大庭健」タグアーカイブ

パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

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パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

妊娠中絶の生命倫理
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「パーソン論」続き

昨日ちょうど弘文堂の『現代倫理学事典』*1が図書館に届いたので、さっそく「パーソン論」をひこうとすると項目がない。(それはそれで見識かもしれん)

でもとりあえず「(マイケル・)トゥーリー」の項目はある。

「自己意識や理性的能力を一度も持ったことのない存在は人格ではないという議論を展開し、このような人格を持たない胎児の中絶や嬰児殺しは必ずしも道徳的に不正ではないと論じた。」

げ、「人格を持つ」か・・・ぐはっ。執筆者は児玉聡先生*2。なんで「人格を持たない」なんて表現使うのだろうか。「人格の特徴をもたない」「人格ではない」、せめて「人格をもたない」ぐらいにすりゃいいのに。(注意!下のコメント欄を参照。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk22/tooley.html では「人格をもつ」という表現が1回だけ出てきています。もしこれがhave a personのような表現であれば児玉先生にも(昨日のエントリで)小松先生にも失礼なこと書いていることになりますので調査します。have personality/personhoodのような表現ならセーフ。)

「人格」の項目ならある。責任編集の大庭健先生のご執筆。(なんかたてつづけに大庭先生の名前が出てきてからんでいるように見えるかもしれないが、そういうつもりではない。偶然。)

けっこう長いエントリー(全部で13節に分けられている)で、全体がむずかしくて私がはっきり理解しているのか自信がない。

第VI節、タイトルが「倫理的プリミティブ」なのだが、

こうした方法論的な循環は、人格という概念のあいまいさ・不確かさを示しているようにも見えるが、そうではなく、人格の概念が論理的プリイティヴ(そこから話がはじまる大元の概念)であることに由来する」

と書いていらっしゃる。この節に「理的プリミティブ」という言葉は一回も出てこない。論理的なのか倫理的なのか。ずいぶん違うと思うのだが。内容からすれば、おそらく本文の方が誤植なんだろう*3。「人格person」っていう倫理的概念はそれ以上分析できない基本的な概念である、ってことかな。そして他の概念はそれを使って定義されたり分析されたりする。だから「人格」を別の概念の組合せで定義したりすることができないと言いたいのだろう(おそらく、いやわからんが)。

でもよく読むとこの解釈はまずいかもしれない。そのあとで、

私たちは、こちらから呼びかければそれに応じて動くものと、そうではないもの、すなわち呼びかけようと呼びかけまいと決まった動きをするものを区別する。・・・このように呼応可能な相手として、そうでないものから区別された存在が、もっとも広義の人格であり、この広義の人格は、人間を構成するプリミティヴである。

と書いていらっしゃる。んじゃ「プリミティブ」は「定義できない」「分析できない」っていう意味でもなさそうだ。だって「存在」と「呼応可能」っていう(より基本的な?*4)概念にもとづいているように見えるから。それにうちの猫は呼びかければ応答するから人格なのかな。むずかしい。(面倒だから第VI節(人格の外延)、VII節(個体的同一性)は引用しないけど、そこ読んでも猫が人格でないということが言えるとは思えない。IV節では、人格である条件として、「自分のことを描写し考えることができなくてはならない」と主張している(なぜかはわからん)。これでいうと、3歳児とかは人格じゃなさそうだ。

さて、「パーソン論」に関係して気になったところ。

「胎児や植物状態の人も、現時点では呼応が成立していないとしても、人格でありうる。新生児のみならず胎児も、時間の幅を長くとれば、呼応可能な間柄のパートナーたりうるからである。

おお、大胆な主張。ふむ。すでに多くの哲学者によって批判されている「潜在的人格」説。これに対する批判は書いてくれないのかな。あと、「ありうる」と「ある」の違いが気になる。「ありうる」なら「たくさんの胎児のなかの一部は人格かもしれない」ぐらいの意味なのかな。(あれ、逆に、成長したヒトは皆「人格」なのかな。それとも「成長したヒトは人格でありうる」なのかな。つまり、成長したのヒトの一部には人格でない存在者がまじっている可能性はあるのだろうか。その場合、人格と人格でないのの違いはどこにあるんだろうか。それとも「成長したヒトは人格である」なのかな。)

それは、発芽したリンゴの苗木は、いまだ果実をつけないから果樹ではない、と言えないのと同様である。

おお、かっこいい。この比喩にはしびれた。ふつうは、「胎児は人格(パーソン)ではない」っていう議論をするために、「どんぐりは潜在的には楢の木だけど、楢の木ではないでしょ」とか「5才の安倍晋三は潜在的な日本の首相だけど、首相の権限をもっていなかったでしょ」、「だからある胎児が将来人格になるにしても、まだ人格とは言えないでしょ、人格と同じ権利はもってないかもしれないでしょ」というように使われる議論なのだが、これをこうするとは。

でも大庭先生のこの比喩はミスリーディングだろう。おそらく「果樹」は「プリミティヴ」じゃないので定義ができる。「食用の果実のなる樹木の総称、またはその一本」ぐらいだろう。「果樹」は「果実がぶらさがっている木」「ぶらさげたことがある木」のことではないから、まだ実がなってなくてもよい。(また少なくともリンゴのはまだ果樹ではないだろう。)「人格」が「果樹」のような概念なのかどうか。(ホモサピエンスの一員としての「ヒト」の方ならば、「果樹」と同じような概念なのは認められる。)

植物状態の人の意識の蘇生は、現代の医学では説明困難なレアケースに属そう。しかし、そうしたレアケースであるということは、アプリオリに不可能だということを含意しない。

なんか二重三重に間違っていると思う。

昔の判断基準での「植物状態」から帰ってきたひとはたくさんいるだろうし、説明困難でもないだろう。「遷延性」植物状態から帰ってこれたのであればそれは遷延性植物状態ではない。大脳が機能停止しているだけじゃなくて、器質的に死んでる(まったく血流がないとかがその判断基準になる)のに帰ってこれたのならまさにいまんところ科学が説明できないミラクルだろう。

でもなにかが現実に可能だったらアポステリオリにもアプリオリにも可能だろう。アプリオリに不可能なのは、8+5=12にしたり、広がりのない箱を作ったり、丸い三角形を作るぐらいだろう。墓から3日後に蘇えるのもアプリオリに不可能なわけではない。

さらにうしろの方で大庭先生はいろいろ書いているのだが省略。

私はチンパンジーや豚や牛や猫を大庭先生の意味で「人格」としない理由が知りたいのだが、どうも答えてもらえそうにないと思う。

うーん、難しい。学生が学習に使う事典としてどうなのかな。「現代」倫理学事典をなのる以上、「パーソン論」をめぐるいろんな議論を紹介するエントリはやっぱり必要だったんじゃないか。せめて「人格」の項ではもうちょっと紹介してくれないと。

まあたまたま最初にひいたエントリがこうだったからってだけで判断してはいかん。事典とかってのは学生の調査の第一歩になるものだから、なるべく客観的に書いてほしいんだが、まあそれじゃおもしろくないのか。いっそ『事典・哲学の木』のような形なら論文・エッセイ集として素直に読めるんだけどね。

それにしてもほんとうにここらへんの議論は難しい。私には難しすぎる。これまで私が書いたことはどれも信用しないでください。。レポート書く学生は参考にしない方がよいと思う。

おまけ

「レイプ」の項(堀口悦子先生)

レイプとは、日本語では、「強姦」という。しかし、日本のポリティカル・コレクトとして、「姦」という字が女を3つ書くという、非常に差別的な文字であり、表現であるということで、「かん」とかなで表記している。

文章が微妙だけど、ママ。わたしもこの「強かん」っていう交ぜ書きは嫌いなのだが、そうだったのか。でもほんとうかなあ。わたしは単に「姦」は常用漢字じゃないから新聞雑誌はそう書いているだけだと思っていたのだが。

「性欲」の項(田村公江先生)

性欲は主観的感覚であり実証的に数値化しにくいものではあるが、各人における強弱の変化には実際にある種の体内化学物質(中略)が影響しているのであろう。そしてここには、男性女性の区別はないと思われる。

体内化学物質(ホルモンや神経系の化学物質)がかかわっているなら、なおさら男女の(統計的な)違いはありそうだけどなあ。そういうことじゃなくて、男女とも生理的なものの影響を受けているということ自体かな?そりゃそうだろう。

「少年犯罪」の項 (河合幹雄先生)

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。

ちょっと文章おかしいけどママ。なんというか、だいじょうぶか。たしかに貧困は大きなファクターだろうけど、少なくとも「両親が揃わず」は不要だと思うけどなあ。「両親が揃っていない」はほんとうにファクターになってるかな。もちろん、「両親が揃っていない」と「貧困になりやすい」ってことは言えそうな気がするけど。

あらその直後にこんなこと書いてる。

貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。

あれ? ちょっとあれなのでそのパラグラフ(項目の最後のパラ)もう一回引用。

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。生活が豊かになって生活のためより、遊びのための犯罪が増えたと言われているが、統計的根拠は乏しい。現在と比較すれば貧しかった時代でも、生活に困ったからといって犯罪はしない。貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。他方で、犯罪のためにスリルがあるのは今も昔もかわらず、遊びのために犯罪に走る少年は昔からいる。

なんだこれ。なんか矛盾してるぞ。なにを言いたいんだろう?日本が貧しい時期はもっと犯罪が多かったのははっきりしているだろうし。うーん?かなり意地悪く読むことができるような気がする。「貧困」が原因ではないが、「貧困」な家庭を持つものが大半なのであり、かつ、遊びのために犯罪に走るのであれば、貧困な家庭で育つひとは貧困とは関係なく遊びのために犯罪に走る、と読まれてしまうかもしれない。いくらなんでもこういう読みをする必要はないだろうが、やっぱりわからん。ひどすぎ。

「ジェンダー」項目なし(!)

「→性」になってる。

で、「性」の項目(田村公江先生)では

[英]gender; sex; sexuality

になってて、本文中では1回も「ジェンダー」が現れない。けっこう長いのだが、主にフロイト理論の話。小見出しは「フロイトの性欲論」「フェミニズムの功績」「去勢不安」「性的な営みをより良いものにするには」「性教育についての提言」「フェミニズムの功績」のところでも「文化的性差」とか「階級」とか「家父長制」とかっておなじみの言葉は出てこない。うーん。

「家父長制」の項(金井淑子先生)のところで「ジェンダー」が使われている。でも「ジェンダー」の説明はなし。

(「家父長制」)はケイト・ミレットが、『性の政治』で、年齢と性からなる二重の女性支配の制度として定義し直し、ジェンダー概念とともに、第二波フェミニズムの不可欠の概念となった。

「フェミニズム」の項(大越愛子先生)でもジェンダーは使われているけど説明ないなあ。

また近代思想を極限まで追求することで、それが暗黙の内に前提としていた男性/女性のジェンダー二元論という虚構をえぐり出すなど、フェミニズムのよって立つ基盤への挑戦も遂行されている。

とかって感じ。

まあ、この事典は「応用倫理学事典」じゃないからそういうのはいいのかな。なんかヘンなこと書いたけど、この手の事典は国内では少ない(岩波の『哲学事典』古すぎ)から、出版してくれただけでありがたいと思う。本当。


*1:高い!ふつうの人には買えない。私も買えなかった。

*2:この方は自分のページで「パーソン論」の解説 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html でも同じ感じで書いているを書いているのだが、こっちの記述は過不足なく書けている (ちなみに「用語集」の他の記載は正確で非常に有用だと思う)

*3:いや、これでいいのか?わからん。

*4:私には「ひと」より「呼応可能」が基本的な概念であるとはとても思えないのだが。だって基本的にはそれ(相手)が「ひと」だと思うから(大庭先生の意味で)呼びかけるわけでね。まあひとかどうかよくわからんものにもとりあえず呼びかけてみることはあるかもしれないけど。まあおそらく大庭先生は、この「呼応可能な存在」は「人格」の「定義」ではない、とおっしゃるだろうと思う。「プリミティブ」ならそれ以上分析を放棄してもよさそうなものなのだが、なぜ「応答可能」をもちだすのだろうか。逆に、「人格」はすべて大庭先生の意味で「応答可能」なのだろうか。

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小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(3)

ISBN:4569626157

あとシンガーの議論やろうかと思ってたけど、根気がつづかん。一箇所だけ。

脳の機能が不可逆に停止した人間に関して倫理的に関連のある最も重要な特徴は、その人間が人間という種の一員であるということではなく、その人間には意識を回復する見込みがまったくないということだ・・・意識がなければ、生存しつづけたとしても、それが本人の利益になることはない。・・・これとまったく同じことが 遷延性植物状態の患者にもあてはまる(シンガー[一九九八]、255-25頁*1

人間の生死の決定を利益なるものの有無ではかるとは、なんとも世知辛くやるせないことではないか。なんたる傲慢で想像力を放棄した行為だろうか。(p. 217)

「利益」を金銭的な利益のようなものとしてとらえてはならん。原文は “Without consciousness, continued life cannot benefit them.” でも書いたが、 当人がまったくなにも感じない場合に、なにかそのひとにとって「よいこと」があるのか、という問いだし、傲慢でも想像力*2を放棄したものでもないと思う。

ちなみに、この引用文のすぐあとでシンガーは次のように言っている。

だからといって、不可逆に意識を失った患者の生命を終わらせる決定が簡単であるとか、機械的におこなわれるということにはならない。考慮すべき患者の感情は微妙であり、また大切でもある。患者が新生児や幼児であったり、意識の喪失が突然であったりした場合にはとくにそうである。 (シンガー、p.256)

シンガーを読んだことのあるひとはわかると思うが、シンガーは特に傲慢でも想像力が欠けるひとでもない。むしろふつうの人よりはるかに左翼的・平等主義的な実践的関心にあふれていて圧倒される。

根気が続かないのであとメモだけ。

  • 全体を通して大きく依拠しているシューモン(Alan Shewmon)の研究、シューモン自身はどうも(脳死)臓器移植反対派ではないようだ。どういう立場なのか紹介してもらえたらよかったのではないか。
  • 「有機的統合の不可逆的喪失」説の批判はポイントをついておりたいへんよいと思う。ただし、この概念がだめだってことは当時からいろんな人によって指摘されていたと思う。
  • 和田移植以来の日本の移植医療の問題点はよく調べてあって勉強になる。
  • 最後の方で脳死患者が19年生きつづけているという話が紹介されているが (高間智生*3、「『脳死』で16年間生き続ける少年」、『ザ・リバティ』(幸福の科学出版)、1999年10月号)、ほんとうに脳死なんだろうか。これはたしかなニュースソースなのだろうか*4。 まえに書いた遷延性植物状態の患者が看護師に返事をしたとかってのと同じように、あんまり信用ならないデータを大事なところで使われるのは非常に困るのではないか。小松先生が出してくるいくつかの珍しい事例について、医学界はどういう反応をしているのか知りたい。もし医学界や報道が意図的に無視しているのだとすればそれは大問題だよなあ。
  • 小松先生がはっきりさせてくれないのは、シンガーやのような人びとも、自分自身の道徳心のようなものと理論的な整合性の要求の間で悩んでいることだろう。彼らは生と死についてとにかく首尾一貫した考え方をしたいってことで、いろいろとまじめに考えている。もし「ホモサピエンスはとにかくどんな状態でも生き続ける権利がある」を本気で主張すれば、もし首尾一貫しようとすればいろいろ理論的に不都合なことが起きるし、あるいは首尾一貫しない不整合な感情論・直観的判断におちいってしまうのだが、そこらへんどの程度本気で考えているのかわからん。
  • たとえば中絶や避妊とかに対してどういう考え方をとるのだろう?
  • あるいは末期患者の治療停止について。どうにも治療効果がなく、意識もない患者も、何度も蘇生させるべきだろうか?(現在の医療では、無理矢理生かしつづけることはほとんど無制限にできるのではないか。)

というわけで、http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061214 で書いた大庭先生の「(生命倫理学が)どのように作られたものかをもう一度考えなおせ」については、あんまり得るところがなかった。もちろんそれは 私に心の目や想像力が欠けているからだろう*5。反省しよう。


*1:ピーター・シンガー『生と死の倫理』、昭和堂、1998。この手の話に興味があるひとは、小松先生の紹介を読むだけでなく自分で一回読んでみて考えてみるべきだと思う。それをしないで小松先生の議論は説得力があるからシンガーは読む必要がないと思いこむひとは、小松先生が批判するマインドコントロールにはまっているのと変わりがないと思う。

*2:だいたい、自分と違う意見の人は想像力がないとか本当のことを見る目がないと主張するのはどうなんだ。時々そういうひとっているのだがよくわからん。他の分野でも見かける。

*3:このお名前ではgoogleでは1件もひっかからない。

*4:いや別に幸福の科学の雑誌だからどうってわけじゃなくて・・・

*5:もし万が一そうでなければ、ある哲学者がある応用倫理学批判の本の書評(http://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/igiari.html)で触れているように、この著者も「読者に思わず反論したい気をおこさせ、いわば読者を論争のまっただ中に導く」ことによって、心の目をひらき想像力を羽ばたかせ、批判的精神を発揮させようとしているのだろう

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小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(1)

ISBN:4569626157

前回書いた『情況』の大庭健先生は、次のようにおっしゃっている。

だからすでに生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人は、せめて(小松美彦先生の)『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)程度だけでいいから、小松さんの仕事をきちんと読んで、自分の乗っている土俵がどのように作られたものなのかをもう一回考えなおしてくれないかということは少し言っておこうという気になっています。

私は生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人ではないのだが、せっかく大庭先生のおっしゃることなのでちょっとずつ読んでみよう。

いろいろ気になるところだらけなんだけど、ちょっとづつ。

植物状態を扱っている第5章。

医師の堀江武先生の見解として

「植物状態患者には記憶機構も感覚系も作動状態にあり「意識」はあるが、表現手段のための運動系に障害がありコミュニケーションが不可能である」(小松 p.194)

ってのを紹介している。んで、「正真正銘の遷延性植物状態の患者」が看護婦の問い掛けにまばたきの回数で応答しているという報告が紹介されている(p.194)。

これどうなんだろ。植物状態というのは、厳密じゃないけど、「生きてはいるけど意識がない状態」ぐらいだと思っていた、もちろんもっと厳密にする必要がある。小松先生も神野哲夫先生の論文からこの定義を紹介している。「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」(p.185)。OK。妥当な定義に見える。

しかし小松先生は、遷延性植物状態の「定義」を『南山堂医学大辞典』からひっぱってくる。それによれば、(1)自力で移動できない、(2)自力で食物を摂取できない(3)糞尿失禁をみる(後略)とかってのになってる。しかしこれは判断(診断)基準であって「定義」じゃないだろう。

こういう「定義」と「判断基準」の区別の話はハーバードの脳死基準のときから口をすっぱくして語られているのに、なんで小松先生はその区別を無視してしまうのだろうか。わからん。

まあとにかく、植物状態はふつうは定義からしてawarenessがないのだから、問い掛けに応えるならそれは植物状態ではない。これは定義の問題。

んで、問題の堀江武先生の研究だが、この研究はちゃんとしたものなのかどうか確かめる必要がある。巻末の文献リストによれば、これは堀江武、1997、「外傷性植物患者との12年–シグナルからサインへ」、『第6回意識障害の治療研究会要項集』、19頁。あら、学術誌じゃない。この研究会はあんまりgoogleにもひっかからん。どうやって入手するんだろう。まあ国会図書館行けばありそうだが。CiNiiでも堀江先生はあんまりひっからん。どうも最近は日本語では書いて
いらっしゃらないようだ。

googleでひっかかった千葉療護センターのページは重要だな。 。http://chiba-ryougo.jp/ronbun.html 。病院全体として植物状態(意識障害)の患者さんの看護を研究しているようだ。

しかしこのレベルの研究会要綱や雑誌論文は、医学系では学術論文とは認めにくいのではないだろうか。確認してないけど査読とかもはいっていないんじゃないかと思うし。もし事実ならたしかに大発見だが、その後どうなってるんだろうか。それを小松先生のように医学的な新しい知見として紹介してしまうのはどうなんだろうか。やっぱりわれわれが医学とかの論文をとりあえず事実についての知識として信用するのは査読や検証や追試、引用などのシステムがしっかりしているからであるからして。哲学のロンブンとは格が違う(っていうか違っていてほしい)。とくに専門外の人間が医学についてなんか語るときはやっぱりちゃんとした研究を参照したいところだ。

意識、覚醒、認知機能

順番がひっくりかえるが、第5章(1)「植物状態の患者に意識はないのか」のところも気になる。

まあ植物状態で失なわれている「意識」ってのが哲学的にも医学的にも面倒なのはその通り。「意識とは、自己と周囲の状況とを認識している状態」(p.181)ぐらいでしょうがないかもしれない。でもこれこんどは「認識」を定義しないとならんからたいへん。

でも小松先生は次のように話をすすめる。

臨床医学には意識に関する最低限の規定がある。意識は「覚醒」arousalと「認知機能」cognitive function(「意識内容」contentとも呼ぶ) との二つの要素からなる、という規定である。したがって、臨床的に意識がないとされるのは、あくまでも覚醒と認知機能(意識内容)との双方が消失した状態を指す。ここで覚醒とは、外界に対して注意が向けられて刺激を受容し、反応が可能な状態にあることをいう。他方、認知機能(意識内容)とは、外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力である。(p.183、強調kallikles)

まずこの理解の出典がわからん。まあ一般的なのかな。

次に気になるのは、覚醒の方の「外界に対して注意が向けられて」の一節。「注意を向ける」(志向性)ってのは、ふつうのなかなか高度な心的機能なんじゃないかと思う。たとえばゾウリムシも刺激に反応するわけだが、ゾウリムシが外界に注意を向けているかはなかなかむずかしい。まあ定義しだいかもしれんが。

んで、このあとに、

そして、これらの機能を仮に脳の各部位に還元させるなら、覚醒は主として脳幹に、認知機能(意識内容)は大脳皮質に対応しているといわれる。(同上)

と小松先生はいう。これどうなんだろう。誰の見解かわからんので調べようがない。少なくとも大脳皮質も「注意を向けて刺激に反応」する機能を果たしているんじゃないだろうか。

そして、小松先生の意味での「覚醒」がどの程度重要かってのが問題だよな。

んで本論。ピーター・シンガーのような論者は、「(大脳)皮質への血流がなければ、意識内容が不可逆に失われている、と確信できるのである」と言うわけだが、小松先生は上のような議論から、

そもそもシンガーのこの認識は、右で確認した意識障害をめぐる世界的な知見を踏まえていない。なぜなら、皮質死状態の者は、皮質の血流が途絶えていても脳幹が機能している以上、たとえ認知機能が失われているとしても、意識のもう一方の要素の覚醒があるからだ。(p.183)

とするわけだ。この議論はどうなんだろう。

そもそもシンガーのようなひとが問題にしている「意識」は、上の区別でいえば認知機能(意識内容)に対応するものなんじゃいのか。たんに外界からの刺激に反射するという意味での「覚醒」はそもそも問題ではないはずだ。ここらへんなんかおかしいぞ。

だいたいそもそも、(わざわざ順番を逆にしたのだが)さっきの「植物状態」の定義では「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」とされている。これはawarenessで単なるarousalではない。ふつうのawarenessは「外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力」の方に近いのではないのか。arousalとawarenessをおなじ「覚醒」の語を使われては混乱してしまう。(もっとも、おそらく意図的ではなく引用の都合だろううし、ここが哲学的に難しいのはわかる。)

あと、p.184のシューモンの水頭無能児(脳幹は機能しているけど大脳が発達してない)が「音楽に楽しそうに反応し、鏡に映る自分の顔を見て嬉しそうに笑うのである。さらには、背臥位の状態でも足をぴょこぴょこさせながら、家具にぶつかることもなくベランダに出ることができた」という報告は、孫引きではなく、できればシューモンの原著論文を参照してほしかった。有名なひとなんだから論文も入手しやすいだろうし、同じ報告あちこち書いていそうなものだ。(私が調べるのは・・・うーん。その手の論文をネットで読める環境にはない。)

ここらへんの議論はたしかに難しいな。しばらく時間がかかりそうだ。私が書いていることもまちがいだらけだち思うので読んでいるひとは間に受けないように。

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『情況』を買ってみた。

ちょっと前に大庭健先生の名前を出したばっかりなのだが、おもしろいという評判なので(http://d.hatena.ne.jp/haecceitas/20061122)『情況』11/12月号を買う。(この雑誌はじめて買ったかな)『状況』だと思ってたけけど違うのね。無知はいやだなあ。

p.51 の特集扉が「諸論理のポリティクス」になっていて驚く。雑誌表紙と目次と次のページでは「諸倫理のポリティクス」なのでそっちが正しいのだろう。すげー。

特におもしろいという大庭・伊吹対談と中島論文を読む。おもしろいかな。

生命倫理学というのはよく知らないのだが、p.54で大庭先生と伊吹先生は脳死の問題からはじまったと言ってるが、中島先生は、p.66で大戦中のナチスの人体実験の問題からはじまったと言ってる。どっちが正しいのだろうか。どちらかと言えば中島先生かな。哲学をまともに勉強した者がその手の問題を扱いはじめたのは一時期はやった「情況倫理」あたりかからだと思っていた。よく知らないけど、脳死じゃなくて植物状態の治療停止や新生児の治療停止とかそこらへんじゃないのか。バイオエシクスとかも本職の哲学者というよりは医療よりの人びとがはじめたと理解しているが、ここらへん記憶がさだかでなく、本ひっぱり出さないと不明。

それにしてもこの二本の記事はよくわからない。そもそも生命倫理とかってのが国内でそんなに流行っているのも知らなかった。

対談にしても中島論文にしても、生命倫理学とか生命倫理学者ってのが誰のことがよくわからんよな。「脳死を認めて臓器移植をもっと推進しましょ」「12週以内の中絶は自由にしましょ」「22週以降でも「医学的」適応があれば中絶許容しましょう」とか言ってる論者ってのはかなり少ないと思うし。正直ほとんどそういう文献は見たことない。

というか、そもそも「生命倫理学者」なんて人(特に哲学を背景にした研究者)が国内に実際に存在しているのかどうか。いてもかなり希少だと思う。生命倫理の論文はたしかに多いように見えるけど、その多くは法学者や社会学者や政治学者だし。私が「生命倫理学者」という呼び名にぴったりだと思うのは森岡正博先生と立岩真也先生ぐらいしかいないのだが、どちららも脳死や安楽死や(選択的)中絶にはかなり慎重な立場なんではないかと思う。松原洋子先生や玉井真理子先生、斎藤有紀子先生、柘植あづみ先生、金森修先生あたりも非常に影響力のある人びとだと思うけど、これらの人は「生命倫理学者」とは呼びにくいと思う。やっぱり加藤尚武先生なんだろうが、あまりにもいろんなことやってて生命倫理学者とは言いにくいんじゃないか。「哲学者」だよな。米本昌平先生や広井良典先生も「生命倫理学者」ではなかろう(すぐに名前があがらなかった先生はごめんなさい)。国内での生命倫理とか生命倫理学ってのは雑多な領域の人びとの学際交流の場で、一番偉いのは法学者で次が社会学者で、哲学やってる人間はうしろからついて行く感じなのではないか。(現場や大学の医者の地位が意外に低いように見えるのが興味深いところ)

まあいつものようにコメント。

(大庭先生)[生命倫理の問題は]政治問題であるかぎり、生物学者は生物学者で、脳科学者は脳科学者で、法律家は法律家で、それぞれ分かるかぎりのことは出し合って、あとは市民が決めることがらなのです。(pp.54-5)

まあそうなんだと思うけど、脳死やらなんやらは、少なくとも多数決で決めることがらではないという意見もあるんじゃないのかな。倫理学者なるものがいるとして、そういうひとがなんか「決める」こともできないっしょ。なんか言うしかできないだろう。まあ政府の委員会かなんかに食い込んで力をつければ別かもしれないけど、そういう人いるのかな。梅原先生は失敗したしな。そもそも政治的問題は市民が決めることかどうかも哲学者なら議論したいところ。中島先生ならもちろん突っ込むだろう。だいたい、生や死の問題について、大多数の市民が「これこれの人は死人ということで」と合意すりゃ死んだことになるわけでもあるまいと思うのだが。

(臓器移植を推進しようという動きについて)

(大庭)独立法人化あたりからはっきりしているのは、役に立たない人文系を切り捨てて、いわゆるアクチュアルな、「社会的なニーズ」に答える学問へと再編成するという至上命令が出てきた。では「社会的なニーズ」とは何かというと、・・・新鮮で若い生きた臓器がほしいという移植医のニーズであり、・・・

まあ、この文脈で、重要かもしれない「患者のニーズ」をあえて無視するのはプロパガンダと呼ばれてもしょうがないんではないか。

(大庭)生命倫理学にすでに乗ってしまっている人は、脳死は死であり、したがって臓器移植は問題ではない、今問題なのはドナーの数が少ないことであり、どうやって新鮮な臓器を欲しがっている人に公平に分配するかであると言っています。

これは特定の個人なんだろうか?それとも国内の生命倫理学者の主流なんだろうか。なんか特定の個人のような気がするが、気のせいだろうか。特定の個人なら同定できそうな気もするのだが、それならそんなはっきりした見解をもっているなら貴重な生命倫理学者だろうから名前出してあげたらいいのに。名前をあげるまでもないということなのか、わざと名前を出さずに大勢いるように見せるプロパガンダなのか。

中島先生の方。

生命倫理学は「死」をめぐって活発な議論を展開するが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」という問いには立ち入らない p.62

「〈生きる〉とはいかなることか」という問いは見事に欠落している。p.62

そうなのか。国内の脳死や障害に関する議論とか見てるとそういうのばっかりだと
思ってたんだが。加藤尚武先生の本にそういうのがないってことかな。

すべての議論は「ひとの生命には価値がある」という大枠の内で進んでいる。p.64

それはよいことだと思うんだが。でも国内で議論されているのは、ある種の生命倫理学者(たとえばピーター・シンガー)とかは「ある種の生命には価値がないかもしれない」と主張している(本当かどうか知らんが)のをどうするか、ってことのような気がするんだが。

中島先生のは他にもいろいろあるんだが(エンゲルハートのとことか)、まあそのうち考えよう。しかしまあ、中島先生がやっている議論そのものが国内の哲学系「生命倫理学」の主流のやり方のように見えるし、もう中島先生は「生命倫理学者」を名乗る資格が十分あるんじゃないかな。

なにかを批判するためだけに勉強しちゃう、ってのが哲学っていう学問の特殊性なんではないかと思う。昔っから、哲学を批判する活動がまさに哲学の核の部分にあて、それでいけば生命倫理学を批判するひとはすでに生命倫理学者なんじゃないのか。っていうか哲学者がこの手の話に参加するんだったら、求められている一部はそういうものに見える。わからんけど。哲学者が「生」や「死」の専門家であるわけでもあるまい。おそらく哲学(史)の標準的な教科書(あるかどうか知らないけど)にはそういう問題はあんまり取りあげられていないような気がする。それに、もっぱらそういうのを扱うのを生業にしている文学者やほとんどそればっかりの宗教者とかもいるぞ。

もちろん、「そういうを考えるのこそがまさに哲学で、そういうのをまじめに考えはじめると誰でも哲学者になるのじゃ」という立場はあるだろうけど、そりゃ「生命倫理学」と哲学者・倫理学者の関係とか言うとき、あるいは生命倫理学の裏にあるポリティクスだのなんだのってのを考えるときの哲学者・倫理学者の意味じゃないよね。そういう広い意味でならほとんどの誰もが哲学者になっちゃうわけだから。*1

それにしても、大庭先生も伊吹先生も中島先生も、誰だかわからん人に「生命倫理学者」とかってレッテル貼って不十分な知識で批判して得意になるんじゃくて、自分でやってみりゃよいのではないかと思う。でないと少なくとも私は哲学者である資格を放棄していることになるじゃないんじゃないかと思う。まあこれらの記事は先生たちの哲学的活動の一部ではなく、ただの漫談や印象エッセイにすぎないというなら話は別だが。

それはそうと、いま標準的な生命倫理学のテキストって何なのかな。

あ、上の二本の記事より、むしろ、浜野喬志先生の「エコテロリズム:アメリカ環境運動の現状と歴史的系譜」は知らない情報が多くておもしろくて収穫だった。ただし、『情況』という雑誌からして市民的不服従としてそんな悪くないぞという主旨かと思ったのだが、そういうわけでもないのか微妙な論旨。

エコテロリズムはヘンリー・ディヴィッド・ソロー以来の「市民的不服従」の伝統に属している。・・・しかし他方で彼らの活動は、その暴力性において、この市民的不服従の伝統を踏み越えているようにも見える。にもかかわらず、そもそも市民的不服従という概念自体が、常に歴史的には、暴力への逸脱、という傾向との、絶えざる緊張関係にあったと言えまいか。 (p.151)

論文は最後にスティーブ・ベストという人が言ったという言葉で締め括られている。

財産破壊と市民的不服従はアメリカの伝統の一部なのだ…

なのだそうだ。この引用で終わっちゃうのはかっこつけすぎか腰が引けているかのどっちかなんではないのか。まあ市民的不服従のグループから時々暴力的集団が出ちゃうの
はほとんど歴史的必然のようだなあ。浜野先生がそういう暴力についてどういう規範的判断しているのか知りたいのだが。『情況』だし書いてもいいやんね。

*1:うーん、中島先生が自分を特権的に「哲学者」と考えるときの意味はなんなんだろう。哲学することを職業にするという意味ではないよな。生と死について高度に考えて知見を得ている人ってのなら、職業的哲学者(というか哲学研究者・教員)のほとんどは哲学者じゃなくなってしまう。私は哲学者・倫理学者ってのは「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人ぐらいの意味に考えてるようだ。よくわからん。

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レスポンシビリティ

英語の「責任」に当たる言葉、responsibilityという言葉は、だれだれに答える、応答する、respond toという動詞表現に関係していて、要するに応答できるということですね。他者からの呼びかけ、あるいは訴え、アピールがあったときに、それに応答する態勢にあることを意味すると考えられるのです。・・・英語のresponsibilityはもちろんフランス語のresponsabilité(レスポンサビリテ)から入ったもので、フランス語はもちろんラテン語から来ています。(高橋哲哉『戦後責任論』p.24)

印欧語では、「責任(リスポンシビリティ)」という語は、「応答(リスポンス)の能力・可能性(アビリティ)に由来する。・・・互いに「問いかけ・呼びかけうるし、応じうる」間柄を生きること、これが「責任がある/負う」ということの語幹である。(大庭健『責任ってなに?』p.16)

responsibilityの初出はJ. S. ミルの文章が最初だと聞いた記憶があるんだが、OEDがもってる情報では、1787年のFederalistでのハミルトンの文章みたい。(これはresponsibleである状態 the state or fact of being responsibleという意味での)”Responsibility in order to be reasonable must be limited to objects within the power of the responsible party”

次は1796のバークの文章があがってる。まあそういう文脈で使われる最近できた言葉だったわけね。
1796年には義務とか責務とかそういう意味でのresponsibilityが使われている。これもバーク。
もちろん”reponsible”の方はもっと古くて、「なにかに応答している」という意味では1599年。

「答えることができる」という意味では1647年。「誰かに対して答えられる」「説明するよう要求できる」という意味だと1647年。これは重要な意味で、誰に答えるかっていうと王様とか法廷。

“To hold this Popish erronious opinion, that they are in no case responsible to their Kingdoms or Parliaments for their grossest exorbitances.”

とか

“Being responsible to the King for what maight happen to us.”

かなり具体的に「申し開きをする」って感じだ。

「道徳的に自分の行動を説明することができる」って意味では1836年、上の意味からこの意味に来るまでずいぶん時間がかかったことがわかる。

また別の枝で、「義務を果たせる」という意味では1691。

あたりに初出があるらしい。高橋の「もちろんフランス語から来た」ってのはどっからの情報だろう?文字通りresponsibilitéの形ではいってきたと言いたいのか、あるいはresponsableの形ではいってきて-ityがついて名詞化したのか。ミルトンやバークはもちろんフランス語ぐらいできたろうが。ラルースもひいてみないとならんのだろうか。あ、少なくとも-ableや-ityの語尾がどうしてはいってきたかも知っておく必要があるな。これはもちろんおフランス語からだろうし。どれくらの時代にはいってきたんだろう?ほとんどの-ityがフランス語から来て、英語で新たに作った-ityはあんまりないとわかればそれでいいか。Verantwortung は responsibilityからの訳語のような気がする(だから19世紀のものかも)が、知らべなきゃだめかな。世の中には知らんことが多いな。

大庭先生が「印欧語」ととてつもなく大きく出たのもなにか根拠があるんだろうか。印欧祖語(PIE)にresponsibilityに当る言葉があるとかかなあ。こんな複雑な概念がPIEにあるとは思えんのだが。

まあ概念の姓名判断ってのはどの程度信用になるかわからんよな。なんでも姓名判断するとこからはじめてる、ってにに、プラトンからハイデガーを通ってレヴィナスやヨナスに至り、さらに高橋先生や大庭先生にまで届いているヨーロッパ哲学の長い長い歴史を感じて悪くないですけどね。

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