性の性的活動を抑制して値段をつりあげる必要があるからだ、ってなことになる。うーん。

まあとにかくセックスを「安い」値段で男性に与える女性は女性から嫌われ制裁を受けちゃうわけですが、それはまさにセックスの価格維持のためだ、みたいな話になるわけですわ。でも個人としてはみんなが堅い行動をとっているときに、ルール破りして柔軟なセックス活動をおこなえば他より先に優秀なお客さんを確保できたりするわけで、ここに女性の性的活動の難しさがある。

まあ前に書いた心理学者たちの「セクシー化」批判みたいなのも、あんまり女性がセクシーなのは好ましくない、という判断が背景にあるのかもしれないですね。

セックス革命

まああとは1970年前後のセックス革命について。避妊技術が一般化して、婚前・婚外セックスが一般的になると、女性のセックスが値崩れおこしてしまい、女性は非常にむずかしい問題に直面することになった。当時のフェミニストの間でもこの革命の評価はさまざまですね。2000年前後でもテレビ Sex and the City でも、結婚を考えながら男性とどうセックスするのかっていう駆け引きやら取引やら戦略やら相談やらでたいへんで、2020年代もそれは変わらんでしょうな。

まあほかにもおもしろいネタはあるんですが、とりあえず「セックス経済論」一回おしまい。バウマイスター先生関係の細かいおもしろいネタは別にあつかうことがあると思います。

【シリーズ】

脚注:

1

ここでは女性の性的な活動や欲求、そして性的な魅力などをひっくるめてセクシュアリティって表現しています。

セックス経済論 (8) セフレ/名誉か汚名か/女性間攻撃/結婚勾配

セックスは(男性にとっては)利得

前の「セックスに対する態度」のところが私にはいちばんおもしろかったのですが、あとは駆け足で。

セックスは女の資源であり、男がそれを他の資源で買う形になっているので、男性があんまり手間かけずにセックスできるというのは利得(benefit)ってことになります。これは男性にとってはあまりにも自明なので言うまでもないことだと思うのですが、女性はそうは考えないわけですわ。(Sedikides, Oliver & Campbell 1994)

何回かツイッタあたりに書いてるんですが、大学で働きはじめたときに、ゼミかなんかでそういう系統の話になってるときに、(性体験の数が増える、特にワンチャンみたいなのをすると)「男は増えるけど女はなんかが減る!」という発言があり、非常に強く印象に残ったのですが、まあそういうことですよね。おもしろいのは、女性はセックスを利得だとは思ってないが、 コストだとも思ってない とか。バウ先生たちは、女性は特定の好ましい相手とならセックスは好きだけど、それは(望めば)比較的簡単に手に入るので利得だともコストだとも思ってないのだろう、とかそういう推測をしています。これはけっこうおもしろい指摘なので、いろんなことを考えるときに頭の片隅に置いとく必要があるかもしれない。「なんで男どもはそんなにセックスセックスって言ってるんだろう?」とか考えている可能性があり、これはもしかしたら将来書くかもしれないシリーズでふりかえることになるかもしれない(なんのシリーズかはまた)。

男性にとっては仲のよい友達とのセックス(いわゆるa friend with benefit、日本でいういわゆるセフレ)はたいへんありがたいものらしいですが、女性は友達とセックスするのは利得だとは思わない。理由はもう自明ですね。

片思いの話なんですが、片思いされてもつきあう気がない場合はそれをあんまりよいことだと思わないのがふつうですが、男性は「つきあう」気はなくとも告られたらとりあえずセックスする人がいるわけですね。女性はそういうのはない。男性は相手の片思いにつけこんで搾取することがあるけど、女性はないのです。それは単に、女性にとって男とセックスすることそのものにはほとんど価値がないからです。はははは。わかりましたか?

性的経験の多さは誇りか汚名か

まあこれはもういいっしょ。一般に男には名誉であり、女にとっては不名誉です。調査たくさんあります。

女性どうしの攻撃

女性どうしも、優秀な男性をお客として奪いあっている面があるので、競争があります。主に性的な魅力を競うことになり、美容その他努力して性的魅了を向上させて競うわけですが、ライバルを蹴落す努力も大事です。

女性のセックスに価値があるといっても、多くの男性は一般にコストをかけたパートナーが他ともセックスするのを好みません。そこで、ライバルになりそうな女性が性的にルーズであるとか、多くの人に安売りしているとか、そういう噂を流すことによって攻撃します。安売りするひとはローカル市場の相場を落とすのでその意味でも許せませんしね。

社会的地位

だいたいのところ、男女のカップルはなんらかの点でだいたいのところ「つりあっている」ことが広く知られています。学歴・知性・教養とかルックスとか、似たような感じの人々がカップルになります。月とスッポン、じゃなくて割れ鍋に綴じ蓋ってやつですね。

ただ、微妙に「結婚勾配」ってやつがあることが知られていて、これは結婚カップルの男性の方が年齢や社会的地位や学歴や収入その他でちょっと上にあるのが一般的で、これは社会において全体として男性の方が優位な立場にあるからそうなるのだという解釈もあるんですけど、これはあやしい。男女はだいたい同じくらいの数がいるので、もし社会的地位のジェンダー差が原因であるなら、「あぶれる」男女は理想的にはいなくなるのですが、そうなっていない。実際には高学歴高収入女性と低学歴低収入男性が余るというかたちになっています。まあネットではよく論じられてることですよね。

これは結婚だけじゃなくて、カジュアルセックスとかでも見られる現象で、ロックバンドのグルーピー(追っかけ)の人たちとは、自分よりはるかにお金もってるジミーペイジとかロバートプラントさんとかセックスして短期的におつきあいしたりするのですが、この逆のパターンはあんまり見られないみたいです。たしかにマドンナさんやガガさんにグルーピー♂(グルーパー?ブルーポー?)とかと遊んでるって思えないですね。

テニス選手のアンナ・クルニコワさんは追っかけがたくさんいたらしいですが「私はチョーおたかいレストランのメニューみたいなものなの!あんたたちは見てもいいけど、とても払えないでしょ?」(I’m like an expensive menu. You can look at it, but you can’t afford it!)って言ったってんで有名らしいです。ひどいですね。ロバートプラントやジミーペイジ先生はそんなこと言いませんでしたよ!残り読むのがつらくなりした。

あと省略。

【シリーズ】

セックス経済論 (7) セックスに対する態度の性差、特にポルノと売買春

セックスに対する態度の性差

セックスを商品とした男女の交易、っていう観点からすると、男女の間にはセックスに対する態度の差があるはずだ。まあこれもほとんど自明というか常識なわけですが、バウ先生たちはあれやこれや態度の差をあげていきます。セックスの値段が安いと男性が得、高くなると女性が得なので、それぞれそういう態度をとっているだろう、っていうのが理論からの予測になります。んでそういう証拠はたくさんある。

  • カジュアルセックス(すぐにセックスしてぱっと別れる、いわゆるワンチャン)は、圧倒的に男性の方が望むかたち。有名な実験はClark and Hatfield (1989)で、大学キャンパスで魅力的なルックスの男女が異性に対して「今日うちに来てセックスしませんか」って声かけるやつ。ものすごい有名ですね。ひっかかるのは男ばっかり。
  • 男性器は直接にその名前を呼ばれるが、女性器は婉曲的にしか表現されない。おもしろいのは、女性器は、産婦人科学の授業でもあんまり直接には呼ばれないとか。男のは安くてそこらにころがってるけど、女性のは名前を呼べないほど貴重です、とかそういうのだろうか……1

さて、売買春とポルノ。前にも書いたようにヴィクトリア朝時代は女性たちがセックスの値段を非常に高くつりあげた時代なのですが、Cott (1979)によれば、売春とポルノを競争相手として意識して、強い反対運動を行なったわけです。ポルノや売買春が簡単に手に入り、とりあえず男性の性的な欲求が満たされやすくなれば、女性のセックス全体の値段が下がってしまう。そうしたわけで、19世紀後半は非常に強い反売春・反ポルノ運動があったし、それは日本にも輸入されましたね(矯風会とか)。

現代でもポルノに反対したり、禁止したりするべきだという態度は女性の方がかなり強い(もちろん男性にも一定数いますが)。いまだにネットでもよく見る光景です。映画でのヌードとかに反対するのも女性の方が多い。一般に、性的な表現に反対するのは女性の方がかなり多いわけです。

こうしたポルノや売買春といった「性の商品化」(あるいは「性的モノ化」「セクシー化」)に反対する思想的背景というのはなかなか込みいっています。ある種のフェミニストは、女性をポルノ的に描くのは女性に対する侮辱だとか女性を貶めるものだ(degrading)だっていうふうに主張します。でもこれ、なぜヌードやポルノが女性を貶め格下げするのか、というのは私自身けっこう悩まされた問題で、いまだによくわからない。それ以上の説明がない場合が多いから。そこで、バウ先生たちの解釈はこうです。

あるエロティックなフィルムが男女を平等なかたちでセックスしているのを描いているとしよう。なぜそれが女性を格下げするもので、男性についてはそうでない、ということになるだろうか? しかし、仮にセックスが女性の資源だということならばヘテロセックスの描写は、本質的に、男性が女性から何かを得ているという事態の描写ということになる。もし男性が女性におかえしになにかを与えていなければ、そのフィルムが描写しているのは、女性の性的な贈り物がとても低い価値しかないということであり、それはフェミニストの不満が示唆するように、実質的に女性を貶めることになるのだ。(p.354)

わあ、これはおもしろい!ポルノとか(特に現代のものは)セックスしている現場ばっかり(”Gonzo”、ハメ撮り)で、その前後に男性が求愛したり奉仕したりお返ししたりするところが描かれてないので、タダでセックスさせてもらっている形になってるから女性に対する敬意を表現していない!女性だけがあらわれるピンナップとかもタダで見られるので格下げだ!一方、長い恋愛映画とかだとその一部にセックスこみでもかまわん、むしろいい、なんといっても愛とコミットメントがあるから!

ポルノに比較して売買春はもっと強く反対され非難される傾向があるわけです。バウ先生たちがあげてる調査では女性の2/3以上、男性は半分以下。売買春はOKだっていう男性は女性の3倍。何度もいうように、売買春が許容されていることは、ローカルな相場での他の女性のセックスの値段を下げる。

一部の女性の利益ということでは、売買春は合法化した方がその女性たちの利益になる。非合法であるがゆえの大きな危険を減らし、また安全や集客のために世話にならねばならないポン引きたちにむしりとられる分け前を減らすことができるから。んじゃなぜ(当事者ではない)女性たちの多くが売買春の合法化に反対する傾向があるのか。当事者女性の利益を考えるなら、フェミニストたちは合法化に賛成するべきだと思われるけど、なかなかそうはならない。なぜか。

その理由を説明するには、バウ先生たちのセックス経済論がよいだろう、というわけです。女性のセックスの値段が全体に下ってしまうのは女性全体の不利益になるので、価格を下げる可能性のある売買春には賛成しにくいからだろう、と。まあこれはまだまだ研究途上なので、他の解釈もよく考えみる必要はあるけど、セックス経済論は有望でしょ、ってなことでした。おもしろいですね。

【シリーズ】

脚注:

1

榎本俊二先生の下品マンガもわりと好きなんですが、あれも男子のそれは大量に出てくるけど女子のは描けないっぽいですよね。ははは。

セックス経済論 (6) 性暴力/男性不足

性暴力

セックス経済論だと、セックスは財である、って考えかたなので、レイプとか痴漢とかっていうのは強盗やスリに似た犯罪ってことになってしまい、これはおそらく被害者の被害感情とかにそぐわないので不快に思う人はいると思いますね。

しかしこれは加害者の方を考える上では役に立つかもしれない。暴力的性犯罪の加害者は男性が圧倒的なわけで、そうしたものは標準フェミニズムみたいなのでは「男性の支配欲」みたいなのによって説明するわけですが、それでは具合が悪いことは前に一連のエントリーに書きました。基本的にはなんのために「支配」するのかわからんし、そうした男性たちが特に若く魅力的な女性を支配の対象にしようとするのかが説明しにくい。

むしろ、セックス経済論の観点からすると、そうした加害者になりやすい男性は、セックス交易のルールを無視・軽視して、男女の性的な関係一般を各種の手段によって搾取的にしようとするするような傾向の人々だ、と考えることができるわけです。ここでたとえばいわゆる恋愛工学系ナンパ師たちと、痴漢やレイプ犯との類似性、そして男性学の人々が気にしている「男性性と支配(欲)」の関係が見えてくるところがある1。(また、被害者の方としても、「強制された性交は暴力的な形で行なわれようと柔らかな物腰で言い寄られる形をとろうと強姦は強姦だ」(キャスリン・バリー)、「女性の意に反するセックスはぜんぶレイプ」とかのフェミニスト的意識も一部説明するじゃないか思う。)

こうした男性の傾向はいろんな調査研究から見えてくるわけです。デートレイプなどの加害者は、自分は被害者女性と一定期間デートしていろいろ投資したのだからセックスする権利がある、のような発想をすることが知られています。特にナルシスト傾向の男性は、自分は他人からの奉仕を受けるに値すると考えるので、強制的なセックスをしやすい。デートレイプなどが生じやすいのは、男性の性的な期待(「今日はできるだろう」みたいなやつ)が挫折させられたときだということもよく知られています。でもこういうやばい男性の思考にも、「〜に値する」deserveというかたちで、「交換」という発想がはいってるわけですわ。

ストーカーとかもおそらくそうですよね。お金や時間つかえばつかうほどやばい。学生様には「気のない男子にはお金は使わせない方がよい」ってなことは時々お説教したくなります。

あとレイプ発生率と社会での女性の地位みたいな話もあるんですが、これは証拠がまだ弱い。

戦争などで男性不足になるとどうなるか

セックス経済論はセックスの需要と供給で社会を見るので、需要が減ると値段が下がるとか、供給が減ると値段が上がる、というのは強い根拠になります。

古いですが、Goodentag & Secord (1983) Too many women? っていう研究があるんですね。これは女性が少ない(マイノリティ)である場合には女性のセックスの価値が高くなるので、セックス規範(相場)は女性の選好(欲求・好み)に沿うものになり、女性が多くて男性が少ない場合(女性がマジョリティ)の場合は男性の選好に沿うものになる、というけっこう意外というか、ある立場にとってはパラドックス的な発見です。

西部劇の時代のアメリカ西部や、現代の中国では女性が少なくなってるので、女性は敬意をもって扱われ地位が高くなり、婚前・婚外セックスは減る。コミュニティで女性が比率的に多くなると、女性はセックスの見返りに多くを求められなくなり、性的にはゆるい社会的雰囲気になり、カジュアルセックスや婚前・婚外セックスなどが増える。アメリカだと低所得者層コミュニティとか女性の方が多いみたいです。

バウマイスター&ヴォースの2012年の論文では Regnerus & Uecker (2011) Premarital Sex in America っていう研究をとりあげていて、これによれば、2000年代のアメリカの大学キャンパスなんかも女性の方が数的にマジョリティになってしまい、性的にはかなりルーズになってたみたいですね。Hook-up Cultureとしてけっこういろんな研究者が注目しています。男女で大酒飲んでセックス、みたいな男子が好むセックスパターンが広がって、いやな目にあったり、性的な被害に会う女子も増える。大学キャンパスでのRape Culture批判みたいな話はそのあとに来るわけです。

あと、国別に比較すると、男性が相対的に希少な国の方が十代女性の妊娠が多いというデータがある。男性の数が少ないんだから妊娠の数も減りそうなはずなんですが、増えちゃうのはなんでかっていうと、男性の意見が通りやすくなって男性が望むようなセックスをさせてしまうからですね。

ここらへん、「社会の(数的)マジョリティが規範を決定してますよ」みたいな発想だと説明できないし、「数じゃなくて支配者層が規範を決定してます」みたいなのもあやしい。そうじゃなく、市場原理で決まってるのだ!それをセックス経済論なら説明できますよ、っていうのがミソです。ここは他にもいろいろおもしろい話があります。

男女比が性的規範に与える影響については、次が日本語で読めます。

先進国のフックアップ文化についてはあんまり日本語の本はない気がする。

【シリーズ】

脚注:

1

セックス同意の論文も読んでください。 http://hdl.handle.net/11173/2419

セックス経済論 (5) 結婚と交際

売買春以外のお金とセックスのやりとり

もちろん売買春以外にも男女のあいだでお金とセックスのやりとりは(偽装された形で)頻繁におこなわれている。そしてここは以前の「男らしさと支配」のシリーズであつかったところそのまんまですね。

Blumstein and Schwartz (1983) American Couples ってのによると、お金とカップルの力関係とセックスは密接にむすびついていて、専業主婦とかは夫がセックスしたいというときに断りにくい、とかそういう話。バウ先生たちの他の論文でも、一部の男性はパートナーをわざわざ経済的・社会的に無力で孤立させようとすることがあり、これはまさにセックスを断りにくくするためだろう、みたいなのがありました。あとセックス排他性(貞操)もコントロールしないとならんのだろう。

男性学周辺のみんなが気にしていたあの「稼ぎと支配」の話はつきつめるとこれなのかな、っていう感じですよね。

Loewenstein (1987)って研究では、大学生に、ファンの異性映画俳優にキスしてもらうなら現金いくら払う?っていう調査して、男性はけっこう払うけど女性はたいして払う気がない、みたいな話。しかしこれ、現代日本の男性俳優ファンとかけっこう払ってるんじゃないかという気がするけどどうだろう。アイドルと握手するのにいくら払いますか、みたいな調査してみたいですね。

浮気と離婚

ここらへんは有名な話が多いのではしょりたい。性的な「所有」の意識(つまり、夫婦やカップルは性的に排他的であるべきだ)や、嫉妬の観念がない文化はありません(浮気や不倫がない文化もない)。でも性差はあるのも確認されている。たいていの文化で女性の身体的な浮気の方がはるかに重大な裏切りだと考えられていて、離婚の理由になるけど、男性の浮気はそんなに強くとがめられないことが多い。

私が知らなかった話としては、エスキモーの人たちの間では客人に対して妻に接待させる習慣がある(過去にあった)みたいなのは驚くのでよく語られますが、それお客さんが「いいえ、けっこうです」とか断わるとホスト夫婦に対する侮辱になります、なぜなら奥さんのセックスは非常に価値あるものだとされているから、断わるとその価値を認めないことになります!とか(Flynn 1976)。ほんまかいな。

同性愛に関してもちょっとおもしろい研究が紹介されていて、ヘテロセクシャルの人(男女)に、あなたのパートナーが男と浮気した場合と女と浮気した場合、どっちが動揺しそうですか、みたいな質問をする。男性の場合は相手がレズビアン的セックス、女性の場合は相手がゲイ的セックスした場合のことも想像してもらうわけですね。この実験はヘテロとホモセクシャルに対する反応の男女差を検出しようとしてたんでしょうが、なんか予想どおりにはいかなかったらしくて、男女どちらも パートナーが男と浮気した方が嫌だ 、と答える傾向だったらしい。これは意外だったらしいんですが、バウ先生たちの推測は、一般に女が与え男が取るっていう形で理解されているので、パートナーが女と浮気してもカップルからなにかが奪われているわけではないが、男と浮気したらカップルからなにかが奪われている、と考えるからだろう、って言ってます。つまり、女との浮気はカップル全体としては(ひょっとしたら)利得だけど、男との浮気は(お金とかとれるところをタダでもってかれてるので)損失である。これおもしろいですね。あとで読んでみたい(Wiederman and LaMar 1998)。

浮気の誘いは、他人からパートナーを「略奪」する戦略であるわけですが、その略奪戦略も男女で違いがあり、女性はとにかく魅力的なセックスをエサにすればよい。男性が他の男から女性を奪うには資源を投資する必要がある。強い愛情やコミットメント、そして経済力。まあこれもそうでしょうな(Schmitt & Buss 2001)。まあ他にもいろいろ

求愛活動 courtship

まあおつきあいするにどうするかっていったら、女のセックスを男がいただくという形になっているので、基本的には男の方からアプローチしないとならないっていうのがこれまたどの文化でも共通の理解。プレゼントしたり御飯おごったり、熱烈な永遠の愛を誓ったりするっていうのはあたりまえ。ティーン女子とかの調査しても、「セックスは愛情が確認できないとさせません!」っていうのがふつうで、「とりあえずセックスしたい」という男子とはぜんぜんちがう。

おもしろい調査が、Cohen & Shotland 1996ってやつで、「いつ自分たちはセックスしはじめるべきだ/したいと思いましたか」みたいなのと「いつ実際にセックスするようになりましたか」っていうのとの相関をとってみた、っていうのがあります。これ知らなかった。答は、男性については「セックスするべきだと思ったとき」と「実際にした時」の間にはほぼ相関がない( r = 0.19)んだけど、女性についてはちゃんと相関している( r = 0.88)。セックスする時期はほぼ女性が決めているわけですね。「男性支配」はどこに行ったんだ!ははは。

ここの節では、ちょっと(アメリカみたいな国では)けっこう深刻な話もとりあげられています。女性が売り男性が買う、という形になっているわけですが、売り手の側の競争もそれなりに激しいわけですよね。女性は誰もが(いろんな意味で)優秀な男性を買い手としてゲットしたいので美容やその他の魅力やセックス提供などで競争しなければならない。ローカルな市場の相場が下る、つまり簡単にセックスを提供するようになると、そうしたくない女性もやむなくそうしなければならなくなる。先進国でそういうことが起きたのは1960年代のピル開発とその普及によって妊娠の心配が少なくなりいわゆる「セックス革命」が起きたときですね。それ以降は結婚の約束とかなしにセックスを提供せざるをえなくなった(これについてもファイアストーン先生とか以前に紹介したような気がする)。アメリカだと妊娠中絶の合法化みたいなのも大きい。

ところが、アメリカみたいな社会では、一部には宗教的な理由その他から、妊娠中絶はもちろん、避妊ピルなどの手段の利用もためらう女子・女性はけっこういるわけです。この人々は非常に難しい立場におかれてしまい、一方では他の女性に負けずに男性を獲得したいにもかかわらず、他の女性がピルなどを利用して以前に比べれば「安価」にセックスを提供するために競争上厳しい。けっきょくのところは、多くの女性がリクキーなセックスをおこなうことになり、婚前婚外妊娠出産が増える、という形になってるという話(Akerlof et al. 1997)。そういうのもセックス経済という観点から見るとよく理解できますよ、てな話です。技術の開発は規範の変化を生み、セックス経済の観点での新しい勝ち組・負け組のセットを作りだしてしまいます。

あとまあ処女性の提供は「ギフト」っていう形で考えられてるのもセックス経済理論によく合致します、とか。いろいろおもしろいっすね。

続けて読んでくれている読者はもうわかっていると思うのですが、この一連のエントリーは「文化/女子のセクシー化」と「男らしさ(稼ぎ)と支配」の両方の話の続編になっています。

セックス経済論 (4) 証拠とされるものを見てみよう、まず売買春

というわけで、バウマイスター&ヴォース(フォースかも)先生たちのセックス経済理論は、女はセックスという資源を売り男がそれを買う、ていうだけのごく単純な理論なんですが、こういう「理論」っていうののおもしろさっていうのは、(少なくとも素人には)その理論が「ほう、そうですかー!」とかってもんじゃないんですよね。むしろ、どういう統計や実験的事実や観察を自分たちの理論を裏づける証拠としてもちだしているかとか、どういうふうにして他の理論をやっつけに行ってるかとか、そういうのがおもしろい。あと、理論に一見合致してないように見える事実をどう説明するかとか、その理論から予測を立てて、どういう実験や調査をやればいいだろう、みたいなのも興味深い。

私は心理学、特に進化心理学の一般向けの読み物とか好きなんですが、まあ進化心理学なんかほとんど一本道みたいなところがあって、誰が書いても同じ、みたいなところがある。でも、その説明や立証や他の理論の反証にあたって、けっこう意外な事実の指摘とか、言われてみれば知ってはいるけどあんまり意識してなかった事実とか、その著者自身の生活のなかでの経験や観察とか、そういうのの記述の方が興味深いわけです。正直いってこの点で、フェミニズムまわりはいつも同じような話でつまらない。この記事読んでる人だって、「日本はジェンダー格差指数が〜」とかもう何百回読んだかわからんでしょ。

そういうんでまずBaumeister & Vohs (2004)ってのから、興味深い指摘をメモしたい。この論文では後半が「経験的証拠のレビュー」Review of Empirical Evidenceになっていて、領域別に大量の証拠(他の人たちの論文から)が列挙されててます。見出しはこんな感じ。みんなセックスについて研究してますねー。2004年以前の論文からだから今となっては古いのですが、アップデートされた情報はまたあとで確認します。

  • 売買春
  • 売買春以外のセックスとお金
  • 浮気と離婚
  • 求愛活動
  • レイプと強制
  • 男性不足
  • セックスに対する態度
  • 恩恵としてのセックス
  • 名誉・不名誉としてのセックス経験
  • 女性間の攻撃
  • 不均衡な社会的地位
  • 女性セクシュアリティの文化的抑圧
  • セックス革命
  • セックスと暴力

売買春

売買春はまあたいていの場合(どの国でもどの時代でも)、圧倒的に男が金払って女が売る、っていう形になってるのはほぼ自明なので、セックス経済論の一番強い証拠ってな感じでしょうな。フェミニスト的思考では、男性による(経済力による)女性の支配の最たるものでもあります。

学生様とかときどき「女性向けの風俗がないのはなんでだろう」とかっていう疑問を提示してくれることがあるんですが、まあ男のセックスにはほとんど価値がないからですよね。若い女性ならその気になればほとんどいつでも手に入るし、若くなくたって相手選べばいいし、そもそもそんなに知らない人といきなりそんなことしたいとは思わないっぽい。ただ、日本にあるホストクラブみたいなのについてはバウ先生たちはなにも言ってません。あれは性的サービスを売ってるわけじゃないけど少なくとも性的魅力は売ってるような気がしますよね。

ホストクラブに近い話として、女性が海外の島(バハマとかタヒチとかああいうところ、日本だとタイとかバリとか?)に行ってそこの「ビーチボーイ」と遊ぶ話は検討されてるんですが、それもセックスにお金を払う形にはなってませんよ、とか説明してます。そういう関係っていうのはとにかく旅先で「(男がその女性に)恋に落ちる」っていう形になっていて、女性は飯代ぐらいは払うことがあるけど、女性がボーイにお金を直接払うことにはなってない。でも、しばらくつきあってるうちに、突然そのボーイの家族や親戚とかが病気になったり借金取り立てられたりして経済的にピンチになってしまって、それを裕福な女性が愛情に対する感謝の印として経済的に助ける、っていう筋書になってるらしいです。へえ。ホストとかもそうかもしれないですね。だいたいそこそこ高齢の女性と異人種の若い男とかだと、セックスには至らないことも多いです、みたいな話もあります。うーん。

もうひとつ興味深いのが、性的に非常に禁欲的だったヴィクトリア朝時代のたとえばロンドンあたりの世界というのは、中上流階級の女性が集団的にものすごくセックスの値段をつりあげていた時代なわけです。結婚しないとセックスしないし、結婚しててもセックスなんていやらしいことは子孫を作る義務としてでなければしません、ぐらいの世界。ほんとかなあ。でもバートランドラッセル先生がなんか言ってましたね1。んじゃそのころの男性の性欲はどこへ向かったのかというとやっぱり経済的に困っていた売春婦の人々で、ブロー&ブロー先生の『売春の社会史』だとロンドンの女性の5〜15%ぐらいが人生の一時期に売春を経験していたみたいだ、って話になっています。これはけっこうな数字なわけです。バウ先生たちは「現代の道徳観からすればショッキングなほど高い」って言ってますが、まあたしかに大きな数字だと思います。反買春フェミニストの先生たちだったら「なんと不正な時代だ!」ってなことになりそう。実際、不正な時代であったのだろうとも思いますし、一部の売買春に、反買春フェミニストの先生たちが指摘するような貧困による強制という面があるのは否定できないと思う。

バウ先生たちははっきり書けてないと思うのですが、この件がセックス経済論にとって特に理論的に問題なのは、この理論によれば「女性はセックスをできるかぎり高く売ろうとする」はずなのに、結婚その他に比べると比較的チープ(だと思われる)売春をしなければならないが、一方ではそれしか収入の手段がないなら、売春から最大限の利益を得るためにやっぱり高く売りたいはずだ、ということになるからちょっと理論的に微妙なところが出てくるわけですね。説明省いてますが、というか2004年の論文の時点ではバウ先生たちは十分に強調してないのですが、女性が売っているのはセックスそのものというより性的魅力を含めたセックスと、長期的な関係においては 貞操 (排他的性的アクセス)と 生殖 (子供)なわけで、売春みたいなのはもし他人に知られると貞操に疑問抱かれる可能性が高いので、その経験は女性にとっては非常に不利になるし、みんなが売春みたいなことをすると値崩れが起こってしまう。実際に起こってたかもしれません。その時代の奇書『我が秘密の生涯』とか見ると、ほんとうに安かったみたいですからね。

でもそうすると、上の大きな数字は、女性は一般にセックスの売り手で、比較的優位な立場にあるということを含意するセックス経済論にとっては若干不利な事実なわけです。そもそも危険だし(ロンドンだったら切り裂きジャックに殺される可能性もある)。なぜそんな大量に安く売春する女子がいたのだろうか?バウ先生たちの苦しいところで切り出す札は、「でもどうもブロー先生たちによると、そうした大量の売春婦たちは、実際には他の仕事もってたみたいよ」ってなことですね。これは以前ハブロック・エリス先生に関するエントリーでも書いた話ですね。大きな数字は、フルタイムのプロスティチュートではなく、そこそこいけてる女中(メイド)さんとかがそういうこともして副収入を得ていたのだろう(だから安くても我慢する)、とかそういう感じでしょう。あと、理論からすれば、実際の値段とか、ロンドンの当時の男女人口比とかも興味深いところだろうと思います。(売買春についてはあとの「社会的態度」のところでも議論される)

脚注:

1

「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(岩波『結婚論』p.85) 「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」(p.126)

セックス経済論 (3) しかし値段は簡単には決まらない

モノやサービスの値段というのはどうやって決まるかというと、高校でも習う需要と供給のバランスによる。漠然とした話ではありますが、供給が少なく需要が多い(強い)と値段は上がるし、その逆だと値段が下がる。

女性はセックスを提供することでなるべくよい資源を入手したいし、男性はなるべく少ない資源で獲得したい。ところが、この個人間の交易の値段は、他のプレイヤーがどう行動するかに大きく影響されるわけですね。ここがおもしろいところです。

セックスというのは基本的に近くにいる会える人としかできないので、その市場はごくローカルで、その値段というか相場はローカルに決まります。高校生のクラスとか、大学生サークルとか、ヤングアダルト社会人コンパとか、おじさんお姉さんの習い事とか、まあ人々というのはだいたい集団になって生活しているので、そのローカルな範囲で、他の人がどういう行動をとるかによってセックスの値段は変わる。ある時代のある集団(たとえば1930年代のアメリカ)では、女性の大部分が高価な婚約指輪もらってからじゃないとセックスさせないとすれば、そこの女性は婚約指輪もらえる公算が高い。でも2000年代のアメリカの大学みたいに、他の女性が簡単にセックスさせるようになると、ちゃんと結婚申し込んで婚約指輪くれないとセックスさせません、みたいなことを言ってると、ときどきデートしたり、パーティーでエスコートしてくれたり、ボディーガード役してくれる男性もいなくなってしまう。

そういうわけで、セックスの売り手である女性も競争せざるをえないわけです。でもあんまり女性のセックスの値段が安くなってしまうと利得がなくなってしまうから、女性は安売りする女性に集団的にプレッシャーをかけて安売りを牽制しなければならない。これが女性たちが簡単にセックスを提供する女性たちを非難する理由である、と。

バウマイスター&ヴォース先生によれば、男性は安いセックスをもとめるので、気軽にセックスさせてくれる女性は「いい子」であるわけですが、それでも他の男性と女性を共有するのはたいていの場合さまざまな理由から望まないので、特定の女性をめぐって競争せざるをえない。となると、人気のある女性はより高い値段で売ることができる。

ここで重要なポイントとして、けっきょくこうした値段をめぐる交渉というのは、一対一で決まるわけではなく、他の人々がどういうふうに行動しているかの知識に依存するわけです。そのコミュニティでどんな人がどんな人とどれくらいの「値段」で交際したりセックスしたりしているのか、というのは、男性にとっても女性にとっても重要な情報なので、まあ噂話とか雑誌とかツイッターとかで相場とかを調査するわけですね。情報戦みたいなことも起こるわけで、男性は女性にたいして「他の女性はかんたんにセックスさせている」という情報を流そうとするし、女性は男性に対して「そんな簡単でない、むしろもっと高い」という情報を与えようとする。これはグループとしても個人としてもそうっしょね。

まあここらへん、当然そうだよな、ってな感じですね。あまりにも常識的すぎて、これ「理論」なの?っていう感じではあります。

まああらましはこんなもん。先生たちは「証拠は山ほどある!」と主張しておられますが、フェミニスト心理学者(たとえば Laurie Rudman先生)なんかはかなり厳しく批判しておられます。

今回書くのに参照したのは、これのVohs先生による”Sexual Economics”の項。なんでも最初は専門事典見るのがいいですね。(実は悪質なサイトがオンラインで丸パクしてるのを発見してしまいました……通報したい)

【シリーズ】

セックス経済論 (2) ごく当然のあらまし

ロイ・バウマイスターとキャスリーン・ヴォース先生のセックス経済説、前のエントリにも書いたように非常に単純な理論です。

女のセックスには価値がある(男にはない)

基本的な前提は、広い意味でのセックスは女性がもって価値ある資源で、男性が欲しがるものである。したがって女性は、十分なインセンティブないかぎりそれを男性に渡そうとはしない。男性は女性にセックスを与えてもらうために各種の資源を女性に渡す。たとえば、コミットメント(関係継続の意思)、愛情、配慮、時間、敬意、そして経済的資源(端的にはお金)とかですね。

我々は社会でいろんな交易・交換をしていて、スーパーでお金払って野菜を買ったりするわけですが、そうしたものとしてセックスを見る。こうした交易で、一方が有利な立場になることがあるわけですが、そういうときは値段を変えることで調整する。新鮮な野菜はみんなが欲しがるので値段があがり、新鮮じゃなくなった野菜とかはあんまり買いたがる人がいないので値段が下がる。

男女の性的な関係においては、男性の方がはるかにセックスを欲しがるので女性が優位な立場になり、女性はセックスのひきかえに男性にさまざまなものを要求できる。まあプレゼントとか素敵なディナーとかは男性の方がたくさん貢がないとならない。私は不公平だと思いますが、当然だと思うひともいるでしょうね。

ここで、男性の方がセックスしたがっている、という話に疑問をもつ人がいるかもしれませんが、まあ常識的にはそうですよね。これについては前にもエントリー書きました。→「性欲が強いってどういうことだろう?

歴史上、だいたいどういう文化でもそういうことになっているのはまあ常識。欲求の強さがあまりにアンバランスなので、女性の体とセックスにはたいへん価値があり、男性のそれらにはほとんど価値がない。たとえば女性の処女性にはとても高い価値があり、女性はそれを理想的な局面で男性に与えようとするけど、男性の童貞とかっていうのはほとんどまったく価値がないどころか、ふつうは一定の年齢に到達すると恥ずべき状態である、みたいなことになちゃってる。

性暴力やDVの問題もまったくのところこの図式にあてはまります。性犯罪者は暴力で高い価値のある女性のセックスを奪おうとするのだし、暴力的な男性につかまってしまった女性は頻繁にセックスするのですが、これは暴力的なパートナーから危害を与えられるのを防ぐためにセックスを差し出している。

多くの文化で、妻の浮気・婚外セックスは離婚の理由と認められるし、不倫は男性よりはるかに厳しく非難され罰される。これは女性の貞操が結婚し男性の扶養されることの対価になっていると考えられているわけです。現代ではごく古い考え方なわけですが、芸能人の不倫なんかのテレビ番組やネット論説を見れば、いまだにそうしたことが常識というか人々の信念になっているわですよね。

あと心理学の実験でも、女性のセクシーな薄着の写真見たりすると男性はなんにでもお金払いやすくなる、みたいなのがあて、これはおかしい。こういうふうに、歴史的にも実験的にも、女性の体とセックスには価値があると思われていて、男性はそれに対価を払う用意があるっていうのはいろいろ証拠がある。(まあ常識でもある)

【シリーズ】

セックス経済論 (1)「男性による女性の支配」とは別の考え方はどうだろう

このブログ、ここ最近「文化のセクシャル化/セクシー化」の話と、「男らしさと支配」の話を平行してつぶやいてるのですが(もうブログもツイッタも同じようなもの)、「男性が女性を支配しているのだ」っていう信念は非常に一般的ですが、他の考え方ないっすかね。私どうもこの「支配」ってやつ信じられなくて。

まあこの「男が支配している」っていうのはフェミニズムの伝統的な考え方で、その発想はわかります。ある意味女性の実感なんだろうし、伝統的な社会・文化の多くが男の方が偉くて支配的な地位を占めてることが多い。お金も稼ぐのは男性で、女性はその経済力と社会的権力に支配されているのだ!

そしてこれって、ジェンダー問題について社会構築主義フェミニストたちと対立する立場に立つことが多い進化心理学とかの派閥の人もそう考えるんですよね。こっちの派閥は、主にいわゆる「父性の不確実性」を問題のキーポイントだと考える。女性は自分の子供の母親なのは(産院でとりちがえられたりしないかぎり)ほぼまちがいがないけど、父親の方は本当に遺伝的な父親かどうかよくわからない。人間の子供は養育に非常に大きなコストがかかり、現代はともかく、人間が進化してきた歴史のなかでは、父親の協力がないとうまく生存成長させるのが難しい。他の男の子供を自分の子供だと思って養育コストを支払うのは巨大な損失なので、進化的に男性は配偶者を他の男性から防衛するために、女性の貞操を重視し、活動を制限するなどして女性を支配するような心理的傾向を進化させてきたのだ、それが現在でも男性が女性に対して支配的にふるまう原因になっている、てことになってる。

まあどっちもそれなりに説得力がある。しかし現代の社会でもそんなかっちりした支配従属関係になってるかな?って思うわけです。むしろ、現代社会のありかたについて、女性の主体性とかそういうのをもっと重視する立場もありそうに思います。

一つは何度か紹介している、社会学者のキャサリン・ハキム先生の「選好論」と「エロティックキャピタル論」ですね。(あら、紹介していると思ったんだけどたいして言及してないわ)

この本はおもしろいので、ぜひ図書館で一回手にとってみてほしいですね。

ごく簡単にすれば、社会のなかで、人々は経済資本(お金)、人的資本(知的能力、学歴、職歴、教養など)、社会関係資本(人間関係、縁故、コネ)などを蓄積したり相続したりして、それを元手に自分の福利厚生を改善しようとしているわけですが、実は現代社会ではお金や学歴や縁故に加えて、容姿や他の魅力、特に性的な魅力が重要な資本になっている、っていう議論ですね。そして、性的な魅力は一般に女性の方が豊かにもっていてそれを自由に使える時代になっている。一方男性は慢性的な性的欲求不満状態(sexual deficit)になっているので、女性が自分たちの性的な魅力を磨きうまくつかうことができれば、男性を支配できるし、実際そうしている女性はけっこういる、みたいな話です。

ハキム先生によく似た議論を展開して今私が注目しているのが、ちょっと前のエントリに名前を出した社会心理学者のロイ・バウマイスター先生で、この人は日本では「意志力」の本で有名ですが、2000年代はジェンダーまわりでも仲間とともに論文やエッセイをいろいろ書いてるんですね。先生は自分の理論を「セックス経済論」Sexual Economics Theoryと名づけています。これはごくごくシンプルな議論で、ネットで「アンチフェミニスト」と呼ばれてる人々がときどき展開している議論とあんまり違いがない。基本的には、経済学とかでもちいられる「市場における需要と供給」を単純にセックス・ジェンダー問題に適用しているだけです。集団としての男女の間にはセックスに対する欲求に大きな差があり、女性がセックスの供給者・売り手であり、男性が消費者・買い手になっている、というそれだけの話です。ものすごいシンプルで、フェミニストの先生たちからかなり辛辣に批評されているようです。まあ社会心理学でものすごく偉くなった先生が、おじいさんになってから勝手な放談しているのかもしれないけど、そうでもないのかもしれない。

この本は2010年のエッセイですが、「セックス経済論」とか言いだしたのは2000年代前半で、2010年代にも続けて書いてますね。2012年のが読みやすいけど、2004年の方が包括的な感じ。どっちもネットで入手できるので興味あるひとはぜひ読んでみてください。(あら、論文の発行年勘違いしてました。すみませんすみません)

時間があったら、もう一本、読書メモみたいなエントリ上げたいと思います。

この本も関係ある。

男らしさへの旅 (7)「支配のコスト」と集団の責任

「支配のコスト」補足

そういや、「支配のコスト」について書き忘れてたことがあるんですが「〜が悪い」「〜のせいだ」みたいな責任と非難の話ってものすごくむずかしいんですよね。

「男性による女性の支配」が仮に成立しているとします。それは、(1) 一部の特定の男性が特定の女性を支配している(ありそうだけど逆もありそう)、(2) グループとしての男性がグループとしての女性を支配している(むずかしい)、(3) 男性の方が社会的・経済的地位を獲得する上で有利である(ありそう)、ぐらいの意味がある。そしてそうした支配なり有利なりはだいたい不正である、とします。

ここで、ある特定の男性、あるいは特定の男性のグループが「生きづらい……つらい……死にたい……」みたいなことを言ってる場合に、「それは(1)〜(3)の意味でとりあえず男性支配のコストなので自業自得なので十分苦しんでください」みたいなのはおかしいですよね。なんでかというと、集団として男性が女性を支配したり、あるいは一部に(不正に)有利で得をしている男性がいるからといって、その責任を支配や有利さを得ていない特定の男性が負担する理由はなにもないからだ。もしそうした「グループとしての自業自得」を主張するのであれば、「男性の集団責任」が個々の男性に分配される、ということを主張していることになる。

これって、たとえば「日本人は過去に周辺諸国に悪いことをしたので、現在の日本人にもその責任があるから自責の念に苦しむべきだ」みたいな発想に近い。「過去に男性は女性にひどいことをしたので、あなたはしてなくても女性を支配して好き勝手なことをしているので、あるいはセクハラや性暴力をする男性がいるので、男性のあなたは苦しむべきだ、生きづらさを感じるのは当然だ」とかそういうのは、なんか奇妙なところがある。私自身は、人間は自分がやったことだけに責任があり非難されるべきだという立場をとりたいので、そういうのには抵抗がありますね。でも男性の責任というのはそういうものだと主張する哲学者・社会学者たちも少なくないです。

まあここには集団の責任とか非難とかをめぐるむずかしい話があって、倫理学者とか好きなところではありますが、私はインチキなのであんまりよくわからないので、若い人々はがんばってくだください。