進捗だめです。
しばらくつらくて死にそうでした。国際功利主義学会というところで発表しなければならなかったわけです。ずっと気になってたんですが手をつけられない状態になっていてぜんぜんだめ。プログラムやアブストラクトを見ると海外の大物や、国内の大家か俊英で、私みたいな研究者モドキはいないじゃないの。うわー、怖いー。
最悪の場合は5月にやった発表のスライドをそのまま使おうと思っていたのですが、今開いてみると使いものにならない。そもそも私英語喋れないじゃん。前は少人数の研究会だったからブロークンな英語でも気合でなんとかなるだろう、みたいな感じで発表したのですが、さすがに国際功利主義学会ともなればそれじゃ危険すぎる。原稿書いて読みあげなきゃならん。でも気ばかりあせってなにも進まず。最悪。
発表1週間前のお盆前には完全に煮詰っていて、家から出られない状態に。エクササイズとかもできない。本気でキャンセル考えました。でもキャンセルしたら笑いものになるだろうしねえ。自己評価は最低レベル。っていうか絶望ってやつですなあ。これくらいひどい状態になったのは10年ぶりぐらい。その前となるとやっぱりその10年前。10年に1回のやばさ。
4日ぐらい前に大雨明けの深夜に散歩したらやっと正気に戻る。いや鴨川に飛び込むつもりではなかったですが、それまですごいやばい精神状態だったことに気づきました。やっぱりどんな煮え煮えになっても散歩とかしないとだめですよね。私はそういうのも忘れて部屋や台所は散らかりぱなし、飯はパンやコンビニ弁当、とかになっちゃう。それじゃだめなんですわ。皆さんも困ったら散歩やストレッチしましょう。
資料や昔の勉強メモみたいなのを見直して正気に戻ってくる。
まあ泣きながら書きつづけて、20分ぐらいのトークのため A4 8枚ぐらい書けたのが2日前。
こんなの
先に現地入りしている某偉い先生に送りつけて見てもらって、Google Handoutとかで電話。偉い先生は酔っぱらっていて「だめですね、でももうしょうがないからこれでやったら?」みたいな。泣きながら修正。明け方まで。そのまま移動するつもりだったけど寝てしまって起きたら昼前。やばい。とにかく移動。いくつか発表を聞いて心を落ちつける。みんな賢いなあ。某後輩の立派なキーノートスピーチを聞いて、偉くなったなあ、みたいな。宴会はパスして、チェアやってもらう別の某偉い先生に原稿送りつけてとりあえず仮眠。起きだしてさらに修正しているとその某偉い先生からの駄目出しが届いてうれしい。助かります。ってわけで朝まで。また寝てしまう。
本番。まあ内容はあれとして、発表時間はほぼぴったりだったけど質疑応答の英語ができない。もういい歳して恥ずかしいなあ。やっぱり英会話はいつも練習しておかないとね。若い人びとは本当に語学がんばってください。
夜は晴れて飲み会に軽く参加。若い人びとは勢いがあっていいですね。時代は変わった。
まあ今回は本気で反省しました。余計な学会発表とかするもんじゃないです。半年前の自分が何考えてたのかさっぱりわからない。どうもこの学会は覗いてみたかったんだけど、なにも発表しないのに行くのはいやだなあ、みたいなことを考えてたみたい。しかし自分の実力とかそういうのを把握しておくべきですよね。研修期間で時間があるからなんとかなるだろう、みたいなこと考えてたけど、時間あったって私のようなものはたいしたことはできない。新しいことをするのは無理なんだから、予定どおりこれまで勉強したことをなんとかまとめることを最優先で考えなきゃならない。英語で論文書いたり発表したり、みたいなのもこれまで頻繁にやってきたわけじゃないわけだし。この歳になって新しい技能を身につけるなんて無理。「汝自身を知れ」っていうのはやっぱり「身のほどを知れ」「分相応に生きろ」っていう意味だと思いますね。
まあ研修期間はまだ7ヶ月あります。いろいろやりなおし。人生は続くのです。
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キリスト教とセックス (3) ベンサム先生はイエス先生は同性愛もいけた、と推測している
イエスさん自身は、飲み食いしたりセックスしたりすることを非難したことはない、ってのはベンサム先生が言ってるようです。まあ実際飲んだり食ったり好きな人ですしね。売春とかしている人にも「やめろ」とか言った形跡もない。さらにベンサム先生によれば、イエスさんは同性愛もぜんぜん非難してない。それどころか、イエス先生自身同性愛に積極的だったのではないか、とベンサム先生は考えてます。
「マルコによる福音書」でのイエスさん逮捕のシーンはこんな感じ。
イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 14:44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。 14:45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46人々はイエスに手をかけてつかまえた。 14:47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。 14:48イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。 14:49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。 14:50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
「耳切りおとす」ってのはすごいですね。武器とか用意しているし。イエスさんのまわりはおそらく反権力暴力集団でした。でも当局によって壊滅的打撃を受ける。このあと。
14:51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、 14:52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
なんか滑稽なシーンで、モンティパイソンとか思い出しますけどね。でも悲劇的。この若者は他の偉い弟子がイエスを見捨てて逃げたのに最後までついていった一人。亜麻布ってのは当時は高級品で、この若者は男娼だったのではないかという解釈が昔からあるらしい。ベンサム先生によれば、人びと(訳によっては「若者たち」になってる)がその若者をとらえようとしたわけだけど、これつかまえてなにをするつもりだったのか。ベンサム先生がほのめかしているのは、男色レイプをしようとしたんではないか、とかってことらしい。
あとはまあヨハネによる福音書の最後の晩餐でも、弟子の一人がイエスの「胸によりかかっていた」とか。時代や文化が違うけど、まあそういうのってふつうあれですよね、というわけです。男同士ってふつうそんな身体的に親密にはならんですからね。
ここらへんの話はスコフィールド先生の『ベンサム』で読みました。おもしろいので読んでください。
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ベンサム先生自身のセックス観、同性愛観みたいなのはわりと注目されています。「同性愛について」とかいろいろ文書残してます。まだ十分に解明されてないけど、おそらく性の巨人。最近も哲学関係のブログでベンサムの私生活はどうだったか、みたいなのが研究されてるって話読んだけどURLわからなくなってしまった。
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キリスト教とセックス (2) んじゃイエスさん本人はどうだったのか
んじゃイエスさん本人はセックスどうだったのか。
イエスには妻や子がいたんではないかとか、側近だったマグダラのマリアは売春婦だったみたいだから性的サービスも受けてたのではないか、とかいろいろ言われてますね。でも福音書にはほとんどそういう恋愛・セックスに関するネタがないっぽい。
私が好きなのはここです。ヨハネによる福音書12:2-8。
イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子(でし)のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人(ぬすびと)であり、財布(さいふ)を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
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よくわかんないですね。このマリアさんは「マグダラのマリア」さんとは別人みたい。よくある名前なんすね。でも高級アロマオイルを買ってきて(どうやってその金を手に入れたのか)、足(どの足?どこまで?)にだばだば塗って自分の(おそらく黒くて長い)髪でマッサージする、というのはこれはエロすぎます。300デナリってどれくらいかしらんけどとらいえず30万ぐらいでしょうか。ユダさんが「そんな無駄づかいするんなら貧乏人に寄付しようぜ、おれたちだって腹へってんだし」みたいなこと言うのもわかる。泥棒あつかいするのは気の毒な感じ。イエスさんはマッサージされるのを選ぶ。この箇所っていうのはすごく印象的だし、イエスさんの言葉には異常な魅力があるのもわかりますね。ユダさんの考え方はたしかに効率性とかそういうの重視してるけど、もっと大事なものがあるんだよ、みたいな感じでもあります。ユダさんが泥棒だったかどうかはわからんけど、なんか「浅薄な」功利主義者みたいな感じではあります。でも会計とかまされて四苦八苦しているのに、こんな使いかたされたら怒りたくなりますよね。余ったアロマで自分にもしてほしかったろうし。なんで俺はこんな苦労しているのにこのロクデナシばかり女にもてるのだ。殺す、殺してやる、ってな感じになっても不思議がない。太宰治先生の「駆け込み訴え」も読みましょう。へへへ。私はユダ、イスカリオテのユダ。
もう一つ好きな説教はこれです。
「あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げこまれない方がましである。」(マタイ5:27)
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ここで言う「姦淫」ってのは、結婚している女性とセックスすることです。結婚してないのとはしていかんということにはなってないみたい。それに結婚している男性が他の女性とするのも姦淫じゃないみたいではある。でも結婚してないのにセックスする女性は売春婦やヤリマン扱いされてたと思う。
まあ厳しいですねえ。この厳しさ、外面的な行為ではなく、その動機みたいなのを責めたてるのがイエスさんお教えの基本ですね。こうされちゃうともうほとんど誰でも罪人である。
あなたがたも聞いているとおり、「セクハラするな」と命じられている。しかし、私は言っておく。セクハラな思いで女子学生を見る大学教員はだれでも、すでに心のなかでセクハラしているのである。もし頭があなたをつまづかせるなら、首をもいでしまいなさい。
不倫はなぜ不道徳か (1)
なんか一日「不倫はなんで悪いか」みたいな論文読んで終ってしまいました。
これは「セックスの哲学」の流れのなかではけっこう議論の蓄積がある問題で、Richard Wasserstrom先生の”Is Adultery Immoral?” (1975)って論文が議論のはじまり。ワッサーストローム先生はセックス哲学以外にもいろんな応用倫理学的な問題で重要論文書いていて、この手の議論のパイオニアです。
W先生が言うには、不倫というか婚外セックスはいかんということになってるけど、「いかんからいかん」ではだめでちゃんとした理由を提出しなきゃならなん、なぜ婚外セックスが不道徳なのかを考えようぜ、ってな感じ。婚外セックスが不道徳なのはセックス自体が不道徳なんじゃなくて、裏切りや欺瞞や騙しがともなうからだめなんだろう、ってな感じ。だから婚外セックスするにしても、配偶者に対して嘘や騙しをしなきゃいいんじゃないか、みたいな議論をします。当時っていうかそのちょっと前から「オープンマリッジ」とかはやってたんですね。サルトルとボーヴォワールの関係が有名ですが、バートランド・ラッセル先生ぐらいから歴史がある。とにかく浮気とか隠さないで「今日は〜とやってきたよ」みたいなのをお互いに報告したりする結婚・カップル関係。それなら婚外セックスはぜんぜん悪くないんではないか、みたいな。時代を感じますね。まあここらへんから議論がはじまる。
これに噛み付いたのがMichael Wreen先生の”What’s Really Wrong with Adultery”って論文で、「結婚」という概念には性的に排他的であることが含まれておるのじゃ、みたいな。「結婚とは性的能力の排他的使用を認めあう契約である」みたいなカント先生が好きなんですね。婚外セックスしたらもう「結婚」の概念がなりたたたなくなるからだめです、みたいな。カント先生とかヒューム先生とか貞操についておもしろい話をしているのでそのうち紹介したいです。
んでまあ現代に戻ると、Mike Martin先生ってのはそこらへん見て、いやカント的な「嘘はいかん」とかだめだろう、と。
フェミニストっぽいBonnie Steinbock先生は”Adultery”で、結婚における貞操みたいなのは実際には人々はそんなに実現してないにしても理想として意味があるんだわ、みたいな。
Mike Martin先生の”Adultery and Fidelity”で、婚外セックスはやっぱり一応悪いことなんだけど、自尊心を高めるためだったら許される場合もあるんちゃうか、みたいなことを書いて顰蹙買ったりしてるみたい。
中絶反対論文で有名なDon Marquis先生も重要な貢献をしています。結婚は契約であって、たいていの結婚はそれぞれがより幸せになるためにおこなう結婚だ、と。結婚でもとめるものには愛情とか性的満足とかがはいってて、そういうのが充足されない結婚だったら婚外セックスとかも(いくつか条件あるけど)しょうがないんちゃうか、みたいな。
私が注目してるのはRaja Halwani先生の”Virtue Ethics and Adultery”で、この人はカントみたいな義務だの契約だのの話や、軽薄な効用計算する功利主義みたいなんじゃなくて、徳倫理学で不倫の問題を考えよう、みたいな話をする。やっぱりこういう問題を考えるときは契約や効用云々ではなく、人間の生活のなかで愛とか結婚とかがどういう意味をもってるか、とか、有徳な人はどう行動するかを考えるのがよいのだ、みたいな。
まあおもしろいかっていうと全体としてはそれほどおもしろくはないような気がします。なんかぜんたいに常識的なラインにおさまっちゃうことが多いみたいで。でもまあセックスの哲学というのはそういうのももちろんやっております。
国内でこういう問題についてどういう議論がおこなわれているか調査してるんですが、なんかおもわしいのがないですね。倫理学の人々が議論してないのはしょうがないのですが、フェミニストたちもほとんど議論してない感じ。これは「あんまりない、ほとんどない」ってことが考察するべき問題であるような気はしています。
まあここらへんも議論を紹介するとそれなりに有益なのかなあ、みたいな。でも正直なところ、婚外セックスについての(進化)心理学や社会学その他の実証的な研究入れないと今の私にはそんなおもしろくないなあ。「どうあるべきか」ってよりまずは「みんなどうしてるんだろう?」ってのが知りたいですよね。
認知の歪みと研究者生活
うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。
- すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
- 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
- 心のフィルター。悪いことしか見えません。
- 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
- 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあれは悪いものだ、あいつは悪いやつだ。
- マイナス思考。だめだー。
- 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
- 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
- レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
- 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」
数年前ぐらいから、倫理的な問題を考えているときは、われわれはけっこうこうした認知の歪みの餌食になってしまうことが多いんではないかと考えるようになりました。これらの認知の歪みは、どれもファラシーとか誤謬推理とかって名前をつけられて古代から研究されている詭弁に類するものでもあります。
私がよくやってしまうのはいろいろあるんですが、まずなんてったて「すべてか無か」ですね。論文と本とか読んでても完璧じゃないと意味がない、ここに穴があるからこの論文はぜんぶだめだー、みたいに考えちゃう。いかんです。
「過度の一般化」はまあ自分の体験から「みんなこうだ」「いつもこうだ」とか思いこんじゃうやつ。ピーターシンガー先生が気にくわないと功利主義者はみんな気にくわないとか、英米の倫理学はぜんぶ気にくわないとかそういう感じになっちゃう。「レッテル貼り」とも関係ありますね。「フェミニスト」とか「パーソン論者」「セクシスト」とかレッテル貼ってそれですましちゃう。じっさいにはフェミニストにもパーソン論者にも功利主義者にもいろんな見解があるわけだけど、とりあえず全部同じだー。
感情的推論もよくやります。結論が気にくわないと論理がまちがってるんだろう、論理がまちがってなかったら前提まちがってるんだろう、って思う。まあでもこれは大事ではあるですけどね。自分の利害がからむとどうしたって感情的になっちゃうけど、それはそれで別にしないとねえ。もとから嫌いな人が主張していることだとまちがってるに違いないと思う、みたいなのもある。もう「あいつが言ってるんだったら同意しなくてすむように自分の意見を変えてしまおう」みたいなときさえありますわね。
国内の倫理学でよく見かける気がするのが「心の読みすぎ」ですかね。「パーソン論者は実はこういうことが目的なのだ、こういうことを考えているのだ」みたいに心を読んじゃう。研究会やネットでも、単に質問されただけなのに悪意を推定する、とかってのもよくやっちゃうんじゃないですかね。
こういうのはネットの議論とか見ててもよく見かけるし、こういう思考はわれわれが生きていくために必要なんだとは思います。でもまあ理屈は理屈で考えてみないとならんといつも自分に言いきかせようとしています。
まあ倫理学や各種の応用倫理、とくに生命倫理の話とかは暗くてつらくて悲しい話が多くて、考えてるだけで気分が落ちてくる。情緒的・扇情的な文章を見ることも多くて、毎日そういう文献読んでるといろいろ腹たってきたりしてどんどん「ギギギ……」な感じになってしまいます。気分や感情が認知を歪めてしまうんですわね。そういうのは健康にも悪い。自己評価低めの人とかはなにかしら自分を責めたてて鬱的になるし、自己評価高めな人は他人を攻撃したくなってトラブルを起こしちゃう。まあとにかく倫理学は「べし」思考のかたまりなので、非常に健康に悪いことだけは意識しておいてください。
なんかときどき噛みしめてしまってる奥歯をゆるめてピースってしてみると文献がぜんぜん違ってみえるかもしれません。生命倫理とかそれだけ考えてるとやばいので、なんか楽しい研究も同時にできるといいですね。愛に満ちたセックスとかハッピーなセックスとか楽しいカジュアルセックスとか……いやこれもやばいですね。なにがいいんですかね。
まあ個人的にはキェルケゴールとか読んでで絶望だの不安だのやってたときは毎日死にそうでしたね。そういういやな体験を好んでする人はいないので、あんまり長く続かない。生命倫理もそういうところありました。
そもそも哲学っていうのはソクラテスの昔から「批判」とかを中心にしているので、おそらくネガティブになりやすい。研究会とか読書会とかでも「〜その読みは違うんちゃうか」とか「お前の言ってることは意味不明だ」とか言われまくりですしね。時々冗談とか言ったり、SF的な変な思考実験とかしながら楽しくやりましょう。
まあとにかく楽しくないと研究も長続きしないし発展しにくい。がんばって楽しく勉強しましょう。あんまり禁欲的になっちゃうのはやばい。バーンズ先生も図書館で借りて読んでみてください。
まあとりあえずつらい勉強するにあたってもこのリストいつも見るようにしてみたらどうですかね。実は私一時期パソコンのデスクトップに貼ってました。ははは。
キェルケゴールとわたし(修士課程編)
- まあとにかく大学院進学。西谷先生は私の人生についてほんの数秒でさえ考えてなかっただろう。
- ワープロ買った日から日記をつけはじめているのだが、フロッピーとかなくしてしまった。
- 大学院に入って奨学金もらえることがわかってPCを買ったんかな。んで1989年の5月17日からの日記が残っている。ここらへんから記憶が少しはっきりしてくる。やっぱり日記は大事よね。
- 現在残っている日記の最古の記述は「やっとMifesの使い方が解りかけ、ワードスターも使えるようになったのだが、なんと、この辞書は小さいものだというではないか。100キロバイトも少ないなんて信じられない。どうりで頭がわるいと思ったぜ。これから辞書を鍛えた方がいいのか、はたまた一太郎を使うべきなのか。悩むところではある。」ははは。
- 研究計画とか出さなきゃならなくて苦しんでいるようだ。『不安の概念』読んでなんとかしよう、みたいなことを書いている。フロイトやサルトルの話も出てきているな。
- 枡形先生の授業は前年で終ったのかな?デンマーク語勉強会に参加させていただく。ほんとうに世話なったよなあ。メンバーは前年の購読に出ていた人々。
- 大学院進んだのは、学部生活ではテツガクとかそういうのがいったいなんなのかさっぱりわからなくて苦しんだからとしか言いようがない。まあその時点で離れてればよかったんだけどね。失敗している。苦手なものに自分から寄っていくのは馬鹿である。
- 日記読みなおしても延々苦しんでいる。ははは。
- Mになるとさすがに二次文献を見るってことをおぼえたようだ。Mac C. TaylorのJourney to Selfhoodとか読んでいる形跡がある。いや、これ学部生のときも見てるのかな。この人いまなにやってんだろうね。キェルケゴール → ヘーゲル → ポストモダーンみたいな進み方をした人。
- M1のときから林忠良先生の授業に出てるな。先生はヘーゲルが好きなのでもうけっこう苦しんだ。話を聞いてるとわかったような気がするんだけど、自分でパラフレーズしようとするとできない、みたいな。
- もうヘーゲルの論理学というのはものすごいものでねえ。「AはBである」みたいなのが「すべてのAはB」なのか「すべてのBはAなのか」みたいなのに悩まされる。
- まあ文閲で1日過す日々、だったような気がする。当時はタバコも吸えた。
- まあ学部生からこのころまで、雰囲気が宗教学っぽかった。研究室も森口先生の影響でそういう雰囲気があったんだよな。チェスタトン読んだりしている。
- 無駄な読書をくりかえす。ドイツ語やデンマーク語は読めないから、とにかく英語ぐらいは読むかなー、みたいな。James Collins先生のThe Mind of Kierkegaardとか。
- 読書会ではボンヘッファー読んだりパスカル読んだりカント読んだりしている。
- Josiah ThompsonのKiekegaard: A Collection of Critical Essayっての読んでやっと人間になりはじめる。外国語で分厚い研究書は読めないけど(日本語でも)、短い論文なら読めることに気付く。特にLous Mackeyの”The Loss of the World in Kierkegaard’s Ethics”とか読んで、キェルケゴールを批判するってのはありなんだな、みたいな。やっぱり英米系の伝統の上でちゃんと解釈してちゃんと批判するってのは大事ね、みたいなのに気づく。
- そうやっていろいろ英語二次文献読んでて一番衝撃受けたんはBrand Blanshardの”Kierkegaard on Faith”かな。これは破壊力のある論文だった。キェルケゴールはクソだ!みたいな。英語圏の哲学の伝統からキェルケゴールを読む、っていうのになんか可能性あるかもなあ、みたいな。
- でもまだはっきりした手掛かりはもってなかった。そもそも「倫理学」ってのがどういう学問かのイメージがこの時点でまだなかった。
- 文献でよくひかれているウィトゲンシュタインとか一応読んでる。わからん。
- M1の1月にLanguage, Truth and Logic買ってるなあ。ここらへんでちょっと目覚めた。エイヤー先生は偉大だ。
- 3月に『恐れとおののき』が最高傑作だな、みたいな印象を書いている。
- M2。衝撃の怖い先生降臨。ヘア読む。ここらへんは「功利主義とわたし」で書いたけどすごいショックだったねえ。でもやっと自分の感覚はそれほどおかしくない、って思うことをはじめる。
- 初夏の時点では先生も怖いし、私生活の方でもあれだったので就職するつもりだった。でもまあヘアとそのまわりの議論を見たおかげで倫理学とか道徳とか哲学ってものがなんであるのかやっとかいま見えてきた感じ。
- M2の5〜6月ごろの日記を読むと、「大学院進んだのは失敗だよな」みたいなことばかり書いてる。失敗でしたよ。ははは。まあこのあともずっと「反復」してんだけどね。
- あれ、M2で翻訳はじめているのか。数年後に枡形先生編監訳の『キェルケゴール:新しい解釈の試み』ってのになるやつ。まあここらで英米の研究者の研究を意識している。
- 修論ではまあとにかくBranshard先生の問題意識をもってヘア先生のアイディアをとりいれて『恐れとおののき』読むとどうなるのか、みたいなのを書こう、とか。
- まあそういうんでなんとか修論出す。だいたい原稿用紙100枚分以下、みたいな分量が標準だったが、70枚ちょっと分ぐらいしかなかったんちゃうかな。ははは。
- 就職するかどうかの最大の「あれか/これか」。
キェルケゴールとわたし(学部生編)
なんちって。
- 功利主義とわたし
- 生命倫理学とわたし
の姉妹編。
- もちろん学部生のころはなにも考えてなかった。哲学についてもほとんどなにも知らない状態だったんじゃないのかなあ。
- 3回生になって文学部の授業受けられるようになって購読とか履修しなきゃなんなくて、枡形公也先生の『死に至る病』をドイツ語で読んでる授業に出た。履修しているのは4、5人だったかな。Liselotte Richter先生の訳で。その前に2年ぐらいやってたのかな?もうかなり進んで第二部に入ってたような気がする。
- キェルケゴールは高校の「倫理社会」の先生が好きだったのは覚えている。なんか愛がどうのこうの、とか言ってた記憶がある。でもなに言ってたかは忘れた。
- 『死に至る病』読んでももちろんわからん。なんの話をしているやら。もちろんドイツ語の読めないし。
- それなのになんでかしらんけど「翻訳を見てはいかん」みたいなことを信じていたのでもう地獄。
- でもとりあえず最初岩波文庫の斎藤信二先生の訳見たのかな?やっぱりさっぱりわからん。
- こんなわけわからんのでいいのか、と思いつつ語学に苦しめられあっというまえに3回生終了。なにもわからなかった。
- まあでも当時の私にとってはハイデガもシェーラーもフッサールもカントもどれもこれもなにもわかない状態だったのでなんでも同じ。
- もう一つ、橋本淳先生がキェルケゴールで講義してたんだな。あれ、これ3回生のときか4回生のときかあんまりはっきりしない。文学部旧館のあの広くて天井が高くて暗い講義室で愛だの憂愁なんだのという話をしていらっしゃったのをおぼえている。橋本先生の授業は女子が多かったのでお知りあいになりたくて出ている、とかって哲学科学生もいたはず。私はお知りあいになれませんでしたが。
- 4回生夏前ぐらいに、とりあえずキェルケゴールで卒論書こうかなと思いはじめる。でも卒業の見込みはない。
- まあ高校生のころ大江健三郎先生とか読んで実存主義はかっこいいはず、みたいな。でもサルトルの『実存主義とは何か』すら読んでたかどうか。
- 4回生でも購読の授業に出る。枡形先生にはドイツ語からなにから本当にお世話になりました。Nさん、T君、O嬢などしばらくいろいろやる人間が集まる。ちょっとあとでY君とかも参加。
- まあ購読の授業はみんなで「……」みたいになってるときも多かったなあ。
- 夏までに4回生では卒論書けないことがはっきりする。まあ単位も半分もそろってなかったし当然5回生。
- 概説みたいなのも適当に手に入ったの読むぐらい。まあ日本語でまともな概説書もなかった。白水社の全集の解説とか読んだりしたけどわけわからん。
- とにかく学部生時代はどろ沼。あんまり思い出したくないんよね。まあ4回生のころはもう生活でいっぱいでねえ。
- ハイデガ、フッサール、メルロポンティ、シェーラーとかがよく聞く名前だったかな。あとせいぜいカント。
- とにかくこの時期、「国内二次文献を集める」ということさえ知らなかった。とにかくキェルケゴール先生の本を読む、できればドイツ語で、みたいな。これはいかんよ。概説書読んだら早めにとにかく日本語の二次文献集めてあたりをつけたいものです。
- もちろん外国語の二次文献読む能力はなかった。そんでも5回生のはじめには文学部図書館にあったドイツ語のを1、2冊めくってみたのかな?でも読めない。っていうかほとんど神学系のだから引用とパラフレーズだらけでなにもわからない。
- 「ヘーゲル読まないとキェルケゴールはわからん」みたいな話もあるので『小論理学』ぐらいは見ておこう、みたいな。しかしこれキェルケゴールと同じくらいわからん。地獄。
- 苦しみつつ5回生。でもまあ『死に至る病』はなにか重要なことを言っている、とは思ったわね。
- やっとこのころ文学部閲覧室に収められている修士論文を読む、ということをおぼえる。キリスト教学の人とかけっこう書いてる時代だったので10年分ぐらいは読んだんかな。全員手書きのよい時代でした。
- だいたいみな『死に至る病』か『不安の概念』で、「人間とは何か?人間とは精神である、精神とはなにか?精神とは自己である」みたいなんを議論していた。んじゃ私もそこらへんやるかなあ、みたいな。
- まあでも『死に至る病』のあの部分はいくら読んだって読めるようにはならんのよね。とにかく混乱していた。
- 国内二次文献調べられなかったのは、実際調べるのがけっこうたいへんだったからなんよね。いまだったらCiNiiやGoogle Scholarで一発なわけだけど。それにキェルケゴール関連の人はどういうわけかキェルケゴール先生の本以外の論文とかほとんど参照しない。これはいかん。修論でも国内研究論文に言及しているやつはほとんど見かけなかったような気がする。
- まだキェルケゴール協会や『キェルケゴール研究』みたいなのの存在も知らなかったのかな?
- まあとにかくそういう雰囲気だったのですよ、「とにかく原典を読むのだ」みたいな。
- 苦しみながら卒論を書く。文献のつけかた、引用の仕方もわからん。誰も指導してくれなかったのもあるが、勉強する気もなかった。そういうものが重要だという風潮もなかった(はず)。エーコ先生の『論文作法』が出たのはいつだったかな。
- まあ研究室では院生と学部生ははっきり分かれてる感じだったしねえ。お客さん。それに先輩には「だめな奴だ」って思われてた思うし。実際だめなやつだったし。
- 勉強っていったら、なんとかドイツ語を鉛筆で大学ノートに書き写して、なんとか読んで訳を書いて、思いつきをメモる、みたいな感じだったかなあ。貧弱。ひどい。時間の無駄。でも本気でどうやって勉強すればいいのかさっぱりわからなかった。
- 5回生のはじめぐらいには枡形先生から言われてデンマーク語もいちおう勉強したかな? Teach Yourself Danishとか使った。まあデンマーク語は文法はそんな難しくない。辞書とかも入手しにくくてねえ。
- まあこのころキェルケゴールとかもうあんまり読まれなくなってたんだけど、村瀬学先生の『新しいキルケゴール』っていう本が出て、これはおもしろいと思った。
- とにかく『死に至る病』の冒頭の「自己の定義」みたいなんはわからん。これでは卒論書けない。
- でもいまでもちょっと誇りに思ってるのは、『死に至る病』冒頭の「自己の定義」はあれは結論なのだ、ってことに気づいたことだわね。
- でもこれはひどい。笑える。 https://yonosuke.net/eguchi/papers/soturon.pd
f - 卒論は西谷裕作先生と水垣渉先生におなさけで通してもらいました。ははは。
- ちなみにこの卒論を書くために12月14日ぐらいにワープロ(シャープの「書院」)買ったんよね。「これじゃ書けない間にあわない!」とか思ったんでねえ。それから数日、新聞の文章を打ちこんでキータイプの練習した。馬鹿すぎる。
- さらに卒論提出当日(1月15日?)にプリンタが動かなくなって、生協の展示品使わせてもらって打ち出したのであった。いっかい打ち出してみるとあれなんで、生協で半日卒論書いていた。ははは。
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ブックガイド:倫理学入門の読書順
サンデル先生がテレビで放映されたり児玉聡先生の『功利主義入門』が出たりして(英米系の)倫理学が人気なようです。入門書を読んでいくおすすめの順番を考えたり。
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まあやっぱりここらへんから。非常にクリアなのでどんな人でも読めるはずです。
これは超初歩。クセがなくていいけど、ちょっと教科書っぽすぎるかもしれない。
2015年に出た品川哲彦先生の『倫理学の話』もここらへんで読みたい。大陸系の考え方も検討しているのがポイントです。
まあでもやっぱり英語圏のやつをちゃんと読みたい。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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最初の方だけ読んでわかったつもりにならないで、最後まで読みましょう。ネットで「トロリー問題で議論するサンデルは〜」って言ってるひとたちは最初の方しか読んでないみたいです。サンデル先生自身の立場はうしろの方に出てくる。
晃洋書房
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いま国内で出ているなかで、一番標準的な倫理学の教科書として使えるのはこれです。
『法哲学』ってことになってるけど、倫理学と共通の部分も多いし、権利や自由などの面倒な概念についてわかりやすい説明があるのでおすすめ。
伊勢田先生のこの本も入門書としてとてもよい。肉食とか菜食主義とかそういうのからはじまって具体的な問題を通して進んでいくので実感しやすいはず。
これはほぼ専門書というか、この本読みおえたら倫理学入門はおしまいです。「倫理学」の授業のテストでは必ずAをもらえるでしょう。
私個人としては、本当は倫理学ってのは、上にあげたような「正しさ」「正義」「権利」なんかだけじゃなく、もっと個人的な幸福、よい生き方、それにさまざまな道徳的・非道徳的感情を扱うもんだと思うけど(そこに政治哲学や法哲学との考察対象の違いがある)、そっち方面でよい入門書は今のところあんまりおもいつかない。
生命倫理学とわたし
なんちゃって。「功利主義とわたし」 の兄弟編。
前史
- 学部~Mのころはなにも考えてなかった。アルバイトだし。卒論はキェルケゴール。修論も。
- でも小学生のころから医学とか生物とかそっち系の科学とは好きだったねえ。学研(?)の学習マンガシリーズで『人体の不思議』とか『生命の神秘』とか買ってもらってね。小学3~4年生で子どもが『生命の神秘』読んでたら親心配したろうねえ。なんか男性が水撒きホースにぎってましたよ。どういう意味かはさっぱりわかってなかった。次の瞬間には精子が「わーっ!」って泳いでいて、受精して発生がはじまっているという・・・
- うちのあたりでは学業優秀な子どもは山大医学部に入って医者になるとかそういう感じだったので、自分もそうなるかなとか思ってたような気がする。
- 高校生物で発生のあたり習ってたときに、「んじゃ人間ていつから人間なんだろうね」とかそういうことを考えたり。文学とかそっちはまってたこともあって、「これは科学の問題じゃないよね」みたいな。大江健三郎先生の『個人的な体験』とかも読んでますた。
- 高2の物理があれでね。もう赤点の連続。赤点とったのなんかはじめてだったわ(いや、1年生の数Iの最初の方でもとったかな?でもそれはすぐに挽回できた)。とにかく物理は謎。反作用てなんだ!向こうから押してるのはいったい誰だ?ハンマー投げがどっちの方向に飛ぶかわからない。あれはさぼってたのも悪かったけど教師も悪かったわ。
- まあそんなんで完全に文系になってしまう。あ、高校の思い出じゃなかった。
- まあとにかくD1ぐらいまでは勉強ってのは誰か偉い人の思想を勉強することだった。
大学院生~OD
- しかしなんか世間が脳死だなんだかんだって騒いでいるので、そういうことも勉強しないとね、みたいなことに。梅原猛先生とか哲学者代表だし。
- 研究室の偉い先輩たちが加茂直樹先生を中心に研究会とかやってて、『生命倫理の現在 (SEKAISHISO SEMINAR)』*1とかすでに出してた。怖くてどういう人たちか知らなかった。まだ加藤尚武先生のことはアイデンティファイしていない。
- 加茂先生たちのグループの名誉のために書いておくと、京都で生命倫理の研究が進んだのは加藤先生がいらっしゃる前から。加茂先生のグループと飯田・加藤先生のグループは同時期にまったく独立に活動していたはず。加藤先生の京大就任にともなってそれが融合されるというかそういうグループ分けはなくなるわけだけど。とにかく飯田亘之先生と加茂直樹先生の活動の意義は軽視されすぎ。
- あ、医学哲学・倫理学会はもっと前から活動しているはずで、そこらへんがどうなっていたのかは私はよく知りません。すみません。偉いです。あと他にもたくさん偉い先生はいらっしゃる。星野一正先生とか木村利人先生とか・・・名前はあげきれないです。
- 日本生命倫理学会は1988年から。医学哲学・倫理学会はもっと古くて1982年からのはず。
- 1990年の日記(1990/4/9)にこんなこと書いてるのが「生命倫理」の最初の記述みたい。
情報整理の方法を考える時期にきていると思う。フェミニズムや生命倫理を考えるなら、情報が大事だ。新聞の切り抜きなどは馬鹿らしいが、ある程度情報を集めなくてはならない。どうするか。
- あれ、これはM2のときだね。それにしても文章が子どもっぽい。
- 1991年1月16日にはこんな感じ。
また読書会をしようという話がある。今度は生命倫理についてだが、何をネタにしていいのか悩むところだ。
- 1991年(D1)の年は怖い先生(2年目)が生命倫理の授業を半年やった。『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』が教科書だったか。
- あれ、けっこう記憶違いがあることに気づく。主に脳死のあたりやったんじゃなかったかなー。そのあとすぐ海外研修に行かれたんよね。半年研究室に教官がいないという状態になったような。
- まあとにかく読書会なんかしたり。怖い先生はともかく、その前任の先生が非常に寛大な先生だったので、基本的に院生は放置されるのがデフォルトであるという意識。自分たちでいろいろ組織しないとならん。今思えば恐い先生にもっといろいろ教えていただけばよかったんだけど、そういうことをお願いしてはならんのだ、とか思いこんでた。
- でもこれはもう読書会とはいえないようなお茶飲み会。科哲の大将から見るとこんな感じ。
動物倫理との出会いは、大学院生時代に同じ研究室の先輩や後輩数人とやっていた生命倫理学研究会にさかのぼる。これは雑談とも勉強会ともつかないスタイルでそれぞれのテーマについて話し合う、今から思うとずいぶん生ぬるい研究会だったが、そういうところで勉強したことがあとまで生きることになるのだから分からないものである。(伊勢田哲治、『動物からの倫理学入門』p. 355)
- ほんとうに人生とは分からないものであるね。
- でもそれまでの研究室の読書会ってのは、なんかすごい本(『イロニーの概念』とか)を少しずつ読む、ってのが基本スタイルだったみたいなんだけど、この読書会は1回で1本読む、とかそういう感じにしたんだったよな*2。
- 基本的には3~5人ぐらいでBioethicsっていう雑誌の論文を読みましょう、みたいな感じ。へえ、QALYとかってあるんですか、なんかあれだねーとか。なんかそういう感じ。牧歌的。でもそういう勉強スタイルもそれまでの研究室の雰囲気ではなかった。医者呼んできたりもしたり。細長い狭い狭い部屋で和気あいあい・・・でもなかったか。
- 「千葉大の資料集」というのがあることを知る。ここらへんで加藤尚武先生の名前を知ったのかな。もちろん『バイオエシックスの基礎』の編者として知ってる。「千葉大の資料集」は関西にはあんまり流れてきてなかったず。
- 1993年に、「千葉大の資料集」にシンガーの妊娠中絶/新生児の治療停止の紹介文を書け、という話が入ってくるのでシンガー読んでなんとか書く。苦労したしけっこう煩悶した。科哲の大将も同じ課題わりあてられたので、読書会でいろいろ意見交換したりしたはず。できたの開けてみると土屋貴志先生が同じのネタにしてスマートなの書いててあれだった。土屋先生もかっこよかったんよねえ。
- 飯田亘之先生実物が京都に来られて、社交辞令として褒めてくれたり、いくつか助言いただいた記憶がある。でもあれはありがたかった。飯田亘之先生はいろいろ本当に偉いんだよな。どうしても太陽のような加藤先生の陰になって光が当たらないかもしれないけど、日本の生命倫理を研究者組織して本当に立ちあげたのは飯田先生。加藤先生はむしろ宣伝役というかなんというか。
- 1994年にその加藤先生が教授として就任。
- 私はこの年から晴れてOD。私は形としては加藤先生の弟子筋ではない*3。でもほんとうにいろいろお世話になりました。
- 就任前には迎撃体制をとっておこう、ってんで対策読書会したような気がする。「おもしろいけどちょっと具合悪いところもあるね」みたいな感じ。しかし偉大なことはわかった。実際偉大。
- 奨学金切れて塾講師暗黒時代突入。勉強する時間なんてない。あんまり思い出したくないのだが・・・
- 1994年に研究室の紀要で生命倫理特集したんだっけか。まあ千葉大の資料集に載せてもらったのを焼き直す。
- 1994年の12月(OD1年目)に加茂先生たちの生命倫理研究会で発表させてもらったようだ。選択的妊娠中絶の話をしようとしたけど、なにをどう議論していいのかわからなかった。この日はほんとうに最悪の思い出だなあ。朝、「今階段から落ちたら発表しなくてすむかなあ」とか本気で考えた*4。以降この研究会にいろいろ厄介になる。御指導ありがとうございます。
- 1995年には加藤先生がヒトゲノムプロジェクトの倫理的問題みたいなのでお金をひっぱってくる。偉い。
- でも時間がなくてちゃんと貢献できず。すみませんごめんなさい。なんか嚢胞性繊維症のスクリーニングみたいなので紹介文書かせてもらうが、勉強不足でだめすぎる。いまだに公開できない。ていうか自分のなかではなかったことになっている。
- ジョナサン・グラバーの『未来世界の倫理―遺伝子工学とブレイン・コントロール』の翻訳にも参加させてもらう。おもしろい!これは今読んでもおもしろい。
- まあとにかく人生最大の暗黒時代に襲われていて、生命倫理どころじゃなくなっている。もう自分が生存するだけで必死。
- でも非常勤の授業では生命倫理とかの講義もたせてもらったりして、とりあえずちょっとずつ勉強はしてた。
- 信州大学にいる立岩真也先生がなんかすごい文献データベースを作っていることに気づく*5。
- 読書会はけっこう続いたんだけど、科哲の大将が留学することになっていったん終了。あれ、某女史が留学するからだったかな。記憶があいまい。とにかく忙しくて勉強どころではない。
- 読書会はいまオハイオにいる功利主義女子が主催して第2期に入る。医学部の建物そのものまで侵略してすごい。そのころには私は時々顔出させてもらう程度。「♪とにかく時間が~足りない」
- いつのまにか、「倫理学本道と生命倫理学あたりの応用倫理学の二本建で業績つくっておかないと就職できないよ」みたいなのが通念になってる。それでいいのかってのはあれだよなあ。
RA/常勤職時代
- 90年代後半には一気に生命倫理とかの本がたくさん出た。
- 立岩先生の『私的所有論』読んでわけわからず、でもなんか圧倒される*6。
- 運よく給料をいただける身分にしていただく。感謝感謝。
- でもネタが「情報倫理」とかだから生命倫理のことはあんまり考えてない。
- 情報倫理は生命倫理ほどおもしろくないなー、みたいな。
- いやもちろんおもしろいネタもいろいろあるし。
- このころになってやっと、ちゃんと「イントロダクション」や「ハンドブック」や「リーダー」読んで、お金かけてそれなりに文献集めてから仕事をするのだ、ってことがわかってくる。遅すぎる。でもいまじゃ一般的なこのスタイルは、95年には一般的ではなかったんですよ。
- まあでも生命倫理は流行でいろんな人がやってるから、情報倫理で一発当てる方があれかな、みたいな感じでさようなら生命倫理学。
- でも気にはなっていた。
- 運よく常勤職ゲット!っていうかもらった。
- わーい。
- 好きなことしたいなー。
- やっぱり生命倫理気になるよなー。特に選択的妊娠中絶なー。
- フェミニズムも気になるんだよなー。大学が大学なだけにフェミニズムもそれなりにまじめに勉強しないと。
- 井上達夫・加藤秀一論争があったことはこのころに江原先生のやつで知る。まあよくわからん。そんなん大昔に議論されつくしたことじゃん、みたいな印象。
- 胚の利用とかES細胞とかで世間がさわいでるよ。
- なんか少し勉強するかねえ。
- 脳死も勉強しないとね。とかいいつつ4、5年すぎる。
- と、なんかとにかくトムソンの議論もパーソン論も紹介なんかおかしくね? っていうか森岡先生の『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』あたりからなんかいやな雰囲気だったんだけど。
- 『異議あり!生命・環境倫理学』とかひどいなあ・・・
- なんか勉強しないで生命倫理について書いてる人が増えてね? 業界が大きくなって海外文献読まずに国内の文献だけで議論してる?
- 山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』とかもなんかおかしくね?
- 小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』。こ、これは・・・
- まあここらへん別ブログで遊んでいたときに発見したわけだけど。
- 2006年ごろ『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』に遺伝子治療の件とか書かせてもらって生命倫理学に復帰する準備。
- よく見ると、『バイオエシックスの基礎』の訳はいろいろ問題ありすぎ。もちろん黎明期にはああいう形で出すのは意味があるけど、流行りで生命倫理学やってる研究者たちがちゃんともとの論文読んでないってのはこれはもう許せん。
- というわけで学会に殴りこみに行くかなあ、とか。2007年ごろ。まず研究会で発表してまわりの人をディスり、学会でも全員ディスる発表して、その原稿を大学の紀要に載せた。今思えば学会誌に載せりゃよかったんだけど、なんか面倒だし、なるべく早く一目に触れる情報にしたかった。
- 学会はけっこうな人数がいたんだけど、「トゥーリーの議論についてはここにいらっしゃる方々はみな御存知だと思いますが、魔法の子猫について御存知の方はいらっしゃいますか?」って聞いたときは気分よかった。「それではトムソンの最低限良識的なサマリア人はどうですか?」ははは。あれは人生で最高に痛快な一瞬の一つだったかもしれない。
- でもそういう全力ディスり論文を書くと、「んじゃお前がやれよ」って話になるわけで、翻訳しなおさないわけにはいかんわねえ。
- でも日本語が不自由でね・・・・天気悪いと仕事にならんし。
- とかで今に至る。
*1:この本、まだどこかで教科書として使われてるらしい。すごい。
*2:ここで研究室の伝統というか上下の連結がが一回切れているわけだが、それについて今考えるといろんなことがあれだ。まあ苦しかったかもしれん。
*3:そして残念ながら怖い先生の弟子筋とも言いにくい。I’m a self-made man, and am proud of it、と言うべきなのかなあ。
*4:でも逃げなかった自分を褒めてあげたい。
*5:立岩先生はインターネットの威力を一番最初に使った学者の一人だと思う。
*6:ここでなんか反応するべきだったんだよな。
wikipediaはバカな教員より正確なこともあります
前日、うっかり下のようなことを書いてしまった。
Wikipedia (ja)の「自然主義的誤謬」の項。これもぜんぜんだめ。
っていうかなんでこんな奇妙な間違いかたをしたエントリになってしまうのか理解できない。
どうしたらいいんだろう。せめて英語版を超訳すりゃいいのに。うーん。まあ放置、でいいのか。よくないような気がしてきた。
しかしこのエントリは正しいのではないかという
つっこみがあり、私の勉強不足の可能性がある。よい機会なので今日勉強しよう。
問題は§24のあたりだわね。あ、自分で読んで線引いた形跡がある。’
なるほど、
・・・あまりにも多くの哲学者たちが、あらゆるよいものに属している(「よさ」とは)なにか別の
特性を名指すことによって、「善い」を定義していると思いこんでしまっている。そして、また、こ
れらの特性が、事実として、「別の」ものではなく、よさと絶対的にまた完全に同じものだと思いこ
んできた。こうした見解を私は「自然主義的誤謬」と呼びたい。そして、これから、この誤謬を
排除するよう努力してみたい。(§10末尾)
この章と次の章で、私は善が自然的対象に言及することによって定義できるという
仮定にもとづくことによって流行している諸理論を扱う。これらの理論が、この章のタイトルにして
いる「自然主義的倫理学」と私が呼ぶものである。私が「形而上学的倫理学」を規定するために用い
る誤謬は、種類において同一ものであることが理解されるべきである。したがって私はその誤謬に、
「自然主義的誤謬」というたったひとつの名前を与えることにする。(It should be observed that
the fallacy, by reference to which I define “Metaphysical Ethics,” is the same in kind;
and I give it but one name, the naturalistic fallacy.) (§25、原書p. 39、邦訳p.50)
なるほど。
そして§67あたりでも実際にスピノザやカントみたいな人びとも「自然主義的誤謬」を
犯していると非難してるわね。ここもなんと赤線引いてある。なにかの折りに確認してんだわ。ぐは。
うーむ、ムアの用語の選択はムア独特の筋の悪さを示しているが、これは歴史的にはしょうがないねえ。
だからwikipediaの記述は一応正しい。私の勉強不足、理解不足。
でも記述の方法にはやっぱり文句があるような気がするなあ。
あとでどういう記述なら文句ないのか考えてみよう。
・・・うーん、まあ最初に一般的な用法を提示してくれないからか。
いわゆる「独自研究」に近くなってるからかもしれない。日本のwikipediaで
気になる「一般に認められている~はまちがい」とかっていう否定的な記述が気になったのかもしれない。
小谷野敦先生なんかが編集した奴に多いんだけど、そういうのってなんか百科事典にしては
「我」が立ってていやなのかもなあ。
Blackburnの The Oxford Dictionary of Philosophy だと
ムアの『倫理学原理』で指摘された誤謬。倫理的観念を、「自然的」観念や、事物をよい/悪いもの
にする特性の記述と同一視すること。したがって、もしあるひとの基準が功利主義的であれば、ある
行為をよいと述べることは、それが他の行為よりもより多くの幸福を生み出すと述べることと同じで
ある。このようにして語の意味を同一とみなすことが誤りであることはほとんど確実であるが、
ムア以降の研究においても、ムアの論敵(特にミル)がこのようなものにもとづいた推論の
エラーを犯しているかどうかは確かめられていない。「未決の議論」も見よ。
あ、これは辞書だった。まあStanfordのあれでもいいけど、最初はふつうに「よさ、悪さなどの倫
理的観念を、自然的性質によって定義しようとすること。ムアによって誤謬であるとされたが、その
後誤謬であるかをはじめとしてさまざまな議論がある。」ぐらいに書いておいてほしい。んで微妙に
詳しくなってほしい。英語版でも最初はいちおう「「よい」を自然的性質によって定義しようとする
こと」って書いてるわけで。まあここらへんお前が書けってことか。
wikipedia触ってみるよい機会なので、ちょっとドラフト作ってみる。
非常勤問題と正義
私は で不用意に
「大学こそは昔から「不平等」という意味での不正義のスクツです」
とか書いちゃったら、http://d.hatena.ne.jp/satoshi_kodama/20080806#1218005891
で正義ってなんだって(暗に)つっこまれてしまったわけだが、ちょっと考えてみないとな。
非常勤の待遇が「正義に反してる」っていう感覚はどっから来てるのか
ってことだわね。
たしかに労働基準法に反しているわけでも、第三者によるひどい賃金ピンハネがあるわけでも、
格差そのものが不正だといっているわけでもない。好きなこと好きにする金を出せと
言っているわけでもない。んじゃ何か?私が「正義に反するなあ」とか書きたくなった
ときに私の頭にあったものはなにか。
児玉先生があげているなかでは、搾取とか、だめ中年が女子大でうはうはいってるのに
優秀な若者が職につけない不公正とかがポイントな気がするんだが、まあ
誰かが「正義」とかもちだすときはもうちょっと別のことを主張しようとしてる
可能性があるんじゃないかと思っている。
私が「正義」について議論されているのを見聞きするときに一番強く感じるのは、
「正義」ってのはたんなるルールの問題ではないかもしれんってことだわなあ。
ある種の倫理学者や政治学者は、適正な手続きにもとづいていれば
それが「正義」だってことを簡単に認めすぎる。「正義」について語るとき、
「正義のルール」ではなく「正義という感情」について語っているのかもしれない。
またミル先生出しちゃうけど(もう本当になんとかの一つおぼえなんだけど、使いやすいんだわな)。
To recapitulate: the idea of justice supposes two things; a rule of conduct, and a
sentiment which sanctions the rule. The first must be supposed common to all mankind, and
intended for their good. The other (the sentiment) is a desire that punishment may be
suffered by those who infringe the rule. There is involved, in addition, the conception of
some definite person who suffers by the infringement; whose rights (to use the expression
appropriated to the case) are violated by it. And the sentiment of justice appears to me
to be, the animal desire to repel or retaliate a hurt or damage to oneself, or to those
with whom one sympathises, widened so as to include all persons, by the human capacity of
enlarged sympathy, and the human conception of intelligent self-interest. From the latter
elements, the feeling derives its morality; from the former, its peculiar impressiveness,
and energy of self-assertion.要約すると次のようになる。
正義の観念は二つのものを前提している。行動のルールと、そのルールを是認する心情である。前
者は人類全部に共通で、人類の善をめざすものであると想定されていなければならない。後者はその
ルールを侵そうとするものは罰を与えられてもかまわないという欲求である。さらに、(正義の観念
には)その侵害によって苦しんでいる特定の人の観念—そのひとの権利が侵害された—も含まれて
いる。そして正義の心情とは、自分または自分が共感をいだいている人びとに対してなされた危害や
損害に対して反撃し仕返ししようという動物的な欲求が、人類の拡張された共感能力と、知的な自己
利益の観念によって、すべての人を含むほど拡大されたものであると、私には思える。
正義の感情は、後者の要素[共感や利己心]から、その道徳性をひきだしており、また
前者の要素[復讐心]からその特有の強烈さと自己肯定のエネルギーを得ているのである。 ミル『功利主義論』第5章*1。
「正義に反してるぞ」とか「正義を実現しろ」とか言うときってのは、 なんかその背後には強い憤りのような感情がある*2。
さらにその憤りは、誰かの権利が侵害されているとか、誰かが傷つけられているとかって
認識がある。それが共感とかによって拡張されているのが正義の感覚と。
んで、ちょっと前の記事で大学の非常勤の扱いは正義に反していると
私が書いてしまったときには、どうも常勤職の待遇と比べてあまりにも不平等だってことだけじゃなくて
なんか専業非常勤って仕事自体が人を傷つけるところがあると感じてたみたい。
はてブ見てたら
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060429/p1
がそこらへん重要なところに触れているように思う。
まああんまり自分でもはっきり意識してなかったけど、猿虎先生のようなことは
いろいろ感じていて、それが一昨日のエントリ
の細かい改善箇所なんかに反映しているように思う。たとえば猿虎の人は
「同僚がいない」って孤独感を述べてるけど、これほんとに深刻なんよね。居場所がない。 常にアウェーでホームがない*3。大学行っても
いる場所がないし、講師控え室とかお互いにストレンジャーどうしの透明人間の部屋。
大学関係者が一番孤独を感じる場所は大学非常勤控室だ。
いまはまあどこの大学行こうが平気だけど、むかしはずいぶんつらい思いをした記憶がある。
(あ、行ってたの名誉のために書いておくと、どこもまともでちゃんと配慮してもらってるところばっかりだったけど、それでもけっこうつらかった)
専業非常勤講師ってのは他にもほんのちょっとしたことに傷つく弱い存在なんだわな。 専業非常勤とかやってるとなにかが蝕まれていく感覚がある*4。
まあ私の場合は出身研究室の組織がしっかりしていたし、出入り自由にさせてもらったり人びとと顔合わせる機会を作ってもら
ってたんでなんとか生きていけたけど、研究室組織が弱いところ、ばらばらのところ、そこと
うまくやってけないひとなんかは生きていくのもしんどいだろう。読書会や研究会も重要だわね。
でも学生さんと年はなれちゃうと顔も出しにくくなるだろうし、勉強するまとまった時間がとれないとそういうところにも顔出しにくくなって出られなくなっていって死にそうになる。
あれ、なんかまとまらなくなってきたな。えーと。
つまりね、「正義に反する」とかってときに言われているのは
単に行動や分配のルールだけじゃないかもしれないわけだ。むしろ
傷つきやすさやそれに対する配慮にもとづいたもんかもしれんし、 そしてそれが欠けていることに対する怒りだったりする*5。
「正義」がたんなるルールや分配の手続的な公正さに関するものだと思いこんでしまうのは非常に危険に
見える。そこらへんで先月やってた「ケアの~」「耳をかたむけて~」とかやりたい人びとが考えていることには
共感しないでもないわな、とか。そういうこと考えた。なんか頭の調子悪くていつもにもまして
まとまりがわるすぎるけどまあメモ。
*1:中公の訳はこの部分かなりあやしいので訳しなおした。
*2:もしかしたら「処罰感情」は強すぎるかもしれない。
*3:いまどこいっても平気なのはホームがあるから。
*4:同じことは他のいろんな仕事についても言えると思う。日雇いバイトはつらい。私の場合、自分で物理的・社会的環境を変えていくことができないときに特にとてもつらい。
*5:「正義」なんて曖昧な言葉を使わず、そこらへんちゃんと書くべきだったかもしれん。
レポートについてつらつらその後:いっこ忘れてた
あ、昨日の記事ですごく大事ことを書きわすれたからインフォメーションとして書いとこう。 特にsjs7学兄あてってわけじゃない*1。
そういう「正しいレポートの形式」とかを一生懸命勉強して、そのような形でレポートがあらねばならないと思って、それで正しいレポートが書けるようになったとしても、それによってレポートを書くのが「楽しくない」と思ってしまったら、元も子もないと思うからなんだよね。http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20080730/1217428542 (誤記らしきものは訂正した)
このタイプの主張は他でも時々みかけるんだけど、こういうタイプの不安にはけっこう強力な反論がある。それは、いったんまともな書き方、考え方がどんなものであるのかを知れば、それを知った人がそれによって(たとえば)レポートを書くことが楽しくないと思うようにはならない、ってことだわね。レポートだけじゃなく、ブログだろうがなんだろうが、よい書き方がどういうものかを知ってしまった人が、それを知らなかった状態に戻りたいと思うことは本当にめったにない。「正しい書き方なんて知らなかった方がおもしろく書いてたなあ」とか思うことが経験的にほとんどないのね。実際にはむしろ楽しくなる。どういうわけか発展の方向は一方通行なのね。
同じようなことは音楽とかでもあって、和音その他のポピュラー音楽理論をまだ知らない人が「そんなん勉強したらオリジナリティなくなっちゃう」とかわけわからないことを言うことがあるけど、いったん楽譜の読み方や和声理論を勉強した人が「勉強しなきゃよかった」「楽器弾くのが楽しくなくなった」とか言うことは滅多にない。実際のところ見たことがない。美術系だとデッサンの練習とかまあいろんな分野で同じ
ことがいえるはず。
もちろんこれは人類の経験としてそういうことはめったにないってだけで、原理的にありえない、可能性としてまったくありえないって話ではない。そういう人も少数でもいるかもしれないし、「俺は勉強するんじゃなかった」とか言うひともごくまれにまあいるんだろうけど、それよりずっと多くの人が「あんとき勉強しときゃよかった」とか「いまからでも勉強しなきゃ」って思っている。そういうんで、少なくとも平凡な人間にとっては、まあ、多数の人びとの長い間の経験は尊重に値する。学問とかその他のいろんな知識や技術ってのはそういう多数の人びとの経験と努力のよせあつめなわけで、大学教員とかはそういうものを尊重する。っていうかそういうのがおそらく大学だけじゃなくてすべての教員の任務。だからそういうものの価値に気づいていない人間が大声で叫んでたら(余力があれば)攻撃するし、学生ならば単位を盾に説教して回心するよううながし、同業者でおかしなことを言っている人間がいたら叩き出すよう努力する。
私の好きなエリート主義者・完成主義者ミル先生はこんなこと言ってる。高校「倫理」の教科書にも載ってるような超有名な箇所。
それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられたら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐてれいて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。
ところで、両方を等しく知り、等しく感得し享受できる人々が、自分のもっている高級な能力を使うような生活態度を断然選びとることは疑いのない事実である。畜生の快楽をたっぷり与える約束がされたからとって、何らかの下等動物に変わることに同意する人はまずなかろう。馬鹿やのろまや悪者のほうが自分たち以上に自己の運命に満足していることを知ったところで、頭のいい人が馬鹿になろうとは考えないだろうし、教育ある人間が無学者に、親切で良心的な人が
下劣な我利我利亡者になろうとは思わないだろう。
こういう人たちは、馬鹿者たちと共通してもっている欲望を全部、もっとも完全に満足させられても、馬鹿者たちより余分にもっているものを放棄しないだろう。(J. S. ミル、『功利主義論』、早坂忠訳、中公世界の名著『ベンサム・ミル』、下線はこのブログ書いてる人間。)
ここは、まあ、読みようによってはひどい文章だし、つめてみるといろいろ問題がある箇所でもあるんだけど、レポートや一般に文章に関していえば、いったん高級な能力を身につけた人がもとの状態に戻ろうとすることはほとんどない、ってことだけははっきり言えるだろうと思う。私ももっと高級な能力を身につけたい。もしこういう考え方に興味や反感を感じたら、そういうのをまともに読んでみればよいと思う。そうすれば、やっと大学での勉強とかっての仲間入りしたことになるんだと思う。ところがそうすると、どういうわけかこれがもとの状態にはなかなか戻れなくなるんだわな。そしてその方が楽しい。うははははあ。
*1:けどまあ、暴れ方にいろいろ感じるところがなかったわけではない。
まだ文献あつめ
ヨナスには興味はないが。
尾形敬次先生
- 尾形敬次「存在から当為へ:ハンス・ヨナスの未来倫理」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006273675/ 。ほう、これは役に立つ。
ヨナスの思想は一般の人びとや政治家たちには高く評価されている。連邦政府の現政権党である社会民主党は積極的にヨナスの思想を自分たちの政策に導入してきた。一方、大学の哲学研究者の間での評価は必ずしも高いとはいえないらしい。
- なるほど、そうだろうな。
「我々の議論は証明ではない。なぜならそれは証明不可能な公理的前提に結びついているからである。すなわち、第一には責任能力そのものが「善」であること、したがってその存在は非存在よりも優っていること、そして第二には、そもそも存在に根ざす「価値」があること、つまり存在が「客観的」価値を有すること、これらの前提である」(PUMV, S.139)
- あら、こんなこと言ってるのか。まあそりゃそういうことになるわな。しかしこんなもの前提していいんだった、もはや形而上学いらんだろう。最初っから「人間の生には価値がある」だけで十分。なんだかなあ。
- 太田明先生の「責任とその原型」(1)~(4)。「予防原則」とか。なるほど。上の尾形先生の社会民主党との関係の指摘とあわせて、やっとヨナスがなんで重要とされているのかわかってきたような気がする。やっぱりここらへんは政治的状況みたいなんとあわせて理解しないとだめだったわけだ。反省。
- 盛永審一郎先生の「状況的責任から配慮責任へ」。ふむ、だんだんヨナスに魅力を感じている人びとのことがわかってきたような気がする。
- それにしても、環境保護とか「世代間倫理」とかってのがそんな問題だったとは。私にはほとんど自明に見えててから、本気で悩んでいるひとがいるのがよくわからなかった。
- っていうか、私の関心のありかたがなんかおかしいのかね。なんでかな?
- 坪井雅史先生の「ケアの倫理と環境倫理」も重要そうな気がするけど、すぐに入手できん。そうか、坪井先生も品川先生と同じような傾向が好きなんだよな。
ヒューム先生は偉大すぎる
- 超名著『道徳原理の研究』。http://www.anselm.edu/homepage/dbanach/Hume-Enquiry%20Concerning%20Morals.htm#sec3
- 公共の有用性が正義の唯一の起源ですよ。正義の唯一の価値はその帰結にありますよ。
- もし資源がふんだんにあったら正義なんて必要ないのです。 “the cautious, jealous virtue of justice” のjealousってどういう意味なんかな。まあ訳本通り「猜疑心の強い」でいいのか。
- それから、もし人びとが無制限な仁愛もってたらやっぱり正義なんて必要ないですよ。「この場合には、正義の使用は、かくのごとき広大な仁愛によって停止され、所有権および責務の
分割と協会とは決して案出されなかったであろうことは明白と思われる。」 - 家族愛も仁愛の一種です。「人間の心の気質が現在の状態にあっては、かかる広大な愛情の完璧な実例を見出すことは、おそらく困難であろう。しかしそれでもなお、家族の場合がそれに近いこと、そして家族の一人一人の間の相互の仁愛が強ければ強いほど、益々それに近づき、
遂には彼らの間で所有権のあらゆる区分が、大部分失なわれ混同されるに到ることが観察されるであろう。」 - とか。偉大すぎる。っていうかなんでみんなヒューム読まないんだろう。
- でも資源があんまり希少な場合も正義なんて関係ないです。「社会があらゆる日常の必需品の非常な不足状態に落ち入り、極度の節約と勤勉を
もってしても、大多数を死滅から、また全体を極端な悲惨から守ることができないと想定しよう。このような差し迫った非常事態の際には、正義の厳格な法律は停止され、必要と自己保存という一層強力な動機に席を譲ることは容易に承認されると思う。」恐い。そういう状況を経験せずに知ぬまで生きられるといいなあ。 - 上で使わせてもらってる渡辺峻明先生訳の『道徳原理の研究』が出たのは1993年かあ。あれ、入手困難?っていうか3万円も値段ついてるじゃん!こりゃいかんわ。そりゃ誰も読めないわな。いったい国内の倫理学はどうなってんだ。まあヒューム読む人は英語で読むからいいのか。でもそれでいいのかなあ。英米の哲学科だったら哲学だろうが政治学だろうが、2回生ぐらいで誰でもヒュームざくっと読まされるだろう。国内の学生がそんなやつらと戦うのはたいへんだ。なんか国内の翻訳力リソースを有効につかう方法とか考えるべきなのかも。
- なんか秘教的な智恵とされてるのは実はヒュームかもしれんな。(国内の一部ではシジウィックがまさに倫理学の奥義あつかいされているわけだが)
- 『人間知性研究』もなあ。もしかしたら、国内では誰もヒューム読まずに「ケア対正義」の議論やってるかもしれないわけだな。
やっぱりこの状態はまずいですよ。玄白プロジェクト参加するか。一番やらなきゃならないのはここかもなあ。でも古典の翻訳ってのは恐いからやなんだよな。 - 「しかしながら、迷信と正義との間には、前者がつまらなく、無益で、
わずらわしいのに対して、後者は人類の福祉と社会の存続のために絶対的に必要であるという、重大な相違が存するのである」の一文にしびれた。
クーゼ先生はすばらしい
- 作者: ヘルガクーゼ,Helga Kuhse,竹内徹,村上弥生
- 出版社/メーカー: メディカ出版
- 発売日: 2000/07/01
- メディア: 単行本
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- クーゼの邦訳届いたので読む(英語はもってるけどパラパラ見ただけだった)。すばらしすぎる。こんなみっちり哲学している看護系の本はじめて読んだ。
- いちいち確認してないけど、翻訳もしっかりしてると思う(読んだ5~6章は村上弥生先生)。各節に訳者(監訳者?)の要約がついているのもいいなあ。がんばってる。おそらくこのチームっていうかグループっていうか:-)がやった一番よい仕事の一つだと思う。偉い。
- これ倫理学の入門書としても、哲学的批判の入門としてもずば抜けてるな。使おうかな。
- とにかくこれ読んでもらえば「ケア対正義論争」とかについてさらに言うべきことはほとんどないような気がする。
- クーゼには出てくる「献身」などの言葉が品川先生のにはほとんど(一度も?)出てこないのには注意しておく必要がある。
- それにしてもたしかに看護(や介護)ってのはかなり特殊な職業だよなあ。まあ教師もそうかもしれんのだけど。dispositional care 身につけてないとよい職業人じゃない。あ、もちろん医師もカウンセラーもね。人間を直接に扱う職業に共通か。他になにがあるかな。弁護士や宗教者もか。どんな職業もdispositional care必要だと言いたくなるけど、やっぱりちょっと違う感じがあるなあ。
今日の雑感
- ヨナスが注目されるのも、ケアが注目されるのも、やっぱり功利主義が正しく理解されてないからではないかという疑念はさらに強まるなあ。
- 将来世代に配慮する義務、なんて功利主義を採用するなら自明すぎる。
- でもドイツとかでは功利主義は蛇蝎のごとく嫌われてるわけなんだろう。
- そうなると社会民主主義や福祉重視とかをバックアップする理論があんまりないってことなんだろうか?中道左派にはどういう理論が必要か、とか?
- でもこの文脈でヨナスなんか持ちだすのはけっこう危険かもしれん。民主主義あんまり好きそうじゃないもんね。やっぱりアメリカ人が嫌いなんだろうなあ。もちろんナチスも嫌いだったろうけど。
- どうでもいいけど国内で社会民主主義崩壊したってのはほんとに困るよな。日本共産党の方がその立場に近いんだろうな。いまの自民党と民主党じゃ区別がつかんよ。ひどすぎ。不可識別者同一の原理によって、実は一つの政党なんじゃないか。実質一党独裁なのか。
- まああの2回の「牛歩」とか見てる世代はおそらくあの人びとを応援することなんかできんわな [1] … Continue reading 。*1
- ケアの方はやっぱり保守主義に近いような気がするなあ。アメリカでいえば共和党の方を応援しそうだ。ファミリーバリューはアメリカンバリュー。
- なんか政治(国内も外国のも国際も)ぜんぜん知らんのは恥ずかしすぐる。
- やっぱり私がだめだめなのかな。功利主義もヒュームもみんなわかった上でやってんだろうな。ここらへん勘違いするととても恥ずかしいからなあ。
References
↑1 | あれは少なくとも私にはトラウマ。あら、記憶にあるのは87、88年のやつのはずだけど、92年のと混同してるかも。このころには地獄のサバイバル生活送ってて、外界になにも関心がなかった。子どもの頃のロッキード事件、88年のリクルート事件とあわせて、「政治家はぜんぶ悪い人、政治に関心もつことさえ悪いこと」という私のイメージを作ってしまってる。いかん。 |
品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)
- 久しぶりにちゃんとした哲学者が倫理学考えている本という感じ。
- ヨナスとケアの倫理に関しては十分に紹介検討されていなかったので、この本は貴重。
- 全体、しっかり真面目に地道にやっててとてもよい。私も見習いたい。
- ジョン・ロックのところとかも正確だし。たくさん真面目に勉強してるなあ。
- 注、文献情報なども充実していていかにも学者の作品でとてもよい。
- 特に第2部は綿密に研究されていて勉強になる。
- どうしても最近は英米系の政治哲学・倫理学ばっかり議論されていて、独仏の研究・議論の動向を知ることができる。そっち系のひとはもっとがんばってほしい。脱英米倫理学中心主義!
- 「現象学の他者論」のところはもっと豊かなはずだし品川先生が一番得意なところなんじゃないだろうか。まあまた別の本でやってもらえるのだろうと期待。
注とか。
- 全体通して、「どこでもいっしょうけんめい考えてるな」と思いました。見習いたいです。
- p.285の注25は重要そうだ。これは注にまわさずに本文でやってほしかった。
- p.292注5。うーん、山形浩生先生のフランクファート解説をまにうけてるな・・・いや、大丈夫だけど。
- p.295注5。品川流の男性学の予告みたい。森岡先生あたりと問題意識がすごく近いのがわかる。
- 索引や文献リストも好感もてるなあ。研究書はこうあってほしいね。
他雑多な疑問。
- 配慮としてのケアと具体的な行為としてのケアをちゃんと分けきれてるかな。どうも一冊を通して文脈によってあっちいったりこっちいったりしている気がする。証拠さがさなきゃならんか。
- よく話題にされる「ケア」と看護や関係とかどうよ。看護という職業に、この本で言ってるような「ケア」を持ちこむのは私にはアレに見えるから。いわゆる感情労働の問題。あ、文献リストに武井麻子さんがいるな。でも索引には出てこないか。
- ケア労働。ある意味で、労働になっちゃうのはケアじゃない、とか言えそう。
- アリストテレスもちだすならやっぱりついでに正義と友愛の関係もチェックしてほしかった。
- 個人の徳としての正義(やケア)と、社会制度における正義(やケア)の区別がなんか曖昧じゃないかな。まあ区別する必要ないのかな。でもギリガンの場合ははっきりと個人の徳性なり道徳思考の特徴なりを指しているわけで。
- ノディングスの場合も、なにを/どう教育するかがポイントなわけで。
- あれ、でもここ私もぼんやりしてるな。ヒントはヒュームあたりにありそうだ。
- 「〈正義〉はポリス的観点とヘクシス的観点の両方から論じなければなならないのである。」(小山義弘「アリストテレス」、『正義論の諸相』)とかも関係あるかな。
- オーキンも読まないとならんということか。
- 「献身」とかっていう理想についても考える必要がありそうでもある。ミル功利主義論第2章。「誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の貢献ができるのは、世の中の仕組みが非常に不完全な状態にある場合にかぎられよう。しかし、世の中がこんなに不完全な状態にあるかぎり、いつでも犠牲を払う覚悟をもつことが人間にとって最高の徳であることを私は十分認めるものである。」下線江口。
- 「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極地である。」これがケアでなくてなんなのだ、と言いたくなるひともいるわな。
よくいわれることだが、功利主義は人間を冷酷無情にするとか、他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を冷やかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を道徳的に評価しないという非難がある。この主張の意味が、功利主義は、行為者の人間的資質に関する意見が行為の正邪の判定に影響することを許さないということであれば、これは功利主義への不満ではなく、およそなんらかの道徳基準をもつことへの不満である。・・・しかも、人間には、行為の善悪のほかにもわれわれの興味をひくものがあるという事実を、功利説は少しも否定しない。
とはいうものの、功利主義者はやはり、長い目でみたときに善い性格をいちばんよく証明するのものは善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶することを私は認める。
この反対論の意味するとこころが、功利主義者の多くは行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり重視していないということだけなら、認めてもよい。道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者は、この過ちを犯している。同じ条件のもとでは、どんな立場の道徳論者であっても同じ過ちを犯すはずである。
第11章
- あ、11章ちゃんと読んでなかった。
- 第1節、ベナーのケア論。「全人的に介護」なあ。言葉はいいけど。まあ理想としては大事なのかな。職業としての看護において本当に「全人的に」ケアすることって難しそうだ。ナースにそういうのを要求するのは過大な気がする。まあほんとに「全人的」ってわけではないのかな。
ベナーは徳の倫理と看護を結びつけながら、しかしナースが職業的役割を意識しすぎると、ケアリングができなくなるおそれを指摘していた。(p.246)
- どういう議論しているか興味あるなあ。もうちょっと詳しく議論してほしかった。
- デリダ大先生。
私たちは何らかの共通性や類似性によってたがいを結びつけ、その内部を治める規則、法をもっている。それはひとつのまとまりをもつ集団内部の法、つまり家(oikos)の法(nomos)である。それゆえ、法はまた経済(oikonomia)を意味している。(p.256)
- すごいな。「それゆえ」がなんともいえん。もひとつ。
法の埒外にあるものに応答することこそが正義である。正義とは「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは無縁であり、不均質であり、異なる方向性」をもっている。
- うーん。理解不能。デリダの正義ってのはまったく原則なしの判断なのかな。でたらめにしか見えない。まあデリダ使って「正義」とか語る人たちは、日常的な意味での「正義」とはぜんぜん違うことを語っているのだということがわかった。これは役に立つ。中山竜一先生の本も読み直すべきなんだろうか。でもこんなに日常的なものから離れているんだったら、だったら読む価値なさそうだ。
- コーネルのところも読みなおすけどわからん。猛烈に抽象的だし。たとえば
テクストはつねに開かれており、語の意味は特定のコンテクストによって規定しつくすことはできない。まだ書かれていないものが必ず残っている。この「まだない」は先取りされた未来ではない。先取りされるものならば既知の枠組みに回収されうるものだからだ。既存の女性観から導出されたのではない、まだない女性を、コーネルは女性的なもの(the feminine)と読んで女らしさ(feminity江口補)と対置する。(p.257)
- ほかでは明晰に書いている品川先生がこういうのになると途端にわけわからんようになるのはなぜだろう。こういうの、私は学部学生や院生に教えたりすることができないように思える。 この文章を授業で読んでいる自分が想像できない。*1
- 一方で、哲学ってのは真面目に勉強さえすりゃわかるもんだという気もしているし、発想や論理のステップなんかを授業で説明したりすることもできるんじゃないかと思ってる。クリプキとかパトナムとかだって勉強すりゃなんとかなると思ってる。でもデリダとかコーネルとかはできんね。なんでかなあ?なんか話に具体性がないんだよな。
- あ!そうか、こういうのが気になるのは、文章を読んでそれに対応する事例を思いつくのがすごく難しいから気になるんだな。授業では必ずその場で思いついた例を出すのが楽しみなんだけど、それがポストモダンな人びとについてはできそうにない。それやろうとするとふつうの(「モダン」?)な説明になっちゃうからだな。
- だめだ。品川先生の本のなかでも大事なところなのになにも納得できない。センスないなあ。でもここで言おうとしているのが、「どう違ってるかは言えないけどとにかく違ってる」とかってことだとすれば、とても納得するわけにはいかんわなあ。まあだから私は「他者」とかわかっとらん。でも誰かもっと親切に教えてくれてもよさそうなものだ。いきなりこんな秘教的になるのはどっか不正だとさえ思う。
- p.263の男性論はおもしろいよね。前にも書いたけど森岡先生とかと近い。あと蔦森樹先生や宗像恵先生とかと問題意識を共有してるなあ。
立山善康先生の「正義とケア」はよい
- 一応目を通してみたり。杉浦宏編『アメリカ教育哲学の動向』収録。1995。
(リベラリズムは)自然法思想に基づいて、人間の最も根源的な価値を天賦の自由に求め、個々人の自律的な生の保障を政治・社会の構成原理とする理論である。したがって、リベラリズムは本来的には、個人の自由を最大限に確保するために、政府の介入をできるかぎり排除する見地であるが、今日では、個人がその自由を行使するために必要な社会的・経済的に平等な基盤を保障するために、再配分政策の必要性を認めざるをえないところから、そのために政府の積極的な介入も容認するという、一見したところ本来の主張と正反対であるかのような立場も取っている。(p.347)
- どっちやねん、とか。ふうむ、でもこういうのがふつうの業界(どこ?)でのふつうの理解なんかもしれないなあ。
正義とケアの二元論を解決する方法は、理論的には次の三通りしかない。つまり、(1)正義がケアを内包した概念であるとみなすか、逆に(2)ケアが正義を抱摂した概念であると考えるか、それとも(3)両立が可能ないっそう包括的な理論的視座を見いだすかである。(p.357)
- 品川先生も基本的にこの問題の枠組を受けいれてるわけだな。しかしここで言ってる「正義」「ケア」ってのはなんなんだ?思考方法?規範的価値?
- まあ「どっちが優先するか」とかって問いだと考えるなら、まあ功利主義をとれば(3)で素直にいけるわけだが。
- あ、役に立つロールズの引用発見。「一貫して、わたしは正義を社会的諸制度、あるいはわたしが実践と呼ぼうとするものの一つの徳性としてのみ考える」そうだよな。ロールズの「正義」は人間の徳ではなく社会制度の徳だ。引用もとは”Justice as Fairness”。
- アリストテレス、ヒューム、スミス、ルソーときて、
こうした系譜を念頭におけば、正義の倫理とケアの倫理の対象は、古来の正義と仁愛という二概念に由来し、さらに根本的には、倫理学の二つの中心概念である「正しさ(right)」と「よさ(good)」に対応するものであることは明らかである。(p.359)
- よい。立山先生はひじょうによくわかっている。
~力点の置きかたの違いは、もとをただえば、両者の問題意識の相違にある。つまり、正義が、相互に対立をはらんだ複数の価値判断をいかにして調停し、合意を形成するかという問題に対処するために要請された規範的原理であるのに対して、ケアあるいは仁愛は、個々の価値判断がどのようにしても形成され、共有されるかという、その発生的な起源に関係する概念である。したがって、正義の倫理は、個別的な価値判断の起源やその共有可能性についてはほとんどなにも語っていないし、反対に、ケアの倫理は、複数の個別的な価値判断があって矛盾する要素を含んでいるさいに、いずれの判断を選好すべきかという問題に十分答えうるものではない。(p.360)
- よい。最初の方ではおどろいたけど、全体として見るとほとんど文句がない。すばらしい。絶賛。そうか、こういう解釈を品川先生は叩きたいわけだ。だんだんわかってきた。やはり勉強は楽しい。
川本隆史先生は偉かった
もってるはずなのに1週間探しても出てこなかったので図書館から。
あ!そうか、この本はとんでもなく重要だったのだな。ここ10数年の倫理学やら社会哲学やらの議論をガイドしてたのは実はこの本だったのだ。国内の社会哲学(倫理学、法哲学、政治学あたり)の議論の骨組を作ったのは、加藤尚武先生でも大庭健先生でも井上達夫先生でも島津格先生でも森村進先生でもない。いまごろ認識した。昔読んだときは「なんかつっこみ足りないなあ」とか思った記憶があるのだが、功利主義、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック、共同体主義、ケア、セン、各種応用倫理とガイドブックとしてはすばらしいできになってんのね。いろんな本や論文でみなれた表現がやまほど出てくる。表現が明晰でコンパクトなところなんかがすばらしい。これちゃんと読まずに国内の議論についていけないと思ってたのはまさに馬鹿。いつも横においといて、国内の標準的な理解がどうなってるかとりあえずこれに当たるべきなんだわな。超反省。しかしなんか開眼したような気がする。
*1:私は授業で自分や他人さまの文章を音読するのが好き。
品川哲彦先生のもゆっくり読もう(6)
第12章第2節
- 権利とそれに対応する他人の義務のところ(p.270)。妨害されない権利と助力される権利。(あるいは他人から見ると妨害しない義務と助力する義務)。ホーフェルドだったらもうひとつぐらいあるって言うはず。まあOK。
生存は爾余の権利が成り立つための先行条件である。それでは、生存への権利は、生存に必要な財を供給する義務を他者に課すほど強い権利だろうか。しかしながら実際には、不当に殺されない権利にとどまるほかあるまい。なぜなら、資源は有限だからである。(p.270)
- うーん?なぜだろう?そう言えるかな。資源が有限で、完全に全員に行きわたらないとしても、必ずしも「不当に殺されない」しか要求できないわけではないだろう。もちろん「無制限になにがなんでも財を配分される権利」を認めるのは難しいだろうけど、「できるかぎり財を配分される権利」ぐらいでもよいはず。「最低限文化的な生活を送ることができるよう援助される権利」とか重要そう。
(上の続き)第4章に言及した医療資源の配分はまさに資源の有限性を前提として成り立つ問題だった。延命に必要な資源を供給する義務を解除するには、正義の倫理の内部で語る限り、人間の一部を人格、すなわち生存への権利の保有者から外すことになるだろう。ここに、「できない」が「しなくてもよい」に変換される。
- あれ、なんかおかしいぞ。上の「生存の権利」はどんな権利なのかな。ここで「人格」が(おそらく定義上)もっているとされる権利は「不当に殺されない権利」か?文脈からすると「生存に必要な財を配分される権利」に見えるけどなあ。なんか変。でもまあ言いたいことはわかる。
だが、それが事態の適切な表現だろうか。権利と正義の語り口で語ることは、生きるためのニーズを保証するのに強い武器を提供するとともに、反面、その正義が現実に遂行されえないときには、今述べたような論理に通じてしまう。そこに問題が残る。
- うーん、この手の議論はよく見かけるんだけど、どうなんだろうなあ。「Aを認めるとBという結果になる。しかしBはいかん。したがってAは認められない。」まあ反照的均衡をやろうとしているわけだな。こういう論法はやっぱりある程度は重要。ただこれの場合、「Bはいかん」という判断の正当性をどうやって保証するか。「Bは不正だ」とかって直観を共有しない人を説得しようとするときにどうしたらいいか。
正義の倫理のなかでは、慈悲や思いやりは不完全義務としていずれにしても副次的なものとして位置づけられる。これにたいして、責任原理やケアの倫理はいっそう根底的な観念として責任とケアを打ち出したのである。
- ここもうーん。ぱっと見て「不完全義務」ってのに目をとられて、 「責任」や「ケア」が完全義務に対応するものだと読んでしまったが、どうも違う。「根底的な観念」であるってのはどういうことなんだろうな。理論的な基礎ってことかな?それだったら問題ない。けっきょく道徳ってのは拡張された慈愛だろうと思うんだがな。ミルやシンガーも認めてくれそうだ。
- 第3節。ホネットとかデリダとかわからん。特にデリダは難しくて私は何言ってるのかほとんど理解できないので、そういう解釈ができることを示してもらいたいのだが。とりあえず「もっと、友愛的、共感的、慈善的にいきましょう」なのかな。もちろんそうありたい。そうあってほしい。ところが違うみたい。
ホネットはケアを慈愛や親切等と同視している。それらは正義のように必ず要請されるわけではない。不完全義務にとどまる。そう考えるかぎり、倫理の基礎は正義かケアかという論争は重大な選択を迫られる問題とはなりえない。しかも、ケアする誰かがいるというのことは、ホネットにとって所与の事実なのだろう。非対称的責任は万人には要請できないとしつつ、子育てにおけるその意義を語るくだりには、誰もケアする者がいなくなるというような危機感はみられない。それゆえ、ケアが存在しないときに人間関係や人間の共同体がどうなるかといった問いに深く立ち入らないのである。(p.276)
- ううむ。ケアってもっと自然的な感情だと思っていたのだが、そうでもないのか。少なくともギリガンやノディングスではそうだと思ってた。
- 慈愛や善意とケアが違うのは、ケアは特定の(近しい/見知った)個人に対する排他的なものだってことなんだろうな。あ、排他的って書くと叱られるな。ええと、偏愛的、も叱られそうだ。なんてんだろうな。やっぱりケア。
- ハバマス。それにしてもどうもここらへんの話は功利主義は近親者への愛情の重要さを認めない、とかってありふれた誤った批判に近いものを感じるなあ。でも「連帯」とかいいよね。「連帯は相互主観的に共有された生活形式において親しく結びついた同朋の幸福に関わる」とか。よござんす。
- あ、ムーミンだ。ムーミンすてき。ムーミンも最強の哲学マンガの一つだよな。(マンガじゃなない)
- あれ、最後まで読んできたけどやっぱり「基礎づけ」ってどんなものかわからなかったな。
第6章
- もどる。ヨナスはやっぱりわからんのだが。
クローニングによって生まれた人間は、自分と遺伝的性質が同じ既存の人間、細胞核の提供者、つまりクローンのオリジナルの人生に関する情報を知るはめとなるだろうし、他の人間のなかにもクローニングが行なわれた意図と敬意を知っている人間がいるということも意識せざるをえない。そのために、導き手のない労苦を生き抜く「自発性」は力を失なう(これにたいして、自然にできた一卵性クローンは同時代に生きているからその危険はない)。(p.123)
- なんでだろう。ヨナス先生が馬鹿げた遺伝子決定論かなんかを信じてんじゃないかな。人生の労苦も自発性もそんなことではなくならんよ。なんて貧しい生物理解、人生理解なんだ。そんなもんで決まるのはハゲぐらいだろう(それさえただの統計的傾向にすぎない)。こういうのは品川先生がちゃんとつっこんでほしいんだけどなあ。品川先生もこういう理解してるのかな。やだなあ。
- 「基礎づけ」の内実は第5節でわかりそう。「未来倫理の基礎づけ」を論じているという想定でのお話しだし。期待。
- 討議倫理学とかが「基礎づけ」の典型なんだな。手続き?「まともな話しあいで決まっことは正しくて強制力をもつ」とかそういう理解でいいのかな。
- でも「なんでまともな話しあいに参加するべきか」とか「なぜ話し合いの結果が強制力をもつか」とかは基礎づける必要はないのかな。
第2章に、ヨナスの責任原理の基礎づけの遂行論的基礎づけによる解釈を提案した。・・・人類は人類が存続すべきかという倫理的な問いに人類の消滅を是とする答えを出せば、倫理的な問いを問うという今まさにしている行為を自己否定してしまう矛盾を犯すことになる。それゆえ、自然のなかで責任を担いうる唯一の存在が人間である以上、責任が存在するようにすることがまず果たされるべき責任であり、「第一の命令」となるのである。(p.134)
- ありゃ、あの議論はすごく重要だったのね。 しかし私にはさっぱり説得力がないんだけどな。
- 責任原理は共感とか善意とか慈愛とかそういうのとはまったく異質です。(p.136)「良心」とはどうだろうか。
(ヨナスの引用)「世界規模の生態学的危機の高まりつつある圧迫にたいしてたんに物質的な生活水準のみならず民主主義的自由も犠牲にし、ついには救いのためには暴政をも招くような警告的予測をしたために、私は問題解決のための独裁を支持していると非難されてきた。(中略)私は、実際、そのような独裁は破滅よりもはるかにましであり、この二者択一のなかでは倫理的に是認されると述べた。この態度を私は存在の審級のまえで固持する。・・・(p.137、中略は品川)
- まあそりゃ破滅よりは暴政の方がましですね。わかります。まあ、大袈裟に言ってるだけだろう。っていうか、ヨナスの時代と今の時代はここらへんずいぶん違うのかも。アメリカ人がガソリンがんがん使うの見て腹たってたのかも。こういうのも今の我々からはちょっと見にくくなってますわね。 20世紀なかばのもの読むときは社会・歴史的背景にいろいろ注意しなきゃならないことが出てくるくらい遠くなった感じがするなあ*1。われわれは21世紀に生きてます。なんか社会的な工夫や規制いろいろした方がいいですよね。
- でも「このままじゃ破滅するから暴政するぞ!」とかって言い出すひとがもし本当にいたら、その破滅の予測なるものがどの程度正しそうかちゃんと考えてみたいとは思っています。どっちにしても人類があと何百万年も繁栄することは考えらんないので。地球も何億年も持たないだろうし。
- そういや三浦俊彦先生は人類あと何年ぐらい持ちそうだと予測してたかな。
第11章
- 第3節。どうもこの本のケアの部分を通して、フェミニズム内部でのケア倫理批判の調査がちょっと甘いんじゃないかと思っております。私の理解では、「ケア対正義論争」っていうのは主としてフェミニズム内部での戦いだったんじゃないかと思っているわけだが。平等か、差異か、ってやつ。だからコーネルを議論する前にマッキノンあたりをちゃんと紹介してほしいんだわな。
- マッキノンのギリガンあたりに対する態度は「仮借なき批判」というよりも、 なんか両義的な感じだと思う。Feminism Unmodifiedの”Deffence and Dominance”あたり。*2
- 私はコーネルはなんか節操*3なくて信用できないと思ってるんで、そこらもあれだ。
J. S. ミル先生
- 今回はキムリッカ先生とヘア先生をぶつけるだけで十分にも見えるんだけど、もうなにやるにしても一応ミル先生におうかがいを立てる、ってのが私のいつものスタイル。関係ありそうなとこ引用のために写経しておこう。
およそ道徳の基準とみなされるものに対しては、当然のことながら、しばしばこういう疑問が提出される — その強制力はなにか。それに服従する同期はなにか。もっとはっきりいえば、その義務の源泉はなにか。 どこからその拘束力を引きだすか。道徳哲学は、この疑問に対して必ずこたえを用意しなければならない。『功利主義論』第3章。(中公世界の名著の訳*4)
- この章は「快楽の質」が出てくる第2章や、功利の原理の「証明」*5が出てくる第4章なんかに比べて軽くあつかわれることが多いと思うんだけど、重要なんだよな。
- 品川先生は「基礎づけ」を正当化ではなくて、説明の文脈で行なってるように(も)見えるから、品川先生の意味での「基礎づけ」って点では、第4章よりむしろ重要に見える。
- 原文も用意っと。 http://www.utilitarianism.com/mill3.htm
功利の原理は、他の道徳体系のもつあらゆる強制力をもっている。また、もてない理由はどこにもない。これらの強制力は、外的なものと内的なものとに分かれる。外的強制力については、詳しく述べるまでもない。外的強制力とは、同胞や「宇宙の支配者」によく思われたいという希望であり、嫌われることを恐れる気持ちである。それはまた、われわれがいくらかでももっている同胞への共感と愛情であり、結果の利害打算を離れて神の意志を行なう気持ちにさせる、神への愛と畏敬の念である。
- あら、これ翻訳正確かな。「それはまた」の部分が気になる。
The principle of utility either has, or there is no reason why it might not have, all the sanctions which belong to any other system of morals. Those sanctions are either external or internal. Of the external sanctions it is not necessary to speak at any length. They are, the hope of favour and the fear of displeasure, from our fellow creatures or from the Ruler of the Universe, along with whatever we may have of sympathy or affection for them, or of love and awe of Him, inclining us to do his will independently of selfish consequences.
- ううん、まあこれでいいのか。 “sympathy or affection for them (oure fellow creatures)” はミルの分類では外的サンクションなんだな。てっきり、内的サンクション(あとの「心中の感情」)の方に入るんだと思ったた。やっぱり勉強は楽しい。
義務の内的強制力は、義務の基準がなんであろうと、ただ一つのもの—心中の感情である。つまり、義務に反したときに感じる強弱さまざまな苦痛である。そして、道徳的性質を正しく開発した人なら、事がらが重大になると苦痛が高まり、義務に反する行為をやめさせてしまう。
- ヨナスだったら「乳飲み子の呼び声が~」レヴィナスだったら「他者の顔が~」とか言いそうなとこだと思うんだが、そうじゃないんだろうか。
義務の観念がもつ拘束力は、一段の感情が存在することからきている。正義の基準を犯すためには、この感情群を突破しなければならない。にもかかわらず基準を犯せば、この感情群は、おそらくそのあとで良心の呵責という形で姿をあらわすに違いない。良心の本性や起源について何といおうと、この感情群こそ良心の本質を構成するものである。このように、すべての道徳の究極的な強制力は、われわれ自身の心中にある主観的な感情なのだから、功利を道徳の基準とする者は、功利主義の基準の強制力は何かという質問に頭を悩ますことはいっこうにないはずだ。こうこたえればよいのである—他のすべての道徳基準の強制力とおなじおの、つまり人類の良心から発する感情である、と。
- そんなもん感じません、ってひとについてはどうかっていうと、
もちろん、この強制力は、反応する感情をもたない人間には拘束力がない。しかし、そういう人間が、功利主義以外の道徳原理によくしたがうわけでもない。こんな人間には、外的強制力を加えないかぎり、どんな道徳も効果がないのである。
- ふむ。正直でよろしい。
- こういう「良心」はカントが言うように先験的なものじゃなくて教育とかの結果だとミル先生は考えるんだな。でも「そのためにこの感情が自然さを失うわけではない。しゃべったり、理屈を言ったり、都市を建設したり、土地を耕したりするのは後天的能力だが、人間にとってはどれも自然なことである。」と。
強力な自然的心情という基礎は存在する。この基礎は、いったん全体の幸福が倫理の基準と認められれば、功利主義道徳の強味となる。この確固たる根底とは、人類の社会的感情の根底をいう。つまり、同胞と一体化したいという欲求である。この欲求は、すでに人間本性の力強い原理であるうえに、幸いなことには、わざわざ教えこまなくても、文明が進むにつれて次第に強くなる傾向をもつものの一つである。
- いいねえ。
But there is this basis of powerful natural sentiment; and this it is which, when once the general happiness is recognised as the ethical standard, will constitute the strength of the utilitarian morality. This firm foundation is that of the social feelings of mankind; the desire to be in unity with our fellow creatures, which is already a powerful principle in human nature, and happily one of those which tend to become stronger, even without express inculcation, from the influences of advancing civilisation. The social state is at once so natural, so necessary, and so habitual to man, that, except in some unusual circumstances or by an effort of voluntary abstraction, he never conceives himself otherwise than as a member of a body; and this association is riveted more and more, as mankind are further removed from the state of savage independence. Any condition, therefore, which is essential to a state of society, becomes more and more an inseparable part of every person’s conception of the state of things which he is born into, and which is the destiny of a human being.
- まあミル先生の道徳心理学だなわ。この章は思っていたより複雑で問題が多いところかもしれんな。もう少し考えよう。なんか参考書必要だな。
- もちろん功利主義(功利の原理)そのものを正当化するのは他の理論くらい難しいわけだけど、功利主義だって十分責任やらケアやらって感情が、道徳というわれわれの営みのなかで果す役割をしっかり説明することができるぞ、っと。さらにそういう感情をもつことを正当化することさえできる。(これはケアの倫理や責任原理の立場よりシンプルにやれそう。いやまあケア倫理とはイーブンぐらいか。)
政治の文脈
- ケア倫理で気になるのは、ここらへんの議論が主として政治学があつかう議論のような気がするとこだよな。キムリッカもオーキンも政治学者だし。いや、何学者でもいいんだけど。
- 一つ国内の文献でちゃんと書いてくれてるのが少なくて不満なのが、ロールズの「正義」やら「リベラリズム」ってのが、米国内ではいちおう「左翼」なんだってことだよね。あれでもあの所有権を保障するために作られた国ではかなり左なのだ。「アカ」があんまりいないからだよね。
- 実はこれちゃんと書いてくれてる文献はほんとにあんまり見なくて、最近やっと盛山和夫先生の『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』でみかけて安心した。
- 米国の法学とかではやっぱりロック流の自然法論みたいなんが強いんじゃないのかな。よくわらかんけど。そういうのに対抗したのがロールズなわけでなあ。
- 法実証主義や功利主義の伝統はもちろんあるけど、イギリスに比べるとずっと弱いわねえ。
- ロールズがやろうとしたのは、せいぜい契約説の枠組をつかって実質的に功利主義(政治的には社会民主主義?)に近い結論を出そうってことだったと私自身は理解してる。とんでもなくまちがってるかもしれないけど。
- たしかに(国際)政治学者でケアとか言ってる人びとはロールズでも足らん、もっと左いこうぜ、第三世界の人にもケアしなきゃ、って論調が多いんじゃないかと思う。
- しかし一方で、ノディングス先生みたいなひとはわたしにはかなり保守的、右派に見える。やっぱりまず自分の子どもとかケアするためには私的所有とかしっかりしている必要があるからね。ロック流の自然権を信奉している人びとこそ、「われわれの子どもたちを守れ!」って叫んでいるような気がするんだが、気のせいだろうか。ここには緊張関係があるはずだ。
- だいたい、他人や他のグループと敵対することになるのは、自分の利益を追求するためってよりは、自分のまわりの人間をケアしてるためって方が人間の真実に近いような気がするわけだしね。戦争中の兵隊さんなんかが典型じゃん。彼らの多くは(少なくとも主観的には)自分が死んでも自分の家族とか守ろうとしているわけだと思う。 仮面ライダー龍騎とかもそういう方でした。
- ここらへんオーキンとか読んでないからそういう緊張関係がよくわかんないところがあるけど、まあそこらへん品川先生はどう考えてるのかなあ。ギリガンやノディングスが「ケアの対象は万人に開かれてる」のようなことを言うけど、どうもリップサービスに見えるんだわな。これは私の性格が歪んでるからかもしれん。
- 正義がなんのために必要かとなれば、そりゃ周りの人のケアのためだろう。一方、ケアが正義のために必要だってのはたしかになんかおかしい感じはするね。
- これが品川先生の「基礎づけ」とか「優先」とかの意味なのかな。まだわかってない。
ヘア先生のケア倫理短評
ギリガンとコールバーグについてはヘア先生直接に書いてるのがあったな、とかで探しみた。”Methods of Bioethics”だね。該当箇所を超訳。
「ケアの倫理」を提唱する人びとによっても感情は強調されており、ほかに重要なものを排除してしまうほどである。このグループにはギリガンとノディングス、そしてもっと哲学的な人としてローレンス・ブルームなどが入れられる。ブルームは最近ギリガンをはっきり支持している本を書いている。ブルームの議論を細かく議論する余地はないが、彼の敵役の選択は残念なものであるといわざるをえない。ギリガンもコールバーグも、アイディアは重要なのだが、あまりクリアに考える人ではない。私はギリガンと面識はないが、コールバーグはよくしっており、彼からは多くのものを学んだ。しかし、コールバーグは自分の発達段階の理論をはっきり説明するだけの分析的能力をもっていなかった。特に、彼は、私が先に述べた普遍性と一般性の間の重要な区別をしそこねている。その結果、彼はひじょうに一般的なルールにもとづく道徳をもつ人がより高い段階にいると考え、また、われわれが特定の人びとにたちして持つべき特別な関係(特にケア)を無視したとしてギリガンから非難されることになったが、それも故なきことではない。しかし、道徳判断が普遍化可能だからといって、われわれがケア関係をもっている個別のひととの特別なかかわりにもとづいて、自分の行動をガイドするということができないというわけではないのである。私はこんなこともうまく扱えないような人といっしょに最高の道徳的発達段階にいることにはされたくない。(“Methods of Bioethics: Some Defective Proposals” in Objective Prescriptions)
なんかひどい文章だな。こういうこと余計なこと書いて人を怒らすからヘア先生はみんなから嫌われて、いま誰も読まなくなってんじゃないのか。あ、ここ本論じゃなかった。
ケアリングの提唱者の欠点は、彼女らが強調する美徳が実は美徳ではないということではない。誰だって、ケアリングや友情が・・・道徳的によい生活において重要なものだということに同意することができる。ヘルガ・クーゼは重要な論文のなかで、「ケアリング」の概念が不可解なほど曖昧であることを指摘している。提唱者たちの誰もこの概念を明確にしてくれない。またクーゼは、このケアリングという概念は、(もしそれが明確になったとしても)、われわれが実際に困難な選択に直面した場合にほとんどなにもガイドを与えてくれないことを指摘している。その後彼女は『ケアリング』という重要かつ啓発的な本を書いたので、医師や看護師におすすめしたい。とにかく、ケア倫理の提唱者たちの一番の難点は、彼らが攻撃している見解を完全に不公平で不細工なカリカチュアにしてしまっていることである。彼らが書いたものからは、あたかもこれまで哲学者は誰もケアについて語ってこなかったかのような印象を受けるだろう。
最後のとこはそうだねえ。
ギリガンは、ケアに注意が払われなかったのは哲学的思考における男性支配のあらわれであると考えている。ピーター・シンガーはジェンダーと哲学へのアプローチの間の関係について有益な議論を新しい本(『わたしたちはどう生きるか』だな)で行なっている。シンガーはたしかに、つい最近までの有名哲学者のほとんどが男性であったことは認める。しかし、彼らがケアリングや友情を無視しているというのはまったく正しくない。アンソニー・プライスの『プラトンとアリストテレスにおける愛と友情』やそれが言及しているテキストを読んでみれ。特に『ニコマコス倫理学』の1168a-69bは重要だ。そのあとで、ヒュームが共感についてどう言ってるか調べてみれ。カントだって、他人の目的を自分自身の目的であるかのように扱えって言ってるぞ。(カントの引用)これがケアでなかったら、いったいなにがケアなのかわしにはさっぱりわからんよ。
カントの引用はあとで探す。Grundlegungすぐに出てこないけど、BA69-430。おそらく「「各自が他人の目的をも、できるかぎり、促進しようと努めなければ」人間性を目的それ自体として扱っていることにはならない」だと思う(中公のp.276)。
私はあとでケアリングをカント的な枠組のなかに納めるのはとてもやさしいと議論するつもりだ。それに、注意ぶかく定式化したカント主義と注意ぶかく定式化した功利主義は矛盾せんとも主張するつもりじゃ。そういう枠組のなかで、ケアする人は必要とし求めるケアを十分行なえるのじゃ。やってはならんのは、ケアリングが道徳性の全体であると考えてることじゃ。ブルームはの点についてはとてもフェアじゃった。彼はたんにバランスを直そうとしただけじゃからして。しかし、ブルームがやりすぎたんじゃないかっていうことは考えてみてもよいじゃろ。
こういうことは、ケアする人が公平さimpartialityについてどう言うだろうかってことを考えてみればはっきりするじゃろ。道徳的生活のなかでのケア関係の重要さを強調したいと思い、一方でそういう関係を誰とでも持てるわけじゃないというあたりまえの事実を見ると、ケア主義者たちは道徳のもうひとつの重要な側面、つまり正義と共通善の公平な追求、という側面を無視しがちになってしまう。自分の子どもをすごくケアしておる医者が、希少な薬品を自分の子どもたちのためにとっておいたとしたらどうじゃ?こういう問いにはあとで答える。まあ、全体としての道徳のバランスよい説明を手に入れてしまえば、答えるのはそんな難しくないぞ。
は。なにやってんだ。ヘア先生は偉いけど、こんな文章40分もかけて訳すのは無駄。
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*1:何度も書くけど、「正義論」まわりや20世紀の倫理学そのものについても我々に見えにくくなっていることがあると思ってる。
*2:翻訳は 『フェミニズムと表現の自由』 か。「無修正フェミニズム」「フェミニズム一本道」「フェミニズムすっぽんぽん」とかの方がかっこいいと思うのだが。
*3:カント、ラカン、デリダとなんか大物を自分勝手に解釈して利用している感じがある。法学の人びとはそういう「テツガクシャ」をよく知らんからなんかそういうもんだと信じちゃってるところがある。ジュディス・バトラーよりはましかもしれないけえど、そういう狭間産業で生きる人で、マッキノンほど評価されていないはず。おそらく米本国では、法学の人はコーネルを哲学者だと思ってるし、哲学の人はコーネルを法学者か文学理論家だと思ってると思う。
*4:中公さん、手に入りやすくしてくださいよー。
*5:自然主義的誤謬やら合成の虚偽やらであまりにも馬鹿げているといわれるわけだが。