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ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論』

やっと出た。翻訳ごくろうさん。3400円におさめたのも偉い。これから読もう。

重要な本なので一応宣伝しておこう。

オビに「松沢呉一発掘」とか。うーん、そうか。

ポット出版からこのタイトルだと、なんだかアレな本ではないかと思われてしまいそうだが、ちゃんとした人のちゃんとした本。これちゃんと紹介してないフェミニスト/非フェミスト学者どっちも怠慢だよな。松沢先生偉い。ポット出版をおとしめるつもりはないけどこれがポット出版からしか出ないってのも問題な気がする。もちろん、ポット出版はいろいろ勇気ある本を出してて偉い出版社だ。これから硬軟とりまぜて伸びてほしい。がんばれー。

追記

上でポット出版について余計なこと書いたけど、この出版社のセクシュアリティ関係の本は(リベラルではあるけど)むしろどれも硬派なんだよね。なんか誤解をまねく書きかたしてごめんなさい。

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角田由紀子先生の強姦事件判決批判

(3エントリに分けていたものを統合しました。)


これはよい本だなあ、と思っていたのだが。

次に詳しく紹介する1994年の東京地方裁判所の判決は、強姦罪の被害者になりうるには、貞操観念が強固であることを求めているといってよい。「被害者資格」と呼んでもよい。(p.189)

判決は無罪の理由の一つに被害者の証言が信用できないことをあげている。信用できない理由の一つとして、この女性に大きな落ち度があったこと、「貞操観念」に乏しいことを指摘した。(p.190)

A子のように、「淑女ぶって」いながら、実は性的に奔放で慎しやかでないと烙印を押された女性の被害はなかなか信用されないことを、この判決は示している。(p.193)

こういうのを読んで、先週まで私は「90年代になっても法曹関係者はだめな人ばっかりなのだなあ」と思っていた。のだが。

でも判例時報 1562号「強姦致傷事件、東京地裁平5(合わ)167号、平成6・12・16刑八部判決、無罪(確定)」ってやつ読むとずいぶん印象違うよ。困ってしまう。これで有罪にするのは無理だろう。

うーん、比べて読んでほしいのだが、裁判所の判例データベースhttp://www.courts.go.jp/search/jhsp0010?action_id=first&hanreiSrchKbn=01 は使えん。だめか。

とりあえず角田先生が引用している判決の一部再掲。

(A子は)「甲野[ディスコ]で声を掛けられた初対面の被告らと「乙山[スナック]」で夜中の3時過ぎまで飲み、その際にはゲーム[エロ系王様ゲーム]をしてセックスの話をしたり、A子自身は野球拳で負けてパンストまで脱ぎ、同店を出るときには一緒にいたD子、E子と別れて被告人の車に一人で乗ったというのであるから、その後被告人から強姦されたことが真実であったとしても、A子に大きな落ち度があったことは明らかである。(角田p.190。[]内はkalliklesの補。)

A子については、慎重で貞操観念があるという人物像は似つかわしくないし、その証言には虚偽・誇張が含まれていると疑うべき兆候がある。(角田p.193)

たしかにここだけ読めば「これはひどい」だよなあ。この本読んでから5年近くずっとそう思ってた。なぜ被害者の「落ち度」や「貞操観念」や(面倒だから引用しないけど)過去の職業歴が強姦致傷の裁判で問題にされる必要があるのだ!男権主義的司法制度粉砕!ってのが正しい態度だろう。

しかし(面倒なので今日はやめ。続く。)


の続き。

しかし判例時報 1562号の「強姦致傷被告事件において、被害者の信用性が乏しく、和姦であるとの被告人の弁解を排斥できないとして、無罪を言い渡した事例」を読むと、ずいぶん印象が違う。

事件は物証とかがないので、「証言の信用性」が問題とされたらしい。被告人の言い分は「乙山からA子を送っていく途中、同女がワゴン車内で嘔吐したことからトラブルになった」ってことらしい。

そもそも受傷状況についてもいろいろ問題があるようだ。

結局、アないしケの証拠を総合しても、本件の直後にA子が左下腿部・両側大腿部の諸々に皮下出血の傷害(全治約1週間)を負っていたことが確認できるだけであって、それ以上にA子に本件に起因する受傷が存在したと認定することはできない。

ってことらしい。それくらいは酩酊状態でもどっかにぶつけてもできるだろう、ということらしい。問題は、A子さん側がどうも傷を大き目に訴えていたらしく、

逆に、これらの傷害に関する証拠を比較検討しただけでも、A子やD子らA子側の者の証言等に客観的事実に反する部分やことさらに誇張した部分が含まれている疑いが濃厚であるということができる。

ここらへんで裁判官の心証がかなりわるくなっている。

さて、問題の箇所。

このようにA子は、自分は一応慎重に行動していたという主旨の証言をしている(特に、第12回公判では「セックスすることを承諾したと受け取られるような言動は全然していない」と証言する)。しかしながら、A子証言によっても、「甲野」で声を掛けられた初対面の被告人らと「乙山」で夜中の3時すぎまで飲み、その際にはゲームをしてセックスの話をしたり、A子自身は野球拳で負けてパンストまで脱ぎ、同店を出るときには一緒にいたD子、E子と別れて被告人の車に一人で乗ったというのであるから、その後被告人から強姦されたことが真実であったとしても、A子にも大きな落ち度があったことは明らかである。

やっぱりこの判決文はどうかって感じだ。ちなみに被告人側の証言なんか考慮に入れた裁判官の推測では、「A子はパンティーまで脱いで振り回したのではないかとも疑われる」らしい。

以上のようにA子は、初対面の被告人らの前で、ゲームとはいえセックスに関する話を抵抗なくしている上、少なくともパンストまで脱いでこれを手に持って振り上げるという大胆かつ刺激的な行動をとっているのであるから、かなり節操に欠ける女性であると言わざるをえない。

と判決文は結論しているのだが、これも「節操に欠ける」とはなんだかなあという感じもある。大酒飲んで王様ゲームして、露骨なセックスの話をしてさらにパンツ脱いで振りまわして一人で男の車に乗ってしまったら、強姦されても当然とはとても思えないし。「落ち度」と呼ぶのはたしかにあれなんだけどね。うーん。

でもまあそういう判決文の書き方はともかくとして、問題はA子さんやその友人のD子さんの証言がどの程度信用できるかってところなのね。んでかなりそれが疑わしいというのが裁判官の判断。そっちがポイントで、A子さんのセルフイメージや、彼女自身の裁判での主張と、A子さんを「客観的」に見た場合の評価との食い違いを、A子さんが十分に認識できてないんじゃないかとか、そういう感じ。「落ち度」があったから強姦されても当然とか、派手な生活をしていたから信用できないとか、そういう判決ではない(おそらく一応のところは)。

うーん。んで、

A子は、「乙山」における言動及び同店を出発する際の状況に関し、和姦の可能性を曲げて証言していると認められるから、A子証言のうち被害状況に関する分(すなわち核心部分)についても慎重に判断する必要がある。そこで、被害状況に関するA子証言を子細に検討すると、次のとおり、不自然、不合理な点が多く見られるのである。

(略)

以上のとおり、A子証言の確信部分というべき被害状況自体に関する部分にも、不自然、不合理な点が数多く存するのである。

とされちゃってる。まあ判決文を読むかぎりでは、これで有罪にしちゃうとやっぱりまずいだろうという感じ。うーん。

判決文から私が推測したのは、おそらく、被告とA子さんはセクースするまではなかよしだったけど、セクース終ったあとでA子さんが車のなかでゲロを吐くことになり、セクース終ってしまえば女性よりも車が大事な鬼畜被告が怒ってA子さんに対してひどい扱いをして、さらにA子さんにとってはあんまり仲のよくない(一応)ボーイフレンドFさんとの関係もあって、D子さんと口裏あわせて訴え出たのだろう、鬼畜な被告人にはなんか罰を与えてもよいような気もしないではないが、でもこれを有罪にするのは「疑わしきは罰せず」の原則からしても無理だと裁判官は思っているようだ、ってことかなあ。なんだかなあ。なんか気分が落ちる。

まああんまりおもしろくならなかったけど、角田先生のこの本のこの部分に関しては?マークがついちゃう感じ。角田先生の本読んでこの部分に優れたものがあると思っていた人は、判例時報の記事を入手してみてください。まあ角田先生の主張にとって、あんまり適切な判例ではないような気がする。「落ち度」とか「節操」とかって表現がアレなのはそうなんだけどね。正直なところ、私はどう考えたらいいのか困ってしまった。

もちろんこういう事件が重大であるし、スーザン・エストリッチの『リアル・レイプ』その他多くの文献をひきあいに出すまでもなく実際に被害を受けた人が訴えたり裁判で勝ったりするのはほんとうに難しいのだろうし、それはなんとかしなきゃならん(被害の発生を防ぐのはもちろんのこと)のはそうなんんだけど、角田先生が主張しているように貞操観念が薄い女はそれだけで信用ならんとか強姦されて当然だとかってことを司法関係者が思っているだろうってことではないような気がする。わからん。

ちなみに書いておくと(あんまり書きたくないけど目にしちゃって書かないのも あれだ [1]この件書きはじめたときは岩国の事件についてはほとんど考えてなかった。本当。 )、岩国の米兵レイプ事件不起訴についてで署名活動をしようということらしいけど、大丈夫なのかな。

広島地方検察庁は、「本件の事案の性質」を理由として、不起訴とした根拠の説明を拒みましたが、被害者のプライバシーに配慮しながらも、説明責任を果たすことは可能なはずです。

というけど、上のような判決文を読んでしまうと、そんな簡単ではないように思う。どうもセカンドレイプというか被害者バッシングや、「夜中まで遊んでいる」女性一般に対する社会的な非難感情を引き起こしてしまいそうな気がする。上のA子さんの事件について判決文写経しているだけでさえ、いろいろ気になる。この記事消すかもしれん。

もちろんアジア女性センターが被害者側と連絡がとれてたり裏が取れてればそれでいいんだと思うけど、そうなのかな。そうじゃなくて「とにかく情報を出せ」と主張しているのなら、なんか心配。そういの、どうなんだろうなあ。困り。


続き。

p. 194からの事例。

角田先生は、現在の法廷で、性暴力の被害者としてみとめられるには、貞操観念がしっかりした女性であることが要求されるという意味のことを主張している。貞操観念がしっかりしていることが、「被害者資格要件」であり、それにあわない女性は性暴力の被害を認めないという風潮が法曹関係者のあいだに根強いってわけだ。

「被害者資格要件」がもっともらしく議論されるのは、性暴力犯罪の場合だけである。できるだけ、この犯罪の成立を認めたくないという暗黙の願望がその根底にあるのではないだろうか。・・・女性に対する人権侵害を温存することで、利益を得るのは、あるいは、既得権を守りたいのは誰なのか。(p. 194)

疑問文でおわっているが、答はおそらく「集団としての男性」なんだろう。

で、今回見たのは角田先生がそういう事例の典型としてあげてる『判例タイムス』No. 796 (1992.12.1)の「事前共謀による強姦致傷の訴因に対し、被害者が少なくともホテルへの同行を承諾していたとして、現場共謀のみを認定した事例」

この事件は、居酒屋で「ナンパ」した男二人が家出女子大生をラブホテルに連れこんでセックスしようとして失敗して殴ってオーラルセックスさせたという事例。財布から金も抜いている。最悪。強姦致傷や窃盗なんかが認められて、一人は懲役3年執行猶予4年、一人は懲役1年6月、失効猶予3年。もっと重くてよいと思うが、いくつか情状酌量され執行猶予がついている。

角田先生が批判しているのは、この判決文で「貞操」という言葉が無批判に使われてしまっているところ。先生が引用しているのはこんな感じ。

右(角田注:救助を求めなかた行動)は、意に反して男性二人にホテルへ連れ込まれ、まさに貞操の危機に瀕していた(kallikles注:強調は角田による)という若い女性の態度としては、にわかに理解しがたいものと思われる。」(角田p. 196)

同女が、軽率な行動により、ホテル内で危うく貞操を侵されそうになったのが事実であるとすれば(角田 p. 196)

んで、角田先生はそのあと「貞操」とかって「黴の生えたような」言葉が残っているのは、森喜朗元総理の「神の国」と同じような無意識のなにかが影響してるんだろう、ってなことを議論している。

でもこの議論はなんかミスリーディングだし、その前に出している

で議論したディスコナンパ強姦事件で使われている「貞操」ともずいぶん意味が違う。ディスコ事件では、貞操観念という言葉は、「あんまり多くの人とセックスしないほうがよいと思う」 という内容なのに対して、この居酒屋事件判決文での「貞操」はおそらく「処女性」[2]それも単なる肉体的な処女性。くだらんけど。。で、「貞操の危機」は「やられる危機」にすぎないし、被害者の女子大生の行動はたしかになんだか軽率には見える。ナンパされてラブホに二人で入り、ベッドで受け入れ体制をとるが処女で挿入できなかったので「小っちゃくなっちゃんだったからやめようよ」とか。そのあとは主犯の男が殴ったり殴りかえしたりしていて、私は強姦だと思し、判決文もそれを認めている。(主犯の男は前歴もあって、もっと重い罰を与えていいやんね。)でも、「貞操」が全体に大きな意味を持っているわけではないようだ。

まあ判決文は被害者の「落ち度」について述べている。

被害者Aの側にも、自らの意思により、初対面の若い男性二人の誘いに乗って、その車に乗り込んだだけでなく、しつこく誘われた結果とはいえ、 こともあろうに、ラブホテルの一室に一緒に入り、全裸になって入浴の上((kallikles注:男といっしょに入浴している。))、寝室のベッド上で、右男性の一人との性交を受け容れる態度を示すという、軽率極まりない行動をとった重大な落ち度があるという点である。(判例タイムズ p. 251)

これが「落ち度」なのかどうかは私にはよくわからん。事件全体からすれば、おそらくそれは「落ち度」と呼ばれるようなものではないのではないかと思う。だからここを批判するのはわかるのだが、判決文の「貞操の危機」とかを批判するのは無理矢理で、ポイントがはずれていると思う。まあ少なくとも、強姦の被害者であるには「貞操観念がしっかりした上品な女性」であることは要求されていないように見える。

あ、やっぱりこれもうまく書けなかった。難しいんだな。とにかくこの件も角田先生の主張と、判決文を引き比べて読んでほしい。私は角田先生を非常に高く評価していたのだが、この二つの判決を読むかぎり、まさに彼女の専門に近いと思われる裁判の事例において、角田先生の書き方は信用できないという心証を得てしまった。どうするかなあ。でも角田先生は民事の方の専門で、刑事事件はあれなのかもなあ。次は先生の本当の専門であるセクハラ関係の判決文を見てみるべきなのか。

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References

References
1この件書きはじめたときは岩国の事件についてはほとんど考えてなかった。本当。
2それも単なる肉体的な処女性。くだらんけど。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (4)

セックスワーク論関係を読みまちがえたかな

のコメントで、id:june_t さんからコメントいただいた。ありがとうございます。
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カント先生とおはなしを続けてみる

カント先生おはようございます。

婦人の徳は、美しい徳である。男性の徳は、高貴な徳たるべきである。女性は悪を避けるであろうが、その理由は、それが不正だからではなく、醜いからである。そして有徳な行為が、彼らにあっては、道徳的に美しい行為を意味する。当為もなく、しなければならぬということもなく、負い目もない。婦人は、一切の命令、一切の口やかましい強制に堪えられない。彼らが何かを為すのは、ただそれらが彼らに気に入っているからである。・・・私は、美しい性が原則をよくし得るとはほとんど信じない。私はそれによって、女性を侮辱することにならぬように望む。なぜなら、原則は男性にあっても極度に稀だからである。その代わりに摂理は、女性の胸中に親切で好意的な感覚、礼儀正しさに対する繊細な感情、好ましい魂を与えた。 (p.41)

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カント先生とおはなししてみよう

「『思想』2007年4月号に、水田珠枝さんによる論文「平塚らいてうの神秘主義(上)」が掲載されている。」 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070524/1179982514読んでしばらくの間なんかおかしいと思ってたら、そういうのは哲学だけでなく文学作品だってそうだということに気がついた。 続きを読む

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北川東子先生のポエム

さて、「ジェンダー」とは流動的なパフォーマンスである。誰かがなにかを言って、なにかを指差す。すると、男が女を見つめることになり、女は見つめられていると思う。法は「違・法・外」を定め、そのことで、犯罪者を名指し、罪そのものが成立する。派手な衣装をまとったドラッグ・クィーンたちが甲高い声で笑う。すると、ふたつのセックスがちらちらして、互いが互いを模倣してみせる。そのとき、ジェンダーが行なわれている。(北川東子「哲学における「女性たちの場所」—フェミニズムとジェンダー論」,『哲學』, 第58号, 2007, p.50)

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中里見博先生のポルノグラフィ論 (1)

中里見博「ポルノグラフィと法規制:ポルノの性暴力にジェンダー法学はいかに対抗すべきか」、『ジェンダー法・政策研究センター研究年報』第2号、2004と「ポルノ被害と法規制:ポルノグラフィーをめぐる視座転換をめざして」、『ジェンダーと法』、第2号、2005。後者は前者の短いバージョン。

米国では、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。その研究には、大別して、(1)被験者を用いた実験研究、(2)性犯罪加害者の聞き取り、(3)サバイバー(性暴力被害者)の証言・体験談、がある。
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「パーソン論」続き

昨日ちょうど弘文堂の『現代倫理学事典』*1が図書館に届いたので、さっそく「パーソン論」をひこうとすると項目がない。(それはそれで見識かもしれん)

でもとりあえず「(マイケル・)トゥーリー」の項目はある。

「自己意識や理性的能力を一度も持ったことのない存在は人格ではないという議論を展開し、このような人格を持たない胎児の中絶や嬰児殺しは必ずしも道徳的に不正ではないと論じた。」

げ、「人格を持つ」か・・・ぐはっ。執筆者は児玉聡先生*2。なんで「人格を持たない」なんて表現使うのだろうか。「人格の特徴をもたない」「人格ではない」、せめて「人格をもたない」ぐらいにすりゃいいのに。(注意!下のコメント欄を参照。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk22/tooley.html では「人格をもつ」という表現が1回だけ出てきています。もしこれがhave a personのような表現であれば児玉先生にも(昨日のエントリで)小松先生にも失礼なこと書いていることになりますので調査します。have personality/personhoodのような表現ならセーフ。)

「人格」の項目ならある。責任編集の大庭健先生のご執筆。(なんかたてつづけに大庭先生の名前が出てきてからんでいるように見えるかもしれないが、そういうつもりではない。偶然。)

けっこう長いエントリー(全部で13節に分けられている)で、全体がむずかしくて私がはっきり理解しているのか自信がない。

第VI節、タイトルが「倫理的プリミティブ」なのだが、

こうした方法論的な循環は、人格という概念のあいまいさ・不確かさを示しているようにも見えるが、そうではなく、人格の概念が論理的プリイティヴ(そこから話がはじまる大元の概念)であることに由来する」

と書いていらっしゃる。この節に「理的プリミティブ」という言葉は一回も出てこない。論理的なのか倫理的なのか。ずいぶん違うと思うのだが。内容からすれば、おそらく本文の方が誤植なんだろう*3。「人格person」っていう倫理的概念はそれ以上分析できない基本的な概念である、ってことかな。そして他の概念はそれを使って定義されたり分析されたりする。だから「人格」を別の概念の組合せで定義したりすることができないと言いたいのだろう(おそらく、いやわからんが)。

でもよく読むとこの解釈はまずいかもしれない。そのあとで、

私たちは、こちらから呼びかければそれに応じて動くものと、そうではないもの、すなわち呼びかけようと呼びかけまいと決まった動きをするものを区別する。・・・このように呼応可能な相手として、そうでないものから区別された存在が、もっとも広義の人格であり、この広義の人格は、人間を構成するプリミティヴである。

と書いていらっしゃる。んじゃ「プリミティブ」は「定義できない」「分析できない」っていう意味でもなさそうだ。だって「存在」と「呼応可能」っていう(より基本的な?*4)概念にもとづいているように見えるから。それにうちの猫は呼びかければ応答するから人格なのかな。むずかしい。(面倒だから第VI節(人格の外延)、VII節(個体的同一性)は引用しないけど、そこ読んでも猫が人格でないということが言えるとは思えない。IV節では、人格である条件として、「自分のことを描写し考えることができなくてはならない」と主張している(なぜかはわからん)。これでいうと、3歳児とかは人格じゃなさそうだ。

さて、「パーソン論」に関係して気になったところ。

「胎児や植物状態の人も、現時点では呼応が成立していないとしても、人格でありうる。新生児のみならず胎児も、時間の幅を長くとれば、呼応可能な間柄のパートナーたりうるからである。

おお、大胆な主張。ふむ。すでに多くの哲学者によって批判されている「潜在的人格」説。これに対する批判は書いてくれないのかな。あと、「ありうる」と「ある」の違いが気になる。「ありうる」なら「たくさんの胎児のなかの一部は人格かもしれない」ぐらいの意味なのかな。(あれ、逆に、成長したヒトは皆「人格」なのかな。それとも「成長したヒトは人格でありうる」なのかな。つまり、成長したのヒトの一部には人格でない存在者がまじっている可能性はあるのだろうか。その場合、人格と人格でないのの違いはどこにあるんだろうか。それとも「成長したヒトは人格である」なのかな。)

それは、発芽したリンゴの苗木は、いまだ果実をつけないから果樹ではない、と言えないのと同様である。

おお、かっこいい。この比喩にはしびれた。ふつうは、「胎児は人格(パーソン)ではない」っていう議論をするために、「どんぐりは潜在的には楢の木だけど、楢の木ではないでしょ」とか「5才の安倍晋三は潜在的な日本の首相だけど、首相の権限をもっていなかったでしょ」、「だからある胎児が将来人格になるにしても、まだ人格とは言えないでしょ、人格と同じ権利はもってないかもしれないでしょ」というように使われる議論なのだが、これをこうするとは。

でも大庭先生のこの比喩はミスリーディングだろう。おそらく「果樹」は「プリミティヴ」じゃないので定義ができる。「食用の果実のなる樹木の総称、またはその一本」ぐらいだろう。「果樹」は「果実がぶらさがっている木」「ぶらさげたことがある木」のことではないから、まだ実がなってなくてもよい。(また少なくともリンゴのはまだ果樹ではないだろう。)「人格」が「果樹」のような概念なのかどうか。(ホモサピエンスの一員としての「ヒト」の方ならば、「果樹」と同じような概念なのは認められる。)

植物状態の人の意識の蘇生は、現代の医学では説明困難なレアケースに属そう。しかし、そうしたレアケースであるということは、アプリオリに不可能だということを含意しない。

なんか二重三重に間違っていると思う。

昔の判断基準での「植物状態」から帰ってきたひとはたくさんいるだろうし、説明困難でもないだろう。「遷延性」植物状態から帰ってこれたのであればそれは遷延性植物状態ではない。大脳が機能停止しているだけじゃなくて、器質的に死んでる(まったく血流がないとかがその判断基準になる)のに帰ってこれたのならまさにいまんところ科学が説明できないミラクルだろう。

でもなにかが現実に可能だったらアポステリオリにもアプリオリにも可能だろう。アプリオリに不可能なのは、8+5=12にしたり、広がりのない箱を作ったり、丸い三角形を作るぐらいだろう。墓から3日後に蘇えるのもアプリオリに不可能なわけではない。

さらにうしろの方で大庭先生はいろいろ書いているのだが省略。

私はチンパンジーや豚や牛や猫を大庭先生の意味で「人格」としない理由が知りたいのだが、どうも答えてもらえそうにないと思う。

うーん、難しい。学生が学習に使う事典としてどうなのかな。「現代」倫理学事典をなのる以上、「パーソン論」をめぐるいろんな議論を紹介するエントリはやっぱり必要だったんじゃないか。せめて「人格」の項ではもうちょっと紹介してくれないと。

まあたまたま最初にひいたエントリがこうだったからってだけで判断してはいかん。事典とかってのは学生の調査の第一歩になるものだから、なるべく客観的に書いてほしいんだが、まあそれじゃおもしろくないのか。いっそ『事典・哲学の木』のような形なら論文・エッセイ集として素直に読めるんだけどね。

それにしてもほんとうにここらへんの議論は難しい。私には難しすぎる。これまで私が書いたことはどれも信用しないでください。。レポート書く学生は参考にしない方がよいと思う。

おまけ

「レイプ」の項(堀口悦子先生)

レイプとは、日本語では、「強姦」という。しかし、日本のポリティカル・コレクトとして、「姦」という字が女を3つ書くという、非常に差別的な文字であり、表現であるということで、「かん」とかなで表記している。

文章が微妙だけど、ママ。わたしもこの「強かん」っていう交ぜ書きは嫌いなのだが、そうだったのか。でもほんとうかなあ。わたしは単に「姦」は常用漢字じゃないから新聞雑誌はそう書いているだけだと思っていたのだが。

「性欲」の項(田村公江先生)

性欲は主観的感覚であり実証的に数値化しにくいものではあるが、各人における強弱の変化には実際にある種の体内化学物質(中略)が影響しているのであろう。そしてここには、男性女性の区別はないと思われる。

体内化学物質(ホルモンや神経系の化学物質)がかかわっているなら、なおさら男女の(統計的な)違いはありそうだけどなあ。そういうことじゃなくて、男女とも生理的なものの影響を受けているということ自体かな?そりゃそうだろう。

「少年犯罪」の項 (河合幹雄先生)

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。

ちょっと文章おかしいけどママ。なんというか、だいじょうぶか。たしかに貧困は大きなファクターだろうけど、少なくとも「両親が揃わず」は不要だと思うけどなあ。「両親が揃っていない」はほんとうにファクターになってるかな。もちろん、「両親が揃っていない」と「貧困になりやすい」ってことは言えそうな気がするけど。

あらその直後にこんなこと書いてる。

貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。

あれ? ちょっとあれなのでそのパラグラフ(項目の最後のパラ)もう一回引用。

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。生活が豊かになって生活のためより、遊びのための犯罪が増えたと言われているが、統計的根拠は乏しい。現在と比較すれば貧しかった時代でも、生活に困ったからといって犯罪はしない。貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。他方で、犯罪のためにスリルがあるのは今も昔もかわらず、遊びのために犯罪に走る少年は昔からいる。

なんだこれ。なんか矛盾してるぞ。なにを言いたいんだろう?日本が貧しい時期はもっと犯罪が多かったのははっきりしているだろうし。うーん?かなり意地悪く読むことができるような気がする。「貧困」が原因ではないが、「貧困」な家庭を持つものが大半なのであり、かつ、遊びのために犯罪に走るのであれば、貧困な家庭で育つひとは貧困とは関係なく遊びのために犯罪に走る、と読まれてしまうかもしれない。いくらなんでもこういう読みをする必要はないだろうが、やっぱりわからん。ひどすぎ。

「ジェンダー」項目なし(!)

「→性」になってる。

で、「性」の項目(田村公江先生)では

[英]gender; sex; sexuality

になってて、本文中では1回も「ジェンダー」が現れない。けっこう長いのだが、主にフロイト理論の話。小見出しは「フロイトの性欲論」「フェミニズムの功績」「去勢不安」「性的な営みをより良いものにするには」「性教育についての提言」「フェミニズムの功績」のところでも「文化的性差」とか「階級」とか「家父長制」とかっておなじみの言葉は出てこない。うーん。

「家父長制」の項(金井淑子先生)のところで「ジェンダー」が使われている。でも「ジェンダー」の説明はなし。

(「家父長制」)はケイト・ミレットが、『性の政治』で、年齢と性からなる二重の女性支配の制度として定義し直し、ジェンダー概念とともに、第二波フェミニズムの不可欠の概念となった。

「フェミニズム」の項(大越愛子先生)でもジェンダーは使われているけど説明ないなあ。

また近代思想を極限まで追求することで、それが暗黙の内に前提としていた男性/女性のジェンダー二元論という虚構をえぐり出すなど、フェミニズムのよって立つ基盤への挑戦も遂行されている。

とかって感じ。

まあ、この事典は「応用倫理学事典」じゃないからそういうのはいいのかな。なんかヘンなこと書いたけど、この手の事典は国内では少ない(岩波の『哲学事典』古すぎ)から、出版してくれただけでありがたいと思う。本当。


*1:高い!ふつうの人には買えない。私も買えなかった。

*2:この方は自分のページで「パーソン論」の解説 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html でも同じ感じで書いているを書いているのだが、こっちの記述は過不足なく書けている (ちなみに「用語集」の他の記載は正確で非常に有用だと思う)

*3:いや、これでいいのか?わからん。

*4:私には「ひと」より「呼応可能」が基本的な概念であるとはとても思えないのだが。だって基本的にはそれ(相手)が「ひと」だと思うから(大庭先生の意味で)呼びかけるわけでね。まあひとかどうかよくわからんものにもとりあえず呼びかけてみることはあるかもしれないけど。まあおそらく大庭先生は、この「呼応可能な存在」は「人格」の「定義」ではない、とおっしゃるだろうと思う。「プリミティブ」ならそれ以上分析を放棄してもよさそうなものなのだが、なぜ「応答可能」をもちだすのだろうか。逆に、「人格」はすべて大庭先生の意味で「応答可能」なのだろうか。

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『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

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後藤浩子先生のファンキーなフェミニスト哲学

後藤浩子『“フェミニン”の哲学』とか。なんだこれ。エヴリン・フォックス・ケラーの『遺伝子の新世紀』という本によっかかってなんか変なことを書いているが、このケラーの本というのはまともな本なのだろうか。調査すること。なんで現代思想とかそういう人たちは勉強もせずに変な本をまるうつしして自然科学を知ってるような顏するのかね。

現代社会は医療技術から環境に至るまで、この生細胞(ママ)に新たなる実験の経験を強いているが、細胞の経験に配慮する者は多くはいない。それどころか、我々の意識とは独立して、それに先だって、生細胞それ自体の生の相があることを否認する動き(例えば脳死の認定)さえある。」(p.226)

意味わからん。そもそも「生細胞」ってのがなんだかわからんし。(おそらく「死細胞」と対になる意味ではないと思われる)。面倒だから書かないけど、前後の文脈と脳死がどう関係あるのかわからんし。まあこの本叩かれないのならフェミニズム哲学とかってのはどうしようもないと言われてもしょうがないと思う。

遺伝子技術も生殖技術も、セッティングや若干の修正ができるだけであって、その手前にはあくまでも「偶然と確率」に基づく「発生」がある。羊のドリーでさえドナー細胞と卵だけでは不十分なのだ。「電気ショック」、これが、いやこれこそが発生を始動させるのである。これについては、フランケンシュタイン博士=メアリ・シェリーも遥か昔に看破している。(中略)発生の説明におけるこのような「電気ショック」という言葉に私たちが感じる怪しさは、発生の手前にぽっかり空いた裂け目、つまりそれ以前の過程との非連続性を、この言葉が覆い隠せていないというところから来るといっていい。この個体発生の裂け目にドゥルーズは〈個体化〉という概念を置く。それは〈巻き込み〉という作用と、それによって形成される強度的な場、つまり質や延長を展開する元にある「あらゆる変身の劇場」を指し示すのである。

すげー。強い電波を感じる。こういう文章ひさしぶりに読んだな。こういうのがすべてのページにわたってくりひろげられている。もういっこぐらい。

わざわざ異種交配の賭けに出なくとも、フォン・ベーアが既に魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類といった脊椎動物は、その初期胚がみな形態的に類似していることを発見しているように、胚は既にキマイラなのである。(p.253)

この文脈で「キマイラ」はなにを意味するんだろうか。まあ憶測すれば、ドゥルーズがそういうことを書いていて、後藤先生はそれを引用だとわからないような形で書いているだけなんじゃないかと思うが。

女性の身体は〈宿主〉である。この〈宿主〉が家畜として進化を遂げていくのに必要なのは共棲者の多様性である。そして、この多様性の保持は我々の「想像力」に懸っている。この意味で、フェミニズムの真の闘争は、「想像域の自由」の法的確保より、むしろその手前、つまり幻想精算の実践にあるのだろう。つまり、簡単に言ってしまうと、「自由」や「アナーキー」ではなく、「ファンキーで行こう」ということだ。では、その実践例をひとつ挙げておこう。(Ciaran Carsonの詩省略) さて、あなたはこんなファンキーな〈宿主〉になれますか? (pp.258-9)

「ファンキー」ってのはどういうことかわかってるんだろうか。Ciaran Carson先生はアイルランド人男性のようだが、ファンキーなんだろうか。映画『コミットメンツ』で言われていたように、アイリッシュはイギリスの黒人だからファンキーで”I’m black and proud of it”とか主張してるんだろうか。自分がなにを書いているのかわかっていないようなひとってのはどうなんだろうか。誰かなにか言ってあげればよいのではないのか。全体を通して、まるでポストモダン論文自動生成器による文章のようだ。まじめに勉強して地味な論文を書いているオーバードクターがかわいそうだ。なんとかしてあげてください。

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伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』の謎

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004。ISBN:4272350188

この本でもジェンダーは文化だってことの証拠としてp.62でミードの『男性と女性』の研究がひきあいに出されている。

で、先日触れた伊藤公雄の『男性学入門』ISBN:4878932589とほぼ同じ表が使われているのだが、この表、なんだ?この二つの表はすごくよく似ていて、ほとんど縦横を変換しただけ。伊藤公雄は出典としてミード本人じゃなく、

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

としている。「井上和子ほか」の本は巻末の文献表に出典がある。
伊田は

出典 マーガレット・ミード『男性と女性』1949年。諸橋泰樹『ジェンダーというメガネ—やさしい女性学』(フェリス女学院大学)

としている。「ジェンダーというメガネ』の発行年月日や発行者は不明。(フェリス?)もちろんこの表はミード自身のものではない(し、ミードの研究とは離れてしまっている)。

伊藤の本で気になった表記はそれぞれアラペッシュ、ムドグモール、チャンブリになっている。(伊藤の本ではアラ「ベ」ッシュ、ムンドグモール、チャム「プ」リ)。

あと、伊藤の本で「男女」になってるのが「女男」になってる。「男性的」が「いわゆる男性的」になったりもしている。

なんじゃこら。どこかでインチキが横行しているんじゃないのかなあ。

なんか、フェミニズムの人々はバカなバッシングを受けているだけじゃなくて、もしかしたら背後から足ひっぱられているかもしれないとか思ったりもする。(いや、ただの感想。根拠なし。)

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伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。

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加藤秀一の性暴力論

昨日加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読んでかなりショックを受けたので、ちとメモを残しておく。

ちょっとよく読んでみる。気になった終章の「性/暴力をめぐって」の前に、

ポルノを論じているところ(第3章)でも性暴力の話をしていた。

加藤先生の「暴力」論

p.176で、先生はこう言う。

暴力という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。・・・人間の肉体に侵襲を加える行為でも、それが行為参加者によって一定のルールに従う合理的行為(医療行為とか愛のムチとかいった)として承認されちるときには暴力ではない」

OK。「暴力」は不当な力だ。ただし物理的な力に限定する必要はないと思う。

しかし次のページ(p.177)は問題がある。

教師が生徒を殴った。・・・これは暴力か否か。行為とその文脈という枠組みだけで考えている限り、この問いに解答を与えることはできない。ここで問われているのは、「殴る」という行為の社会的な意味を決定すべき文脈それ自体の意味づけという、一段高次の論理階型に属する問題だからである。したがって、行為の文脈に対してさらにメタ・レヴェルにある「権力関係」という第三の水準を導入する必要がある。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証され正当化されているときには、殴られた当の生徒がいかに不満を抱いても、教師の行為は暴力という社会的意味を付与されることはない。

こういうのを読むと、社会学者ってのはなあ、と思ってしまう。社会学者の多くにとって、「暴力」かそうでないかってのは「社会的意味」でしかない。「社会的意味」ってのをはっきりさせてくれればいいのだが、たいていの社会学者ははっきりさせてくれない。おそらく上の文章の意味は、「*人々*はそれを暴力とはみなさない」っことなんだろうが、この「人々」が誰かわかんないから不満なんだよな。「行為とその文脈という枠組み」で考えて答が出ないのは、加藤先生が「暴力」かどうかを「人々がそれをどう見るか」という記述的な視点からそれを見ようとしているからだ。哲学者から見れば、あるものが「暴力」であるかどうかは、(加藤先生も「不当な」ということでちゃんと理解しているとおり)事実判断ではなく価値判断なのだから、いくら事実に訴えても一義的な答が出ないことがあるかもしれないのは当然のことだ。いくら「権力関係」なるものを視野に入れても、事実から価値判断は直接には出てこない。(もちろん道徳的実在論をとるひとは別かもしれないが、少なくとも哲学者はこんなおおざっぱな議論はしない。)

人々があるものをある仕方で意味づける、って事実と、その意味づけが正当かどうかということは別のはずだ。ここに混乱があるように見える。

ある性的行為・・・が性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。だからこそ、性的行為の意味を誰の視点からとらえるのかという政治的問題が決定的に重要なのだ。(p.177)

「政治的問題」なのか?「政治的」ということでどういうことを言っているのか不明。

・・・フェミニズムの性暴力論の核心は、女性の視点を肯定するところにある。
性暴力とは被害者=女性が望まない総ての性的行為の強制を指す。

ううむ。「性的行為の強制を指す」だけではだめなのか。「女性が望まない」がどうしても必要なのだろうか。まあいいけど。

p.178のペニスの挿入がどうのこうの、というのは正しい。が、

被害者が相手の行為によって不当に傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。(p. 178)

はおそらくまちがっている。ある人が「不当に傷つけられた」と感じれば、その人がそれを自分にとって性暴力と認める十分な理由になるかもしれない。しかし、それがただちに「性暴力である」と他の人々も認めなければならないわけではない。正当か不当かの区別は、本人の感覚とは独立に示されなければならないんじゃないの? 誰かが「不当に傷つけられた」と感じ、不快に思うならばそれはぜんぶ性暴力、というのでは、あまりにもインフレだ。たとえばある種のフェミニズムの考え方すら、一部の*女性*にとっても不快で人を傷つけるもののようだが、だからといって大学の必修の授業でフェミニズムをとりあげることが性暴力にあたるわけではない。

なんといっても気になるのは、加藤先生は自分自身が事実判断ではなく、価値判断、規範的判断をしていることをどの程度意識しているのかってことだよな。「当人がいやがれば性暴力なのだ」という判断は、「(性)暴力」が価値判断であるかぎり価値判断で、「当人がいやがる」は事実判断だ*1。加藤先生自身が正しく指摘しているように、「暴力」は「不当」な力であり、「不当」であるかは価値判断なのだから、「傷つけられたと感じる」ことから「それは性暴力だ」と言うことは(直接には)論理的関係ではない。ここには論証が必要だ。

ここまでの議論を承認するならば、いわゆる「差別」と暴力との等根源性も明らかになるだろう。(p. 178)

性暴力をめぐる闘争とは、同時に性差別をめぐる闘争でもある。それどころか男の女に対する性暴力は、性差別という全般的状況の(突出してはいるが)一部分であるに過ぎない。(p. 179)

ぜんぜん明らかではない。加藤先生は「差別」という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。加藤先生はわざわざ「*いわゆる*「差別」」とまで表記するのだから、ひとびとが「差別」をどういう意味で使っているかある程度把握しているのではないかと思うが、わたしにはさっぱりわからない。わたしにとっての「いわゆる」差別は、「当の問題について重要ではない特徴をつかってあるグループの人々を選びだし不利益な扱いをすること」のような感じなのだが。単にあるグループの人々をある仕方でとりあつかうのこと自体はこの意味では「差別」ではない。(もちろんもっといろいろな意味はあるのだろうが、加藤先生がどういう意味で使っているのかを知りたい)

差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である・・・人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。したがって厳密には、人は独りでは差別をすることはできないし、反対に独りでは差別をしないこともできない。」(p. 179)

とおっしゃるわけだが、(私の頭が悪いから)よく理解できない。社会的な差別が社会的であるのは当然だと思うのだが。

「差別」は定義していただけてないが、「性差別」の定義はある。

ところで性差別とは何か。詳細に論じる紙数はないが、さしあたり、女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元することであると定義しておこう。(p.179)

なるほど。定義としては「~認めず」は必要ないような気がするけど。それにこの定義では多くの性差別(たとえば就職における女性差別)が抜けおちると思うが、まあ定義は自由だ。

加藤先生の「性」暴力論

加藤先生は、彦坂諦先生の論文(『男性神話』径書房1991。まだ読んでない)に影響を受けて、性暴力が他の暴力と違うのは被害者の側の「屈辱」にあると見ているようだ。

彦坂諦は、屈辱という言葉を用い、次のように問うている。

なぜ強姦されたことをひとは屈辱と感じるのだろうか。
強姦された女が、私たちのこの社会のこのいまの状況のもとで、そのことを屈辱と感じるのは……私たちのこの社会から、歴史的・文化的にじゅうぶんないわれをもって、それは屈辱であるという見方を押しつかれているからだ。

ここで屈辱という言葉であらわされているものが、「性暴力」から「暴力」を引いた残余である。(p. 326)

おそらく彦坂先生も加藤先生もまちがっている。「性暴力」から「暴力」を引いたら、残るものは侮辱ではなくて性欲だ。性暴力が女性に屈辱を与えることは多いだろうが、屈辱は必要条件ではない。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

昨日も書いたが、いろいろショッキングな文章だと思う。

「屈辱感」とはどのような感覚か?

まず、「屈辱」とかってのは性犯罪だけなく、一般に犯罪の被害者、もっと広く不当な行為を行なわれた人間にとっては共通の感覚だ。加藤先生はカツアゲされたり道端でおびやかされたりしたことがないのだろうか?私自身はカツアゲされそうになったことはある。もしその犯人に金をとられたら、それは私にとって屈辱的であったろう。暴力的な犯罪の被害者になるということは、まさに自分の弱さを意識させられるということだ。暴力的でない犯罪でも、自分の攻撃されやすさvulnerabilityを意識することになる(犯罪被害の現象学というのはおもしろそうだ)。はっきりとした犯罪でなくても、誰かから騙されたり、操作されたりしたときに我々はひどい屈辱を味わう。たまらん。

「辱める」ってことは

いっぽう、加藤先生が性暴力のポイントと認める「辱める」のはもっと複雑な概念かもしれない。女性を辱めるdishonorするということの裏には、「貞操」や「純潔」が女性の誇りhonorであるというモーツアルト時代の響きが感じられる。わたしには正直なところよくわからん。

ここで私がショックを受けたフレーズが出てくる。

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

私がショックを受けたのは、強調した(strongでかこった)ところ、「でも自分も少しは感じたんじゃないの?」だ。この文脈で出てくるのはほんとうにショッキング。

なにがショッキングかといって、女性が強姦その他によって「快楽を味わう」ことがこの文脈で出てくるとは予想してなかったらからだ。しかし、これは加藤先生の言う「辱める」ことの最も重要なポイントなのだ。

たとえばわれわれは、人を殴って辱めることはできない。金を奪っても辱めることはできない。それらは外的な事件であり、本人の「誇りhonor」とは無縁のことだ。運が悪かっただけ。この意味では、われわれはどんな不正な目にあっても傷つくことはない。

哲学とか好きな人のために書いておけば、ソクラテスは不正なことをされても自分が不正なことをしなければ魂が悪くなることはないと言ったし、ウィトゲンシュタインは「確実性について」で同様のことを主張している。

しかし、ある考え方によれば、不本意でも、性的な快楽を味わってしまうことは、そのひとをその行為に対して共犯関係におくことになるらしい。これは馬鹿げた考え方で、まさにレイピストの発想だ。われわれはいくらおいしいものでも無理やり口に入れられたくない。(しばらく前に山形浩生先生について書いたときのフランクファートの一階の欲求と二階の欲求の区別、あるいは欲求のアイデンティフィケーションの話がここらへんで効いてくる。)

もちろん、加藤先生は、そういう「一般社会の考え」を自分なりに構成して書いただけで、そういう発想に彼自身はコミットしていないと言うだろう。しかし、彼の発想では、社会がどう思うかがすべてを決定してしまうように見える(私の誤解だと思うが)。

田村公江先生の『性の倫理学』(丸善株式会社、2004)という本では、非常に大胆な発言がある。

筆者は高校生のときに通学電車の中で痴漢にあったことがある。満員電車の中で立ったまま眠っていたきに、おっぱいを触られていたのだ。うとうとしながら、なんだか気持ちよくなっていた。」「快感を感じた=本人にとっていやなことではなかった」、だから痴漢は悪いことではなかった、と言えるのだろうか。答はノーである。性的な快感を呼び起こす身体接触を受け入れることに関して、筆者は同意を求められていなかったからである。快感を感じたからといって、同意があったと事後的に言うことはできない。

これは痴漢体験が被害者に身体的な快楽をもたらすことがあるという非常に勇気のある発言で(アカデミックな文脈では空前絶後で、これが唯一)、その正直さにまったく敬服する。しかし、田村先生が指摘しているように、そういう快楽と性暴力の不正さはまったく関係がないのだ。

うーん、やっぱりうまく表現できない。加藤先生が、「少しは感じたんじゃないの?」という見方が「彼女の存在そのものの否定に等しい」と言うときに、いったい加藤先生自身が何を考えているかが問題なのだと思う。たしかに「感じたんじゃないの?」という考え方はその女性を単なる性的なオブジェクトに貶めるものかもしれない。しかしそれはその発想がおかしいんであって、その性的暴行そのものではない。性的暴行そのものの不正さは、「社会の見方」とは独立のはずだ。そうでなければ、社会がOKと言えば性的暴行もOKということになってしまう。

その女性が「汚れ」にされるとすれば、それはそういう見方が汚れにするのであって、性暴力そのものがそうするのではない。この性暴力そのものと、性暴力にあった人に対する社会の見方が、加藤先生のなかではさっぱり区別がついていないように読めるのだ。

私がショックを感じたのは、加藤先生がそういう「汚れ」意識を内面化してしまっているところにあるんだと思う。もちろん、ただの例として構成したものなんだろうけど。

辱めることと男性的性欲

さらにつめてみると、たしかに加藤先生の言う女性を「辱める」ことと、強制的に快楽を味わせることの間には概念的な関係があるように見える。男性的なセクシュアリティにとって、快楽を強制的に味わせることは、たしかに相手の女性を辱めることなのかもしれない。そしてある種の人々にとって、快楽を強制することが、女性に対する性暴力のポイントかもしれないと思う。女性を単なるオブジェクトとするだけでは、十分女性を辱めたことにはならない。上で書いたように、どんな不正な目にあっても、誇りを失なわないことは(理論的には)可能だ。誇りを失なわせ、屈服させるには、相手を権力関係を同意させなければならない。その手段のひとつが快楽だ。松浦理英子が「嘲笑せよ」と主張したのは正しい。たんなる物理的な暴力では人を屈服させることはできない。快楽なり欲求なり、被害者がそれを認めることが必要なのだ。そういうわけで、加藤先生は、男性的な性欲のなかにある「辱める」ことと「快楽」との間の関係を正しく見ているのだが、十分それを自覚しているかどうかはわからない。

これがおそらく加藤先生の不用意な文章を読んで私が感じたショックの本質だ。おそらく女性のほとんどは、友達が痴漢されたり強姦されたりしたときに、「感じた」かどうかは問題に無関係だと思うだろう。というか、「感じた」かどうかを発想さえしないだろう(「今日電車で痴漢にあって腹たつ!」「で、感じた?」とかって会話はありえない)。しかし加藤先生のような女性の視点にかなり近い人でさえ「感じた」かどうかが問題になるかもしれないというところが私にとってショックだったんだろうと思う。男性のセクシュアリティにはまだまだ謎が多く、加藤先生のように最も明晰で自覚的なひとでさえバイアスから逃がれることは難しい。

まあもうずいぶん前の本だから加藤先生の考え方は変わっているかもしれなし、もうこういう不用意な表現はしないだろう。ここらへんの問題について最近の見解を読んでみたいものだ。

うーん、だめだ。頭悪い。もうちょっと言うべきことがあるような気がする。また明日。

*1:「いやがる」「不快に感じる」「傷つけられたと感じる」のは心理的事実。ここは混同しやすいので注意が必要。

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荒木菜穂さんのすばらしい研究

ポルノと性意識の実証調査というのは実はあんまり数がない。

もうちょっと若い世代の研究も見てみた。

荒木菜穂「ポルノグラフィ文化におけるホモソーシャルな構造~大学生へのアンケート調査を通して」『鶴山論叢』第5号、2005

荒木さんは発表時点で神戸大学大学院総合人間科学研究科博士課程後期課程に在籍していらっしゃるようだ。

この論文ではどういう対象にどうやって調査したのかも記されていない。

関西の2大学、関東の1大学において、2002年6月21日、7月12日、2003年1月15日の全4回、SWASH (Sex Work and Sexual Health)の協力により荒木が実施。回収数240部、内訳女性131人、男性101人、不明8人。

ということだが、どの程度配ったのか、その他知りたいことはたくさんある。

で内容だが、まず、この論文も質問用紙がどのようなものであるか明示していないのが気になる。

(1)まず「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」という設問を行なったらしい。

出てくるのは、

  • 男性では順に「エロ本」(65.1%、以下数値は略)「アダルトビデオ」「成人向け込みっく」「ポルノ小説」「成人映画」「男性週刊誌」「アダルトサイト」「ヌード写真などを使った広告」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」、
  • 女性では「アダルトビデオ」(61.4%、以下略)「エロ本」「成人映画」「成人向けコミック」「ポルノ小説」「男性週刊誌」「ヌード写真などを使った広告」「アダルトサイト」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」

ということらしい。質問が選択式なのか記述式なのかわからない。それに、「やおいマンガ・小説」が入っていないのはどうしたことだ。若い(おそらく)女性研究者が、やおいを選択肢に入れないなんて考えられない。

で、さらにまずいことに、次の質問で「ポルノグラフィを目にしたことがあるか」「自主的にポルノグラフィを見ることがあるか」をたずねてしまっている。で、クロスをとる。たとえば次のよう(これも技術的問題から表記を変更してある)

表3 性別と自主的にポルノグラフィを見ることがあるかのクロス表

yesno無回答合計
男性75 (90.4%)8 (9.6%)83 (100.0%)
女性15 (14.2%)86 (81.1%)5 (4.7%)106 (100.0%)
合計90 (47.6%)94 (49.7%)5 (2.6%)189 (100.0%)

当然の問題は、表3が何を表現しているか、ってことだわなあ。
この質問に答えた人はなにをポルノグラフィだと思って答えたんだろうか?最初の設問で「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」があれほど多様だったのだから、さまざまなものをポルノグラフィと思って答えてるんだろう。荒木菜穂さんはポルノグラフィを定義もせずにこんなことを尋ねてなにか意味があると思っているのだろうか。

この論文ではいっさいの検定を行なわないと決めていらっしゃるようだ。ただクロス表を並べるだけ。

なんか面倒になったからやめる。神戸大学総合人間科学研究科は、ちゃんと社会調査の方法を学生に教えるべきだと思う。

荒木さんはポルノの享受には「ホモソーシャルな構造」があると言いたいようだけど、やおいだのボーイズラブだのってものも視野に入れれば、ぜんぜん研究が違ってきたのに。とくに女子はそういうものを交換して楽しむ傾向があるように見えるから(証拠ないけど)もっとおもしろかったのに。

この方はblogももってるようだ。そっちは実感のこもったおもしろいこと書いている。上の論文は調査としてはダメダメだけど、フェミニズムの視点からのポルノ批判のまとめはよく書けていると思う。研究がんばってほしいものだ。

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荒木菜穂さんその後

でネチネチからんでしまった荒木菜穂さんの「現代フェミニズムスにおける「性の政治」再考:「女性による性的快楽の追求」への多様なまなざし」女性学年報、25巻、2004 という論文を見る機会があった。

おそらく若い学生さんなので、特にこの方に粘着しようと思っているわけではないのだが、タイトルに興味があったから読んでみた、ぐらい。特に個人的に興味があるわけではない(まあ若い世代の学者文献リストを見たいってのはある)。読んでいると、途中、(Macska 1998=2002)という表記を見ておどろく。はてなダイアリーでも有名なid:macskaさん(正直私はファンだ)の Living in Postmodernity: The Third Wave Feminsm and the Identity of Desire という論文か本を参照しているじゃないか。おお、「macskaさんはこの名前で出版してたのか!これは読まねば」と思いきや、unpublishedで、http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html 
を指して「アクセス2004年5月8日」と書いている。んじゃ、論文webに載っけてるのかなと見てみると、このページはLiving in Postmodernityというmacskaさんの未発表の本の「解説」のページじゃないのかな。ううーん。まあweb参照するのはいいんだけど、さすがに存在しているかどうかわからない文献を参照しちゃだめなんじゃないか。この場合は、著作権主張もページの下ではっきりなされているわけだから、

macska.org, 2000, 「第3次フェミニズムとは?」, http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html, 2004年5月8日アクセス

ぐらいにしといてほしい。

それとも直に原稿見せてもらったのかな。いいなあ。

この本出てるんですか?macskaさん、ということでトラックバック送ってみた。トラックバックというのはリンク貼るだじゃだめなね。・・・あら、なんかおかしいことになった。失敗。ごめんなさい。

“Third Wave Feminism Explained!”っていう本も興味ある。

なんか考証癖がついてきたような気がする。いかん。しかしここしばらくの考証もどきは、論文に書くもんじゃないし、はてなぐらいが適当なネタという気もする。

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ジェフリー・ウィークス

このジェフリー・ウィークス(『セクシュアリティ』)というひとの議論は、その筋(社会学者?)のひとびとにどのように読まれてるんだろうか。ふつうの読書経験からすると、あまりにも生物学まわりの情報が古すぎて使いものにならないんじゃないだろうか。
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『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。

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