2013年の『図書新聞』に載せたもの発掘したので転載。
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進捗だめです。
しばらくつらくて死にそうでした。国際功利主義学会というところで発表しなければならなかったわけです。ずっと気になってたんですが手をつけられない状態になっていてぜんぜんだめ。プログラムやアブストラクトを見ると海外の大物や、国内の大家か俊英で、私みたいな研究者モドキはいないじゃないの。うわー、怖いー。
最悪の場合は5月にやった発表のスライドをそのまま使おうと思っていたのですが、今開いてみると使いものにならない。そもそも私英語喋れないじゃん。前は少人数の研究会だったからブロークンな英語でも気合でなんとかなるだろう、みたいな感じで発表したのですが、さすがに国際功利主義学会ともなればそれじゃ危険すぎる。原稿書いて読みあげなきゃならん。でも気ばかりあせってなにも進まず。最悪。
発表1週間前のお盆前には完全に煮詰っていて、家から出られない状態に。エクササイズとかもできない。本気でキャンセル考えました。でもキャンセルしたら笑いものになるだろうしねえ。自己評価は最低レベル。っていうか絶望ってやつですなあ。これくらいひどい状態になったのは10年ぶりぐらい。その前となるとやっぱりその10年前。10年に1回のやばさ。
4日ぐらい前に大雨明けの深夜に散歩したらやっと正気に戻る。いや鴨川に飛び込むつもりではなかったですが、それまですごいやばい精神状態だったことに気づきました。やっぱりどんな煮え煮えになっても散歩とかしないとだめですよね。私はそういうのも忘れて部屋や台所は散らかりぱなし、飯はパンやコンビニ弁当、とかになっちゃう。それじゃだめなんですわ。皆さんも困ったら散歩やストレッチしましょう。
資料や昔の勉強メモみたいなのを見直して正気に戻ってくる。
まあ泣きながら書きつづけて、20分ぐらいのトークのため A4 8枚ぐらい書けたのが2日前。
こんなの
先に現地入りしている某偉い先生に送りつけて見てもらって、Google Handoutとかで電話。偉い先生は酔っぱらっていて「だめですね、でももうしょうがないからこれでやったら?」みたいな。泣きながら修正。明け方まで。そのまま移動するつもりだったけど寝てしまって起きたら昼前。やばい。とにかく移動。いくつか発表を聞いて心を落ちつける。みんな賢いなあ。某後輩の立派なキーノートスピーチを聞いて、偉くなったなあ、みたいな。宴会はパスして、チェアやってもらう別の某偉い先生に原稿送りつけてとりあえず仮眠。起きだしてさらに修正しているとその某偉い先生からの駄目出しが届いてうれしい。助かります。ってわけで朝まで。また寝てしまう。
本番。まあ内容はあれとして、発表時間はほぼぴったりだったけど質疑応答の英語ができない。もういい歳して恥ずかしいなあ。やっぱり英会話はいつも練習しておかないとね。若い人びとは本当に語学がんばってください。
夜は晴れて飲み会に軽く参加。若い人びとは勢いがあっていいですね。時代は変わった。
まあ今回は本気で反省しました。余計な学会発表とかするもんじゃないです。半年前の自分が何考えてたのかさっぱりわからない。どうもこの学会は覗いてみたかったんだけど、なにも発表しないのに行くのはいやだなあ、みたいなことを考えてたみたい。しかし自分の実力とかそういうのを把握しておくべきですよね。研修期間で時間があるからなんとかなるだろう、みたいなこと考えてたけど、時間あったって私のようなものはたいしたことはできない。新しいことをするのは無理なんだから、予定どおりこれまで勉強したことをなんとかまとめることを最優先で考えなきゃならない。英語で論文書いたり発表したり、みたいなのもこれまで頻繁にやってきたわけじゃないわけだし。この歳になって新しい技能を身につけるなんて無理。「汝自身を知れ」っていうのはやっぱり「身のほどを知れ」「分相応に生きろ」っていう意味だと思いますね。
まあ研修期間はまだ7ヶ月あります。いろいろやりなおし。人生は続くのです。
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んじゃイエスさん本人はセックスどうだったのか。
イエスには妻や子がいたんではないかとか、側近だったマグダラのマリアは売春婦だったみたいだから性的サービスも受けてたのではないか、とかいろいろ言われてますね。でも福音書にはほとんどそういう恋愛・セックスに関するネタがないっぽい。 続きを読む
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なんか一日「不倫はなんで悪いか」みたいな論文読んで終ってしまいました。
これは「セックスの哲学」の流れのなかではけっこう議論の蓄積がある問題で、Richard Wasserstrom先生の”Is Adultery Immoral?” (1975)って論文が議論のはじまり。ワッサーストローム先生はセックス哲学以外にもいろんな応用倫理学的な問題で重要論文書いていて、この手の議論のパイオニアです。
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うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。 続きを読む
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なんちって。 続きを読む
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サンデル先生がテレビで放映されたり児玉聡先生の『功利主義入門』が出たりして(英米系の)倫理学が人気なようです。入門書を読んでいくおすすめの順番を考えたり。 続きを読む
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ヨナスには興味はないが。 続きを読む
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何度も書くように、wikipedia(ja)はあんまり信頼してはいけません。
今回はwikipediaの「功利主義」の項を添削してみたいと思います。(うまく添削できたら
反映させてみようかとも思ってる)
まずこの項は、
なにも出典・参考文献があげられておらず、
ガイドラインの「検証可能性」を満たしてません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
これでもうwikipediaの記事としてアウトね。
功利主義(こうりしゅぎ、英語 Utilitarianism)は、善悪は社会全体の効用(英:utility)あるいは功利(功利性、公益)・機能(有用性)によって決定されるとする基本的に倫理学上の立場であり、それは法学や政治学でも応用される。
というわけで、「功利主義(こうりしゅぎ、(英) utilitarianism)は、
行為や制度の正しさは、社会全体の効用(功利、有用さ)によって決まると考える立場である。」ぐらいか。
倫理学説としては私利のみを計る利己主義(エゴイズム、Egoism)とは異なる。現在でも、近代経済学は、基本的にこの立場にあると考えられる。そこでは消費者ないし家計は効用の最大化をもとめる部門とみなされる。また基数的効用と序数的効用が区別される。
この部分は全部いらないんじゃないだろうか。
もし書くなら、「18世紀イギリスの哲学者ベンサムによって体系化され、
以降19世紀・20世紀を通して倫理学・法学・経済学・政治学などの中心的な学説の一つである。また功利主義は各国の社会制度・政策に大きな影響を与えている。」ぐらいかな。
功利主義の歴史
功利主義はヒュームの思想にもみられるが、立法の原理・法学の基礎として最大多数の最大幸福を置くという着想はベッカリア、エルヴェシウスを経てベンサムにおいて体系として初めて結実した。
うーん、いろいろねじれている。功利主義は法学だけの思想ではないので。
また「最大多数の最大幸福」は「最大多数ってなに?」という誤解をまねきやすく、ベンサム自身はほとんど使ってないはずなので避けたい。「最大幸福」だけなら可。
「社会全体の幸福が重要であるとする発想は、プラトン以来古来から見られる。
しかし道徳・立法・行政の共通の基礎として最大幸福を置くというはっきりし た着想は、ベッカリーア、エルヴェシウス、プリーストリ、ヒュームなどを経て*1、
ベンサムにおいて初めて体系として結実した。」ぐらいか。(プラトン~ヒュームらも
功利主義の原型とみることができるという点についての出典が必要。)
功利主義においては幸福は数量で表すことができると仮定される。 ベンサムは快楽・苦痛を量的に勘定できるものであるとする量的快楽主義を考えたが、J.S.ミルは快苦には単なる量には還元できない質的差異があると主張し質的快楽主義を唱えた(が、快楽計算は放棄しなかった)。
また、J.S.ミルからシジウィックに至る過程で功利主義は立法的・法学的要素を失い、道徳・倫理学の理論としての色彩を強めていく。
これはかなり独自な主張なので、出典が必要。おそらくまちがっている。(安藤馨先生は
そう書いてるが、私はまちがってると思う。)
ここまで、おそら
く大学1、2年生が書いたもののはず。
中~上の下ランクの大学2回生向けの「功利主義とはどんな思想であるかを述べよ」とい
うレポートだと、内容だけだとBマイナス、出典とか考慮にいれるとCだろう。
あれ、なんか面倒になってきた。根気がない。自分で最初から書いた方が早い。
でもこういうのは自分の商売ネタの一部だからwikipediaには書く気にはなれないんだよなあ。
これはけっこう重要な点で、「その情報を売って商売している人びとは、wikipediaには書かない」って
いう傾向があるはず。だからwikipediaは学術情報とかは弱い。
一方、その情報でお金を稼ぐことが難しいこと、書いているだけで楽しいこと(アニメとか
音楽とか軍事とか)は詳しくて良質の記事が多くなる。
あれ、「ベンサム」の項は短かいけどプロかセミプロの仕事だな。ただしwikipediaのライティングスタイルに沿ってないんじゃないか?
もちろん英語版はすばらしくよく書けている。私こんなの書けない。なんというか鍛えの違いを知らされるね。
*1:これらの人物の順番たしかめてない。生年順がよかろう。
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以下のような妄想を書いている夢を見た。まったくの妄想。夢。現実とはまったく関係がない。以下の文章での「現実」は現実ではなく私の夢のなかの現実を指す。 続きを読む
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あら、『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』の伊勢田先生による功利主義の解説の注で
ちゃんとフェルドマン挙げてあるね。
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さて、困ってきました。焦る。
*1:自分でTeXで組版したとかって話なのに。それだけでもすげーよな。哲学者にしてTeXnician。
*2:まあ私は安藤先生の本のほとんどわかってないかもしれないのだが。
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いちおう最初の論文 “utilitarianism as a public philosophy”だけチェック。
気合いが入ってるなー。アジ文のようだ。天下国家を論じる人々はちがうね。http://philrsss.anu.edu.au/people-defaults/goodinb/index.php3
か。重要な人だな。
グッディンは児玉聡先生の博論でも1章使って扱われてるんだよね。博論見せてもらった時点でチェックするべきだよな。モグリ教員はいかん。まあ私はおそらく功利主義者ではないので、それほどあれか。いやいや。
まあこういうのを読むと、児玉先生や安藤先生なんかの国内の若手急進的功利主義者たちが「おまえらのふにゃふにゃした道徳的直観なんかどうでもよろしい」とか言いたくなるのもわかるような(そうは言ってないと思うけど)。
この本は翻訳あってもよさそうだけど、10年も経ってしまえばもう古いか。哲学関係はどの分野もそうなんだけど、功利主義は特に英米でやってることと国内で紹介されていることの時間的距離がありすぎるよね。一部の翻訳パワーというか翻訳エネルギーを功利主義にまわしてほしいな。でも翻訳は自分でやるにはトラブルばっかりで労多くして益少なしな感じがあれだ。
序文冒頭の文章がよい。
This book constitutes my response to a challenge, laid by Peter Singer in the friendliest possible way over drinks one day in 1988, for me to write up my (by implication, eccentric) version of utilitarianism someday.
酒飲んでシンガーにからんで怒られたんだな。超訳すると、
この本はピーター・シンガーと酒飲んだときに、「書けるもんなら、そのうちてめえのヘンチクリンな功利主義の本書いてみたらどうだ」って煽られたのに対する返答である。
みたいな感じか。
最近、英米の思想史が気になるんだよな。19世紀以前のじゃなくて、1950~70年代の。なんで功利主義がちゃんと扱われなくなったのか。一方で共産主義みたいなのが左派の典型としてあり(その一部は全体主義的)、一方に自然権理論とかに依拠した右派みたいなんがいて、功利主義は福祉リベラルの理論的根拠の一番の候補だったはずなんだよな。右からも左からも攻撃されて居場所がなくなったってことなんだろうか。60年代の公民権運動とか新左翼運動とかなんか関係あるはずんなんだよあ。倫理学とかしか勉強してないとそこらへんが見えなくなってしまう。なんにもないところに1971年にいきなりロールズとノージックとドゥオーキンが出現したように紹介されることも少なくないもんなあ。でも1971年にはPhilosophy & Public Affairsの発刊という重大事件もあったのだ。
国内で功利主義批判が左寄りの人から行なわれることが多いのも気になるんだよな。ウィリアムズとかはっきり右より保守ですってば。その意味で、やっぱりこの本は翻訳されるべきなのかもなあ。まあ右とか左とかどうでもいいし、そういう分類はまちがった印象を与えるからつつしもう。
左翼っていうのは。シンガーなんかは「弱い人々の苦しみに共感し世界をベターな方向に変えようとするのがレフトだ」とか書いてたような気がする。本みつからん。
現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)
でも私には天下国家のことはやっぱりよくわからん。関心が薄いんだよな。自分の生存と幸福には興味あるんだけどね。だから倫理学者はだめなのだとかってことはないので注意。ちゃんとした人はたくさんいます。
Goodinの本、いちおう”Government house utilitarianism”も目を通す。特に文句ないです。
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webも検索しよう。
でも意外にあんまり読まれてないのかな。まあ手強いからなあ。id:mxnishi さんがいろいろ書いているのは知ってた。
川出先生の読売新聞の書評はこれか。
なんか、出版社のアオリ文句をそのまま書いただけのような。
三谷先生がハーサニのところに問題があると。
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070917/p2
あ、コメント欄に本人が登場している。
稲葉先生のはここらへんか。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070621/p4
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070625/p2
有名な「おおやにき」にも安藤先生の名前は時々出てくるけど、どういう関係なんだろうな。なかのよい先輩後輩か。どっちも優秀でうらやましい。(まあ私の後輩たちも優秀だけど)
イギリス哲学会あたりの雑誌に書評載りそうな気がするけど、誰が書いてるんだろう。あの先生かな。
あら、FeldmanのUtilitarianism, Hedonism, and Desertも机の前の本棚にあるじゃん。なにしてんだ私。なにも目に入ってないな。まあ読む時間はない。
Utilitarianism, Hedonism, and Desert: Essays in Moral Philosophy (Cambridge Studies in Philosophy)
私がハイドンの音楽を聴くことに妥当性を主張しているとき、私はハイドンの音楽を好み、自分が好んでいること自体を好んでいるのである。他人にハイドンの音楽を好ましめたい、という他者への要求は妥当要求にとって原理的に不要である。(p.264)
これ本当かなあ。少なくとも、「自分と同じくらい趣味の高い人間であればハイドンを好むはずだ」とか「ハイドンがわからんやつは趣味が低い」かつ「趣味は高いほどよい」っていう判断がありそうだけどなあ。
私はハイドンの音楽を好むことは選ばれた人間にしか可能でないと思っており、自分自身がその選ばれた人間である、と思っているかも知れない。その場合他者がハイドンを好むことを私は要求していない(むしろ音楽のことなど何もわかっておらぬ他者がハイドンの音楽を好むことを厭うかもしれない)。(同上)
「自分と同じくらい趣味の低い人間はハイドンで十分」思うだろうか?私にはそれは無理に思えるんだけど、どうなんだろうな。「ハイドンがわからんやつは音楽というものがわかっておらん」と言いたいだろう。安藤先生は、「モーツァルトのオペラは(皮肉ではなく)音楽をよくわかっている人々向けで、私のようにわかってない人には向かない」と(真面目な意味で)言うことができるかな。すくなくともなんらかの事情によって「こいつは音楽がわかっている」と思った他者には「ハイドンの絃楽四重奏も聞け」と言いたくなると思うんだけどね。井上先生の「妥当要求」ってのはなんだかわからんけど、そういうことのような気がする。
私がつまらない卑しいものだとみる他者の善き生の構想に対する私の妥当要求は、私を私たらしめた諸快楽を他者が経験すれば変容するに違いない、という確信である。(p.267)
まあそうなるわな。これについてる注が昨日書いた一番かっこいいセンテンスを含む注。
だが、そうした快楽を経験する資質に恵まれていないと私が思う他者に対して敢えて変容へのいざないを為す理由はない。ハイドンの室内楽にモーツァルトの惨めきわまるオペラなど足元にも及ばぬ快楽を覚えられるような恵まれた人間は限られているかもしれない。~
かっこよすぎ。やっぱり著作は実存だね。生まれながらの哲学者にしてライター(この二つがそなわっている人はめったにいないと思う。)。でもハイドンの四重奏39番と、モーツァルトのクラリネット五重奏あたりを比べたらどうかな。
*1:あ、安藤先生は児玉先生と同じく「ベンタム」か。
*2:倫理学の人はどの程度井上先生をアレしているのかわからん。
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こんな表紙でそんな重要だとは思わんよな。(Frans Hals, Three Children with a Goat Cart) どういう寓意があるのだろう。
この人か。ハーレー・ダビッドソンに乗り趣味に木工する男。ふーむ、けっこうな年だね。1968にPh.Dとってるから、1940年代生まれだよな。知らないでいたのはモグリ倫理学教員と呼ばれそうだな。どうもこの本ではシジウィックもパーフィットも2回ずつしか索引にあがってない。うーむ、それがアメリカ。・・・いや、さすがにそんなことはないわな。重要なところだけ索引に入れてるだけだ。
Feldmanが言うところのWhole Life Satisfaction説を捨てるってのは、なんというかあれすぎるよなあ。それに耐えられる人がいるのかなあ。
Happiness ~ is a warm gun, yes it is~ (やけになってる)あれ、iTunesにはいってないわ。いや、そもそもWhite Album CDでは持ってないのか。まあいらんけど。
- i. Every episode of intrinsic attitudinal pleasure is intrinsically good; every episode of intrinsic attitudinal pain is intrinsically bad.
- The intrinsic value of an episode of intrinsic attitudinal pleasure is equal to the amount of pleasure contained in that episode; the intrinsic value of an episode of intrinsic attitudinal pain is equal to –
- The intrinsic value of a life is equal to the sum of the intrinsic values of the minimal episodes of intrinsic attitudinal pleasure and pain contained in the life.
- (p. 129から)
“episode”がはいっているのがちょっとしたミソのようだ。人生を極小エピソードで輪切りに。許せん!人生は尾頭つきの魚であってカマボコやチクワではない!とか。無理か。レトリックじゃだめですかそうですか。
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First, I will concede that pleasure is a kind of feeling which stimulates the will to actions tending to sustain or produce it,—to sustain it, if actually present, and to produce it, if it be only represented in idea—; and similarly pain is a kind of feeling which stimulates to actions tending to remove or avert it. (bk.1 ch.4)
ある女性は自分が家族に愛されていると思い、自らを幸福であると感じている。しかし、彼女の夫は彼女を愛しておらず、子供達は内心では彼女を軽蔑している。(p.148)
*1:まわりの人々に合わせて書いてくれたから?
*2:リベラリズムってのは国内の法哲学者のあいだでは倫理学者が考えるのとはずいぶん違う内容を含んでいるので注意。リベララズムの核心には「正の善に対する優位」が含まれてるとかって分析はOKだけど、正の善に対する優位を認める立場がリベラリズムではないだろう。ここらへんは国内の議論の歴史的経緯があるから、部外者にわかりにくくなってるかもしれん。下調べすること。
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