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ジュディス・バトラー様と竹村和子先生のインクレディブルなダジャレと翻訳

数日まえに載せたヌスバウム先生のバトラー様批判(あれは私の翻訳ではないです、柳下先生)にはけっこう反応があったみたいなんですが、ブログとか書いてくれてる人もいたんですね。 https://kumabushi.com/?p=11750

書きたいのはこの方のブログの内容ではなく、そこで引用されているバトラー様の文章についてなんです。

ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうるのである。(『ジェンダートラブル』p.248)

これは竹村和子先生の訳なんですけど、意味わかりますか?私はわかりません。原文はこうなんですわ。原書p.180。

上の竹村先生の訳だと、最初のcanが落ちちゃってますね。これは文章の意味がとれるならば必ずしも悪いとは限らないんだけど、どうだろうか。

私が訳すと前の方の文章は「ジェンダーというものは真だとか偽だとかいえるのものではない。また、実在的だとかみかけだけだとかいえるものでもない。またオリジナルだとか派生的だとかいえるものでもない」。

命題とかっていわれるもの、たとえば「地球は丸い」とかってのは真とか偽とか(true or false)とか言うことができるけど、パフォーマンスみたいなのが真だとか偽だとかそういうのは言えませんよ、ってことかなあ。

まあここでの「ジェンダー」が男らしいとか女らしいとかそういうことだとして、男が男らしいとき、あるいは女が女らしいとき、っていうのはみんながんばって男らしくしたり女らしくしているのでそれがrealだとかapparentだとかっていうこともできない、とかってことですかね。

さらに、そうした男らしさに、彼のはオリジナルな男らしさだとか、それを彼の(あるいは彼女)男らしさは、それをコピーした男らしさとだ、とかそういうのも言えない、と、まあそれくらいおおざっぱにとっていいんですかね。知りませんよ。

問題は二つめの文章です。

As credible bearers of those attributes, however, genders can also be rendered thoroughly and radically incredible.

ものすごい難しい。さすがバトラー様の御託宣。「しかしながら」……「そうした属性の信頼できる担い手としては」?わからんでしょ。「そうした属性」は前に出てきてる属性のはずだから、true or false, real or apparent, original or derived。まあ真だとか偽だとか、本物だとかみせかけだとか〜、つまりそうした属性をもっているということが言えるとすれば、そうしたことはほんとうは言えないんだけどそうしたものをcredibleにbearする、つまり、私の解釈では、本当はそういうの言えないんだけど、人々がそういうことが言えるものだと思いこんでいるものとすれば、ぐらいか。そういうものとしては、「徹底的に根本的にincredibleにすることもできるのです」。(ここの属性attributesについての話は私の読み間違い。下の追記を見よ)

このincredibleはもちろん二つ意味があって、(1) 信頼できない、(2) 信じられない(ほどすばらしい)。さて、どっちでしょうか。

信頼できる担い手としては信頼できないものにできる、っていうのでは意味が通じないので、「信頼できる担い手としてはすばらしいものにすることができます」ですね。というわけで、私が訳するとこうなる。

「ジェンダー」というものは、真であったり偽であったりするものではないし、実在するものであったり見掛けだけのものであったりすることもなく、また、オリジナルであったり派生的であったりすることもありえない。しかし、そうした属性が付与されてしまう担い手として信頼できるもの〔、つまり皆がそう思うもの〕としては、「ジェンダー」は徹底的に、そしてラディカルに、すばらしいものに〔も信頼できないものに〕(incredible)もすることもできるのだ。

これでもわかりませんね。私の勝手な想像による解釈はこうです。男らしいとか女らしいとかっていうのは社会的な構築物とやらなので、別にどれが本物とか偽物とかそういうのないです。男性の服装がどうあるべきで女性がどうあるべき、みたいなのも文化によってちがいますしね。でも社会の人々が、「こういうのが男の服装、男の振る舞い、これがほんとう」「こういうのが女の服と振る舞い、これがほんとう」みたいに考えるってことはかなりの確度でいえる、だいたいそう思っているということがいえるのならば、逆に、そうした異性の服装や振る舞いをまねたりするのが魅力的ですばらしいものになるし、そうしたジェンダーがあるからこそ宝塚はすばらしい、そういうことですわ。同時に、そうした異性装とかっていうのはそのジェンダーなるものを不確かなものにもする。脱いでみたら女でした/男でした、みたいなのもまああるだろうから、ある程度のひとがうまくそういうのを演じてたら「らしさ」を信頼できないものにすることもできる。

最後のincredibleは原文ではイタリックになっているので竹村和子先生は傍点を打ってるけど、このincredibleが二義的でダジャレになっていることは理解してないんじゃないかな。いや、ほんとうに二義的かどうか、ダジャレかどうかは知りませんよ。そういうのはおそらく、英語がすごく読めて、ポストモダン思想だけじゃなくいろんな分野の知識を熟知している人々にしかわからないんじゃないかと思う。

でもこれ読んでる人には考えてほしいのです。こんな大事なところにあるこんな短い文章読むだけでこんなかかるんですよ?

これって、哲学じゃないですね。だってどっちのことを言ってるのかわからないから。評論です。それも作品としてすごく高度なダジャレや暗喩に満ちた高級評論です。イエール大学とか東大とかお茶の水大学とかの文学の先生になるような人々じゃないとわからないような。

そして、その翻訳もこんな感じで、引用されてても原文見てみると、私の読みとはぜんぜん違うことが書いてあるんですよ?これまた毎度毎度のことです。もうあらゆる引用がこんな感じに見える。みんないったい何を読んでるのさ。

そしてこれって、我々が必要なものなの?毎日、自分のジェンダーアイデンティティやらセックスやらについてまじめに考えたい人々がなにか参考にできるものなの?知的超上流階級の人々がひまにまかせて分析しながら鑑賞するような知的おもちゃじゃないの?

前のゲリラ訳でヌスバウム先生が言いたいことの一部もそういうことなんじゃないかと思う(もっと大事な政治的な含意もある)

バトラー樣のインクレディブルなダジャレについてはoptical_frog先生も解説してくれている。でもこんなインクレディブルなダジャレとかを含んだインクレディブルな翻訳を読まないとジェンダー論わからんとかって言われたら、どうするんですか。そして、そういうことを匂わす人々はこれがインクレディブルな本だってことちゃんと自分で確認したんですか?私そういうのは本気で不愉快です。

もしかしたら知的貴族たちは、上の翻訳を見て即座にincredibleのダジャレを見抜き、「まあジュディス樣ったらこんなお冗談をおっしゃって、ほほほ」とかやってるんかもしれんけど(それじゃ貴族じゃなくてエスパーですか)、われわれ知的精神的貧民がこんなもん読めるか!日本の学者先生たちはインクレディブルすぎる。せめて翻訳正誤表とバトラー樣のダジャレ解説一覧でも出してほしい。

ツイッタやブログでバトラー樣の文章はわからん、と書くとなにやら難しいことを解説してくれる人もいるんだけど、それもわからん。まちがったことを書くと「頭が悪いね」ってやられそうで、まじめな人や臆病な人は誰も文句つけらんないじゃん。サール先生がいうところのテロリズムだ。

私はバトラー樣とか読む余裕はないので、かわりにインクレディブルなジャズギターでも聞きます。よかったらいっしょに聞きましょう。


追記:

さっそくやっつけられてしまった。ははは。どもどもありがとうございます。

どうもattributesはその前の段落のgender attributesを指すっぽい。っていうか、たしかにそっちの方が自然だで、むしろ直前を指すと見るのは読めなさすぎ。直前の段落こうなってんだからそう読むのがあたりまえ。平民すぎる。

どうも難しい文章を見てイヤな気分になってると視界が狭くなっていかんです。反省反省。よくやるんよね。

ただしそれでも、can be renderedのところと意味が通じないように思うし、イタリックになってる意味もあんまりよくわからないですね。そっちは納得してないです。

expressiveとperformativeのところも、オースチンとかの言語行為論のネタじゃなくて、たとえば「男らしさというのはその人がもってる潜在的な男らしさ性をそれが表現しているというものではなく、男らしい振る舞いをすることによって男らしい人間になるのだ」みたいな感じのはずで、まあバトラー様はあんまり説明してないけどこれはわかる。ボーヴォワール先生どころかアリストテレス先生あたりとも同じ話。怠惰な人間は生まれもった怠惰性を発揮しているのではなく毎日怠惰にふるまうことによってそうなる。勤勉な人間も同じ。毎日努力しているけど怠惰な人間とか、毎日酒飲んでる勤勉な人間とかはいない。これは昔どっかで書きました。

ヌスバウム先生のバトラー先生批判、全訳

柳下先生から昔彼がやっていたヌスバウムの「パロディの教授」の訳をもらったので、ここにあげておきます。著作権関係はクリアしていません。これをここにあげた点の責任は江口にあります。昔私もちょっとだけやったのですが、ちゃんとやってもらってよかった。作業の関係で強調とか落ちてるかもしれないので、あとで直します。


ザプロフェッサーオブパロディ マーサ・ヌスバウム

この文章は、Nussbaum, M. C., 1999, “The Professor of Parody,” The New Republic, February 22.を柳下実minoruyagishita@gmail.comが無許可で適当に翻訳したものである。著作権関係は処理していないので注意してほしい。本文はこちらで公開されている。途中で訳出してあるバトラーの文章の正誤はとてもあやしいので、識者のコメントを待ちます。

この記事は、『ジェンダー・トラブル』、Bodies that matter、『触発する言葉』、『権力の心的な生』のレビューである。

I

長い間、アメリカの学問に携わるフェミニストは、女性のために正義と平等を達成する実践的な闘いと密接に連帯してきた。理論家たちはフェミニスト理論のことを,紙のうえにならぶ精妙な言葉なのだ、と理解してきたわけではない.フェミニスト理論は社会変革のための提案と結びつけられていた。それゆえフェミニストの学者たちはさまざまな具体的なプロジェクトに携わってきたのである。とえば、レイプに関する法律の改革、ドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントの問題へ人びとの関心を引き付け、法的な救済策を勝ち取ること、女性の経済的〔成功の〕機会、労働条件そして教育を改善すること、女性の労働者のための妊娠に関する福祉手当を勝ち取ること、売買春における女性と女児の人身売買に運動すること、そしてレズビアンやゲイ男性の社会的政治的平等のために取り組むことである。

それどころか、一部の理論家たちは学術からまったく離れてしまい、実践的な政治の世界にすっかり居着いている。そちらの方が,こうした喫緊の問題に直接とりくめるのだ。学界に残った人びともしばしば、実践的なことにかかわっている学者であることが、体面にかかわることだと思っている。実践的なことにかかわっている学者とは、現実の女性の具体的な状況に目を向け、いつも女性の現実の身体と葛藤を認めるような仕方で論文を書く学者だ。たとえば、法的制度的変革というほんものの問題を思うことなく、キャサリン・マッキノンの著作の1ページを読める人がいるだろうか。もし、ある人がキャサリン・マッキノンの提案に同意しないのだとしたら――多くのフェミニストはマッキノンの提案に同意しないが――、彼女の論文によって提示された課題は、彼女が鮮明に描き出した問題を他の方法でどう解くのかということを模索することだ。

フェミニストたちは何が悪いのか、そして物事を良くするために何が求められているかについて、いくつかの問題では一致しない。しかしながら、すべてのフェミニストたちが同意していることもある.それは,女性をとりまく状況は不正義であり、法律と政治的措置によってそれらをより公正にすることができるということだ。ヒエラルキーと従属をわたしたちの文化に根深くはびこっていると描いたマッキノンもまた、法――レイプとセクシュアル・ハラスメントに関する国内法と国際的な人権法――を通じた変革に取り組んでおり、法を通じた変革に慎重にではあるが楽観的である。ナンシー・チョドロウは『母親業の再生産』[1]で子育てにおける抑圧的なジェンダーカテゴリーの複製のゆううつな説明を示したが、彼女でさえその状況は変革しうると論じている。これらの習慣の不幸な帰結を理解することで、男性と女性は彼らがこれ以降物事をこれまでとは、違ったやり方でおこなう、と決心することができるのだ。そして法律や制度における変革が、そのような決心を手助けしてくれるだろう。

いまでもフェミニスト理論は世界の多くの地域でこのような状態である、たとえばインドでは、学問に携わるフェミニストは自らを実践による厳しい努力に投げ込み、そしてフェミニストによる理論化は実践的なコミットメントに密接につながっている。たとえば、女性の識字率、不公平な土地所有法の改革、レイプ法の変革(今日のインドのレイプ法には、アメリカのフェミニストの第一世代が攻撃した、多くの欠点がある)、セクシュアル・ハラスメントとドメスティック・バイオレンスの問題の社会的な認知を得るための努力というコミットメントだ。これらのフェミニストたちは、自分たちが激しく不正義な現実の真っただ中で生活していることを知っている。理論的な論文を書く際にも、セミナー室の外で活動する際にも、彼女達は毎日こうした問題に取り組まなければ自尊心を保つことができないのだ。しかしながら、アメリカにおいて事情は変わってきている。そこには、新しい気がかりな傾向が見受けられる。人は新しい、そして気がかりな傾向に気づくだろう。このことはフェミニスト理論がアメリカ外の女性の闘いへ注目していないということだけではない。(この嘆かわしい特徴は,もっと以前からつねづね,最良の業績の多くにすら見受けられた。)そして〔アメリカ中心的という〕偏狭さというよりは、より油断ならない狡猾なことがアメリカの学界で顕著になっているのだ。それは、生活の具体的な側面からの、現実の女性たちの現実の状況ともっとも薄っぺらくしか関係のない言葉と象徴の政治への、実質的に完全な転向なのだ。

新しい象徴的なタイプのフェミニストの思想家はフェミニスト的に政治をおこなう方法を、高慢なほど不明瞭で、軽蔑的に抽象的な学術的な出版物の中で、ことばを転覆的に用いることだと信じているように思われる。これらの象徴的なジェスチャーというのは、信じられているところでは、それ自体が政治的抵抗の一形態なのである。そして、立法や運動などの厄介なことにはかかわらずとも、人は大胆に行為できるのだ。さらに、新しいフェミニズムはそのメンバーに大規模な社会変革の余地はほとんどなく、そしておそらくまったくないと教授するのである。わたしたちは全員、およそわたしたちのアイデンティティを女性として規定している権力の構造の囚人である。わたしたちはこうした構造を大規模に変革することは決してできず、それらから決して逃れられない。わたしたちにできるのは、せいぜいそうした権力構造のなかでなんとか空き地を見つけ、そこで発話によってこれらの構造をパロディー化し、笑いものにし、境界を踏み越えることだけだ。それゆえ象徴的で言語的な政治が実際の政治の一類型として提示されることに加えて、それだけが現実に可能な政治として残されるのである。

こうした展開は近年のフランスポストモダン思想の卓越に多くを負っている。多数のわかいフェミニストは――彼らの具体的なあれやこれらのフランスの思想家との関係はなんであれ――知識人は政治を煽動的な発話によっておこない、これこそが政治的行為の意義深い型だというフランスの観念に極端に影響されてきた。その多くの人は(正しいか間違っているかはともかく)ミシェル・フーコーの論文から、わたしたちはすべてを包み込む権力の構造の囚人であり、そして実生活の改革運動はたいてい狡猾なそして新しいかたちで権力に役立つことに終わるのだ、という宿命論的な着想を取り出すのだ。それゆえそのようなフェミニストたちは転覆的な言語の使用がいまだフェミニストの知識人にとって利用可能だという観念に慰めを見出すのである。もっと大規模でより長続きする変革の望みを奪われても、わたしたちはそれでも言語的なカテゴリーを書きかえることによって抵抗することができ、そしてそれゆえ、かろうじて、それらによって構成されている自己を書きかえることによっても抵抗することができるのだ。

一人のアメリカのフェミニストがほかのだれよりもこれらの発達をかたちづけてきた。ジュディス・バトラーは多くのわかい学者にとって、現在のフェミニズムを定義する人物のようである。哲学者として訓練を積んでいるので、彼女はしばしば(哲学者というよりも文学研究者によって)ジェンダー、権力、そして身体についての主要な思想家と目されている。フェミニストのふるぼけた政治とそれが献身してきた物質的な現実というのがいったいどうなっているのかを、知りたいと思っているので、ジュディス・バトラーの業績と影響を査定し、そして無抵抗主義と退却そっくりにみえる立場を多くの人に採らせた〔彼女の〕主張を精査するのは必然的なことに思われる。

II

バトラーの着想を把握するのは難しい、なぜならそれが何であるのかを理解するのが難しいからだ。バトラーはひじょうに頭の切れる人である。人前での議論において、彼女は明確に話すことができ、そして自分に何を言われたかを俊敏に把握する力量があることを示している。しかしながら彼女の文体は長たらしく退屈でそして不明瞭である。文中では,陰に陽に他の理論家たちが次々と引き合いに出される。しかも,その理論家たちが属する理論的伝統は多岐にわたる。フーコーを筆頭に,最近ではとくにフロイトに強く関心を寄せているほか、バトラーの著作が多く依拠する理論家には次のような人たちがいる。ルイ・アルチュセール、フランスのレズビアンの理論家モニカ・ウィティッグ、アメリカの人類学者ゲイル・ルービン、J.L. オースティン、そしてアメリカの言語哲学者ソール・クリプキである。これらの人びとは、控えめにいっても互いに見解が一致するわけではない。だから、バトラーの文章を読み始めるとすぐに問題にいきあたって当惑してしまう。これほど多くの矛盾し合った概念と学説を自説の支えに持ち出しておきながら、そうしたあからさまな矛盾を解消する方法をたいてい説明なしですませているのだから。

さらなる問題は、バトラーの無頓着な略式な参照のやり方にある。これらの思想家の着想は、門外漢の読者にわかってもらえるほどじゅうぶん詳しく解説されることもなければ(もしあなたがアルチュセールの「呼びかけ interpellation」という概念に精通していなければ、何章もさまようだろう)、多少手ほどきを受けた人でも,こうした難解な考えがそこでどう理解されているのか正確なところを説明することもない。もちろん、多くの学術的な文章はなんらかのかたちで略式に参照してすますことはある。それは特定の学説と見解の事前の知識を前提にしているのである。しかし、大陸式と英米式,どちらの哲学伝統でも、専門的な読者へ学術的な文章を書く人は自分が言及している著者たちが込み入っており、さまざまに異なる解釈がなされていることを通常は承知している。それゆえ一般的に彼らは競っているものの中で決定的な解釈を提示する責任を引き受け、そして議論によってなぜ彼らがしたようにその人物を解釈したのか、そしてなぜ彼ら自身の解釈が他の解釈より優れているのかを示す責任を引き受ける。

バトラーの著作にはこれがまったく見当たらない。相違する解釈はたんに考慮されないのだ――フーコーやフロイトの場合のように、多くの研究者に受け入れられないきわめて異論含みの解釈も、バトラーはひたすら言い立てるのだ。だから、こうして略式な参照は通常のかたちでは説明しようがないのだという結論が導かれる。通例のように、なにか深遠そうな学問的見解があればその詳細を議論したがる専門家たちを対象読者に想定して説明できないのだ。バトラーの著作は貧弱すぎて、そうした読者の要求に応えられない。バトラーの文章は現実の不正義に取り組もうと躍起になっている非学術的な読者に向けられたものではないというのは明白である。そのような読者はたんにバトラーの散文のゴテゴテしたスープに、内輪でだけわかり合っているような雰囲気に、説明に対する人名の極端な高比率ぶりに、まごつかされてしまうだろう。

それではバトラーはだれに向けて語っているのだろうか?彼女は、アルチュセールとフロイトとクリプキが実際何を言ったかということを気にかける哲学徒ではなく、また彼らのプロジェクトの性質について知らされたい、彼らの価値について説得されたいと思っているアウトサイダーにでもなく、学界のわかいフェミニスト理論家の一群に語りかけているようにみえる。この暗黙の読者はとてつもなく御しやすいと甘く見られているのだ。バトラーの文章の予言者的な声に屈従し、そして広くアピールする要素を持つ抽象性の風格に惑わされ、想像上の読者はほとんど疑問を持たず、議論も求めず、用語の明確な定義も求めない。

さらにまだ奇妙なことに、想定される読者はさまざまな問題に関するバトラーじしんの最終的な結論について気にかけないようと想定されているのだ。バトラーによるすべての本では――とくに章の最後に近い部分の文は――文の大部分が問いなのである。時には問いの予期する答えが明白なものもある。しかしたいてい物事はより明瞭でないのだ。非疑問文の文の中で、多くの文は「~と考えてみよう」もしくは「~と示唆することもできるだろう」という文で始まっているのである。こうした方法でバトラーは描写された見方を彼女が承認しているかどうかを決して読者に完全に伝えようとはしない。神秘化はヒエラルキーと同様、彼女の実践の道具であり、神秘化はほとんど明確な主張をなさないため批判を逃れる。

ふたつの代表例を引いてみよう:

主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということはどういうことを意味するか?前提とする行為と復元する行為とは同じ行為なのだろうか、それとも前提とされる権力と復元される権力の間には不連続があるのか?主体がそれ自身の従属の状態を再生産するまさにその行為においてそのことを考えてみると、主体は一時的にそれらの状態に属しており、厳密に言うと、再生の要求に属している脆弱性に基盤を置いていることを例証している。(The Psychic Life of Power: Theories in Subjection p.12)

また:

そのような問いはここでは答えることができない、しかしそれらは良心の問いにおそらく先立つ思考への道のりを示唆してくれる。その問いとは、言いかえれば、スピノザ、ニーチェ、そして最近では、ジョルジオ・アガンベンの心を奪った問いである。どのようにわたしたちは欲望を構成的な欲望として理解するのだろうか?そのような説明の中に良心と呼びかけ interpellation を位置づけなおしながら、わたしたちは他の問いを付け加えることもできる。どのようにそのような欲望は単数の法によってだけでなく、たとえば社会的で「ある」という感覚を保持するために従属に屈するというさまざまな種類の法によって搾取されるのか?

なぜバトラーはこのように厄介な、癪に障る書き方を好むのだろうか?その様式はまったく前例がないわけではない。もちろんそれらのすべてではないが大陸哲学の伝統のある領域では、対等な者同士で議論する哲学者ではなく、不幸にもしばしば曖昧さによって人を魅了する哲学者をスターとみなす傾向がある。あるアイデアが明確に述べられた時、結局のところ、その思想は著者から切り離してもかまわないものになる。人はアイデアとそれを考え付いた人を引き離して、そのアイデア自体を論議することができる。アイデアが神秘的なままであり続ける時(実際は、それらがきちんと主張されていない時)、人はそのアイデアを考え出した権威に依存したままになる。彼もしくは彼女の膨れ上がったカリスマによって、思想家は留意されるのだ。不安な状態にいて、次の動きを切望するのだ。バトラーがその「考えるための方法」に従ったら、彼女はいったい何を言うだろう?教えてくださいよ、主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということってどういう意味なんですか?(今までわたしが見たところにいると、この質問への明確な答えはいまだ現れそうもない)。人は、たいへん深淵な思索をおこなっているため、なにごとについても軽々しい表現をつかわない知識人だという印象をうける。そのためその人はその深みの畏敬のためにそれが最後にそうするために、待つのだ。

こういったやり方で、曖昧さはいかにも重要だというアウラをつくりだすのだ。それはまた他の関連する目的のためにも役立つ。曖昧さは読者をいためつける。いったい何が起こっているのかわからないのだから、読者はなにか重大なことが起こっているのにちがいない、なにかとっても複雑な思考が進行しているのだろうと思いこまされる。しかし実際には、そこにあるのはたいていはよく知られた考え、あるいは古くさい考えでしかな い。そしてそれはわれわれの理解になにか付け加えるには、あまりにもシンプルであまりにもぞんざいに述べられている。バトラーの本の痛めつけられた読者が勇敢にもそのように考えることを会得したなら、彼らはこれらの本の中の着想は薄っぺらいものであることがわかるだろう。バトラーの考えが明確に簡潔に述べられたなら、さまざまな対比や議論がなければ、それらは役立つものでないことがわかり、そしてそれらがとくに新しいものでないこともわかるだろう。それゆえ曖昧さは思考と議論の現実の複雑さの不足によって残された空虚を埋めているのだ。

昨年バトラーは、『哲学と文学』誌が後援する「今年の悪文」賞の最初の受賞者となった。受賞作を下に引こう。

資本が社会関係を比較的均一な方法で構築すると理解する構造主義の説明から、権力関係は反復、一体化、再分節に影響を受けるとするヘゲモニーの観点への移行は、時間に関する疑問を構造の思考にもたらした、そしてそれは構造的な全体性を理論的対象として扱うアルチュセールの理論のひとつの形態から、構造の偶然の可能性の洞察によって、新たにされたヘゲモニーの構想が、権力の再結合の偶然の場と戦略と密接な関係のあるものとされつつ、創始されるべつの形態への転換を特徴づけた。

さて、バトラーはこう書いてもよかった。「マルクス主義者の説明、すなわち社会関係を構築する中心的な力として資本に着目するものは、そのような権力の作動をすべての場所で均一であるかのように描いている。それに対して、アルチュセールの説明は、権力に焦点を合わせ、権力の作動を時によって移行し、変化に富むものとして把握している」と。むしろ、彼女は饒舌を好み、その饒舌は彼女の散文を判読するために読者の多大な努力を払わせ、読者を主張の正しさを判定するためにほとんど気力が残らない状態にしてしまう。受賞発表の際、機関紙の編集者は、「おそらく不安を引き起こすようなこのような記述の曖昧さが、南オレゴン大学のウォレン・ヘッジズ教授をしてジュディス・バトラーを『おそらくは地球上でもっとも頭のいい十人のうちの一人』と評せしめたのだろう」と発言している。(このように偶然にもひどい作文というのは、決してジュディス・バトラーが関わっている「クィア・セオリー」の理論家たちによくあるというわけではない。たとえば、デイビッド・ハルペリンはフーコーとカントの関係と、ギリシャの同性愛について、哲学的な明確さと、正確な歴史的事実でもって、書いている。)

バトラーは哲学者であることによって、文学研究の世界で威厳を得ている。多くの崇拝者が彼女の文章の書き方を哲学的な深淵と結びつけている。しかし人は結局のところそれが、詭弁法や修辞法という近しいが敵対する伝統よりも、ほんとうに哲学的伝統に属しているのかどうかを問うべきである。ソクラテスが雄弁家やソフィストがやっていることから、哲学を区別して以来、それはいかなる反啓蒙主義的な手先の早業を抜きにした議論と反論をやりとりする等しい人びとの談話となってきたのだ。このやり方では、ソクラテスが断固として主張するには、哲学は魂への配慮を示すのであり、一方で他の人を巧みに操る手法は、無礼を示すだけである。ある午後、長い飛行機の旅の途上、バトラーに疲れ果てて、わたしはパーソナル・アイデンティティに対するヒュームの見地に関する学生の論文草稿を見始めた。わたしはすぐにわたしの魂が復調してきたのを感じた。彼女は明確には書いていなかったが、わたしは考えた。楽しみつつ、ちょっと誇りもあった。そしてヒューム、なんと素晴らしい、なんと丁重な魂だろう。何と気立てのよく、読者の知性を配慮してくれていることだろう、みずからが確信のないことをさらすという代償さえ払っても。

III

バトラーの主要な着想は、ジェンダーは社会的な作りものであるというもので、それは1989年に『ジェンダートラブル』で最初に発表されてから彼女の本のいたるところで繰り返されている。なにが女性で、なにが男性かというわたしたちの認識は自然の中に永久に存在するなにかを反映しているということはまったくない。その代わりに、それらは権力の社会関係を埋め込んだ慣習に由来しているのだ。

もちろん、この考えには新しいことはなにもない。ジェンダーの脱自然化はとっくにプラトンにも見られ、そしてジョン・スチュアート・ミルの議論によって後押しされた。ミルは『女性の解放』(1861=1957訳)で「現在女性の本性と言われているものは、まったく人工的なものだ」と主張している。ミルは「女性の本性」に関する主張が権力のヒエラルキーに由来し、そして支えられていると考えた。女性を隷属させるのに役立つものはなんでも、女らしさとされているのだ。つまりは、ミルが言ったように、「女性の精神を隷属させる」ようになっているのだ。封建主義と同様、家族とともに、本性のレトリックは、それじたい隷属の原因として役立つ。「女性の男性への隷属は普遍的な慣習であり、それがどのような逸脱も当然のように不自然にするのだ。しかし、これまで支配力をもつ人々にとって自然に映らないような支配などといったものがあるだろうか?」

ミルは最初の社会構築主義者ではまったくないだろう。怒り、強欲、ねたみ、そして私たちの人生の他の目立った特徴についての同じような構想は、古代ギリシアからの哲学の歴史の中にありふれたものである。またミルの社会構築というよくある考えのジェンダーへの応用はさらなる豊かな発展を必要だし、いまだ必要としている。彼の示唆的な発言はジェンダーの理論にはなっていなかった。バトラーが姿を現すずっと前に、多くのフェミニストたちはこのような説明を明瞭にすることに貢献していたのだ。

1970年代から1980年代に発表した論文のなかで、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、性役割の伝統的な理解は公的領域における男性の支配に加えて、性的領域における支配をを続けることを確実にするやり方だと論じた。彼女たちはミルの洞察の核をヴィクトリア朝時代の哲学者がそれに関してほとんど言っていない生活の一領域に持ち込んだ。(もっとも何も言っていないというわけではない。1869年にミルはすでに婚姻内のレイプを刑事罰の対象にできないことは、女性を男性用のツールとし、また彼女の人間としての尊厳を否定することだと理解していた。)バトラー以前に、マッキノンとドウォーキンはフェミニストの幻想に立ち向かっており、それは女性の牧歌的な自然のセクシュアリティが「解放される」必要があるというものだった。彼らは社会的な力はとても深くいきわたっているために、わたしたちは「本性」という考えを利用できるなどと、想定してはならないと論じた。バトラー以前に、彼らは男性が支配している権力の構造は女性を周縁化し、隷属させているだけではなく、同性の関係を選びたいとしている人びとも周辺化し隷属させているのだということも強調した。マッキノンとドゥオーキンは、ゲイやレズビアンに対する差別は、よくあるヒエラルー的に秩序づけられた性役割を強制するものであることを理解していた。それゆえ彼らはゲイやレズビアンに対する差別も、性差別の一形態として把握していたのだ。

バトラー以前に、心理学者のチョドロウがどのようにジェンダー差が世代を超えて複製されているか、についての詳細で説得力のある説明をした。彼女は、こうした複製のメカニズムが遍在していることから、人工的なものなのがほぼ遍在しているのだということが理解できるようになる、と論じている。バトラー以前に、生物学者の、アン・ファウスト・スターリングは、慣習的なジェンダー差の自然さを擁護するとされている実験研究の綿密な批判を通して、社会的な権力関係が科学者の客観性を危うくしていることを示した。『ジェンダーの神話』は彼女が当時の生物学で発見したことへの適切なタイトルであった。(他の生物学者や霊長類研究者もこの企てに貢献している。)バトラー以前に、政治理論家のスーザン・モラー・オーキンは、家庭における女性のジェンダー化された宿命をつくりあげる上で、法と政治思想がどのような役割を果たしているかを探究した。そしてこのプロジェクトも、法と政治哲学で多数のフェミニストによってさらに推し進められている。バトラー以前に、ゲイル・ルービンの『女たちによる交通』での従属に関する重要な人類学的説明は、ジェンダーの社会組織と権力の非対称性の間の関係について有益な分析を提供した。

じゃあバトラーの研究はこの豊饒な論文群にいったいなにを付け足したのだろうか?『ジェンダー・トラブル』と『問題なのは身体だ』〔未邦訳〕は、生物学的な「自然な」性差の主張に対してもまったくなにも詳しい議論を含んでいないし、ジェンダー複製の機構の説明もなく、家族の法的な形成についての説明もなく、それどころか法改正の可能性については詳しくはまったくふれられていない。それでは、バトラーは、これまでのフェミニストの論文では十分になさていないような何かを提示したのだろうか?それは何だろうか?比較的独自の主張の一つは、わたしたちがジェンダー差の人工性を認識し、それらが独立した自然的な事実の表現であると考えるのを控える時、わたしたちは同時にジェンダータイプが、三つや五つやあるいは不定の多数ではよくなく、それが二つである(ふたつの生物学的な性と相関連して)ということに従わざるをえない理由など、どこにもないことを知る。バトラーはこう書いている。「構築されたジェンダーの身分が本質的に生物学的な性から根本的に独立に理論化されるのであれば、ジェンダーそれじたいは自由に浮遊するごまかしとなる」。

バトラーにとって、この主張からは、わたしたちは自由に好きなようにジェンダーをつくりかえられるのだという意味ではない。それどころか、わたしたちの自由にはきびしい制限があると彼女は考えるのだ。彼女の主張によれば、「社会の背後に手つかずの自己なるものがあって、社会をとりさってみれば、いつでも純粋無垢で解放された姿が現れるだろう」などとウブな想像をするべきではないのだ。「〔社会と〕一体化する前に自我があるわけでもなく,さまざまな力がぶつかり合うこの文化的な場に参入する前から「〔1人の人間としての〕一体性」を保持している人などいない。できるのはただ〔すでにある〕ツールをそこにある場で取り上げるしかないのだ、そして「とりあげる」その場はツールそのものによって可能にされているのだ」と。しかしながら、バトラーは、古いカテゴリーの上手なパロディーによって、わたしたちはある意味新しいカテゴリーをつくることができると主張する。それゆえ彼女のもっとも知られた着想は、パロディー的なパフォーマンスとしての政治という構想であり、それは、(きびしく制約された)自由という感覚から生じており、さらにこの感覚は、人のジェンダーについての考え方は生物学的というよりは社会的な力によって形づくられてきたのだ、ということを認めることから来ている。わたしたちは、わたしたちが生まれおちた権力の構造の反復をするよう運命づけられているが、しかし少なくともそれらを笑いものにすることはできるのだ。そして笑いものにすることのいくつかはもともとの規範への転覆的な攻撃となるのだ。

ジェンダーがパフォーマンスであるという着想はバトラーのもっとも有名な着想であり、そしてより詳しく精査するために、しばし立ち止まって、もっと詳しく検討してみる価値がある。彼女はその考えを直観的に『ジェンダー・トラブル』で導入しており、理論的にはなにも前例を引き合いに出していない。後に彼女は、彼女が演劇のようなパフォーマンスに言及していたということを否定し、そしてその代わりに彼女の考えを『言語と行為』におけるオースティンの言語行為の説明に関連づけている。オースティンが言う「遂行発話」の言語学的な範疇は、言葉の発話の一範疇で、それじたいが単独で主張ではなく行為として機能するものを指す。わたしが(適切な社会的状況で)「10ドル賭けるよ」か「ごめんなさい」か「誓います」(結婚式において)もしくは「この船に~と名づける」と発言する時、わたしは賭けること、謝罪すること、結婚すること、もしくは命名の儀式を報告しているのではなくて、それを行っているのだ。

ジェンダーについてのバトラーの同じような主張は自明のことではない、なぜなら問題となっている「遂行発話」は言語に加えてジェスチャー、服装、動き、そして行為を伴うからだ。オースティンの主張は、ある特定の種類の文のかなり専門的な分析に制限されているのだから、彼女の着想を発展させるのに実際べつだん役に立たないものだ。それどころか、彼女は彼女の見地を劇場と結び付ける読みを断固として拒絶しているとはいえ、けれどもオースティンについて考えることよりも、ジェンダーに関する「リヴィング・シアター」の転覆的な作品について考えることは、はるかに彼女の着想をはっきりさせているように見える。

またバトラーのオースティンの扱いもあまり信頼できるものではない。彼女は奇怪な主張をしている。オースティンの文章のなかで、結婚式が遂行発話の数多い例の一つとなっていることは、「社会的絆の異性愛化は、名付けるということそのものを生じさせるという言語行為の典型的形態なのである」というものである。まさか!結婚というのは、賭けること、船に名前を付けること、約束すること、謝ることと同程度にオースティンの典型例となっているにすぎない。彼はある種の発言の形式的特徴に興味を持ち、そして彼の主張にそれらの発言の内容が重要性を持つと仮定する理由はわたしたちにまったく与えられてない。哲学者のありふれた例の選択に地を揺るがすかのような重要性をみるというのはたいてい誤りなのだ。実践的三段論法の解説にアリストテレスがよく例の低脂肪食を使うからと言って、鶏肉がアリストテレスの考える美徳の中心をなしているのではないか、などと考えるべきだろうか?もしくは、ロールズが実践的推論を解説するのに旅程を持ち出しているからと言って、「これをみれば『正義論』の狙いが私たちみんなに休暇旅行を与えることにあるとわかる」などと言うべきだろうか?

これらの奇妙なことは置くとして、バトラーの主眼はおそらくこれであろう。すなわち、ジェンダー化された仕方で行為し話す時、わたしたちはたんに世界にすでに定着した物事を報告しているだけでなく、わたしたちはさかんにそれを構成し、複製し、強化しているのだ。まるで男性や女性の「本性」があるかのように振る舞うことで、わたしたちはともにこれらの本性が存在する社会的虚構をともにつくりあげているのだ。男性や女性の本性などといったものは、我らの行いを離れては存在しない。わたしたちは、つねにそれがそこに存在するようにしているのである。と同時に、少し異なるやり方でこれらのパフォーマンスを行うことによって、すなわちパロディーのやり方で行うことによって、わたしたちはおそらくほんのちょっと壊すことができるのだ。

それゆえ、ヒエラルキーによって拘束されている世界の中で、行為能力(agency)が発現できるのは、性役割が形作られる瞬間たびに、その性役割に反対する小さな機会の中だけなのだ。わたしが女性らしさを行っていると分かった時、それをひっくり返し、あざけって、ちょっと違った仕方でやることができるのだ。バトラーの見方では、そのような反応的な発されたパロディーのパフォーマンスというのは、より大きな規模なシステムを決して揺るがすことはない。彼女は抵抗のための大規模行動や政治改革のためのキャンペーンをもくろんでいない。良くわかっている、ほんの少しの演技者によって行われる個人的行為だけを見据えているのだ。まるで下手な脚本をあてられた役者が悪いセリフを奇妙に言うことによって、脚本を転覆することができるように、ジェンダーについても同じなのだ。脚本は悪いままであるが、役者にはほんの少しの自由があるのだ。それゆえ、バトラーが『触発する言葉』で言うところの「アイロニックな楽観」への基盤をもっているのだ。

ここまでのところ、バトラーの主張は、比較的ありふれたものであるのだが、もっともらしく興味深くさえある。もっとも読者は、変革の可能性についてのバトラーの狭い見方に不安になるだろうが。しかしながら、バトラーはこれらのジェンダーに関するもっともらしい主張に、二つのより強くそしてより論争的な主張を付け加える。第一は、自我をつくりだす社会的力に先だってもしくは背後に行為能力(agency)は存在しないということだ。もしこのことが赤ちゃんはジェンダー化した世界に生まれおち、その世界では瞬時に男性と女性が複製され始めるものなのだとしたら、この主張はもっともらしい、しかし驚くべきものではない。ずいぶん前から実験によって、赤ちゃんが抱かれたり話しかけられる仕方や彼らの感情が説明される仕方が、大人が信じている赤ちゃんの生物学的性によって形作られている、示している。(同じ赤ちゃんが、男の子だと大人によって信じられた時は、弾むようにあやされ、女の子だと大人によって信じられた時は、抱きしめられる。赤ちゃんが泣いている時、女の子だと考えられているときは、怖がっているのだと説明され、男の子だと考えられているときは、怒っているのだと説明される。)バトラーはこれらの経験的な事実にまったく興味を示さない、が経験的な事実は彼女の主張を擁護するのだが。

しかし、もし赤ちゃんが、まったく自力で活動できなず、ジェンダー化された社会での赤ちゃんの経験にある意味で先行する傾向も、能力もなにも持たばない状態で生まれて来るということを、彼女が意味しているのであれば、これはまったくもっともらしいことでなく、経験的に裏付けることは難しい。バトラーはそのような裏付けを与えず、形而上学的抽象の高みから降りてこようとはしないのだ。(それどころか、彼女は最近のフロイトに関する論文でこうした考えを否定さえしているようである。フロイトを用いて、最低限ある前社会的な衝動と傾向があるということがその文章によって示唆されているが、いつも通り、この思考方針は明確に発展されていない。)さらに、そのように誇張された前文化的な行為能力(agency)の否定は、チョドロウたちが、良い方向への文化的な変化を説明しようとした時、用いたリソースの幾分かを捨て去ってしまっている。

バトラーは結局、わたしたちは行為能力(agency)の一種を持っていて、その行為能力(agency)とは変革と抵抗を行う能力なのだと言いたいはずだ。しかしながら、もし、パーソナリティーのなかに、まったく権力の生産物ではない構造などないとしたら、いったいその能力とはどこから来たのか?バトラーにとってこの質問に答えるのは不可能ではないだろう。しかし、今までのところ、人間は最低限ある前文化的な欲望――食への、快適さへの、認識の熟達への、生存への欲求――を持っており、またパーソナリティにおけるこうした構造は道徳的政治的行為能力(agency)としてのわたしたちの発達の説明に極めて重大だと信じる人びとを納得させるようなやり方では、もちろん彼女は答えていない。読者はそのような見方のもっとも強力な形態にバトラーが取り組むのを見たいと思い、そして、明確に専門用語抜きで、彼女がそれらをなぜ、どのように拒絶するのか、何を言うのか聞きたいだろう。人は現実の幼児について彼女が語ることを聞きたいだろう。幼児はその誕生から、文化の型の反復に影響を与える、奮闘の構造を明示しているように見えるのだから。

バトラーの二つ目の強力な主張は、身体それ自体、そしてとくにふたつの生物学的な性の区別もまた社会的構築なのだ、というものだ。彼女は男性と女性がどうあるべきかという社会規範によってさまざまに身体が形作られているということだけを言っているのではない。彼女は生物学的な性のふたつに分割することが基礎的であって、社会を順序立てる鍵とされているという事実自体が、身体の現実によっては与えられない社会的な考えであるということをということも言っているのだ。ではこの主張はなにを意味し、そしてどのくらいもっともらしいのか?

フーコーの両性具有研究についてバトラーが簡単に触れているところでは、人がその箱にはまろうとはまるまいと、すべての人間をこれか、その箱に分類しようという社会の心配性のこだわりをわたしたちに示してくれる。しかし、もちろん、それは多くの確定できない例があることを示しはしない。さまざまな多くの身体類型をもっていてもよかったのではないか、必ずしも男女の二分法をもっとも目立ったものとして採用する必要はなかったのではないか、と彼女が主張するのは正しい。そしてだいたいにおいて、彼女が科学的研究に則ったとされる生物学的な身体的な性差の主張は文化的偏見の投影だと主張することも正しい。しかしながら、バトラーは、ファウスト・スターリングの綿密な生物学的分析と同じくらい説得力のあるものを示せていない。

しかし、権力が身体のすべてだ、と言い切るのは単純すぎる。わたしたちは鳥の、恐竜の、ライオンの身体を持っていてもよかったかもしれない、しかし現実にはそうではない。そしてそうではないということがわたしたちの選択を形づけているのだ。文化はわたしたちの身体存在のある側面を形作ったり、また再び形作ったりすることができる。しかし、すべての側面を形作るというわけではないのだ。「飢えと渇きで苦しんでいる人に、議論と信念によってその人がそれほど苦しんでいないと思わせるのは不可能だ」と昔セクストゥス・エンピリクスが述べている。このことはフェミニズムにとっても重要な事実である。なぜなら、女性の栄養に関する需要(そして妊娠時と授乳期の特別な需要)はフェミニストの重要なトピックであるからだ。性差が問題になっている時さえ、すべてを文化だと書き捨てるのはもちろん単純が過ぎている。またフェミニストはそのようなすべてを一気に掃きすてるような身ぶりをすべきではない。たとえば、走ったりバスケットボールをしたりする女性は、男性支配による想定の産物である女性の運動能力に関する神話の打破を喜んで迎えたのは正しかった。しかし彼女たちは女性の身体に特化した研究を要求したのも正しかった。そうした研究は女性のトレーニングに関する必要と故障に関するよりよい理解を醸成してきている。要するに、フェミニズムが求めそして時々に得てきたものは身体的な差と文化的な構築の相互作用のきめこまやかな研究なのだ。そしてバトラーのすべての問題から高くとまっている抽象的な見解は、わたしたちが求めていることを一つももたらさない。

IV

ここまで見てきたバトラーのいちばん興味深い主張を、仮に受け入れたとしよう。それは、ジェンダーの社会的構造が遍在しているが、転覆的なまたパロディー的な行為によってそれに抵抗できるというものだ。しかしふたつの重要な問いが残る。なにが抵抗されるべきなのか、そしてどういう根拠で抵抗されるべきなのか?抵抗の行為というのは、いったいどのようなものなのか、そしてそれらを達成したらなにが起こると期待してよいのだろうか?

バトラーは、悪いものであって、抵抗する価値があると彼女が考えているものについていくつかの単語を使っている。例えば、「抑圧的な」もの、「従属させること」、「圧迫的な」ものである。しかし彼女は、例えば、バリー・アダムの魅力的な社会学的研究に見られるような抵抗の経験的な議論をなにも提出しない。そう、アダムが『支配の存続』(1978)〔未邦訳〕において、黒人、ユダヤ人、女性そしてゲイやレズビアンの従属と彼らを圧迫する社会権力の諸形態態と格闘する方法を探究したような論は。そしてわたしたちの手助けとなる抵抗や圧迫の概念を全く説明しないため、わたしたちはまったくもってなにに抵抗すべきなのかわからなくなる。

この点について、バトラーは彼女以前の社会構築主義のフェミニストとは、たもとを分かつことになる。初期の社会構築主義のフェミニストは、非階層性、平等、尊厳、自律、といった概念を使い、現実の政治の目標を示すために、それらの概念を手段というよりも目標として扱ったのだ。彼女はいかなる積極的な規範的考えも練り上げようとしない。それどころか、フーコーと同様バトラーは、本質的に専制的だ、という理由で人間の尊厳のような規範的概念や、人間性を目標として扱うことに断固として反対するのだ。彼女の見方では、わたしたちは、政治的な尽力に参加する人たちに「こうするべき」と規範を示すよりも、そうした政治的な尽力からおのずともたらされるものを座して待てばいい、ということになる。彼女が言うには、普遍的なそして規範的な概念は、「同じものというしるしのもとに植民地化する」のだ。

結果を座して待つという考え方――言いかえれば、この道徳的無抵抗――はバトラーにおいては、もっともなように見える。なぜなら、彼女は暗黙のうちに、なにが悪いのか――ゲイとレズビアンに対する差別、そして女性の不公平でヒエラルキー的な扱い――について(いちおう)一致し、なぜそれらが悪いのか(というようなこと)についてさえ一致する、同じ考えを持つ読者を想定しているからだ(その悪いとされる考えとは、ある人を他の人びとに従属させ、そしてその人たちが持っているべき自由を享受させないということである)。しかしこの想定をとりさってみると、規範的側面の不在は重大な問題となる。

わたしがしているように、現代の法科大学院でフーコーを教えてみればよい。そうすればすぐに、転覆というのがさまざまな形態をとることが分かるだろう。転覆のすべての形態が、バトラーとその支持者に友好的というわけではない。察しの良いリバタリアンの生徒が言ったように、「わたしはなぜこれらの着想を税制に抵抗するために、あるいは反差別法に抵抗するために、またおそらく市民ミリシアに参加することにさえも用いられないのか?」そこまで自由を好まない人は、クラスでフェミニストの発言をばかにするという転覆的なパフォーマンスを行うことができるし、レズビアンとゲイの法学生組織のポスターを引きちぎるという転覆的なパフォーマンスを行うこともできる。これらのことは実際に起こっている。それらはパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、彼らは大胆不敵で良い、というわけではないのだろうか?

さて、バトラーやフーコーには見ることのできない、それらの問いへのすばらしい答がある。こうした問いにこたえるためには、人間が持つべき自由と機会に関する議論を要し、そして、手段としてではなく目的として人間を扱うというのは、社会制度にとってどういうことなのか、ということに関する議論も要する。手短に言えば、社会正義と人間の尊厳に関する規範的な理論が議論されるべき。わたしたちの普遍的な規範に謙虚であり、圧迫された人びとの経験から学ぶべきだと言うことと、わたしたちはいかなる規範もまったく必要としない、と言うのはとてつもなくかけ離れたことである。バトラーとは違ってフーコーは、すくなくとも後期の論文においてこの問題をつかんでいた兆候を示している。そして彼の論考は、社会的な圧迫の本質とそれが与える害についての熾烈な感覚によって駆り立てられている。

考えてみてほしい、人格的な徳として理解される正義は、バトラー的な分析においてぴったりジェンダーとおなじ構造を持っている。それは生まれながらのものでも、「自然な」ものでもない。それは反復されるパフォーマンスによってつくりだされ(またはアリストテレスが言ったように、わたしたちは徳を行うことによって、徳を修得するのである)、そしてそれはわたしたちの傾向性を形作り、また一部の傾向性の抑圧を強要するのだ。これらの儀式的なパフォーマンスとそれらに付随する抑圧は社会的権力の取り決めによって施行されるのだ。遊び場を一人占めしたい子どもがすぐわかることだ。それに、正義のパロディー的な転覆は、個人的な生活でもそうであるように、政治のいたるところにある。しかし重要な違いがそこにはある。一般的にわたしたちはこのような転覆的なパフォーマンスを嫌い、そしてわたしたちは、若い人びとがそのようなシニカルな見方で正義という規範を理解するようには推奨されるべきではないと考えている。バトラーは規範としての正義の転覆が社会的な悪である一方、なぜジェンダー規範の転覆が社会的な善であるのかということを、純粋に構造的もしくは手続きに則ったやり方で説明できない。わたしたちは覚えておくべきなのだが、フーコーはホメイニを応援した、なぜいけないことがあろうか?ホメイニの革命は、もちろん抵抗であり、そしてまったくのところそのような抵抗が、市民権と市民的自由への闘争より価値がないと、われわれに告げることは、フーコーのテクストのどこにもないのだ。

それゆえ、バトラーの政治の考えの中心は、空虚がある。この空虚さは人びとを解放してくれるもののようにみえる。なぜなら、読者が暗黙のうちに人間の平等や人間の尊厳の規範的な理論によって、その空虚さを埋めるからだ。しかし間違いは一つも残さないようにしておこう。フーコー同様、バトラーにとって、転覆は転覆なのであり、そしてそれは原則としてどの方向に行くこともできるのだ。それどころか、バトラーのあまりに単純で中身のない政治は彼女が奉じているまさにその大義ゆえに、とても危険なのである。バトラーのお友だちは、抑圧的な異性愛の性的規範を公然と非難する転覆的なパフォーマンスに従事したがるが、納税順守の規範から、反差別の規範から、仲間の学生のまともな扱いから逃避する転覆的なパフォーマンスに従事したいと思っている人はバトラーのお友だち以上にもっとたくさんいるのだ。そのような人びとへ向けて、わたしたちは何が悪いかを示す、公正さ、品位、尊厳という規範があるために、単純にあなたがしたいように抵抗することはできないのだと言うべきである。しかしそれゆえに、わたしたちはそれらの規範をはっきりと表現しなければならない。そしてこれがバトラーが拒否しているものなのだ。

V

バトラーが転覆を勧める時、正確にはいったい何を提示しているのだろうか?彼女は我々にパロディー的なパフォーマンスに携わるようにと告げるが、同時に彼女は抑圧的な構造から完全に逃げるという夢はやっぱり夢なのだなのだとわたしたちに警告している。わたしたちが抵抗のためのほんのわずかの空き地を見つけなければいけないのは、抑圧的な構造の中にであり、またこの抵抗では全体的な状況の変革を望むことができないのだ。そしてここに危険な無抵抗主義がある。

もしバトラーがただ生物学的性がまったく重要な問題を生じさせない牧歌的な世界を空想する危険性を警告しているだけなのだとしたら、それは賢明なことだ。しかし頻繁に彼女はさらなる言及をする。彼女はわたしたちの社会において、レズビアンやゲイ男性の周縁化し、女性に対するいまだ途切れない不表どうを保障している制度的な構造が根本的に変化することは決してないと示唆するのである。ゆえに、わたしたちの最善の策は、それらをあざけり、そしてそれらの内部に個人的な自由を味わえるちょっとした場所を作りあげることだけなのだ。「侮辱的な名前で呼ばれて、わたしは社会的な存在になる、そしてわたしの存在にある種のさけえない愛着を抱いているがために、ある種のナルシシズムが、存在を与えてくれる言葉をすべて捉えてしまうので、わたしを社会的に構成してくれるがゆえに、わたしを傷つける用語を受け入れるようになる」と。言いかえてみよう:わたしは自分に屈辱を与える構造から逃れでるいことができない。そうしようとすれば、自分が存在しなくなってしまう。わたしができる最善のことは、からかうことであり、人を従属させようとする言葉を皮肉な仕方で使うことだ。バトラーにおいて、抵抗とはつねに個人のこと、およそ私的なことであり、皮肉などふくまない真面目な、法的、制度的変革への組織だった公的な活動はまったく含まないものとして想像されているのである。

これは、奴隷に向かって、奴隷制は決してなくなることはないが、奴隷であるあなたは奴隷制をあざけったり転覆するやり方を得ることができ、それらの綿密に制限された抵抗の行為の中で個人の自由を得ることができるというのと、似ていることではないのか?しかしながら、奴隷制は変革することができ、実際に変革されたというのが事実である。それを行った人はバトラーのような可能性の見地に立つ人ではない。奴隷制を変えることができたのは、人びとがパロディー的なパフォーマンスに満足しなかったからである。彼らは社会的な大変動を要求し、そしてある程度それを得たのである。また女性の人生を形作る制度的な構造が変化してきているというのも事実である。いまだに欠陥はあるが、レイプに関する法は少なくとも改善してきている。セクシュアル・ハラスメントに関する法は、以前は存在しなかったが、今は存在している。婚姻は、女性の身体に対する専制君主的な支配を男性にもたらすとはもはやみなされなくなった。これらのことは自分たちの解決策としてパロディー的なパフォーマンスを取らないだろうフェミニストたちによって変革されてきた。変革を成し遂げたフェミニストたちは権力が悪しきものである場合に、それは権力は正義の前に屈するべきだし、屈するであろうと考えていたのだ。

バトラーはそのような望みを控えるだけでなく、彼女はその不可能性を好むのだ。彼女はいわゆる権力の不動性を夢想することに楽しみを見出し、そして彼女はそのような状態にあるべきだと説得された奴隷の儀式的な転覆を想像する。彼女はわたしたちにこういう。わたしたちは全員、わたしたちを抑圧する権力構造をエロチックにしており、そしてそれゆえわたしたちは権力構造の中でのみ性的快楽をえることができるのだと――これらは『権力の心的な生』の中心的な主張にあるものである。これらゆえに、彼女は持続的な具体的または制度的な変革よりも、パロディー的なセクシーな転覆的行為を好んでいるようにみえる。現実の変革は、性的な満足を不可能にしてしまうほど、わたしたちの精神の根っこを掘り起こしてしまうのだ。わたしたちのリビドーは悪く隷属させる力の産物であり、それゆえ必然的に構造においてサドマゾヒスト的なのである。

さて、転覆的なパフォーマンスはそれほど悪いものでないかもしれない。もしあなたがリベラルな大学で有力な終身雇用資格を得た学者ならの話だが。しかし象徴的なものの重視、すなわち、バトラーの尊大な生活の物質面の無視が、致命的な無知になるのがこの点である。腹をすかせ、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされている女性にとって、それがどれほどパロディー的であったとしても、飢え、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされるという状況を再現することは、魅力的なことでも、解放することでもない。そのような女性は、食料、学校、投票そして、自分の身体の一体性を選ぶ。彼女らが、サドマゾヒスト的に悪い状態に戻ることを切望していると信じる理由は一つもない。もし従属・非従属関係の性的魅力なしに生きることができない個人がいるとしても、哀しいことに思えるが、それはわたしたちの関与すべき問題ではない。しかし、絶望的な状態にある女性たちに向かって有名な理論家が、人生は彼らに束縛を与えるだけであると伝えたならば、彼女は無慈悲な嘘を伝えている。邪悪さにこびへつらう嘘を伝えているのであり、その邪悪さに実際以上の権力を与えてしまっているのだ。

〔本論が書かれた当時の〕バトラーのもっとも最近の著作である『触発する言葉』では、ポルノグラフィとヘイトスピーチを含む法的論争についての彼女の分析が提出されている。その本では、正確に彼女の無抵抗主義がどこまで拡張されたのかを正確に示してくれている。なぜなら彼女は法的変革が可能で、それがすでに実際におこなわれているときに、わたしたちは法的改革がなくなるのを祈念すべきであるとすすんで言おうとするのだ。それは抑圧された人々がサドマゾヒスティックなパロディーの儀式を演ずるための空間を保持しておくために。

言論の自由に関する論考として、『触発する言葉』は良心のかけらもなく、ひどい本である。バトラーは修正第一条に関する主要な理論的説明にまったく意識を払わないし、言論の自由に関する理論が考慮すべき幅広い判例についても同様である。彼女は法的に馬鹿げた主張をする。例えば、彼女は言論において保護されないとされている唯一の言論形態は、以前から言論というよりは行為として規定されている言論だと述べている。(実際のところ、さまざまな言論があるのだ。これらの言論形態とは、嘘や誤解を招きかねない広告から、名誉毀損、そして現在わいせつなものとして規定されている表現などである。これらはそれにもかかわらず、修正第一条の保護を認められていないのだ)。バトラーは、わいせつな表現は「けんか言葉」と同等のものとして判断されてきたとさえと誤った主張をする。バトラーは、修正第一条の対象とされるべき、現在保護されていないさまざまな言論についての新しい読みを提示するが、バトラーがそれらを裏付ける主張を持っているわけではないのだ。彼女は、様々な判例があること、もしくは彼女の見地が広く受容されている法的な見地ではないということに気が付いていないだけなのだ。法に興味のある人で彼女の議論をまともに受け取る人はいないだろう。

しかしとにかくヘイトスピーチとポルノグラフィに関する議論からバトラーの立場の核を取り出してみよう。それはこうである。ヘイトスピーチとポルノグラフィの法的な禁止は、問題がある(結局、彼女は明確にそれらに反対しているというわけではないのだが)。なぜなら、そのような言論によって傷つけられた人びとが、抵抗を行うことができるような場を狭めるからというものである。このことによって、バトラーは違反が法的なシステムによって対処されるであれば、非公式的な抗議のための機会がその分少なくなると訴えているように見える。そしておそらく、違反がその違法性のために珍しくなれば、わたしたちがその存在に抗議する機会が少なくなってしまうと訴えているのだ。

さて、それはそうだろう。たしかに法律は抵抗する場を狭めることになる。ヘイトスピーチとポルノグラフィは特に込み入った主題であり、フェミニストたちが意見を異にするのは無理もない(それでも、自らの主張と対立する見地について、人は正確に述べるべきである。バトラーによるマッキノンの説明は丁寧になされているとは言い難い。バトラーはマッキノンが「ポルノ・グラフィーを禁止する条例」を支持していると言い、そしてマッキノンがはっきりと否定しているにもかかわらず、それが検閲の一形態を含むと示唆している。バトラーはマッキノンが実際に支持していることは、ポルノグラフィによって傷つけられた特定の女性たちはその製作者と、それの配給業者を訴えることができるとする、被害に対する民事賠償措置であるとどこにも書いていない)。

バトラーの論はヘイトスピーチとポルノグラフィの事例をはるかに超えた含意を持っている。それはたんにこれらの領域において無抵抗主義を支持するのではなく、より一般的な法的無抵抗主義を――それどころか、ラディカルなリバタリアニズムを――支持しているようである。つまりこういうことなのだ。すべてのものを廃止しよう。建築基準法から、反差別法から、レイプ法まで。なぜってそれらは被害を受けた借家人や差別の被害者、そしてレイプされた女性が彼らの抵抗を行うことができる空間を狭めてしまうから。さて、これは、ラディカルなリバタリアンが建築基準法や、反差別法に反対するために使う議論と同じものではない。リバタリアンでさえ、レイプ法の一歩手前で線引きをしているのだ。しかし、〔バトラーとリバタリアンの〕結論は近づいている。

もし万が一バトラーが自らの議論は言論だけに関連しているのだと返答したら(そしてバトラーが有害な言論と行為を同じものとしていることを考えてみれば、そのような制限ができるという理由はバトラーのテクストには一つもない)、わたしたちは言論の分野で返答することができる。虚偽の広告と免許なしの医療に関する助言を禁じる法律を取り除いてみよう、なぜなら害された消費者と手足を切断された患者が抵抗を行うための空間を狭めてしまうから!さて、もしバトラーがこれらの拡張を承認しないのだとしたら、彼女はこれらの事例から彼女の事例を分かつ議論をする必要があり、そして彼女の立場が彼女にそのような区別を許すかどうかは定かではない。バトラーにとって転覆の行為はとてもうっとりするもので、とてもセクシーで、世界が実際によりよくなると考えるのは、悪夢なのである。なんと平等はつまらいのだろう!拘束がなければ、喜びなどない。このように、彼女の悲観的でエロティックな人間学は道徳観念のない無政府主義の政治を擁護するだけである。

VI

バトラーの論文に固有の無抵抗主義を考慮してみると、わたしたちはフェミニストの抵抗の模範例として、ドラァグと異性装にバトラーがなぜ魅了されているのかを理解するいくつかの手がかりを得る。バトラーの信奉者は彼女のドラァグについての説明が、そのようなパフォーマンスは女性が大胆にそして転覆的になるための方法であると示唆していると理解している。わたしはバトラーによってそのような読みが拒絶されたという試みを知らない。

しかしここではいったい何が起こっているのか?男性的に装った女性というのは新しい像ではない。それどころか、男装した女性が19世紀には比較的新しかったとしても、別の意味でずいぶん古くかった。なぜならば、そうした女性はたんにレズビアンの世界において現存する男性-女性社会のステレオタイプとヒエラルキーを複製していたからだ。こう尋ねてもいいだろう。いったいこうした領域でいったいなにがパロディー的転覆になっているのか、裕福な中産階級がそれを好んで受けいれているのはどういうことなのだろうか?ドラァグにおけるヒエラルキーとははやっぱりヒエラルキーではないのか?そして支配と従属は、女性がどのような領域でも果たさなければならない役割であり、そ従属してなければ、男性的に支配しているということになる、というのは実際のところ事実なのだろうか?

手短に述べれば、女性にとって異性装は使い古されてふるぼけた脚本――バトラー自身がわたしたちに述べるように――なのである。しかし、彼女はその脚本が、異性装者の抜け目ない象徴的な衣服に関する振るまいによって、転覆的で新しくされているということを、わたしたちにわからせてくれるかもしれない。しかしわたしたちは再びその新しさと、そして転覆性さえをも疑問に思わなければならない。安全でアカデミックな快適さ態度から発言する、アンドレア・ドウォーキンによる(彼女の小説『償い』における)バトラー的でパロディー的なフェミニストのパロディーを見てみよう。

悪いことが起きたという観念は教義のプロパガンダにすぎず、女の精神を萎縮させるものである。……女性の人生を理解するためには、快 楽や(時には)苦痛、選択や(時には)拘禁の中に隠された曖昧な要素があることを、絶対に見逃してはならない。私たちは、秘められた合図を見抜く目を養わ なければならないのだ。例えば洋服を見るとしても、洋服以上の意味、現代の対人関係の装飾とか、表面的な画一性の下に隠された反逆とかの意味を見抜かなけ ればならない。犠牲者なんてものは一切存在しないのだ。

バトラーの散文にほとんど似ていない散文の中で、この文章はバトラー風の文章のいくつかの想定上の筆者の両義性を捉えている。作者は、おなかをすかせ、文字も読めず、強姦され、打たれた女性の物質的な苦しみから、彼女の理論的な目を断固としてそむける一方で、冒涜的な実践に喜びを感じる。そこに犠牲者などはいない。ただ、合図が不足しているだけである。

バトラーは彼女の読者に、この現状の狡猾なものまねが人生が提示する抵抗のための唯一の脚本だと示唆する。それは残念ながらノーである。人生は、個人生活において人間らしくある多くの他の方法を提供しているし、そして伝統的な支配と屈従の規範を超えて、人生は多くの抵抗の脚本を提示する。そしてその抵抗は、個人の自己提示に自己陶酔的に焦点を合わせるわけではない。そのような脚本は、女性がじしんの身体をどう提示するか、そして女性の身体とジェンダー化された本性がどう提示されるかといったことをそれほど重視せずに、法律や制度を形成するフェミニストを(もちろん他の人も)含む。つまり、こうした脚本には、苦しんでいる人々のために働くということが含まれているのだ。

アメリカの新しいフェミニストの理論における最大の悲劇は、公的なコミットメントの感覚が失われたことだろう。この点では、バトラーの自己陶酔のフェミニズムはひじょうにアメリカ的であり、そしてバトラーがこの国でウケていることは、驚くことではない。アメリカは、成功した中産階級の人びとは、自己を陶冶することに焦点を置きたがり、他人の物質的状況を改善するようなかたちで思考することは好まれない。しかしながら、アメリカにおいてさえ、理論家たちが公共善に献身し、そしてその努力によって何かを成し遂げることは可能なのだ。

アメリカの多くのフェミニストはなお物質的な変革を援助する形で、またもっとも抑圧されている人びとの状況に答える形で理論化を行っている。しかしながら、だんだんと学界と文化的な傾向は、バトラーとその信奉者の理論化に代表される悲観的な浅薄さへ向かっている。バトラー的なフェミニズムは、さまざまな点で古いフェミニズムより手間いらずなものである。バトラー的なフェミニズムは大勢の若い才能のある女性たちに、彼女らは法律を改正すること、腹をすかせた人に食べさせること、物質的な政治に結び付けられた理論を通して権力を攻撃することに従事しなくていいと告げる。彼女らは大学内で安全に政治を行うことができるのだ。象徴的な水準にとどまりながら、言論とジェスチャーによって権力へ転覆的なジェスチャーをすることによって。これが、バトラー的な理論が言うには、政治的行動という手段によって、わたしたちに可能なまさにほとんどすべてなのであり、そして刺激的でセクシーではないか。ささやかだが、もちろん、これが望みのある政治なのだ。それはいますぐ自らの安全を犠牲にすることなく、なにか大胆なことができるのだと人びとに教授する。しかし、その大胆さというのは、すべてジェスチャーに関することなのだ。そしてこれらの象徴的なジェスチャーというのが、社会的な変革なのだと本当に示唆する限りにおいて、バトラーの理想はニセの望みを提示するだけだ。おなかをすかせた女性はこれによって満たされるわけではない、虐待された女性はこれによって保護されるわけではない、レイプされた女性はこれによって正義を実感するのではない、そしてゲイとレズビアンはこれによって法的な保護を達成するわけではない。

最終的に、朗らかなバトラー的な試みの中心には絶望がある。大きな望み、それは法や制度が平等とすべての市民の尊厳を守る、本物の正義が達成された世界への望みは、放逐され、おそらくは性的に退屈だとしてあざけられる。ジュディス・バトラーの瀟洒な無抵抗主義はアメリカで正義を実現する難しさへの反応としては理解できる。しかし、それは悪い反応である。それは邪悪さと協働している。フェミニズムはもっと多くのものを要求するのであり、女性はもっとよい扱いを受けるにに価するのだ。

[読書案内]

  • Butler, Judith, [1990] 1999, Gender Trouble, Routledge。(=ジュディス・バトラー、1999、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社。)
  • Butler, Judith, 1993, Bodies that Matter: On the Discursive Limits of “Sex”: Routledge.
  • Butler, Judith, 1997, Excitable Speech: A Politics of the Performative: Routledge.=(ジュディス・バトラー著、2004、竹村和子訳、『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店。)
  • Butler, Judith, 1997, The Psychic Life of Power: Theories in Subjection: Stanford University Press.(=ジュディス・バトラー、2012、佐藤嘉幸・清水知子訳、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』月曜社。)
  • Chodorow, Nancy, 1978, The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender: University of California Press.(=ナンシー・チョドロウ著、1981、大塚光子・大内菅子訳、『母親業の再生産』新曜社)
  • Dworkin, Andrea, 1900, Mercy: Arrow.(=アンドレア・ドゥオーキン、1993、寺沢みづほ訳、『贖い』青土社。)
  • Fausto-Sterling, Anne, [1985]1992, Myths Of Gender: Biological Theories About Women And Men, New York: Basic Books.(=アン・ファウスト・スターリング、1990、池上千寿子・根岸悦子訳、『ジェンダーの神話―「性差の科学」の偏見とトリック』 工作舎 。)
  • Mill, John Stuart, 1869, The Subjection of Women.(=ジョン・スチュアート・ミル、1957、大内兵衛・大内節子訳、『女性の解放』岩波書店。)
  • Rawls, John, [1971]1999, A Theory of Justice Revised Edition: Harvard University Press.=(ジョン・ロールズ、2010、川本隆史・福間聡・神島裕子訳、『正義論』紀伊国屋書店。)
  • Rubin, Gayle, 1975, The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex, in Rayna Reiter, ed., Toward an Anthropology of Women, New York: Monthly Review Press; also reprinted in Second Wave: A Feminist Reader and many other collections.=(ゲイル・ルービン、2000、長原豊訳、「女たちによる交通 性の 「政治経済学」 についてのノート」『現代思想 特集=ジェンダー 表象と暴力』青土社。)

牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。

一番最初はどうでもいいので飛ばす。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、女性解放を論じた現代の古典として名高い『第二の性』(1949)で「人は女に生まれない、女になるのだ」と言明し、いかにして女が「作られて」いくかを論じました。女性はリーダーシップに欠ける、権力志向が無い、だから政治家には向かない・管理職には向かない、などともっともらしく言われたりしますが、それは、幼い時から、女の子は優しく素直にと、従順でつねに他者を自分より優先するようにしつけられ内面化していくから。このことが、女性が政治家になりにくい要因の一つを作っているのは明らかでしょう。

この「内面化」仮説の真偽や、「女らしい」から政治家になりにくいのかどうかは、それほど明らかではないと思うけど、今回はいいや。

1960年代後半から70年代にかけて花開いた女性解放運動(第二波フェミニズム運動)の女性たちは、ボーヴォワールのこの考えを、「ジェンダー」という概念で表現しました。生まれつきの性別(セックス)が女・男の「らしさ」を決めるのでなく、生れ落ちてからの社会環境と文化の中で人は、らしさを刷り込まれていく。「母性本能」ということばに典型的なように、妊娠や出産をする身体をもっていれば誰もが母になりたがり子育てが自然にできるかのような思い込みが、いかに女性を縛ってきたことか。そのウソをあばいたのがジェンダーの語でした。

「女性を縛ってきたことか」→「女性と男性を」がいいと思うけど、まあいいや。

「ジェンダー」の定義してないけど「男/女らしさ」でいいのかな?それとも「社会的性差」「格差」かな。

この意味でのジェンダーは、今では日本でも一般に知られるようになりました。ジェンダーにとらわれない生き方ができる社会を作り上げていくことは、現在進行形の重要な課題であるのは言うまでもありません。
しかし、1990年代以降のポストモダンフェミニズム理論は、ジェンダーにはもっと深い意味があると大胆に発想しました。すなわち、社会的性差は作られたものであるというのはその通りだとしても、その考え方の背後には、男女の生物学的性差は「自然」なものとして存在しているという暗黙の前提があるのではないか。そこで自明とされている「自然」な性差、「セックス」とはいったい何なのか、という問いを投げかけたのです。

問いとしてはいいと思うんだけど、ここで「自然」っていうので何を言ってるかも分析してほしい。「生得的なもの」だろうか。それとも「本性」だろうか。上で「子育てが自然にできる」っていうのがあって、この「自然」はどういう意味かな。「自動的に」「教えられずに」「訓練なしに」「意識的に考えないで」とかそういうのだろうか。けっこうむずかしいね。でもこれもまあいい。

ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダーである」と言います(バトラー、1999、29頁)。肉体的・所与のものと見える性差すら、時代によってさまざまな「科学」的知識の名の下に、二分法的に男/女の記号を付されてきたものである、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであると。

ここで、っていうかここは序文みたいなところなのでうしろの方で「科学がどうのこうの」についてバトラー様が論拠にしているのはファウストスターリング先生の研究なんだけど、あれもずいぶん問題のある研究なのよね。

これを聞くと、おそらく多くの人がそれはおかしい、と思うでしょう。女と男では体つきが明らかに違う、おっぱいや膣は女性にしかないし、ペニスがあるのは男性。ホルモン分泌も、DNAも異なる。それは、どんな文化・時代でも変わりがないはず、それなのに、セックスがジェンダーだなんて非合理もいいところだ、と。

まあヒトは性的二型がかなりはっきりしてる哺乳類だしねえ。DNA異なるというか、Y染色体以外はDNAは異ならない、っていうのもなんか不正確で、染色体が1本ちがう、ぐらい。

でも、バトラーは、そういった身体的な差異が無い、と言っているのではないのです。人には、身体的差異はいろいろある。肌や眼の色、人種、性的指向、老若の違い、もって生まれた気質や性格、体格もさまざまです。それなのに私たちは、男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう。そうした認識のあり方が、セックスすらジェンダーであるということの意味なのです。

ここがわからん。バトラー様のあの箇所からこの解釈が本当に出てくるのかどうか。

「男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」はわかるような気はするんだけど、具体例を示してほしい。具体例がないと私わからんのですよ。たいていの学生様もわからんと思う。

ここでたとえば、「車の免許をとるときに生物学的な男女は関係ないはずなのに、公安委員会は男女で違うテストをする」とかそういうのがあるだろうか。これはありそうにない。でも、自働車教習所の教官は男女の違いを意識するかもしれんね。これは真面目な人は男女での統計的な運転の習熟の早さ遅さとか、無謀運転する傾向とか、どういうふうに教えるとわかりやすいかとか、そういうのを考えるかもしれんね。そういうことなの?

ずっと昔にも書いたけど、私は繁華街で向こうから人が歩いてくるときに男女はけっこう意識しますね。男だと危いやつの可能性がある。危険だ。もちろん危険なやつもいれば危険じゃないやつもいる。そういう統計的な危険性の配慮とかのときに、「そいつが男か女か」をつかうのは、正当化できるときもあれば、できないときもあるだろうと思う。(たとえば会社が、女性はごく統計的にではあれ、早期退社しやすいというデータをもっていても、それを就活で使うことは正当化されにくいと思う。)

まあ具体例がないとなんとでも言えるわけですわ。この具体例のなさ、なにがそれであり、なにがそれでないのかを曖昧にしたままにするっていうのがポストモダンとかのいちばん悪いところだと思う。例出してください例。例が出せない話はよくわかってないんです。学部学生様だって3回生ぐらいになると必ず適切な例だしてくれますよ。

また、「人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」っていう我々の傾向を説明するのに、なぜ「セックスはジェンダーだ」みたいなことを言わねばならないのかも私にはわからない。上で牟田先生はセックスもジェンダーもちゃんと定義してないのよね。だからなんとでも言えちゃう。もし「セックスは生物学的な性差(チンチンとか)」「ジェンダーは文化的・環境的に思いこまれてる「らしさ」を指すって定義してれば、この文章のおかしさは明白なのに、そうはしないわけですわ。こういう文章は少なくとも学生様には読ませたくない。

実は、このように男/女を絶対的な区分として考える考え方は、近代以降もたらされたものです。なぜかといえば、近代以降、「人はみな平等」となったから。身分差が絶対のものだった前近代社会では、人の違いは、まず、身分。身分内での男女の差はそのあとから。身分が低い者、低階層の者は男でも教育機会も自由もないが、身分が高ければ、女性は教育も財産も持てる。それが、近代以降、平等の概念が登場したからこそ、女/男の区分が強調されるようになったのです。帝国主義・植民地主義の時代には、「人種」が人を分ける「自然」なカテゴリーであるとする思考が、黒人を人間以下の扱いをする奴隷制を正当化したように、男女を異なるものとしてまず発想する思考は、近代以降の女性差別を正当化してきたのです。

「人を認識するときにまずはわりと男女を意識することがありますね」って話が、「男/女を絶対的な区分として考える」にすべっていく。この「絶対的な区分と考える」の例もない。それにあてはまる例出してください、例。そして可能ならそうでない例も上げてもらえるともっとよい。

どんな「絶対的な区分」を考えてるんだろう? 男は戦争に行けて、女は家にのこってる、とか? もしこういう例をあげれば、こんな考えかたが「近代以降にもたらされた」なんて馬鹿げた話をしようとする人はいませんわね。そもそも近代っていつから近代かわからんし。ヨーロッパに限っても、16世紀なのか19世紀なのか、なにも具体性がない。学者がそれでいいんですか。

近代がいつかわからんけど、以前にだって「女性は〜できない」みたいなのたくさんあったんちゃうんかな。お寺に入れないとか。バトラー様と牟田先生は、なんか根拠もってるのだろうか。出せますか? 「男女の違いが(身分などの他の違いに比べて)相対的に重視され強調されるようになったのは近代以降である」だともうすこしもっともらしくなるかもしれんけど、それさえ立証するのはかなり難しいように思えるけど、ジェンダー社会学っていうのはそれでいいんでしょうか。歴史学者からの怒られが発生するのではないか。

たとえば、最近読んだ『聖書、コーラン、仏典:原典から宗教の本質をさぐる』ておもしろい本では、コーランには生まれた子が女児だったら殺してしまったりする習俗があることが記録されていて、コーランはそれを禁じているっていう記述がありました。こういう話を前にして、社会学者たちはどういう意味で「近代以降」に絶対的区分になったとかってことが言えるんだろう?

もう一回「自然」が出てきたけど、ここでの自然もわからんねえ。とくに「」をつけて独自の用法で使ってるって明示してるんだから、その「自然」ってなにかを説明する義務が文章を書く側にあると思う。

このように考えると、「男女平等」という概念にも、違う意味がみえてきます。フェミニズムは、発祥以来、男女間の格差を解消し「男女平等」を実現することをめざしてたたかってきたわけですが、「男」と「女」の平等をめざす、というのは、そもそも、「男」「女」という別々のカテゴリーが存在するという前提に立ってしまっているのではないか。そのこと自体が、人間をまず性の区分で認識するという、近代以降つくられ女性差別を正当化してきた考え方そのものなのに。江原由美子が、「『男』『女』という『ジェンダー化された主体』が最初にあって、その両者の間で支配-被支配の関係がうまれるのでなく、『男』『女』としてジェンダー化されること自体が、権力を内包している」と論じている通り(『ジェンダー秩序』勁草書房 2001、25頁)、「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです。そもそも、「男」「女」は対称でもなんでもないし、「女」と、ひとくくりでくくれるような「女」はどこにも存在しないというのに。

「「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです」はわかりにくい。もちろん、グループを抑圧するためには、そのグループがどういうものかを理解しておく必要がある。そういう意味で、男女に分けることは女性を抑圧するための基本的条件。

でも、たとえば哺乳類を人間と人間以外の哺乳類に分ける、っていうことそれ自体は問題はない。問題なのは、人間と人間以外の哺乳類の間に大きな道徳的地位の差がある、と判断することにある。

政治的参加や、幸福の配慮の問題を考えるときに、男女の違いをもちだして、女性(あるいは男性)は選挙権をもつ必要がないとか、それぞれの幸福の価値に違いがある、と考えるのは不正なのはまちがいない。でもそれは人間には生物学的な男と女という典型的な性的二形がある、という事実についての知識そのものがまちがってるわけではない。

もちろん、我々の心理的な傾向として、なにかをグループに分けたら道徳的地位にも差があると考えやすい、っていうのはあるかもしれないけど、グループに分けること自体は中立であるように思う。ここはむずかしいな。

こうしてみると、あたかも、男女を対等にするというフェミニズムの原点自体が、間違っていたということになりはしないか、それではアンチフェミニストの思うつぼなのでは、と心配にもなるかもしれません。
でもだいじょうぶ、そうではないのです。

フェミニストたちは(自分がフェミニストだとは考えない女性も)、現実に存在するさまざまな女性差別に怒り抗議をするとき、いつも、「では男女の性差がなくなればいいのか」「男女がどのような扱いを受ければ平等なのか」と問い返され、答えられるはずのない「差異か平等か」の二者択一を迫られてきました。そして、女性たちの中での対立をも生んできました。まさにこれこそ、「罠」だったのではないでしょうか。この罠を見抜き、「男」「女」のジェンダーカテゴリーをひらいていくこと(脱構築)で、私たちは新たな未来を構想できる—これがポストモダンフェミニストの提言なのです。

ここで「性差」が出てくるけど、この性差はなんじゃいね。「らしさ」のこと? 上でいろいろ述べてきたことがここにどう効いてるのかわたしにはさっぱりわからんです。
「ジェンダーカテゴリーを開く」も意味わからんし、それが「セックスはジェンダー」とどう関係しているかもわからん。「ジェンダーはいろいろあります」でいいんちゃうのかな。なにを言ってるのだ。

女たちはさまざま。「女」とひとくくりされるわけにはいかない。しかし他方、現実に私たちは、「女」としてくくられて明白にも暗黙にもいろんな不利益を受けている。だから私たちは、女性差別に反対しながらも、めざすべきなのは、すべての女たち、さまざまな女たちの自由と尊厳、そして権利。それは、決して画一的なものではないし、ましてや「男」と一緒でいいなんて、そんな薄っぺらなものじゃない!

わからん。ただのアジテーション? 難しいことをいって混乱させて同意させる攻撃? 私こういうの許せないです。

「すべての男女の自由と尊厳」じゃないのかなあ。なんで「女」なの?脱構築ってどこいったんですか? まあ人がなんと言おうがみんな好きに生きたらいいと思う。そのためになんか難しいポストモダン理論は必要ない。そういうのが必要なのは特殊な人だけだとおもいますね。

上の「差異と平等」ってのは1980年代のラディカルフェミニストたち(特にマッキノン)を悩ませた問題です。男女は同じっていったら女性特有の問題(妊娠就労その他)が見えなくなるし、男女は違うって主張しちゃうと「んじゃ違ってていいじゃん」になっちゃう、という問題。マッキノンの答は、同一か差異かではない、そうではなく、男性が女性を支配していることが問題なのだ!っていさましいやつですわ。上の牟田先生の文章はバトラー様というよりはそうしたマッキノン先生の議論を連想させるけど、バトラー様にもあるのかな。

ものすごく好意的に読むと、マッキノン先生の立場の一解釈では、「女」と呼ばれるのは、必ずしも生物学的な女性ではなく、まさに「支配されている」「従属させられている」人間が「女」なのですわ。牟田先生はどうかわからないけど、このマッキノン解釈はわりと根拠があるかもしれないけど、いまは面倒だからまたあとで。それにこれはマッキノン先生の立場であってバトラー様ではない。でももしこういうことを主張したいのであれば、それはそれで明示してほしいですね。

この「ジェンダー化され従属させられている者が女である」っていう解釈だと、上の牟田先生の「女に課されている不利益に抵抗しよう」「女性差別をなくせ」っていうのが当然のように意味をもってくるんだけど、これってふつうはこうは読めないですよね。

 こんなふうに現代のフェミニズム理論は、ジェンダーをめぐる新たな地平に私たちを招待しています。なんだか刺激的じゃないですか?

わからんです。刺激的っちゃー刺激的ですが、わからなくてイライラして刺激的、ぐらい。堀あきこ先生はよくわかるわけなのだろうか。


あ、バトラー様の原文検討しないとならんかったか。またあとで。

これ読める人はすくないわよねえ。

問題の箇所の直前、culturallyが「社会的」って訳されてるね。 文化的のほうがいいだろう。バトラー様の翻訳は私は質が低いと思う。あちこちで誤訳らしきものが見つかるけど、それ指摘している人々は見たことないですね。(私がちゃんと見たのはExcitable Speechの前半だけだけど、あれはひどい)

「セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである」とかわからんけど、このif は
本当は「セックス(生物学的性差)っていうのは歴史的に不変であるってことがさまざまな研究によってくつがえされるってことになるんだったら、このセックスという人間の考えや言説によってつくりあげられた構築物は、「ジェンダー」ってのと同じくらい文化的に構築されたものってことになる」ぐらいだろうと思う。まあ「セックス」も「ジェンダー」も、どちらも我々のあたまのなかにあるっていう意味では同じです、ってことね。この意味では、他にも「地球」も「宇宙」も「ペンギン」もぜんぶ構築物なわけですわ。

ファウストスターリング先生とかの研究が正しければ、なにが男女の生物学的性差であると考えられてきたかということ自体が時代によって変化しているので、我々の「セックス(性差)」という概念は文化的構築物ですってことになります、その点では「ジェンダー」と変わりません、ぐらいね。そりゃわれわれの頭のなかにある概念とか考え方とか言葉の内容とかは時代によって変わるので、そのいみでは「セックス」も文化的な構築物だわいな。あたりまえ。チンチンがついたりなくなったりするわけではない。そしてチンチンや生殖ぐらい基本的な部分についての考え方がどれくらい変わったかな? これも例がないからどのていどまで「生物学的性差」にしているかわからんよね。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。

たとえば、最近出た藤高和輝先生の『ジュディス・バトラー:生と哲学を賭けた闘い』という本があります。藤高先生は若い人なんでしょうね。

そのなかにこんな一節がある。

「私は約束します」という発話がうまくいくかどうかは文脈によって条件づけられる。仮に、約束した当人が電車の遅延などによって集合場所に遅れた場合はその「約束」は「失敗した」ことになるが、しかしその約束を「偽」とはいえないだろう。当人にはその約束を守る意志があったかもしれないからである。つまり、「約束」という発話は「真偽」で計れば矛盾してしまう。先の例でいえば、それが約束された時点では「真」であるが、それが実現されることに失敗した瞬間から遡れば「偽」である、ということになってしまう。むしろ、この場合の「私は約束します」という発話行為は単に「失敗した」発話であるというべきなのである。 (p. 191)

これ、J. L. オースティン先生の『言語と行為』(How to do things with words)っていう重要書の一節を紹介している(らしい)のですが、ぜんぜんまちがってると思う。

今日18時に、「私は明日9時に君に京都駅で会うと約束します」と、私が誰かを前にして言えば、私はその人と明日9時に京都駅であう約束をしたことになります。今日ワールドカップを見て寝坊してしまい、明日の朝京都駅に行けないことがあれば、私は約束を破ったことになる。でもだからといって、今日18時に約束したことがオースティンの意味で不適切だったということはならない。単に「約束を守る」ことに失敗しただけであり、「約束する」ことに失敗したわけではない。「約束する」 という行為が成功しているからこそ、「約束をやぶった」ら非難されるんでしょ。どういうわけか、この箇所を藤高先生は確認していないらしい。そうした基本的な区別さえできずに、いったいどんな学問ができるというのか。

まあこっからうしろもパフォーマティヴィティとかなんだかむずかしい概念について難しいことを書いているのですが、私にはなにがなにやらさっぱりわからない。そしてそれが我々の生活とどう関係するのかもわからない。上のような誰でもふつうに考えればおかしいとわかることを書いて平気でいるのは異常だと思う。ジュディス・バトラー様やデリダ先生の権威に圧倒され、おびえているのではないでしょうか。オースティン先生を2〜4週間ぐらいかけてじっくり読むだけでいいのに。

藤高先生はおそらくLGBTとかに関心があるまじめな研究者だと思うのですが(それはよくわかる)、ポストモダンとやらに手を出してしまったせいで、誰にもわからない混沌とした議論でうめつくされた本を書いてしまっている。

同じようなことは、森山至貴先生の『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』についても同じです。この本は前半はまじめなLGBTとその解放についての歴史記述があるのに、途中からバトラー様の意味不明な議論を紹介しはじめ、最終的にわけわからないものになっている。詳しくはoptical frog先生のブログを読んでください。ここらへんから連載になっています

ポストモダンにある曖昧模糊とした不明確な概念、論理的でない思考、単なる言葉遊び、情報源をしっかりしらべようとしない態度、有名人を権威だと思いこみ、それをなんとかして解釈しなければならないと思いこむ権威主義、そういうのは学問の世界と我々の生活に大きな害悪をもたらしていると思っています。


と、授業の空き時間にカーっとなっって書いた、みたいな感じなのですが、よく考えたら別にポストモダン悪くないです。悪いのは出典をちゃんとつけなかったり、ちゃんと確認しなかったり、曖昧な言葉をつかったり、単なる言葉遊びですませたりするそういうポストモダンな人々がやる傾向だけで、思想そのものには別に文句はない。文句は、方法にあるのです。ちゃんと読んで出典ちゃんとすればいいだけの話。がんばってください。


ラッセル先生のセックス哲学(2) 女性の性を解放するのじゃ

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実は若いときはけっこうイケてる。 コメディアンのようでもある。

まあラッセル先生はそうしたキリスト教、特にプロテスタント的な性的禁欲を捨てちゃおうってわけです。でもラッセル先生は売買春とかには大反対。前のエントリでも書いたと思うけど、19世紀〜20世紀のイギリスとかって、表はヴィクトリア朝的な禁欲的な雰囲気でセックスの話なんてジェントルメンやレディーズはしないわけですが、ジェントルメンも夜になるとへんなところで下層の女性を安くあれしていた。中上流の女性は岩よりも堅い貞操を求められてた。そしてそれはみんなで守らねばならぬ。

ちゃんとした女性の貞操は、非常に大切なものだと見るかぎり、結婚の制度は、もうひとつ別な制度で補われなければならない。この制度は、実は、結婚制度の一部とみなしてさしつかえないものである——私が言おうとしているのは、売春の制度である。(p.44)

これは、前エントリのエリス先生もいってて(実はラッセル先生の議論の元ネタの多くは前年出版されたエリス先生)、そのまえには「売春婦は、家庭の神聖と、われわれの妻や娘の純潔の防波堤である」っていうレッキー先生の有名な言葉もあって、ラッセル先生も引用している。この手の、「ちゃんとした女性」を誘惑や暴力から守るために売春婦が必要だって議論は昔から多いんよね。

18世紀のマンデヴィル先生という方は、『蜂の寓話』って有名な本で、自由市場にまかせた方が公益につながるよ、っていう古典経済学者が言いそうなことを言ってるんだけど、売春についてこんなことを言う。

もし売春婦や女郎が愚かな人々の主張どおり過酷に告発されるべきだとすれば、われわれの妻や娘の貞節を守るのに、どんな錠前なり閂(かんぬき)があれば十分だというのであろうか。というのも、女性全体がいままでよりもはるかに大きな誘惑に会い、無垢な乙女をわなにかけようという企てが、まじめな人間にさえ現在よりずっと許せるものに思えるだろうからである。そればかりか、ある者は乱暴になり、強姦がありふれた犯罪になるだろうからである。アムステルダムでしばしば起こるように、何ヶ月ものあいだ男しか見ていない船乗りが六、七千人ぐらいどっと着くようなところでは、ほどよい値段で売春婦が得られないなら、貞淑な女性がだれにもわざらわされずに通りを歩くことなど、どうして考えられるであろうか。……一方の女性たちを守り、ずっと凶悪な性質のわいせつ行為を防ぐために、他方の女性たちを犠牲にする必要があることは明白だ。

これほとんど似たような表現をラッセル先生も使っている。もっと昔からあって、アウグスティヌス先生は「公娼を圧迫するならば、熱情の力はすべてのものを破壊するだろう」、トマス・アクィナス先生も「都市における売春は宮殿における下水道と同じだ。下水道を取りのぞく時は、宮殿は悪臭ふんぷんたる不潔な場所となるだろう」、ってなことを言ってるらしい。これはたしか、ドイツ社会民主党開祖のベーベル先生の『婦人論』(1879)からの孫引きだけど(この本の売春論もおもしろい)。

でもラッセル先生はこういうのある程度認めるものの、かなり強硬な売春反対論者なんよね。売買春は、公衆衛生上の問題を起こすし、女性にも男性にもそれぞれ心理的な損害を与える、と。まず「保健上の危険が最も重要である」(p.148)とかて公衆衛生が一番に上がるっていうのはまあ今見るとあれだけど、まあ当時は抗生物質とかもないし、梅毒とかで脳病になって死ぬし、淋病で兵隊さんや水兵さんが数ヶ月使いものにならなくなるしでたいへんだったみたいね。(ここらへんの歴史での女性運動家の活躍もおもしろい。興味あるひとはジョセフィン・バトラーとかで検索してください。)

女性に対する悪い心理的影響ってのは、売春でお金稼ぐようになると、怠惰になったり、酒を飲みすぎたりしてどんどん堕落してしまう。また人々からさげすまれてしまう(p.149)。これは社会の偏見とかあるからだろうけど、まあ売春する女性に対する風あたりは強い。男性も、「ちゃんとした」女性も「売春婦!」みたいな感じになってたみたいね。

男性に対する悪い心理的影響ってのは、「性交するために相手を喜ばせる必要ない、とい考える癖がつくだろう」(p.150)みたいな。まあ一説によると、女性は尊敬して褒めてプレゼントして甘いこと言わないとセックスしてくれないものらしく(でもそうしたからといってセックスするわけではない)、「金払うんだからしのごの言うな!」みたいになっちゃうってことですね。いやですね。

だから、ラッセル先生はセックス肯定論者だけど、どんなセックスでもよいっていってるわけではない。

性関係は、相互的な喜びであるべきであり、さらには、もっぱら両者の自然な衝動から始まるものでなければならない。そうでない場合は、価値あるすべてのものが失われる。このように親密な形で他人を利用することは、あらゆる真の道徳の源泉となるべき、人間そのものに対する尊敬の念を欠くことになる。…性関係における道徳は、……本質的に、相手を尊敬すること、および、相手の気持ちを考えずに、自分一人を満足させる手段としてのみ相手を利用するのを潔しとしないことから成り立っている。(p.151)

これが正しいセックスです。いいですか。まあ「相手を単なる手段としてではなく、尊敬するのだ」とかっての、雰囲気カント的でもありますわね(実際には考えてることはぜんぜん違うと思うけど)。

これ、同趣旨の強硬な売買春・ポルノ反対派の杉田聡先生の非常に印象的な一文を思い出させますね。先生はこんなこと言ってる。

売春が、抱擁・性交・射精などを含む点においてセックスを模した営みと見えたとしても、それが経済行為・サービスとして金銭を媒介に行われるとき、そこで行われる営みはすでに愛し合う者同士の、あるいは互いに性行為そのものへの自発的な意思を有する者同士のセックスでないのはもちろん、それを模してもいない。金銭を媒介にしているという事実、したがって売春者にセックスそのものへの欲求と同意がないという事実は、その性的営みそのものに投影されざるをえない。金銭的動機にもとづく性行為においては、セックスにあるべき女性の自主的な興奮も反応も、それに伴う性的な喜びも存在しないのである。(杉田聡、『男権主義的セクシュアリティ』、青木書店、1999、p.174)

正しいセックスでは、お互いを愛しあい、女性が自主的に興奮して自主的に反応して自主的に性的な快感を味わうものです。ははは。そういうんじゃないのはそもそもセックスですらないよ!とかって感じですね。まあ杉田先生ははっきりラッセル読んでると思う。

まあこれがたとえば「おっぱい募金」に対する反感の根っこにあるものでもある。性的な関係は互いが尊敬しあい楽しいものじゃないとならない、しかるにおっぱい募金でおっぱいもまれても気持ちよくないどころか痛いかもしれない、したがっておっぱい募金は性道徳に反する。

さて、こっからのラッセル先生の議論がたのしい。セックスはしたい、でも売買春はだめ。どうしますか。

(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。

エリス先生はなぜ男性は買春するのか、っていうのをいろいろ書いてるんだけど、基本的に(1)若いときはお金なくて結婚できないから、(2)結婚してからは奥さんとセックスできるけど、「ちゃんとした女性」はセックスに消極的でいやがったりするし、しても楽しくないし、(3) フェチとかそういう特殊な趣味もってる人は奥さんから怒られるのを恐れて買春するのだ、ということらしい。だからまあ売買春はあるていどしょうがない、撲滅はおそらく無理、みたいな話になる。しかしラッセル先生は哲学者で旧来の性道徳に対してもっと批判的なので、もっと過激な解決法を提案する。

しかし、この議論は、形式こそ一段と近代的ではあるが、根本的にはレッキーの議論と変わらない。抑圧されない性生活を送っている女性は、男性と同様に、ハヴェロック・エリスが考察している衝動に駆られやすいので、女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(p.152)

これはすごい。この文脈での「エリスが考察している衝動」てのは、前回エントリでの「刺激への衝動」ではなくて、「性的衝動」そのもの。つまり、(1) 売春はよくないです。(2)でもセックスはしましょう、したいです、それはよいものです。(3)だから、女性の性を解放すれば、女性は性的衝動を素直に実行するようになります。もっと簡単にセックスしてくれるようにしましょう。避妊手段が手に入りやすくなったんですから、どんどん解放しちゃえばいいじゃないですか。そして、実際1920年代後半ってのはいわゆる「ジャズエイジ」で、人々が楽しくセックスしはじめた時期でもあった。

以前は、ときどき娼婦のもとを訪れることを余儀なくされた青年も、いまは、自分と同類の娘と関係を結べるようになっている。──その関係というのは、どちらの側も自由であり、純粋に肉体的な要素に劣らず心理的な要素も大切であり、しばしば、どちらの側にもかなりの程度の情熱的な愛が含まれているものである。いかなる真の道徳の立場から見ても、これは、古い制度に比べて、すばらしい進歩と言わなければならない。(p.153)

「若い人々はセックスできていいねえ。わしもまだまだこれからじゃ!」という感じですね。まあ「ジャズエイジ」なんで酔っ払ってみさかいなくセックスする男女も当然いた。それほどあれじゃない人々も、実際ここらへんから、とりあえず「婚約」という形をとってセックスしちゃう人々が出てきたみたい。

この『結婚論』でラッセル先生は1950年にノーベル賞もらうことになる。みなさん自由にセックスできるようになりましたとさ。いったん、めでたしめでたし。(まだ続くよ)

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ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。彼女の中絶についての議論が紹介されたのは1998年の『現代思想』に載った「寸断された自己とさまよえる子宮」でわりと注目されたんじゃないでしょうか。それが収録されている『イマジナリーな領域』の翻訳が出たのが2006年で、それ以降はフェミニズム系の人が中絶の議論するときは非常によく取りあげられている印象です。塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブライツ』でもとりあげられてますね。

私このコーネル先生が苦手なんですわ。ジュディスバトラー先生ほどではないけど。レトリック過剰なところがあるし、ラカンの「鏡像段階とかひっぱって来るのとか、なぜその必要があるのかわからないし。

まあとにかく彼女の中絶の権利の擁護の議論は、簡単に言うと、我々にとって自分の身体の統一性は非常に大事であり、それは自分のイマジナリーを反映するものじゃないとならん。望まない妊娠は身体統一性を損うものである。したがって、女性の中絶の権利を否定して、妊娠の継続・出産を強要するのは平等に反するし、女性の格下げである。したがって女性がオンデマンドで(つまり、あらゆる事情を理由に)中絶する法的権利が必要だ、ぐらいだと思います。

私がこの議論がよくわからなかったのは、ラカンとか持ちだされてくるのもよくわからなかったのもあるのですが、プロライフの人たちが主張している胎児の権利とか生命の価値とかどうなってんの、ってことですわね。特に、国内でこの議論を紹介する人の多く(確認してないけど)が、いわゆる「パーソン論」に触れてその欠陥を指摘してからコーネル先生の議論を援用する、って形になってたのがよくわからなかったわけです。

だってそりゃ身体の統一性なるものはたしかに重要だとは思いますが、胎児が権利をもっていたり、その生命が大きな価値をもっているのならば、女性の身体の統一性という価値と胎児の生命との間で葛藤が起こるわけですからね。なぜ女性の身体の統一性が優先するのだろう、と思ってました。

まあコーネル先生の議論をそのまま使わないまでも、女性と胎児の関係は特別な関係なのであるから云々、という議論はよく見られます。これも私は同じように納得してなかった。いやもちろん言いたいことは十分よくわかるのですが、「パーソン論」とらないんだったら、プロライフの人の(けっこう堅い)理屈をどうするの、っていうのがわからなかった。

ここ数日コーネル先生の議論を読み直してたんですが、彼女の議論そのものもすごくわかりにくいんですね。彼女は基本的にほとんど、米国の中絶裁判判決文と、ロナルド・ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』の議論だけを相手にしていて、哲学的生命倫理学の文献はほとんど見てないんですわ。「パーソン論」だけじゃなく、プロライフの人々の議論さえ参照してない。

んで、私のここまでの理解では、ドゥオーキン先生が『ライフズ・ドミニオン』でだいたいロー判決(妊娠初期の中絶を禁止するのは違憲。ただし、中期〜後期になるにしたがって州が一定種の規制をおこなうのは場合によっては可能だ、ぐらいの判決)を追認する形の議論しているに対して、「いやそれじゃぬるい、もっとオンデマンドに近い形で中絶できる権利を認めろ」ってやってるわけです。

しかしこれ、ドゥオーキン先生もそうなんですが、けっきょくはっきり言って、胎児をパーソンと認めてないんすよね。そしてその理由は示されていない、っていうかまあはっきりいって、米国憲法では胎児はパーソンではないから、ぐらいの根拠なわけです。

これ私おかしいと思いますね。もしそんなことが言えるのであれば、わざわざ「パーソン論」とかトムソン先生の「自分の身体を使用する権利」とかでがんばる必要がないわけですからね。まあとにかくコーネル先生のプロライフ論者の無視っぷり、完全シカトは私おかしいと思います。女性と胎児の特殊な関係をもっと真面目に考えろ、ってのなら、Margaret Olivia Little先生の”Abortion, Intimacy, and Duty to Gestate”とかLaura Purdy先生の”Are Pregnant Women Fetal Containers?”とか優秀な論文が他にあると思うし。

少なくとも、国内で「パーソン論」に批判的な論者がドゥオーキンやコーネルの議論を採用することはできないと思う。なんらかの「パーソン論」、あるいは胎児の生命権、あるいはほとんどすべての権利を否定する議論を提出する必要があるはず。なんでこういうことになってるんですかね、とか。

まあ譲って、ドゥオーキンやコーネルの議論は米国憲法の上でどういう法が可能だったり要求されるかとう議論である、とするならそれでいいんですけど、これと道徳的なレベルの議論は混同するべきではないと思う。私は道徳的なレベルの話に興味がある。なぜ胎児は人としての権利をもってないのか、という疑問に対する答が、「憲法では人じゃないから」では満足できない。なぜ憲法や他の法で人と認める必要がないのか、というのが知りたい。

私まちがってんのかなあ。不安。もうすこし読んで考えます。

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ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由
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産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム
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中絶権の憲法哲学的研究: アメリカ憲法判例を踏まえて
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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
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んでいろいろ文献見てて雑感。

研修中とはいえ、そろそろ来年度のシラバス考えたりしなきゃならないわけです。私は哲学とかのおもしろみっていうのは、常識的な意見とか、他の人の意見とかを批判してなんか真理みたいなところに近づいていくところにあると思っているわけですが、そういうのってもちろん他の人とディスカッションしたりするのが一番なんですが、対立する論文を読み比べてみたり、論争を追っ掛けてみたりするのがいいんですよね。

でも国内では論文そのものがあんまりないから学生様に読ませることができない。さすがに英語で読めってわけにはいかんですしねえ。英米の大学のシラバスなんか見てると、毎週2、3本の抜粋なり論文なり読んでいろいろやってるみたいでうらやましい。日本で同じことをしようとすると翻訳からしなきゃならなかったりするわけでねえ。教科書そんなたくさん買わせるわけにもいかんし。だいたい、一人の人間が書いた教科書とか、あるい論争の紹介なんてのは迫力がないんすよね。

バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

lawやpolitical structureがchoiceする、というのはよく分からない事態になってしまうと思います。むしろ(ここで出てきているindividualsとは区別されるような)これまで存続してきた社会において、そこで生活してきた人々が歴史的に集合的に選択してきた慣習、という程度の意味ではないかと思います。慣習とここで言う場合、狭い意味で風俗みたいな意味合いではなく、より広い意味で(例えばヒューム的な意味で)規範をも含意しているとも考えられます(例えば、女性は男性よりも力・能力において劣っているから低賃金で働いて当然である、というような)。その慣習(規範)というのは歴史的・文化的にcontingentで、例えば(カントのように)理性がア・プリオリに選択するというような当必然的な性格を持つものではない、ということではないでしょうか。

なるほど。これも当然かもしれませんが、最初のjuridical systemからして疑似法的な慣習とその規範も含んでいるんでしょうね。

>このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

後者だろうと思います。つまり、フェミニストが実現しようとしている(例えば男女同権的な)政治的制度であっても、それが女性という法規制の名宛人を規定し、すなわちその限りで女性を主体として規定し、その後で法が女性という主体(の意志)を表現するものとして現れてくる限り、女性(フェミニスト的主体)というものは、法によって構成された主体なのだ、ということではないかと思います。

次で出てきますが、「構成」の意味も私にはまだはっきりしてないかもしれません。

discursive constitutedについてですが、discursiveというのは、次のように理解できるんじゃないでしょうか。つまり、法を慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」が言語的に表現されたものだと理解するなら、discursiveというのは、ここでは「法のなかに慣習(規範)として言語的に表現されたところの」というような意味だと取れます。ところで、constituteには「構成する」という意味の他に、「設立する」「制定する」というような法的なコノテーションを持つ意味もあります。それゆえ、discursive constitutedというのは、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されることによって、設立された」という解釈を取れます。とすれば、”the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation. “は、「フェミニストの主体は、[フェミニストにとって][法規制による抑圧からの]解放を可能にするとされるところの政治システムによって[であっても]、[その政治システムを駆動させている法規制のなかに][慣習(規範)として]言語的に表現されることによって、設立されたものであると分かる」という風に解釈できそうです。

「法の中に慣習(規範)として」は、「慣習」よりは「規範」の方がはっきりしてる気がします。

discursive formation and effectも、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されること(*)によって[法規制の名宛人として制定され、それによって法にその意志が代表されるところの主体が]形成されること、それ(*)によって[主体が]帰結すること」というふうに取れます。

はい。

そこで、representational politicsというのは、先ほどコメントしたものよりも詳しく書けば、僕はこう理解しました。つまり、法の中に慣習(規範)が言語的に表現されることによって、なんらかのcontingentな慣習(規範)の負荷がかかった形で、法規制の名宛人として法にその意志が代表されるところの主体が形成される、そうした主体が帰結するというような事態です。おそらくここでpoliticsは、利益団体がどのように多数派を構成するかとか、政治家が権力をどのように獲得するかというのではないでしょう。あるいは言論による抗議・説得というようなものでもないでしょう。むしろ、contingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現されることによって制定される主体というものがもつcontingencyに関するものでしょう。言い換えれば、どのようにcontingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現され、そしてどのように法の名宛人としてcontingentな属性を付与された主体が制定されるのか、というプロセスを意味しているのではないかと考えます。これは少なくとも普通の意味でpoliticsなのではないでしょう。

>では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」

juridical formationは、法を形作るというより、法によって主体を形作るということを指していて、それは女性をフェミニズムの主体として表象する、ということではないのでしょうか。つまり、the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminismというのは、次の文章の”the very political system that is supposed to facilitate its emancipation”に言い換えられているものではないかと思います。また、a given version of representational politicsというのは、givenを「ある」というよりも、「所与の」「すでに与えられた」というような意味があるのではないでしょうか。つまり、これまで存続してきた社会において人々が歴史的に集団的にcontingentに選択してきた仕方におけるrepresentational politicsということが示されているのではないでしょうか。

うーん、だいたいのところはわかってきましたが、まだ自信がないですね。仮に訳してみるとこうなる。

「もしこの分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象させようとするような、言語と政治によってなされる、法による主体の形成は、それ自体が、すでに存在するバージョンの「表象の政治」の言説的な形成であり結果であるということになる。そして、フェミニストの主体は、自分たちを解放させてくれると想定されているまさにその政治システムによって設立されていることになる。」

パラフレーズしてみるとこんな感じでいいのかどうか。

「もしこのフーコーの分析が正しければ、こういうことになる。法や慣習そのものがそれ自体が反映するべき「主体」を限定するものであるため、誰の意思がどう法や慣習に反映されるかということは「表象の政治」のそのものでありまたその結果である。フェミニズムは女性を政治的な主体と認めさせようとするものであり、言葉と政治によって、女性を政治的・法的な「主体」であるように設定し、その意思を法や制度や慣習に反映させようとする運動である。しかしこうした運動自身が、実はすでに存在している「表象の政治」によって、政治的主体を言語的に設定しようとするものであり、また同時に運動自体がそうした「表象の政治」の結果でもある。そうなると、結局のところ、フェミニストの主体といったものは、自分たちを解放してくれるだろうと彼女たちが考えている、まさにその来たるべき政治システムによって設定されるということになるだろう。」

→ しかしその来たるべき政治システムが従来の通念での「女らしい女」だけをその通念にしたがった形で「解放」するとか、あるいは「男っぽい・男と同格の女」だけを解放するとかってことになるとなんか目標が自己矛盾してしまうから政治的には問題だ、と続く。

まだだめそうですね。
私はsskさんの解釈はおそらく適切だろうと思いますが、そこまで行くのはたいへんですね。しかしかなりわかってきましたし、竹村先生や望月先生の訳の問題もちょっと見えてきました。

 

ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える(2) コメントでやっつけていただきました

前エントリは、コメントで一気にやっつけていただきました。すごい。

以下コメントへのお返事。
————————————

本格的な解説ありがとうございます。なるほどこういうのが知りたかったそのものです。あの時間でこれ書けるのはすごいと思います。

>近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。

「政府が被治者を代表する」という先生の前提こそ曖昧です。ここで先生は政府をどのような意味で理解されているのですか? 執行権を担う制度という意味なのか、立法権を担う制度を意味しているのか、それとも国家というような意味なのか。

私はぼんやり国家だと考えてましたが、たしかに他の可能性がありますね。

しかし、このいずれの意味であっても、代表するものが「政府」なのではない可能性もあります。つまり、被治者をrepresentするのが、端的に法だという場合です。この場合、被治者の意志が法として表れている(represent)のであり、被治者は意志を持つ存在者です。ここで意志を持つ存在者のことを、主体subjectと表現することは哲学的な用語法に適ったものではないでしょうか?

なるほど、その解釈の方がスマートですね。

さらに言えば、representは代表とも表現(表象)とも理解されるものであり、ドイツ語で言うならVertretungと区別して考えなければならない場合もあります。法が被治者の意志をrepresent(repräsentieren)するという場合、represent(repräsentieren)はvertretenではないでしょう。代理は例えば人民が選挙で選んだ代議士、というような事例にふさわしいものです。つまり、ここで「法は人民を代表する」と言っても、「法は人民を、代議士が人民を代理するように、代表する」という意味で解されてはならないでしょう。

なるほどなるほど。Vertretungは「代理」。

また、法が何らかの存在者の意志をrepresentするものである、あるいは法は何らかの存在者の意志としてrepresentされたものであるという理解はとりたてて特別なものではなく、神学上では神の意志が法として表現されていましたし、人民主権の文脈では人民=被治者の意志が法として表現されていました(あるいは人民主権を否定する論者でさえ、法は人民の意志を表現するものだという理解を示していた場合もあります)。

了解です。

そうであれば、juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to representを「法的な権力システムは主体をつくりだすが、それは法的権力システムが結果的に表すことになるところのものである」と訳すことができますし、その場合には次のような理解が可能になります。法は被治者の意志を表すというが、被治者という属性は法によって規定されない限り存在しない(この場合の法は単なるGesetzではなくVerfassungsrechtのような根本法でしょう)、従って、法はまず被治者を(意志の)主体として生み出し、その後で自らを被治者(の意志)を表すものだと規定する、ということです。では、被治者という属性が法によって規定されるという事態はどのようなことかといえば、その法の体系一般を受け入れるべき名宛人が法の規定する存在者だということになるでしょう。法の体系一般というのは、次の箇所で述べられるように、「~するな」という形でregulateする規則の集合体です。

ここまでよくわかりました。すばらしい説明だと思います。(これも読んでる人のために書くとVerfassungsrechtは憲法)

>individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。

なぜか先生は国民国家間での事象を考えておられるようですが、国民国家間で働くjuridical structure(国際法のような?)がここで議論されているのでしょうか?contingent and retractable operation of choicesというのはむしろ、慣習法のように偶然の産物が伝統化されて法として結晶するような状況が想定されているのではないでしょうか。例えば、日本の民法では女性は16歳以上、男性は18歳以上にならなければ婚姻できませんが、こうした規定は当必然的に選ばれているものではないですよね? こうした「偶然的で撤回可能な[はずの]選択の実行」の積み重なりを通して獲得される法的権力システムが、political structureと言われているように思います。

なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

>But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。

さきほど述べたように、法的構造はそれを受け入れるべき名宛人をまず規定します。それがここでthe subjects regulated by such structuresと呼ばれているものです。subjectsは法を自らの意志として表現することになる存在者、つまり意志を持った存在者であるので、その存在者は主体として理解できるでしょう。被治者・臣民・国民と訳してもいいですが、それでは意志の主体としてのコノテーションが失われるのではないでしょうか。

これもよくわかりました。

>私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。
>んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

このof language and politicsは「~による」と訳すべきではないでしょうか

そうですか。このofは私には非常に曖昧に思えます。最後に試訳つくります。

これまでの議論からすれば、法は被治者をregulateするものです。こうしたregulationは、「偶然的で撤回可能な選択の実行」を通じて獲得された政治的構造において、法を通じてなされるものです。法は言語によって表されるものでありますが、もっと詳しく言えば、法は慣習(「偶然的で撤回可能な選択の実行」)を言語的に表現したものでもあります。さらに、こうして言語的に表現された慣習を通じて政治的構造が成り立っています。したがってjudical formationは「言語と政治による」ものである、と理解することができるようになります。

なるほど、「選択」が法自身の選択であると考えれば、
最初のはjuridical formation of language and politicsが正しいですね。正しく読んでもらってすみません。

さらに、関係詞節も合わせて訳せば、「フェミニズムのthe subjectとして女性をrepresentするような、言語と政治による法的な形成」となりますが、ここでは「フェミニズム[運動]の主体」と訳して構わないのではないでしょうか。

なるほど。わかります。ただし、この場合”the subjects”と表現することはできないのですか? まあこの読みであれば、womenを集合的にとってるのだとは思います。
あとこれ今気づいたのですが、含意としては、「(たとえば19世紀から80年代までのように)女性をフェミニズム運動の主体として、法的・政治的に重視させようとするするような語り方の変更と法改革の動きは」ってことなんですね。あってますか?

言語的慣習とそれを通じて出来上がってくる政治的構造のなかに存在する個人は、法によって規制される対象・名宛人として規定され、規定されることで実際に法によって規制されます。同様に、女性を規制していた種々の法律(参政権の制限や離婚の制限、労働上の地位の制限など)は、その規制の以前に、その規制の対象である存在者を女性として表現します。フェミニズムが抑圧(規制)からの解放を謳う運動であり、女性は法の規制の対象として法的に形成される(法的な名宛人として規定される)存在者なのだとすれば、フェミニズムのthe subjectは能動的・積極的にその規制から女性を解放しようとする存在者であるでしょう。その場合、the subjectが「テーマ」として理解されるのは不適切ではないでしょうか。そして、フェミニズムにおいて女性を解放しようとするのは当の女性たちであり、女性たちが主体となって(能動的になって)自らを解放しようとする、という理解につながります。

なるほど。実はthe very political system that is supposed to facilitateのところの is supposed toがよくわからなったのですが、このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

>ところがですね。discursive formation and effectもわからん。…representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。

まず、representational politicsですが、もし(議会)代表制のような政治制度・政体を表すのであれば、representative politicsと言うのではないでしょうか。

これは私も気になりました。

むしろ、竹村訳のように表現による政治(ないしは表象による政治)の方が適格ではないでしょうか。

言論、特に表現の仕方による政治、抗議、説得etc.という意味ですか?

というのも、法は慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」を言語的に表現したものであり、それがまずは規制する対象を規定することで被治者という属性を与え、その後で自らを自らが規制するところの被治者の意志として表現するものであり、これをバトラーはpoliticsと呼んでいるようだからです。

なるほど。
では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。
「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」
ぐらいですか。これでよろしいですか?あれ、ofの意味がおかしいかな。まだわかってないようです。おねがいします。

要点をまとめれば、先生は、法が被治者の意志をrepresentするものだという法学・政治学的な通説を全く無視しており、それゆえに被治者は意志を持った主体である、というsubjectに込められた表現を見落としてしまっているのではないか、ということです。

すみません。とても勉強になりました。

私には「subjectの意味のすりかえ」が行われているようには思えません。こういった議論を、その前提に思い至らないまま「誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせます」とコメントするのは、どうなのでしょうか。

こうして説明してもらえれば、そうしたディスは必要ないかと思います。そうした表現は控えたいと思います。やっとわかってきた感じで、たいへん勉強になりました。あきれずおつきあいください。
—————————————–

今回、すごくよく読めている人もいることがわかりました。読めてないのは私だけかもしれない。おそろしい。

 

セックスの哲学と私 (3)

まあフェミニズムまわりをうろうろして悩んでいたときに手にしたのがAlan Soble先生の Pornography, Sex and Feminism 。ポルノ規制派のフェミニストたちを「ポルノ読む人間のことをさっぱりわかっとらん」とディスりまくってて痛快すぎた。まあ書き方がユーモアとアイロニーに満ちててすばらしかったわね。「日本のBukkakeのすばらしさがわからんのか」とか。どうもこのころbukkakeがアメリカで流行ってたらしい。私は嫌いでした。ははは。それにしてもやっぱヘビーユーザーは違うわ。

それと前後して読んだのがCamille Paglia (カミーユ・パーリア/カミール・パーリアって表記されることもある)の『セックス,アート,アメリカンカルチャー』。フーコー・デリダ・ラカンのポストモダン御三家をジャンクボンド(不良債権)呼ばわりして苦しめられたあとだけにこれも痛快。ポストモダンな人々は一回パーリア先生読んでみるべきだと思うね。ソーブル先生もパーリア先生も、とてつもなく明晰な書き方をしていて、知性も学識ももうぜんぜん格が違うのがわかった。目からウロコがぼろぼろ落ちたわ。まあなんていうか、セックスとかフェミニズムとかの議論にある暗さや苦痛とかそういうのと別に、明るく楽しくセックスについて哲学する余地がある。

ありゃ、こういうのあるんだ、と思って本棚を見ると、なぜかBaker先生たちのSex and Philosophyがある。実はこれアメリカに渡った某後輩が「こういうものがある」となぜか送ってくれたんだよな。なぜ送ってくれたのかは今だに謎。ぱらっとめくって「いつか読む」みたいになってたんだけど、ソーブル先生の洗礼を受けてから読むと各論文がなにをやっていうのかわかってきた。これってすげーじゃん。(そういえばこの後輩はそれ以前にもSex on Campusという本をくれたのだった。なにも御返してないなあ)

まあソーブル先生について調べてみると、80年代にはわりとラジカルフェミニズムとかに共感的でおずおずと自分の議論を提出してたんだけど90年代にパーリア先生読んでふっきれて言いたいことを言うようになった、みたいな感じだった。90年代後半にはっきりと自分の明晰なスタイルを確立している。先生のアンソロジーも入手したり。アンソロジーが2冊あると、どれが重要な論文とみなされているのかがはっきりわかって有益。アンソロジーは2冊以上そろえるべし。

まあそういうセックス哲学アンソロジーとかではジュディス・バトラー様の名前なんかさっぱり見ないわけよ。イリガライ先生とかそういうのは出てくることはあるけどね。

 

セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。

まあ80年代のフェミニスト内部でのポルノグラフィ論争というのは非常に重要だったんよね。ポルノグラフィを男性優位社会の象徴であり原因であると見て規制してしまえっていう派閥と、やっぱりフェミニムはリベラルじゃなきゃな、って派閥に分かれた。ポルノグラフィの問題によって、セックスそのものに対するフェミニストの態度も問われることになった。アンチ・セックスかプロ・セックスか、みたいな。国内でそこらへんをうまく紹介している本があるかどうか。ヴァレリー・ブライソン先生の『争点・フェミニズム』ぐらいか。これは良書。

その研究会でアンソロジーの翻訳を出そう、みたいな話になって、まあ一応フェミニズムの基本文献はラディカル、リベラル、レズビアン分離派、批判人種理論、ポストモダンまでいちおう主なものは目を通せた、と思う。テキストに使ってたのはBecker先生の『フェミニスト法学』。(この翻訳は結局出なかった。私も悪かったです。ごめんなさい。)

とにかくマッキノン先生とかには苦しめられた。とにかく読みにくいんよね。過去のマッキノン先生の翻訳に目を通すことで、この業界がぜんぜん翻訳だめだってことに気づいたのもこのころ。議論がぜんぜん読めてないんだもん。とはいえ、マッキノン先生たちの「セックスは男による女の支配」みたいな主張にはなにか重要なものが含まれていると思った。もう少し勉強してみよう、みたいな。まあマッキノン先生たちに敵対するナディン・ストロッセン先生のDefending Pornographyみたいな立場の方に共感はすれども、ラジカルな人々の言い分ももっと聞きたい。んでおそまきながら勉強。「ポルノグラフィとフェミニズム法学」  とかくだらん文章書いてみたり。

そうこうしているうちにジュディス・バトラー様のExcitable Speechが出ていることに気づいた。まあ『ジェンダー・トラブル』は知ってたんだけど、私が関心あるようなポルノグラフィとかにはまったく関係がないだろうと無視してたんだけど、Excitable Speechはいちおうフェミニズムとかクィア理論とかからポルノグラフィの問題を扱っているそうだから目を通さないわけにはいかない。そしたらもうJ.L.オースティン先生とか滅茶苦茶な扱いされててねえ。言語行為論とか専門と違うけど、まあそれなりにはあれしているわけだし、でたらめ書かれたら困っちゃう。そんとき、そのフェミ研究会で発表担当して紹介して、「おそらくこれ翻訳されて、国内のアレな学者様たちが言語行為論とかについておかしげなことを言いはじめるだろう」って予言したのを覚えている。

その予想はExcitable Speechが『触発する言葉』って邦訳になって、そのすぐあとに斉藤純一先生たちの『表現の〈リミット〉』で実現するのであった。斉藤先生自身や北田暁大先生があれなこと書いててもうねえ。これはもうほうっておけないから論文書いておいた。これが目にとまったのか北田先生に誘ってもらって、似た内容で文章書かせてもらったりもした。北田暁大(編)『自由への問い(4)コミュニケーション』(岩波書店)の「ポルノグラフィと憎悪表現」。北田先生ありがとうございます。

あとその研究会のメンバーがかかわってドゥルシラ・コーネル先生がドロドロのフェミニズムやっててね。カントとラカンとかあれすぎるだろう。そういうおかしげなものとは縁を切って、ちゃんとしたセックス哲学やりたい、と思うようになった。

 

 

 

セックスの哲学と私 (1)

んでいきなり自分語りをはじめるか。ははは。

セックスの哲学という分野に興味をもったのは10年ぐらい前かしら。

まず15年ぐらい前に、諸般の事情で「情報倫理」とかってのをケンキューしなきゃならない状況になって、なんかおもしろいネタはないかみたいなサーヴェーしてたわけだ。当時はネットのポルノとその規制(米国のCDA、Communication Decency Act, 通信品位法案)とか)が問題になってたので、そこらへん表現の自由とか言論の自由とかとからめて勉強しようかと思ったのだが、まああんまりうまくいかなかった。どの程度私がポルノ画像とか集めていたかは秘密。netnewsに流れているのをあれするスクリプト書いたりして。ははは。

そこから幸運にも今の勤め先に移らせてもらった。女子大だし、そういう学部なのでまあフェミニストの牙城みたいなところで、研究会とか出せてもらったりして。ジェンダー法とかそういう話だわね。やっぱりポルノに関心があるなあ、とか。でも性の商品化とか売買春とかそういうところに話は広がっていくわね。ポルノは性の商品化そのものだし、ポルノ撮影現場では売買春も行なわれていると考えることができるわけだし。性暴力とかそういうのとも関係がある。

私の世代(1965年生まれ、前後3年〜5年ぐらい)の本読む階層は、おそらく小倉千加子先生や上野千鶴子先生のフェミニズムの影響をもろにかぶった世代で、まあ一定の理解はしているつもりだし、問題意識はわりと共有しているつもり。なのでまあ性の商品化とかを中心とした倫理的・社会的な問題にはずっと関心をもっていたわけで。2000年からちょっと経ったころは、ジュディス・バトラー様とか紹介されたり、国内では杉田聡先生みたいな強硬なポルノ反対派みたいな人がいたり、APP研とかの団体が活動したりしていろいろ気になる。でもまあそれなり勉強していると、なんかそういうのはおかしいんじゃないか、みたいに思いはじめた。哲学っぽいんだけどなんかちゃんとした哲学や倫理学の議論じゃない気がしたんよね。

 

2011年に読んだ本ベスト10

メディアマーカーで自分的におすすめの五つ星つけた本から、特に印象に残ってるものを順不同であげてアフィリエイトかせごう。

 

香西先生にはいろいろ教えていただきました。ネットとかでの論争の方法について理解が深くなったと思う。

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)
香西 秀信
光文社
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関連で『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』。この2冊読めばまあ一流ソフィスト、じゃなかった一流レトリック家の基本的な考え方がわかる。『 反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書) 』まで読めば十分か。ネットの議論で負けることが少なくなるかもしれない。『 オルグ学入門 』も香西先生から教えてもらったけどもうすごい奇書。これは買うほどの価値はないだろうけど、図書館とかで一読の価値がある。

性格とかパーソナリティとかについてはずっと興味をもってるんだけど、これが一番おもしろかった。

パーソナリティを科学する―特性5因子であなたがわかる
ダニエル ネトル
白揚社
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ビッグファイブの堅牢さと、それらがそれぞれ生物学的な基盤あるんじゃないかとかそういう話。

パーソナリティ心理学の本道としてはミシェル先生の『 パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解 』がおそらく現在最強の教科書で勉強になった。

 

ビジネス・ゲーム 誰も教えてくれなかった女性の働き方 (光文社知恵の森文庫)
ベティ・L. ハラガン
光文社
売り上げランキング: 51,472

女性が会社で働くということについて鋭い分析とハウツー。女性は必読。っていうかこういうエンパワが国内でももっと注目されるべきだと思う(政治的にどうかは別にして)。『 会社のルール 男は「野球」で、女は「ままごと」で仕事のオキテを学んだ 』『 女性(あなた)の知らない7つのルール―男たちのビジネス社会で賢く生きる法 』はこの本に影響を受けた同工異曲。どれ読んでも同じだが、とにか重要な観点。

ポジティブ心理学や進化心理学に影響を受けた倫理学まわりの成果が出そうな感じ。まだ発展途上だけど。

しあわせ仮説

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欲望について 』もよかった。

性差科学といえば、これがよかった。非常に慎重。

性差や性分化、性志向などの生物学的な解明については『 科学でわかる男と女になるしくみ ヒトの性は、性染色体だけでは決まらない 』も買ってあげてください。最新の内容のはず。

女性のグループ内力学については『 女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること 』も重要。『 女はなぜ足を引っ張りあうのか 』も笑えた。

子ども向けエリノア・ルーズベルトの伝記。エリノア先生についてはちゃんとした評伝が出版されるべきだと思う。国内ではその業績が十分に理解されていないようだ。政治学の人々に期待。

すごい資料。英米の法律関係についてなんか言わなきゃならんひとは必携。

現代英米情報辞典 』は新しくしてほしい。

倫理学・法哲学まわりで重要なのはこれ。倫理や政治における感情の重要性。

ジュディス・バトラー様とか読んでるヒマがあったらこういうの読んで欲しい。

恋愛ものではこれがとてもおもしろかった。

PUA (Pick-up Artist)という文化があることを教えてもらった。まあナンパの方法なんだけど、カルチャー研究みたいなのにも重要な気がする。あれ、もう入手できないみたいね。

英語読みやすいから

でもいいと思う。かえっておもしろいだろう。

具体的なハウツーは『 確実に女をオトす法則 』だけどこれはまあたいしたことがない。とにかく『ザ・ゲーム』はおもしろいので一読の価値がある。

認知的不協和について。『 なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか 嘘とだましの心理学 』とかも。

行動経済学みたいなんもたくさん読みました。

なぜ直感のほうが上手くいくのか? – 「無意識の知性」が決めている 』、『 なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴 』とかもどうぞ。

あ、番外だけど買ってください。

トムソンの有名なヴァイオリニストの議論とかパーソン論とか正しく読めるようにしました。あと売りはヘアの直観主義批判がどんなものか、とか、死の悪さについての剥奪説が中絶問題に適用されるとどんな問題をひきおこすかとか。あとハーストハウスのやつを読むと徳倫理学ってのがどういうインパクトがあったかがわかるはずです。よろしくおねがいします。

 

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(6)

第12章第2節

  • 権利とそれに対応する他人の義務のところ(p.270)。妨害されない権利と助力される権利。(あるいは他人から見ると妨害しない義務と助力する義務)。ホーフェルドだったらもうひとつぐらいあるって言うはず。まあOK。

生存は爾余の権利が成り立つための先行条件である。それでは、生存への権利は、生存に必要な財を供給する義務を他者に課すほど強い権利だろうか。しかしながら実際には、不当に殺されない権利にとどまるほかあるまい。なぜなら、資源は有限だからである。(p.270)

  • うーん?なぜだろう?そう言えるかな。資源が有限で、完全に全員に行きわたらないとしても、必ずしも「不当に殺されない」しか要求できないわけではないだろう。もちろん「無制限になにがなんでも財を配分される権利」を認めるのは難しいだろうけど、「できるかぎり財を配分される権利」ぐらいでもよいはず。「最低限文化的な生活を送ることができるよう援助される権利」とか重要そう。

    (上の続き)第4章に言及した医療資源の配分はまさに資源の有限性を前提として成り立つ問題だった。延命に必要な資源を供給する義務を解除するには、正義の倫理の内部で語る限り、人間の一部を人格、すなわち生存への権利の保有者から外すことになるだろう。ここに、「できない」が「しなくてもよい」に変換される。

  • あれ、なんかおかしいぞ。上の「生存の権利」はどんな権利なのかな。ここで「人格」が(おそらく定義上)もっているとされる権利は「不当に殺されない権利」か?文脈からすると「生存に必要な財を配分される権利」に見えるけどなあ。なんか変。でもまあ言いたいことはわかる。

    だが、それが事態の適切な表現だろうか。権利と正義の語り口で語ることは、生きるためのニーズを保証するのに強い武器を提供するとともに、反面、その正義が現実に遂行されえないときには、今述べたような論理に通じてしまう。そこに問題が残る。

  • うーん、この手の議論はよく見かけるんだけど、どうなんだろうなあ。「Aを認めるとBという結果になる。しかしBはいかん。したがってAは認められない。」まあ反照的均衡をやろうとしているわけだな。こういう論法はやっぱりある程度は重要。ただこれの場合、「Bはいかん」という判断の正当性をどうやって保証するか。「Bは不正だ」とかって直観を共有しない人を説得しようとするときにどうしたらいいか。

    正義の倫理のなかでは、慈悲や思いやりは不完全義務としていずれにしても副次的なものとして位置づけられる。これにたいして、責任原理やケアの倫理はいっそう根底的な観念として責任とケアを打ち出したのである。

  • ここもうーん。ぱっと見て「不完全義務」ってのに目をとられて、 「責任」や「ケア」が完全義務に対応するものだと読んでしまったが、どうも違う。「根底的な観念」であるってのはどういうことなんだろうな。理論的な基礎ってことかな?それだったら問題ない。けっきょく道徳ってのは拡張された慈愛だろうと思うんだがな。ミルやシンガーも認めてくれそうだ。
  • 第3節。ホネットとかデリダとかわからん。特にデリダは難しくて私は何言ってるのかほとんど理解できないので、そういう解釈ができることを示してもらいたいのだが。とりあえず「もっと、友愛的、共感的、慈善的にいきましょう」なのかな。もちろんそうありたい。そうあってほしい。ところが違うみたい。

ホネットはケアを慈愛や親切等と同視している。それらは正義のように必ず要請されるわけではない。不完全義務にとどまる。そう考えるかぎり、倫理の基礎は正義かケアかという論争は重大な選択を迫られる問題とはなりえない。しかも、ケアする誰かがいるというのことは、ホネットにとって所与の事実なのだろう。非対称的責任は万人には要請できないとしつつ、子育てにおけるその意義を語るくだりには、誰もケアする者がいなくなるというような危機感はみられない。それゆえ、ケアが存在しないときに人間関係や人間の共同体がどうなるかといった問いに深く立ち入らないのである。(p.276)

  • ううむ。ケアってもっと自然的な感情だと思っていたのだが、そうでもないのか。少なくともギリガンやノディングスではそうだと思ってた。
  • 慈愛や善意とケアが違うのは、ケアは特定の(近しい/見知った)個人に対する排他的なものだってことなんだろうな。あ、排他的って書くと叱られるな。ええと、偏愛的、も叱られそうだ。なんてんだろうな。やっぱりケア。
  • ハバマス。それにしてもどうもここらへんの話は功利主義は近親者への愛情の重要さを認めない、とかってありふれた誤った批判に近いものを感じるなあ。でも「連帯」とかいいよね。「連帯は相互主観的に共有された生活形式において親しく結びついた同朋の幸福に関わる」とか。よござんす。
  • あ、ムーミンだ。ムーミンすてき。ムーミンも最強の哲学マンガの一つだよな。(マンガじゃなない)
  • あれ、最後まで読んできたけどやっぱり「基礎づけ」ってどんなものかわからなかったな。

第6章

  • もどる。ヨナスはやっぱりわからんのだが。

    クローニングによって生まれた人間は、自分と遺伝的性質が同じ既存の人間、細胞核の提供者、つまりクローンのオリジナルの人生に関する情報を知るはめとなるだろうし、他の人間のなかにもクローニングが行なわれた意図と敬意を知っている人間がいるということも意識せざるをえない。そのために、導き手のない労苦を生き抜く「自発性」は力を失なう(これにたいして、自然にできた一卵性クローンは同時代に生きているからその危険はない)。(p.123)

  • なんでだろう。ヨナス先生が馬鹿げた遺伝子決定論かなんかを信じてんじゃないかな。人生の労苦も自発性もそんなことではなくならんよ。なんて貧しい生物理解、人生理解なんだ。そんなもんで決まるのはハゲぐらいだろう(それさえただの統計的傾向にすぎない)。こういうのは品川先生がちゃんとつっこんでほしいんだけどなあ。品川先生もこういう理解してるのかな。やだなあ。
  • 「基礎づけ」の内実は第5節でわかりそう。「未来倫理の基礎づけ」を論じているという想定でのお話しだし。期待。
  • 討議倫理学とかが「基礎づけ」の典型なんだな。手続き?「まともな話しあいで決まっことは正しくて強制力をもつ」とかそういう理解でいいのかな。
  • でも「なんでまともな話しあいに参加するべきか」とか「なぜ話し合いの結果が強制力をもつか」とかは基礎づける必要はないのかな。

第2章に、ヨナスの責任原理の基礎づけの遂行論的基礎づけによる解釈を提案した。・・・人類は人類が存続すべきかという倫理的な問いに人類の消滅を是とする答えを出せば、倫理的な問いを問うという今まさにしている行為を自己否定してしまう矛盾を犯すことになる。それゆえ、自然のなかで責任を担いうる唯一の存在が人間である以上、責任が存在するようにすることがまず果たされるべき責任であり、「第一の命令」となるのである。(p.134)

  • ありゃ、あの議論はすごく重要だったのね。 しかし私にはさっぱり説得力がないんだけどな。
  • 責任原理は共感とか善意とか慈愛とかそういうのとはまったく異質です。(p.136)「良心」とはどうだろうか。

(ヨナスの引用)「世界規模の生態学的危機の高まりつつある圧迫にたいしてたんに物質的な生活水準のみならず民主主義的自由も犠牲にし、ついには救いのためには暴政をも招くような警告的予測をしたために、私は問題解決のための独裁を支持していると非難されてきた。(中略)私は、実際、そのような独裁は破滅よりもはるかにましであり、この二者択一のなかでは倫理的に是認されると述べた。この態度を私は存在の審級のまえで固持する。・・・(p.137、中略は品川)

  • まあそりゃ破滅よりは暴政の方がましですね。わかります。まあ、大袈裟に言ってるだけだろう。っていうか、ヨナスの時代と今の時代はここらへんずいぶん違うのかも。アメリカ人がガソリンがんがん使うの見て腹たってたのかも。こういうのも今の我々からはちょっと見にくくなってますわね。 20世紀なかばのもの読むときは社会・歴史的背景にいろいろ注意しなきゃならないことが出てくるくらい遠くなった感じがするなあ*1。われわれは21世紀に生きてます。なんか社会的な工夫や規制いろいろした方がいいですよね。
  • でも「このままじゃ破滅するから暴政するぞ!」とかって言い出すひとがもし本当にいたら、その破滅の予測なるものがどの程度正しそうかちゃんと考えてみたいとは思っています。どっちにしても人類があと何百万年も繁栄することは考えらんないので。地球も何億年も持たないだろうし。
  • そういや三浦俊彦先生は人類あと何年ぐらい持ちそうだと予測してたかな。

第11章

  • 第3節。どうもこの本のケアの部分を通して、フェミニズム内部でのケア倫理批判の調査がちょっと甘いんじゃないかと思っております。私の理解では、「ケア対正義論争」っていうのは主としてフェミニズム内部での戦いだったんじゃないかと思っているわけだが。平等か、差異か、ってやつ。だからコーネルを議論する前にマッキノンあたりをちゃんと紹介してほしいんだわな。
  • マッキノンのギリガンあたりに対する態度は「仮借なき批判」というよりも、 なんか両義的な感じだと思う。Feminism Unmodifiedの”Deffence and Dominance”あたり。*2
  • 私はコーネルはなんか節操*3なくて信用できないと思ってるんで、そこらもあれだ。

 

J. S. ミル先生

  • 今回はキムリッカ先生とヘア先生をぶつけるだけで十分にも見えるんだけど、もうなにやるにしても一応ミル先生におうかがいを立てる、ってのが私のいつものスタイル。関係ありそうなとこ引用のために写経しておこう。

    およそ道徳の基準とみなされるものに対しては、当然のことながら、しばしばこういう疑問が提出される — その強制力はなにか。それに服従する同期はなにか。もっとはっきりいえば、その義務の源泉はなにか。 どこからその拘束力を引きだすか。道徳哲学は、この疑問に対して必ずこたえを用意しなければならない。『功利主義論』第3章。(中公世界の名著の訳*4

  • この章は「快楽の質」が出てくる第2章や、功利の原理の「証明」*5が出てくる第4章なんかに比べて軽くあつかわれることが多いと思うんだけど、重要なんだよな。
  • 品川先生は「基礎づけ」を正当化ではなくて、説明の文脈で行なってるように(も)見えるから、品川先生の意味での「基礎づけ」って点では、第4章よりむしろ重要に見える。
  • 原文も用意っと。 http://www.utilitarianism.com/mill3.htm

功利の原理は、他の道徳体系のもつあらゆる強制力をもっている。また、もてない理由はどこにもない。これらの強制力は、外的なものと内的なものとに分かれる。外的強制力については、詳しく述べるまでもない。外的強制力とは、同胞や「宇宙の支配者」によく思われたいという希望であり、嫌われることを恐れる気持ちである。それはまた、われわれがいくらかでももっている同胞への共感と愛情であり、結果の利害打算を離れて神の意志を行なう気持ちにさせる、神への愛と畏敬の念である。

  • あら、これ翻訳正確かな。「それはまた」の部分が気になる。

The principle of utility either has, or there is no reason why it might not have, all the sanctions which belong to any other system of morals. Those sanctions are either external or internal. Of the external sanctions it is not necessary to speak at any length. They are, the hope of favour and the fear of displeasure, from our fellow creatures or from the Ruler of the Universe, along with whatever we may have of sympathy or affection for them, or of love and awe of Him, inclining us to do his will independently of selfish consequences.

  • ううん、まあこれでいいのか。 “sympathy or affection for them (oure fellow creatures)” はミルの分類では外的サンクションなんだな。てっきり、内的サンクション(あとの「心中の感情」)の方に入るんだと思ったた。やっぱり勉強は楽しい。

    義務の内的強制力は、義務の基準がなんであろうと、ただ一つのもの—心中の感情である。つまり、義務に反したときに感じる強弱さまざまな苦痛である。そして、道徳的性質を正しく開発した人なら、事がらが重大になると苦痛が高まり、義務に反する行為をやめさせてしまう。

  • ヨナスだったら「乳飲み子の呼び声が~」レヴィナスだったら「他者の顔が~」とか言いそうなとこだと思うんだが、そうじゃないんだろうか。

義務の観念がもつ拘束力は、一段の感情が存在することからきている。正義の基準を犯すためには、この感情群を突破しなければならない。にもかかわらず基準を犯せば、この感情群は、おそらくそのあとで良心の呵責という形で姿をあらわすに違いない。良心の本性や起源について何といおうと、この感情群こそ良心の本質を構成するものである。このように、すべての道徳の究極的な強制力は、われわれ自身の心中にある主観的な感情なのだから、功利を道徳の基準とする者は、功利主義の基準の強制力は何かという質問に頭を悩ますことはいっこうにないはずだ。こうこたえればよいのである—他のすべての道徳基準の強制力とおなじおの、つまり人類の良心から発する感情である、と。

  • そんなもん感じません、ってひとについてはどうかっていうと、

もちろん、この強制力は、反応する感情をもたない人間には拘束力がない。しかし、そういう人間が、功利主義以外の道徳原理によくしたがうわけでもない。こんな人間には、外的強制力を加えないかぎり、どんな道徳も効果がないのである。

  • ふむ。正直でよろしい。
  • こういう「良心」はカントが言うように先験的なものじゃなくて教育とかの結果だとミル先生は考えるんだな。でも「そのためにこの感情が自然さを失うわけではない。しゃべったり、理屈を言ったり、都市を建設したり、土地を耕したりするのは後天的能力だが、人間にとってはどれも自然なことである。」と。

強力な自然的心情という基礎は存在する。この基礎は、いったん全体の幸福が倫理の基準と認められれば、功利主義道徳の強味となる。この確固たる根底とは、人類の社会的感情の根底をいう。つまり、同胞と一体化したいという欲求である。この欲求は、すでに人間本性の力強い原理であるうえに、幸いなことには、わざわざ教えこまなくても、文明が進むにつれて次第に強くなる傾向をもつものの一つである。

  • いいねえ。

But there is this basis of powerful natural sentiment; and this it is which, when once the general happiness is recognised as the ethical standard, will constitute the strength of the utilitarian morality. This firm foundation is that of the social feelings of mankind; the desire to be in unity with our fellow creatures, which is already a powerful principle in human nature, and happily one of those which tend to become stronger, even without express inculcation, from the influences of advancing civilisation. The social state is at once so natural, so necessary, and so habitual to man, that, except in some unusual circumstances or by an effort of voluntary abstraction, he never conceives himself otherwise than as a member of a body; and this association is riveted more and more, as mankind are further removed from the state of savage independence. Any condition, therefore, which is essential to a state of society, becomes more and more an inseparable part of every person’s conception of the state of things which he is born into, and which is the destiny of a human being.

  • まあミル先生の道徳心理学だなわ。この章は思っていたより複雑で問題が多いところかもしれんな。もう少し考えよう。なんか参考書必要だな。
  • もちろん功利主義(功利の原理)そのものを正当化するのは他の理論くらい難しいわけだけど、功利主義だって十分責任やらケアやらって感情が、道徳というわれわれの営みのなかで果す役割をしっかり説明することができるぞ、っと。さらにそういう感情をもつことを正当化することさえできる。(これはケアの倫理や責任原理の立場よりシンプルにやれそう。いやまあケア倫理とはイーブンぐらいか。)

政治の文脈

  • ケア倫理で気になるのは、ここらへんの議論が主として政治学があつかう議論のような気がするとこだよな。キムリッカもオーキンも政治学者だし。いや、何学者でもいいんだけど。
  • 一つ国内の文献でちゃんと書いてくれてるのが少なくて不満なのが、ロールズの「正義」やら「リベラリズム」ってのが、米国内ではいちおう「左翼」なんだってことだよね。あれでもあの所有権を保障するために作られた国ではかなり左なのだ。「アカ」があんまりいないからだよね。
  • 実はこれちゃんと書いてくれてる文献はほんとにあんまり見なくて、最近やっと盛山和夫先生の『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』でみかけて安心した。
  • 米国の法学とかではやっぱりロック流の自然法論みたいなんが強いんじゃないのかな。よくわらかんけど。そういうのに対抗したのがロールズなわけでなあ。
  • 法実証主義や功利主義の伝統はもちろんあるけど、イギリスに比べるとずっと弱いわねえ。
  • ロールズがやろうとしたのは、せいぜい契約説の枠組をつかって実質的に功利主義(政治的には社会民主主義?)に近い結論を出そうってことだったと私自身は理解してる。とんでもなくまちがってるかもしれないけど。
  • たしかに(国際)政治学者でケアとか言ってる人びとはロールズでも足らん、もっと左いこうぜ、第三世界の人にもケアしなきゃ、って論調が多いんじゃないかと思う。
  • しかし一方で、ノディングス先生みたいなひとはわたしにはかなり保守的、右派に見える。やっぱりまず自分の子どもとかケアするためには私的所有とかしっかりしている必要があるからね。ロック流の自然権を信奉している人びとこそ、「われわれの子どもたちを守れ!」って叫んでいるような気がするんだが、気のせいだろうか。ここには緊張関係があるはずだ。
  • だいたい、他人や他のグループと敵対することになるのは、自分の利益を追求するためってよりは、自分のまわりの人間をケアしてるためって方が人間の真実に近いような気がするわけだしね。戦争中の兵隊さんなんかが典型じゃん。彼らの多くは(少なくとも主観的には)自分が死んでも自分の家族とか守ろうとしているわけだと思う。 仮面ライダー龍騎とかもそういう方でした。
  • ここらへんオーキンとか読んでないからそういう緊張関係がよくわかんないところがあるけど、まあそこらへん品川先生はどう考えてるのかなあ。ギリガンやノディングスが「ケアの対象は万人に開かれてる」のようなことを言うけど、どうもリップサービスに見えるんだわな。これは私の性格が歪んでるからかもしれん。
  • 正義がなんのために必要かとなれば、そりゃ周りの人のケアのためだろう。一方、ケアが正義のために必要だってのはたしかになんかおかしい感じはするね。
  • これが品川先生の「基礎づけ」とか「優先」とかの意味なのかな。まだわかってない。

ヘア先生のケア倫理短評

ギリガンとコールバーグについてはヘア先生直接に書いてるのがあったな、とかで探しみた。”Methods of Bioethics”だね。該当箇所を超訳。

「ケアの倫理」を提唱する人びとによっても感情は強調されており、ほかに重要なものを排除してしまうほどである。このグループにはギリガンとノディングス、そしてもっと哲学的な人としてローレンス・ブルームなどが入れられる。ブルームは最近ギリガンをはっきり支持している本を書いている。ブルームの議論を細かく議論する余地はないが、彼の敵役の選択は残念なものであるといわざるをえない。ギリガンもコールバーグも、アイディアは重要なのだが、あまりクリアに考える人ではない。私はギリガンと面識はないが、コールバーグはよくしっており、彼からは多くのものを学んだ。しかし、コールバーグは自分の発達段階の理論をはっきり説明するだけの分析的能力をもっていなかった。特に、彼は、私が先に述べた普遍性と一般性の間の重要な区別をしそこねている。その結果、彼はひじょうに一般的なルールにもとづく道徳をもつ人がより高い段階にいると考え、また、われわれが特定の人びとにたちして持つべき特別な関係(特にケア)を無視したとしてギリガンから非難されることになったが、それも故なきことではない。しかし、道徳判断が普遍化可能だからといって、われわれがケア関係をもっている個別のひととの特別なかかわりにもとづいて、自分の行動をガイドするということができないというわけではないのである。私はこんなこともうまく扱えないような人といっしょに最高の道徳的発達段階にいることにはされたくない。(“Methods of Bioethics: Some Defective Proposals” in Objective Prescriptions)

なんかひどい文章だな。こういうこと余計なこと書いて人を怒らすからヘア先生はみんなから嫌われて、いま誰も読まなくなってんじゃないのか。あ、ここ本論じゃなかった。

ケアリングの提唱者の欠点は、彼女らが強調する美徳が実は美徳ではないということではない。誰だって、ケアリングや友情が・・・道徳的によい生活において重要なものだということに同意することができる。ヘルガ・クーゼは重要な論文のなかで、「ケアリング」の概念が不可解なほど曖昧であることを指摘している。提唱者たちの誰もこの概念を明確にしてくれない。またクーゼは、このケアリングという概念は、(もしそれが明確になったとしても)、われわれが実際に困難な選択に直面した場合にほとんどなにもガイドを与えてくれないことを指摘している。その後彼女は『ケアリング』という重要かつ啓発的な本を書いたので、医師や看護師におすすめしたい。とにかく、ケア倫理の提唱者たちの一番の難点は、彼らが攻撃している見解を完全に不公平で不細工なカリカチュアにしてしまっていることである。彼らが書いたものからは、あたかもこれまで哲学者は誰もケアについて語ってこなかったかのような印象を受けるだろう。

最後のとこはそうだねえ。

ギリガンは、ケアに注意が払われなかったのは哲学的思考における男性支配のあらわれであると考えている。ピーター・シンガーはジェンダーと哲学へのアプローチの間の関係について有益な議論を新しい本(『わたしたちはどう生きるか』だな)で行なっている。シンガーはたしかに、つい最近までの有名哲学者のほとんどが男性であったことは認める。しかし、彼らがケアリングや友情を無視しているというのはまったく正しくない。アンソニー・プライスの『プラトンとアリストテレスにおける愛と友情』やそれが言及しているテキストを読んでみれ。特に『ニコマコス倫理学』の1168a-69bは重要だ。そのあとで、ヒュームが共感についてどう言ってるか調べてみれ。カントだって、他人の目的を自分自身の目的であるかのように扱えって言ってるぞ。(カントの引用)これがケアでなかったら、いったいなにがケアなのかわしにはさっぱりわからんよ。

カントの引用はあとで探す。Grundlegungすぐに出てこないけど、BA69-430。おそらく「「各自が他人の目的をも、できるかぎり、促進しようと努めなければ」人間性を目的それ自体として扱っていることにはならない」だと思う(中公のp.276)。

私はあとでケアリングをカント的な枠組のなかに納めるのはとてもやさしいと議論するつもりだ。それに、注意ぶかく定式化したカント主義と注意ぶかく定式化した功利主義は矛盾せんとも主張するつもりじゃ。そういう枠組のなかで、ケアする人は必要とし求めるケアを十分行なえるのじゃ。やってはならんのは、ケアリングが道徳性の全体であると考えてることじゃ。ブルームはの点についてはとてもフェアじゃった。彼はたんにバランスを直そうとしただけじゃからして。しかし、ブルームがやりすぎたんじゃないかっていうことは考えてみてもよいじゃろ。

こういうことは、ケアする人が公平さimpartialityについてどう言うだろうかってことを考えてみればはっきりするじゃろ。道徳的生活のなかでのケア関係の重要さを強調したいと思い、一方でそういう関係を誰とでも持てるわけじゃないというあたりまえの事実を見ると、ケア主義者たちは道徳のもうひとつの重要な側面、つまり正義と共通善の公平な追求、という側面を無視しがちになってしまう。自分の子どもをすごくケアしておる医者が、希少な薬品を自分の子どもたちのためにとっておいたとしたらどうじゃ?こういう問いにはあとで答える。まあ、全体としての道徳のバランスよい説明を手に入れてしまえば、答えるのはそんな難しくないぞ。

は。なにやってんだ。ヘア先生は偉いけど、こんな文章40分もかけて訳すのは無駄。

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*1:何度も書くけど、「正義論」まわりや20世紀の倫理学そのものについても我々に見えにくくなっていることがあると思ってる。

*2:翻訳は 『フェミニズムと表現の自由』 か。「無修正フェミニズム」「フェミニズム一本道」「フェミニズムすっぽんぽん」とかの方がかっこいいと思うのだが。

*3:カント、ラカン、デリダとなんか大物を自分勝手に解釈して利用している感じがある。法学の人びとはそういう「テツガクシャ」をよく知らんからなんかそういうもんだと信じちゃってるところがある。ジュディス・バトラーよりはましかもしれないけえど、そういう狭間産業で生きる人で、マッキノンほど評価されていないはず。おそらく米本国では、法学の人はコーネルを哲学者だと思ってるし、哲学の人はコーネルを法学者か文学理論家だと思ってると思う。

*4:中公さん、手に入りやすくしてくださいよー。

*5:自然主義的誤謬やら合成の虚偽やらであまりにも馬鹿げているといわれるわけだが。