月別アーカイブ: 2006年3月

まだまだ「ミードの表」

粘着している「ミードの表」問題。

村田孝次先生の『教養の心理学』四訂版、培風館、1987を入手。初版1975年、改訂版1979年。村田孝次先生は奈良女の先生だった模様。発達心理学が専門かな。てっきり村田先生は文化人類学者だと思っていたけど。毎年教科書に使われているのか98年には第17刷。タイトル通り、大学1、2回生向けの教養授業で使うような薄いテキスト。発達、学習、情緒、知覚、思考と言語、知能、パーソナリティと、まあコンパクトななかに70年代くらいまでの心理学の研究成果が要領よくまとめられていて、よい教科書なのではないかと思う。信用できる学者に見える。図書館に大量にあったので、一時期定番のテキストだったのかもしれない。村田先生は1918年生まれ。ご存命だろうか。それにしてもこの手の教科書からミードを引用するってのは勇気が要るよなあ。井上知子先生も専門は心理学なので、まあ村田先生のテキストを見る機会があったのは
わかるけどね。

本文でのミードに対する言及はほんの10行程度。問題の表の解説程度。興味深いのはそのすぐあとの記述。

もっとも、こうした性による役割の分化は、多くの社会において男女の身体的・生理的な差異にもとづいているので、文化的要因によって変動しうる限界が一般に考えらえ、このような限界に若干のバラエティがあるというべきであろう。(p.186)

とか。

先生は一応ミード流の文化人類学の知見を紹介しておいたが、若干批判的な立場に立ちたいと思っていたのかもしれない。そしてすぐにH. Barry, M.K. Bacon and I. L. ChildのA Cross -cultural Survey of some sex differences in socializaion. Journal of Abnormal and Social Psychology, 55, 32-332 をひきあいに出して、児童の性差は文化共通かもしれないという表を提出している。でもこの研究はちょっと問題がありそうだ。

問題の表はp.187。内容は井上知子先生のものとまったく同一。表番号が変わっているだけ。原稿を村田先生からもらったか、貼りつけたのだろう。出典は、巻末の「図・表出典』にある。

Mead, M. 1935 Sex and temperament in three primitive socieitis. Morrow.

ふむ、ぴったり。このリストの最初に

ここには、本書に引用した図・表の掲載された原著をリストしてある。なおそれぞれの図・表にある著者名、掲載年のつぎに、〈より〉とあるのは、原著に若干手を加えたか、原著の記載をもとにして図ないし表を作ったことを意味する。

とある。ミードの表には〈より〉はないので、おそらくこれとほぼ同一のものがSex and Temperamentに載っているのだろう。図書館にないので注文したが、紀伊国屋なのでしばらく時間がかかる。ヒマつぶしのために2000円ちょっと使ってしまうわけだが、まあ行きがかり上しかたがない。他の学者さまをインチキ呼ばわりしているわけだしそれくらいの責任はありそうだ。

まあこの村田先生の本の中心的な部分は、50-60年代のもの。やはり学者は中年までに勉強した財産で残りの学者人生食っていくことになるのだと思う。しょうがない。

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立岩真也先生『自由の平等』その後

立岩先生については、内容的にもけっこう難しい問題がはいっているので、内容について少し真面目に考えてみる必要があると思うようになった。時間がかかりそうだ。とりあえず

では他にこの規則を正当化する理由があるか。考えてみると、実はこの主張は「私の働きの結果は私のものである」という結論以上、以外のことを述べていないことがわかる(注6)。この主張はそこで終っている。その底抜けの原理を最初に立てている。そもそもその所有権をどのように正当化するのかが問題なのだが、それについては語らない。だからその主張をそのまま受け入れる必要はない。それ以外にこれの正当性を言う言い方があるかというと、この規則をとった方がうまくいくことがある・・・という理由以外にない。(pp. 41-42)

ここに付いている注。

(注6)このことを言ったのはロックだが、ノージック(Nozick [1974=1992:271-273])がこの立場を引き継ぐ。

彼の議論はゲームの展開のように見えるが、少なくともいくつかそれだけで進行していない部分がある。ゲームの「あがり」のように私には思える私的所有論は、論の最初に置かれる。ゲームから私的所有には行けず、そこで結局権利を最初に置くしかない。利口なノージックはそのことに気づいていて、そのような論の構成になったのだし、次の著書以降でこの種の議論がなされることがなかったのかもしれない。 (p.298)

これが非常に奇怪な注であることだけ指摘しておく。pp.271-273はバスケットボール選手のチェンバレンがどうのこうの、というけっこう有名な部分ではあるが、ノージックが彼の原権理論のアウトラインを提出しているのも、ロック流の労働所有説を提出しているのもここではない。

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「マーガレット・ミードの表」問題その後

マーガレット・ミードの名前を使ったニューギニアの3部族についての表問題。

Amazon から本が届いた。

まず、井上知子・新野三四子・中村桂子・長嶋俊介・志水紀代子『生き方としての女性論』嵯峨野書院、1989 ISBN:4782301375 では、この表はp.129にある。

内容は伊藤公雄先生の『男性学入門』のp.163と同一。ただし、気になっていた部族名はそれぞれ「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャムブリ」になっている。したがってこれは伊藤先生の本で単に誤植されただけかもしれない。

しかしショッキングだったのは、前にも述べたように伊藤先生の本では出典は

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

とされていたので、この表を作成したのは村田孝次先生で、彼の文章が『生き方としての女性論』に収録されているのだろうと思いこんでいたのだが、この本には村田先生の文章はなかった! この表が使われているのは井上知子先生の第5章「女性と男性のありかた」で、井上先生が村田孝次先生を引用しているのである。表には

(村田孝次、1979より引用)

とだけ書いてある。そして、さらに悪いことに、この村田孝次先生の文章がどこの論文であるか、『生き方としての女性論』には載っていない(!)のである。それに、表の上の方、「Mead, 1935」って書いてる! それは『サモアの思春期』ですがな・・・いや、違う。Sex And Temperament In Three Primitive Societies っていう本か( ISBN:0688060161 )。これは見てない。おそらく村田先生の論文は、『男性と女性』ではなく、この本の紹介か解説かそういうものなのだな。で、それを伊藤公雄先生は『男性と女性』だと思いこんだ、というのが真相に近いかもしれん。

とにかく伊藤先生は井上先生からの孫引き。伊藤先生の出典の書き方から孫引きだとは思いもよらかなったが、私の早合点だったか。

それにしてもこれは・・・。とにかく村田先生の論文はどこのなんという論文なのだろう?

続いて、諸橋泰樹先生の『ジェンダーというメガネ:やさしい女性学』フェリス女学院大学2003 ISBN:4901713027 では、『生き方としての女性論』での表と同様のものがp.44にある。ただし、左右が逆になっている。『女性論』で「男女」と表記されていたのが「女男」になり、「女性的」が「いわゆる女性的」のように語句が変更されている。出典は、

出所 マーガレット・ミード「男性と女性」 1935

これも「1935」!とりあえず諸橋先生は有罪。剽窃決定。真っ黒。

部族の表記は「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」。この表は奇怪で、他の三つの表では「パーソナリティー特性」に入れらているアラペッシュ族の「女男とも子供の世話をする」「きびしいしつけはほとんどしない」「子どもには寛大でむしろ溺愛する」「子どもの成熟を刺激しない」が「パーソナリティ」の方に入れらている。誤植?

伊田広行先生の『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店2004 (ISBN:4272350188)は、この本とミードの『男性と女性』が出典だと主張しているが、それを(「正しく」?)修正しているのだから、伊藤先生か井上先生か村田先生を参照して出典が怪しいことに気づいているのにそれを書いてない。おそらく幇助?

これひどすぎる。インチキ! 諸橋泰樹フェリス女学院大学文学部教授は剽窃野郎で有罪。伊田先生は出典を隠して灰色、井上先生はもっと薄い灰色というかほぼ白(村田先生の文献の参照を忘れただけかもしれない)。伊藤公雄京都大学文学研究科教授は無批判孫引き野郎で学者としてまじめに相手するに値しない。と考えてしまってはちょっと言いすぎかな。

まあしかし、ちゃんと自浄できないまま引用しあう学者社会はだめだ。

あんまりあれだから、伊田広行先生のブログにトラックバックしておこう。トラックバックってしたことないからわかんなけど、リンクするだけでいいのかな? http://blog.zaq.ne.jp/spisin/

最近スキャナを入手したので、PDFにしてあげておこう。あら、hatenaにPDFは上げられないのか。

  •  井上先生の表 ← 「和子」じゃなくて「知子」先生ごめんなさい。
  • 伊藤先生の表 
  • 諸橋先生の表
  • 伊田先生の表

ぐえ。井上先生は「知子」でした。

と、ふと本を読みなおすと井上先生は和子じゃなくて知子(ともこ)先生。こりゃひどいまちがいをしたなあ、と思って上は修正した。しかし、これ実は上の伊藤公雄先生の表がすでにまちがってるからだよ。なんなんだ。伊藤先生は井上先生の本の出版社や出版年も書いてないし、文献表にも出さないし、これくらい色々重なるとなにか出典を探しにくくするための意図的なものではないかとか思ってしまう。そういうことを考えさせられるのがたまらん。

ちなみに諸橋先生の『ジェンダーというメガネ』も、あるアフリカの部族ではイニシエーションに失敗した男の子は「女」として生き男と結婚することがあるとか、別の部族では生まれる前から占いによって性別が決まってるとか、あやしい調査を出典出さずに紹介している。この本ではさまざまな文化人類学の知見が紹介されるのだが、実際に名前が出るのはミードだけ。(それも実は確認してないわけだ。)

なんというか、こういうことが重なると、「ジェンダーフリーバッシング」とかが起きるのはある程度しょうがないという印象を受ける。女性学とか男性学とかジェンダー論とかって科目名で大学の授業している人々は、いったん自分たちの研究を見直してダメな研究をちゃんと排除して浄化しなきゃならん。まあいわゆる学際的な学問領域が立ちあがるときは、伝統的な領域から難民のような人々がまぎれこもうとする傾向があるようだ。別の分野でもそういうのを見たことがある。そこでがんばれるかどうかがその分野がちゃんと成立するかどうかの分かれ目なのだろう。先行研究を信頼して参照できないのならば学問として一本立ちできない。まあ伊藤先生や伊田先生や諸橋先生が権威として信用されているわけではないだろうが。ジェンダーな人々もここは踏ん張り所だな。

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立岩真也先生とアイザイア・バーリン

北田先生の立岩先生評

立岩真也先生は『自由の平等』(岩波書店、2004) のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。……本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(pp.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

立岩先生はバーリンを読んだか

立岩先生の本を議論しているとキリがないので、今日は私がそういう印象を抱いている根拠を一箇所だけ指摘しておく。

『自由の平等』の第1章では第1節では主にノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』→森村進先生のリバタリアニズムと、アイザイア・バーリン『自由論』での「消極的自由」/「積極的自由」の区別が取りあげられているのだが、ここが何度読んでもわからん(ので先を読む気にもなれない)。おそらくどちらも(少なくともちゃんと)読んでないんじゃないのかな。

((a)~(d)は私が勝手につけた)

(a)このように述べてくると、親切にも、「あなたは「消極的自由」と「積極的自由」の後者の方を言っている。それは評判のわるいものだ」と教えてくれる人がいるだろう。素朴には、積極的自由は「何かをする自由」であり、それが現実に可能であるための手段の提供が権利として求められる。消極的自由は「何かを妨げられない自由」だとされる。この対比において、私有派は消極的自由を優先すべきだとし、積極的自由は危ないと言う。(p.44)

ここに得意の注がつけられる。

(b)この二つを対比させて論じたのはバーリン(Berlin [1969=1971])だということになっている。彼は、「消極的自由」とは「他者の行為によって干渉されないこと」であり、「積極的自由」とは「自己実現の自由」、「自分の行為を真に自分自身が支配できていること」、「自分を律して価値ある生活を実現できること」であるという —- なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない。以下本文で述べるのはその二つの自由ではなく、それを巡ってなされてきた議論に直接関わるものでもない。 (p.298)

「だということになっている」は気になるフレーズだ。また出典の好きな立岩先生がこのバーリンのフレーズに出典をつけてないのは気になる。まあ注の注はいやなのかもしれんが。

もうひとつ。

(c)消極的自由を積極的自由からはっきりと区別することができるだろうか。そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。「したいことを妨げらられない」のが消極的自由である。ここでは、したいことをする「能力」が欠けていてそれができない、選べない「事情」があるとしよう。それはどうなるのか。実際には実現不可能であっても、その不可能が他人の意図的な妨害によってもたらされない場合には、それについてその人は既に自由であると主張されるかもしれない。しかしこれはおかしい。(p.45)

これにも注。

(d)バーリンも、自由が大切である理由として選択をあげるのだが、これでは選択も不可能ではないか。井上達夫がこのことを指摘している。「行使可能性がまったくなくとも消極的自由は存在するというのはやはり無理があるでしょう。(……)最低限の選択肢の利用可能性は消極的な選択の自由の存在にとっても必要条件です。「どれくらい多くのドアが開かれているか」(Berlin [1969=1971:58)という、消極的自由に関してバーリンが使用する比喩も、このことを示唆しています」(井上[1998:23]) (p.299)

これもバーリンに出典がついてないのが気になる。「ドア」の比喩は私の知るかぎり、『自由論』のなかでこの一箇所しかない。またこのp.58は序文で、有名な「二つの~」ではない。それを補足訂正している文章。そもそもなぜ(a)でバーリンは関係ない、と言いつつ、ここでバーリンが出てくるのだろうか。

これから何が読みとれるか

私はこの二つの文章と注から、立岩先生はバーリンの『自由論』を本当に読んでない(!)と推測する。『自由の平等』とかって本を書き、消極的自由と積極的自由を論じるためにバーリンを読んでないというのはほんとうに驚くべきことだが、おそらく立岩先生は正直なのである。信じられないほどのことだが。

消極的/積極的自由

まず、ふつう言われている消極的自由と積極的自由の区別は、たいていの場合バーリンの『自由論』に由来する(バーリン自身はその区別がオリジナルなものではないと言う)。バーリンの『自由論』は序文と四つの論文(「二十世紀の政治思想」「歴史の必然性」「二つの自由概念」「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」)からできていて、序文は四つの論文より後に書かれており、特に「二つの自由概念」については序文で自説の部分的訂正と誤解の解消が行なわれている。

「二つの自由概念」でのバーリンの区別は、立岩先生の最初の引用に挙げられているようなものではない。(b)の注に出てくる形が正しい。「「積極的自由」の概念は評判が悪い」「危険だ」と言われるのは、この「自己実現」としての積極的自由の概念についてであって、「それが現実に可能であるための手段の提供」の権利としてではない。たとえば最低限の教育を受ける「権利」や最低限の文化的生活を送る「権利」(この権利をある種の人は「自由」と言う)をバーリンの立場の人が否定するはずがない。そういう権利(や「自由」)は政府が保証しなければならないという立場と、バーリンの立場はまったく矛盾しない。こんなのはバーリンの「二つの~」を直接読めばすぐにわかる。

バーリンが分析したのは、政治的な文脈における「自由」の概念が、さまざまな論者によって混乱されて使われており、そのうち特に二つ(上の区別であげられるもの)が特に重要な概念だということ。たとえばルソーやヘーゲルやマルクスその他の人々は積極的な意味で自由を使い、結果的に個々人の欲求や感じる幸福とは独立に全体主義的な社会を構想してしまう、それが「危ない」と言われるんだと私は理解している。

立岩の(b)

(b)で立岩は「なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない」と書くが、そりゃもし読んでいなければわからない。少なくともバーリンが(a)の形の区別をしたと思いこんでいるならわからないに決まっている。調べてみようと思わなかったんだろうか?

立岩の(c)

「そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。」こういう素人くさい文章が立岩先生のウリなのは認める。しかし「よい」「いけない」がどういう意味が考えたことがあるのだろうか。バーリンも(おそらく立岩先生に積極的・消極的の区別を指摘した人も)さすがに「よい」とかいきなり使わない。もしまともな人なら、「なぜ消極的自由は政治的に保護するべきで/保証されるべきで、それ以上は社会は保証するべきではない/保証しなくてもよい/干渉すべきではない(のどれ?)」と問うべきだろう。もしちゃんとそういう形で問えば、たとえばバーリンがどういう根拠でどう主張しているか調べようという気になるはずだ。むしろ、バーリンを一度でも読めば、「よくて~はいけないのか」なんて乱暴な問いは立てられない。

立岩の(d)

結局バーリンを読んでないから、こういう意味不明な問いが出てきてしまう。バーリンはまったく関係ない。(井上達夫先生の論文は未読)最低限の選択肢や他者からの承認(p.360ff)が人間が生きる上で必要なことはバーリン自身認めているし、必要なパターナリズムも認める(p.350)。バーリンの主張は、それが社会が保証するべき狭い「自由」ではないってこと。

リバタリアン vs 功利主義

ふつうに理解すれば、立岩先生が議論しようとしていることはリバタリアンと功利主義(そしてロールズ流の中道路線)の間で延々とやられている議論の一バージョンで、もちろん立岩先生は功利主義の方。(でも立岩先生はベンサムの「序説」もミルの「功利主義論」も読んだことがないだろう。文献表にも出てこないし。)

立岩先生がバーリンを読めば

立岩先生が問題にしている弱者の「することのできぬ状態 inability」については、バーリンは消極的自由の観念を論じている一番最初に出てくる。

ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だと言われる。この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができるしかしながら、強制とはすることのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。……単に目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。
……自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられているからなのである。いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているというのは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。」(pp.304-6)

もちろん「自由」と「できない状態」の区別は難しいかもしれない。しかしわれわれの多くはイナバウアーのポーズをとることはできないが、それがイナバアウアーする自由を妨げられているわけでもなければ、誰かが私にイナバウアーできるよう手配する責任を負っているわけでもないのははっきりしている。

もっと立岩先生の問題意識に近い文章もある。

ここでの問題に対する歴史的に重要なもう一つのアプローチがある。それは、自由の対立概念である平等と博愛を自由と混同することによって、同じく自由主義的でない結論に到達するものである。 (p.360)

おそらく立岩先生はこの混同の餌食になっている。もちろん、平等や博愛は非常に重要だし、バーリンの言うことが正しいかどうかはいろいろ議論の余地があるのはたしかだ。ある種の意味では、自由と平等や博愛は対立する概念ではないかもしれない(特にバーリンの言う「積極的自由」の意味では)。

しかしこんな立岩先生の論点にとって非常に重要なものを、もしバーリンを読んだことが一度でもあればふつうの学者なら無視できるはずがないと思う。バーリンのように優れた学者の書くものは明確で一定の訓練をすれば誰にでも理解しやすいものになる。ふつうの読者はそういう優秀な人がその鋭いナイフでいったん切り分けてくれたものをまたくっつけて議論しようなんて思わないものだ。すくなくともいったん切られたその切り口を意識せずにはいられない。

バーリンの『自由論』は本当に名著中の名著の一冊で、何度読んでも目からウロコが落ちるような思いがする。(学問的・政治的な立場を共有していなくても)一回でも真面目に読んでいれば立岩先生の本はまったく違う本になっていただろうと思う。訳文も立派だし。

もちろん、バーリンを読むか読まないかは立岩先生の自由だし、「関係ない」と言っているのだから本当に関係ないのだろう。彼は読んでないものを読んだと言っているわけではないので別に不誠実なわけではない。しかしいったい、まともな学者として、この手の問題をバーリンをまったく読まずに議論することができるか私にはわからない。(すくなくとも政治学とか真面目に勉強している人間にはそうだろうと思う。)

たしかに「まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。」のはたしかで、学者は常にその問題に悩まされつづけている。しかし、まともな学者である一つのポイントは、どこに豊かな思考のためのリソースがあるのかを知っていること、ある主題を論じるのに最低限どうしても読んでおかねばならない文献を知っていること、少なくともそれを嗅ぎわける嗅覚のあること、それを自分で確かめてみる労力と時間をかけてみる意欲があることだ。そしてそれは学者社会の伝統が教えてくれる。引用(a)の「親切」なひとたちは伝統にしたがって立岩先生にそれを教えてくれたのだろう。そういう伝統に敬意を払うことができない者は学者ではない。そういうひとに文献リストにバーリンの名前をあげたのは大学院生のこれからの仕事に役立てようと言われても、呼びかけられた大学院生は困ってしまうことだろう。(少なくとも政治学者の卵はあきれ、哲学者の卵は冷笑し、法学者の卵は律儀に怒るだろう。社会学者の卵はわからん。)

北田先生の文章に戻れば、立岩先生は正直に自分で認めているように、北田先生が言う「(2)+オレ流」で『自由の平等』を書いたのだろうし、北田先生は読んだのにたしかめもせず「(1)+オレ流」と判断したのだろう。少なくともバーリンに対する立岩先生の言及はただの儀礼だ。この調子でいちいちやってると1年かかるが、同じような個所は山ほどあるように見える。

北田先生は「引用学」とか唱える前に、『私的所有論』の権威(北田先生は他の「学者」の評価とは独立に自分でも評価しているのだろう)によりかからず、いったん立岩先生の引用が実際にどのように行なわれているか確かめるべきだったろう。馬鹿げている。とにもかくにも正直でたしかに(先例にこだわらないという意味で)オリジナルな(これは重要)立岩先生より、北田先生の方が問題が大きいかもしれない。

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北田暁大先生の立岩真也先生評

立岩真也先生は『自由の平等』岩波書店2004 ISBN:4000233874 のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。・・・本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たち*1に呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことがから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。
『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(p.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

*1:kallikles注:大学院生

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伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』の謎

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004。ISBN:4272350188

この本でもジェンダーは文化だってことの証拠としてp.62でミードの『男性と女性』の研究がひきあいに出されている。

で、先日触れた伊藤公雄の『男性学入門』ISBN:4878932589とほぼ同じ表が使われているのだが、この表、なんだ?この二つの表はすごくよく似ていて、ほとんど縦横を変換しただけ。伊藤公雄は出典としてミード本人じゃなく、

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

としている。「井上和子ほか」の本は巻末の文献表に出典がある。
伊田は

出典 マーガレット・ミード『男性と女性』1949年。諸橋泰樹『ジェンダーというメガネ—やさしい女性学』(フェリス女学院大学)

としている。「ジェンダーというメガネ』の発行年月日や発行者は不明。(フェリス?)もちろんこの表はミード自身のものではない(し、ミードの研究とは離れてしまっている)。

伊藤の本で気になった表記はそれぞれアラペッシュ、ムドグモール、チャンブリになっている。(伊藤の本ではアラ「ベ」ッシュ、ムンドグモール、チャム「プ」リ)。

あと、伊藤の本で「男女」になってるのが「女男」になってる。「男性的」が「いわゆる男性的」になったりもしている。

なんじゃこら。どこかでインチキが横行しているんじゃないのかなあ。

なんか、フェミニズムの人々はバカなバッシングを受けているだけじゃなくて、もしかしたら背後から足ひっぱられているかもしれないとか思ったりもする。(いや、ただの感想。根拠なし。)

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伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。

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加藤秀一の性暴力論

昨日加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読んでかなりショックを受けたので、ちとメモを残しておく。

ちょっとよく読んでみる。気になった終章の「性/暴力をめぐって」の前に、

ポルノを論じているところ(第3章)でも性暴力の話をしていた。

加藤先生の「暴力」論

p.176で、先生はこう言う。

暴力という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。・・・人間の肉体に侵襲を加える行為でも、それが行為参加者によって一定のルールに従う合理的行為(医療行為とか愛のムチとかいった)として承認されちるときには暴力ではない」

OK。「暴力」は不当な力だ。ただし物理的な力に限定する必要はないと思う。

しかし次のページ(p.177)は問題がある。

教師が生徒を殴った。・・・これは暴力か否か。行為とその文脈という枠組みだけで考えている限り、この問いに解答を与えることはできない。ここで問われているのは、「殴る」という行為の社会的な意味を決定すべき文脈それ自体の意味づけという、一段高次の論理階型に属する問題だからである。したがって、行為の文脈に対してさらにメタ・レヴェルにある「権力関係」という第三の水準を導入する必要がある。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証され正当化されているときには、殴られた当の生徒がいかに不満を抱いても、教師の行為は暴力という社会的意味を付与されることはない。

こういうのを読むと、社会学者ってのはなあ、と思ってしまう。社会学者の多くにとって、「暴力」かそうでないかってのは「社会的意味」でしかない。「社会的意味」ってのをはっきりさせてくれればいいのだが、たいていの社会学者ははっきりさせてくれない。おそらく上の文章の意味は、「*人々*はそれを暴力とはみなさない」っことなんだろうが、この「人々」が誰かわかんないから不満なんだよな。「行為とその文脈という枠組み」で考えて答が出ないのは、加藤先生が「暴力」かどうかを「人々がそれをどう見るか」という記述的な視点からそれを見ようとしているからだ。哲学者から見れば、あるものが「暴力」であるかどうかは、(加藤先生も「不当な」ということでちゃんと理解しているとおり)事実判断ではなく価値判断なのだから、いくら事実に訴えても一義的な答が出ないことがあるかもしれないのは当然のことだ。いくら「権力関係」なるものを視野に入れても、事実から価値判断は直接には出てこない。(もちろん道徳的実在論をとるひとは別かもしれないが、少なくとも哲学者はこんなおおざっぱな議論はしない。)

人々があるものをある仕方で意味づける、って事実と、その意味づけが正当かどうかということは別のはずだ。ここに混乱があるように見える。

ある性的行為・・・が性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。だからこそ、性的行為の意味を誰の視点からとらえるのかという政治的問題が決定的に重要なのだ。(p.177)

「政治的問題」なのか?「政治的」ということでどういうことを言っているのか不明。

・・・フェミニズムの性暴力論の核心は、女性の視点を肯定するところにある。
性暴力とは被害者=女性が望まない総ての性的行為の強制を指す。

ううむ。「性的行為の強制を指す」だけではだめなのか。「女性が望まない」がどうしても必要なのだろうか。まあいいけど。

p.178のペニスの挿入がどうのこうの、というのは正しい。が、

被害者が相手の行為によって不当に傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。(p. 178)

はおそらくまちがっている。ある人が「不当に傷つけられた」と感じれば、その人がそれを自分にとって性暴力と認める十分な理由になるかもしれない。しかし、それがただちに「性暴力である」と他の人々も認めなければならないわけではない。正当か不当かの区別は、本人の感覚とは独立に示されなければならないんじゃないの? 誰かが「不当に傷つけられた」と感じ、不快に思うならばそれはぜんぶ性暴力、というのでは、あまりにもインフレだ。たとえばある種のフェミニズムの考え方すら、一部の*女性*にとっても不快で人を傷つけるもののようだが、だからといって大学の必修の授業でフェミニズムをとりあげることが性暴力にあたるわけではない。

なんといっても気になるのは、加藤先生は自分自身が事実判断ではなく、価値判断、規範的判断をしていることをどの程度意識しているのかってことだよな。「当人がいやがれば性暴力なのだ」という判断は、「(性)暴力」が価値判断であるかぎり価値判断で、「当人がいやがる」は事実判断だ*1。加藤先生自身が正しく指摘しているように、「暴力」は「不当」な力であり、「不当」であるかは価値判断なのだから、「傷つけられたと感じる」ことから「それは性暴力だ」と言うことは(直接には)論理的関係ではない。ここには論証が必要だ。

ここまでの議論を承認するならば、いわゆる「差別」と暴力との等根源性も明らかになるだろう。(p. 178)

性暴力をめぐる闘争とは、同時に性差別をめぐる闘争でもある。それどころか男の女に対する性暴力は、性差別という全般的状況の(突出してはいるが)一部分であるに過ぎない。(p. 179)

ぜんぜん明らかではない。加藤先生は「差別」という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。加藤先生はわざわざ「*いわゆる*「差別」」とまで表記するのだから、ひとびとが「差別」をどういう意味で使っているかある程度把握しているのではないかと思うが、わたしにはさっぱりわからない。わたしにとっての「いわゆる」差別は、「当の問題について重要ではない特徴をつかってあるグループの人々を選びだし不利益な扱いをすること」のような感じなのだが。単にあるグループの人々をある仕方でとりあつかうのこと自体はこの意味では「差別」ではない。(もちろんもっといろいろな意味はあるのだろうが、加藤先生がどういう意味で使っているのかを知りたい)

差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である・・・人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。したがって厳密には、人は独りでは差別をすることはできないし、反対に独りでは差別をしないこともできない。」(p. 179)

とおっしゃるわけだが、(私の頭が悪いから)よく理解できない。社会的な差別が社会的であるのは当然だと思うのだが。

「差別」は定義していただけてないが、「性差別」の定義はある。

ところで性差別とは何か。詳細に論じる紙数はないが、さしあたり、女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元することであると定義しておこう。(p.179)

なるほど。定義としては「~認めず」は必要ないような気がするけど。それにこの定義では多くの性差別(たとえば就職における女性差別)が抜けおちると思うが、まあ定義は自由だ。

加藤先生の「性」暴力論

加藤先生は、彦坂諦先生の論文(『男性神話』径書房1991。まだ読んでない)に影響を受けて、性暴力が他の暴力と違うのは被害者の側の「屈辱」にあると見ているようだ。

彦坂諦は、屈辱という言葉を用い、次のように問うている。

なぜ強姦されたことをひとは屈辱と感じるのだろうか。
強姦された女が、私たちのこの社会のこのいまの状況のもとで、そのことを屈辱と感じるのは……私たちのこの社会から、歴史的・文化的にじゅうぶんないわれをもって、それは屈辱であるという見方を押しつかれているからだ。

ここで屈辱という言葉であらわされているものが、「性暴力」から「暴力」を引いた残余である。(p. 326)

おそらく彦坂先生も加藤先生もまちがっている。「性暴力」から「暴力」を引いたら、残るものは侮辱ではなくて性欲だ。性暴力が女性に屈辱を与えることは多いだろうが、屈辱は必要条件ではない。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

昨日も書いたが、いろいろショッキングな文章だと思う。

「屈辱感」とはどのような感覚か?

まず、「屈辱」とかってのは性犯罪だけなく、一般に犯罪の被害者、もっと広く不当な行為を行なわれた人間にとっては共通の感覚だ。加藤先生はカツアゲされたり道端でおびやかされたりしたことがないのだろうか?私自身はカツアゲされそうになったことはある。もしその犯人に金をとられたら、それは私にとって屈辱的であったろう。暴力的な犯罪の被害者になるということは、まさに自分の弱さを意識させられるということだ。暴力的でない犯罪でも、自分の攻撃されやすさvulnerabilityを意識することになる(犯罪被害の現象学というのはおもしろそうだ)。はっきりとした犯罪でなくても、誰かから騙されたり、操作されたりしたときに我々はひどい屈辱を味わう。たまらん。

「辱める」ってことは

いっぽう、加藤先生が性暴力のポイントと認める「辱める」のはもっと複雑な概念かもしれない。女性を辱めるdishonorするということの裏には、「貞操」や「純潔」が女性の誇りhonorであるというモーツアルト時代の響きが感じられる。わたしには正直なところよくわからん。

ここで私がショックを受けたフレーズが出てくる。

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

私がショックを受けたのは、強調した(strongでかこった)ところ、「でも自分も少しは感じたんじゃないの?」だ。この文脈で出てくるのはほんとうにショッキング。

なにがショッキングかといって、女性が強姦その他によって「快楽を味わう」ことがこの文脈で出てくるとは予想してなかったらからだ。しかし、これは加藤先生の言う「辱める」ことの最も重要なポイントなのだ。

たとえばわれわれは、人を殴って辱めることはできない。金を奪っても辱めることはできない。それらは外的な事件であり、本人の「誇りhonor」とは無縁のことだ。運が悪かっただけ。この意味では、われわれはどんな不正な目にあっても傷つくことはない。

哲学とか好きな人のために書いておけば、ソクラテスは不正なことをされても自分が不正なことをしなければ魂が悪くなることはないと言ったし、ウィトゲンシュタインは「確実性について」で同様のことを主張している。

しかし、ある考え方によれば、不本意でも、性的な快楽を味わってしまうことは、そのひとをその行為に対して共犯関係におくことになるらしい。これは馬鹿げた考え方で、まさにレイピストの発想だ。われわれはいくらおいしいものでも無理やり口に入れられたくない。(しばらく前に山形浩生先生について書いたときのフランクファートの一階の欲求と二階の欲求の区別、あるいは欲求のアイデンティフィケーションの話がここらへんで効いてくる。)

もちろん、加藤先生は、そういう「一般社会の考え」を自分なりに構成して書いただけで、そういう発想に彼自身はコミットしていないと言うだろう。しかし、彼の発想では、社会がどう思うかがすべてを決定してしまうように見える(私の誤解だと思うが)。

田村公江先生の『性の倫理学』(丸善株式会社、2004)という本では、非常に大胆な発言がある。

筆者は高校生のときに通学電車の中で痴漢にあったことがある。満員電車の中で立ったまま眠っていたきに、おっぱいを触られていたのだ。うとうとしながら、なんだか気持ちよくなっていた。」「快感を感じた=本人にとっていやなことではなかった」、だから痴漢は悪いことではなかった、と言えるのだろうか。答はノーである。性的な快感を呼び起こす身体接触を受け入れることに関して、筆者は同意を求められていなかったからである。快感を感じたからといって、同意があったと事後的に言うことはできない。

これは痴漢体験が被害者に身体的な快楽をもたらすことがあるという非常に勇気のある発言で(アカデミックな文脈では空前絶後で、これが唯一)、その正直さにまったく敬服する。しかし、田村先生が指摘しているように、そういう快楽と性暴力の不正さはまったく関係がないのだ。

うーん、やっぱりうまく表現できない。加藤先生が、「少しは感じたんじゃないの?」という見方が「彼女の存在そのものの否定に等しい」と言うときに、いったい加藤先生自身が何を考えているかが問題なのだと思う。たしかに「感じたんじゃないの?」という考え方はその女性を単なる性的なオブジェクトに貶めるものかもしれない。しかしそれはその発想がおかしいんであって、その性的暴行そのものではない。性的暴行そのものの不正さは、「社会の見方」とは独立のはずだ。そうでなければ、社会がOKと言えば性的暴行もOKということになってしまう。

その女性が「汚れ」にされるとすれば、それはそういう見方が汚れにするのであって、性暴力そのものがそうするのではない。この性暴力そのものと、性暴力にあった人に対する社会の見方が、加藤先生のなかではさっぱり区別がついていないように読めるのだ。

私がショックを感じたのは、加藤先生がそういう「汚れ」意識を内面化してしまっているところにあるんだと思う。もちろん、ただの例として構成したものなんだろうけど。

辱めることと男性的性欲

さらにつめてみると、たしかに加藤先生の言う女性を「辱める」ことと、強制的に快楽を味わせることの間には概念的な関係があるように見える。男性的なセクシュアリティにとって、快楽を強制的に味わせることは、たしかに相手の女性を辱めることなのかもしれない。そしてある種の人々にとって、快楽を強制することが、女性に対する性暴力のポイントかもしれないと思う。女性を単なるオブジェクトとするだけでは、十分女性を辱めたことにはならない。上で書いたように、どんな不正な目にあっても、誇りを失なわないことは(理論的には)可能だ。誇りを失なわせ、屈服させるには、相手を権力関係を同意させなければならない。その手段のひとつが快楽だ。松浦理英子が「嘲笑せよ」と主張したのは正しい。たんなる物理的な暴力では人を屈服させることはできない。快楽なり欲求なり、被害者がそれを認めることが必要なのだ。そういうわけで、加藤先生は、男性的な性欲のなかにある「辱める」ことと「快楽」との間の関係を正しく見ているのだが、十分それを自覚しているかどうかはわからない。

これがおそらく加藤先生の不用意な文章を読んで私が感じたショックの本質だ。おそらく女性のほとんどは、友達が痴漢されたり強姦されたりしたときに、「感じた」かどうかは問題に無関係だと思うだろう。というか、「感じた」かどうかを発想さえしないだろう(「今日電車で痴漢にあって腹たつ!」「で、感じた?」とかって会話はありえない)。しかし加藤先生のような女性の視点にかなり近い人でさえ「感じた」かどうかが問題になるかもしれないというところが私にとってショックだったんだろうと思う。男性のセクシュアリティにはまだまだ謎が多く、加藤先生のように最も明晰で自覚的なひとでさえバイアスから逃がれることは難しい。

まあもうずいぶん前の本だから加藤先生の考え方は変わっているかもしれなし、もうこういう不用意な表現はしないだろう。ここらへんの問題について最近の見解を読んでみたいものだ。

うーん、だめだ。頭悪い。もうちょっと言うべきことがあるような気がする。また明日。

*1:「いやがる」「不快に感じる」「傷つけられたと感じる」のは心理的事実。ここは混同しやすいので注意が必要。

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『性現象論』

浅野千恵のかなり優れた論文「『性=人格論批判』を批判する」(『現代思想』第26巻11号、1998)を読んでいたら、加藤秀一の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』にぶつかった。あれ、性暴力について書いてたんだ。でちょっと『性現象論』該当個所を読んでみるが、なんだかすごい。
性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?
  2. 男も暴力的な犯罪の被害者になったときに非常に屈辱感を味わうが、それとは違うか?
  3. 強姦の被害者の女性はいまだに汚れたものと扱われているのか?
  4. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。明日ちょっと批評書きたいのでメモだけ残しておく。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為であるはずがない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

性暴力を他の暴力から区別するものはなにか。私には答は明白に見える。それは性欲だ。

性現象論―差異とセクシュアリティの社会学
加藤 秀一
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荒木菜穂さんのすばらしい研究

ポルノと性意識の実証調査というのは実はあんまり数がない。

もうちょっと若い世代の研究も見てみた。

荒木菜穂「ポルノグラフィ文化におけるホモソーシャルな構造~大学生へのアンケート調査を通して」『鶴山論叢』第5号、2005

荒木さんは発表時点で神戸大学大学院総合人間科学研究科博士課程後期課程に在籍していらっしゃるようだ。

この論文ではどういう対象にどうやって調査したのかも記されていない。

関西の2大学、関東の1大学において、2002年6月21日、7月12日、2003年1月15日の全4回、SWASH (Sex Work and Sexual Health)の協力により荒木が実施。回収数240部、内訳女性131人、男性101人、不明8人。

ということだが、どの程度配ったのか、その他知りたいことはたくさんある。

で内容だが、まず、この論文も質問用紙がどのようなものであるか明示していないのが気になる。

(1)まず「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」という設問を行なったらしい。

出てくるのは、

  • 男性では順に「エロ本」(65.1%、以下数値は略)「アダルトビデオ」「成人向け込みっく」「ポルノ小説」「成人映画」「男性週刊誌」「アダルトサイト」「ヌード写真などを使った広告」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」、
  • 女性では「アダルトビデオ」(61.4%、以下略)「エロ本」「成人映画」「成人向けコミック」「ポルノ小説」「男性週刊誌」「ヌード写真などを使った広告」「アダルトサイト」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」

ということらしい。質問が選択式なのか記述式なのかわからない。それに、「やおいマンガ・小説」が入っていないのはどうしたことだ。若い(おそらく)女性研究者が、やおいを選択肢に入れないなんて考えられない。

で、さらにまずいことに、次の質問で「ポルノグラフィを目にしたことがあるか」「自主的にポルノグラフィを見ることがあるか」をたずねてしまっている。で、クロスをとる。たとえば次のよう(これも技術的問題から表記を変更してある)

表3 性別と自主的にポルノグラフィを見ることがあるかのクロス表

yesno無回答合計
男性75 (90.4%)8 (9.6%)83 (100.0%)
女性15 (14.2%)86 (81.1%)5 (4.7%)106 (100.0%)
合計90 (47.6%)94 (49.7%)5 (2.6%)189 (100.0%)

当然の問題は、表3が何を表現しているか、ってことだわなあ。
この質問に答えた人はなにをポルノグラフィだと思って答えたんだろうか?最初の設問で「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」があれほど多様だったのだから、さまざまなものをポルノグラフィと思って答えてるんだろう。荒木菜穂さんはポルノグラフィを定義もせずにこんなことを尋ねてなにか意味があると思っているのだろうか。

この論文ではいっさいの検定を行なわないと決めていらっしゃるようだ。ただクロス表を並べるだけ。

なんか面倒になったからやめる。神戸大学総合人間科学研究科は、ちゃんと社会調査の方法を学生に教えるべきだと思う。

荒木さんはポルノの享受には「ホモソーシャルな構造」があると言いたいようだけど、やおいだのボーイズラブだのってものも視野に入れれば、ぜんぜん研究が違ってきたのに。とくに女子はそういうものを交換して楽しむ傾向があるように見えるから(証拠ないけど)もっとおもしろかったのに。

この方はblogももってるようだ。そっちは実感のこもったおもしろいこと書いている。上の論文は調査としてはダメダメだけど、フェミニズムの視点からのポルノ批判のまとめはよく書けていると思う。研究がんばってほしいものだ。

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佐々木輝美先生のすばらしい研究

佐々木輝美「性的メディア接触が大学生の性意識に与える影響に関する研究」『国際基督教大学学報I-A 教育研究』46号2004 という文献を見る機会があった。

佐々木輝美先生は国際基督教大学准教授、メディアと暴力の専門家で、テレビでの暴力の問題などをあつかっていらっしゃるようだ。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326601108/qid=1141351466/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-7411419-2233126 という著書もある。(一部でよく引用されているようだ。私は杉田聡先生の著書でお名前を知った。)

この論文は、大学生が性的メディアに触れた経験と性的な態度の間には相関関係があることを統計的に証明しようというもの。結果はポジティブ。さらに、メディアでの歪んだ情報が受け手の意識のなかに受けいれられてしまうということらしい。

しかし、この研究を見て驚いた。

質問票は明示されていないが、次のようだ。

  1. 性的メディア接触(ポルノコミック、グラビア雑誌・ヌード写真集、ティーン雑誌、アダルトビデオ、テレクラ・ツーショットダイヤル、インターネットのアダルトサイト、裸やセックス描写のあるゲーム、スポーツ新聞のエッチな記事、出会い系サイト、など)
  2. 「同じ年くらいの人がセックスすること」についての考え
  3. 「同じ年くらいの女性が、見知らぬ人(知り合ったばかりの人)とセックスすることについての考え
  4. 「お互いの同意があれば、誰とセックスしてもかまわないかどうか」 (そう思う、そう思わない、わからない)
  5. 「罰せられる恐れがないとしたら、同意が得られなくても、好意を持っている相手にキスするかもしれない」と思うか (そう思う、そう思わない)
  6. 「罰せられる恐れがないとしたら、同意が得られなくても、好意を持っている相手にセックスをせまるかもしれない」と思うか (同上)
  7. 「キスをしてもいい時期と考えるはいつ頃から」だと思うか (小6-中3、高校、高卒後、わからない)
  8. 「セックスをしてもいい時期と考えるはいつ頃から」だと思うか (同上)

2002年6月に、埼玉県にある私立大学生350人(男子104名、女子246名)に調査したらしい。

で、いきなり表が次のようにして提示される。(私の技術的な問題から若干表
記を変更してある)

表4 「性的メディア接触」と「同意があれば誰とセックスしてもかまわない」

そう思うそう思わない分からない合計
接触あり51.0%26.0%23.1%100% (104人)
接触なし34.6%27.5%37.9%100% (240人)
全体39.5%27.0%33.4%100% (344人)

x^2=9.76, p<.01

なんといってもすばらしいのは、回答を男女で分けていないことである。すばらしすぎる。

ちなみに設問(1)の回答がどうだったのか論文では触れられていない。上の設問を見れば、「接触あり」が344人中の104人しかいないなんて信じられない。「接触あり」が104人なのは、男子104名なのと関係があるのだろうか。ないのだろうか。せめて頻度その他、どの程度接触するかで割らないとどうしようもない。

表7 「性的メディア接触」と「罰されなければ同意がなくてもセックスをする」

そう思うそう思わない合計
接触あり14.3%85.7%100% (91人)
接触なし3.7%96.3%100% (218人)
全体6.8%93.2%100% (309人)

x^2=11.42, p<.01

「そう思う」と「そう思わない」の二択に強制したため無回答が出たのか、なんの断りもなく(!)回答総数が減っている。さらに、論文の最初の方では「セックスをせまるか」だったのに、表や分析では「セックスをする」になっている。そりゃ「好意を持っている相手に同意がなくてもセックスを「せまり」ますか」と言われればイエスと答える男子はいるだろう。ポルノと関係なく「せまる」のは同意をもとめる努力の一部だと解釈する学生もいるだろうし。もし「好意をもっている女性にせまる」のが佐々木先生がおっしゃるように「性暴力」なら、世の中は性暴力に満ちている。(まあ実際に満ちているのは認めざるをえないし、それはよくないことだ。)しかし、両者が相撲の仕切りのように最初から同意してやる気満々なんてケースはめったにないと思うぞ。

しかし「同意がなくてもセックスしますか」だったらイエスと答える人間はぐっと減るはずだ(これにイエスと答えるのはたしかにレイプ犯予備軍なのは認める)。だいたい「好意をもっている」がどの程度効いているのかもわからんし。佐々木先生は「罰されなければ強姦しますか」の婉曲な質問のつもりで作ったんだろうが、どうせだったら「あなたが性欲を感じたらなんの好意ももってない相手と強制的にセックスをすることがあると思いますか」とでも質問したらどうなんだ。(このタイプの質問に「俺はそんなことはぜったいしない」と言いきれる奴は、それはそれで問題があるかもしれないのだが、それはそれで別の話。)

こういうデータをもとにして、「性的メディア接触により歪んだ性情報や性行動を現実のものとして受け入れ、半ば性暴力的な態度が形成されているかもしれない」とおっしゃる。

もちろん用心深く、

本研究では、Gerbnerのカルティベーション論を援用し、性的メディア接触が歪んだ性情報の受容を促進し、その結果として青少年の性に対する態度が寛容になっているのではないかと推測した。大学生350名に対する調査から得られたデータを分析したところ、上記の仮説を支持する結果を得ることができた。しかしながら、関連性は示すことができたものの、これによって因果関係が証明されたわけではない。

とおっしゃる。まあ統計だけから因果関係を言うのはたしかに難しい。だいたい性的に寛容な人間の方が積極的に性的メディアに接触するだろうし。女性の場合そういうメディアに接触するのは男性と性的な関係を持ってからの場合が多いということも言えるかもしれないし。

しかし問題はそれじゃなくて、明らかに性差が相関の強い要因であると推測され、他にも色んな先行研究があるときに性で分けてみないってのはどういうことなんだろうか、ってことだよな。それに性体験の有無や頻度その他や年齢も大きく関係しそうなのに。

それに、上の設問からどうやれば「歪んだ性情報の受容」だの「性に対する態度が寛容」だということが読みとれるんだろうか。「キスしてよい年齢、セックスしてよい年齢」がどういう意味があるかわらかんし [1]ちなみにこの二つは有意差なし。 。こんな質問を入れるくらいなら、せめて、「強制的にセックスすることは許されると思いますか」「強制的なセックスをした人にはどれくらいの罰が適当だと思いますか」「女性は時にはセックスを強制されるのを望むことがあると思いますか」のような設問にするべきだろう。

設問(3)が「同じ年の女性が」になっているのも気になる。なぜついでに「同じ年の男性が~」を尋ねないのだろうか。女性はよく知らないひととセックスしてはだめで、男性はOKというのが正しい情報なんだろうか。このアンケートがそういうメッセージを回答者に伝えてしまうかもしれないことをどの程度認識しているんだろうか。

こんなものを論文として流通させている国際基督教大学というのはどういう大学なのだろうか。こういう人に授業ならっている学生は大丈夫なのだろうか。

あとちょっとだけこの方の考察に触れておくと、こんなことを言っている。

大人を介さずに得られたメディア情報の中には歪んだ性情報が多く含まれていることが予想され、青少年の間に歪んだ性情報が偏って存在している可能性が考えられる。・・・携帯電話によって・・・親などの大人を介さずに直接仲間とコミュニケーションが取れる状況が出現したため、これによって性情報が主に仲間集団の間で交換されるようになった。しかし、そこで偏った性情報が交換される可能性が高く、結果的にそれらの情報に多く接触する青少年の意識の中に歪められた性情報が受け入れられてしまうということになる。

このひとはどういう子ども生活を送ったのだろうかと心配になる。年長者や仲間と遊ぶなかで、エッチな話をして、ちゃんとまちがった知識をもらったり、謎をいっしょに推測してみたりしなかったのだろうか(そして自分の人生のなかで正しい理解を得たりまちがったり)。友達とつきあうときに親などの大人を介したのだろうか。親や他の大人から「正しい」知識を与えてもらい、そのまんまなのかな。さすがに性についての正しい知識をお持ちの方は違うものだ。

我々は最も重要で、かつ基本的なことを忘れるべきではないだろう。それは、生(なま)の環境における家庭や学校、あるいは地域社会での子ども同士、大人同士、そして大人と子ども同士の自然でダイナミックなコミュニケーションであり、メディアはこれ以上に子ども達に大きな影響を与えることはできないだろう。

そりゃそうだろう。しかし、性についての情報や知識や実践知がどう得られ、どう伝えられるべきなのかまじめに考えたことはなさそうだ。

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References

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1ちなみにこの二つは有意差なし。

荒木菜穂さんその後

でネチネチからんでしまった荒木菜穂さんの「現代フェミニズムスにおける「性の政治」再考:「女性による性的快楽の追求」への多様なまなざし」女性学年報、25巻、2004 という論文を見る機会があった。

おそらく若い学生さんなので、特にこの方に粘着しようと思っているわけではないのだが、タイトルに興味があったから読んでみた、ぐらい。特に個人的に興味があるわけではない(まあ若い世代の学者文献リストを見たいってのはある)。読んでいると、途中、(Macska 1998=2002)という表記を見ておどろく。はてなダイアリーでも有名なid:macskaさん(正直私はファンだ)の Living in Postmodernity: The Third Wave Feminsm and the Identity of Desire という論文か本を参照しているじゃないか。おお、「macskaさんはこの名前で出版してたのか!これは読まねば」と思いきや、unpublishedで、http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html 
を指して「アクセス2004年5月8日」と書いている。んじゃ、論文webに載っけてるのかなと見てみると、このページはLiving in Postmodernityというmacskaさんの未発表の本の「解説」のページじゃないのかな。ううーん。まあweb参照するのはいいんだけど、さすがに存在しているかどうかわからない文献を参照しちゃだめなんじゃないか。この場合は、著作権主張もページの下ではっきりなされているわけだから、

macska.org, 2000, 「第3次フェミニズムとは?」, http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html, 2004年5月8日アクセス

ぐらいにしといてほしい。

それとも直に原稿見せてもらったのかな。いいなあ。

この本出てるんですか?macskaさん、ということでトラックバック送ってみた。トラックバックというのはリンク貼るだじゃだめなね。・・・あら、なんかおかしいことになった。失敗。ごめんなさい。

“Third Wave Feminism Explained!”っていう本も興味ある。

なんか考証癖がついてきたような気がする。いかん。しかしここしばらくの考証もどきは、論文に書くもんじゃないし、はてなぐらいが適当なネタという気もする。

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