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パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である

 

まえのエントリに続いて、瀬川先生の「人格」に関する論文はもう一本「人格であることと自律的人格であることを区別することの意義」というのがあり、これも気になるところがあるので最初の方だけコメントしておきたいと思います。

問題設定

というのも胎児がすでに人格と見なされるのであれば、胎児には私たち成人と同等の道徳的地位が認められ、それゆえ中絶は定言的に容認不可能となるからである。あるいは反対に、胎児がまだ人格と見なされないのであれば、胎児にはいかなる道徳的地位も認められないがゆえに、中絶は定言的に容認可能となる。(p.33)

これは不用意な書き方だと思う。胎児がすでに人格だとして、そこから成人と同等の道徳的地位が認められるとは限らないし、また中絶が「定言的に容認不可能」になるともかぎらない。死刑囚は人格(人)であるが我々と同じ法的地位が認められないように、胎児が人格だとしてもそこから直接に成人と同じ道徳的地位を持つとはいえない。また、胎児が人であるとしても、母体の生命が危険にさらされているなら中絶が容認されることもありえる。とにかく、こうした論理的関係はどういう前提にもとづいているのかはっきり書いてもらう必要がある。

本稿ではこうした議論を背景に、人格であることは同時に自律的人格を意味するのかという問いに取り組む。もしこの時点ですでに本稿の問いに違和感を覚える人がいれば、その人は場合によっては「人格とは自律的である」ということを出発点に据えているのかもしれない。

「人格とは自律的である」という表現には、日本語としてかなり違和感がある。「ある存在者が人格であるということは、その存在者は自律的であるということを意味する」ということだろうか。

しかしながらこうした人格概念理解は、二つの点で問題がある。第一に、この理解では人格の下したあらゆる決定が自律的と見なされることになり、こうした帰結はとりわけ終末期における死のあり方をめぐる議論を念頭に置いた場合、受け入れ難い。というのも、医師による自殺幇助や要求に基づいて殺すことの容認派の論拠である自律の尊重原理に従えば、もし私が人格であるだけではなく、同時につねに自律的人格であるならば、私が不自然なほど唐突に要求に基づいて殺すことという死のあり方を望んだとしても、その決定は道徳的に容認されることになってしまうからである。

「人格(人)は自律的である」ということがどういうことなのか説明されていないので理解できない。人間の成人は多くの場合自律的であるとみされるが、これはその人が、(いろんなことがらについて)あるていど十分な判断能力があり、また自分の判断にしたがって行為できる、ということを指しているはずだ。

しかし、こういう意味で人間あるいは人が自律的だからといって、「あらゆる決定が自律的である」とみなさねばならないわけではない。私が寝ぼけてるとき、あるいは酒に酔っ払ってるとき、あるいはなんか嫌なことがあってイライラしているときに下した判断は必ずしも十分理性的でもなければ自律的でもない場合がある。「常に自律的」であるような人物など現実には存在しないだろう。それなのに、「人格を自律的だと考えると、常に当人が望む死や自殺幇助を受け入れるべきだ」と考えるのはあまりにも馬鹿げている。

シンガーの議論

認められるのかである。第一の問いに対してシンガーは、ある存在が生物学的に人間という種に属するという理由から、その存在の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできないと断言する。そうした人間的存在とは、例えば胎児などが該当する。

非常にこまかい話だけど、この表現はすこしよくない。できれば「ある存在者が生物学的にホモサピエンスという種に属するという理由だけでは、その存在者の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできない」の方がよい。(1) こういう文脈では、「存在」よりは「存在者」の方がはっきりしている。「生命個体」みたいなのでもいいかもしれない。(2) 「人間」huma beingsがホモサピエンスという種のメンバーだけを指すのか、そうでないのかが明白でない。(3) 「Aという理由からBできない」というタイプの表現は(慣れない読者には)誤読の可能性がある。「AだからBできないのだな」と呼んでしまう人がいる。「「AだからB」というわけにはいきませんよ」というのをはっきり示したい。

シンガーから見ると、人間という生物学的事実に依拠して人間に高い価値を与えるのは、種差別主義にほかならないのである。

これもOKではあるが、誤解を招きやすい。人間であるという生物学的事実が、なんらかの種類の規範的な判断にむすびつくならば、人間に高い道徳的地位を与えることには問題がない。たとえば、人間は高度な判断力をもっているという事実と、高度な判断力をもつ存在者はそうでない存在者とは違った特別な道徳的地位をもつという規範的判断が存在すれば、「人間であるという生物学的事実に依拠して」人間に特別な道徳的地位を与えることは問題がない。誤解のないように表現するとすれば、「その存在者がホモサピエンス個体であるという単なる生物学的事実だけに依拠して特別な道徳的地位を与えるのは〜」のような形になる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。

まあこれはこれでOK。人間の多くは(まずまず)自律的であり、その意味で人格であると呼ばれる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。しかしここでの問題は、「人格は自律的である」という言明から、すべての人格が自律的であるという命題を導き出すことができないということである。なぜなら、特殊から普遍を導くのは誤謬推理だからである。

これはそのとおり。しかし表現がわるい。「ある人格(人)が自律的である」から「すべての人格が自律的である」はいえない、と表現してほしい。

「自律」が意味するのは、選択し自分で決断をなし、それにしがたって行為する能力である。理性的で自己意識を持った存在〔人格〕は、 おそらく (presumably) この能力を持っている。
〔〕ならびに傍点は引用者による。

(江口が傍点を下線にした。原文は ‘Autonomy’ here refers to the capacity to choose and to act on one’s own decisions. Rational and self-aware beings presumably have this capacity,……. (Singer. Practical Ethics (p.84))

……注目すべきは、引用にある「おそらく」という副詞である。特定の人間が人格であり、自律的であるという見解は、広く共有されている。例えばそうした人間的存在者としては、シンガー自身が該当するだろう。シンガーがこうした明白な事例を念頭においていたならば、彼は「おそらく」という副詞を用いなかったはずである。しかしよく知られているように、シンガーはチンパンジーをも人格と理解している。そうであるからこそ、彼は「おそらく」という副詞を使用せざるを得ないのである。なぜなら、チンパンジーを人格と見なすという見解が受け入れ可能であったとしても、同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。

いきなりチンパンジーがでてきたので驚いた。このpresumablyがなぜ必要なのかというのは別の説明がある。

presumeというのは、はっきりと真であるとはまだわかっていないけど、だいたい真であると推定する、ぐらいの意味。presumptionとかっていうのは推定、想定ですわね。十分な証拠はないかもしれないけど、とりあえずそうだということにしておこう、ぐらい。たとえば、結婚しているときに子どもができたら、それは結婚している男性の子どもだと推定しておこう、ぐらい。合理的で自己意識をもっている存在者は、必ずそうだとはいえないかもしれないし、場合によってはそうない場合もあるかもしれないけど、だいたい自分で決定し、その決定にしたがって行為する能力をもっていると想定しましょう、ということだ。チンパンジーは必要ない。

まあもちろんチンパンジーも、少なくとも3歳児程度には、十分合理的で自己意識をもち、自分で決定しそれにもとづいて行為する能力をもっているかもしれないけど、それはここでは関係ない。

同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。引用文にある人格という用語から特定の人格(チンパンジー)を除外させることなく、かつ日常的直観との乖離を無視することもできなかったがゆえに、シンガーは「おそらく」という副詞を付加したと考えられる。すなわち、シンガーは自律的であり、チンパンジーもおそらく自律的なのである。このことから帰結するのは、シンガーがあらゆる人格を自律的人格と理解しているということである。

瀬川先生は「シンガーはチンパンジーをひいきしたいがために「おそらく」といれたのだ、みたいな読みをしたいのかもしれないけど、優秀な哲学の議論はそういうふうにはなってない。へんな意図や陰謀みたいなものを想定しそうになってしまったら、まずはまわりの人と議論してみるのがよいだろうと思うのです。

そして最後のシンガーが「あらゆる人格を自律的人格と理解している」も理解できない、おそらくまちがっている。我々は人格と呼ばれるけど、一時的に合理的でなかったり自己意識をもっていなかったり、まともな判断ができなかったり自律的でなかったりする場合はよくある。そんな当たり前のことをふつうの哲学者がわからないはずがないじゃないですか。もっとふつうに議論しましょうよ。

あと、この論文も翻訳あるものはちゃんと文献リストにあげてほしい。シンガーの『実践の倫理』の第3版は翻訳ないけど、第2版のならあるし、該当箇所は同じなので一応言及してあげてほしい。剽窃とかそういう問題ではなく、読者へのサービスとして。もちろんそういうのは手間かかることだからいつもいつもできるわけじゃないけど、もっと翻訳してくれた人に感謝示すような文化つくりましょうよ。

 

パーソン論よくある誤解:「人格」とパーソナリティ

長年苦しんでいた分担翻訳がとにもかくにも出版されて、やっと、ずっとどうにもならなかった締切から解放された感じで、これからは好きなことをしていきたい。しかし浦島太郎状態。生物学的にお陀仏になる前に、いくつかやっておきたいことがあるんですが、その一つは生命倫理、特にパーソン論まわりよね、ってなわけで最近の国内論文ちょっと見てたんですが、色々困惑してしまう。

たとえば日本生命倫理学会の雑誌『生命倫理』第28巻の瀬川真吾先生の「生命医療倫理学における人格概念の限界とその有用性」、混乱してしまって2、3日ずっと、自分がなぜ理解できないのか考えてしまってました。

論文お作法の問題

まず一般的なお作法として、次のような注文がある。

  • ジープ、ビルンバッハー、クヴァンテといった論者の著作が参照されているが、 翻訳のあるものはそれにも言及してほしい 。もちろん翻訳は一切見なかったというのであれば言及の必要はないし、また言及困難だろうからその必要はない。
  • 参照文献の指示をいわゆるauthor-yearでおこなうならば、 文献リストはアルファベット順にしてほしい 。そうでないとauthor-yearの意味がない。
  • また、後注にまわさずとも文中ですませてもよいのではないか。後注は煩雑になる。

これは著者というよりは、査読方針と査読者の問題ですね。雑誌の編集方針もあるんで微妙なんですが、私日本の生命倫理業界がお作法できてないのとても気になるのです。

マイケル・トゥーリーの主張の理解

……マイケル・トゥーリーは、異なった時点と地点において自己自身を自己自身として把握するというロックの人格概念に立ち返ることで、生後12週目までの新生児は人格ではないというテーゼを立て、あらゆる中絶を道徳的に容認可能なものと見なす (p.23)

上はOKだとしても、

  「特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(トゥーリー)」 (p.23)

は言いすぎではないだろうか。トゥーリーは、ヒト胚や脳死者には生命に対する重大な権利をみとめなくても問題はないと考えているかもしれないが、いかなる道徳的地位も認めないかどうかはよくわからない。また「人間的存在」ということで何を意味しているのか読者にはわからない。「人間の遺伝子をもった個体」ぐらいだと思うが、説明が必要。

ちなみに、このトゥーリーに対する注(4)はTooley 1983とされているだけで、ページがついていない(他はついていることがおおい)。300ページもある本から典拠確認するのはとても大変というか無理なので、ページとはいかないまでも(最近は電子書籍も多いし)章ぐらいは指示してほしい

「カントやロックの人格概念は、生物学的な意味で人間であることと認知的な意味で人格であることを明確に区別し」(p.23)

「認知的な意味で人格」はよくわからない。生命倫理学で人格(パーソン)についての議論がなされる場合は、生物学的な意味のパーソンと、規範的/道徳的/法的な意味のパーソンを区別するのだが、認知的な意味とはなんだろうか。この「認知的」は「感情的」「意思的/欲求的」などと対立される意味ではないだろう。「認知能力の意味での人格」も奇妙だと思う。

ふつうの解釈をすれば、生物学的な「人間(ヒト)」と、道徳的・法的な意味での「人格」を区別し、道徳的・法的な意味での人格を、主として認知的な能力によって特徴づける、ぐらい。

。しかし定言的にあらゆる人間的存在に同等の道徳的地位を認める(……)、あるいは特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(……)というのは、生命の初期段階にある人間的存在に対する日常理解と両立しないだけではなく、そうした存在の道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げているという意味で不適切なのである。(p.23)

細かいが、この文章はわかりにくい。胚に成人と同様の道徳的地位を認めるのも、あるいは認めないのも、それは論者の立場によるだろう。瀬川先生はそれが(われわれの)「日常的な理解」と両立しないと指摘するわけだけど、これも「だからどうした」といわれる可能性がある。まあ日常的な理解がそのまま使えるならば最初から中絶やヒト胚の実験利用などの倫理的問題は存在しないかもしれないし。さらに、「道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げている」というのもよくわからない。もっとぶちゃけて書けば、「ヒト胚に成人と同様の道徳的地位を認めたり、あるいはまったく道徳的地位を認めなかったりすると、議論しにくい」ということになるんだろうけど、これは論点先取の誤謬推理になっていると思う。最初から「ヒト胚や脳死者には微妙な道徳的地位を割り当てたい」という前提があるとしか思えない。

現代倫理学にとっておそらくもっとも根本的な問いとは、「当事者」の主観的な感覚ないし欲求だけが正しい行為のために重要なものなのかどうかである(p.24)

これはジープの文章なので瀬川先生に責任はないが、「正しい行為」が誰の正しい行為であるか、また誰にとって正しい行為であるかが不明。まあたとえば、「行為者や被行為者の感覚、欲求、主観的経験だけによって、ある行為の正しさが判断されるのか、それ以外の要素も重要なのか」とかそういう問いだと思う。しかしこうして書いてしまうと、行為者や被行為者の感覚や欲求などの主観 だけ が重要だなんて主張する倫理学者がいるとは思えませんよね。

第1節と第2節のあらまし

第1節ではジープ先生が人格(人)であるかどうかを、有か無か、ゼロかイチかの観念としてとらえないで、発展的段階・衰退的段階をもつものとして扱おうとしたという話だと思う。まあ人かそれ以外(物)か、みたいな発想にはどっかおかしいところがあるかもしれないので、これはこれでありの立場だと思う。

第2節ではビルンバッハー先生が「人格」(人)という概念使うのはもうやめてしまおうって主張している(らしい)ことの紹介で、まあこれもありの立場だと思う。ジープ先生のもビルンバッハー先生のも、80年代〜90年代前半くらいの英語圏の生命倫理学の議論ならごくふつうの立場ですね。

第2節の細かいところ

第2節の方の議論はちょっと問題があるので、詳しく見る。

中絶をめぐる議論における人格概念の争点は、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格であるのかという問いにおいて先鋭化する。ビルンバッハーは、この問いを肯定する立場を「同等説」、それを否定する立場を「非同等説」と呼ぶ。

ここまではOK。

同等説によれば、人間と人格の概念は外延的に一致し、あらゆる道徳的権利を有する人格だけが道徳的な保護対象であるとされる。そこでのジレンマは、胎児のみならず、もっとも初期段階における受精卵にも成人と同等の道徳的権利が認められねばならず、例えばそれらの存在と母親の生命との比較考慮といった可能性が例外なく閉ざされることである(同等説のジレンマ)。

「ジレンマ」の意味がおかしいと思う。ジレンマというのは、AかBかの選択肢があり、そのどちらをとっても受け入れがたい帰結がある選択や論法を言うと思う。「受け入れがたい帰結」はジレンマそのものじゃないので、普通は「受け入れがたい帰結の一つは〜」とか、「ジレンマの一方のツノ(horn)は〜」とか表現するものだと思う。

んで、人間と人格(人)の外延は同じである、人間はすべて人格であり、人格はすべて人間である、と考えると受け入れがたい帰結が存在するだろうか?瀬川先生はそう考えると、妊娠中絶が全部禁止されるから困る、と言いたいようだけど、妊娠中絶反対派はまさにそう考えているのでなにも困らない。

非同等説は、人間と人格という概念を外延的に異なるとものと見なす。ここでのジレンマは、人格性を満たしていないであろう胎児や新生児に、いかなる道徳的権利も認められないという事態である( 非同等説のジレンマ)。

こっちのジレンマの角については、上の角の説明より、さらに問題が大きい。ある存在者が人格(人)でないからといって、「いかなる」道徳的権利も認められないということにはならない。たとえば私は(トゥーリーと同じように)、子猫は人間の単なる楽しみのために痛めつけられない権利があると考える(つまり、私は人間は単なる楽しみのために子猫を痛めつけるべきではないと考えている)。ある存在者が人格でないならば、人格と同じような道徳的権利はもたないかもしれないが、もつかもしれない。これはそれぞれの道徳的権利の根拠がどのようなものであるかに依存するのであり、人格かそうでないかによって自動的に決まるようなものではない。

同等説と非同等説

ビルンバッハーは、同等説と非同等説のジレンマを回避する上で人格概念が寄与しないことを論じることで、自らのテーゼを基礎付けようとする。

もうすこしおつきあいして細かく見ていく。

ビルンバッハーにしたがえば、ジレンマを解消するために同等説は、認知能力の基準からすれば現時点では人格とは見なされない人間を、すでに人格性を満たした人間が人格として知覚し承認することで物としてではなく、人格として扱われるのであるという戦略を展開した(「再構成主義的戦略」)。

まあこれは昔からエンゲルハート先生とかやってるやつですね。しかし、これ「同等説が〜という戦略を展開した」ってのは非常に奇妙で、なんでそんな「説」が戦略を展開したりできるんでしょうか。戦略を展開できるのはあくまで論者なのではないか。

それゆえ同等説の枠組みでは、胎児のような人間的存在が実際に人格であるのかという存在論的な事実をめぐる論争はもはや生じない。しかしビルンバッハーが指摘するように、再構成主義的戦略はジレンマを回避する上で三つの点で不十分である。

「存在論的事実」みたいな語句の説明がそれ以前には行われてないと思う。

第一にこの戦略は、いわゆる限界事例[に?]おける人間が存在論的にも人格であるという同等説のもっとも基礎的な主張と矛盾する。

「存在論的にも人格である」に目をつぶるとして、この論点は、上の「説」と「論者」を混同することから来ている問題 だと思う。たしかにあるタイプのヒト(人間的存在)を人格(人)だとみなさないのであれば、それはもう「同等説」ではない。しかしそんなことを言ってどうなるのだ。

第二に、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格として知覚され承認されるという想定は、例えば現象的に私たちとは似ているとは言いがたい受精卵といった限界事例にも妥当するのかは疑わしい。

「知覚され承認される」の「承認する」の方はともかく、「知覚」の方は必要なのだろうか。「それが人に見える」ということから、「人として承認する」という形になっているのだろうか。「現象的」もわかりにくいが、とりあえず胚や胎児は人間には似ていないので人格(人)ではないとすることができるのだろうか。タコのような姿だが知的で友好的な火星人がいたら、彼らも現象的には人間に似ていないので人格ではないということになるだろうか。どういう姿をしているか知らないが、天使というものが存在するとしたら、彼らは人格はないのだろうか。

第三にこの戦略は、その戦略の支持者同士で広く共有されている前提を、それを支持しない者に適用することができない。同等説が人格だけを道徳的権利の担い手とし、人間と人格の外延の一致という枠組みを維持する限り、同等説はジレンマを回避することができない。ビルンバッハーは、まさに人格概念こそが、ジレンマの回避を妨げる原因であると診断する。

一般に、議論上のどういう戦略であれ、議論の前提をそれを支持しない人々に対して認めされるのは難しい。なぜこれが問題なのだろうか。ここらへん、ビルンバッハーと瀬川先生がなにを議論しているのか私にはわからない。

非同等説は、自らの抱えるジレンマを回避する上で人格概念が不要であるという見解を明確に打ち出す。

わからん。ビルンバッハーはそういうふうに解釈しているということか。

特定の認知能力が人格性にとって不可欠であり、人格だけが道徳的権利の保有者であるならば、人格概念は道徳的権利を認めるための閾値概念とならざるをえないがゆえに、非同等説はこの概念を放棄するのである。

わからん。「人格だけが道徳的権利の保有者」という前提はどこから来たのだろうか。「閾値概念」も内実不明。なぜ非同等説が人格という概念を捨てることになるのかまったくわからない。

したがってビルンバッハーのテーゼを見れば明らかなように、彼は非同等説の支持者の一人である。人格概念の放棄によって非同等説は、道徳的権利が人格にのみ認められるという想定から解放され、非人格を特定の道徳的権利を有する存在と捉えることが可能となる。

そもそも人格概念を放棄するというのはどういうことかわからない。「人格」という言葉をもう使わないということなのか、存在者を道徳的に地位づけるときに「人格」であるかどうかをさほど重視しないということか。おそらく後者だと思うが、それならそうとはっきり述べるべきだと思う。

しかしこうした立場からは、道徳的権利の基礎付けに関する原理的な問いが生じる。非同等説は道徳的権利の根拠を、ある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出している。それによれば、ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むからである。

そもそもこの非同等説なるものは、誰の説なのか。トゥーリー? トゥーリーの説は、道徳的権利の根拠をある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出しているのか?どこでそういうことがいわれているのか?「ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むから」といったことは一体誰が述べているのか?でたらめではないのか?

トゥーリーが(1972年の論文で)述べているのは、ある存在者が道徳的権利Xをもつ必要条件として、その存在者がXをもちたいと望むことができることが要求される、ということであり、XをもちたいからXをもつ権利が認められることになるわけではない。私はいま1億円ほしいが、1億円もっている権利をもっているわけではない(がんばって働いて1億円稼いで手に入れる権利はもっているだろうが)。多くの死刑囚はまだ生きていたいだろうが、もはやふつうの意味では生命に対する権利を持っていないと思う。

非同等説は、道徳的権利を基礎付ける上で権利とその権利に対応した能力の一致関係を前提とする。それゆえ、例えば苦痛を回避する権利は、感受能力に立ち返ることで痛みを感じる段階にまで発達した胎児や新生児にも帰属させることができる。こうした方法で生命初期における人間的存在を道徳的な保護対象と見なせるのであれば、人格概念は非同等説の陥るジレンマを回避する上でいかなる役割も果たさないということになる。

わからない。まあ人格かどうかという区別にさほど重要性を認めないでも倫理学理論はうまくいくと思われるが、それが「人格概念を放棄する」ということなのだろうか。別に放棄しなくてもいいのではないか。

第3節

私が読みとれたあらすじは次のようになる。ビルンバッハーのように、生命倫理学の規範的な議論において「人格かそうではないか」をさほど重視しない立場があり、ビルンバッハー実際に「放棄する」と言っているが、「人格」という言葉や概念がまだ重要な生命倫理学の領域がある。それが「臨死介助」の問題だということらしい。臨死介助というのは、国内では一般に消極的/積極的な「安楽死」とかそういうふうに呼ばれてる分野で、まあ本人が望んでいるときに、延命治療を控えたり、薬剤によって死ぬのを早めたりするのをさす。そうした臨死介助なるものが常に不正だとかってことにはならないし、場合よっては許されるべきだと多くの人思うと思うんだけど、本人が望んでさえいれば医療関係者がその人をさっさと死なせたりするのはやっぱりやばいわけだ。ではどういう場合に許されるか。瀬川先生によれば、ここでパーソナリティというものが大事で、パーソナリティにはある程度の一貫性が必要で、本人が望んでいても、それが過去のその人のパーソナリティにそぐわないものだったら本人のじゃないと考えていいとかそういうことを言いたいらしい。でもよくわからない。

だって、これってパーソナリティの一貫性とか、当人の意思が真正なものかとか、どういう意思を尊重するべきかとかそういう問題ではあるけど、第1節や第2節であつかっていた、ある存在者が人格であるかどうかが重要かどうかという話とはまったく関係がないですからね。

この論文も、けっきょく「人格」という多義的な語を避けて、「人」とか「パーソナリティ」という語だけをもちいればこんな変な議論にはならなかったと思うのです。

昔書いた論文でも指摘しましたが、この、「ある存在者が人格(人)であるかどうか、人格は他の存在者よりも重要な道徳的地位をもつか」という道徳的地位に関する問題と、「人格の同一性とパーソナリティはどういう関係にあるか」という問題は、まったく無関係とはいえないまでもあんまり関係がないんだけど、ものすごく混同されやすいと思います。これはとてもよくない。

『生命倫理』は日本では権威ある雑誌で、私は載せたことないけど査読も厳しいはずなのです。どういう基準かはっきりしないけど、投稿された論文は「原著論文」と「報告論文」に分けられていて、この論文が乗った29号だと原著論文が3本、報告論文が9本、落とされてる論文もけっこうあるはず。投稿は23本だったようだ。そういうキビシイ査読くぐり抜けても、トゥーリーみたいなごく基本的な議論がちゃんと理解されていなかったり、人格(人)とパーソナリティが混同されているように見えるのは私には本当に厳しい事態に思えるのです。

とかダラダラ書いてたけど、途中でいやになってしまった。また真面目に論文書き直す必要があるのだろうか。しかし、他人の議論のあら捜しなんてのになんか学問的な意義があるとは思えない。でもいつまでも同じような誤謬っぽい議論が権威ある雑誌にのっているのも困る。どうしたらいいかわからない。

 

 

ルース・マクリン「尊厳は役に立たない概念だ」

有名論説(論文というほどのものかどうか……)。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC300789/ まあたいした内容はないんだけど、日本の「尊厳」関係の論文でもけっこうよく名前は触れられているので訳出してみました。そんなに苦労して読むもんでもないけど、国内論文で見るとなんかすごい重要で難しいもののように思われてるふうがあるから、ネットに追いておく価値あるかもしれないと思ってのこと。著作権はもちろんクリアしてなくて、こういうのって苦しいです。

尊厳は役に立たない概念

尊厳の概念なんて、人々の尊重や自律の尊重でしかない。

人間の尊厳への訴えは、医療倫理の景色を染めている。医療研究や医療実践のなんらかの特徴が人間の尊厳を毀損するとか脅かすといった主張はあちこちで見られ、特に遺伝子技術や生殖技術の発展と結びつけられることが多い。しかしそうした論難は筋の通ったものだろうか? 医療活動の倫理学的分析にとって、尊厳は役に立つ概念だろうか? 主要な事例をよく調べてみると、尊厳への訴えは他のもっと正確な観念のあいまいな言いなおしであるか、あるいは、そのトピックを理解する上でなにもつけくわえることのなり単なるスローガンである。

おそらく、尊厳に言及したものでもっとも目立つものは、国際的な人権規約のたぐいだろう。たとえば国連の世界人権宣言である。ほんの少しの例外をのぞいて、こうした国際協定は、医療措置や研究に対して向けられたものではない。主要な例外は欧州協議会の「生物学と医学のヒトへの応用における人権と人間の尊厳の保護のための協約」である。これや他の「尊厳」文書では、医療倫理学の原則である「人々の対する敬意」によって含意されるものを越える意味は含まれてしないように見える。それは、自発的で情報を与えられた上での同意を取得することの必要、機密を保護することの要求、差別的・虐待的な実践を避ける必要、などである。

尊厳への言及が現われたのは1970年代の死のプロセスについての議論のなかで、特に負担の多い生命維持医療を避けたいという欲求を巡っての議論のなかでだった。しばしば、「尊厳とともに死ぬ権利」という言葉で表現されて、この議論の進展は米国では事前指示を与える患者の権利を公的に承認する法令へとつながった。そうした法令の最初のものは、カリフォルニア州自然死法1976であり、次のような文句ではじまる。「〔カリフォルニア州〕議会は、尊厳とプライバシーを患者が期待する権利を承認し、ここに宣言する。カリフォルニア州法は、成人が書面で、終末期において、医師が生命維持措置の使用を差し控え、また撤回することをあらかじめ書面で指示する権利を承認する。」この文脈では、尊厳は自律の尊重以上のなにものでもないように思われる。

終末期医療に関連してこうした曖昧な用法が現われることへのコメントとして、米国大統領委員会は次のように言う。「「尊厳をもった死」のようなフレーズは、非常に矛盾したしかたで用いられているため、もしその意味がクリアにされたとしても、絶望的なほどぼんやりしたものになってしまっている」。

死と関連した「尊厳」のまたまったく別の用法は、医学生が新しい遺体を使って処置(ふつうは挿管技術)をおこなう練習をするときにもちだされている。医療倫理学者は、こうした教育的努力が死者の尊厳を侵害していると非難する。しかし、このシチュエーションは自律の尊重とはまったくなんの関係もない。なぜならその対象はもはや人ではなく遺体だからである。遺体がこのような仕方で試用されていると知ったら死者の親類縁者がどのように感じるかということを懸念することはもっともなことかもしれない。しかし、そうした懸念は遺体の尊厳とは何の関係もないし、関係があるのは、生きている人々の願いの尊重だけである。

ジョージ・W・ブッシュ大統領に任命された米国大統領生命倫理委員会、2002年7月に最初の報告書を提出した。そのタイトル『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、委員会の論議のなかで尊厳の概念が占める重要な地位をあらわしている。「尊厳」に対する多くの言及のうちの一つで、報告者は次のように述べている。「生まれる子どもはその親がかつてそうだったのとまったく同じようにこの世界を訪れる。それゆえ、尊厳と人間性の点で、親たちと同等なのだ」。このレポートは尊厳の分析を含まず、それが人々の尊重といった倫理的諸原則とどういう関係にあるのかについては触れていない。どういう場合に尊厳が侵害されているのかを知らせてくれる基準がなにもないので、この尊厳の概念は絶望的に曖昧である。ヒトの生殖的クローニングに反対する説得的な議論は多くあるにしても、尊厳の概念をその意味を明確にすることなしにもちだしても、それは単なるスローガンにすぎない。

スティーブン・ピンカー「「尊厳」の馬鹿らしさ」の抄訳

最近、事情でまた道徳的地位の問題いろいろ考えてます。まあ昔からことだし、なんとかしないと。「(人間の)尊厳」まわりはちょっとどうかっていう議論が多くて、毎日ものすごく苦しんでます。

ピンカー先生が2008年の大統領生命倫理委員会の「尊厳」報告書を痛烈に批判した一文は国内でも有名なんだけど、翻訳ないみたいだから、ネットのみんなで訳したんですわ。ちなみにDropbox Papersっていうのは複数人で文書いじるにに快適でおもしろいのでみんなも使ってみてください。

ピンカー先生の原文はこれ。https://newrepublic.com/article/64674/the-stupidity-dignit

大統領委員会の報告書本文はこれ。  https://bioethicsarchive.georgetown.edu/pcbe/reports/human_dignity/

ちなみにもっと有名なThe Moral Imperative for Bioethicsすでに翻訳がある

全部訳出したけど、それおおっぴらにブログに貼るわけにもいかんので、先生が「尊厳」dignityの概念を分析している部分だけね。

そこまでは生命倫理の大統領委員会がレオン・カス先生という悪によって運営されていて、そこではカトリックが〜みたいな陰謀論みたいな話をしている。まあそれもおもしろいところがあるんだけど、私はそこまでコミットできないから省略。

あらかじめ注意しておくと、尊厳っていう語は日本だけじゃなく米国でもヨーロッパでも議論されたり批判されたりしていて、さらに英語のdignityっていう言葉と、ドイツ語あたりで のWürdeって言葉は印象がちがうかもしれない。下でのピンカー先生のdignity概念批判と分析みたいなのは、英語のdignityの語感にもとづいたもので、これは王様の「威厳」みたいな「偉い」感じに近い。ドイツ語のWürdeとかはカント先生とかの影響もあって、「偉い」っていう意味とさらに人間はみんなすばらしいものだ、みたいなのがはいっているようです。だからこのピンカー先生の分析を読んで「人間の尊厳」って、おしりの方が割れる緑色の妊婦服みたいなの着せられて、お尻からファイバー入れられたりしたって別に毀損されるもんじゃないっしょ、みたいな印象をもつかもしれないけど、それはそういう事情による。ピンカー先生の「尊厳」論はちょっと狭いので日本国内ではすぐには使えないと思う。

でも尊厳は人間の知覚現象だ、みたいなのはさすが認知科学者って感じでおもしろいですわね。

このピンカー先生の論説を含む英語圏での「尊厳」をめぐるあれやこれやは、石田安実先生という方の「「 尊厳 」 概念は役に立たないか」っていう論文がよく書けてるので参照してみてください。


ピンカー「尊厳の馬鹿らしさ」抄訳

(前略)

公平のためにいっておけば、『尊厳』報告書の各論考の大部分はカトリックの教義に直接訴えるものではないし、当たり前だが議論の妥当性はその擁護者の動機や背後関係からは判断できない。 では、議論の中身だけで判断したとき、著者たちは尊厳の概念をどれくらいうまくわかりやすくしているだろうか?

彼ら自身が認める通り、それほどうまくいってはいない。 ほとんどすべての論考は、尊厳の概念が取り扱いにくく、あいまいであることを認めている。 じっさい、ほとんどすべての箇所ではっきりした矛盾が生じているのだ。 奴隷制度や退廃は道徳的に間違っている、なぜならそれらは誰かの尊厳を奪うからだと書いてある。 しかしまた、奴隷化や退廃を含む、およそ他人にできることはなんであれ当人の尊厳を奪うことができないとも書いてある。 尊厳は卓越性、努力、そして良心を反映しており、ほんの一握りのひとだけが努力と性格によって尊厳を獲得すると書いてある。それと同時に、どのような怠け者でも、邪悪なひとでも、精神的な疾患を抱えていても、誰もが完全に尊厳を持っているとも書いてある。 何人かの著者は「ジェノサイド」のカードを切って、20世紀に起きた恐怖は、ひとが尊厳を神聖不可侵なものとして保持するのをやめたときに起きたものだと主張する。 しかし、600万人のユダヤ人をガスで殺したり、ロシアの反体制派を収容所に送ったりするのがなぜ悪いのかをいうのに、「尊厳」という概念はまったく必要ない。

そうしたわけで、寄稿者の最善の努力にもかかわらず、尊厳の概念は混乱したままだ。 私の思うに、その理由は尊厳にはそれを生命倫理の基礎として用いる可能性を損なう三つの特徴を備えているからだ。

第一に、尊厳は相対的である。 尊厳の帰結が時間、場所、そして見る人によって根本的に異なっていると気づくために別に科学的または道徳的な相対主義者である必要はない。 昔はストッキングがチラッと見えるのはなにかショッキングなことだと見なされていた。 蒸し暑いに日に森の中をハイキングするのに格式ばった襟とウールの服を着ているビクトリア朝時代のひとたちの写真や、皿を持ち上げたり、子供と遊ぶのは尊厳にもとることだと考えるている数多くの社会のバラモンや家長たちを私たちは滑稽に感じる。 ヴェブレン[『有閑階級の理論』]は自らの王座を暖炉のそばから動かすのは王の尊厳にもとることだと考えていたフランス王について書いている。ある夜、家臣が姿を見せなかったせいで、その王は焼け死んでしまった。 カスはアイスクリームのコーンを舐めることが尊厳を損なう恥ずべきことだと思っている。 しかし私はそれは問題はないと思っている。

第二に、尊厳は代替可能である。 委員会とバチカンは、尊厳を神聖な価値として扱い、決して妥協しない姿勢をとっている。 じっさいには、私たちはみな、自発的に、そして繰り返し、人生のなかの他の善いことのために尊厳を放棄している。 小さな車から降りるのはみっともない undignified。 セックスをするのも尊厳を失うことだ。 警備員があなたのズボンの股に腕を突っ込むことができるようにベルトを外して両腕を広げるポーズをとるのは尊厳を失うことだ。 最も大事なのは、現代医学は侮蔑の試練の場だということだ。 この記事の読者の大半は、骨盤または直腸の検査を受けたことがあり、多くのひとはその上、大腸内視鏡検査の「喜び」も知っている。 私たちは、尊厳は人生、健康、および安全とトレードオフの関係にある些細な価値であると、自らの足(と身体の他の部分)を使って〔病院に行くことで〕何度も賛成投票をしている。

第三に、尊厳は有害でありうる。 『尊厳』の報告書に関するコメントで、Jean Bethke Elshtainは修辞的に、「人間の尊厳を否定したり、制限することでなにか良いことがあったためしはあっただろうか」と尋ねている。 この答えははっきりと「イエス」だ。 高いところから軍隊を閲兵する、肩章と勲章をつけた独裁者はみな、尊厳を誇張的に表すことを通じて尊敬を集めようとしている。 政治的、宗教的抑圧は、しばしば国家、指導者、信条の尊厳を守るために合理化されるのだ。サルマン・ラシュディへのファトワー[死刑宣告]、デンマークの風刺漫画に対する暴動、受け持ちのクラスがテディベアにムハンマドと名付けたことを理由に厳しい批判と私刑を求める群衆にさらされたスーダンの英国人教師のことを思い出してみればいい。そう、毛沢東主義下の中国の統一された国民服やタリバンのブルカのように、全体主義はしばしば尊厳について指導者が抱いている考え方を、人々に対して課すのである。

自由な社会では、国家が市民に対して尊厳について一つの考え方を押し付けることを禁じている。 民主主義の政府は、風刺家が指導者、制度、社会的な慣習を物笑いの種にすることを許している。 そして、そうした政府は「「よい人生」についてのなんらかの見解」や「自由をうまく使うことの尊厳」(どちらも委員会の報告書からの引用)を定義しようとするどんな権限も破棄するのである。 自由の代償は、私たち自身の見方では尊厳が失われているかもしれないような他人の行動に寛容であることである。私はブリトニー・スピアーズと「アメリカン・アイドル」がどこかに消えたら嬉しいが、アイスクリーム警察に逮捕されることを心配しなくて済むのであれば我慢する。 このトレードオフは、アメリカのDNAに非常にたくさんあって、文明に対するアメリカの大きな貢献の一つである。「我が国、其は汝のもの、麗しき自由の土地」[“My Country, ’Tis of Thee” の歌いだし]というわけだ。


それでは尊厳は役立たずの概念なのだろうか? 九分通りはそうだ。〔しかし〕この言葉は、限定的ではあっても、我々が道徳的に考慮すべき事柄に関するある要求を与えるような意味をひとつだけもっている。

尊厳は人間の知覚の現象である。世界からのある種のシグナルは、知覚する人の心のなかで、ある特質の帰属のトリガーとなる。図面での集中線が奥行きの知覚のてがかりになり、また二つの耳のあいだでの音の大きさの違いが音源の位置についてのてがかりになるのとちょうど同じように、別の人間のある種の特徴は、重要性(worth)を帰属させることのトリガーになるのだ。こうした特徴に含まれるのは、落ち着き、清潔さ、成熟、魅力、身体のコントロールなどだ。逆に、尊厳の知覚は知覚する人のなかにある反応をひきおこす。パンを焼く匂いがそれを食べたいおという欲求のトリガーになるように、また赤ちゃんの顔を見ることがそれを守りたいという欲求をひきおこすように、尊厳のある見かけは、尊厳を身につけた人物に対する評価と尊敬の欲求のトリガーとなる。

ここからなぜ尊厳が道徳的に意義があるのか理解できる。ある人物に、他の人物の権利と利益に対する敬意をひきおこす現象を我々は無視するべきではない、ということだ。しかしここからまた、なぜ尊厳が相対的で、代替可能で、しばしば有害であるのかも理解できる。尊厳は上辺だけのものなのだ。それはステーキではなく、それを焼く音なのだ。本そのものではなくカバーなのだ。大事なのは究極的には人物に対する尊敬であり、それを典型的にひきおこすような知覚上のシグナルではない。実際のところ、知覚と現実のあいだのギャップが、我々を尊厳原則に対して脆弱にしている。我々はもとになってはずの真価(merit)を知らずに尊厳のサインに圧倒されることがある。たとえばインチキな独裁者の尊厳のサインに。また、尊厳のサインを剥ぎとられてしまったた人の真価を認めそこなうことがある。たとえば難民生活で物乞いせざるをえない人の場合だ。

我々は、正確には尊厳のどの側面に敬意を払うべきなのだろうか? 一つには、人は一般に尊厳あるものと見られたいと思うものだということがある。したがって尊厳は人の利益の一つであり、身体的統合性や個人所有権とならぶものであり、他の人々はそれに敬意を払う必要がある。我々が他人に爪先を踏まれたくない。他人にホイールキャップを盗まれたくない。また便器に座ているときにトイレのドアを開けられたくない。この正確な意味での尊厳の価値は、生命医学にたしかにひとつの適用すべき点がある。つまり、医療措置とあいいれない場合には患者の尊厳にもっと大きな注意を払うべきだ、という点である。報告書には、現代の患者がしばしば耐えることを強制されているような回避できるはずの恥ずかしめ(たとえばおしりから開くようになっている病院のひどいスモック)についての素敵な論説がある。ペレグリノによるのものとレベッカ・レッサーによるよるもののだ。誰もこのような意味での尊厳を価値あるものとみなすことに反対などしない。そしてそれがポイントなのである。尊厳の概念が正確に特定されれば、それは論争のもとになる道徳的な難問ではなく、冷淡さや事務的な怠惰さに対抗するための世俗的な思慮の問題ということになる。そして、これはけっきょくはそう扱って欲しいと人々が願うようにその人々を扱うということになるのだから、究極的には自律の原則をまた別の仕方で応用しているにすぎないことになる。

「尊厳」に、一定の注意深い敬意を払わねばならないもう一つの理由がある。尊厳が減じらてしまうと、それは知覚する人の心を冷やかにし、人を虐待することをに対する禁止の念を緩めてしまうかもしれない。ナチスドイツでのユダヤ人たちが黄色の腕章をつけさせられたり、文化大革命のときに反体制派がグロテスクな髪型と服装をさせられたように、人々が格下げされ辱められると、その傍観者たちはさげすまれた人々を軽蔑しやすくなる。同じように、難民や囚人や他の浮浪者たちなどが、不潔な状態で生活させられるとき、それは非人間化と虐待のスパイラルのはじまりになりうる。これは有名なスタンフォードの刑務所実験で証明されたことだ。この実験では、「囚人」にわりあてられたボランティアはスモックと足枷を着用させられ、名前ではなく番号で呼ばれることになった。「刑務官」にわりあてられたボランティアは、自発的に囚人たちを痛めつけはじめた。ただしここで注意しておきたいのは、これらのケースはすべて強制を含んでいるのだが、これらもまた自律と人々に対する敬意によって排除されるものだということだ。したがって、尊厳の侵害がはっきりそれとわかる危害につながるとき、究極的にはそれを非難する根拠を与えてくれるのは、自律と人々に対する敬意なのだ。

自発的に尊厳を手放すことが、傍観者の冷淡さと第三者への危害につながる──経済学者がネガティブな外部性と呼ぶもの──ということはありえるだろうか?理論的にはイエスだ。おそらく、もし人々が自分の遺体が公の面前で冒涜されることを許すならば、それは生きている人々の身体に対する暴力を推奨することにつながるかもしれない。ひょっとすると、小人投げ(dwarf-tossing)という娯楽は、小人症の人々に対する虐待を促進するかもしれない。ひょっとすると暴力的ポルノは女性に対する暴力を促進するかもしれない。しかし、そうした仮定の話が制限的な法律を正当化するには、経験的なサポートが必要である。人間の想像力のなかでは、なんでもがあらゆるものにつながうる。教会通いをさぼることは怠惰につながる、女性に車を運転させることは性的放蕩につながる、などと。自由な社会では、不快にされた側がなにもないところから仮想的な将来の危害をおもいつくようになったというだけでは、誰かを不快にするような行為を政府が法で禁止するような権力を認めることはできない。毛沢東もサヴォナローラコットン・マザーも、人々が望むことをするように許すことが社会の崩壊につながる理由を山ほどあげることができただろう。

(後略)


ファインバーグは重要だった (3)

前のエントリなんですが、ちょっと解説しておきます。

「パーソン論は新生児や障害者殺してもかまわんとする邪悪な思想だ」みたいな批判があるわけですわ。ちょっと古いけど、さっき見てた菅野盾樹先生の「胎児の道徳的身分について」(1998)って論文ではこんな感じになってる。(たまたま見てただけで、国内の多くの生命倫理の論文はこんな感じになってる。)

何回も書いてるけどこれは誤解というかひどい言い掛かりというか、まあこういうふうに理解してはいかんのです。

理由はまさに、パーソン論というのは基本的に「生命に対する重大な権利」についての議論ではあるのですが、我々の生活では権利っていうのは道徳的生活の一部にすぎず、他にも社会的効用とか善意とか愛とかケアとか幸福とか自由とか平等とか、権利以外にもさまざまな考慮すべき事柄があるからです。権利の侵害はもちろん不正ですが、権利の侵害ではないけれども不正なこと、正当な権利の行使ではああっても望ましくないこと、などいろいろあるわです。この点は実は、国内で初めてパーソン論をとりあげた飯田亘之先生も「可能なことと望ましいこと」(『理想』第631号、1985)っていう、記念碑的論文で論じているのです。

権利っていうのは法的概念、あるいは疑似法的概念であって、われわれの道徳生活のすべてではない。ファインバーグはそこらへんよくわかっていて(っていうかファインバーグ先生ほどわかってる人はいないわけですが)、仮に胎児や新生児が生命に対する重大な権利をもっていないとしても、もっと考えるべきことはありますよ、と主張しているわけです。そしてそれは主に社会的効用だ。赤ちゃんや弱者を簡単に死なせるような社会は、その赤ちゃんや弱者たちにとっても望ましくないし、パーソンである我々自身にとっても望ましくない。だから権利もってない存在者だからといって菅野先生がいうようになんでもしてよいなんてことにはならんのです。だいたい犬猫だって好きに殺してもかまわんとかそういうことにはならんでしょ。何を言ってるのですか。

問題は非常に重篤な障害を送ることになりそうな新生児などで、これは障害や病状によっては、ひょっとすると本人が非常に苦しむ将来が予想されることがあって、こういうときに新生児の安楽死とかの問題が生じてくるわけです。ここではそうした非常に大きな苦しみをかかえた人を生みだすことが「不正」であるかどうかというファインバーグが気にしている問いをつめて考えることはできませんが、かなり重い障害を負った新生児であっても、そんな簡単に治療を差し控えようとか安楽死させようとか言えるものではない、っていうのがファインバーグ先生の結論だと思います。

このあと、もうちょっと続くんですわ。この新生児などについての議論が、中絶の議論にどういう影響があるか、という部分。

—-

人工妊娠中絶問題への含意

現実所有基準説が胎児の道徳的パーソンとしての身分の問題に対して持つ含意は単純である。胎児は、我々がさきほど生存権を所有するための必要十分条件として列挙したうちの特徴(C)を現実に持っていないため、胎児はその権利を所有していない。したがって、この基準を考えるなら、人工妊娠中絶は決して胎児の生存権に対する侵害を伴わない。そして、胎児に生まれることを許容することは、我々が*しなければならない*ことでは決してない。*そうであってしかるべき*何かではありえないのだ。

しかしだからとって、中絶は不正ではありえないということにはならない。先に見たように、新生児は現実所有基準を満してはおらず、したがって道徳的な意味でのパーソンではないとはいえ、少なくともそれがひどい異常をもっていないかぎりは、それを殺すことが不正であるという功利主義的な理由が与えられるるのである。それゆえ、胎児が生まれたときにひどい異常をもってない見込みがあれば、これと同じ理由がその発達後期の段階で胎児を中絶することに反対するものとして与えられうる。

これまで考察してきた功利主義的な理由は非常に重要であって、ことによると、こうした理由は、非パーソンであるとしても本物のパーソンに非常に類似した存在者であればいかなるものでも、それに対して暴力的・破壊的な取り扱いを禁じるに十分であるかもしれない。そうした存在者には、たとえばすでに物故した元パーソンや小さな赤ん坊だけでなく、オトナの類人猿や妊娠の最終トリセメスターのヒト胎児も含まれるかもしれない。そうした考慮事項が、ブラックマン判事がRoe v. Wade判決で多数派意見を述べたときに彼の念頭にあったのかもしれない。多数派意見によれば、胎児は殺人に関する方によって保護される法的な意味でのパーソンではないが、それでも最終トリセメスターのあいだは「国は人間の生命の潜在性における利益を促進することにおいて、中絶を規制または法によって禁止することを選択できる」とされている。「人間の生命の潜在性」に国がどのような利益をもっているにせよ、それは*現実の*人間の生命に対する敬意を維持し促進することについてもつ利益から派生したものにちがいない。我々の派生的な敬意から利益を受けるのは、潜在的なパーソンたちだけではなく、高等動物、死者、新生児、かなり発達した胎児など、本物のパーソンによく類似していて、「本物」の聖なるシンボルを与えてくれるような、すべての近似的パーソン (near-person)なのである。

こうした考慮事項に照らしてみると、先に論じたような漸進主義的アプローチの方が、道徳的な意味でのパーソン性の基準をさぐるという狭い問題設定よりも、中絶の道徳的正当化という一般的問題への回答としてはもっともらしいように思われる。もし胎児は単なる潜在的なパーソンであり今現在の生命権はもっていないとしても、また、それゆえ胎児を殺すことは殺人(ホミサイド)ではないとしても、それに潜在的パーソン性があることはそれを殺すことに反対するひとつの理由になるのであって、それはさらに、中絶が正当化されるとすれば、反対の側にもっと強い理由を要求するということになる。もしこれが正しければ、パーソン性の潜在力がより先に進めばそれだけ、それを殺すにことに対する反対意見はより厳格なものになる。すでに見たように、「権利」の他にも我々の道徳的決定に重要な考慮事項は多々存在するために、誰の権利も侵害しないとしても道徳的に不正であると判断されうる行為がありえる。そうすると、胎児を殺すことは、それが胎児の権利を侵害せず、胎児が道徳的な意味でパーソンでもなく、またけっして殺人(マーダー)ではないしても、一定の状況下では不正となりうるかもしれない。

—-

どうでしょう。権利とその担い手としてのパーソンの基準の話は重要ではあるのですが、そっからすぐに中絶はいつでもOKとか障害者は抹殺しろとかそういう話にはならんのです。生命倫理学者はもっとまじめに勉強するべきだ。

え、功利主義者のシンガーは障害新生児は安楽死させろって言ってるんじゃないの?それとこのファインバーグという人のはどういう関係なの?という人に向けてはまたそのうち書きます。

 

ファインバーグは重要だった (2)

ファインバーグ先生が「新生児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出。


(前略)

正常の新生児の殺害

現実所有基準説の提唱者たちは、この反論に対する答をもっている。彼らの信じるところでは、道徳的な意味でのパーソンの殺害(マーダー)ではないとしても、新生児殺は不正であり他の根拠から禁じられるのが適切である。この点をクリアにするために、次の二つを区別するのがよいだろう。すなわち、(1) ハンディキャップが価値ある将来の生活を不可能にするほど深刻ではないような、正常で健康な幼児や新生児を殺すケースと、(2) 重度の奇形や不治の病をもった新生児を殺す場合の二つである。

現実所有基準説の提唱者のほとんどは、第一の(正常な)ケースの新生児殺に対して強く反対する。母親が身体的に正常な自分の新生児を殺すならば、それが誰の生命権を侵害していないとしても非常に不正なことである、と彼らは主張する。正常なケースでの新生児殺を不正なものとする理由が、まさに刑法における新生児殺の禁止を正当化するものである。こうした殺害(キリング)を非難する道徳的ルールや、それを可罰にする法的ルールは、どちらも「功利主義的理由」によって支持される。つまり、いわゆる「社会的効用」あるいは「公益common good」「公共の利益 public interest」などによっているのである。自然が私たちに新生児に対する本能的なやさしさを植え付けているのはあきらかである。それは種のために非常に有用であることは明らかだ。だがそれは、我々に幼い人々を死から守って、我々の人口を維持するためだけではない。幼児はふつうは大人へと育つのであり、ベンの言葉にあるように、「もし新生児としての*彼ら*への扱いに最低限度のやさしさと考慮すら欠けていたら、後に彼らはパーソンとしてそのことに苦しむだろう」からでもある。それに付け加えて、彼らが大人になったとき、身近にいる他の人々もその仇を受け苦しむことになるだろう、と言ってもいい。よって、赤子への自発的な温かみと共感には明らかに莫大な社会的効用があり、そうした社会的に価値ある応答を弱めてしまいかねないという点から新生児殺は功利主義的根拠から道徳的な不正となる。

誰の権利も侵害しないとはいえ不正であり、禁止するのが適切な行為は、他にも例がある。例えば、おじいさんが自然死した後に、彼の遺体を切り刻んで、冬の寒い朝にその肉片をゴミ箱に捨ててしまうのは不正であろう。これが不正であるのは、*おじいさんの*権利を侵害するからではない。彼はすでに死んでおり、もはや我々と同じ種類の権利を持つことはない。事例を少し工夫して、彼は生前に死後にそうした扱いを受けることを理解しており、実際前もってそれに同意すらしていたので、おじいさんはそれをなんら気にしない、としておくこともできる。だが、もしこうした行為が禁止されていないならば、この種の行為は、生きている人々に対する我々の敬意を(こうした敬意がなければまともな社会など不可能である)、最大限強烈に脅かし打ち砕いてしまうだろう。(またこうした行為は非衛生的であるしゴミ回収業者にとってショッキングでもある――これらもさほど重要ではないにせよ、同じく功利主義的な考慮に関連している。)

重度の奇形児の殺害

一般的な功利主義的理由は、通常の(そしてあまり異常ではない)幼児のケースでの新生児殺に反対するかなり厳格な規則を支持するが、それは幼児が重度の奇形であったり重病に罹っている場合の(きわめて特殊で限定的な状況下での)新生児殺を禁止するほど十分に強いものではないかもしれない。確かに、殺人反対の規則が純粋に功利主義に基づいているなら、その規則は極度に異常な新生児に関する例外条項を持つだろう。こうした例外を認める点で、そうした〔功利主義的〕規則は、新生児に生まれながらの生存権を認めることに由来する新生児殺反対の規則とはまったく異なる。もし奇形の新生児が道徳的な意味でパーソンであるなら、彼または彼女は本稿の読者諸君と同じように、殺人禁止の規則によって保護される資格を十全に有している。もし新生児が道徳的な意味でパーソンでなければ、極端なケースでは、全体としてみれば彼を死なせることに賛成する論拠があるということになるかもしれない。道徳的な意味でのパーソン性の現実所有基準説論者は実際に、この非パーソン性がもたらす結論を、自分の見解の難点ではなくむしろ利点とみなしている。彼の見解が正しいとすれば、我々は絶望的に形成異常のある幼児を、道徳的パーソンへと成長する*前に*破壊することで、「生きるに値しない」ほど恐ろしいもっと長い人生から彼らを救うことができる。そしてこれは、彼らの権利を侵害することなく実行できるのである。

この見解にしたがえば、実際このような幼児が道徳な意味でのパーソン性に至る前に死なせ*ない*こと、そのこと自体が彼らの権利の侵害になるかもしれない。なぜなら、もしそうした子どもたちの最も基礎的な将来の利益を実現するための条件が既に破壊されていると十分に知っていながら、彼らが道徳的パーソン性に成長することを許してしまえば、我々はこれらのパーソンに対して、(パーソンとして)存在するようになる前に不正なおこないをした(wronged)ことになる。そして彼らがパーソンになった時、彼らは、自分たちは不正なおこないをされた、と主張できる(あるいは彼らの代理にそう主張されうる)。他の場所で論じたが、私はこの論点から誕生権というアイディアの大枠を提案している。もし我々が、ある胎児または新生児が誕生権を持つことがらを獲得することが不可能であると知っていながら、それにもかかわらず、彼を誕生させたら、あるいはパーソン性に到達するまで生き残らせるなら、その胎児または新生児は不正なおこないをされた(wronged)ことになり、我々は彼の権利を侵害した加害者になってしまうのである。

もちろん、なにか身体的ハンディキャップや精神的ハンディキャップを背負っているというだけで「生きるに値しない」ことになるわけではない。実際、成人にまで成長した幾人かのサリドマイド児の証言は、腕や足や完全な視力がなかったとしても、価値ある人生を送ることが(ごく特別なケアが与えられれば)可能であることを示している。だが、幸福の追求における単なる「ハンディキャップ」ではなく、幸福の追求が失敗せざるをえないことさえ保証してしまうような奇形という極端なケースもありうる。生得的に耳も聞こえず、目も見えず、部分的には麻痺していて、コンスタントに苦痛に苛まれざるをえない精神的遅れをともなった(retarded)脳損傷児は、そうしたケースかもしれない。しかしながら、新生児殺に反対する強力な一般的功利主義事由を考えると、「死ぬ権利」の立場を擁護する者は次のことを認めなければならない。疑わしきケースでは、価値ある人生が不可能であると示す立証責任は、新生児に早急かつ無痛の死を引き起こすであろう人の方にあるのだと。そして、なんらかの疑いのほとんど常に存在するものである。


ちゃんと書いてますね。つまり新生児を殺してはいけないし殺したら法で罰するべきなのは、「功利主義的理由」なのです。

これは当然で、トゥーリーやウォレンらによるパーソン論の最初から「功利主義的理由」や「親やまわりの人々の感情」などは重視されています。

ショッキングなのは、加藤先生がこの部分を読んでいなことに加え、前エントリで引用した次の部分では先生はエンゲルハートの「功利主義的理由」による「みなしパーソン」を紹介し強く批判するわけです。しかしそれならこのファインバーグのも批判するべきだったろうと思う。でもまあ当時としてはしょうがないかもしれない。

でもさらに問題がある。このファインバーグの文章の初出は1980年のはず 1)私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。 。よく批判されるエンゲールハートの議論は、オリジナルでも1986年。つまり、このファイバーグの方が先なのです。それなのに国内では、ここらへんの加藤先生や森岡正博先生がつくりあげたテンプレにしたがって、「トゥーリーがパーソン論やったけど文句がついたので、エンゲルハートが功利主義的な理由から新生児もパーソンと認めようって提案しました。でもその功利主義的発想が許せん」みたいなのがいまだに書き続けられている。

なにが問題かって? それはつまり、ここからわかることは、国内の生命倫理学者のほとんどは、このファインバーグ論文を読んでいないだけでなく、『バイオエシックスの基礎』に収められた貧弱な抄訳に何も疑問を抱かず満足し、そして先生たちが使ったテンプレのままにずーっと伝言ゲームをしているのです。そしてたしかめもせずにみんな文献リストにのっけて、さもオリジナルな発想であるかのようにしてエンゲルハートを批判しているのです。

私はこれはとてもよくないと思う。へたすると研究不正、とはいかないまでも疑問のある研究方針。前のパーソン論論文でもそういうのは批判したんですが、もう国内の学者先生はほんとうに勉強してないのです。そんな学問の世界ってある?それも人の生命を左右するような政策にもかかわるかもしれない分野ですよ? 「生命の尊重」とか言ってる人々がですよ?私は考えられない。まず学問の最低限のマナーを守るべきだ。みんな一度に滅びればいいと思います 2)私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

あとこの論文は80年代以降に問題になる「ロングフルバース/ロングフルライフ」問題の先駆けになってる重要論文ですわね。これは私も気づいていなかった。恥ずかしいです。

 

References   [ + ]

1. 私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。
2. 私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

ファインバーグは重要だった (1)

12月に学会でワークショップだかシンポだかをやろうっていう話に誘われて、またパーソン論や道徳的地位の問題を漁っているわけです。今回はそれなりに徹底的にやってここらへんのに自分のなかでケリをつけておきたい。

たいして新しいアイディアがあるわけではないので、サーベーぐらいはそこそこ徹底的にやっておきたいと思っていろいろめくっているわけです。生命倫理学の大家であり、恩師ともいえる加藤尚武先生が著作集を出していて、それもチェックしなければならない。っていうか、この問題における加藤先生の貢献は非常に大きいんですよね。

「方法としての「人格」」っていう書籍には収録してなかった論文がおさめられているので、とりあえずこれを。初出は『看護セレクト』1989ですか。見たことなかったわー。

内容はいわゆるパーソン論を紹介してその重要性を指摘するとともに批判する、というよくある形で、まあ国内テンプレ様式。でも1989年なのでテンプレにしたがったのではなく、加藤先生自身がテンプレを作ったわけです。ものすごく偉い。

この論文では主にファインバーグとエンゲルハートが紹介され論じられてるんですわ。この組み合わせはわりとめずらしくて、普通はトゥーリーとエンゲルハートなんですが、ファインバーグ先生はほんとに賢い偉い先生なんすよね。法哲学・倫理学の巨人。

んでこういうページがある。

注目してほしいのは、うしろの方の「人格・生存権という概念をもちいることなく幼児殺しを避妊する理由が何であるかをファインバーグは語らない」のところ。これ読んだとき、「ファインバーグ先生ほどの人がそんなことするかな、なんでも明晰に書く人だから」って直観的に思いました。んで当然確認。手間かかるんすよね。

このファインバーグの “Abortion” (または”The Problem of Abortion”)は、加藤先生たちの『バイオエシックスの基礎』(1988)に抄訳が収録されているんですが、あくまで抄訳で、全体の1/4もないのね。収録されているのはT. L. ReganのMatters of Life and Deathって本で、これ10年ぐらい前の例のパーソン論論文書くために入手しておいたし、抄訳がどれくらい抄訳になってるかはチェックしていたんですが、実は全体は読んでなかった。恥ずかしい。

んで発見したことはかなりショッキングだったんですわ。

ファインバーグ先生が「幼児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出したので(っていうかちょっとやって明日やろうと思って寝てたら、夜中に妖精さんがやってくれてました。ありがとう妖精さん)

前置きなのに長くなってしまったので続きます。

 

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』を図書館でふと手にとって、クジラ問題のところだけ読んでみたらいろいろ問題を感じたので、いつものように引用とメモ。

小型のクジラがイルカであるといっても誤りでなく、そのため、DNA検査によってイルカの肉かクジラの肉かをみわけることは困難である。 (p.130)

え、そうなの?意味がわからんです。DNA調べたら種の特定ぐらいはできるしょ。だから時々国内で特定種類の鯨肉(調査捕鯨などの)が流通しているって非難されるんでしょ。まあクジラとイルカは種としては近くて、人間が勝手に大きさで区別してるだけ、っていうのならわかるけど。水産庁もDNAで肉がどの種のイルカ・クジラであるか登録しろと指導しているような気がします。

[『ザ・コーヴ』制作者らの]論理破綻こそに食にまつわる問題の意味が詰っているのではないかとおもわせもする。つまり、クジラ・イルカ漁に反対するひとは、まさしくただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのではとおもうからである。(p.133、強調は原文傍点。)

こういう文章を見ると、まあなにかに反対したい人はそれに反対したいから反対しているのでそれはいいんだけど、それが「ただそれだけ」なのか、「それ以外の「意味」」はないのか、そもそも「意味」とはなにか、みたいなこと考えてしまいますね。「反対しているのはまったく勝手な感情にもとづくもので、それ以外に反対する理由や根拠ははない」みたいな文章なんだろうけど。たとえば、奴隷制度に反対しているひとも奴隷制度に反対したいから反対しているわけで、民族浄化や奴隷制度に反対したい、反対すべきだと考えているっていう以上の「意味」なんてないかもしれない。

と。んで本論に入っていくわけだけど、その前に、檜垣先生が『ザ・コーヴ』を非論理的、論理破綻、矛盾、とかなんとか何回も繰り返してディスってることに注意をうながしておきたい。ある人の主張が論理的でない場合にはそれは傷であるわけだけど、『ザ・コーヴ』はドキュメンタリー映画・広報映画であって論文ではないので、必ずしも論述の展開が「論理的」でないかもしれないわけだけど、それって映画やドキュメンタリーの欠点なんかな。もちろん映画での主張が矛盾だらけでよいということではなく、論文のような論理的構成になっていないからといってさほどせめられない、と私は言いたい。ドキュメンタリーで出てくる人々の主張はたいてい論文や書籍や他の場所での発表媒体に掲載されているわけだから、主張の論理的なよしあしを見るには映画ではなく他の媒体のものを見た方がよいのではないか、と思う。

第二に、檜垣先生は論理論理論理破綻矛盾!というわけだけど、私にはさほど主張が矛盾しているとは思えなかったってのがある。これは檜垣先生ができるかぎり『ザ・コーヴ』の主張を整合的な形にした上で、どこに矛盾なり論理破綻なりがあるかを示す責任がある。「論理破綻している!」って何度も言うだけでは破綻していることを示したことにならない。それができているか、これから確かめるわけです。


さて。

……できれば酷い環境のもとで飼われないこと、そもそも人間に飼われないこと、これがいいということは確かだろう。……だが、なぜイルカなのだろうか。……なぜそれがイルカ……に対してだけ向けられるのか、そこの線びきの根拠が、正直明確であるとはいえない。 (p.137)

え、そっちに行くんか。

ある社会運動家が、ある問題に関心をもち、ある局所的な事象をとりあげて問題視することはよくある。個人や団体の力には限界があるので、世界の不正や問題をぜんぶいっしょにとりあつかうことはできないからだ。世界をよくするには、それぞれの人が小さくても局所的な問題をとりあげ活動し改善していく方が全体としてはうまくいく見込みが大きい。

ただし、イルカの飼育に関心をもっている人に対して、豚の工場畜産はどう考えるかたずねてみるのはもちろん悪くない。クジラやイルカに豚とは違うなにか特別なところがあると考えているのかどうか聞いてみたらいい。それに対する答はいろいろありうる。「豚についても懸念しているけど私はイルカに特に興味がある」っていうのもまあ一つの答だし、「豚問題もやりたいけどとにかくイルカから」っていう答もありうるだろう。また、「イルカはかわしいけど豚はかわいくないから」という理由であった場合には、「かわいさってそんなに道徳的に大事なのですか」と聞いてみてもいい。でもこれってそれ自体は論理破綻とかではない。しかしまあ檜垣先生が「なぜイルカなのか」と考えること自体はそれでOK。

あと、一般に、なにかが論題になっているときに、別の話にそらしてしまう論法は、「イグノランチアエレンキ」(論点相違)の詭弁/誤謬推理って呼ばれていてあんまりよいものではない。

たしかにオリバーにとって、……それと同種のイルカも、かけがえなのない「伴侶種」であることは理解できる。しかしながら、……他の無数に存在しうる「伴侶種」にも同じことをしなければならないはずだ。 (p.138)

オリバー先生というひとがイルカはコンパニオンだから救うべきだと主張しているかどうかは未確認(この本でもわからん)。でもこれはこれでいい。

でも、たとえば(「伴侶種」である)イルカを大事にするなら、(伴侶種である)犬も大事にしなければならないはずだ、っていうことから、イルカ漁反対運動と、犬虐待反対運動を同時にやらねばならない、っていうのは出てこない。どっちかかたいっぽうだけでいい。

日本でイルカ漁をおこなっているのは和歌山だけではない。……では、太地町の何が問題なのか。 (p.138)

これも同様。和歌山でもフェロー諸島でもクジラ漁がおこなわれているってことから、「同時に」それらに反対しなければならないってことはない。もちろん「フェロー諸島のにも反対しますか?」って聞かれたらおそらく『ザ・コーヴ』の人々は「(条件が同じなら)反対します」って答えると思うけど、同時に映画とらねばならないわけではない。

「〜に反対するなら〜にも反対しろ」は社会運動家たちに対してよくやられる反論で、意見の整合性を見るために質問するのはよいかもしれないけど、実際の運動をいっしょにやらねばならないわけではない。そもそもそんなのリソース限られてるからできないっしょ。

まあでも、この種の疑問自体はOK。こういう疑問を感じたら、『ザ・コーヴ』の人々がどういう立場なのかよく調べてみればいいと思う。もし私の学生様が『ザ・コーヴ』見ただけで彼らの主張について勝手なことを言おうとしたら、「まずちゃんと調べてみたら」ぐらいの話はしますね。オバリーさんとかの文章は日本語では見つからないかもしれないので、しょうがないからクジラ関係の書籍やweb記事とか調べてもらいますかね。できれば英語その他の外国語でも調べてみたいですね。

食料とする動物に対して穏当な殺し方は構わず、残酷な殺し方はまずいというのは、これもまた、いかなる基準で判断すればよいのかわからないことである。穏当であるというのは、端的にいえば相手に「痛みを与えない」ということであろう。……しかし、どのように考えようとも、これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない。もちろんこの感情移入にはある程度の根拠がないとはいわない。しかし「相応」の根拠しかないといえば、どうなのだろうか。 (p.138)

あらー。ツイッタでよくやられている議論ですね。でもこれはよく考えてみる必要がある。

「食料とする動物に対して〜」なんだけど、いまの先進的な屠畜工場では屠殺は一瞬でおこなわれてかなり苦痛は少なくなってると考えられてるみたいですね。テンプル・グランディン先生とかが動物の心理を推察してなるべく苦痛が少なくなるような施設を設計したり、とか聞きます。

クジラやイルカについて「残酷な殺し方」が問題になるっていうのは、クジラやイルカはそうした施設で苦痛が少ない形で殺すことが難しい、どうしても海で追い込み漁やったり、浮き輪つきのモリを何本も打ち込んだりしなければならない、ってところにあるんだと思ってます。まわりで仲間が殺さてるのも知覚するだろうからそれの恐怖もあるだろうしねえ。まあそういうんでイルカクジラ漁は、牛や馬の屠畜とかに比べて批判が多い。

鹿や兎を鉄砲でとってくるのはどうなんだ、とかの話ですが、まあ鉄砲でさっさと片づけるならそれほど苦痛はない、とか考えられるのか、そうでもないのかはよくわかりません。ただイノシシの罠猟とかはかなり問題があると考えらていて、よく知らないけど24時間以上ほうっておいてはだめ、とかいろいろルールがあるみたいですね。あと鳥のかすみ網とかも苦痛が大きそうだから禁止されてるはず。『山賊ダイアリー』とかで解説してくれてるかな。

んで「これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない」がちょっとわかりにくくて、罠に足挟まれて足の骨くだかれてそれでも半日ジタバタする、みたいなのは人間だろうがイノシシだろうがものすごく苦痛な感じがするんですが、先生これ「人間という種」の感覚器官に依存するもので、イノシシは痛くないと思いますか。イルカが太いモリを打ち込まれてなかなか絶命せずに逃げようともがくのもものすごくたいへんそうですが、先生これ人間の種の感覚器官に特有ですか。特有じゃなくて「依拠」ですか。でもそれってどういう意味なんだろう?

まわりで同類のがばんばん殺されてたら、わりに賢くて将来の見通しがあり、共感能力とかが発達していてグループで活動する種の動物はいろいろ動揺しそうですが、これってどれくらい人間の感覚器官に依存しているんだろう。

「相応の根拠」しかないからどうなのですか。我々が他の人間が苦しんでると思うのでさえ、この意味では相応の根拠しかないではないですか。こんなの動物倫理の初歩の初歩だと思うんだけど、そういうのに興味はないですか?


「数々の誤謬」のところは誤謬といいながら事実認識の話で私はあんまりコメントできないんだけど、檜垣先生の方がおかしいように思う。

コーヴ側をC、檜垣先生をHとして表記すると

C「日本がまだイルカ漁やってることを日本人すら知らなかったよ」← H「食べてることは知らなかったよ、政府が隠してるってことはないと思うよ」(?) 論点ずれてる。

C「肉の種類ごまかして流通してるよ」← H「物々交換や儀礼にかかわるものだよ」 いやそれ以上に流通しているからニュースになったんでは?

C「イルカ肉には水銀たまってるよ」← H「健康被害が出てるってのは確認とれてないよ、水俣病みたいな公害と「自然的な淘汰作用」でたまった水銀は別だよ」なに言ってるかわからない。

でもよくわからない。なんか三つとも論点相違になってる気がするけどはっきりしない。『ザ・コーヴ』の言い分にも問題ありそうなんだけど、あれ見直すのいやなんよね。

ここらへんの話はいろいろあって評価がむずかしい。
http://www.econavi.org/weblogue/webtra/kurita/32.html
から、いろいろリンクがあるので見てみるとよいと思う。


もっと問題が多いところへ。

彼ら自身はヴェジタリアンかもしれないが、そもそも牛肉を山のように喰い、動物を殺すことにかんしてはかくも残虐なヨーロッパ系白人であることは確かである。(p.144)

いやこれは……ちょっとコメントしにくいけど、ヨーロッパ系白人だからなんだというのか。いわゆる対人論法(アドホミネム)であり、人種差別的であると思う。人種じゃなくて個人で話してください。こういうのは本当によくないのでやめてください。本当にやめてください。筆がすべっただけですよね。

ごく好意的に読めば、これは我々が感じるオバリーさんたちに対する嫌悪感の説明で、われわれってこういうふうに考えちゃいますよね、ってな解釈ができる。でもその次は

彼らこそが白人中心主義の独善的価値観にもとづいて、異民族・非ヨーロッパ系民族の風習に「野蛮」というレッテルを貼り付け、晒し者にしているのではないか。

ってな形で疑問文の形ではあれ、かなり一方的な議論をおこなっていて、単なる嫌悪感に関する洞察とも思えない。嫌悪感の因果的・記述的説明であるだけなく、それを正当化しようとしていると読むのが、必然ではないにしてもふつうの読みだと思う。それにしても、これって『美味しんぼ』の雁屋哲先生の議論とまったく同じよねえ。(下に前に書いたののリンク貼っておきます)

知性をもった動物を食べてはいけないならば、ではもたない動物は殺してもいいのか。そこで知性は誰が何の基準で判断するものなのか。 (p.145)

これも『美味しんぼ』論法。この手の基本的なやつを「議論されなければならない問題、どう考えても誤謬としか思えない主張が混在している」の一例にあげるのではどうしようもないのではないか。これらの論点はすでにものすごく大量に論じられていて、ネット上にもいろんなものがころがっているし、書籍も多い。

ふつうのヴェジタリアン系統の主張は「知性」ではなく「苦痛」に注目することが多くて、クジライルカな人々はたしかに知性や共感、コミュニケーション能力、推論能力なんかについてもコメントすることが多い。そうした能力が高いほど苦痛や欲求の挫折を多く感じるのではないか、みたいな発想がある。『ザ・コーヴ』の人々がどうか私はまだ調べてないけど。

うしろの「知性は誰が何の基準で判断するものなのか」もよく見るけど、人間が人間の基準で、あるいは共感してるっぽいなーとか、この刺激あるときこういう行動をとるのでこういう認知してるんだろうなーとかでかまわんのではないか。哲学なんだから疑問文なげっぱなしににしないで、先生もいちおう読んだり考えたりしてみてほしい。

殺し方が残虐だからダメだというのであれば、殺し方が穏当であればいいのか。少数種であるから守るのか、では多数種であれば殺していいのか。 (p.145)

残虐な殺し方より穏当な方が望ましいのはたいていの人が認めると思う。「少数種」ってのはわかららんけど、「種の個体数が少ない」の意味かな。まあ絶滅の危険とかそういうのはあるていど考慮しないと。

『ザ・コーヴ』の映画に登場する誰もが、こうした諸問題を、まさにたたみかけるように主張するだけで、本質的に何が問題なのかをまともに論じているようにはみえない。これ自身は、ヨーロッパ人であろうが誰であろうが、常識的におかしなこととおもえる。

まあ『ザ・コーヴ』で主張とその根拠が映画内で完結しておらず、他の資料を読まねばならないっていうのはその通りなんだろうけど、だからこそ学者先生なんだから映画見ておわりにしないで言い分聞いてやってくださいよ。映画にそんないろんなの詰め込めっていう要求は、誰であろうが常識的におかしなことと思えるはずですわ。

動物種と人間との関連を考え、その暴力性を考えるとき、白人であり、それゆえ紛れもない世界支配者集団の一員であるオバリーやシーシェパードが、日本の和歌山県の太地町の漁民という、経済的にも弱小で日本のなかでさえマイナーな地域の集団を「威嚇」することは、何かがおかしい。しかしこの「何かがおかしいが、それをしないと問題が示せない」点をこそ考えるべきではないのか。 (p.146)

まず白人とかに対する偏見をさらすより、普通の勉強をしたらどうか。なぜ「威嚇」にカッコがついているのか。

私なりにパラフレーズすると、白人は世界の支配階級なので(本当に?)、マイノリティである東洋の島国の村とかの弱者になにも言うべきでない、ぐらい?あっってますか?なんでそんなこと言えるの?

たとえば(壊滅したらしい)イスラム国が他宗教の女子を奴隷にしているときに、イスラム国はまだすごくマイナーな集団で世界的には弱者だからメジャーな白人社会がそれに文句言うべきでない、とか言えないでしょ。

最後のところは意味がわからないんだけど、考えてほしい。っていうかこの問いでこの節が終ってて、その答がどこにあるかっていうのはぱっと見ただけではわからんのですよね。でも本人は書いてるつもりなのはわかる。

なぜオバリーは、イルカの「痛み」を感受するが、太地の漁民の「痛み」は感受しないのか。 (p.149)

そもそも危険人物としてあれほどマークされながらも、太地町に、そして熊野に何度も来る彼は、熊野や太地町のことが、本当は相当に好きなのではないか。そもそもそうでなれば、ここまでの攻撃性は出せないのではないか。 (p.150)

すごいすごい。そう、檜垣先生の解釈では、上の「それをしないと」つまり映画を撮影して上映しないとできないことはなにか、っていうのの答は、オバリーさんの個人的な事情にすべて還元されてしまうのです。オバリーはイルカと太地町が好きだから映画をとったのだ、と。それはそれでいいけど、それだけなんかいな。

まあ制作者の個人史にいろんなものを還元する、っていうのは、解釈の方法としてまったくだめってのではないけど、倫理的な主張の解釈としてよいものではないし(アドホミネム)、映画の鑑賞法としてもさほど優れたものではないと思う。

まあ好意的に読めば、オバリーさんたち「エコテロリスト」たちが、イルカの味方をしているつもりで不法なことや現地の人々が嫌がることをするのは正当化できないのではないか、っていうことだと思うけど、ソロー先生だってガンジー先生だってキング牧師だって、社会の多数派が嫌がることをしているわけです。オバリーさんたちやシーシェパードなどの行動が正当かできるかどうかは微妙で、そんなに簡単に正当化はできないけど、彼らが太地町の人々の痛みをわかってない、と主張するのはそんな簡単ではない。

と。ここまで読んできて、最後の方で私の苦手なポストモダンのデリダ先生が出てきて、予想はしていたのですが驚きました。「やはり出たか!」みたいな感じ。

人間に人間は殺せない。それは顔があるからだ。それはわれわれのロゴス的説明すべてに先だつ。こうした主張をなすレヴィナスに対し、それを正義論の観点から認めながらも、では動物はどうなのかとデリダは問うのである。 (p.151)

ふんふん。んでどうなるんですか。

ちょっとレヴィナス先生にもコメントしておくと、顔(哲学用語)があるから人間に人間は殺せない、っていうのはこれは事実ではないですよね。いったいどういうたぐいの主張なのだろう。人間は人間を殺せないはずだ、もよくわからないし。もちろん私は殺せないけど、殺せるひとはたくさんいるし歴史的には殺す方がふつう? こういうの説明してほしいんですよね。

一見すると揚げ足とりにみえるかもしれない。人間の殺戮と正義の議論をただちに動物に適応[ママ]してもよいのかといわれるかもしれない。だが最晩年のデリダは、かなり素朴に、ある意味では力強く、これらの論点を強調する。 (p.151)

「適応」→「適用」かな。私には「では動物はどうなのか」は揚げ足とりには見えない。まじめに問うべき問いだと思います。

で問題は、「論点を強調する」のはわかりましたが、デリダ先生はさっきの問い「動物はどうなのだ」にどう答えてるんですか? これ説明してもらわないとデリダがなにをしているのかわからないです。デリダ先生のむずかしい文章をわれわれ下々のものが読むのは困難なので、もったいぶらずに教えてください。
(1) 動物にも顔があるから殺してはいけない。
(2) 顔のある動物は殺してもいいのだからレヴィナスの言い分はおかしい。
(3) 動物に顔があるかどうかわからない場合、人間に顔があるかどうかどうやってわかるのか。
とかいろんな議論がありえると思うんだけど、デリダ先生は論点を「強調」してどう話をすすめてるのですか。

もちろんこれらの問いは単純に答えられるものではない。……[デリダの答なし]。

もしかしたらこれがデリダ先生の答?

デリダは「痛み」という主題にも触れている。……デリダが考える痛みは、シンガーとよく似てる……だがデリダとシンガーとではおおきな違いがあるように感じられる。 (p.153)

だからデリダ先生はなんていってるのか教えてくださいよ。もったいぶらないで。

デリダの議論はむしろ、人間と動物とが、そして痛みをもつ動物ももたない生き物も、すべて連続しているのではなういかという混交を目指しているとおもえる。それによって、人間とそれ以外だとか、食べてよいもの/よくないものという区分自体を懐疑に晒そうとしているとみえるのである。 (p.153)

「混交」っていうのはふつうは区別すべきものをいっしょにすること、ぐらいですか。 https://www.weblio.jp/content/%E6%B7%B7%E4%BA%A4

これでおわりっすか。ハゲとフサのあいだにはっきり線がひけないからみんなフサだとかハゲだとかそういう話っすか? それとも、人間も結核菌も同じように殺してよいってこと? 人間と動物が、そしてその他の動物が遺伝的に連続していて、さまざまな能力や感受性、生活様式、生殖などにしても連続しているというのはこれはもう現代人の基本知識ですわよね。デリダ先生はそれを言ってるだけなの?

そして、生物種がこの意味で連続しているからといって区別ができないとか不必要だってことにはならんです。さまざまな点で性質や能力が連続しているとしても、もし人間やイルカやチンパンジーが、他の動物とは違ったレベルで自分の将来を考えたり、苦痛を感じたり、死を恐れたりするなら、他の動物とはちがう配慮が必要だということになるかもしれない。

『ザ・コーヴ』の滅茶滅茶な論理設定を支えるものは、実は最初にオバリーが語った一点だけである。それはオバリーが、自分の友人(「伴侶種」)にほかならないイルカを自死させたことへの自己懺悔である。この映画はある意味で一貫してオバリーの自責の映画なののではないか。 (p.154)

『ザ・コーヴ』がそれほど滅茶苦茶なのかどうかは、ここまでの檜垣先生の記述でよくわからない。それほど滅茶苦茶ではないのではないか。もうすこし好意的に解釈してあげてもいいかもしれない。

そうしてひきおこされるさまざまなことは、確かに他人迷惑である。だが一面では、それこそがオバリーの強味となる。なぜならば、彼にとって結果はどうでもいいからである。 (p.155)

いやあ、そういうのって本当にそう思って書いてるのなら人間ってのを馬鹿にしていると思う。先生の解釈はものすごく勝手ですよ。勝手に製作者の個人史から勝手に製作意図を推測し、「彼にとって結果はどうでもいい」までもってきちゃう。これって本当に哲学なんですか。

オバリーとその仲間が、熊野の海で撮った最大のものは、残忍な漁に抗する政治的指向を含んだ映像というよりも、オバリー自身の悲しみとかさなる「声」なのではないか。……どの特定の生物が声をもつか、という議論をするべきではない。声は生けるすべてのものの声である。特定の生物が、痛みの声をもつかという議論にはいるべきではない。いかなる生物ももつ声がある。 (p.156)

なぜ特定の生物が痛みの声をもつかという問題を考えてはならんのだろうか。みんないっしょだからなにを殺してもいいです、あるいはどれも殺してはならんです、ですか。


読んだ章の前の章は『ブタがいた教室』の論評なんですが、あれはひどい話で、豚を飼うことにした教師が最後は生徒にどうするか決めろ、みたいにして丸投げしちゃうんですよね。これについて檜垣先生はこう言う。

正しく無責任であること、これが食と殺すことを目の前にした人間が、社会のなかで平穏に暮らそうと思ったときになせる唯一のことではないだろうか。(p.120、原文強調)

書店のアオリなんかはこういう感じ。

動物や植物を殺して食べる後ろ暗さと、美味しい料理を食べる喜び。この矛盾を昇華する

まあたしかに植物はともかく動物を食うのはいろいろ後ろ暗いところがあるし、社会のなかで平穏に暮したいし、うまい肉も食いたい。でもその唯一の選択肢が無責任とか、なんでもいっしょだからなんでもいっしょ、ってのではないと思う。まあここはむずかしいですね。

ツイッタで檜垣先生御本人から、「平穏にくらそう」というより「平穏に暮すより致し方がないのではないか」の意であるという趣旨のコメントをもらったんだけど、そら気持ちはわかるんですわ。われわれはやっぱり自分がかわいい、自分の子供はもっとかわいいかもしれない、だからどうしても利己的になるし、危険よりは安全を、苦痛よりは快を、悩みよりは楽しみを求めちゃう。でも同じ論法が、たとえば奴隷制とか民族浄化にもつかえるだろうか。

身近に多くの人が奴隷にされたり、民族浄化ってんで虐殺されたりしているときに、我々は実際には恐怖でなにもできないかもしれない。でもそれしか致し方ない、っていう考えかたはないと思う。危険を冒してそうした悪と闘ったり、そうできなくとも一部こっそり逃したり、屋根裏にかくまったり、まあみんなに要求できることではないかもしれないけど、そういうことをする人々はいるし、そうする彼ら彼女らは英雄だ。少なくとも「平穏に暮したいからなにもしません」っていうのは、我々がとってしまう選択肢ではあるけれどもそれほど正しい選択肢ではないかもしれない、ぐらいは考えておきたいところです。


まあそういうわけで、私は『食べることの哲学』のこの節は、哲学としても評論としても非常によくないと思います。少なくとももっと他の人々の言い分をちゃんと読ん紹介してあげてほしい。

と書いたので、私自身も檜垣先生がなにをやろうとしたのかを最大限好意的に読むとすれば、以下のようになるんだとおもいます。

全体は宮沢賢治その他の文学者や『ザ・コーヴ』や『ブタがいた教室』といった「食う」ことに関する倫理的問題を扱った作品をとりあげて、それと大きなネタ本のレヴィストロースあたりの文化人類学と、それ以降のいろな現代思想を紹介しつつ哲学しよう、だと思うです。そしてそうした「食う」ということにまつわるいろんな問題や、我々の負い目の意識、そして負い目を感じながらも、七条大宮「ゆう」のミソラーメンをうまいうまいと食ってしまう我々のありかたを追求してみたい。直前でも書いたように、そうした目標はよくわかるし、価値があるとおもう。ぜひやってください。

でもそうするときに、他にいろいろ思考しそれぞれ哲学している人々に対する敬意みたいなのを示すつのも大事だとおもうんです。他の人々のまじめな思索や活動を、ほとんどなにも調べないで論理破綻だの矛盾だのとディスりつつ話のツマにする、みたいなのはやっぱりまずいと思います。少なくとも私にはそう見えました。

そして『ザ・コーヴ』のようなものを批判したくなる我々についてよく考えたらいいと思います。彼らはほんとうにそんな「滅茶苦茶」なことを言ってるのだろうか? 私は哲学ってそういうお互いの敬意とか反省とかがあるもんだと思うんですよ。もちろん我々の能力には限界があるからそんなたいしたことはできないわけですが、そういう敬意だけはもちたい。

 


『美味しんぼ』について昔書いたのはこれ。書きなおしておくべきだったかもしれない。倫理学や応用倫理学の授業でもよく使ってるんだけど。書きなおすとなると面倒なのよね。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

あら、美味しんぼの出典がちがった

 

盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』

そういや、ちょっと前に敬愛する盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』の評をわりあてられて、いろいろ文句つけたくなり、やっぱりパーソン論ちゃんとやらないとなあ、みたいなことを考えたりしたのでした。今年はそれの年になりそう。私途中で投げ出しちゃってだめよね。

先生は強硬なヒト胚保護派なので、そういう問題に興味ある人はぜひ読んでみてください。ただし専門家向け。

↓はそのときのやっつけのレジュメ。もっとまじめにやります。このブログで連載することになるかも。

先生とはそのあともネットで楽しく交換日記みたいなのさせてもらっていて(Dropbox Papersは楽しい)、某学会あたりで再戦することになりそう。

(PDF) 盛永審一郎『人受精胚と人間の尊厳』へのコメント

 

高橋昌一郎先生の「胎児はいつから人間か」の議論

なんか高橋昌一郎先生のへんな文章を見たので指摘だけ。

助手 そもそも胎児は、どの時点から「人間」とみなされるのでしょうか?

教授 「母体保護法」では、母親の身体的あるいは経済的理由などにより、妊娠二十二週未満の胎児の人工中絶手術が認められている。つまり、二十二週未満の胎児は、法的に人間とはみなされていないことになるね。

これはおかしな論法で、胎児を堕胎しても、堕胎罪に該当はするが殺人罪(「人を殺したものは〜」)には該当しない。したがって、出生までは胎児であって「人」ではない。ちなみに堕胎罪に妊娠月の規定はないと思う。母体保護法にも「22週以下の胎児は人/人間じゃない」のような文言はない。

しかし、たとえばキリスト教原理主義は、受精卵の時点ですでに神が人間の生命を与えているとみなし、人工中絶を殺人に相当する大きな罪と考える。そこで欧米では、女性の自己決定権を重視する「プロチョイス」派と、胎児の人権を重視する「プロライフ」派の二つの対極的立場が、大きな対立を続けている。

こまかいけど、この説明もよくない。「原理主義」は基本的にはけなし言葉だし、受精卵の時点から人(person)であり個人(indiviual) 1)個体=分割できないもの、ね。実際は受精14日ぐらいまでは分割して双子になる可能性がある。 あるという考え方はローマカトリックなども採用している。さすがにカトリックをキリスト教原理主義と呼ぶのは適切ではないだろう。

助手 受精卵から胎児になっていく過程は、どのようになっているんですか?

教授 精子が卵子と結合して「受精卵」になると、(中略)五、六週目には、脳内に電気的な活動が始まる。

助手 ということは、知覚が始まっているのかしら?

教授 いやいや、この時期の神経活動は、ニューロンが無秩序に電気信号を発するだけで、エビの神経系よりも未熟だ。

私はこの「知覚が始まっている」の意味がわからなかった。知覚や感覚をもつというのはどういうことなのだろうか。なんらかの刺激に反応することだろうか。エビに知覚ありやなしや。

(略) 十三週目にはそれらの脳半球をつなぐ「脳梁」と呼ばれる線維の束が作られる。この頃の胎児は、一種の「反射神経の塊」となって、刺激に対して身体を動かすようになるが、まだ何かを知覚しているとはいえない。
十六週目になると、「前頭葉・側頭葉・後頭葉・頭頂葉」が形成され、大脳皮質の表面にしわが寄り始める。十七週目には、ニューロンとニューロンを結合するシナプスが形成され、これによってニューロン間の情報交換が可能になる。

刺激に反応することでははなく、このニューロン間の情報交換が可能になることが、「知覚がはじまる」ことなのだろうか。なぜ刺激に対して反応するだけでは「知覚している」とはいえないのだろうか。まあ好意的に解釈して、脳のなかであるていど大規模な神経の接続があってはじめて知覚や感覚という内的な心的状態が形成されるのだ、それは受精後17週目以降だ、ということなのだろうが、それならそうとはっきり書いてくれないとわからん。

しかしこう好意的に解釈しても、まだ「知覚をもつ」ことと「人間である」(あるいは「人である」)ことの間の関係はわからない。

教授 二十二週目には、胎児が不快な刺激に対して明確に反応するようになり、現代医療のサポートさえあれば、母体の子宮から出て、保育器の中でも正常な脳を備えた人間として生存できるようになる。そこで先進諸国では、胎児を「人間としての尊厳を備えた存在」として法律で保護すべきなのは、「二十二週」以降が妥当だとみなしている。日本の「母体保護法」も、この見解と一致しているわけだ。

胎児の母体外生存可能性が重要であるという指摘なのだろうが、どこから生存可能かということは技術の進歩に依存する。現在の技術であればおそらくがんばれば20週や21週ぐらいでも生存可能なのだろうが、予後が悪いことが予想されるのであんまり攻撃的な生命維持はしていないように聞いている。

母体外生存可能性がなぜ重要なのか、ということも立証されていない。10週の胚も、15週の胎児も、母体のなかで正常に育てば当然正常な脳をそなえた人間として生存できるようになる。なぜ母体外で生存できるということがそれほど特別なことなのだろうか。また22週でも母体外で生存できない胎児も多いはずだ。

「先進諸国では、胎児を「人間としての尊厳を備えた存在」として法律で保護すべき」という表現もおかしくて、こうした表現をしている国としてどこがあるか私は自信がない。

助手 いずれにしても、科学的事実に基づく「生命」の議論に、「祟り」のようなオカルトが入り込む余地はないですよね。

オカルトがいらんのはその通りだと思うが、これまでの議論がなにも関係していない。まあそらたとえば、胚や胎児には神様が魂やスピリットを吹き込んでくれていて、それが流産や中絶しても残存して祟る、とかって議論をする人がいるならまあわからんでもないけど、そんな話しているわけではないし。知らんけど少なくとも今のカトリックはそういう話はしないと思う。

最初の問いは、「いつから人間なのか」という問いだった。この教授は、知覚・感覚の有無か、あるいは、母体外での生存可能性かのどちらかを「人間」の基準としているようで、このどちらかの基準そのものは科学的事実にもとづくと認めてよいとしよう。しかし、それが「人間」の基準であるかどうかは科学的事実の問題ではない。そもそも最初は法の話、あるいは道徳の話だったはず。

もし、最初の問いが、いつから「人間の個体か」(human individual)という問いであれば、受精の最初から個体であると考えるのが妥当だろう。感覚がないから個体ではない、というのは無理そうだ。では、母親の体から分離して生存できないから個体ではないと言えるだろうか。どの時点から母体の外で生きられるかは技術に依存するし、おそらく22週の胎児はNICUから分離されると生きていけないが、それでも個体と言うならば、母親の体につながっていても個体ではないだろうか。

書籍の方も見たけど、ほぼ同じだった。全体として言いたいことはわかるような気もするけど、他の論点も論じ方が正しいかどうか。

反オカルト論 (光文社新書)
高橋 昌一郎
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References   [ + ]

1. 個体=分割できないもの、ね。実際は受精14日ぐらいまでは分割して双子になる可能性がある。

妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


 

京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。

まず反妊娠中絶論で最も普及している形(A)は、「前提1―罪のない人を殺す(死なせる)ことは不正である。」および「前提2―胎児は罪のない人である。」ことから、「結論―胎児を殺すこと(=中絶)は不正である。」という論法を取る。

これに対して、マーキス (1989)を初めここ20年注目されている反妊娠中絶論(B)は、「前提1―殺人が不正なのは、被害者から我々と同じ価値ある未来を奪うからである」および「前提2―中絶は他事から我々と同じ価値ある将来を奪う」ことから、「結論―中絶は殺人とまったく同じ程度に(あるいはそれ以上に)不正である」と論じる。

もう一つ、有望な反妊娠中絶論(C)は、Hare (1975)やGensler (1986)による黄金律型の推論である。そこでは、「あなたがしてほしくないことを他の人にするな」および「あなたのしてほしいように他の人にせよ」との黄金律に基づき、「我々は中絶されずに生まれてきたことを喜ばしいと思う」すなわち「胎児の立場に立てば、中絶されないことを望む」、それゆえ(特に特別の理由がない場合は)中絶しないべきである、と論じる。これら中絶反対論はどれも一見して強力なものである。

一方、妊娠中絶を正当化する論理としては、女性たちの感情や感覚に基づくもの、功利主義、進退に対する権利論、パーソン(「人」、権利主体)論などがある。このうち「胎児はまだ他人として感じられないので他人ではない」などと論じる単なる感情や感覚に基づいた議論は、たとえば「動物は人だとは思えないから苦しめてもよい」とか、「女性は同じ人間だとは思えないから平等に扱わなくてもよい」という議論がおかしいのと同様に説得力に欠ける。妊娠中絶を正当化するには、単なる感情や感覚以上の根拠が必要である。

一方、帰結主義・功利主義による妊娠中絶正当化の議論の方がまだしも説得力がある。たとえばSingerは親(特に母親)と未発達な胎児の利益を比較衡量して母親の利益の方が重大だとする。Hareは胎児を代替可能な存在とみなしたうえで、後にもっとよい条件でより幸福に生きられる子どもがいるならば中絶は正当化されるという。ただし、これは法的に中絶を合法化するかどうかの議論にすぎず、道徳的な議論ではない。

他方、Thomson(1971)は、自分の身体に対する権利を主張して、バイオリニストとつながれたままになる義務はない、胎児は母親の身体を使用する権利はもっていないのだから中絶しても胎児の権利を侵害したとは言えないと論じる。ただしトムソンの議論のうち、「AがBに対して善行することが道徳的な義務であっても、BがAに対して善行される権利をもつわけではない」ことや、女性にだけ「善きサマリア人」であることを求めるのは不平等であり不正義だという主張は見落としてはならない。

しかし、トムソンの「胎児の生命に対する権利」への反論は不十分であり、また「自発的に産むことを選択し妊娠した胎児にのみ責任がある」と想定しているのは、Beckwithの「家族(肉親)は選ぶことができないが義務を負う関係にある」とする自発主義批判を乗り越えられない。結局、「身体に対する権利」の議論も、法的な規制に対する反対する議論としては悪くないが、倫理的な議論としては不十分である。

他にWarren (1973)に代表される(国内でよく知られているTooley 1972は代表的ではない)パーソン論は、典型的な「人」(権利をもつ存在)の条件を列挙するが、これでは新生児や重度意識障碍者まで「人々」ではないことになるという難点がある。

結論としては、リプロダクティブ・ライツに含まれる「中絶の権利」を主張するのはかなり困難であり、「自分の身体に対する権利」だけでは法的にはクリアできても倫理的には不十分である。基本的にはパーソン論を取るか、功利主義を取るかの二択である。もしくはそれ以外の選択肢を考えるべきである。


Beckwith, Francis J. (1998) “Arguments from Bodily Rights: A Critical Analysis,” in Louis Pojman and Francis J. Beckwith eds. The Abortion Controversy, Wadworth, 2nd edition.
Gensler, Harry J. (1986) “A Kantian Argument against Abortion,” Philosophical Studies, Vol. 49. Reprinted in as “The Golden Rule Argument against Abortion”.
Hare, R. M. (1975) “Abortion and the Golden Rule,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 4, No. 3. (R. M. ヘア,「妊娠中絶と黄金律」,奥野満里子訳,江口聡編監訳『妊娠中絶の生命倫理学』,勁草書房,2011).
Marquis, Don (1989) “Why Abortion Is Immoral,” The Journal of Philosophy, Vol. 86, No. 4. (ドン・マーキス,「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」,山本圭一郎訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Singer, Peter (1993) Practical Ethics, Cambridge University Press, 2nd edition. (ピーター・シンガー, 『実践の倫理』新版, 山内友三郎・塚崎智監訳, 昭和堂, 1999).
Thomson, Judith Jarvis (1971) “A Defense of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 1. (ジュディス・トムソン,「妊娠中絶の擁護」,塚原久美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Tooley, Michael (1972) “Abortion and Infanticide,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 2, No. 1. (マイケル・トゥーリー,「妊娠中絶と新生児殺し」,神崎宣次訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Warren, Mary Anne (1973) “The Moral and Legal Status of Abortion,” The Monist, Vol. 57. (メアリ・アン・ウォレン,「妊娠中絶の法的・道徳的位置づけ」,鶴田尚美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).

 

「関係性」の議論にも苦しんでいます

「進捗だめです」のかわりに。あれは飽きてしまった。

ドゥルシラ・コーネル先生の議論にも困ってるんですが、国内にたくさんいる「関係性」の人々にも困ってるですよね。「女性と胎児の関係性が大事なのだから、女性の決定を尊重しなければならない」ってまあそういう感じの議論。もちろんこれでかまわないんだけど、これを言うためには胎児の権利や利益とかそういうのは女性の権利や利益ほどじゃないことを立証しておかなきゃならないと思うんです。私は。でも「線引きはだめだ」みたいな議論をする人がいる。ほとんど誰も、新生児を親の意志によって処分してよいとは考えないわけだから、胎児が新生児とは違うことを言わなきゃならんはずなのに、なぜかそうした議論が避けられているように思える。

伊佐智子先生の一連の論考「人工妊娠中絶における女性と胎児」「生命倫理と権利概念」「生む権利としてのリプロダクティブ・ライツ」「わが国のリプロダクティブ・ライツをめぐる問題状況と議論状況について」や、森脇健介先生の「いわゆる「中絶の権利」に関する一考察」とか読みなおしてもよくわからない。森脇先生のはよく書けているように見えて、もう一つ納得できない。

もちろん、ドゥオーキンやコーネルのように「法的に人じゃないんだから人じゃないよ」ってやるんだったらまあそれはそれでいいんですけどね。でも国内でその強硬ラインをとる人はそれほどいないみたいですね。

けっきょく私は、なぜ多くの論者たちが(かなり保守的な態度の人を除いて)「人とはなにか」というパーソン論問題を回避できると考えているかわからないのです。そしてこれが、大学院生のころから25年くらいずっと謎で、今年研究させてもらっていることの核の一つなわけです。

もちろん胎児は権利もってないとか、権利もってるとしても非常に限られているとか、母親の権利によってオーバーライドされるとか、そもそも利益ももってないとか、いろんな議論をすることは可能で、それがまさに英米でやってるパーソン論なわけです。なぜこんなほとんど自明なことが理解されていないのか、私にはほんとうにわからない。まああまりにも自明だからみんな書いてないだけかと思うんですが、これほどまでみんな同じような書き方をしていると不安になります。私の読み方がおかしいのかもしれない。っていうか、みんな当たり前と思ってることを私が理解してないだけかもしれない。すげー不安。私は自分に自信がないので、「おかしいだろ」ってすぐには言えないんです。実際読めてないことも多いし。

昔、某先生と飲み屋で議論したとき(立岩先生ではない)はけっきょく胎児の道徳的地位は女性より低いのだと考えていると認めてもらいましたが、それをはっきり認めてくれる人はあんまりいないです。

ついでに書いておくと、もう一ついやなのが、妊娠中絶の権利を認めながら、選択的妊娠中絶は認めない、っていう立場をとる人がけっこういるんですが、これの根拠がよくわからない。特に「関係性」の人びとがどうやってそうした判断を正当化するのかわからない。もちろんそこそこうまくやる議論はある。たとえばExpressivist Argumentと呼ばれてるやつは、選択的妊娠中絶が障害者に対するメッセージになるから不正なのだ、と議論するわけですが、そこらへん明示的に利用しているものはあんまり見ない。

なんで「人」や「権利」の議論が嫌われるのか、ってのの仮説はいくつかあるんですが。

  1. 森岡先生あたりからはじまる「パーソン論」に対する各種の誤解。これはずっと前にいくつか書きましたね。とくに「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなの。それにしても最近の文献見ても森岡先生の影響力の強さには驚かされます。たとえば小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』でも先生の1988の本の議論がそのまま踏襲されている。
  2. 「権利」てのがなんであるかよく理解されてない。権利ってのはギリギリの切り札なんすよ。っていうか、道徳的に許容できる/できない morally permissible / impermissibleってのが理解されてない気がする。
  3. 強硬なプロライフがあまりいない。昔は澤田愛子先生、今だと秋葉悦子先生とかがんばってらっしゃるのですが、あんまり読まれてない。そもそもプロライフの議論が十分に紹介されていない。はっきりした敵がいないからギリギリにつめた議論でなくとも通用するのかもしれない。
  4. キリスト教や英米(特にアメリカ)に対する偏見。上と関係するんですが、キリスト教、特にバチカン系の人がプロライフでがんばってるんですが、それが、独特の宗教的信念に基づいているとして偏見に近いものとして片づけられている。彼ら彼女らはそういう宗教的な議論はあんまりしてないです。少なくとも「バチカンの言うことを聞けー」みたいな議論はしない。

まあもっとありますね。ここらへんはまあ歴史的特殊事情ですわね。もっと心理的ななにかがあるんではないかという気もしてます。

ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。彼女の中絶についての議論が紹介されたのは1998年の『現代思想』に載った「寸断された自己とさまよえる子宮」でわりと注目されたんじゃないでしょうか。それが収録されている『イマジナリーな領域』の翻訳が出たのが2006年で、それ以降はフェミニズム系の人が中絶の議論するときは非常によく取りあげられている印象です。塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブライツ』でもとりあげられてますね。

私このコーネル先生が苦手なんですわ。ジュディスバトラー先生ほどではないけど。レトリック過剰なところがあるし、ラカンの「鏡像段階とかひっぱって来るのとか、なぜその必要があるのかわからないし。

まあとにかく彼女の中絶の権利の擁護の議論は、簡単に言うと、我々にとって自分の身体の統一性は非常に大事であり、それは自分のイマジナリーを反映するものじゃないとならん。望まない妊娠は身体統一性を損うものである。したがって、女性の中絶の権利を否定して、妊娠の継続・出産を強要するのは平等に反するし、女性の格下げである。したがって女性がオンデマンドで(つまり、あらゆる事情を理由に)中絶する法的権利が必要だ、ぐらいだと思います。

私がこの議論がよくわからなかったのは、ラカンとか持ちだされてくるのもよくわからなかったのもあるのですが、プロライフの人たちが主張している胎児の権利とか生命の価値とかどうなってんの、ってことですわね。特に、国内でこの議論を紹介する人の多く(確認してないけど)が、いわゆる「パーソン論」に触れてその欠陥を指摘してからコーネル先生の議論を援用する、って形になってたのがよくわからなかったわけです。

だってそりゃ身体の統一性なるものはたしかに重要だとは思いますが、胎児が権利をもっていたり、その生命が大きな価値をもっているのならば、女性の身体の統一性という価値と胎児の生命との間で葛藤が起こるわけですからね。なぜ女性の身体の統一性が優先するのだろう、と思ってました。

まあコーネル先生の議論をそのまま使わないまでも、女性と胎児の関係は特別な関係なのであるから云々、という議論はよく見られます。これも私は同じように納得してなかった。いやもちろん言いたいことは十分よくわかるのですが、「パーソン論」とらないんだったら、プロライフの人の(けっこう堅い)理屈をどうするの、っていうのがわからなかった。

ここ数日コーネル先生の議論を読み直してたんですが、彼女の議論そのものもすごくわかりにくいんですね。彼女は基本的にほとんど、米国の中絶裁判判決文と、ロナルド・ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』の議論だけを相手にしていて、哲学的生命倫理学の文献はほとんど見てないんですわ。「パーソン論」だけじゃなく、プロライフの人々の議論さえ参照してない。

んで、私のここまでの理解では、ドゥオーキン先生が『ライフズ・ドミニオン』でだいたいロー判決(妊娠初期の中絶を禁止するのは違憲。ただし、中期〜後期になるにしたがって州が一定種の規制をおこなうのは場合によっては可能だ、ぐらいの判決)を追認する形の議論しているに対して、「いやそれじゃぬるい、もっとオンデマンドに近い形で中絶できる権利を認めろ」ってやってるわけです。

しかしこれ、ドゥオーキン先生もそうなんですが、けっきょくはっきり言って、胎児をパーソンと認めてないんすよね。そしてその理由は示されていない、っていうかまあはっきりいって、米国憲法では胎児はパーソンではないから、ぐらいの根拠なわけです。

これ私おかしいと思いますね。もしそんなことが言えるのであれば、わざわざ「パーソン論」とかトムソン先生の「自分の身体を使用する権利」とかでがんばる必要がないわけですからね。まあとにかくコーネル先生のプロライフ論者の無視っぷり、完全シカトは私おかしいと思います。女性と胎児の特殊な関係をもっと真面目に考えろ、ってのなら、Margaret Olivia Little先生の”Abortion, Intimacy, and Duty to Gestate”とかLaura Purdy先生の”Are Pregnant Women Fetal Containers?”とか優秀な論文が他にあると思うし。

少なくとも、国内で「パーソン論」に批判的な論者がドゥオーキンやコーネルの議論を採用することはできないと思う。なんらかの「パーソン論」、あるいは胎児の生命権、あるいはほとんどすべての権利を否定する議論を提出する必要があるはず。なんでこういうことになってるんですかね、とか。

まあ譲って、ドゥオーキンやコーネルの議論は米国憲法の上でどういう法が可能だったり要求されるかとう議論である、とするならそれでいいんですけど、これと道徳的なレベルの議論は混同するべきではないと思う。私は道徳的なレベルの話に興味がある。なぜ胎児は人としての権利をもってないのか、という疑問に対する答が、「憲法では人じゃないから」では満足できない。なぜ憲法や他の法で人と認める必要がないのか、というのが知りたい。

私まちがってんのかなあ。不安。もうすこし読んで考えます。

イマジナリーな領域―中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント
ドゥルシラ コーネル
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ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由
ロナルド・ドゥオーキン Ronald Dworkin
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産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム
山根 純佳
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中絶権の憲法哲学的研究: アメリカ憲法判例を踏まえて
小林 直三
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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
塚原 久美
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んでいろいろ文献見てて雑感。

研修中とはいえ、そろそろ来年度のシラバス考えたりしなきゃならないわけです。私は哲学とかのおもしろみっていうのは、常識的な意見とか、他の人の意見とかを批判してなんか真理みたいなところに近づいていくところにあると思っているわけですが、そういうのってもちろん他の人とディスカッションしたりするのが一番なんですが、対立する論文を読み比べてみたり、論争を追っ掛けてみたりするのがいいんですよね。

でも国内では論文そのものがあんまりないから学生様に読ませることができない。さすがに英語で読めってわけにはいかんですしねえ。英米の大学のシラバスなんか見てると、毎週2、3本の抜粋なり論文なり読んでいろいろやってるみたいでうらやましい。日本で同じことをしようとすると翻訳からしなきゃならなかったりするわけでねえ。教科書そんなたくさん買わせるわけにもいかんし。だいたい、一人の人間が書いた教科書とか、あるい論争の紹介なんてのは迫力がないんすよね。

進捗どうですか (7)

進捗だめです。

先週はひどい週だったので、今週はいろいろ考えて活動しよう、みたいな。

なんといっても自分が何やってるのか記録をとってモニタリングするのが大事だろう、ってのでいろいろ勉強したり。

デヴィッド・バーンズ先生の『フィーリングGoodハンドブック』や、アブラモヴィッツの『ストレス軽減ワークブック』、ミルテンバーガー先生の『行動変容法入門』とか読んで先延ばしをふせぐための各種の工夫とか。紹介されているテクニックはどれもだいたい同じようなもんで、多くは「ライフハック」とかって名前で紹介されているものですね。ネットでも「行動記録 ライフハック」とかで検索するといろいろ出てきます。たとえば ;とか。それにしても『行動変容法入門』はなんか人間を訓練するべき犬とかと同じように見てて怖くておもしろいです。20世紀なかばのアメリカの心理学実験室とかを連想しました。

とりあえず30分刻みぐらいで自分がなにをしているのか記録することに。前はTogglっていうアプリ使ってたけどもうひとつので、紙やエディタに適当に書いてく方がよさそう。今回はこんな感じでエディタに記録してみました。

08:00 準備、認知療法本読む
  :30 執筆パーソン論
09:00 台所掃除
10:00 パーソン論
  :00 パーソン論
11:00 パーソン論
  :30 ジムへ移動
12:00 ジム

なんかいい歳してこんなことしているのは情けないですが、そういう自分に対する躾みたいなのをちゃんとしてこなかったためにこういう惨めなことになっているのでしょうがない。

今週の一番大きな課題は、2週間前に発表したパーソン論のその後みたいなのを紀要に載せるために書きなおすって作業でした。まあ上のような記録残しながらやったおかげでなんとか提出。「研究ノート」でいいや。

次は某フォーラムで発表するための幸福の話のリサーチと原稿書きしなければならないのですが、性的な同意の話なんかを読んだりしてしまいました。実はこっちの方の研究も「研究計画」に書いているのでやらねばならないのです。以前読んでたWertheimerのConsent to Sexual Relationsっていうのを読みなおしたり、関連する論文読んだりしながらブログ書いたり。

これの関係で自由と責任の話で有名なFischer & RavizzaのResponsibility and Control読んだり。たしかにこれは重要な本だということを確認したり。哲学関係の英語の本を1冊丸々読む、というのは時間の余裕がないとできないのでこの研修期間は貴重です。感謝感謝。

あとなんとか某学会の某原稿をあれしました。これはほんとうはもっとちゃんとやるべきだったかもしれないけど、やってもあんまり読まれないものだし、心理的にも手がつけられないから終り。

でもまあわりと私にしては生産的な1週間だったかなあ。その反動か土日はなんかどっと疲れが出たような感じで寝まくってしまいました。

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進捗どうですか (5)

進捗だめです。

2週間おきの月曜に書こうと思ってたんですが、間があいてしまいました。もう記憶がよくなくて2週間も前のことっていうのはおぼえてないので、毎週日曜日に書けたらいいなと思うです。

ちょっと記録見てみると(断片的な記録はいろんな形で残してます)、5月の最後はなんか脳死の勉強してましたね。実は私脳死については論文もどきとか書いたことないし、授業でもほとんどとりあげないので、有名論文とかまじめにあたってなかったんですわ。Michael B. green & Daniel Wiklerの”Brain death and personal identity” (1980)とか古いけどすごく優秀な論文だなあ、とか今ごろ感心してたり。ここらへんの有名論文もアンソロジー欲しいですね。

そのあとは、昨日土曜日の研究会で発表するためのレジュメを書く準備してあっというまの2週間でした。あせるばかりでちゃんと書けない。実際にキーボード叩いて文章を書いたのは3日ぐらいだけど、それまで同じ本や論文何回も読んだりうだうだしたりでもうねえ。とりあえず書いたのはこういうかんじ。

「パーソン論はどうなったの? 我々と同じ将来説、動物説、時間相対的利益説」

なんか文章おかしいところもあるし内容もつめきれてないけど今できるのはこんなもん。

それにしても文章書くの苦手で、それだけで大学教員とかになるべきじゃなかったって思いますね。こういうブログやツイッターみたいなのはそれほど嫌いじゃないのですが、論文みたいな形が決まったものは本当に苦手です。

研究会はいろいろ勉強になりました。自分のはまああれだけど、他のは動物実験反対とか不妊治療とか優先主義とか精神医療と地域社会とか。内容も勉強になったし、文章うまい先生のとか見ていろいろ考えたたり。優先主義とかせめて話がわかる程度に勉強しとかなきゃならんな、とか。

まああとそういう研究会とか出ちゃうとちょっと攻撃的になっちゃってだめだ、みたいなのは今回もあれしましたね。これは自分でも困ってるんですけどね。口を開けば攻撃的になるというのはこれはやばい。研究会とか学会とか、ここしばらく意識的におとなしくしてたんですが、どうもあれです。これも落ちついた大人になれないまま終ってしまいそうです。

これから夏本番に向けて、翻訳とか某発表とか某発表とかまだまだ仕事があって、ぜんぜん休むヒマがなくて、かえって仕事しすぎで早死にするんじゃないかとか心配したり。やばい。

死の悪さに関する剥奪説とマクマハンの時間相対的利益説

殺人の悪さや死の悪さの理由を説明する方法の一つは、「剥奪説」と呼ばれる立場です。この立場では、殺人の被害者になることや、死ぬことは、それによって価値のある未来を失なうことになるので当人にとって悪い出来事である、ということになります。私は最低あと30年ぐらいは生きて時々おいしいものを食べたりしてその30年の人生をそこそこ楽しむことができるでしょうが、今殺されるならばそのそこそこ楽しいであろう30年を失うことになる。これは私にとって悪い。

90歳の老人が死ぬよりも、20歳の若者が死ぬ方が悲劇的でより悪いことだ、と考える人は多いでしょう。こうした考え方は年齢差別(エイジズム)だと言われることもあります。年寄の命を軽く見るのか!みたいな。でもまあふつうそう考えますよね。二人の赤の他人が池で溺れていて死にそうだとして、どっちか1人しか助けられないとき、(他の条件が同じなら)私だったら20歳の方を助けます。90歳の人はせいぜいあと10年ぐらいしか生きられないでしょうが、20歳の人はうまくすれば80年ぐらい生きられるし。90歳の人はもう十分生きたし楽しいことも味わったでしょうが、20歳の人はまだだろう、みたいなことも考えるわけです。まあとにかくこれは死が二人から奪う「将来」の長さ、その価値みたいなのからそこそこうまく説明できる。そういうわけで剥奪説はけっこう人気があります。

ドン・マーキスという人は、1989年にこの議論を使って妊娠中絶に反対する議論を構成して一発当てて業界の有名人になりました。その議論は次のようになります。(1) 我々を殺すことが悪いのは、我々から価値ある将来を奪うからである。(2) 胎児も我々と同じような価値ある将来をもっている。(3)それゆえ、胎児を殺す(中絶する)ことは、我々を殺すのと同じように悪い。この議論はシンプルなんですが、やっつけるのはなかなか難しい。1990年代はこのマーキスの議論をどうやってやっつけるかっていうのはプロチョイスの哲学者たちの課題になりました。私もむかし紹介論文を1本書いたのですが、うまく反論できたかどうか自信がない。

しかしこの剥奪説にはちょっと直観に反するところもある。80歳と20歳の比較だと上のようにうまく説明つくのですが、1歳児と20歳だとどうでしょうか。私の直観だと、1歳で死ぬのもやっぱりかわいそうだけど、20歳で死ぬよりはなんかましな感じがする。微妙。

さらに胎児はどうでしょうか。胎児や受精後まもない胚も、1歳児や20歳と同じように価値ある将来をもっているわけですが、20歳や1歳児を死なせるより妊娠中絶は悪くないように思えるし、受精した胚が自然に流産してしまってもそんな悪いことではないように思えてしまう。ふつうに考えれば、妊娠3ヶ月での妊娠中絶と妊娠7ヶ月の中絶を比べたら、妊娠7ヶ月の方が正当化するのに重大な理由(母体の生命が危ういとか)が必要な気がしますが、上の単純な剥奪説さによれば、この二つは同じか、へたすると妊娠3ヶ月の方がより多くの将来を奪うからより悪い、ということになってします。

ジェフ・マクマハンという先生は2000年代になってThe Ethics of Killingって本を出して、ここらへんの問題について興味深い見解を提出してます。彼の立場は時点相対的利益説 (Time-relative interest account)って言われてます。マクマハンの議論は、1970年代の生命倫理の議論なんかに比べるとはるかに精緻で細かいものになっていて、おおざっぱな紹介をするのが面倒なのですが、ちょっとやってみましょう。

マクマハンは上の剥奪説の、死や殺人が悪いのは、価値ある将来を奪われるからだ、という基本的な立場を認めます(ただし彼はこの立場を「人生比較説」と呼ぶ)。しかし、この「将来」の見積りがちがうんですね。

デレク・パーフィットの『理由と人格』(1984)依頼、「人の同一性」personal identityの条件っていう問題はずいぶん議論されました。その結果、ある人がその人でありつづける(人の同一性)ために重要なのは、記憶や認知や性格などの心理的性質の継続性だ、とか、人の同一性は程度の問題かもしれない、あるいは、価値の問題について人の同一性はそれほど重要ではないかもしれない、ということがわりと広く認められるようになりました。

マクマハンは、「私」っていうのは本質的に「体に根差した心」であって、私が生き延びていると言えるのに重要なのは、私の記憶や欲求や性格を保持している私の体が生き延びることだ、っていってます。私がどの程度うまく生き延びているかってことは、今の私の記憶や精神的特徴がどの程度濃く残っているか、ってことで計られる。たとえば60歳の私のもっている記憶や意欲や性格が、アルツハイマーなんかで失なわれてしまって、75歳のときには今の記憶や希望をほとんど失なってしまったら、もう今の私はちょっとしか生き延びられなかった、ということになるわけです。

んで私にとっての利益というのは、私がなるべく今の私と継続しているまま生き延びることなわけです。時間を通して私と心理的に強く結びついている将来は価値が高く、あんまり結びついてないと価値が低い。これが時点相対的利益。剥奪説に戻ると、将来を剥奪されることが私にとってどの程度悪いのか、ということは、その剥奪される私の将来が今の私とどの程度結びついているかということに左右される。このマクマハンの時間相対的利益説ってのは、これがさっきのいつ死ぬかの悪さに関係する、っていうのがミソなわけです。

20歳で死ぬのがその人にとってひどく悪いことであるのは、20歳の時点からみて60歳ぐらいまでってのは記憶も連続しているし、20歳の時点で抱いている夢や希望や野望みたいなものを継続してもってがんばって実現させたりしなかったりするしで、時点相対的利益がすごく大きい。ところが、3歳児とかってのはまだちゃんとした記憶も意思みたいなのももってなくて性格なんかもちゃんと定まってないところがあるから、それ以降の人生との結びつきが弱い。だから3歳で死ぬより20歳で死ぬほうがずっと悪く感じられるのだ、ってわけです。妊娠3ヶ月の胎児の場合などは、もうその胎児が成長した結果の成人とは心理的にほとんど結びついていない。だから中絶は20歳の人を殺すよりもずっと悪くないのだ、みたいな議論になるわけです。

私のこの時間相対的利益説おもしろいと思いますね。ちょっと集中して検討してみたいです。


後日記。ここらへんは研究ノートもどきにしました。

 


ドン・マーキスの「妊娠中絶はなぜ不道徳なのか」はこれに収録してます。

進捗どうですか (1)

やはり研修とか研究とかといえば、進捗どうですか、ということになりますね。

この言葉私30代なかばまで知りませんでした。某プロジェクトのリサーチアソシエートとかっていうのに雇ってもらってから「シンポジウム開催準備の進捗どうなんだ」みたいな言われかたして、「シンチョクってなんですか」みたいな。「捗る」って漢字書けなかったですね。

まあ研修にはいってあっというまに2週間すぎちゃいました。「進捗どうですか?」「進捗だめです。」で終ってしまう。

やっぱりなにごもとも記録が大事っすよね。記録のこしとかないとなにしたか忘れちゃう。

ええと。なにやったかなあ。

1. 仕事環境の整備

やはりなにごとも環境です。iMac 21”をもちかえり、システムディスクを新しく作りました。外付けディスクから起動してたんだけど、10.8のままだった内蔵ディスクもMavericsに。ははは。

PDFとかはMendeleyで管理してるんですが、これなんか不具合あるような気がしたのでアカウントとりなおして再構築。時間の無駄。

あとはたいしたことしなかったな。EvernoteとかRemember the MilkとかEmacsとかMacTeXとかふつうの環境。文献リストはBibTeX。Emacsのbibtexモード。

2. 文献調査

研究計画に「(1) パーソン論の現代的検討については、1970〜90年代の古典的パーソン論を総括したのちに、Jeff McMahan、David Boonin、David DeGraziaの3人の現代の論者の「現代的パーソン論」を検討し、中絶や脳死にかかわる「人格」概念がどのように批判され更新されたかを評価する」とかって書いたんでまあここらへんからはじめます。っていうか、この3人の議論を把握して検討して紹介できたらだいたい研修成功ですね。(「現代的パーソン論」は適当すぎだけどまあ「研究計画」なのでわかりやすいように)

2週間かけてDeGrazia先生のPersonal Identity and EthicsCreation Ethicsの2冊なんとか目を通したんですが、この先生はいいですね。特にCreation Ethicsは生殖関係の生命倫理やりたい人は必読です。基本的な議論のおさらいと議論の定跡がわかる。

あと、(中絶論文翻訳本でお世話になった)塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブ・ライツ』、柘植あづみ先生の『生殖技術』、荻野美穂先生の『女のからだ』あたり読んだり。

日本の中絶とパーソン論まわりの論文を読みなおしたり。論文のコメントつき一覧を作ってみてるんですが、まだ公開できない。なにを言っているのかよくわからない論文が多くて正直つらいです。

1980年代末から千葉大学で飯田亘之先生や加藤尚武先生が生命倫理学に関する「資料集」を出していて、それを見直したり。いろいろ小さな発見があっておもしろい。この資料集シリーズは20世紀後半の日本の生命倫理学の発展を見直す上で貴重な資料なので、PDFにしてもってます。必要な人は連絡してください。

Human Identity and Bioethics
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David DeGrazia
Cambridge University Press

 

Creation Ethics: Reproduction, Genetics, and Quality of Life
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A Defense of Abortion (Cambridge Studies in Philosophy and Public Policy)
David Boonin
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The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)
Jeff McMahan
Oxford University Press, U.S.A.
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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
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パーソンとペルソナとローマ法

まあどうでもいいことですが、論文いくつか読みなおしているなかに「生命倫理のパーソンの概念はラテン語のペルソナから来ていて、これはキリスト教の三位一体の〜」みたいな話が出てくることがあるんですわね(キリスト教出してこない人は「ペルソナは仮面を意味していて〜」みたいになる)。

まあ英語の「パーソン」がラテン語の「ペルソナ」から来てるのはそりゃわかるんですが、それがどうだっていうんですかね。私はわからんです。

いろいろざっと見てみたところでは、パーソン論は少なくともキリスト教の神の三位一体とかとはぜんぜん関係ないみたいですね。もし「パーソン論」がラテン語の「ペルソナ」と関係するとしたら、それはおそらくローマ法の分類が「人」と「物」と「行為」の三種に分類されるからですわね。つまり、ローマ法は「ある人がどんな権利をもっているか、人と人はどういう関係にあるか」「ある物(財産)についての権利はどのようになっているか」「どういう行為が不法であるか」というふうに分類されていたんですわ。まあ人と物をいっしょに扱うわけにはいかんですからね。

この「人」「物」「行為」の分類は重要で、18世紀のブラックストンによる英国コモンローの注釈書とか、フランスのナポレオン法典とかにそのまんま使われてるわけです。早い話、ヨーロッパ的な法の体系にかわわっている。そういうわけでパーソン論がラテン語の「ペルソナ」と関係あるんだよ、って話は、パーソン論が法や権利にかかわる話であるかぎりは当然であるていどの話なんではないかと思いますね。それ以上なにがあるかはまだよくわからんです。

パーソン論その後/道徳的地位

大学教員という職業はヒマそうに見えて実は忙しい。特に私学の教員とかってのは夏ぐらいしか勉強する時間がとれないんですわ。学期中は授業させてもらったりいろんな会議に参加させてもらったりその他の事務仕事させてもらったり学生様の勉強のお世話をさせてもらってりしていて、やりたい勉強をする時間がない。お盆ぐらいまでレポートの採点とかして、お盆あけてから2週間ぐらいに勉強しないとならんわけです。まあそのあいだに秋の学会の準備したりもする。だから休みとかない。夏休みじゃなくて夏勉強。ははは。

やっぱりパーソン論まわりは長いこと気になっているので、この夏はなんとか論文何本かまとめたい、みたいなことを考えていろんな本やコピーした論文眺めてみたり。眺めてるだけ。ははは。

しかしパーソン論関係の論文は国内では山ほどあるんだけど、どれも判を押したように同じようなこと書いてないっていうかなんというか、うんざりしました。せめてお互いに参照するなり引用するなりしたらいいのに、みんな同じ限られた文献を見て同じような結論に到達してる、みたいな。正直いらいらします。この状況をなんとか変えたいとか思いなおすのでした。

まあそもそも「パーソンかどうか、その基準はなにか」みたいなことはもう古くさくてしょうがないんですわね。英米圏では誰もそんなことは議論してない。少なくとも2000年ぐらいからは、パーソンかどうか、とかって二分法で考えるよりは、moral statusとかmoral standingみたいな形で、それぞれの生命にどういう(道徳的)価値があるだろうか、みたいに議論するのが一般的な形だと思うです。

一番最初に「パーソン」の基準とか提出したメアリ・アン・ウォレン先生(なむなむ)なんかは各種の道徳的地位の基準を検討して、いくつかの原則のミックスじゃないとだめみたいね、みたいな結論になってます。道徳的行為者でありえるかとか、ホモサピエンスは特別かとか、感覚の有無とか、有機体(生物)はやっぱり価値があるわね、とか、「関係」が大事だ、とかまあいろいろある。

ウォレン先生が最終的に提出している原則は、以下の順番になる。

  1. 生命に対する敬意の原則。生命は理由なく殺したり破壊しちゃだめ。
  2. 虐待禁止の原則。殺さなきゃならない理由がある場合でも、虐待や残酷はいかん。苦痛は最小限にするべき。
  3. 道徳的行為者の原則。(理性をもっていて)道徳的に行為できる存在者はやっぱり特別な価値があるだろう。それがニンゲンであれ火星人であれ、ロボットであれ。
  4. 人権。やはりすべての人間は人間としての権利をもっている。
  5. 生物種間原則。生物種が異なっていても、ちゃんと配慮しなければならない。特にペットその他人間と深いかかわりをもっている存在者は相応の配慮を要求する。
  6. エコシステム原則。生態系も道徳的配慮の対象とするべきだ
  7. 尊重の推移律の原則。だいたい上に並べた順番で配慮していくべきである。
みたいな。まあウォレン先生は昔から直観的な議論をするのであれですが、もうパーソンなんてのにあんまりこだわってないです。そういうのはまあ70年代から動物の権利や障害者の権利とかちゃんと考えてきたからこうなってる。パーソンであろうがなかろうが、動物を虐待したりするのはやっぱり道徳的には不正だってのはみんな認めるでしょうしね。
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中絶の議論ももうパーソンの話はめったにやらんですね。それはまた。

認知の歪みと研究者生活

うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。

  1. すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
  2. 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
  3. 心のフィルター。悪いことしか見えません。
  4. 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
  5. 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあれは悪いものだ、あいつは悪いやつだ。
  6. マイナス思考。だめだー。
  7. 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
  8. 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
  9. レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
  10. 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」

数年前ぐらいから、倫理的な問題を考えているときは、われわれはけっこうこうした認知の歪みの餌食になってしまうことが多いんではないかと考えるようになりました。これらの認知の歪みは、どれもファラシーとか誤謬推理とかって名前をつけられて古代から研究されている詭弁に類するものでもあります。

私がよくやってしまうのはいろいろあるんですが、まずなんてったて「すべてか無か」ですね。論文と本とか読んでても完璧じゃないと意味がない、ここに穴があるからこの論文はぜんぶだめだー、みたいに考えちゃう。いかんです。

「過度の一般化」はまあ自分の体験から「みんなこうだ」「いつもこうだ」とか思いこんじゃうやつ。ピーターシンガー先生が気にくわないと功利主義者はみんな気にくわないとか、英米の倫理学はぜんぶ気にくわないとかそういう感じになっちゃう。「レッテル貼り」とも関係ありますね。「フェミニスト」とか「パーソン論者」「セクシスト」とかレッテル貼ってそれですましちゃう。じっさいにはフェミニストにもパーソン論者にも功利主義者にもいろんな見解があるわけだけど、とりあえず全部同じだー。

感情的推論もよくやります。結論が気にくわないと論理がまちがってるんだろう、論理がまちがってなかったら前提まちがってるんだろう、って思う。まあでもこれは大事ではあるですけどね。自分の利害がからむとどうしたって感情的になっちゃうけど、それはそれで別にしないとねえ。もとから嫌いな人が主張していることだとまちがってるに違いないと思う、みたいなのもある。もう「あいつが言ってるんだったら同意しなくてすむように自分の意見を変えてしまおう」みたいなときさえありますわね。

国内の倫理学でよく見かける気がするのが「心の読みすぎ」ですかね。「パーソン論者は実はこういうことが目的なのだ、こういうことを考えているのだ」みたいに心を読んじゃう。研究会やネットでも、単に質問されただけなのに悪意を推定する、とかってのもよくやっちゃうんじゃないですかね。

こういうのはネットの議論とか見ててもよく見かけるし、こういう思考はわれわれが生きていくために必要なんだとは思います。でもまあ理屈は理屈で考えてみないとならんといつも自分に言いきかせようとしています。

まあ倫理学や各種の応用倫理、とくに生命倫理の話とかは暗くてつらくて悲しい話が多くて、考えてるだけで気分が落ちてくる。情緒的・扇情的な文章を見ることも多くて、毎日そういう文献読んでるといろいろ腹たってきたりしてどんどん「ギギギ……」な感じになってしまいます。気分や感情が認知を歪めてしまうんですわね。そういうのは健康にも悪い。自己評価低めの人とかはなにかしら自分を責めたてて鬱的になるし、自己評価高めな人は他人を攻撃したくなってトラブルを起こしちゃう。まあとにかく倫理学は「べし」思考のかたまりなので、非常に健康に悪いことだけは意識しておいてください。

なんかときどき噛みしめてしまってる奥歯をゆるめてピースってしてみると文献がぜんぜん違ってみえるかもしれません。生命倫理とかそれだけ考えてるとやばいので、なんか楽しい研究も同時にできるといいですね。愛に満ちたセックスとかハッピーなセックスとか楽しいカジュアルセックスとか……いやこれもやばいですね。なにがいいんですかね。

まあ個人的にはキェルケゴールとか読んでで絶望だの不安だのやってたときは毎日死にそうでしたね。そういういやな体験を好んでする人はいないので、あんまり長く続かない。生命倫理もそういうところありました。

そもそも哲学っていうのはソクラテスの昔から「批判」とかを中心にしているので、おそらくネガティブになりやすい。研究会とか読書会とかでも「〜その読みは違うんちゃうか」とか「お前の言ってることは意味不明だ」とか言われまくりですしね。時々冗談とか言ったり、SF的な変な思考実験とかしながら楽しくやりましょう。

まあとにかく楽しくないと研究も長続きしないし発展しにくい。がんばって楽しく勉強しましょう。あんまり禁欲的になっちゃうのはやばい。バーンズ先生も図書館で借りて読んでみてください。

まあとりあえずつらい勉強するにあたってもこのリストいつも見るようにしてみたらどうですかね。実は私一時期パソコンのデスクトップに貼ってました。ははは。