名前(姓名)に空白入れられるのに抵抗する同盟会員募集

すでに何度も書いていることなのですが、日本人の名前の姓と名の間に空白を入れるのはよくない習慣だと思うのです。

私の本名は江口某というのですが、書類で(必要があるので)姓名を分けて書けと言われれれば、「江口」と「某」にわけていいし、「読み」や「カタカナ」欄に「えぐち なにがし」とか「エグチ ボウ」などと書くのも抵抗ないのですが、地の文や論文集の目次などで「江口 某」と書くのはおかしい気がするのです。「豊臣 秀吉」「徳川☆家康」おかしいのですから、「江口某」にしましょうよ。つのだ☆ひろ先生じゃないんだから。

大学の学生様のレポートとかに対しても断固として戦いたいですね。同盟員を募集しています。


上のやつ、なんで空白入れるのがだめなのかわからないという意味のコメントを何個かもらったので、適当に箇条書きにすると以下のような感じです。

  • 日本人や中国人の名前の姓名のあいだには空白いれないのが普通。「織田 信長」。「曹 操」。「諸葛 孔明」。
  • どういうわけかなにかのタイトルや目次では空白入れないとならないと思っている人々がいる。それはそれで許さないわけではないんだけど、実は単に漢字4文字の名前が標準で、4文字の人と漢字3文字分の人を並べるとかっこ悪いと思ってる人がいるので空白いれてるのが実情だと思う。
  • しかし、夏目漱石と「森 鷗外」をそろえても、上田敏と芥川龍之介はどうすんじゃいね。こうですか。

夏目漱石
森 鷗外
上田 敏
芥川龍之介?

加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

(まだ書きかけです)

年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。

まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』セーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』バスの『女と男のだましあい』なども重要。まあこの4冊あげてくれれば文句はないし、オルコックとソーンヒル組の2冊でもいい。ぎりぎりしぼってオルコック1冊でもなんとかします。(あげたのはごく古いものばかりで、最近はよい本が増えてる)

(特に、加藤先生が応援しているゴワティ先生についてはソーンヒル先生たちの本でも触れれてるよ。特にpp.224ff)

ビショフ先生

p.135で加藤先生は、ビショフという生物学者の引用を使って、「「文化規範」は「人間の本性」の「言い換え、解釈、解明」にすぎない──、。これはきわめて強い意味における還元主義の表明である」(p.137)とする。しかし「すぎない」は先生の勝手な付け加えですね。

このビショフ先生という方の主張はたしかに解釈が必要なのですが、あとまわしにします。

あとp.139のシュルロ先生が「苦言を呈している」という加藤先生の解釈にも疑問がある。

遺伝子決定論なんて信じてる人はいません

メイナードスミス先生が「実際に遺伝子決定論を信じているまともな進化生物学者などいないと主張している」と紹介しながら、注の12で斎藤成也先生ひきあいにだして「それは事実か否かはなんともいえない」とか言っちゃって、大丈夫なんですか。まさか斎藤先生がまともじゃない進化生物学者ではないと言いたいわけじゃないと思いますが。そら、ナスからはふつうナスの味がするだろうし、それはナスの遺伝子が環境の影響を受けてナスの味するんでしょよ。キュウリを同じ環境に植えてもナスの味がするようにはならない。それに、ナスの遺伝子もってても、ちゃんとナスの苗に育って、花が咲いて実がならないとナスの味にならない。必要な栄養とか不足しがらちゃんとしたおいしいナスの味がしないかもしれない。でも適切な環境で花が咲いて実がなったら、その実にナスの味を発現してくれる遺伝子なかったらやっぱりナスの味はしないだろ、これが斎藤先生が言いたいことでしょ?

そもそも加藤先生が「遺伝子決定論」っていうので言いたいことはいったいなんですか。

「フェミニスト認識論」については話がよれている

p.145からのハーディングに代表される「フェミニスト認識論」についての中途半端な議論(中途半端なのは、加藤先生自身がこの問題については判断しないことを宣言して途中で放り出すから)は、筋がよれていて読みにくい。なぜガワディ先生が開いたシンポジウムとその成果の書籍の話をしているのに、ハーディングやグロス先生やソーカル先生たちや、いわゆる「サイエンスウォーズ」の話に流れていってしまうのかよくわからない。もちろん関連があるのはわかるのだが、ガワディ先生たちはどこいったのよ。時代が前後していてわからん。アナクロニズムだ。

日本学術会議の「学術とジェンダー」公開講演会記録

ジェンダー論者と生物学者の対話として、三つめに加藤先生がとりあげるのが2005年の日本学術会議の公開講演会ですが、まあこれいまとりあげる意義がよくわからなかった。昔ぱらっとめくっただけだけど、ごく簡単なものだし、学問的な意義がそんなあったのかどうか。

まあそれはともかく、加藤先生は「ジェンダー論者(社会学者)も、生物学者も、おたがいに勉強不足だった」ってことにしたいようですが、これどうなんですか。

少なくともこのとき、「セックスはジェンダーである」とかわかりにくいことが社会学者の先生たちを中心に提案されて、生物学者その他の自然科学者たちは「はてなー?」ってなってた時期ですよね。んで加藤先生の分析によれば、そのときの上野先生の講演にはなにほどかの理論的な問題があるという。でも加藤先生は、問題のジュディスバトラー様の主張を放っておいて(!)、「いずれにしてもこれはバトラーのテクストからの正確な引用ではなく、上野による要約である。そしてその要約のプロセスには、上野によるかなり強引な解釈が入りこんでいる。」(p.152)とかってことにしちゃうんですが、この前数年から2010年代に至るまで、社会学者の先生たちの本みたら「セックスはジェンダー」とか頻出じゃないっすか。いったいそんなわけわからん状態で、社会学者の先生たちの話をもっと勉強しろ、とかよく言えたものだと思うのです。

バトラー様なんて、パフォーマティビティその他、すみからすみまで、なにを読んでもなに言ってるかわからないじゃないですか。加藤先生自身がバトラー様の本や論文使ってけっこうな知的生産した人であり、そんな人が「「バトラー自身がそのような乱暴な主張をしているのかどうかは措くとして」(p.152)とかよく言えますね。私はこれ本気で批判したいです。

せめてここで、2005年の「セックスはジェンダーだ」なんて不思議なこと(あるいは読みようによってはとても瑣末なこと)を社会学者の人々がみんな一様に言いはじめたときに、社会学者自身はなにをしなければならなかったのか、それを考えるべきなんではないでしょうか。生物学者その他の人々に向かって「ジェンダー論を勉強不足だ」と言う前に!いまでも遅くないので、「セックスはジェンダーだ」について、社会学者の先生たちの本で読むに値するものを教えてくださいよ、と言いたくなる。生物学者たちの本で読むべきなのは上にあげました。たとえば『社会生物学の勝利』と『人はなぜレイプするか』です。加藤先生は同じくらい読みやすく、ためになるものあげられるだろうか。

加藤先生は、p.153で学術会議の講演会に出てきた長谷川真理子先生は勉強不足だと言う。しかし先生はその時にはすでにオルコックの『社会生物学の勝利』の翻訳出してたんですよ!

先生の本論であるところの第3節、「ジェンダー研究と生物学の生産的な関係をつくりだすために」は丁寧にやる手間かかるので別エントリにします。

(続く)

2019年に読んだ本ベスト10

老眼も進んだし、時間もないし、気力もないし、もう読書生活も人生もおわりにさしかかっています。さらに読まない人になりつつある。

マンガも読まなくなったんだけど、この3つは印象が強い。

音楽書は今年は豊作だったのではないか。

これはすごくて、ジャズジャイアンツの音源のDTMソフトの波形で見て「ノリ」を分析するってやつ。おそらく世界的にも重要。音楽のプロはもちろんそういうことはしないわけで、先生が統計をよく知っている医者でありセミプロミュージシャンである、というそういう特殊性のたまもの。えらい!まあこれ読んで演奏できるようになるわけでも、音楽がよくわかるようになるわけでもないのだが、それでもえらい!これぞマニア!

数年前から注目しているスージー先生、今年も快調、というよりその活動の頂点にいると思う。ほんとにすばらしい音楽愛・歌謡曲愛を感じる。

これはインテリ向け。でも知らない情報や事情説明や解釈がありとてもよい。こういうの読めるジジイになって、いちおう子どものころからの目標を達成しているよな、とか思います。

プリンス本は多いわけだけど(他にも数冊読んだ)、尊敬するモリスデイ先生のがやはりすばらしい。仮想のプリンスとの対話の形でモリスデイ自身の人生とプリンスが語られていく。もう涙涙。

これはとても勉強になった。ポップ文化/作品研究のなかでも映画は突出して発展していて、映画学もちゃんとした分野になっている。これはアメリカの教育のありかたが反映されているからだろう。映画と直接関係なくても、カルチャー関係の卒論書いてもらわなければならない教員は一回目を通しておくと役に立つと思う。

「グーグル様が世界だけでなくイスラム信仰も変えてます」な話。まあ煽りぎみなんだろうけど、ポイントを突いているのだと思う。読んでると我々とはまったく違った発想があることに気づいてなんか頭がぐらぐらする。

風呂で宇宙論や科学史の本をわからないなりに読むのは人生の楽しみ。これは物理学の哲学の本よね。これじゃなかった気もするけどまあこの種の本の代表ってことで。

他はBooklogの5つ星4つ星を見てください。

宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう」からの続き。
その後、ポロック先生たちの「記号」やら、ゴフマン先生の「コード」やら、ちょっとだけ原文めくってみたんですが、よくわかりませんでした。

「記号」と「スザンナと長老たち」

まずポロック先生たちの「記号」はsignですね。codeではない。

一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

「文化的、社会的記号について熟知している」は familiarity with the signs of the culture or societyなので、まあ翻訳どおり「熟知してる」でもいいけど、学者みたいに熟知しているってことではないとおもう。むしろそれに慣れ親しんでいる、ぐらい。マンガ読むひとはフキダシやいわゆる漫符の意味について慣れ親しんでいるのですぐにその意味がわかるわけです。コマ割りや視点の移動その他の技法についてはあんまり意識してない可能性もある。

とりあえず(西洋)絵画というのは、構図や人物の描きかたにくわえて、画面に登場するいろんな物品や動植物がなにかのシンボルである場合が多いので、そういうのの知識まで含めて鑑賞しないとならない。

正体不明自称プログラマのuncorrelated先生が、小宮先生の論説に一連の批評を加えているのですが、そのなかでティントレットの「スザンナと長老たち」がとりあげられてます。これ、それのとてもよい題材になってますよね。wikipedia記事に、登場するカササギや鹿や鏡その他について簡単な解説がある。これ詳しくなると図像学っていう学問になってしまいます。

ジョン・バージャーの『イメージ:視覚とメディア』って本めくってみたら、このティントレットの絵について解説があって、それもおもしろかった。ティントレットは「スザンナと長老」のタイトルの絵を数点描いてるんですね(そもそも私がティントレット知らなかったのは秘密にしておいてください)。

絵画がしだいに世俗的になっていくと、他のテーマもヌードを取り入れるようになる。そしてそのほとんどが主題(つまり女性)が鑑賞者に見られていることを意識しているという雰囲気を絵のなかに暗示した。……「スザンナと長老」が好む主題のように(ママ)、多くの場合、このことが絵の実際のテーマなのだ。我々は入浴中のスザンナを盗み見ている長老と一緒になる。そして彼女はふりむきながら彼女を見ている我々を見る。

ティントレットの別の「スザンナと長老」では、スザンナは自分を鏡のなかに見ている。そしてこれによって彼女自身も、彼女の鑑賞者の仲間入りを果たす。

まあこういうの、スケベイハゲじゃなくて薄毛の長老さんの描き方とかも含め、ものすごい批評性があっておもしろいですよねえ。さすが名画!って感じです。私は、これくらいのレベルになると、単純な女性のモノ化とか客体化とかそういうんではないと思う。

鏡は女性の虚栄心のシンボルとしてしばしば用いられてきた。しかしそうした道徳的観点はほとんど偽善的なものだった。(下のメムリンクのやつが「虚栄」3枚組。バージャー先生は真ん中の女性像(女性「表象」!)について書いてる)

メムリンクの「虚栄」(中央)

画家が裸の女性を描くのは、画家が彼女の裸を見るのが好きだからである。しかし、画家は彼女の手に鏡を握らせ、その絵を「虚栄」と名づける。このようにして画家が自らの快楽のために描いた裸の女性を道徳的に非難するのである。しかし実は鏡の本当の役割は別のところにある。それは鏡の存在により女性に彼女自身を光景として扱うことを黙認させるということなのである。

まあ名画というのはいろいろ工夫に工夫が重ねられていて、小宮先生が参照しているポロック先生たちやイートン先生みたいなフェミニスト的な読みももちろんあるんですが、もっといろいろ批評の道はあるかもしれない。美術おもしろいですね。私、「美術も勉強しよう」とか「エッチな絵からギリシア神話を学ぼう」とか書いてるけど、ぬるすぎ。人生をエッチに豊かにするためにこれから勉強します。

ゴフマンの「コード」

一方、ゴフマン先生のGender Advertisementもめくってみたんですが1)入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。、こっちでは「ふるまいのコード」っていう語はほとんど見つかりませんでした。けっこう難しい文章で読みにくくて、見つけにくい。”encoded”ならある。私の下手な訳だとこんな感じ。

まちがいなく、(広告が)表示するもの(ディスプレイ)は、表示されているもののなかで、複数の社会的情報が記号化されているという意味で、多声的で多義的でありうる。

とかそういう感じ。これは社会的関係(優位/劣位とか支配/従属とか、親密さとか、愛情とか)そういうのが広告ポスターとかのなかでわかりやすく表示されてるってことですね。これは小宮先生の説明がほぼ正しいと思う。

しかしそうなると、「ふるまいのコード」っていうのは、「ふるまいの規則」だっていう私の解釈はなんかあやしくなってしまう。でも記号っていう意味のコードと、規則っていう意味のコードは別のものだと思うんですけどね。ここらへん曖昧なのはあんまりよくないと思う。これがゴフマン先生に由来するのか、その解釈者に由来するのかはまだよくわからない。いずれにしても、私が考えるべきことではない気がします。専門に近いひとがんばってください。

副産物として、是永論先生の論文でのゴフマンの引用が微妙に問題あるんではないかということにも気づいた。先生はこういう感じで訳してるんだけど、

このnegative statementは「否定的な意味合いをもったコメント」ではないような……よくわらんけど。私が訳すとこうなる。

端的に言って、ここで示されている写真たちは、現実生活でのジェンダー的ふるまいを代表しているものではないし、また特に広告一般や、個々の広告出版を代表するものでもないが、おそらくこれらの写真について否定形の言明を提出することは可能であるだろう、すなわちすなわち、*写真としては*特にかわったところも不自然なところもない、ということだ。

まあそれはさておいて、ゴフマン先生の指摘が、こういうふうに、広告では、現実ではそうでないものがいかにも自然であるかのように受けとられる、みたいな話だとすると、アニメやマンガを使った広告というのは、非常にデフォルメが効いているし、あきらかに現実では成立しないようなセリフや状況が多いですよね。たとえば最近の問題の日赤の献血ポスターとか、カイジとかが「倍プッシュだ!」とかいってるのはあきらかに現実からかけはなれてるし、『働く細胞』とかもあれだし、宇崎ちゃんもなんか少なくともステロタイプはない。

とか考えると私ぜんぜんわからなくなってきました。まあここらへんの非実在人物をつかった広告の美的・倫理的問題ってやっぱりおもしろいと思う。

まあ前のエントリで、小宮先生の論説は哲学的な思考を刺激してくれるって書いたんですが、実際に美学・美術史の問題とか、ゴフマンの解釈とか、そういうかなりアカデミックな興味をそそらせてくれるっていうのでとてもよかったっすね。ゴフマン自身の文章を読むと、とても繊細でありながら、「そんな簡単には規範的な主張は提出しませんよ!」みたいな意思も感じられてとてもよい。公共広告の道徳性みたいな話も、いきなり規範的な話に突入しないで、とりあえずみんなで勉強しながらいろんな意見交換してみたらいいと思うのです。

まとまりがなにもないけど、こういうの適当に書いていきたい。

References[ + ]

1. 入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。

認知の歪みと『ファクトフルネス』

ずっと前に「認知の歪みと研究者生活」っていうエントリ書いたんですが、その後も認知の歪みとは闘いつづけてますわ。ほっときゃ認知が歪むのが人間ってもんでねえ。

前のエントリでも書いたように、倫理的な問題とか社会的な問題とかっていうのは人々の苦しみとかどうしても考えざるをえないので、そういうのにあんまり入れ込んでしまうとどんどん認知が歪んで鬱的になったり逆に攻撃的になったりしてしまう。研究だけじゃなくてネット生活というのも、意見や判断を異にする人々と共存しなきゃならないものでストレスがかかります。

大学教員生活も、他のサラリーマン生活ってほどじゃないにしても、まだ発展途中の学生様や微妙に気難しい他の大学教員の先生たちとつきあわねばならないのでけっこうストレスかかるし。まあストレスのない人間関係というのはおそらく無理、っていうか人類が群居的動物として進化している最中ずーっと人々を苦しめているものでもありますわね。しょうがない。

前のエントリでは、デビッドバーンズ先生の10個のよくある認知の歪みリストを掲載しましたが、ハンス・ロスリングの『ファクトフルネス』でも似たような10の思い込みのリストがあげられてるので写経したい。第1〜10章のタイトルはこんな感じ

  1. 分断本能 Gap:「世界は分断されている」という思い込み
  2. ネガティヴ 本能 Nagativity:「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
  3. 直線本能 Straight Line:「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
  4. 恐怖本能 Fear :危険でないことを、恐しいと考えてしまうという思い込み
  5. 過大視本能 Size:「目の前の数字がいちばん重要だ」という思い込み
  6. パターン化本能 Generalization:「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
  7. 宿命本能 Destiny:「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
  8. 単純化本能 Single Perspective:「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
  9. 犯人探し本能 Blame:「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
  10. 焦り本能 Urgency:「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

バーンズ先生のリスト再掲すると

  1. すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
  2. 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
  3. 心のフィルター。悪いことしか見えません。
  4. 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
  5. 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあれは悪いものだ、あいつは悪いやつだ。
  6. マイナス思考。だめだー。
  7. 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
  8. 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
  9. レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
  10. 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」

ロスリング先生のとバーンズ先生のとのあいだに対応関係がありそうで、表作ってみようかと思ったけど面倒だからやめます。でもまあなんとか生き延びるために認知の歪みに注意して年末を乗り越えましょう。それにしても10個ってのは多くて覚えにくいわよね。7個ぐらいにおさめてほしい。

宇崎ちゃん問題 (10) 小宮先生の論説についてはおしまい

というわけで、もう疲れたのでおしまい。ちょっとだけ書き残したことを。

「性的」

これあんまり小宮先生の文章とは関係ないのですが、宇崎ちゃんその他の表現に関するネットでの騒動では「性的だ」「たいして性的でない」とかそういうやりとりがあったようですが、「性的」自体が曖昧なので「性的に魅力的」とか「性的に露骨」とかそういう表現をつかった方がまだましな気がします。女性や男性を描いたら、そりゃ一つの意味では性的ですからね。そして、魅力的とか露骨とか書けば、それが感受性とかと関係していることがわかりやすくなると思う。

小宮論説全体について

小宮先生の2本の論説には、いろんな混乱があると思うんですが(そしておもしろい指摘や、なんか哲学的な思考を刺激してくれる論点もある)、もう面倒なので細かいところをつっこむのはやめます。最後に、思ったことだけ簡単に。

先生が言おうとしている規範的主張自体は非常に弱いものだと思うのです。私がその難解な文章表現にタックルして理解したいくつか(すべてではない)をあげてみます。

先生の主張の一つは、(1) 「フェミニストやポスター等を批判する人々にも一理あるのだから、ちゃんと言うことを聞きましょう」。賛成ですね。異議なし。

(2) 「表現物からはいろんなことが読みとれます」。賛成ですね。ただ、「表現物には(一つの)正しい読みがある」、とか、「みんな〜と読むべきだ」って言われたらノーです。でもそうは言ってませんね。あと「表象(表現)の意味」みたいな書き方には注意してほしい。それは作品というよりは、我々がなにを読みとるか、の問題だと思う。

(3) 「表現物が、差別その他の問題を含む場合がある」。これも強く同意します。そして、その読み方はさまざまありえるので、おおやけの評論や議論が必要だ。これも同意。

小宮先生の「現実の(たとえば統計的な)人々への影響とは別に、表現自体の道徳的評価ができるはずだ」という発想は私も同意するところです。街中で「XX人は殺せ!」とか叫んでいる人がいると仮定して、それに現実には誰も従うことがなくても(そして賛同する人が増えるということもないとしても)、やっぱりそうした発言は悪しきものであり邪悪なものである。そうしたものの道徳的悪さ、邪悪さ、思慮のなさ、というのは、現実的な影響がほとんどないとしても考慮されるべきだと思う。

ただし、前にも書いたけど小宮先生が「悪さ」という言葉を選択したのはやっぱりあんまりよくなかった。私だったら、そんなに差別などの不正さがはっきりしないものは「道徳的に悪い」ではなく、「(道徳的に)問題がある」「問題含み」problematicぐらいにしておくんじゃないかと思います。

(4) 「性的な関心をより満足させるためのさまざまな表現方法がある」。これはOKなんですが、ただ、そうした表現方法を使っているからといって、性的な関心をより満足させるためにその表現方法を使っているとはいえない。

小宮先生とふくろ先生は、どういうわけか例にあげた手法を「これは〜のための表現だ」って強く主張しているように見えますが、それは主にふくろ先生とかがそういうふうに「理解」している=考えてるっていうだけの話かもしれません。ポルノ作者もマンガ作者も、つねにさまざまな手法を学び、開発し、より満足のいく作品をつくろうとしているわけであって、クリエイターに共通のできあいの「記号」みたいなのがあり、それを組合せて作品をつくり、その記号そのものに鑑賞者が反応している、なんてことになっているとは思えない(そうしたことを主張しているのかどうかはむずかしいのでよくわからない)。

たしかにポロック先生たちやイートン先生は、絵画表現におけるさまざまな技法をもちいていますが、そうした技法を使うことはすなわち性的なモノ化であるとか、それ自体に問題があるとか、そうしたことは主張していないと思う。

(5) 「これからいろいろ議論しましょう」。そうですね、みんな好きなことを言って批評すればいいと思います。でも、簡単に電凸とか不買運動の呼び掛けとかするのはやめてほしい。みんなでよく考えて議論してからにしましょう。

(6) あ、目玉の「累積的経験」の話ももちろんOK。えらい。ただし、もっとわかりやすいふつうの表現にはできそうだと思う。個人的な経験のなかで、Aにいやな思いをさせられたら、Aに関連するいろんなものに対して嫌悪感や反発や問題意識を抱くことになりやすい、っていうことよね。累積的経験なるものによって一部の表現物に対する感受性が変化するのだとか、それはふつうは連想と呼ばれるものだ、ってところまではっきりさせてほしかった感じはある。

もうひとつ、こうした累積的経験というか個人的な経験からさまざまな問題意識をもつこと(そして嫌悪感や反発の傾向を身につけること)自体は悪いことではないかもしれないが、そうした経験から偏見を育てあげてしまったり、過剰に攻撃的になったりすることはよくないことかもしれない、っていうことにも触れてほしい。(累積的なネガティブな経験はフェミニストだけがもつものではない)

さらには、一部の表現に対するフェミニスト的反発が累積的経験なるものから説明できるからといって、そうしたフェミニスト的反発や問題意識が正当化されることにはならない(他の人々についても同様)。小宮先生が、累積的経験の話から、どのような規範的な判断を導こうとしているのかよくわからない。「だからフェミニストの言うことをそのまま聞け」ではないだろうと思う。それとも、単にどのようなメカニズムで論争が起こるのかを記述的に分析しているだけなのだろうか。

小宮先生の主張は弱すぎる

むしろ小宮先生の論説の問題は、おそらく、その主張が弱すぎることなんですわ。上のような先生の主張は、私だけでなく、一連の論争みたいなのになにかコメントしている人々は皆同意すると思う。論争みたいなのはむしろ個別の作品(ポスターや雑誌表紙等)が、そうした問題含みのものになっているか、という点でおこなわれていて、それが長く続いているので、小宮先生の論説が出た時点では、「問題含みの「可能性がある」」というだけでは満足しない雰囲気が形成されていたと思う。そこに「問題がある可能性がある、道徳的に悪いものである可能性がある」っていう主張をもってきても、「んじゃ悪いっていうんだな!なんで悪いんだ!」っていうふうに読まれちゃったのだと思う。よく読むと先生はそうしたことはなにも言ってないんですよね。ふくろ先生の模範作品しか言及されないし。

せめていくつかの作品について、それが実際に小宮先生が指摘するような「悪さがある」って主張するようなものなのかどうか判断してみてもらえればよかったんではないかと思います。でもそれは先生のような立場(どういう立場かわからないけど)の人が書くことではないのかもしれない。でもそれでいいのかなあ。

でも、やっぱり我々が関心をもっていることに、学者として(あんまり人気がないかもいしれない立場から)コメントするっていうのはやっぱり偉いし、この件についてはずいぶん議論が深まったと思います。えらい!特に、マンガやアニメなどの非実在人物のあつかいみたいな話は、もっと若い世代の人々もいろいろ勉強しておもしろいことを言ってくれそうな気がします。そうした議論をすすめていくのはやっぱり対立とかないとならないので、矢面に立ったのはほんとうにえらい。私も書くべきだと思ったことを、ブログていどでもいろいろ書いていこうと思います。

てなわけでおしまい。

後記:この一連の記事、「誤謬推理と詭弁に気をつけよう」というタイトルのシリーズにしてたのですが、実際にはそういう話にはならなかったし、そもそも小宮先生のやつが詭弁だとか誤謬推理だとか言いたいわけでもなかったので(実は牟田先生のやつも)、タイトルあらためました。(1)だけはそのままにしておきます。いずれ誤謬推理についての(2)も書くと思う

宇崎ちゃん問題 (9) 「意味づける」を意味づけることに疲れました

もう疲れてきたので途中でおわってしまいたいのですが、まあはじめてしまったものはしょうがない。「意味づけ」です。小宮先生のこの言葉の典型的な使いかたはこんな感じ。もちろんこれまで同様「意味づける」ということがどういうことかはほとんど説明がなく、手掛かりもありません。

「表象の中で女性がどのように意味づけられているのか」
「女性ヌード画を成立させているのは、女性(の身体)に対して特定の文化的・社会的記号を用いて「意味づけをする」制作行為なのである。」
「「表象を作る」ことが「女性に対する意味づけ」と関わっている」
「「鑑賞の対象としての女性(の身体)」という意味づけ」
「女性に対する抑圧的な意味づけ」
「女性のみを一方的に性的客体として意味づける」
「「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づける」
「相手の身体や経験に勝手にエロティックな意味づけをする」

「意味」も曖昧だけど「意味「づけ」」てなんでしょうね。英語にするとどうなるんかな、とか思いましたがあんまり思いうかばない。「attribute A(性質) to B(対象)」かなあ。「意味」を「つける」って日本語の語感だと、レッテルみたいな「意味」を対象(ここではおもに女性)にくっつける感じなわけですが、私が宇崎ちゃんという実在の女性が魅力的だと考え、その意味で宇崎ちゃんに「魅力的」っていうレッテルをペタっと貼ったとしても、そのレッテルは私にしか見えないし、私が関心を失なったり、死んじゃえば剥がれちゃいますよね。なんてメタファーでお話をすすめたりして。ははは。

でもまあとにかくこの「意味づける」は「〜と考える」で十分なんじゃないっすか。「意味づける」っていう難しい表現をつかってなにを得するんだろうか。

私が宇崎ちゃんを魅力的だと考えてそう意味づけしたからといって、私には権威も権限も超能力もないので、他の人が宇崎ちゃんを魅力的だと考えるようになるとは思えない。でもまあ有力な作家が、宇崎ちゃんというこんどは創作キャラクターをつくりだし、性的に魅力的な格好やポーズをさせたら、「宇崎ちゃんに性的に魅力的な意味づけをした」、ということになるかもしれない。これはさっきの単なる私がある人物を魅力的だと考えるのとはちがいますね。こっちの方がおそらく小宮先生の本意に近い。

しかし、これは宇崎ちゃんに性的に魅力的だという意味づけをしたのであり、まだ「女性」に意味づけしたわけではない。なぜ宇崎ちゃんを性的に魅力的に描き性的に魅力的だという意味づけをすることが、「女性」に意味づけすることになるのだろうか。

答は、宇崎ちゃんが(仮定により)女性だから。宇崎ちゃんは女性だから、宇崎ちゃんに意味づけすることは、女性に意味づけるすることになる。

しかし、これは宇崎ちゃん「という」特定の女性(あるいは女性キャラクター)に意味づけしただけで、女性全部に意味づけしたわけではない。女性一部に意味づけしたとは言えるが、女性一人(宇崎ちゃん)だけだ。

そこで、解釈としては、クリエイターが魅力的な女性を描くことは、女性の一部/多く/全部に魅力的というレッテルを張るということだ、ってことになるけど、これはダウトだ。いくら魅力的な女性を描いても、さほど魅力的でない女性はいるだろう。

したがって、もうひとつの解釈、「クリエイターが一人の魅力的な女性を描くことは、女性はみな魅力的であるべきだという主張をすることだ」っていうのになる。これが「意味づけする」ってのの小宮先生の言いたいことだろうと思う。しかしこれはかなりあやしい主張ですよね。私は簡単には認めないです。

宇崎ちゃん問題 (8) しかし、「理解を生む」だけは許さん!

まあ「理解」を理解するのはむずかしい。私もよくわかっていない。

でもぜったいに許せない表現があるわけです。「理解を生む」これは許せない!1)「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう」

理解を生む、って誰が生むのよ。主語は「こうした技法」ですか?「こうした技法」が「理解も生む」の?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。」

「こうしたメタファー」が「理解を生む」の?誰が生むの?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているという理解を生むでしょう。」

「エロティックなものとして描くことは」「理解を生む」の?主語はいったいなんなの?

こんなのおかしいっしょ。誰のものでもない「理解」とかって抽象名詞つかってるからこういうわけわからん文章になる。「Aさんは〜と理解するようになる」ってふつうの文章で書けばこんなわけわからんこと言う必要がない。こんな文章を「明晰」「わかりやすい」とかって評価している人はいったい何を見てるのですか!

こんなふうになるのは、「理解する」っていうことがどういうことかよく考えないままに、抽象的な「理解」っていう言葉をひとりあるきさせ、それが誰の理解や思考であり、何が誰の思考にどういう影響を与えるかも考えたことがないからじゃないんですか。あるいは、もしこういうのが意識的で意図的なものであるならば、はっきりふつうの言葉で書くと、奇妙なことを主張しているのがはっきりしてしまうから、抽象的で曖昧な書き方しているんではないですか。これでいいんですか。これは小宮先生ではなく、あの文章読んで、なにがしかのコメントができると思ったひとびと全員に聞きたい。

好意的に、好意的に、最善の相で

泣きべそかきながら好意的に読むと、最初の一文は、「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えます。同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、こうした技法は、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いていると私たちに理解させるようになるでしょう」かな?でも技法が主語になってるの気になるから「技法を使う人々は」とか「技法を使うことは」ぐらいにしてほしい。

そして、こうしてはっきりしてみるとここで、そうした技法や、その意味に気づかない人は、「そうした技法が女性を単に装飾のために使っていると理解するようになる」ということはないはず。おかしいじゃないですか。おかしいっしょ?

ふたつめは、「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いています。そして、あからさまではないがゆえに、こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされていると私たちに理解させてくれるでしょう」かな。これでも正確ではなく、できれば、「メタファーを利用する作家は女性を性的な鑑賞のためにもちいています」あるいは「メタファーの利用は、〜」と表現してほしい。これもさっきと同じようにおかしい。メタファーに気づかないひとはそういうものだと理解できないはずだから。

だから「こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているといえるでしょう」ぐらいなわけだ(先のも同様)。んじゃ、キーワードの「理解」はどこいくのよ。

三つめは「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているといえるでしょう」か?

技法やメタファーが理解を生む、っていうのはほんとうにわかりにくい。「それらを使うことが〜という理解を生む」ぐらいだったらまだましかもしれないけど、けっきょく抽象名詞を主語にした無生物主語みたいなのをたくさんつかうと文章はどんどんわかりにくくなっていき、なにを主張しようとしているのかわからず、したがってなにを確かめたり反駁したりしたらいいのかもわからなくなる。

とにかく、ここのところの「理解を生む」はほんとうに混乱させられてものすごく不愉快でした。私がおかしいのでしょうか。

はあ、メタファーが、理解を、生みましたか、はあ、そらおめでたい、いや近所の猫もね、猫を生んで、まあその、それと似たものですか。


追記(12/21)

しばらくして、小宮先生の「理解」が可算名詞のunderstandingに対応するということに思いあたりました。Cobuildだとこう

この意味だと、同義語に出てる「信念」とかの方が日本語では適切ですね。誰の信念であるかという問題はまだ解決されないけど。

References[ + ]

1. 「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

宇崎ちゃん問題 (7) 「理解」を理解するのはむずかしい

んで一番面倒なのが、「理解」とか「意味づける」って言葉で、この二つにはほんとうに苦しみました。

「理解」

まず「理解」から。小宮先生の典型的な表現を抽出してみるとこんな感じです。

 「表象に対する理解の齟齬」
「「悪さ」の理解」
「表象の理解」
「表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解される」
「女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくる」
「女性の描き方の中で「女性は性的な客体……である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだ」
「具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか」
「「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現」

表象つまり表現物・作品を「理解する」っていうのはどういうことなのか、「ある絵画がどういうメッセージを伝えているかを解釈する」ぐらいだと、まあ絵画がメッセージを伝達するものとして解釈を必要とする、というのはわかります。でもこれも難しいですよね。

ふつうに「理解する」とは

まず、ふつうの意味で理解するってどういうことなのか。

  • 「太郎は地球が丸いと理解した」

これはOKです。地球は(おそらく)事実として丸いので、それを把握するということです。地球上を一方向にまっすぐに歩いていくと、いずれもとの場所に戻るであろう、ということもわかります(あれ、どっちに行っても戻ってくるよね)。

  • 「太郎は地球が平らだと理解した」

これはなんか微妙。「太郎は地球は平らだと誤解していて、そのため皆からフラットアーサーと呼ばれている」ならわかる。「古代人は地球は平らだと理解していた」は微妙だけどOK。

まあこういうふうに「理解」や「誤解」を使えるのは、「地球が丸い」という事実があるからですわね。それがわかってれば理解しているし、わかってなければ誤解している。

単純な文章の場合は、理解とか誤解とかっていうのはわかるわけですわ。

「意図を理解する」のようなものになるともうすこし複雑になる。

  • 「花子が「あなたのことは人間としては好きよ」と言ったのを、太郎は交際の拒絶として理解した」

まあ花子さんは太郎さんに人間的な魅力を感じてはいるものの、性的な魅力は感じないので、交際やセックスをおことわりする意味で「人間としては好き」と発言し、太郎はそれを正しくセックスの拒絶として理解した。こういうのはよくわかる。

表現物(表象)を理解するというのはどういうことか

でも、こうした発言や文ではない表現(表象)を理解するっていうのはどういうことだろうか。だって、絵や写真がなにか文あるいは命題に相当するようなものを表現しているかどうかっていうのは、かなり難しい問題ですもんね。

前エントリで例にあげた、フラゴナールの「ぶらんこ」が、助平な若い貴族男子と若くて陽気な既婚女子の浮気やセックスを描いていて、陰になっている貧相な年老いた旦那らしき人物も公認、みたいなフランス貴族社会を描いている、ぐらいは私にもわかる。しかしどういうメッセージなのか、とかいわれると難しい。フラゴナールは「どんどん浮気してセックスしましょう」っていってるのか「若い嫁さんもらったらブランコぐらいこいであげないといけません」と言ってるのか、「助平な貴族が偉そうにして人妻に手をつけているいるこの貴族社会を打倒せよ」って言ってるのかよくわからない。なにを理解したときに理解したと言えるのだろうか。フラゴナールの絵の寓意を理解することが「理解する」なのか、たんにその美や技巧を味わうだけでも十分なのか。

ある絵画や写真が何を伝えているかを「正しく」理解する正しい方法というのはあるのだろうか、とかそういう疑問が浮かびます。小宮先生は「表象の理解」とかって簡単に書くわけですが、図像表現をそんな簡単に理解できるものなのか。なにをすれば理解したことになるのか。「着衣のマハ」やベートーヴェンの第五交響曲(ジャジャジャジャーン!)理解するというのはどういうことなのか、わたりにはよくわからないのです。

ピカソの「草上の昼食」の意味を理解するとは?

「理解」じゃなくて「解釈」ならわかる。「ぶらんこ」を解釈するというのは、あの絵から、いろんなメッセージや諧謔や皮肉や美や快楽を読みとることだろうと思う。それらそれぞれはかならずしも命題(平叙文)の形にはならないかもしれず、単に「経験する」という表現しかできないかもしれない。

まあ、「「ジャジャジャジャーン」は運命が扉を叩く音である」とかって通俗的な解釈を知り、それに納得することが、あの曲を「理解する」ことだなんて立場には立てないし、また「ぶらんこ」は貴族社会での浮気の肯定を意味している、なんて解釈もくだらないと思う。んじゃ「表象を理解する」ってなんなのよ。

「裸のマハ」や「ウルビーノのヴィーナス」はいったいなにを「意味」してるんですか。絵にそんな「意味」なんてあるんですか?私がどういう状態になったら「理解した」ことになるのか、そういうのさっぱりわからず、そうした疑問を抱くことなく「表象を理解する」みたいな文章を書く、っていうのには反発をおぼえます。(似てるのは「人生の意味を理解する」みたいなやつですね。こういうのはけっきょくなんらかの比喩的な表現にすぎないのではないかと思う。人生の意味ぐらい私が教えてあげます。それはタンパク質です。理解しましたか?ははは。)

好意的に読むようにがんばりましょう

でもがんばって好意的に解釈しましょう。社会学者の先生たちは、「理解」っていう言葉をかなり独特に使う傾向があるみたいなんですよね。私はよくわからないんですが。

どうもunderstandというよりは、ドイツ語のVerstehen、みたいな印象。単に知的に文を理解するというよりは、「了解する」とか「十分な意味で理解する」とかそういう言葉をあてないとならんような。

たとえばまだ地球が丸いという事実を知らない部族が存在していて、その部族のメンバーは「大地は平らであり、ずっと行くと滝のようなところがあって落ちてしまう」と信じていて、旅をするのを恐れているとする。これを「彼らは地球は平らだと誤解している」のように表現するのはなんか、我々地球が丸いことを知ってる人々の特権的な判断であって傲慢だ、みたいな発想はあるわけですわ。彼らにとっては大地はまさに平らなものであり、そうした世界観とともに彼らの大地は平らだという信念を「理解」しないとならない、みたいな形になるんですかね。

つまるところ、われわれが「事実」と(個々の人々、あるいは社会全体での)「解釈」、みたいに分けちゃうのはあんまりよくない、みたいな発想。我々の知識や信念のすべては「解釈」なのだから、そうしたものはすべて「理解」と呼んでかまわんのだ、みたいな感じの発想はあるかもしれない。

実は、ミル先生の『論理学体系』第5篇第4章におもしろい個所があるのです。

(訳文は杉本俊介)

漢方薬屋は病気や症状を漢方の理論にあわせて記述し理解し治療しようとする。ふつうわれわれは見たものをそのまま信じているのではなく、感覚に与えられたものを、自分がすでにもっている理論のようなもののレンズを通して経験する。見たままではなく、すでに推論(思考)が入ってるわけです。

この画家の訓練の話とかも、いま扱ってる話題と関係していておもしろいですね。

まあ小宮先生の「理解」って言葉の使いかたから離れてきてしまってますが、そんな簡単に、制限つけないで「理解理解」ってくりかえしたり、「理解可能性」っていう聞きなれず、それだけでは門外漢にはどういう意味かわからない言葉や概念をふりまわされるととても困りが発生するわけです。

追記。次のエントリに書きましたが、小宮先生の「理解」は可算名詞のunderstandingかもしれない。つまり「信念」とか「意見」とか「解釈」とか、そういうの類義語。「誤解」と対になる「理解」ではない。とすると、日常的な「理解する」っていう動詞と、こうした特別な「理解」=信念、解釈をいっしょに使われると混乱しますよね。

宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう

小宮先生の岩波『世界』の方の論説では「コード」が出てきます。これもわたしわからん。

ここからゴフマンは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを、私たちが瞬時に理解するために用いられるある種のふるまいのコードを読み取っている。

この文章はとても読みにくい。「私たちは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを瞬時に読みとる。ゴフマンはそのために用いられるある種のふるまいのコードをここから読みとっている」かな?悪文です。

まあそれはおいといて、この「コード」わかりにくいと思うんです。わかりにくくないですか?「コード」はふつうは(1) 規則、慣例、法典、(2) 記号・暗号、(3) 符号体系の三つぐらいの意味があると思うんです。ゴフマンの『ジェンダー広告』のcodeは、はっきり(1)のふるまいの「規則」のはずです。「記号」ではない。(『ジェンダー広告』も原書Gender Advertisementも入手しにくいので、ちゃんとした論拠はちょっとまってね1)たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。。)

ツイッタでのジェンダー関係の話になると「〜コード」とか言う人々がいるんですが、そういうの見たら「それって規則?それとも記号?」って聞いてみてください。

小宮先生の『世界』の文章に戻ると、「コード」の前にポロック&パーカー先生の「記号」の話が出てきててさらに混乱しやすいんじゃないかと思います。先生はポロック先生とゴフマン先生の話が同じようなことを言ってる、って主張しているように見えるから。でもそんなに同じだろうか。

小宮先生が引用しているポロック先生のを再引用すると、

ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち、かつ文化的・社会的記号について熟知している、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

でもこれ、実はこうです。わかりやすいように、前後もちょっと拡大しますね。

芸術作品のなかに描かれた女性のイメージには、現実社会の女性が、よし悪しは別としてそのまま反映されていると見るのは、われわれが陥りやすい罠である。ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。芸術は社会を映す鏡ではない。社会の諸関係をいくつもの記号からなる図式にして伝え、提示しなおす(re-present 表現する)のが芸術であり、それらの記号が意味あるものになるには、読解力をもち、一定の条件を備えた読み手が必要である。このような記号が含意する、多くの場合意識されない意味のレヴェルにおいてこそ、家父長的イデオロギーが再生産されるのである。(翻訳 p.184)

ポロック先生たちの「記号」が、英語でなんであるのかまだわからないのですが(手配中)、「象徴的レベルの含意」を含むような描かれている物、人物、服装、持ち物(アトリビュート)、背景、構図、その他ですかね。

たとえばフラゴナールの「ぶらんこ」2)実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。ではいろんなものが描きこまれていて、たとえばスリッパ(左上)、たとえばイルカとキューピット像(中央下)、それらの物がどれもエロティックな含意を伝える「記号」になってるわけですわね。こういうのを解読できるようになると楽しい(中野京子先生の『怖い絵』とかどうぞ)。しかし、これって、ゴフマン先生の「ふるまいの規則」としての「コード」とはずいぶんちがうもんなんちゃうんかなあ。これ、最初から「コード」じゃなくて「ふるまいの規則」って書いてたら、読者は「あれ、それって同じ話なの?広告とかに描かれるふるまいの規則と、絵に描かれる記号って、たしかに近い話みたいだけどちょっとちがうもんじゃないかな?」って思うと思うんです。どう思います?ていうか、せめて「ふるまいのコード、すなわちふるまいの規則が」とか書いてくれてもいいと思うんです。

(この話は続きがあります→ 宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

References[ + ]

1. たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。
2. 実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。