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高橋昌一郎『哲学ディベート』続き

パラパラ読んでる。まあおもしろいような気がする。でも、全体にせっかくのディベートなのに、両論並記で「いろんな見方があるね」で終ってしまい、おたがい批判やあげあしとったりしてないんで、あんまり「論理」的な分析とは関係ないような気がするけど、だいじょうぶかな。

p. 101で「猿脳」の話が出てくる。

理学部D (略)僕がこれまで聞いた中で最も残酷だと思ったのは、略「猿脳」という料理です。これはアカゲザルの頭をハンマーで殴って(残虐なので略)

この料理は、アカゲザル乱獲につながり、「動物愛護の精神」からしても、あまりに残酷という理由で、中国政府は1977年から禁止しています。(p.101)

ソースはなし。これ、ソースさえついてないwikipedia (ja)の記事うのみにしてるんじゃないのか。英語版はもっと典拠がしっかりしているから、こっちを参照すりゃいいのに。食うやつはいるけど生きたまま食うやつは少ないだろうよ。中国政府の禁止の理由も憶測じゃないの?

学生の発言ってことになってるからこれでいいのかな。でもこんな発言があったら、「ソースは?」ってつっこむのが論理的思考とか批判的思考のポイントなんじゃないのか。 倫理的問題については、論理よりなにより、先にまずは事実を抑えるクセつけさせたいところだと思うんだが*1。もちろん、論理的な欠陥を指摘するのはアームチェアーでできるからいったん覚えてしまえば楽だけど、そればっかりやってると嫌われるし。教育上は、とりあえずソースを疑うようになれば、いずれ論理にも敏感になるような気がする。

野矢茂樹先生は『新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)』で他人の議論を批判するために

  1. 意味の問
    1. あいまいさはないか。
    2. 具体性に欠けるところはないか。
  2. 論証の問い
    1. 独断的なところはないか
    2. 飛躍はないか

って四点のチェックリストを提出している(p.149、記号は面倒なので変ってます。)。私はとにかく「独断的なところはないか」が一番ポイントだと思うんだが、どうなんだろうか。これさえ疑えればあとはなんでも疑える。高橋先生のディベート本は、登場する学生が互いの議論につっこみ入れないから本当のディベートの形(たとえばソクラテスがやってたような)になってないんだよな。特に「教授」には誰も反論さえしないし。

でもまあ、こういう広範な話題を一人の人間が扱おうとするとこの程度の問題が生じてしまうのはしょうがないのかもなあ。業界では「応用倫理学」とかってのがはやってるらしいけど、そりゃ普通の人間には無理なんじゃないかなと思ったり。でも、それでもやる意義や意味はあるのかもしれんし。こうやって論点をまとめてくださる方がいいと、見取り図をえがくことさえ難しいわけだから。やっぱりこの本は価値がある。
その上で、学際的研究が必要だとかってことになるのかな。そのときにテツガクを専攻している人間はなにをする必要があるのか。なにをする資格があるのかってのはどうしても考えてしまう。

おそらく、「教授」がいて、複数の学生がディベートする、って形がだめなんだろう。
(1)学生を「教授」が殺しに行く(ふつう)、
(2)若者男子学生ふたりがクラスの女子学生をかけて殺し合いをする(書き方によってはおもしろそうだ)、
(2)テツガク教授がネットすれした学生につっこまれまくって汗をかく(よい)、
(4)分野の違う中年男性「教授」どうしがクラスの女子学生をかけて殺しあいをする(おもしろそうだ。古典哲学対理論社会学あたりがよい。)、
(5)中年女性教授(理系。生物学ぐらい?)が男性教授(テツガク)をハイヒールでふみにじる、
(6)女子中学生(男子中学生の方がよい?いや、大学1年生男子がいいかな)が中年男性教員(テツガク)を色つきストッキングパンプス足でふみにじる、っていうどれかが正しい。いや、もっとありそうだぞ。

『ザ・リバティ』

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』で引用されてる『ザ・リバティ』、国会図書館にも収納されてないそうな。うう。バックナンバー注文することになりそうだ。

*1:もちろんなにが重要な事実かってことは論理によって決定されることも多いわけだが。

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高橋昌一郎先生の功利主義理解

なかなかおもしろそうな本。肉食、代理母、死刑、終身刑、メーガン法、売買春、安楽死、自殺とおもしろそうなネタがてんこもり。ゆっくり読んでみよう。なるほどこういう論述はおもしろいかもしれない。

とりあえず、

ハリー (略)どちらかというと、私は自分自身を快楽主義者に分類したいと思います。私は、人生における自分の喜びが最大になるように計算しながら行動しているのです。ただ、だからといって、ジョージほど利己的でもありません。私は、自分自身に対してほどではありませんが、他人の幸福にも何らかの価値を認めています。そして、長期的に見れば、私がいつも正直であれば、私は最も幸福でいられるだろうという理性的な根拠が十分あるのです。

(略)
教授 ハリーの主張していることが、「最大多数の最大幸福」と呼ばれる功利主義のスローガンですね。ベンサムは、社会全体の「幸福」は、個人の「快楽」の総計だと考えました。一人より二人、二人より三人と、より多くの個人が、より多くの快楽を得ることのできる社会を目指すべきであり、それが新しい道徳だと考えたわけです。(p. 56、強調原文)

うーん、なんか困るなあ。ハリーさんは功利主義者ではなく単なる(善意benevolanceも持ちあわせた)合理的利己主義者なのではないか。功利主義者であるためには、「誰もを一人と数え、誰も一人以上には数えない」、つまり、誰の幸福(ベンサムの場合快楽と苦痛の欠如)をも同じに扱う必要がある。自分を特別扱いに するハリーさんは(一応)功利主義者ではない。もちろん、功利主義者は、皆がハリーさんのように自分の幸福をまず考え、他人にも一定の配慮をするように考えることが、長い目で見れば社会の幸福を促進すると考えるかもしれない。でも自分を特別あつかいにするのは功利主義じゃないのははっきりしている。

また、ベンサムは社会の「幸福」と個人の「快楽」とかってのも(とりあえず)使い分けてない。「より多く」はいいんだけど、数はあんまり関係ない。うーん。

まあハリーさんが規則功利主義者や間接的功利主義者である可能性は十分ありそうだけど、上のハリーさんの言い分そのものは功利主義的ではないと思う。こういう例文の出典らしいスマリヤンがおかしいのかな。

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rational と reasonable

ふつう「合理的」と訳されるrationalとreasonableの区別ってのは、ほんとにわからん。

おそらくrationalってのは、ある目的があるときにそれを達成するのにもっとも効率的な手段を選択することについていわれる性質で、reasonableはもっと広くて、なんらかの「理にかなっている/道理にそってる」。もちろん、その「理」「道理」がどんなものかは難しいけど、まあぶっちゃけ、「理性的な人ならばふつう認める(承認する)であろうような」だと思う。

たとえばカント先生が言うような意味で「ウソをつくことは人間の義務に反するので私はウソはつきません」は理性にかなっているという意味でreasonableかもしれないけど、自分の利益を大事にすることを第一の目的にしている場合にはrationalではない。

英文とか読むときにこの二つを混同してしまうといろいろ問題が起こるし、翻訳するときも気をつけてほしいけど、どうすればいいのかはいまだによくわからない。

てなことを読んで思った。

「障害者権利条約」の英語原文らしい*1 http://www.nginet.or.jp/box/UN/61th106conventionRPD.pdf
だと問題の箇所は当然reasonable。

“Discrimination on the basis of disability” means any distinction, exclusion or restriction on the basis of disability which has the purpose or effect of impairing or nullifying the recognition, enjoyment or exercise, on an equal basis with others, of all human rights and fundamental freedoms in the political, economic, social, cultural, civil or any other field. It includes all forms of discrimination, including denial of reasonable accommodations;

“Reasonable accommodation” means necessary and appropriate modification and adjustments not imposing a disproportionate or undue burden, where needed in a particular case, to ensure to persons with disabilities the enjoyment or exercise on an equal basis with others of all human rights and fundamental freedoms;

私の読みでは、単に「差別禁止」とすると、当然の必要を満たすためのさまざまな優遇(?)措置も差別だと反対されたり批判されたり言い逃れされたりするかもしれないので、あたりまえだけどいちおう「個別の理にかなっている措置は差別じゃないよ」「むしろそういう措置しないのが差別だよ」と言っておく必要があるのだと思う。そういう措置をしないための言い訳を封じるために入れられた但し書きで、ロビーストたちはこれ入れるのだけでもけっこう 苦労したんじゃないだろうか。*2男女共同参画~にもこういう但し書きがあったと思う。こういう法的な文章ってのは難しい。

reasonable accomodationは「合理的配慮」より「理にかなった調整」ぐらいの方が理解しやすいのではないかと思うが、だめか。

ちなみにこの条約の目標も第一条と第二条でいちおうはっきりしていると思う。こういう条約とかは、詳細・明細的にすればするだけ、そこから漏れたところに文句をつけにくくなるんじゃないだろうか。なるべく広い方がよいのかもしれない。rationalと書いてしまえばその目的をはっきりなきゃならんけど、reasonableなら、まあ、理性的なひとだったら同意できるようなものならなんでもOKになるから。でも政治的には難しいのかな。

あ、誤解しやすい書きかたしてた。理性的なひと reasonable man person も一定の意味があって、カントみたいなすごい理性をもっているようなひとって意味ではなく、「通常人」。それほど常に理にかなった考え方ばっかりする人でなくてもよい。reasonable meansといえば「まずまずの手段」。つまり「ぼちぼち」。「合理的な」と訳すのは余計な誤解をまねいてだめやんね。でも法律屋さんは気にならないのかもしれない。

角田由紀子さんについてももう一つ驚いたことがあったのだが、また今度。

追記

なるほど、”reasonable accomodation”がなんではいってるか、ってのは下のコメントでmacskaさんが書いているような経緯なのかもしれん。そこらへんの経緯や意図を私が勝手に憶測してもしょうがないので、上で私が書いてたのようなのは無駄で有害。むずかしいなあ。

まあでも、上の”discrimination”の定義の最後にはdenial of reasonable accomodationがはいってた方が、(その句がはいってないよりは)障害者には有利なように見える。

でもその”reasonable accomodation”の定義に”not imposing a disproportionate or undue burden” が含まれているのが「なんでもかんでもコストを度外視して「平等にしろ」と要求するのを制限する」ためだという読みは可能な感じではある。やっぱり条約にもとづいて国内法を整備するときに、ここらへん、なにが、reasonableなのか、なにがdisproptionateかとかundueかとかってのが争われるんだろうなあ。勉強になる。っていうか勉強しないと。ここらは勉強足らんのでコメント歓迎。っていうか、ネットとか見るよりまともな本を読めってことだな。

追記2

上と直接は関係ないけど、hannnah さんから “reasonable accomodation” についてのカナダの議論の有益なリンクおしえてもらったので読みやすいように直リンしておきます。なるほどこういう文脈で使われる言葉なわけね。どもども。

http://en.wikipedia.org/wiki/Reasonable_accommodation  下のwikipediaの記事の” Reasonable accommodation is a legal term used in Canada to refer to the obligation to modify a law or a norm where its strict application could violate the equality rights …”

「合理的配慮とは、カナダで、ある法や規範を厳格に適用すれば、「権利と自由に関する宣言」第15条で述べられている平等権を侵害するかもしれない場合に、その法や規範を修正する責務を指す法的用語である」か。

ふーむ。この言葉をめぐっては、いろいろ難しい問題が山積みなんだな。それにやっぱりなにが”undue hardship”かとかそういうのが問題になるのね。なにがreasonableかってのはほんとうにずーっと問題なんだよな。それにくらべれば、なにがrationalかって話はまだましか。

まあこのwikipediaの項目はカナダのその話に特化してしまってるので、
そのうち大きく書き換えられることになるんだろうな。

追記3

わからないこと・知らないことは適当に半端なことをブログに書きなぐっておくと誰かがコメントくれるのではないか、とかヘンな癖がつきそうだ。ブログは意見発表の場ではなく、能動的情報収集の場である、なんちゃって。まあそういうのを期待しているところはある。出不精人間に必要なキャリブレーションの一部。っていうかそうやって使えるかな。ある程度有益な情報を提供しないと誰も読んでくれないから結果的にキャリブレートしてもらえないだろうから、そこが難しいかも。教えて君ではだめだ。でも有益な情報もってるかなあ。もってるエロ画像とか貼っておけば・・・(だめ)

*1:本当の原文探す元気がないのですまんです

*2:なんかぜんぜんちがうようだ。下のmacskaさんのコメント参照。

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