ジュディスバトラー」タグアーカイブ

ジュディス・バトラー様と竹村和子先生のインクレディブルなダジャレと翻訳

数日まえに載せたヌスバウム先生のバトラー様批判(あれは私の翻訳ではないです、柳下先生)にはけっこう反応があったみたいなんですが、ブログとか書いてくれてる人もいたんですね。 https://kumabushi.com/?p=11750

書きたいのはこの方のブログの内容ではなく、そこで引用されているバトラー様の文章についてなんです。 続きを読む

ヌスバウム先生のバトラー先生批判、全訳

柳下先生から昔彼がやっていたヌスバウムの「パロディの教授」の訳をもらったので、ここにあげておきます。著作権関係はクリアしていません。これをここにあげた点の責任は江口にあります。昔私もちょっとだけやったのですが、ちゃんとやってもらってよかった。作業の関係で強調とか落ちてるかもしれないので、あとで直します。 続きを読む

牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。 続きを読む

ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。 続きを読む

ラッセル先生のセックス哲学(2) 女性の性を解放するのじゃ

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実は若いときはけっこうイケてる。 コメディアンのようでもある。

まあラッセル先生はそうしたキリスト教、特にプロテスタント的な性的禁欲を捨てちゃおうってわけです。でもラッセル先生は売買春とかには大反対。前のエントリでも書いたと思うけど、19世紀〜20世紀のイギリスとかって、表はヴィクトリア朝的な禁欲的な雰囲気でセックスの話なんてジェントルメンやレディーズはしないわけですが、ジェントルメンも夜になるとへんなところで下層の女性を安くあれしていた。中上流の女性は岩よりも堅い貞操を求められてた。そしてそれはみんなで守らねばならぬ。 続きを読む

ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。 続きを読む

バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

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セックスの哲学と私 (3)

まあフェミニズムまわりをうろうろして悩んでいたときに手にしたのがAlan Soble先生の Pornography, Sex and Feminism 。ポルノ規制派のフェミニストたちを「ポルノ読む人間のことをさっぱりわかっとらん」とディスりまくってて痛快すぎた。まあ書き方がユーモアとアイロニーに満ちててすばらしかったわね。「日本のBukkakeのすばらしさがわからんのか」とか。どうもこのころbukkakeがアメリカで流行ってたらしい。私は嫌いでした。ははは。それにしてもやっぱヘビーユーザーは違うわ。 続きを読む

セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。 続きを読む

『フェミニストの法』続き

昨日書いた部分はけっこう気になっているので、もうちょっと。(下では最初、subversiveを「攪乱的」と訳してたけどやっぱりなんかおかしいので「転覆」に一括置換した。よけいにおかしくなったかもしれない。) 続きを読む

若林翼先生の『フェミニストの法』読んでみる。

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

気鋭の若手法学研究者*1。私は若手研究者が好き。若い人は覇気があり勉強していてすばらしい。気になったとこだけいつものように重箱の隅。 続きを読む

中里見博先生のポルノグラフィ論 (4)

セックスワーク論関係を読みまちがえたかな

のコメントで、id:june_t さんからコメントいただいた。ありがとうございます。
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バトラーの引用についての誤解ごめんなさい

で書いたジュディス・バトラーの文章
について、舟場先生に捕捉していただいたようだ。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~funacho/2007TB.html の6月3日づけの記事。
基本的には誤植だったらしい。私の疑問に答えてくださっている。ありがとうございます。

舟場先生の論文の出典の疑義については、私の誤解だったようだ。
舟場先生の文章の引用は正確には以下のよう。(なるべく正確に写したけど、まだまちがいがあるかもしれない。)

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだった」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。「ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではな」く、「それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、『性別化された自然』や『自然なセックス』が、文化のまえに存在する『前-言説的なもの』……として生産され、確立されていくのである。」(Butler, op. cit., pp. 10/29)

(舟場保之, 「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」, 『哲學』, 第58号, 2007, p.77-8)

この引用箇所の指示「(Butler, op. cit., pp. 10/29)」を、私は「ジェンダーは、生得のセックス~」以下から「確立されていくのである。」までだと理解していたのだが、正確には「おそらくセックスは~」から「確立されていくのである。」まで全部を示すものだったらしい。なるほど、それならわかる。正確な表記は(Butler, op. cit., pp. 10-11/29)だったということになる。

私の読みまちがえでした。訂正しておわびします(過去のも訂正しておきます)。私が他人の目のなかのオガクズばっかり気にして、自分の目のなかの丸太に気づかないのは本当に問題なので、いつもそれを忘れないようにしたいと思っているのですがなかなかうまくいきません(本当)。まあでもこうして書いておくと誰かが少しずつ丸太をけずっていってくれるような気がするので、こうして恥をかくのには価値があるような気がしております*1

ちなみに、竹村訳だと上の舟場先生の最初の引用文は「おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。」になっていてちょっと表現が違うが、「訳文は適宜変更している場合がある」と断わっているからもちろん問題ない。原文は “perhaps it was always already gender” なので、舟場先生の表現の方が正確だと思うし、この表現のくいちがいから舟場先生がきっちり原書にあたっているのがわかる。「伝言ゲーム」とか失礼なほのめかしをしてしまってたいへん申し訳ありません。

(前エントリで指摘した not ~ merely の問題は解決されていないが、まあこれはまた。)

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*1:が、そういうのを他人まかせにするのはどうなのかという問題はある。