ルソーには「先生」つけたくない、みたいなこと書いてしまいましたが、いけませんね。ルソー先生の言うこともちゃんと聞かねば。しかしこの人やばい。やばすぎる。まあ実生活でもかなり危険な人でしたが、書くものもやばい。私はこの先生の書くもの、なにを読んでもあたまグラグラしますね。理屈通ってないわりにはなんか情動に訴えかけるところがあって、健康に悪い。肖像画とか見てもなんか自信満々の怪しいイケメンで、なんか恐いものを感じる。
ルソーはセックスと恋愛について大量に書いてます。『新エロイーズ』とか、元祖恋愛小説ベストセラー作家でもある。『エミール』とか教育論の元祖・名作ってことになってていろいろ誉められてるけど、そんないいもんでもない気がする。その内容を見てみるとこんな感じ。
性のまじわりにおいてはどちらの性も同じように共同の目的に協力しているのだが、同じ流儀によってではない。そのちがった流儀から両性の道徳的な関係における最初のはっきりした相違が生じてくる。一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。必然的に、一方は欲し、力をもたなければならない。他方はそんなに頑強に抵抗しなければそれでいい。
男は強く暴力的に荒々しく迫り、女はちょっと抵抗していいなりになるのが自然だ。
この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。男性のねうちはその力にある。男性は強いというだけで気に入られる。……
男は力がすべて。肉体の力も金も権力も。そういうのある男性がモテるってのは、まあそうでしょうね。
女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心が結びついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。そういうことから攻撃と防御、男性の大胆さと女性の憶病、そして、強い者を征服するように自然が弱い者に与えている武器、慎しみと恥じらいが生じてくる。
征服だー。「男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ」。迫られてもすぐにチューさせたりしないで抵抗しろ。その方が燃えて無理矢理迫りたくなるからね。
自然は差別なしに両性のどちらにも同じように相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望をいだいた者が最初にはっきりした意思表示をすることになる、などとだれに考えられよう。それはなんという奇妙な、堕落した考えかただろう。そういうもくろみは男女にとってひじょうにちがった結果をもたらすのに、男女がいずれも同じような大胆さでそれに身をゆだねるのが当然のことだろうか。……
女から迫ってはいかん、ということです。不自然だから。迫られるのを待ってろ。
そういうわけで、女性は、男性と同じ欲望を感じていてもいなくても、また男性の欲望を満足させてやりたいと思っていてもいなくても、かならず男性をつきのけ、拒絶するのだが、いつも同じ程度の力でそうするのではなく、したがって、いつも同じ結果に終わるわけでもない。攻める方が勝利を得るためには、攻められるほうがそれを許すか命令するかしなければならない。攻撃する者が力をもちいずにいられなくするために、攻撃される者はどれほど多くのたくみな方法をもちいることだろう。
最後のところが注目ですね。女は男が暴力を使うようにしむけているのだ、ということです。
あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。自然と道理はそういうことに反対している。
でもそのときに使う暴力は、ケガするような本気の暴力ではないですよ、と。
自然は弱い者にも、その気になれば、抵抗するのに十分な力をあたえているのだし、道理からいえば、ほんとうの暴力は、あらゆる行為のなかでもっとも乱暴な行為であるばかりでなく、その目的にまったく反したことなのだ。
女は本気になれば本気で強く抵抗できるのだが、たいていそうしない、なぜならそれは嘘んこの抵抗だからだ。
というのは、そんなことをすれば、男性は自分の伴侶である者にむかって戦いをはじめることになり、相手は攻撃してくる者の生命を犠牲にしても自分の体と自由を守る権利をもつことになるし、また女性だけが自分のおかれている状態の判定者なのであって、あらゆる男が父親の権利をうばいとることができるとしたら、子どもには父親というものはいなくなるからだ。……
まあけっきょく、女性は力いっぱい抵抗することもできるのだが、セックスの場面ではそんな強く抵抗することはない。最初にちょっと抵抗するとあとはぜんぜん抵抗しなくなる。これは無理矢理セックスされるのを実は望んでいるからだ。
とか危険なのがいっぱい。まあ早い話、女は迫られるのを待っていて、迫ると抵抗するけどそれは本気じゃないからそのままやってもかまわん、それが自然だ、ということですわね。
こんなものが戦後教育の推薦図書とか信じられんですね。「なに?ジャンジャック、やめて、やめてジャンジャック、本気なの? おうおう」「(やっぱり女は最初抵抗してみせるだけだな)」とかってことになった人がたくさんいるのではないか。まあルソーほど有名人でイケメンだったら好きでそういうふうになった人もいるかもしれんけど、そうじゃない人も多かったろう。いやほんとにシャレならんすよ。そういうの読んで女はそういうものだ、みたいにまにうけた戦後知識人もたくさんいたと思う。こういうのは、単なる時代的な限界とかそういうのではないのではないかな。
まあでもルソーの近代社会に対する影響は巨大なので、どの本も読むに値する。読まないでいると、いま一般に言われている政治的・社会的な議論とかがどこに出自があるのかわからなくなってしまう。「あ、日本の〜という人がいっていたあれはルソーの引用なのか」とか気づくことがたくさんあります。あとウルストンクラフト先生という元祖フェミニストみたいな先生がいるんですが、この方はルソーが嫌いでその批判で1冊本書いてます。かならず読みましょう。でもさすがにセックスの話はできなかったみたい。
まああえて好意的に読めば、こういうのも人びとのセックスや性欲に関するある種の真理や理想を描いている、みたいになるんすかね。攻めと受け、っていうBLとかで一般的な構図ですしね。実は人びとはやっぱりそういうのが好きだってのはあるんかもしれない。
まあどう評価するにしても、ルソーとかカント先生とかの著作が一般には非常に抽象的なものとして読まれていて、我々の実際の生活や関心事とかけはなれたことを論じているように紹介されるのは私は不満です。どの哲学者もセックスとかには関心をもっていて、かなりの分量の思索を残してます。そういうがまったくといっていいほど議論されることがないのは、やっぱりおかしいのではないか、みたいな問題意識からもセックスの哲学はおもしろい。でもまあやっぱり堅い(ことが求められている)大学教員としては書きにくいことも多いのはわかんですけどね。
→ 2018年の日本にも同じようなことを考えている人がいます。
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ルソーの一般向け紹介本みたいなのはでは仲正先生のがまともで読みやすくてよかったです。「なんとか2.0」みたいなのはまにうけてはいけません。
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右翼・保守の人はルソー嫌いが多くて、もう人身攻撃みたいなのしてます。話のネタには読んでおいてもいいかも。
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