詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合

『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので 1)「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。

ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。

日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

日本事情に詳しい米国人男性が英語で、過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信(10月14日)、日ごろから女性差別問題について活発な発信をしている女性弁護士がそれに同意し「環境型セクハラ」と批判を続けたところ、「表現の自由だ、表現を規制するのか」「自分の基準で勝手なことを言うな」「たかが絵なのに文句を言うな」等々の、ほとんど罵倒と言ってもよいようなものも含めて、非常に多くの反批判を受けた。

私自身もこの件で複数回ツイートしたが、いずれもリツイートや「いいね」を多数いただいたものの、上記と同趣旨のリプライも山ほど浴びた。

改めて、何が問題なのか

結論から言えばこの件は、議論する以前に答えは出ている。

女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。

たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。

男女共同参画社会基本法(1999年制定)の下で策定された「男女平等参画基本計画」(2000年)でも「メディアにおける女性の人権の尊重」が盛り込まれ、2003年には内閣府の「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」でこれを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」としている。

同じ趣旨で各地方自治体でもガイドラインを策定しているが、たとえば、東京都港区は、

「目を引くためだけに『笑顔の女性』を登場させたり、体の一部を強調することは、意味がないばかりなく、『性の商品化』につながります」「(性の商品化とは)体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされることで、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われること」(東京都港区「刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」、2003年)

としている。

最近のものでは埼玉県が、自治体のPR動画やイベントポスターなどで過度に性的な「萌えキャラ」等が問題となっている事態を踏まえて、女性を性的対象物として描くことに注意喚起し、「人権への理解を深め、男女共同参画の視点に立った表現をすることが一層重要となっています」(埼玉県「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」(2018年))としている。

今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。

牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。最後の埼玉のを使うと

a. 埼玉のガイドラインは女性を性的対象物として描くことに注意喚起している
c. それゆえ今回のポスターは埼玉のガイドラインに抵触している

とかって形になっているわけです。なんかおかしいですよね。大学の授業なんかでは、論証というのは三段論法が基本だ、みたいな話を聞いていると思います。

a. 人間は死ぬ
b. ソクラテスは人間である
c. それゆえソクラテスは死ぬ

こういう形ですよね。実は上の牟田先生のやつは、省略三段論法とか隠された三段論法といわれやつで2)省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。、本来は、

a. 埼玉のガイドラインでは女性を性的対象物として描くことは不適切だ3)実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
b. 宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている
c. したがって、埼玉のガイドラインでは宇崎ちゃんポスターは不適切だ

という形になっているはずなのです。牟田先生が「明らかだろう」っていってるのはぜんぜん明らかではなく、「宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている」という牟田先生自身の論点や主張が明示されておらず、暗黙に了解されているにすぎない4)この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。。そしてこれこそ本当の論点のはずなのです(性的対象として描くことが不適切なこと、あるいは悪いことであることを認めるとして、ね)。

国連の「女性の過度な性的描写」の方を見ても同様ですね。

a. 国連は女性の過度な性的描写には問題があると主張している
b. 宇崎ちゃんポスターは過度な性的描写である
c. 国連は宇崎ちゃんポスターには問題があると主張する(だろう)

という形になるはずなのに、宇崎ちゃんが過度な性的描写であるという指摘がない。牟田先生は、あちこちのガイドラインが過度な性的描写には注意をうながしている、ということを列挙しているにすぎず、そのガイドラインの根拠についてもはっきりしない5)そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。。宇崎ちゃんは過度に性的なのだろうか。

これ、注意深く読むと、冒頭で「米国人男性が(宇崎ちゃんポスターは)過度に性的な絵で赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信、女性弁護士がそれに同意」ということが言われていますが、牟田先生自身は「ポスターは過度に性的な絵だ」ということを主張・立証していません。

もしかしたら

a. 米国人男性と女性弁護士が共に言うことはなんでも正しい
b. 米国人男性と女性弁護士は共に「ポスターは過度に性的だ」と言った
c. したがって「ポスターは過度に性的だ」は正しい = ポスターは過度に性的である

とかそういう三段論法も隠されているのかもしれない。こうなるとすごいっしょ。まあ隠された三段論法の隠された前提にどんなものがはいっているかは推測するか質問するしかない。

『自由論』や『功利主義論』で有名なJ. S. ミル先生は、論理学者でもあって(というか、こっちの方が本職で重要)、『論理学体系』という非常に立派で重要な本を書いてます。いま、論理学っていうとA → B、A、したがってB、とかそういう記号でやるやつを連想する人が多いと思うんですが、ミル先生の「論理学」はそういうのも含んでますが、科学的推論というのはどのようにしてなされるべきか、とかそういうもっと広い範囲を扱った本ですわ。まあいまでいう科学哲学みたいなのも含んでる。ていうかまんま科学哲学。

この本の第5巻がまる1冊分「誤謬推理」(Fallacy、虚偽、詭弁、誤謬的思考)6)正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。にあてられていて、ここはちょっと難しいけどとてもおもしろい。いろんなタイプの誤謬推理が分類されて、大量の哲学者やら科学者やら迷信やらがその実例としてあげられてます。そのうち新しい翻訳が出るらしいので楽しみにしておいてください。

そのなかで、一般の議論では三段論法ははっきり明示されることはごくすくないということも指摘されてます。日常的な議論でも科学的な議論でも、三段論法みたいなのを明示する必要はさほどないんですわ。たいていの場合には二つの前提のどっちかは明白だし、いちいち書いてたら煩雑だし。そもそも三段論法というのは新しい知識を生みだすものではないのです。ソクラテスが人間だからいずれ死ぬのはだれでもわかっていて、わざわざ三段論法の形にする必要はない。

ミル先生に言わせると、

三段論法の規則というものは、人に自分の結論を主張しつづけるために弁護しなければならないこと全体を自覚させるための規則である。人は、ほとんどどんなときでも、三段論法に勝手に偽の前提を入れ込んで、自分の論証を妥当なものにすることができる。したがって、ある論証が妥当でない三段論法を含んでいるということをはっきり確かめることが可能な場合はほとんどない。しかし、こうしたことは三段論法の規則の価値を失わせるものではない。推論する人が、どのような前提を主張する用意があるかをはっきり選択させられるのは、この三段論法の規則によるのだからである。

つまり、「三段論法が基本だ!」みたいなのは、「いつも三段論法を明示しろ!」とかそういう要求ではない。むしろ、自分がなにかを説得しよう、立証しよう、あるいは主張しようとするときに、自分と他人のあいだの前提の違いを意識して、自分がなにを言わなければならないかを自覚し、また他人にへんな説得されたり騙されたりしそうなときに、相手からなにを聞いておかねばならないかを意識するための規則なのです。

こういうのを見ると、わかりにくい文章やうたがわしい文章を読むときに、その文章の主張をリストアップしてみるのはよいことですよね。そしてうたがわしい文言があったら、それを主張するための三段論法をいくつか書きだしてみる。著者は(暗黙にせよ)その結論の前提をきちんと説明してくれているだろうか、そしてまた、その明示的な、あるいは隠された前提にあなたは同意できるだろうか。

私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。その場合、「見ればわかる」「私の主観だけどみんな共有できるはずだ」という形でもかまわないかもしれないけど、一言主張するべきだったのです。もちろんそうすると、性的であるとはどういうことかとか、「過度に」性的であるとはどういうことかを説明してほしくなりますよね。宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

a. おおきなおっぱいは過度に性的である
b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。

とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。だからこれを論じてもらわなければならない7)つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

ちなみに本当の論点とはちがう論点を「論証」してしまうのも詭弁・誤謬推理の一つのタイプで、「論点相違(の誤謬推理)」Ignoratio Elenchiという立派な名前があり、また「過度に性的なのはいかん」という言明を「性的なのはいかん」のように「過度に」という限定があり、それを論証しなければならないことを忘れてしまうのには「限定あり言明から限定なし言明への誤謬推理」Secundum quidという名前がついてます。われわれが非常によくやる詭弁と詭弁的思考なので、ちゃんと昔から名前があるわけです。

References[ + ]

1. 「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」
2. 省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。
3. 実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
4. この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。
5. そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。
6. 正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。
7. つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

学生アマバンの皆様へのお願い

私はアマチュアバンドを聞くのが大好きで、それは上手い下手とはあまり関係なく、好きな音楽を好きなようにやって楽しそうなのがよいのです。ぜひどんどん聞かせてください。

しかしあちこちの学園祭などでステージを見ているとちょっと気になることがあり、ツイッターなどではそのたびに書いているのですが、考えていることを記事に残しておこうという気になりました。うざいことを言うと怒られそうですが、オーディエンスの側から見るとこういうのが気になる、というのをいくつか。怒らないでくださいね。

ステージ上でチューニングや機材調整するのはやめてください

学園祭ステージだと、1バンド20分ぐらいが多いかと思いますが、その時間はフルに使いきってほしい。舞台にあがって3分以内に演奏をはじめてほしいものです。もたもたしているバンドは印象が悪いものです。

いまはチューニングはチューナーで舞台裏でできるのでやっておいてください。PAに音流しながらやるのはもっての他です。クラシック演奏会じゃないんだから。同様に、エフェクターの調整もやめてください。そんな時間がかかるエフェクターは捨ててしまえ!つまみは演奏前にいじるな!アンプはやはりステージの上で調整せざるをえないことがあるかと思いますが、どうせ細かいことは数分ではできないのですから、だいたいのところであきらめてください。

ライブハウスではリハの時間つかって音の調整できますが、学祭の野外ステージなどで同じことをしようとするのは無理です。とにかくあきらめなさい。

PA業者さんが使っているアンプはジャズコなどの標準的なものが多いのですから、スタジオ練習や個人練習のときにだいたいのところを把握して、ステージ上ではせいぜい微調整ですませてください。ベースの人はそもそもつまみどうしたらいいかわからないだろうからあきらめなさい。ちなみに、PAさんにモニタースピーカーの具合などおねがいするのはステージの上からマイクを通しておこなってかまわないと思います(曲間でもOK)。

ステージ上で練習しないでください

微調整のための音出しはしょうがありませんが、気になっているフレーズなど練習するのはやめてください。ギターピロピロ、ベースのスラップビシバシ、みたいなの見せる必要ありません。最高なのは調整もなしにビシっと1曲目からはじまることですが、まあPA調整しなければならないアマバンステージでは無理ではあります。でも最短に。

特に、今後実際に演奏する曲のフレーズを弾くのはぜったいにやめてください。手のうちあかしてどうするんですか。やる曲やキメのフレーズは最後まで隠しておくこと!ドラムははっきりしたリズムは叩かないこと。みんな注目しちゃうでしょ。それぞれの太鼓をマイク拾ってるか確認すればそれで十分だし、そんなのあとでPAさんがやってくれるはずだからとにかくはじめてしまえ!

バンド全体での楽曲の練習は絶対やめてください

あとでやる曲の一部を使って全体の音を確認したいと思う人々がいるみたいですが、人前なのですから曲を始めたら最後まで演奏しきってください。途中でやめてどうするんだ!絶対まもってほしい。

はじまるときには一言でいいからMCで挨拶してください

「こんにちは。(バンド名)です!ジャーン!」でいいじゃん。こっからはじまる、というのをはっきりしてください。

カバー曲をやる場合は、オリジナルのアーティストと曲名を必ず宣言してください

もちろん演奏したあとでもかまいませんが、誰のなんという曲かは必ず紹介すること。これはオリジナルのアーティストへのリスペクトです。自分たちのオリジナルの場合も曲名あるはずだから必ず伝えること。これは演奏前がよいと思う。誰が書いた曲かとか、どういう曲かとかも思いいれがあるはずなので、ボーカルの人が紹介してあげてください。

ショーであることを意識してください
姿勢に注意してください

さほどショーアップする余裕がないことが多いと思いますが、お客に聞いてもらうのですからたんに楽器いじってるというのではなく、それなりのステージアクションを入れてください。ギター弾くにしてもキボード弾くにしても、それなりのアクションが欲しいです。メンバーどうしのアイコンタクト、ソロがあったらそれへの視線のひきつけなど、少し意識するだけでずいぶん印象がかわります1)メンバー間のアイコンタクトがないと、このバンドは仲が悪いのか、解散寸前なのか、あそこは元カップルか、とかいろいろ考えておもしろいのですが、おもしろすぎます。。ボーカルは実は姿勢の悪い人が多いので鏡やビデオ見て確認してください。楽器はテンパって自分の手元だけ見てる人が多いですが、他がなにやってるかいつも見る癖つけておいてほしい。うまくいったら笑顔とか見せてくれるのはとてもよいことです。ボーカルだけなく、バンド全員がそうした表情を意識してください。ドラムもフィルイン入れるときそれなりの顔するんですよ!

メンバー紹介しましょう。最後も挨拶、バンド名など再度

最後もきもちよくおわってください。途中MCでメンバーの名前紹介するのもとてもよいことです。君らサークルのメンバーは知ってるけど聞いてる人はしらんわけだから。サークルのステージだとどうしても内輪なノリになってしまいますが、それ以外のお客さんもたくさんいるわけだから、それは意識しましょう。

というわけで余計なことを書きましたが、これからも楽しい演奏期待しています。がんばってね!

References[ + ]

1. メンバー間のアイコンタクトがないと、このバンドは仲が悪いのか、解散寸前なのか、あそこは元カップルか、とかいろいろ考えておもしろいのですが、おもしろすぎます。

セックス哲学史読書案内:エッチが大好きローマ人

当時のエッチな絵を見ながら、オウィディウス先生その他のエッチな文章を大きな文字で読みましょう、みたいな。まあ図書館にあったら眺めたらいいぐらいの本。もうすこしまじめに読みたい人は下。

上は火山の噴火で埋もれたポンペイの街の発掘が進むと、いろいろエッチな絵や娼館の落書きが出てきたので紹介します、な本。

↑グッドな本でした。

この本、生活一般についていろいろ述べられていてとても楽しい。

法制度とか細かいこと書いてて私には途中まで退屈だけど、詩人や哲学者が登場する第6章や第8章は勉強になる。

いろいろ読んでると、人間のやってることはどこでもいつでもたいして変わらない、とか言いたくなるんだけどどうだろう。

私の好きなベース Spotify版 (2)

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  1. 1曲目はいわずとしれたスコットラファロ。ソロどうのこうのいわれるけど、こういうウォーキングが魅力。よく聞くと音の選び方も新鮮よねえ。私の耳にはジャストじゃなくて、ちょっとビートより前よりで弾いてるように感じられるんだけどどうだろうか。
  2. 2曲目もラファロ。まあこれはしょうがない。カウンターメロディーっていう感じでやっぱりかっこいいわよねえ。聞きどころは、テーマ弾いたあとに3人でぐちゃぐちゃにして、そっからウォーキングに入る瞬間。このスリルがわかるとジャズファンになってしまう。ステディなテンポはあるけど誰もそれを明示的には刻まず、3人勝手にやる、っていうのがやっぱり新しかったんだと思う。
  3. 3曲目はエバンスつながりでエディーゴメス。この先生ピックアップの感じとか微妙な時代もあるんだけど、このアルバムのはすばらしい。チックコリアとやってるやつ(Three Quartets)も聞いてほしい。
  4. 4曲目はチャーリーヘイデン。音が重いというか、そんなパラパラ弾かなくても言いたいことはいえる。
  5. オーネットコールマンとやってるとき、レナードバーンスタインがステージの上に来てヘイデンのベースに耳を寄せてたらしい(なんか写真見た気がするけど気のせい?)、まあそういう魅力がある。
  6. 5曲目もヘイデン。ロンリーウーマンを同窓会しているやつ。もちろんオリジナルもすばらしい。このアルバムはなんか夢のような感じですばらしい。
  7. 6曲目はアートアンサンブルオブシカゴのマラカイフェイバーズ。一人で音楽作ってる感じ。なるべくよい再生装置で聞いてほしい。
  8. 7曲目、ちょっと変えてR&B風。クリスチャン・マクブライド先生。この先生はアコベもエレベもいい。シリアスなジャズもいいし、ファンクもいいし、まあ天才。てか、これクリスチャンにブライアンブレードとブラッドメルドーというガチ最高峰ジャズミュージシャンがR&Bやるとこうなるというか、最強ロックバンドも作れるよな。スティング先生が雇わないのだろうか。
  9. 8曲目はコルトレーンバンドのジミーギャリソン。まあいうことはほぼないというか。ここらへんになると、私好きなタイプってはっきりしてる感じ。ちゃんとベースを鳴らす人々。
  10. コルトレーンの『クレセント』〜『至上の愛』は最高で、ギャリソンも当然非常に重要で、至上の愛の1曲目とかギャリソンじゃないと考えられないわけだけど、9曲目はその至上の愛の2曲目をエヴァンスの最後の相棒のマークジョンソンがやってるやつ。これもメンツがすごい。ジョンスコのあばれっぷりだけではない。
  11. 10曲目はレッドミッチェル。このアルバム好きで好きで。レッドミッチェル先生のピアノも聞ける。
  12. 11曲目はスイング時代のものってことで。スラムスチュワート。アルコ(弓で弾く)しながら歌うっていう独特の芸が楽しい。最後のハンプトンもダブルタイムもすごいけど。
  13. 12曲目はキャメロンブラウン。地味だけどバンドを大事にするひとっていうか。派手なテナーとピアノ、あばれるドラムをまとめている。
  14. このジョージアダムズ・ドンピューレンカルテットは他の3人はミンガスのバンドの出身者で、最後はミンガス先生の晩年のジャムセッション的ライブということで。猛烈にスイングする。

スコットラファロが上達の秘訣を聞かれたときに、「同じレコードを何回も聞くんだよ」って冨田ラボと同じようなことを言ってて、けっきょく聞くっていうのもそういうんよね。よいものを何度も聞く方がいいわ。

私の好きなベース Spotify版 (1)

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  1. まあやっぱりべたにジェームズジェマーソン先生から。説明不要。
  2. ンデゲオチェロ先生。ものすごいファンクネスよねえ。ファンクは音の長さと休符だ。音出さないのがファンクベース。このミュートした感じ、鳴りきらない感じが重要なのだというのがわからない人はけっこういるみたい。ジャズではフルに鳴らすタイプの人が好きなんだけど。まあ音の長さって大事よねえ。
  3. プリンスのプロデュース。おそらくプリンス本人が弾いてるんちゃうかと思うけど。この人、ベース弾いても技術的にうまいとかじゃなく、非常に印象的なラインを弾く。音をミュートしたゴーストノートが特徴のライン。
  4. ネイサンワッツ。5弦ベースの低い方をこんなに印象的に使ってる曲はいまだにしらない。リズムとかぜんぜんジャストじゃないルーズな感じのもいい。低い方へ低い方へ行く感じ。5弦ベースのいちばん低い音域とか弦があばれて物理的にななんかむずかしい。とにかく弦が振動している!
  5. メレンゲバンドから。このバンドのベースがものすごく好きで、これも5弦ベースかかてズッズッズッズッってやって、意外なところでビョーンとかブーンとやる。なんかセクシーな太い弦が振動している。
  6.  モンテル・ジョーダンの”Close the Door”。 Andrew Goucheという人らしい。これも5弦の低いところ使いまくってて、ネイサンワッツよりはジャストな感じだけどフィルインとかものすごい効いてる。このフィルインがないとこのセクシーな感じならない。原曲はテディペンダーグラスのはず。まあこれはドラムもよい。
  7. マドンナのホリデイ。これは誰が弾いてるかしらん。このアルバムはキーボードで弾くベースラインの宝庫みたいな感じ。打ち込みなんかあ。ドラムはそうだけど。
  8. プリンスもう1曲。ものすごい独特よね。
  9. ブルースロックのベースにめざめたのはいろいろあって、まあ大学入って1年目か2年目ぐらいに東京にいる友達の家にころがりこんでたころがあり、そこの安アパートの隣の奴がブルースロック大音量でかけてたんよね。そして私は寝ながらギターよりベースを聞いていた。いま思えばクリームかジミヘン。しかしロックベースの最高峰はツェッペリンのジョンポールジョーンズ先生であーる!
  10. ラリーグラハム先生のこれ忘れたらいかんよね。Family Affairでは歌も歌っていて味がある。
  11. テレンストレントダービーの曲のベースは名前すぐに出てこないんだけど、これもすごいファンクネスで好き好き。
  12. The TimeのJerk Out、この「パンデモニアム」ってアルバムもものすごいファンクで、Jam & Lewisのテリールイス先生が弾いているのか、あるいはプリンスか。まあ誰が弾こうがどうでもいいっていう感じでもある。音の指示はやっぱりプリンスだろう。
  13. そしてさらにプリンスのGet on the Boat。この時期のプリンスはロンダスミス先生とか優秀なベーシスト抱えてるけど、やっぱり自分で弾いてるんちゃうかなあ。これもゴーストノートが特徴的。ロンダ先生のアルバムの感じはこれとはちがうんよね。
  14. P-Funk (ファンカデリックとパーラメント)は何人かベーシストがいて、ブーチーコリンズが有名だけど、他も素敵な特級ベーシストたちで、これはコーデルモーソン先生らしい。ビリーネルソン先生もいい。ていうかブーチーはメインアーチストとして見ていて、ベーシストとしては他の人の方がいい。
  15. というわけで最後はP-Funk最強のダンスナンバーの一つ、Flash Light。おそらくバーニーウォレル先生がキーボードで弾いてる。この曲はヒットしたのでベーシストは弦を1本増やさねばならなかった、みたいな。(4弦では出ない音域を使ってる)

星野源の「恋」の歌詞はエッチだと思う

なんか忙しくて疲れていて、まともなことはできないので、いつもの歌詞解釈。

最近、学生様たちが図書館に自発的に集まって星野源の「恋」の歌詞を考えようってな企画をしていたので、参加してきたんですわ。学生様が読書会その他、自発的にいろんなことをするっていうのはほんとうにすばらしいことですわねえ。私も邪魔にならない程度にいろいろ応援したい。


んで「恋」ですが、これ数年前にギターで弾き語りの真似しようとして練習したことがあったんですわ。練習しながらニコ生配信したとき、歌詞についてもちょっと考えてみたりしました。

営みの
街が暮れたら色めき
風たちは運ぶわ
カラスと人々の群れ

この先生の歌詞の特徴として、省略が多いんですわね。「営み」は「日々の営み」とか「昼間の営み」とか「営業という営み」とかそういうことなんだろうけど、「営み」一発ですます。「営みの街」って、繁華街なのか、住宅地なのかよくわかんけど、まあその中間ぐらいの、電車やバスが走ってる街ですかね。

「色めき」もなにが色めくのかよくわからん。繁華街ならネオン、住宅地なら住宅や団地とかの窓に明かりが灯る感じですかね。

風はカラスと人の群れをを運ぶ。カラスが鳴くから帰ろう。うちには七つの子がいるかーらーねー。

意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ
ただ腹を空かせて
君の元へ帰るんだ

「意味」っていうと哲学やら倫理学やら勉強していると、「人生の意味」とかそういう大物を考えちゃう。人生の意味なんかないのです。ただ毎日の暮しがあるのです。

キリスト教の聖書に「コヘレトの言葉」っていう章があるんです。むかしは「伝道の書」って呼ばれれたみたい。こんな感じ。

伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。

リンク貼っておくので読んでみてください。これはどうも賢者として有名なソロモン王が作った、ってことになってて、「私はいろいろやりましたが、すべては空しいです」みたいなそういうニヒルな文書だって言われてます。

しかし、この文書は読みようによってはさほどニヒルじゃなく、人生は全体としては空だし、贅沢やあざとい快楽はむしろ害悪をもたらすものなんだけど、毎日の食事みたいなものがもたらしてくれる喜びはよいものだ、って歌われてるんですわ。

「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。」「すべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」「あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。」

人生は空だから意味なんかないけど、毎日おうちに帰って家族とごはんを食べるのはよいことだ、みたいなそういうメッセージがありそうで、星野先生これ知ってるかどうか知らんけど、知ってるんじゃないだろうか。

物心ついたらふと
見上げて想う事が
この世にいる誰も
二人から

これはその学生様の歌詞検討会で指摘させてもらってけど、なにを見上げてるのかが問題ですね。物心ついたってのは子供で、子供が見上げたときに何が見えるか。私は、空や山やビルじゃなくて、親だと思いますね。この世にいる誰(で)も父母の二人から生まれているだな、ってことですね。「ママから生まれた」じゃないところがポイントですね。パパがいないと子供は生まれない。となると、「セックスしたのだ」ということですか。

胸の中にあるもの
いつか見えなくなるもの
それは側にいること
いつも思い出して

胸のなかにあるものはまあいくつか解釈あるだろうけど、曲タイトルの「恋」でいいんですかね。あるいは「愛」か。

君の中にあるもの
距離の中にある鼓動

これも「恋」なりなんなりが指されてるものなんですかね。まあ恋っていうと聞こえがいいんだと思うんですが、私はここは非常に肉体的で肉感的なものを感じるんですが、どうでしょう。距離のなかにある鼓動ってのは、自分じゃない他人の鼓動だろうから、他人にくっついてそれを聞いているか感じているかしているわけです。

恋をしたの貴方の
指の混ざり 頬の香り
夫婦を超えてゆけ

私ここ最初は「恋をしたあなた」って聞いてたんですが、「私が恋をしたのはあなたの〜」なんですかね。「指の混ざり」とかものすごく新鮮な言葉づかいだけど、指をからめてる感じですか。「頬の香り」もふつうはごく近づかないとかげげないですよね。そういうんで非常に星野先生らしいエッチな感じがする。「夫婦を超えてゆけ」の解釈は保留。

みにくいと
秘めた想いは色づき
白鳥は運ぶわ
当たり前を変えながら

「みにくいと秘めた想い」っていうのも解釈が必要だけど、人間の醜い欲望といえばやはり性欲ですか。食欲もそこそこ醜いけど、性欲ほどではないですね。それにあんまり隠す必要がないと思われてるし。「まーおいしそう!」とか平気で言うけど「へへへ、あのXXはいいXXXXだな」とかだと秘めた方がいいだろう。

そういう秘めた思いが「色づく」っていうのも解釈が必要なんだけど、これは「色気づく」の意味ではないだろう。果物とか野菜とかが色づく、実る、成熟するって意味だろう。

さっきはカラスだったんだけど、ここは白鳥。白鳥が運ぶっていうのはわかんけど、似たような白くて大型のコウノトリが運ぶものは当たり前の生活を変えるかもしれない。はっきりいってしまうと、エッチな思いでセックスばっばりしていると妊娠してあわてます、ですか。ここらへん、歌詞で直接に歌わずに連想つかっていてうまいですね。

恋せずにいられないな
似た顔も虚構にも
愛が生まれるのは
一人から

「似た顔」っていうのはまあ親子ですか。「虚構」はむずかしい。結婚制度は虚構です、みたいなそういう話かな。さっきは恋だったけど、愛が生まれるのは一人で、その一人っていうのは、さっきのコウノトリの連想からすると両方に似た顔の誰かでしょうか。

泣き顔も 黙る夜も 揺れる笑顔も
いつまでも いつまでも

まあここは「人生と生活はいろいろあるけどがんばりましょう」ですね。

夫婦を超えてゆけ
二人を超えてゆけ
一人を超えてゆけ

んで、最後のこれが残りますが、夫婦を超えて家族、2人を超えて3人に、ぐらいですか。「1人を超えていけ」は一人でいるのやめて家族になって少子化に対抗しましょう、ぐらいかな。

全体としてこの曲はリスナーの連想を非常にうまくつかってるし、単にエッチなだけじゃなく、生殖とかからんだエッチでものすごくエッチだと思いますね。夫婦というのはそうでないカップルよりずっとエロい。そういうことを歌ってるんではないでしょうか。こういうタイプの曲はあんまり聞いたことがない。プリンス様がマイテさんとラブラブだったころに作ってた曲ぐらいかなあ。

もっとひどい解釈もありそうな気がするけど、まあ今回はこれくらいで。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (11) 個人主義ってなんだろう

んで最終の第8章、「現代日本の恋愛」ですが、ここは私ほとんどわからないです。村上春樹の『1Q84』、土居健郎の『甘えの構造』、「キャラ萌え」、西野カナ、椎名林檎といろんな論者や作品や風俗やらが出てくるのですが、それらがどうむすびついているのか、私のあたまのなかでうまく像を結ばない。とくに「キャラ萌え」のあたりは、それが恋愛とどういうふうに結びついているのかさえわからない。
その原因はわりとはっきりしていて、「個人主義」とか「自我の確立」とかっていう言葉が私にはどういうことだかはっきりしてないからですね。個人主義ってなんだろう?自我の確立とはなんだろう。実はまちがってKindle版も入手してしまったので(あ、逆だ。Kindle版もってたのにまちがって紙版も入手してしまった)ので「個人主義」や「自我」で検索かけてみたりもしたのですが、あんまりはっきりしない。
この「個人主義」とかっていう言葉は、言葉は文学系の人はわりとよく使うのですが、哲学系の人々はさほど使わないし、使うとしてもわりと狭い文脈で使うのでまあ我慢できるんですが、恋愛というとてつもなくでかくて曖昧な言葉と、個人主義という言葉がいっしょにつかわれるともうだめ。
まあ、日常的な意味で「自我の確立」っていうか「はっきりとした自己意識をもつという」ことはわからんでもないのです。たとえば「リンダ、困っちゃうナ!」とか「ジェームズブラウンはそんなのが好きだと思うか?」とか自分の名前を一人称にしたりする人々がいると、「この人たちは自分と他人の区別がついてないのではないか」みたいに不安になったりするわけです。「このひとは自我が確立してないなあ」みたいなの感じたりもする。でも鈴木先生が言いたい「自我の確立」ってその程度の話じゃないですよね。それが具体的にどういうことかっていうのを説明してもらってない気がする。
「個人とは……サングリーによれば、キリスト教的伝統と、中世宮廷恋愛によって生まれた制度です」(p. 317)とかっていうの、これは定義ではないと思う。個人というものは、歴史的に形成されてきました、ならわかるような気もしないでもないけど、我々が個人と呼ぶものが制度なのか(ありそうにない)、「個人」という発想、個人と呼ぶものがあると信じているのが制度なのか(こっちかなあ)もわからない1)藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。。「個人「主義」」になると、個人をどう考えたりするとその主義になるのか、もわからない。
個人主義と対立する発想がなんであるのかもわからんのですよね。「集団主義」かなあ。まあ意地悪せずに、もうすこし素直に読むと、鈴木先生は、日本は同調圧力の強い文化(集団主義的?)で、それはけっきょくキリスト教やヨーロッパ的恋愛をちゃんと理解してないからだ、ってな話になりますが、しかしまあいまどきヨーロッパ人だってキリスト教なんかよくわからんと思うし、そんなすごい恋愛してるわけではないんではないかと思う。まあ個人の欲求や要求を主張する強さや頻度みたいなのにはたしかに文化的な差があるかもしれないけど、それってそんなにキリスト教や恋愛と関係あるんだろうか。キリスト教が個人主義的とかっていうのもなんかおかしくて、隣人愛みたいなのは義務だし、地獄に落ちそうな連中がいたら説教して救ってやるか、あるいは邪教にそまってたら火炙りとかにして救ってやる、っていう発想もありそうだし、「俺は俺、他人は他人だからほうっておこう」みたいなのはあんまりキリスト教的ではない気がする。そこらへんもどうなってるんだろうか。
まあ「個人主義」を好意的にとって、「自分を自分だと意識して、自分で判断して自分で行動するのだ!主義」ぐらいに解釈するとして、その場合、そもそも「日本の文化では同調圧力が強い」みたいなのっていうのはどうでもいい話ではないか。いくら同調圧力が強かろうが好き勝手にやるのが「個人主義」ってのだろうから、同調圧力が強いってのは個人主義者にとってはどうでもいい話で、むしろ同調圧力が強い方が「俺は俺だ!」って思いやすいから同調圧力強い方が個人主義的社会だ、むしろ「同調しろ」とか要求してこない社会は他人に関与しないようにする社会で、それはそこに住んでる人々が人の意見を気にする人々だからだろう、とかっていう詭弁を思いついたけどどうだろう。
19世紀なかばにキェルケゴールなんかは「現代人は自己をもっていない」「自己をもってる人間はごく一握りである」みたいな話してたんだけど、あれから170年ぐらいたってヨーロッパ人はみんな自己をもっているのだろうか。キェルケゴールさんだったら「自己をもつということはそんな簡単なことではなく、キリスト教世界に生まれたから、ヨーロッパに生まれたから自己をもつなどといったものではない、ましてや恋愛文学を読んだり恋愛したりすることによって自己をもつことになるなどということはありえない、そんな奴らは自己をもっていると思いこんでいるだけなのだ」とか言いそうだ、とか考えはじめちゃうと難しくてよくわからない。まあ文化論をするまえに、まずは「自我を確立する」とか「自己をもつ」とかっていうのいったいどういうことであるのかとか、現実世界の話をするなら、どれくらいのひとがそういう発達課題みたいなのを達成しているか考えてみたほうがいいのではないかとか思ったりします。

ていうわけで、いったんおしまい。最終章は私はぜんぜんわからなかったのですが、全体としては話題が豊富な本で、そのままそういうものだと信じてしまうと問題はあるかもしれませんが、こんなふうにいろいろつっこみ入れながら読むと楽しい本だと思います。紹介されている作品も並べて読みたい。とくに、『饗宴』と『恋愛指南』『宮廷風恋愛の技法』あたりは、さほど読みにくくはないし、紹介されているのとはちがった印象になるはずなので、鈴木先生のとあわせてぜひ読んでほしいです。私も『青い花』は入手したし、スタンダールの古典は読み直したい(ぜんぜんおぼえてない)。プルーストも死にそうになったらベッドで読もう。

(ツイッタでの追記)

  • 個人主義っていうのが、他人がどう言おうが自分の信じることをするっていうことなら、同調圧力があろうがなんだろうが好きなことをすればいいので社会の同調圧力があろうがなかろうが、どうでもいい話。 一方、個人主義ってのが他人のことにはかまいません、口出ししませんってことなら、やっぱり他の人々が同調圧力をかけてこようがそれに口出しする必要はない。というわけで他人様たちの同調圧力とやらは個人主義なるものとはなにも関係ない。
  • 個人主義というのが、自分は自由であり、よくも悪くも自分がやることは自分で責任をとるのだ、ってのならこれまたそうすりゃいいだけの話で、社会が同調圧力のつよい社会だろうがなんだろうが自分で好きなことをして自分で責任をとればいい。責任をとるというのがどういうことかはさておいて。日本社会や日本の他人様がなんであろうが関係ないわけで、まあ早い話が、同調圧力がどうのこうの、と言いたくなるひとはあんまり個人主義的ではない、ということを報告しているだけではないか。
  • 漱石先生の『それから』とか、それの森田監督による名作映画とかていうのは十分個人主義的なんちゃうかな。ああいうのに個人主義が描かれていなければ、いったい個人主義とはなんであるのか。主人公はちゃんと勝手にエッチなことをして俗物から非難されているではないか。
  • ありそうなのは、「そうじゃなくて個人主義というのは他人の人格を個人として尊重することなのだ、他人をそれぞれ別個のものと見て、それぞれの意思や自由を尊重することなのだ」というのなら、話はだいたいわかってくるんだけど、この「他人を尊重する」っていう側面があんまり強調されてない。なぜかというと、自分以外を(というか自分自身と恋愛相手以外を)「同調圧力を加えてくる社会」みたいな抽象的な存在としてとらえているからだ。あるいは「日本人」「ヨーロッパ人」とかそういうくくりで見てるから。 これは人々をぜんぜん別個のものとみてなくて、ぜんぜんそういう意味での個人主義的ではない。そうした他人を個人として尊重するという意味での個人主義ならば、あれもこれもだいたいおなじだ、みたいなごくおおざっぱな話はしにくくなるっていうこと。
  • そういうわけで、個人主義のところは許さん。
  • でもまあ漱石先生的な、「われわれの文明開花はうわすべりなんちゃうか」「本当のところをとらえてないんちゃうか」「本当はもっとちがうもんじゃないのか」みたいな神経症的懐疑みたいなはわからんでもないし、まあ西洋哲学や文学をあつかう人々にかけられた呪いみたいに残ってるわけよね。「いやー、漱石先生、そういう懐疑って西洋近代的で、十分合格点っす。あっというまに習得しましたね。えらい!」とか誰か言ってあげる人がいればよかったのに。

References[ + ]

1. 藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (10) スタンダールとプルースト

第7章は、恋愛肯定論者のスタンダールと、恋愛悲観論者のプルースト、そしてフロイト、っていうあたりで、鈴木先生の専門にいちばん近いところで、これも勉強になりました。特にさすがにプルースト(名前は有名だけど実際には誰も読んでないと思う、っていうか私は読んでない、のでみんなこれ読んで勉強しよう!)のところはおもしろい。

でもこれもちょっとわかりにくいところがあって、まずスタンダール先生の有名な『恋愛論』。これは恋愛の分類と、「結晶作用」ってのですごく有名だけど構成とかまったくわけわからん奇書ですよね。それは先生も指摘している。先生はスタンダールの指摘する「結晶作用」、つまり惚れてしまえばあばたもえくぼ、恋は盲目、好きになったらもうなんでもよく見えちゃう、っていう話を、いかにもロマン主義的に恋愛を肯定しているって主張するんですが、私の印象ではスタンダール先生はもうちょっと冷静で、人間の恋愛の心理を冷たく分析しているようで、妄想幻想大好きのロマン主義っていうより、のちの写実主義とか自然主義とか、そういう流れにつながるもののように見えてたんですが、どうなんでしょうか。「好きな人がよく見えるのは、枯れ枝に塩粒がついてキラキラしてるようなもんですぜ」みたいなのってまあ悲観的に見えるけどどうなんだろう。結晶作用と、それがなくなったときの幻滅ってのがまあポイントですよこの本では登場しないみたいだけど、フロベール先生先生とかもなんかこういうタイプの冷静な分析してる印象。おフランス文学全体に、こうした人間の心理からちょっと距離をとった描写と批評みたいなのが得意な印象で、そこが魅力っすよね。

プルースト先生のはおもしろいところを引用していて、277頁のところ孫引きしちゃう。

一人の少女は、浜辺や教会の彫刻に現れた編み毛や一枚の版画など、様々なものと魅惑的に交じり合っているので、そうした少女がやってくるたびに、私たちは彼女を一枚の見事な絵のように愛することになるのだが、このような結びつきは必ずしも安定したものではない。もしも女と完全に生活をともにするようになったら、私たちはもう、彼女を愛させるようになったものを何一つ見出すことがないだろう。

これはかっこいい。女性を芸術作品みたいに見てるんですよね。映画だと(ホモセクシュアルだけど)ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』みたいんで、恋愛なんだか性欲なんだか芸術鑑賞なんだかわからない感じ。

鈴木先生のはプルースト先生のこういうのはスタンダールとは違って、「結晶作用などは個人の勝手な幻想であり、恋人の美点は、恋人その人がもってる属性などではない、と考えます。そうした結晶作用とは、個人が勝手に他のところからもってきた憧れを投影しているだけである」(p.277)、ってんだけど、まあそれはスタンダール先生やフロベール先生ももあんまりかわらんのではないだろうか。プルーストがアンチスタンダール、っていうの一般的な理解なんですかね。

まあでもここらへんのプルースト先生の「恋愛とか全部幻想」みたいな発想が鈴木先生のこの本の最大のテーマであり主張であるわけで、それはそれでわかるというか。でもむしろ私からすると、それって昭和や平成を生きてきた我々にはすごくふつうの考え方で、むしろそうじゃないって考えに魅力をもってる鈴木先生はものすごいロマン主義者なんだな、みたいに思ってしまう。

んで、さっきのプルーストの引用を見て気づいたんですが、プルーストのこの芸術作品を見るような恋愛ってのは、これ本当に我々が考えてる「恋愛」なんだろか。だって、サッポーやプラトンやアリストテレスの昔から、「愛する」ということは「愛されたい」という願望と切り離せないわけですわ。そういう相互性がないのは、アリストテレス先生に言わせればフィリア(友愛)でさえなく、単なる「好意」にすぎない。鈴木先生が引用しているプルーストの恋愛からは、例の「合一」への欲求さえ失なわれてる。プルースト先生がかなりかわった人だったろうっていうのはわかるんですが、そういうのを恋愛観の典型としてもってきて大丈夫なんかな。

そして、この「愛されたい」っていう欲求があんまり強調されてないことからもう一つ気づいたことがあり、この本で論じられている文学者たちはみな男性で、そしてみな「愛する」「口説く」ことばっかり話をしていて、(女性たちに特徴的だと言われるかもしれない)「愛されたい」「大事にされたい」みたいな切実な欲求が見えないんですよね。ここらへんどうなんだろうか。まあ男性と女性がどっちがどう、というのではなく、恋愛や性欲というもののが目指す相互性と合一みたいなのがプルーストの引用からは見えないけど、それでいいんですか、という話。

この章のプルースト論の最後の方で、「恋愛感情の裏にはキリスト教的な救済の世界があり、聖母マリアの愛にすがる甘えた態度があり、それは究極的には子どもの母に対する甘えた感情だ」っていう一節があるんですが(p.289)、まあそれが当ってるかどうかは別にして、これってなんかものすごくロマン主義的な男性的なもので、女性はまた別なこと考えるんじゃないだろうか、鈴木先生のゼミの女子学生様たちはこういうの見てどういうことを考えてるだろう、とか考えちゃう。私がこういうことしゃべってたら、私の学生様たちは「この人はおかしいのではないか」とか考えてそう。まあそれは私のしゃべりと人格がおかしいからなので、かっこいい先生がやれば別かもしれない。ははは。

フロイト先生は面倒だからパス。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (9) 厨川白村先生の恋愛論輸入

第6章は、問題の日本のヨーロッパ恋愛輸入なんですが、ここはとてもよいと思いますね。だいたいこの「恋愛の輸入」の話をするときは北村透谷先生とか使ってなんかインチキな話をするのが最近の風潮なんですが、私は透谷先生とかそんな優れた作品を残してるとは思えないし(実は誰も読んでないっしょ? そもそも早死にしたから作品少ないし)、さほど影響力があったとも思えない。影響力があったように見えるのは鈴木先生がメインにとりあげてる厨川白村先生で、この先生の『近代の恋愛論』は私も部分的に読んだんですが、今でも通用するようなおもしろさと説得力で、ベストセラーになったのという話もうなづける。記述もわかりやすい。実際けっこう読まれたと思います。昭和あたりまでの文科省的恋愛論の基本という感じがある。皆も一回読んでみるといいです。この先生を中心に輸入を論じようという鈴木先生のやりかたは成功している。

白村先生の抜粋も多くて、お説教くさくて笑えるのでぜひ読んでください。

ただ歴史的にはちょっと問題があって、この本出たのは大正11年、1922年で、もう文明開花して相当時間が経過していて、明治に恋愛が「輸入」されたとしても、それが相当定着してからの話ですよね、っていうのが一点。それに、この白村先生の恋愛論って、ほんとに恋愛「論」、恋愛の理想論にすぎなくて、ヨーロッパの恋愛を輸入したというより、ヨーロッパの正しい人びとがいってる正しい恋愛観を輸入しているだけだっていうのがもう一点。

だって1922年ですよ? ヨーロッパは世紀末とかでみんないろいろ悪いことをして、まあ第一次世界大戦とかもあって、ヨーロッパの風俗みたいなの乱れまくってる時代じゃないですか。っていうか、19世紀後半のヴィクトリア朝時代だってみんないろいろ悪いことしてたわけで。白村先生はそうした西欧の実情みたいなのほとんど知らなかったんではないかという気がするけどどうだろう。アメリカ留学の経験はあるんですね。アメリカじゃなあ。どこ行ったんだろうか。足悪かったから、あちこち遊びに行ってみるっていうのは無理だったかもしれませんね。せっかくのチャンスだったのに気の毒。

っていうか、ここが問題で、鈴木先生は「ヨーロッパの恋愛」を白村先生が輸入したというんですが、その輸入したのはなんか英語圏プロテスタント系統のわりと禁欲的な恋愛結婚理想論みたいなやつではないかという感じで、それと性欲都市であるパリとかウィーンとかののぐしゃぐしゃどろどろの恋愛やセックスとはあいいれないんちゃうかと思うわけです。もし白村先生が恋愛を輸入したとしても、それってヨーロッパ恋愛文学にあるような恋愛じゃなくて、英語圏のお説教臭いやつなんじゃないの?という疑問があるわけです。私は恋愛文学作品やエロ文学やその作成のコツ(「恋愛の美学」と呼びたい)を輸入することと、恋愛についての道徳的な理念(「恋愛の道徳」と呼びたい)を輸入することはずいぶん違うことのように思う。白村先生が輸入したのは、恋愛でも恋愛論でもなく、恋愛とセックスについてのお説教だ!とか言いたくなる。こういう区別に、鈴木先生が同意してくれるかどうか。

とにかく、ロマン主義的恋愛至上主義どろどろ文学みたいなのと、白村先生が輸入した恋愛至上主義的恋愛清潔道徳主義みたいなのとの間には相当のギャップがあって、そこはなんとかしてつながないとならないと思う。それが前の章での説明が不足していると思われた、ロマン主義恋愛観の毒はいかにして抜かれたか、って話だろうと思います。

鈴木先生の言う「個人主義」とか「個人」についても議論したいんだけど、これもたいへんだから先に。


追記。厨川白村先生をちょっとググったら、こういう文書を見つけました。白村先生の口癖は「オスカア・ワイルドなんて気障な奴ですよ。ここに居合わせば殴りつけてやるんだが」。これはおもしろい。ワイルドは狭義のロマン主義運動とは100年近く離れてますが、ロマン主義的なダンディズムの末裔であると見ることもできて、そういう気障が嫌いな白村先生は、文学とかほんとうにはわかってない人だったのではないか(私は白村先生についてはぜんぜん知りません)。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (8) ロマン主義的恋愛とロマンティックラブ

  • んで、第5章「ロマンティックラブとは」は本書の核になる部分なんですが、ここが読みにくいんですよね。いろいろ難しくて、私は混乱してしまいます。1〜4章の古代ギリシア、古代ローマ、キリスト教、宮廷風恋愛のあたりは、自分でも授業でやったりブログ書いたりしているからだいたい見当つくんだけど、もろに文学の話はうとくて。鈴木先生はとうぜんここらへん専門だから、おとなしくお話をおうかがいするしかない、というのはある。でもどう混乱するかぐらいは書いといてもいいだろうか。

あ、その前に、鈴木先生が本書の解説ブログを開設してくれてるので読んでください。非常に興味深いというかおもしろい。

  • 鈴木先生は「「ロマンティックラブ」は欧米文化の産物で、100パーセントの輸入品です」(p.180)と言い、さらに「ロマンチックラブを概念的にちゃんと把握している人は少ない」っていうけど、そもそもそれは概念的にはっきりしたもんなんかいな、とか思ってしまいますわね。というより、そもそもここまで先生は「ロマンティックラブ」をはっきりどういうものか説明してくれてないと思う。
  • んで、鈴木先生は「ロマンティックラブ」を「(19世紀的)ロマン主義的恋愛」って理解したいみたいなんだけど、大丈夫かいね。おそらく多くの人はそうは思ってないと思う。
  • 鈴木先生の説は、現在我々が信奉しているロマンティックラブイデオロギーと呼ばれるやつは、18世紀末〜19世紀にヨーロッパ全土で流行したロマン主義文学(芸術)運動によって広められたものだ、っていうものだと思う。(そしてあとで、それが明治期に日本に輸入されたのだ、という話になる。)そしてロマン主義は恋愛至上主義であり、愛と個人を「絶対領域」とし、恋愛を崇高と無限・永遠・神秘のものとみなし、世紀病(メランコリー、ある種「うつ」)とともにある、ということらしいです。なかなか難しい。
  • そもそも「ロマンティックラブイデオロギー」、そしてそもそも「ロマンティックラブ」ってなんだろう。何回読んでもどうもはっきりしないんですが、鈴木先生は「ロマンティックラブ」を「ロマン主義文学運動において成立したラブの理想」であり、「ロマンティックラブイデオロギー」とはそうしたロマン主義的ラブが理想であるとするイデオロギー(観念、規範の体系)だって解釈してるみたいなんだけど、それで大丈夫だろうか。
  • もちろん言葉の意味やそれが指し示すものというのは、それを使う人によっていろいろあって、鈴木先生がそういう意味で使うというのならそれでしょうがないのですが、少なくとも社会学の学者先生たちが「ロマンティックラブ」や「ロマンティックラブイデオロギー」という言葉をつかうときには、あんまり鈴木先生のようには使ってないと思う1)論拠は面倒だけど、ギデンズ先生の『親密性の変容』あたり。。彼らが言うロマンティックラブというのは、だいたい「感情的なつながりと親密さをともなった一対一の性的関係」ぐらいにとらえていて、「ロマンティックラブイデオロギー」は「恋愛と結婚と生殖が同じカップルでおこなわれるべきである」という理想、ぐらいにとらえているはず。細かい議論はいずれやるとにして、飛ばします。
  • ロマン主義文学ってので登場する作家は、ルソー、ゲーテ、シラー、ノヴァーリス、シャトーブリアン、ラマルルチーヌ、ユーゴー、ガリバルディ、ってあたり。鈴木先生お気にいりは『レミゼラブル』や『青い花』あたりっぽい。
  • 「ロマン主義は恋愛至上主義である」(p.195)みたいなのもどうなんかな。まあ人生における恋愛の価値がずいぶん高く評価されるようになった、っていうのはあるかもしれんねえ。でもお話の上での話。オースティンの『高慢と偏見』みたいなの、あれロマン主義じゃない気がするし、ロマン主義的な意味ではロマンチックではない気もするけど、それでも我々の恋愛観・恋愛物語の雛形みたいなもんではあるわよねえ。
  • 「ロマン主義の恋愛は、基本的には精神的な恋愛ですが、同時に肉欲、性欲が爆発して、恋人は破滅することが多い」(p.199) とか。破滅するのはいいんですが、あれって精神的な恋愛かなあ。ていうか、なんか内的に矛盾してますよね。そしてここで例に出てくるのが『ロメオとジュリエット』なのでものすごく混乱する。時代がちがいます。例は狭義のロマン主義からとってきてほしい。
  • しかし、ここのところのロマン主義文学の紹介は楽しいので、みんなこの本読んで予備知識を入れて、実際に作品読んでみるといいと思う。私も読みます。人生短いから読みのこした古典文学楽しんでおきたい気がする。

  • この章で私が一番問題だと思うのはこうです。鈴木先生にかなり譲歩して、我々のロマンチックな恋愛観(イメージ)がヨーロッパ19世紀のロマン主義文学運動に「起源」がある、というのを認めるとしましょう。しかし、それがなぜ、結婚と結びついた形のぬるいロマンティックラブイデオロギーに変化したのか、というのを説明しそこねていると思うんですわ。

  • 先生は「ロマンチックラブは毒を抜かれてブルジョワ社会にとりこまれた」(p.228)って言うんですが、私はここを知りたい。なによりロマン主義的恋愛小説そのものがブルジョワ社会の生産物であり、そのブルジョワ社会の秩序を破壊するような毒を最初から含んでいるものなのに、なぜそれの毒を抜いて、文科省御用達みたいな世俗的な恋愛と結婚の理想になったのか、その毒はどうやって抜いたのか、それを説明してくれないと私としては不満なわけです。でもまあ一般読者向けの新書だからそこまで求めるのは求めすぎかという気もします。

ちょっと厳しくなってるけど、こんな感じか。この章はとても内容豊富でおもしろくて、いろいろ考えさせらえるので、何回か読みなおしつつコメントしていきたいですね。みんなも読んでみてください。「ロマンティックラブ」についてもあとで別のエントリー書くことになると思う。

References[ + ]

1. 論拠は面倒だけど、ギデンズ先生の『親密性の変容』あたり。