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パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である

 

まえのエントリに続いて、瀬川先生の「人格」に関する論文はもう一本「人格であることと自律的人格であることを区別することの意義」というのがあり、これも気になるところがあるので最初の方だけコメントしておきたいと思います。

問題設定

というのも胎児がすでに人格と見なされるのであれば、胎児には私たち成人と同等の道徳的地位が認められ、それゆえ中絶は定言的に容認不可能となるからである。あるいは反対に、胎児がまだ人格と見なされないのであれば、胎児にはいかなる道徳的地位も認められないがゆえに、中絶は定言的に容認可能となる。(p.33)

これは不用意な書き方だと思う。胎児がすでに人格だとして、そこから成人と同等の道徳的地位が認められるとは限らないし、また中絶が「定言的に容認不可能」になるともかぎらない。死刑囚は人格(人)であるが我々と同じ法的地位が認められないように、胎児が人格だとしてもそこから直接に成人と同じ道徳的地位を持つとはいえない。また、胎児が人であるとしても、母体の生命が危険にさらされているなら中絶が容認されることもありえる。とにかく、こうした論理的関係はどういう前提にもとづいているのかはっきり書いてもらう必要がある。

本稿ではこうした議論を背景に、人格であることは同時に自律的人格を意味するのかという問いに取り組む。もしこの時点ですでに本稿の問いに違和感を覚える人がいれば、その人は場合によっては「人格とは自律的である」ということを出発点に据えているのかもしれない。

「人格とは自律的である」という表現には、日本語としてかなり違和感がある。「ある存在者が人格であるということは、その存在者は自律的であるということを意味する」ということだろうか。

しかしながらこうした人格概念理解は、二つの点で問題がある。第一に、この理解では人格の下したあらゆる決定が自律的と見なされることになり、こうした帰結はとりわけ終末期における死のあり方をめぐる議論を念頭に置いた場合、受け入れ難い。というのも、医師による自殺幇助や要求に基づいて殺すことの容認派の論拠である自律の尊重原理に従えば、もし私が人格であるだけではなく、同時につねに自律的人格であるならば、私が不自然なほど唐突に要求に基づいて殺すことという死のあり方を望んだとしても、その決定は道徳的に容認されることになってしまうからである。

「人格(人)は自律的である」ということがどういうことなのか説明されていないので理解できない。人間の成人は多くの場合自律的であるとみされるが、これはその人が、(いろんなことがらについて)あるていど十分な判断能力があり、また自分の判断にしたがって行為できる、ということを指しているはずだ。

しかし、こういう意味で人間あるいは人が自律的だからといって、「あらゆる決定が自律的である」とみなさねばならないわけではない。私が寝ぼけてるとき、あるいは酒に酔っ払ってるとき、あるいはなんか嫌なことがあってイライラしているときに下した判断は必ずしも十分理性的でもなければ自律的でもない場合がある。「常に自律的」であるような人物など現実には存在しないだろう。それなのに、「人格を自律的だと考えると、常に当人が望む死や自殺幇助を受け入れるべきだ」と考えるのはあまりにも馬鹿げている。

シンガーの議論

認められるのかである。第一の問いに対してシンガーは、ある存在が生物学的に人間という種に属するという理由から、その存在の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできないと断言する。そうした人間的存在とは、例えば胎児などが該当する。

非常にこまかい話だけど、この表現はすこしよくない。できれば「ある存在者が生物学的にホモサピエンスという種に属するという理由だけでは、その存在者の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできない」の方がよい。(1) こういう文脈では、「存在」よりは「存在者」の方がはっきりしている。「生命個体」みたいなのでもいいかもしれない。(2) 「人間」huma beingsがホモサピエンスという種のメンバーだけを指すのか、そうでないのかが明白でない。(3) 「Aという理由からBできない」というタイプの表現は(慣れない読者には)誤読の可能性がある。「AだからBできないのだな」と呼んでしまう人がいる。「「AだからB」というわけにはいきませんよ」というのをはっきり示したい。

シンガーから見ると、人間という生物学的事実に依拠して人間に高い価値を与えるのは、種差別主義にほかならないのである。

これもOKではあるが、誤解を招きやすい。人間であるという生物学的事実が、なんらかの種類の規範的な判断にむすびつくならば、人間に高い道徳的地位を与えることには問題がない。たとえば、人間は高度な判断力をもっているという事実と、高度な判断力をもつ存在者はそうでない存在者とは違った特別な道徳的地位をもつという規範的判断が存在すれば、「人間であるという生物学的事実に依拠して」人間に特別な道徳的地位を与えることは問題がない。誤解のないように表現するとすれば、「その存在者がホモサピエンス個体であるという単なる生物学的事実だけに依拠して特別な道徳的地位を与えるのは〜」のような形になる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。

まあこれはこれでOK。人間の多くは(まずまず)自律的であり、その意味で人格であると呼ばれる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。しかしここでの問題は、「人格は自律的である」という言明から、すべての人格が自律的であるという命題を導き出すことができないということである。なぜなら、特殊から普遍を導くのは誤謬推理だからである。

これはそのとおり。しかし表現がわるい。「ある人格(人)が自律的である」から「すべての人格が自律的である」はいえない、と表現してほしい。

「自律」が意味するのは、選択し自分で決断をなし、それにしがたって行為する能力である。理性的で自己意識を持った存在〔人格〕は、 おそらく (presumably) この能力を持っている。
〔〕ならびに傍点は引用者による。

(江口が傍点を下線にした。原文は ‘Autonomy’ here refers to the capacity to choose and to act on one’s own decisions. Rational and self-aware beings presumably have this capacity,……. (Singer. Practical Ethics (p.84))

……注目すべきは、引用にある「おそらく」という副詞である。特定の人間が人格であり、自律的であるという見解は、広く共有されている。例えばそうした人間的存在者としては、シンガー自身が該当するだろう。シンガーがこうした明白な事例を念頭においていたならば、彼は「おそらく」という副詞を用いなかったはずである。しかしよく知られているように、シンガーはチンパンジーをも人格と理解している。そうであるからこそ、彼は「おそらく」という副詞を使用せざるを得ないのである。なぜなら、チンパンジーを人格と見なすという見解が受け入れ可能であったとしても、同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。

いきなりチンパンジーがでてきたので驚いた。このpresumablyがなぜ必要なのかというのは別の説明がある。

presumeというのは、はっきりと真であるとはまだわかっていないけど、だいたい真であると推定する、ぐらいの意味。presumptionとかっていうのは推定、想定ですわね。十分な証拠はないかもしれないけど、とりあえずそうだということにしておこう、ぐらい。たとえば、結婚しているときに子どもができたら、それは結婚している男性の子どもだと推定しておこう、ぐらい。合理的で自己意識をもっている存在者は、必ずそうだとはいえないかもしれないし、場合によってはそうない場合もあるかもしれないけど、だいたい自分で決定し、その決定にしたがって行為する能力をもっていると想定しましょう、ということだ。チンパンジーは必要ない。

まあもちろんチンパンジーも、少なくとも3歳児程度には、十分合理的で自己意識をもち、自分で決定しそれにもとづいて行為する能力をもっているかもしれないけど、それはここでは関係ない。

同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。引用文にある人格という用語から特定の人格(チンパンジー)を除外させることなく、かつ日常的直観との乖離を無視することもできなかったがゆえに、シンガーは「おそらく」という副詞を付加したと考えられる。すなわち、シンガーは自律的であり、チンパンジーもおそらく自律的なのである。このことから帰結するのは、シンガーがあらゆる人格を自律的人格と理解しているということである。

瀬川先生は「シンガーはチンパンジーをひいきしたいがために「おそらく」といれたのだ、みたいな読みをしたいのかもしれないけど、優秀な哲学の議論はそういうふうにはなってない。へんな意図や陰謀みたいなものを想定しそうになってしまったら、まずはまわりの人と議論してみるのがよいだろうと思うのです。

そして最後のシンガーが「あらゆる人格を自律的人格と理解している」も理解できない、おそらくまちがっている。我々は人格と呼ばれるけど、一時的に合理的でなかったり自己意識をもっていなかったり、まともな判断ができなかったり自律的でなかったりする場合はよくある。そんな当たり前のことをふつうの哲学者がわからないはずがないじゃないですか。もっとふつうに議論しましょうよ。

あと、この論文も翻訳あるものはちゃんと文献リストにあげてほしい。シンガーの『実践の倫理』の第3版は翻訳ないけど、第2版のならあるし、該当箇所は同じなので一応言及してあげてほしい。剽窃とかそういう問題ではなく、読者へのサービスとして。もちろんそういうのは手間かかることだからいつもいつもできるわけじゃないけど、もっと翻訳してくれた人に感謝示すような文化つくりましょうよ。

 

パーソン論よくある誤解:「人格」とパーソナリティ

長年苦しんでいた分担翻訳がとにもかくにも出版されて、やっと、ずっとどうにもならなかった締切から解放された感じで、これからは好きなことをしていきたい。しかし浦島太郎状態。生物学的にお陀仏になる前に、いくつかやっておきたいことがあるんですが、その一つは生命倫理、特にパーソン論まわりよね、ってなわけで最近の国内論文ちょっと見てたんですが、色々困惑してしまう。

たとえば日本生命倫理学会の雑誌『生命倫理』第28巻の瀬川真吾先生の「生命医療倫理学における人格概念の限界とその有用性」、混乱してしまって2、3日ずっと、自分がなぜ理解できないのか考えてしまってました。

論文お作法の問題

まず一般的なお作法として、次のような注文がある。

  • ジープ、ビルンバッハー、クヴァンテといった論者の著作が参照されているが、 翻訳のあるものはそれにも言及してほしい 。もちろん翻訳は一切見なかったというのであれば言及の必要はないし、また言及困難だろうからその必要はない。
  • 参照文献の指示をいわゆるauthor-yearでおこなうならば、 文献リストはアルファベット順にしてほしい 。そうでないとauthor-yearの意味がない。
  • また、後注にまわさずとも文中ですませてもよいのではないか。後注は煩雑になる。

これは著者というよりは、査読方針と査読者の問題ですね。雑誌の編集方針もあるんで微妙なんですが、私日本の生命倫理業界がお作法できてないのとても気になるのです。

マイケル・トゥーリーの主張の理解

……マイケル・トゥーリーは、異なった時点と地点において自己自身を自己自身として把握するというロックの人格概念に立ち返ることで、生後12週目までの新生児は人格ではないというテーゼを立て、あらゆる中絶を道徳的に容認可能なものと見なす (p.23)

上はOKだとしても、

  「特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(トゥーリー)」 (p.23)

は言いすぎではないだろうか。トゥーリーは、ヒト胚や脳死者には生命に対する重大な権利をみとめなくても問題はないと考えているかもしれないが、いかなる道徳的地位も認めないかどうかはよくわからない。また「人間的存在」ということで何を意味しているのか読者にはわからない。「人間の遺伝子をもった個体」ぐらいだと思うが、説明が必要。

ちなみに、このトゥーリーに対する注(4)はTooley 1983とされているだけで、ページがついていない(他はついていることがおおい)。300ページもある本から典拠確認するのはとても大変というか無理なので、ページとはいかないまでも(最近は電子書籍も多いし)章ぐらいは指示してほしい

「カントやロックの人格概念は、生物学的な意味で人間であることと認知的な意味で人格であることを明確に区別し」(p.23)

「認知的な意味で人格」はよくわからない。生命倫理学で人格(パーソン)についての議論がなされる場合は、生物学的な意味のパーソンと、規範的/道徳的/法的な意味のパーソンを区別するのだが、認知的な意味とはなんだろうか。この「認知的」は「感情的」「意思的/欲求的」などと対立される意味ではないだろう。「認知能力の意味での人格」も奇妙だと思う。

ふつうの解釈をすれば、生物学的な「人間(ヒト)」と、道徳的・法的な意味での「人格」を区別し、道徳的・法的な意味での人格を、主として認知的な能力によって特徴づける、ぐらい。

。しかし定言的にあらゆる人間的存在に同等の道徳的地位を認める(……)、あるいは特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(……)というのは、生命の初期段階にある人間的存在に対する日常理解と両立しないだけではなく、そうした存在の道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げているという意味で不適切なのである。(p.23)

細かいが、この文章はわかりにくい。胚に成人と同様の道徳的地位を認めるのも、あるいは認めないのも、それは論者の立場によるだろう。瀬川先生はそれが(われわれの)「日常的な理解」と両立しないと指摘するわけだけど、これも「だからどうした」といわれる可能性がある。まあ日常的な理解がそのまま使えるならば最初から中絶やヒト胚の実験利用などの倫理的問題は存在しないかもしれないし。さらに、「道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げている」というのもよくわからない。もっとぶちゃけて書けば、「ヒト胚に成人と同様の道徳的地位を認めたり、あるいはまったく道徳的地位を認めなかったりすると、議論しにくい」ということになるんだろうけど、これは論点先取の誤謬推理になっていると思う。最初から「ヒト胚や脳死者には微妙な道徳的地位を割り当てたい」という前提があるとしか思えない。

現代倫理学にとっておそらくもっとも根本的な問いとは、「当事者」の主観的な感覚ないし欲求だけが正しい行為のために重要なものなのかどうかである(p.24)

これはジープの文章なので瀬川先生に責任はないが、「正しい行為」が誰の正しい行為であるか、また誰にとって正しい行為であるかが不明。まあたとえば、「行為者や被行為者の感覚、欲求、主観的経験だけによって、ある行為の正しさが判断されるのか、それ以外の要素も重要なのか」とかそういう問いだと思う。しかしこうして書いてしまうと、行為者や被行為者の感覚や欲求などの主観 だけ が重要だなんて主張する倫理学者がいるとは思えませんよね。

第1節と第2節のあらまし

第1節ではジープ先生が人格(人)であるかどうかを、有か無か、ゼロかイチかの観念としてとらえないで、発展的段階・衰退的段階をもつものとして扱おうとしたという話だと思う。まあ人かそれ以外(物)か、みたいな発想にはどっかおかしいところがあるかもしれないので、これはこれでありの立場だと思う。

第2節ではビルンバッハー先生が「人格」(人)という概念使うのはもうやめてしまおうって主張している(らしい)ことの紹介で、まあこれもありの立場だと思う。ジープ先生のもビルンバッハー先生のも、80年代〜90年代前半くらいの英語圏の生命倫理学の議論ならごくふつうの立場ですね。

第2節の細かいところ

第2節の方の議論はちょっと問題があるので、詳しく見る。

中絶をめぐる議論における人格概念の争点は、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格であるのかという問いにおいて先鋭化する。ビルンバッハーは、この問いを肯定する立場を「同等説」、それを否定する立場を「非同等説」と呼ぶ。

ここまではOK。

同等説によれば、人間と人格の概念は外延的に一致し、あらゆる道徳的権利を有する人格だけが道徳的な保護対象であるとされる。そこでのジレンマは、胎児のみならず、もっとも初期段階における受精卵にも成人と同等の道徳的権利が認められねばならず、例えばそれらの存在と母親の生命との比較考慮といった可能性が例外なく閉ざされることである(同等説のジレンマ)。

「ジレンマ」の意味がおかしいと思う。ジレンマというのは、AかBかの選択肢があり、そのどちらをとっても受け入れがたい帰結がある選択や論法を言うと思う。「受け入れがたい帰結」はジレンマそのものじゃないので、普通は「受け入れがたい帰結の一つは〜」とか、「ジレンマの一方のツノ(horn)は〜」とか表現するものだと思う。

んで、人間と人格(人)の外延は同じである、人間はすべて人格であり、人格はすべて人間である、と考えると受け入れがたい帰結が存在するだろうか?瀬川先生はそう考えると、妊娠中絶が全部禁止されるから困る、と言いたいようだけど、妊娠中絶反対派はまさにそう考えているのでなにも困らない。

非同等説は、人間と人格という概念を外延的に異なるとものと見なす。ここでのジレンマは、人格性を満たしていないであろう胎児や新生児に、いかなる道徳的権利も認められないという事態である( 非同等説のジレンマ)。

こっちのジレンマの角については、上の角の説明より、さらに問題が大きい。ある存在者が人格(人)でないからといって、「いかなる」道徳的権利も認められないということにはならない。たとえば私は(トゥーリーと同じように)、子猫は人間の単なる楽しみのために痛めつけられない権利があると考える(つまり、私は人間は単なる楽しみのために子猫を痛めつけるべきではないと考えている)。ある存在者が人格でないならば、人格と同じような道徳的権利はもたないかもしれないが、もつかもしれない。これはそれぞれの道徳的権利の根拠がどのようなものであるかに依存するのであり、人格かそうでないかによって自動的に決まるようなものではない。

同等説と非同等説

ビルンバッハーは、同等説と非同等説のジレンマを回避する上で人格概念が寄与しないことを論じることで、自らのテーゼを基礎付けようとする。

もうすこしおつきあいして細かく見ていく。

ビルンバッハーにしたがえば、ジレンマを解消するために同等説は、認知能力の基準からすれば現時点では人格とは見なされない人間を、すでに人格性を満たした人間が人格として知覚し承認することで物としてではなく、人格として扱われるのであるという戦略を展開した(「再構成主義的戦略」)。

まあこれは昔からエンゲルハート先生とかやってるやつですね。しかし、これ「同等説が〜という戦略を展開した」ってのは非常に奇妙で、なんでそんな「説」が戦略を展開したりできるんでしょうか。戦略を展開できるのはあくまで論者なのではないか。

それゆえ同等説の枠組みでは、胎児のような人間的存在が実際に人格であるのかという存在論的な事実をめぐる論争はもはや生じない。しかしビルンバッハーが指摘するように、再構成主義的戦略はジレンマを回避する上で三つの点で不十分である。

「存在論的事実」みたいな語句の説明がそれ以前には行われてないと思う。

第一にこの戦略は、いわゆる限界事例[に?]おける人間が存在論的にも人格であるという同等説のもっとも基礎的な主張と矛盾する。

「存在論的にも人格である」に目をつぶるとして、この論点は、上の「説」と「論者」を混同することから来ている問題 だと思う。たしかにあるタイプのヒト(人間的存在)を人格(人)だとみなさないのであれば、それはもう「同等説」ではない。しかしそんなことを言ってどうなるのだ。

第二に、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格として知覚され承認されるという想定は、例えば現象的に私たちとは似ているとは言いがたい受精卵といった限界事例にも妥当するのかは疑わしい。

「知覚され承認される」の「承認する」の方はともかく、「知覚」の方は必要なのだろうか。「それが人に見える」ということから、「人として承認する」という形になっているのだろうか。「現象的」もわかりにくいが、とりあえず胚や胎児は人間には似ていないので人格(人)ではないとすることができるのだろうか。タコのような姿だが知的で友好的な火星人がいたら、彼らも現象的には人間に似ていないので人格ではないということになるだろうか。どういう姿をしているか知らないが、天使というものが存在するとしたら、彼らは人格はないのだろうか。

第三にこの戦略は、その戦略の支持者同士で広く共有されている前提を、それを支持しない者に適用することができない。同等説が人格だけを道徳的権利の担い手とし、人間と人格の外延の一致という枠組みを維持する限り、同等説はジレンマを回避することができない。ビルンバッハーは、まさに人格概念こそが、ジレンマの回避を妨げる原因であると診断する。

一般に、議論上のどういう戦略であれ、議論の前提をそれを支持しない人々に対して認めされるのは難しい。なぜこれが問題なのだろうか。ここらへん、ビルンバッハーと瀬川先生がなにを議論しているのか私にはわからない。

非同等説は、自らの抱えるジレンマを回避する上で人格概念が不要であるという見解を明確に打ち出す。

わからん。ビルンバッハーはそういうふうに解釈しているということか。

特定の認知能力が人格性にとって不可欠であり、人格だけが道徳的権利の保有者であるならば、人格概念は道徳的権利を認めるための閾値概念とならざるをえないがゆえに、非同等説はこの概念を放棄するのである。

わからん。「人格だけが道徳的権利の保有者」という前提はどこから来たのだろうか。「閾値概念」も内実不明。なぜ非同等説が人格という概念を捨てることになるのかまったくわからない。

したがってビルンバッハーのテーゼを見れば明らかなように、彼は非同等説の支持者の一人である。人格概念の放棄によって非同等説は、道徳的権利が人格にのみ認められるという想定から解放され、非人格を特定の道徳的権利を有する存在と捉えることが可能となる。

そもそも人格概念を放棄するというのはどういうことかわからない。「人格」という言葉をもう使わないということなのか、存在者を道徳的に地位づけるときに「人格」であるかどうかをさほど重視しないということか。おそらく後者だと思うが、それならそうとはっきり述べるべきだと思う。

しかしこうした立場からは、道徳的権利の基礎付けに関する原理的な問いが生じる。非同等説は道徳的権利の根拠を、ある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出している。それによれば、ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むからである。

そもそもこの非同等説なるものは、誰の説なのか。トゥーリー? トゥーリーの説は、道徳的権利の根拠をある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出しているのか?どこでそういうことがいわれているのか?「ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むから」といったことは一体誰が述べているのか?でたらめではないのか?

トゥーリーが(1972年の論文で)述べているのは、ある存在者が道徳的権利Xをもつ必要条件として、その存在者がXをもちたいと望むことができることが要求される、ということであり、XをもちたいからXをもつ権利が認められることになるわけではない。私はいま1億円ほしいが、1億円もっている権利をもっているわけではない(がんばって働いて1億円稼いで手に入れる権利はもっているだろうが)。多くの死刑囚はまだ生きていたいだろうが、もはやふつうの意味では生命に対する権利を持っていないと思う。

非同等説は、道徳的権利を基礎付ける上で権利とその権利に対応した能力の一致関係を前提とする。それゆえ、例えば苦痛を回避する権利は、感受能力に立ち返ることで痛みを感じる段階にまで発達した胎児や新生児にも帰属させることができる。こうした方法で生命初期における人間的存在を道徳的な保護対象と見なせるのであれば、人格概念は非同等説の陥るジレンマを回避する上でいかなる役割も果たさないということになる。

わからない。まあ人格かどうかという区別にさほど重要性を認めないでも倫理学理論はうまくいくと思われるが、それが「人格概念を放棄する」ということなのだろうか。別に放棄しなくてもいいのではないか。

第3節

私が読みとれたあらすじは次のようになる。ビルンバッハーのように、生命倫理学の規範的な議論において「人格かそうではないか」をさほど重視しない立場があり、ビルンバッハー実際に「放棄する」と言っているが、「人格」という言葉や概念がまだ重要な生命倫理学の領域がある。それが「臨死介助」の問題だということらしい。臨死介助というのは、国内では一般に消極的/積極的な「安楽死」とかそういうふうに呼ばれてる分野で、まあ本人が望んでいるときに、延命治療を控えたり、薬剤によって死ぬのを早めたりするのをさす。そうした臨死介助なるものが常に不正だとかってことにはならないし、場合よっては許されるべきだと多くの人思うと思うんだけど、本人が望んでさえいれば医療関係者がその人をさっさと死なせたりするのはやっぱりやばいわけだ。ではどういう場合に許されるか。瀬川先生によれば、ここでパーソナリティというものが大事で、パーソナリティにはある程度の一貫性が必要で、本人が望んでいても、それが過去のその人のパーソナリティにそぐわないものだったら本人のじゃないと考えていいとかそういうことを言いたいらしい。でもよくわからない。

だって、これってパーソナリティの一貫性とか、当人の意思が真正なものかとか、どういう意思を尊重するべきかとかそういう問題ではあるけど、第1節や第2節であつかっていた、ある存在者が人格であるかどうかが重要かどうかという話とはまったく関係がないですからね。

この論文も、けっきょく「人格」という多義的な語を避けて、「人」とか「パーソナリティ」という語だけをもちいればこんな変な議論にはならなかったと思うのです。

昔書いた論文でも指摘しましたが、この、「ある存在者が人格(人)であるかどうか、人格は他の存在者よりも重要な道徳的地位をもつか」という道徳的地位に関する問題と、「人格の同一性とパーソナリティはどういう関係にあるか」という問題は、まったく無関係とはいえないまでもあんまり関係がないんだけど、ものすごく混同されやすいと思います。これはとてもよくない。

『生命倫理』は日本では権威ある雑誌で、私は載せたことないけど査読も厳しいはずなのです。どういう基準かはっきりしないけど、投稿された論文は「原著論文」と「報告論文」に分けられていて、この論文が乗った29号だと原著論文が3本、報告論文が9本、落とされてる論文もけっこうあるはず。投稿は23本だったようだ。そういうキビシイ査読くぐり抜けても、トゥーリーみたいなごく基本的な議論がちゃんと理解されていなかったり、人格(人)とパーソナリティが混同されているように見えるのは私には本当に厳しい事態に思えるのです。

とかダラダラ書いてたけど、途中でいやになってしまった。また真面目に論文書き直す必要があるのだろうか。しかし、他人の議論のあら捜しなんてのになんか学問的な意義があるとは思えない。でもいつまでも同じような誤謬っぽい議論が権威ある雑誌にのっているのも困る。どうしたらいいかわからない。

 

 

Leiter Reportsの倫理学教科書のおすすめ

おもしろいエントリだったので、コメンテイターたちがおすすめしている本のamazonへのアフィリエイトリンク貼ってみます。踏んで買ってくれると私におこづかいがはいります。コメントの内容については、まあ英語で倫理学の教科書読もうって人々だから自分で読めるっしょ。

















まあ基本的に倫理学を勉強する学部生〜院生向けなので一般には関係がないです。

翻訳があるのはレイチェルズだけのはず。これは一般の人にも読んでほしい。

んで、上のリストから私が(倫理学の学生向けに)一冊選ぶとすると……ジャジャジャジャジャジャジャッジャーン!

一等賞はなんとリチャード・ブランド先生でしたー! これはものすごく古いけどものすごくよく書けてるのでぜひ入手しておきましょう。20世紀後半の倫理学がなんでああいう感じで進んでいったのか理解できるようになります。いろんな基本的概念で困ったときも役に立つ。


あ、マッキンタイア先生のは翻訳あるわ!っていうかあんなにお世話になっているのに忘れるなんて! まあ今となってはかなり古いしあれなのでねえ。


深谷先生もお世話になったのにほんとにすみません。甲南女子大との合コンにつれていってもらえず残念でした1)先生の授業に出ると甲南女子大の学生様と合コンできるという噂だったので出席したけど、その年は体調を崩された。

References   [ + ]

1. 先生の授業に出ると甲南女子大の学生様と合コンできるという噂だったので出席したけど、その年は体調を崩された。

セックス哲学史読書案内:アリストテレス先生の友愛

アリストテレス先生は偉いのに国内では読みやすい本がそれほどない印象。

『ニコマコス倫理学』は自体新しい訳も出てよい時代になりました。


『問題集』も笑えるから読みたい。

解説書みたいなのはアームソン先生のがいいんだけど、友愛についてはあんまり触れてない。

むしろ、「友情」の方から攻めるのがいいかもしれない。藤野先生のは読み物としておもしろいので、男女の間の友情とかセフレとかパパ活とか考えたいひとはそっからどうか。

ヌスバウム先生のバトラー先生批判、全訳

柳下先生から昔彼がやっていたヌスバウムの「パロディの教授」の訳をもらったので、ここにあげておきます。著作権関係はクリアしていません。これをここにあげた点の責任は江口にあります。昔私もちょっとだけやったのですが、ちゃんとやってもらってよかった。作業の関係で強調とか落ちてるかもしれないので、あとで直します。


ザプロフェッサーオブパロディ マーサ・ヌスバウム

この文章は、Nussbaum, M. C., 1999, “The Professor of Parody,” The New Republic, February 22.を柳下実minoruyagishita@gmail.comが無許可で適当に翻訳したものである。著作権関係は処理していないので注意してほしい。本文はこちらで公開されている。途中で訳出してあるバトラーの文章の正誤はとてもあやしいので、識者のコメントを待ちます。

この記事は、『ジェンダー・トラブル』、Bodies that matter、『触発する言葉』、『権力の心的な生』のレビューである。

I

長い間、アメリカの学問に携わるフェミニストは、女性のために正義と平等を達成する実践的な闘いと密接に連帯してきた。理論家たちはフェミニスト理論のことを,紙のうえにならぶ精妙な言葉なのだ、と理解してきたわけではない.フェミニスト理論は社会変革のための提案と結びつけられていた。それゆえフェミニストの学者たちはさまざまな具体的なプロジェクトに携わってきたのである。とえば、レイプに関する法律の改革、ドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントの問題へ人びとの関心を引き付け、法的な救済策を勝ち取ること、女性の経済的〔成功の〕機会、労働条件そして教育を改善すること、女性の労働者のための妊娠に関する福祉手当を勝ち取ること、売買春における女性と女児の人身売買に運動すること、そしてレズビアンやゲイ男性の社会的政治的平等のために取り組むことである。

それどころか、一部の理論家たちは学術からまったく離れてしまい、実践的な政治の世界にすっかり居着いている。そちらの方が,こうした喫緊の問題に直接とりくめるのだ。学界に残った人びともしばしば、実践的なことにかかわっている学者であることが、体面にかかわることだと思っている。実践的なことにかかわっている学者とは、現実の女性の具体的な状況に目を向け、いつも女性の現実の身体と葛藤を認めるような仕方で論文を書く学者だ。たとえば、法的制度的変革というほんものの問題を思うことなく、キャサリン・マッキノンの著作の1ページを読める人がいるだろうか。もし、ある人がキャサリン・マッキノンの提案に同意しないのだとしたら――多くのフェミニストはマッキノンの提案に同意しないが――、彼女の論文によって提示された課題は、彼女が鮮明に描き出した問題を他の方法でどう解くのかということを模索することだ。

フェミニストたちは何が悪いのか、そして物事を良くするために何が求められているかについて、いくつかの問題では一致しない。しかしながら、すべてのフェミニストたちが同意していることもある.それは,女性をとりまく状況は不正義であり、法律と政治的措置によってそれらをより公正にすることができるということだ。ヒエラルキーと従属をわたしたちの文化に根深くはびこっていると描いたマッキノンもまた、法――レイプとセクシュアル・ハラスメントに関する国内法と国際的な人権法――を通じた変革に取り組んでおり、法を通じた変革に慎重にではあるが楽観的である。ナンシー・チョドロウは『母親業の再生産』[1]で子育てにおける抑圧的なジェンダーカテゴリーの複製のゆううつな説明を示したが、彼女でさえその状況は変革しうると論じている。これらの習慣の不幸な帰結を理解することで、男性と女性は彼らがこれ以降物事をこれまでとは、違ったやり方でおこなう、と決心することができるのだ。そして法律や制度における変革が、そのような決心を手助けしてくれるだろう。

いまでもフェミニスト理論は世界の多くの地域でこのような状態である、たとえばインドでは、学問に携わるフェミニストは自らを実践による厳しい努力に投げ込み、そしてフェミニストによる理論化は実践的なコミットメントに密接につながっている。たとえば、女性の識字率、不公平な土地所有法の改革、レイプ法の変革(今日のインドのレイプ法には、アメリカのフェミニストの第一世代が攻撃した、多くの欠点がある)、セクシュアル・ハラスメントとドメスティック・バイオレンスの問題の社会的な認知を得るための努力というコミットメントだ。これらのフェミニストたちは、自分たちが激しく不正義な現実の真っただ中で生活していることを知っている。理論的な論文を書く際にも、セミナー室の外で活動する際にも、彼女達は毎日こうした問題に取り組まなければ自尊心を保つことができないのだ。しかしながら、アメリカにおいて事情は変わってきている。そこには、新しい気がかりな傾向が見受けられる。人は新しい、そして気がかりな傾向に気づくだろう。このことはフェミニスト理論がアメリカ外の女性の闘いへ注目していないということだけではない。(この嘆かわしい特徴は,もっと以前からつねづね,最良の業績の多くにすら見受けられた。)そして〔アメリカ中心的という〕偏狭さというよりは、より油断ならない狡猾なことがアメリカの学界で顕著になっているのだ。それは、生活の具体的な側面からの、現実の女性たちの現実の状況ともっとも薄っぺらくしか関係のない言葉と象徴の政治への、実質的に完全な転向なのだ。

新しい象徴的なタイプのフェミニストの思想家はフェミニスト的に政治をおこなう方法を、高慢なほど不明瞭で、軽蔑的に抽象的な学術的な出版物の中で、ことばを転覆的に用いることだと信じているように思われる。これらの象徴的なジェスチャーというのは、信じられているところでは、それ自体が政治的抵抗の一形態なのである。そして、立法や運動などの厄介なことにはかかわらずとも、人は大胆に行為できるのだ。さらに、新しいフェミニズムはそのメンバーに大規模な社会変革の余地はほとんどなく、そしておそらくまったくないと教授するのである。わたしたちは全員、およそわたしたちのアイデンティティを女性として規定している権力の構造の囚人である。わたしたちはこうした構造を大規模に変革することは決してできず、それらから決して逃れられない。わたしたちにできるのは、せいぜいそうした権力構造のなかでなんとか空き地を見つけ、そこで発話によってこれらの構造をパロディー化し、笑いものにし、境界を踏み越えることだけだ。それゆえ象徴的で言語的な政治が実際の政治の一類型として提示されることに加えて、それだけが現実に可能な政治として残されるのである。

こうした展開は近年のフランスポストモダン思想の卓越に多くを負っている。多数のわかいフェミニストは――彼らの具体的なあれやこれらのフランスの思想家との関係はなんであれ――知識人は政治を煽動的な発話によっておこない、これこそが政治的行為の意義深い型だというフランスの観念に極端に影響されてきた。その多くの人は(正しいか間違っているかはともかく)ミシェル・フーコーの論文から、わたしたちはすべてを包み込む権力の構造の囚人であり、そして実生活の改革運動はたいてい狡猾なそして新しいかたちで権力に役立つことに終わるのだ、という宿命論的な着想を取り出すのだ。それゆえそのようなフェミニストたちは転覆的な言語の使用がいまだフェミニストの知識人にとって利用可能だという観念に慰めを見出すのである。もっと大規模でより長続きする変革の望みを奪われても、わたしたちはそれでも言語的なカテゴリーを書きかえることによって抵抗することができ、そしてそれゆえ、かろうじて、それらによって構成されている自己を書きかえることによっても抵抗することができるのだ。

一人のアメリカのフェミニストがほかのだれよりもこれらの発達をかたちづけてきた。ジュディス・バトラーは多くのわかい学者にとって、現在のフェミニズムを定義する人物のようである。哲学者として訓練を積んでいるので、彼女はしばしば(哲学者というよりも文学研究者によって)ジェンダー、権力、そして身体についての主要な思想家と目されている。フェミニストのふるぼけた政治とそれが献身してきた物質的な現実というのがいったいどうなっているのかを、知りたいと思っているので、ジュディス・バトラーの業績と影響を査定し、そして無抵抗主義と退却そっくりにみえる立場を多くの人に採らせた〔彼女の〕主張を精査するのは必然的なことに思われる。

II

バトラーの着想を把握するのは難しい、なぜならそれが何であるのかを理解するのが難しいからだ。バトラーはひじょうに頭の切れる人である。人前での議論において、彼女は明確に話すことができ、そして自分に何を言われたかを俊敏に把握する力量があることを示している。しかしながら彼女の文体は長たらしく退屈でそして不明瞭である。文中では,陰に陽に他の理論家たちが次々と引き合いに出される。しかも,その理論家たちが属する理論的伝統は多岐にわたる。フーコーを筆頭に,最近ではとくにフロイトに強く関心を寄せているほか、バトラーの著作が多く依拠する理論家には次のような人たちがいる。ルイ・アルチュセール、フランスのレズビアンの理論家モニカ・ウィティッグ、アメリカの人類学者ゲイル・ルービン、J.L. オースティン、そしてアメリカの言語哲学者ソール・クリプキである。これらの人びとは、控えめにいっても互いに見解が一致するわけではない。だから、バトラーの文章を読み始めるとすぐに問題にいきあたって当惑してしまう。これほど多くの矛盾し合った概念と学説を自説の支えに持ち出しておきながら、そうしたあからさまな矛盾を解消する方法をたいてい説明なしですませているのだから。

さらなる問題は、バトラーの無頓着な略式な参照のやり方にある。これらの思想家の着想は、門外漢の読者にわかってもらえるほどじゅうぶん詳しく解説されることもなければ(もしあなたがアルチュセールの「呼びかけ interpellation」という概念に精通していなければ、何章もさまようだろう)、多少手ほどきを受けた人でも,こうした難解な考えがそこでどう理解されているのか正確なところを説明することもない。もちろん、多くの学術的な文章はなんらかのかたちで略式に参照してすますことはある。それは特定の学説と見解の事前の知識を前提にしているのである。しかし、大陸式と英米式,どちらの哲学伝統でも、専門的な読者へ学術的な文章を書く人は自分が言及している著者たちが込み入っており、さまざまに異なる解釈がなされていることを通常は承知している。それゆえ一般的に彼らは競っているものの中で決定的な解釈を提示する責任を引き受け、そして議論によってなぜ彼らがしたようにその人物を解釈したのか、そしてなぜ彼ら自身の解釈が他の解釈より優れているのかを示す責任を引き受ける。

バトラーの著作にはこれがまったく見当たらない。相違する解釈はたんに考慮されないのだ――フーコーやフロイトの場合のように、多くの研究者に受け入れられないきわめて異論含みの解釈も、バトラーはひたすら言い立てるのだ。だから、こうして略式な参照は通常のかたちでは説明しようがないのだという結論が導かれる。通例のように、なにか深遠そうな学問的見解があればその詳細を議論したがる専門家たちを対象読者に想定して説明できないのだ。バトラーの著作は貧弱すぎて、そうした読者の要求に応えられない。バトラーの文章は現実の不正義に取り組もうと躍起になっている非学術的な読者に向けられたものではないというのは明白である。そのような読者はたんにバトラーの散文のゴテゴテしたスープに、内輪でだけわかり合っているような雰囲気に、説明に対する人名の極端な高比率ぶりに、まごつかされてしまうだろう。

それではバトラーはだれに向けて語っているのだろうか?彼女は、アルチュセールとフロイトとクリプキが実際何を言ったかということを気にかける哲学徒ではなく、また彼らのプロジェクトの性質について知らされたい、彼らの価値について説得されたいと思っているアウトサイダーにでもなく、学界のわかいフェミニスト理論家の一群に語りかけているようにみえる。この暗黙の読者はとてつもなく御しやすいと甘く見られているのだ。バトラーの文章の予言者的な声に屈従し、そして広くアピールする要素を持つ抽象性の風格に惑わされ、想像上の読者はほとんど疑問を持たず、議論も求めず、用語の明確な定義も求めない。

さらにまだ奇妙なことに、想定される読者はさまざまな問題に関するバトラーじしんの最終的な結論について気にかけないようと想定されているのだ。バトラーによるすべての本では――とくに章の最後に近い部分の文は――文の大部分が問いなのである。時には問いの予期する答えが明白なものもある。しかしたいてい物事はより明瞭でないのだ。非疑問文の文の中で、多くの文は「~と考えてみよう」もしくは「~と示唆することもできるだろう」という文で始まっているのである。こうした方法でバトラーは描写された見方を彼女が承認しているかどうかを決して読者に完全に伝えようとはしない。神秘化はヒエラルキーと同様、彼女の実践の道具であり、神秘化はほとんど明確な主張をなさないため批判を逃れる。

ふたつの代表例を引いてみよう:

主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということはどういうことを意味するか?前提とする行為と復元する行為とは同じ行為なのだろうか、それとも前提とされる権力と復元される権力の間には不連続があるのか?主体がそれ自身の従属の状態を再生産するまさにその行為においてそのことを考えてみると、主体は一時的にそれらの状態に属しており、厳密に言うと、再生の要求に属している脆弱性に基盤を置いていることを例証している。(The Psychic Life of Power: Theories in Subjection p.12)

また:

そのような問いはここでは答えることができない、しかしそれらは良心の問いにおそらく先立つ思考への道のりを示唆してくれる。その問いとは、言いかえれば、スピノザ、ニーチェ、そして最近では、ジョルジオ・アガンベンの心を奪った問いである。どのようにわたしたちは欲望を構成的な欲望として理解するのだろうか?そのような説明の中に良心と呼びかけ interpellation を位置づけなおしながら、わたしたちは他の問いを付け加えることもできる。どのようにそのような欲望は単数の法によってだけでなく、たとえば社会的で「ある」という感覚を保持するために従属に屈するというさまざまな種類の法によって搾取されるのか?

なぜバトラーはこのように厄介な、癪に障る書き方を好むのだろうか?その様式はまったく前例がないわけではない。もちろんそれらのすべてではないが大陸哲学の伝統のある領域では、対等な者同士で議論する哲学者ではなく、不幸にもしばしば曖昧さによって人を魅了する哲学者をスターとみなす傾向がある。あるアイデアが明確に述べられた時、結局のところ、その思想は著者から切り離してもかまわないものになる。人はアイデアとそれを考え付いた人を引き離して、そのアイデア自体を論議することができる。アイデアが神秘的なままであり続ける時(実際は、それらがきちんと主張されていない時)、人はそのアイデアを考え出した権威に依存したままになる。彼もしくは彼女の膨れ上がったカリスマによって、思想家は留意されるのだ。不安な状態にいて、次の動きを切望するのだ。バトラーがその「考えるための方法」に従ったら、彼女はいったい何を言うだろう?教えてくださいよ、主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということってどういう意味なんですか?(今までわたしが見たところにいると、この質問への明確な答えはいまだ現れそうもない)。人は、たいへん深淵な思索をおこなっているため、なにごとについても軽々しい表現をつかわない知識人だという印象をうける。そのためその人はその深みの畏敬のためにそれが最後にそうするために、待つのだ。

こういったやり方で、曖昧さはいかにも重要だというアウラをつくりだすのだ。それはまた他の関連する目的のためにも役立つ。曖昧さは読者をいためつける。いったい何が起こっているのかわからないのだから、読者はなにか重大なことが起こっているのにちがいない、なにかとっても複雑な思考が進行しているのだろうと思いこまされる。しかし実際には、そこにあるのはたいていはよく知られた考え、あるいは古くさい考えでしかな い。そしてそれはわれわれの理解になにか付け加えるには、あまりにもシンプルであまりにもぞんざいに述べられている。バトラーの本の痛めつけられた読者が勇敢にもそのように考えることを会得したなら、彼らはこれらの本の中の着想は薄っぺらいものであることがわかるだろう。バトラーの考えが明確に簡潔に述べられたなら、さまざまな対比や議論がなければ、それらは役立つものでないことがわかり、そしてそれらがとくに新しいものでないこともわかるだろう。それゆえ曖昧さは思考と議論の現実の複雑さの不足によって残された空虚を埋めているのだ。

昨年バトラーは、『哲学と文学』誌が後援する「今年の悪文」賞の最初の受賞者となった。受賞作を下に引こう。

資本が社会関係を比較的均一な方法で構築すると理解する構造主義の説明から、権力関係は反復、一体化、再分節に影響を受けるとするヘゲモニーの観点への移行は、時間に関する疑問を構造の思考にもたらした、そしてそれは構造的な全体性を理論的対象として扱うアルチュセールの理論のひとつの形態から、構造の偶然の可能性の洞察によって、新たにされたヘゲモニーの構想が、権力の再結合の偶然の場と戦略と密接な関係のあるものとされつつ、創始されるべつの形態への転換を特徴づけた。

さて、バトラーはこう書いてもよかった。「マルクス主義者の説明、すなわち社会関係を構築する中心的な力として資本に着目するものは、そのような権力の作動をすべての場所で均一であるかのように描いている。それに対して、アルチュセールの説明は、権力に焦点を合わせ、権力の作動を時によって移行し、変化に富むものとして把握している」と。むしろ、彼女は饒舌を好み、その饒舌は彼女の散文を判読するために読者の多大な努力を払わせ、読者を主張の正しさを判定するためにほとんど気力が残らない状態にしてしまう。受賞発表の際、機関紙の編集者は、「おそらく不安を引き起こすようなこのような記述の曖昧さが、南オレゴン大学のウォレン・ヘッジズ教授をしてジュディス・バトラーを『おそらくは地球上でもっとも頭のいい十人のうちの一人』と評せしめたのだろう」と発言している。(このように偶然にもひどい作文というのは、決してジュディス・バトラーが関わっている「クィア・セオリー」の理論家たちによくあるというわけではない。たとえば、デイビッド・ハルペリンはフーコーとカントの関係と、ギリシャの同性愛について、哲学的な明確さと、正確な歴史的事実でもって、書いている。)

バトラーは哲学者であることによって、文学研究の世界で威厳を得ている。多くの崇拝者が彼女の文章の書き方を哲学的な深淵と結びつけている。しかし人は結局のところそれが、詭弁法や修辞法という近しいが敵対する伝統よりも、ほんとうに哲学的伝統に属しているのかどうかを問うべきである。ソクラテスが雄弁家やソフィストがやっていることから、哲学を区別して以来、それはいかなる反啓蒙主義的な手先の早業を抜きにした議論と反論をやりとりする等しい人びとの談話となってきたのだ。このやり方では、ソクラテスが断固として主張するには、哲学は魂への配慮を示すのであり、一方で他の人を巧みに操る手法は、無礼を示すだけである。ある午後、長い飛行機の旅の途上、バトラーに疲れ果てて、わたしはパーソナル・アイデンティティに対するヒュームの見地に関する学生の論文草稿を見始めた。わたしはすぐにわたしの魂が復調してきたのを感じた。彼女は明確には書いていなかったが、わたしは考えた。楽しみつつ、ちょっと誇りもあった。そしてヒューム、なんと素晴らしい、なんと丁重な魂だろう。何と気立てのよく、読者の知性を配慮してくれていることだろう、みずからが確信のないことをさらすという代償さえ払っても。

III

バトラーの主要な着想は、ジェンダーは社会的な作りものであるというもので、それは1989年に『ジェンダートラブル』で最初に発表されてから彼女の本のいたるところで繰り返されている。なにが女性で、なにが男性かというわたしたちの認識は自然の中に永久に存在するなにかを反映しているということはまったくない。その代わりに、それらは権力の社会関係を埋め込んだ慣習に由来しているのだ。

もちろん、この考えには新しいことはなにもない。ジェンダーの脱自然化はとっくにプラトンにも見られ、そしてジョン・スチュアート・ミルの議論によって後押しされた。ミルは『女性の解放』(1861=1957訳)で「現在女性の本性と言われているものは、まったく人工的なものだ」と主張している。ミルは「女性の本性」に関する主張が権力のヒエラルキーに由来し、そして支えられていると考えた。女性を隷属させるのに役立つものはなんでも、女らしさとされているのだ。つまりは、ミルが言ったように、「女性の精神を隷属させる」ようになっているのだ。封建主義と同様、家族とともに、本性のレトリックは、それじたい隷属の原因として役立つ。「女性の男性への隷属は普遍的な慣習であり、それがどのような逸脱も当然のように不自然にするのだ。しかし、これまで支配力をもつ人々にとって自然に映らないような支配などといったものがあるだろうか?」

ミルは最初の社会構築主義者ではまったくないだろう。怒り、強欲、ねたみ、そして私たちの人生の他の目立った特徴についての同じような構想は、古代ギリシアからの哲学の歴史の中にありふれたものである。またミルの社会構築というよくある考えのジェンダーへの応用はさらなる豊かな発展を必要だし、いまだ必要としている。彼の示唆的な発言はジェンダーの理論にはなっていなかった。バトラーが姿を現すずっと前に、多くのフェミニストたちはこのような説明を明瞭にすることに貢献していたのだ。

1970年代から1980年代に発表した論文のなかで、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、性役割の伝統的な理解は公的領域における男性の支配に加えて、性的領域における支配をを続けることを確実にするやり方だと論じた。彼女たちはミルの洞察の核をヴィクトリア朝時代の哲学者がそれに関してほとんど言っていない生活の一領域に持ち込んだ。(もっとも何も言っていないというわけではない。1869年にミルはすでに婚姻内のレイプを刑事罰の対象にできないことは、女性を男性用のツールとし、また彼女の人間としての尊厳を否定することだと理解していた。)バトラー以前に、マッキノンとドウォーキンはフェミニストの幻想に立ち向かっており、それは女性の牧歌的な自然のセクシュアリティが「解放される」必要があるというものだった。彼らは社会的な力はとても深くいきわたっているために、わたしたちは「本性」という考えを利用できるなどと、想定してはならないと論じた。バトラー以前に、彼らは男性が支配している権力の構造は女性を周縁化し、隷属させているだけではなく、同性の関係を選びたいとしている人びとも周辺化し隷属させているのだということも強調した。マッキノンとドゥオーキンは、ゲイやレズビアンに対する差別は、よくあるヒエラルー的に秩序づけられた性役割を強制するものであることを理解していた。それゆえ彼らはゲイやレズビアンに対する差別も、性差別の一形態として把握していたのだ。

バトラー以前に、心理学者のチョドロウがどのようにジェンダー差が世代を超えて複製されているか、についての詳細で説得力のある説明をした。彼女は、こうした複製のメカニズムが遍在していることから、人工的なものなのがほぼ遍在しているのだということが理解できるようになる、と論じている。バトラー以前に、生物学者の、アン・ファウスト・スターリングは、慣習的なジェンダー差の自然さを擁護するとされている実験研究の綿密な批判を通して、社会的な権力関係が科学者の客観性を危うくしていることを示した。『ジェンダーの神話』は彼女が当時の生物学で発見したことへの適切なタイトルであった。(他の生物学者や霊長類研究者もこの企てに貢献している。)バトラー以前に、政治理論家のスーザン・モラー・オーキンは、家庭における女性のジェンダー化された宿命をつくりあげる上で、法と政治思想がどのような役割を果たしているかを探究した。そしてこのプロジェクトも、法と政治哲学で多数のフェミニストによってさらに推し進められている。バトラー以前に、ゲイル・ルービンの『女たちによる交通』での従属に関する重要な人類学的説明は、ジェンダーの社会組織と権力の非対称性の間の関係について有益な分析を提供した。

じゃあバトラーの研究はこの豊饒な論文群にいったいなにを付け足したのだろうか?『ジェンダー・トラブル』と『問題なのは身体だ』〔未邦訳〕は、生物学的な「自然な」性差の主張に対してもまったくなにも詳しい議論を含んでいないし、ジェンダー複製の機構の説明もなく、家族の法的な形成についての説明もなく、それどころか法改正の可能性については詳しくはまったくふれられていない。それでは、バトラーは、これまでのフェミニストの論文では十分になさていないような何かを提示したのだろうか?それは何だろうか?比較的独自の主張の一つは、わたしたちがジェンダー差の人工性を認識し、それらが独立した自然的な事実の表現であると考えるのを控える時、わたしたちは同時にジェンダータイプが、三つや五つやあるいは不定の多数ではよくなく、それが二つである(ふたつの生物学的な性と相関連して)ということに従わざるをえない理由など、どこにもないことを知る。バトラーはこう書いている。「構築されたジェンダーの身分が本質的に生物学的な性から根本的に独立に理論化されるのであれば、ジェンダーそれじたいは自由に浮遊するごまかしとなる」。

バトラーにとって、この主張からは、わたしたちは自由に好きなようにジェンダーをつくりかえられるのだという意味ではない。それどころか、わたしたちの自由にはきびしい制限があると彼女は考えるのだ。彼女の主張によれば、「社会の背後に手つかずの自己なるものがあって、社会をとりさってみれば、いつでも純粋無垢で解放された姿が現れるだろう」などとウブな想像をするべきではないのだ。「〔社会と〕一体化する前に自我があるわけでもなく,さまざまな力がぶつかり合うこの文化的な場に参入する前から「〔1人の人間としての〕一体性」を保持している人などいない。できるのはただ〔すでにある〕ツールをそこにある場で取り上げるしかないのだ、そして「とりあげる」その場はツールそのものによって可能にされているのだ」と。しかしながら、バトラーは、古いカテゴリーの上手なパロディーによって、わたしたちはある意味新しいカテゴリーをつくることができると主張する。それゆえ彼女のもっとも知られた着想は、パロディー的なパフォーマンスとしての政治という構想であり、それは、(きびしく制約された)自由という感覚から生じており、さらにこの感覚は、人のジェンダーについての考え方は生物学的というよりは社会的な力によって形づくられてきたのだ、ということを認めることから来ている。わたしたちは、わたしたちが生まれおちた権力の構造の反復をするよう運命づけられているが、しかし少なくともそれらを笑いものにすることはできるのだ。そして笑いものにすることのいくつかはもともとの規範への転覆的な攻撃となるのだ。

ジェンダーがパフォーマンスであるという着想はバトラーのもっとも有名な着想であり、そしてより詳しく精査するために、しばし立ち止まって、もっと詳しく検討してみる価値がある。彼女はその考えを直観的に『ジェンダー・トラブル』で導入しており、理論的にはなにも前例を引き合いに出していない。後に彼女は、彼女が演劇のようなパフォーマンスに言及していたということを否定し、そしてその代わりに彼女の考えを『言語と行為』におけるオースティンの言語行為の説明に関連づけている。オースティンが言う「遂行発話」の言語学的な範疇は、言葉の発話の一範疇で、それじたいが単独で主張ではなく行為として機能するものを指す。わたしが(適切な社会的状況で)「10ドル賭けるよ」か「ごめんなさい」か「誓います」(結婚式において)もしくは「この船に~と名づける」と発言する時、わたしは賭けること、謝罪すること、結婚すること、もしくは命名の儀式を報告しているのではなくて、それを行っているのだ。

ジェンダーについてのバトラーの同じような主張は自明のことではない、なぜなら問題となっている「遂行発話」は言語に加えてジェスチャー、服装、動き、そして行為を伴うからだ。オースティンの主張は、ある特定の種類の文のかなり専門的な分析に制限されているのだから、彼女の着想を発展させるのに実際べつだん役に立たないものだ。それどころか、彼女は彼女の見地を劇場と結び付ける読みを断固として拒絶しているとはいえ、けれどもオースティンについて考えることよりも、ジェンダーに関する「リヴィング・シアター」の転覆的な作品について考えることは、はるかに彼女の着想をはっきりさせているように見える。

またバトラーのオースティンの扱いもあまり信頼できるものではない。彼女は奇怪な主張をしている。オースティンの文章のなかで、結婚式が遂行発話の数多い例の一つとなっていることは、「社会的絆の異性愛化は、名付けるということそのものを生じさせるという言語行為の典型的形態なのである」というものである。まさか!結婚というのは、賭けること、船に名前を付けること、約束すること、謝ることと同程度にオースティンの典型例となっているにすぎない。彼はある種の発言の形式的特徴に興味を持ち、そして彼の主張にそれらの発言の内容が重要性を持つと仮定する理由はわたしたちにまったく与えられてない。哲学者のありふれた例の選択に地を揺るがすかのような重要性をみるというのはたいてい誤りなのだ。実践的三段論法の解説にアリストテレスがよく例の低脂肪食を使うからと言って、鶏肉がアリストテレスの考える美徳の中心をなしているのではないか、などと考えるべきだろうか?もしくは、ロールズが実践的推論を解説するのに旅程を持ち出しているからと言って、「これをみれば『正義論』の狙いが私たちみんなに休暇旅行を与えることにあるとわかる」などと言うべきだろうか?

これらの奇妙なことは置くとして、バトラーの主眼はおそらくこれであろう。すなわち、ジェンダー化された仕方で行為し話す時、わたしたちはたんに世界にすでに定着した物事を報告しているだけでなく、わたしたちはさかんにそれを構成し、複製し、強化しているのだ。まるで男性や女性の「本性」があるかのように振る舞うことで、わたしたちはともにこれらの本性が存在する社会的虚構をともにつくりあげているのだ。男性や女性の本性などといったものは、我らの行いを離れては存在しない。わたしたちは、つねにそれがそこに存在するようにしているのである。と同時に、少し異なるやり方でこれらのパフォーマンスを行うことによって、すなわちパロディーのやり方で行うことによって、わたしたちはおそらくほんのちょっと壊すことができるのだ。

それゆえ、ヒエラルキーによって拘束されている世界の中で、行為能力(agency)が発現できるのは、性役割が形作られる瞬間たびに、その性役割に反対する小さな機会の中だけなのだ。わたしが女性らしさを行っていると分かった時、それをひっくり返し、あざけって、ちょっと違った仕方でやることができるのだ。バトラーの見方では、そのような反応的な発されたパロディーのパフォーマンスというのは、より大きな規模なシステムを決して揺るがすことはない。彼女は抵抗のための大規模行動や政治改革のためのキャンペーンをもくろんでいない。良くわかっている、ほんの少しの演技者によって行われる個人的行為だけを見据えているのだ。まるで下手な脚本をあてられた役者が悪いセリフを奇妙に言うことによって、脚本を転覆することができるように、ジェンダーについても同じなのだ。脚本は悪いままであるが、役者にはほんの少しの自由があるのだ。それゆえ、バトラーが『触発する言葉』で言うところの「アイロニックな楽観」への基盤をもっているのだ。

ここまでのところ、バトラーの主張は、比較的ありふれたものであるのだが、もっともらしく興味深くさえある。もっとも読者は、変革の可能性についてのバトラーの狭い見方に不安になるだろうが。しかしながら、バトラーはこれらのジェンダーに関するもっともらしい主張に、二つのより強くそしてより論争的な主張を付け加える。第一は、自我をつくりだす社会的力に先だってもしくは背後に行為能力(agency)は存在しないということだ。もしこのことが赤ちゃんはジェンダー化した世界に生まれおち、その世界では瞬時に男性と女性が複製され始めるものなのだとしたら、この主張はもっともらしい、しかし驚くべきものではない。ずいぶん前から実験によって、赤ちゃんが抱かれたり話しかけられる仕方や彼らの感情が説明される仕方が、大人が信じている赤ちゃんの生物学的性によって形作られている、示している。(同じ赤ちゃんが、男の子だと大人によって信じられた時は、弾むようにあやされ、女の子だと大人によって信じられた時は、抱きしめられる。赤ちゃんが泣いている時、女の子だと考えられているときは、怖がっているのだと説明され、男の子だと考えられているときは、怒っているのだと説明される。)バトラーはこれらの経験的な事実にまったく興味を示さない、が経験的な事実は彼女の主張を擁護するのだが。

しかし、もし赤ちゃんが、まったく自力で活動できなず、ジェンダー化された社会での赤ちゃんの経験にある意味で先行する傾向も、能力もなにも持たばない状態で生まれて来るということを、彼女が意味しているのであれば、これはまったくもっともらしいことでなく、経験的に裏付けることは難しい。バトラーはそのような裏付けを与えず、形而上学的抽象の高みから降りてこようとはしないのだ。(それどころか、彼女は最近のフロイトに関する論文でこうした考えを否定さえしているようである。フロイトを用いて、最低限ある前社会的な衝動と傾向があるということがその文章によって示唆されているが、いつも通り、この思考方針は明確に発展されていない。)さらに、そのように誇張された前文化的な行為能力(agency)の否定は、チョドロウたちが、良い方向への文化的な変化を説明しようとした時、用いたリソースの幾分かを捨て去ってしまっている。

バトラーは結局、わたしたちは行為能力(agency)の一種を持っていて、その行為能力(agency)とは変革と抵抗を行う能力なのだと言いたいはずだ。しかしながら、もし、パーソナリティーのなかに、まったく権力の生産物ではない構造などないとしたら、いったいその能力とはどこから来たのか?バトラーにとってこの質問に答えるのは不可能ではないだろう。しかし、今までのところ、人間は最低限ある前文化的な欲望――食への、快適さへの、認識の熟達への、生存への欲求――を持っており、またパーソナリティにおけるこうした構造は道徳的政治的行為能力(agency)としてのわたしたちの発達の説明に極めて重大だと信じる人びとを納得させるようなやり方では、もちろん彼女は答えていない。読者はそのような見方のもっとも強力な形態にバトラーが取り組むのを見たいと思い、そして、明確に専門用語抜きで、彼女がそれらをなぜ、どのように拒絶するのか、何を言うのか聞きたいだろう。人は現実の幼児について彼女が語ることを聞きたいだろう。幼児はその誕生から、文化の型の反復に影響を与える、奮闘の構造を明示しているように見えるのだから。

バトラーの二つ目の強力な主張は、身体それ自体、そしてとくにふたつの生物学的な性の区別もまた社会的構築なのだ、というものだ。彼女は男性と女性がどうあるべきかという社会規範によってさまざまに身体が形作られているということだけを言っているのではない。彼女は生物学的な性のふたつに分割することが基礎的であって、社会を順序立てる鍵とされているという事実自体が、身体の現実によっては与えられない社会的な考えであるということをということも言っているのだ。ではこの主張はなにを意味し、そしてどのくらいもっともらしいのか?

フーコーの両性具有研究についてバトラーが簡単に触れているところでは、人がその箱にはまろうとはまるまいと、すべての人間をこれか、その箱に分類しようという社会の心配性のこだわりをわたしたちに示してくれる。しかし、もちろん、それは多くの確定できない例があることを示しはしない。さまざまな多くの身体類型をもっていてもよかったのではないか、必ずしも男女の二分法をもっとも目立ったものとして採用する必要はなかったのではないか、と彼女が主張するのは正しい。そしてだいたいにおいて、彼女が科学的研究に則ったとされる生物学的な身体的な性差の主張は文化的偏見の投影だと主張することも正しい。しかしながら、バトラーは、ファウスト・スターリングの綿密な生物学的分析と同じくらい説得力のあるものを示せていない。

しかし、権力が身体のすべてだ、と言い切るのは単純すぎる。わたしたちは鳥の、恐竜の、ライオンの身体を持っていてもよかったかもしれない、しかし現実にはそうではない。そしてそうではないということがわたしたちの選択を形づけているのだ。文化はわたしたちの身体存在のある側面を形作ったり、また再び形作ったりすることができる。しかし、すべての側面を形作るというわけではないのだ。「飢えと渇きで苦しんでいる人に、議論と信念によってその人がそれほど苦しんでいないと思わせるのは不可能だ」と昔セクストゥス・エンピリクスが述べている。このことはフェミニズムにとっても重要な事実である。なぜなら、女性の栄養に関する需要(そして妊娠時と授乳期の特別な需要)はフェミニストの重要なトピックであるからだ。性差が問題になっている時さえ、すべてを文化だと書き捨てるのはもちろん単純が過ぎている。またフェミニストはそのようなすべてを一気に掃きすてるような身ぶりをすべきではない。たとえば、走ったりバスケットボールをしたりする女性は、男性支配による想定の産物である女性の運動能力に関する神話の打破を喜んで迎えたのは正しかった。しかし彼女たちは女性の身体に特化した研究を要求したのも正しかった。そうした研究は女性のトレーニングに関する必要と故障に関するよりよい理解を醸成してきている。要するに、フェミニズムが求めそして時々に得てきたものは身体的な差と文化的な構築の相互作用のきめこまやかな研究なのだ。そしてバトラーのすべての問題から高くとまっている抽象的な見解は、わたしたちが求めていることを一つももたらさない。

IV

ここまで見てきたバトラーのいちばん興味深い主張を、仮に受け入れたとしよう。それは、ジェンダーの社会的構造が遍在しているが、転覆的なまたパロディー的な行為によってそれに抵抗できるというものだ。しかしふたつの重要な問いが残る。なにが抵抗されるべきなのか、そしてどういう根拠で抵抗されるべきなのか?抵抗の行為というのは、いったいどのようなものなのか、そしてそれらを達成したらなにが起こると期待してよいのだろうか?

バトラーは、悪いものであって、抵抗する価値があると彼女が考えているものについていくつかの単語を使っている。例えば、「抑圧的な」もの、「従属させること」、「圧迫的な」ものである。しかし彼女は、例えば、バリー・アダムの魅力的な社会学的研究に見られるような抵抗の経験的な議論をなにも提出しない。そう、アダムが『支配の存続』(1978)〔未邦訳〕において、黒人、ユダヤ人、女性そしてゲイやレズビアンの従属と彼らを圧迫する社会権力の諸形態態と格闘する方法を探究したような論は。そしてわたしたちの手助けとなる抵抗や圧迫の概念を全く説明しないため、わたしたちはまったくもってなにに抵抗すべきなのかわからなくなる。

この点について、バトラーは彼女以前の社会構築主義のフェミニストとは、たもとを分かつことになる。初期の社会構築主義のフェミニストは、非階層性、平等、尊厳、自律、といった概念を使い、現実の政治の目標を示すために、それらの概念を手段というよりも目標として扱ったのだ。彼女はいかなる積極的な規範的考えも練り上げようとしない。それどころか、フーコーと同様バトラーは、本質的に専制的だ、という理由で人間の尊厳のような規範的概念や、人間性を目標として扱うことに断固として反対するのだ。彼女の見方では、わたしたちは、政治的な尽力に参加する人たちに「こうするべき」と規範を示すよりも、そうした政治的な尽力からおのずともたらされるものを座して待てばいい、ということになる。彼女が言うには、普遍的なそして規範的な概念は、「同じものというしるしのもとに植民地化する」のだ。

結果を座して待つという考え方――言いかえれば、この道徳的無抵抗――はバトラーにおいては、もっともなように見える。なぜなら、彼女は暗黙のうちに、なにが悪いのか――ゲイとレズビアンに対する差別、そして女性の不公平でヒエラルキー的な扱い――について(いちおう)一致し、なぜそれらが悪いのか(というようなこと)についてさえ一致する、同じ考えを持つ読者を想定しているからだ(その悪いとされる考えとは、ある人を他の人びとに従属させ、そしてその人たちが持っているべき自由を享受させないということである)。しかしこの想定をとりさってみると、規範的側面の不在は重大な問題となる。

わたしがしているように、現代の法科大学院でフーコーを教えてみればよい。そうすればすぐに、転覆というのがさまざまな形態をとることが分かるだろう。転覆のすべての形態が、バトラーとその支持者に友好的というわけではない。察しの良いリバタリアンの生徒が言ったように、「わたしはなぜこれらの着想を税制に抵抗するために、あるいは反差別法に抵抗するために、またおそらく市民ミリシアに参加することにさえも用いられないのか?」そこまで自由を好まない人は、クラスでフェミニストの発言をばかにするという転覆的なパフォーマンスを行うことができるし、レズビアンとゲイの法学生組織のポスターを引きちぎるという転覆的なパフォーマンスを行うこともできる。これらのことは実際に起こっている。それらはパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、彼らは大胆不敵で良い、というわけではないのだろうか?

さて、バトラーやフーコーには見ることのできない、それらの問いへのすばらしい答がある。こうした問いにこたえるためには、人間が持つべき自由と機会に関する議論を要し、そして、手段としてではなく目的として人間を扱うというのは、社会制度にとってどういうことなのか、ということに関する議論も要する。手短に言えば、社会正義と人間の尊厳に関する規範的な理論が議論されるべき。わたしたちの普遍的な規範に謙虚であり、圧迫された人びとの経験から学ぶべきだと言うことと、わたしたちはいかなる規範もまったく必要としない、と言うのはとてつもなくかけ離れたことである。バトラーとは違ってフーコーは、すくなくとも後期の論文においてこの問題をつかんでいた兆候を示している。そして彼の論考は、社会的な圧迫の本質とそれが与える害についての熾烈な感覚によって駆り立てられている。

考えてみてほしい、人格的な徳として理解される正義は、バトラー的な分析においてぴったりジェンダーとおなじ構造を持っている。それは生まれながらのものでも、「自然な」ものでもない。それは反復されるパフォーマンスによってつくりだされ(またはアリストテレスが言ったように、わたしたちは徳を行うことによって、徳を修得するのである)、そしてそれはわたしたちの傾向性を形作り、また一部の傾向性の抑圧を強要するのだ。これらの儀式的なパフォーマンスとそれらに付随する抑圧は社会的権力の取り決めによって施行されるのだ。遊び場を一人占めしたい子どもがすぐわかることだ。それに、正義のパロディー的な転覆は、個人的な生活でもそうであるように、政治のいたるところにある。しかし重要な違いがそこにはある。一般的にわたしたちはこのような転覆的なパフォーマンスを嫌い、そしてわたしたちは、若い人びとがそのようなシニカルな見方で正義という規範を理解するようには推奨されるべきではないと考えている。バトラーは規範としての正義の転覆が社会的な悪である一方、なぜジェンダー規範の転覆が社会的な善であるのかということを、純粋に構造的もしくは手続きに則ったやり方で説明できない。わたしたちは覚えておくべきなのだが、フーコーはホメイニを応援した、なぜいけないことがあろうか?ホメイニの革命は、もちろん抵抗であり、そしてまったくのところそのような抵抗が、市民権と市民的自由への闘争より価値がないと、われわれに告げることは、フーコーのテクストのどこにもないのだ。

それゆえ、バトラーの政治の考えの中心は、空虚がある。この空虚さは人びとを解放してくれるもののようにみえる。なぜなら、読者が暗黙のうちに人間の平等や人間の尊厳の規範的な理論によって、その空虚さを埋めるからだ。しかし間違いは一つも残さないようにしておこう。フーコー同様、バトラーにとって、転覆は転覆なのであり、そしてそれは原則としてどの方向に行くこともできるのだ。それどころか、バトラーのあまりに単純で中身のない政治は彼女が奉じているまさにその大義ゆえに、とても危険なのである。バトラーのお友だちは、抑圧的な異性愛の性的規範を公然と非難する転覆的なパフォーマンスに従事したがるが、納税順守の規範から、反差別の規範から、仲間の学生のまともな扱いから逃避する転覆的なパフォーマンスに従事したいと思っている人はバトラーのお友だち以上にもっとたくさんいるのだ。そのような人びとへ向けて、わたしたちは何が悪いかを示す、公正さ、品位、尊厳という規範があるために、単純にあなたがしたいように抵抗することはできないのだと言うべきである。しかしそれゆえに、わたしたちはそれらの規範をはっきりと表現しなければならない。そしてこれがバトラーが拒否しているものなのだ。

V

バトラーが転覆を勧める時、正確にはいったい何を提示しているのだろうか?彼女は我々にパロディー的なパフォーマンスに携わるようにと告げるが、同時に彼女は抑圧的な構造から完全に逃げるという夢はやっぱり夢なのだなのだとわたしたちに警告している。わたしたちが抵抗のためのほんのわずかの空き地を見つけなければいけないのは、抑圧的な構造の中にであり、またこの抵抗では全体的な状況の変革を望むことができないのだ。そしてここに危険な無抵抗主義がある。

もしバトラーがただ生物学的性がまったく重要な問題を生じさせない牧歌的な世界を空想する危険性を警告しているだけなのだとしたら、それは賢明なことだ。しかし頻繁に彼女はさらなる言及をする。彼女はわたしたちの社会において、レズビアンやゲイ男性の周縁化し、女性に対するいまだ途切れない不表どうを保障している制度的な構造が根本的に変化することは決してないと示唆するのである。ゆえに、わたしたちの最善の策は、それらをあざけり、そしてそれらの内部に個人的な自由を味わえるちょっとした場所を作りあげることだけなのだ。「侮辱的な名前で呼ばれて、わたしは社会的な存在になる、そしてわたしの存在にある種のさけえない愛着を抱いているがために、ある種のナルシシズムが、存在を与えてくれる言葉をすべて捉えてしまうので、わたしを社会的に構成してくれるがゆえに、わたしを傷つける用語を受け入れるようになる」と。言いかえてみよう:わたしは自分に屈辱を与える構造から逃れでるいことができない。そうしようとすれば、自分が存在しなくなってしまう。わたしができる最善のことは、からかうことであり、人を従属させようとする言葉を皮肉な仕方で使うことだ。バトラーにおいて、抵抗とはつねに個人のこと、およそ私的なことであり、皮肉などふくまない真面目な、法的、制度的変革への組織だった公的な活動はまったく含まないものとして想像されているのである。

これは、奴隷に向かって、奴隷制は決してなくなることはないが、奴隷であるあなたは奴隷制をあざけったり転覆するやり方を得ることができ、それらの綿密に制限された抵抗の行為の中で個人の自由を得ることができるというのと、似ていることではないのか?しかしながら、奴隷制は変革することができ、実際に変革されたというのが事実である。それを行った人はバトラーのような可能性の見地に立つ人ではない。奴隷制を変えることができたのは、人びとがパロディー的なパフォーマンスに満足しなかったからである。彼らは社会的な大変動を要求し、そしてある程度それを得たのである。また女性の人生を形作る制度的な構造が変化してきているというのも事実である。いまだに欠陥はあるが、レイプに関する法は少なくとも改善してきている。セクシュアル・ハラスメントに関する法は、以前は存在しなかったが、今は存在している。婚姻は、女性の身体に対する専制君主的な支配を男性にもたらすとはもはやみなされなくなった。これらのことは自分たちの解決策としてパロディー的なパフォーマンスを取らないだろうフェミニストたちによって変革されてきた。変革を成し遂げたフェミニストたちは権力が悪しきものである場合に、それは権力は正義の前に屈するべきだし、屈するであろうと考えていたのだ。

バトラーはそのような望みを控えるだけでなく、彼女はその不可能性を好むのだ。彼女はいわゆる権力の不動性を夢想することに楽しみを見出し、そして彼女はそのような状態にあるべきだと説得された奴隷の儀式的な転覆を想像する。彼女はわたしたちにこういう。わたしたちは全員、わたしたちを抑圧する権力構造をエロチックにしており、そしてそれゆえわたしたちは権力構造の中でのみ性的快楽をえることができるのだと――これらは『権力の心的な生』の中心的な主張にあるものである。これらゆえに、彼女は持続的な具体的または制度的な変革よりも、パロディー的なセクシーな転覆的行為を好んでいるようにみえる。現実の変革は、性的な満足を不可能にしてしまうほど、わたしたちの精神の根っこを掘り起こしてしまうのだ。わたしたちのリビドーは悪く隷属させる力の産物であり、それゆえ必然的に構造においてサドマゾヒスト的なのである。

さて、転覆的なパフォーマンスはそれほど悪いものでないかもしれない。もしあなたがリベラルな大学で有力な終身雇用資格を得た学者ならの話だが。しかし象徴的なものの重視、すなわち、バトラーの尊大な生活の物質面の無視が、致命的な無知になるのがこの点である。腹をすかせ、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされている女性にとって、それがどれほどパロディー的であったとしても、飢え、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされるという状況を再現することは、魅力的なことでも、解放することでもない。そのような女性は、食料、学校、投票そして、自分の身体の一体性を選ぶ。彼女らが、サドマゾヒスト的に悪い状態に戻ることを切望していると信じる理由は一つもない。もし従属・非従属関係の性的魅力なしに生きることができない個人がいるとしても、哀しいことに思えるが、それはわたしたちの関与すべき問題ではない。しかし、絶望的な状態にある女性たちに向かって有名な理論家が、人生は彼らに束縛を与えるだけであると伝えたならば、彼女は無慈悲な嘘を伝えている。邪悪さにこびへつらう嘘を伝えているのであり、その邪悪さに実際以上の権力を与えてしまっているのだ。

〔本論が書かれた当時の〕バトラーのもっとも最近の著作である『触発する言葉』では、ポルノグラフィとヘイトスピーチを含む法的論争についての彼女の分析が提出されている。その本では、正確に彼女の無抵抗主義がどこまで拡張されたのかを正確に示してくれている。なぜなら彼女は法的変革が可能で、それがすでに実際におこなわれているときに、わたしたちは法的改革がなくなるのを祈念すべきであるとすすんで言おうとするのだ。それは抑圧された人々がサドマゾヒスティックなパロディーの儀式を演ずるための空間を保持しておくために。

言論の自由に関する論考として、『触発する言葉』は良心のかけらもなく、ひどい本である。バトラーは修正第一条に関する主要な理論的説明にまったく意識を払わないし、言論の自由に関する理論が考慮すべき幅広い判例についても同様である。彼女は法的に馬鹿げた主張をする。例えば、彼女は言論において保護されないとされている唯一の言論形態は、以前から言論というよりは行為として規定されている言論だと述べている。(実際のところ、さまざまな言論があるのだ。これらの言論形態とは、嘘や誤解を招きかねない広告から、名誉毀損、そして現在わいせつなものとして規定されている表現などである。これらはそれにもかかわらず、修正第一条の保護を認められていないのだ)。バトラーは、わいせつな表現は「けんか言葉」と同等のものとして判断されてきたとさえと誤った主張をする。バトラーは、修正第一条の対象とされるべき、現在保護されていないさまざまな言論についての新しい読みを提示するが、バトラーがそれらを裏付ける主張を持っているわけではないのだ。彼女は、様々な判例があること、もしくは彼女の見地が広く受容されている法的な見地ではないということに気が付いていないだけなのだ。法に興味のある人で彼女の議論をまともに受け取る人はいないだろう。

しかしとにかくヘイトスピーチとポルノグラフィに関する議論からバトラーの立場の核を取り出してみよう。それはこうである。ヘイトスピーチとポルノグラフィの法的な禁止は、問題がある(結局、彼女は明確にそれらに反対しているというわけではないのだが)。なぜなら、そのような言論によって傷つけられた人びとが、抵抗を行うことができるような場を狭めるからというものである。このことによって、バトラーは違反が法的なシステムによって対処されるであれば、非公式的な抗議のための機会がその分少なくなると訴えているように見える。そしておそらく、違反がその違法性のために珍しくなれば、わたしたちがその存在に抗議する機会が少なくなってしまうと訴えているのだ。

さて、それはそうだろう。たしかに法律は抵抗する場を狭めることになる。ヘイトスピーチとポルノグラフィは特に込み入った主題であり、フェミニストたちが意見を異にするのは無理もない(それでも、自らの主張と対立する見地について、人は正確に述べるべきである。バトラーによるマッキノンの説明は丁寧になされているとは言い難い。バトラーはマッキノンが「ポルノ・グラフィーを禁止する条例」を支持していると言い、そしてマッキノンがはっきりと否定しているにもかかわらず、それが検閲の一形態を含むと示唆している。バトラーはマッキノンが実際に支持していることは、ポルノグラフィによって傷つけられた特定の女性たちはその製作者と、それの配給業者を訴えることができるとする、被害に対する民事賠償措置であるとどこにも書いていない)。

バトラーの論はヘイトスピーチとポルノグラフィの事例をはるかに超えた含意を持っている。それはたんにこれらの領域において無抵抗主義を支持するのではなく、より一般的な法的無抵抗主義を――それどころか、ラディカルなリバタリアニズムを――支持しているようである。つまりこういうことなのだ。すべてのものを廃止しよう。建築基準法から、反差別法から、レイプ法まで。なぜってそれらは被害を受けた借家人や差別の被害者、そしてレイプされた女性が彼らの抵抗を行うことができる空間を狭めてしまうから。さて、これは、ラディカルなリバタリアンが建築基準法や、反差別法に反対するために使う議論と同じものではない。リバタリアンでさえ、レイプ法の一歩手前で線引きをしているのだ。しかし、〔バトラーとリバタリアンの〕結論は近づいている。

もし万が一バトラーが自らの議論は言論だけに関連しているのだと返答したら(そしてバトラーが有害な言論と行為を同じものとしていることを考えてみれば、そのような制限ができるという理由はバトラーのテクストには一つもない)、わたしたちは言論の分野で返答することができる。虚偽の広告と免許なしの医療に関する助言を禁じる法律を取り除いてみよう、なぜなら害された消費者と手足を切断された患者が抵抗を行うための空間を狭めてしまうから!さて、もしバトラーがこれらの拡張を承認しないのだとしたら、彼女はこれらの事例から彼女の事例を分かつ議論をする必要があり、そして彼女の立場が彼女にそのような区別を許すかどうかは定かではない。バトラーにとって転覆の行為はとてもうっとりするもので、とてもセクシーで、世界が実際によりよくなると考えるのは、悪夢なのである。なんと平等はつまらいのだろう!拘束がなければ、喜びなどない。このように、彼女の悲観的でエロティックな人間学は道徳観念のない無政府主義の政治を擁護するだけである。

VI

バトラーの論文に固有の無抵抗主義を考慮してみると、わたしたちはフェミニストの抵抗の模範例として、ドラァグと異性装にバトラーがなぜ魅了されているのかを理解するいくつかの手がかりを得る。バトラーの信奉者は彼女のドラァグについての説明が、そのようなパフォーマンスは女性が大胆にそして転覆的になるための方法であると示唆していると理解している。わたしはバトラーによってそのような読みが拒絶されたという試みを知らない。

しかしここではいったい何が起こっているのか?男性的に装った女性というのは新しい像ではない。それどころか、男装した女性が19世紀には比較的新しかったとしても、別の意味でずいぶん古くかった。なぜならば、そうした女性はたんにレズビアンの世界において現存する男性-女性社会のステレオタイプとヒエラルキーを複製していたからだ。こう尋ねてもいいだろう。いったいこうした領域でいったいなにがパロディー的転覆になっているのか、裕福な中産階級がそれを好んで受けいれているのはどういうことなのだろうか?ドラァグにおけるヒエラルキーとははやっぱりヒエラルキーではないのか?そして支配と従属は、女性がどのような領域でも果たさなければならない役割であり、そ従属してなければ、男性的に支配しているということになる、というのは実際のところ事実なのだろうか?

手短に述べれば、女性にとって異性装は使い古されてふるぼけた脚本――バトラー自身がわたしたちに述べるように――なのである。しかし、彼女はその脚本が、異性装者の抜け目ない象徴的な衣服に関する振るまいによって、転覆的で新しくされているということを、わたしたちにわからせてくれるかもしれない。しかしわたしたちは再びその新しさと、そして転覆性さえをも疑問に思わなければならない。安全でアカデミックな快適さ態度から発言する、アンドレア・ドウォーキンによる(彼女の小説『償い』における)バトラー的でパロディー的なフェミニストのパロディーを見てみよう。

悪いことが起きたという観念は教義のプロパガンダにすぎず、女の精神を萎縮させるものである。……女性の人生を理解するためには、快 楽や(時には)苦痛、選択や(時には)拘禁の中に隠された曖昧な要素があることを、絶対に見逃してはならない。私たちは、秘められた合図を見抜く目を養わ なければならないのだ。例えば洋服を見るとしても、洋服以上の意味、現代の対人関係の装飾とか、表面的な画一性の下に隠された反逆とかの意味を見抜かなけ ればならない。犠牲者なんてものは一切存在しないのだ。

バトラーの散文にほとんど似ていない散文の中で、この文章はバトラー風の文章のいくつかの想定上の筆者の両義性を捉えている。作者は、おなかをすかせ、文字も読めず、強姦され、打たれた女性の物質的な苦しみから、彼女の理論的な目を断固としてそむける一方で、冒涜的な実践に喜びを感じる。そこに犠牲者などはいない。ただ、合図が不足しているだけである。

バトラーは彼女の読者に、この現状の狡猾なものまねが人生が提示する抵抗のための唯一の脚本だと示唆する。それは残念ながらノーである。人生は、個人生活において人間らしくある多くの他の方法を提供しているし、そして伝統的な支配と屈従の規範を超えて、人生は多くの抵抗の脚本を提示する。そしてその抵抗は、個人の自己提示に自己陶酔的に焦点を合わせるわけではない。そのような脚本は、女性がじしんの身体をどう提示するか、そして女性の身体とジェンダー化された本性がどう提示されるかといったことをそれほど重視せずに、法律や制度を形成するフェミニストを(もちろん他の人も)含む。つまり、こうした脚本には、苦しんでいる人々のために働くということが含まれているのだ。

アメリカの新しいフェミニストの理論における最大の悲劇は、公的なコミットメントの感覚が失われたことだろう。この点では、バトラーの自己陶酔のフェミニズムはひじょうにアメリカ的であり、そしてバトラーがこの国でウケていることは、驚くことではない。アメリカは、成功した中産階級の人びとは、自己を陶冶することに焦点を置きたがり、他人の物質的状況を改善するようなかたちで思考することは好まれない。しかしながら、アメリカにおいてさえ、理論家たちが公共善に献身し、そしてその努力によって何かを成し遂げることは可能なのだ。

アメリカの多くのフェミニストはなお物質的な変革を援助する形で、またもっとも抑圧されている人びとの状況に答える形で理論化を行っている。しかしながら、だんだんと学界と文化的な傾向は、バトラーとその信奉者の理論化に代表される悲観的な浅薄さへ向かっている。バトラー的なフェミニズムは、さまざまな点で古いフェミニズムより手間いらずなものである。バトラー的なフェミニズムは大勢の若い才能のある女性たちに、彼女らは法律を改正すること、腹をすかせた人に食べさせること、物質的な政治に結び付けられた理論を通して権力を攻撃することに従事しなくていいと告げる。彼女らは大学内で安全に政治を行うことができるのだ。象徴的な水準にとどまりながら、言論とジェスチャーによって権力へ転覆的なジェスチャーをすることによって。これが、バトラー的な理論が言うには、政治的行動という手段によって、わたしたちに可能なまさにほとんどすべてなのであり、そして刺激的でセクシーではないか。ささやかだが、もちろん、これが望みのある政治なのだ。それはいますぐ自らの安全を犠牲にすることなく、なにか大胆なことができるのだと人びとに教授する。しかし、その大胆さというのは、すべてジェスチャーに関することなのだ。そしてこれらの象徴的なジェスチャーというのが、社会的な変革なのだと本当に示唆する限りにおいて、バトラーの理想はニセの望みを提示するだけだ。おなかをすかせた女性はこれによって満たされるわけではない、虐待された女性はこれによって保護されるわけではない、レイプされた女性はこれによって正義を実感するのではない、そしてゲイとレズビアンはこれによって法的な保護を達成するわけではない。

最終的に、朗らかなバトラー的な試みの中心には絶望がある。大きな望み、それは法や制度が平等とすべての市民の尊厳を守る、本物の正義が達成された世界への望みは、放逐され、おそらくは性的に退屈だとしてあざけられる。ジュディス・バトラーの瀟洒な無抵抗主義はアメリカで正義を実現する難しさへの反応としては理解できる。しかし、それは悪い反応である。それは邪悪さと協働している。フェミニズムはもっと多くのものを要求するのであり、女性はもっとよい扱いを受けるにに価するのだ。

[読書案内]

  • Butler, Judith, [1990] 1999, Gender Trouble, Routledge。(=ジュディス・バトラー、1999、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社。)
  • Butler, Judith, 1993, Bodies that Matter: On the Discursive Limits of “Sex”: Routledge.
  • Butler, Judith, 1997, Excitable Speech: A Politics of the Performative: Routledge.=(ジュディス・バトラー著、2004、竹村和子訳、『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店。)
  • Butler, Judith, 1997, The Psychic Life of Power: Theories in Subjection: Stanford University Press.(=ジュディス・バトラー、2012、佐藤嘉幸・清水知子訳、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』月曜社。)
  • Chodorow, Nancy, 1978, The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender: University of California Press.(=ナンシー・チョドロウ著、1981、大塚光子・大内菅子訳、『母親業の再生産』新曜社)
  • Dworkin, Andrea, 1900, Mercy: Arrow.(=アンドレア・ドゥオーキン、1993、寺沢みづほ訳、『贖い』青土社。)
  • Fausto-Sterling, Anne, [1985]1992, Myths Of Gender: Biological Theories About Women And Men, New York: Basic Books.(=アン・ファウスト・スターリング、1990、池上千寿子・根岸悦子訳、『ジェンダーの神話―「性差の科学」の偏見とトリック』 工作舎 。)
  • Mill, John Stuart, 1869, The Subjection of Women.(=ジョン・スチュアート・ミル、1957、大内兵衛・大内節子訳、『女性の解放』岩波書店。)
  • Rawls, John, [1971]1999, A Theory of Justice Revised Edition: Harvard University Press.=(ジョン・ロールズ、2010、川本隆史・福間聡・神島裕子訳、『正義論』紀伊国屋書店。)
  • Rubin, Gayle, 1975, The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex, in Rayna Reiter, ed., Toward an Anthropology of Women, New York: Monthly Review Press; also reprinted in Second Wave: A Feminist Reader and many other collections.=(ゲイル・ルービン、2000、長原豊訳、「女たちによる交通 性の 「政治経済学」 についてのノート」『現代思想 特集=ジェンダー 表象と暴力』青土社。)

ハイト先生による強みの伸ばし方リスト

Jonathan Haidt (2002) “It’s more fun to work on strengths than weaknesses (but it may not be better for you)” (リンクはこれだけどWORDのファイルなので注意)という未刊行論文(研究発表?)の付録として掲載されている「強み」のエクササイズ(修練)のリスト。ピーターソン先生とかが参考にしたやつ。「弱み」の克服にもよいらしい。こういうのは、こうしなければならないってんではなく、自分で考えるのが楽しい。そっからはじめるための単なるトリガー。でもリスト眺めてみるとおもしろそうなのもあるわね。

  • 好奇心、世界に対する興味
  1. クラスで質問する
  2. 新しい場所を見つける
  3. 図書館の棚を見てまわる。毎日幅広い分野のおもしろそうに見える本を 手にとって、20分ざっと読む。
  4. いつもだったら試してみない新しい食べ物を食べてみる。
  5. 会合に出席する、講演を聞く
  • 学習意欲、勉強好き
  1. 毎日、京都の新しい場所を発見する
  2. いつもと違う新聞を読む
  3. 特に質問がなくても教授の研究室を訪問してみる
  4. クラスで質問する
  5. サーチエンジンで、いつもはしないような検索をしてみて、いつもは見ないようなサイトを見る
  6. 毎日、クラスの課題以外の本の1章を読む
  7. いつもおもしろいなとは思うものの、時間がなくてよく読めていない本を読む
  • 判断力、批判的思考、オープンマインド
  1. 多文化的なグループやイベントに出席する
  2. 「悪魔の代弁者」を演じることにして、自分の個人的見解と反対の立場からディスカッションに参加する
  3. 自分とはどこかちがうところのあるクラスメートや寮の知り合いといっしょにランチする
  4. いつもとは別の教会や宗教イベントに行く
  5. 毎日、自分が強く信じていることをとりあげて、それがまちがっていたらどうだろうと考えてみる
  • 創造性、創意工夫、独創性
  1. 日記をつける、絵を描く、ポエムを作る
  2. 文学雑誌や新聞に作品を投稿する
  3. ノートや部屋をデコレーションする
  4. 自分の部屋のものをひとつとりあげて、普通の使い方とは違う使い方を考えてみる
  5. 毎日1個新しい言葉をおぼえて、それを創造的に使ってみる
  6. 毎日LINEなどの自分のプロフィールを変更する
  • 社会的知性
  1. 毎日一人、知らない人にアプローチして会う
  2. ふつうはあんまり居心地がよくない集まりに顔をだして、なじむようにする
  3. 人と話をするときにはいつも、なにがその人の動機であり関心であるかを考えるようにす
  4. 一人ぼっちになっている人を見つけて仲良くなり、自分のグループに入れる
  • 視野の広さ、賢明さ
  1. 毎日一つ誰かの名言をオンラインで手に入れる
  2. 動揺している友達にアドバイスする
  3. 一番賢明な知り合いのことを考える。毎日その人のように生活してみる。
  4. 歴史上の重要人物を見つけ、当時の重要問題についての彼らの見解を学ぶ。あるいは彼らの重要な名言を学ぶ。
  • 勇敢さ
  1. (もし週間がなければ)クラスで発言する
  2. ピアプレッシャー(回りからの圧力)や社会規範に背くことをする
  3. 意見が違っていても、誰かのために立ちあがって主張する
  4. 誰かを外出かダンスに誘う
  5. クラスで隣りになった人に自己紹介する
  6. みなが好きではない考えを公言し擁護する(もしそれを信じているなら)
  • 勤勉さ、努力、忍耐力
  1. 締切前に仕事をおわらせる。
  2. 一つのタスクをやめたいという自分の考えに注意し、それを無視する。手元のタスクに集中する。
  3. 授業中ぼーっと夢想したり気が散ったりするのに抵抗する
  4. 前もって計画する:課題やテストのためカレンダーを使う
  5. 高い目標を設定すし、それをがんばる(エクササイズや学習など)
  6. 朝起きたときに、次の日に延期できるがその日にやってしまいたいことのリストを作る。そしてその日のうちにやりとげる
  • 誠実さ、正直、本物、自分に忠実
  1. 友達に小さな嘘や善意の嘘をつくのをやめる(本気ではないお世辞も含めて)。もしそうした嘘をついてしまったら、すぐにそれを認めてあやまる。
  2. 自分をモニターして、嘘をつくたびにそれをリストにする(小さな嘘でも)。毎日そのリストが短くなるようにがんばる。
  3. 一日の終りに、他人に実際よりよい印象を与えようとしたり見せびらかそうとしてやったことをリストアップする。それをまたくりかえさないように決心する。
  • 熱意、集中力、エネルギー
  1. 自分がすでに所属している組織にもっと貢献できるように余計な手間をかける。
  2. 受けている授業の一つにもっと興味をもてるようにする。たとえば授業活動でボランティアで役目を引き受ける。
  3. 誰からから命じられたからではなく、自分がやりたいからという理由でなにかをする。
  4. 夜よく眠り、よい朝食をとり、日中もっとエネルギーがあるようにする
  5. 朝、なにか肉体的に元気が必要なことをする(ジョギング、腕立て伏せなど)
  • 親切、寛大、気前のよさ
  1. カフェなどでチップをはずむ 。
  2. 毎日、ランダムになにか親切なこと(シンプルでちいさなことでよい)をする。可能なら匿名でおこなう。
  3. 友達の話をよく聞く。友達の一日がどうだったかたずね、自分の一日について話すまえに実際に友達の話を聞く。
  4. 毎日違う友達にe-カードを送る
  5. 友達と外出したときに、自分が支払いをして友達におごる。
  • 愛し愛される能力
  1. 友達・恋人・兄弟・親などに、好きだと言う。
  2. 好きなひとに、その人のことを考えているというカードかeカードを送る。
  3. 好きなひとにハグしてキスする
  4. ナイスなメモを書いて、好きなひとが一日のあいだにそれを見つけられるようにする。毎日別の場所で、別の人に向けておこなう。
  • チームワーク、よき市民
  1. 福祉施設でボランティアをする。
  2. 自分が所属している組織でもうひとつ仕事を引き受ける
  3. 地面に落ちているゴミをひろう
  4. 自分たちのホールやラウンジ(みなで使う場所ならどこでも)をきれいにする。
  5. 寮などの夕食会を計画し実行する
  6. グループワークで分担の役目を果たす、ファシリテーターをする
  • 公正さ、公平さ、正義
  1. 人がその人のペースで話すのをそのままゆるしておく。判断をしないことによってオープンマインドを保つ
  2. 友達どうしの口論のときに、自分の信念にかかわらず中立をたもつ。仲裁者になる。
  3. 自分がステレオタイプや予断によって人々を扱っていることに気をつける。同じことをまたしないように決心する。
  • リーダーシップ
  1. 夜に友達や寮仲間のためになにかスペシャルなことを計画する
  2. 読書会や勉強会や自主ゼミを企画する
  • 謙虚、謙遜
  1. 1日いっぱい、自分のことは話さないでいる
  2. Dress and act modestly, so as not to attract attention to yourself.
  3. Find a way in which someone you know is better than you. Compliment him or her for it.
  • 自己コントロール、自己統制、自己規制
  1. 2時間(または適当な時間)時間を設定し、実際に静かな場所で勉強する
  2. 1週間に4日なにか運動する(まだそういう習慣がなければ)
  3. 自分の部屋を掃除する。毎日、目についたゴミを片づけること。
  4. いつもあとで食べたことを後悔するような食べ物を残して食事を終える
  5. 誰かが気にさわっても、それを気にせず、自分の人生のよい面に注目する
  6. ゴシップをしゃべらない決心をする。陰口を話したくなったら、自分の決心を思い出して、話しだすまえに止める。
  7. 夜、次の日にやることを書き出す。それをがんばってやる。
  8. なにかについて感情的になってしまったら、心を落ちつけてゆっくり問題をもういちど考えなおす
  • 注意深さ、思慮、分別、慎重
  1. 会話しているときに、なにか言うまえにもう一度考える。自分の言葉が他人に与える影響について見つもってみる。
  2. 1日に3回、「備えあれば憂いなし」「転ばぬ先の杖」について考える。自分の人生にそれをとりこむよう努力する。
  3. なにか大事なことをする決定をする前に、それについてしばらく考えて、1時間後、1日後、1年後その結果を我慢できるか考える。
  • 赦し、情け、寛大さ
  1. あなたが赦せないと 思っている人のことを考える。その人の立場から状況を考えてみる。次に、自分が悪いことをした人だったら、自分が赦してもらえると思うかを考える。
  2. 毎晩日記をつけて、自分を怒らせたひとについて、あるいは恨んでいる人について書く。恨みについて書き終ったら、その人たちを赦したくない理由を書く。さらに、その人の立場からその状況を考えて、その人を許す。
  3. 過去に自分を怒らせた人に連絡をとる。その人たちを赦していることを知らせる。あるいは、単に会話で親切な対応をするだけでもよい。
  4. 誰かがあなたが理解できないようなことをしたら、その人がそれをした意図を推測してみる。
  • 美と卓越の評価鑑賞
  1. 博物館や美術館を訪問し、美しくて自分の価値観にあった作品や展示をピックアップする。
  2. 自分の芸術作品についての思考を書き出してみる。あるいは地上で見た美しいものについて書いてみる。
  3. 友達と散歩して、目にとまったきれいなものについてコメントをする。
  4. コンサートに行き、音楽的な価値を味わいながら音を楽しむ。あるいは毎晩、自分を感動させる音楽をとりあげてヘッドホンで聞きながらそれをじっくり鑑賞してみる。あるいは友達に一番美しいと思う音楽を紹介してもらう。
  5. 日記をつける。そして毎晩、その日に見た一番美しいもの、あるいは一番精巧なものを記録する。
  6. 美しさや価値の点で自分をハッピーにしてくれるものや、身体活動、モノなどを見つける。一日のあいだそれによって自分を刺激する。
  7. 図書館で美術の本を眺める。
  • 感謝
  1. 日記をつけて、人生で感謝していることを毎日三つ記録する。
  2. 毎日、これまで当然だと思っていたことについてその人に感謝する。(たとえば校舎を掃除してくれる人達に対して)
  3. 1日のあいだに「ありがとう」と言った回数を記録する。1週間のあいだに、その数が倍になるようにトライする。
  4. 毎日親・兄弟・友達に電話して、感謝を伝える(たとえば、いまある自分にしてくれたことについて、あるいはいつもいっしょにいてくれることについて)
  5. 誰かに「サンキュー」E-カードを送る。
  6. ルームメイトや寮仲間にたいして、何かについて感謝しているというメモを残す。
  • 希望、楽観性、未来志向
  1. 日記をつけて、毎晩、その日にした長期的に自分の人生に影響しそうな決定を記録する。
  2. 悪い状況にあるときに、裏側からみて見てそれの楽観的な面を見るようにする。その時点ではひどいことに思えても、ほとんどどんな状況にもよい点を見つけることができるはずだ。
  3. 自分がこれまでにしてしまった悪い決定のリストをつくる。自分自信を赦して、人生をあともどりできないこと、現在と未来に集中するしかないことを確認する。
  4. 自分のネガティブな考えに注意する。それにポジティブな考え方で対抗する。
  5. 自分が全力をつくしたことは成功できるし成功するだろうと自分に言いきかせる。
  • 精神性、スピリチュアリティ、人生の目的、信仰
  1. 5分間、リラックスして人生の目的について考える、そして自分がどこにフィットするか考える。
  2. 5分間、自分が世界やコミュニティを改善するためになにができるか考えてみる。
  3. 宗教やスピリチュアリティの本を読む。あるいは、宗教的活動に毎日行く。
  4. さまざまな宗教を研究してみる。図書館で本を探したり、友人に信じている宗教についてたずねるとよい。
  5. 1日数分間、祈りをささげるか瞑想する。
  6. 肯定的・楽観的な名言の引用されている本を買う。毎日数行を読む。
  • ユーモア、遊び心
  1. 毎日、誰かを笑わせるか微笑ませる。
  2. ジョークを学んでそれを友達に紹介する。
  3. おかしい映画やテレビ番組を見る。
  4. マンガを読む。
  5. 手品をおぼえて、友達に見せる。

ルース・マクリン「尊厳は役に立たない概念だ」

有名論説(論文というほどのものかどうか……)。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC300789/ まあたいした内容はないんだけど、日本の「尊厳」関係の論文でもけっこうよく名前は触れられているので訳出してみました。そんなに苦労して読むもんでもないけど、国内論文で見るとなんかすごい重要で難しいもののように思われてるふうがあるから、ネットに追いておく価値あるかもしれないと思ってのこと。著作権はもちろんクリアしてなくて、こういうのって苦しいです。

尊厳は役に立たない概念

尊厳の概念なんて、人々の尊重や自律の尊重でしかない。

人間の尊厳への訴えは、医療倫理の景色を染めている。医療研究や医療実践のなんらかの特徴が人間の尊厳を毀損するとか脅かすといった主張はあちこちで見られ、特に遺伝子技術や生殖技術の発展と結びつけられることが多い。しかしそうした論難は筋の通ったものだろうか? 医療活動の倫理学的分析にとって、尊厳は役に立つ概念だろうか? 主要な事例をよく調べてみると、尊厳への訴えは他のもっと正確な観念のあいまいな言いなおしであるか、あるいは、そのトピックを理解する上でなにもつけくわえることのなり単なるスローガンである。

おそらく、尊厳に言及したものでもっとも目立つものは、国際的な人権規約のたぐいだろう。たとえば国連の世界人権宣言である。ほんの少しの例外をのぞいて、こうした国際協定は、医療措置や研究に対して向けられたものではない。主要な例外は欧州協議会の「生物学と医学のヒトへの応用における人権と人間の尊厳の保護のための協約」である。これや他の「尊厳」文書では、医療倫理学の原則である「人々の対する敬意」によって含意されるものを越える意味は含まれてしないように見える。それは、自発的で情報を与えられた上での同意を取得することの必要、機密を保護することの要求、差別的・虐待的な実践を避ける必要、などである。

尊厳への言及が現われたのは1970年代の死のプロセスについての議論のなかで、特に負担の多い生命維持医療を避けたいという欲求を巡っての議論のなかでだった。しばしば、「尊厳とともに死ぬ権利」という言葉で表現されて、この議論の進展は米国では事前指示を与える患者の権利を公的に承認する法令へとつながった。そうした法令の最初のものは、カリフォルニア州自然死法1976であり、次のような文句ではじまる。「〔カリフォルニア州〕議会は、尊厳とプライバシーを患者が期待する権利を承認し、ここに宣言する。カリフォルニア州法は、成人が書面で、終末期において、医師が生命維持措置の使用を差し控え、また撤回することをあらかじめ書面で指示する権利を承認する。」この文脈では、尊厳は自律の尊重以上のなにものでもないように思われる。

終末期医療に関連してこうした曖昧な用法が現われることへのコメントとして、米国大統領委員会は次のように言う。「「尊厳をもった死」のようなフレーズは、非常に矛盾したしかたで用いられているため、もしその意味がクリアにされたとしても、絶望的なほどぼんやりしたものになってしまっている」。

死と関連した「尊厳」のまたまったく別の用法は、医学生が新しい遺体を使って処置(ふつうは挿管技術)をおこなう練習をするときにもちだされている。医療倫理学者は、こうした教育的努力が死者の尊厳を侵害していると非難する。しかし、このシチュエーションは自律の尊重とはまったくなんの関係もない。なぜならその対象はもはや人ではなく遺体だからである。遺体がこのような仕方で試用されていると知ったら死者の親類縁者がどのように感じるかということを懸念することはもっともなことかもしれない。しかし、そうした懸念は遺体の尊厳とは何の関係もないし、関係があるのは、生きている人々の願いの尊重だけである。

ジョージ・W・ブッシュ大統領に任命された米国大統領生命倫理委員会、2002年7月に最初の報告書を提出した。そのタイトル『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、委員会の論議のなかで尊厳の概念が占める重要な地位をあらわしている。「尊厳」に対する多くの言及のうちの一つで、報告者は次のように述べている。「生まれる子どもはその親がかつてそうだったのとまったく同じようにこの世界を訪れる。それゆえ、尊厳と人間性の点で、親たちと同等なのだ」。このレポートは尊厳の分析を含まず、それが人々の尊重といった倫理的諸原則とどういう関係にあるのかについては触れていない。どういう場合に尊厳が侵害されているのかを知らせてくれる基準がなにもないので、この尊厳の概念は絶望的に曖昧である。ヒトの生殖的クローニングに反対する説得的な議論は多くあるにしても、尊厳の概念をその意味を明確にすることなしにもちだしても、それは単なるスローガンにすぎない。

スティーブン・ピンカー「「尊厳」の馬鹿らしさ」の抄訳

最近、事情でまた道徳的地位の問題いろいろ考えてます。まあ昔からことだし、なんとかしないと。「(人間の)尊厳」まわりはちょっとどうかっていう議論が多くて、毎日ものすごく苦しんでます。

ピンカー先生が2008年の大統領生命倫理委員会の「尊厳」報告書を痛烈に批判した一文は国内でも有名なんだけど、翻訳ないみたいだから、ネットのみんなで訳したんですわ。ちなみにDropbox Papersっていうのは複数人で文書いじるにに快適でおもしろいのでみんなも使ってみてください。

ピンカー先生の原文はこれ。https://newrepublic.com/article/64674/the-stupidity-dignit

大統領委員会の報告書本文はこれ。  https://bioethicsarchive.georgetown.edu/pcbe/reports/human_dignity/

ちなみにもっと有名なThe Moral Imperative for Bioethicsすでに翻訳がある

全部訳出したけど、それおおっぴらにブログに貼るわけにもいかんので、先生が「尊厳」dignityの概念を分析している部分だけね。

そこまでは生命倫理の大統領委員会がレオン・カス先生という悪によって運営されていて、そこではカトリックが〜みたいな陰謀論みたいな話をしている。まあそれもおもしろいところがあるんだけど、私はそこまでコミットできないから省略。

あらかじめ注意しておくと、尊厳っていう語は日本だけじゃなく米国でもヨーロッパでも議論されたり批判されたりしていて、さらに英語のdignityっていう言葉と、ドイツ語あたりで のWürdeって言葉は印象がちがうかもしれない。下でのピンカー先生のdignity概念批判と分析みたいなのは、英語のdignityの語感にもとづいたもので、これは王様の「威厳」みたいな「偉い」感じに近い。ドイツ語のWürdeとかはカント先生とかの影響もあって、「偉い」っていう意味とさらに人間はみんなすばらしいものだ、みたいなのがはいっているようです。だからこのピンカー先生の分析を読んで「人間の尊厳」って、おしりの方が割れる緑色の妊婦服みたいなの着せられて、お尻からファイバー入れられたりしたって別に毀損されるもんじゃないっしょ、みたいな印象をもつかもしれないけど、それはそういう事情による。ピンカー先生の「尊厳」論はちょっと狭いので日本国内ではすぐには使えないと思う。

でも尊厳は人間の知覚現象だ、みたいなのはさすが認知科学者って感じでおもしろいですわね。

このピンカー先生の論説を含む英語圏での「尊厳」をめぐるあれやこれやは、石田安実先生という方の「「 尊厳 」 概念は役に立たないか」っていう論文がよく書けてるので参照してみてください。


ピンカー「尊厳の馬鹿らしさ」抄訳

(前略)

公平のためにいっておけば、『尊厳』報告書の各論考の大部分はカトリックの教義に直接訴えるものではないし、当たり前だが議論の妥当性はその擁護者の動機や背後関係からは判断できない。 では、議論の中身だけで判断したとき、著者たちは尊厳の概念をどれくらいうまくわかりやすくしているだろうか?

彼ら自身が認める通り、それほどうまくいってはいない。 ほとんどすべての論考は、尊厳の概念が取り扱いにくく、あいまいであることを認めている。 じっさい、ほとんどすべての箇所ではっきりした矛盾が生じているのだ。 奴隷制度や退廃は道徳的に間違っている、なぜならそれらは誰かの尊厳を奪うからだと書いてある。 しかしまた、奴隷化や退廃を含む、およそ他人にできることはなんであれ当人の尊厳を奪うことができないとも書いてある。 尊厳は卓越性、努力、そして良心を反映しており、ほんの一握りのひとだけが努力と性格によって尊厳を獲得すると書いてある。それと同時に、どのような怠け者でも、邪悪なひとでも、精神的な疾患を抱えていても、誰もが完全に尊厳を持っているとも書いてある。 何人かの著者は「ジェノサイド」のカードを切って、20世紀に起きた恐怖は、ひとが尊厳を神聖不可侵なものとして保持するのをやめたときに起きたものだと主張する。 しかし、600万人のユダヤ人をガスで殺したり、ロシアの反体制派を収容所に送ったりするのがなぜ悪いのかをいうのに、「尊厳」という概念はまったく必要ない。

そうしたわけで、寄稿者の最善の努力にもかかわらず、尊厳の概念は混乱したままだ。 私の思うに、その理由は尊厳にはそれを生命倫理の基礎として用いる可能性を損なう三つの特徴を備えているからだ。

第一に、尊厳は相対的である。 尊厳の帰結が時間、場所、そして見る人によって根本的に異なっていると気づくために別に科学的または道徳的な相対主義者である必要はない。 昔はストッキングがチラッと見えるのはなにかショッキングなことだと見なされていた。 蒸し暑いに日に森の中をハイキングするのに格式ばった襟とウールの服を着ているビクトリア朝時代のひとたちの写真や、皿を持ち上げたり、子供と遊ぶのは尊厳にもとることだと考えるている数多くの社会のバラモンや家長たちを私たちは滑稽に感じる。 ヴェブレン[『有閑階級の理論』]は自らの王座を暖炉のそばから動かすのは王の尊厳にもとることだと考えていたフランス王について書いている。ある夜、家臣が姿を見せなかったせいで、その王は焼け死んでしまった。 カスはアイスクリームのコーンを舐めることが尊厳を損なう恥ずべきことだと思っている。 しかし私はそれは問題はないと思っている。

第二に、尊厳は代替可能である。 委員会とバチカンは、尊厳を神聖な価値として扱い、決して妥協しない姿勢をとっている。 じっさいには、私たちはみな、自発的に、そして繰り返し、人生のなかの他の善いことのために尊厳を放棄している。 小さな車から降りるのはみっともない undignified。 セックスをするのも尊厳を失うことだ。 警備員があなたのズボンの股に腕を突っ込むことができるようにベルトを外して両腕を広げるポーズをとるのは尊厳を失うことだ。 最も大事なのは、現代医学は侮蔑の試練の場だということだ。 この記事の読者の大半は、骨盤または直腸の検査を受けたことがあり、多くのひとはその上、大腸内視鏡検査の「喜び」も知っている。 私たちは、尊厳は人生、健康、および安全とトレードオフの関係にある些細な価値であると、自らの足(と身体の他の部分)を使って〔病院に行くことで〕何度も賛成投票をしている。

第三に、尊厳は有害でありうる。 『尊厳』の報告書に関するコメントで、Jean Bethke Elshtainは修辞的に、「人間の尊厳を否定したり、制限することでなにか良いことがあったためしはあっただろうか」と尋ねている。 この答えははっきりと「イエス」だ。 高いところから軍隊を閲兵する、肩章と勲章をつけた独裁者はみな、尊厳を誇張的に表すことを通じて尊敬を集めようとしている。 政治的、宗教的抑圧は、しばしば国家、指導者、信条の尊厳を守るために合理化されるのだ。サルマン・ラシュディへのファトワー[死刑宣告]、デンマークの風刺漫画に対する暴動、受け持ちのクラスがテディベアにムハンマドと名付けたことを理由に厳しい批判と私刑を求める群衆にさらされたスーダンの英国人教師のことを思い出してみればいい。そう、毛沢東主義下の中国の統一された国民服やタリバンのブルカのように、全体主義はしばしば尊厳について指導者が抱いている考え方を、人々に対して課すのである。

自由な社会では、国家が市民に対して尊厳について一つの考え方を押し付けることを禁じている。 民主主義の政府は、風刺家が指導者、制度、社会的な慣習を物笑いの種にすることを許している。 そして、そうした政府は「「よい人生」についてのなんらかの見解」や「自由をうまく使うことの尊厳」(どちらも委員会の報告書からの引用)を定義しようとするどんな権限も破棄するのである。 自由の代償は、私たち自身の見方では尊厳が失われているかもしれないような他人の行動に寛容であることである。私はブリトニー・スピアーズと「アメリカン・アイドル」がどこかに消えたら嬉しいが、アイスクリーム警察に逮捕されることを心配しなくて済むのであれば我慢する。 このトレードオフは、アメリカのDNAに非常にたくさんあって、文明に対するアメリカの大きな貢献の一つである。「我が国、其は汝のもの、麗しき自由の土地」[“My Country, ’Tis of Thee” の歌いだし]というわけだ。


それでは尊厳は役立たずの概念なのだろうか? 九分通りはそうだ。〔しかし〕この言葉は、限定的ではあっても、我々が道徳的に考慮すべき事柄に関するある要求を与えるような意味をひとつだけもっている。

尊厳は人間の知覚の現象である。世界からのある種のシグナルは、知覚する人の心のなかで、ある特質の帰属のトリガーとなる。図面での集中線が奥行きの知覚のてがかりになり、また二つの耳のあいだでの音の大きさの違いが音源の位置についてのてがかりになるのとちょうど同じように、別の人間のある種の特徴は、重要性(worth)を帰属させることのトリガーになるのだ。こうした特徴に含まれるのは、落ち着き、清潔さ、成熟、魅力、身体のコントロールなどだ。逆に、尊厳の知覚は知覚する人のなかにある反応をひきおこす。パンを焼く匂いがそれを食べたいおという欲求のトリガーになるように、また赤ちゃんの顔を見ることがそれを守りたいという欲求をひきおこすように、尊厳のある見かけは、尊厳を身につけた人物に対する評価と尊敬の欲求のトリガーとなる。

ここからなぜ尊厳が道徳的に意義があるのか理解できる。ある人物に、他の人物の権利と利益に対する敬意をひきおこす現象を我々は無視するべきではない、ということだ。しかしここからまた、なぜ尊厳が相対的で、代替可能で、しばしば有害であるのかも理解できる。尊厳は上辺だけのものなのだ。それはステーキではなく、それを焼く音なのだ。本そのものではなくカバーなのだ。大事なのは究極的には人物に対する尊敬であり、それを典型的にひきおこすような知覚上のシグナルではない。実際のところ、知覚と現実のあいだのギャップが、我々を尊厳原則に対して脆弱にしている。我々はもとになってはずの真価(merit)を知らずに尊厳のサインに圧倒されることがある。たとえばインチキな独裁者の尊厳のサインに。また、尊厳のサインを剥ぎとられてしまったた人の真価を認めそこなうことがある。たとえば難民生活で物乞いせざるをえない人の場合だ。

我々は、正確には尊厳のどの側面に敬意を払うべきなのだろうか? 一つには、人は一般に尊厳あるものと見られたいと思うものだということがある。したがって尊厳は人の利益の一つであり、身体的統合性や個人所有権とならぶものであり、他の人々はそれに敬意を払う必要がある。我々が他人に爪先を踏まれたくない。他人にホイールキャップを盗まれたくない。また便器に座ているときにトイレのドアを開けられたくない。この正確な意味での尊厳の価値は、生命医学にたしかにひとつの適用すべき点がある。つまり、医療措置とあいいれない場合には患者の尊厳にもっと大きな注意を払うべきだ、という点である。報告書には、現代の患者がしばしば耐えることを強制されているような回避できるはずの恥ずかしめ(たとえばおしりから開くようになっている病院のひどいスモック)についての素敵な論説がある。ペレグリノによるのものとレベッカ・レッサーによるよるもののだ。誰もこのような意味での尊厳を価値あるものとみなすことに反対などしない。そしてそれがポイントなのである。尊厳の概念が正確に特定されれば、それは論争のもとになる道徳的な難問ではなく、冷淡さや事務的な怠惰さに対抗するための世俗的な思慮の問題ということになる。そして、これはけっきょくはそう扱って欲しいと人々が願うようにその人々を扱うということになるのだから、究極的には自律の原則をまた別の仕方で応用しているにすぎないことになる。

「尊厳」に、一定の注意深い敬意を払わねばならないもう一つの理由がある。尊厳が減じらてしまうと、それは知覚する人の心を冷やかにし、人を虐待することをに対する禁止の念を緩めてしまうかもしれない。ナチスドイツでのユダヤ人たちが黄色の腕章をつけさせられたり、文化大革命のときに反体制派がグロテスクな髪型と服装をさせられたように、人々が格下げされ辱められると、その傍観者たちはさげすまれた人々を軽蔑しやすくなる。同じように、難民や囚人や他の浮浪者たちなどが、不潔な状態で生活させられるとき、それは非人間化と虐待のスパイラルのはじまりになりうる。これは有名なスタンフォードの刑務所実験で証明されたことだ。この実験では、「囚人」にわりあてられたボランティアはスモックと足枷を着用させられ、名前ではなく番号で呼ばれることになった。「刑務官」にわりあてられたボランティアは、自発的に囚人たちを痛めつけはじめた。ただしここで注意しておきたいのは、これらのケースはすべて強制を含んでいるのだが、これらもまた自律と人々に対する敬意によって排除されるものだということだ。したがって、尊厳の侵害がはっきりそれとわかる危害につながるとき、究極的にはそれを非難する根拠を与えてくれるのは、自律と人々に対する敬意なのだ。

自発的に尊厳を手放すことが、傍観者の冷淡さと第三者への危害につながる──経済学者がネガティブな外部性と呼ぶもの──ということはありえるだろうか?理論的にはイエスだ。おそらく、もし人々が自分の遺体が公の面前で冒涜されることを許すならば、それは生きている人々の身体に対する暴力を推奨することにつながるかもしれない。ひょっとすると、小人投げ(dwarf-tossing)という娯楽は、小人症の人々に対する虐待を促進するかもしれない。ひょっとすると暴力的ポルノは女性に対する暴力を促進するかもしれない。しかし、そうした仮定の話が制限的な法律を正当化するには、経験的なサポートが必要である。人間の想像力のなかでは、なんでもがあらゆるものにつながうる。教会通いをさぼることは怠惰につながる、女性に車を運転させることは性的放蕩につながる、などと。自由な社会では、不快にされた側がなにもないところから仮想的な将来の危害をおもいつくようになったというだけでは、誰かを不快にするような行為を政府が法で禁止するような権力を認めることはできない。毛沢東もサヴォナローラコットン・マザーも、人々が望むことをするように許すことが社会の崩壊につながる理由を山ほどあげることができただろう。

(後略)


ファインバーグは重要だった (3)

前のエントリなんですが、ちょっと解説しておきます。

「パーソン論は新生児や障害者殺してもかまわんとする邪悪な思想だ」みたいな批判があるわけですわ。ちょっと古いけど、さっき見てた菅野盾樹先生の「胎児の道徳的身分について」(1998)って論文ではこんな感じになってる。(たまたま見てただけで、国内の多くの生命倫理の論文はこんな感じになってる。)

何回も書いてるけどこれは誤解というかひどい言い掛かりというか、まあこういうふうに理解してはいかんのです。

理由はまさに、パーソン論というのは基本的に「生命に対する重大な権利」についての議論ではあるのですが、我々の生活では権利っていうのは道徳的生活の一部にすぎず、他にも社会的効用とか善意とか愛とかケアとか幸福とか自由とか平等とか、権利以外にもさまざまな考慮すべき事柄があるからです。権利の侵害はもちろん不正ですが、権利の侵害ではないけれども不正なこと、正当な権利の行使ではああっても望ましくないこと、などいろいろあるわです。この点は実は、国内で初めてパーソン論をとりあげた飯田亘之先生も「可能なことと望ましいこと」(『理想』第631号、1985)っていう、記念碑的論文で論じているのです。

権利っていうのは法的概念、あるいは疑似法的概念であって、われわれの道徳生活のすべてではない。ファインバーグはそこらへんよくわかっていて(っていうかファインバーグ先生ほどわかってる人はいないわけですが)、仮に胎児や新生児が生命に対する重大な権利をもっていないとしても、もっと考えるべきことはありますよ、と主張しているわけです。そしてそれは主に社会的効用だ。赤ちゃんや弱者を簡単に死なせるような社会は、その赤ちゃんや弱者たちにとっても望ましくないし、パーソンである我々自身にとっても望ましくない。だから権利もってない存在者だからといって菅野先生がいうようになんでもしてよいなんてことにはならんのです。だいたい犬猫だって好きに殺してもかまわんとかそういうことにはならんでしょ。何を言ってるのですか。

問題は非常に重篤な障害を送ることになりそうな新生児などで、これは障害や病状によっては、ひょっとすると本人が非常に苦しむ将来が予想されることがあって、こういうときに新生児の安楽死とかの問題が生じてくるわけです。ここではそうした非常に大きな苦しみをかかえた人を生みだすことが「不正」であるかどうかというファインバーグが気にしている問いをつめて考えることはできませんが、かなり重い障害を負った新生児であっても、そんな簡単に治療を差し控えようとか安楽死させようとか言えるものではない、っていうのがファインバーグ先生の結論だと思います。

このあと、もうちょっと続くんですわ。この新生児などについての議論が、中絶の議論にどういう影響があるか、という部分。

—-

人工妊娠中絶問題への含意

現実所有基準説が胎児の道徳的パーソンとしての身分の問題に対して持つ含意は単純である。胎児は、我々がさきほど生存権を所有するための必要十分条件として列挙したうちの特徴(C)を現実に持っていないため、胎児はその権利を所有していない。したがって、この基準を考えるなら、人工妊娠中絶は決して胎児の生存権に対する侵害を伴わない。そして、胎児に生まれることを許容することは、我々が*しなければならない*ことでは決してない。*そうであってしかるべき*何かではありえないのだ。

しかしだからとって、中絶は不正ではありえないということにはならない。先に見たように、新生児は現実所有基準を満してはおらず、したがって道徳的な意味でのパーソンではないとはいえ、少なくともそれがひどい異常をもっていないかぎりは、それを殺すことが不正であるという功利主義的な理由が与えられるるのである。それゆえ、胎児が生まれたときにひどい異常をもってない見込みがあれば、これと同じ理由がその発達後期の段階で胎児を中絶することに反対するものとして与えられうる。

これまで考察してきた功利主義的な理由は非常に重要であって、ことによると、こうした理由は、非パーソンであるとしても本物のパーソンに非常に類似した存在者であればいかなるものでも、それに対して暴力的・破壊的な取り扱いを禁じるに十分であるかもしれない。そうした存在者には、たとえばすでに物故した元パーソンや小さな赤ん坊だけでなく、オトナの類人猿や妊娠の最終トリセメスターのヒト胎児も含まれるかもしれない。そうした考慮事項が、ブラックマン判事がRoe v. Wade判決で多数派意見を述べたときに彼の念頭にあったのかもしれない。多数派意見によれば、胎児は殺人に関する方によって保護される法的な意味でのパーソンではないが、それでも最終トリセメスターのあいだは「国は人間の生命の潜在性における利益を促進することにおいて、中絶を規制または法によって禁止することを選択できる」とされている。「人間の生命の潜在性」に国がどのような利益をもっているにせよ、それは*現実の*人間の生命に対する敬意を維持し促進することについてもつ利益から派生したものにちがいない。我々の派生的な敬意から利益を受けるのは、潜在的なパーソンたちだけではなく、高等動物、死者、新生児、かなり発達した胎児など、本物のパーソンによく類似していて、「本物」の聖なるシンボルを与えてくれるような、すべての近似的パーソン (near-person)なのである。

こうした考慮事項に照らしてみると、先に論じたような漸進主義的アプローチの方が、道徳的な意味でのパーソン性の基準をさぐるという狭い問題設定よりも、中絶の道徳的正当化という一般的問題への回答としてはもっともらしいように思われる。もし胎児は単なる潜在的なパーソンであり今現在の生命権はもっていないとしても、また、それゆえ胎児を殺すことは殺人(ホミサイド)ではないとしても、それに潜在的パーソン性があることはそれを殺すことに反対するひとつの理由になるのであって、それはさらに、中絶が正当化されるとすれば、反対の側にもっと強い理由を要求するということになる。もしこれが正しければ、パーソン性の潜在力がより先に進めばそれだけ、それを殺すにことに対する反対意見はより厳格なものになる。すでに見たように、「権利」の他にも我々の道徳的決定に重要な考慮事項は多々存在するために、誰の権利も侵害しないとしても道徳的に不正であると判断されうる行為がありえる。そうすると、胎児を殺すことは、それが胎児の権利を侵害せず、胎児が道徳的な意味でパーソンでもなく、またけっして殺人(マーダー)ではないしても、一定の状況下では不正となりうるかもしれない。

—-

どうでしょう。権利とその担い手としてのパーソンの基準の話は重要ではあるのですが、そっからすぐに中絶はいつでもOKとか障害者は抹殺しろとかそういう話にはならんのです。生命倫理学者はもっとまじめに勉強するべきだ。

え、功利主義者のシンガーは障害新生児は安楽死させろって言ってるんじゃないの?それとこのファインバーグという人のはどういう関係なの?という人に向けてはまたそのうち書きます。

 

ファインバーグは重要だった (2)

ファインバーグ先生が「新生児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出。


(前略)

正常の新生児の殺害

現実所有基準説の提唱者たちは、この反論に対する答をもっている。彼らの信じるところでは、道徳的な意味でのパーソンの殺害(マーダー)ではないとしても、新生児殺は不正であり他の根拠から禁じられるのが適切である。この点をクリアにするために、次の二つを区別するのがよいだろう。すなわち、(1) ハンディキャップが価値ある将来の生活を不可能にするほど深刻ではないような、正常で健康な幼児や新生児を殺すケースと、(2) 重度の奇形や不治の病をもった新生児を殺す場合の二つである。

現実所有基準説の提唱者のほとんどは、第一の(正常な)ケースの新生児殺に対して強く反対する。母親が身体的に正常な自分の新生児を殺すならば、それが誰の生命権を侵害していないとしても非常に不正なことである、と彼らは主張する。正常なケースでの新生児殺を不正なものとする理由が、まさに刑法における新生児殺の禁止を正当化するものである。こうした殺害(キリング)を非難する道徳的ルールや、それを可罰にする法的ルールは、どちらも「功利主義的理由」によって支持される。つまり、いわゆる「社会的効用」あるいは「公益common good」「公共の利益 public interest」などによっているのである。自然が私たちに新生児に対する本能的なやさしさを植え付けているのはあきらかである。それは種のために非常に有用であることは明らかだ。だがそれは、我々に幼い人々を死から守って、我々の人口を維持するためだけではない。幼児はふつうは大人へと育つのであり、ベンの言葉にあるように、「もし新生児としての*彼ら*への扱いに最低限度のやさしさと考慮すら欠けていたら、後に彼らはパーソンとしてそのことに苦しむだろう」からでもある。それに付け加えて、彼らが大人になったとき、身近にいる他の人々もその仇を受け苦しむことになるだろう、と言ってもいい。よって、赤子への自発的な温かみと共感には明らかに莫大な社会的効用があり、そうした社会的に価値ある応答を弱めてしまいかねないという点から新生児殺は功利主義的根拠から道徳的な不正となる。

誰の権利も侵害しないとはいえ不正であり、禁止するのが適切な行為は、他にも例がある。例えば、おじいさんが自然死した後に、彼の遺体を切り刻んで、冬の寒い朝にその肉片をゴミ箱に捨ててしまうのは不正であろう。これが不正であるのは、*おじいさんの*権利を侵害するからではない。彼はすでに死んでおり、もはや我々と同じ種類の権利を持つことはない。事例を少し工夫して、彼は生前に死後にそうした扱いを受けることを理解しており、実際前もってそれに同意すらしていたので、おじいさんはそれをなんら気にしない、としておくこともできる。だが、もしこうした行為が禁止されていないならば、この種の行為は、生きている人々に対する我々の敬意を(こうした敬意がなければまともな社会など不可能である)、最大限強烈に脅かし打ち砕いてしまうだろう。(またこうした行為は非衛生的であるしゴミ回収業者にとってショッキングでもある――これらもさほど重要ではないにせよ、同じく功利主義的な考慮に関連している。)

重度の奇形児の殺害

一般的な功利主義的理由は、通常の(そしてあまり異常ではない)幼児のケースでの新生児殺に反対するかなり厳格な規則を支持するが、それは幼児が重度の奇形であったり重病に罹っている場合の(きわめて特殊で限定的な状況下での)新生児殺を禁止するほど十分に強いものではないかもしれない。確かに、殺人反対の規則が純粋に功利主義に基づいているなら、その規則は極度に異常な新生児に関する例外条項を持つだろう。こうした例外を認める点で、そうした〔功利主義的〕規則は、新生児に生まれながらの生存権を認めることに由来する新生児殺反対の規則とはまったく異なる。もし奇形の新生児が道徳的な意味でパーソンであるなら、彼または彼女は本稿の読者諸君と同じように、殺人禁止の規則によって保護される資格を十全に有している。もし新生児が道徳的な意味でパーソンでなければ、極端なケースでは、全体としてみれば彼を死なせることに賛成する論拠があるということになるかもしれない。道徳的な意味でのパーソン性の現実所有基準説論者は実際に、この非パーソン性がもたらす結論を、自分の見解の難点ではなくむしろ利点とみなしている。彼の見解が正しいとすれば、我々は絶望的に形成異常のある幼児を、道徳的パーソンへと成長する*前に*破壊することで、「生きるに値しない」ほど恐ろしいもっと長い人生から彼らを救うことができる。そしてこれは、彼らの権利を侵害することなく実行できるのである。

この見解にしたがえば、実際このような幼児が道徳な意味でのパーソン性に至る前に死なせ*ない*こと、そのこと自体が彼らの権利の侵害になるかもしれない。なぜなら、もしそうした子どもたちの最も基礎的な将来の利益を実現するための条件が既に破壊されていると十分に知っていながら、彼らが道徳的パーソン性に成長することを許してしまえば、我々はこれらのパーソンに対して、(パーソンとして)存在するようになる前に不正なおこないをした(wronged)ことになる。そして彼らがパーソンになった時、彼らは、自分たちは不正なおこないをされた、と主張できる(あるいは彼らの代理にそう主張されうる)。他の場所で論じたが、私はこの論点から誕生権というアイディアの大枠を提案している。もし我々が、ある胎児または新生児が誕生権を持つことがらを獲得することが不可能であると知っていながら、それにもかかわらず、彼を誕生させたら、あるいはパーソン性に到達するまで生き残らせるなら、その胎児または新生児は不正なおこないをされた(wronged)ことになり、我々は彼の権利を侵害した加害者になってしまうのである。

もちろん、なにか身体的ハンディキャップや精神的ハンディキャップを背負っているというだけで「生きるに値しない」ことになるわけではない。実際、成人にまで成長した幾人かのサリドマイド児の証言は、腕や足や完全な視力がなかったとしても、価値ある人生を送ることが(ごく特別なケアが与えられれば)可能であることを示している。だが、幸福の追求における単なる「ハンディキャップ」ではなく、幸福の追求が失敗せざるをえないことさえ保証してしまうような奇形という極端なケースもありうる。生得的に耳も聞こえず、目も見えず、部分的には麻痺していて、コンスタントに苦痛に苛まれざるをえない精神的遅れをともなった(retarded)脳損傷児は、そうしたケースかもしれない。しかしながら、新生児殺に反対する強力な一般的功利主義事由を考えると、「死ぬ権利」の立場を擁護する者は次のことを認めなければならない。疑わしきケースでは、価値ある人生が不可能であると示す立証責任は、新生児に早急かつ無痛の死を引き起こすであろう人の方にあるのだと。そして、なんらかの疑いのほとんど常に存在するものである。


ちゃんと書いてますね。つまり新生児を殺してはいけないし殺したら法で罰するべきなのは、「功利主義的理由」なのです。

これは当然で、トゥーリーやウォレンらによるパーソン論の最初から「功利主義的理由」や「親やまわりの人々の感情」などは重視されています。

ショッキングなのは、加藤先生がこの部分を読んでいなことに加え、前エントリで引用した次の部分では先生はエンゲルハートの「功利主義的理由」による「みなしパーソン」を紹介し強く批判するわけです。しかしそれならこのファインバーグのも批判するべきだったろうと思う。でもまあ当時としてはしょうがないかもしれない。

でもさらに問題がある。このファインバーグの文章の初出は1980年のはず 1)私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。 。よく批判されるエンゲールハートの議論は、オリジナルでも1986年。つまり、このファイバーグの方が先なのです。それなのに国内では、ここらへんの加藤先生や森岡正博先生がつくりあげたテンプレにしたがって、「トゥーリーがパーソン論やったけど文句がついたので、エンゲルハートが功利主義的な理由から新生児もパーソンと認めようって提案しました。でもその功利主義的発想が許せん」みたいなのがいまだに書き続けられている。

なにが問題かって? それはつまり、ここからわかることは、国内の生命倫理学者のほとんどは、このファインバーグ論文を読んでいないだけでなく、『バイオエシックスの基礎』に収められた貧弱な抄訳に何も疑問を抱かず満足し、そして先生たちが使ったテンプレのままにずーっと伝言ゲームをしているのです。そしてたしかめもせずにみんな文献リストにのっけて、さもオリジナルな発想であるかのようにしてエンゲルハートを批判しているのです。

私はこれはとてもよくないと思う。へたすると研究不正、とはいかないまでも疑問のある研究方針。前のパーソン論論文でもそういうのは批判したんですが、もう国内の学者先生はほんとうに勉強してないのです。そんな学問の世界ってある?それも人の生命を左右するような政策にもかかわるかもしれない分野ですよ? 「生命の尊重」とか言ってる人々がですよ?私は考えられない。まず学問の最低限のマナーを守るべきだ。みんな一度に滅びればいいと思います 2)私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

あとこの論文は80年代以降に問題になる「ロングフルバース/ロングフルライフ」問題の先駆けになってる重要論文ですわね。これは私も気づいていなかった。恥ずかしいです。

 

References   [ + ]

1. 私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。
2. 私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

ファインバーグは重要だった (1)

12月に学会でワークショップだかシンポだかをやろうっていう話に誘われて、またパーソン論や道徳的地位の問題を漁っているわけです。今回はそれなりに徹底的にやってここらへんのに自分のなかでケリをつけておきたい。

たいして新しいアイディアがあるわけではないので、サーベーぐらいはそこそこ徹底的にやっておきたいと思っていろいろめくっているわけです。生命倫理学の大家であり、恩師ともいえる加藤尚武先生が著作集を出していて、それもチェックしなければならない。っていうか、この問題における加藤先生の貢献は非常に大きいんですよね。

「方法としての「人格」」っていう書籍には収録してなかった論文がおさめられているので、とりあえずこれを。初出は『看護セレクト』1989ですか。見たことなかったわー。

内容はいわゆるパーソン論を紹介してその重要性を指摘するとともに批判する、というよくある形で、まあ国内テンプレ様式。でも1989年なのでテンプレにしたがったのではなく、加藤先生自身がテンプレを作ったわけです。ものすごく偉い。

この論文では主にファインバーグとエンゲルハートが紹介され論じられてるんですわ。この組み合わせはわりとめずらしくて、普通はトゥーリーとエンゲルハートなんですが、ファインバーグ先生はほんとに賢い偉い先生なんすよね。法哲学・倫理学の巨人。

んでこういうページがある。

注目してほしいのは、うしろの方の「人格・生存権という概念をもちいることなく幼児殺しを避妊する理由が何であるかをファインバーグは語らない」のところ。これ読んだとき、「ファインバーグ先生ほどの人がそんなことするかな、なんでも明晰に書く人だから」って直観的に思いました。んで当然確認。手間かかるんすよね。

このファインバーグの “Abortion” (または”The Problem of Abortion”)は、加藤先生たちの『バイオエシックスの基礎』(1988)に抄訳が収録されているんですが、あくまで抄訳で、全体の1/4もないのね。収録されているのはT. L. ReganのMatters of Life and Deathって本で、これ10年ぐらい前の例のパーソン論論文書くために入手しておいたし、抄訳がどれくらい抄訳になってるかはチェックしていたんですが、実は全体は読んでなかった。恥ずかしい。

んで発見したことはかなりショッキングだったんですわ。

ファインバーグ先生が「幼児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出したので(っていうかちょっとやって明日やろうと思って寝てたら、夜中に妖精さんがやってくれてました。ありがとう妖精さん)

前置きなのに長くなってしまったので続きます。

 

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』を図書館でふと手にとって、クジラ問題のところだけ読んでみたらいろいろ問題を感じたので、いつものように引用とメモ。

小型のクジラがイルカであるといっても誤りでなく、そのため、DNA検査によってイルカの肉かクジラの肉かをみわけることは困難である。 (p.130)

え、そうなの?意味がわからんです。DNA調べたら種の特定ぐらいはできるしょ。だから時々国内で特定種類の鯨肉(調査捕鯨などの)が流通しているって非難されるんでしょ。まあクジラとイルカは種としては近くて、人間が勝手に大きさで区別してるだけ、っていうのならわかるけど。水産庁もDNAで肉がどの種のイルカ・クジラであるか登録しろと指導しているような気がします。

[『ザ・コーヴ』制作者らの]論理破綻こそに食にまつわる問題の意味が詰っているのではないかとおもわせもする。つまり、クジラ・イルカ漁に反対するひとは、まさしくただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのではとおもうからである。(p.133、強調は原文傍点。)

こういう文章を見ると、まあなにかに反対したい人はそれに反対したいから反対しているのでそれはいいんだけど、それが「ただそれだけ」なのか、「それ以外の「意味」」はないのか、そもそも「意味」とはなにか、みたいなこと考えてしまいますね。「反対しているのはまったく勝手な感情にもとづくもので、それ以外に反対する理由や根拠ははない」みたいな文章なんだろうけど。たとえば、奴隷制度に反対しているひとも奴隷制度に反対したいから反対しているわけで、民族浄化や奴隷制度に反対したい、反対すべきだと考えているっていう以上の「意味」なんてないかもしれない。

と。んで本論に入っていくわけだけど、その前に、檜垣先生が『ザ・コーヴ』を非論理的、論理破綻、矛盾、とかなんとか何回も繰り返してディスってることに注意をうながしておきたい。ある人の主張が論理的でない場合にはそれは傷であるわけだけど、『ザ・コーヴ』はドキュメンタリー映画・広報映画であって論文ではないので、必ずしも論述の展開が「論理的」でないかもしれないわけだけど、それって映画やドキュメンタリーの欠点なんかな。もちろん映画での主張が矛盾だらけでよいということではなく、論文のような論理的構成になっていないからといってさほどせめられない、と私は言いたい。ドキュメンタリーで出てくる人々の主張はたいてい論文や書籍や他の場所での発表媒体に掲載されているわけだから、主張の論理的なよしあしを見るには映画ではなく他の媒体のものを見た方がよいのではないか、と思う。

第二に、檜垣先生は論理論理論理破綻矛盾!というわけだけど、私にはさほど主張が矛盾しているとは思えなかったってのがある。これは檜垣先生ができるかぎり『ザ・コーヴ』の主張を整合的な形にした上で、どこに矛盾なり論理破綻なりがあるかを示す責任がある。「論理破綻している!」って何度も言うだけでは破綻していることを示したことにならない。それができているか、これから確かめるわけです。


さて。

……できれば酷い環境のもとで飼われないこと、そもそも人間に飼われないこと、これがいいということは確かだろう。……だが、なぜイルカなのだろうか。……なぜそれがイルカ……に対してだけ向けられるのか、そこの線びきの根拠が、正直明確であるとはいえない。 (p.137)

え、そっちに行くんか。

ある社会運動家が、ある問題に関心をもち、ある局所的な事象をとりあげて問題視することはよくある。個人や団体の力には限界があるので、世界の不正や問題をぜんぶいっしょにとりあつかうことはできないからだ。世界をよくするには、それぞれの人が小さくても局所的な問題をとりあげ活動し改善していく方が全体としてはうまくいく見込みが大きい。

ただし、イルカの飼育に関心をもっている人に対して、豚の工場畜産はどう考えるかたずねてみるのはもちろん悪くない。クジラやイルカに豚とは違うなにか特別なところがあると考えているのかどうか聞いてみたらいい。それに対する答はいろいろありうる。「豚についても懸念しているけど私はイルカに特に興味がある」っていうのもまあ一つの答だし、「豚問題もやりたいけどとにかくイルカから」っていう答もありうるだろう。また、「イルカはかわしいけど豚はかわいくないから」という理由であった場合には、「かわいさってそんなに道徳的に大事なのですか」と聞いてみてもいい。でもこれってそれ自体は論理破綻とかではない。しかしまあ檜垣先生が「なぜイルカなのか」と考えること自体はそれでOK。

あと、一般に、なにかが論題になっているときに、別の話にそらしてしまう論法は、「イグノランチアエレンキ」(論点相違)の詭弁/誤謬推理って呼ばれていてあんまりよいものではない。

たしかにオリバーにとって、……それと同種のイルカも、かけがえなのない「伴侶種」であることは理解できる。しかしながら、……他の無数に存在しうる「伴侶種」にも同じことをしなければならないはずだ。 (p.138)

オリバー先生というひとがイルカはコンパニオンだから救うべきだと主張しているかどうかは未確認(この本でもわからん)。でもこれはこれでいい。

でも、たとえば(「伴侶種」である)イルカを大事にするなら、(伴侶種である)犬も大事にしなければならないはずだ、っていうことから、イルカ漁反対運動と、犬虐待反対運動を同時にやらねばならない、っていうのは出てこない。どっちかかたいっぽうだけでいい。

日本でイルカ漁をおこなっているのは和歌山だけではない。……では、太地町の何が問題なのか。 (p.138)

これも同様。和歌山でもフェロー諸島でもクジラ漁がおこなわれているってことから、「同時に」それらに反対しなければならないってことはない。もちろん「フェロー諸島のにも反対しますか?」って聞かれたらおそらく『ザ・コーヴ』の人々は「(条件が同じなら)反対します」って答えると思うけど、同時に映画とらねばならないわけではない。

「〜に反対するなら〜にも反対しろ」は社会運動家たちに対してよくやられる反論で、意見の整合性を見るために質問するのはよいかもしれないけど、実際の運動をいっしょにやらねばならないわけではない。そもそもそんなのリソース限られてるからできないっしょ。

まあでも、この種の疑問自体はOK。こういう疑問を感じたら、『ザ・コーヴ』の人々がどういう立場なのかよく調べてみればいいと思う。もし私の学生様が『ザ・コーヴ』見ただけで彼らの主張について勝手なことを言おうとしたら、「まずちゃんと調べてみたら」ぐらいの話はしますね。オバリーさんとかの文章は日本語では見つからないかもしれないので、しょうがないからクジラ関係の書籍やweb記事とか調べてもらいますかね。できれば英語その他の外国語でも調べてみたいですね。

食料とする動物に対して穏当な殺し方は構わず、残酷な殺し方はまずいというのは、これもまた、いかなる基準で判断すればよいのかわからないことである。穏当であるというのは、端的にいえば相手に「痛みを与えない」ということであろう。……しかし、どのように考えようとも、これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない。もちろんこの感情移入にはある程度の根拠がないとはいわない。しかし「相応」の根拠しかないといえば、どうなのだろうか。 (p.138)

あらー。ツイッタでよくやられている議論ですね。でもこれはよく考えてみる必要がある。

「食料とする動物に対して〜」なんだけど、いまの先進的な屠畜工場では屠殺は一瞬でおこなわれてかなり苦痛は少なくなってると考えられてるみたいですね。テンプル・グランディン先生とかが動物の心理を推察してなるべく苦痛が少なくなるような施設を設計したり、とか聞きます。

クジラやイルカについて「残酷な殺し方」が問題になるっていうのは、クジラやイルカはそうした施設で苦痛が少ない形で殺すことが難しい、どうしても海で追い込み漁やったり、浮き輪つきのモリを何本も打ち込んだりしなければならない、ってところにあるんだと思ってます。まわりで仲間が殺さてるのも知覚するだろうからそれの恐怖もあるだろうしねえ。まあそういうんでイルカクジラ漁は、牛や馬の屠畜とかに比べて批判が多い。

鹿や兎を鉄砲でとってくるのはどうなんだ、とかの話ですが、まあ鉄砲でさっさと片づけるならそれほど苦痛はない、とか考えられるのか、そうでもないのかはよくわかりません。ただイノシシの罠猟とかはかなり問題があると考えらていて、よく知らないけど24時間以上ほうっておいてはだめ、とかいろいろルールがあるみたいですね。あと鳥のかすみ網とかも苦痛が大きそうだから禁止されてるはず。『山賊ダイアリー』とかで解説してくれてるかな。

んで「これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない」がちょっとわかりにくくて、罠に足挟まれて足の骨くだかれてそれでも半日ジタバタする、みたいなのは人間だろうがイノシシだろうがものすごく苦痛な感じがするんですが、先生これ「人間という種」の感覚器官に依存するもので、イノシシは痛くないと思いますか。イルカが太いモリを打ち込まれてなかなか絶命せずに逃げようともがくのもものすごくたいへんそうですが、先生これ人間の種の感覚器官に特有ですか。特有じゃなくて「依拠」ですか。でもそれってどういう意味なんだろう?

まわりで同類のがばんばん殺されてたら、わりに賢くて将来の見通しがあり、共感能力とかが発達していてグループで活動する種の動物はいろいろ動揺しそうですが、これってどれくらい人間の感覚器官に依存しているんだろう。

「相応の根拠」しかないからどうなのですか。我々が他の人間が苦しんでると思うのでさえ、この意味では相応の根拠しかないではないですか。こんなの動物倫理の初歩の初歩だと思うんだけど、そういうのに興味はないですか?


「数々の誤謬」のところは誤謬といいながら事実認識の話で私はあんまりコメントできないんだけど、檜垣先生の方がおかしいように思う。

コーヴ側をC、檜垣先生をHとして表記すると

C「日本がまだイルカ漁やってることを日本人すら知らなかったよ」← H「食べてることは知らなかったよ、政府が隠してるってことはないと思うよ」(?) 論点ずれてる。

C「肉の種類ごまかして流通してるよ」← H「物々交換や儀礼にかかわるものだよ」 いやそれ以上に流通しているからニュースになったんでは?

C「イルカ肉には水銀たまってるよ」← H「健康被害が出てるってのは確認とれてないよ、水俣病みたいな公害と「自然的な淘汰作用」でたまった水銀は別だよ」なに言ってるかわからない。

でもよくわからない。なんか三つとも論点相違になってる気がするけどはっきりしない。『ザ・コーヴ』の言い分にも問題ありそうなんだけど、あれ見直すのいやなんよね。

ここらへんの話はいろいろあって評価がむずかしい。
http://www.econavi.org/weblogue/webtra/kurita/32.html
から、いろいろリンクがあるので見てみるとよいと思う。


もっと問題が多いところへ。

彼ら自身はヴェジタリアンかもしれないが、そもそも牛肉を山のように喰い、動物を殺すことにかんしてはかくも残虐なヨーロッパ系白人であることは確かである。(p.144)

いやこれは……ちょっとコメントしにくいけど、ヨーロッパ系白人だからなんだというのか。いわゆる対人論法(アドホミネム)であり、人種差別的であると思う。人種じゃなくて個人で話してください。こういうのは本当によくないのでやめてください。本当にやめてください。筆がすべっただけですよね。

ごく好意的に読めば、これは我々が感じるオバリーさんたちに対する嫌悪感の説明で、われわれってこういうふうに考えちゃいますよね、ってな解釈ができる。でもその次は

彼らこそが白人中心主義の独善的価値観にもとづいて、異民族・非ヨーロッパ系民族の風習に「野蛮」というレッテルを貼り付け、晒し者にしているのではないか。

ってな形で疑問文の形ではあれ、かなり一方的な議論をおこなっていて、単なる嫌悪感に関する洞察とも思えない。嫌悪感の因果的・記述的説明であるだけなく、それを正当化しようとしていると読むのが、必然ではないにしてもふつうの読みだと思う。それにしても、これって『美味しんぼ』の雁屋哲先生の議論とまったく同じよねえ。(下に前に書いたののリンク貼っておきます)

知性をもった動物を食べてはいけないならば、ではもたない動物は殺してもいいのか。そこで知性は誰が何の基準で判断するものなのか。 (p.145)

これも『美味しんぼ』論法。この手の基本的なやつを「議論されなければならない問題、どう考えても誤謬としか思えない主張が混在している」の一例にあげるのではどうしようもないのではないか。これらの論点はすでにものすごく大量に論じられていて、ネット上にもいろんなものがころがっているし、書籍も多い。

ふつうのヴェジタリアン系統の主張は「知性」ではなく「苦痛」に注目することが多くて、クジライルカな人々はたしかに知性や共感、コミュニケーション能力、推論能力なんかについてもコメントすることが多い。そうした能力が高いほど苦痛や欲求の挫折を多く感じるのではないか、みたいな発想がある。『ザ・コーヴ』の人々がどうか私はまだ調べてないけど。

うしろの「知性は誰が何の基準で判断するものなのか」もよく見るけど、人間が人間の基準で、あるいは共感してるっぽいなーとか、この刺激あるときこういう行動をとるのでこういう認知してるんだろうなーとかでかまわんのではないか。哲学なんだから疑問文なげっぱなしににしないで、先生もいちおう読んだり考えたりしてみてほしい。

殺し方が残虐だからダメだというのであれば、殺し方が穏当であればいいのか。少数種であるから守るのか、では多数種であれば殺していいのか。 (p.145)

残虐な殺し方より穏当な方が望ましいのはたいていの人が認めると思う。「少数種」ってのはわかららんけど、「種の個体数が少ない」の意味かな。まあ絶滅の危険とかそういうのはあるていど考慮しないと。

『ザ・コーヴ』の映画に登場する誰もが、こうした諸問題を、まさにたたみかけるように主張するだけで、本質的に何が問題なのかをまともに論じているようにはみえない。これ自身は、ヨーロッパ人であろうが誰であろうが、常識的におかしなこととおもえる。

まあ『ザ・コーヴ』で主張とその根拠が映画内で完結しておらず、他の資料を読まねばならないっていうのはその通りなんだろうけど、だからこそ学者先生なんだから映画見ておわりにしないで言い分聞いてやってくださいよ。映画にそんないろんなの詰め込めっていう要求は、誰であろうが常識的におかしなことと思えるはずですわ。

動物種と人間との関連を考え、その暴力性を考えるとき、白人であり、それゆえ紛れもない世界支配者集団の一員であるオバリーやシーシェパードが、日本の和歌山県の太地町の漁民という、経済的にも弱小で日本のなかでさえマイナーな地域の集団を「威嚇」することは、何かがおかしい。しかしこの「何かがおかしいが、それをしないと問題が示せない」点をこそ考えるべきではないのか。 (p.146)

まず白人とかに対する偏見をさらすより、普通の勉強をしたらどうか。なぜ「威嚇」にカッコがついているのか。

私なりにパラフレーズすると、白人は世界の支配階級なので(本当に?)、マイノリティである東洋の島国の村とかの弱者になにも言うべきでない、ぐらい?あっってますか?なんでそんなこと言えるの?

たとえば(壊滅したらしい)イスラム国が他宗教の女子を奴隷にしているときに、イスラム国はまだすごくマイナーな集団で世界的には弱者だからメジャーな白人社会がそれに文句言うべきでない、とか言えないでしょ。

最後のところは意味がわからないんだけど、考えてほしい。っていうかこの問いでこの節が終ってて、その答がどこにあるかっていうのはぱっと見ただけではわからんのですよね。でも本人は書いてるつもりなのはわかる。

なぜオバリーは、イルカの「痛み」を感受するが、太地の漁民の「痛み」は感受しないのか。 (p.149)

そもそも危険人物としてあれほどマークされながらも、太地町に、そして熊野に何度も来る彼は、熊野や太地町のことが、本当は相当に好きなのではないか。そもそもそうでなれば、ここまでの攻撃性は出せないのではないか。 (p.150)

すごいすごい。そう、檜垣先生の解釈では、上の「それをしないと」つまり映画を撮影して上映しないとできないことはなにか、っていうのの答は、オバリーさんの個人的な事情にすべて還元されてしまうのです。オバリーはイルカと太地町が好きだから映画をとったのだ、と。それはそれでいいけど、それだけなんかいな。

まあ制作者の個人史にいろんなものを還元する、っていうのは、解釈の方法としてまったくだめってのではないけど、倫理的な主張の解釈としてよいものではないし(アドホミネム)、映画の鑑賞法としてもさほど優れたものではないと思う。

まあ好意的に読めば、オバリーさんたち「エコテロリスト」たちが、イルカの味方をしているつもりで不法なことや現地の人々が嫌がることをするのは正当化できないのではないか、っていうことだと思うけど、ソロー先生だってガンジー先生だってキング牧師だって、社会の多数派が嫌がることをしているわけです。オバリーさんたちやシーシェパードなどの行動が正当かできるかどうかは微妙で、そんなに簡単に正当化はできないけど、彼らが太地町の人々の痛みをわかってない、と主張するのはそんな簡単ではない。

と。ここまで読んできて、最後の方で私の苦手なポストモダンのデリダ先生が出てきて、予想はしていたのですが驚きました。「やはり出たか!」みたいな感じ。

人間に人間は殺せない。それは顔があるからだ。それはわれわれのロゴス的説明すべてに先だつ。こうした主張をなすレヴィナスに対し、それを正義論の観点から認めながらも、では動物はどうなのかとデリダは問うのである。 (p.151)

ふんふん。んでどうなるんですか。

ちょっとレヴィナス先生にもコメントしておくと、顔(哲学用語)があるから人間に人間は殺せない、っていうのはこれは事実ではないですよね。いったいどういうたぐいの主張なのだろう。人間は人間を殺せないはずだ、もよくわからないし。もちろん私は殺せないけど、殺せるひとはたくさんいるし歴史的には殺す方がふつう? こういうの説明してほしいんですよね。

一見すると揚げ足とりにみえるかもしれない。人間の殺戮と正義の議論をただちに動物に適応[ママ]してもよいのかといわれるかもしれない。だが最晩年のデリダは、かなり素朴に、ある意味では力強く、これらの論点を強調する。 (p.151)

「適応」→「適用」かな。私には「では動物はどうなのか」は揚げ足とりには見えない。まじめに問うべき問いだと思います。

で問題は、「論点を強調する」のはわかりましたが、デリダ先生はさっきの問い「動物はどうなのだ」にどう答えてるんですか? これ説明してもらわないとデリダがなにをしているのかわからないです。デリダ先生のむずかしい文章をわれわれ下々のものが読むのは困難なので、もったいぶらずに教えてください。
(1) 動物にも顔があるから殺してはいけない。
(2) 顔のある動物は殺してもいいのだからレヴィナスの言い分はおかしい。
(3) 動物に顔があるかどうかわからない場合、人間に顔があるかどうかどうやってわかるのか。
とかいろんな議論がありえると思うんだけど、デリダ先生は論点を「強調」してどう話をすすめてるのですか。

もちろんこれらの問いは単純に答えられるものではない。……[デリダの答なし]。

もしかしたらこれがデリダ先生の答?

デリダは「痛み」という主題にも触れている。……デリダが考える痛みは、シンガーとよく似てる……だがデリダとシンガーとではおおきな違いがあるように感じられる。 (p.153)

だからデリダ先生はなんていってるのか教えてくださいよ。もったいぶらないで。

デリダの議論はむしろ、人間と動物とが、そして痛みをもつ動物ももたない生き物も、すべて連続しているのではなういかという混交を目指しているとおもえる。それによって、人間とそれ以外だとか、食べてよいもの/よくないものという区分自体を懐疑に晒そうとしているとみえるのである。 (p.153)

「混交」っていうのはふつうは区別すべきものをいっしょにすること、ぐらいですか。 https://www.weblio.jp/content/%E6%B7%B7%E4%BA%A4

これでおわりっすか。ハゲとフサのあいだにはっきり線がひけないからみんなフサだとかハゲだとかそういう話っすか? それとも、人間も結核菌も同じように殺してよいってこと? 人間と動物が、そしてその他の動物が遺伝的に連続していて、さまざまな能力や感受性、生活様式、生殖などにしても連続しているというのはこれはもう現代人の基本知識ですわよね。デリダ先生はそれを言ってるだけなの?

そして、生物種がこの意味で連続しているからといって区別ができないとか不必要だってことにはならんです。さまざまな点で性質や能力が連続しているとしても、もし人間やイルカやチンパンジーが、他の動物とは違ったレベルで自分の将来を考えたり、苦痛を感じたり、死を恐れたりするなら、他の動物とはちがう配慮が必要だということになるかもしれない。

『ザ・コーヴ』の滅茶滅茶な論理設定を支えるものは、実は最初にオバリーが語った一点だけである。それはオバリーが、自分の友人(「伴侶種」)にほかならないイルカを自死させたことへの自己懺悔である。この映画はある意味で一貫してオバリーの自責の映画なののではないか。 (p.154)

『ザ・コーヴ』がそれほど滅茶苦茶なのかどうかは、ここまでの檜垣先生の記述でよくわからない。それほど滅茶苦茶ではないのではないか。もうすこし好意的に解釈してあげてもいいかもしれない。

そうしてひきおこされるさまざまなことは、確かに他人迷惑である。だが一面では、それこそがオバリーの強味となる。なぜならば、彼にとって結果はどうでもいいからである。 (p.155)

いやあ、そういうのって本当にそう思って書いてるのなら人間ってのを馬鹿にしていると思う。先生の解釈はものすごく勝手ですよ。勝手に製作者の個人史から勝手に製作意図を推測し、「彼にとって結果はどうでもいい」までもってきちゃう。これって本当に哲学なんですか。

オバリーとその仲間が、熊野の海で撮った最大のものは、残忍な漁に抗する政治的指向を含んだ映像というよりも、オバリー自身の悲しみとかさなる「声」なのではないか。……どの特定の生物が声をもつか、という議論をするべきではない。声は生けるすべてのものの声である。特定の生物が、痛みの声をもつかという議論にはいるべきではない。いかなる生物ももつ声がある。 (p.156)

なぜ特定の生物が痛みの声をもつかという問題を考えてはならんのだろうか。みんないっしょだからなにを殺してもいいです、あるいはどれも殺してはならんです、ですか。


読んだ章の前の章は『ブタがいた教室』の論評なんですが、あれはひどい話で、豚を飼うことにした教師が最後は生徒にどうするか決めろ、みたいにして丸投げしちゃうんですよね。これについて檜垣先生はこう言う。

正しく無責任であること、これが食と殺すことを目の前にした人間が、社会のなかで平穏に暮らそうと思ったときになせる唯一のことではないだろうか。(p.120、原文強調)

書店のアオリなんかはこういう感じ。

動物や植物を殺して食べる後ろ暗さと、美味しい料理を食べる喜び。この矛盾を昇華する

まあたしかに植物はともかく動物を食うのはいろいろ後ろ暗いところがあるし、社会のなかで平穏に暮したいし、うまい肉も食いたい。でもその唯一の選択肢が無責任とか、なんでもいっしょだからなんでもいっしょ、ってのではないと思う。まあここはむずかしいですね。

ツイッタで檜垣先生御本人から、「平穏にくらそう」というより「平穏に暮すより致し方がないのではないか」の意であるという趣旨のコメントをもらったんだけど、そら気持ちはわかるんですわ。われわれはやっぱり自分がかわいい、自分の子供はもっとかわいいかもしれない、だからどうしても利己的になるし、危険よりは安全を、苦痛よりは快を、悩みよりは楽しみを求めちゃう。でも同じ論法が、たとえば奴隷制とか民族浄化にもつかえるだろうか。

身近に多くの人が奴隷にされたり、民族浄化ってんで虐殺されたりしているときに、我々は実際には恐怖でなにもできないかもしれない。でもそれしか致し方ない、っていう考えかたはないと思う。危険を冒してそうした悪と闘ったり、そうできなくとも一部こっそり逃したり、屋根裏にかくまったり、まあみんなに要求できることではないかもしれないけど、そういうことをする人々はいるし、そうする彼ら彼女らは英雄だ。少なくとも「平穏に暮したいからなにもしません」っていうのは、我々がとってしまう選択肢ではあるけれどもそれほど正しい選択肢ではないかもしれない、ぐらいは考えておきたいところです。


まあそういうわけで、私は『食べることの哲学』のこの節は、哲学としても評論としても非常によくないと思います。少なくとももっと他の人々の言い分をちゃんと読ん紹介してあげてほしい。

と書いたので、私自身も檜垣先生がなにをやろうとしたのかを最大限好意的に読むとすれば、以下のようになるんだとおもいます。

全体は宮沢賢治その他の文学者や『ザ・コーヴ』や『ブタがいた教室』といった「食う」ことに関する倫理的問題を扱った作品をとりあげて、それと大きなネタ本のレヴィストロースあたりの文化人類学と、それ以降のいろな現代思想を紹介しつつ哲学しよう、だと思うです。そしてそうした「食う」ということにまつわるいろんな問題や、我々の負い目の意識、そして負い目を感じながらも、七条大宮「ゆう」のミソラーメンをうまいうまいと食ってしまう我々のありかたを追求してみたい。直前でも書いたように、そうした目標はよくわかるし、価値があるとおもう。ぜひやってください。

でもそうするときに、他にいろいろ思考しそれぞれ哲学している人々に対する敬意みたいなのを示すつのも大事だとおもうんです。他の人々のまじめな思索や活動を、ほとんどなにも調べないで論理破綻だの矛盾だのとディスりつつ話のツマにする、みたいなのはやっぱりまずいと思います。少なくとも私にはそう見えました。

そして『ザ・コーヴ』のようなものを批判したくなる我々についてよく考えたらいいと思います。彼らはほんとうにそんな「滅茶苦茶」なことを言ってるのだろうか? 私は哲学ってそういうお互いの敬意とか反省とかがあるもんだと思うんですよ。もちろん我々の能力には限界があるからそんなたいしたことはできないわけですが、そういう敬意だけはもちたい。

 


『美味しんぼ』について昔書いたのはこれ。書きなおしておくべきだったかもしれない。倫理学や応用倫理学の授業でもよく使ってるんだけど。書きなおすとなると面倒なのよね。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

あら、美味しんぼの出典がちがった

 

ブックガイド:幸福の心理学/ポジティブ心理学まわり

授業用。学生様向け。

とにかくこれからでいいだろう。

堅実だけどちょっと硬い印象。

まずここらへんでいいのではないか。

とりあえずこの本が一番おすすめなんだけど、翻訳に問題がある。

ちょっと古いのだがおもしろい。訳もしっかりしている。

まずまず。

上と同じ筆者。

学部生にはちょっと歯応えがあるかもしれないが重要書。

 

 

翻訳に問題がある。

これも翻訳に問題があるが、上よりはまし。

これは訳に問題はないのだが、記述があっさりしすぎている。

ちょっと散慢。上の本の方がよい。

とてもしっかりしている。

 

上の2冊はおなじようなもの。とてもおもしろい。

最近読んだこれよかったです。

あとはここらへん見てください。

 

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』

そういや、ちょっと前に敬愛する盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』の評をわりあてられて、いろいろ文句つけたくなり、やっぱりパーソン論ちゃんとやらないとなあ、みたいなことを考えたりしたのでした。今年はそれの年になりそう。私途中で投げ出しちゃってだめよね。

先生は強硬なヒト胚保護派なので、そういう問題に興味ある人はぜひ読んでみてください。ただし専門家向け。

↓はそのときのやっつけのレジュメ。もっとまじめにやります。このブログで連載することになるかも。

先生とはそのあともネットで楽しく交換日記みたいなのさせてもらっていて(Dropbox Papersは楽しい)、某学会あたりで再戦することになりそう。

(PDF) 盛永審一郎『人受精胚と人間の尊厳』へのコメント

 

最近の私は倫理学入門の最初のツカミに何を使っているか

まあ全国の倫理学系教員が、入門講義のツカミをどう入るかなあと考える季節ですね。まあだいたい倫理学系の教員はツカミだけはがんばる。あとは難しくてぐだぐだになっちゃう人は私を含めて多いと思うけど。

一時期導入にはみんな(マイケル・サンデル先生流の)トロッコ問題使ってたんではないかという気がする。私も3年ぐらい使ってたかな。

こんなんです。

【分岐線】一人の男が線路脇立っていると、暴走列車が自分に向かって突進してくるのが目に入る。ブレーキが故障しているのは明らかだ。前方では、5人の人達が線路に縛りつけられている。なにもしなければ、5人は列車に轢かれて死ぬ。幸い、男の傍らには方向指示スイッチがある。そのレバーを倒せば、制御を失った列車を目の前にある分岐線に引き込める。ところが残念ながら、思いがけない障害がある。もう一方の分岐線にはひとりの人が縛りつけられているのだ。列車の進路を変えれば、この人を殺す結果になるのは避けられない。どうすればいいだろうか?(デイヴィッド・エドモンズ、『太った男を殺しますか』、太田出版、2015、pp.19ff.)

私自身はこれ使うのは今は飽きてるし、ちょっといろいろ使いにくいところがあるから避けてる。

まあ「とにかく多くの人数を救うならスイッチ切り替えるんだけどねえ、でもそうじゃない意見があって〜」っていうふうにして、いきなり義務論とかそういうのがあって、みたいな話になってしまうことが多いし。この事例が最初に考えられたときの問題意識の対象の二重結果だの意図と予見だの、消極的義務/積極的義務だのていうのはけっこう抽象的でたいへん。

それに学生様にこの問題考えてもらおうとすると、職務上の責任とか一般人の責任とか、人間の生命の価値だとか、過剰に複雑な問題を含んでいて扱いにくいってのが一つ。「私はそのスイッチ切り替える義務のある仕事してるんですか?それともただの通行人?」みたいなの、たしかにきになるのもわかる。

私が一番こまるのは、仮想的すぎて学生様がそういう選択に場に置かれるっていうのがどういう感じか想像したり実感したりしにくいってことね。エドモンズ先生が、この暴走列車問題に対応する過去の現実の事例としてあげている、「ドイツのミサイルの被害を防ぐために、ロンドン南部の人々を意図的により多くの危険に晒すことは許されるのか」「日本との戦争を終わらせるために核攻撃するのは許されるのか」「海に落ちた乗組員を見捨てて潜水艦に爆雷落としていいか」みたいなのって、われわれ一般人が考えることじゃなくて、えらい人々の話っしょ、みたいな。大統領とか沖田艦長とかそういう人が考える事の世界。

んじゃどうしているかっていうと、ここ2,3年はバッジーニの「誰も傷つかない」つかってる。ははは。

【誰も知らない】スカーレットは自分の運のよさが信じられなかった。物心ついたときから、ブラッド・デップはあこがれの男性だった。それがなんと、スカーレットは今、バハマの人里離れた場所にあるブラッドの別荘にいるのだ。この別荘のことは、パパラッチさえ知らない。ひとりで海岸を歩いていたとき、スカーレットはブラッドから飲み物を勧められた。そして、ふたりで話すうち、彼が想像どおり魅力的な男性であることがわかった。やがて、ブラッドから、この数週間ずっと、少しばかり寂しい思いをしていたことを打ち明けられた。そして、職業柄、秘密にしなければならないが、一晩いっしょに過ごしてくれればすごく嬉しい、とも言われた。問題がひとつだけあった。スカーレットは結婚していて、夫を心から愛している。でも夫は知らないし傷つかないのだし、知られることは絶対にない。スカーレット自身は夢のような一夜を手に入れ、ブラッドはちょっとした楽しみを味わうだろう。それぞれが現状維持か、それ以上に豊かなときを過ごすのだ。苦しむ人は誰もいない。得るものが非常に多く、失うものは少ないというのに、ベッドへと誘うブラッドの魅惑的な瞳に抗う必要など、はたしてあるのだろうか?(ジュリアン・バジーニ、『100の思考実験』、向井和美訳、紀伊國屋書店、2012 pp.360ff)

これはまあどういうひとにもある程度身近な問題としてイメージすることができるんじゃないかと思う。もちろんヒュー・グラントやエミリー・ラタコウスキー先生とそういう感じになることはまずないけど、近い経験ってのはあるかもしれないし、なくてもそういう妄想がするのが好きな人々は少なくないだろう。こういうの使うからセクハラ先生と呼ばれることになるわけだが。

バッジーニ先生はこのシナリオで「信頼」の話をしようとしてるっぽい。
まあ他にも貞操とか性道徳とか、嘘とか、利己性とか、人間としての幸福の話とかにもひっぱっていきやすいので、半期の講義を通して何回か使える。

それから、こういう思考実験シナリオを読むときの注意みたいなのもやりやすいんよね。最初に、「それでは渡した紙に適当でいいので自分だったらなにを考えるかかきとめてください、あとでまとめて紹介します」みたいにやる。

ここで、フランクリンの例の損益表の話もすることが多い。アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン先生が、化学者のプリーストリー君にオヤジアドバイスをした手紙のやつね。この「書き留めて考える」は学生様にはぜひ修得してほしいし。

君がアドバイスをもとめた問題については私は前提条件を十分に知らないので、どうしたらよいか助言することはできない。しかし、もしお望みなら、どうやって決断すればばよいかをお教えしよう。こういう難しいことが起こるとき、問題が難しいのは、賛成と反対のすべての理由を心に一度に思い浮かべておくのが難しいからだ。一つのことが頭に浮かんでいるとき、他のことは視界から消えてしまう。さまざまな目的とか欲望とかが次々に心に現われては心をいっぱいにして、私たちをとまどわせるのだ。こういう困難を克服するために私がやるのは、一枚の紙を二つの列に分けて、片方に賛成意見を、片方に反対意見を書き出すことだ。つぎに数日かけて、いろいろな見出しで賛成の側、反対の側それぞれに、理由を追加していくのである。こうしてすべて書き出したのちに、それぞれの重みを検討してみる。同じくらいの重さのものを両方に見つけたら、両方に線を引いて消していく。2つの理由が反対の3つの理由に見合っていると思えば、その5つ全部を消すのだ。こうして続けていくと、やっと天秤がどちらに傾くかがっわかるのだ。そして、一日二日したあとで、もう何も大事な新しいことが思いつかなくなったら、もう決断することができる。理由の重みは数学の計算のように正確なものではないが、こうして別々に比較してみて、全体を目にすれば、私はまずまずうまく判断できると思うし、せっかちにまちがった判断をせずにすむ。実際私はこうした計算からずいぶん恩恵を受けたものっだ。私はこれを道徳的算数とか思慮の算数とか呼んでいる。君が最善の決断ができることを願っている。

A4紙1枚渡しといて、「縦に線ひいて、左に賛成、右に反対って書いてちょ。ProとConとか書いてやってるの洋画で見たことあるっしょ、Proは賛成でConは反対ね」とか。

「えー、さて、「あなたならどう考えますか」ってさっきお願いしましたが、実はこれ必要な条件足りないことにきづきましたか?なんか思い込みはないですか。」たとえば、スカーレットは何歳だと想像しましたか?20歳?40才?70才?30才と80才だと全然ちがう?なんでちがうの?」「そもそもスカーレットは女性だって書いてないけど、女性ですか?」「うわー!」みたいな。

「旦那との関係は良好なのでしょうか。旦那が常習浮気太郎や風俗マニアだったらどうですか。10年間セックスレスだと判断は変わりますか」「子供の有無が重要なのですか、へえ」とかであおってから、「んじゃ隣の人と相談して、さっき書いたやつにそれを付け加えてください。おもしろい意見は来週みせます。できた人から終了」ぐらいで終了する感じ。「スカーレットはこれ以前にもいろいろ浮気してたらどうですか」もやるな。学生様は「うえー」って顔をしている。セクハラかもなあ。まあ1回生にはできないけど、2,3回生配当だから許されるか。

んでこっからいろんな方向にいけるけど、最近はとりえず利己性の話にもってくかね。ギュゲスの指輪をつなぎにして、心理学的利己性の話にもっていく。ソクラテス先生に向かって、取り巻きのひとりのグラウコン君が、結局人にバレないような条件のもとではどんな正しい人だって自分の好き勝手なことしようととするんじゃないか、悪いことをしないのはバレるのがこわいからなんじゃないか、って主張しているところね。

ギュゲスは、羊飼いとして当時のリュディア王に仕えていましたが、ある日のこと、大雨が降り地震が起こって、大事の一部が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりに、ぽっかりと穴が空きました。彼はこれを見て驚き、その穴の中に入って行きました。物語によれば、彼はそこにいろいろと不思議なものがあるのを見つけましたが、なかでも特に目についたのは、青銅でできた馬でした。これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていました。身をかがめてその窓からのぞきこんでみると中には、人並み以上の大きさの、屍体らしきものがあるのが見えました。それは、他にはなにも身に着けていませんでしたが、ただ指に黄金の指輪をはめていたので彼はその指輪を抜き取って、穴の外に出たのです。

さて、羊飼いたちの恒例の集まりがあったときのことです。それは毎月羊たちの様子を追うに報告するために行なわれるものですが、その集まりにギュゲスも例の指輪をはめて出席しました。彼は他の羊飼いたちといっしょに座っていましたが、そのときふと、指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へ回してみたのです。するとたちまち彼の姿は、かたわらに座っていた人たちの目に見えなくなって、彼らはギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように、彼について話し合っているではありませんか。彼はびっくりして、もう一度指にさわりながら、その玉受けを外側へ回してみました。回してみると、こんどは彼の姿が見えるようになったのです。

このことに気づいた彼は、その指輪が本当にそういう力を持っているかどうかを試してみましたが、結果は同じこと、玉受けを回して内側へ向ければ、姿が見えなくなるし、外側へ向けると、見えるようになるのです。

ギュゲスはこれを知ると、さっそく、王のもとへ報告に行く使者のひとりに自分が加わるように取り計らい、そこへ行って、まず王の妃と通じたのち、妃と凶暴共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして、王権をわがものとしたのです。

さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人の物に手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場からんなんでも好きなものを、何をおそれることもなく取ってくることもできるし、これと思う人々を殺したり、\ruby{縛}{いまし}めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに!{\――}こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。

ひとは言うでしょう、このことは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正を働くことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにほかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のようななんでもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手を付けることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞賛するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。

(プラトン『国家』359D以下、翻訳は藤沢令夫訳の岩波文庫、プラトン『国家』上巻、pp.108-110。)

バレない指輪があれば星野絵音先生や川谷源先生からのお誘いに乗ってもいいだろうか、みたいにして話が続く。んで、その前に、「でもその前に、そもそも人間って利己的なもんで、愛だの恋だの友情だの正義だのっていってるけど、「結局考えているのは金と食い物とセックスのことだけだ」みたいな考え方があるからそっからはじめましょう」とかってのでツカミは十分だと思ってる。

2002年につくった「ワンワングループ京都店応援ページ」

2002年の11月に作ったページをサルベージしてみました。

もとはここ http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8526/ にあった。近日、似たようなページを新しくつくるかもしれません。


ワンワングループ京都店応援ページ

街中のアウシュビッツを楽しませてくれる1Wanグループを応援しましょう! 応援隊員がこっそり写真を取ってきました。 「店内撮影禁止」なんでビビったと言ってます。

This is a FAN page of a Japanese pet shop chain named “Wanwan club”. See how cats and dogs are gently treated!

 

堂々と道に看板を出していらっしゃいます。Great advatisement on the road. It is literally IN the way.

 

蛍光灯。店内はマクドより明るい。The shop is dazzlingly illuminated. It’s brighter than McDonald’s.

いらっしゃいいらっしゃい。安いですよ。They shout, “WELLCOME, THEY ARE REALLY CHEP!”

こんな安いとこ他にないっ! “THE CHEPEST ANIMALS IN JAPAN!”

 

店内はお客さんでいっぱい。The shop is crowded by young people till late… In fact this shop is located in night life area for younger people.Full of loud music.

 

「わあ、安~い。」関係ありませんが隣りは吉野家です。”Yes, it’s cheap!” How cheap should cats and dogs be?

 

「・・・・・・・」”Well …. Something is wrong ……”

 

マルチーズ君はこんな感じ。ケージに新聞紙1枚、水ありません。They give him only a piece of newspaer, and no water tray, surprisingly. The lights are in 50cm distance. No hindrance, no shelter.

 

この店内でぐったりしなければならないほど。水は? トイレは?Where’s water? Where should their ejecta go?

コッカー最悪の状態です。水は?He is obviously sick.

 

 

悲しげですが、柴はこんな感じか… かわいそうでも買っちゃだめです。A member of traditional Japanese dogs looks relativelly healthy. But he doesn’t move and sadly looks at a fixed point. Why?

地獄の明るさです。水は?They seem to think the brighter the better, and the noisier the better. But better for whom?

 

兄弟がいるからまだまし? “Hey Brother, Are you OK? I’m thirsty and getting sick.” “Yea Brother, me too. Why the fuck should we be in this hell?” “Brother, I think it’s because we are dogs.”

死にます死にます。閉店は夜10時。閉まってからどうなるんでしょう。 They are left in this situation from 10 am to 10 pm. Nobody knows how they are treated afterwards.

 

 

ラチられたりしたら誰か助けてください。おながいします。てか、 オフミでもどうか。 連絡は kallikles@mac.com まで。

If you are to have contact with me, please e-mail at kallikles@mac.com.


Kallikles the hedonistic egoist <kallikles@mac.com>

Last modified: Fri Nov 8 14:45:20 JST 2002

高橋昌一郎先生の「胎児はいつから人間か」の議論

なんか高橋昌一郎先生のへんな文章を見たので指摘だけ。

助手 そもそも胎児は、どの時点から「人間」とみなされるのでしょうか?

教授 「母体保護法」では、母親の身体的あるいは経済的理由などにより、妊娠二十二週未満の胎児の人工中絶手術が認められている。つまり、二十二週未満の胎児は、法的に人間とはみなされていないことになるね。

これはおかしな論法で、胎児を堕胎しても、堕胎罪に該当はするが殺人罪(「人を殺したものは〜」)には該当しない。したがって、出生までは胎児であって「人」ではない。ちなみに堕胎罪に妊娠月の規定はないと思う。母体保護法にも「22週以下の胎児は人/人間じゃない」のような文言はない。

しかし、たとえばキリスト教原理主義は、受精卵の時点ですでに神が人間の生命を与えているとみなし、人工中絶を殺人に相当する大きな罪と考える。そこで欧米では、女性の自己決定権を重視する「プロチョイス」派と、胎児の人権を重視する「プロライフ」派の二つの対極的立場が、大きな対立を続けている。

こまかいけど、この説明もよくない。「原理主義」は基本的にはけなし言葉だし、受精卵の時点から人(person)であり個人(indiviual) 1)個体=分割できないもの、ね。実際は受精14日ぐらいまでは分割して双子になる可能性がある。 あるという考え方はローマカトリックなども採用している。さすがにカトリックをキリスト教原理主義と呼ぶのは適切ではないだろう。

助手 受精卵から胎児になっていく過程は、どのようになっているんですか?

教授 精子が卵子と結合して「受精卵」になると、(中略)五、六週目には、脳内に電気的な活動が始まる。

助手 ということは、知覚が始まっているのかしら?

教授 いやいや、この時期の神経活動は、ニューロンが無秩序に電気信号を発するだけで、エビの神経系よりも未熟だ。

私はこの「知覚が始まっている」の意味がわからなかった。知覚や感覚をもつというのはどういうことなのだろうか。なんらかの刺激に反応することだろうか。エビに知覚ありやなしや。

(略) 十三週目にはそれらの脳半球をつなぐ「脳梁」と呼ばれる線維の束が作られる。この頃の胎児は、一種の「反射神経の塊」となって、刺激に対して身体を動かすようになるが、まだ何かを知覚しているとはいえない。
十六週目になると、「前頭葉・側頭葉・後頭葉・頭頂葉」が形成され、大脳皮質の表面にしわが寄り始める。十七週目には、ニューロンとニューロンを結合するシナプスが形成され、これによってニューロン間の情報交換が可能になる。

刺激に反応することでははなく、このニューロン間の情報交換が可能になることが、「知覚がはじまる」ことなのだろうか。なぜ刺激に対して反応するだけでは「知覚している」とはいえないのだろうか。まあ好意的に解釈して、脳のなかであるていど大規模な神経の接続があってはじめて知覚や感覚という内的な心的状態が形成されるのだ、それは受精後17週目以降だ、ということなのだろうが、それならそうとはっきり書いてくれないとわからん。

しかしこう好意的に解釈しても、まだ「知覚をもつ」ことと「人間である」(あるいは「人である」)ことの間の関係はわからない。

教授 二十二週目には、胎児が不快な刺激に対して明確に反応するようになり、現代医療のサポートさえあれば、母体の子宮から出て、保育器の中でも正常な脳を備えた人間として生存できるようになる。そこで先進諸国では、胎児を「人間としての尊厳を備えた存在」として法律で保護すべきなのは、「二十二週」以降が妥当だとみなしている。日本の「母体保護法」も、この見解と一致しているわけだ。

胎児の母体外生存可能性が重要であるという指摘なのだろうが、どこから生存可能かということは技術の進歩に依存する。現在の技術であればおそらくがんばれば20週や21週ぐらいでも生存可能なのだろうが、予後が悪いことが予想されるのであんまり攻撃的な生命維持はしていないように聞いている。

母体外生存可能性がなぜ重要なのか、ということも立証されていない。10週の胚も、15週の胎児も、母体のなかで正常に育てば当然正常な脳をそなえた人間として生存できるようになる。なぜ母体外で生存できるということがそれほど特別なことなのだろうか。また22週でも母体外で生存できない胎児も多いはずだ。

「先進諸国では、胎児を「人間としての尊厳を備えた存在」として法律で保護すべき」という表現もおかしくて、こうした表現をしている国としてどこがあるか私は自信がない。

助手 いずれにしても、科学的事実に基づく「生命」の議論に、「祟り」のようなオカルトが入り込む余地はないですよね。

オカルトがいらんのはその通りだと思うが、これまでの議論がなにも関係していない。まあそらたとえば、胚や胎児には神様が魂やスピリットを吹き込んでくれていて、それが流産や中絶しても残存して祟る、とかって議論をする人がいるならまあわからんでもないけど、そんな話しているわけではないし。知らんけど少なくとも今のカトリックはそういう話はしないと思う。

最初の問いは、「いつから人間なのか」という問いだった。この教授は、知覚・感覚の有無か、あるいは、母体外での生存可能性かのどちらかを「人間」の基準としているようで、このどちらかの基準そのものは科学的事実にもとづくと認めてよいとしよう。しかし、それが「人間」の基準であるかどうかは科学的事実の問題ではない。そもそも最初は法の話、あるいは道徳の話だったはず。

もし、最初の問いが、いつから「人間の個体か」(human individual)という問いであれば、受精の最初から個体であると考えるのが妥当だろう。感覚がないから個体ではない、というのは無理そうだ。では、母親の体から分離して生存できないから個体ではないと言えるだろうか。どの時点から母体の外で生きられるかは技術に依存するし、おそらく22週の胎児はNICUから分離されると生きていけないが、それでも個体と言うならば、母親の体につながっていても個体ではないだろうか。

書籍の方も見たけど、ほぼ同じだった。全体として言いたいことはわかるような気もするけど、他の論点も論じ方が正しいかどうか。

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1. 個体=分割できないもの、ね。実際は受精14日ぐらいまでは分割して双子になる可能性がある。

サルトル先生が夢見たガラス張りの世界

ネットとかでいろいろ書き散らかしていると、自分の思考や感情が他の人に見られるっていうのはどういうことか、みたいなのはよく考えます。次はサルトル先生のインタビューの好きな箇所の勝手な訳。時々授業で使います。

「あなた自身ことについて尋ねられることはいやですか?」
「いや、そんなことはない。誰もが、自分のもっとも内面的な事柄についてもインタビュアーに話すことができなければならないと私は思う。人々のあいだの関係をだめにするものは、お互いが相手に対して何かを隠す、何かを秘密にする──それは、誰に対しても秘密にするというわけでなくても、少なくともそのとき話している相手に対して秘密にする──ということにあるように思われる。

私は、誰もが他人に対して秘密をもたず、外的な生活だけでなく、内的な生活も完全に公開し、人に与えることによって、二人の人間が互いに相手に対してまったく秘密をもたないというようなときが来ることを容易に想像することができる。

……不信、無知、恐怖から生まれるよそよそしさは、他人に対して打ち解けさせない、あるいは、充分に打ち解けさせない原因である。また、個人的に私は会う人々に対してすべての事柄について自分の意見を言ったりはしないが、できるだけ自分をガラス張りにしようとはする。なぜならば、われわれの内にあるこの暗い領域は、自身にとってと同じく他人にとっても暗いのだが、それを他人のために明るみ出そうとすることによってのみ自身にとっても明らかになってくるからだ。

……当然、すべてを話すことはできない。しかし、もっと後、つまり、私が死んだ後、あるいは多分あなたの死んだ後になるかもしれないが、人はもっと自分自身のことについて語るようになり、大きな変化がそのことによって生み出されると私は思う。さらに、こうした変化は本当の革命と結びついていると思う。真の社会的調和の実現のためには、ひとりの人間の存在は、その隣人にとって完全に可視的なものでなければならず、またその逆も言えなくてはならない。」

http://www.nybooks.com/articles/archives/1975/aug/07/sartre-at-seventy-an-interview/ から。

こうしたガラス張りの世界は、すでにツイッタとか普及した我々の世界でもあるよな、みたいな。この「ガラス張り」について知ったのは、グラヴァー先生の訳してる時。この本はおもしろいよ。いま読んでもおもしろいと思う。訳している当時はこの原文を手に入れることは難しかった。いまではGoogle様に頼めば一発。よい世界になった。

 

 

 

 

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クリストファー・ピーターソン『ポジティブ心理学入門』の訳の問題

ちょっと学生様に読ませるためにメモ。
クリストファー・ピーターソン先生の『ポジティブ心理学入門』の「ポジティブ思考」のところをつかってゼミで発表してくれた学生様がいるんですが、なんか本人もよくわからないものになってしまって、原因はなんだろうと訳見たらやっぱり翻訳の問題だってござる。
ピーターソン先生が、ハーバード大の学生の追跡調査をつかって楽観性について研究したのがある。『ポジティブ心理学入門』でもそれが紹介されているんだけど、その翻訳に問題があって読めないものになっている。
っていうか、宇野先生の訳についてはamazonですでに文句つけてて(1)(2)、一部の人には不評だし、商売の邪魔してるみたいで申しわけないんだけどこまるのです。
ピーターソン先生が注目したのは悪い出来事、つらい出来事があった場合、その原因をどういうふうに説明するか、っていう説明スタイルの問題なのね。これはセリグマン先生が『オプティミストはなぜ成功するのか』の中心的な研究対象でもあった。ピーターソン先生は、ハーバード大から在学中あるいは卒業後に従軍した人々の手記を分析したのね。まず、訳書は飛ばし飛ばしで訳されてるから文脈がわかりにくい。まあそれは目をつぶることにして、原文はこう。
I read the essays of a randomly selected 99 young men — which were usually several hundred words long, uniformly sincere, often eloquent, and (I must say) highly legible—on the look out for descriptions of bad events: setbacks, failures, frustrations, and disappointments.  Everyone of course reported such events, but my attention was directed at how each writer explains their causes.  (Peterson 2006, pp.108-109)
私はランダムに選び出した九九人の青年の文章を読んだ。たいていは数百語程度の長さのもので、一様に誠実であり、しばし雄弁で、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い事柄に関する記述には注意が払われており、極めて読みやすいものであった。もちろん、全員がそのような事柄について報告したのだが、私は各々の書き手が、悪い事柄の原因についてどのように説明するのかという点に注目した。(宇野訳p.118)
ここはOK 1)実はOKじゃなくて、「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」「とても読みやすくて、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い出来事をさがすにはうってつけだった」「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」みたいな感じのようだ。。問題はその次。
Did he so by pointing to inherent flaws within himself and to factors that were chronic and pervasive? If so, I scored his essay at the pessimistic end of thinking.  “I was not happy in the service [because my] . . .  intrinsic dislike for the military.” Or did he explain bad events by distancing himself from their causes and circumscribing them? “I was in danger during the military attack [because] . . . I was not assigned a specific task that kept me in a single position.” If so, I scored his essays at the optimistic end of thinking.  Appreciate that these ratings capture whether a person believes the future is something that can be different from the negative past (optimism) or simply its relentless reincarnation (pessimism). (Peterson 2006, pp.108-109)
宇野先生の訳ではこう。
「学生は、自分に固有の欠陥についてどのように説明したのだろうか?次のように、慢性的で、広範囲にわたる要因を指摘しながら説明した場合、私はその文章を悲観的な考え方として評価した。「私は従軍が楽しくなかったo[なぜならば私には]……軍隊に対する生来の嫌悪感があるからだった」あるいは、悪い事柄について、それらの原因から距離を置き、限定する形で説明した文章もあった。「私は軍事攻撃中、危険な状態にあった°[なぜならば私には]……―つの場所にとどまる特定の任務が与えられていなかったからだ」このような説明の場合、私はその文章を楽観的な考え方として評価した。未来が、ネガテイプだった過去とは違うものになると信じているのか、または、未来は、ただネガティプなことの容赦なきくり返しであると信じているのかによって、それぞれを楽観と悲観として評価した。」
私も訳してみます。
「その人は、悪い出来事の説明をするときに、それを自分自身の生まれつきの欠陥や、永続的で全般的な要因のせいにしているだろうか? そうしている場合、私はその人のエッセイを極端に悲観的なものとしてカウントした。たとえば次のようなものである。「私は従軍中幸せではなかった。(なぜなら)私は生まれつき軍隊が嫌いだからだ。」あるいはその人は、悪い出来事を説明するとき、その原因から自分自身を切り離して、自分自身からは離れたものとして説明しただろうか?たとえば次のようなものである。 「私は攻撃中危険な状態にあった。(なぜならば)一箇所にとどめてくれる特定の任務を与えられていなかったからだ。」こういう場合、私はその人のエッセイを極端に楽観的な思考としてカウントした。こうして評価すると、その評価は、その人物が、将来は、ネガティブな過去とはちがったものになりえると信じているのか、あるいはネガティブな過去はえんえんとくりかえすものだと信じているかをうまく捉えてくれるのである。」
ピーターソン先生やその協力者のセリグマン先生たちよれば、悲観主義ってのは、悪いことの原因が自分のなかにあり、いつも、そして全部のことについてそうであると考える傾向で、楽観主義ってのは悪いことが起こってもその原因は自分ではなく、外的な要因であり、また一時的なもの、部分的なものであると信じる傾向なんよね。上のピーターソン先生があげてる例は、悲観的な人は「俺は生まれつき軍隊嫌いだから不幸だったし、軍隊にいるかぎるずっと不幸」「いつもそうだ」「なんでもそうなんだ」って考えて、楽観的な人は「不幸だけどそれは任務の運が悪かったからその時は不幸だった、でもそれは俺自身の問題ではなく、司令部が悪かったり、運が悪かったからだ。別の任務与えられたらうまくいったろうし、将来はうまくいくだろう」「今回はだめだった」「次はうまくいく」みたいに考えるってことなわねね。宇野先生の訳は「生まれつきの欠点」inherent flaws within himselfとかdistancing himselfとかの「自分」ってキーワードを訳出してないからよくわからないものになっている。

まあこれ書いてから、尊敬する先生に「いやそこちがうよ」って直してもらったんですが、そういうことしてもらって感謝すると同時に、「私他人の誤訳とか指摘しておきながら、自分もまちがってるし、能力足りないのに余計なことしてダメな男だよな、これって私の能力不足と生まれつきの性格の問題で、どうにもこうにもなおらんよな。これからもずっとそうなのだ、まだまだ同じことをくりかえすだろう」って思ってしまうわけで、これが悲観主義っすわ。ははは。下のセリグマン『オプティミストはなぜ成功するか』読むといい。セリグマン先生があれを書いたとき、悲観主義な人もがんばれば楽観主義になれる、って主張してたんですが、最近の『ポジティブ心理学の挑戦』あたりではなんかもうあきらめちゃってる感じで、「いろいろ勉強して楽観的になるテクニックはぜんぶ知ってるけど、気を抜くとすぐに「俺は負け犬だ」みたいに思っちゃう」みたいなこと書いてて笑えました。まあ社会学者は社会がわからず、倫理学者は倫理がわからず、心理学者は心理がわからん、みたいなのはよく言われるんですが、ポジティブ心理学研究する人はポジティブじゃないんしょね。


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1. 実はOKじゃなくて、「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」「とても読みやすくて、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い出来事をさがすにはうってつけだった」「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」みたいな感じのようだ。