投稿者「江口」のアーカイブ

最近学生様に教えてもらった曲 (3) THE BLUE HEARTS 「1000のバイオリン」、Dish//「猫」

The BLUE HEARTS 「1000のバイオリン」

https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=39501

これはいいっすね!最高っすね!っていうか、なんでブルーハーツを学生様に教えてもらうなんてことになってるんだ。CDはもってたはずだけど、そんな何回も聞いてるわけじゃないからか。

「ドンッタタッタ!」のイントロいいね。ギターサウンドも最高。パンクロックの最高峰。ロックというのはこうでないとならんと思う。

主人公は中学生か高校1年ぐらい、別になにもとりえがなくて、教室でぼーっと机の上の鉛筆と消しゴム眺めてヒマラヤだのミサイルだの考えてる。夜になると彼は支配者たちと晩御飯食べたりいっしょにテレビ見たりするけど、支配者たちに心は許さないのだ。夜支配者が寝たあとでベッドからこっそり抜けだすして冒険に旅立つのだ!ハックルベリーが友達だから本人はトムソーヤで、まあ自分が実はおぼっちゃんであることはよくよくわかっている。それでも冒険するんだよ。少なくとも布団の中や、授業中にはね。熱いトタン屋根の上には猫もいるしね。さいこう!


Dish// 「猫」

https://www.uta-net.com/song/234121/

これはとてもすぐれた曲だと思う。優秀すぎてびっくりした。

まあDishのボーカルの人(北村くん)ものすごい歌うまいし、歌詞の内容も十分咀嚼して、ライブなのに完璧な歌唱ですごい。

あいみょんの曲と歌詞は、ものすごく新しいってのではないんだけど、とんでもなく高品質だと思う。

最初「夕焼け」キーワードで夏の終りぐらいの季節感を一気にバチっとキメてる。「飲みこんでしまえ夕焼け」「明日ってうざいほど来るよな」みたいなのがなんか自暴自棄というかガクっときている感じが出ている。

「君の顔なんて忘れてやるさ/馬鹿馬鹿しいだろ、そうだろ」のところ、「〜〜〜馬鹿!〜ばかしいだろう」みたいになっていて、聞き手に「この馬鹿!」って言おうとしているのがほんとにうまい。北村くんもよくわかってる。

サビのところ、「心と体が喧嘩して」のところがミソだと思う。これ、すごいっすよね。心と体が喧嘩している。意見がくいちがっている。つまり、心は「もういいや」っていってるけど体は欲しがっている、「おらおら、体は正直じゃねーか」というやつですね。これ、男子の歌じゃないよね。男子だとこういうふうにはならない。だって「俺の頭はいやがってるけど下の方の大砲がおまえを狙っている」とか北村くんが歌うにはひどすぎる。まあ男子はふつうはこういうふうには感じないわけですし、もし感じててもそういうことは歌わない。それが許されるのは女子だけ。実はこれ、「僕」が一人称だけど女子の歌なんですわ。

「家まで帰ろう一人で帰ろう」「家までつくのがこんなにも嫌だ」みたいな感じもほんとに実感がこもっている。

最後のところ、「君がもし捨て猫だったらこの腕の中で抱きしめるし/ケガしているならその傷拭うし/精一杯の温もりをあげる」みたいなの、これも男子のものではない。いかにもケアリングな女子の愛情表現よねえ。もちろん女子はこういう感じで男子から想われたいと思うと思うけど、実際の男子はこういう発想がない。

女子が、百合的な関係にある身勝手な女子にあてた歌か(「マリーゴールド」も百合風味だし)、あるいはずばり拾ってきたけどどっか行方不明になってしまった猫にあてた歌ですかね。それにしても等身大の切実さがあって感動させる。男子が歌うとなおさら効果的。すばらしい。

この、ちょっとジェンダー・セクシュアリティ的に曖昧なところがあいみょんの曲の魅力でもある。あいみょん本人のライブバージョンもあるけど、わたしは北村くんのやつの方が効果的だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

最近学生様に教えてもらった曲 (2) Superfly「愛をこめて花束を」、パスピエ「永すぎた春」、Radwimps「正解」

Superfly 「愛をこめて花束を」

https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02718

(おそらく)女性の歌詞にしては花束を贈るとかなんか気前がよいと思う。素直な感じの歌詞に曲調で、カラオケとかで歌うと気分があがりそうでもある。

このタイプのは私はあまり聞く機会がないので、学生様に教えてもらう一方よね。林檎先生聞く人々とSuperfly聞く人々というのはやはりずいぶん違うタイプの人なんじゃないかという気がするんだけど、最近わたしはそうした趣味とパーソナリティ・ライフスタイルみたいなのに興味があるわけです。あいみょんはまた違うわよね。


パスピエ「永すぎた春」

https://www.uta-net.com/song/211857/

Superflyとかがわりと堂々と地に足のついた正常さが売り物なのに対して、このバンドなんかはサブカル風味や内省、自己反省が強いと思う。サブカルというよりボカロ音楽風味があるんかな。前はこういう感じじゃなかったんじゃないかという気がする。

三島由紀夫先生のあれと関係あるんだろうけど、読んでないんよね。

例の「ポップ音楽リテラシー」の話によせると、歌詞とかについてもいろんな基準でタイプ分けできないかと思っていて、チェックリストできないかなあ。「恋愛を歌っているか/それ以外か」で大きく分けられそう。「自分自身を見ているか/それ以外か」とかもあるかね。歌詞の複雑さはどれくらいか、みたいな基準もあるように思う。あとでちょっと考えよう。


Radwimps 「正解」

https://www.uta-net.com/movie/260329/

紹介してもらった曲のなかで、これが一番ひっかかった曲でしたわ。どうももとから中高の卒業シーズン向けの合唱曲にすることを前提とした作曲なんですかね。学校の卒業に際して、友達に感謝と別れを告げている。それはわかる。でもその友達の像があんまりはっきりしない。

最初は「この先に出会うどんな友とも分かち合えない秘密を共にした」。まあ中高の友達ってそういうことありますかね。「それなのにたった一言の「ごめんね」だけ/やけに遠くて言えなかったり」。この「ごめんね」が、男子中高生だとちょっと子供っぽいように思う。この「友」がはじめて恋愛してはじめてセックスした異性の相手だったりしたら、まあ「ごめんね」もいいかもしれないし、「どんな友とも分かちあえない秘密」みたいなのはわかるけどそれでいいのだろうか。

明日も会うのに〜明くる朝」もなんかへんで、「次の日も会うのに〜明くる朝」よね。このバンドの曲は、こういうなんかちぐはぐな日本語が目につくような気がする。あくまで印象なんだけど。

これまで「出会ったどんな友とも/違う君に見つけてもらった/自分をはじめて好きになれたの〜」。ここもよくわからないけど違和感がある。「君はこれまでであったどんな友とも違う」って言ってるのかな。そして「君に見つけてもらった自分をはじめて好きになれた」のかな。まあ友人から自分の言いところを見つけてもらって、それで自分に自信がつく、みたいなのはよい経験なのだろうと思う。このバンドのソングライターであるボーカルは、(リーダーの?)ギターからバンド誘ってもらったとかって話があるようで、そういうのが背景にあるんかなあ。

「並んで歩けど/どこかで追い続けていた/君の背中」。これはわかります。まあ友達だけど尊敬している、内緒だけど追いつきたいって思ってる、って感じでうまいと思う。でもなんで「歩けど」なんて言葉づかいするんだろう。

この友達から教わったことはたくさんあるんだけど、その友達当人との仲直り方法、女子の口説き方、興奮している夜の眠り方、なにかで負けたりしたときの回復方法、こういうのはわかるけど、「傷ついた友の励まし方」はこの友人を励ましてるのか、この友人といっしょに別の友人を励ますのか、どっちだろうかと気になる。最初の「仲直りの仕方」も友達本人だとすれば、この「励ます」のも本人かなあ。でもこのどちらも当人から教えてもらうというのもなんかへんな話よね。経験から学んだ、ということなんだろう。それにしてもなんか違和感がある。それだったら教えてもらっというよりは、いっしょに大人になってきたよな、みたいな話になるんちゃうかと思うんだけど。

んで、3コーラス目が一番違和感がある。

「あなたとはじめて怒鳴り合った日/あとで聞いたよ/君は笑っていたと」。これ、「あなた」と「君」は同一人物なんかな。ものすごく混乱する。「あなた」は男子の友達としてはずいぶん距離がある感じよねえ。

一つの解釈は、この聞き手は年上の人物、たとえば教師だと読むんだと思う。それが「君」になるってことなんかなあ。

「想いの伝え方がわからない/僕の心/君は無理矢理こじ開けたの」もよくわからない。同意がないのにこじあけてはいかんですなあ。教師なのか、あるいは男子どうしのなにかなのか。

けっこう謎の多い曲よねえ。まあ古いタイプの合唱曲みたいでしんみり歌いやすいので人気があるみたいだけど、どうもよくわからない部分が多い曲だと思うし、聞いている人々はどう解釈してるんかなと思う。

最後のコーラスの「次の空欄に〜」の部分はあきらかに教師からのテスト問題とかが想定されてますわね。

この曲のタイトルは「正解」で、メッセージとしては「人生には正解はない」ってな感じなんだろうけど、それ自体だとなんか月並すぎるようにも思う。「答がある問いばかりをおそわってきたよ」とかっていうのもこれ自体が陳腐で、学校の教師というのはまさしく「答はないんだ!」みたいなの言いそうで、正解ばっかりおそわってきたとかっていうのがなんというかテンプレにはまっている感じもして、それもなんかへんな感じがする。

このバンドの曲は、かなり平明な言葉をつかうんだけど、なんとなく語り手の視点がさだまらない感じがあって不安になってしまう。林檎先生みたいにもっと面倒につくってあれば「まあこれは面倒な曲なので面倒な仕掛けをして面倒なことを表現しているのだろう」ぐらいで納得なんだけど、サウンド的にも歌詞的に素直な感じがあるので不安になるんよね。

それにどうもメッセージというか歌詞にある思想みたいなのが、男子中高生としては素直すぎるというか、よい子すぎる感じがある。この曲、いかにも正解の歌詞、正解のメロディー、正解の伴奏、みたいなことさえ言いたくもなってしまう。私がひねくれてるのかなあ。

最近学生様に教えてもらった曲 (1) 椎名林檎「熱愛発覚中」、仲村宗悟「カラフル」、Mrs. GREEN APPLE「ロマンティシズム」

ここ数年、この時期に学生様におすすめの曲とか教えてもらうことが多いです。今年も数曲。いつものように勝手な印象評しよう。


椎名林檎と中田ヤスタカ「熱愛発覚中」

歌詞はこれ https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=k-131113-130

まあ林檎先生らしい何を言っているかわからない歌詞で、あんまり整合的な解釈しようとして無駄だろうとは思う。IOCとかCRPとかSpO2とかMRIで輪切りにしてとか、なんか肺炎が関係あるみたいで、今年のコロナブームを予言してるような感じよねえ。発病しているのかどうか私をMRIで検査してみてください!宣告希望!みたいな感じ。

PVはおかしいし、先生のおっぱいすごいけど、歌詞とは関係ないっすね。一回カンフーサイボーグやってみたかったんだろう(おっぱいもサイボーグ)。私はライブのやつの方がすき。これはよい。アレンジもこっちの方がいいな。

 


仲村宗悟「カラフル」

歌詞はこれ http://j-lyric.net/artist/a05db7a/l04fbdc.html。

声優やってる人らしい。声がよい。それだけでもてそうだ。ミスチル風味を感じる。バンドサウンドという感じ。AABBCCみたいな形式で、つなぎのBのところで半分のテンポにしているのが工夫している。

「ストーリー」「曇ーりー」「僕は一人」とか軽く韻を踏んでるか。

「最高な結末の恋/関係ないねいつも素通り」が微妙なところで、最高な結末の恋ってのもおかしいけどたとえば(女子的には)結婚を意味するのかもしれないけど、この人はそれは関係ない、そういうのは素通りすると言っている。そういうの関係なく、「僕のスケッチ」で君との関係を描くのだ、といっている。冒頭で「難解だって僕のストーリー」ってなことを言ってるので、とにかくこのひとは「僕」の好きなようにやりたい。どんなことをするのだろうか。

「「待って」だって?そんな時間なんてない」ってことなのでこの人はおそらく急速に相手に迫るタイプ。「動いてからきめりゃいい」というまあそういう行動派ですな。んでまあカラフルな、誰もみたことのないプレイをするのですな。ちがうか。


Mrs. Green Appple 「ロマンティシズム」

https://www.uta-net.com/song/265825/

この曲はAABBCCDDEEみたいなので要素テンコモリ。部品こんなたくさんいれてたらふつうは収拾つかないと思うんだけどそれなりの構成感はある。けっこうな腕だな。

僕と私の二つの一人称が出てきて、これ同一人物なのか、二人なのか。そもそもBの「白熊のように涼しげでいたいの」の部分はその前までの人と別人かなと思うんだけどどうだろう。か。

「イマドキドキドキ」のところはけっこうよい。「さすがにそろそろあなたに恋する私に気づいてほしいのです」は「さすがに恋する」ではなく、「さすがに私に気づいてほしい」なんだろうな。

んで、ここで「あなたに恋する」といいながら、「愛を愛し恋に恋する僕らはそうさ人間さ」の非常に印象的なキメが来て、このシメをもってくるはすばらしい才能だと思う。「恋に恋する」のモトネタは最低でもアウグスティヌスの『告白』あたりまでさかのぼれるやつで、他でも書いてるけどまあ「セックスしたい!」なわけよねえ。それを最後にもってくるんだからなかなかやるなあ。「愛うらがえし故意に恋する」も同じよね。かなり皮肉でもあり、でもまあ「それが人間なんだよ!」ってな感じのポジティブさもある。まあ人間だからすぐに恋愛とかしてセックスとかもしてしまいますが、それが人間ってものです!

「濃(こま)やか」とかそういうふつう使わない言葉を使うの、なんというか知性や学歴のディスプレイなんかね。林檎先生とかはそういう人だからそれでいいんだけど、若者がやるとどうなのかという感じはある。

「濃やか」とかへんな言葉つかうのは(林檎先生以外のアーティストがやるのは)気にくわないけど、「ドクドク独特な苦もあって」とかの言葉あそびはけっこういけてる。

1コーラス目で「勇気をもって声掛ける」、2コーラス目で「勇気を出して触れてみる」。大丈夫かいな。同意は得てますか?「心動いたらあなたに恋する僕を見てほしいのです」。聞いてるときは「心動いたらあなたに恋する」「僕を見てほしいのです」だったけど、「あなたが触られて心が動いたら、(君に性欲を向けている)僕を見てほしいのです」ですな。

「悪戯にも哀を知り君と居たい意味を教える」は聞いても聞きとれない。なんて歌ってるんだろう?そもそも悪戯がなんだかもわからないし。うーん。声かけしたり触ったりするフリーダムな感じ?

このPV、イタリアかスペインみたいな感じの場所とそこらへんの人つかっていて、まあおしゃれだけどなんか私には違和感がある。どういうひとたちなんだろうな。

「若気の至りなんかじゃ決してないから」いったいこの人はなにしたんかねえ。「悪戯にも哀を知り」の「悪戯」って「 性的にみだらなふるまいをすること。強制猥褻の婉曲な言い方」ではないよなあ。

まあとにかくこの曲は「僕らはそうさ人間さ」のポジティブな肯定がすべてで、このDの部分の歌詞は他の部分から独立しているというかある程度距離をとってるんじゃないかと思う。あれやこれや、エッチなことをしたりしなかったり、まじめなことをしたりしなかったりするけど、それが(動物としての、あるいは理性的存在者として)人間である、というメッセージが読みとれると思う。この人々にはちょっと注目してみたい感じがある。

 


 

林檎先生はともかく、「カラフル」や「ロマンティシズム」みたいな曲を二十前後の女子が聞くと、まじめな恋愛とか言いだせない片思いみたいなのを歌っていると考えるみたいなんだけど、そうじゃない曲っていうのも大量にあるんよねえ。不真面目なのとかチャラいのとか邪悪なのとかいろいろあるわけで(仲村先生やグリーアップルがそうだというわけではないけど)、そういう歌詞世界のひろがりとか、人間のさまざまなあり方みたいなのも楽曲を聞きながら考えたいとは思ったり。

 

自分用オンライン授業メモ (2)

自分用オンライン授業メモの続き。初動報告。

150人と250人の講義科目2個は、YouTubeでリアルタイム配信することに。手元の古いMacではどうもパワー不足だったので、今年配給された学生様たちと同じ仕様のWindowsノート機+OBS+キャプチャボード + iPad + Apple Pencil + USBマイク、という機材でいくことに。けっこう快適。授業中のリアクションをYouTubeの「チャット」で拾うのは面倒なので、Google FormsのQRコードを示したり、チャットにURLを貼りつけたりしています。

このGoogle Formsでリアルタイムで匿名で意見や質問を書いたり、リアルタイムで簡単な意見アンケートをとったりするっていうのは対面授業でも人気があるので一回試してみてほしいものです。簡単だしおもしろい。

iPad + Apple Pencilは強力で、PDFやKeynoteのスライドに赤や緑で文字を書きこむことができるので、スライド映しているだけよりずっと表現力があると思う。Keynoteとかには数枚ごとに白紙を入れておいて、そこを黒板みたいに使う感じ。黒板や対面授業でのPCで出すスライドより快適なので、今後対面がはじまってもApple Pencil使いたい。(まあ字が下手なのが困りものだが)

YouTubeライブはなにも指定しなくても録画を残してくれるので、参加できなかった学生様もあとで観ることができるので問題ない。

休憩は多めにとっていて、1時間半の授業のなかで5分〜10分の休憩が2回は必要な感じ。もっとあってもよいと思う。画面を見つづけるのはつらいものだ。

Zoomでの大人数授業はどうも事故が起こりまくりの様子で、まあ予想通り。あれはむりです。

まあとにかく講義はYouTubeで十分いけるし、私語だのうつぶせで寝てしまう学生様だのを気にせずにやれるのでむしろ快適。これからずっとこれでやりたいぐらい。

15人前後のゼミはとりあえずZoomで。やっぱりゼミはインタラクティブじゃないとどうしようもない。MS Officeを会社が契約しているので、授業連絡等はTeamsでとるように、信頼できない「LMS」から移行中。Teamsにもテレビ会議はあるので、Zoomよりそっち使いたい気がしているんだけどまだ試していないです。

Zoomゼミは基本顔出し。顔ないとやはり話しにくい感じがある。しかし顔出しでも「無理しない」っていうのは指示していて、しゃべってないときはビデオ消したり、横向いたりしていてかまわない、ということは伝えてある感じ。

ゼミでは特にとにかく休憩ちゃんと取るのが大事で、30分に1回は必要、できれば20分ごとにとりたい感じさえある。

低学年ではKP法(紙芝居プレゼンテーション)使ってもらったりしていて、この方法はやっぱり有効。マジックと大きめの紙を用意しておいてもらって、話をするときはそれにポイントを書いてもらう。バラエティ番組と同じだわね。ああいうのを見なれているので学生様もそれなりにうまい。

上回生はレジュメとか原稿とかつくってもらうわけだけど、学生様に画面共有させるのは操作がむずかしいのでおすすめできない。私は事前にレジュメ等をPDFでもらって、それを私が画面共有してみんなで見ながらお話してもらい、私がApple Pencilで勝手に赤ペン入れていく、という感じ。これはこれでおもしろいし有効かとも思う。

だまってビデオで他人の話を聞いている、っていうのはけっこうストレスだと思うので、本日はゼミの最後に「ブレイクアウトルーム」で適当に感想言いあって別れてもらうようにしてみました。休憩時間は教員が内容を聞けないブレイクアウトルームに分けてしまうって、雑談したいひとは雑談するっていうのがいいのかもしれないと思ったり。次はそうしよう。

講義もゼミも終ったらFormsでフィードバックもらうようにしていて、学生様にはまあ「出席票がわり」てなことを使えている。学生証番号を入れてもらって、スプレッドシートに出力し、それを名簿とvlookupで照合するってのもできるようになりました。vlookupとかコピペするの面倒なので、もうすこしエレガントにやりたいけどいまのところまあしょうがない。

FormsにしてもKP法にしても、以前なんの気なしに使っていたのが今助けになっていて、やはり勉強はしとくものだな、みたいなのは感じています。

まあしかしやっぱりオンラインのゼミというのはかなり厳しい感じ。疲労がはんぱないです。もっと人数小分けにしたい。

意識高い学生様向けZoomの注意点

  1. 設定 → オーディオ → 「会議に参加するときにオーディオをコンピュータで作動させる」をオン。「ミーティング参加時、マイクをミュートする」もオン。「スペースキーを長押しして〜」もオン。
  2. 人数が多いときは基本的に音声はミュートしておいてください。ミュートしていても、スペースキーを長押しするとミュート解除されて話せます
  3. 少人数(4、5人)のときは、邪魔でなければミュート解除して自由に話してよい。
  4. 名前は(相手にあわせて)まともなものにしてください。「えぐりん(江口某)」とか、読んでほしい名前にしておいてもよいミーティングもあると思うけど、知らない人がいるときはフルネームはわかるように。「某」はいけません。ははは。
  5. 抵抗があっても顔出しして話すクセをつけましょう。話しているとき、聞いてるときの表情というのはとても重要なものです。
  6. 「チャット」は必ず開いておきましょう。質問やコメントなどはここに自由に書いて、司会に指名してもらって話すのがよい。
  7. 自分の部屋が丸見えなのは抵抗があるひともいるかもしれないので、「ヴァーチャル背景」をつかってもよい。「ビデオ」の隣の△から設定できます。「+」ボタンを押すと好きな画像を選べるので、好きなものをいくつか用意しておきましょう。
  8. 新しいアプリなどは、友達などとつないででいじりたおすのが吉。だいたいPCやネットまわりのサービスというのは、好奇心が旺盛であちこちボタン押したり設定変えたりする人々に向けてつくられています1)どんなアプリやサービスを使うときも、基本操作ができるよういなったら設定メニューをひととおり眺めておくのがよいです
  9. たとえば設定の「ビデオ」から「マイビデオのミラーリング」はオン。鏡と同じように見えるようになります。これ私けっこう苦しかった。「あれ、ネクタイまがってるな、直そう」ってやるとなおさら曲げてしまってた。ははは。

 

この動画はほんとうに大事なことを教えてくれていて、(1) PCのパフォーマンスは大事、(2) マイクに注意、(3) ビデオはオン、(4) 練習しておく、(5) 録画して復習するべし、だそうです。

学生様としては、(1) PCはちゃんと電源につなぐこと。スマホでもつなげるけど、基本的にはPCにつないでください。(3) 顔出しちゃんとするべし。(4) なにをするにも事前練習が大事。(5) 復習して向上する。(3)(4)(5)は一般的な話としてとても重要ですね。予習復習は大事だ。

References   [ + ]

1. どんなアプリやサービスを使うときも、基本操作ができるよういなったら設定メニューをひととおり眺めておくのがよいです

自分用オンライン授業メモ

Zoom

  • Zoomで大人数講義するのは無理だし意味がないと思う(ウェブセミナー(ウェビナー)モード契約があるなら別か)。YouTube Live!などの方がよいにきまってる。ライブでないとしても、Zoomで一人会議その他で動画撮影してyoutubeにアップロード(限定公開)してURLを知らせるのが吉。学生からの質問やコメントはyoutubeのコメント欄で受けてもよいし、別に仕組みを用意してもよい(たとえばLMSやGoogle Forms)。学部のためのアカウント作ったので、動画ファイルもらえればアップロードするぐらいの手伝いはしたい。巨大なのでメールではなくクラウドなどでうけわたし。
  • 少人数ならやっぱり会議形式でやりたいのでZoomは悪い選択肢ではない。
  • (ホスト設定)ミーティングルームの「詳細」から「開始時に参加者をミュートに設定
  • (ホスト設定)めんどうなので「待機室を有効にする」を無効にする。(待機室を設定するといちいち入室OKしないとならない)
  • (ホスト)大人数の場合、URLは数日前から予約して決めておいてばらまく。少人数なら直前でもいけるだろう。ゼミはパーソナルミーティングループ使ってしまうのがよいだろう。「パーソナル」ミーティングループは「プライベート」というよりは「その人が所有している部屋」「いつもいる部屋」ぐらいに思った方がいい。いつもいる研究室でゼミをやる感じ。むしろ、プライベートな会話や会議が必要な場合こそ新規にURLとるべき
  • 告知はメールよりLINEなどのメッセンジャーの方が楽なので、確保しておくべき。Zoomに不具合が生じたときも指示が出せる。
  • (ホスト操作)「ホスト以外の音声をミュートする」を使えるように。ショートカットはMacのデフォルトではCtl+Cmd+M。
  • (ホスト操作)特定の人をミュートする方法も確認。(フィードバック・ハウリングしてしまう人がいる)
  • (ホスト操作)画面共有→ 「共有できるのはホストのみ」。皆が慣れてきたら解放する。
  • 自分でPC(本体)とスマホ(確認用)の2台でログインしておくといいかもしれない
  • 本番前にユーザーに事前に練習してもらうのは必須。そうしないと、10人ていどでも接続だけで1時間かかる。はじめての参加者数十人つなぐのは無理。数人ずつテストして使いかたに慣れてもらってからにするべき。(私は)昼休みなどをつかって定期的にテスト会を開いて、少しずつ慣れてもらっている。数回やると理解した学生様がでてくるので、そういう学生様に他の学生様の指導をまかせることもできるか。
  • 学生様への指示 → 別記事にしました「学生様向けZoomの注意点」
    • Zoomにつなげるように。PCとスマホ両方で。ただしスマホはいろいろ制限があるので基本的にPCでつながせたい。
    • できるかぎりイヤホン・ヘッドホンを使用すること
    • 「開始時に自分をミュート」
    • 大学のアドレスで入ろうとするとパスワードがちがうと言われるかもしれないが、「パスワード変更」してよい。大学のパスワードとは別らしい。
    • 名前はまともなものに変更すること。(自分の画面をクリックすると変更メニューが出るはず、あれコントロールと一緒に押すんだったかな)
    • 発言できるのを確認。音声のミュートの方法も確認。
    • ミュートした状態から一時的にミュート解除する方法(スペースキーを長押し)を確認
    • ビデオ写せるのを確認。
    • 「チャットパネル」画面を確認、書いてみる。
    • 自分の画面の共有もできるとよい。
    • PCから画面を共有する際、Wordのファイルはフォントによって表示できないことがある模様。PDFならおそらくきれいに表示できる。
  • 参加者を小部屋に分ける「ブレイクアウトルーム」は、「設定」→「一般」→「さらに設定を表示する」でオンラインの設定ページに飛んで、「ブレイクアウトルーム」をオンにしないとならない。
  • ドリキン先生のこの動画 https://www.youtube.com/watch?v=qAgk50lBduU はとても勉強になった。(1)PC能力に注意、(2) マイク扱いは重要、(3)ビデオは見せる、見る、(4)事前の練習が必要、(5)録画して復習する。
  • 「画面共有」すると、参加者にどういうふうに見えているかわからなくなって混乱するので、スマホやタブレットでいいからモニタ用にもう一人分入っておくのがよい。

Microsoft Teams

  • 「ファイル」(Sharepoint)の時間(タイムゾーン)が米国西海岸とかになっている。Teams : ファイル更新日時を日本時間にしたい
  • 学生を招待するのはリンクや「チームコード」(管理→設定→チームコード)で簡単そう
  • 問題は参加者のソートができないことで、参加者名に学生証番号を入れられればいいのだが全体の管理の問題。要望中。

YouTube動画/ライブ

  • 15分以上の動画は、携帯で認証しないと「長過ぎます」と言われてあげられない。はまった。
  • ライブもすぐにはできない。「やる」って指示してから1日待つ必要がある。
  • しかし動画で15分は十分長い。巨大ファイルは扱いもむずかしいし、10〜15分ぐらいに小刻みにした方がよい。
  • 動画はOBSで録画するのがよいが、慣れない人はZoomで一人会議して録画するのが手軽。
  • YouTube Liveは可能性がある。講義をオンラインでやりたい人の本命。放送中にコメントもらう。学生は慣れているはず。
  • 録画しながら配信するテストをしたらPC能力の問題か音声がぶつぶつ切れることがあった。再現を確認中 → 配信じゃなくて録画だけでも音が切れることがある。PCパワーの問題か。どうすっかな。 → OBSの設定をとにかく負荷をかけないようにいろいろいじったらなんとかいけそう。
  • けっきょく、OBSを使って1人で非公開ライブ配信して、YouTube上で最初とかをカットして限定公開する、という形がベストそう。

動画制作

  • iMovieでできる。でもせっかくなので私はAdobeと契約してPremiere Rushでも使うつもり。
  • 視聴者は飛ばして見るものなのでテロップ入れた方がいい。iMovieでできる。でも面倒。
  • とりあえずライブ授業っぽいのを撮影するのは、OBSでYouTube一人でライブ配信して、その録画を簡単に編集(不要部分のカット程度)するのが吉。

OBS

  • YouTubeなどのライブ配信での主流か。録画にも使える。理解すれば使いやすいが、仕組みを理解するまでがたいへん。Youtubeにもブログにも記事がけっこうある。
  • Macからの音まで録画するのはたいへん。Blackhole(あるいはSoundFlower)とLadiocastを使うが、むずかしいのでふつうの人はあきらめるべき。
  • パソコン内蔵のマイクではなく、本式のオーディオインタフェースを使うと音が小さく感じられるようだ。OBS本体でゲインやコンプレッサーをかける。(配信でも音圧競争がある)

うちの会社のLMS(製品名不明)

  • LMSにはでかいファイルはおかないでくれ、という話。50MBが最大とか。まあいまどきはクラウドに置きますわね。
  • 「課題」はPDFなどのファイルをアップロードする形でしかできない。Web上で直接書かせたいときは「アンケート」を使う。「アンケート」もつかいものにならない。Google Forms使うべき。
  • 「ディスカッション」は、教員側が読みにくいので使いものにならない。Teamsとか使うべき。
LMS画面

うちのLMSはこんなルック

星野源先生の「うちで踊ろう」を鑑賞して重なろう

 

なんか政府の偉い人が星野源先生の「うちで踊ろう」という曲にのっかって「コラボ」して問題になったそうで、それをきっかけにこの曲を知りました。実は最初に聞いたのがその問題の動画だったのですが、これほんとにいい曲で、へんなおじさん(とかわいい犬)が映ってるのがぶっとんでしまった。

はまってしまてそのあと何回も聞いてしまいました。私が気づいたことを書いておきますね。
勝手な妄想がはいってるので注意。

たまに重なり|合うよな| 僕ら|() | C | B7 | Em7 | G7 |
扉閉じれば|明日が生まれるなら|遊ぼう| 一緒に| | C | B7 | Em7 | G7 |
(キメ) |Am7 Bm7 | F/G |

  • ここまで、4拍でコードが1個です。コード進行は、名曲Just the Two of UsのIV△ – III7 – VIm7 – I7 ってやつそのまんまですね1)実はこのコードの解釈には疑問があり、Just the two of usはキーFm、「踊ろう」はEmだと思う。VI♭7-V7-Im7-III♭7。
  • この曲のボーカルのビル・ウィザーズ先生が今年3月30日になむなむしてしまって、ミュージシャンは一回は追悼にこの曲弾いたんじゃないかと思います。星野先生もうちにこもっていて弾いたと思う。そっからできた曲ですね。
  • 「重なりあうような僕ら」なのか「重なりあうよな、僕ら」なのかわからん。星野先生が「重なりあう」っというともうセックスセックス、って思いました。あの先生ほんとに重なるのが好きだから。先生の「恋」もちょっと勉強したことがあったのですが、あれはものすごくエロチックな曲で、特にエッチなのが「指のまざり、頬の香り」のところですよね。指がからんでいるのを連想する。この「重なり」もまあ時々指もまぜながら重なっているのではないか、とか。あはは。
  •  何回も聞いていると「扉」がとても印象的で、これは単なるドアとかではない。どういうわけか私は銀行の奥や旧家の土蔵にあるような動かすにも重い重い扉、一回閉めたら開けるのもたいへん、みたいな扉を想像します。
  • キメの「ラーシードー」ってやつはよくやるやつだけど、すごく効いてる。

うちで踊ろう|ひとり踊ろう| C / B7 | Em7 / G7 |
変わらぬ鼓動|弾ませろよ| C / B7 | Em7 / G7 |

  • こっから1小節にコードが2個入っていて、最初の部分の倍の速さになってます。ゆったりしたダンスや活動や鼓動を感じますね。
  • この「うちで踊ろう」は「家で踊ろう」「家庭で踊ろう」ではないかもしれませんね。Dancing on the Insideだそうだけど(この英語正しいかどうか自信がない)、とにかく「内側で踊りつづける」っていう歌だと思います。家のなかかもしれないけど、どっかの内側、そして体内の内側、心の内側。もう十分に身体的に踊ることは難しいかもしれないけど、それでも心のなかだけは踊っていよう、そんな感じ。
  • 「ひとり踊ろう」。まあ踊るっていうのはエッチな曲だとやっぱりセックスセックスなんですが、一人で踊らないとなりません。でも一人でも心臓はばくばく言わせましょう。

生きて踊ろう|僕らそれぞれの| C / B7 | Dm7 / G7 |
場所で重なり|合うよ| C | F7(#11) |

  • この「生きて踊ろう」がどきっとしますよね。みんなの死が予想されている。わたしは「なんとか生きのびて踊ろう」だと聴きました。多くの人が死ぬのかもしれない。
  • 私らおじさん世代は、子供の頃から核戦争とか環境汚染やらで、この世界がもう棲めなくなって、一部の人だけが核シェルターみたいなところや、あるいは宇宙船みたいなところに避難して生き延びる、みたいな話になじんでいます。上の方の「扉」もそれを連想させられるんよね。「重なりあう」が私は実は遺体の山みたいなのもうっすら連想してしまう。
  • 社会はもう解体され崩壊し、人々はそれぞれのシェルターにばらばらになってしまっている。みんなとじこもって自分を守ることしかできない。そういうなかでの切実な歌だと思うのです。でもそういうときでもつながり重なりたい。私は星野先生はセックスセックス鬼畜だと思っているのですが、こうした歌を書けるのはほんとにすごい。

うちで歌おう| 悲しみの向こう | C / B7 | Em7 / Dm7 |
すべての歌で | 手を繋ごう | C / B7 | Em7 / G7 |

  • 歌おう/向こう/繋ごう、が韻ふんでますね。
  • ここでも大きな悲しみが我々を襲っている。あるいは襲うことが確実になっている。でも我々にはまだ音楽とSNSとかがあるから、歌を歌って手をつないでいきたい。そしてこの歌だけでなく、すべての歌がそういう力をもっている。

生きてまた会おう| 僕らそれぞれの| C / B7 | Dm7 / G7 |
場所で |重なり合えそう | C | F7(#11) |
だ | C |

  • もう一回「生きてまた会おう」が出てきました。ほんとに不吉。一部の人とはもう会えないかもしれない。でもなんとか歌でみんなをつないで一人でも多く生き延びましょう。生きのびてたらまた好きな人と身体的にも重なったりできるかもしれない。とにかく生存第一。
  • あとこの曲、「ラーシードー」のあとに同じこと(C-B7-Em7-G7)を4回くりかえしているように聞こえるかもしれないのですが、実は違うんですよね。上のコードで、強調したところ見てください。1回ごとそれぞれちがってるのよね。すごく凝ってて、われわれを飽きさせない。特にDm7の響きがとてもよい。これがプロの技術か!って感じです。
  • まあ歌詞は単純そうに聞こえても連想させるものが豊かだし、音もシンプルに聞こえても複雑になってる。すごい。

私はほんとうにこの曲気にいりました。というわけで、私も星野先生に重ならせていただくことにしましたー!うらー、遊ばせろ!重ならせろ!まあ下手だろうが音痴だろうが、リスペクトしながらそれぞれのしかたで重なればいいのです。政治家の人だってせめて自分で歌ってくれたら私はリスペクトしましたよ!

 

Twitter見ると、みんなそれぞれ思い思いに重なって、とてもよい時代になった。20年ぐらい前はそういう遊びができるのは一部だったけど、いまは老いも若きもそんなお金かけずに遊べるんだから、デジタル文化やSNSってまだまだ可能性があるなあとうれしくなりました。

あ、蛇足だけど、Just the two of usはこれね。

ビルウィザーズ先生なむなむ。ほんとにお世話になりました。近いうちあの世で重なりあってください。

この曲の歌詞(ウィザーズ先生作詞だと思う)もすばらしいのです。この世界には俺たち二人だけだ。訳詞探して鑑賞してください。

References   [ + ]

1. 実はこのコードの解釈には疑問があり、Just the two of usはキーFm、「踊ろう」はEmだと思う。VI♭7-V7-Im7-III♭7。

音楽オタクになろう!(欅坂46「エキセントリック」を題材に)

FDの一貫として、学部教員で1回生向けの「基礎ゼミ」向けのテキストを作っていて、まあ私はごく軽い気分で楽しんで作ってます。自分では最近関心をもってるポップ音楽つかいながらメディアリテレシー教育をする、っていうやつを目指して軽いものを書いてみました。内容よりは、1回生のクラスで適当に最初のスピーチの練習や、ディスカッションの練習もどきをやるための素材って感じ。

まだ校正とかちゃんとしてないんだけど。「エキセントリック」は前にこういうのやろうとおもってそのままになってたのね。

江口聡 (2020)「ポップ音楽オタクになろう!」,京都女子大学現代社会学部編『京女で学ぶ現代社会』,2020年4月30日版.

 

↓のシリーズの続きというわけです。

 

欅坂46というか秋元先生はいろいろおもしろいから、過去にも書いてる。

堀あきこ先生の「メディアの女性表現とネット炎上」はフェミニスト的メディア批判をうまく説明しているので勉強しよう

堀あきこ先生のインタビュー記事についてツイッタでいろいろ失礼なことを書いてしまって、反省して論文も読んでみました。学者のインタビューだけ読んで論文読まないほど失礼なことはないですからね。

堀あきこ (2019) 「メディアの女性表現とネット炎上:討論の場としてのSNSに注目して」,『ジェンダーと法』,No. 16

この論文「メディアの女性表現とネット炎上」は、ここしばらくずっと論じられてるのに対する堀先生からの答えという感じでとても勉強になったので、ぜひ紹介しておきたいですね。この論文はとてもまじめなもので、最近の広告表現とかについてのネット議論について、目下のフェミニスト主流的立場をわかりやすく書いてくれているので、みな読むといいと思う。入手しにくいのよねえ。学会雑誌はこれからはオープンアクセスを目指してほしいと思う。

女性を使った表現については、(1) 固定的な性役割、(2) 性別役割分担、(3) 性的な対象としての女性描写、が問題だとされてきています、と。「固定的な性役割」ってのは男/女らしいとかそういうので、役割分担というのは「男は仕事女は家庭」みたいなやつのはず。「性役割」と「役割分担」の区別がちょっと微妙で、混乱しそうだけどとりあえずOK。

ルミネの2015年のCMが「固定的性役割」、ユニチャームの2016年のが「性別役割分担」、(3)の「性的な対象としての女性」が宮城の壇蜜先生のおもてなしのやつだそうだ。「萌え絵」の方だと、人工知能学会のやつと君野イマ・ミライが(1)、キズナアイのノーベル賞が(2)、碧志摩メグと『のうりん』が(3)だそうだ。

性役割、性別役割分担

論文の核の部分はそういう表現に対する批判に対する再批判に対する答えで、ここが読みがいがある。

「固定的な性役割や性別役割分担の肯定的描写には、旧来的なジェンダー規範を繰り返し描くことで再生産装置となる、という批判がなされてきた。」

これに対しては、たとえば「専業主婦差別だ」「女らしい/かわいい女性批判だ」みたいなことを言われることがありますよ、と。もうちょっと批判者の言い分を十分とってあげたい気はするけど、OK。堀先生によれば、こういう反論というのは、「表現批判と現実の女性のあり方を混同している」と堀先生は言う。

「性差別的な社会をそのまま肯定的に描くことは現状追認に過ぎず、ジェンダー平等な社会の推進や性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる。」

「ワンオペ育児が当然とみなされたり、賛美して描かれることが、さらなる性差別を生み出し強化してしまうというメディア作用への批判なのである。」

この、メディア表現が既存の社会的規範を拡大再生産します、だからそういうのは批判して数を少なくします、っていうのは基本の発想よねえ。「メディアが偏見を再生産」みたいなのはやっぱり認めないとならないと思う。

しかし、問題になっている広告などがモメた理由は、個々のルミネやユニチャームのやつやキズナアイや人工知能学会のやつがそうした偏見助長的・差別的なものかってことだと思う。私が見るかぎり、あれらが偏見とかの「肯定的表現」になってるかというとよくわからない。ルミネやユニチャームのは、基本的には「上司が馬鹿で無神経だったり、旦那がちゃんと協力してくれなったりして、女性はたいへんよね」ってな感じで描かれているように思うし、制作者もそうしたコメントをしているようだ。

まあルミネとユニチャームのは、どっちも全体にネガティブで味がよいものではないけど、現代社会での女性の苦労みたいなのを描いていて、性役割や性別分業を「肯定的に」描写している、みたいなのとはちがうように思う。肯定的に描くっていうのは、ふつうはそれが「よいものだ」っていう感じで描くという意味だと思うけど、どっちでもそうはなってないように思う。ルミネのやつは、上司たちに無神経にいろいろ言われて「おしゃれしないと!」みたいな結論になってるらしいけど、それが「肯定的に描いているの」かどうか。たしかに対人的・社会的な問題を自分の努力と工夫と商品とお金で解決するという形なので、それが「肯定的に描く」って言われるのかなあ。これは解釈が分かれるところか。

とりあえずルミネとユニチャームのは、働く女性の問題がルミネやユニチャームの商品で一気に解決!みたいなことにはなっていないと思う。むしろその問題の描き方がリアルであるからこそ不快だという話なのではないかと思う。「女らしさ」や性別役割分業を肯定しているとはいえないように思うし、ましてや性的モノ化ではない。

もうひとつ気になっていることがある。伝統的で優勢な性役割規範みたいなのをCMなんかで描くのは当然といえば当然な話で、だって実際に社会がそうなっているならそれを使わないというのは人工的で不自然になりすぎる感じがある。たとえば架空のケースの表現を考えるとして、複数の女性が登場するときに、伝統的に女性らしいと言われるような女性が まったく 出てこないような表現を作る、っていのはなんかへんな感じがある。偏見の解消をめざして、少数派をを実際の比率よりかなり多めに描く、みたいなのはありえると思う。たとえばLGBTとか、その国での少数民族とか外国人とか。でも登場人物をLGBTと少数民族と外国人だけにしてしてしまう、みたいなのはやりすぎに思える。そこらへん、企業CMとかはほんとうにむずかしい。まあ各位努力してもらって多様性を確保しておいてもらえばいい、ぐらいなのではないかとおもうんだけどどうだろう。

私自身は、ルミネやユニチャームのが非難されたのは、それが偏見や性役割分業を肯定しているからというよりは、単に特に不快なものだったからなんじゃないかと思っている。化粧炊事掃除洗濯なんかの女性が購買する関係のCMの多くは性別役割分業ばりばりだと思えるし、「肯定的に描いている」というのでは他のそうしたCMの方が肯定的だと思う。それらはOKだけどルミネやユニチャームのがだめだったのは、不快だからだろう。私には、ACの暗いPRなんかも私には同じように不快だ。

もどって、たとえばメディアで専業主婦を肯定的に描くことを批判することは、専業主婦を批判することだ、というのは 批判のレベルがちがう 、という堀先生の主張はどこまでうまくいくのだろうか。たとえば、アイドルをCMで肯定的に使うことを批判するのは、アイドルを批判することとはちがう、とか、軍人を肯定的に使うことを批判することは軍人を批判することとはちがう、っていうのとどのていど違うだろうか。

「性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる」は、社会学者たちの文章全般について何度も指摘しているように主語がないんだけど、「女性一人一人が」だろうか。あるいは「日本の社会が」だろうか。ステレオタイプから脱却しようとしている人を非難するような表現ならたしかに「足枷」「邪魔」って言いたくなるけど、ふつうにやってる分には少なくとも邪魔はしてないように思うんだけどどうだろう。「ジェンダー脱却に 協力的ではない 」みたいなことは言えるかもしれないけど、邪魔だとか足枷だとかって言えるかというと微妙だと思う。

蛇足だけど、こうしたメディアが社会に影響を与えるというのはなかなか否定しにくいけど、いったいどのように影響・作用するかというのも実はなかなか実証的には示しにくい。メディア全体が人々の考え方に影響を与えているのというのはもちろん否定できないが、個々の表現がどう作用するかを示すのはものすごく困難で、そもそもマスメディアという巨大な海みたいなところから、個々の表現を切り出してその影響を云々するのはむずかしい。個別のCMの他にいろんな記事や番組があり、さらにはマンガも映画もあり、となると、ぼんやり「メディアは社会に影響を与える」ぐらいのことしか言えない。でもまあこれはしょうがない。

(ii) 解釈の多様性

とにかく、上の一番基本的なところはOKってことにする。この点で私が興味あるのは、個別のCMが実際にそうしたものか、ってところだわ。ルミネやキズナアイは実際に差別的だったのだろうか。ネットでのあれやこれやの炎上について、大筋では「性差別的なのはだめ」「偏見を助長するのもだめ」っていうのは同意されていて、個別の作品がそうしたものかが争われていたように思っている。

この「個別のCMなりが実際にそうしたものか」っていう問題を、堀先生は「人によって受け取り方は違う」「そう感じない人もいる」という反論がなされる、って言ってる。これが堀先生の(ii)の「読みの多様性」についての反論。先生は「メディアのメッセージは一義的ではなく、解読は多様である」って認めるんだけど、「しかし、こうした反論は、メディアの影響力を低く見積り過ぎではないだろうか」という。これはわかりにくい。

「人の心を深く傷つける表現に責任はないだろうか。メディアは大きな力を持つのだから、人生に大きな負の影響を与える可能性に敏感でなければならない。」

「差別と感じない人もいる」という意見によって、不快に感じている人は我慢を強いられるし、どのような表現が誰にとって不快なのか、という議論の糸口が閉ざされしまうことにもなる。」

ここのところで、堀先生はとんねるずの保毛尾田保毛男のコントをもってきている。あれは(私が見るかぎり)たしかに(実は新しい方は見てないのだが)差別的で、ゲイの人々を傷つけている。2000年代には通用しない表現だろう。(見てないけど)ゲイの人々の容姿や行動を笑い者にしたりするというのはステレオタイプ偏見をあらわしているし、明確に差別的であり侮辱的だろうと思う。まあ私とんねるずの笑いは嫌いなので見たくない。

しかし堀先生はとんねるずをもってきても、もとのルミネやユニチャームやキズナアイがどうなのかってのは触れないわけよね。これはあんまりよくない論法だと思う。論点ずらしとかレッドヘリングとか呼ばれている誤謬推理・詭弁だと思う。フェミニストの表現批判に対して問われているのは、ルミネやキズナアイが差別的であり、とんねるずのコントのように 人をひどく傷つける表現であるのか 、ということであるのに、それに答えるのを回避している。

フェミニストに対する反論者たちは、「解釈なんでさまざまなんだからなにも批判なんかできない」とかっていうタイプのラジカルな相対主義みたいなものを採用しているのではない。あくまで「キズナアイが差別的だと指摘されるのはなぜなのか」ということのはずだ。たしかに人を傷つける表現は存在するし、そうしたものは解釈はそれほど難しくない。問題は、もっと微妙な個別の表現が本当に人を傷つけるものと言えるのかどうかだ。

というわけで、この(ii)のところの堀先生の論法は私は認めません。

(iii) 表現の自由

(iii)は「どういう表現も表現の自由だ」っていうタイプの反論。

これにたいしては、「メディア表現は多くの人の目に振れることが目的の一つとなっており、そうした公共性を持つものが、性差別的であることは目を閉じてすむ問題ではない。」「求められているのは、情報制作者側の女性表象に対する考慮である」

「ヘイトスピーチ禁止条例に見られるように、表現の自由はどのような表現も無条件に認めるものではない。表現の自由は守られねばならないが、ヘイトスピーチのように他の人権と衝突する場合には制限を受けざるをえない表現があり、表現の自由には制約があると考えるべきであろう」ここはまあOK。細かいつっこみは可能だけど余計だろう。

(iv) 公共性

「アイキャッチャーの多くに若い女性が登用されることへの批判に対し、「若い女性がアピールした方が商品は売れる」「若い女性に魅力を感じるのは生物としての本能」といった反論がなされる。」

「本能」はやめましょう。本能撲滅委員会を結成してほしい。まあ「人間の本性的な傾向」ぐらいならOK。この、魅力的な男女をアイキャッチに使うというのは、たしかにルックスが魅力的な男女は人目をひきやすいし、好意的な対応をされやすい人間の本性みたいなところを利用していると思う。そして、魅力的な男性より魅力的な女性の方がはるかに多いように思う。これはいわゆるエロティックキャピタルの話に関係があって、そのうちいろいろ議論してみたいと思っているけど今回はパス。

さて、堀先生は「行政広報は「特定の意図をもったり、特定の対象者だけに行ったりする広報は許されない。あくまで行政広報はサービスの公平な提供のために行うもの」っていうのを引用し、「したがって、PRターゲットを男性に限定することは、サービスの公平な提供に適っていないといえる」と言う。

これも論点がずれているように思う。へんよね。(確認してないけど)これはたとえば福祉サービスを提供の広報をするときに、サービスを受ける人のなかの一部の人だけに向けた広報をしてはいけませんよ、ってことだろう。しかし今回はそのタイプの「行政広報」の話をしているのではないはずだ。論点相違・レッドヘリングだと思う。

たとえば碧志摩メグは男性に対するサービスなのかというとそうではなく、(せいぜい)メグを餌にしてオタ男性の注目をひいて知名度を上げ観光客になってもらおういうもので、別にサービスを提供しているのではない。またユニチャームも人工知能学会もキズナアイもそうしたものではない。

一番その雰囲気のある宮城の壇蜜先生のCMでさえ、男性だけにサービスを提供しようというものではないように見える。壇蜜先生が亀をなでるところを鑑賞させてくれるなら行くという男性はいるかもしれないが。むしろ、当時人気の壇蜜先生を使って下品な広告をして話題になろう、という意図があるように見えた。まあ下品であることは認めるけど、そうした壇蜜と下品なセクシーさとの組合せがおもしろいと制作者たちは考えたのだろう。下品だ。下品ではあるが性差別なのかというとよくわからない。

「特に、性的な表現は、女性の人権からは、肌の露出の程度だけが問題とされているのではなく、女性を「トータルな人間存在としてこの世界に生きる者」として明確に把握しようとしているかどうかが重視されている。」

これは加藤春恵子先生の「性別分業批判・らしか固定批判・性的対象物批判」という文章の引用なんだけど、まずそもそも壇蜜以外に話題になっている広告等は、「性的な表現」と呼ぶようなものではないので、突然こうした引用があらわれて。さらに、ルミネもユニチャームも「トータルな人間存在としてこの世に生きる者」として見てると思う。あれがトータルでなければトータルな人間存在として描くというのがどういうことか私にはわからない。

ちなみにこの加藤春恵子先生の文章はクリアでおもしろいので一読してみるとよいと思う。谷崎潤一郎〜市川崑先生の映画『鍵』が女性の「性的対象物化」「性的モノ化」の典型例あるとして批判している。あれはまさに道徳的に怪しげなモノ化の典型だからこそ芸術になっているわけなので、興味深い論説だと思う。

とにかく、私は堀先生のこの(iv)も受け入れられない。もっとも、公共的な団体は私企業より性的に魅力的な表現を避けるべきだというのはありえる主張かもしれないので、その理由をもうすこしつめてもらえるとよかったと思う。

萌え絵の特殊性

萌え絵については堀先生は特に節が設けて論じていて、これはえらい。萌え絵をどうしようが被害者がいないって言われるけど、「表現される女性イメージと現実の女性は無関係ではなく、イメージが参照されている。」これはOK。

「キズナアイは、舌足らずな喋り方や上目遣いの「接待モード」で表現されている。それが女性らしさや可愛らしさに結びつけられている記号であるからこそ、そうしたイメージを女性キャラクターが再生産していることが批判の一端となっているのである。」

このキズナアイの評価はオタの人達が反論したところよねえ。かなり反論されたからここでは触れない。でもまあキズナアイがかわいいっていうのは認めていいと思う。そして萌え絵の「コード」とやらの話が出てて、先生は次のように指摘する。

「そうしたコードやコンテクストに親しんでいない人にとっては過激な表現と感じられるものが、制作者やファンには自然化されているため「性的なもの」と認識されないことがある。」

この堀先生の論文2019年7月出版で、その前の年の12月の学会の発表をまとめたものだと思うんだけど、私知らなったのよね。「コード」の話をした小宮友根先生はこの論文ポイントしてくれてもよかったかもしれない。あの界隈の人々のあいだでは、「萌え絵コード」みたいなのが共通理解なのかもしれない。私はなんかそういうのうたがわしいと思ってんだけど。

「また、イラストはデフォルメの技術(意図的な誇張)が使用されるため、かわいい・優しい・甘えている・従順・無知といったジェンダー・バイアス表現と性的表現が重なり、女性性の表現が過剰になりがちという特徴がある。」

「萌え絵をPR等に使用する場合、コードとコンテクストが共有されている狭い領域から、コードとコンテクストが共有されない公的領域への進出がなされるという点に注意が必要だろう。」

ここの堀先生の指摘はたしかにおもしろいと思う。えらい。SNSの女性を使った表現で炎上するケースでは、たしかに萌え絵(私この言葉あんまり好きじゃないので「アニメ絵」ぐらいにしたいんだけど)にまつわるものが多くて、ああしたアニメ的表現には、生身の女性をつかったものとはちがうタイプの問題があると多くの人が考えているだろう。

キズナアイに代表されるアニメ・AIキャラたちは若い女性の姿を使うことが多い。これはやはり、我々が若い女性が好きだからだと思う。我々というのは我々高齢者男性という意味ではなく、もっと広く、女性も男性も若い「かわいい」女性が好きなのだと思う。

以前は、「そうしたものは男性が金と権力をもっていて主要な消費者だからだ」と説明されたわけだけど、そろそろ見直してみたらどうだろうか。

フェミニストの先生たちはよくこの社会は男性中心的だというんだけど、実際には現代社会は非常に女性化 feminize されていると思う。マンガやアニメのファンは男女を問わず多いんだけど、最近は「けいおん!」や「ガルパン」その他、主人公たちは若い女子ばっかりで、もう男子はアニメ世界からは死滅したんではないかというほどだと思う。男子主人公たちもイケメン中心で、表現が女性化されていると言えるように思う。歌謡アイドルたちもやはり女性の方が優越していて、女性ファンも多い。女性的な魅力や発想・行動などが非常に肯定的に描かれているわけなのよね。こういう意味で現代社会は女性化され、またセクシー化(sexualize)されていると思うので、社会学者の先生たちは「男性支配!」みたいな固定的な発想を見直して、女性化・セクシー化された文化というものを批判的あるいは肯定的に見たりしてみてほしいと思う。

まあここはもっといろいろ議論できそうなところで、とにかくとっかかりを作っている堀先生はえらいと思います。みんなで議論しましょう。

残り

ここまでが本論で、残りは、こうした表現の問題は「人権問題です」っていうのと、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」のでたいへんだっていう話。

女性イメージには、作り手と受け手が共有しているジェンダー規範が反映されている。商品PRと女性の”若さ”のつながりが当然視されていたり、女性が教わる側でしかなかったり、女性の身体の一部がクローズアップされるのぞき見的なカメラワークが多用されたりする描写などは、性差別的社会を映し出すものだ。ジェンダーは構造的な問題であり、社会に深く埋め込まれているからこそ、意識しなければ自由になりづらい。

女性の「若さ」というか、若い女性が魅力的だから使われるという話よね。問題は、「ジェンダーは構造的な問題である」というのと「ジェンダーは人権問題である」っていう表現が、フェミニスト以外にはわかりにくいことだと思う。短い論説だからしょうがないけど。

よく「構造的な問題だ」「構造を見ないと」ってな話を聞くわけですが、これ紋切り表現になってしまっていて、私は具体的にどういう話なのかよくわかないのです。一つの理解は、「男性が金と権力を独占しているから、女性はそれにしたがわざるをえず、そのためにかわいくしたり化粧したりするのだし、メディアでもそうした女性を使用するのだ」とかそういう話だと思うんだけど、これはかなり疑わしい主張だと思う。論じるとかなり長くなるしまだよくわからないので先送り。

「人権問題だ」というのも紋切りで、言おうとしているのは「人間の平等に反する」なんだろうけど、どういう意味で平等に反するかはやはり議論が必要だろうと思う。まあこういうのは根本的な話なので、堀先生がこういう書き方をしているのは今回はしょうがないと思う。この「構造」と「人権」の話もみんなで議論してつめていきたいですね。

堀先生の残り一つは、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」「SNSは物を言う女性が女性であるがゆえに差別を受ける現場である」ために、「言論の自由市場」はあまり有効でない、という指摘。

女性ツイッタラーに対して、論点と関係のない侮蔑をする人々とかはたしかにいて、非常に下品であり不道徳だと思う。しかし「女性への侮蔑がはるかに多い」かどうかは微妙に思える。たしかにフェミニスト女性に対するツイッタとかでの侮蔑や罵倒はひどいものがあって、ああいうのはやめるべきだと思う。ただし、そうした侮蔑や罵倒する人々は、男性にも同じようにそうした表現を使う人々だと思う。政治的な対立があると侮蔑的な表現や攻撃的な表現を使ってもかまわないと考える人たちがいるようで、これもやはり男女ともに存在する。そうした下品で不道徳な発言をする人々をどう扱うか、というのはやはりむずかしい問題だと思う。ツイッタ社のようなところが、一定の基準をもうけて凍結などをするのは私はやむをえない派。しかし、あんまりやりすぎないように寛容であってほしいとも思うわけです。

まとめ

ってなわけで、この堀先生の論文はとても勉強になるので、入手できる人は入手して検討してほしいですね。えらい。

途中で出てきた加藤先生の文章が再録されているのはこれ。

2020/3/21 (土) セックス哲学懇話会やります

コロナでなにも予定がなくなって暇だという声があるので、ヒマならごろごろしてりゃいいわけですが、ゴロゴロついでに3/21に京都でセックス哲学懇話会を開こうと思っています。単にその分野に興味ある人間が集まってネタをしゃべってみるだけ、というものです。今年度の自分たちのセックスと哲学について反省し(「自分たちの」は「セックスと哲学」にかかります)、来年に向けて計画したりもします。希望者は twitterのeguchi2020 か eguchi.satoshi@gmail.com に連絡してください。場所はおそらく京都女子大S校舎のどこか、2時から5時ぐらいの予定。いまのところの予定話題は

  • ながと先生の「ロバートソロモン先生のセックス快楽の話はステキだ」という話。Robert Solomon, “Sexual Pradigms”の話かな?
  • あいざわ先生のウーマンリブと中絶あたりの話
  • 江口の「応哲で性的な表現の話することになってるけどどうしたらいいだろう」という相談。宇崎ちゃんとかあそこらからんでしまってあれだった、という話も?Mari Mikkola先生の議論はどうなんですか、Haslanger先生はこわすぎませんか。
  • 江口の「ことしは生涯学習講座でルソー・ウルストンクラフト・ヒューム・カント・ショーペンハウエル・ミル」ってやったけど、これは許されるだろうか、専門家から非難されたときどうお詫びするべきか」
  • 翻訳や出版の企画ってどうするんだろう?
  • セックスの哲学を学部生にどう教えるか問題のつづき

などです。

 

ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

んで、ろくでなし哲学者列伝のメインはショーペンハウアー先生に決めてたのですが(キェルケゴールも列伝にいれたかった)、ショーペンハウアーとキェルケゴールで終わってしまうと味が悪すぎるので、あんまりろくでなしじゃないミル先生にお説教してもらうことにしました。

アルトゥール君、いいですか、後輩の言うことを聞きなさい。

両性の天性が、現在の職務および地位に、彼らを適応させている、あるいは天性がその職務と地位とを彼らにふさわしいものとしている、という議論も、何の役に立つものでもない。常識からいっても人間の精神の構造からいっても、両性の天性を知っている人、あるいは知ることのできる人はいないと私は考えている。というのは、彼らは誰にしても、自分の現在の地位から他の性をながめるしかないからである。

われわれは男はこうだとか女はこうだとか言うための知識をほとんどもってないのです。せいぜい、私から見たら女性はこうだ、ぐらいなわけですが、それは私から見てる女性一般の単なる勝手な印象にすぎない。

たとえば、地主にたいして小作料をひどく滞納している小作人が、あまり勤勉でないという事実から、それを理由に、アイルランド人は生来怠け者であるという人がいる。……これと同じ論法をもって、女性は自分たちの身の回りのことばかり気にして、政治などには関心をもたないから、女性は公益の問題には天性男性ほどに興味をもたないのだ、という人もすくなくない。

同じ条件のもとで、税金払わない人がいたら、その人は払う人に比べて勤勉じゃないからかもしれない。それを認めても、税金を払わないひとがアイルランド人に多くてがイングランド人に少なかったからといって、アイルランド人の方が怠慢だとかは言えない。税金の割合とか国家との関係とか、その他の条件が等しくないからだ。そういう条件をそろえてはじめて「〜は〜だ」と言える。こういうのは『論理学体系』の正しい帰納の方法とかで延々議論したことなわけです。

同様に、当時の女性が政治に関心を持たなかったとしても、たとえば参政権の有無なんかが影響しているだろうから女性が公益に関心がないのだとか言えませんよ、とそういう話です。環境要因を見ないで勝手に天性の話にしてはいかん!

それゆえ、両性のあいだの生来の相違はなんであるのかというもっとも難しい問題にかんして、現在の社会状態においては、それについて完全正確な知識をえることは不可能である。一方においてはほとんどすべての人がそれについて独断的な意見を持っているのであるが、他方、それを部分的ながらも洞察することのできる唯一の手段をおろそかにしたり軽んじたりしない人はいないのである。

性差やジェンダー差みたいなのについて、はっきりしたことはなかなかいえない。でも、ショーペン君のように独断的な意見をもっている人たちはたくさんいる。まあ独断的だからおもしろいんだけどそれは科学・学問とは別の世界。そして、もうすこしマシな洞察する手段はたくさんあるのに、それを無視しちゃう。我々は独断的な奴らだからだ!

男性と女性との知的および道徳的差異がいかに大きくいかに根絶しがたいものであるとしても、それが生まれつきの相違であるとする証拠はみな消極的なものである。ただどうしても人為的でありえないもの、すなわち、教育あるいは外部の環境によって説明することのできる両性の特徴をすべて除いてそのあとに残るもの、それのみが、生来のものと考えうるであろう。それゆえ、……両性のあいだになんらかの差異があるということでだけでも、それを主張するのには、人間の性格を形づくる法則についての深遠な知識がなくてはならない。しかし、いまだかつてこのような知識を有するものはいない……(70)

「道徳的差異」はわかりにくいかもしれませんが、まあ心理的な差異ぐらいに広くとってOKのはずです。男女の生まれつき・本性的な差とか考えるときは、教育や環境の違いをとっぱらってしまわないとならないけど、実際にはそれはものすごく難しい。実験室で同じ環境で育ててみようなんてのは虐待だし、さらにはそういうことしても環境要因をまったく消去できるかどうかはわからない。そもそも我々は人々の性格やらパーソナリティやらがどうやって形成されるかよくわからっておらんのです。まあ最近では一卵性双生児とかの研究で少し改善してますが、それでも性差についてはわからない。一卵性双生児は少なくとも生物学的には同性ですからね。

こっからがおもしろい。

この問題〔女性の性格や能力〕にかんしては、それを真に知っている唯一の人々、すなわち女性自身がほとんど証拠を提供しないし、またたといいたとしても、それは大抵にせものであるために、決定的なことはなにも言えないのである。むろん愚かな女性を知ることは簡単である。その愚鈍さは世界中どこへいっておたいてい同じようなものであって、愚かな人間の意見や感情は、その周囲の人々がもっているものから十分推断することができる。

「女性自身がほとんど証拠を提供しない」がいいですね。一つには、女性にたいする教育その他が男性とは大きく異なっているので、どんな能力をもっているかとか男性と比較することができない、ってのがあるわけですが、その他に、女性自身が、どんなことを考えているか、どんなことができるかをはっきりしたことを言わない、というのもある、ということだと思うです。まあ教育ちゃんと受けてない人が多いので、文章とかスピーチとかで表現するのが苦手だっていうのもあったのかもしれませんが、それだけではないかもしれない。ニセモノ、つまり嘘を言うこともけっこうあるというわけです。でもこれは男性についてもそうよね。

「愚かな」人々、つまり子供やあんまり気のきかない人々は観察してれば、その人々が何を求めてなにができるか、だいたいわかるわけですが、人間、賢くなってくるとお互いにだましあいするのでそんな簡単ではない。

ところが、自分自身の意見と感情とかみずからの性質みずからの能力から発露する人々の場合には、そうはいかない。だから、自分の家庭内の女性についてすら、その性格をかなりの程度にしっている男性はめったにいない。

おもしろいのはこれです。自分のママや姉妹がなにを考えているのか、どういう生活をしているのか、たとえばムダ毛はどのように処理しているか、知っている男性はめったにいないということだと思います。特にミルの生きていたヴィクトリア朝時代は女性にいろんな抑圧が加えられていた時代なので、なにをしているのか男子にはさっぱりわからない、そういう感じだったんじゃないですかね。ご家庭も今理想とされているような和気あいあい、みたいなのではなく、自分の旦那に「ロード、今日は召使いのメアリが粗相をしたので私がきつくお仕置きしました」「なるほどレイディー、それは正しいことだ」みたいなそういう会話だったかもしれんし(『高慢と偏見』の映画とか見ると、実際旦那をミスターで呼んでますわね)。

多くの男性は、自分こそは女性を完全に理解している、なぜならば、自分は二、三の女性と、いやもっと多くの女性と恋愛関係にあった経験があるから、という。もし、彼が立派な観察者であり、その経験が量と同様質にまでおよんでいるならば、彼は女性の性質の狭い一面についてはあるていど知りうるかもしれない。

アルトゥール(そしてセーレン・キェルケゴール君!)、聞きましたか?頭よい人が女遊びしたら、たしかにそれなりのことはわかるかもしれません。

しかしそれ以外のあらゆる部面については、彼は他の人と同様無知である。というのは、女性は、恋愛関係にある男性にたいしてはそれらの性質をきわめて用心深く隠すものであるから。

でもミル先生はなんでそんな事知ってるんでしょうか。

そこで女性の性格を研究する場合、男性にとってもっとも都合のいい場合は、自分自身の妻を研究することである。というのは、こういうことは機会も多く、女性にたして十分な同情をもってする場合もそれほど稀であるとは言えないからである。

ほう。研究するわけですか。まあ自分の奥さんとなればシンパシーもあるから研究しやすいというわけですな。

そして事実これこそは、この問題にかんして立派な知識をえることのできる唯一の源泉であると考えられる。しかし多くの男性がこのようにして女性を研究する機会はただの一回であった。

わはは。女性についての知識を得たときはもう遅い、そういうことですね。

ソクラテスとそれを引用したキェルケゴールが、「結婚するがいい、君は後悔するだろう、結婚しないがいい、やっぱり君は後悔するだろう」みたいなことを言っているのですが、まあ結婚が1回だとだいたいわかったときは手遅れなので、離婚や再婚できたほうがいい、そういうことですね。でもそれってその女性についての知識だから次は違うだろうし、やっぱり後悔するんじゃないんかなあ。

っていうかそもそもミル先生結婚したのはハリエットさんと20年以上おつきあいしてからじゃないっすか。いったいそんな晩年に結婚して何を経験したのですか、みたいな心配が浮かんできますけど大丈夫ですか。ははは。

まあそういう意味じゃなくて、結婚したりっていうのは当時だったら1回、離婚できたとして2,3回なので、女性一般にについて知るのは無理でしょ、一般化の誤謬推理避けられないから「女性とは」みたいなのするのはやめましょ、って話ですわね。

ミルの(初版は若い時の)『論理学体系』は、主にドイツ観念論とかの頭でっかち、独断的な哲学の方法はよくない、ちゃんと実験や観察して証拠を集めていきましょ、じゃないとまちがいますし、特に社会科学(道徳科学)では独断的方法はやばいです、ということを主張するために書かれたそうな。ショーペンハウアー先生みたいに、自分の身の回りの女性を見て「女は」ってやるのは典型的にだめな方法。つつしみましょう。(でもつつしめない)

 

上の本読むときは下の本の解説もいっしょに読みなさい。名著。

上の水田先生の本、『論理学体系』の誤謬推理/詭弁推理の話にもがっつり言及していて感心しました。

ショーペンハウアー先生に本当のミソジニーを学ぼう

大学の公開講座で、「生涯学習」としていろんな年代層の人にお前らが勉強していることをわかりやすくしゃべって、教養や楽しみにしてもらえ、という業務があり、私も参加しています。んじゃまあ哲学・思想や人生なんかについて考えてもらいたいなあ、みたいなので学生様相手にやってる「愛と性」の年長者バージョンみたいな感じで。去年はやはりオリジナル哲学者たちへの敬意から、プラトンとアリストテレス。エロースやらフィリアやら。今年は近代がいいだろうってんで、18〜19世紀でルソー、ヒューム、ウルストンクラフト、カント、ショーペンハウアー、J. S. ミルみたいな感じ。キェルケゴールも予告してたんだけど時間の都合で結局できなかった。無念です。

予告には、「本年度は、18世紀から19世紀の有名哲学者を中心にとりあげる予定です。彼らの以外な一面を知ることができるでしょう」とか書いたけど、実際の受講生の方々には、「男性中心の哲学者たちがどんだけろくでもない話をしていたのかを紹介します、哲学者のろくでもなさを味わってください」みたいな感じで始めました。

私が考えているろくでもない哲学者ナンバーワンはやはりショーペンハウアー先生で、先生はこのブログでももとりあげる価値がありますね。ろくでもなさがすばらしすぎる。

ショーペンハウアーがろくでなし哲学者ナンバーワンなのは、もちろん有名な「女について」の著者だから。主著はもちろん30歳すぎぐらいで書いた『意志と表象としての世界』ですが、よく読まれているのは60すぎで出版した『余録と補遺』に収められているエッセイみたいなやつらですわね。文庫本なんかでは編集されて切り出されている。「女について」もそういう形で有名ですね。

とにかくこの「女について」は女性にたいする無根拠の悪口を書きまくっていてろくでなさ最高なので、ちょっと紹介します。私が書いてるんじゃないですからね。全部ショーペンハウアー先生です。それでもたくさん紹介するとやばいので、ほんの一部だけ。

「女がいなければ、われわれの生涯は、その始めには助けを欠き、その中期にはよろこびを、その終わりには慰めを欠くことになろう」(362節)

これはルソー先生が「男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ」って言ったのとまったく同じ発想ですね。バブバブー。グヘヘ。そして最後は「わかってくれるのはお前だけだ」。ほんとにそんなひとたちがいれば男子としては言うことないですなあ。ははは。

しかし、ショーペン先生は若い女が好きです。

娘ざかりの女にたいして自然がたくらむことは、芝居用語で言う、きわめつきの見せ場である。つまりその少女の残りの一生涯がどうなろうとかまわず、自然はそのほんのわずかな年月のあいだに限って、彼女らに美と魅力と豊満をふんだんに与えるのだ。それというのも、この数年間に、男の空想力を完全にとらえようという算段だからだ。男はそのため夢中になって、なんらかの形で、その女の面倒を一生まともに引き受けようとする。

若い女は美しい!なぜならそれは生物としてその美によってオスを引き寄せて出産と養育の面倒をみさせるためだ!現代の進化心理学までつながる発想です。ショーペン先生はカント的な「自然」と「目的」を使ってますが、現代の進化的な発想なら「目的じゃなくて、そういう形質(美とか豊満とかでオスを引き寄せ世話させる)をもった個体が子孫を残したので、結果としてそういうのが遺伝的に生き残ってる、とかになるのだと思います。でも生物学者とかでも面倒だから、「オスを引き寄せ世話させるために美しくなってるのです」みたいな省略形の説明したりしますね。バラシュ先生たちの本を参照

……こうして自然は、他の被造物のすべてにたいするのとまったく同様に、女にも、その生存を確保するために必要な武器と道具を付与するわけだが、その与えられる期間は、自然がいつも使う節約のやりくちに従って、必要な期間に限られるのだ。

ダーウィン以前の考え方では、こういう「自然の節約の原理」みたいなのを想定しなければならなかったわけですね。そしてそれは「自然というのは倹約家だから」とか勝手にそういう想定を置いていた。進化的な発想からすると、「美によって生殖と子育てがうまくいけば、生殖と子育て移行はそれは関係ないので」みたいになる。ほんとうにそうなのかというのはもっと研究しないとわかりませんね。でもたとえばバラシュ先生たちは、女性のおっぱいが若い時は上の方にパツンパツンで、齢をとると下がってくるのは、上むいたおっぱいが若さの印になるのだ、みたいな話はする。おっぱいの位置を上げるのは相当コストかかるんでしょうな。

そういうわけで若い娘たちは、家事や事務的な仕事などは、内心どうでもいい片手間のこと、それどころかただの戯れと考えている。彼女たちがただひとつ真剣な仕事とみなしているのは、恋愛や男心を征服すること、およびそれに関連すること、たとえば化粧やダンスといったことどもだ。

なんてことを言うんですか!許しません!弊社の学生様はそうではありません!

それにしても男性哲学者のダンス好きっていうのはおもしろくて、ヒエロニムス先生が苦行して死にそうになってもダンスするアイドルグループを夢に見て怒ったり、ルソーが女子にはピアノとダンスを習わせてほしいとか、ホントに好きなんですね。現代社会でアイドルがあんなに人気がある理由がわかる。男子はみんな哲学者だからですね!

女が腹の中で考えていることはこうだ。金を稼ぐのは男の仕事、それを使い果たすのは自分たちのつとめで、できれば夫の生きている間に使い切るのがよく、少なくともその死後にはこれを浪費するのが自分たちの役目だ。

ショーペン先生はアイドルみたいに歌うまくてダンスがうまくて明るい女子が好きなのですが、金づかいが荒いのがいやなんですね。ケチ!なんでそうなったんですか、っていうとまあ個人史的な理由があるんかもしれないですね。

ショーペンハウアー先生のパパはお金持ちの商人名家だったんですが、先生がティーンエイジャーの頃に逝去なさり、その遺産を派手な才女のママと妹が食いつぶして破産したとかそういう話。明るくて派手なママは、いつも陰気でうじうじしているアルトゥール君が嫌いで会いたくもない、みたいに言われてたとか。かわいそすぎる。

そんな悪くないけど根暗そう

悪い人じゃないかもしれないけど、三つ子の魂百まで

 

左がママのヨハンナ、右がやっぱり才女の妹のアデーレ

妹さんはおとなになるとこういう感じ。才女な感じですな。

かっこいいと思う

若い時はさまざまな商売をされている女性とけっこうおつきあいして(おそらくお金の関係)、10歳以上上の女優・歌手のKaroline Jagemann (1777生)さんに片思いするけどふられる。

30すぎてから、やっぱり歌手のCaroline Medon (1802生、14歳下)さんと(なんとか?)おつきあいしたけど、カロリーネさんのおつきあいした動機に疑いをもって結婚しなかったとか。お金目当てだと思ったんでしょうか。老年になってからやっぱりお金むしられたようです。

40すぎてから15歳ぐらいのFlora Weißさんに惚れ上げた?このひとは肖像画とかみつからないなあ。まあ先生が派手なタイプの女性好きなのははっきりしてますよね。老年になってから隣近所のやっぱりカロリーネっていうお姉さんと暴力沙汰になって賠償金を年金で払ったりもしてますな。まさに女難の男。『うる星やつら』の錯乱坊(チェリー)やさくらさんに人相見てもらえばよかったのに。定めじゃ。まあ女性が好きなんだか嫌いなんだかわからない、頭のなかが女性しかない、あるいはせいぜい、哲学、女、唄、それが女嫌いである、ってことがわかります(ファイヤアーベント先生がそうだと言っているわけではないです)。

諸星はこの美人霊能者のさくらさんと関係をもったために、彼女にとりついていた物の怪すべてを引き受けるさらなる女難を味わう……

そういう個人的な経験から「女とは」とかやってはいかんですな。次のエントリも読んでください。 → ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

まだお金払いたくないけどもう少し読んでみたいって人は、ここらへんに誰かが写経した痕跡がのこってましたので買うかどうか考えてください(私ではないですが、読むと写経してみたくなる感じはわかる)。ショーペンハウアー先生は名文家だし、ものすごく明快な哲学者で、誰でも読めばすぐに言ってることがわかる。わかりすぎるぐらい。こういうの読むと、ごちゃごちゃ難しげな書き方したほうがよいときもあるのかもしれんな、みたいな。ははは。

 

 

これは(とりあえず)関係ないです。

ドラマ感想3本:『ラ・ラ・ランド』『プラダを着た悪魔』『東京ラブストーリー』

卒論でテレビドラマや映画やマンガなどを卒論にとりあげる学生様がいて、私はそういうのは専門じゃないけど学部の教員メンバー構成の関係でそういうのも相手にしないとならんことがあるわけです。私がそういうの指導していいんだろうかとか、私が評価していいんだろうかとかいつも気になるんだけど、そういう先生は全国でけっこう多いはずだし、まあしょうがない。そういう場合はしょうがないので私もそれを何度も見る、ぐらいの努力はするわけです。

まあ学生様と卒論の草稿みながらディスカッションしていると気づくこともけっこうあって、それはそれでおもしろい。

『ラ・ラ・ランド』

今年は『ラ・ラ・ランド』で困りました。私この映画、前作『セッション』ほどではないけどひどすぎると思ってたし。でもまあ何度も見ながら学生様と解釈考えてたら、おもしろいアイディアを教えてもらいました。

この映画がひどいのは、「本物のジャズ」がテーマだって言いながら、ぜんぜんジャズじゃないところですわね。あるいは、音楽が好きだと言いつつ音楽を尊重していない。音楽が(冒頭とレジェンド先生の以外)ぜんぜん本物じゃない。主人公セブの弾くものがほとんど(1場面以外)、狭い意味での(セブ自身が尊重する)ジャズじゃない。トラ(エキストラ)で呼ばれた(ジャズ以外の)バンドでもわざわざつまらなそうな顔で弾く。真面目に音楽やってたら、そんな顔作ってる余裕なんかないだろうよ。主人公がソロで弾いてるのは本当に最悪で、そもそも音楽になってないように思う。これは『セッション』でもそうだった。この監督はジャズというものをさっぱりわかっていない、ってミュージシャンの菊地成孔先生なんか怒っていて、私もまったく同意見です。

しかし、学生様と話をしていたら、「それって、セブたちが徹底的にだめな人間だというのを描いているのではないですか」ってなアイディアを聞かせてもらった。たしかにセブはなにもかにもだめな男で、まずとにかくジャズがわかってないし、「ジャズは目で見るものだ!」とかお説教しているシーンではミアに夢中で肝心の演奏見るどころかなにも聞いてないでしゃべりまくってるし(バンドはあきれたのか演奏やめちゃう)、恋人(?)のミアも映画俳優になりたいとかいいながら映画館で上映の邪魔するし(ありえない)、本気でだめな連中なわけです。そもそも彼らがふつうの意味で恋人なのかどうかもわからない。

ミアがレストランで音楽を聞いてセブを思い出して抜け出して会いに行くシーンがあるのですが、これも、高級レストランにふさわしくない古ぼけた、壁につくりつけの安っぽいスピーカーから、有線みたいなので流れてくる「エレベーターミュージック」で、あれで「ジャズピアノ弾き」を思い出すというのはすごい。ミアは、セブ自身がエレベーターミュージックをディスっているのを知りつつ、そして実はそういったものしか弾けないことを知っているから、エレベーターミュージックを聞いてセブを連想するのです。

そして最後に弾く音楽もまったくジャズじゃない。ここまで来ると、「なるほどこの映画は、観客をおちょくるための映画なのかもしれない」と思わされてしまいました。ぜんぶ正真正銘のニセモノ なんですわ。そしてそれはたしかに 意図的なもの だ。ほんとにすごい。あれ見て感動したり感心したりした人々は鑑賞者として馬鹿にされている可能性さえある。なんかそういう解釈の可能性を教えてもらい気づいたときにはぞっとしました。


おまけに、あとでブログにしようと思いながら日記にメモ書いた『東京ラブストーリー』と『プラダを着た悪魔』も追記して再掲しておきます。

東京ラブストーリー

母親が好きだった『東京ラブストーリー』を再放送で親といっしょに見て、おもしろかったのでそれで書きたい、とか。DVDもらって私も見た。あれは一般にヒロイン赤名リカの「セックスしよう」発言で女性の性的自律とかそういうのの話ってことになっていると思うわけですが(そういう論説や論文がある)、ぜんぜんそういうものではない、という印象。

そもそもあの物語の主人公は実は医学生の三上であり、そしてその同級生の女子医学生長崎尚子の活躍の物語だと思う。

またリカも三上も性的な関係がありそうなことがドラマでは明示はされていないが示唆されていたように見ました(夜中に頻繁にナンパ男の三上の部屋にいて、かなり親しそう)。

リカの不倫相手の上司や、カンチとの関係のきっかけなども隠蔽されていて、気づく視聴者は気づく、ってかたちになっている。

さらにリカは、性的に活発ではあるけど、自律した女性とは言えないと思う。この女性は元気でチャーミグだけど衝動的で、その場その場の自分の感情に正直に生きるといえば聞こえはいいが、計算したり自分を律したりすることできない。「セックスしよ!」もまさに衝動的で、性的に解放されているというよりは、その場の感覚に正直である、っていう方が正しいように思う。それはそれでいいわけですが、やっぱりそういうのは心配になりますよね。当時の女性もそう見てたと思う。

児玉聡先生の『功利と直観』のなかに、非常に印象的な引用があるんですわ。

食欲にせよ性欲にせよ、欲求がある程度満たされることは幸福になるために不可欠であるが、次々と生じる欲求をすべて満たすことが必ずしも幸福につながるとは限らない。たとえば次の例は、睡眠障害に悩むアメリカの一九歳の少女が、精神科医と交わした対話である。

少女: なかなか眠れない。どうしてか?
医師: 何か心当たりのあることは?
少女: いろいろ過剰だからだろうか。まず、煙草を吸い過ぎる。アルコールを飲み過ぎる。それに、私は男友達が多いせいか、セックスをし過ぎる。だから疲れ過ぎる。眠れないことと関係があるのか?
医師: その過ぎるというのは、よくないのでは。少しセーブするといい。
少女: 本当ですか。自分がしたいと思うことを、しなくてもいいのですか。(千石2001:153)

「自分がしたいと思うことを、しなくてもいいのですか」という少女の言葉は印象的である。彼女は、次々に生じる欲求を満たす以外に選択肢はない、あるいは欲求を満たす義務があると感じているようである。(p.16)

赤名リカはこの少女と同じタイプの人間で、実際バーで「こうなんだからしょうがないじゃない!」とか叫んでいる印象的なシーンがありました。

おそらく「自律する女」の称号に値するのは、つまり、意識的に自分の行動とその結果をちゃんと考えているのは、保母のサトミであり、医学生の尚子である、というなかなか意外なことを(勝手に)発見したわけです。どちらもなかなか計算高く、サトミは二股をかけたあげくに最終的に好きな三上をあきらめ真面目なカンチをゲットし、尚子も三上をきちんと落とす。どうもこのドラマが実際に視聴率が上がったのは後半尚子が登場して活躍しはじめてかららしく、やはり衝動的な人間はかっこいいけど女性の心をつかむのはうまくたちまわるタイプの女性なのではないかという気がするわけです。

おそらく当時のテレビドラマ批評みたいなのではそれなりに語られているのではないかと思うんですが(今は亡きナンシー関先生とか)、時間が経過してイデオロギーみたいなので理解されると「赤名リカは性的に自律した女性像」みたいになってしまう。ちゃんと仕事して経済的に自立はしているかもしれないけど、精神的には自律的とは言えない、そういう女性像だったんすかね。まあ魅力的ではあるけど破滅への道。

『プラダを着た悪魔』

『プラダを着た悪魔』も全体を2回ぐらい、部分的には何度も観なければならず、トランスクリプションも確認することになってしまったわけです。主人公アンドレアはボスのミランダからセーターの件で勉強不足、認識不足をディスられ(名場面)、ナイジェルにグチったらお前はなにもしてない、早くやめろとディスられ、そこから例の女性なら誰でも夢見る変身シーンにつながるわけです。高級ブランド服選び放題!。

でも、まずなんでそんな破格の優遇を受ける資格があるのだろう?ナイジェル(ドレッサー)は、アンドレアに協力することになったのか、ということが語られていない。借り物ショーの直前には、アンドレアは「ねえナイジェル?」ってなにかを提案しようとしている。その提案はなにか。答えは(ナイジェルがストレートだとすれば)決まってますよね。

また例のハリーポッターの原稿を入手するところでもそうしたことが起こる。ハリポタ入手しろと言われて、アンドレアはパーティーで出会っただけの作家トンプソンに電話だったかなにかして、無事入手するけど、なんでトンプソンはそんな危ない橋を渡る必要があるのか。答えはまあパリのベッドでわかる。もちろんあとでもとに戻る彼氏(出世しそうな雰囲気になってる)に秘密ですしねえ。

だいたいそもそも、ファッションに興味のない単なる女子大生が、超一流ファッション雑誌社に入社できたのはなぜか。教授から強力な推薦状を書いてもらったから。しかしそんな推薦状、ふつうファッションに興味のない女性に対して書くだろうか。

実際のところは主人公はいわゆる「女の武器」やエロチックキャピタルをナマの形で多用する女性である、っていうのが隠れた筋書だと思うわけです。これあんまり語られてないような気がします。女版島耕作。これがかっこいい女性の生き方なのだろうか(アンハサウェイだからそういう気もする)。


こだま先生の引用部分はこれ。

カント先生から未婚化・非婚化の原因を学ぼう

性的傾向性のなかのまったく単純で粗雑な感情は、なるほどまっすぐに自然の大いなる目的へと導いて行き、その要求を満たすことによって、回り道せず、手際よくその人物を幸福にするが、対象の大きな普遍性のゆえに放蕩と放縦に変質しやすい。(p.361)

カント先生はアリストテレス的な「目的論的説明」が好きで、我々がもつ性欲とか、首尾よくセックスできたときの満足感・幸福感とかは自然の目的を達成するよう、うまく作られているのだ、っていうわけです。まあ我々生物は、種の保存とかそういう自然の目的にしたがって生きてるわけです(注意!現代の読者は「種の保存」とか真に受けてはいけません!現代の生物学者たちがやる目的論的な説明も、簡略化のための比喩的な説明であると考えてください)。あんまり洗練されてない人々はさっさとセックスして幸福になれれる。それなのに、人間が高級になって洗練されてくるといろいろ注文が多くなってきてなかなか満足しない、幸福になりにくい。ていうかそもそも幸福のけっこうな源泉なのに、セックスできない。ははは。

他方、非常に洗練された趣味はなるほど激しい傾向性から野生を取り去り、それを非常に少ない対象のみに限ることによって、それを行儀よく、上品にするのに役立つが、それは通例、自然の大いなる究極意図を外すことになり、この意図が通例なす以上のものを要求したり期待したりするので、これほど繊細な感覚をもった人物を幸福にすることは、非常にまれであるのがつねである。

まあなんというか、我々は文明化され洗練されることによって、性欲その他の原初的な欲望にまつわる原初的な衝動性を押さえつけるようになってるわけだけど、それって逆に人々を満足という意味での幸福から遠ざけてます、というカント先生がルソーの『エミール』あたりから学んだ発想のあらわれですな。そしてこの「洗練され道徳的になると幸福から遠ざかる」っていうのは『道徳形而上学のための基礎づけ』や『実践理性批判』までずーっとカントが意識している人間生活の問題1)実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。。ミル先生とかもそういう悩みをかかえていたのは有名よね。

前者の種類の心意は、一方の性のすべての人に向かうので、粗雑になり、後者は詮索的になる。なぜなら、それは本来いかなる対象にも向かわず、一つの対象だけに心を向けているが、その対象は恋する傾向性が頭のなかで作り上げ、あらゆる後期で美しい諸性質で飾り立てたものであり、これらの性質を自然はめったに一人の人間のうちに、一つにまとめたことはないし、それらの性質を評価でき、おそらくそのような対象を所有するにふさわしいであろう人に、これを引き合わせることは、なおさらまれである。

これまたカントらしい面倒な文章。単純な性欲は女だったら誰でもいい、とかになるので粗雑です。洗練された異性の好みの方が、「本来いかなる対象にも向かわず」は解釈が難しいですが、 indem sie eigentlich auf keinen geht, sondern nur mit einem Gegenstande beschäftigt ist, みたいになっていて、「一人の対象を決めたらそれ以外にはあちこちむかうことがなく、一人の対象にじっと粘着する」みたいな感じのはずです。「♪あんまりそわそわしないで」ってやつですね。「一人」じゃなくてある「タイプ」かもしれない。つまり、女性の好みっていうのは一回固まってしまうと、あるタイプじゃなきゃいやだ(メーテルみたいなのじゃなきゃやだとか、峰不二子)ってことになる。きっとこっちですね。

 

んで、そしたラムちゃんや音無響子さんでなければいやだ、それ以外は愛せない、って一見すると洗練された趣味は、実は頭のなかで作り上げた妄想に恋しているのでしかなくて、実際には一途で電撃を発生できるナイスバティの宇宙人とか、23歳の世話好きの未亡人の大家さんとかはいないわけです。音楽にくわしくて文学も哲学も好きで映画も楽しめてナイスバディでさらに気立てがよくていつも笑顔、とかもいない。特に内面的な美徳は目につきにくいもので、そうした人がいるとしても、それと出会うこともお互いにとてもむずかしい。

ここから結婚の結びつきを遅らせたり、結局まったく諦めることが生じ、あるいは、おそらく同じように悪いことには、自分に対してなした大きな期待を満たしてくれない選択をした後で、痛ましく後悔することが生じる。というのは、ありふれた大粒の麦のほうがもっとふさわしいイソップの雄鶏が、真珠を見つけることが珍しくないからである。

前半はわかりやすい。あんまり妄想を激しくして異性に対する期待を高くすると、セックスや結婚の相手をみつけられなくなる、ってな話。まあまったく平凡な話ですが、これはまあ人類共通の知見なわけです。

この最後のところは解釈が必要ですね。すごい高嶺の花と結婚しようと思い込み、あれやこれや努力し貢ぎあげても、けっきょくそんなのは実現しないという痛ましい例です。イソップの雄鶏の話というのは、解説の久保先生によれば、イソップ〜ラフォンテーヌの『寓話』だと、「ある日、一羽のオンドリが、ひとつぶの真珠を掘り出し、そこらの宝石屋にくれてやった。「きれいなものとは思うけど、僕には粟の一粒がはるかに貴重な品物さ」だそうです。

カント先生が言いたいのは、「たしかにそこらへんに真珠(知性ある美人とか)は存在しないではないんだけど、それは「そこらのレベルの低いオンドリみたいなやつが手に入れてしまっているので、我々高い知性をもつ教養人には回ってこないのだ!」ってな話じゃないっすかね。これは「モテない男」論のハシリではなでしょうか。どうですか小谷野先生。

まあとにかく、カント先生のお説教はこうです。

どんな仕方であれ、人生の幸福と人間の完全に対して、非常に高い要求をしてはならないということを決して忘れてはならない。というのは、常に平凡なもののみを期待する人には結果がめったに彼の希望を裏切らず、反対に、時にはまた、予想していなかった完全性が彼を驚かすという利点があるからである。(p.363)

まあこれまた平凡ではあるのですが、モラリストというのはこういうのでいいのです。古来から伝わる人類の智慧みたいなのを、自分の生活のなかで苦い思いとともに再発見し、古の人々の思いを何度も何度も反芻する。それがモラリスト。モラリストとしてのカント先生はいいすね。興味あるひとは中島義道先生のやつ読んでみるといいと思う。よく書けてる。

 

 

References   [ + ]

1. 実は「洗練されると不幸になる」みたいなのは、最近の心理学の知見では事実ではないみたいなんだけど。

カント先生に女性のルックスの鑑賞法を教えてもらおう

前のエントリの続き。

紹介したいと思ったのは、第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」の後半にある、女性のルックスの美についてカント先生が語っているところです。こんな感じにはじまる。

美しい性〔女性〕の姿と顔立ちが男性に与える多様な印象を、できるかぎり概念化して捉えることは快適でなくもないかもしれない。この魔力の全体は、根本的には性的衝動の上にひろがっている。(p.358)

カント先生らしい面倒な言い回しですが、男性の女性のルックスの好みは様々なので、それがどうなってるか把握してみましょう、ってわけですね。そして女性のルックスは(男性に対して)魔力的な力をもつことがあり、それは(男性の)性的衝動に根拠がある、というわけです1。なんか現代の進化心理学みたいですが、カント先生の時代だと「種の保存」みたいなのはいってくるのでまだ特に進化的な話ははいってない。おもしろいのは次です。

つねにこの衝動のごく知覚に身をおいている健全で粗野(derb)な趣味は、婦人における外見や顔立ちや眼の魅力等々にはほとんど悩まされることはなく、本来ただ性だけをめざすことによって、たいていの場合、他人の繊細さを空虚なおふざけとみなすのである。

これは、性的衝動を感じたらすぐセックスするような男性は、女性のルックスとかあんまり頓着しない、女性の顔についてああだこうだいって悩んでるのは馬鹿にする、ってな話ですね。カント先生は女性の美について関心がある方だったんでしょうなあ。まあこの、そうした粗野な人々について一連のおもしろい皮肉がある。さて。

高雅な趣味のためには、婦人の外面的な魅力の間に差異を設けることが必要となるが、それに関して言えば、この趣味は姿と形における 道徳的なもの か、あるいは* 道徳的でないもの* にかかわっている。(p.358)

「もっと繊細な趣味をもつためには、女性のルックスのよしあしをみわけられなければなりません」というわけです。先生、ポリティカルに正しくありません!

「道徳的なもの」「道徳的でないもの」っていわれているのは moralisch / unmoralisch なんですが、このモラルってまあ「道徳的」って訳しちゃうとうまくつたわらないかもしれない。精神的なってな意味の英語のmoralと同じやつだと思います。カント先生がいいたいのは、「女性の(外面的な)ルックスについてよい趣味をもつには、外面だけじゃなくて、そこに精神的なもの、内面的なものを見分けることができる必要があるんだよ、ってことです。顔がかわいいだけじゃなくて、なにかそこに優れた性格みたいなものがみえてないとならん、ということなわけですね。

後者の種類の快適さにかんして、婦人は可愛い(hübsch)と呼ばれる。均整のとれた体つき、規則正しい顔つき、眼の色、優雅に際立つ顔は、花束においても気にいるような、冷ややかな賛同しか得られない単なる美にすぎない。

「均整のとれた体つき」は ein proportionierlicher Bau, プロポーションいい体。「規則正しい顔つき」はregelmäßige Züge、まあ左右対象だとかそういう感じですか。「きれいな顔はたしかに美schönなんだけど、それって花みたいな物体としての美とあんまり変わりないのである、そんなものは男性の熱狂的な愛を受けたりするものではないのだ」というわけです。hübschはやっぱり「可愛い」てしか訳せないと思うんですが、可愛いというより顔が整ってる、って感じですね。

顔は可愛くても、それ自体はなにも語らず、心に語りかけない。

まあただきれいなだけじゃやっぱり恋愛の対象とかにはならんわけですよね。忌野清志郎先生のこの歌みたいな感じっすか。

顔立ち、眼差し、顔つきの道徳的である表情にかんして言えば、それは崇高の感情か美の感情かのどちらかにかかわる。彼女の性にふさわしい快適さが、主に崇高の道徳的表現を際立たせている婦人は、本来の意味で美しい(schön)と呼ばれ、また顔つきや、顔の特徴認められる限りでの道徳的な印が、美の諸性質を告げている女性は快適(annehmlich)であり、その度合が高い場合は彼女は魅力的(reizend)である。

訳語の選択は難しいですね。私が訳すならどうするかなあ。いいたいことはわかりますよね。おじさんになってきたりして女性をたくさん見てくると、単に顔が整ってる、ってだけでは魅力を感じないことがある。魅力を感じるのは、なにか内面的なものが表情にあらわれているような女性だ、とそういいたいわけです。んで、その表情に表れる内面的なものが、カント先生がこの本で注目している「崇高」と呼びたくなるようなものをもっているひともいれば、同じく「美」と呼ばれるべきものをもっている人もいる、とそういいたいわけです。

前者〔崇高型〕は、落ち着きを示す顔つきと高貴な外見のもとで、慎み深い眼差しから美しい悟性のきらめきを輝かせ、彼女の顔にやさしい感情と善意の心が描き出されることによって、男性の心の傾向性も尊敬の念を我がものとするのである。

こっちは知性や教養をもっていて、おちついた感じの内面を見せてくれるような人。レディー。マリアテレジア女帝とかですかね。

後者〔魅力型〕は笑った眼のうちに陽気と機知を、またいくらかの繊細な茶目っ気、あだな諧謔、おどけたつれなさを示す。

こっちは明るくて楽しいおちゃめさん、マリーアントワネット様?

前者が感動させるとすれば、後者は魅惑し、みずからのよくするものであり他人に吹き込む愛の感情は、うわついているが美しい。(p.359)

こう、威厳のある美人と陽気でコケティッシュな美人、みたいな区分けをしているわけです。

さて、性欲との関係ですが、

この衝動がまだ新しく、発達しかけた時期に、最初の印象を与えた姿が原像として残り、そして将来、空想的なあこがれを刺激することができ、またこのあこがれによって、かなり粗雑な傾向性が、性のさまざまな諸対象から選ぶようにしいられるあらゆる女性の形態は、多かれ少なかれその原像に適合しなければならない……。(p.360)

性の目覚めの対象になった人のタイプが、その後の人生の性欲生活でも重要な役割を果たす、みたいな感じですね。もうカント先生の時代からそういうこと言ってたんだ。

いくぶん高雅な趣味にかんしていえば、われわれが可愛いと呼んだ種類の美は、あらゆる男によって、かなり一様な仕方で判定され、これについては通常考えられているほど意見の違いないと、私は主張する。(p.360)

単純に顔立ちがととのっているという意味での美人っていうのは、判断はだいたい皆同じ、世界各国共通だ、とかってことですね。

しかし、繊細な姿の判断に顔つきにおける道徳的なものが混合するときには、さまざまな男子において、趣味はつねに非常に異なってくる。彼らの人倫的感情自体に従っても、また顔の表情が、各人の妄想におおいてもつかもしれない様々な意味に従っても異なってくる。

おもしろいっすね。単なる「ととのった顔」については男性あんまり意見の相違はないが、内面的なものを含めると性の目覚めとかその後の妄想の積み重ねとかで好みがいろいろ分かれるようになりますよ、ってな話です。これ、ラブライブとかアイドルマスターとかガルパンとか、最近のアニメは大量の女子が登場しますが、あれは男子の多様な好みに対応するものなのですねえ。それぞれ違う性の目覚めをしたから。ははは。

決定的に可愛くないがゆえに、初め見たときには、とりわけて作用を及ぼさない形態が、よりよく知るにつれて気に入りはじめるや、通例、はるかに多くの心をひきつけ、たえず美しくなっていくように思われるということが見られる。可愛いが外見は一挙に知られるが、ときの経過に従ってますます大きな冷淡さでもって知覚される。道徳的な魅力は、それが目に見えるようになったときには、より強く心を捉える。これに対して、可愛い外見は一挙にさいられるが、時の経過に従ってますますおおきな冷淡さでもって知覚される。

「決定的に可愛くない」っていのはひどい言い方だとおもいましたが、weil sie nicht auf eine entschiedene Art hübsch sind」なので、まあ「すごく可愛いってわけではないので、最初はたいして印象をいだかなかったクラスの女子が、隣の席になってだんだん中身がわかってくるとだんだん可愛くみえてくる」ってそういう話ですね。カントくんも可愛いじゃないっすか。一方、美人なのはすぐにわかるけど、だんだん興味なくなるってやつですね(ルソーが妻について言ってる例のやつのうけうりっすかね)。まあ女性が美人なのはいいことだし、鏡やお化粧その他に気をつかうのもわかるけど、やっぱり内面が大事ですよ、知性と教養をはぐくみ、またポジティブな性格を身に着けましょうね、みたいなそういう話。男性のがわも、女だからなんでもいいってのは粗野だし、美人がいいとかってのも外見だけの話だったら馬鹿らしい、やっぱりその内面の崇高と美を見抜けるようにならないとなりません。まあごく普通の常識的でお説教っぽいものだけど、それはそれで楽しい。

まあこんな感じでおもしろい。見ての通り、「美と崇高」で趣味を二つに切っていくっていうのはけっきょくたいしてうまく行かず、矛盾しているっぽいところもあるんですが、まあそうういうの気にしないで軽く楽しい文章を書く、っていうのも、実はカント先生好きだったんでしょうな。カント先生軽さの美に挑戦する、ぐらいっすか。

女性のルックスの話となると、桂枝雀師匠の「仔猫」って話のおなべさんのことを思い浮かべるんですわ。まあルックスに恵まれない女性にたいする評価みたいなの、昭和な感じで、いまとなってはちょっとつらいところもありますが、枝雀先生すごいですよね。

この枝雀先生の芸は、すごく機知に飛んでて楽しくて美であると同時に、それを実現するための苦しい修行や、彼の(おそらく)鬱っぽい気質なんかも見せてくれて、見るたびに圧倒される「崇高」なものでもある。まあ「美と崇高」はどっちかだ、両立しない、みたいな考え方しちゃだめなんだとは思います。男女の特性や美徳悪徳についても同様。そういう単純な話っておもしろいけど、けっきょくはだめなんですよね。これはカント先生も認めてる。

 

 


  1. これ、中島義道先生と解釈ちがうかもしれない。 

カント先生の『美と崇高』はおもしろいなあ

去年と今年、過去の大哲学者たちが、男と女、そしてその関係について、いかにろくでもないことを言っていたかというのを紹介する一般向け講座みたいなのをやっているのですが、読み直してやっぱり軽い哲学っていうのはおもしろいなと思いますね。昨日は大哲学者のヒューム先生とカント先生を取り上げたのですが(先週はルソーとウルストンクラフト)、その一部を紹介してみたいです。

カント先生は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『人倫の形而上学』『啓蒙とかなにか』『永遠平和のために』とかギザギザした難しいタイトルのとても難しい本を書いていて有名なのですが、若いときはわりと軽い文章も書いてるんですよね。ドイツの大学の「私講師」というポジションで、一般受けしそうなネタを扱って受講生集めないとお金もらえなかったり、サロンや食事会とかでうまいこと言ってウケたいとかそういうそこそこ人間らしい事情があったのだとはおもいます。カント先生はふつう思われてるほどガチガチの融通きかない人ではなく、そこそこ助平心もあったのかもしれない。

『美と崇高の感情に関する観察』っていう1763〜4年ごろの作品(カント先生40歳ぐらい)のは徳に軽くて陽気で冗談とか入りまくって楽しい。これはカントっていう名前から想像される、ガチガチ体系哲学じゃなくて、「観察」というタイトルに表れているように、先生が自分や他の人々の社交などを観察しておもしろおかしく書いたエッセイですわね。

中心的なテーマは、我々がそれを見聞きしたり体験したり交際したりすると快や満足を感じる人や対象があるわけですが、特に「趣味」にかかわる話です。趣味は、プラモ作成とかキャンプとかのホビーじゃなくて、あの人は趣味がいいとか悪いとかっていうときの好みの方です。特に、「美」と、「崇高」のふたつに注目して、この二つで我々が好むものを分けていっておもしろい話をしましょう、というわけです。

「美」はもちろんふつうの「美しい、きれい、優美だ〜」っていうやつ、崇高の方は難しくて面倒なんですが、基本的には「すごい!えらい!」「ごつい!」「強えー!」とかそういうのにかかわるやつですね。カント先生の文章引用するとこうなる。

雪をいただく頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かに花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群におおわれた谷間の眺望、エーリシュウム〔ギリシア神話での死者たちの至福の世界、桃源郷ですか〕の叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。

この文章はまあ面倒ですが、「崇高は感動させ、美は魅惑する」ということらしいです。すごいのでこっちを圧倒してきて感動させるけど、ちょっと遠くから眺めていたいのが崇高で、きれいだったりかわいかったりしてうっとりさせてくれるのが美、と。まあわかりやすいですね。カントはいろんな優れたものをこの二つに分けていくわけです。

自然物とかだと上のよう感じですが、人間の性質でいうと、こんな感じ。

悟性は崇高で、機知は美しい。大胆は崇高であり、手管は卑小だが、美しい。……真実と誠実は単純で高貴であり、諧謔と快い媚〔こび〕は繊細で美しい。……崇高な諸性質は尊敬の念を、しかし美しい諸性質は愛をつぎ込む〔呼びよせる〕。 (p.328)

崇高なものは努力や堅さや重さや力と関係があり、美しいものは才気ややわらかさや軽さなんかと関係がある、まあそう言われると、我々が好きないろんなものが、この二つによって特徴づけられるような気がしますね。まあだからどうだってことはなくて、単なるおもしろい「お話」ではあるけど、こういう二分法とかやると、酒の席とかだといくらでも話が続けられる。太宰治の『人間失格』のなかで、主人公が友達といろんなものを喜劇(コメ)と悲劇(トラ)に分けて遊ぶ印象的なシーンがありますが、あれと似てる。ふたつに分類する、っておもしろいんですよね。まあカント先生にいわせればトラは崇高でありコメは美である、とかになると思う。

んでまあ美と崇高の話、どうしたって人間の話になるわけです、っていうかそれが目的で、自然物とか建築物とかそういうのは導入。私が興味あるのは当然男女の話。せっくすせっくす、せっくすの話しろー。ていうか私もここまで前置きが長すぎるわ。

第3章が「両性の相互関係における崇高と美の差異について」で、この章をいろいろ紹介したいのですが、今日は女性の顔の話だけ。あれ、前置きだけでかなり長くなってしまったから次のエントリに。


テキストは久保光志訳『美と崇高の感情にかんする観察』

実はカント先生とはずいぶん前に同じネタでお話させてもらっている。→ カント先生とおはなししてみよう

 

 

 

伊藤公雄先生のマーガレット・ミード

性差の科学編集委員会 (2011) 『性差の科学の最前線』、京都大学大学院文学研究科社会学教室、っていう報告集があるみたいなんです。google bookにひっかかってきて発見しました

まだ入手できてなくてよくわからないのですが、そのなかの伊藤公雄先生の文章がとてもひっかかりました。こんな感じです。

まあミードの『サモアの思春期』デレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』でかなり厳しく批判されて、それがフェミニズム/ジェンダー論に対するバックラッシュに利用されたよ、でもミードのサモアの話と、(前のエントリで紹介した)伊藤公雄先生たちが使ってるSex and Temperamentのニューギニアの話は違うよ、ってな話ですね……。そうか……。……。

お前は何をいっているんだ

 

デレク・フリーマン先生の『マーガレット・ミードのサモア』は有名なのですが、パプアニューギニアの方の研究についてもデボラ・ゲワーツ先生が再調査してます。それらをもとにして、ドナルド・ブラウン先生が『ヒューマン・ユニバーサル』(1991、翻訳は2002)でミードの研究の問題についてかなり詳しく論じています。

サモア

  • デレク・フリーマンが再調査。
  • ミードはサモアの思春期にはストレスが少ないといってるが、彼女のデータでも25人の女性中4人が非行行動をとっている。最近(80年代?)のデータでも他の文化とかわらない
  • サモアにはかなり極端な性的行動のダブルスタンダードがある。
  • レイプも頻繁にある。暴力も頻繁。

パプア・ニューギニアのチャンブリ族

  • ゲワーツが70年代に再調査。
  • チャンブリの伝統的概念では男性は攻撃で女性は服従的。
  • 生産は女性がおこなうが、その産物をコントロールするのは男性。
  • 男性から女性に対する暴力も頻繁。
  • ミードが調査したとき、チャンブリ族は他の部族との戦争に負けた直後で危機的状況だった。つまり、一時的に男性の活動や男性どうしの競争がよわまった時期だったにすぎない。
  • 民族誌において、女性が公的な場で男性よりも優位にたつ社会はいまだに発見されていない。

ここらへんはものすごく有名な話なのに、2011年で伊藤先生みたいなことを書いていて平気っていうのは、いったいどういうことなのですか。もちろん、アカデミックにはまだまだ論争は続くと思う。我々素人には、偉い学者先生たちがちゃんとした研究をすすめるのを応援するしかない。がんばれー。お金まわしてあげてほしい。

でも、いかにも「バックラッシュ」勢力が、ジェンダー論を攻撃するためにフリーマン先生の適当な研究を使ってバッシングしている、みたいな表現をして、恥ずかしくないのですか。そしてそれを見ていた社会学者の先生たちはいったいなにをしていたのですか。

 

 

なぜ私はフェミニストを信頼しなくなったのか:「ミードの表」昔話

あんまり幸福じゃないのでで、友原章典先生という先生の『実践幸福学:科学はいかに「幸せ」を証明するか』っていう本よんでたら(良い本なので読みましょう)、年寄になったら昔話をすると幸せになるって書いてたのでやりましょう。

まあ加藤の論文をきっかけに、2000年代のことを思い出してたんですが、やはり印象強いのは、フェミニズムとかジェンダー論とかってものが、学問的におかしいんじゃないかと思いはじめたころのきっかけですね。2000年代にはいって今働いている会社に就職して、事情から「ジェンダー論」みたいなものを担当しなければならなくなり、それなりに勉強したんですよ。そしたら、どれ読んでもなんかへんな感じがするわけです。何読んでも出典がはっきりしなかったり、怪しげなことが書いてあったり、今では(2000年当時としても)おかしげなことが大手振るって説明されているわけです。そのなかで出会ったのが「ミードの表」問題。これは文献を調査しながらはてなブログで連載したんですが、今読んでも読者にはよくわからなくなっているので、簡単に昔話したいと思います。ジェンダー論読んでたら、マーガレット・ミードのSex and Temperament あたりの話について、同じような表が掲載されていることに気づいたんですよ。

みんな同じような表を貼ってるんだけど、どれもこれも同じようでなんかおかしい。そしてそれを読むと、なんか孫引きを繰り返しているように見えるし、途中でいろいろ変わってるし、この人々は学者としてやばいな、って思いました。

簡単に問題を整理すると、Mead (1935) Sex and Temperamentから、村田 (1987)で作成された表を、井上(1989)が引用し、それを伊藤(1996)が縦横変換して誤植を入れ、それを伊田(2004)がさらに伊藤の名を出さずにパクリ、別の本の出典を加えてる、感じですか。村田1987(初版は1979)はごく初歩的な発達心理学の教科書であり、ジェンダー論の基礎文献につかえるようなものではありません。

私がこの一連の表を調査して発見したのは、ここらへんの人はマーガレット・ミードの本(Sex and Temperament)をほとんど読まないままに、仲間内かなにかで表だけ真似しあっているのかもしれない(推測)、ということでした。

こういう人々の言うことは信頼できない、とそのとき確信したのです。伊田先生は男性フェミニストということで一時期脚光を浴びて話題になってましたが、影が薄くなりましたね。伊藤先生はその後も第一人者として活躍していますが、色々変なことを言っていて私はまったく信頼していません。


伊藤公雄『男性学入門』(2005)

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』2004

 

『ジェンダーというメガネ』(2003)

出典は「マーガレット・ミード「男性と女性」 1935」

「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」

 

 

 井上知子他『生き方としての女性論』(1989)

 

 

村田孝次 『教養の心理学』4訂版、培風館、1987

「ジェンダー論と生物学」 (8) 「循環的」「権限が及ぶ」がわからない

んで、加藤先生は「自由意志」の問題をつかって、自然科学者(この場合は神経関係の人々)がいろいろ勝手なことを言うのを戒めたり。ここらへんはまあいいです。そんな素朴な自然科学者たちっていないだろう、ぐらいは思うけど。

……人間に特有の現象として措定されたジェンダーという対象について,生物学は何も言うべきことがなくなるのではないか,という疑念をもつ読者がいるかもしれない.それは半分は正しく,半分は間違っている.

うしろ読むとわかるけど、実際には生物学はなにも言うべきでない、と言っているっぽいのよね。でもとにかくお話を聞きましょう。

正しい面とはこういうことだ.人間における女と男の分類について考えてみよう。男とは, あるいは女とは誰のことだろうか.それはわれわれが女として,男として名指す対象者のことである.この循環的な規定がすべての,そして唯一の出発点である.

はい、出発点なのはよいです。しかし、それがなぜ 循環的 だといわれるのかよくわからない。机、イス、ペンギンとはなにかといえば、我々が机と呼ぶもの、イスと呼ぶもの、ペンギンと呼ぶものだ。イスや机は我々が座るために、あるいは物置にするために作られたものであり、ペンギンは南極とかにいる飛べない鳥だ。なにも循環していない。なぜ「男」と「女」が循環的な規定と言われる必要があるのだろうか。

これまでのところ,それは「卵を作る個体が雌,精子を作る個体が雄」といった生物学における定義と概ね整合的である.生物学の方が自然言語における「性別」概念に依存しながら実践されてきたのだから,これは当然のことではある.だが現在においてすら,両者は完全に一致しているわけではない.われわれの自然言語は,無精子症の男性も「男」と呼ぶし,卵巣をもたない女性も「女」に分類するからである.(pp.161-162)

これは例が悪い。この意味でのオスやメスは、生物学においては、典型的には大きな配偶子をつくったり小さな配偶子をつくったりする性というにすぎない。環境や発達の過程によって配偶子をつくらない個体もいるが、それは生物学者にはなんの問題もない。そして、それぞれの個体がどういう配偶子を作るように成長するかは、大部分遺伝子が定めていることもわかっている。無精子症の男性や卵巣を持たない女性がいてもなんの問題もない。したがって、加藤先生が言いたいのはそういうことではないのだろう。

さらに近年では,諸々の社会制度における性別の取り扱いを,生殖機能にもとづいて各個に割り当てられた性別ではなく,当人の性自認(ジェンダー・アイデンテイティ)にもとづかせるべきだという主張が影響力を増している.今後,この趨勢が続くかどうかは分からない.(p.162)

生物学的な性ではなく、社会的な性の話をしているわけよね。無精子症の男性がいる話はまったく関係がない。

だが,性別の基準がどのように変化しようと,その基準にもとづく「女」「男」という人間の分類が社会的に有効であるかぎりにおいて,それがわれわれにとっての「女」「男」の,すなわち性別という概念の意味である.(p.162)

この「分類が社会的に有効であるかぎりにおいて」と「性別という概念の意味」がわかりにくい。でも我々が社会生活において「男/女」と呼んでいるものと、生物学的な「オス/メス」が同一でないというのは認めたい。

このとき,どのような基準が採用されているか,そこに生物学の知見がどのように関わっているかといった事態を明らかにすることは社会科学の固有の課題であって,生物学の関わりは二次的なものでしかない.(p.162)

これはOKではあるんだけど、我々が性別をどう判別するかとかっていうことには、心理学や認知科学や脳科学や生物学がからんでくることもあるだろう。「社会科学固有の課題」といわれてるときのポイントが私にはわかりにくい。我々の日常生活における男女の区分けがもっぱら社会や文化による恣意的な区分けである、と言いたいのだろうか。

他方,生物学の方にも,もちろん固有の課題がある.生物学の体系内で定義されたヒトの性的二型にかんする研究の意義は,ヒトが有性生殖によって繁殖する生物種である限り,なくなるはずはない.また,たとえば「性自認」といった現象が遺伝子や生育環境とどのような因果関係をもつのかといったことも興味深い問題である.あるいはさらに,「自由」という概念をヒトがもつに至る自然史的プロセス/メカニズムさえも,将来の進化生物学は解明するかもしれない.だが同時に忘れてはならないのは,これらの課題はすべて,「性別」「性自認」「自由」といった民間概念の理解に立脚し,それを媒介として,初めて可能になるということである.そして,われわれがこれら諸概念を運用するやり方を解明することは社会学の,また,それらの規範的な正当性を問うことは倫理学,法哲学,政治理論といったディシプリンに固有の課題であって,そこに生物学の権限は及ばないという,ただそれだけのことだ.(p.162)

日常的な男女の問題を考えるときには、日常的な男女の概念をよく考えねばなりません、自由の問題を考えるときは、まずは日常的な意味での自由というものを考えねばなりません、というのはもちろんまっとうな主張だと思う。文句はない。でも「生物学の権限が及ぶ」という表現の意味がわからない。「生物学的にオスである」とか「SRY遺伝子を含む染色体を含んだ細胞によって構成され身体をもっている」ということが、社会的に男性として扱われることを正当化するわけではないということかな?それなら当然認める。しかし、そんなことを考えている生物学者がいるとは思えない。

進化生物学者や進化心理学者がやろうとしているのは、進化という発想を背景にして、我々がどのような傾向性をもっているのか、環境にたいしてどのように反応する傾向があるのか、我々の生活や社会がどのようにして成立しているのか、などを解明しようとすることだと思う。まともな科学者は、簡単には社会的な規範の正当化などはおこなわないものだ。ハエやタコやカッコウや犬やネコの生態や繁殖や性生活がどのようなものであれ、そこから人間の生活についてすぐに規範的な判断や価値判断を行おうとする人々はただのインチキ科学者である。そんなの誰でも認めることではないか。それでは「権限が及ぶ」というのはどういうことなのだろうか。

一方で、生物学者が提供してくれる、進化や性淘汰といった発想や、他の動物と人間の社会や生態の比較は、我々人間とその社会についていろんなことを教えてくれる可能性がある。社会的な性差と呼ばれているものは、我々人類が、長年にわたってかわりゆく環境におうじて試行錯誤してきた結果かもしれない。それは直接には我々の社会の規範を指示するものではないけど、規範的な判断をするときの参考にはなる。我々は、生物学や進化心理学の知見を取り入れることで、性犯罪やポルノグラフィー、結婚制度、家庭内の男女分業などの問題を、もっとうまく処理できるようになるかもしれない。

つまるところ、私は加藤先生が「生物学」としてなんか批判したい見解がどのようなものかよくわかららないのよね。まともな生物学者で、加藤先生が危惧しているようなことを考えている人がいるのだろうか?私はよくわからない。そして、2019年から2020年にこういう論文を読んでよくわからないと思って苦しんでいる自分にうんざりしているのです。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。

ここで改めて性暴力(と呼ばれる人間の行動)について考えてみよう.性犯罪を犯した少年たちの治療教育に長らく携わった藤岡淳子によれば,性暴力とは「性的欲求によるというよりは,攻撃,支配,優越,男性性の誇示,接触,依存などのさまざまな欲求を,性という手段,行動を通じて自己中心的に充足させようとする」行為であるという(藤岡2006: 15). (pp. 156-157)

ここで挙げられている藤岡淳子先生の『性暴力の理解と治療教育』は国内ではよく読まれている本のようです。私はちょっと問題があると思っているのですが、ここでは触れません。「性的欲求によるというよりは」を、「性的欲求だけではなく」ぐらいに解釈してよいならとりあえずOK。

「性的欲求」が性暴力の一要因ではないというわけではないが,それだけには収まらないさまざまな欲求, しかも対他者関係的な欲求が複雑に絡み合うことから性暴力が引き起こされるという事実を,性犯罪者の証言という具体的なデータをふまえて,藤岡は明らかにしている.

これもOKです。ただ、「具体的なデータをふまえて〜明らかにしている」というのはちょっと言い過ぎだと思う。藤岡先生の解釈は、おもに海外の古めの文献の解釈にもとづいているもので、現代の犯罪学者の人々がまるっきり賛成するものではないと思う。でもそれはよい。問題はそれにもとづいた加藤先生の議論。

ここで,分析を簡略化するために,百歩譲って「性的欲求」がヒト以外の生物種(の雄)にも通底する何物か,たとえば主体的にはコントロール不能な衝動であると仮定したとしても―ドーキンスのいう「無力な麻薬中毒患者」のメタファー(Dawkins 1976=:389) を想起してもよい一一それ以外の諸要因まで同じように片づけるわけにはいかない.

まず、「ドーキンスの「無力な麻薬中毒患者」」なんて、その文脈や意味の説明なしにいきなり出してくるのが私は気にくいません。こういう、「当然知ってるよね?」みたいなのやめましょうよ。ハッタリはやめてください。、私は、そういうことする人々とは人生かけて戦いたいと思います。この一文で、加藤先生もその憎いリストに入りました1)実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

ドーキンスの出典は、『利己的な遺伝子』の1992年の方の翻訳なら399頁(翻訳数種あるので頁がちがう)。話は、カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けて、そのヒナの赤い口が、(他の種の「里親」となる)鳥にとって麻薬的に作用する、っていう文脈ですね。

カッコウの雛の大きく開けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。……突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛び込んでくる。鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子どもの口の中に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。……カッコウの開いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているのかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。……その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者でもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.399)

加藤先生、現実世界での性暴力や性欲について、これ本気で想定するんですか?つまり、鳥がついカッコウ雛の口にエサを投げ入れてしまうのと同じように、神経系が刺激されて、ほとんど不随意の運動として、男性が女性をレイプしてしまったり、電車で痴漢してしまったりするのだと(議論のためにさえ)認めてよいのですか?もしそんな「麻薬」「悪癖」「超刺激」が与えられてたら、「他の要因」なんか考える必要ないじゃないですか。選択の余地ないんだし。なにを言ってるのですか。こんなことになるのは、ドーキンスちゃんと説明しないからじゃないですか。いいかげんにしてください。

とりあえず、性欲やそれを引き起こす刺激がこんなものではないと想定して、加藤先生の文章に戻ります。

藤岡が挙げる他の諸側面は,男であるならば性的に活発であるべきであり,女を従わせることは正しく,また女が男の欲求を満たすことは当然であるといった正当化文脈と切り離して理解することはできない.

なぜですか。私にはわからない。「正しい」とか「べき」とか、加藤先生自身はなにも説明してないじゃないですか。「(男が)女を従わせることは正しい」というのは、一部の加害者の証言にあるのかもしれないけど、それ抜きでは性暴力を理解できないのは藤岡先生や加藤先生じゃないのですか。なにか客観的に、そうした正当化の文脈と切り離しては、性犯罪者の動機やその行動の原因を説明できないのでしょうか。それならそれなりに論証してもらわないとならないと思う。(もちろんそれは不可能ではないと思うけど、なされていない)

そして「性的欲求」さえも, こうした文脈と関連することで初めて性暴力を駆動する一要素になることができるのであり(人間が何をどこまで我慢するかという基準が当該社会の規範によって変わることは自明である),かくのごとく性暴力とは深く〈正当化の回路〉に属する現象なのである.

わからない。加藤先生自身はさっき性的な刺激と性欲は麻薬のように強力だと想定しているんだからなおさらわからない。その麻薬としての想定は抜きにしても、なにも社会的な正当化や規範と関係なく、強制的なセックスや性的な暴行をおこなう人々というのを私はなんの苦もなく想像できるし、じっさいそうした見境のない人や半道徳というよりは道徳をまったく気にしない「アモラル」な人々もいると思う。なぜ、ある人々の行動の至近的/究極的原因を解釈するために、道徳的あるいは社会規範的な正当化が必要になるのか、私には理解できない。

以上の考察からも,人間以外の生物に見られる強制的交尾を人間における性暴力と同一視する進化心理学的な「レイプの自然史」といった試みがかなり根本的に的はずれであることが示唆されるだろう.さらに言えば,おそらく以上のような特性は,性暴力に限らず,およそ人間における「性」と呼ばれる現象全般に通底する特質であろう.

ぜんぜんわかりません!

 

 

References   [ + ]

1. 実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。