しかし1980年代からは、「猥褻」としてではなく「性差別」や「性暴力」として性表現を見る考え方が現れて注目をあびるわけです。この一連のエントリの始まりに書いた「ポルノ被害を考える会」なんかの思想的背景はこういうところにあるはずです。
1960年代に米国あたりでは黒人の公民権運動とかがあって人種差別に対してみんなが非常に敏感になったわけです。でももう一つ大きな差別があるんではないか、それは性差別だ、と。ジョン・レノン先生はオノ・ヨーコ先生に教えられて「女は世界中でニガーだ」みたいな曲を歌ったりして。まあ女性は経済的な差別だけじゃなくて、痴漢強姦その他の性暴力にもさらされているのに放って置かれているじゃないか、それは黒人に対する暴力や差別が放置されていたのとおんなじだ、ってわけです。(同じ意識から「動物も食べられたり毛皮剥がれたり実験に使われたりして差別されている!種差別だ!」って発想も出てきます。)
まあそうして第二波フェミニズムって呼ばれる動きが出てくる。70年代前半とかに女性が集まって、「こんなことに苦労している」みたいな話をすると、旦那やボーイフレンドや上司から侮辱されたり無理やりセックスされたりしているわけです。強姦・レイプっていうと道を歩いているといきなり暗がりに連れて行かれて「あれー、きゃー!」みたいなを連想してしまうけれども、実際に無理やりやられるのはデートとか夫婦関係とか職場の権力関係のなかでなんだ、ってんでデートレイプだのドメスティックバイオレンスだのセクシャルハラスメントだのってのが問題に上がってくる。今となっては、3、40年前にはそういうのが問題にされてなかった、って方が驚きですけどね。人々の意識は変わるものですね。
まあそういう性差別や性暴力を考えて、なんでそういうのがそれほど社会に蔓延しているかっていったら、それはポルノが悪いんではないか、ポルノが男たちが性差別したり性暴力振るったりする教科書になっているのではないか、ってのが基本的な発想ですわ。
まあ性表現とかエロとか、やっぱり圧倒的に女性が描かれる対象になってるし、男が無理やり嫌がる女をあれする、とかってのが典型的な表現だし。雑誌のグラビアなんか見ても女の子はちゃんとにこやかに笑っておっぱいを強調してなきゃならん、ベッドに横たわってなきゃならん、みたいな。背筋伸ばしてしっかり前を見ている姿とかあんまりエロくないっすからね。SMとか好きな人は縛られたりするのはだいたい女性だしねえ。まあ中年男性が縛られたりするのもいいのかもしれないですが、体の緩んだ中年男性が縛られてるだけだとなんかちゃんとエロにならないので女王様も同時に描かないとならんわけです。
まあとにかく性表現では男性と女性は別の扱いを受けていて、女性はだいたい受け身でいじめられたり暴力振るわれたりする側になってる、と。ケイト・ミレットって評論家が『性の政治学』って本書いたり、アンドレア・ドウォーキンっていう作家・評論家が『インターコース』って本買いたりして、フェミニズム批評みたいなのが流行するわけです。それまでの性表現なんてのはぜんぶ男の視点から男の都合の良いセックスを描いているだけだ、みたいな話になる。1960年代に超大物だったノーマン・メイラー先生とかが槍玉に挙げられたり。猥褻で問題になったヘンリー・ミラー先生も。まあでも今回は「猥褻」っていう切り口ではなく、「性差別」なわけです。
こういう動きの中で、セクハラ訴訟とかですごい成果を上げたキャサリン・マッキノン先生がドウォーキン先生と組んで性差別的な性表現を問題化しようって運動を立ち上げるわけです。
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