伏見憲明先生と若林翼先生

補足。

若林先生の本で気になって見てみた。若林先生が参照しているpp. 82-3は「性の自己決定」というタイトルの小文。

淳一君は、同性愛は趣味やおふざけではなく、生まれつきなのだから、差別されるいわれはない、と主張する。そう言いたい気持ちはよくわかる。だけど、それなら、生まれつきでなかったらどうなるのか。

例えば、レズビアンの中には、「女性に差別意識を持っている男たちとは恋愛はできないから、同性愛を選択した」と語る人たちがいる。性欲よりも対等な関係の方が、そういうレズビアンには大切なのだ。

うん、特に問題はない。「性欲よりも対等な関係の方が」の一文が非常に効いてるように思う。これが事実として正しいのかについては知らないけど、伏見先生がこの問題*1について本当によく考えているのがわかる。

伏見先生自身の立場は、

結局のところ、許されない性というのは、他人に迷惑をかけたり、傷つけたりするもの以外にはない。生まれつきであろうが、選んだものであろうが、それは関係ないのだ。

僕は淳一君に言った。「たとえ同性愛がだてや酔狂だったとしても、それで差別されるのはおかしいんじゃないの?」

これも問題ない。「それは関係ないのだ」がOK。伏見先生は(すくなくともこの本書いているときは)ふつうの性的リバタリアン。安心した。

このタイプの主張を、若林先生のように「同性愛には生物学的基盤がある」という主張に対する批判のようなものとしてとらえるのはだめよ。

まあ若林先生の

「同性愛が人間の意志によってどうにもならないことであると想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだことについては非難可能性が高いということを意味する」

が微妙におかしいんだよなあ。ここらへん説明するのってほんとうにたいへんだなあ。もちろん、私が若林先生を誤読している可能性があるんだけど、非常に微妙。

もうちょっと考えてみる。もし上の若林先生の文章が次のようであれば問題はない。

「ある **動作** が人間の意志によってどうにもならないことである(から、非難するには当たらない)と想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだ **動作** については非難可能性が高いということを意味する」

いや、まあ「非難可能性」がまだあいまいだけど、まあそれは見逃すことにしてね。

しかし、次のようであれば、これは問題ありまくり。

「同性愛が人間の意志によってどうにもならないことである(から、非難するには当たらない)と想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだ **同性愛** については非難可能性が高いということを意味する」

伏見先生ならば、「意志によって自由に選んだ 同性愛については非難可能性が高い」だけでなく、この文全体を否定するんじゃないかと思う。

若林先生のもとの文章は、この二つの文章のどちらに近いのだろうか。こうしてみると、もとの若林先生の文章がかなりねじれてたんだなってことがわかる。(直したやつも実は論理的にはまだ誤謬推理かもしれないんだけど、今回は見ないふりをする。「裏返してみる」ってのがどういうことか、ってことね。)

*1:自己選択的レズビアンの存在の可能性とか、性欲とライフスタイルの違いとか。

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