星野源の「恋」の歌詞はエッチだと思う

なんか忙しくて疲れていて、まともなことはできないので、いつもの歌詞解釈。

最近、学生様たちが図書館に自発的に集まって星野源の「恋」の歌詞を考えようってな企画をしていたので、参加してきたんですわ。学生様が読書会その他、自発的にいろんなことをするっていうのはほんとうにすばらしいことですわねえ。私も邪魔にならない程度にいろいろ応援したい。


んで「恋」ですが、これ数年前にギターで弾き語りの真似しようとして練習したことがあったんですわ。練習しながらニコ生配信したとき、歌詞についてもちょっと考えてみたりしました。

営みの
街が暮れたら色めき
風たちは運ぶわ
カラスと人々の群れ

この先生の歌詞の特徴として、省略が多いんですわね。「営み」は「日々の営み」とか「昼間の営み」とか「営業という営み」とかそういうことなんだろうけど、「営み」一発ですます。「営みの街」って、繁華街なのか、住宅地なのかよくわかんけど、まあその中間ぐらいの、電車やバスが走ってる街ですかね。

「色めき」もなにが色めくのかよくわからん。繁華街ならネオン、住宅地なら住宅や団地とかの窓に明かりが灯る感じですかね。

風はカラスと人の群れをを運ぶ。カラスが鳴くから帰ろう。うちには七つの子がいるかーらーねー。

意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ
ただ腹を空かせて
君の元へ帰るんだ

「意味」っていうと哲学やら倫理学やら勉強していると、「人生の意味」とかそういう大物を考えちゃう。人生の意味なんかないのです。ただ毎日の暮しがあるのです。

キリスト教の聖書に「コヘレトの言葉」っていう章があるんです。むかしは「伝道の書」って呼ばれれたみたい。こんな感じ。

伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。

リンク貼っておくので読んでみてください。これはどうも賢者として有名なソロモン王が作った、ってことになってて、「私はいろいろやりましたが、すべては空しいです」みたいなそういうニヒルな文書だって言われてます。

しかし、この文書は読みようによってはさほどニヒルじゃなく、人生は全体としては空だし、贅沢やあざとい快楽はむしろ害悪をもたらすものなんだけど、毎日の食事みたいなものがもたらしてくれる喜びはよいものだ、って歌われてるんですわ。

「人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。」「すべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」「あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。」

人生は空だから意味なんかないけど、毎日おうちに帰って家族とごはんを食べるのはよいことだ、みたいなそういうメッセージがありそうで、星野先生これ知ってるかどうか知らんけど、知ってるんじゃないだろうか。

物心ついたらふと
見上げて想う事が
この世にいる誰も
二人から

これはその学生様の歌詞検討会で指摘させてもらってけど、なにを見上げてるのかが問題ですね。物心ついたってのは子供で、子供が見上げたときに何が見えるか。私は、空や山やビルじゃなくて、親だと思いますね。この世にいる誰(で)も父母の二人から生まれているだな、ってことですね。「ママから生まれた」じゃないところがポイントですね。パパがいないと子供は生まれない。となると、「セックスしたのだ」ということですか。

胸の中にあるもの
いつか見えなくなるもの
それは側にいること
いつも思い出して

胸のなかにあるものはまあいくつか解釈あるだろうけど、曲タイトルの「恋」でいいんですかね。あるいは「愛」か。

君の中にあるもの
距離の中にある鼓動

これも「恋」なりなんなりが指されてるものなんですかね。まあ恋っていうと聞こえがいいんだと思うんですが、私はここは非常に肉体的で肉感的なものを感じるんですが、どうでしょう。距離のなかにある鼓動ってのは、自分じゃない他人の鼓動だろうから、他人にくっついてそれを聞いているか感じているかしているわけです。

恋をしたの貴方の
指の混ざり 頬の香り
夫婦を超えてゆけ

私ここ最初は「恋をしたあなた」って聞いてたんですが、「私が恋をしたのはあなたの〜」なんですかね。「指の混ざり」とかものすごく新鮮な言葉づかいだけど、指をからめてる感じですか。「頬の香り」もふつうはごく近づかないとかげげないですよね。そういうんで非常に星野先生らしいエッチな感じがする。「夫婦を超えてゆけ」の解釈は保留。

みにくいと
秘めた想いは色づき
白鳥は運ぶわ
当たり前を変えながら

「みにくいと秘めた想い」っていうのも解釈が必要だけど、人間の醜い欲望といえばやはり性欲ですか。食欲もそこそこ醜いけど、性欲ほどではないですね。それにあんまり隠す必要がないと思われてるし。「まーおいしそう!」とか平気で言うけど「へへへ、あのXXはいいXXXXだな」とかだと秘めた方がいいだろう。

そういう秘めた思いが「色づく」っていうのも解釈が必要なんだけど、これは「色気づく」の意味ではないだろう。果物とか野菜とかが色づく、実る、成熟するって意味だろう。

さっきはカラスだったんだけど、ここは白鳥。白鳥が運ぶっていうのはわかんけど、似たような白くて大型のコウノトリが運ぶものは当たり前の生活を変えるかもしれない。はっきりいってしまうと、エッチな思いでセックスばっばりしていると妊娠してあわてます、ですか。ここらへん、歌詞で直接に歌わずに連想つかっていてうまいですね。

恋せずにいられないな
似た顔も虚構にも
愛が生まれるのは
一人から

「似た顔」っていうのはまあ親子ですか。「虚構」はむずかしい。結婚制度は虚構です、みたいなそういう話かな。さっきは恋だったけど、愛が生まれるのは一人で、その一人っていうのは、さっきのコウノトリの連想からすると両方に似た顔の誰かでしょうか。

泣き顔も 黙る夜も 揺れる笑顔も
いつまでも いつまでも

まあここは「人生と生活はいろいろあるけどがんばりましょう」ですね。

夫婦を超えてゆけ
二人を超えてゆけ
一人を超えてゆけ

んで、最後のこれが残りますが、夫婦を超えて家族、2人を超えて3人に、ぐらいですか。「1人を超えていけ」は一人でいるのやめて家族になって少子化に対抗しましょう、ぐらいかな。

全体としてこの曲はリスナーの連想を非常にうまくつかってるし、単にエッチなだけじゃなく、生殖とかからんだエッチでものすごくエッチだと思いますね。夫婦というのはそうでないカップルよりずっとエロい。そういうことを歌ってるんではないでしょうか。こういうタイプの曲はあんまり聞いたことがない。プリンス様がマイテさんとラブラブだったころに作ってた曲ぐらいかなあ。

もっとひどい解釈もありそうな気がするけど、まあ今回はこれくらいで。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (11) 個人主義ってなんだろう

んで最終の第8章、「現代日本の恋愛」ですが、ここは私ほとんどわからないです。村上春樹の『1Q84』、土居健郎の『甘えの構造』、「キャラ萌え」、西野カナ、椎名林檎といろんな論者や作品や風俗やらが出てくるのですが、それらがどうむすびついているのか、私のあたまのなかでうまく像を結ばない。とくに「キャラ萌え」のあたりは、それが恋愛とどういうふうに結びついているのかさえわからない。
その原因はわりとはっきりしていて、「個人主義」とか「自我の確立」とかっていう言葉が私にはどういうことだかはっきりしてないからですね。個人主義ってなんだろう?自我の確立とはなんだろう。実はまちがってKindle版も入手してしまったので(あ、逆だ。Kindle版もってたのにまちがって紙版も入手してしまった)ので「個人主義」や「自我」で検索かけてみたりもしたのですが、あんまりはっきりしない。
この「個人主義」とかっていう言葉は、言葉は文学系の人はわりとよく使うのですが、哲学系の人々はさほど使わないし、使うとしてもわりと狭い文脈で使うのでまあ我慢できるんですが、恋愛というとてつもなくでかくて曖昧な言葉と、個人主義という言葉がいっしょにつかわれるともうだめ。
まあ、日常的な意味で「自我の確立」っていうか「はっきりとした自己意識をもつという」ことはわからんでもないのです。たとえば「リンダ、困っちゃうナ!」とか「ジェームズブラウンはそんなのが好きだと思うか?」とか自分の名前を一人称にしたりする人々がいると、「この人たちは自分と他人の区別がついてないのではないか」みたいに不安になったりするわけです。「このひとは自我が確立してないなあ」みたいなの感じたりもする。でも鈴木先生が言いたい「自我の確立」ってその程度の話じゃないですよね。それが具体的にどういうことかっていうのを説明してもらってない気がする。
「個人とは……サングリーによれば、キリスト教的伝統と、中世宮廷恋愛によって生まれた制度です」(p. 317)とかっていうの、これは定義ではないと思う。個人というものは、歴史的に形成されてきました、ならわかるような気もしないでもないけど、我々が個人と呼ぶものが制度なのか(ありそうにない)、「個人」という発想、個人と呼ぶものがあると信じているのが制度なのか(こっちかなあ)もわからない1)藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。。「個人「主義」」になると、個人をどう考えたりするとその主義になるのか、もわからない。
個人主義と対立する発想がなんであるのかもわからんのですよね。「集団主義」かなあ。まあ意地悪せずに、もうすこし素直に読むと、鈴木先生は、日本は同調圧力の強い文化(集団主義的?)で、それはけっきょくキリスト教やヨーロッパ的恋愛をちゃんと理解してないからだ、ってな話になりますが、しかしまあいまどきヨーロッパ人だってキリスト教なんかよくわからんと思うし、そんなすごい恋愛してるわけではないんではないかと思う。まあ個人の欲求や要求を主張する強さや頻度みたいなのにはたしかに文化的な差があるかもしれないけど、それってそんなにキリスト教や恋愛と関係あるんだろうか。キリスト教が個人主義的とかっていうのもなんかおかしくて、隣人愛みたいなのは義務だし、地獄に落ちそうな連中がいたら説教して救ってやるか、あるいは邪教にそまってたら火炙りとかにして救ってやる、っていう発想もありそうだし、「俺は俺、他人は他人だからほうっておこう」みたいなのはあんまりキリスト教的ではない気がする。そこらへんもどうなってるんだろうか。
まあ「個人主義」を好意的にとって、「自分を自分だと意識して、自分で判断して自分で行動するのだ!主義」ぐらいに解釈するとして、その場合、そもそも「日本の文化では同調圧力が強い」みたいなのっていうのはどうでもいい話ではないか。いくら同調圧力が強かろうが好き勝手にやるのが「個人主義」ってのだろうから、同調圧力が強いってのは個人主義者にとってはどうでもいい話で、むしろ同調圧力が強い方が「俺は俺だ!」って思いやすいから同調圧力強い方が個人主義的社会だ、むしろ「同調しろ」とか要求してこない社会は他人に関与しないようにする社会で、それはそこに住んでる人々が人の意見を気にする人々だからだろう、とかっていう詭弁を思いついたけどどうだろう。
19世紀なかばにキェルケゴールなんかは「現代人は自己をもっていない」「自己をもってる人間はごく一握りである」みたいな話してたんだけど、あれから170年ぐらいたってヨーロッパ人はみんな自己をもっているのだろうか。キェルケゴールさんだったら「自己をもつということはそんな簡単なことではなく、キリスト教世界に生まれたから、ヨーロッパに生まれたから自己をもつなどといったものではない、ましてや恋愛文学を読んだり恋愛したりすることによって自己をもつことになるなどということはありえない、そんな奴らは自己をもっていると思いこんでいるだけなのだ」とか言いそうだ、とか考えはじめちゃうと難しくてよくわからない。まあ文化論をするまえに、まずは「自我を確立する」とか「自己をもつ」とかっていうのいったいどういうことであるのかとか、現実世界の話をするなら、どれくらいのひとがそういう発達課題みたいなのを達成しているか考えてみたほうがいいのではないかとか思ったりします。

ていうわけで、いったんおしまい。最終章は私はぜんぜんわからなかったのですが、全体としては話題が豊富な本で、そのままそういうものだと信じてしまうと問題はあるかもしれませんが、こんなふうにいろいろつっこみ入れながら読むと楽しい本だと思います。紹介されている作品も並べて読みたい。とくに、『饗宴』と『恋愛指南』『宮廷風恋愛の技法』あたりは、さほど読みにくくはないし、紹介されているのとはちがった印象になるはずなので、鈴木先生のとあわせてぜひ読んでほしいです。私も『青い花』は入手したし、スタンダールの古典は読み直したい(ぜんぜんおぼえてない)。プルーストも死にそうになったらベッドで読もう。

(ツイッタでの追記)

  • 個人主義っていうのが、他人がどう言おうが自分の信じることをするっていうことなら、同調圧力があろうがなんだろうが好きなことをすればいいので社会の同調圧力があろうがなかろうが、どうでもいい話。 一方、個人主義ってのが他人のことにはかまいません、口出ししませんってことなら、やっぱり他の人々が同調圧力をかけてこようがそれに口出しする必要はない。というわけで他人様たちの同調圧力とやらは個人主義なるものとはなにも関係ない。
  • 個人主義というのが、自分は自由であり、よくも悪くも自分がやることは自分で責任をとるのだ、ってのならこれまたそうすりゃいいだけの話で、社会が同調圧力のつよい社会だろうがなんだろうが自分で好きなことをして自分で責任をとればいい。責任をとるというのがどういうことかはさておいて。日本社会や日本の他人様がなんであろうが関係ないわけで、まあ早い話が、同調圧力がどうのこうの、と言いたくなるひとはあんまり個人主義的ではない、ということを報告しているだけではないか。
  • 漱石先生の『それから』とか、それの森田監督による名作映画とかていうのは十分個人主義的なんちゃうかな。ああいうのに個人主義が描かれていなければ、いったい個人主義とはなんであるのか。主人公はちゃんと勝手にエッチなことをして俗物から非難されているではないか。
  • ありそうなのは、「そうじゃなくて個人主義というのは他人の人格を個人として尊重することなのだ、他人をそれぞれ別個のものと見て、それぞれの意思や自由を尊重することなのだ」というのなら、話はだいたいわかってくるんだけど、この「他人を尊重する」っていう側面があんまり強調されてない。なぜかというと、自分以外を(というか自分自身と恋愛相手以外を)「同調圧力を加えてくる社会」みたいな抽象的な存在としてとらえているからだ。あるいは「日本人」「ヨーロッパ人」とかそういうくくりで見てるから。 これは人々をぜんぜん別個のものとみてなくて、ぜんぜんそういう意味での個人主義的ではない。そうした他人を個人として尊重するという意味での個人主義ならば、あれもこれもだいたいおなじだ、みたいなごくおおざっぱな話はしにくくなるっていうこと。
  • そういうわけで、個人主義のところは許さん。
  • でもまあ漱石先生的な、「われわれの文明開花はうわすべりなんちゃうか」「本当のところをとらえてないんちゃうか」「本当はもっとちがうもんじゃないのか」みたいな神経症的懐疑みたいなはわからんでもないし、まあ西洋哲学や文学をあつかう人々にかけられた呪いみたいに残ってるわけよね。「いやー、漱石先生、そういう懐疑って西洋近代的で、十分合格点っす。あっというまに習得しましたね。えらい!」とか誰か言ってあげる人がいればよかったのに。

References[ + ]

1. 藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (10) スタンダールとプルースト

第7章は、恋愛肯定論者のスタンダールと、恋愛悲観論者のプルースト、そしてフロイト、っていうあたりで、鈴木先生の専門にいちばん近いところで、これも勉強になりました。特にさすがにプルースト(名前は有名だけど実際には誰も読んでないと思う、っていうか私は読んでない、のでみんなこれ読んで勉強しよう!)のところはおもしろい。

でもこれもちょっとわかりにくいところがあって、まずスタンダール先生の有名な『恋愛論』。これは恋愛の分類と、「結晶作用」ってのですごく有名だけど構成とかまったくわけわからん奇書ですよね。それは先生も指摘している。先生はスタンダールの指摘する「結晶作用」、つまり惚れてしまえばあばたもえくぼ、恋は盲目、好きになったらもうなんでもよく見えちゃう、っていう話を、いかにもロマン主義的に恋愛を肯定しているって主張するんですが、私の印象ではスタンダール先生はもうちょっと冷静で、人間の恋愛の心理を冷たく分析しているようで、妄想幻想大好きのロマン主義っていうより、のちの写実主義とか自然主義とか、そういう流れにつながるもののように見えてたんですが、どうなんでしょうか。「好きな人がよく見えるのは、枯れ枝に塩粒がついてキラキラしてるようなもんですぜ」みたいなのってまあ悲観的に見えるけどどうなんだろう。結晶作用と、それがなくなったときの幻滅ってのがまあポイントですよこの本では登場しないみたいだけど、フロベール先生先生とかもなんかこういうタイプの冷静な分析してる印象。おフランス文学全体に、こうした人間の心理からちょっと距離をとった描写と批評みたいなのが得意な印象で、そこが魅力っすよね。

プルースト先生のはおもしろいところを引用していて、277頁のところ孫引きしちゃう。

一人の少女は、浜辺や教会の彫刻に現れた編み毛や一枚の版画など、様々なものと魅惑的に交じり合っているので、そうした少女がやってくるたびに、私たちは彼女を一枚の見事な絵のように愛することになるのだが、このような結びつきは必ずしも安定したものではない。もしも女と完全に生活をともにするようになったら、私たちはもう、彼女を愛させるようになったものを何一つ見出すことがないだろう。

これはかっこいい。女性を芸術作品みたいに見てるんですよね。映画だと(ホモセクシュアルだけど)ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』みたいんで、恋愛なんだか性欲なんだか芸術鑑賞なんだかわからない感じ。

鈴木先生のはプルースト先生のこういうのはスタンダールとは違って、「結晶作用などは個人の勝手な幻想であり、恋人の美点は、恋人その人がもってる属性などではない、と考えます。そうした結晶作用とは、個人が勝手に他のところからもってきた憧れを投影しているだけである」(p.277)、ってんだけど、まあそれはスタンダール先生やフロベール先生ももあんまりかわらんのではないだろうか。プルーストがアンチスタンダール、っていうの一般的な理解なんですかね。

まあでもここらへんのプルースト先生の「恋愛とか全部幻想」みたいな発想が鈴木先生のこの本の最大のテーマであり主張であるわけで、それはそれでわかるというか。でもむしろ私からすると、それって昭和や平成を生きてきた我々にはすごくふつうの考え方で、むしろそうじゃないって考えに魅力をもってる鈴木先生はものすごいロマン主義者なんだな、みたいに思ってしまう。

んで、さっきのプルーストの引用を見て気づいたんですが、プルーストのこの芸術作品を見るような恋愛ってのは、これ本当に我々が考えてる「恋愛」なんだろか。だって、サッポーやプラトンやアリストテレスの昔から、「愛する」ということは「愛されたい」という願望と切り離せないわけですわ。そういう相互性がないのは、アリストテレス先生に言わせればフィリア(友愛)でさえなく、単なる「好意」にすぎない。鈴木先生が引用しているプルーストの恋愛からは、例の「合一」への欲求さえ失なわれてる。プルースト先生がかなりかわった人だったろうっていうのはわかるんですが、そういうのを恋愛観の典型としてもってきて大丈夫なんかな。

そして、この「愛されたい」っていう欲求があんまり強調されてないことからもう一つ気づいたことがあり、この本で論じられている文学者たちはみな男性で、そしてみな「愛する」「口説く」ことばっかり話をしていて、(女性たちに特徴的だと言われるかもしれない)「愛されたい」「大事にされたい」みたいな切実な欲求が見えないんですよね。ここらへんどうなんだろうか。まあ男性と女性がどっちがどう、というのではなく、恋愛や性欲というもののが目指す相互性と合一みたいなのがプルーストの引用からは見えないけど、それでいいんですか、という話。

この章のプルースト論の最後の方で、「恋愛感情の裏にはキリスト教的な救済の世界があり、聖母マリアの愛にすがる甘えた態度があり、それは究極的には子どもの母に対する甘えた感情だ」っていう一節があるんですが(p.289)、まあそれが当ってるかどうかは別にして、これってなんかものすごくロマン主義的な男性的なもので、女性はまた別なこと考えるんじゃないだろうか、鈴木先生のゼミの女子学生様たちはこういうの見てどういうことを考えてるだろう、とか考えちゃう。私がこういうことしゃべってたら、私の学生様たちは「この人はおかしいのではないか」とか考えてそう。まあそれは私のしゃべりと人格がおかしいからなので、かっこいい先生がやれば別かもしれない。ははは。

フロイト先生は面倒だからパス。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (9) 厨川白村先生の恋愛論輸入

第6章は、問題の日本のヨーロッパ恋愛輸入なんですが、ここはとてもよいと思いますね。だいたいこの「恋愛の輸入」の話をするときは北村透谷先生とか使ってなんかインチキな話をするのが最近の風潮なんですが、私は透谷先生とかそんな優れた作品を残してるとは思えないし(実は誰も読んでないっしょ? そもそも早死にしたから作品少ないし)、さほど影響力があったとも思えない。影響力があったように見えるのは鈴木先生がメインにとりあげてる厨川白村先生で、この先生の『近代の恋愛論』は私も部分的に読んだんですが、今でも通用するようなおもしろさと説得力で、ベストセラーになったのという話もうなづける。記述もわかりやすい。実際けっこう読まれたと思います。昭和あたりまでの文科省的恋愛論の基本という感じがある。皆も一回読んでみるといいです。この先生を中心に輸入を論じようという鈴木先生のやりかたは成功している。

白村先生の抜粋も多くて、お説教くさくて笑えるのでぜひ読んでください。

ただ歴史的にはちょっと問題があって、この本出たのは大正11年、1922年で、もう文明開花して相当時間が経過していて、明治に恋愛が「輸入」されたとしても、それが相当定着してからの話ですよね、っていうのが一点。それに、この白村先生の恋愛論って、ほんとに恋愛「論」、恋愛の理想論にすぎなくて、ヨーロッパの恋愛を輸入したというより、ヨーロッパの正しい人びとがいってる正しい恋愛観を輸入しているだけだっていうのがもう一点。

だって1922年ですよ? ヨーロッパは世紀末とかでみんないろいろ悪いことをして、まあ第一次世界大戦とかもあって、ヨーロッパの風俗みたいなの乱れまくってる時代じゃないですか。っていうか、19世紀後半のヴィクトリア朝時代だってみんないろいろ悪いことしてたわけで。白村先生はそうした西欧の実情みたいなのほとんど知らなかったんではないかという気がするけどどうだろう。アメリカ留学の経験はあるんですね。アメリカじゃなあ。どこ行ったんだろうか。足悪かったから、あちこち遊びに行ってみるっていうのは無理だったかもしれませんね。せっかくのチャンスだったのに気の毒。

っていうか、ここが問題で、鈴木先生は「ヨーロッパの恋愛」を白村先生が輸入したというんですが、その輸入したのはなんか英語圏プロテスタント系統のわりと禁欲的な恋愛結婚理想論みたいなやつではないかという感じで、それと性欲都市であるパリとかウィーンとかののぐしゃぐしゃどろどろの恋愛やセックスとはあいいれないんちゃうかと思うわけです。もし白村先生が恋愛を輸入したとしても、それってヨーロッパ恋愛文学にあるような恋愛じゃなくて、英語圏のお説教臭いやつなんじゃないの?という疑問があるわけです。私は恋愛文学作品やエロ文学やその作成のコツ(「恋愛の美学」と呼びたい)を輸入することと、恋愛についての道徳的な理念(「恋愛の道徳」と呼びたい)を輸入することはずいぶん違うことのように思う。白村先生が輸入したのは、恋愛でも恋愛論でもなく、恋愛とセックスについてのお説教だ!とか言いたくなる。こういう区別に、鈴木先生が同意してくれるかどうか。

とにかく、ロマン主義的恋愛至上主義どろどろ文学みたいなのと、白村先生が輸入した恋愛至上主義的恋愛清潔道徳主義みたいなのとの間には相当のギャップがあって、そこはなんとかしてつながないとならないと思う。それが前の章での説明が不足していると思われた、ロマン主義恋愛観の毒はいかにして抜かれたか、って話だろうと思います。

鈴木先生の言う「個人主義」とか「個人」についても議論したいんだけど、これもたいへんだから先に。


追記。厨川白村先生をちょっとググったら、こういう文書を見つけました。白村先生の口癖は「オスカア・ワイルドなんて気障な奴ですよ。ここに居合わせば殴りつけてやるんだが」。これはおもしろい。ワイルドは狭義のロマン主義運動とは100年近く離れてますが、ロマン主義的なダンディズムの末裔であると見ることもできて、そういう気障が嫌いな白村先生は、文学とかほんとうにはわかってない人だったのではないか(私は白村先生についてはぜんぜん知りません)。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (8) ロマン主義的恋愛とロマンティックラブ

  • んで、第5章「ロマンティックラブとは」は本書の核になる部分なんですが、ここが読みにくいんですよね。いろいろ難しくて、私は混乱してしまいます。1〜4章の古代ギリシア、古代ローマ、キリスト教、宮廷風恋愛のあたりは、自分でも授業でやったりブログ書いたりしているからだいたい見当つくんだけど、もろに文学の話はうとくて。鈴木先生はとうぜんここらへん専門だから、おとなしくお話をおうかがいするしかない、というのはある。でもどう混乱するかぐらいは書いといてもいいだろうか。

あ、その前に、鈴木先生が本書の解説ブログを開設してくれてるので読んでください。非常に興味深いというかおもしろい。

  • 鈴木先生は「「ロマンティックラブ」は欧米文化の産物で、100パーセントの輸入品です」(p.180)と言い、さらに「ロマンチックラブを概念的にちゃんと把握している人は少ない」っていうけど、そもそもそれは概念的にはっきりしたもんなんかいな、とか思ってしまいますわね。というより、そもそもここまで先生は「ロマンティックラブ」をはっきりどういうものか説明してくれてないと思う。
  • んで、鈴木先生は「ロマンティックラブ」を「(19世紀的)ロマン主義的恋愛」って理解したいみたいなんだけど、大丈夫かいね。おそらく多くの人はそうは思ってないと思う。
  • 鈴木先生の説は、現在我々が信奉しているロマンティックラブイデオロギーと呼ばれるやつは、18世紀末〜19世紀にヨーロッパ全土で流行したロマン主義文学(芸術)運動によって広められたものだ、っていうものだと思う。(そしてあとで、それが明治期に日本に輸入されたのだ、という話になる。)そしてロマン主義は恋愛至上主義であり、愛と個人を「絶対領域」とし、恋愛を崇高と無限・永遠・神秘のものとみなし、世紀病(メランコリー、ある種「うつ」)とともにある、ということらしいです。なかなか難しい。
  • そもそも「ロマンティックラブイデオロギー」、そしてそもそも「ロマンティックラブ」ってなんだろう。何回読んでもどうもはっきりしないんですが、鈴木先生は「ロマンティックラブ」を「ロマン主義文学運動において成立したラブの理想」であり、「ロマンティックラブイデオロギー」とはそうしたロマン主義的ラブが理想であるとするイデオロギー(観念、規範の体系)だって解釈してるみたいなんだけど、それで大丈夫だろうか。
  • もちろん言葉の意味やそれが指し示すものというのは、それを使う人によっていろいろあって、鈴木先生がそういう意味で使うというのならそれでしょうがないのですが、少なくとも社会学の学者先生たちが「ロマンティックラブ」や「ロマンティックラブイデオロギー」という言葉をつかうときには、あんまり鈴木先生のようには使ってないと思う1)論拠は面倒だけど、ギデンズ先生の『親密性の変容』あたり。。彼らが言うロマンティックラブというのは、だいたい「感情的なつながりと親密さをともなった一対一の性的関係」ぐらいにとらえていて、「ロマンティックラブイデオロギー」は「恋愛と結婚と生殖が同じカップルでおこなわれるべきである」という理想、ぐらいにとらえているはず。細かい議論はいずれやるとにして、飛ばします。
  • ロマン主義文学ってので登場する作家は、ルソー、ゲーテ、シラー、ノヴァーリス、シャトーブリアン、ラマルルチーヌ、ユーゴー、ガリバルディ、ってあたり。鈴木先生お気にいりは『レミゼラブル』や『青い花』あたりっぽい。
  • 「ロマン主義は恋愛至上主義である」(p.195)みたいなのもどうなんかな。まあ人生における恋愛の価値がずいぶん高く評価されるようになった、っていうのはあるかもしれんねえ。でもお話の上での話。オースティンの『高慢と偏見』みたいなの、あれロマン主義じゃない気がするし、ロマン主義的な意味ではロマンチックではない気もするけど、それでも我々の恋愛観・恋愛物語の雛形みたいなもんではあるわよねえ。
  • 「ロマン主義の恋愛は、基本的には精神的な恋愛ですが、同時に肉欲、性欲が爆発して、恋人は破滅することが多い」(p.199) とか。破滅するのはいいんですが、あれって精神的な恋愛かなあ。ていうか、なんか内的に矛盾してますよね。そしてここで例に出てくるのが『ロメオとジュリエット』なのでものすごく混乱する。時代がちがいます。例は狭義のロマン主義からとってきてほしい。
  • しかし、ここのところのロマン主義文学の紹介は楽しいので、みんなこの本読んで予備知識を入れて、実際に作品読んでみるといいと思う。私も読みます。人生短いから読みのこした古典文学楽しんでおきたい気がする。

  • この章で私が一番問題だと思うのはこうです。鈴木先生にかなり譲歩して、我々のロマンチックな恋愛観(イメージ)がヨーロッパ19世紀のロマン主義文学運動に「起源」がある、というのを認めるとしましょう。しかし、それがなぜ、結婚と結びついた形のぬるいロマンティックラブイデオロギーに変化したのか、というのを説明しそこねていると思うんですわ。

  • 先生は「ロマンチックラブは毒を抜かれてブルジョワ社会にとりこまれた」(p.228)って言うんですが、私はここを知りたい。なによりロマン主義的恋愛小説そのものがブルジョワ社会の生産物であり、そのブルジョワ社会の秩序を破壊するような毒を最初から含んでいるものなのに、なぜそれの毒を抜いて、文科省御用達みたいな世俗的な恋愛と結婚の理想になったのか、その毒はどうやって抜いたのか、それを説明してくれないと私としては不満なわけです。でもまあ一般読者向けの新書だからそこまで求めるのは求めすぎかという気もします。

ちょっと厳しくなってるけど、こんな感じか。この章はとても内容豊富でおもしろくて、いろいろ考えさせらえるので、何回か読みなおしつつコメントしていきたいですね。みんなも読んでみてください。「ロマンティックラブ」についてもあとで別のエントリー書くことになると思う。

References[ + ]

1. 論拠は面倒だけど、ギデンズ先生の『親密性の変容』あたり。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (7) 宮廷風恋愛

  • んで、第4章は「宮廷風恋愛」。騎士道恋愛、レイディーとナイトのあれですね。ここらへんから先生の専門に近づいている(はず)だし、内容的にもおもしろいと思う。ぜひ読んであげてほしい。
  • 「恋愛は12〜13世紀西洋の発明だ」っていう20世紀に一部でかなり流行した発想のコアの部分ですわ。鈴木先生の立場は「大体において正しい説のように思われます」(p.140)ということで、これは私はいろいろ文句あるんだけど、でもまあ一部で標準的な説なので読んであげてほしい。
  • 私の解釈では「女性をあがめたてるようなタイプの恋愛観、というかお話は中世末ぐらいに発明されれてバカウケした」ぐらいなんですが、まあねえ。
  • 「宮廷風恋愛」についてはこの本読んであげてください。私もだいたい同じ感じで理解してるし、だいたい同じ感じで講義している。
  • ただ鈴木先生に私がもっている違和感の一番大きいやつは、「でもそれってお話ですよね」ってことですわ。宮廷風恋愛なるものが実際に実行されてたかどうかはよくわからない。わかっているのは、そういうお話がウケてた、ってことだけで。この、思想やお話を、現実にあった事実であるかのように解釈してしまうっていうのは私にはよくわからないです。またこれが、明治日本の「恋愛輸入説」とかにまつわる問題でもある。
  • 「命を賭けて、身分の高い女性に対する忠誠を誓う」(p.146)、その恋愛は肉体的なものではなくあくまで精神的なものである、とかそういう恋愛はかっこいいのですが、まあかっこよすぎていったいそんなのどういう人が実行していたのかわからない。まあそういうのいたとして、数人でしょうか。だって騎士とかふつうの人はなれないわけだしね。セックスどころか、会って話をするだけでもたいへんかもしれないし、そもそも騎士とかってのは平安〜鎌倉時代の武士と同じもので、けっきょく乗馬と武器の扱いがうまくて人殺せる人ってことなので、私みたいなのが会うと無礼な!とか殺されちゃうかもしれないから会いたくない。くわばらくわばら、失礼お許しくだせえ。
  • 領主や騎士様なんてのは平民にとっては雲の上の人、勝手に税金とかとってく悪い人なわけだけど、それがウケたのは吟遊詩人がそういう人々の恋物語を歌ったから。トリスタンとイゾルデの世界っすね。(吟遊詩人使ったのはリュートだけではないのではないか)
  • まあ流しの音楽芸人が、高貴な方々の気高い恋愛を歌ったわけですよね。同時代の琵琶法師の世界。
「学生に、「理想の恋愛とはどのようなものですか」というアンケートをとると、「心からわかり合える人と愛し合う」「一緒にいて楽しくて、落ち着く」など、精神的なファクターを挙げる人が大半を占めます。カラダよりも心が大事、ということですね」(p.150)
  • いやそれはいいですが、先生、そういうアンケートとったらやっぱりそういうことになりますよ。それセックスが楽しい上での話じゃないっすか。セックス楽しくないのにいっしょにいて楽しい、とかあんまりないのかもしれんし。セックスできれば気は合わなくていいです、とかあんまりないっしょ。気のあわない人といるのはしんどいものだし。っていうか、そもそもセックスだけして(何時間かかるかわからんけど、想像で2時間としますか)、はいさよなら、みたいなのは学生様たちには恋愛ではないんではないか。
  • 155頁で、奥様のお婆様にナイトとしてのレディーファーストの振る舞い教えてもらった話はかっこいい!ここはみんな読んでほしいですね。ぜひ買ってあげてください。
  • そしてここらへんで、おそらく鈴木先生の一番最初の発想が出てきます。日本の恋愛は「女性は男性の後ろにいて男性を立てる」ということになっているが、西洋の恋愛は「女性が立てられる側にまわる」ものだ、「忠誠の精神的な恋愛は、日本的な色恋沙汰と構造的に違う」(p.159)これです。
  • まあそういう発想はわかるんですが、西洋人が実際にどうしているかっていうのはほんとにさまざまだろうし(DVとかレイプとか欧米の方がはるかに多いと思う)、『源氏物語』や『平家物語』にだってそういうのあるんじゃないかって言いたくなります。どうでしょうか。
  • ル・シャプラン司祭(カペラーヌス)の『宮廷風恋愛の技法』はおもしろいので、鈴木先生の紹介読んだらぜひ現物読んでみてほしいですね。鈴木先生の解釈もおもしろいと思う。ここらへんがこの本の一番おもしろいところなんじゃないかと思います。
  • 鈴木先生によれば、この本でついに男性は女性を理知的に口説く、ということを発見したのだ、ということだと思います。私もこの解釈にはのりたい、っていうか知的に優れていると自信をもってる女子を男子ががんばって論破しにいく、というフランス映画的恋愛がここで描かれているわけですわね。まあそれってどうなのかという気がしますが、インテリの男女どちらも好きそう。どっちかというと男子の方が好きそうな妄想。ははは。
  • こういうルシャプラン先生の読んでると、いまツイッタでフェミニストをアンチフェミ男子が折伏しに行ってるのもこういう伝統のなかでの話ではないか、っていう気さえしてきます。カペラーヌス先生も鈴木先生もほんとにおもしろいのでぜひ読んでみてほしい。
  • 最後のところ。
日本の女子学生に中世宮廷恋愛由来のレディーファーストを説明すると、「やはり恋愛相手はこうではなくちゃ」という反応が時々帰ってきます。この場合、「真実の愛=レディーファーストの愛」と、やや短絡的ではありますが、中世宮廷恋愛が現代の日本人女性にも強い影響力を及ぼし、その感情生活を縛っている様が見てとれます。(p.176)
  • っていうんですが、これ、宮廷風恋愛だのナイトだのと関係なく、とにかく女子はもちあげられてやさしくされるのが好きだ、ということじゃないですかね。
  • そして、宮廷風恋愛というのは、女性の地位が次第にあがってきて、殿様や貴族の奥様としてあるていどテッペンまで登った女性は、そうした男性からのサービスを期待することができるようになった。愛情やセックスをエサにすれば、女性は男性を支配できることを知った。我々をちゃんとよろこばせないならば、セックスなんかさせないし、そもそも見向きもしない。ちゃんと努力して我々を喜ばせろ!
  • そして、そうした「お話」を吟遊詩人やその他のお話が得意な人々から聞いた人々は、「私もうちの男にそうさせよう!」と決意した。そういう歴史上のなにかを表現してるんじゃないでしょうか。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (6) キリスト教はこわくてあんまりコメントできないけど

  • 第3章はキリスト教
  • これねえ、ギリシアもローマも難しいんですが、ユダヤ〜キリスト教も難しいんですわ。まあ鈴木先生ジェネラリストとしておおざっぱな話を書いて、スペシャリストからつっこんでもらうつもりみたいだから勇気がある。正しい態度だと思います。私もあれやこれや浅くても広い知識もって好きなこと言いたいんですが、むずかしいですよね。
  • 鈴木先生はキリスト教が性的に禁欲的だって言いたいみたい。私もまあそうだろうと思うんですが、旧約聖書にはそういう感じはないですわね。新約聖書のイエスさんの言行にもそういうのはあんまり見あたらない。パウロさんはかなり禁欲的で、そのあとのヒエロニムス先生とかやばい、ってのは私自身もまえに書いてる気がする。そういうんで、あんまり文句つける気はないです。でもあんまりキリスト教の禁欲的な側面を強調すると信者の人々はおこるんちゃうかな。
  • 111頁の「種の保存のため、人間という動物に基本的にインストールされているはずの性欲と快楽のシステム」とかっていうのはこれは絶対だめ!種の保存なんて考えかたは捨てましょう。誰も信じてません。種の保存じゃなくて、「生殖のために進化のなかで〜」ぐらいにしといたらいいと思う。
  • キリスト教の細かいところへのつっこみは専門家にまかせることにして(知識足りなくてこわいから)、この章で問題にしたいのは、姦淫/不倫/浮気が強く非難されるのは、キリスト教の影響だ、って鈴木先生が言いたがってるみたいなところなんですわ。これは本書の最初っからの目標のようで、けっきょく鈴木先生の頭のなかでは「不倫や浮気を非難するのはわれわれの恣意的な「恋愛制度」のためである、単なる文化的なものである、それはたいして根拠がない、それは歴史的に恋愛の歴史を見ればわかる」って言いたそうなんですよね。しかしこの発想は私はあんまりよくないと思う。
  • 他人の嫁に手をつけてはいかん、というのはこれはかなり文化普遍的だと思う。というか、女性に対する性的アクセスの限定というのは「結婚」という制度の核心部分であって、女性のセックスの管理こそが結婚制度の最大の目的である、っていうのはもうものすごく深いところにあると思う(男性の資産管理も大きいけど)。これを理解しないと恋愛や結婚の制度の話はうまく理解できないくらい重要だと思う。
  • たとえばキリスト教以前にも、姦淫は重大な犯罪・非行であったっていうのははっきりしていると思う。たとえば鈴木先生自身が言及しているオウィディウスが皇帝アウグストゥスからローマ追放された話だって、基本的にはアウグストゥスがローマのセックス問題を解決しようとしたためで、アウグストゥスは姦淫を法的に罰するようにしたみたいですね。とにかく女性の浮気は血なまぐさい揉め事のタネになりやすい。古代ギリシア叙事詩の『イリアス』でトロイが滅亡することになるのはそもそもアフロディテさんも認める超美人ヘレネちゃんが浮気したからだし、『オディッセイア』のオディッセウスの奥さんのペネロペさんは、オディッセウスさんが行方不明になってもいい寄る男を拒絶して独身を守り通し、帰ってきたオディッセウスさんが言いよった男を皆殺しにした、みたいな話も有名ですわね。こえー(オディッセウスさん本人は魔女みたいなのとエッチ三昧してたのに)。まあ、ほぼどういう伝統的文化でも妻の不倫・浮気はひどく非難されると思うし、そういうのしない人々はとても誉められる。えらい!
  • ユダヤ民族が「姦淫するな」とか「隣人の妻をほしがるな」って強調したんだって、隣の奥さんに手を出したりする奴があとをたたないからそういう戒めがあるわけでして。
  • 「バレようがバレまいが、浮気それ自体がいかん、という考え方は、江戸以前にはおそらく存在しかったでしょう」っていうのは、たとえば細川忠興の殿様が、ガラシャに見とれた庭師をその場で手打ちにした、みたいな話は誰でも知ってるわけで。こえー。いつぞや学生様の前で、「そういや殿様が植木屋さんを殺したとかそういう話があって」とかって話してたら、「それで刀の血をガラシャの着物でぬぐうんですよねっ!」ってうれしそうに教えてくれる学生様がいて、すごい1)あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。
  • というわけで、キリスト教的な伝統が、「放埒な」性的な欲求を強く非難する傾向があった、っていうのは私も賛同したいんですが、不倫や浮気を非難するのはキリスト教のせいだ、みたいな話はあんまりよくないんじゃないかと思う。それにキリスト教のもとでもみんなあんまり真面目に生きてなかった、っていう話はほとんど自明だと思う。ここらへんの西洋セックス・恋愛文化の話になると、かなりたくさんの本がありますね。どれもおもしろいです。
  • あんまり議論できないけど、ルージュモン先生やC.S. ルイス先生とかの「エロスとアガペー」みたいな話は、我々の世代はうたがって読まないとならんと思う。あれはおそらくよくない。
  • でもこの章はOK。こういうふうにざっくり話してもらえば、興味もつひとはそっから本読むだろうし。
  • ひとつだけわりと重大な文句書いておくと、結婚という社会の制度と、恋愛という我々の一部がやってる営みとの切り分けが難しくて、そこははっきりさせてほしいと思う。もちろん先生はその二つがちがうものであることはわかって書いてると思うんだけど、「恋愛「制度」」っていう発想と表現するもんだから、そこらへんがわかりにくくなってるわけです
  • そういや、ここらへんで不倫や浮気の話が出てきているのでもう一つコメントすると、タイトル「束縛の歴史」を見て、たいていの人々は恋愛観による束縛というよりは、男女間(あるいは同性間)の恋愛でのパートナーの行動の「束縛」行為を思いうかべると思うんですよね。鈴木先生はそういうのはあんまり好きじゃないのかもしれないけど、まさに結婚や恋愛関係(それが制度的なものであれば)っていうのの核にはそうした束縛や排他性があって、それ議論してくれないとどうも恋愛論っていう気がしないんですわ。おそらく鈴木先生は、そういう「恋愛もセックスも一対一じゃなきゃ」とか「二股は許さん」みたいなのも文化的なもんだから見直してあんまり重要なものではないし見直してもいいだろう、って言いたいんじゃないかと勝手に推測してるんだけど、それはっきりやってくれた方がわかりやすかったかもしれない。

あ、昔エントリ書いたかな? → これか

References[ + ]

1. あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (5) ローマ人だってそれなりにロマンチックだったんちゃうかなあ

  • 第2章の古代ローマ編もざっくり軽快でいいと思う。まあ恋愛の歴史とかっていう巨大な話はどっかでざっくりやらないとしょうがないですね。
  • ただ、バッカス/デュオニソスを「愛の神」(p.72)と呼ぶのはちょっと問題があるんじゃないかと思う。もっとはっきりセックス・性欲の神様、って呼んだらいいのではないか。どうも日本の大学の先生たちはセックスと性欲の話をするのを避けてるところがあって、まあ女子大とかで毎日毎日セックスセックスと口に出してるとたしかに差し支えがあるんですが、恋愛の話するときにセックスの話しないってのいうのも難しいし。
  • ローマ時代の恋愛観が「女は強い男がゲットするもの」というやつだっていうのは、まあ言いたいことはわかるけどちょっと乱暴すぎるかなあ。むしろ「強い男/権力者はモテる!金と権力があればなんでもウハウハ!」ではないんかな。
  • まあ実際にどうだったかはわからないんだけど、一番の問題は、ローマ時代の代表格として鈴木先生がもってくるオウィディウス先生の『恋愛指南』は、「強い男が女をゲット!」とかそういうものではないってことですわ。
  • 「強引にチューしてしまえ」「チューしたらもっとすごいこともしてよい!」っていう部分をとってきてローマ時代の恋愛観は乱暴で女性をモノとして見ている(「モノ化」)って議論してるんだけど、私は『恋愛指南』をそう読むのは無理だと思う。ごくざっくりやるっていうのは賛成なんだけど、題材はえらばないとならんというか。
  • あれを読んだ人は誰でもわかるように、『恋愛指南』は非常にこっけいなマニュアル本で、まあ鈴木先生が指摘しているように乱暴そうに見えるところもあるけど、実際には情けない中年男とかがいっしょうけんめい女性にモテようと苦労する話だし、男性向けだけでなく女性向けの部分もあるわけで。

「愛する女性の誕生日こそは、君が大いに恐れおののくべき日だ。何か贈り物をしなければならない日、それこそは君にとって災厄の日というべきだ。君がどんなにうまくかわしたとしても、やはり彼女は巻き上げるに決まっている。女というものは、燃え上がって愛を求める男から財貨をかすめ取る術を編み出すものなのだ」(p. 31)

とかっていうのは、もうかわいそうとしか言いようがないですよね。かわいそす。プレゼントとは、女性が男性からまきあげるものなのです。

  • 「ローマ人の場合は「男は支配してなんぼ」だったのです。」「ポール・ヴェーヌなどは、ローマ人の「強姦力」なんて言い方をしています。経済力で男の価値を測る、という基準が現代のジェンダーにはありますが、経済力のかわりに「強姦力」だったわけです。すごい話ですね。」(p.99)とかありますが、まあたしかに最強の神にして強姦マニアのユピテル(ジュピター)様他、乱暴なのが好きな神様はたくさんいるし、歴史や物語でもそういうのは好まれてるっぽいですが、ローマ人たちがそうした生活を実際に生きていた、強姦はごく普通のことであった、とか考えるのはちょっとどうだろうかとは思います。あとこのヴェーヌ先生の本、どこにその「強姦力」があるのか、ページまでつけてもらいたいです。私ざっと見たけど簡単には見つけられないです。
  • これは性暴力とかに関する重要なポイントになってしまうんですが、そうした性暴力が当然のものとして賞賛されるような社会っていうのはめったにないわけです。へんなジェンダー論みたいなのだと、男性中心的社会では女性に対する性暴力が当然のものとされている、といった説明がされたりするんですが、あんまりよくない。なぜかというと、どういう男性も、その親の半分は女性であり、子どもの半分も女性だからですね。自分の家族を強姦されて喜ぶ男性なんてのはほとんどいないはずです。『ゴッドファーザー』で、主人公の姉を殴る夫が殺されたりしてるじゃないですか。ああいうもんだと思う。
  • 古代ギリシアとかでは女性の結婚は親や男兄弟がとりきめるものだったと思うのですが、彼らも自分の経済的・政治的利益の他に、自分の子どもや姉妹の幸福を当然祈って相手を選んだでしょう。古代ローマ人も当然そうだったはずです。もちろん、そうした親兄弟の後ろ盾がない女性は非常に厳しい生活をしていたとは思います。でも、強姦だのなんだのがほめられる社会なんてのはちょっと考えられない。
  • ローマ時代は抒情詩とか盛んだったはずで、実際ヴェーヌ先生の『古代ローマの恋愛詩』では、『恋愛指南』のような滑稽なやつだけでなく、いろんなロマンチックな詩が紹介されていると思う。どうしてロマンチックな詩が書かれたかというと、私の根拠のないカンでは、それは女性を口説くためですね。現代日本でミュージシャンがラブソング作るのと同じ理由によるんじゃないかな。そして、前のエントリでも述べたように、女性を口説く必要があるのは、女性になにがしかの決定権があるからで、決定権がなくても女性は男性にいじわるしたりすることは簡単なわけです。美人奴隷とか買ってきたって、毎日めそめそ泣いてたり、むすっとしてたりしたらいやじゃないっすか。そんなのどんな美人だてたえられない。どうしても女性は喜ばせて笑顔で対応してもらわないとならん、っていうのがどの時代の男性にとって大きな課題だったんじゃないっすかね。
  • んで最後にやられる現代日本との対比ですが、ローマと日本は「女性のモノ化」という点で共通しているって鈴木先生は考えてるんかな。まあオウィディウスとナンパ指南本の類似性とかは私もおもしろいと思いますね。でも必ずしも恋愛の相手をモノ化しているとも、代替可能な何かと見ている(p.103)とは思えない。だって、実際に『古代ローマの恋愛詩』やその他の古代の抒情詩で歌われている感情は、そういうものとはまったく違う、おそらく我々の多くが経験しているロマンチックなやつじゃないですか。われわれが好むポップソングの恋愛とそんなに違いますか?異文化の一部とってきてなんか押しつけるのはひかえめにした方がいいんじゃないかという気がします。

おまけ。私が授業で使ってるオウィディウスまわりのレジュメ。




(追記)

  • 鈴木先生のやつ、ちょっともどってオウィディウスのところで書きもらしたことがあるんだけど、オウィディウスの時代、初代皇帝アウグストゥスが姦淫を禁じる法令だしてるはずなんよね。いま調べたら en.wikipedia.org/wiki/Lex_Julia これ。ユリア法? 18-17BC 。
  • 私法上も公法上も、姦淫は罪、ある状況下で不倫しているの見つかったら旦那から殺されたりすることもありえるっぽい。しらんけど。
  • オウィディウスの『恋愛指南』での口説きの対象が人妻なのははっきりしていて、これはまあそもそも色気づくと女性は結婚させられるので、恋愛は結婚して子どもできたりして旦那が飽きてから、ってことになってると思う。
  • オウィディウスの想定女性はさらに小間使いとかもってる地位の女子なので、おうちに入れてもらって無理矢理セックスしようとしても音とかでばれちゃうからデートレイプしほうだい、とかってのはない。
  • っていうかそもそもそんなの試みたのがバレたら旦那から殺される。
  • 鈴木先生は古代ローマは超家父長制で男の権力が強かったから女なんかどうでもしほうだい、みたいに思ってるみたいだけど、家父長制が強いからこそ他人の女には簡単には手を出せず、その女と共謀共犯関係に入る必要があり、だからこそ巧妙に口説くことが必要になったのだと理解している。
  • 19世紀の話だけど、おそらく恋愛結婚というのが一般的になっていくのは、一つには家庭内で、女性に家なり商売なりパーティーの接客なりのいろんな業務をしてもらわなきゃならないために女性の地位があがったこととか、そうした主婦というか奥様になるための教育が必要になって教育期間が長くなって女性の婚期が遅くなり、男性も資産もたないと結婚できなかった(ブルジョワ階級)てのがあって、男性は人妻に手をつけることよりまずは自分の配偶者を見つけるのがたいへんになった、とかそういうのが関与してるんかと思ってるけどよくわからない。
  • まあとにかく恋愛は女性の地位向上と関係があり、そのけっこうな部分が経済的要因の変化の結果なんだろう。
  • こういうのは恋愛の歴史じゃなくて結婚の歴史を読むと説明されている。クーンツ先生あたりがおすすめ。 amzn.to/2WoYnRO これ翻訳してほしい。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (4) こういうのは許しませんyo!

  • んでプラトン先生の恋愛論と現代日本の恋愛との比較(!)。っていうか、そもそも「論」と現実を比較していいのかどうか。

「現代の日本の恋愛と比べると、明らかに違うのは、この知的な探求と色恋沙汰が微妙に接合している点です。」

「日本では、知的探求に価値を置くやり方、頭がいいのがカッコイイとする「萌え」方は、ヨーロッパほど一般的ではありません。そもそもが知的なものに対する憧れよりも、つまりイデア的な憧れよりも、実生活の中でいかに周囲とうまくやっていくのか、という同調圧力の方が強く働きます。だからこそ、知的な探求、イデアの世界への憧れが「エロい」という発想は、おそらく皆無でしょう。(p.63)

  • いや、先生それどっから来たんすか。鈴木先生が考えてる日本人の「恋愛」というのはどこで誰がやってる恋愛のことなのかさっぱりわからない。新書なのでアカデミックな話を適当にはしょるのはしょうがないと思うんですが、こういうなにも根拠を示さない放言みたいなのあると、学生様にはかなり読ませづらいです。
  • まず一つには、「頭いい」とか「教養がある」そういうのをセクシーだと思う人々は、男女ともにけっこういるんちゃうかな。男性同性愛でもインテリ階層ではそういうのありそうだし、女子異性愛者でも、男性ものすごい難しい話をぽーっとなって聞いてるっぽい人々はいるように思う。(どういうわけか私の授業ではみんな寝てしまうんだけどなぜだろうか)
  • また、それがヨーロッパとどう違うかっていうのの根拠もなにも示してくれてない。まあおフランス映画とかで、女子を口説くときに中年〜高齢男性がものすごい難しいことをベラベラまくしたてる、っていうのはたしかによく見ますが、それってフランス人なりイタリア人なりドイツ人なりハンガリー人なりの特徴的な人々なんすか。
  • こういうの、なにも証拠も根拠も出さないってのは、単に「日本は遅れてる」とかそういうの言いたいだけなんじゃないかと思ってしまって、非常に印象よくないっす。
  • ていうか、知性がエロいのはあたりまえではないか。指原先生がNo.1なのもあれは知性だ! 林檎先生のエロさを聞け!
  • 学生様や一般読者が読んで「ほー、なるほど日本では知的なのは価値がないのだな」とか信じられちゃったらどうしてくれるんですか。ますますモテなくなるじゃないっすか! 許しません。
  • これはまあまじめな話、せめて鈴木先生がヨーロッパで見てきた恋愛模様と、日本で見ている恋愛模様を比較すればまだましだと思う。どちら経験した見聞きできるのは広大な人間社会のほんの一部でしかないと思うけど、なにかあれば「まあ鈴木先生が見てきた世界はそうなのだな」ぐらいで納得しないまでも我慢はしようと思うのです。でもなにも根拠がないとなると、学生様には「こういうなにも根拠しめしてないのにひっかかってしまうようでは真理へのエロスが足りません」とかお説教しなきゃならんようになってしまう。その結果、「あんたががエロス過剰なんちゃうか!?」とか怒られることになって非常に困ります。
  • まあこういう簡単に「ヨーロッパではああなのに、日本ではこうだ」みたいなのは、20年ぐらい前まではけっこう許されてたと思うんですが、21世紀になってクリシン教育とか重視されたり、にツイッタとか一般的になってからはちょっと難しいですよね。いやな時代になった、という感じもしますが、われわれは対応していかないとならんと思う。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (3) イデア論まわり

  • あ、ちなみに、54ページの『饗宴』の出典、久保訳のp.76って指示してあるけど、おそらくpp. 84-85だと思う。あと、複数ページのときはp.じゃなくてpp. って表記するようお願いします。
  • 第1章、55頁からのイデア論の話なんですが、これねえ、どう解釈していいのかよくわからない。
  • 「イデア論は、欧米の文化の中に深く入りこんでいて、西洋の考え方の一つの基礎になっています」(p.55)ぐらいだとまあ微妙なんだけど、「日本語というシステムの中では、このイデア論は非常にわかりにくい」(同)とか言われちゃうと、「いや、西洋人にもわかりにくいだろう」と言いたくなりますわよね。さらに(イデア論とは)「神の見ている世界のことです」という説明されちゃうと、「論が世界なの?それってカテゴリーちゃうんちゃう?」とか言いたくなる。「イデアというのは具体的に、正しい考え、善い行い、美しいオブジェや人のことではなく、正しさそのもの、善さそのもの、美しさそのものだ」っていう説明も、まあわかったようなわからないような。これ、おそらくとりあえず猫のタマと猫のイデアの話して、タマは猫のイデアが具体的になった一例です、みたいな話しないとならんと思う。しかし新書、それも哲学じゃなくて恋愛論の新書では無理か。
  • 鈴木先生はイデア論説明するのに『パイドロス』もってくるんですが、読者にはなぜ突然『パイドロス』もってこられるのかわからないと思う。私だったらむしろ『饗宴』のソクラテスの演説のなかのディオティマ先生のあたり使うと思う、っていうかまあそこ使ってますわ。これは好みかな。
  • 「ちなみに概念という言葉は、英語ではidea、フランス語ではidéeと、イデアと同じ単語を使います。……こんな言葉の使い方を見ているだけで、ヨーロッパにいかにイデア論が心頭しているのかわかる」(pp. 57-58)とかっていうのも苦しい。そういう問題ではないと思う。
  • 「少年の美しさに対する肉体的愛はレベルが低い」(p.59)って言われてて、まあ『饗宴』でも『パイドロス』でもそうなんだと思うけど、『饗宴』のディオティマさんのお説教で次のようになっている。

……恋のことに向かって正しくすすむ者はだれでも、いまだ年若いうちかに、美しい肉体に向かうことからはじめなければなりません。そしてそのときの導き手が正しく導いてくれるばあいには、最初、一つの肉体を恋い求め、ここで美しい言論(ロゴス)を生み出さなければなりません。

しかしそれに次いで理解しなければならないことがあります。ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体にこがれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。

しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論(ロゴス)を産みださなければなりません。これはつまり、くだんの者が、この段階にいたって、人間の営みや法に内在する美を眺め、それらのものすべては、ひっきょう、たがいに同類であるいという事実を観取するよう強制されてのことなのです。もともと、このことは、肉体の美しさを瑣末なものと見なすようにさせようという意図から出ているのです。

……つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つぎになにかの美を目標としつつ、上昇してくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るに至るのです。(鈴木照夫訳)

  • 解釈はものすごくむずかしいですが、とりあえずふつうに読めば、エロの道を極めようとする男(哲学者)は、まず目の前の美少年の体を賞味して、次に美少年ならなんでもOKになり、次に肉体から精神の美へ向かい、最後に美そのもの(美のイデア)に向かうのです、ってことなので、最初は美少年と肉体的にイチャイチャすることからはじめないとならないっぽい。ソクラテス先生はその道を通りぬけて達人になったからもうあんまりイチャイチャしないかもしれないけど、最初はやはりイチャイチャで。私そういう才能なかったから哲学者なれなかったんですよね。でもとりあえず哲学者めざす若者は恋もがんばってください。
  • まあイデア論にそれほど深入りする必要ないなら、このディオティマ先生の理屈を使って、A君の美しい身体と、B君の美しい身体と、C君の〜は、どれも、「美しい」という性質を共有しているのだ、ふつうのわれわれは美しい身体を見ることしかできないが、達人は複数の美しい身体に共通の「美しさそのもの」、すなわち「美のイデア」を見ることができるようなるはずだ、みたいな話はできないでもないと思う。