倫理学」タグアーカイブ

倫理学の入門・大学テキスト英語編

私は難しい本は苦手なのですが、入門書や教科書みたいなの読むのは好きなんですよね。んで倫理学の教科書みたいなのコレクターみたいになってます。もちろん図書館に集めてもらう。リクエスト出しましょう。

英語勉強するには自分が興味ある分野の大学テキスト読むのが一番。booklogのメモから少しならべてみました。

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最近の私は倫理学入門の最初のツカミに何を使っているか

まあ全国の倫理学系教員が、入門講義のツカミをどう入るかなあと考える季節ですね。まあだいたい倫理学系の教員はツカミだけはがんばる。あとは難しくてぐだぐだになっちゃう人は私を含めて多いと思うけど。

一時期導入にはみんな(マイケル・サンデル先生流の)トロッコ問題使ってたんではないかという気がする。私も3年ぐらい使ってたかな。
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大学教員は専門外のことにどこまでコメントしたり授業に組み込んでよいか

大学で授業していて教員がけっこう気にするのが、「自分の専門外のことについて、どの程度コメントしてよいか、どの程度授業にとりいれていいか」ってことです。これ、みんなけっこう気にしてると思うんだけどあんまり議論されてるのを見たことがないんですよね。 続きを読む

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サルトル先生が夢見たガラス張りの世界

ネットとかでいろいろ書き散らかしていると、自分の思考や感情が他の人に見られるっていうのはどういうことか、みたいなのはよく考えます。次はサルトル先生のインタビューの好きな箇所の勝手な訳。時々授業で使います。 続きを読む

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「レイプ神話」での性的動機 (2) レイプ犯は飢えてない

まあ今回こんなん書いてるときにちょうど報道が大きめの事件がったので、マッケラー(マックウェラー)先生読みなおしたんですが、彼女の本では、「レイプの原因は性欲ではない」とは主張されてないんですね。 続きを読む

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シジウィック先生にセックス倫理を教えてもらおう (2)

んでシジウィック先生はまあこんな感じで、日常的な道徳観みたいなのいちいち説明していくわけです。正義とか勇気とか節制とか正直とか、昔から大事だよっていわれてる美徳、性格、行動パターンみたいなのはだいたい功利主義から見てもよいもので、社会の役に立ったり、その人自身の幸福に役立ったりする。日常道徳と功利主義はぜんぜん対立しませんよ、と。 続きを読む

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シジウィック先生にセックス倫理を教えてもらおう (1)

シジウィック先生が我々の性道徳を分析しているのは、『倫理学の諸方法』第4巻第3章「常識道徳に対する功利主義の関係」と題されたところです。この『倫理学の諸方法』ってのはものすごい名著で、まあ倫理学の重要な問題のかなりが議論され、答え出されちゃってるような本です。なんかあったらシジウィック先生に相談しましょう。 続きを読む

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妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。

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セックス哲学懇話会のお知らせ 3/10 (木) 15:00〜 神田駅前

日時:3月10日(木) 15:00-17:00
場所:神田駅前センタービル4F 神田駅前ホール
東京都千代田区鍛冶町2-7-3
http://www.kaigi-room.com/build/access/c002320.php

「セックスの哲学/倫理学」とそれを大学講義に採用する場合の問題等に関しての情報交換をおこないたいと思います。題材、内容、教材、講義上の各種の問題等を検討する予定です。

江口聡(京都女子大学)京都女子大学現代社会学部「応用倫理学」および教養科目「西洋思想における愛と性」、「同志社大学文学部「倫理学特論:性の倫理学」での実践例から」
長門裕介(高崎経済大学)「高崎経済大学「哲学特講」及び文京学院大学「人間理解のための哲学」の実践例から」

ざっくばらんなお茶会の形式でおこないます(カフェ形式というのか、いわゆる「オフミ」だという話もあり……)。「セックスの哲学」や性にまつわる問題にアカデミックな興味のある方、また大学の授業方などについての情報交換をしたいなら誰でも参加できます。「セックスの哲学ってなんだ?」という方も歓迎します。詳細は江口 eguchi.satoshi@gmail.com にお問いあわせください。また、終了後、研究打合せのための懇親会を予定しております。
「セックスの哲学」についての江口が書いただらだらした解説もどきは https://yonosuke.net/eguchi/blog/philosophyofsex

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マルクス先生たちが女性を共有するそうです

近代西欧的な一夫一婦制の婚姻制度っていうのはいろいろ問題があることは19世紀にはみんなわかっているわけです。たとえばマルクス先生たちの『共産党宣言』にはこんなところがある。

家族の廃止!もっとも急進的な人々さえ、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては、激怒する。現在の家族、ブルジョア的家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強いられている。ブルジョアの家族は、この補足物がなくなるとともに当然なくなる。そして両者は資本の消滅とともに消滅する。

共産主義者よ、君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう、と全ブルジョア階級は、声をあわせて我々に向かって叫ぶ。ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。ここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位だ、ということにはブルジョアは思いもおよばない。

何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐ我がブルジョワ道徳家ぶりほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有を新たにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。わがブルジョワは、かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。

ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有のかわりに、公認の公然たる婦人の共有をとりいれようとする、とでもいったらよかろう。いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。

マルクスとか共産主義とかまったく勉強してないけど、ちょっとだけ素人解説してみる。18世紀から19世紀にかけてブルジョワ的家族、一夫一婦で永続的な関係をむすんで、子供つくって二人でちゃんと育てて教育を与えて財産つがせる、っていうのが完成するわけです。ある見方によれば、これが資本主義に見られるエゴイズムの源そのものである。けっきょくのところ、我々がお金ほしいのは結婚して子供を育てるためだ、と。「すべてはモテるためである」みたいですね。

封建制の農村社会では、別に教育なんかなくたって畑仕事はできるし、逆に言うとどんな勉強したってたいしてお金にならない。教育いりません。でも商業や工業が発展して、技術や知識、商売上の才覚なんかによって大金を稼ぐことができるようになると、ちゃんと教育受けてる人はものすごく有利になる。子供が幸せになるために、ぜひいろんな投資をしたい。それによい食事を与えて健康な体を作り、よい服を着せたい。教育みたいなのは実は部分的には地位財、つまり他の子供との差によって意味をなす価値でもある。みんなが公立学校に通って同じ教育を受けているときに、自分の子供だけ学習塾に通わせることができれば、よりよい大学に進学しやすい、とかそういうことですわね。

そういうわけで人間は子供を持つと特にお金が欲しくなる。前に紹介したラッセル先生の文章でも、「思うに、大半の人は、自分は子供ができてからは前よりはるかに欲深くなった、と証言できるのではないか」(『結婚論』pp.178-179)という観察が出てくる。子供のために他の人より多く欲しい。

んで、資本主義の近代市民社会で競争すると、もちろん勝ち組と負け組ができちゃう。稼ぐにはリスクとって競争しないとならんし、悪い目が出たら失敗。その結果、財産もってて人を雇って使うブルジョワ vs なにも持ってなくて人に雇われてこきつかわれるプロレタリアート、っていう形になる。もちろんプロレタリアートは不幸。そっちは財産ないからちゃんと結婚もできない。そもそも金のない男はもてないわよね。金のないのは首のないのと同じ。相手を見つけても子供育てられない。

プラトン先生の『国家』以来、みんながいっしょに働いて財産を共有するのが理想の社会です、みたいな共産主義的な考え方があるわけですが、これうまくいかないのは人間が利己的で自分の子供のための財産を作りたいからですわね。平等で平和な社会のためには格差をなくさなきゃならないけど、妻や子供がいると競争になるし、負けた方はさぼっちゃう。なんで他人の子供を育てるためにあくせく働かなきゃなんないんだ。どうせ金もってかれるんなら、俺は適当にサボるよ。

そこでプラトン以来、そういう社会では一夫一婦、一人の男に一人の女、なんて婚姻制度は破棄されないとならんことになる。妻と子供を共有しましょう。みんなが平等にセックスできる社会を作ればいいのです!子供は誰の子かわからない状態で生んで、みんなで育てればいいのです!

実際、19世紀にはアメリカあたりでこういう共産主義コミュニティーを作ろうっていう実験がおこなわれたんですね。
オナイダ・コミュニティー実験とかが有名。倉塚平先生の『ユートピアと性』っていうのがものすごくおもしろいので読んでほしい。これは主にキリスト教を背景にした共同体の実験なんだけど。

とりあえず共産主義社会を実現するためには従来の家族制度を破壊する必要がある、っていうのは19世紀の人々の共通理解だったぽいわね。だから、マルクス先生たちみたいに「共産主義社会を実現するぞ!」みたいなのに対しては、「おまえら大事な大事な家族制度を壊すつもりだな」みたいな罵詈雑言が飛んでくる。アカめ。

さっきのはこういうのに対する反論の部分ね。

「現在の家族、ブルジョア的家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強いられる。」

マルクス先生に言わせれば、実は「尊敬しあう一夫一婦の夫婦が結婚して貞操を守りちゃんと子供を育てて」みたいなブルジョワ家族っていうのは、ほんの中上流階層にしか存在しない。貧乏人は安定した家計を営めないから、ちゃんと結婚しないままにセックスしたり、でも生活できないから別れたり、子供できたりしても育てられなくて里子に出したり孤児院に預けたりしなきゃならない。こういうのがまあ「家族喪失」だと思う。さらに貧乏だから女性は売春とかしなきゃならない。前のエリス先生やラッセル先生が指摘してたように、買春するのは、金がなくてまだ結婚できない若者男性だけじゃなく、夫婦生活に性的に満足してない夫でもある。一夫一婦の結婚が永続するためには、余剰な性のはけ口としての売買春が可能である必要がある。貧乏人女性がそのはけ口となっている。

「共産主義者よ、君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう、と全ブルジョア階級は、声をあわせて我々に向かって叫ぶ。ブルジョアにとっては、その妻は単なる生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用さるべきである、と聞くと、かれらは当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。」

財産のあるブルジョワ男性にとって、妻はとにかく子供を生む(再生産 reproduction)ためのもの。工場とかの生産手段をもってる人はそれによってモノを生産してお金をかせいでさらに生産手段を手にいれてどんどん豊かになる。妻を手に入れた男は自分自身を再生産して子供を作り、子供を育ててお金を稼げるようにしてさらに豊かになる。貧乏人は子供作れないし家庭も持てないから貧乏なまま。一夫一婦制は財産ある人間に有利。女を共有されてたまるものか、不道徳だ、いやらしい、と考える。

マルクス先生の答は、

「何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわぐ我がブルジョワ道徳家ぶりほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は、婦人の共有を新たにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。わがブルジョワは、かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても、かれらは、自分たちの妻をたがいに誘惑して、それを何よりの喜びとしている。」

いやだって、あんたら実は女性を共有してるっしょ。まずあんたら、妻がいても足しげく買春してんじゃん、と。さらに、あんたら、社交とかしておたがいの奥さんを誘惑してうまくいけばエッチなことして楽しんでんじゃん、と。これは強烈ですね。まあ中上流階級で女性が他の男性と関係をもったら「姦通」でスキャンダルです。でも実際の社交界でのパーティーみたいなのがそれが起こるかもしれないような危険をわざわざ作ってる、っていうのもその通りっすよね。パーティーといえば女性はドレスとか着て他の男性と仲良くお話したり、ダンスではパートナーを交換したりして。あれ儀礼的スワッピングですよね。まあいやらしい。不潔。

授業でこれ読んでるとき、マルクス先生が怒ってるのは特にJ.S.ミル先生かな、みたいなことをふと思いました。マルクス先生たちの一番の論敵は、実はイギリスの功利主義者だった。ミル先生は知ってのとおり人妻ハリエット・テイラー先生と旦那公認の仲を続けてましたからね。これはスキャンダルでしたが、まあ子供生んだあとの女性は少しぐらいそういうことしてもかまわん、という雰囲気もあったんだろうみたいな。

「共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有のかわりに、公認の公然たる婦人の共有をとりいれようとする、とでもいったらよかろう。」

「おれらを非難しようってのなら、おまえらが偽善的に裏でこそこそやってることを、おれらは正直に認める、ってことだけだぜ!」

怒ってます怒ってます。

「いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。」

共産主義社会ではみんな自由にばんばんセックスできるから売買春なんてのはなくなるよ。みんな共産主義者になりましょう、と。私はやばいと思うけど魅力を感じる人もいるかもしれんですね。好きな『自殺島』ってマンガ [1]現在最強の倫理学マンガ。 でも悪役がそういうフリーセックスなコミュニティー作って成功している。

セックスと結婚に関するこうした議論が、素人にもわかりやすい形で読めるようになってないのは残念なことな気がする。まあでもふつう書きにくいわよね。高校倫理の教科書あたりに「マルクスは女性の共有を提案した」とか書いたらおもしろいだろうに。まあ誰か、マルクスやエンゲルスのセックス論、わかりやすい解説書いてくれるといいなあ。いや、けっこうありそうだから調査するべきか。


追記 (2021/8/3) 上のはまあ冗談まじりに書いたもので、もちろんマルクスの読みとしてはおかしなのかもしれません(というかおかしいでしょう)。田上孝一先生という方が『99%のためのマルクス入門』という本を2021年に出版されて、それのなか(第4章)でマルクスの結婚制度論みたいなのを書いてくれていますので、興味あるひとはそちらを見てください。 → 記事書きました。

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References

References
1現在最強の倫理学マンガ。

ハヴロック・エリス先生の売春婦論

最近また性の商品化やセックスワーカーの話がネットでもりあがっていて、興味深くながめたりしてます。ここらへんはいくつか難しい問題がからんでて、テツガク的にも実証的にもおもしろいところですわねえ。いまのネットでは「性的消費」とか(まあ私は「性の商品化」や「モノ化」の方が好み)、搾取、そして自己決定、ってあたりが繰り返され議論されるテーマですかね。「倫理学」とかってのの研究者もどきとしてずっと興味あるところなので、いろいろ考えちゃいます。

ある労働や活動をするときに、それが自己決定の結果であり尊重されるべき場合と、搾取であると考えられて、搾取者に対する非難や、被搾取者のなんらかの保護が必要であるとされる場合との区別ってのはこれはむずかしいですわね。

「セックスワーク」とかについて批判的・懐疑的な人々は、「セックスワークとかっていったって、それは貧困でしょうがなくやってるんであって搾取的なんだよ!」みたいな議論をすることが多い感じ。

この前、菊地夏野先生の「セックス・ワーク概念の理論的射程:フェミニズム理論における売買春と家事労働」、『人間文化研究』(名古屋市立大学)、第24号、2015ってのめくってたんだけど、これだと以下のような記述がある。

「原則的に貨幣をもたなければ生きていけない現在の社会にあって、多様な事情からセックス・ワークに就いている者たちを差別し抑圧する権利は誰ももっていない。その多くが貧困を背景にしているとすればなおさらである。」(菊地 2015, p.50)

菊地先生は、基本的に、セックスワーカーはセックスワークしないと生きていけないほど貧困に困ってる、と考えているみたい(これは私の読み間違い。以下で考えてみてる見解の代表みたいにあつかうのは不適切でした。下のコメント欄参照。すみませんでした)。そういうのは「生の権利としてのセックスワーク」「生存権としてのセックスワークの主張」といった見出しの表現にも出てる(この「生の権利」「生存権」も私読みまちがってる。すみませんすみまえん。)。まあギリギリで生きてなかなきゃならないなら、法に触れないような活動をしてお金を稼ぐのは当然の権利でしょうね。そしてそういうギリギリの生活を送らねばならない人々を多く抱える社会はよい社会ではない。特に、他に少なからぬ人々が余裕をもって暮していくことができていればなおさらだし、裕福に楽しく暮している人々が、貧しい人々を食い物にしているのならさらになおさら。それはいかん社会だ。これはほとんど議論の余地がない気がする。

しかし、「セックスワークする人々の大半はギリギリで生きていて他の仕事の選択肢がなく、そうした仕事に追いやられているのだ、ひどい仕事をいやいややらされているのだ、被害者なのだ」といわんばかりの事実理解はどの程度正しいだろうか。これは私には、完全にとは言えないにしても、かなりの部分は事実的な問いのように見えますね。そもそも他の仕事につけないほどギリギリの人々が、セックス産業や「お水」で働くために必要な魅力や健康や知性を維持できるかどうか。

さらに最近、今注目しているラッセル先生からのつながりでハブロック・エリス先生の『性と社会』読んでたんですわ。Havelock Ellis, Studies in the Psychology of Sex, 1928。日本語訳は佐藤晴夫先生。出版社は未知谷。えらい。この本はおもしろい。

これの第7章が「売春」で、19世紀から20世紀頭にかけての売春者に関するいろんな実証的文献集めて検討してんですね。んで、当然「経済的要因」が問題になる。19世紀後半のイギリスとか、下層階級の売春とかふつうで中上流の食い物になっててやばい、っていう理解がふつう。まあ著者不明の『我が秘密の生涯』とか、それを元ネタにしたスティーブン・マ〜カスの『もう一つのヴィクトリア朝』とかそこらへんおもしろいですね。

売春を論じている著述家たちはしばしば、売春の根底には経済的条件があり、その主たる原因は貧困であると主張している。(以下エリス邦訳上巻 p.283)

エリス先生も「経済的な条件を売春の一要因とみなすことは妥当な見解である [1]これ、「貧困」ではなく「経済的な条件」であることにも注意しておいてほしい。 」と同意している。しかしもっと綿密な調査を見るとそうとは言えないみたいよ、と。

19世紀広範は社会学とか犯罪学とかが勃興した時期で、いろんなことが調査されて、売春なんかも犯罪との関係でけっこう実証的に調査されはじめた。たとえばストローンベルグ先生という人は「462人の売春婦を詳細に調査して、貧困のために売春の道を選ばなければならなかった、と告白した売春婦はたった一人しかいなかった」とか。他にもいろんな先生がそういう報告している。貧困は売春者の行動の絶対的な原因ではないかもしれない。

一般の産業に就業している女子に支払う賃金率をどれほど引き上げてみたところで、またく普通の能力をもっているだけであるが、たまたま多少の魅力に恵まれている女子が売春によって手に入れる収入と見合うだけの賃金に達することはありえないということを認めざるをえない。p.289

現代日本でこれがどの程度真に近いかっていうのは事実的な問題ですわね。まあここに自己決定だの搾取だの、っていう問題がはいりこむわけですなあ。

もうひとつ印象的なのが、エリス先生自身の次の分析。売春婦の大半はの前歴は、女中・子守娘などの家事使用人であるが、こうした職業の女子は、実は比較的経済的に不安のないグループで、食費、住居費などを心配する必要がなく、また他の仕事もある。まあもちろん19世紀末〜20世紀頭の女中さんの労働条件がよかったとは思えないけど、女中さんとかもできない下層の人々よりずっと恵まれている。

引用しとくか。

彼女たちは、食事も宿泊費も支払うことはない。自分が雇われている主婦と同じように生活し、時には主婦のように金銭上の心配をする必要もない。そればかりではなく、彼女たちに対する需要はほとんど至る所にあり、普通の能力を持つ女子であれば仕事不足で困るようなことはない。それにもかかわらず、彼女たち……が売春婦を補充する特定の一グループであることは疑いもない事実なのである。そのように、何ら生活に不安を感じない彼女たちが売春婦の主要な貯蔵庫の一つであることを理解するならば、衣食住に対する渇望だけが決して売春の主要な原因でないことは明らかである。

まあんじゃ貧困そのものじゃなくて、他になにが要因なのか、ってことなんだけど。一つは、女中さんたちは経済的には恵まれてる方だけど、扱いはよくないってことにありそうだ、と。「彼女たちは他の女子とちがって敬意を払われることもないし、丁寧に扱われることもない」こういう精神的に不利な状況にある。まあ比べられているのは、女中さんを雇うような家にいるお嬢さんだわね。だからどうせ扱いが同じだったら売春もしてしまった方がよい、みたいな。

もう一つは、もうちょっと個人的な性質に訴えてるやつで、レイケール先生という人をひっぱってきて、女中さんたち家事従事者の人の「洞察力・創造力の欠如、虚栄心、模倣性、変易性」とかあげて、これも売春婦と同じだ、みたいな。まあ女中さんやセックスワーカーに気質的性格的な特徴があるかどうかっていうのは、いまみると微妙な感じはある。

とにかく経済的要因だけじゃないよ、みたいなことを主張するわけね。あと「生物学的な要因」ってので売春者に特殊な要因(特に性欲が強いとか不感症だとか)があるっていう見解を紹介し検討して、そこらへんはなさそう、みたいな結論。

「売春婦が存在する要因としての道徳的必然性」とかってタイトルの節では、セックスワークを肯定するような意見がいろいろ検討されてて、ここは商売がら興味深い。まあたとえば「セックスワーカーが性欲とか処理しないと犯罪が増えますよ」みたいなタイプのやつとか。どれもあやしい。

おもしろいのは次の。18世紀フランスのミューニエ・ド・ケルロンって人の小説の一節。

殿方たちは売春婦をご自分の快楽の軽蔑すべき犠牲者であると考えているようですが、そうした見せかけの暴君たちは、実は、ご自身が、足許に踏みつけている売春婦の必要を満たしている愚か者であることに気がついていないのです。

まあ18〜19世紀の高級売春婦小説とかに出てくるタイプの男性を軽蔑し操るタイプの人ね。こういうのがどれほど事実に即しているかっていうのはわかんないけど、お客とセックスワーカーの関係は、一方的な搾取/被搾取の関係ではないかもしれないってことに気づかせてくれる。

しかし彼女はすべての男が売春婦に対してそうした態度をとるわけではないと付言して、次いで、多少皮肉を交えながら娼家は抜け目ないかもしれないが、有用で便利な施設であると賞賛している。(pp.311-312)

私、祇園の寿司屋(わりと安くてそこそこうまい)であきらかにこれから「同伴」って中年男性と若い女子の組合せを見たことがあるんですが、女子は寿司屋のカウンターでずっとスマホ見てるのね。まあ仕事の連絡とかもいっしょにとってんだな、でも寿司おごってもらってんだからもうすこしサービスしたらいいのに、とか思って見てたんだけど、後ろ通りかかったときに見えたそのスマホの画面はキャンデークラッシュかなんかでしたよ!驚きました。これ、中年男はあきらかに餌食。搾取されてる。かわいそうすぎる。あんなめにあうんならキャバクラとかクラブとか行きたくない。こわすぎる。他にも京都は客引きの人がけっこういて、ああいうのに「社長、おっぱいどうですか」っていって付いてっちゃうとすごいお金むしられるとかそういうのを聞いたことがある。本当かどうかは知らん。いや、話それた。

んでまあ、「文明的条件」っていうか文化的・社会的条件なんだけど。まあ(男性の方は)お金なくて結婚できない。

「都市生活は社交の機会を増大させる。匿名化する傾向がある都市生活は、婚外交渉が発覚する機会を減少させるが、同時に結婚を一層困難にする。なぜなら、都市生活は人々の社会的野心を強め、生活費の高騰などによって家庭をつくる時期を遅らせるからである。都市生活は結婚を遅らせながら、その上、結婚の代用物を必須なものにさせるのである。」pp.313-14

一方、女子の方は

娘たちが一時的あるいは永続的に売春生活をするようになる原因はさまざまであるが、その主要な動機の一つは、疑いもなく、我々の拘束的な、機械的な、骨の折れる文明生活が自己発達の機会を十分に与えないので、彼女たちがそうした機会の不足を満たそうとするためである。……これまで考察してきたように、娘たちが売春婦になる有力な動機は経済的な欲求でもなく、抑制しがたい性的衝動に駆られるわけでもない。……若い娘たちの多くは、自分自身でもはっきりと認識し、説明することができない、あるいは気持ちはおおよそわかっているものの恥ずかしさから告白することのできないような、漠然とした衝動——刺激を求める欲求——に動かされて、本能的に売春生活に入って行くのである。(p.314)

ここらへんがエリス先生の結論に近いっぽい。経済的条件はたしかに重要だけど、それだけえではないだろう、自己開発とか自己実現とか刺激とか、そういうものも要因になっている。あと、田舎から都会に来た女子がそうなりやすい。

娘たちが田舎の生活を送っている時には、思春期特有の爆発的な激しい感情の動きは潜在化されているが、都市に出て、救いのない苦役の中で贅沢な光景を見せつけられることによって高揚し、最後に売春生活のなかで衝動を満たそうとするのである。(p.320)

の「感情の動き」や「衝動」は、金銭的なものだけじゃない、なんかキラキラしたものへのものなんだろうと思う [2]キラキラっていう表現は、鈴木涼美先生が使ってたんじゃないかと思う。 。我々はテレビやネットで贅沢で楽しい生活を毎日見せられていて、男も女もそれに刺激されてあれになってるってところはあるだろうな、とか思ったりもする。そういうのは、1928年当時はせいぜい雑誌でみかけくらいのものだったろうけど、いまは田舎だろうが都会だろうがいつでも刺激されつづけるしねえ。

ここらへん、1990年代に宮台真司先生が「援交少女」とかっていうのが新しい姿の女性で、みたいな話してたのが、ぜんぜんそんなことないってことがわかる気がする。

ちょっとエリス先生から逸れちゃうけど、あの「おっぱい募金」の動画の一部を見て思ったのは、「この人たちはお金よりはアイドルしたいのだな」みたいな。もっといえば、自分たちなりのしかたでAKBしてみたいんだろうな、みたいな。集まった方も、「おっぱいもみたい」で集まってるはずがないとも思った。むしろファン交流会に参加したかったんだろう、みたいな。ガールズバーとかキャバクラのいわゆる「お水」で働く人々も、稼ぐお金の他に、やっぱりいろんな充実を求めている場合もあるだろう、みたいなことも思う。

貧困は問題だけど、搾取/被搾取みたいな図式でだけ性の商品化を見ようとするっていうのはなんかちょっとちがうんちゃうかな、という印象をもっている。もちろん、そういうのしたくない人々もけっこういるだろうけど、もしセックスワークや性の商品化自体に道徳的に不正な点がなく、むしろ搾取的であることに問題があると問題があると考えるのであれば、どういう意味で搾取的であるのかは、はっきりさせなきゃならないんじゃないかという気がする。

もし性の商品化が(おもに)女性たちに与えるキラキラ感みたいなもの自体が搾取的手段の一部である、ってことになるとまた話はちがってくるけど、そこまで主張しなきゃならんものなのか。もうそうなると、我々のにはほとんど自由な選択とか自己決定とかってものは存在しない、みたいな主張しなきゃならないようになるように思える。

ただ、「AVに出ると有名になれるかもしれないからいやいやチャレンジ」って形ではなく、AVのような刺激的な場所にいること自体がある種の報酬をもたらすんじゃないかと思う。でも地下アイドルとかも含めて、参加者はもっとわかってやってるんじゃないかという気がする。

もちろん、悪い人々はどこにでもいるので、場合によっては悪い奴らの脅しや騙しみたいなんもあるだろうし、弱味につけこんだいかにも搾取なのもあるだろう。セックスワークのようなのはまわりの人に秘密で働くことが多いから、相談できなかったり、泣き寝入りしている人々も少なくないだろう。

しかし、性の商品化それ自体が当人たちに重大な危害をもたらす、っていうのは話が別。性の商品化はそれ自体搾取だからだめ、っていう主張をしたいのであれば、なぜ搾取なのかを説明しないとならない。搾取によって性の商品化させられるから、では循環して説明になってない。「他の条件が同じであれば(たとえばお金もらえなければ)、それ自体をする動機そのものはもたないであろうことをさせる」っていうのだけでは搾取とはいえない。搾取であるためには、なにか強制するか、あるいは合理的な判断を狂わせるものが含まれていなければならない。

もどって、まあエリス先生の議論の仕方っていうのはいろいろ問題があるとも思う。一つはなんのかんのといいながら、売春者を特別な存在であると考えてたり、売春自体に(自愛の思慮に反するかもしれないだけでなく)道徳的な不正さがあるってのを前提としてることか。

まあ当時としては売買春は道徳的に不正なものだったろうし、いまでも実際に不正だと言うべきかもしれないのでこれはあれか。経済的な要因や、女性の性戦略の多様性みたいなのを軽視しすぎてるかもしれない。ここらへんは『セックスと恋愛の経済学』 みたいなのの方が、当然ながら分析が細かい。そういうの見た上で、「多様な事情からセックス・ワークに就いている者たちを差別し抑圧する権利は誰ももっていない。その多くが貧困を背景にしているとすればなおさらである」って文章を見たときに、「お金とかもっててそこそこ精神的に安定しているけどもっとお金が欲しいから風俗で働く」とか「他でも働けるけどナイトワークが楽しいからキャバクラで働く」とかっていう人なら差別したり抑圧したりできるのか、みたいなことを考えてしまう。そういうこと言いたいわけじゃないだろうけど。

現代日本のセックスワーカーがどういう人々か、っていうのは、松沢呉一先生や要有紀子・水島希先生たちのやつが10年前の定番ですか。最近だと鈴木大介先生や中村敦彦先生のになるか。中村先生の方は時々ちょっと疑問に思うところあるんだけど、ここらへんは大丈夫だと思います。どれ読んでも、「まあ実情はこういうものかな」と思わされる。まあ、エリス先生のころから90年、いろんなルポや調査なんかの実証的な研究もあるのに、いまだに「極貧が性の商品化の主要な要因」みたいなのはちょっとどうか。SWASHみたいなセックスワーカー団体もあるし、ネットでも匿名・実名でいろんなワーカーの人が実態を知らせたり発言したりしているのに、「あの人々は搾取されている」「強制だ」「あの人々には選択肢がないのだ」みたいに決めつけるっていうのは、私は失礼なことなんじゃないかと思ってます。

ちなみに「搾取」については、スタンフォード哲学事典のウェルトハイマー先生が書いた項目を訳してみたけど、ヘタだし誤字脱字魔人に襲われててやばい。

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References

References
1これ、「貧困」ではなく「経済的な条件」であることにも注意しておいてほしい。
2キラキラっていう表現は、鈴木涼美先生が使ってたんじゃないかと思う。

寺田先生の自己責任論批判を読んだ

いまごろ(10年前の)寺田先生の「イラク人質事件をめぐる「自己責任論」と世界市民の責任」 http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/583/1/prime21_99-108.pdf を教えてもらって読んだ。まじめな哲学系の研究者はあんまり現実の問題にコメント出さないことが多いような気がするけど、これは当時の人質問題について倫理学研究者としてまじめに考えてまじめに書いてる立派な論説だと思う。今回の件でいろいろ考えてる人は読むべきだ。

主張や結論には文句がないけど、ただ1節から2節の論の運びにはちょっと疑問がある。

一つは、「自己責任論」って言われている意見がいったい誰のものかよくわからなくて、まともな人がそういうことを論じていたのかどうか。もちろん素人というかあんまりよく考えない人が「自己責任だから放っておけ」とか、ああした人々に批判的な人のなかには「ざまー」とか言ってた人もいるだろうけど、まともな議論はあったのかな。自分の好まない人々がひどい目にあっているときに、あんまり考えずに「自業自得だ」みたいに考える人々っていうのはどうしてもある程度はいるんじゃないかとは思う。準備不足の登山で遭難したりしているときにもそういう反応はあるわねえ。なくしたいものです。

もう一つは細かいことだけど、このころ(2000年代前半)よく見かけた「責任」(responsibilityやVerantwortung)という言葉の語源に遡って、それは「問いかけに応答すること」だというタイプの議論をしていることだわね。そりゃ語源的にはそうなんだろうけど、現在の我々がそういう意味で使っているかどうかは微妙なところ。「もともとはこういう意味だった」というのから「本当はこういう意味だ」って論じてしまうのは語源的誤謬の可能性がある。

語源に訴えたくなるのはわからないでもないけど、「責任がある」はH. L. A. ハート先生あたりにしたがってふつうに(1)「悪い結果の原因として道徳的な非難に値する」「悪い結果の賠償をする義務がある」、(2)「役職や地位や立場によってあることをする義務がある」ぐらいに分けて、「自己責任」って言われる場合は(1)の方だろう、ぐらいでよいのではないかと思う。ハート先生自身はresponsibilityを(a)因果責任、(b)賠償責任、(c)役割責任、(d)責任能力に分けてるけど、日本語の場合因果責任と責任能力はあんまり関係ないと思う。

もちろんこの(1)のハート先生の賠償責任は「責任がある」の中心的な意味なので面倒で、単に「賠償すればよい」って意味ではないだろうと思う。なにか他人の物を壊した責任があるなら、お金払って弁償だけじゃなくてごめんなさいしたり改心したりすることが必要だし、あるいはそれを壊してしまった理由がやむをえないものなら免責されることもあるだろう。また、悪い結果のコストをその責任のある人が負担するべきだ、ということを意味することもあるだろうと思う。(道徳的な)非難というのも難しいんだけど、これは「お前は/あいつはいやな奴だ/だめな奴だ」って言われたらそれだけで堪えるし、最終的には社会的交際を断たれちゃったりする警告でもある。

んでまあ「自己責任」って言われているときに何が言われているのかといえば、やっぱり「その悪い結果のコストはその人が負うべきであり、他の人にそれを救済したり同情したりする義務や必要はない、っていうことだったんだろうねえ。

寺田先生の論文に戻って、もう一つコメントしておきたいのは、

「自己責任」 という観念自体はたいへん重要なものである。 それは、 誰も自分が行ったこと以外のことについて責任を問われないということであり、 責任を負いうるかぎりどのような自由な決定に基づいて行為してもよい、 という自由な社会の最も根本的な原則の一部である

について。これはJ. S. ミルの『自由論』的な主張で、私も大筋では同意するけど、ちょっとミスリーディングなところがある。もしこれがミル的なものであれば、「責任を負いうる限りで」は at one’s own riskとかat one’s own costとかに対応するはずなんだけど、それが「責任を負う」という言葉で表現されちゃうとちょっと誤解をまねきそうではある。このミルのown riskとかcostとかってのは、「自分自身(の利害)に関わり、他人の利害には関わらない限りで」って意味で使われてるはずなので、それははっきりさせておきたいところ。「俺が弁償するから花瓶壊す」みたいなのは他人の利害がからんでれば自由であるべきではない。

さて、一番言いたいことはこの先。寺田先生は人間の相互依存性と不完全な判断力の話に進んで、そう進むのはよくわかる。ただしその前に、この自由主義の原則「自分にのみ関係することがらについてはその人の判断にまかされるべきだ」っていうのが、(1)「他の人はその結果の不利益についてなにも援助する必要はない」を全然含意してない、(2)「自由であるべきだ」ということがまったくなんの干渉をも排除するということではない、ってことに注意を促してほしかったのよ。

あれがミル的な社会的自由の原則であるならば、それは結局はそういう制度が人々の全体としての幸福を促進する(もちろん個人の幸福を促進する蓋然性も高い)からであって、リスクをとった結果困ったことになった人を放っておいてしかるべきだということは含意していない。どういう経緯であれ、不幸になった人々は可能な限り救うべきだろう。もちろん、どんなリスキーなことをする人をも、他の人々はどんなコストを払っても助けるべきだとは言えないにしても、その時点でできることはするべきだということにミル先生ならばもちろん賛成するだろうと思う。

もう一つ、ミル先生が言っている自由主義の原則っていうのは基本的に負のサンクション、特に政府が法的な罰を与えて人々の行動を制約することを禁じるものであって、忠告や説得や懇願によって誰かの行動を変えようとすることは禁じられてはいない。むしろ推奨すらされている(『自由論』第1章)。また、単なる多数の人々の好悪によるものではない重大な帰結をもたらすことがらについては強制さえ許される(第1章、第3章)。

私自身はある人の行動が大きなリスクを伴うことをおこなって、結果的に誰かに危害や面倒をかけることになったとしたら、そういう行動をとったということについてある程度の非難がなされることはしょうがないと思う。また、我々があらゆるコストを払ってでも生命を救うべきだといったことは誰も本気では信じていないのも明らかだと思う[1]よく出される例は、交通事故の防止。。あるリスクのある行動をとった人が結果的にひどい目に会う場合があることは避けられない。

でもそれと、なにも援助しないことは別。政府や人間の結びつきとしての社会はお互いの失敗を許し助けあうものだと思う。だから寺田先生の論説は全体として同意するんだけど、一番大事な、「自分のコストでやることが許されるべきだ」と「誰かがヘマしたときにそれを助ける必要はない」は結びつかないってことをはっきり指摘されるべきだと思う。ともあれ、10年前の寺田先生は立派で、私も見習いたいと思う。

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1よく出される例は、交通事故の防止。

酒飲みセックス問題 (1) 酔っ払ってセックスするのは許されるか

なんか(女子)大学生が酒飲んで街中で大量に倒れたりして話題になってますね。アルコール濫用はやめましょう。

まあ一部のサークルとかではほんとにお酒を使ってやばいことをしているようで、なんというか命の心配もあるし各種の性的暴行なんかも行なわれたりするだろうしいやな感じです。

そういや昔某学会で「性的同意」の問題をとりあげて、論文にしないでそのまんまになってたことを思いだしました。どういう同意が有効かっていうのはセックス倫理学のおもしろいネタで、特に酔っ払いセックスは実際の性犯罪やセクハラなんかと関係していて関心があります。

米国のブラウン大学で90年代なかばに有名な事件があったんですね。新入生のサラ(仮名)が土曜日に自分の寮の部屋でウォッカ10杯ぐらいのんで酔っ払って(私だったら死んでます)、そのあと近所でやってるフラタニティパーティー(まあ飲みサーのパーティーですな)にボーイフレンドに会いに行った。アダムという別の男が、サラが友達の部屋でリバースして横になってるのを見つけて水が欲しいか聞くとサラはイエスと答えた。アダムは水もってきて飲ませて、しばらく話をした。アダムがサラに、彼の部屋に行きたいかと聞くとサラはイエスって答えたので部屋に行った。サラは自分の足で歩けた。サラはアダムにキスして、服を脱がせはじめた。さらにアダムにコンドーム持ってるかとたずねた。アダムはイエスと答えて、セックスしたわけです。事後に二人は煙草吸って寝たそうな。起きてからアダムがサラに電話番号を聞くと、サラは教えたそうな。しかしサラさんはしばらくしてからやっとやばいことに気づいて、あわてたと。んで3週間後に寮のカウンセラーに相談してアダム君を訴えることにしたわけです。ブラウン大学は厳しいところらしくて、在学生規程みたいなのに「違反学生が気づいた、あるいは気づくべきであった心神喪失あるいは心神耗弱」の状態にあった相手とセックスしたら学則違反だというのがあるんですね。

まあこういう状態の女性(あるいは男性)とセックスするのは許されるかどうか。まあ正しい人びとは「そんなんもんちろんダメダメ」って言うかもしれなけど、ほんとうにそんなに簡単な話かな? 某学会ではこういう問題にとりくもうとおもってまあちょっとだけやりました。ネタ本はAlan Wertheimer先生のConsent to Sexual Relationsってので、これはおもしろい。

まあワートハイマー先生の議論はそのうち詳しく議論することにしましょう。今日 http://sexandethics.org っていうサイトを見つけて、こういうありがちなセックスにまつわる倫理問題みたいなのを議論する性教育カリキュラムを提示していておもしろいです。ここらへんのネタはやっぱりワートハイマー先生の枠組みでやってる(ただし全体の雰囲気はワートハイマー先生より女性に有利な感じなフェミニスト風味)。

たとえば次のような問題について議論してみよう、ってわけです。上のブラウン大学の学則は、飲んでセックスするのを禁止しているわけじゃなくて、意識なくなったりすごく酔っ払ってまともな判断が下せなくなっている場合にはだめだっていってるわけです。では、

  1. 女性が飲酒している場合、もし女性が飲酒していることを告げなかったとしたら、男性はその同意を信頼することができるか?
  2. もし男性が飲酒していてリバースしたばかりだとしたら、それは彼の同意の能力にどういう影響を与えるか?それはなぜ?
  3. もし男性が意識を失なったら、女性は彼に対して性的なことを続けてもよいだろうか?それはなぜ?
  4. もし女性が飲酒していて、男性に部屋に戻ってセックスしようと誘ったら、その誘いは有効だろうか? それはなぜ?
  5. もし男性が飲酒していて、女性に部屋に戻ってセックスしようと誘ったら、その誘いは有効だろうか?それはなぜ?
  6. 直前の二つの問いがジェンダーによってちがうとしたら、それはなぜ?

上のブラウン大学の実際の事例とか考えながら答えてちょうだい、と。

さらには、ワートハイマー先生はあれな人なので、もっと奇妙なケースも考えてて、上のsexandethics.comの人も紹介してます。

【パーティー】 AとBはデートはしていたがセックスはしていなかった。Aが「今夜どうかな」とたずねると、Bは「うん、でもまずお酒飲みましょう」と答えた。お酒を飲んでBはハイになり、Aの誘いにこたえた。

【抑制】 AとBはデートする関係だった。Bはまだセックスするには早いと言っていた。Bの経験と他の情報から、Bはお酒を飲むと判断がおかしくなることを知っていた。しかしそれについてあまりよく考えず、Bはパーティーで何杯か飲んだ。AがBにセックスしようかと言うと、Bはいつもよりもずっと抑制を感じずに、「なんでも初めてのときはあるよね」と生返事をした。

【コンパ(フラタニティーパーティー)】Bは大学新入生だった。Bはそんなにたくさん飲んだことがなかった。Bははじめてコンパに参加して、酎ハイ(パンチ)をもらった。Bが「お酒入っているの?」と聞くと、Aは「もちろん」と答えた。Bは何杯か飲んで、人生ではじめてとてもハイになった。Aが自分の部屋に行くかと聞くと、Bは合意した。

【アルコール混入】 Bははじめてコンパに参加した。部屋には、ビールの樽と、「ノンアルコール」と書いてはいるが実はウォッカで「スパイク(混入)」されているパンチ飲料が置かれていた。Bはパンチを数杯飲んで、とてもハイになった。Aが自分の部屋に行くかと聞くと、Bは合意した。

【空勇気】AとBはデートする仲だった。Bはまだセックスの経験がなく、セックスについて恐れや罪悪感を抱いていた。シラフではいつまでも同意できないと思ったBは、1時間に4杯飲んだ。キスとペッティングしてからAが「ほんとうにOK?」と聞くと、Bはグラスを掲げてにっこり笑って「今なら!」と答えた。

【媚薬】媚薬が開発されたとする(現在のところ存在していない)。AはBの飲み物に薬を入れた。それまでセックスに関心を示さなかったBは興奮して、セックスしようと提案した。

【ラクトエイド】Bは、お腹が痛いという理由でAとのセックスを拒んでいた。乳糖不耐症が原因であることが判明したので、Bは乳糖不耐症用錠剤を飲んだ。この「薬」のおかげでBは気分よくなり、セックスに合意した。

ここらへんのそれぞれについて、同意が有効なのかどうか考えましょう、と。おかしなこと考えますね。みんなで考えましょう。

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2018年追記。上のブラウン大の事件は下の本でも扱われてます。良書なので読みましょう。

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パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である

いや、ぜんぜん。

とにかく国内で議論されている「パーソン論」は古いんですわ。けっきょくパーソン論というのは「われわれは人パーソンを特別扱いしている」っていう事実からはじまってるわけですが、70年代から80年代にかけての論争のなかでそういう「人間」を特別扱いにするって考え方はあんまり筋が通らないってことが理解されるようになって、議論はもっと進んでいます。 続きを読む

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Antioch大学の性暴力防止規程

レイプとかセクハラっていうのは「同意があったかどうか」みたいなのが面倒なので、きっちり口頭や文書で同意がないかぎり性暴力とみなそう、みたいな動きがあります。実際に学則に組み込んだ大学もある。

1990年、キャンパス内で2件のデートレイプが発生したことをきっかけに、大学でのレイプ防止のとりくみが開始され、1991年Sexual Offense Policyが制定されたようです。次第にアップデートされ、現在では2005年版が有効になっている。 これをめぐって90年代アメリカではけっこう激しいデートレイプ論争が起きました。日本ではあまり紹介されてないのでとりあえず学則だけ抄訳。

(あら、いま確認したら上のページはsuspended。 とりあえずこちら。
http://www.mit.edu/activities/safe/data/other/antioch-code)

訳や番号は正確じゃないです。そのうち正確にしたいけど、元資料がないとなあ。

「同意」のないセックスはぜんぶ学則違反とした上で、同意を次のように規定するわけです。

===================== ここから ====================

  • 同意とは、特定の性的行動に参加することを自発的に口頭によって合意することである。以下に要点をあげる。
  1. 性的活動を行なう前に、その時々常に同意が得られなければならない。
  2. 参加者はみな性的活動を明確かつ正確に理解していなければならない。
  3. 性的活動を開始しようとする者は、同意を求める責任を負う。
  4. 性的活動を要求されたものは、口頭での返答をなす責任を負う。
  5. 性的活動の新しいレベルごとに同意が必要である。
  6. ジェスチャーやセーフワードについての同意された利用は受けいれられるが、性的活動をはじめる前に参加者全員によって論議され口頭で合意されなければならない。
  7. 同意は参加者たちの人間関係や、それ以前の性的経歴、現在の活動にかかわりなく必要である。(たとえば、ダンスフロアでグラインドすることはそれ以上の性的活動に対する同意ではない)
  8. いかなる場合も、同意が撤回された場合、あるいは口頭によって合意されない場合、その性的活動はすぐさま停止されねばならない。
  9. 沈黙は同意ではない。
  10. 身体的動作やあえぎ声(moans)などの反応は同意ではない。
  11. 寝ている間は同意することができない。
  12. すべての参加者の判断力が損なわれていてはならない。(アルコール、ドラッグ、心理的健康状態、身体的健康状態などが判断力を損なう例であるが、これに限られるものではない)
  13. すべての参加者はセーファーセックスを実施しなければならない。
  14. すべての参加者は、個人敵なリスクファクターや性感染症を開示しなければならない。それぞれの個人が自分の性的健康についての意識を保つことに責任を負う。

===================== ここまで ====================
私だったら「ボーイフレンドと別れたばかりのときは同意できない」「犬が死んだときは同意できない」「クリスマスの日は同意できない」とかもっとつけたしたいですね。

こういう学則をちゃんとしておけば、まあセックスでもめることは少なくなるでしょうなあ。でも馬鹿げている、っていうひともいるわけですよね。むしろこっちが多数派。でも馬鹿げているのはなぜだろう?

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杉田聡先生の考えるあるべきセックスの姿

国内で売買春やポルノグラフィを猛烈に批判している人の一人に、杉田聡先生がいます。

杉田先生によれば、本来セックスは双方が「自発的な意思」によって「自主的に興奮」し、双方が「性的快楽」を味わうことができなければならない。売買春は一方だけが性的興奮や性的快楽を得るものなので不道徳だ、それはもはやセックスではなく性暴力と等しい、と言いたいようです。セックスに金銭をはさむな、そんなのはセックスではないと。
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『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。

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