翻訳ゲリラ:レイモンド・ベリオッティ「セックス」

Raymond A. Belliotti, `Sex,’ in Peter Singer (ed.), \emph{A Companion to Ethics} (Oxford: Blackwell, 1993), pp.315-26のゲリラ訳。

セックスと倫理の関係を論じたもの。古い。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/sex-belliotti.pdf


LaTeXソース

Raymond A. Belliotti, `Sex,’ in Peter Singer (ed.), \emph{A Companion to Ethics} (Oxford: Blackwell, 1993), pp.315-26

\section{はじめに}

よい生活におけるセックスの果たす役割についての問いは、古典的な哲学では中心的な問いであった。しかし、セックスにまつわる問いは、詩人や放蕩者によっては熱く議論されてはいたものの、次第に哲学者の間ではその意義が減じられていった。しかしながら、応用倫理学に対する近年の関心の高まりによって、セックスについての議論はふたたび正当かつ重要な哲学のトピックであると見なされるようになってきた。哲学者たちの性欲が昔よりも盛んになってきたのか、あるいは、セックスに対するオープンな社会的雰囲気に反応しているだけなのかは、想像するしかない。

この論文は、哲学者たちを悩ませている主要なセックスに関する問題のいくつをあつかう。性差(ジェンダー)や生殖の役割は自然的なのか、あるいは社会的に構成されたものか? 道徳的に許されるセックスは、たったひとつの機能しかもたないのか? それは異性間のものであるべきか? それは結婚という制度のなかでのみ行なわれねばならないか? どのような種類の性的行為が、どのような環境のもとで道徳的に許されるべきか?

ここで二つの警告がある。「道徳的に許される」というフレーズは、「道徳的に禁止されていない」を意味する。しあたがって、ある行為を道徳的に許されると分類することは、必ずしも、その行為が「道徳的に要求」されている、あるいは、「最善の行為である」「長い目で見たときにその人の最善の利益になる」などということを意味しない。さらに、この論文はさまざまな種類のセックスを、行為そのものの観点から考察するのであって、その行為が生みだすさまざまな帰結の観点から考察するわけではない。それゆえ、この論文は、性的な行為それ自体は道徳的に許されるように思われるが、それに付随する状況によって、その行為が第三者に極端に害のある帰結をもたらすといった特殊なケースを無視することにする。

\section{西洋の道徳的伝統}

\subsection{古代ギリシャの二元論}

紀元前6世紀頃、ピタゴラス派の人々は、死すべき人間の肉体と、不死の魂というはっきりした二元論を説いていた。ピタゴラス派は生命の合一を信じており、個々の魂は神的なもの、すなわち宇宙霊魂の断片であるとした。ピタゴラス派は、地上の人間は、宇宙霊魂に戻るための準備として霊魂を清らかに保つべきであると考えた。魂の「清め」は沈黙、瞑想、肉食を断つことを通して得られる。ピタゴラス派の主張によれば、個々の魂が宇宙霊魂に戻るまで、魂は肉体に閉じ込められており、輪廻転生を経験する。死が個別の魂と特定の肉体の統一を解消し、魂は、新しい身体(人間の場合もあれば他の動物の場合もある)に転生する。

ピタゴラス派は、魂の不滅、理性界における普遍の存在、人間の神との合一の準備としての哲学といったプラトンの教説に重大な影響を与えた。のちに、ストア派は自己統制と情念からの解放に基づく心の静寂という理想を建て、またエピクロス派は、激しい物質的欲望を抑制したりすることから生ずる心の平和を求めた。

このようにして、紀元前に二元論の種はしっかりと根づき、西洋のセクシュアリティの一つの流れ、すなわち\emph{禁欲主義}が現われた。禁欲主義は性的情念からの離脱と解放を求め、あるいは少なくとも性的欲望を理性へ服従させるよう勧奨した。肉体は不滅の人間の魂の牢獄であり、このような思想はしばしば世界は「真理」と「実在」の代用品でしかないという考え方をともなった。

\subsection{ユダヤ=キリスト教思想}

旧約聖書の支配的な見解は、性行為の喜びを強調し、多産を推奨し、結婚や親子関係は自然であるとみなした。家系の保存という動機によって、司教やイスラエルの王侯は一夫多妻制を実践した。新婚の男性は夫婦が結婚での性的喜びを享受するように一年間兵役を免除された。また、レビレート婚が認られており、子供がいない未亡人は夫の兄弟によって受胎することができ、その結果生まれた子供は故人の子孫とみなされた。ギリシャの二元論と禁欲主義と比べるなら、旧約聖書の性と物質的世界への態度は圧倒的に肯定的であった。

聖書に記されたイエスの性に関するごく少数の言葉は、姦通と離婚を非難している。しかし、けっして性的衝動を本性的な悪とはしていない。イエスは愛の法を説き、性や物質的世界は偶像としての役割を果たすときのみ、永遠の救済に対する障害として厳しく非難した。「貞潔」(独身)というキリスト教の理想を最初に表明したのは聖パウロであった。彼は貞潔を妨げる衝動をもつ人々に、結婚生活における長期の性的禁欲をしないように忠告した。しかし、彼は性はその他の世俗的事柄と同様に永遠の救済に従属すべきであると警告した。彼は旧約聖書の助言とは対照的な理想を建て、ギリシャの二元論的傾向に影響されていたが、性が本性的な悪であるとは主張していない。

キリスト教会が異教徒の改宗を試み始めると、ユダヤ教の影響は減少し、ギリシャの影響が強まった。グノーシス派の台頭とともに、処女性が徳となり、結婚は霊的弱者に認められることになった。聖アウグスチヌスは人々に瞑想という崇高な目的のために、肉体的喜びを排することを強く促した。この考えによれば、堕落以前のアダムとイブは激しい情念に汚されずに、心によって制御されていた。原罪とともに激しい性的欲望が生じ、肉体の制御が失われた。したがって、性的欲望はその起源のゆえに悪で汚染されたと考えられた。さらに、原罪は性交渉を介して後の世代に伝播すると考えられた。ここから、処女受胎の要請が生ずる。すなわち、イエスが原罪から自由であるのは、性行為を介して生まれなかったからに他ならない。貞潔が最高の理想として再認され、結婚における性行為は種の保存のための必要悪と見なされた。それは子供を望むことに動機づけられるなら、その本性からして生殖を妨げない行為によって実施されるなら、適度に品よくなされるなら、道徳的に許される。数世紀後、トマス・アクィナスはアウグスチヌスの性に関する説明を繰り返したが、結婚生活における肉体的快楽と喜びに関する彼の嫌悪をある程度和らげた。

ルターはアウグスチヌス-トマスの立場の多くに同意したが、貞潔を理想とすることに反対した。ルターは性的衝動から解放された人はほとんどいないこと、また神は少数者ではなく、すべての人々に結婚を義務として求めたことを認めた。カルヴァンは貞潔=理想という主題を繰り返し、ふたたび結婚生活における性行為は制限されるべきであり、品位がなければならないと主張した。生殖がプロテスタントの宗教改革者にとって性の積極的機能であり続けた。

ローマ・カトリックの性に関する立場は、『性の倫理の諸問題に対する宣言』 (1975) に至る数次の教皇回勅によって確認されている。すなわち、性行為が道徳的に許されるのは、結婚の下で、故意に人間の生殖と両立不可能にされない場合のみである。結婚制度の外で生ずるすべべの性行動 (たとえば、姦通、乱交) と、故意に人間の生殖と両立不可能である性の表現 (たとえば、自慰、同性愛、口腔および肛門性交、避妊具の使用) は不自然であるから、不道徳であると非難される。

\subsection{キリスト教の立場への批判}

こうした立場は通常はその基礎をなす前提のために批難される。人間本性の非歴史的概念、自然にお ける性に固有の位置に関する変わることのない制限された見解、家族の容認可能な一形態を特権化す る見解、人間の性行為の役割に関する狭い見解である。人類にとって何が「自然」であるかについて 主張する人々は、人間本性の客観的分析から道徳的理論を導くよりも、しばしば我々はいかに振る舞 うべきかに関する彼ら自身の先入見に対応する諸要素を我々の本性から選び出すように見える。なぜ 生殖を目的とする結婚内の性行為は、快楽を目的とする結婚以外における性行為よりも人間本性に合 致するのか。

\subsection{愛と親密さ}

古典的立場の基本的見解を発展させる一つの仕方は、愛と親密さの経験において生ずるなら、性は道 徳的に許されると主張することである。ヴィンセント・パンツォ『反省的自然主義』とロジャー・ス クラットン『性的欲望』は形式的結婚という制限を除去し、それを相互の信頼の必要性、受容、内奥 の思想の共有という深い関係で置き換える。愛や親密さは通常は成功した結婚の一部分であるが、論 理的に結婚にとって必要でもないし、それに限定されない。

そのような立場は、主として次の二つの主張によって支持される。第一は、性は人間の活動の頂点で あって、人格の我々の存在にもっとも近い諸側面を反映するという主張であり、他は愛を伴わない性 行為は人格を汚し、遂には人間人格を断片化するという主張である。このアプローチは機械的で、場 当たりの性交渉のもついわゆる非人間的結果を退け、性交渉を人間的自我のもっとも親密な身体的表 現として賛美する衝動に生気づけられている。我々の実存の全一性 (integity) に対する独自の効果 のゆえに、それは特別な関心に値する行為である。

このアプローチにはさまざまな修正がある。ある者は愛と親密さという要件は排他的であり、道徳 的に承認できる性交渉はただ一人の人格との間に限られると主張する。他方、人間は同時に複数の人 間を愛する能力をもつから、性交渉は排他的ではなく、同時に複数の愛の結合が道徳的に許されると 主張する者もある。

\subsection{愛と親密さへの批判}

愛と親密さのアプローチは、実存の全一性や心理的開花のための性的活動の重要性を過大評価し、普遍化しているという批判がある。第一に、多くの人々が愛を伴う性交渉の範囲を逸脱していることは明らかであり、またこのような人々は非人間化とか心理的崩壊という結果を必らずしも示さない。第二に、愛のない性交渉が実存の断片化に至るとしても、そうした性的関係が道徳的に許されないことは帰結しない。我々は必ずしも実存の全一性を促進する行為をなすように道徳的に要求されないから、 そこから帰結するのは、愛のない性行為は戦略的に不健全であり不謹慎であることにすぎない。「道徳」の領域は私の「最大の利益」の領域と重り合わない。人は自分の最大の利益を促進するすべての行為を、またそれだけをなすように道徳的に要求されているのではない。最後に、愛や親密さは人間人格の重要な側面であるが、それらがつねに優先することは明らかではない。我々は、愛や親密さを伴わないが、価値のある多くの活動に従事している。なぜ性行為はそれらと異なっていなければなら ないのか。性行為は人間人格に深く必然的に結びついていると答えるなら、その結びつきは非歴史的事実なのかと問うことができる。愛と親密さなしの快楽は、多くの人にとって性行為の正当な目的ではありえないのか。実存的全一性に対する性行為の重要性は生物学的事実なのか、それとも社会内部の下位集団による社会的構成物にすぎないなのか。

\section{契約論的アプローチ}

契約論者のアプローチは、性交渉は人間の他の行為と同じ規準で道徳的に評価されるべきであると主 張する。したがって、彼らは相互的で自発的で、十分な情報を与えられた同意の重要性を強調し、性 的多様性を人間の自由と自律の認知として寛恕することの適切さを強調した。たとえば、R. ヴァノイ 『愛のないセックス』は性を大胆かつ頻繁に行使されるべき価値ある賜として描く西洋思想の一つの 流れ (ラブレー、ボッカチオ、カザンザキスなど) の影響を受けている。他方、他の契約論者は性は 慎ましく賞味されるべきであるという古い見解に同意する。

\subsection{リバタリアンの見解}

リバタリアンの立場は、契約の権利を人間の自由の尊厳に不可欠と見なす。したがって、性行為は相 の自発的で十分な情報を与えられた同意をもって行われるなら、またその場合にのみ、道徳的に許 される。リバタリアンにとって、もっとも価値のあることは自由と自律である。したがって、ある特 定の性的関係を強調し、受け入れることのできる性行為を特定の範囲を限定することは抑圧となる。 道徳的に容認可能な性行為のテストは単純である。すなわち、当事者が暴力、欺瞞、脅迫なしに特定 の性的関係を自律的に選択し、自発的にそれに同意するのに必要な基本的能力をもつか、である。反 対に、一方あるいは双方の当事者がこうした能力を欠いているなら、道徳的に許されない。

\subsection{リバタリアンに対する批判}

リバタリアニズム (libertarianism、自由尊重主義) の最大の弱点は、契約という領域で起こる数多く の道徳的歪曲を無視することである。契約の当事者達は根本的に不平等な交渉能力をもつ。一方は、 困窮状態という抑圧の下で取引するかもしれない。あるいは、その契約は人間人格を構成する重要な 属性をたんなる商品として扱うかもしれない。こうした歪曲が特定のある契約が本当に道徳的に許さ れるのかという疑問を招く。契約の存在そのものが道徳的に自己立証的ではない。すなわち、契約が 「自発的な同意」を介して存在することを知るとしても、その契約の条項は果たして道徳的に許され るのかという問いが残る。リバタリアンの立場は自発的な契約上の相互関係が道徳の完全性を含む場 合にのみ成立し得る。

ロッコは貧乏だが正直な理髪店の息子であり、彼の家族は生活の必需品に事欠く状態にある。彼はさま ざまな仕方で生活資金を得ようと試みるが、うまく行かない。ロッコは隣人のヴィトが奇妙な嗜好をも つことを知る。ヴィトは裕福だが残酷な男であり、右手の中指を切らせてくれるなら、5000ドルと医 療費を払うという。細かい条件について交渉した結果、彼らの取引が成立し、ロッコは5000ドルを手に 入れたが、指を一本失なった。

この契約は暴力も欺瞞も脅迫もなしに自発的に合意されたと考えられるが、多くの人々はこうした契 約を非道徳的と主張するだろう。ヴィトはロッコの過酷な状況、弱さ、完全な絶望を不当に利用してい るからである。さらに、双方ともにロッコの身体の一部をたんなる商品のように扱っている。 ヴィトはロッコに危害 (harm) を与えた[彼らの相互行為は他者危害排除の原則に反するので、契約 と見なされない]から、リバタリアンはこのような反証例を回避できると反論されるかも知れない。 しかし、この反論は説得的ではない。なぜなら、リバタリアンは中指の損失と5,000ドルの収益が危害 に当たるか否かの判断をロッコに委ねている。リバタリアンにとって、同意は他者危害排除原則を無 効にするから、ヴィトはロッコの危害を受けないという消極的権利 (negative right) を侵害したと 主張することはできない。リバタリアンは道徳の重要な側面、すなわち個人の自由と自律という概念 を認識しているが、それらが道徳性全体を構成するかのように誇張する。

\subsection{カント主義的修正}

上述の反論に答える一つの方法は、リバタリアンの見解をカント的原則「他人を自己の目的に対するたんなる手段として扱うことは道徳的に不正である」で修正することである。この試みは、R. ベリオッチ『性倫理の哲学的分析』に見られる。カントの格率は、各個人が被害者を客体化する、すなわち、他人をたんなる事物や道具として扱い、自己の目的のために操作し利用するなら、彼は非難に価することを意味する。他人に危害を加えることは、彼に固有の価値を否定することであり、彼を目的自体として、経験の平等の主体と認めないことである。人間人格を構成する重要な属性を、あたかも市場で売買される商品であるかのように扱うことは、広い意味において搾取の一例である。ここに、リバタリアンの理解できない重要な洞察、契約は道徳的に自己立証的ではないという洞察がある。したがって、カント主義者のアプローチでは、性行為は詐欺、約束違反、不当な強制、搾取を含むなら非道徳的である。

このアプローチは性的関係の本性を契約に求め、相互性の概念を含むことを認める。二人の人間が自発的に性的結合に同意するとき、彼らは自己の欲求と期待に基づいた相互的義務を生み出す。我々は自己自身で達成できないある種の欲求、たとえば生殖への衝動、快楽への欲望、愛と親密さの切望、他人による正当化の願望などを達成するために他人と性的関係をもつ。また、性的活動の道徳的評価は、他の人間の行為を評価するのと同一の規則と原則による。ここには、「道徳的なもの」と「打算的なもの」の領域を合体させようとする試みはない。ある行為が道徳的に受け入れられるという主張は、それを追求することが望ましいを含意しない。言い換えれば、ある行為が道徳的であることは、その行為を追求すべきか否かを決定する際に使用されるべき唯一の規準ではない。ある行為は道徳的に承認できるが、それは当人の最善の長期的利益ではない、我々の嗜好に反する、我々をいっそう価値ある努力から引きなすという理由によって、戦略的に不健全であるかも知れない。

\subsection{カント主義的修正に対する批判}

このアプローチは性的関係を企業間の取引に固有の冷たい利益計算に解消する。契約の範囲をそのような親密な領域にまで適用すべきではない。実務的な契約と異なって、性的契約が明示的に文章化されることはない。我々は契約が成立するのは何時か、どんな合理的期待が可能であるのかを知ることができない。どうして性的関係は道徳的に承認され、しかも我々の最善の長期的利益と幸福に反することができるのか。「搾取」という概念は柔軟すぎて曖昧である。「他人を利用することは不正である」とか、「構成的属性を商品として扱うのは不正である」という曖昧な標語は、道徳的評価の指針として価値がない。

\section{政治的左翼からの挑戦}

マルクス主義者とフェミニストは、人間関係の本性の分析に基づいて他のアプローチを批判し、西欧諸国で支配的な社会における純粋に平等な性的関係の可能性を否定する。

\subsection{古典的マルクス主義}

エンゲルスは『家族、私有財産、国家の起源』で、ブルジョワ家族では妻は安価な家事労働と社会的に必要な仕事を提供し、資本家の財産の適法的な相続人を生むように期待されるのに対して、夫は賄いつきの宿を提供すると観察した。この交換は女性の側の夫婦間誠実の必要性を説明し、家族内の男性特権の存在の経済的基盤を与えると考えられた。ブルジョワ家族は資本主義の土台である私的利益に基づいて考えられた。ブルジョワ女性は資本主義社会では公共の職場から排除されているから、男性に経済的に結合することを余儀なくされた。夫婦間の性的関係では情緒的で人格的な愛情が作用すると考えられるが、それは事実上一連の商取引に解消され、そこでは相互の契約に基づく利益が交換される。したがって、商品というレトリックは資本家の生活の内的で私的な聖域に浸透している。

エンゲルスによれば、ブルジョワ家族における性行為は売春の一形態であり、不道徳である。なぜなら、その起源は権力者による非抑圧者の経済的搾取にあり、その結果は女性の深奥の自我を構成する属性の商品化である。ブルジョワ家族の悪弊を解決するには、家事労働の社会化、女性の公的領域への完全な包摂が必要であり、階級区分や経済的搾取の温床である資本主義体制の解体なしには不可能である。資本主義社会では十分な情報を与えられた同意が、経済的生存の必要のために汚染されている。「相互の合意」や「相互的利益」という報告は、資本主義的唯物論の虚偽意識に由来する幻想かもしれない。当事者がある程度の平等という規準を共有し、経済的必要によって動機づけられず、彼らを構成する属性を商品として扱わないなら、性行為は道徳的に許される。しかし、こうした条件すべてが資本主義の除去を要求する。

\subsection{マルクス主義に対する批判}

古典マルクス主義による性の説明に対する批判は、虚偽意識に関するマルクス主義の説明、その搾取の起源に関する歴史的解釈、資本主義経済に関する理解、さまざまな社会階級の関係に関する描写に対する一般的な不満に収斂する。しかし、こうした批判の十分な紹介や分析は別項に委ねる。

\subsection{フェミニスト的見解}

A. ジャガーは『フェミニストの政治学と人間の本性』で、社会的フェミニストの立場からマルクス主義は経済的基盤での女性の抑圧を強調しているが、女性の抑圧、すなわち男性による攻撃と支配の真の起源を明らかにしていないと主張する。資本主義の経済機構が除去されても、社会主義諸国においてそうであるように、女性の地位は実態として何ら変わらない。資本主義社会で労働者の受ける搾取と、女性が受ける抑圧を区別しなければならない。ジェンダーの不平等は経済的原因によって十分に説明されない。彼女はこう指摘する。

自然法的および契約論的説明も否定される。C. マッキノン『真正フェミニズム』は、伝統的説明の基礎をなす「自然法」と「自律的な選択」の概念には致命的な欠陥があると主張した。マッキノンのような急進的フェミニストは、社会的に構築された性役割は女性が自己の欲望と必要を識別し、育成することを極端に困難にしていると主張する。女性は自己自身の価値を証明し、社会的に作り出された彼女の義務を果たすために、男性の性的欲求と必要を満たすように社会化されている。男性の支配や女性の服従は性行動に関して受け入れられた規範であり、男女両性の相互の役割を一般的に定義する。自然法に依るキリスト教徒が誤っているのは、我々の性的欲求や必要は主として社会的条件づけの問題だからであり、十分な情報を与えらえた同意を信頼する契約論者の信念が瞞着であるのは、同一の社会的条件づけが女性の機会や選択の範囲を制限し、女性の社会的位置と男性との関係について虚偽意識を育てるからである。

マッキノンのようなフェミニストは性行動の政治的含意を暴露し、性現象を根本的に考え直さないかぎり、女性はつねに男性に従属し続けるであろう結論する。もっとも急進的なフェミニストであるレズビアン分離主義者は中道穏健体制において推奨される性的活動、たとえば既婚者の、異性愛の、一夫一婦制の、生殖-出産の、限定された関係内、などの性行為に懐疑的な傾向がある。多くのフェミニストはこのように注意深く定義された性的活動は、直接的に女性の政治的隷属を助長すると考える。G. ジョンストンは『レズビアン国家』で分離主義の立場から、政治的言明をなし、男性の抑圧を超越する一手段としてのみ女性間の性行為を承認する。

道徳的に許される性行為に関して、フェミニストの間の見解に一致は少ない。男性支配と女性服従という伝統的役割がないなら、女性が自己の性別によって政治的犠牲者とされないなら、女性が自己自身にアクセスする権力と制御の能力をもつなら、性行為は道徳的に許される。どのような事件がこうした条件が達成されたことを示すのか。この点で、見解の不一致が露呈する。男性と女性を完全な分離。女性の側の異性愛の放棄。女性の身体を商品化しないこと。子供の出産と養育という基本的に不平等な役割から女性を解放するための生物学的革命(たとえば人工出産)。男性からの経済的独立。家事と社会的奉仕を提供する女性に報酬を払うこと。「男性の仕事」と「女性の仕事」という区別の廃止。女性が公的領域に完全にアクセスすること。

\subsection{フェミニズムに対する批判}

フェミニズム批判はしばしば特殊である。穏健なフェミニストや非フェミニストは、レズビアン分離主義者の主張する女性の男性からの完全な分離は不必要であり、そうした態度は女性の選択肢を制限し、搾取に基づかない異性間の性行為に携わる理論的可能性を否定すると主張する。それは男性を本性的に抑圧と搾取以外には何もなしえないかのように描き出す。非歴史的な人間本性という観念の批判から始まったのに、結局はそうした観念に終わるから、分離主義者の見解は誤りである。

いっそう一般的な批判は「自由な同意」という概念とフェミニストによる「虚偽意識」という概念の革新に焦点を当てる。フェミニストのなかには、女性は男性支配の社会で犠牲になり、長期にわたって条件づけられているので、十分に情報を与えられた同意の能力がないと主張する人もいる。しかし、こうした譲歩はパターナリズムの正当化として使うことができる。また、女性が男性との性的関係から満足感や達成感を報告するなら、その内容があるフェミニストの基本理論とは異なるという理由だけで、自動的に虚偽意識から生ずるとして機械的に非難すべきではない。

なぜ我々は性的役割が人格性 (personhood) や女性性 (womanhood) にそれほど本質的であると想定すべきなのか。フェミニストは、性的活動は女性の内奥の存在ともっとも重要な構造的属性に密接に関わるという仮定を立てた。しかし、そうした事実は、生物学的必然性なのか、あるいは男性支配の社会が作り出した人工物なのか。どのような原理的な仕方で、我々は通常の賃金労働に携わる構造的属性と性的活動において活性化する構造的属性を区別できるのか。もし区別できないなら、マルクス主義が賃金労働も性行為も商品化されるべきではないと考えたのはおそらく正しい。あるいは、契約論者が労働も性行為もある条件の下では商品化されると考えることも正しい。

最後に、政治的自由主義者は次のように論ずるであろう。公的機会が徐々に女性に開かれている。家事や子育てに対する公平な資源配分や福祉介護センターに関する社会的意識が高まっている。早期の教育と社会化が性的平等にいっそう適合する。女性の社会的政治的権力に参加する機会が増加している、と。自由主義者には、これらが異性間の性的活動が搾取、商品化、同意の欠落を必然的に伴うのではないことの証拠である。

\section{むすび}

性道徳に関してもっとも説得的な立場は、おそらくカントの格率によって修正されたリバタリアン・モデルに基づくそれである。しかし「搾取」を古典的マルクス主義の経済的強制に対する感受性と、フェミニズムのいう男性の抑圧の残滓との関連で定義する場合には特に注意を必要とする。

このアプローチは以前に提起された批判の幾つかに答えることができる。性的相互関係に関する契約論的原則は、相互の必要と欲望が満されるという期待に基づく自発的同意に由来する。親密の感情が性的相互関係と通常の実務的相互関係を区別するが、このことは性行為が契約的でないことを証明しない。むしろ、それは性的相互関係が我々のなすもっとも重要な合意であることを示している。また、性的な出会いは通常は実務的契約ほど明示的ではないが、特定のコンテキストに基づく合理的期待の概念が我々を指導するに違いない。さらに、この立場では「道徳」の概念と「幸福」の概念の外延は同一ではない。もし我々が道徳的に許される行為のみを行うなら、ある程度の幸福が確保されると考えるが、このことは保証されえない。幸福の達成には多様な身体的物質的なものが必要であるが、それらは道徳的な行為そのものからは生じない。

他方、異論あるいは反論の余地は多数残されている。第一に、「搾取」は自己遂行的概念ではない。「他人を手段として利用する」、「自己自身の構造的属性を不法に商品化する」、「他人を客体化する」という表現の趣意は、一般的な社会的政治的理論によって与えられるべきである。批評家たちは、カント主義者はしばしばこのような言葉をその魔法の意味がすべての人に直観的に明らかである呪文として使用する。たしかに、この立場は以下の事例を搾取の図解と見なす。他人の選択肢が制限されていること、絶望的状況、差し迫った欲求を利用すること。力の差を利用して相手の同意を得ること。詐欺やさまざまな身体的・経済的強制によって、他人の自発的あるいは十分な情報に基づく同意を覆すこと、である。しかし、「搾取」に関するこうした説明でさえそれ以上の詳しい説明を必要とする。もしカント主義者が搾取の概念を解釈する際に過度に先走るなら、彼らはごく当たり前の賃金労働契約を不法として裁定し、排除するマルクス主義の立場に位置を占めることになる。というのは、賃金労働者は選択肢が制限され、部分的には彼らの基本的必要を満たすために働くのに対して、雇用者は交渉能力において有利な立場を占めるからである。

さらに、ある当事者が他の当事者よりも有利であると論ずるとき、カント主義者は「正当な説得」、「不正な操作」、「暗黙の経済的強制」を適切に区別すべきである。おそらく、どのような当事者もつねに説得の技法、論証の専門的能力、個人的カリスマ性において不平等である。このような属性は内在的な優位とイデオロギー的歪曲の源泉なのか、あるいはたんに合理的説得の合法的な道具なのか。このようにして性道徳に関する問いは社会関係に関する一般的問題に繋がるのである。

\section*{参照文献}

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\item Aquinus, Thomas, \emph{On the Truth of the Cathoric Faith}, trans, V. J. Bourke (New York; Doubleday, 1956) , Book 3, Providence, Part 2.

\item Augustine, \emph{Of Holy Virginity and On Marriage and Concupiscence}, In Fathers of the Church, ed. R. Defferari et al. (New York, 1948-)

\item Belliotti, R. A.,`A Philosophical Analysis of Sexual Ethics,’ \emph{Journal of Social Philosophy} 10 (1979) , pp.8-11

\item Engels, F., \emph{The Origin of Family, Private Property}, and the State (New York; International Publishers, 1972)

\item Johnstone, J., \emph{Lesbien Nation: The Feministe Solution} (New York: Simon and Sdhuster, 1974)

\item Luther, M., \emph{Lettre to the Knights of the teutonic Order}. In Luther’s Works, ed., J. J.pelocan and H.T. Lehman (St Louis, 1955)

\item MacKinnon, C. A., \emph{Femistm Unmodified: Discourses on Life and the Law} (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1977)

\item Punzzo, V. C., \emph{Reflective Naturalism} (New York: 1969)

\item Sacerd Congregation for the Doctrine of the Faith, \emph{Declaration on the Sexual Ethics} (Vatican City: 1975)

\item Scrunton, R., \emph{Sexual Desire: A Moral Philosophy of the Erotic} (New York: 1986)

\item Vannoy, R., \emph{Sex Wihtout Love: A Philosophical Explanation} (Buffalo: Prometeus, 1980)

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\section*{Further Readings}

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\item Cole, W. G., \emph{Sex in the Christianity and Psychoanalysis} (New York: Oxford University Press, 1955)

\item Hunter, J. F. M., \emph{Thinking About Sex and Love: A Philosophical Inquiry} (New York: St Martin’s Press, 1980)

\item Jaggar, A. M., \emph{Femist Politics and Human Nature} (Totowa, Nj.: Rowman and Little Field, 1983)

\item Soble, A. (ed.) , \emph{Philosophy of Sex} (Totowa, NJ.: Rowman and Littlefield, 1980)
\end{itemize}

% \end{indentation}

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