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詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))

『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので 1)「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。

ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。

日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

日本事情に詳しい米国人男性が英語で、過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信(10月14日)、日ごろから女性差別問題について活発な発信をしている女性弁護士がそれに同意し「環境型セクハラ」と批判を続けたところ、「表現の自由だ、表現を規制するのか」「自分の基準で勝手なことを言うな」「たかが絵なのに文句を言うな」等々の、ほとんど罵倒と言ってもよいようなものも含めて、非常に多くの反批判を受けた。

私自身もこの件で複数回ツイートしたが、いずれもリツイートや「いいね」を多数いただいたものの、上記と同趣旨のリプライも山ほど浴びた。

改めて、何が問題なのか

結論から言えばこの件は、議論する以前に答えは出ている。

女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。

たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。

男女共同参画社会基本法(1999年制定)の下で策定された「男女平等参画基本計画」(2000年)でも「メディアにおける女性の人権の尊重」が盛り込まれ、2003年には内閣府の「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」でこれを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」としている。

同じ趣旨で各地方自治体でもガイドラインを策定しているが、たとえば、東京都港区は、

「目を引くためだけに『笑顔の女性』を登場させたり、体の一部を強調することは、意味がないばかりなく、『性の商品化』につながります」「(性の商品化とは)体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされることで、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われること」(東京都港区「刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」、2003年)

としている。

最近のものでは埼玉県が、自治体のPR動画やイベントポスターなどで過度に性的な「萌えキャラ」等が問題となっている事態を踏まえて、女性を性的対象物として描くことに注意喚起し、「人権への理解を深め、男女共同参画の視点に立った表現をすることが一層重要となっています」(埼玉県「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」(2018年))としている。

今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。

牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。最後の埼玉のを使うと

a. 埼玉のガイドラインは女性を性的対象物として描くことに注意喚起している
c. それゆえ今回のポスターは埼玉のガイドラインに抵触している

とかって形になっているわけです。なんかおかしいですよね。大学の授業なんかでは、論証というのは三段論法が基本だ、みたいな話を聞いていると思います。

a. 人間は死ぬ
b. ソクラテスは人間である
c. それゆえソクラテスは死ぬ

こういう形ですよね。実は上の牟田先生のやつは、省略三段論法とか隠された三段論法といわれやつで2)省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。、本来は、

a. 埼玉のガイドラインでは女性を性的対象物として描くことは不適切だ3)実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
b. 宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている
c. したがって、埼玉のガイドラインでは宇崎ちゃんポスターは不適切だ

という形になっているはずなのです。牟田先生が「明らかだろう」っていってるのはぜんぜん明らかではなく、「宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている」という牟田先生自身の論点や主張が明示されておらず、暗黙に了解されているにすぎない4)この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。。そしてこれこそ本当の論点のはずなのです(性的対象として描くことが不適切なこと、あるいは悪いことであることを認めるとして、ね)。

国連の「女性の過度な性的描写」の方を見ても同様ですね。

a. 国連は女性の過度な性的描写には問題があると主張している
b. 宇崎ちゃんポスターは過度な性的描写である
c. 国連は宇崎ちゃんポスターには問題があると主張する(だろう)

という形になるはずなのに、宇崎ちゃんが過度な性的描写であるという指摘がない。牟田先生は、あちこちのガイドラインが過度な性的描写には注意をうながしている、ということを列挙しているにすぎず、そのガイドラインの根拠についてもはっきりしない5)そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。。宇崎ちゃんは過度に性的なのだろうか。

これ、注意深く読むと、冒頭で「米国人男性が(宇崎ちゃんポスターは)過度に性的な絵で赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信、女性弁護士がそれに同意」ということが言われていますが、牟田先生自身は「ポスターは過度に性的な絵だ」ということを主張・立証していません。

もしかしたら

a. 米国人男性と女性弁護士が共に言うことはなんでも正しい
b. 米国人男性と女性弁護士は共に「ポスターは過度に性的だ」と言った
c. したがって「ポスターは過度に性的だ」は正しい = ポスターは過度に性的である

とかそういう三段論法も隠されているのかもしれない。こうなるとすごいっしょ。まあ隠された三段論法の隠された前提にどんなものがはいっているかは推測するか質問するしかない。

『自由論』や『功利主義論』で有名なJ. S. ミル先生は、論理学者でもあって(というか、こっちの方が本職で重要)、『論理学体系』という非常に立派で重要な本を書いてます。いま、論理学っていうとA → B、A、したがってB、とかそういう記号でやるやつを連想する人が多いと思うんですが、ミル先生の「論理学」はそういうのも含んでますが、科学的推論というのはどのようにしてなされるべきか、とかそういうもっと広い範囲を扱った本ですわ。まあいまでいう科学哲学みたいなのも含んでる。ていうかまんま科学哲学。

この本の第5巻がまる1冊分「誤謬推理」(Fallacy、虚偽、詭弁、誤謬的思考)6)正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。にあてられていて、ここはちょっと難しいけどとてもおもしろい。いろんなタイプの誤謬推理が分類されて、大量の哲学者やら科学者やら迷信やらがその実例としてあげられてます。そのうち新しい翻訳が出るらしいので楽しみにしておいてください。

そのなかで、一般の議論では三段論法ははっきり明示されることはごくすくないということも指摘されてます。日常的な議論でも科学的な議論でも、三段論法みたいなのを明示する必要はさほどないんですわ。たいていの場合には二つの前提のどっちかは明白だし、いちいち書いてたら煩雑だし。そもそも三段論法というのは新しい知識を生みだすものではないのです。ソクラテスが人間だからいずれ死ぬのはだれでもわかっていて、わざわざ三段論法の形にする必要はない。

ミル先生に言わせると、

三段論法の規則というものは、人に自分の結論を主張しつづけるために弁護しなければならないこと全体を自覚させるための規則である。人は、ほとんどどんなときでも、三段論法に勝手に偽の前提を入れ込んで、自分の論証を妥当なものにすることができる。したがって、ある論証が妥当でない三段論法を含んでいるということをはっきり確かめることが可能な場合はほとんどない。しかし、こうしたことは三段論法の規則の価値を失わせるものではない。推論する人が、どのような前提を主張する用意があるかをはっきり選択させられるのは、この三段論法の規則によるのだからである。

つまり、「三段論法が基本だ!」みたいなのは、「いつも三段論法を明示しろ!」とかそういう要求ではない。むしろ、自分がなにかを説得しよう、立証しよう、あるいは主張しようとするときに、自分と他人のあいだの前提の違いを意識して、自分がなにを言わなければならないかを自覚し、また他人にへんな説得されたり騙されたりしそうなときに、相手からなにを聞いておかねばならないかを意識するための規則なのです。

こういうのを見ると、わかりにくい文章やうたがわしい文章を読むときに、その文章の主張をリストアップしてみるのはよいことですよね。そしてうたがわしい文言があったら、それを主張するための三段論法をいくつか書きだしてみる。著者は(暗黙にせよ)その結論の前提をきちんと説明してくれているだろうか、そしてまた、その明示的な、あるいは隠された前提にあなたは同意できるだろうか。

私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。その場合、「見ればわかる」「私の主観だけどみんな共有できるはずだ」という形でもかまわないかもしれないけど、一言主張するべきだったのです。もちろんそうすると、性的であるとはどういうことかとか、「過度に」性的であるとはどういうことかを説明してほしくなりますよね。宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

a. おおきなおっぱいは過度に性的である
b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。

とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。だからこれを論じてもらわなければならない7)つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

ちなみに本当の論点とはちがう論点を「論証」してしまうのも詭弁・誤謬推理の一つのタイプで、「論点相違(の誤謬推理)」Ignoratio Elenchiという立派な名前があり、また「過度に性的なのはいかん」という言明を「性的なのはいかん」のように「過度に」という限定があり、それを論証しなければならないことを忘れてしまうのには「限定あり言明から限定なし言明への誤謬推理」Secundum quidという名前がついてます。われわれが非常によくやる詭弁と詭弁的思考なので、ちゃんと昔から名前があるわけです。

 

 

References   [ + ]

1. 「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」
2. 省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。
3. 実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
4. この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。
5. そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。
6. 正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。
7. つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

若い女子はルソー先生や秋元康先生ではなくウルストンクラフト先生の言うことを聞いたほうがいいかもしれない

私の考えているセックスの哲学史では、あのふつうは偉大だとされているルソー先生はスケベなレイプ魔みたいな人なんですが、それはその次の世代の女性にははっきりわかっていたんですよね。

そのわかってた人、メアリ・ウルストンクラフト先生についてはこのブログでほとんど何も書いてないみたいで驚きました。関連する授業ではけっこう大きく扱ってるし。っていうか女性思想家が表舞台に出てくるのはこの先生からぐらいですよね。

ルソーは次のように言明する。女性は、瞬時といえども、自分は独立していると感じてはならないと。そして、女性は、生まれつき持っているずるさを発揮するためには恐怖によって支配されるべきであり、自分を欲望の一層魅惑的な対象にするために、すなわち、男性がくつろぎたいと思う時にはいつでも彼のもっとも優しいお相手になれるように、コケティッシュな奴隷にならねばならないと。彼は更に議論を進め──自然の命ずるところに従ったふりをして──次のことをほのめかす。誠実と不屈の精神は、すべての人間的美徳の基礎であるが、女性の性格については、服従を厳しく叩きこむことが大事な教育なのだから、誠実や不屈の精神はほどほどに教えるべきだと。

これに対応するルソー先生の著作はもちろん『エミール』。

女性の教育はすべて男性に関連させて考えられなければならない。男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ。(『エミール』)

かっこいいっすね。ウルストン先生はこれを思いっきり張り倒します。

何と馬鹿げたこと! 男性の高慢と好色のために、この問題の上には、こんなにもひどく煙が立ち込めてしまった。これを吹き払うに足りる程の知力を持った偉大な男性が、いつの日にか出現するであろうか! たとえ、女性には生まれつき男性には及ばない点があるとしても、彼女たちの美徳は、程度においてはともあれ、質においては男性と同じでなければならないのだ。(pp. 55-56)

この「男性の高慢と好色のために」がいいっすね。ウルストンクラフト先生『高慢と好色』ってフェミニスト小説書けたかもしれませんね。原文はどうなってるんだろう。

What nonsense! When will a great man arise with sufficient strength of mind to puff away the fumes which pride and sensuality have thus spread over the subject!

いかにもエッチな感じ

こうですか。「ナンセンス!」。まあルソー先生の好色と高慢を見抜いているのはさすがです。

このあと、とにかく人間の「美徳」っていうのは強弱の違いはあってもどの美徳も男女ともに求められるものなのだから、男女同じように教育するべきだ、というまったく正しい主張を先生はなさっておられます。

でもこの時代、「でもやっぱり女の子って恋愛に興味あるっしょ?サインコサインより目の大きさ、アインシュタインよりディアナアグロン」っていう人はいたわけですわね。それに対して先生はこう言うわけです。

恋愛に重きを置かずに論を進めるのは、情操や繊細な感情に対して大逆罪を犯すものであることは承知している。だが私は、真理の持っている単純な言葉を語りたいし、心よりもむしろ、理性に話しかけたい。この世から恋愛をなくそうと説得に務めることは、セルヴァンテスのドン・キホーテを追い出すことであり、ドン・キホーテと同じように常識に背くことを行うことになろう。しかし乱れ騒ぐ情欲(パッション)を抑えようとする努力は、そしてまた、次元の高い能力を下位に置いてはならぬことを証明しようとする努力は、あるいは、知性が常に冷静に保持すべき大権を奪い取ることは許されないことを証明しようとする努力は、それ程暴論とは思えない。

そりゃ恋愛とか性欲とかは強いもので、そういう感情や欲求を抑えるってのはむずかしいけど、パッションばっかじゃだめですよ、と。ここらへん啓蒙時代を感じますね。恋心やエッチな好奇心にふりまわされてはいけません。

青春は、男性にとっても女性にとっても、恋愛の季節である。けれども、思慮に欠けるこうした享楽の時代においても、人生のもっと重要な時代——その時には、熟慮が興奮に代って登場する——のために、準備がなされなければならないのだ。それなのに、ルソーや彼を見習った大抵の男性著述家たちは、女子教育の趣旨はひたすら一つの点——男性を喜ばせる女になること——に向けられるべきである、と熱心に説いてきた。

人生って、現代の女性にとっては80年以上あるけど、恋愛とかに頭いかれてる時期っていうのはそれほど長くないはずだ、青春とかってのよりもっと大事な時期、もっと大きなことをなしとげる時期があるので、教育っていうのは若いときの恋愛とか就活を目指したものではなく、もっと先の(仕事も仕事以外のも)キャリアを考えた教育をしなければならない、というわけですな。まったくお説もっとも。

このような意見の支持者で、人間性について何らかの知識を持っているような人と議論しよう。彼らは、結婚は生活習慣を根こそぎ変えうるものである、と想像するのであろうか?ただ男性を喜ばせることだけを教えられてきた女性は、彼女の魅力が落日の夕日の如く沈むことを、いずれ知るであろう。夫と毎日鼻を突き合わせてばかりいる時には、また女盛りが過ぎ去った時には、自分の魅力が夫の心をあまりつかむことができなくなるということを、やがて知るだろう。その時になって女性は、他人に頼らず自分で楽しみを見出していくために十分な、また自分の潜在能力を磨くためにも十分な、本来のエネルギーを持てるであろうか?持てないとなると、別の男性を喜ばせようと試みると考える方が、もっと合理的ではないであろうか?そして新しい愛を獲得する期待から生まれた感情の中で、彼女の愛や自尊心が受けた屈辱を忘れようと考える方が、もっと合理的ではないであろうか? 夫が自分を愛してくれる人ではなくなった時——その時は必ずや来るであろう——には、彼を喜ばせたいという彼女の願いは暗礁に乗り上げるか、あるいは、悲嘆の源となるであろう。そして恋愛、恐らく、あらゆる情熱(パッション)のうちで最も移ろいやすい愛は、嫉妬や空しさに席を譲るのである。

ここがいいんですよね。誰かを喜ばせることだけを教えられた人は、その誰かあんまり喜ばなくなってしまったら、しょうがないから別の誰かを喜ばせようとするだろう。これは行動分析学とかで言う「強化」の原理ですね。誰かに喜んでもらのはよいことであり楽しいことであり満足いくことですから、喜ばせましょう。ただ、美貌やエッチな能力だけで他人を喜ばせつづけるのはかなり難しいので、いろいろ工夫も必要でしょうな1)ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。。それに次々に相手を変えて喜ばせていく、というのもありかもしれんし。少し前にうしじまいい肉先生が、「私はいつも上の世代と遊んでいるから、50才になったら老人ホームの70才の男性を喜ばすつもりだ」(大意)というのを書いていて、これはこれですばらしいと思いました。ただちょっと出典見つからんな。

私は今、何かの信念、もしくは偏見によって抑制された女性について語る。このような女性は不義密通というようなことは大嫌いであろうが、それにもかかわらず、彼女たちだって夫からひどく冷淡にあしらわれているのがはっきりした時には、他の男性からちやほやされることを望むのだ。そうでなければ、夫と意気投合した魂が享受した過ぎし日の幸福を夢見ながら、毎日、毎週を過ごし、ついには、彼女たちの健康は蝕まれ、精神は不満のために傷つくのだ。そうだとすると、男性を喜ばせるという大変な技術を学ぶことは、そんなに必要な学習でありえようか?それは、ただ情婦にとって役に立つだけである。清純な妻や、真面目な母は、人を喜ばせる能力は彼女の美徳を磨くことによってのみ生まれる、と考えるべきであり、夫の愛情を、彼女の仕事を容易にし彼女の人生をより幸福なものにするための励ましの一つとしてだけ考えるべきである。——しかも、愛されていようが無視されていようが、彼女の第一の望みは、自分自身を尊敬に値するものに成長させることであって、幸福のすべてを、彼女と同じように弱さを持っている人に賭けてはならない。(pp.58-60)

てな感じですばらしいっす。

まあこの時代、女性向け小説とかすごく流行ってたんですわ。ルソー先生だって『新エロイーズ』っていう当時のベストセラーもってたし。これは身分の差恋愛ありの不倫よろめきかけありの小説ですね。(岩波の古い訳がありますが普通の人は読んでもおもしろくないと思う)

ウルストンクラフト先生は、小説とかエッチなことや人間の感情みたいなのしか書いてないから読書としてはあんまりよくない(だめだとは言わないが)、だから哲学書(ここでの哲学は学問全部、物理学とかも含む)と歴史書を読め、みたいなことを言ってます。

ていうわけで、ディアナアグロンじゃなくてアインシュタインしますか2)でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html 。まあそうもいかんですかねえ。


これ書いてみたいのは、最近中公新書の『マリー・アントワネット』を読んで、ウルストンクラフト先生が指摘している女子教育の問題というというのはまさにマリアンさんたちの問題だったのだな、と気づいたから。人を喜ばせることを学び、それが自分にできるなら、人を喜ばせたいっていうのは当然の欲求な気がします。そしてそれしかできなかったら、なんとかして喜ぶ人を見つけたい。世界で一番喜ばせがいがあるはずの王様が喜んでくれなかったら、貴族仲間喜ばせたいだろうし、国民も喜ばせたいだろう。もし自分がいるだけで喜んでくれるなら、フェルセンも喜ばせたいですよね。ウル先生はマリアンさんのこととかある程度知ってたろうしね。それはまわりにある問題だった。まあウル先生はそうとうキレてる人だったのであれだったですが。そういうの考えつつ読むとおもしろいです。


 

References   [ + ]

1. ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。
2. でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(5)

  • これはちょっと細かいのですが。

私はまさしく彼が「聴くこと」を望んでいます。〔私が〕どんなに無力な状況に置かれ、ひどいトラウマを負ったのかを。彼が完全に〔私の苦しみを〕受けとめて理解すると期待しているわけでもありません。私の口から直接出てくる言葉を確かに彼に聞かせたいから、〔加害者に対して〕「〔私の声を〕聴け」と言いたいのです。私は加害者(すべての加害者)は、表面的なレベルでしか受け止められないとしても、〔性暴力被害者が〕何を感じていたのかを知る必要があると思います。私にとって重要なことは、少なくとも、直接的に私から〔加害者に自分の言葉に対して〕耳を傾けられる経験を得ることです。

私は彼にちゃんと「聞いて」hear ほしいのです。そんな無力な立場におかれたときにどんな感じがするのか、それがどんなひどいトラウマになるのかを。私がいま「聞く」って表現したのは、彼は気にしないかもしれないし、こういうことを完全には理解しないかもしれないからです。それでも私は私の口から出る言葉を直接聞いてほしいのです。だって他の誰もほんとうにそういう立場に置かれなかったら説明できないのですから。表面的なレベルでしか受け止められないにしても、加害者(すべての加害者)はそれがどういう感じであるかを聞く必要があると思います。私にとって一番大事なことは、少なくとも私から直接それを聞くことです。」

これはこの被害者が、意味の理解とかそんなのより、とりあえず物理的に聞くのでいいから自分の声を聞いてほしい、と求めている文章です。listen to じゃなくてhearっていう言葉をつかうのは「とにかく物理的にでいいから聞いて!」っていう感じがでていて、このVSSRさんはほんとうによく自分の体験について考えてる感じがします。最後の would have at least the heard thisのところはわかりません。誤植かなあ。まあこの文章の訳は軽い問題がある、ぐらいです。

ちなみにこのVSSRという記号をつけられた人はけっこう話してくれる、意見のはっりしたしっかりした方で(前のエントリはVSC3さんで、この人もよい)、小松原さんは何回か使っているのですが、同一人物であることを把握しているのかどうか気になりました。読者にはそうしたことがわからないのです。それで大丈夫なのだろうか。正直ななところ、このKeenan先生の報告書にん記録されている30人ぐらいの人のなかの数人の言葉は非常に魅力的で、私は、kenan先生の報告書から、「被害者」としてばらばらにされてしまいひとからげに「被害者」とされたの人々のインタビューの中から、その個人像を再構成してみたいという欲求さえ感じました。こういうのを「〜という被害者もいた」みたい匿名化してに証言をバラしてしまうのは私は好きではない。

修復的司法っていうのはかなりマイナーな研究分野であるだろうし、勉強しにくかったり理解されにくかったりするのはわかるんですわ。それの研究を続けたり、いろいろ読んだりしているのはえらいと思う。語学とかは得意不得意とかあるし、他国の司法制度なんかも、まわりに詳しい人がいないと学びにくいものだとは思う。そういうんで、小松原先生自身を訳程度の問題で非難する気はあんまり強くないのです。私が気にしているのは、こうしたいろいろ穴があるのはまわりの人、特に博論の指導教員とか研究仲間とかはすぐに理解しただろうから、なぜ適切なアドバイスをしてあげてないのだろうかとか、ジェンダー法学会はなぜこれくらい基本的な問題があるのを承知で賞を出すのだろうか、とかそういうことです。それともそうした問題があることに気づかなかったのだろうか。

 

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(4)

    • 第4章第3節も見ておきたい。
    • p. 151に出てくる、Nodding (2011)という資料はどういうものかよくわからない。この団体 https://restorativejustice.org.uk  が出している冊子かもしれない。あるいはこれ https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story そのものか。そもそもこの団体がどういう性質のものかよくわからない。怪しい団体ではないとは思うのだが。
    • p.152に出てくるKeenan (2014) も最初見つけられず苦労したのだが、文献リストでは「報告書」として他の「外国語文献」とは別になっていた。「学会報告、講演」も別になっていて、上とあわせてその分類の基準がよくわからない。このKeenan (2014)もURLとかないので探すのけっこう苦労したけど、とりあえずこれ http://irserver.ucd.ie/bitstream/handle/10197/8355/Marie-Keenan-Presentation.pdf?sequence=1
    • この資料は、修復的司法を希望する、参加したい、加害者と対話したい、という人々30人に対するインタビューで、前の節のデイリーvsカズンズ論争が実際に修復的司法は効果があるか、という数字をつかったあるていど実証的なものであるのに対して被害者の願望を聞き取っているもの。話の順番が奇妙に感じられるが、それは問わないことにする。
    • この資料自体は、貴重な被害者の声をきんとひろっていて、非常に迫力があります。こういうの探してくるのは小松原先生すごくえらいと思いますね。
    • ただし小松原先生の参照のページがずれているようで、対応箇所を見つけるのを非常に苦労することが多い。これは多すぎるのであげきれない。
    • また、このKeenanの調査が、さまざまなタイプの被害者の特徴を示す記号がつけられて特定されていることなどにまったく触れられていないのが気になる。家族内レイプと路上レイプなどは経験その他がまったく違うと思われる。それに、小松原先生が同一人物をダブルにカウントしている箇所があるように思える。下では「VSSR」(Victims of stranger rape as an adult)と記述されてる人の発言が何度もでてくるが、これは同一人物である。しかし、小松原本ではどの発言がどの被害者のものかわからなくなっている。
    • p.154で「責任のメカニズムとして」という表現が出てくるが、これは説明しないとわからない。

(f) 虐待を告発する際に教会の権威者を問題にすること
教会内の事例においては、被害者陳述のように、RJを通して加害者の責任を追求したいと考える性暴力被害者もいる。(p.154)

  • これは読みちがえているように思う。

f) Dealing with Church Authorities when Abuse Disclosure handled Badly
One victim of clerical abuse whose abuse disclosure was poorly handled by the church was keen to meet a priest to whom she had disclosed through a restorative meeting as she thought there would be healing in it for her.

  • ということなので、加害者の責任も問いたいが、教会当局の問題の処理も問題にしたい、ということだと思う。加害者以外の人物に被害にあったことを打ち明けたのにちゃんと対応してもらえなかった、あるいは不適切な対応を受けたのでそれについて自分で苦情を言いたいということではないか。

(引用)私は彼に聞きたいのです……私は、普遍的な問題として、彼の動機を本当に理解したいと思っています。
(小松原)この性暴力被害者は、性暴力という問題を「個人的な問題」ではなく「普遍的な問題」だと考えている。

  • 原文は “I would truly like to understand his motivations for it in general.” なので、微妙だが、〔女性や社会にとっての〕「普遍的な問題」と読むのは読み込みすぎかもしれない。「彼のそうした動機一般を知りたい」ぐらいではないか。

しかし、私は〔問いの〕答えを得られませんでした。私は〔今も〕動けずにいるし、問いを抱えたままです。被害者として〔加害者に言いたいことは〕、あなたはあなた自身を責め、恥やうんざりした気持ち、ストレスを抱えることになりました……でも私はそれぞれの〔加害者は〕個別で違っていると思います。だから、私は「なぜ、私なのか(Why me?)だったのか知りたいのです。

これは非常に痛切な告白でもあるわけですが、これほど大事なものも誤訳していると思います。

But I haven’t got answers. I’m stuck and I still have questions – as a victim you blame yourself for a lot of things, a lot of the time. You do blame yourself and you suffer a lot of shame and disgust and a lot of – you know, a lot of stress… … But I think each individual is different, I think. So I’d just – I need to know why me?

このas a victim you blame yourselfってときのyouは、被害者になってしまったときのあなた、我々、そして私自身。

「被害者として、私たちはいろんなことについて、すごく長い時間自分を責めてしまいます。ほんとに自分を責めて、恥や嫌悪感、そしてすごい……わかるわよね、すごいストレスに苦しみます。でも人はそれぞれちがうものだと思うんです。だから私は、なぜそれが私だったのか、を知る必要があるのです」だと思う。

  • この”Why me?”というのは、節だけでなく、本書全体を通してつらぬかれる基本的な被害者の声であるわけです。これほど大事な部分で、こういう読みちがいをしてしまうっていうのはどういうことかと考えてしまうわけです。これは英語読解能力の問題だけなのだろうか。前の節でデータと論文を粗雑にあつあっているだけでなく、この節では被害者の言葉さえもまじめに受けとめていないのではないだろうか。
  • これはちょっと書きすぎたかもしれません。でもこの誤訳らしきものは本当に大きいと思うのです。当然専門家が読めばおかしいと思うはず。誰かが草稿段階でこの原稿を読んだらおかしいと思うはずだし、学会賞を出そうという人々が読んでたら、なにかへんだとおもわないはずがないと思うのです。そしてこうした疑念が、わたしをいらいらさせるのです。いまも書きなおしてて、やっぱりいらいらしてしまいました。読んでる人々が不快になったらもうしわけない。でも私はこうしか書けないのです1)それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

 

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1. それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(3)

  • デイリー先生の文章の引用

私は〈裁判による性暴力の問題解決〉より〈カンファレンスやそれに類するRJ〉がより一般的に用いられるとは思わない。〔しかしながら〕私は犯罪と被害へ、より洗練された対応をすること、そしてRJがその流れの中に位置づけられることについて考えることは、意義があると思っている。

私が訳すると「私は、カンファレンス、より一般的には修復的司法が、性犯罪裁定の問題に対する「解決」になるとは〔カズンがわたしになすりつけているようには〕考えていない。私が信じているのは、犯罪と被害に対応することについてもっと革新的に考えてみることには価値があるということであり、修復的司法はそうした潮流の一つだ、ということである。そうした各種のアプローチが、被害者や加害者に対して有効な司法のなかで邪魔になると考えるのはむずかしい。」

  • ここまで、主にほぼ4章2節の英語の訳の問題だけ見てきたのですが、どれもいわゆる「意訳」や「わかりやすい訳」やケアレスミスだけではない。構文がとれないために意味がとれてないないか、知識がないためか、検討する論文全体を読んでいないため理解できていない、という感じだと思います。こうなると、この本に出てくる日本語の翻訳が出ていない文献からの引用・参照はすべて疑わねばならないことになる。しかしそれはしょっぱなから論文タイトルがまちがっているのを見れば誰でもわかる話でもあると思います。
  • まだ続きます。

 

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(2)

p.149

刑事司法制度の補完として、RJを取り入れる具体策としては、「有罪答弁」の改革をデイリーは挙げている。現行の刑事司法制度にも、加害者が自らの犯行を自白する「有罪答弁」は導入されている。しかしながら、デイリーによれば「有罪答弁」は「被害者の決まりきった質問に、加害者が棒読みで答えるという白々としたもの」である。それを「被害者が自分の経験を思いきり語り尽くし、加害者は率直に事件について吐露する場にする」のである。(p. 149, 強調江口)

  • まず、イギリスやオーストラリアの裁判制度のなかでの「有罪の答弁」guilty pleaの制度を紹介してもらう必要がありますわね 1)おそらく本書にそうした説明はない。。http://www.courts.sa.gov.au/RepresentYourself/Offence/Pages/Pleading-guilty.aspx こういうんですか。っていうかオーストラリアの裁判所制度がどうなってるかはここらへんからたどればわかるはず。まあそこまでしなくてもGoogle様が教えてくれる
  • んで、この有罪答弁では「被害者が質問して加害者が答える」なんてことになってるのでしょうか。まさか!原文は

The court’s guilt plea process can change (Combs 2007). Rather than ‘perfunctory affairs [in which] questions are mechanically posed, answers are monosyllabically provided, and all of the participants seek to get the proceedings over with as quickly as possible (p.14), Combs propses a ‘restorative justice guily plea’ that would have greater disclosure of the offending by defendant and greater involvement of victims in describing the effects of the offense.

  • デイリーではなくコーム先生の意見であるのはともかくとして、「審問が機械的におこなわれ、それに対してはイエス・ノーだけ(monosyllabically、一音節で)で答えられ、関係者はみな手続をできるだけ早く終らせようとするおざなりな手続き」ぐらいですか。現行で被害者が直接加害者に質問するなんてあるわけない。ここらへんになってるくると、著者はまったく知らないことについて語っている可能性が出てくるわけです。

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1. おそらく本書にそうした説明はない。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)

小松原先生の『性暴力と修復的司法』の第4章は非常に問題が多いと思うので、すこしずつ指摘したいと思います。実は同内容の別の文書を書いてしまって、公開するべきかどうか実はかなり迷ったのですが、やっぱり見てしまった以上は書かざるをえないと思います 1)この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。。ここではなるべく価値判断は避けて、事実だけ記載しなおしたいと思います。ジェンダー法学会の奨励賞を受賞していることからも問題の深刻さを考えさせられました。


第4章第2節

  • 書誌情報、author-yearの形 (Daly (2006), p.339の形)をつかっているのに、Ibid. も使うのは奇妙な印象があるけど、こういう書き方をする分野があるのだろうか。

p.143

  • デイリー論文タイトルを「歪曲のない記録の位置付けとラディカルな変更への要求」している。原題は“Setting the Record Straight and a Call for Radical Change” なので、「事実を明らかにすること、ラディカルな変化をもとめること」かなあ。set the record straightはほぼ慣用語句。
  • どこか別の場所で『修復的司法─どう実践するか(Restorative Justice: How It Works)』というのも見たのですが、ページ失いました。How it worksは「それはどう機能するか」、くだいて「それはうまくいくか」だと思う。
  • デイリー論文の紹介 https://www.researchgate.net/publication/31045901_Restorative_Justice_and_Sexual_Assault_An_Archival_Study_of_Court_and_Conference_Cases

小松原p.144

「裁判に参加した226例(59%)の少年のうち、118例(31%)がRJのカンファレンスに参加し、41例(10%)が訓告を受けた。その結果、再犯率は裁判が66%で、カンファレンスは48%だった。また「(執行猶予も含んだ拘留などで)〔少年に対して〕責任を追求して脅す「青年脅迫(Sacare Youth)の試みは、最も高い再犯率を示している(80%)。(強調江口)

  • デイリー先生の原文によれば、扱われてるのは385事件の少年365人、そのうち226は裁判所に送られ、別の118はカンファレンスに、41は訓告formal cautionを受けた、ということだと思う。226+118+41=365よね。「裁判に参加した226例の少年のうち」はまったくのあやまり。これ以降、そのまま信じることはできない。
  • 原文によれば、再犯したのは80%ではなく81%。ここのところは、オーストラリアの裁判制度の説明が必要だとおもいます。
  • Scare Youthには脚注がついていて、

「Scared Straight Programのこと。1970年代米国に非行少年に対して行われた犯罪抑止プログラム」

云々という脚注がついているが、これは1995〜2001年の南オーストラリアの話なのでまったく関係がないと思う。原文はThe court’s effort to ‘scare yourth’ with threat to further liabilityということなので、米国の話とは少なくとも関係がないように見える。

「こうした結果を見ていくと、性暴力事犯において、少年が裁判を受けたり、厳しく罪を問われたりすることは、再犯防止にならないということがわかる。」

  • これはこんなに簡単にはいえない。「「もっと厳しく責任を問うぞ」として法廷が若者を脅す」というのは、i.e. detention, including suspended sentencesということなので、裁判所に送られてけっきょく拘留しただけとか、起訴猶予などの処置にされた少年たちが81%再犯におよんだわけだけど、これはカンファレンスや訓告ですまされた少年たちより悪質と考えられて裁判所に送られた少年たちであって、カンファレンス送りの少年たちとは簡単に比べることはできないと思う。

「さらに、裁判はカンファレンスよりも集結までに2倍の時間がかかり、被害者は平均6回も裁判所に足を運んでいた。被害者の負担は大きいのである。それにも関わらず、最終判決に出席しても半分近くの事例は訴訟棄却または訴訟取り下げになるとデイリーは指摘している。」(下線江口)

  • 原文はvictims would have had to attend court an average of six times to lean the outcome of their case。これは、「もし被害者が裁判結果を聞こうとすれば、6回ぐらいは行かねばならなかったろう」ということだと思う。
  • If they appeared in court on the day of finalization, nearly half would find the case was dismissed or withdrawn. 「その日に傍聴にいけたとしても、半分ぐらいは起訴猶予やら起訴とりさげやら」ということ。被害者が裁判所に行こうが行くまいが判決は同じ。これは下のような感じ。
  • 先生書いてないので1パラだけ紹介すると、41の訓告(formal cautions)処分措置にされた全員が罪状を認め終結した。118のカンファレンスのうち、ほとんど(94%)が性的暴行を認めて終結した。裁判所送りになった226件のうち、51%が性犯罪が立証された。4%は非性的犯罪とされ、残りは棄却、起訴取り下げ。226件のなかで公判にかけられたのは18件、8%。Guilty pleaはあとで問題にするけど、さっさと有罪を認めれば裁判短縮してあとは量刑を考えるだけになるというもの。残りのうち14人が罪状を否認、その結果、8人が棄却、3人は無罪。けっきょく、 226件の裁判所ケースのうち、115件は性犯罪が立証された(ほとんどすべてGuilty Plea)、8件は非性的犯罪、100は棄却または起訴取り下げ、3は無罪、ということだと思う。こうした情報を示さないで一部の数だけを示しても意味がない。(あんまり自信ない。オーストラリアの(少年犯罪の)裁判制度の説明が絶対に必要のはず。)

「被害者が証言したのは14例のみで、有罪判決が出たのは3例だけだ」

  • 原文によれば、「裁判所送りになり、さらに公判にかけられた14例のうち、何件で被害者が証言したかはわからないが、仮に14件で被害者が話をするのを許されたとすれば〜」
  • 1ページでこれほどあやまりと思われるものが多いとかなり苦しい。

  • Daly先生の引用

SAASの結果は性暴力への対応における公式の裁判過程の限界をあらわにしている。この限界は〔被害者と加害者を〕対立させる〔刑事司法〕制度に内在している。それは〈告訴された人が加害を否認する権利をもっていること〉と〈法律的な罪を確定する中では証拠を集めるハードルが極めて高いこと〉である。

  • 「被害者と加害者を対立させる刑事司法制度」というのが謎。“The limits inherent in an adversarial system in which accused persons have the right to deny offending and the evidentiary hurdles are especially high in establishing legal guilt.” であって、「〔容疑者に対して〕敵対的な制度」であって被害者と加害者を対立させるわけではない。刑事司法というのは基本的に「国vs容疑者(被告)」だと思いますが、私がまちがっているのか。被害者と加害者の対立は二次的であるはず。(もちろんそれではだめなのかもしれないので、被害者が裁判に参加できる形を模索しているわけだが)

pp. 147-148でのデイリー先生の引用

  • ここは長くいろんな不正確な訳が含まれているので、下に私の訳を示します。
    > 私が思い描いている重大な変更目標は、次の三つの要素からなる。犯行の自白(理想的には、当初からの自白)の増加、(裁判での)事実認定の必要の減少、そして性犯罪と性犯罪者に対する強すぎるスティグマづけの最小化である。弁護士たちは依頼者の権利を擁護するだけでなく、「法的」には有罪ではないとしても事実上有罪であるような依頼者が、その罪を認めることの価値を見出すことにも役目を負っている。私はこのような変更目標がすぐに実行されるとは期待していない。

  • まだ続きます。

 

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1. この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー

EUの女性に対する暴力の調査を日本でもやった先生たちの調査結果報告について1)これ、龍大のページではWORDのままで開けない人がいるかもしれないので、PDFにしておきますね、フェミニストの小松原織香先生が加えたコメントに、正体不明自称プログラマのuncorrelatted先生がコメントをつけて、ちょっと話題になってました。

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20181028/1540696942
http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html

このFRAという組織の調査の概略や調査票をめくってみたんですが、さすがEU進んでますねー。

女性に対する暴力はいろんな事情で当局に通報されないものが多い、つまり暗数が多いっていうのが問題だというのは広く理解されていて、この調査はそれがどれくらい存在しているかを推測するためのきっちりした調査ですね。警察のデータや、たんなる紙のアンケートだといろいろ疑問があるから、もう訓練した調査員を派遣して面談して本当のところを明らかにしましょう、という徹底的なもので、すばらしい。

こんなふうにして「こんにちは、私の名前は〜」からはじまって、正確な情報をひきだすかについて細かいところまで気を配っている。

パートナーから身体的/精神的「暴力」の実態を知るために、こんな聞きかたをしています。

「今のパートナーさんとのことについておうかがいします。」「(恋愛)関係とかでは、ふつうよいときも悪いときもありますよね。これからする質問は、今のパートナーさんとのことにつてです。パートナーさんは次のことをどれくらい頻繁にしますか?」

「E01a あなたが友達と会わないようする」「E01b あなたが実家や親戚と連絡をとらないようにする」「E01c 今どこにいるか知らせろとしつこくする」

どの質問項目も、こういうふうに具体的な行動や経験にまで落されていて、「セクハラされたことがありますか?」「暴力をふるわれたことがありますか?」「レイプされたことがありますか?」みたいな抽象的で解釈が必要な質問にはなってない。

これは当然理由があって、「セクハラ」「レイプ」「暴力」みたいなのはなにがそれにあたると考えるかは人によって違うかもしれないからです。「イケメンの大学の先生に肩を抱かれたのはセクハラだろうかそうでないだろうか」「キモい教員にされたのは〜だろうか」とかそういうの考えちゃうと答えられなかったり、本人のバイアスが働いてしまう。小松原先生が(おそらく)指摘しているように、被害を受けた人は自分が悪いとかおもってしまいやすいとかあるわけで。セクハラについてたとえばこんなふうに聞くわけです。

日本語にどう訳すかはいろいろあるだろうけど、「触られたりハグされたりキスされたりして不快だったことがありますか?」か「したくないのにハグされたりキスされたりしたことがありますか?」か。「セクハラ」されたかどうか、とかそういうのは聞かない形になってる。それじゃ(調査者たちが考えるところの)セクハラとはなにか、って説明しなきゃならなくなりますからね。

それに、そうした質問をする前の前置きがいいですね。これは軽く感銘しました。「こんなに進んでるのか!」みたいな。さっきのパートナーの暴力だと、「まあつきあってるといいときも悪いときもありますよね」みたいな前置きを聞けば、「そういやいいときもあるけど悪いときもあるなあ、この人はそういうのわかって聞いてくれてるんだな」って感じて答えやすくなるだろうし、まあいいときや悪いときを思い出す呼び水みたいのにもなってる。えらい!

まあこういう練りに練られた設計による調査で、これくらい考えられている調査に対して、「なにが暴力と考えるかは人によって違うかもしれない」とか「被害者女性は暴力を暴力としてとらえられないことがあるのだ」といったタイプの疑問を持つのは、なんかちょっと筋が違う気がします。それはわかった上でこういう調査をやっているのだと思います。

こういう優れた設計になっているのは、こうした調査をまじめにやろうとしている人々の努力と、こうした調査に関心をもち、過去のいろいろな調査の欠点に対するいろんな批判した人々の努力があってこそだと思う。えらすぎる。

ちなみに日本の内閣府の調査とかではなかなかこのレベルにまで到達してないようで、質問紙とかこんな感じ。

EUのやつと比べると問題がわかると思います。(例はついているものの)「暴行」や「攻撃」を受けたことがあるか、という話になっているので、このタイプだとやはり「私が悪いのだからあれは暴行じゃない」「よっぱらっていただけで攻撃とまではいえない」とか考えてしまう人がでてくる。こういう回答者の「解釈」を要求する質問はよくないと思います。他にも「監視」「嫌がらせ」「脅迫」「妨害」「強要」などのように、定義が曖昧だったり価値判断を要求するような言葉のオンパレードで、これは答えにくい。

んでそれは内閣府もわかっているのか、最新のやつを見たらこういうのが追加されてました。これ前なかったですよね。

「暴力」がなんであるのかの解釈が人によってちがうかもしれないので、「なにを暴力だと思いますか」という質問項目を追加している。これってどうなんだろうと思います。それ以降の質問になんかバイアス与えるかもしれないし。まあこうした調査は継続性も大事なので、質問の仕方が悪くてもいちやりなおすのは難しいとかそういうのもあるんだと思いますが、どうなんでしょうか2)っていうか、それの結果見ると、「「暴力をふるわれた側にも非があったと思うから暴力にはあたらない」みたいな混乱した回答もアリってことになってますがな。こんな調査で大丈夫なのか。

そういうわけで、国内のこうした調査についてはもうすこし検討しなおす余地があるかもしれず、最初にあげた龍大の津島先生や浜井先生が、内閣府の調査があるにもかかわらず、EUのやつを使って調査したのはとても価値があることだと思うわけです。暴力対策発展途上国から脱出するための絶対に必要な一歩であり、えらい!えらい!えらすぎる!

というわけで、私は日本が女性に対する暴力対策の発展途上国かもしれないという見方には理があるかもしれないと思うわけですが、それは小松原先生とは違う意味でそう思うわけです。


(追記2018/11/03)

そのあと、津島昌寛・我藤諭・浜井浩一 (2017) 「女性の暴力被害に関する調査」ってのを確認したんですが、まあ上で書いたようなことが説明してありました。

1970年代後半から、調査対象者にとってセンシティヴな内容を尋ねる調査においては、調査の運営や実践の点で改良が重ねられ、自己具体的には、特定の行為に関する質問(暴力被害の具体的な例示による概念測定の妥当性の確保)、調査員を対象とした事前訓練および調査員からの事後報告、回答者と調査員の安全確保、回答者に対する当該地域の法的支援や社会サービスの紹介などである申告式調査が出現した。それは、社会調査に重要な革新をもたらした。p.182

とかで、この時期から(先進国では)警察とかのデータにとどまらず、もっと暴力被害をしっかり把握しようと努力しはじめたってことですね。

KossのSexual Experience Survey (SES)では、女性が望まない性被害をどのようにとらえるのかという問題を扱った。SESでは強制わいせつや強姦未遂、強姦など広範囲にわたる性被害について尋ねているが、回答者によって理解が異なってしまうような「暴力」や「強姦」といった言葉は使用せず、特定の行為に関する質問──例えば「望まない性的経験の行為」や「加害者が性行為を強制するために用いた行為」──から構成されている(Koss et al. 2007)。……その結果、これらの調査手法はひろがりを見せ、アメリカのNational Crime Surveyをはじめ、British Crime SurveyやCanada’s 〜において、質問文の表現や調査のプロトコルが改善されていくことになる。(p.183)

ということで、こうした調査では最初から「暴力をふるわれましたか?」「レイプされたことがありますか?」のような質問は避けることになっているわけです。

プライバシーにかかわる調査については、調査員がいると答えにくいんじゃないのかという疑問がたしかにあるわけですが、

〔WHOの調査〕においても、調査員の選定と研修が各国でなされている。調査対象者がその被害経験を回答するかどうかは、調査員の性別、年齢、態度、対人関係の取り方に拠るところが大きい。調査員は、調査を遂行するための基礎的な学力のほか、異なる背景を持っている人々と共感的にやり取りできるかどうか、センシティヴな問題を扱えるかどうかといった基準で選ばれる。(p.184)

共感的な調査員がいた方がうまく聞きだせることもあるかもしれないので、優秀な人々を送りこみましょう、ってわけですね。

IVAWSでは、たんに暴力の被害に遭ったかどうか、強姦の被害に遭ったかどうかという聞き方はしていない。例えば、身体的暴力では「あなたは傷つけたり脅したりできるような物を投げつけられたりたたかれたことはありますか」というふうに、具体的な行為内容を示した上で経験の有無を尋ねている

何回もくりかえしますが、こういうのは現代的な調査ではちゃんと考えてあるわけです。

しかしそれでもうまく聞き出せないことは当然あるわけで、それがこの種の調査の難しいところですよね。調査員使うと回収率も下がるし。調査員の腕の差も出やすいだろうし。へたすると二次被害とかも引きおこしていしまうわけで。津島先生たちもそれは痛いほど理解している。

「本当の事は回答しにくい」これは、回答者の一人が調査員に漏らしたことばである。この発言からは、自分の私事を他人に打ち明けることがいかに難しいかが読み取れる。(p.188)

調査員の研修も、調査についてのいろいろな知識や、ロールプレイを含めたいろんな準備とかしてるみたいです。EUでは研修4日やるんだけど、今回の津島先生たちのではいろんな事情から1日しかできなくて無念、みたいなのもありました。真面目な先生たちだと思う。

ちなみに法務省の暗数調査の問題点は、痴漢やセクハラのような性暴力被害を調査してない点で、内閣府の男女間の暴力の問題は被害に関して簡略化された設問となってること、そして両者ともに留置(自記)なので妥当性や信頼性に問題があることだと思います。この件で、ちょっと法務省のと内閣府のやつの「届出率」みたいなのの違いに言及したツイートも見ましたが、それがその理由の一つかもしれない。

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1. これ、龍大のページではWORDのままで開けない人がいるかもしれないので、PDFにしておきますね
2. っていうか、それの結果見ると、「「暴力をふるわれた側にも非があったと思うから暴力にはあたらない」みたいな混乱した回答もアリってことになってますがな。こんな調査で大丈夫なのか。

ジュディス・バトラー様と竹村和子先生のインクレディブルなダジャレと翻訳

数日まえに載せたヌスバウム先生のバトラー様批判(あれは私の翻訳ではないです、柳下先生)にはけっこう反応があったみたいなんですが、ブログとか書いてくれてる人もいたんですね。 https://kumabushi.com/?p=11750

書きたいのはこの方のブログの内容ではなく、そこで引用されているバトラー様の文章についてなんです。

ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうるのである。(『ジェンダートラブル』p.248)

これは竹村和子先生の訳なんですけど、意味わかりますか?私はわかりません。原文はこうなんですわ。原書p.180。

上の竹村先生の訳だと、最初のcanが落ちちゃってますね。これは文章の意味がとれるならば必ずしも悪いとは限らないんだけど、どうだろうか。

私が訳すと前の方の文章は「ジェンダーというものは真だとか偽だとかいえるのものではない。また、実在的だとかみかけだけだとかいえるものでもない。またオリジナルだとか派生的だとかいえるものでもない」。

命題とかっていわれるもの、たとえば「地球は丸い」とかってのは真とか偽とか(true or false)とか言うことができるけど、パフォーマンスみたいなのが真だとか偽だとかそういうのは言えませんよ、ってことかなあ。

まあここでの「ジェンダー」が男らしいとか女らしいとかそういうことだとして、男が男らしいとき、あるいは女が女らしいとき、っていうのはみんながんばって男らしくしたり女らしくしているのでそれがrealだとかapparentだとかっていうこともできない、とかってことですかね。

さらに、そうした男らしさに、彼のはオリジナルな男らしさだとか、それを彼の(あるいは彼女)男らしさは、それをコピーした男らしさとだ、とかそういうのも言えない、と、まあそれくらいおおざっぱにとっていいんですかね。知りませんよ。

問題は二つめの文章です。

As credible bearers of those attributes, however, genders can also be rendered thoroughly and radically incredible.

ものすごい難しい。さすがバトラー様の御託宣。「しかしながら」……「そうした属性の信頼できる担い手としては」?わからんでしょ。「そうした属性」は前に出てきてる属性のはずだから、true or false, real or apparent, original or derived。まあ真だとか偽だとか、本物だとかみせかけだとか〜、つまりそうした属性をもっているということが言えるとすれば、そうしたことはほんとうは言えないんだけどそうしたものをcredibleにbearする、つまり、私の解釈では、本当はそういうの言えないんだけど、人々がそういうことが言えるものだと思いこんでいるものとすれば、ぐらいか。そういうものとしては、「徹底的に根本的にincredibleにすることもできるのです」。(ここの属性attributesについての話は私の読み間違い。下の追記を見よ)

このincredibleはもちろん二つ意味があって、(1) 信頼できない、(2) 信じられない(ほどすばらしい)。さて、どっちでしょうか。

信頼できる担い手としては信頼できないものにできる、っていうのでは意味が通じないので、「信頼できる担い手としてはすばらしいものにすることができます」ですね。というわけで、私が訳するとこうなる。

「ジェンダー」というものは、真であったり偽であったりするものではないし、実在するものであったり見掛けだけのものであったりすることもなく、また、オリジナルであったり派生的であったりすることもありえない。しかし、そうした属性が付与されてしまう担い手として信頼できるもの〔、つまり皆がそう思うもの〕としては、「ジェンダー」は徹底的に、そしてラディカルに、すばらしいものに〔も信頼できないものに〕(incredible)もすることもできるのだ。

これでもわかりませんね。私の勝手な想像による解釈はこうです。男らしいとか女らしいとかっていうのは社会的な構築物とやらなので、別にどれが本物とか偽物とかそういうのないです。男性の服装がどうあるべきで女性がどうあるべき、みたいなのも文化によってちがいますしね。でも社会の人々が、「こういうのが男の服装、男の振る舞い、これがほんとう」「こういうのが女の服と振る舞い、これがほんとう」みたいに考えるってことはかなりの確度でいえる、だいたいそう思っているということがいえるのならば、逆に、そうした異性の服装や振る舞いをまねたりするのが魅力的ですばらしいものになるし、そうしたジェンダーがあるからこそ宝塚はすばらしい、そういうことですわ。同時に、そうした異性装とかっていうのはそのジェンダーなるものを不確かなものにもする。脱いでみたら女でした/男でした、みたいなのもまああるだろうから、ある程度のひとがうまくそういうのを演じてたら「らしさ」を信頼できないものにすることもできる。

最後のincredibleは原文ではイタリックになっているので竹村和子先生は傍点を打ってるけど、このincredibleが二義的でダジャレになっていることは理解してないんじゃないかな。いや、ほんとうに二義的かどうか、ダジャレかどうかは知りませんよ。そういうのはおそらく、英語がすごく読めて、ポストモダン思想だけじゃなくいろんな分野の知識を熟知している人々にしかわからないんじゃないかと思う。

でもこれ読んでる人には考えてほしいのです。こんな大事なところにあるこんな短い文章読むだけでこんなかかるんですよ?

これって、哲学じゃないですね。だってどっちのことを言ってるのかわからないから。評論です。それも作品としてすごく高度なダジャレや暗喩に満ちた高級評論です。イエール大学とか東大とかお茶の水大学とかの文学の先生になるような人々じゃないとわからないような。

そして、その翻訳もこんな感じで、引用されてても原文見てみると、私の読みとはぜんぜん違うことが書いてあるんですよ?これまた毎度毎度のことです。もうあらゆる引用がこんな感じに見える。みんないったい何を読んでるのさ。

そしてこれって、我々が必要なものなの?毎日、自分のジェンダーアイデンティティやらセックスやらについてまじめに考えたい人々がなにか参考にできるものなの?知的超上流階級の人々がひまにまかせて分析しながら鑑賞するような知的おもちゃじゃないの?

前のゲリラ訳でヌスバウム先生が言いたいことの一部もそういうことなんじゃないかと思う(もっと大事な政治的な含意もある)

バトラー樣のインクレディブルなダジャレについてはoptical_frog先生も解説してくれている。でもこんなインクレディブルなダジャレとかを含んだインクレディブルな翻訳を読まないとジェンダー論わからんとかって言われたら、どうするんですか。そして、そういうことを匂わす人々はこれがインクレディブルな本だってことちゃんと自分で確認したんですか?私そういうのは本気で不愉快です。

もしかしたら知的貴族たちは、上の翻訳を見て即座にincredibleのダジャレを見抜き、「まあジュディス樣ったらこんなお冗談をおっしゃって、ほほほ」とかやってるんかもしれんけど(それじゃ貴族じゃなくてエスパーですか)、われわれ知的精神的貧民がこんなもん読めるか!日本の学者先生たちはインクレディブルすぎる。せめて翻訳正誤表とバトラー樣のダジャレ解説一覧でも出してほしい。

ツイッタやブログでバトラー樣の文章はわからん、と書くとなにやら難しいことを解説してくれる人もいるんだけど、それもわからん。まちがったことを書くと「頭が悪いね」ってやられそうで、まじめな人や臆病な人は誰も文句つけらんないじゃん。サール先生がいうところのテロリズムだ。

私はバトラー樣とか読む余裕はないので、かわりにインクレディブルなジャズギターでも聞きます。よかったらいっしょに聞きましょう。


追記:

さっそくやっつけられてしまった。ははは。どもどもありがとうございます。

どうもattributesはその前の段落のgender attributesを指すっぽい。っていうか、たしかにそっちの方が自然だで、むしろ直前を指すと見るのは読めなさすぎ。直前の段落こうなってんだからそう読むのがあたりまえ。平民すぎる。

どうも難しい文章を見てイヤな気分になってると視界が狭くなっていかんです。反省反省。よくやるんよね。

ただしそれでも、can be renderedのところと意味が通じないように思うし、イタリックになってる意味もあんまりよくわからないですね。そっちは納得してないです。

expressiveとperformativeのところも、オースチンとかの言語行為論のネタじゃなくて、たとえば「男らしさというのはその人がもってる潜在的な男らしさ性をそれが表現しているというものではなく、男らしい振る舞いをすることによって男らしい人間になるのだ」みたいな感じのはずで、まあバトラー様はあんまり説明してないけどこれはわかる。ボーヴォワール先生どころかアリストテレス先生あたりとも同じ話。怠惰な人間は生まれもった怠惰性を発揮しているのではなく毎日怠惰にふるまうことによってそうなる。勤勉な人間も同じ。毎日努力しているけど怠惰な人間とか、毎日酒飲んでる勤勉な人間とかはいない。これは昔どっかで書きました。

大学でフェミニズムを勉強したい人は

フェミニズムやらジェンダー論やら勉強したいひとのためのリストみたいなのがない、みたいな。いやそういうのはたくさんあると思うから私が書く必要はないと思うんだけど、ちょっと一般的な話にからめて紹介したいと思います。

そもそも関心がフェミニズムの特定の論者の特定の論点、たとえばキャサリン・マッキノンのポルノについてのどういう議論をしているか知りたい、ってな感じであれば、そういうのはすぐ出てくる。

ジュディス・バトラー様の深遠な思想について知りたい、というのであれば、解説書と本人のを同時に読めばよい。

んで読んでもよくわからなかったら(わからないことも多いと思う)そこでやめてしまえばよい。

しかし、もうちょっと広い関心があって、なにが問題なのか知りたい、(特定の立場の)フェミニズムを信奉している人々が言うことだけでなく、それの難点やそれに対する批判まで含めて知りたい、ってな感じのときは、またちがう勉強の仕方があると思うのです。

特定の思想家・学者・ライターのものは、やはりその人の思想の色が強くついてしまうもので、いろんな人のを平行して読まないとなんか勘違いしてしまうし、批判的に考える能力もつきにくいと思う。

答はわりとはっきりしていて、図書館で「事典」をひっくりかえしてみる、です。戸田山和久先生も、レポートとか書くときはまずそれを事典ひいてみるのだ、って書いておられます。なぜそれを「レポートを書く」ときだけの手段にするのか。いつもまず事典めくってみればよいのです。

まあこんなのふつうの人は自分のお金出して買うもんじゃないので、図書館に入れてもらってください。

こういうの読みながら、ちょちょちょっとなにかメモをとっておくとよい。同じ項目を複数の事典でひいてみると、執筆者によって見方がちがってたりする。ぜんぶで同じポイントや名前が出てきたら、それはみんなが認めてる大事なところです。そういうふうに複数のもので裏をとりながら勉強してほしい。

上のは英語のを翻訳したものが中心ですが、この手ので1冊おすすめをあげると、

これがいいと思う。翻訳されてるのは英語が多いんだけど、これはフランスのもので英語圏とはまたちがった視点から問題を見ているので読んでいておもしろい。

んでこういうのでだいたいこうなのね、ってわかったら、そういうのをその立場の外から批判したり検討したりしてるやつを読む。できれば大学のテキストにつかわれるようなやつがよい。

たとえばフェミニズムと政治理論の関係だったら、

こういうのを読む。タイトルからでは内部にフェミニズムに関する長い章がはいってるのはわからないわけですが、そういうのは大学の教員が教えてくれるので大学生は自分の大学の先生に聞いてみてください。上のは非常に定評があるテキストで、フェミニズム(とくに北米っていうかカナダ)とそれにたいしてどういう批判があるかわかる。

ここまでいけば、関心にしたがって読んでけばいいと思う。ポルノや売買春、といった特定の問題をフェミニズム・非フェミニズムがどう扱ってるか勉強してもよいし、特定のフェミニズム(たとえばラジフェミやらポストモダンフェミニズムやら)の思想ってのがどんなものかもっとつっこんでいく手もある。

ポイントは聖典をさがしてるんじゃないんだから、いろんな面から読む、論争を理解する、ってところです。

この本なんかもまあなにが問題かよくわかる良書です。とにかく、もし思想家に興味があるのではなく問題に興味があるのであれば、いきなり思想家に直接あたるのはあぶないし効率が悪い。日本の学者先生たちの多くは思想家の傾向があり、かなり自分たちの立場を強く押し出し批判を無視する傾向があるから注意してください。

あとこれおもしろかったんだけど、古本安いからみんな入手しておくとよい。

 

 

 

ヌスバウム先生のバトラー先生批判、全訳

柳下先生から昔彼がやっていたヌスバウムの「パロディの教授」の訳をもらったので、ここにあげておきます。著作権関係はクリアしていません。これをここにあげた点の責任は江口にあります。昔私もちょっとだけやったのですが、ちゃんとやってもらってよかった。作業の関係で強調とか落ちてるかもしれないので、あとで直します。


ザプロフェッサーオブパロディ マーサ・ヌスバウム

この文章は、Nussbaum, M. C., 1999, “The Professor of Parody,” The New Republic, February 22.を柳下実minoruyagishita@gmail.comが無許可で適当に翻訳したものである。著作権関係は処理していないので注意してほしい。本文はこちらで公開されている。途中で訳出してあるバトラーの文章の正誤はとてもあやしいので、識者のコメントを待ちます。

この記事は、『ジェンダー・トラブル』、Bodies that matter、『触発する言葉』、『権力の心的な生』のレビューである。

I

長い間、アメリカの学問に携わるフェミニストは、女性のために正義と平等を達成する実践的な闘いと密接に連帯してきた。理論家たちはフェミニスト理論のことを,紙のうえにならぶ精妙な言葉なのだ、と理解してきたわけではない.フェミニスト理論は社会変革のための提案と結びつけられていた。それゆえフェミニストの学者たちはさまざまな具体的なプロジェクトに携わってきたのである。とえば、レイプに関する法律の改革、ドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントの問題へ人びとの関心を引き付け、法的な救済策を勝ち取ること、女性の経済的〔成功の〕機会、労働条件そして教育を改善すること、女性の労働者のための妊娠に関する福祉手当を勝ち取ること、売買春における女性と女児の人身売買に運動すること、そしてレズビアンやゲイ男性の社会的政治的平等のために取り組むことである。

それどころか、一部の理論家たちは学術からまったく離れてしまい、実践的な政治の世界にすっかり居着いている。そちらの方が,こうした喫緊の問題に直接とりくめるのだ。学界に残った人びともしばしば、実践的なことにかかわっている学者であることが、体面にかかわることだと思っている。実践的なことにかかわっている学者とは、現実の女性の具体的な状況に目を向け、いつも女性の現実の身体と葛藤を認めるような仕方で論文を書く学者だ。たとえば、法的制度的変革というほんものの問題を思うことなく、キャサリン・マッキノンの著作の1ページを読める人がいるだろうか。もし、ある人がキャサリン・マッキノンの提案に同意しないのだとしたら――多くのフェミニストはマッキノンの提案に同意しないが――、彼女の論文によって提示された課題は、彼女が鮮明に描き出した問題を他の方法でどう解くのかということを模索することだ。

フェミニストたちは何が悪いのか、そして物事を良くするために何が求められているかについて、いくつかの問題では一致しない。しかしながら、すべてのフェミニストたちが同意していることもある.それは,女性をとりまく状況は不正義であり、法律と政治的措置によってそれらをより公正にすることができるということだ。ヒエラルキーと従属をわたしたちの文化に根深くはびこっていると描いたマッキノンもまた、法――レイプとセクシュアル・ハラスメントに関する国内法と国際的な人権法――を通じた変革に取り組んでおり、法を通じた変革に慎重にではあるが楽観的である。ナンシー・チョドロウは『母親業の再生産』[1]で子育てにおける抑圧的なジェンダーカテゴリーの複製のゆううつな説明を示したが、彼女でさえその状況は変革しうると論じている。これらの習慣の不幸な帰結を理解することで、男性と女性は彼らがこれ以降物事をこれまでとは、違ったやり方でおこなう、と決心することができるのだ。そして法律や制度における変革が、そのような決心を手助けしてくれるだろう。

いまでもフェミニスト理論は世界の多くの地域でこのような状態である、たとえばインドでは、学問に携わるフェミニストは自らを実践による厳しい努力に投げ込み、そしてフェミニストによる理論化は実践的なコミットメントに密接につながっている。たとえば、女性の識字率、不公平な土地所有法の改革、レイプ法の変革(今日のインドのレイプ法には、アメリカのフェミニストの第一世代が攻撃した、多くの欠点がある)、セクシュアル・ハラスメントとドメスティック・バイオレンスの問題の社会的な認知を得るための努力というコミットメントだ。これらのフェミニストたちは、自分たちが激しく不正義な現実の真っただ中で生活していることを知っている。理論的な論文を書く際にも、セミナー室の外で活動する際にも、彼女達は毎日こうした問題に取り組まなければ自尊心を保つことができないのだ。しかしながら、アメリカにおいて事情は変わってきている。そこには、新しい気がかりな傾向が見受けられる。人は新しい、そして気がかりな傾向に気づくだろう。このことはフェミニスト理論がアメリカ外の女性の闘いへ注目していないということだけではない。(この嘆かわしい特徴は,もっと以前からつねづね,最良の業績の多くにすら見受けられた。)そして〔アメリカ中心的という〕偏狭さというよりは、より油断ならない狡猾なことがアメリカの学界で顕著になっているのだ。それは、生活の具体的な側面からの、現実の女性たちの現実の状況ともっとも薄っぺらくしか関係のない言葉と象徴の政治への、実質的に完全な転向なのだ。

新しい象徴的なタイプのフェミニストの思想家はフェミニスト的に政治をおこなう方法を、高慢なほど不明瞭で、軽蔑的に抽象的な学術的な出版物の中で、ことばを転覆的に用いることだと信じているように思われる。これらの象徴的なジェスチャーというのは、信じられているところでは、それ自体が政治的抵抗の一形態なのである。そして、立法や運動などの厄介なことにはかかわらずとも、人は大胆に行為できるのだ。さらに、新しいフェミニズムはそのメンバーに大規模な社会変革の余地はほとんどなく、そしておそらくまったくないと教授するのである。わたしたちは全員、およそわたしたちのアイデンティティを女性として規定している権力の構造の囚人である。わたしたちはこうした構造を大規模に変革することは決してできず、それらから決して逃れられない。わたしたちにできるのは、せいぜいそうした権力構造のなかでなんとか空き地を見つけ、そこで発話によってこれらの構造をパロディー化し、笑いものにし、境界を踏み越えることだけだ。それゆえ象徴的で言語的な政治が実際の政治の一類型として提示されることに加えて、それだけが現実に可能な政治として残されるのである。

こうした展開は近年のフランスポストモダン思想の卓越に多くを負っている。多数のわかいフェミニストは――彼らの具体的なあれやこれらのフランスの思想家との関係はなんであれ――知識人は政治を煽動的な発話によっておこない、これこそが政治的行為の意義深い型だというフランスの観念に極端に影響されてきた。その多くの人は(正しいか間違っているかはともかく)ミシェル・フーコーの論文から、わたしたちはすべてを包み込む権力の構造の囚人であり、そして実生活の改革運動はたいてい狡猾なそして新しいかたちで権力に役立つことに終わるのだ、という宿命論的な着想を取り出すのだ。それゆえそのようなフェミニストたちは転覆的な言語の使用がいまだフェミニストの知識人にとって利用可能だという観念に慰めを見出すのである。もっと大規模でより長続きする変革の望みを奪われても、わたしたちはそれでも言語的なカテゴリーを書きかえることによって抵抗することができ、そしてそれゆえ、かろうじて、それらによって構成されている自己を書きかえることによっても抵抗することができるのだ。

一人のアメリカのフェミニストがほかのだれよりもこれらの発達をかたちづけてきた。ジュディス・バトラーは多くのわかい学者にとって、現在のフェミニズムを定義する人物のようである。哲学者として訓練を積んでいるので、彼女はしばしば(哲学者というよりも文学研究者によって)ジェンダー、権力、そして身体についての主要な思想家と目されている。フェミニストのふるぼけた政治とそれが献身してきた物質的な現実というのがいったいどうなっているのかを、知りたいと思っているので、ジュディス・バトラーの業績と影響を査定し、そして無抵抗主義と退却そっくりにみえる立場を多くの人に採らせた〔彼女の〕主張を精査するのは必然的なことに思われる。

II

バトラーの着想を把握するのは難しい、なぜならそれが何であるのかを理解するのが難しいからだ。バトラーはひじょうに頭の切れる人である。人前での議論において、彼女は明確に話すことができ、そして自分に何を言われたかを俊敏に把握する力量があることを示している。しかしながら彼女の文体は長たらしく退屈でそして不明瞭である。文中では,陰に陽に他の理論家たちが次々と引き合いに出される。しかも,その理論家たちが属する理論的伝統は多岐にわたる。フーコーを筆頭に,最近ではとくにフロイトに強く関心を寄せているほか、バトラーの著作が多く依拠する理論家には次のような人たちがいる。ルイ・アルチュセール、フランスのレズビアンの理論家モニカ・ウィティッグ、アメリカの人類学者ゲイル・ルービン、J.L. オースティン、そしてアメリカの言語哲学者ソール・クリプキである。これらの人びとは、控えめにいっても互いに見解が一致するわけではない。だから、バトラーの文章を読み始めるとすぐに問題にいきあたって当惑してしまう。これほど多くの矛盾し合った概念と学説を自説の支えに持ち出しておきながら、そうしたあからさまな矛盾を解消する方法をたいてい説明なしですませているのだから。

さらなる問題は、バトラーの無頓着な略式な参照のやり方にある。これらの思想家の着想は、門外漢の読者にわかってもらえるほどじゅうぶん詳しく解説されることもなければ(もしあなたがアルチュセールの「呼びかけ interpellation」という概念に精通していなければ、何章もさまようだろう)、多少手ほどきを受けた人でも,こうした難解な考えがそこでどう理解されているのか正確なところを説明することもない。もちろん、多くの学術的な文章はなんらかのかたちで略式に参照してすますことはある。それは特定の学説と見解の事前の知識を前提にしているのである。しかし、大陸式と英米式,どちらの哲学伝統でも、専門的な読者へ学術的な文章を書く人は自分が言及している著者たちが込み入っており、さまざまに異なる解釈がなされていることを通常は承知している。それゆえ一般的に彼らは競っているものの中で決定的な解釈を提示する責任を引き受け、そして議論によってなぜ彼らがしたようにその人物を解釈したのか、そしてなぜ彼ら自身の解釈が他の解釈より優れているのかを示す責任を引き受ける。

バトラーの著作にはこれがまったく見当たらない。相違する解釈はたんに考慮されないのだ――フーコーやフロイトの場合のように、多くの研究者に受け入れられないきわめて異論含みの解釈も、バトラーはひたすら言い立てるのだ。だから、こうして略式な参照は通常のかたちでは説明しようがないのだという結論が導かれる。通例のように、なにか深遠そうな学問的見解があればその詳細を議論したがる専門家たちを対象読者に想定して説明できないのだ。バトラーの著作は貧弱すぎて、そうした読者の要求に応えられない。バトラーの文章は現実の不正義に取り組もうと躍起になっている非学術的な読者に向けられたものではないというのは明白である。そのような読者はたんにバトラーの散文のゴテゴテしたスープに、内輪でだけわかり合っているような雰囲気に、説明に対する人名の極端な高比率ぶりに、まごつかされてしまうだろう。

それではバトラーはだれに向けて語っているのだろうか?彼女は、アルチュセールとフロイトとクリプキが実際何を言ったかということを気にかける哲学徒ではなく、また彼らのプロジェクトの性質について知らされたい、彼らの価値について説得されたいと思っているアウトサイダーにでもなく、学界のわかいフェミニスト理論家の一群に語りかけているようにみえる。この暗黙の読者はとてつもなく御しやすいと甘く見られているのだ。バトラーの文章の予言者的な声に屈従し、そして広くアピールする要素を持つ抽象性の風格に惑わされ、想像上の読者はほとんど疑問を持たず、議論も求めず、用語の明確な定義も求めない。

さらにまだ奇妙なことに、想定される読者はさまざまな問題に関するバトラーじしんの最終的な結論について気にかけないようと想定されているのだ。バトラーによるすべての本では――とくに章の最後に近い部分の文は――文の大部分が問いなのである。時には問いの予期する答えが明白なものもある。しかしたいてい物事はより明瞭でないのだ。非疑問文の文の中で、多くの文は「~と考えてみよう」もしくは「~と示唆することもできるだろう」という文で始まっているのである。こうした方法でバトラーは描写された見方を彼女が承認しているかどうかを決して読者に完全に伝えようとはしない。神秘化はヒエラルキーと同様、彼女の実践の道具であり、神秘化はほとんど明確な主張をなさないため批判を逃れる。

ふたつの代表例を引いてみよう:

主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということはどういうことを意味するか?前提とする行為と復元する行為とは同じ行為なのだろうか、それとも前提とされる権力と復元される権力の間には不連続があるのか?主体がそれ自身の従属の状態を再生産するまさにその行為においてそのことを考えてみると、主体は一時的にそれらの状態に属しており、厳密に言うと、再生の要求に属している脆弱性に基盤を置いていることを例証している。(The Psychic Life of Power: Theories in Subjection p.12)

また:

そのような問いはここでは答えることができない、しかしそれらは良心の問いにおそらく先立つ思考への道のりを示唆してくれる。その問いとは、言いかえれば、スピノザ、ニーチェ、そして最近では、ジョルジオ・アガンベンの心を奪った問いである。どのようにわたしたちは欲望を構成的な欲望として理解するのだろうか?そのような説明の中に良心と呼びかけ interpellation を位置づけなおしながら、わたしたちは他の問いを付け加えることもできる。どのようにそのような欲望は単数の法によってだけでなく、たとえば社会的で「ある」という感覚を保持するために従属に屈するというさまざまな種類の法によって搾取されるのか?

なぜバトラーはこのように厄介な、癪に障る書き方を好むのだろうか?その様式はまったく前例がないわけではない。もちろんそれらのすべてではないが大陸哲学の伝統のある領域では、対等な者同士で議論する哲学者ではなく、不幸にもしばしば曖昧さによって人を魅了する哲学者をスターとみなす傾向がある。あるアイデアが明確に述べられた時、結局のところ、その思想は著者から切り離してもかまわないものになる。人はアイデアとそれを考え付いた人を引き離して、そのアイデア自体を論議することができる。アイデアが神秘的なままであり続ける時(実際は、それらがきちんと主張されていない時)、人はそのアイデアを考え出した権威に依存したままになる。彼もしくは彼女の膨れ上がったカリスマによって、思想家は留意されるのだ。不安な状態にいて、次の動きを切望するのだ。バトラーがその「考えるための方法」に従ったら、彼女はいったい何を言うだろう?教えてくださいよ、主体の行為能力(agency)がそれ自体の従属を前提とするということってどういう意味なんですか?(今までわたしが見たところにいると、この質問への明確な答えはいまだ現れそうもない)。人は、たいへん深淵な思索をおこなっているため、なにごとについても軽々しい表現をつかわない知識人だという印象をうける。そのためその人はその深みの畏敬のためにそれが最後にそうするために、待つのだ。

こういったやり方で、曖昧さはいかにも重要だというアウラをつくりだすのだ。それはまた他の関連する目的のためにも役立つ。曖昧さは読者をいためつける。いったい何が起こっているのかわからないのだから、読者はなにか重大なことが起こっているのにちがいない、なにかとっても複雑な思考が進行しているのだろうと思いこまされる。しかし実際には、そこにあるのはたいていはよく知られた考え、あるいは古くさい考えでしかな い。そしてそれはわれわれの理解になにか付け加えるには、あまりにもシンプルであまりにもぞんざいに述べられている。バトラーの本の痛めつけられた読者が勇敢にもそのように考えることを会得したなら、彼らはこれらの本の中の着想は薄っぺらいものであることがわかるだろう。バトラーの考えが明確に簡潔に述べられたなら、さまざまな対比や議論がなければ、それらは役立つものでないことがわかり、そしてそれらがとくに新しいものでないこともわかるだろう。それゆえ曖昧さは思考と議論の現実の複雑さの不足によって残された空虚を埋めているのだ。

昨年バトラーは、『哲学と文学』誌が後援する「今年の悪文」賞の最初の受賞者となった。受賞作を下に引こう。

資本が社会関係を比較的均一な方法で構築すると理解する構造主義の説明から、権力関係は反復、一体化、再分節に影響を受けるとするヘゲモニーの観点への移行は、時間に関する疑問を構造の思考にもたらした、そしてそれは構造的な全体性を理論的対象として扱うアルチュセールの理論のひとつの形態から、構造の偶然の可能性の洞察によって、新たにされたヘゲモニーの構想が、権力の再結合の偶然の場と戦略と密接な関係のあるものとされつつ、創始されるべつの形態への転換を特徴づけた。

さて、バトラーはこう書いてもよかった。「マルクス主義者の説明、すなわち社会関係を構築する中心的な力として資本に着目するものは、そのような権力の作動をすべての場所で均一であるかのように描いている。それに対して、アルチュセールの説明は、権力に焦点を合わせ、権力の作動を時によって移行し、変化に富むものとして把握している」と。むしろ、彼女は饒舌を好み、その饒舌は彼女の散文を判読するために読者の多大な努力を払わせ、読者を主張の正しさを判定するためにほとんど気力が残らない状態にしてしまう。受賞発表の際、機関紙の編集者は、「おそらく不安を引き起こすようなこのような記述の曖昧さが、南オレゴン大学のウォレン・ヘッジズ教授をしてジュディス・バトラーを『おそらくは地球上でもっとも頭のいい十人のうちの一人』と評せしめたのだろう」と発言している。(このように偶然にもひどい作文というのは、決してジュディス・バトラーが関わっている「クィア・セオリー」の理論家たちによくあるというわけではない。たとえば、デイビッド・ハルペリンはフーコーとカントの関係と、ギリシャの同性愛について、哲学的な明確さと、正確な歴史的事実でもって、書いている。)

バトラーは哲学者であることによって、文学研究の世界で威厳を得ている。多くの崇拝者が彼女の文章の書き方を哲学的な深淵と結びつけている。しかし人は結局のところそれが、詭弁法や修辞法という近しいが敵対する伝統よりも、ほんとうに哲学的伝統に属しているのかどうかを問うべきである。ソクラテスが雄弁家やソフィストがやっていることから、哲学を区別して以来、それはいかなる反啓蒙主義的な手先の早業を抜きにした議論と反論をやりとりする等しい人びとの談話となってきたのだ。このやり方では、ソクラテスが断固として主張するには、哲学は魂への配慮を示すのであり、一方で他の人を巧みに操る手法は、無礼を示すだけである。ある午後、長い飛行機の旅の途上、バトラーに疲れ果てて、わたしはパーソナル・アイデンティティに対するヒュームの見地に関する学生の論文草稿を見始めた。わたしはすぐにわたしの魂が復調してきたのを感じた。彼女は明確には書いていなかったが、わたしは考えた。楽しみつつ、ちょっと誇りもあった。そしてヒューム、なんと素晴らしい、なんと丁重な魂だろう。何と気立てのよく、読者の知性を配慮してくれていることだろう、みずからが確信のないことをさらすという代償さえ払っても。

III

バトラーの主要な着想は、ジェンダーは社会的な作りものであるというもので、それは1989年に『ジェンダートラブル』で最初に発表されてから彼女の本のいたるところで繰り返されている。なにが女性で、なにが男性かというわたしたちの認識は自然の中に永久に存在するなにかを反映しているということはまったくない。その代わりに、それらは権力の社会関係を埋め込んだ慣習に由来しているのだ。

もちろん、この考えには新しいことはなにもない。ジェンダーの脱自然化はとっくにプラトンにも見られ、そしてジョン・スチュアート・ミルの議論によって後押しされた。ミルは『女性の解放』(1861=1957訳)で「現在女性の本性と言われているものは、まったく人工的なものだ」と主張している。ミルは「女性の本性」に関する主張が権力のヒエラルキーに由来し、そして支えられていると考えた。女性を隷属させるのに役立つものはなんでも、女らしさとされているのだ。つまりは、ミルが言ったように、「女性の精神を隷属させる」ようになっているのだ。封建主義と同様、家族とともに、本性のレトリックは、それじたい隷属の原因として役立つ。「女性の男性への隷属は普遍的な慣習であり、それがどのような逸脱も当然のように不自然にするのだ。しかし、これまで支配力をもつ人々にとって自然に映らないような支配などといったものがあるだろうか?」

ミルは最初の社会構築主義者ではまったくないだろう。怒り、強欲、ねたみ、そして私たちの人生の他の目立った特徴についての同じような構想は、古代ギリシアからの哲学の歴史の中にありふれたものである。またミルの社会構築というよくある考えのジェンダーへの応用はさらなる豊かな発展を必要だし、いまだ必要としている。彼の示唆的な発言はジェンダーの理論にはなっていなかった。バトラーが姿を現すずっと前に、多くのフェミニストたちはこのような説明を明瞭にすることに貢献していたのだ。

1970年代から1980年代に発表した論文のなかで、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、性役割の伝統的な理解は公的領域における男性の支配に加えて、性的領域における支配をを続けることを確実にするやり方だと論じた。彼女たちはミルの洞察の核をヴィクトリア朝時代の哲学者がそれに関してほとんど言っていない生活の一領域に持ち込んだ。(もっとも何も言っていないというわけではない。1869年にミルはすでに婚姻内のレイプを刑事罰の対象にできないことは、女性を男性用のツールとし、また彼女の人間としての尊厳を否定することだと理解していた。)バトラー以前に、マッキノンとドウォーキンはフェミニストの幻想に立ち向かっており、それは女性の牧歌的な自然のセクシュアリティが「解放される」必要があるというものだった。彼らは社会的な力はとても深くいきわたっているために、わたしたちは「本性」という考えを利用できるなどと、想定してはならないと論じた。バトラー以前に、彼らは男性が支配している権力の構造は女性を周縁化し、隷属させているだけではなく、同性の関係を選びたいとしている人びとも周辺化し隷属させているのだということも強調した。マッキノンとドゥオーキンは、ゲイやレズビアンに対する差別は、よくあるヒエラルー的に秩序づけられた性役割を強制するものであることを理解していた。それゆえ彼らはゲイやレズビアンに対する差別も、性差別の一形態として把握していたのだ。

バトラー以前に、心理学者のチョドロウがどのようにジェンダー差が世代を超えて複製されているか、についての詳細で説得力のある説明をした。彼女は、こうした複製のメカニズムが遍在していることから、人工的なものなのがほぼ遍在しているのだということが理解できるようになる、と論じている。バトラー以前に、生物学者の、アン・ファウスト・スターリングは、慣習的なジェンダー差の自然さを擁護するとされている実験研究の綿密な批判を通して、社会的な権力関係が科学者の客観性を危うくしていることを示した。『ジェンダーの神話』は彼女が当時の生物学で発見したことへの適切なタイトルであった。(他の生物学者や霊長類研究者もこの企てに貢献している。)バトラー以前に、政治理論家のスーザン・モラー・オーキンは、家庭における女性のジェンダー化された宿命をつくりあげる上で、法と政治思想がどのような役割を果たしているかを探究した。そしてこのプロジェクトも、法と政治哲学で多数のフェミニストによってさらに推し進められている。バトラー以前に、ゲイル・ルービンの『女たちによる交通』での従属に関する重要な人類学的説明は、ジェンダーの社会組織と権力の非対称性の間の関係について有益な分析を提供した。

じゃあバトラーの研究はこの豊饒な論文群にいったいなにを付け足したのだろうか?『ジェンダー・トラブル』と『問題なのは身体だ』〔未邦訳〕は、生物学的な「自然な」性差の主張に対してもまったくなにも詳しい議論を含んでいないし、ジェンダー複製の機構の説明もなく、家族の法的な形成についての説明もなく、それどころか法改正の可能性については詳しくはまったくふれられていない。それでは、バトラーは、これまでのフェミニストの論文では十分になさていないような何かを提示したのだろうか?それは何だろうか?比較的独自の主張の一つは、わたしたちがジェンダー差の人工性を認識し、それらが独立した自然的な事実の表現であると考えるのを控える時、わたしたちは同時にジェンダータイプが、三つや五つやあるいは不定の多数ではよくなく、それが二つである(ふたつの生物学的な性と相関連して)ということに従わざるをえない理由など、どこにもないことを知る。バトラーはこう書いている。「構築されたジェンダーの身分が本質的に生物学的な性から根本的に独立に理論化されるのであれば、ジェンダーそれじたいは自由に浮遊するごまかしとなる」。

バトラーにとって、この主張からは、わたしたちは自由に好きなようにジェンダーをつくりかえられるのだという意味ではない。それどころか、わたしたちの自由にはきびしい制限があると彼女は考えるのだ。彼女の主張によれば、「社会の背後に手つかずの自己なるものがあって、社会をとりさってみれば、いつでも純粋無垢で解放された姿が現れるだろう」などとウブな想像をするべきではないのだ。「〔社会と〕一体化する前に自我があるわけでもなく,さまざまな力がぶつかり合うこの文化的な場に参入する前から「〔1人の人間としての〕一体性」を保持している人などいない。できるのはただ〔すでにある〕ツールをそこにある場で取り上げるしかないのだ、そして「とりあげる」その場はツールそのものによって可能にされているのだ」と。しかしながら、バトラーは、古いカテゴリーの上手なパロディーによって、わたしたちはある意味新しいカテゴリーをつくることができると主張する。それゆえ彼女のもっとも知られた着想は、パロディー的なパフォーマンスとしての政治という構想であり、それは、(きびしく制約された)自由という感覚から生じており、さらにこの感覚は、人のジェンダーについての考え方は生物学的というよりは社会的な力によって形づくられてきたのだ、ということを認めることから来ている。わたしたちは、わたしたちが生まれおちた権力の構造の反復をするよう運命づけられているが、しかし少なくともそれらを笑いものにすることはできるのだ。そして笑いものにすることのいくつかはもともとの規範への転覆的な攻撃となるのだ。

ジェンダーがパフォーマンスであるという着想はバトラーのもっとも有名な着想であり、そしてより詳しく精査するために、しばし立ち止まって、もっと詳しく検討してみる価値がある。彼女はその考えを直観的に『ジェンダー・トラブル』で導入しており、理論的にはなにも前例を引き合いに出していない。後に彼女は、彼女が演劇のようなパフォーマンスに言及していたということを否定し、そしてその代わりに彼女の考えを『言語と行為』におけるオースティンの言語行為の説明に関連づけている。オースティンが言う「遂行発話」の言語学的な範疇は、言葉の発話の一範疇で、それじたいが単独で主張ではなく行為として機能するものを指す。わたしが(適切な社会的状況で)「10ドル賭けるよ」か「ごめんなさい」か「誓います」(結婚式において)もしくは「この船に~と名づける」と発言する時、わたしは賭けること、謝罪すること、結婚すること、もしくは命名の儀式を報告しているのではなくて、それを行っているのだ。

ジェンダーについてのバトラーの同じような主張は自明のことではない、なぜなら問題となっている「遂行発話」は言語に加えてジェスチャー、服装、動き、そして行為を伴うからだ。オースティンの主張は、ある特定の種類の文のかなり専門的な分析に制限されているのだから、彼女の着想を発展させるのに実際べつだん役に立たないものだ。それどころか、彼女は彼女の見地を劇場と結び付ける読みを断固として拒絶しているとはいえ、けれどもオースティンについて考えることよりも、ジェンダーに関する「リヴィング・シアター」の転覆的な作品について考えることは、はるかに彼女の着想をはっきりさせているように見える。

またバトラーのオースティンの扱いもあまり信頼できるものではない。彼女は奇怪な主張をしている。オースティンの文章のなかで、結婚式が遂行発話の数多い例の一つとなっていることは、「社会的絆の異性愛化は、名付けるということそのものを生じさせるという言語行為の典型的形態なのである」というものである。まさか!結婚というのは、賭けること、船に名前を付けること、約束すること、謝ることと同程度にオースティンの典型例となっているにすぎない。彼はある種の発言の形式的特徴に興味を持ち、そして彼の主張にそれらの発言の内容が重要性を持つと仮定する理由はわたしたちにまったく与えられてない。哲学者のありふれた例の選択に地を揺るがすかのような重要性をみるというのはたいてい誤りなのだ。実践的三段論法の解説にアリストテレスがよく例の低脂肪食を使うからと言って、鶏肉がアリストテレスの考える美徳の中心をなしているのではないか、などと考えるべきだろうか?もしくは、ロールズが実践的推論を解説するのに旅程を持ち出しているからと言って、「これをみれば『正義論』の狙いが私たちみんなに休暇旅行を与えることにあるとわかる」などと言うべきだろうか?

これらの奇妙なことは置くとして、バトラーの主眼はおそらくこれであろう。すなわち、ジェンダー化された仕方で行為し話す時、わたしたちはたんに世界にすでに定着した物事を報告しているだけでなく、わたしたちはさかんにそれを構成し、複製し、強化しているのだ。まるで男性や女性の「本性」があるかのように振る舞うことで、わたしたちはともにこれらの本性が存在する社会的虚構をともにつくりあげているのだ。男性や女性の本性などといったものは、我らの行いを離れては存在しない。わたしたちは、つねにそれがそこに存在するようにしているのである。と同時に、少し異なるやり方でこれらのパフォーマンスを行うことによって、すなわちパロディーのやり方で行うことによって、わたしたちはおそらくほんのちょっと壊すことができるのだ。

それゆえ、ヒエラルキーによって拘束されている世界の中で、行為能力(agency)が発現できるのは、性役割が形作られる瞬間たびに、その性役割に反対する小さな機会の中だけなのだ。わたしが女性らしさを行っていると分かった時、それをひっくり返し、あざけって、ちょっと違った仕方でやることができるのだ。バトラーの見方では、そのような反応的な発されたパロディーのパフォーマンスというのは、より大きな規模なシステムを決して揺るがすことはない。彼女は抵抗のための大規模行動や政治改革のためのキャンペーンをもくろんでいない。良くわかっている、ほんの少しの演技者によって行われる個人的行為だけを見据えているのだ。まるで下手な脚本をあてられた役者が悪いセリフを奇妙に言うことによって、脚本を転覆することができるように、ジェンダーについても同じなのだ。脚本は悪いままであるが、役者にはほんの少しの自由があるのだ。それゆえ、バトラーが『触発する言葉』で言うところの「アイロニックな楽観」への基盤をもっているのだ。

ここまでのところ、バトラーの主張は、比較的ありふれたものであるのだが、もっともらしく興味深くさえある。もっとも読者は、変革の可能性についてのバトラーの狭い見方に不安になるだろうが。しかしながら、バトラーはこれらのジェンダーに関するもっともらしい主張に、二つのより強くそしてより論争的な主張を付け加える。第一は、自我をつくりだす社会的力に先だってもしくは背後に行為能力(agency)は存在しないということだ。もしこのことが赤ちゃんはジェンダー化した世界に生まれおち、その世界では瞬時に男性と女性が複製され始めるものなのだとしたら、この主張はもっともらしい、しかし驚くべきものではない。ずいぶん前から実験によって、赤ちゃんが抱かれたり話しかけられる仕方や彼らの感情が説明される仕方が、大人が信じている赤ちゃんの生物学的性によって形作られている、示している。(同じ赤ちゃんが、男の子だと大人によって信じられた時は、弾むようにあやされ、女の子だと大人によって信じられた時は、抱きしめられる。赤ちゃんが泣いている時、女の子だと考えられているときは、怖がっているのだと説明され、男の子だと考えられているときは、怒っているのだと説明される。)バトラーはこれらの経験的な事実にまったく興味を示さない、が経験的な事実は彼女の主張を擁護するのだが。

しかし、もし赤ちゃんが、まったく自力で活動できなず、ジェンダー化された社会での赤ちゃんの経験にある意味で先行する傾向も、能力もなにも持たばない状態で生まれて来るということを、彼女が意味しているのであれば、これはまったくもっともらしいことでなく、経験的に裏付けることは難しい。バトラーはそのような裏付けを与えず、形而上学的抽象の高みから降りてこようとはしないのだ。(それどころか、彼女は最近のフロイトに関する論文でこうした考えを否定さえしているようである。フロイトを用いて、最低限ある前社会的な衝動と傾向があるということがその文章によって示唆されているが、いつも通り、この思考方針は明確に発展されていない。)さらに、そのように誇張された前文化的な行為能力(agency)の否定は、チョドロウたちが、良い方向への文化的な変化を説明しようとした時、用いたリソースの幾分かを捨て去ってしまっている。

バトラーは結局、わたしたちは行為能力(agency)の一種を持っていて、その行為能力(agency)とは変革と抵抗を行う能力なのだと言いたいはずだ。しかしながら、もし、パーソナリティーのなかに、まったく権力の生産物ではない構造などないとしたら、いったいその能力とはどこから来たのか?バトラーにとってこの質問に答えるのは不可能ではないだろう。しかし、今までのところ、人間は最低限ある前文化的な欲望――食への、快適さへの、認識の熟達への、生存への欲求――を持っており、またパーソナリティにおけるこうした構造は道徳的政治的行為能力(agency)としてのわたしたちの発達の説明に極めて重大だと信じる人びとを納得させるようなやり方では、もちろん彼女は答えていない。読者はそのような見方のもっとも強力な形態にバトラーが取り組むのを見たいと思い、そして、明確に専門用語抜きで、彼女がそれらをなぜ、どのように拒絶するのか、何を言うのか聞きたいだろう。人は現実の幼児について彼女が語ることを聞きたいだろう。幼児はその誕生から、文化の型の反復に影響を与える、奮闘の構造を明示しているように見えるのだから。

バトラーの二つ目の強力な主張は、身体それ自体、そしてとくにふたつの生物学的な性の区別もまた社会的構築なのだ、というものだ。彼女は男性と女性がどうあるべきかという社会規範によってさまざまに身体が形作られているということだけを言っているのではない。彼女は生物学的な性のふたつに分割することが基礎的であって、社会を順序立てる鍵とされているという事実自体が、身体の現実によっては与えられない社会的な考えであるということをということも言っているのだ。ではこの主張はなにを意味し、そしてどのくらいもっともらしいのか?

フーコーの両性具有研究についてバトラーが簡単に触れているところでは、人がその箱にはまろうとはまるまいと、すべての人間をこれか、その箱に分類しようという社会の心配性のこだわりをわたしたちに示してくれる。しかし、もちろん、それは多くの確定できない例があることを示しはしない。さまざまな多くの身体類型をもっていてもよかったのではないか、必ずしも男女の二分法をもっとも目立ったものとして採用する必要はなかったのではないか、と彼女が主張するのは正しい。そしてだいたいにおいて、彼女が科学的研究に則ったとされる生物学的な身体的な性差の主張は文化的偏見の投影だと主張することも正しい。しかしながら、バトラーは、ファウスト・スターリングの綿密な生物学的分析と同じくらい説得力のあるものを示せていない。

しかし、権力が身体のすべてだ、と言い切るのは単純すぎる。わたしたちは鳥の、恐竜の、ライオンの身体を持っていてもよかったかもしれない、しかし現実にはそうではない。そしてそうではないということがわたしたちの選択を形づけているのだ。文化はわたしたちの身体存在のある側面を形作ったり、また再び形作ったりすることができる。しかし、すべての側面を形作るというわけではないのだ。「飢えと渇きで苦しんでいる人に、議論と信念によってその人がそれほど苦しんでいないと思わせるのは不可能だ」と昔セクストゥス・エンピリクスが述べている。このことはフェミニズムにとっても重要な事実である。なぜなら、女性の栄養に関する需要(そして妊娠時と授乳期の特別な需要)はフェミニストの重要なトピックであるからだ。性差が問題になっている時さえ、すべてを文化だと書き捨てるのはもちろん単純が過ぎている。またフェミニストはそのようなすべてを一気に掃きすてるような身ぶりをすべきではない。たとえば、走ったりバスケットボールをしたりする女性は、男性支配による想定の産物である女性の運動能力に関する神話の打破を喜んで迎えたのは正しかった。しかし彼女たちは女性の身体に特化した研究を要求したのも正しかった。そうした研究は女性のトレーニングに関する必要と故障に関するよりよい理解を醸成してきている。要するに、フェミニズムが求めそして時々に得てきたものは身体的な差と文化的な構築の相互作用のきめこまやかな研究なのだ。そしてバトラーのすべての問題から高くとまっている抽象的な見解は、わたしたちが求めていることを一つももたらさない。

IV

ここまで見てきたバトラーのいちばん興味深い主張を、仮に受け入れたとしよう。それは、ジェンダーの社会的構造が遍在しているが、転覆的なまたパロディー的な行為によってそれに抵抗できるというものだ。しかしふたつの重要な問いが残る。なにが抵抗されるべきなのか、そしてどういう根拠で抵抗されるべきなのか?抵抗の行為というのは、いったいどのようなものなのか、そしてそれらを達成したらなにが起こると期待してよいのだろうか?

バトラーは、悪いものであって、抵抗する価値があると彼女が考えているものについていくつかの単語を使っている。例えば、「抑圧的な」もの、「従属させること」、「圧迫的な」ものである。しかし彼女は、例えば、バリー・アダムの魅力的な社会学的研究に見られるような抵抗の経験的な議論をなにも提出しない。そう、アダムが『支配の存続』(1978)〔未邦訳〕において、黒人、ユダヤ人、女性そしてゲイやレズビアンの従属と彼らを圧迫する社会権力の諸形態態と格闘する方法を探究したような論は。そしてわたしたちの手助けとなる抵抗や圧迫の概念を全く説明しないため、わたしたちはまったくもってなにに抵抗すべきなのかわからなくなる。

この点について、バトラーは彼女以前の社会構築主義のフェミニストとは、たもとを分かつことになる。初期の社会構築主義のフェミニストは、非階層性、平等、尊厳、自律、といった概念を使い、現実の政治の目標を示すために、それらの概念を手段というよりも目標として扱ったのだ。彼女はいかなる積極的な規範的考えも練り上げようとしない。それどころか、フーコーと同様バトラーは、本質的に専制的だ、という理由で人間の尊厳のような規範的概念や、人間性を目標として扱うことに断固として反対するのだ。彼女の見方では、わたしたちは、政治的な尽力に参加する人たちに「こうするべき」と規範を示すよりも、そうした政治的な尽力からおのずともたらされるものを座して待てばいい、ということになる。彼女が言うには、普遍的なそして規範的な概念は、「同じものというしるしのもとに植民地化する」のだ。

結果を座して待つという考え方――言いかえれば、この道徳的無抵抗――はバトラーにおいては、もっともなように見える。なぜなら、彼女は暗黙のうちに、なにが悪いのか――ゲイとレズビアンに対する差別、そして女性の不公平でヒエラルキー的な扱い――について(いちおう)一致し、なぜそれらが悪いのか(というようなこと)についてさえ一致する、同じ考えを持つ読者を想定しているからだ(その悪いとされる考えとは、ある人を他の人びとに従属させ、そしてその人たちが持っているべき自由を享受させないということである)。しかしこの想定をとりさってみると、規範的側面の不在は重大な問題となる。

わたしがしているように、現代の法科大学院でフーコーを教えてみればよい。そうすればすぐに、転覆というのがさまざまな形態をとることが分かるだろう。転覆のすべての形態が、バトラーとその支持者に友好的というわけではない。察しの良いリバタリアンの生徒が言ったように、「わたしはなぜこれらの着想を税制に抵抗するために、あるいは反差別法に抵抗するために、またおそらく市民ミリシアに参加することにさえも用いられないのか?」そこまで自由を好まない人は、クラスでフェミニストの発言をばかにするという転覆的なパフォーマンスを行うことができるし、レズビアンとゲイの法学生組織のポスターを引きちぎるという転覆的なパフォーマンスを行うこともできる。これらのことは実際に起こっている。それらはパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、彼らは大胆不敵で良い、というわけではないのだろうか?

さて、バトラーやフーコーには見ることのできない、それらの問いへのすばらしい答がある。こうした問いにこたえるためには、人間が持つべき自由と機会に関する議論を要し、そして、手段としてではなく目的として人間を扱うというのは、社会制度にとってどういうことなのか、ということに関する議論も要する。手短に言えば、社会正義と人間の尊厳に関する規範的な理論が議論されるべき。わたしたちの普遍的な規範に謙虚であり、圧迫された人びとの経験から学ぶべきだと言うことと、わたしたちはいかなる規範もまったく必要としない、と言うのはとてつもなくかけ離れたことである。バトラーとは違ってフーコーは、すくなくとも後期の論文においてこの問題をつかんでいた兆候を示している。そして彼の論考は、社会的な圧迫の本質とそれが与える害についての熾烈な感覚によって駆り立てられている。

考えてみてほしい、人格的な徳として理解される正義は、バトラー的な分析においてぴったりジェンダーとおなじ構造を持っている。それは生まれながらのものでも、「自然な」ものでもない。それは反復されるパフォーマンスによってつくりだされ(またはアリストテレスが言ったように、わたしたちは徳を行うことによって、徳を修得するのである)、そしてそれはわたしたちの傾向性を形作り、また一部の傾向性の抑圧を強要するのだ。これらの儀式的なパフォーマンスとそれらに付随する抑圧は社会的権力の取り決めによって施行されるのだ。遊び場を一人占めしたい子どもがすぐわかることだ。それに、正義のパロディー的な転覆は、個人的な生活でもそうであるように、政治のいたるところにある。しかし重要な違いがそこにはある。一般的にわたしたちはこのような転覆的なパフォーマンスを嫌い、そしてわたしたちは、若い人びとがそのようなシニカルな見方で正義という規範を理解するようには推奨されるべきではないと考えている。バトラーは規範としての正義の転覆が社会的な悪である一方、なぜジェンダー規範の転覆が社会的な善であるのかということを、純粋に構造的もしくは手続きに則ったやり方で説明できない。わたしたちは覚えておくべきなのだが、フーコーはホメイニを応援した、なぜいけないことがあろうか?ホメイニの革命は、もちろん抵抗であり、そしてまったくのところそのような抵抗が、市民権と市民的自由への闘争より価値がないと、われわれに告げることは、フーコーのテクストのどこにもないのだ。

それゆえ、バトラーの政治の考えの中心は、空虚がある。この空虚さは人びとを解放してくれるもののようにみえる。なぜなら、読者が暗黙のうちに人間の平等や人間の尊厳の規範的な理論によって、その空虚さを埋めるからだ。しかし間違いは一つも残さないようにしておこう。フーコー同様、バトラーにとって、転覆は転覆なのであり、そしてそれは原則としてどの方向に行くこともできるのだ。それどころか、バトラーのあまりに単純で中身のない政治は彼女が奉じているまさにその大義ゆえに、とても危険なのである。バトラーのお友だちは、抑圧的な異性愛の性的規範を公然と非難する転覆的なパフォーマンスに従事したがるが、納税順守の規範から、反差別の規範から、仲間の学生のまともな扱いから逃避する転覆的なパフォーマンスに従事したいと思っている人はバトラーのお友だち以上にもっとたくさんいるのだ。そのような人びとへ向けて、わたしたちは何が悪いかを示す、公正さ、品位、尊厳という規範があるために、単純にあなたがしたいように抵抗することはできないのだと言うべきである。しかしそれゆえに、わたしたちはそれらの規範をはっきりと表現しなければならない。そしてこれがバトラーが拒否しているものなのだ。

V

バトラーが転覆を勧める時、正確にはいったい何を提示しているのだろうか?彼女は我々にパロディー的なパフォーマンスに携わるようにと告げるが、同時に彼女は抑圧的な構造から完全に逃げるという夢はやっぱり夢なのだなのだとわたしたちに警告している。わたしたちが抵抗のためのほんのわずかの空き地を見つけなければいけないのは、抑圧的な構造の中にであり、またこの抵抗では全体的な状況の変革を望むことができないのだ。そしてここに危険な無抵抗主義がある。

もしバトラーがただ生物学的性がまったく重要な問題を生じさせない牧歌的な世界を空想する危険性を警告しているだけなのだとしたら、それは賢明なことだ。しかし頻繁に彼女はさらなる言及をする。彼女はわたしたちの社会において、レズビアンやゲイ男性の周縁化し、女性に対するいまだ途切れない不表どうを保障している制度的な構造が根本的に変化することは決してないと示唆するのである。ゆえに、わたしたちの最善の策は、それらをあざけり、そしてそれらの内部に個人的な自由を味わえるちょっとした場所を作りあげることだけなのだ。「侮辱的な名前で呼ばれて、わたしは社会的な存在になる、そしてわたしの存在にある種のさけえない愛着を抱いているがために、ある種のナルシシズムが、存在を与えてくれる言葉をすべて捉えてしまうので、わたしを社会的に構成してくれるがゆえに、わたしを傷つける用語を受け入れるようになる」と。言いかえてみよう:わたしは自分に屈辱を与える構造から逃れでるいことができない。そうしようとすれば、自分が存在しなくなってしまう。わたしができる最善のことは、からかうことであり、人を従属させようとする言葉を皮肉な仕方で使うことだ。バトラーにおいて、抵抗とはつねに個人のこと、およそ私的なことであり、皮肉などふくまない真面目な、法的、制度的変革への組織だった公的な活動はまったく含まないものとして想像されているのである。

これは、奴隷に向かって、奴隷制は決してなくなることはないが、奴隷であるあなたは奴隷制をあざけったり転覆するやり方を得ることができ、それらの綿密に制限された抵抗の行為の中で個人の自由を得ることができるというのと、似ていることではないのか?しかしながら、奴隷制は変革することができ、実際に変革されたというのが事実である。それを行った人はバトラーのような可能性の見地に立つ人ではない。奴隷制を変えることができたのは、人びとがパロディー的なパフォーマンスに満足しなかったからである。彼らは社会的な大変動を要求し、そしてある程度それを得たのである。また女性の人生を形作る制度的な構造が変化してきているというのも事実である。いまだに欠陥はあるが、レイプに関する法は少なくとも改善してきている。セクシュアル・ハラスメントに関する法は、以前は存在しなかったが、今は存在している。婚姻は、女性の身体に対する専制君主的な支配を男性にもたらすとはもはやみなされなくなった。これらのことは自分たちの解決策としてパロディー的なパフォーマンスを取らないだろうフェミニストたちによって変革されてきた。変革を成し遂げたフェミニストたちは権力が悪しきものである場合に、それは権力は正義の前に屈するべきだし、屈するであろうと考えていたのだ。

バトラーはそのような望みを控えるだけでなく、彼女はその不可能性を好むのだ。彼女はいわゆる権力の不動性を夢想することに楽しみを見出し、そして彼女はそのような状態にあるべきだと説得された奴隷の儀式的な転覆を想像する。彼女はわたしたちにこういう。わたしたちは全員、わたしたちを抑圧する権力構造をエロチックにしており、そしてそれゆえわたしたちは権力構造の中でのみ性的快楽をえることができるのだと――これらは『権力の心的な生』の中心的な主張にあるものである。これらゆえに、彼女は持続的な具体的または制度的な変革よりも、パロディー的なセクシーな転覆的行為を好んでいるようにみえる。現実の変革は、性的な満足を不可能にしてしまうほど、わたしたちの精神の根っこを掘り起こしてしまうのだ。わたしたちのリビドーは悪く隷属させる力の産物であり、それゆえ必然的に構造においてサドマゾヒスト的なのである。

さて、転覆的なパフォーマンスはそれほど悪いものでないかもしれない。もしあなたがリベラルな大学で有力な終身雇用資格を得た学者ならの話だが。しかし象徴的なものの重視、すなわち、バトラーの尊大な生活の物質面の無視が、致命的な無知になるのがこの点である。腹をすかせ、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされている女性にとって、それがどれほどパロディー的であったとしても、飢え、読み書きもできず、選挙権も持たず、打たれ、レイプされるという状況を再現することは、魅力的なことでも、解放することでもない。そのような女性は、食料、学校、投票そして、自分の身体の一体性を選ぶ。彼女らが、サドマゾヒスト的に悪い状態に戻ることを切望していると信じる理由は一つもない。もし従属・非従属関係の性的魅力なしに生きることができない個人がいるとしても、哀しいことに思えるが、それはわたしたちの関与すべき問題ではない。しかし、絶望的な状態にある女性たちに向かって有名な理論家が、人生は彼らに束縛を与えるだけであると伝えたならば、彼女は無慈悲な嘘を伝えている。邪悪さにこびへつらう嘘を伝えているのであり、その邪悪さに実際以上の権力を与えてしまっているのだ。

〔本論が書かれた当時の〕バトラーのもっとも最近の著作である『触発する言葉』では、ポルノグラフィとヘイトスピーチを含む法的論争についての彼女の分析が提出されている。その本では、正確に彼女の無抵抗主義がどこまで拡張されたのかを正確に示してくれている。なぜなら彼女は法的変革が可能で、それがすでに実際におこなわれているときに、わたしたちは法的改革がなくなるのを祈念すべきであるとすすんで言おうとするのだ。それは抑圧された人々がサドマゾヒスティックなパロディーの儀式を演ずるための空間を保持しておくために。

言論の自由に関する論考として、『触発する言葉』は良心のかけらもなく、ひどい本である。バトラーは修正第一条に関する主要な理論的説明にまったく意識を払わないし、言論の自由に関する理論が考慮すべき幅広い判例についても同様である。彼女は法的に馬鹿げた主張をする。例えば、彼女は言論において保護されないとされている唯一の言論形態は、以前から言論というよりは行為として規定されている言論だと述べている。(実際のところ、さまざまな言論があるのだ。これらの言論形態とは、嘘や誤解を招きかねない広告から、名誉毀損、そして現在わいせつなものとして規定されている表現などである。これらはそれにもかかわらず、修正第一条の保護を認められていないのだ)。バトラーは、わいせつな表現は「けんか言葉」と同等のものとして判断されてきたとさえと誤った主張をする。バトラーは、修正第一条の対象とされるべき、現在保護されていないさまざまな言論についての新しい読みを提示するが、バトラーがそれらを裏付ける主張を持っているわけではないのだ。彼女は、様々な判例があること、もしくは彼女の見地が広く受容されている法的な見地ではないということに気が付いていないだけなのだ。法に興味のある人で彼女の議論をまともに受け取る人はいないだろう。

しかしとにかくヘイトスピーチとポルノグラフィに関する議論からバトラーの立場の核を取り出してみよう。それはこうである。ヘイトスピーチとポルノグラフィの法的な禁止は、問題がある(結局、彼女は明確にそれらに反対しているというわけではないのだが)。なぜなら、そのような言論によって傷つけられた人びとが、抵抗を行うことができるような場を狭めるからというものである。このことによって、バトラーは違反が法的なシステムによって対処されるであれば、非公式的な抗議のための機会がその分少なくなると訴えているように見える。そしておそらく、違反がその違法性のために珍しくなれば、わたしたちがその存在に抗議する機会が少なくなってしまうと訴えているのだ。

さて、それはそうだろう。たしかに法律は抵抗する場を狭めることになる。ヘイトスピーチとポルノグラフィは特に込み入った主題であり、フェミニストたちが意見を異にするのは無理もない(それでも、自らの主張と対立する見地について、人は正確に述べるべきである。バトラーによるマッキノンの説明は丁寧になされているとは言い難い。バトラーはマッキノンが「ポルノ・グラフィーを禁止する条例」を支持していると言い、そしてマッキノンがはっきりと否定しているにもかかわらず、それが検閲の一形態を含むと示唆している。バトラーはマッキノンが実際に支持していることは、ポルノグラフィによって傷つけられた特定の女性たちはその製作者と、それの配給業者を訴えることができるとする、被害に対する民事賠償措置であるとどこにも書いていない)。

バトラーの論はヘイトスピーチとポルノグラフィの事例をはるかに超えた含意を持っている。それはたんにこれらの領域において無抵抗主義を支持するのではなく、より一般的な法的無抵抗主義を――それどころか、ラディカルなリバタリアニズムを――支持しているようである。つまりこういうことなのだ。すべてのものを廃止しよう。建築基準法から、反差別法から、レイプ法まで。なぜってそれらは被害を受けた借家人や差別の被害者、そしてレイプされた女性が彼らの抵抗を行うことができる空間を狭めてしまうから。さて、これは、ラディカルなリバタリアンが建築基準法や、反差別法に反対するために使う議論と同じものではない。リバタリアンでさえ、レイプ法の一歩手前で線引きをしているのだ。しかし、〔バトラーとリバタリアンの〕結論は近づいている。

もし万が一バトラーが自らの議論は言論だけに関連しているのだと返答したら(そしてバトラーが有害な言論と行為を同じものとしていることを考えてみれば、そのような制限ができるという理由はバトラーのテクストには一つもない)、わたしたちは言論の分野で返答することができる。虚偽の広告と免許なしの医療に関する助言を禁じる法律を取り除いてみよう、なぜなら害された消費者と手足を切断された患者が抵抗を行うための空間を狭めてしまうから!さて、もしバトラーがこれらの拡張を承認しないのだとしたら、彼女はこれらの事例から彼女の事例を分かつ議論をする必要があり、そして彼女の立場が彼女にそのような区別を許すかどうかは定かではない。バトラーにとって転覆の行為はとてもうっとりするもので、とてもセクシーで、世界が実際によりよくなると考えるのは、悪夢なのである。なんと平等はつまらいのだろう!拘束がなければ、喜びなどない。このように、彼女の悲観的でエロティックな人間学は道徳観念のない無政府主義の政治を擁護するだけである。

VI

バトラーの論文に固有の無抵抗主義を考慮してみると、わたしたちはフェミニストの抵抗の模範例として、ドラァグと異性装にバトラーがなぜ魅了されているのかを理解するいくつかの手がかりを得る。バトラーの信奉者は彼女のドラァグについての説明が、そのようなパフォーマンスは女性が大胆にそして転覆的になるための方法であると示唆していると理解している。わたしはバトラーによってそのような読みが拒絶されたという試みを知らない。

しかしここではいったい何が起こっているのか?男性的に装った女性というのは新しい像ではない。それどころか、男装した女性が19世紀には比較的新しかったとしても、別の意味でずいぶん古くかった。なぜならば、そうした女性はたんにレズビアンの世界において現存する男性-女性社会のステレオタイプとヒエラルキーを複製していたからだ。こう尋ねてもいいだろう。いったいこうした領域でいったいなにがパロディー的転覆になっているのか、裕福な中産階級がそれを好んで受けいれているのはどういうことなのだろうか?ドラァグにおけるヒエラルキーとははやっぱりヒエラルキーではないのか?そして支配と従属は、女性がどのような領域でも果たさなければならない役割であり、そ従属してなければ、男性的に支配しているということになる、というのは実際のところ事実なのだろうか?

手短に述べれば、女性にとって異性装は使い古されてふるぼけた脚本――バトラー自身がわたしたちに述べるように――なのである。しかし、彼女はその脚本が、異性装者の抜け目ない象徴的な衣服に関する振るまいによって、転覆的で新しくされているということを、わたしたちにわからせてくれるかもしれない。しかしわたしたちは再びその新しさと、そして転覆性さえをも疑問に思わなければならない。安全でアカデミックな快適さ態度から発言する、アンドレア・ドウォーキンによる(彼女の小説『償い』における)バトラー的でパロディー的なフェミニストのパロディーを見てみよう。

悪いことが起きたという観念は教義のプロパガンダにすぎず、女の精神を萎縮させるものである。……女性の人生を理解するためには、快 楽や(時には)苦痛、選択や(時には)拘禁の中に隠された曖昧な要素があることを、絶対に見逃してはならない。私たちは、秘められた合図を見抜く目を養わ なければならないのだ。例えば洋服を見るとしても、洋服以上の意味、現代の対人関係の装飾とか、表面的な画一性の下に隠された反逆とかの意味を見抜かなけ ればならない。犠牲者なんてものは一切存在しないのだ。

バトラーの散文にほとんど似ていない散文の中で、この文章はバトラー風の文章のいくつかの想定上の筆者の両義性を捉えている。作者は、おなかをすかせ、文字も読めず、強姦され、打たれた女性の物質的な苦しみから、彼女の理論的な目を断固としてそむける一方で、冒涜的な実践に喜びを感じる。そこに犠牲者などはいない。ただ、合図が不足しているだけである。

バトラーは彼女の読者に、この現状の狡猾なものまねが人生が提示する抵抗のための唯一の脚本だと示唆する。それは残念ながらノーである。人生は、個人生活において人間らしくある多くの他の方法を提供しているし、そして伝統的な支配と屈従の規範を超えて、人生は多くの抵抗の脚本を提示する。そしてその抵抗は、個人の自己提示に自己陶酔的に焦点を合わせるわけではない。そのような脚本は、女性がじしんの身体をどう提示するか、そして女性の身体とジェンダー化された本性がどう提示されるかといったことをそれほど重視せずに、法律や制度を形成するフェミニストを(もちろん他の人も)含む。つまり、こうした脚本には、苦しんでいる人々のために働くということが含まれているのだ。

アメリカの新しいフェミニストの理論における最大の悲劇は、公的なコミットメントの感覚が失われたことだろう。この点では、バトラーの自己陶酔のフェミニズムはひじょうにアメリカ的であり、そしてバトラーがこの国でウケていることは、驚くことではない。アメリカは、成功した中産階級の人びとは、自己を陶冶することに焦点を置きたがり、他人の物質的状況を改善するようなかたちで思考することは好まれない。しかしながら、アメリカにおいてさえ、理論家たちが公共善に献身し、そしてその努力によって何かを成し遂げることは可能なのだ。

アメリカの多くのフェミニストはなお物質的な変革を援助する形で、またもっとも抑圧されている人びとの状況に答える形で理論化を行っている。しかしながら、だんだんと学界と文化的な傾向は、バトラーとその信奉者の理論化に代表される悲観的な浅薄さへ向かっている。バトラー的なフェミニズムは、さまざまな点で古いフェミニズムより手間いらずなものである。バトラー的なフェミニズムは大勢の若い才能のある女性たちに、彼女らは法律を改正すること、腹をすかせた人に食べさせること、物質的な政治に結び付けられた理論を通して権力を攻撃することに従事しなくていいと告げる。彼女らは大学内で安全に政治を行うことができるのだ。象徴的な水準にとどまりながら、言論とジェスチャーによって権力へ転覆的なジェスチャーをすることによって。これが、バトラー的な理論が言うには、政治的行動という手段によって、わたしたちに可能なまさにほとんどすべてなのであり、そして刺激的でセクシーではないか。ささやかだが、もちろん、これが望みのある政治なのだ。それはいますぐ自らの安全を犠牲にすることなく、なにか大胆なことができるのだと人びとに教授する。しかし、その大胆さというのは、すべてジェスチャーに関することなのだ。そしてこれらの象徴的なジェスチャーというのが、社会的な変革なのだと本当に示唆する限りにおいて、バトラーの理想はニセの望みを提示するだけだ。おなかをすかせた女性はこれによって満たされるわけではない、虐待された女性はこれによって保護されるわけではない、レイプされた女性はこれによって正義を実感するのではない、そしてゲイとレズビアンはこれによって法的な保護を達成するわけではない。

最終的に、朗らかなバトラー的な試みの中心には絶望がある。大きな望み、それは法や制度が平等とすべての市民の尊厳を守る、本物の正義が達成された世界への望みは、放逐され、おそらくは性的に退屈だとしてあざけられる。ジュディス・バトラーの瀟洒な無抵抗主義はアメリカで正義を実現する難しさへの反応としては理解できる。しかし、それは悪い反応である。それは邪悪さと協働している。フェミニズムはもっと多くのものを要求するのであり、女性はもっとよい扱いを受けるにに価するのだ。

[読書案内]

  • Butler, Judith, [1990] 1999, Gender Trouble, Routledge。(=ジュディス・バトラー、1999、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社。)
  • Butler, Judith, 1993, Bodies that Matter: On the Discursive Limits of “Sex”: Routledge.
  • Butler, Judith, 1997, Excitable Speech: A Politics of the Performative: Routledge.=(ジュディス・バトラー著、2004、竹村和子訳、『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店。)
  • Butler, Judith, 1997, The Psychic Life of Power: Theories in Subjection: Stanford University Press.(=ジュディス・バトラー、2012、佐藤嘉幸・清水知子訳、『権力の心的な生――主体化=服従化に関する諸理論』月曜社。)
  • Chodorow, Nancy, 1978, The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender: University of California Press.(=ナンシー・チョドロウ著、1981、大塚光子・大内菅子訳、『母親業の再生産』新曜社)
  • Dworkin, Andrea, 1900, Mercy: Arrow.(=アンドレア・ドゥオーキン、1993、寺沢みづほ訳、『贖い』青土社。)
  • Fausto-Sterling, Anne, [1985]1992, Myths Of Gender: Biological Theories About Women And Men, New York: Basic Books.(=アン・ファウスト・スターリング、1990、池上千寿子・根岸悦子訳、『ジェンダーの神話―「性差の科学」の偏見とトリック』 工作舎 。)
  • Mill, John Stuart, 1869, The Subjection of Women.(=ジョン・スチュアート・ミル、1957、大内兵衛・大内節子訳、『女性の解放』岩波書店。)
  • Rawls, John, [1971]1999, A Theory of Justice Revised Edition: Harvard University Press.=(ジョン・ロールズ、2010、川本隆史・福間聡・神島裕子訳、『正義論』紀伊国屋書店。)
  • Rubin, Gayle, 1975, The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex, in Rayna Reiter, ed., Toward an Anthropology of Women, New York: Monthly Review Press; also reprinted in Second Wave: A Feminist Reader and many other collections.=(ゲイル・ルービン、2000、長原豊訳、「女たちによる交通 性の 「政治経済学」 についてのノート」『現代思想 特集=ジェンダー 表象と暴力』青土社。)

チラシの裏:小宮青識論争観戦記

  • 他でけっこう長めの文章書いてしまったけど、要点だけ。
  • この論争がどういう文脈で生じているのかというのは難しい。問題のやりとりの前に、男女の性的行動の評価についての性差別についていろんな人がかなり長い間つぶやきをしていて、今となってはなにが文脈なのか判断できない。それぞれのツイッタラーが見ているツイートもそれぞれだろうし。だから文脈はそれぞれ。ただし、直接の問題になった瀬戸内快男児先生とjiji先生のやりとりのさらに直接のおおもとのsaebou先生の主張は王道セックスリバタリアンフェミニズムで問題がない。
  • それに対する瀬戸内快男児先生のツイートは「この人どうせ海外行ってなくて開き直りで反論してるだけでしょうが、日本男児として外国人の友人から「日本女はなぜに簡単にやらしてくれるのか?」と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。/ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
  • 一方、jiji先生のは「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。」「「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの」なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで「貞操観念をしっかり持ちましょう~」とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
  • 快男児先生のツイートの「日本人女は」がjiji先生のツイートでは「あなたの国の女性は」になっている。ここでちょっと引用のずれがあるのはアカデミックな人間は気づくべきだと思う。青識先生も小宮先生も平気でその語「あなたの国〜」や「貞操観念」という、友人の発言にはない言葉を使っていて、ここらへんは感心しない。「友人」の発言の意味みたいなものと、快男児先生のツイート全体の意図みたいなものは区別するべきだ。jiji先生と小宮先生は友人の発言が快男児先生に対する侮辱になっていると指摘するが、それは本当だろうか。
  • そもそも快男児先生の友人の外国人が本当に存在しているのか、本当にそういった会話があったのかは判断しがたい。「もし友人〜とたずねられたら困る」ぐらいの例かもしれない。その場合には、「侮辱されているのだ」と指摘するのは微妙な発言になる。もし〜と真顔で、つまり真剣にたずねられたらそれだけで当人に対する侮辱になるとすれば、人、あるいは男性は、関係者女性の性的行動の傾向について質問されただけで侮辱になると解釈せざるをえない。「真顔で」と付け加えることによって、快男児先生は冗談や侮辱であることを排除しているわけよね。それくらいは気をつかっている
  • 一方、仮にそうした会話が実際にあったとすれば、それは実際には外国語でおこなわれたものであるだろうし、その場合には訳語や表現の選択に快男児先生の(性差別的な?)解釈が入るのは当然。外国語でなくとも、会話のなかで他人の発言を引用するというのは本人の解釈がはいるものだ。
  • だからその快男児先生の友人がどういうことを言ったのか、どういう意図で言ったのか、(社会学者風にいえば)この質問行為の「意味」をどう理解するべきか、ということを判断するのはむずかしく、それだけで解釈するのはほとんど無理、というかあんまり意味がないと見るのがまともな判断だと思う。1)【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
  • そういうのは社会学や会話分析やエスノメソドロジーの専門家だけでなく、なにかの研究者ならまっさきに意識することだろうと思う。それを意図的に指摘しないのなら専門家として誠実ではないと判断されてもしょうがないかもしれず、またそれを意識しなかったのなら専門家としての資格に問題があるかもしれない。このままだと社会学者信頼ポイントがマイナスされてなってしまうし、そして大学関係の人間が誰も指摘しないのなら大学系ツッタラー全員の信頼ポイントがマイナスされてしまうくらい。だから私これ書かないとならない。
  • それはさておき、「なぜ日本の女性は性的に活発なのか」程度のことを「真顔で」質問するという状況は、性差別と関係なくあるかもしれず、それが性差別的な発言かどうかは判断が難しいと思われる。
  • さて、jiji先生の、快男児先生の「海外には貞操観念をしっかりもって行きましょう」という発言がポイントをはずしているという指摘はおそらく的確だろうが、友人の発言は快男児先生に対する侮辱であるという解釈は、そういう次第でかなり一方的な推論であるように見える。
  • 先にも指摘したように、これが侮辱であるためには、人は(あるいは「男性は」)その人に関係する女性が性的に活発だという含みのことを言われたらすべて侮辱されていると解釈するべきだ、ぐらいの判断が裏にないと正当化されないが、これを正当化するのはむずかしい。少なくともセックスリバタリアン的な傾向のフェミニズムとは相性が悪いのは意識するべきだろう。
  • 誰かを尻軽(slutty)であると指摘することはふつう悪口であり、これはフェミニズムとは関係なく悪口である。王道フェミニズムの立場からは、誰かが誰かを尻軽だと判断しても、それはなんら悪口とならないと主張しなければならないだろうと思う(もちろんここはいろいろ議論がありえるところ)。でもとりあえず誰かを尻軽であるとする悪口は、フェミニズムの観点を抜いても悪口でありえるし、そっちの悪口である場合の方が可能性濃厚だと思う2)ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。
  • さらに、一般に男性となんらかの関係のある女性の性的な活動が活発であると指摘することは、女性の名誉を傷つけることであり、また、同時に彼女と関係する男性の名誉も傷つける、という考え方は保守的な「名誉の文化」では非常に重要な発想だろうと思うけど、これはフェミニズムとはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 男性は女性のナイトやボディーガードであるべきであり、女性が(性的な)名誉を傷つけられたと感じたら戦うべきだ、という考え方は現在も非常につよく、よく北米の映画とかで出てくるシーンであるように思うが、これてどうなのよ。「君、私のレイディーに対する侮辱は私自身に対する侮辱とみなしますよ」「まだ侮辱するか!ならば決闘だ!」みたいな。高度に洗練されたナイトは男フェミニストと区別がつかない、みたいなわけではないと思うしその逆もないと思う。
  • エマワトソン先生のHeForShe演説では、フェミニズムは女性だけでなく男性をもその性役割規範から解放する、ってなことが主張されていたわけなので、男は女性のナイトであるべきだという発想とはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 小宮先生が多重質問の詭弁だと指摘したツイートは、匿名化されていて事実に対応しているかどうかわからず、詭弁かどうか判断しにくい。「もしAがBしたとしたら、Pですか」のようなタイプのものは必ずしも多重質問ではない。
  • 詭弁や誤謬推理を見抜けるようになるのは大学教育で最も重要な課題で、それに敏感になることはとてもよいことなのだが、一般に、日常的な議論ではすべての前提が明示されたり言葉が明示的に定義されるわけではないので、ある主張が(非形式論理的な)詭弁・誤謬推理かどうかというのは見た目の形式だけでは判断がつかない場合が多い。したがって他人の発言を詭弁呼ばわりするのはかなり慎重になるべきだと思う。
  • というわけで私は青識先生のほとんどの主張に説得力を感じ、小宮先生の指摘には疑問を感じることが多かった。小宮先生は明示的に自分の社会学者としての権威を使っているのでちょっと厳しめに採点せざるをえない。これはしょうがないと思う。「小宮先生はすばらしく論理的で」のような評価も目についたけど、問題は多かったと思う。
  • しかし、小宮先生が最後の方でまとめの長文を書いて、論点(と難点)をわかりやすくしてくれたのは偉い。こういうのはリスペクトせざるをえない。
  • 一方、論戦の最後の方で、青識先生が話をネットフェミに関係する事件一般に広げて、そうしたネットフェミはオタクに代表される人がやってることを好意的に解釈していないのだから小宮先生の言ってることはおかしい、みたいな議論にしてしまったのはちょっとがっかり。これはロジックというよりはレトリックというか、オルグ学の世界。他のフェミニストの活動そのものに小宮先生が責任負ってるわけじゃないかならねえ。まあそこらへんは残念だったけど、青識先生は啓蒙政治運動家フィロゾーフだからいいのかな。
(おまけ) https://paper.dropbox.com/doc/–AMoWoz6PteveiUCxRccp0s_RAQ-VL1qQgTsubomPhKbvbjXz

References   [ + ]

1. 【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
2. ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (5)

もう一つあげましょう。牟田先生は、「ギデンズが論じるように、法的な平等が保障されジェンダー平等への道が見えつつあるからこそ、性暴力やジェンダー暴力がいっそう生み出されているとすれば」と言います。この文章に対する注は

ギデンズは、「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」(ギデンズ 1995: 183)と論じている。

です。実はこのギデンズに依拠した牟田先生の文章は前にもブログでつっこんでいるのですが、今回本当にギデンズがこんなこと言ってるのかちょっと調べてみました。

別の論文 1)牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。では牟田先生は、「ジェンダー平等が進展するほど、男性による暴力や支配が起こりやすくなる」と考えているようで、その根拠にギデンズ先生を使ってるわけですね。しかし、男女平等が進むと性暴力が増える、みたいなの信じられますか? 私は信じられない。その逆でしょ。男女不平等なほど性暴力は多いだろうと思う。ギデンズ先生がそんな馬鹿げたことを言ってるとも信じられない。

んでギデンズ先生の『親密性の変容』を見てみると、性暴力を論じているのはまあごく一部ですわね。んで、男女平等になって性暴力が増えてる、みたいなばかげた主張もしていない。

私の読みでは、ギデンズ先生がやってる議論はこうです。男性の女性支配っていうのは、近代までは、男性が女性を「所有」し隔離するという形でおこなわれてました。女性は家庭生活のなかで暴力にさらされることはあっても、家族以外からそういうことを受けることは少なかった、なぜなら隔離されていたから。レイプとかは、戦争とか征服とか略奪とか植民地とかそういうトラブルの時に起こる。(でもそういうトラブルはもちろん多い)でもそうした暴力っていうのは男同士でもふるいあっていて、男性も十分危険な状況で生きていた。

現代社会では、それいぜんよりは比較的暴力が抑制されていて、男性同士の暴力も少なくなって、暴力といえば男女間の暴力、性暴力が注目されるようになった。そこで上の

「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」

の引用文なんすよ。牟田先生が原文確認しているかどうかわからないけど、ここの「大きな意味をもつ」の原文は

It makes more sense in current times than it did previously to suppose that male sexual violence has become a basis of sexual control. (原書p.122)

で、「昔よりは今についての方が、男性の性暴力が性的支配の基盤になった、っていう考えかたが、make more senseする/筋が通ってる/理解できる/もっともらしいですね」ですわ。このブログでも何回か議論したブラウンミラー先生あたりの「レイプは昔から男性が女性を支配する脅しの手段だった」っていうのをむしろ否定してるんですわ。

まあもうすこしギデンス先生を解説しておくと、そのあとは

In other words, a large amount of male sexual violence now stems from insecurity and inadequacy rather than a seamless continuation of patriarchal dominance. Violence is a destructive reaction to the waning of female complicity. (p.122)

「言いかえれば、男性の性的暴力の大部分は、今では、たえまなく続く家父長制支配というよりは、男性の不安と無力感に由来している。暴力は女性の(男性との)共謀関係の衰えに対する破壊的な反応なのだ」ぐらいっすか。

これはまあ読みにくいしギデンズ先生がどれくらい自信あって断言しているのかわかりませんが、フェミニストが言うような家父長制のためとかってよりは、男性自身が不安だから性暴力振ってしまうんでしょ、ぐらいね。女性が男性に協力してくれなくなったから、それに破壊的な形で反応してるんでしょう、と。でもそうした性暴力全体が「増えてる」なんてぜんぜん言ってないですからね。

で、ここ見てたらもっと大きな問題を見つけてしまいました。この引用文のすぐあとで、ギデンズ先生は、女性もけっこう男性に対して身体的暴力を振ってるよとか、女性同性愛でも性暴力はけっこう頻繁だよとか、雑誌のセックス悩み相談に手紙を送る男性たちは、女性の性的満足のために自分の問題を解決しようと悩んでるみたいだよとか、売春婦のところに通う人々の多くは(牟田先生が想像している「女性を組み敷く」みたいな能動的なセックスのためではなく)受動的な役柄を演じたいと望んでいるよとか、まあそういうことを紹介しているわけです。これ、牟田先生が、この論文で想像している男性の一方的セックスとか暴力的で凄惨な売買春現場とかとはぜんぜん違ったものです。なぜ自分が引用している箇所の次のページ(翻訳p. 184)でそうした自分に不利な知見が紹介されているのを無視してしまうのですか。

やばい。(おそらくまだ続く)

 

 

References   [ + ]

1. 牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (4)

上野千鶴子先生が「嘘はつかないけど不利になることは隠す」とか発言しているのが発見されて、ツイッターの学者研究者界隈に動揺が広がってるようですが、まあそういう感じありますよね。特にフェミニズム/ジェンダー論まわりでは目につく。というか、昔からフェミニズムまわりではつらい経験をすることが多かったのですが、「嘘は書かないけど自論の不利になることにも言及しない」ぐらいの原則でやってるのだと思ったら理解しやすいことは多いです。

牟田先生の論文でもそういうところはあって、たとえば去年SNSで話題になった事件について、こういうふうに書くわけです。

日本では、5月に、伊藤詩織さんが、元TBS記者の山口敬之氏からTV局での仕事を紹介するからと酒席に誘われて酔わされた状態で、ホテルに連れ込まれレイプされたことを実名で告発した(伊藤 2017)。山口氏は安倍首相の伝記本を複数著している首相ご用達ジャーナリストであるところから警察権力の介入によって逮捕を免れた疑惑さえある。しかしこの事件はネット上では拡散し詩織さんのサポートの声がひろがったものの、一般のTVや新聞等の大メディアはほとんど報道せず、現在のところ捜査が再開される様子も無い。

この文章には嘘はない、というかまあSNSで知られているそのままが書いてあります。でも、山口氏が合意の上のセックスだと主張していること、東京地検が嫌疑不十分で不起訴処分にしたこと、検察審査会でも不起訴相当と判断されたことは書かれていない。デュープロセスや推定無罪、疑わしきは被告の利益に、という非常に重要な原則についても論文全体を通しても触れられていない。(実は推定無罪という言葉は、この科研費報告書全体でも一度も使われていないようだ。)はたして科研費報告書のようなもののなかで、山口氏の名前を出すのが適切かどうかわたしには判断ができない。

古久保先生の論文でも

続いて若者の性暴力(大学生における性暴力事件)の頻発について、テーマとしている。これが性暴力問題に関する1回目の授業になるが、そこでは性暴力被害者に焦点をあてるというよりも、むしろ二次加害者・傍観者という立場に焦点をあてて授業を進めている。これは、過去の大学でのレイプ事件の際に、加害者の「友人」たちがSNSを使って二次加害行為を行ってしまったという歴史的経緯を踏まえて行っているものであり、信頼している友人が加害者だと訴えられている事実を知ったときの認知的不協和を想像してもらいながら、二次加害の問題性を説明している。この授業を通じて、学生に性暴力が身近なところにあることに気づかせることにもなるが、実際、この段階で感想文のなかでは、「自分の友達」の性暴力被害についての言及が毎年出てくる。

という表現があるのですが、これはおそらく、2009年にあった京都教育大学集団準強姦事件と呼ばれてるやつをモデルにしてますよね。でもあれは、判決文などで知られている範囲ではかなり微妙な事件ですし、二次加害が云々の話もどれだけ古久保先生がデータをもっているのかわかりません。実際の裁判判決等の事情をふつうに書いたらやっぱり古久保先生たちには不利になるだろうと思います。それに、それこそこういうのが、「加害者」とされた人々への伝聞による加害ではないのかと心配になります。この報告書で触れられている他のトラブル・裁判例についてもそうした不安は同様です。

性暴力まわりの裁判とかについては、そうした「嘘は書かないけど自説に不利なことも書かない」みたいなのが一般化しているようで、非常につらいです。「これおかしいな」と思って判決文とりよせたりするとぜんぜん印象の違うことが書いてある、のようなのは頻繁で、フェミニスト学者の先生が出してくる裁判事例は、私はそのままでは信じない習慣がついてしまいました 1)このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

こうした「嘘は書かないけど不利なことは隠す」という態度と、権威の発言や文献を恣意的に使う、というのは密接な関係にあるように思います。こうなってくると、意図的に勝手な使いかたをしているのか、あるいは勘違いその他のためにまちがってしまっているのかわからない場合がある。牟田先生の論文から二つ挙げてみたい。

一つは次の文章です。

セクハラに関する法理を打ち立てたアメリカのフェミニスト法学者キャサリン・マッキノンが「はっきりしているのは、自由に選択したとみなされている「真実の愛」と、頭に突きつけられた銃のようなものを意味する強制とを対立させる硬直した二分法では、女性のセクシャリティがどのように社会的に形づくられているのか、そしてそれが表現される条件――経済的なそれを含めて――がいかなるものであるかと説明するのには十分ではないということである」と述べているように(マッキノン 1999:103)、上司など職業上重要な関係にある相手からの性的なアプローチや性的言動をすぐにはっきりと断るなどきわめて困難であり、対応に曖昧さやためらいがまとわりつくのも当然だ。

牟田先生がマッキノン先生の文章をどう解釈しているのかはよくわからないですが、「セクハラされてるときに女性は簡単には断れないのだ」ということを主張する根拠になると解釈しているようです。

でも実はこれ、もっと広い文脈で見ると、マッキノン先生が主張しているのは「上司と部下のセックスでも、はっきり強制やレイプ(まがい)と言える場合もあるけれども、はっきり合意と言える場合もあるし、さらには、はっきりどちらともいえないような微妙でグレーなケースもあることはやっぱり認めなきゃならないね、でも少なくともはっきりしているやつはアウトだ」っていう文脈なんですわ。

私の読みでは、マッキノン先生は教育や秘書業務とかの現場で、尊敬や業務上のふるまい、あるいは利益なんかと恋愛感情や性欲がごっちゃになってしまうということを指摘した上で、

以上述べたことは、セクシャル・ハラスメントの法的成立条件を明らかにする論点ではなく、法的にはむしろ不利な事例を検討してみることによって、その社会的真実を明らかにすることができる論点である。

って述べてるわけです。マッキノン先生は80年代はかなり強硬で一方的な議論をするようになるのですが、少なくとも70年代はこうして自分たちに不利な事情があることも認めた上で、それでもなおセクハラっていうのはなくすべきだ、はっきりしているのは撲滅すべきだ、と主張しているわけです。牟田先生が使ってるように「マッキノン先生が指摘しているように女性は簡単に断われないのだ」っていう文脈のものではなく、「同意か強制かよくわからないケースもあるんだから、たしかに白とか黒とかはっきりしない場合もありますよ」ってことを言おうとしている流れなのです。まあマッキノン先生のこれは立派な態度だと思いますね。現代のフェミニストの先生たちにもそうしてほしいと強く願います。

(この項続きます)

 

References   [ + ]

1. このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(3)

牟田先生のセックス平等の話をするまえに、もうすこしだけ他の論文に簡単なコメント。

元橋利恵先生の「新自由主義セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」は、二つの話題があって、「女性は自分の性器の呼び名がない」みたいな話と、「最近は女性が競争(新自由主義)のために男向けにいろいろ努力してる」みたいな話をくっつけようとしてるみたい。

まあ性器の呼び名みたいなのは古い話で、ろくでなし子先生みたいな方もいらっしゃるのだから好きにすりゃいいのにと思いますが、まあいいです。そもそも英語圏女性も自分のそれを「ヴァギナ」とは思ってないと思うし、そもそもその部分をヴァギナとか穴とかと見てるのかどうか、はたしてそれが女性の実感なのかどうか私はちょっとわからないところですが、まあいいです。あんまりやるとバレ噺になっちゃうし。

本論の新自由主義的セクシュアリティなるものはけっこうおもしろくて、わたしが今注目しているキャサリン・ハキム先生のエロチックキャピタルをネガティブに見た話ですわね。紹介しているウェンディ・ブラウン先生ってのはずいぶんと左翼ですが、別の見方もありそうなのでがんばってほしいです。

荒木菜穂先生の「日本の草の根フェミニズムにおける「平場の組織論」と女性間の差異の調整」も勉強になりました。まあ組織ってどこでもむずかしくて、とくに女性だけのグループっていろいろ難しいってのは、荒木先生も文献にあげてる西村光子先生の『女たちの共同体』他でいろいろやられているので、ここらへんも研究すすむといいっすなあ。まあ男子としては、「きみら女性はそんな組織化得意じゃないっしょ」みたいなの言いたくなるけど、私も組織とかグループとか苦手だから。ははは。

伊田久美子先生の「イタリアにおけるフェミニズム運動の新たな動向」はすみませんがまだ読んでません。

北村文先生の「国籍/エスニシティ/階層を超える・つなぐフェミニズム」はかなりおもしろくて、個人的にはこの論文集で一番勉強になりました。まあ女っていったっていろいろ対立があるってのを、アジアで女中さんをやとってるマダムvsメイドって形で見てる。でもマダムが一方的な支配者ってことはないよね、みたいな話。男女関係だって男性が一方的に支配者とかってのはなさそうなので、ここらへんの研究もすすんでほしいです。

熱田敬子先生の「日本軍戦時性暴力/性奴隷制問題との出会い方」もまだ読んでないです。

岡野八代先生の「道徳的責任はなにか」はやはり倫理学にかかわりをもつ人間として読まざるをえなくて読んだのですが、従来の「男性的」な倫理学がよくない、っていうのを言うのにウォーカー先生は〜と言ってる、ぐらいしか根拠がなくて、私は不当ないいがかりではないかと思います。ケア倫理と従来の倫理学の関係については、むかし品川哲彦先生の『正義と境を接するもの』の書評もどきをやったときに考えました(ブログも残ってるはず)。まだ岡野先生みたいなやりかたをする人がいるなら、もっとちゃんとした文章書いておかないとならないなと思いました。

まあでも(まだ読んでないのを含めて)どれもまじめで、科研費研究報告としては十分というか立派ですよね。えらいと思います。

「性的モノ化再訪」レジュメ

そういや、この前研究会で発表したレジュメおいときます。まあこんなこと考えてる。いつものようにあわてて書いたからあちこちよれていて、余計なこと書いてたり、わかりにくかったりしてだめなんですが、今年中にまともな論文にできるようにしたいとは思ってます。すみません。

 

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(2)

牟田先生の論文のセックスの平等まわりの議論はいろいろおもしろくて、学問として議論したいところがあるのですが、その前にもうひとつどうしても問題を指摘しておきたい論文があります。

古久保さくら先生の「運動と研究の架橋:世代の架橋としての教育の可能性」です。

この論文は大学でジェンダー平等教育をやってらっしゃる古久保先生が、どういう授業実践をしているのかっていうのことと、セックスにおける「自己決定」をどう考えるか、というのの二つがテーマで、これは問題として重要で論文の価値があります。くりかえしますが、私はこの科研費研究の報告書を公開していることはとても高く評価していて、現在の日本のフェミニズムのよいところと悪いところの両方がよくわかると思っています。

性教育はとても重要です。小中高での教育がいろいろ言われるけど、私は大学でも性教育もとても重要だと思ってます。生命倫理学や倫理学・応用倫理学の授業とかでも、いきがかり上、生殖や性暴力についていろいろ説明して理解してもらわなければならないことも多い。でもどういうふうに授業すればいいんだろう?

古久保先生はとにかく女性は犠牲者だっていうのを強調するタイプの授業をしているみたいですね。仁藤夢乃先生の「買われた展」 1)これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。 とか紹介するみたい。仁藤先生は私ちょっとどうかと思ってるんですが、まあそれはいいです。

次はyoutubeのオランダの飾り窓のダンス。これはいかん!私腰ぬかしましたよ。動画は前から知ってましたが、これをそのまんま授業教材やなにかの論拠に使うとは。

これ、詳しい情報が英語ではあんまり出てこないのでよくわからないのですが、犯罪的トラフィッキングの犠牲者が、「このアムステルダムの飾り窓の中にいる!」とか、本当ですか? ただのパフォーマンスじゃないんですか? オランダって本当にそんな野蛮な国なんですか? パフォーマンスと事実の区別がつかなくなってませんか?

んでそういうふうに「売春している(若い)女性は犠牲者だ」って教えこんで、学生様にディスカッションさせるらしい。するとだいたい「許せませーん」とか言ってくれるんだけど、少数の学生様は「それ自分で決めてやってるんだったらええんちゃうか」って言うこともあるみたいですね。これは自然な発想だと思う。強制はいかんが、ちゃんとした年齢でちゃんと考えて自分からやってるなら、セックスワークはかまわんのではないか、という人々はたくさんいますよ。友人にセックスワーカーがいる学生様などは「いやいやではないって言ってました」とか指摘する。

ところが、古久保先生はそれでも売買春は悪いことだ、性差別だ、それを望んでする人はいないって思いこんでるみたいなんですよね。いちばん気になったのは、「性サービス産業に従事する友人をもつ学生も何人もいる」「性サービス産業に従事している若年女性は受講学生の近くにもいるのであるが、本人たちの姿を「納得している」「楽しそう」な姿として理解する」とか書いちゃってるんだけど、先生、先生のクラスには「友人」じゃなくて本人たちもいるでしょう。先生が「売春は被害です、セックスワーカーは犠牲者なのです」みたいな話ばっかりしているから「私もやってますけど」って言えないだけじゃないですか?

応用倫理学とかやってると、中絶とかセクマイとか性暴力とかセクハラとか、性教育まわりはいろんなこと話しなきゃならんわけですが、100人200人の講義してたら(大講義じゃなくても)そういうのをすでに経験しているひとびとが一定数いることは当然のことですよ。なにが「友人」ですか。長年そういう授業していったい何をいってるのですか。私はそういうのは許せませんね。そしてそういうのがフェミニズム教育だかジェンダー教育なのだとしたら、そういうのいらんのではないでしょうか。

まあその後ろの方の紆余曲折した議論はあんまり文句ありません。我々は自己決定が大事です。性産業はかなり難しいサービス業で、みんなが簡単にできるようなものではありません。特に若い人々ができるようなものではないし、いろいろ危険なのでせめて18歳ぐらいで規制しておきましょう。ちゃんとした自己決定ができるようになるために、家庭や教育は大事だし、ちょっとずつ自己決定したり拒否したりする訓練をしていかねばなりません。こんなの、誰だって言ってることじゃないですか。いったいなにをしてるんですか。

最初から性産業は特別な仕事だ、よくない仕事だって思いこんでるから自己決定だけじゃだめだって言いたくなるんではないですか? 危険な仕事はほかにもたくさんあります。そして、多くの場合、人々はいろんな選択を繰り返しながら自己決定を学んでいき、一部の人は危険な仕事をみずから選択する。強制される場合は社会がそれを保護しなければならないし、強制する奴等は罰しなければならない。まあそういうのは私も同意します。

でも古久保先生は、けっきょく、

自らのセクシュアリティを「自然」と位置づけ、性暴力被害の結果すら「自己責任」とみなそうとする学生の意識は、15回の講義を終了してすら変わっていないことがある。まじめに授業と対峙しなかったからなのか、対峙できなかったからなのか、彼らが何に怯え、何に傷ついているから「抵抗」をしているのか、授業の感想からでは理解しきれない部分は大きい。「抵抗」を理解するところから、社会的公正教育の実効性は高まる(……)とされるが、80-100人程度のクラスでそれはなかなかに困難なことではある。

ってな感じで学生様に対する違和感や(自分自身の)抵抗感を表明しておられますが、それって学生の方ではなく先生の問題なんじゃないでしょうか。あまりに自分の価値観を学生様に押しつけようとしてないですか? 「まじめに授業と対峙しなかった」だの「対峙できなかった」だの、学生の反論を「抵抗」呼ばわりして大丈夫なのですか? それに、飾り窓の件のように、おそらく事実じゃないことを事実だと思いこんでませんか? もうすこし学生様たちの言い分を聞いてみてはどうでしょうか。私は本当にがっかりします。

 

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1. これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(1)

フェミニストの牟田和恵先生たちの科研費研究の使途がおかしいのではないか、みたいな難癖みないなのが話題になって、それに反応してか先生たちのグループが成果の電子書籍を公開してくれたので、ちょっと読んでみました。公開えらい。

私の印象では、ちゃんとしたグループ研究だと思いますね。立派だ。えらい。一部には「ジェンダー平等のための〜」っていうタイトルなのに、いわゆる慰安婦問題を中心にした研究にしぼられているのはどうなのかという声もあるようなのですが、まあジェンダー平等とかって目標の一部に慰安婦問題の考察が必要不可欠なのだ、みたいな立場だったら許されるのではないか。研究計画とか読んでないからわからんですが、まあそういうのはあんまり関心がない。

んで内容としてもろにセックスの話をあつかってるとわかる章だけ読んでみたんですが、研究として立派だとは思うものの、いろいろ言いたいことは出てきますね。

最初に言いわけしておくと、この論文集はいわゆる朝鮮半島での従軍慰安婦問題ってやつが中心になってて、そっちの方は私詳しくないのでそんなコメントできません。半島で軍が直接女性を狩り出したとかってことはあんまりなさそうだけど、でもいろんな業者に騙されたり売られたりして、とにかく本人の意に反していわゆる「慰安婦」になって/させられていたたひとはかなりいたろう、日本軍が間接的に関与してたことはもちろんあったろう、そして労働環境が劣悪な場合もかなりあったろう、ぐらいの認識です。日本軍は他の地域ではもっと直接的に邪悪なことをしていたとも思ってます。


んでまあ読んでみると、かなりいやな気分になるところがありました。いくつか指摘してみたいと思います。

牟田和恵「なぜ「慰安婦」はこれほどバッシングされるのか:性暴力をめぐる新たな認識をめざして」

牟田先生たちは台北の公娼館跡地を訪問して、昔そこで公娼をしていた白蘭さんという人に人の話を聞いたようなのですが、彼女はその公娼館にいたころが一番よかった、って言ってるらしいわけです。

幼いころから極貧で親に売られ苦労してきた白蘭さんにとってここで働いていた時代が、することを自分で決めることができ、一日3人も客を取れば十分生活できた、一番いい時期だったからと、公娼館の閉鎖後、食い詰め体を壊した彼女はここで死にたいと瀕死の状態で戻ってきていたのだった。

ということらしい。ところが牟田先生はその部屋を眺めて、

右奥の部屋は、かつて女性たちが客を取っていたままのかたちで保存されているのだが、そこは、セミダブルの寝台が部屋のほとんどを占め、化粧台等が端に置かれている。廊下や隣の部屋との境は薄いベニヤ板のような間仕切りで、しかも天井まで仕切られているわけではなく、上が10センチくらい空いている。ここで一回15分で客たちは「女を買って」いた。

この薄暗い部屋にたたずみながら私は、そこで行われていたのはいったい何だろうかと疑問を抱いていた。それは果たして「セックス」なのか?話し声は筒抜けでプライバシーの無いここでは、娼妓と客のコミュニケーションなど、身振りでのやり取り以外にはほとんどなかったであろう。男がズボンと下着を下ろし、女の上にのしかかり、ペニスを突き刺して擦り、射精するだけで終わるような15分だったであろう。それはどのような15分だったであろう。それはどのような意味でセックスなのだろうか?

といろいろ想像をめぐらせている。まあこれはよくわかります。15分じゃたしかに短かそうですねえ。でもほんとに15分なんだろうか。牟田先生は、上の白蘭さんが、15分で1日3人お客さんとって、計45分で3回セックスすると(楽に)生活できた、と想像しているのだろうか。そんなものなのかな。そこらへん、白蘭さんに聞くことはできなかったのかな。当時に詳しい人に聞くことはできなかったのかな。むずかしいですか。むずかしいでしょうな。聞きにくいわね。

でも、私はそういう場所に行ったことがないのでよくわかりませんが、同じような仕組みでやっていたはず1)後日注。これは勝手な思いこみの可能性が高いです。の大阪飛田のは、井上理津子先生という方が『さいごの色街 飛田』というルポで描いてるんですね。かなり取材していて、良質なルポだと思います。そこだと、20分か30分が選べて、20分だと1万5千円(当時)とかで、けっこういろいろ話をしたりさまざまな交渉したりするらしいです。もうちょっとリアルな描写もあります。どうも「組み敷く」みたいな形ではない。当時の台湾や朝鮮半島でどうだったかはもちろん知らんけど、それほどちがってたろうか。まあ飛田に限らず、昭和初期からしばらくの遊廓やちょんの間や私娼窟みたいなのがどういうものだったかというのはいろいろ文学作品が残っていて、わりと正確に様子がわかるはずですね。そのころの台湾や朝鮮も外国というよりは日本帝国の一部だったわけだからそんな大きくちがってたわけでもないんちゃうかという気もします。なかにはおそらくやっぱり悲惨なやつもあれば、そうでもないのもあるだろうと思う。おもしろいかどうかわからないし、あんまり上品なものでもないし、つらいと思えなくもないけど、牟田先生が思ってるほどは悲惨ではないかもしれない。

でもこれは私が気になる問題ではないのです。私が問題にしたいのは、牟田先生がわざわざ現地調査に行って、「ここにいたときがいちばんよかった」とまで言うお姉さんの話を聞いていながらお姉さんがいた話を聞いていながら、たんに「それはどのような意味でセックスなのだろうか?」と想像するにとどまっていることですね。

牟田先生は(おそらく)性風俗一般について、「カネを払って「同意」を買っているとはいえ、それはレイプとどう違うのだろうか。」、買春は「幾ばくかの金銭によって同意を擬制しただけのレイプではないのか?」という疑問を持ち、「私たちはそれを長らく、合法・非合法を問わず、「セックスをカネで買う」商行為とみなしてきたが、実はそれは、経済的社会的力関係の下でなければ生じえない性交の強制、すなわちレイプに他ならないのではないか」とおっしゃる。

んじゃ上の白蘭さんはレイプされていた時代が生涯で一番よい時代だったということになる。それでいいのだろうか。さらに気になるのは、その文章につけられた注ですわ。

ここでの記述は、現実のセックスワーカーの方々とその現場について述べているのではなく(実際、上述の通り白蘭さんが、文萌楼で公娼として働いていた時期が自分の人生で最良だったと語っていた事実は重い)、性行為の「同意」についてラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないかという理論的な問題提起であることを断っておく。

これを見たとき、私ほんとにいらいらして禁煙していたタバコ吸ってしまました 2)あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。。実際に人々がおこなっているセックスはどのようなものかと調査したり考えたりするよりも、まず「ラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないか」ってのを優先するというのは、いったいどういうことなのかわたしにはわからないです。なぜ牟田先生はわざわざ取材・調査に応じてくれた白蘭さん白蘭さんのまわりのセックスワーカー支援団体の人々言葉や思いをもっと紹介してくれないのだろう。なぜ白蘭さんという生身の人の生身の経験を踏み台にして、いきなりアメリカの白人インテリのラジカルフェミニストの理論から見た売買春の話にジャンプしてしまうのだろう。

「慰安婦」とか債務奴隷の状態にされた人々のなかにものすごく悲惨な経験をした人々が、かなり多数いるのはまちがいないところだと思うわけですが、だからといって「ラディカルに考える」ために、人々の姿を勝手に想像し押しつけるのははまちがっていると思う。それがフェミニズムとか哲学とか社会学とかだったら、そういう学問はなくてもよいのではないかとさえ思ってしまいました。(続きます)


(1年後)このエントリーはすごく混乱していてよくありませんでした。そもそも台湾の公娼館の話の時代さえ理解してなかった。→ 牟田先生たちの科研費報告書を読もう(8) 牟田論文誤読のおわび

 

 

 

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1. 後日注。これは勝手な思いこみの可能性が高いです。
2. あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。

「飲み物を飲んだら急に眠くなって、気が付いたらセックスの最中だった!」はおかしいか

 

なんか、内閣府男女共同参画局関係の広報が炎上していたようです。

 

「飲み物を飲んだら急に眠くなって、気が付いたらセックスの最中だった!」というツイートが話題になっていて、これは「セックス」ではなく「レイプ」と書くべきだろう、のようなコメントがついているようです。どうでしょうか。

「セックスの最中」っていうワーディングはなんかへんな感じがするので、「飲み物を飲んだら急に眠くなって、気が付いたらセックスされていたようだ」ぐらいだと問題なかったかもしれませんね。なんだか「最中」がへん。

ただ、これセックスをレイプにおきかえて、「気が付いたらレイプの最中だった」にするのはあんまりよくないと思います。

ここで注意しておきたいのが、やはり言葉の定義の問題、そして記述的意味と評価的(規範的)意味と呼ばれるものの区別です。

倫理学のふつうの理解では、評価的・規範的な言説、つまり「〜はよい」とか「〜するのは悪だ」といった会話などをするとき使われる語については、それが記述的な意味しかもってないのか、それとも評価的な意味も含んでいるのかを注意するべきです。

定義はそれを自覚していればどうやってもいいようなものですが、まあ「セックス」の意味は、ふつうはなにか二人以上で体を使ってエッチなことをすることで、まあ性器挿入とかそういうのがないとセックスと言わないって人もいるかもしれませんが、ここではもっと広くとりましょう。素敵じゃないセックスはセックスじゃない、っていう人はあんまり多くないでしょうね。よいセックスもあれば悪いセックスもある。こういう言葉は記述的意味、つまりその2人なり3人なりがやっているのが体を使ったエッチなことである、ぐらいのことを意味しています。

一方レイプは、ふつうの理解では「強制的に、あるいは相手が抵抗できない状態でセックスすること」ぐらいでしょうか。これも性器挿入がないとレイプじゃないっていうひともいれば、もっと広い範囲をレイプと呼ぶ人もいるでしょう。これは「レイプ」と呼ばれる行為の「記述的な」範囲が人によって異なっている、ということです。どっからがレイプになるかは、もし必要があれば定義しなければならない。とりあえず、いろいろあるセックスのなかで、レイプは強制的なものセックスである、ということになります。レイプよりセックスの方が指し示す範囲が広い。

注意すべきなのは、「レイプ」は、ふつうは、ひどく悪く、不正なことであり、非難され罰されるべき行為である、と理解されていて、「それは悪い」という評価的・規範的な意味ももってることです。ことです。「よいレイプ」というのはふつうはないと考えられているので、「彼は悪いレイプをした」のような表現も冗長であると考えられます。レイプは悪いセックス、不正なセックスの代表であるわけです。

この男女共同参画局の広報では、アルコールなどで意識がないときにセックスされたり、触られたり、動画をとられたりするのが性的な被害でありそれをした人々は非難され罰されるべきだ、被害を受けた人は被害を受けたと考えて当然だし、できればそれを訴えてください、という広報なわけです。あなたがされているセックスは悪いものであり、レイプだ、って言いたいわけなので、まあ広報ではああいう形になるのがただしいと思いますね。とりあえず、意識がないのにセックスしていた、ということはわかるって人々に、それは被害を受けてるんですよ、って言いたいわけだろうし。それが狭い意味の「レイプ」かどうかとか、強制性交罪とか強制挿入だかなんだかそういうのに当てはまるのかどうか、とかそういうのはあとでいい話。

レイプが非常に悪いことであると正しく理解している人々は、広報の「セックスの最中」というのはやはりそれが悪いことであることを示すために、評価的・規範的意味を含んだ「レイプの最中」におきかえて、それがとてつもなく悪いことであることを強調しようとしたいと思うのかもしれませんが、それはあまり効果的ではないかもしれない。

最初から「薬を盛られてレイプされている最中だった」と考えることができる人であれば、それはレイプだというのは当然わかっているわけで、この広告が対象としている人々ではない。

もちろんもっと別のうまい書き方はできるのですが、そんなに気になるほど悪い書き方でもないと思います。


んで、「レイプはセックスではない」って言いたいひとは、「セックス」をもっと狭い意味でとらえているのですね。「2人以上が同意の上で、体を使ったエッチなことをするのがセックスだ」ぐらいの定義かもしれません。これだとレイプは同意がないのだからセックスではない。そういう意味で使うひとはそれでもいいです。でも今度は、「同意のあるセックス」とか「同意のないセックス」とかっていう表現が、矛盾したり冗長だったりすることになります。

どういうふうに言葉を定義するのがうまいかかっていうことは主張しようとしている内容や場面によって変わってくるので一概には言えませんが、私の好みは、語はなるべく記述的に、そして広く定義して、必要なときはいちいち形容語をつける、ぐらいの方針です。

セックスは「2人以上でするエッチなこと」ぐらいにしておけば、「オーラルセックス」は片方が口でするエッチなこと、「性器セックス」は2人が性器をつかってするエッチなことぐらいであることが明示できる。最初からせまく「男性と女性がそれぞれ性器つかって、男性が女性に性器を挿入すること」とか定義しちゃうと、それ以外の形のはセックスじゃないことになっちゃいますからね。同意のあるセックス、ないセックス、とかも言えるし。

実はこれ、どういうふうに定義しても、つまり、語を広く定義しても狭く定義しても、そして記述的に定義しても評価的意味も含むように定義しても、ちゃんと議論をすれば同じような前提から同じような結論が出ます。レイプ(=強制的なセックス)がわるいことであるのは、「レイプ」が悪いことであるという定義によるのではなく、強制的なセックスが悪いことだからであって、それが悪いことであるのは、ひどく人を傷つけ、自律を損ない、身体的に痛めつけ、などなど、人に被害をもたらしたり、尊厳を傷つけたり、法律に反したりするからです。

相手がなにを言おうとしているのかをちゃんと読み聞きしようとせずに、自分自身の定義(たとえば「セックスは同意のあるものだけ」)を押しつけたり、相手の言葉だけをとらえて、その定義をたしかめずに非難するというのはとてもよくないことなので、いちおう定義たしかめたり発言の真意を探ったりしてみてほしいですね。

あととりあえず酒の飲み過ぎには注意してください。性的被害だけじゃなくて死んだりするし、お店のトイレとか汚れるのも迷惑です。死ぬかレイプされるおそれは非常に大きなものです。一気呑みとかするサークルは即やめましょう

また、お店の人も儲けのためといって黙認しないで、ちゃんと止めてください。私はそういうの放っておくのはお店の人たちも同罪だと思います。

おじさんおばさんは、一気呑みしているグループがあったら勇気を出して止めましょう。リーダー格のにトイレで「ほどほどにね」ちょっと一言言う、ぐらいでも効果あるかもしれません。

まあとにかくお酒には注意しましょう。

 

あと酒飲みセックス、酔っ払いセックスはいろいろ考察に値するおもしろいネタがあるんですが、それはここらで。

 

(あれ、なんで(2)がないんだろう?)


尊敬する先生がもっとわかりやすく正確な記事を書いてるのでそちらをどうぞ。 https://flipoutcircuits.blogspot.jp/2018/03/blog-post_29.html

最近活躍している谷田川知恵先生の強姦被害者16万という数字は雑すぎる

下のを書いたあとに、問題はもっと複雑だし、たしかに性暴力被害の問題は深刻だよなと思って消してたんですが、まあ一回公開したものだし置いときます。また考えなおします。


谷田川知恵先生という方は実は前から注目していて、どういうかたかわからないのですが、いろいろ雑な印象があります。ジェンダー法学会が出してる「講座 ジェンダーと法」シリーズの『暴力からの解放』(2012)での谷田川先生の「性暴力と刑法」から。

年間16万人の女性が強姦されているが、警察に届けられるのは数%にすぎず、検挙、起訴されて有罪が言い渡される加害者は500人にすぎない—-暗数が有罪人員の300倍にもなるのは女性差別の強い異国の話ではない。日本である。

16万人というのはすごい数で、これはほんとうに早急に対策打たないとならないと思います。私はとりあえずセックス禁止、セックス免許制がいいと思いますね。レイプしない講習を受けて、ペーパーテストと実技験受けて、合格者だけがセックス可能にして、違反があったらすぐに免許取り上げ。

しかし谷田川先生はどっからこの数字をもってきたのでしょうか。暗数が300倍というのは異常すぎます。
性犯罪の暗数はみんな興味があるのでいろんな数字が出されていますが、300倍というのはさすがに見たことがない。

谷田川先生のこの解釈はずいぶんオリジナルなもので、例の内閣府の調査から自分で解釈しています。

内閣府男女共同三角局「男女間における暴力における調査報告書」(2012)では、全国20歳異常から無作為抽出された女性の1.25%が過去5年かんに「異性から無理やりに性交された」と回答しており、5年以上前であった者を含めて3.7%しか警察に連絡・相談していない。日本人女性人口が6,500万人として年間0.25%の16万人が「無理矢理に性交」され、警察へは6000人ほどしか連絡・相談していないと推計できる。この調査は2005年から3年ごとに行なわれているが、この傾向に大きな変化はない。警察では相談のみで告訴のない強姦事件の立件は稀であるから、2010年犯罪統計における強姦認知件数が1,289件、検挙件数が995件であることは推計と矛盾しない。同年検察統計における強姦起訴率は45.2%、検挙件数は568件。同年司法統計では、強姦単独の統計はなく、「わいせつ、姦淫、重根の罪」の総計で地裁における通常第1審の無罪判決は5件。(p.197)

ということです。あれ、なんかへんだな思って平成23年の調査みたのですが、これですよね。
http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h23danjokan-8.pdf

これは「異性から無理矢理に性交された経験の有無」を聞いて(7.6%)、さらに「あり」の人のなかから5年以内に被害を受けた人を特定している(16.4%)。0.076 * 0.164%ってんで0.0125ぐらい、ってんで女性の1.2%が5年以内に被害を受けてます。たしかにこれは少ないように見えてたいへんですよね。でこれを5年間でわって1年あたり0.24、まるめて0.25%ですか。ここまでは(こういう紹介の仕方がフェアなのかどうかはわからないけど)よい。

でも、これって、被害をうける女性の年齢を考えてないっしょ。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/62/nfm/n62_2_6_2_1_6.htmlにあるとおり、20代と30代がほとんどなんよね。だから女性全体の6500万人に(簡単に)拡大してはいけない。まあ「あらゆる年代・特徴の女性が強姦の被害者になる」っていう例の反レイプ神話的フェミニスト立場の反映でしょうが、なんの根拠もなくそういうことしていいんですか。

年間500件の強姦有罪件数を16万件に引き上げることを目指すなら、男性による女性の同意の主張をいっさい認めないことが有用であろう。……要するに、男性が女性の同意を主張するには客観的証拠を必要とするのである。 (p.193)

 

なんですかこれは。

フェミニストとか性暴力とか、本気でこの問題考えたいひとはちゃんとやってくださいよ。谷田川先生は最近話題になったニューヨークタイムズの記事のインフォマントみたいだし、立憲民主党だかの政策にもかかあわりつつあるみたいだし、ちょっと心配しています。

(追記 2019/05/11) 偉い先生が計算してみてくれました。→
「男女間における暴力における調査報告書」の「異性から無理やりに性交された経験」の被害率を補正してみた

まあ、おそらく万の単位で被害者がいるだろうっていうのは問題だと思うのです。そんなに「盛る」必要はないので、淡々と事実を推測していけばいいと思う。