剽窃を避ける 2024年版

京都女子大学現代社会学部が発行している基礎演習用のテキスト『京女で学ぶ現代社会』の1章です(一部省略しています)。PDFはResearchmapにあげています。 → https://researchmap.jp/eguchi_satoshi/misc/46018319

剽窃・盗用

剽窃してはいけません

時おり、新聞やテレビニュースで大学研究者(教員)の「研究不正」が話題になります。大学などでの研究者が、研究データを捏造(ねつぞう)1したり改竄(かいざん)したりすると大きなニュースになりますが、より頻繁におこなわれているのは「盗用」(剽窃(ひょうせつ))です。盗用・剽窃(plagiarism プレイジャリズム)はアカデミックな世界では非常に重大な犯罪です2。大学学生の授業レポートや卒論でも場合によっては単位の不認定、取り消しなどにつながることがあります3

多くの大学新入生は、中高生のときに「著作権」についてすでに耳にしたことがあるはずです。著作権は法的な制度で、作者・著者(知的な作品を作った人や団体)の著作者としての権利と著作物の財産としての権利を守るものです。他人の作品(マンガ、音楽、本など)を勝手にコピーしたり改変したりすることは法的に禁じられています、と教えられているはずです。

しかし「剽窃」の問題には、単に「コピーしてネットにアップロードしてはいけません」「本やウェブにある文章を丸写ししてレポートとして提出してはいけません」ではすまない問題が含まれています。この問題には、色々とわかりにくいことがあるので説明しておきましょう。

「研究不正」としての盗用

文部科学省は研究活動における不正行為(研究不正)を次のように分類しています4

[捏造]
存在しないデータ、研究結果等を作成すること
[改竄(改ざん)]
研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること
[盗用]
他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文または用語を、当該研究者の了解もしくは適切な表示なく流用すること5

データや資料の捏造や改竄が不正であることは言うまでもないでしょう。研究活動のなかでは多くの場合、データや資料を すべて 公開することは求められません。そのため、こっそりありもしないデータをつくりだしたり、ありもしない資料を参照したりする人々がいます。この種の不正は理系の学問分野で起こりやすいのですが、文系でも時々見られます6

研究者の世界では、剽窃も頻繁に話題になります。 剽窃とは、簡単に言えば、他の人々(「研究者」には限りません)が調査したもの、考えたものを、 あたかも自分のものであるかのように 使用・提示すること(たとえば論文やレポートで)、そうした印象をもたせることです7。もっと簡単にいえば 知的成果の泥棒 です。もっと簡単に言えば、他人が考え作りだしたものを自分のものだと主張するインチキです。単なる著作権侵害には留まりません。

剽窃・盗用は、データの捏造や改竄と並んで、大学関係者・学術研究者のあいだではたいへん憎まれている行為です。なぜならそれは、真面目な研究者たちにとっては、汗水足らしてお金つかって長時間調査し考えた結果だけをもっていかれるということだからです。著作者の経済的利益だけの問題ではありません。

理系の科学者の場合はデータの捏造が話題になりますが、文系の研究者・学生がおこないやすいのはなんといっても剽窃です8。「剽窃」は「著作権侵害」と重なりあうところもありますが、もっと広い範囲に及ぶ概念です。

著作権法での正当な引用とは

おそらく高校で「著作権」の考え方を耳にしたときには、「正当な引用・参照」は許される、という話も同時に耳にしたはずです。著作物を丸ごとコピーすることは許されませんが、その一部を自分の作品(レポートその他)に取り込み参考にし論評することは自由におこなってかまいません。

ちなみに「無断引用」という言葉が一部で使われることがありますが、これはおかしな言葉です9。引用は著作者に無断で行なってかまいません。わざわざ著作者に「引用してOKですか?」などと尋ねる必要はありませんし、一々そんなことをされたら迷惑です。

著作権法上、引用は自由におこなってかまいませんが、その際には条件があります。

  • [(1)]すでに公表されているものであること
  • [(2)]公正な慣行に合致していること
  • [(3)]引用の目的上正当な範囲でおこなわれていること

(2)の「公正な慣行」や(3)の「目的上正当な範囲」がぼんやりしていてわかりにくいかもしれません。「公正な慣行」は、その分野で普通認められているやり方でおこなうべきであるということであり、大学でのレポートなどでははっきりした慣行があるので、大学生はそれを学ばなければなりません。(3)の「目的上正当な範囲」は、たとえば倫理学のレポートを書くために必要な最小限の引用でなければならない、ということです。(2)の慣行については、もっとはっきりした引用のルールがあります。

  • 引用部分が明示されていること(明瞭区分性)
  • 引用元が明示されていること
  • 自分が書いた部分と引用された部分の主従関係が明確であること
  • 引用する必然性(必要性)があること
  • 引用部分を改変しないこと

(a)はまず、どこからどこまでが引用なのかがわかるようにしなければならない、ということです。他人の文章には「」をつけるか、あるいは(長い引用ならば)段落を字下げして、その部分が引用であることがはっきりわかるようにする。そして(b) 引用元をすぐに明記する。レポート・論文の 最後の方に文献表をつけるだけでは不十分 です。文献表に複数の文献がある場合、どこを引用・参照しているかわからないからです。教科書などで最後の方に文献がまとまっているのは、読者にその文献をのちほど読むようにという指示であって、情報源・引用元・参照元を示すものではありません。 基本的に文献表に載せるものは、どこを参照しているのか本文や注で言及するべきです

また、引用の際には、(e) で指示されているように、その「」をつけたり段落字下げで表現した引用部分は一切改変してはなりません。 一語一句そのまま でなければならないのです。これは誤字・脱字のたぐいまで修正しては ならない ということです。出版物に誤字などはよくあることですが、誤字にも「ママ」というルビを振るのが慣行になってます。たとえば「江口の文章は誤字だらら(ママ)けである」と引用しないとならないわけです。引用文の最初や途中や最後を中略したいときは「……」「(中略)」「(後略)」などで略したことを明示しなければならなりません。強調を勝手につけることもだめで、もし一部に傍点を打ったり下線を引いたりして強調したい場合は、「強調(傍点/下線)は筆者による」と記さなければならない。漢字も勝手に変更してはならず、「(表記は修正した)」のように記します。面倒ですね。でもそれが学術論文の引用の慣行です10

(c)の主従関係が明確である、というルールは、自分が書いた文章が「主」であり、引用は「従」でなければならない。たとえば大学レポートなら自分が書いた部分の量が大きく、引用はごく一部に留めるべきだ、ということです。具体的な分量の決まりはありませんが、たとえば引用部分が全体の1/3あるというのはいかにも多いと思われます11

ここまでは「著作権」の話として一般によく語られていることです。しかし、レポートや論文の剽窃の問題は、こうした「正当な引用」をクリアすればそれでOKというものでは ありません 。なぜなら、論文やレポートなどの学術的な文章は、基本的には他人の「アイディア」や他人が作った情報を土台にして、自分のアイディアとデータを積み上げていくものだからです。したがって、レポートや論文は、すでにある他人の情報、意見、発想を土台にするものであり、その分量の相当を他人の情報や文章を参照し紹介する文章にしなければなりません。大学の授業レポートでは、単に「〜の文献を紹介しろ」という課題が出ることもあるでしょう。この場合は、レポートの大半は他人の情報や意見を紹介する文章を書くことになるわけですが、抜き書きを飛び飛びにつないだだけのものは原則としてレポートや論文としては認められません。その 大部分を自分自身で書いた文章にする必要 があります。「誰それの文章の見解を要約しろ」という課題が出たとしたら、それは抜き書きや引用をつなげただけのものではなく、 最初から自分で考えた文章を書く必要がある 。他の人の意見や書籍を紹介するときも、原則として、 自分でパラフレーズ(言い換え)する必要がある 、ということです(「パラフレーズ」については後ろで説明します)。

剽窃を避ける

剽窃を避けるにはどうすればよいか

著作権は「著作物」としての「表現」を保護しますが、この「表現」とは「アイディア」(頭のなかにあるやつ)ではなく、実際に作品になったもの、論文でいえば文章やデータを指します。アイディア、発想や単なる事実は保護しません。しかし、大学での研究やレポートで問題になる剽窃とは、単なる「表現」ではなく、主にまさに「アイディア」にかかわるものです。言いかえると、他人の発想をあたかも自分が発想したものであるかのように表現することが問題となっている「剽窃」なのです。したがって、剽窃という違反行為を避けるためには、著作権違反を避けるための 「正当な引用」の条件以上のものが求められます

たとえば、インディアナ大学の Plagiarism: What It Is and How to Rocognize and Avoid It というすばらしいガイド12では「剽窃」を「情報源を明示することなく、他人のアイディアや言葉を利用すること」としています。そして、剽窃を避けるため次のことに注意しなければならないと言っています。

次のものを利用するときはいつでもクレジットをつけなければなりません。

  • 他人のアイディア、意見、理論
  • 他人が発言したことや他人が書いた文章のパラフレーズ
  • 多くの人が共通に知っていること(common knowlege)で ない 事実、統計、グラフ、図など(強調は江口)

「クレジット」というのは、(お金に関する「信用」の意味でのクレジットではなく、ましてやクレジットカードではなく)ある成果をあげた人の名前を、その成果を利用したものに記載することです。つまり名誉を称賛する意味で「名前を載せる」ことです。学問は多くの人の努力の上になりたっているので、立派な知見や情報や発想を提供してくれた人の成果を利用する際には、その成果をあげた人の名前を挙げる慣行になっています。いまだに「ニュートンの万有引力の法則」「アインシュタインの相対性理論」と人物の名前がつけられている理論がありますが、それは彼らの業績があまりにも偉大なので万有引力の法則や相対性理論に言及する際には彼らを称賛する意味で名前をつけているわけです。学問の世界は、そうした尊敬と称賛によって成立しています。大学生もそうした称賛と尊敬を学ぶ必要があります13

剽窃を避けるには、著作権によって要求されているように、「正当に引用」するだけでなく、他人のアイディア(発想)や意見や理論を利用する場合にも、それを考えた人の名前をあげなければならない。著作権法での「正当な引用」は「公表されているもの」に限られていましたが、学術での剽窃は公表されている著作物に限りません。知人友人から教えてもらったおもしろい発想についても、正式には、それを明示する慣習になっています14

二番目の「他人が発言したことや他人が書いた文章のパラフレーズ」とは、他人の発言・文章を自分で表現を変えて言い直し、書き直したものです。レポートや論文では、他の人の文章を参考に自分の文章を書いていくわけですが、他人のアイディアや文章であるならばそれをあたかも自分のものであるかのように表現してはいけません。「誰それによれば〜である」「誰それは〜と主張している」のような形で、誰のアイディアであるかを明示しなければならないということです。

また、三番目にあるように、グラフや図も他人が作ったものを勝手にもってきてあたりまえのように提示してはなりません。必ずその製作者あるいは出典を明記してください。多くの著作のグラフに「〜から著者作成」や「出典:〜のものに著者が修正を加えた」のような注記があるのはそのためです。作成者が明示されていない場合は、その著者が作った図やグラフである、という暗黙の了解になっています15。もしそれが他人が作ったものであれば剽窃にひっかかることになります16

共通知識

問題は、「多くの人が共通に知っていること(共通知識)では ない 事実や統計」です。これはレポートを書く上で悩みのタネになるはずです。

この「多くの人が共通に知っていること」(共通知識、common knowlege)はなかなか微妙です。共通知識というとむずかしげですが、単に「みんな(たいていの人が)が知ってること」です。たいていの人が知っている、とはいっても、たとえば日本人ならほとんどの人が知ってること、という話ではありません。なにが共通知識であるかということは、その「たいていの人」が、一般読者なのか、その分野の研究者なのか、ということによっても違ってきます。「光は粒子でもあり波でもある」ということは、物理学、あるいはもっと広く自然科学に興味がある人ならほとんど誰でも知っていることですが、日本人なら誰でも知っている、というわけではありません。その分野に興味ある人のある程度は知っていて、その情報には新規性(新しさ、独自さ)がない、ということです。

高校の教科書で説明されていることは、ほとんどすべて「多くの人が共通に知っていること」だったと考えてかまいません。そしてそれが、高校の教科書で「〜によれば」のような出典が明記されていない理由です。高校までの教育では、日本の教育を受けた人ならだいたい誰でも知っている(ことになっている)ことを学習することになっています。独創的という意味での「オリジナル」な情報は含まれていません(ただし「表現」はオリジナルであり、著作権で保護されます)。

一方、大学では、「一般的な知識」だけではなく「専門的な知識」をも学ぶことになっています。そのため、大学の教科書・テキストの多くは一般人が知らない新奇でオリジナルな情報を含んでいることがあり、そうした新奇な情報や発想には、出典が添えられているはずです。テキストで出典が添えられていないものは、(1) すでにその分野では共通知識になっているものか、あるいは(2) その教科書の著者がこれから共通知識になる べき だ(あるいはもう共通知識と考えてよい)と考えているものか、あるいは、(3) その教科書の著者自身の オリジナルなアイディアや情報 です。

それを読んでいる初学者(学生や一般読者)は、テキストに書かれてあるものが、尊重されるべき(クレジットをつけられるべき)著者のオリジナルな発想なのか、共通知識(あるいは共通知識の候補)なのかを見わけることが できない でしょう。まだ自分自身の知識が少ないので、その分野では常識的なことなのか、著者の斬新なアイディアなのかがわからない。また、情報や発想だけでなく、表現方法(比喩や言いまわしなどの文章のレトリック等)の新鮮さ、おもしろさも、文章を読みなれていない人にはおもしろいものか月並なものかわからないことがあるでしょう。

この問題への対策として、あるアメリカの大学のウェブサイトで、「5冊以上の本などで出典なしに挙げられている」ということを目安として提案されているのを見たことがあります(どのサイトであったかはもうわかりません)。あちこちで出典なしであげられているのは、少なくともその分野の研究者にとっては「共通知」「周知の事実」「定説」なので典拠はいらない、ということです。

しかしこの「5冊以上で出典なしに〜」も難しい課題です。レポートを書くために5冊(5本)以上の本や論文を読んで、それを記憶しておなければならない。大学生の普通のレポート作成では無理でしょう。

そこでもっと単純な原則があります。それは “When in doubt、cite!”17 です。「迷ったら参照しろ」、です。自分がレポートのネタにしようとしている本に書いてあることが、 学者の間での共通知識なのかその著者のオリジナルなアイディアか判断できなければ、常に「〜によれば〜である」と書けばよい 、ということです。一般には、学部のレポートの多くでは誰かの著作やアイディアや調査を紹介するだけでほぼレポートが終ってしまうでしょうから、常に「〜によれば〜だ」と書けばよいし、場合によっては、「以下では〜の〜という著作から〜について紹介する」とあらかじめ断ってそれをパラフレーズして紹介し、いちいちページ番号などを明記していけばよいわけです。いつもいつも「〜によれば」「〜によれば」と繰り返すのがかっこ悪くていやだというひとは、5冊とは言わないので3冊ぐらいは関連文献を確認しましょう。

パラフレーズ

さて、「パラフレーズ」もなかなか難しい問題です。パラフレーズとは、ある表現を他の表現で置きかえることです。しかし、どの程度違う文章にしなければならないのかをはっきりと示している文章を、国内ではほとんど見かけたことがありません。私は、それが大学におけるレポートの剽窃の横行につながっているのではないかと思います。

しばらく前に、この件をよく考えてみなければならない出来事がありました。それを利用して、上のインディアナ大学ガイドのような形で問題を指摘してみたいと思います。

次の文章はソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(高哲男訳、ちくま学芸文庫、1998)18 の一部(pp. 129-130)です。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる。したがってまた、かなり間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣──あらゆる社会の上流階級がもつ礼儀作法の規範体系のなかでも、きわめて重要な特徴──が生じることになった。なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている出生率の低さは、同様に、顕示的消費にもとづいた生活水準をみたす、という必要性に起因している。子どもの標準的な養育に要する顕示的消費や結果的な支出はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう。

非常に示唆的な洞察ですが、こういう硬い文章に慣れない人にはちょっと歯応えがあるかもしれませんね。翻訳調だし。何を言っているかわからない、と思うひともいるかもしれません。

これをある学生さんがレポートで次のように書いていました。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果、他者から見られる生活の公開部分に比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということが言える。また、派生的な結果として、人々は自らの個人的な生活を他人の目に晒されることから守る、と言う習慣を身につける。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになるのである。そして、間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣も生じることになった。顕示的消費に基づいた生活水準を満たすことを考えた際に、子どもの養育に要する支出の増加は極めて大きく、面目を保つための支出に追われているような階級での出生率の低下も考えられる。現代日本の出生率の低下に関しても、原因の一つとして当てはまるのではないだろうか。

この文章を書いた人は、たしかに、レポートの冒頭で一応、

本稿はヴェブレンの『有閑階級の理論』(1998年、ちくま書房、ソースティン.ヴェヴママレン (ママ)著、高哲男:訳)をもとにして〜

と、『有閑階級の理論』をネタにしているとはっきり書いているのですが、それでもこれは剽窃になります。

一つには、 ヴェブレンの『有閑階級の理論』のどのページにあるのか明記していないからですが、もっと重要な問題もあります。ヴェブレンの文章とレポートの文章を比べてみましょう。

実はレポートは、ほとんどヴェブレンの記述の順番そのまま、接続詞その他の細かいところを入れかえただけです。語順もほとんどそのままです。このように、このレポートを書いた人は、ヴェブレンの文章の重要な語句のまわりにある細かい語句を変えているだけなのです。 これも、厳しい見方からすると剽窃とみなされます。

先に言及したインディアナ大学のガイドは次のようなパラフレーズは剽窃であるとしています。

  • オリジナルの文章の一部の語句を変更しただけか、あるいは語順を変更しただけである
  • アイディアや事実の出典を示していない

ふつうの大学生ならば、「出典を示せ」19は耳にタコができるくらい聞かされることになると思いますが、パラフレーズの件についてはあんまり指導されることがありません。

それではどう書けばいいのでしょうか。インディアナ大学のガイドでは次に注意したパラフレーズは正当だと述べています。

  • オリジナルの情報に正確に依拠する
  • 自分自身の言葉を使う
  • 読者が情報源を理解できるようにする
  • オリジナルの文章を正確に記録する
  • 文章におけるアイディアにクレジットをつける
  • 引用記号をつけることで、どの部分がオリジナルのテキストからとられたもので、どの部分が自分で書いたものか判別できるようにする

これは上の著作権での「正当な引用」の要件とほとんど同じですね。しかし、インディアナ大のガイドは、剽窃を避けるためもっと具体的に次のような方な方策を次のように述べています。

  • テキストから直接に書き写したものには常に引用記号(「」)を付ける。
  • パラフレーズする。しかし、いくつかの単語を置きかえただけではだめ。次のようにします。
    • まずパラフレーズしたい文章をよく読む。
    • 手でその部分を隠したり、本を閉じたりしてテキストが見えないようにする(無意識にテキストをガイドにしてしまわないため)。
    • 覗き見せずに自分の言葉でそのアイディアを書いてみる。
    • 最後に、オリジナルの文章と自分の文章をつきあわせてみて、誤った情報を加えてしまってないか、まったく同じような言葉・表現を使ってしまってないかの二点をチェックする。
    • (インディアナ大のには書いてませんが)忘れないうちにすぐに出典をつける20

さっきのヴェブレンの文章の前半を、私が実際に上の方法にしたがってやってみました。

ヴェブレンの『有閑階級の理論』によれば、プライバシーという規範は顕示的消費と関係がある。ひとびとが他の人々に見せつけるために消費するのであれば、他人に見えない部分ではそれほど消費する必要がない。むしろ、顕示的消費を行なうため、見えない部分に費す費用はより少なくなる。そのため、生活の他人に見えない部分は相対的に貧弱でみすぼらしいものになる。そういう貧弱な部分を他人に見せないために、プライバシーを守るという習慣が発生するのである。(ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男訳、ちくま学芸文庫、p. 129)

あんまりうまくないですね。まあ平凡な大学教員の読解力、記憶力、文章力なんてこんなものです。でもこの程度までパラフレーズすれば、「自分の文章だ」と主張することが可能になります。

さらに教員の側から

私自身が拙いパラフレーズの腕を見せたのは、それが ほんとうに難しい ということを示すためでもあります。私の考えでは、学者の腕のよしあしの大きな部分はパラフレーズや要約の巧拙によって決まります。

ちゃんと内容を理解していないと適切にパラフレーズすることはできません。逆に言えば、パラフレーズを見ればその人がどの程度内容を正しく理解しているのかがわかります。大学教員が学生に要約レポートを書いてもらうのは、文献や授業の内容をしっかり理解してもらうためなわけで、つまり「適切にパラフレーズ」させることによって内容を把握させたいと思っているわけです。だからそれは一所懸命やってほしい。

教員の側からすれば、どの大学の何回生がどの程度の文章を書くことができるのかは、かなりはっきりわかっています。文章が異常にうまい、表現が技巧的である、難しい言葉を平気で使う、斬新な発想がある、なんてのはたいていなんらかの形の剽窃が疑われます21。さきのレポートでは、一目見たときはどっかのwebからのコピペに違いないと思いこんでしまいました。その発想の豊かさと、奇妙な翻訳調が、勉強不足の大学院生あるいはかなりあやしい大学教員の文章に見えたのです。

べつにうまい文章、きれいな文章、すごい発想なんていらないから、とにかく自分で書いてみてください。

もっとプラクティカルに

日本の大学生レベルでは、インディアナ大のような注意をする前の段階の学生が多いと思います。私はさらにもっとプラクティカルなノウハウが必要ではないかと思います。やってみましょう。

さっきのヴェブレンの文章を使いましょう。再掲します。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる。

たいていの学生はこれだけの文章もけっこう歯応えがあると思います。どうすりゃいいんだろう?そこでまず、次のように書きはじめてみます。

市民社会でのプライバシーの問題について、ヴェブレンはどう考えているのだろうか。

まず自分で疑問文を書く 。自分で「理解している」こと、「わかってる」はずのことを書くのがレポートなのに、疑問文からはじめるのはヘンだと思う人がいるかもしれませんが、ぜんぜんヘンじゃありません。疑問文はこれから何を探求して答を出そうとしているのかをはっきりさせるよい手段です22

次に、ヴェブレン本人の文章を引用する。さらに疑問文をつけてみる。

彼は「産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる」(p. 119)と述べる。この「排他的」とは、家庭生活を家族以外の人目に触れないようにすることだ。家庭生活はプレイバシーとされる、ということである。しかしなぜ産業的に発達することと、家庭生活が排他的なものになることが関係しているのだろうか。

ここまで来ると、ずいぶん書きやすくなってくる。これなら答えられるかもしれないと思ったら次のようにすればよい。

ここで重要なのがヴェブレンが注目した「顕示的消費」である。顕示的消費とはヴェブレンによれば他人に見せびらかすための余計な消費行動、つまり贅沢である。

「顕示的消費」とかってのを一応説明するわけです。重要な部分(少量!)を直接引用してもよい。

ヴェブレンの指摘によれば、近代的な共同社会では、顕示的消費をおこなうために、他人に見えないところに費す費用を抑えるという動機がはたらく。したがって、家庭の内部での生活は、家庭の外での活動に比べるとみすぼらしいものになるのだ。これが家庭生活を人目から遠ざけようとする動機である。

さらに、自分の体験や観察から例を加えられればよりベター。読者は、「この人実感でわかってるな」と思うことができます。(自分が理解した)具体例はどんどん追加しましょう。

たとえば、大学では華美な服やアクセサリーをつけている女子大生が、アパートに帰るとケバだったジャージ姿でカップラーメンをすすっている、などという光景はいまでも見られるだろう。しかしそういう格好は他人には見られたくない。だからプライバシーが重視されるようになるのだ、というのがヴェブレンの発想である。

もちろんこうして自分の頭で書いていくと、結果的にできるのはヴェブレンの高尚な文章から遠く離れたしょぼいものになる。しかしそれでいいのです。それが文章を書くということなのです。それがなにかを学び理解するってことなのだと思います。

まとめ

  • 他人の文章やデータ、図などは正しく引用しましょう
  • 常に出典をつけること!(出典のつけかたはこのテキストの「引用・参照した文献の書き方」を見てください)
  • 多くの場合は直接の引用ではなくパラフレーズして自分の文章にすることが適切です
  • パラフレーズは難しいので練習をくりかえしましょう

ここまで書いたことは、実は大学低学年ではかなり困難な話のはずです。特に適切なパラフレーズは技術的に難しい。低学年のレポート課題では上のような厳しい基準は使われず、もっと緩やかに評価されるはずです。しかしそれは、教員たちは学生に、順序を負って学問のスキルを身につけてくれることを期待しているからであって、4年間の学習の成果である卒業論文ではしっかり剽窃を避け、オリジナルなデータを集め、オリジナルな文章でオリジナルな主張をしてもらうためのものです。がんばってください。

\section*{参考文献}

  • 田中草太 (2022) 『卒論修論一口指南』、文学通信
  • 時実象一 (2018) 『研究者のコピペと捏造』、樹村房
  • 山口広之 (2013) 『コピペと言われないレポートの書き方:3つのステップ』、新曜社
  • ソースティン・ヴェブレン (1998) 『有閑階級の理論』、高哲夫訳、ちくま書房
  • — (2016) 『有閑階級の理論』、村井章子訳、ちくま書房

脚注:

1

実は「でつぞう」とも読む。

2

「剽窃」が難しい言葉なので「盗用」が使われることが多いようですが、「剽窃」もおぼえておきましょう。

3

大学によっては、その年度のすべての単位の取消、あるいは停学・退学などの規程を定めているところもあります。京都女子大学の学則を確認してみましょう。

4

ただし、文科省(官公庁)の定義がいつでも正確だとか、それにしたがうべきだというわけではありません。あくまで定義と分類の一例です。

5

文科省 (2006) 「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」、 https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/08/__icsFiles/afieldfile/2014/08/26/1351568_02_1.pdf 、p.10。漢字の表記等は変更してある。

6

データの捏造は時々社会的に大きな話題になります。2010年代なかばの「STAP細胞」事件を検索してみてください。また考古学の分野などでも起こります。2000年の「旧石器捏造事件」も検索してみてください。文系でも時々捏造が発覚します。とても高名だった学者が存在しないドイツの神学者「カール・レーフラー」を捏造して大きな話題になり、SNSのジャーゴンとしていまだに使われています。検索してみてください。

7

これは文科省の「盗用」の定義と少し違います。法学者 Richard Posnerの A Little Book of Plagiarism (Pantheon, 2007)で提示されているものに近いものです。

8

しかし(意図したものかどうかはわかりませんが)インチキなデータ、グラフ、不適切な引用、参照なども実は目につきます。

9

こんな言葉を使っている人々を信用してはいけません。

10

ただし日本の大学のレポート程度ではそこまで厳しく指導されていません。減点するかどうかは教員次第。本当はこうなんだよ、ということです。

11

昭和の偉い哲学の先生のなかには、大部分が「」にはいった引用文のつなぎあわせという先生もいらっしゃったものですが、現代では許されません。

12

Indiana University Bloomington, “Plagiarism: What it is and How to Recognize and Avoid It”, https://wts.indiana.edu/writing-guides/plagiarism.html

13

クレジットおよび文献の参照が必要な理由は他にもあります。おもなものは、データや考察の再現性と新規性の必要性と、情報の出所の確認です。田中(2022)の「付録」を見てください。

14

ただし、必ずしも名前をあげなければならないわけではありません。「この発想は友人の〜(実名)氏によるものである」のような表現をしばしば見かけますが「ある知人によれば〜」のような書き方をする場合もあります。自分で発想したフリをしない、というのがポイントの一つです

15

図やグラフは、実際には著者や出版社から依頼された専門家が作っていることが多いのですが、それはそうしたものです。

16

実際には教育の現場ではグラフや写真などはもっとルーズに扱われていますが、教育上の便宜であって、教育現場の外に出るときはちゃんとしなければいけません。

17

この “When in doubt, cite!”自体は多くの大学のサイトで、出典や参照なく使われています。もうみんな(大学教員は)よく知ってる当然の指示なので、出典をつける必要がない。上のインディアナ大学の指示もよく広まった共通知識なので、実は現在では出典・参照を示す必要もたいしてないようなものです。

18

ちくま学芸文庫の『有閑階級の理論』は、現在では村井章子訳の新版になっていますが、これは古い方の訳です。ヴェブレンは19世紀から20世紀にかけて活躍したアメリカの社会学者です。この本は非常におもしろいので読んでみるとよいでしょう。

19

SNSでよく見られる「ソースは?」です。情報元/ソースを求めることは、大学では積極的に推奨されます。むしろ情報元がはっきりしない情報は信じないクセをつけてください。

20

これは、同じ文献を再度読むときにもたいへん役立ちます。読書メモにはかならずページ数まで書いておきましょう。

21

江口はそうしたレポートについては、呼び出して内容について自分の言葉で話してもらうことにしています。

22

「本論では〜をもとに〜を論じる」のような宣言文ではじめてももちろんOKです。ただし、同様の意図からか、最近は「皆さんは〜をご存知だろうか」とかでレポートを書きはじめる人がいますが、これはなんかへんな印象があります。

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