不如意ブログ

『犯罪学ハンドブック』を読もう!

やっぱり知らん分野はハンドブックとかから勉強する、っていうのが、私のような素人が他の分野の研究とかを鑑賞する(勉強するんじゃなくて鑑賞ですなあ)ときの王道だと思うのです。

最近『犯罪学ハンドブック』っての出てて、これアメリカのその分野の大学テキストの翻訳ですね。この翻訳は第2版をもとにしたものだけど、英語では第3版まで出てて、おそらく定評あるテキストなんだと思います。

修復的司法とかについてどういうふうに扱われているかというと、そうした話は第8章の「批判理論とフェミニズム理論」というところで扱われてます。あんまり好意的じゃないですね。

おそらく世界中で社会主義社会が崩壊したことが影響したと思われるが、Lilly, Cullen, & Ball (2011)は、至る所で葛藤理論が頓挫し、それが「仲裁犯罪学という形式に変化した」と述べている。仲裁犯罪学とは、近年急増する多数の犯罪学理論のなかでごく最近の理論であり、衰退したマルクス主義が包摂されている。まさにポストモダン様式であると断言できる。(pp.226-227、ちょっと語句いじってる)

とかそんな。

仲裁犯罪学の基本理念とは、1960年代のヒッピーの金言、Make Love, Not Warに共通しているが、性的含意はない。現況の「犯罪との戦争」という表現は考えただけでもぞっとするので、「犯罪における平和」を目指そうとしている。(p.227)

 

犯罪者を監禁するかわりに、平和構築犯罪学者らは修復的司法を提唱している。これは基本的に調停と紛争解決のシステムである。修復的司法とは主に犯罪によって生じた損害を修復することを目指し、そして基本的に関係する当事者が一堂に会し、被害者と加害者が、犯罪が起こる前の状態に「修復する」ために、双方にとって合意妥当な解決案に到達することである(Champion, 2005) (p.227)

みたいな紹介になる。

Lainier & Hennry (1998)は次のように指摘している。「ポストモダニズムは、次のような理由から主流派の犯罪学者に厳しく批判されてきた。(1)言語の問題ではなく、非常に理解が困難でであり、(2)虚無主義的かつ相対主義的で、善悪を判断する基準がなく、(3)被支配者層から見ると、非現実的で危険でさえある。(p.285) 平和構築犯罪学は、我々に犯罪における平和を構築するよう迫るが、一体これに何の意味があるのだろうか? 多数の評論家が指摘しているように、犯罪者に対して「紳士的である」ことが犯罪を止めさせることに十分効果的とはいえない。人間苦を低減させることや、犯罪を減少させる公正な社会を実現することは明らかに正しい。この立場に立つ主唱者はそこを目指して闘っている。しかしながら彼らは、「他罰的でなく、犯罪者の視点を理解すべきだ」という提言に一歩踏みこんで、どうやってそのような社会を実現できるかについては何の具体策も提供していない。(pp.229-230)

ずいぶん厳しいけど、主流派から見るとこうなのだな、ってところをふまえて、「それでもなお」って感じで話がはじまるのだと思う。だから研究者には実際の実践とか、その結果のデータとかが重要になるわけだし、私のような鑑賞者は、そういうのをどうやってくれるかに注目して鑑賞することになる。

フェミニスト犯罪学についてもおもしろいんですが、こっちはもうすこし好意的ですね。

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(おわります)

もうしわけありませんが、途中だけどもう終ります。デイリー/カズンズ論争の紹介をしたかったのと、全体の構成その他についてちょっと書きたいことがあったのですが、どのページをひらいてもいやなものを見つけてしまって、もう私は心理的に耐えられないです。ずっとあれやこれや重箱の隅をつついているような感じになってしまう。でも本当に重要な箇所もそういうのが起こっていると思います。

たとえば、第5章第1節、p.165。

例えば、性暴力被害者のジョアンナ・ノディングはRJを通して「対話」に参加した。その中で、ノディングは加害者に「あなたを赦す」と宣言した。そして、「対話」の中で次のように語っている。

私は彼がしたことを許容することも、矮小化することも言いませんでした。なぜなら、私は自分自身を恨みの重荷から解放したかったし、彼にとって大事なことは、彼が自分自身について学び、行動し、赦すことを望むことだからです。(p.165, 下線江口)

下線部、なんかおかしいでしょ。この文献が https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story  これのことならば、原文は

“As the meeting was finishing I was asked if there was anything else I wanted to say, and I gave him what I’ve later come to think of as a ‘gift’. I said to him, ‘What I am about to say to you a lot of people would find hard to understand, but I forgive you for what you did to me. Hatred just eats you up and I want you to go on and have a successful life. If you haven’t already forgiven yourself, then I hope in the future you will.’

“I didn’t say it to excuse what he did, or to minimise it, but because I wanted myself to be free of that burden of grievance, and as importantly for me, I hoped Darren could learn, move on, and forgive himself.”

この部分だと思う。「私が「赦す」と言ったのは、彼がしたことについて免責するためでもないし、それを矮小化するためでもない。そうではなく、私自身を恨みの重荷から解放したかったからです。そして私にとって同じくらい重要だったのですが、私は、ダレン〔加害者か〕が学び、先に進み、そして彼自身を赦すことができるようになることを望んでいたのです。」

細かいように見えるけど、そうではないです。これも被害者が加害者に対して「赦します」と言い、それをあとでそれが「ギフト」であったのだ、と理解するという感動的な話ではあります。でもそれがわからん話にされちゃってる。私こういうの見つけるたびに「うっ」となってもう不快になってつらい。大事なことですが、これは英語能力の問題ではないと思う。

最後の章にデリダ先生が大々的に登場するのは象徴的で、ああしたむずかしくてなにを言ってるのかはっきりわからないこと言われてしまえばもう何も言えなくなるし。著者のまわりの人々にもそういうことは起こっていなかったろうか。

あとは専門に近い人や、性暴力やその対策に興味ある人が検討してほしい。でも本気で検討してほしい。特にジェンダー法学会関係者の人は本気で検討して、評価を教えてほしいです。あなたたちは本当にこの本を読みましたか?

 


(追記)このシリーズでは部分をかなりしぼって、一般読者にもわかりやすいと思われる誤訳の問題を中心にとりあげましたが、この本は事実確認、資料の扱い、そして全体の議論の構成など問題は多く、問題が性暴力とその被害に対する対処という重大な問題であるだけにいろいろ危惧しています。しかしそれらを検討することは私の仕事ではないとも思います。性暴力や性犯罪、その対策などは、各分野の人が協力してオープンな議論することによって改善されることを本当に願っています。(2018/11/12)

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(5)

  • これはちょっと細かいのですが。

私はまさしく彼が「聴くこと」を望んでいます。〔私が〕どんなに無力な状況に置かれ、ひどいトラウマを負ったのかを。彼が完全に〔私の苦しみを〕受けとめて理解すると期待しているわけでもありません。私の口から直接出てくる言葉を確かに彼に聞かせたいから、〔加害者に対して〕「〔私の声を〕聴け」と言いたいのです。私は加害者(すべての加害者)は、表面的なレベルでしか受け止められないとしても、〔性暴力被害者が〕何を感じていたのかを知る必要があると思います。私にとって重要なことは、少なくとも、直接的に私から〔加害者に自分の言葉に対して〕耳を傾けられる経験を得ることです。

私は彼にちゃんと「聞いて」hear ほしいのです。そんな無力な立場におかれたときにどんな感じがするのか、それがどんなひどいトラウマになるのかを。私がいま「聞く」って表現したのは、彼は気にしないかもしれないし、こういうことを完全には理解しないかもしれないからです。それでも私は私の口から出る言葉を直接聞いてほしいのです。だって他の誰もほんとうにそういう立場に置かれなかったら説明できないのですから。表面的なレベルでしか受け止められないにしても、加害者(すべての加害者)はそれがどういう感じであるかを聞く必要があると思います。私にとって一番大事なことは、少なくとも私から直接それを聞くことです。」

これはこの被害者が、意味の理解とかそんなのより、とりあえず物理的に聞くのでいいから自分の声を聞いてほしい、と求めている文章です。listen to じゃなくてhearっていう言葉をつかうのは「とにかく物理的にでいいから聞いて!」っていう感じがでていて、このVSSRさんはほんとうによく自分の体験について考えてる感じがします。最後の would have at least the heard thisのところはわかりません。誤植かなあ。まあこの文章の訳は軽い問題がある、ぐらいです。

ちなみにこのVSSRという記号をつけられた人はけっこう話してくれる、意見のはっりしたしっかりした方で(前のエントリはVSC3さんで、この人もよい)、小松原さんは何回か使っているのですが、同一人物であることを把握しているのかどうか気になりました。読者にはそうしたことがわからないのです。それで大丈夫なのだろうか。正直ななところ、このKeenan先生の報告書にん記録されている30人ぐらいの人のなかの数人の言葉は非常に魅力的で、私は、kenan先生の報告書から、「被害者」としてばらばらにされてしまいひとからげに「被害者」とされたの人々のインタビューの中から、その個人像を再構成してみたいという欲求さえ感じました。こういうのを「〜という被害者もいた」みたい匿名化してに証言をバラしてしまうのは私は好きではない。

修復的司法っていうのはかなりマイナーな研究分野であるだろうし、勉強しにくかったり理解されにくかったりするのはわかるんですわ。それの研究を続けたり、いろいろ読んだりしているのはえらいと思う。語学とかは得意不得意とかあるし、他国の司法制度なんかも、まわりに詳しい人がいないと学びにくいものだとは思う。そういうんで、小松原先生自身を訳程度の問題で非難する気はあんまり強くないのです。私が気にしているのは、こうしたいろいろ穴があるのはまわりの人、特に博論の指導教員とか研究仲間とかはすぐに理解しただろうから、なぜ適切なアドバイスをしてあげてないのだろうかとか、ジェンダー法学会はなぜこれくらい基本的な問題があるのを承知で賞を出すのだろうか、とかそういうことです。それともそうした問題があることに気づかなかったのだろうか。

 

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(4)

    • 第4章第3節も見ておきたい。
    • p. 151に出てくる、Nodding (2011)という資料はどういうものかよくわからない。この団体 https://restorativejustice.org.uk  が出している冊子かもしれない。あるいはこれ https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story そのものか。そもそもこの団体がどういう性質のものかよくわからない。怪しい団体ではないとは思うのだが。
    • p.152に出てくるKeenan (2014) も最初見つけられず苦労したのだが、文献リストでは「報告書」として他の「外国語文献」とは別になっていた。「学会報告、講演」も別になっていて、上とあわせてその分類の基準がよくわからない。このKeenan (2014)もURLとかないので探すのけっこう苦労したけど、とりあえずこれ http://irserver.ucd.ie/bitstream/handle/10197/8355/Marie-Keenan-Presentation.pdf?sequence=1
    • この資料は、修復的司法を希望する、参加したい、加害者と対話したい、という人々30人に対するインタビューで、前の節のデイリーvsカズンズ論争が実際に修復的司法は効果があるか、という数字をつかったあるていど実証的なものであるのに対して被害者の願望を聞き取っているもの。話の順番が奇妙に感じられるが、それは問わないことにする。
    • この資料自体は、貴重な被害者の声をきんとひろっていて、非常に迫力があります。こういうの探してくるのは小松原先生すごくえらいと思いますね。
    • ただし小松原先生の参照のページがずれているようで、対応箇所を見つけるのを非常に苦労することが多い。これは多すぎるのであげきれない。
    • また、このKeenanの調査が、さまざまなタイプの被害者の特徴を示す記号がつけられて特定されていることなどにまったく触れられていないのが気になる。家族内レイプと路上レイプなどは経験その他がまったく違うと思われる。それに、小松原先生が同一人物をダブルにカウントしている箇所があるように思える。下では「VSSR」(Victims of stranger rape as an adult)と記述されてる人の発言が何度もでてくるが、これは同一人物である。しかし、小松原本ではどの発言がどの被害者のものかわからなくなっている。
    • p.154で「責任のメカニズムとして」という表現が出てくるが、これは説明しないとわからない。

(f) 虐待を告発する際に教会の権威者を問題にすること
教会内の事例においては、被害者陳述のように、RJを通して加害者の責任を追求したいと考える性暴力被害者もいる。(p.154)

  • これは読みちがえているように思う。

f) Dealing with Church Authorities when Abuse Disclosure handled Badly
One victim of clerical abuse whose abuse disclosure was poorly handled by the church was keen to meet a priest to whom she had disclosed through a restorative meeting as she thought there would be healing in it for her.

  • ということなので、加害者の責任も問いたいが、教会当局の問題の処理も問題にしたい、ということだと思う。加害者以外の人物に被害にあったことを打ち明けたのにちゃんと対応してもらえなかった、あるいは不適切な対応を受けたのでそれについて自分で苦情を言いたいということではないか。

(引用)私は彼に聞きたいのです……私は、普遍的な問題として、彼の動機を本当に理解したいと思っています。
(小松原)この性暴力被害者は、性暴力という問題を「個人的な問題」ではなく「普遍的な問題」だと考えている。

  • 原文は “I would truly like to understand his motivations for it in general.” なので、微妙だが、〔女性や社会にとっての〕「普遍的な問題」と読むのは読み込みすぎかもしれない。「彼のそうした動機一般を知りたい」ぐらいではないか。

しかし、私は〔問いの〕答えを得られませんでした。私は〔今も〕動けずにいるし、問いを抱えたままです。被害者として〔加害者に言いたいことは〕、あなたはあなた自身を責め、恥やうんざりした気持ち、ストレスを抱えることになりました……でも私はそれぞれの〔加害者は〕個別で違っていると思います。だから、私は「なぜ、私なのか(Why me?)だったのか知りたいのです。

これは非常に痛切な告白でもあるわけですが、これほど大事なものも誤訳していると思います。

But I haven’t got answers. I’m stuck and I still have questions – as a victim you blame yourself for a lot of things, a lot of the time. You do blame yourself and you suffer a lot of shame and disgust and a lot of – you know, a lot of stress… … But I think each individual is different, I think. So I’d just – I need to know why me?

このas a victim you blame yourselfってときのyouは、被害者になってしまったときのあなた、我々、そして私自身。

「被害者として、私たちはいろんなことについて、すごく長い時間自分を責めてしまいます。ほんとに自分を責めて、恥や嫌悪感、そしてすごい……わかるわよね、すごいストレスに苦しみます。でも人はそれぞれちがうものだと思うんです。だから私は、なぜそれが私だったのか、を知る必要があるのです」だと思う。

  • この”Why me?”というのは、節だけでなく、本書全体を通してつらぬかれる基本的な被害者の声であるわけです。これほど大事な部分で、こういう読みちがいをしてしまうっていうのはどういうことかと考えてしまうわけです。これは英語読解能力の問題だけなのだろうか。前の節でデータと論文を粗雑にあつあっているだけでなく、この節では被害者の言葉さえもまじめに受けとめていないのではないだろうか。
  • これはちょっと書きすぎたかもしれません。でもこの誤訳らしきものは本当に大きいと思うのです。当然専門家が読めばおかしいと思うはず。誰かが草稿段階でこの原稿を読んだらおかしいと思うはずだし、学会賞を出そうという人々が読んでたら、なにかへんだとおもわないはずがないと思うのです。そしてこうした疑念が、わたしをいらいらさせるのです。いまも書きなおしてて、やっぱりいらいらしてしまいました。読んでる人々が不快になったらもうしわけない。でも私はこうしか書けないのです1)それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

 

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1. それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(3)

  • デイリー先生の文章の引用

私は〈裁判による性暴力の問題解決〉より〈カンファレンスやそれに類するRJ〉がより一般的に用いられるとは思わない。〔しかしながら〕私は犯罪と被害へ、より洗練された対応をすること、そしてRJがその流れの中に位置づけられることについて考えることは、意義があると思っている。

私が訳すると「私は、カンファレンス、より一般的には修復的司法が、性犯罪裁定の問題に対する「解決」になるとは〔カズンがわたしになすりつけているようには〕考えていない。私が信じているのは、犯罪と被害に対応することについてもっと革新的に考えてみることには価値があるということであり、修復的司法はそうした潮流の一つだ、ということである。そうした各種のアプローチが、被害者や加害者に対して有効な司法のなかで邪魔になると考えるのはむずかしい。」

  • ここまで、主にほぼ4章2節の英語の訳の問題だけ見てきたのですが、どれもいわゆる「意訳」や「わかりやすい訳」やケアレスミスだけではない。構文がとれないために意味がとれてないないか、知識がないためか、検討する論文全体を読んでいないため理解できていない、という感じだと思います。こうなると、この本に出てくる日本語の翻訳が出ていない文献からの引用・参照はすべて疑わねばならないことになる。しかしそれはしょっぱなから論文タイトルがまちがっているのを見れば誰でもわかる話でもあると思います。
  • まだ続きます。

 

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(2)

p.149

刑事司法制度の補完として、RJを取り入れる具体策としては、「有罪答弁」の改革をデイリーは挙げている。現行の刑事司法制度にも、加害者が自らの犯行を自白する「有罪答弁」は導入されている。しかしながら、デイリーによれば「有罪答弁」は「被害者の決まりきった質問に、加害者が棒読みで答えるという白々としたもの」である。それを「被害者が自分の経験を思いきり語り尽くし、加害者は率直に事件について吐露する場にする」のである。(p. 149, 強調江口)

  • まず、イギリスやオーストラリアの裁判制度のなかでの「有罪の答弁」guilty pleaの制度を紹介してもらう必要がありますわね 1)おそらく本書にそうした説明はない。。http://www.courts.sa.gov.au/RepresentYourself/Offence/Pages/Pleading-guilty.aspx こういうんですか。っていうかオーストラリアの裁判所制度がどうなってるかはここらへんからたどればわかるはず。まあそこまでしなくてもGoogle様が教えてくれる
  • んで、この有罪答弁では「被害者が質問して加害者が答える」なんてことになってるのでしょうか。まさか!原文は

The court’s guilt plea process can change (Combs 2007). Rather than ‘perfunctory affairs [in which] questions are mechanically posed, answers are monosyllabically provided, and all of the participants seek to get the proceedings over with as quickly as possible (p.14), Combs propses a ‘restorative justice guily plea’ that would have greater disclosure of the offending by defendant and greater involvement of victims in describing the effects of the offense.

  • デイリーではなくコーム先生の意見であるのはともかくとして、「審問が機械的におこなわれ、それに対してはイエス・ノーだけ(monosyllabically、一音節で)で答えられ、関係者はみな手続をできるだけ早く終らせようとするおざなりな手続き」ぐらいですか。現行で被害者が直接加害者に質問するなんてあるわけない。ここらへんになってるくると、著者はまったく知らないことについて語っている可能性が出てくるわけです。

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1. おそらく本書にそうした説明はない。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)

小松原先生の『性暴力と修復的司法』の第4章は非常に問題が多いと思うので、すこしずつ指摘したいと思います。実は同内容の別の文書を書いてしまって、公開するべきかどうか実はかなり迷ったのですが、やっぱり見てしまった以上は書かざるをえないと思います 1)この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。。ここではなるべく価値判断は避けて、事実だけ記載しなおしたいと思います。ジェンダー法学会の奨励賞を受賞していることからも問題の深刻さを考えさせられました。


第4章第2節

  • 書誌情報、author-yearの形 (Daly (2006), p.339の形)をつかっているのに、Ibid. も使うのは奇妙な印象があるけど、こういう書き方をする分野があるのだろうか。

p.143

  • デイリー論文タイトルを「歪曲のない記録の位置付けとラディカルな変更への要求」している。原題は“Setting the Record Straight and a Call for Radical Change” なので、「事実を明らかにすること、ラディカルな変化をもとめること」かなあ。set the record straightはほぼ慣用語句。
  • どこか別の場所で『修復的司法─どう実践するか(Restorative Justice: How It Works)』というのも見たのですが、ページ失いました。How it worksは「それはどう機能するか」、くだいて「それはうまくいくか」だと思う。
  • デイリー論文の紹介 https://www.researchgate.net/publication/31045901_Restorative_Justice_and_Sexual_Assault_An_Archival_Study_of_Court_and_Conference_Cases

小松原p.144

「裁判に参加した226例(59%)の少年のうち、118例(31%)がRJのカンファレンスに参加し、41例(10%)が訓告を受けた。その結果、再犯率は裁判が66%で、カンファレンスは48%だった。また「(執行猶予も含んだ拘留などで)〔少年に対して〕責任を追求して脅す「青年脅迫(Sacare Youth)の試みは、最も高い再犯率を示している(80%)。(強調江口)

  • デイリー先生の原文によれば、扱われてるのは385事件の少年365人、そのうち226は裁判所に送られ、別の118はカンファレンスに、41は訓告formal cautionを受けた、ということだと思う。226+118+41=365よね。「裁判に参加した226例の少年のうち」はまったくのあやまり。これ以降、そのまま信じることはできない。
  • 原文によれば、再犯したのは80%ではなく81%。ここのところは、オーストラリアの裁判制度の説明が必要だとおもいます。
  • Scare Youthには脚注がついていて、

「Scared Straight Programのこと。1970年代米国に非行少年に対して行われた犯罪抑止プログラム」

云々という脚注がついているが、これは1995〜2001年の南オーストラリアの話なのでまったく関係がないと思う。原文はThe court’s effort to ‘scare yourth’ with threat to further liabilityということなので、米国の話とは少なくとも関係がないように見える。

「こうした結果を見ていくと、性暴力事犯において、少年が裁判を受けたり、厳しく罪を問われたりすることは、再犯防止にならないということがわかる。」

  • これはこんなに簡単にはいえない。「「もっと厳しく責任を問うぞ」として法廷が若者を脅す」というのは、i.e. detention, including suspended sentencesということなので、裁判所に送られてけっきょく拘留しただけとか、起訴猶予などの処置にされた少年たちが81%再犯におよんだわけだけど、これはカンファレンスや訓告ですまされた少年たちより悪質と考えられて裁判所に送られた少年たちであって、カンファレンス送りの少年たちとは簡単に比べることはできないと思う。

「さらに、裁判はカンファレンスよりも集結までに2倍の時間がかかり、被害者は平均6回も裁判所に足を運んでいた。被害者の負担は大きいのである。それにも関わらず、最終判決に出席しても半分近くの事例は訴訟棄却または訴訟取り下げになるとデイリーは指摘している。」(下線江口)

  • 原文はvictims would have had to attend court an average of six times to lean the outcome of their case。これは、「もし被害者が裁判結果を聞こうとすれば、6回ぐらいは行かねばならなかったろう」ということだと思う。
  • If they appeared in court on the day of finalization, nearly half would find the case was dismissed or withdrawn. 「その日に傍聴にいけたとしても、半分ぐらいは起訴猶予やら起訴とりさげやら」ということ。被害者が裁判所に行こうが行くまいが判決は同じ。これは下のような感じ。
  • 先生書いてないので1パラだけ紹介すると、41の訓告(formal cautions)処分措置にされた全員が罪状を認め終結した。118のカンファレンスのうち、ほとんど(94%)が性的暴行を認めて終結した。裁判所送りになった226件のうち、51%が性犯罪が立証された。4%は非性的犯罪とされ、残りは棄却、起訴取り下げ。226件のなかで公判にかけられたのは18件、8%。Guilty pleaはあとで問題にするけど、さっさと有罪を認めれば裁判短縮してあとは量刑を考えるだけになるというもの。残りのうち14人が罪状を否認、その結果、8人が棄却、3人は無罪。けっきょく、 226件の裁判所ケースのうち、115件は性犯罪が立証された(ほとんどすべてGuilty Plea)、8件は非性的犯罪、100は棄却または起訴取り下げ、3は無罪、ということだと思う。こうした情報を示さないで一部の数だけを示しても意味がない。(あんまり自信ない。オーストラリアの(少年犯罪の)裁判制度の説明が絶対に必要のはず。)

「被害者が証言したのは14例のみで、有罪判決が出たのは3例だけだ」

  • 原文によれば、「裁判所送りになり、さらに公判にかけられた14例のうち、何件で被害者が証言したかはわからないが、仮に14件で被害者が話をするのを許されたとすれば〜」
  • 1ページでこれほどあやまりと思われるものが多いとかなり苦しい。

  • Daly先生の引用

SAASの結果は性暴力への対応における公式の裁判過程の限界をあらわにしている。この限界は〔被害者と加害者を〕対立させる〔刑事司法〕制度に内在している。それは〈告訴された人が加害を否認する権利をもっていること〉と〈法律的な罪を確定する中では証拠を集めるハードルが極めて高いこと〉である。

  • 「被害者と加害者を対立させる刑事司法制度」というのが謎。“The limits inherent in an adversarial system in which accused persons have the right to deny offending and the evidentiary hurdles are especially high in establishing legal guilt.” であって、「〔容疑者に対して〕敵対的な制度」であって被害者と加害者を対立させるわけではない。刑事司法というのは基本的に「国vs容疑者(被告)」だと思いますが、私がまちがっているのか。被害者と加害者の対立は二次的であるはず。(もちろんそれではだめなのかもしれないので、被害者が裁判に参加できる形を模索しているわけだが)

pp. 147-148でのデイリー先生の引用

  • ここは長くいろんな不正確な訳が含まれているので、下に私の訳を示します。
    > 私が思い描いている重大な変更目標は、次の三つの要素からなる。犯行の自白(理想的には、当初からの自白)の増加、(裁判での)事実認定の必要の減少、そして性犯罪と性犯罪者に対する強すぎるスティグマづけの最小化である。弁護士たちは依頼者の権利を擁護するだけでなく、「法的」には有罪ではないとしても事実上有罪であるような依頼者が、その罪を認めることの価値を見出すことにも役目を負っている。私はこのような変更目標がすぐに実行されるとは期待していない。

  • まだ続きます。

 

References   [ + ]

1. この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。

読書案内:女性のための働き方・立ち回り・そして社会的発言ガイド本

私、正直なところこういうブログ書いてて、ネットの一部ではアンチフェミやらミソジニーやら言われてるかもしれないんですが、それは誤解で、商売がらもあって特に女子の安全・健康と社会進出には強い関心をもっています。むしろ女性応援。女性は神様です(お客様は神様と同じ意味で1)トレンドは生涯学習なので、若い女性には限りませんよ!)。

最近、女性の声の出しかたがどうのこうの、っていうの見たんですが(そういうのばっかり)、女性も男性も社会でうまくやってくための技術っていうのは、やっぱり学ぶものだと思うんですよね。男性もそういうの学ばないとならんと思うし。下の本は男子が読んでもものすごくおもしろいはずです(私はどこでもうまくやっていけないので日々勉強してます!)。


以前その手のビジネス書をあさってた時期があったんですが、まずはこれが偉い本なんですね。

これは原著は1970年代に出ていて、女性がビジネスの社会で本気で働きはじめたときにぶつかるいろりろな問題(会議での発言、派閥でのたちまわり、セクハラもどきや上司からのお誘いを含め)をいろいろガイドしていて、いまとなっては古い記述もありますが、えらいものです。

この本は影響力があったらしく、その後多くの女性ライターの人々がオマージュしてますね。最近日本でも、私が好きな勝間和代先生が最初に「ハラガン先生に捧ぐ」みたいなの書いてました。

アメリカ国内でもそうした本は多いようで、↓の本とかそれぞれおもしろい。

政治的にはあんまり正しくないかもしれないが、ある種の女性とある種の男性には役に立つかもしれない。男はルールについて議論するのを好むとか。男のルールは(1)できるふりをする、(2)自分を強く見せる、(3)つらくても継続する、(4)感情的にならない、(5)アグレッシブになる、(6)戦う、(7)真のチームプレーヤーになる。女性の欠点は(1)失敗を恐れる、(2)消極的、(3)優先順位をつけられない。

まあこれも男のルールと女のルールの話。『7つのルール』と同じようなものだが、わざわざ買って読むならこっちの方がいい。

ある日のこと、上層部の会議の席で、二人の男性重役が激しい口論を始めました。思わず止めに入りたくなるほど、口汚いやりとりでした。ところが会議が終わると、その重役がもう一人のほうを向いて、親しげな声でこう言ったのです。「ビールでも飲みに行こうか」私はびっくりしました。二人がそんなに早く頭を切り替えて、普通の会話を始めるなんて思いもよろなかったからです。このとき私は、男の世界は私たち女の世界とは違うのだと気づきました。

ほとんどの女性にとって、会社とは男性が先住民である「外国」です。

↓の本は雑誌『ミズ』とかで働いてた人が書いたもので、現代的になってると思います。

最近いちばん感心したのがこの↓の本です。これはビジネスだけでなく、政治の世界とかで活躍するための手引き。話し方だけでなく、服装、表情、ジェスチャー、批判への答え方、SNS対策、テレビでのうつりかたなど、ことこまかに説明してくれていて、やっぱりアメリカさんには勝てないなと思いました。ヒラリー・クリントンになる方法、なんだけど、最後の方に私の好きなエレノア・ルーズベルト先生が出てきてちょっと感動した。ぜひ読んでみてください。

「日本のジェンダーギャップ指数は〜」とか「職場の差別が」「女性の政治参加が少ないのは差別や偏見のせいだ」とかってやるのもいいけど、こうしたプラクティカルな知識と技術を広めていきたいと思います。

References   [ + ]

1. トレンドは生涯学習なので、若い女性には限りませんよ!

離すと動作するカード読みとり機

図書館の入口にこういう改札があるのですが、これ、張り紙とかしてかっこ悪いっていうのもあれなんだけど、それ以外にもものすごく使いにくいんですわ。右の矢印のところに電子カードの学生証や職員証をタッチして入るんだけど、これの反応がものすごく悪くてみんなとまどってる。私とか1年たってもへんないやな感じで、図書館行くと不愉快になる理由のひとつだったんのです。

ところが昨日、卒論学生様がなぜそうなのかを解明してくれたんよね。何回か通って実験して発見したらしい。彼女によれば、この改札は、カードを触れたときではなくカードを離したときに反応するのだ! れはたしかに「うわあ!」っていう感じ。

「なんだってそんな設計になってるんだろうねえ」とか。電車の改札は触れたときに反応するわよねえ。

さっき確認してきたんだけど、そうとわかれば問題なく入れた。しかしそれを理解しろっていうのは無理よね。1年たってもわからなかった人間(私)もいるわけだし。

ていうか、たしかにその手の「離したときに反応する」読み取り機はどっか他でも使ったことがあるような気がする。建物の入口で経験したことがあるような、ないような。

「離したら反応する」のが最悪なのは、ふつう利用者はカードを接触して、いくぶんの読取の時間があるのは覚悟するけど、OKになったら反応があるもんだと思うわけよね。ところがOKがでないからずーっとカードを接触したままにする。するといずれエラーになったりする。それなのに、タッチしてすぐに離すとそのタイミングでピっ!っていって扉が開く。バカではないか。触ったらすぐに反応する、ってことにするには、なにか技術的に問題があるんですかね。それともなにか意図的なのか。

すくなくとも、カード読めたら「ピッ」とかフィードバックしてほしいんですよね。そっからトビラが開くまではちょっと時間があってもいいから。認知科学者のノーマン先生! みんなを助けてください! みたいな感じです。下の本はみんなぜひ一回は読んでほしい。

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー

EUの女性に対する暴力の調査を日本でもやった先生たちの調査結果報告について1)これ、龍大のページではWORDのままで開けない人がいるかもしれないので、PDFにしておきますね、フェミニストの小松原織香先生が加えたコメントに、正体不明自称プログラマのuncorrelatted先生がコメントをつけて、ちょっと話題になってました。

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20181028/1540696942
http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html

このFRAという組織の調査の概略や調査票をめくってみたんですが、さすがEU進んでますねー。

女性に対する暴力はいろんな事情で当局に通報されないものが多い、つまり暗数が多いっていうのが問題だというのは広く理解されていて、この調査はそれがどれくらい存在しているかを推測するためのきっちりした調査ですね。警察のデータや、たんなる紙のアンケートだといろいろ疑問があるから、もう訓練した調査員を派遣して面談して本当のところを明らかにしましょう、という徹底的なもので、すばらしい。

こんなふうにして「こんにちは、私の名前は〜」からはじまって、正確な情報をひきだすかについて細かいところまで気を配っている。

パートナーから身体的/精神的「暴力」の実態を知るために、こんな聞きかたをしています。

「今のパートナーさんとのことについておうかがいします。」「(恋愛)関係とかでは、ふつうよいときも悪いときもありますよね。これからする質問は、今のパートナーさんとのことにつてです。パートナーさんは次のことをどれくらい頻繁にしますか?」

「E01a あなたが友達と会わないようする」「E01b あなたが実家や親戚と連絡をとらないようにする」「E01c 今どこにいるか知らせろとしつこくする」

どの質問項目も、こういうふうに具体的な行動や経験にまで落されていて、「セクハラされたことがありますか?」「暴力をふるわれたことがありますか?」「レイプされたことがありますか?」みたいな抽象的で解釈が必要な質問にはなってない。

これは当然理由があって、「セクハラ」「レイプ」「暴力」みたいなのはなにがそれにあたると考えるかは人によって違うかもしれないからです。「イケメンの大学の先生に肩を抱かれたのはセクハラだろうかそうでないだろうか」「キモい教員にされたのは〜だろうか」とかそういうの考えちゃうと答えられなかったり、本人のバイアスが働いてしまう。小松原先生が(おそらく)指摘しているように、被害を受けた人は自分が悪いとかおもってしまいやすいとかあるわけで。セクハラについてたとえばこんなふうに聞くわけです。

日本語にどう訳すかはいろいろあるだろうけど、「触られたりハグされたりキスされたりして不快だったことがありますか?」か「したくないのにハグされたりキスされたりしたことがありますか?」か。「セクハラ」されたかどうか、とかそういうのは聞かない形になってる。それじゃ(調査者たちが考えるところの)セクハラとはなにか、って説明しなきゃならなくなりますからね。

それに、そうした質問をする前の前置きがいいですね。これは軽く感銘しました。「こんなに進んでるのか!」みたいな。さっきのパートナーの暴力だと、「まあつきあってるといいときも悪いときもありますよね」みたいな前置きを聞けば、「そういやいいときもあるけど悪いときもあるなあ、この人はそういうのわかって聞いてくれてるんだな」って感じて答えやすくなるだろうし、まあいいときや悪いときを思い出す呼び水みたいのにもなってる。えらい!

まあこういう練りに練られた設計による調査で、これくらい考えられている調査に対して、「なにが暴力と考えるかは人によって違うかもしれない」とか「被害者女性は暴力を暴力としてとらえられないことがあるのだ」といったタイプの疑問を持つのは、なんかちょっと筋が違う気がします。それはわかった上でこういう調査をやっているのだと思います。

こういう優れた設計になっているのは、こうした調査をまじめにやろうとしている人々の努力と、こうした調査に関心をもち、過去のいろいろな調査の欠点に対するいろんな批判した人々の努力があってこそだと思う。えらすぎる。

ちなみに日本の内閣府の調査とかではなかなかこのレベルにまで到達してないようで、質問紙とかこんな感じ。

EUのやつと比べると問題がわかると思います。(例はついているものの)「暴行」や「攻撃」を受けたことがあるか、という話になっているので、このタイプだとやはり「私が悪いのだからあれは暴行じゃない」「よっぱらっていただけで攻撃とまではいえない」とか考えてしまう人がでてくる。こういう回答者の「解釈」を要求する質問はよくないと思います。他にも「監視」「嫌がらせ」「脅迫」「妨害」「強要」などのように、定義が曖昧だったり価値判断を要求するような言葉のオンパレードで、これは答えにくい。

んでそれは内閣府もわかっているのか、最新のやつを見たらこういうのが追加されてました。これ前なかったですよね。

「暴力」がなんであるのかの解釈が人によってちがうかもしれないので、「なにを暴力だと思いますか」という質問項目を追加している。これってどうなんだろうと思います。それ以降の質問になんかバイアス与えるかもしれないし。まあこうした調査は継続性も大事なので、質問の仕方が悪くてもいちやりなおすのは難しいとかそういうのもあるんだと思いますが、どうなんでしょうか2)っていうか、それの結果見ると、「「暴力をふるわれた側にも非があったと思うから暴力にはあたらない」みたいな混乱した回答もアリってことになってますがな。こんな調査で大丈夫なのか。

そういうわけで、国内のこうした調査についてはもうすこし検討しなおす余地があるかもしれず、最初にあげた龍大の津島先生や浜井先生が、内閣府の調査があるにもかかわらず、EUのやつを使って調査したのはとても価値があることだと思うわけです。暴力対策発展途上国から脱出するための絶対に必要な一歩であり、えらい!えらい!えらすぎる!

というわけで、私は日本が女性に対する暴力対策の発展途上国かもしれないという見方には理があるかもしれないと思うわけですが、それは小松原先生とは違う意味でそう思うわけです。


(追記2018/11/03)

そのあと、津島昌寛・我藤諭・浜井浩一 (2017) 「女性の暴力被害に関する調査」ってのを確認したんですが、まあ上で書いたようなことが説明してありました。

1970年代後半から、調査対象者にとってセンシティヴな内容を尋ねる調査においては、調査の運営や実践の点で改良が重ねられ、自己具体的には、特定の行為に関する質問(暴力被害の具体的な例示による概念測定の妥当性の確保)、調査員を対象とした事前訓練および調査員からの事後報告、回答者と調査員の安全確保、回答者に対する当該地域の法的支援や社会サービスの紹介などである申告式調査が出現した。それは、社会調査に重要な革新をもたらした。p.182

とかで、この時期から(先進国では)警察とかのデータにとどまらず、もっと暴力被害をしっかり把握しようと努力しはじめたってことですね。

KossのSexual Experience Survey (SES)では、女性が望まない性被害をどのようにとらえるのかという問題を扱った。SESでは強制わいせつや強姦未遂、強姦など広範囲にわたる性被害について尋ねているが、回答者によって理解が異なってしまうような「暴力」や「強姦」といった言葉は使用せず、特定の行為に関する質問──例えば「望まない性的経験の行為」や「加害者が性行為を強制するために用いた行為」──から構成されている(Koss et al. 2007)。……その結果、これらの調査手法はひろがりを見せ、アメリカのNational Crime Surveyをはじめ、British Crime SurveyやCanada’s 〜において、質問文の表現や調査のプロトコルが改善されていくことになる。(p.183)

ということで、こうした調査では最初から「暴力をふるわれましたか?」「レイプされたことがありますか?」のような質問は避けることになっているわけです。

プライバシーにかかわる調査については、調査員がいると答えにくいんじゃないのかという疑問がたしかにあるわけですが、

〔WHOの調査〕においても、調査員の選定と研修が各国でなされている。調査対象者がその被害経験を回答するかどうかは、調査員の性別、年齢、態度、対人関係の取り方に拠るところが大きい。調査員は、調査を遂行するための基礎的な学力のほか、異なる背景を持っている人々と共感的にやり取りできるかどうか、センシティヴな問題を扱えるかどうかといった基準で選ばれる。(p.184)

共感的な調査員がいた方がうまく聞きだせることもあるかもしれないので、優秀な人々を送りこみましょう、ってわけですね。

IVAWSでは、たんに暴力の被害に遭ったかどうか、強姦の被害に遭ったかどうかという聞き方はしていない。例えば、身体的暴力では「あなたは傷つけたり脅したりできるような物を投げつけられたりたたかれたことはありますか」というふうに、具体的な行為内容を示した上で経験の有無を尋ねている

何回もくりかえしますが、こういうのは現代的な調査ではちゃんと考えてあるわけです。

しかしそれでもうまく聞き出せないことは当然あるわけで、それがこの種の調査の難しいところですよね。調査員使うと回収率も下がるし。調査員の腕の差も出やすいだろうし。へたすると二次被害とかも引きおこしていしまうわけで。津島先生たちもそれは痛いほど理解している。

「本当の事は回答しにくい」これは、回答者の一人が調査員に漏らしたことばである。この発言からは、自分の私事を他人に打ち明けることがいかに難しいかが読み取れる。(p.188)

調査員の研修も、調査についてのいろいろな知識や、ロールプレイを含めたいろんな準備とかしてるみたいです。EUでは研修4日やるんだけど、今回の津島先生たちのではいろんな事情から1日しかできなくて無念、みたいなのもありました。真面目な先生たちだと思う。

ちなみに法務省の暗数調査の問題点は、痴漢やセクハラのような性暴力被害を調査してない点で、内閣府の男女間の暴力の問題は被害に関して簡略化された設問となってること、そして両者ともに留置(自記)なので妥当性や信頼性に問題があることだと思います。この件で、ちょっと法務省のと内閣府のやつの「届出率」みたいなのの違いに言及したツイートも見ましたが、それがその理由の一つかもしれない。

References   [ + ]

1. これ、龍大のページではWORDのままで開けない人がいるかもしれないので、PDFにしておきますね
2. っていうか、それの結果見ると、「「暴力をふるわれた側にも非があったと思うから暴力にはあたらない」みたいな混乱した回答もアリってことになってますがな。こんな調査で大丈夫なのか。