ファインバーグは重要だった (3)

前のエントリなんですが、ちょっと解説しておきます。

「パーソン論は新生児や障害者殺してもかまわんとする邪悪な思想だ」みたいな批判があるわけですわ。ちょっと古いけど、さっき見てた菅野盾樹先生の「胎児の道徳的身分について」(1998)って論文ではこんな感じになってる。(たまたま見てただけで、国内の多くの生命倫理の論文はこんな感じになってる。)

何回も書いてるけどこれは誤解というかひどい言い掛かりというか、まあこういうふうに理解してはいかんのです。

理由はまさに、パーソン論というのは基本的に「生命に対する重大な権利」についての議論ではあるのですが、我々の生活では権利っていうのは道徳的生活の一部にすぎず、他にも社会的効用とか善意とか愛とかケアとか幸福とか自由とか平等とか、権利以外にもさまざまな考慮すべき事柄があるからです。権利の侵害はもちろん不正ですが、権利の侵害ではないけれども不正なこと、正当な権利の行使ではああっても望ましくないこと、などいろいろあるわです。この点は実は、国内で初めてパーソン論をとりあげた飯田亘之先生も「可能なことと望ましいこと」(『理想』第631号、1985)っていう、記念碑的論文で論じているのです。

権利っていうのは法的概念、あるいは疑似法的概念であって、われわれの道徳生活のすべてではない。ファインバーグはそこらへんよくわかっていて(っていうかファインバーグ先生ほどわかってる人はいないわけですが)、仮に胎児や新生児が生命に対する重大な権利をもっていないとしても、もっと考えるべきことはありますよ、と主張しているわけです。そしてそれは主に社会的効用だ。赤ちゃんや弱者を簡単に死なせるような社会は、その赤ちゃんや弱者たちにとっても望ましくないし、パーソンである我々自身にとっても望ましくない。だから権利もってない存在者だからといって菅野先生がいうようになんでもしてよいなんてことにはならんのです。だいたい犬猫だって好きに殺してもかまわんとかそういうことにはならんでしょ。何を言ってるのですか。

問題は非常に重篤な障害を送ることになりそうな新生児などで、これは障害や病状によっては、ひょっとすると本人が非常に苦しむ将来が予想されることがあって、こういうときに新生児の安楽死とかの問題が生じてくるわけです。ここではそうした非常に大きな苦しみをかかえた人を生みだすことが「不正」であるかどうかというファインバーグが気にしている問いをつめて考えることはできませんが、かなり重い障害を負った新生児であっても、そんな簡単に治療を差し控えようとか安楽死させようとか言えるものではない、っていうのがファインバーグ先生の結論だと思います。

このあと、もうちょっと続くんですわ。この新生児などについての議論が、中絶の議論にどういう影響があるか、という部分。

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人工妊娠中絶問題への含意

現実所有基準説が胎児の道徳的パーソンとしての身分の問題に対して持つ含意は単純である。胎児は、我々がさきほど生存権を所有するための必要十分条件として列挙したうちの特徴(C)を現実に持っていないため、胎児はその権利を所有していない。したがって、この基準を考えるなら、人工妊娠中絶は決して胎児の生存権に対する侵害を伴わない。そして、胎児に生まれることを許容することは、我々が*しなければならない*ことでは決してない。*そうであってしかるべき*何かではありえないのだ。

しかしだからとって、中絶は不正ではありえないということにはならない。先に見たように、新生児は現実所有基準を満してはおらず、したがって道徳的な意味でのパーソンではないとはいえ、少なくともそれがひどい異常をもっていないかぎりは、それを殺すことが不正であるという功利主義的な理由が与えられるるのである。それゆえ、胎児が生まれたときにひどい異常をもってない見込みがあれば、これと同じ理由がその発達後期の段階で胎児を中絶することに反対するものとして与えられうる。

これまで考察してきた功利主義的な理由は非常に重要であって、ことによると、こうした理由は、非パーソンであるとしても本物のパーソンに非常に類似した存在者であればいかなるものでも、それに対して暴力的・破壊的な取り扱いを禁じるに十分であるかもしれない。そうした存在者には、たとえばすでに物故した元パーソンや小さな赤ん坊だけでなく、オトナの類人猿や妊娠の最終トリセメスターのヒト胎児も含まれるかもしれない。そうした考慮事項が、ブラックマン判事がRoe v. Wade判決で多数派意見を述べたときに彼の念頭にあったのかもしれない。多数派意見によれば、胎児は殺人に関する方によって保護される法的な意味でのパーソンではないが、それでも最終トリセメスターのあいだは「国は人間の生命の潜在性における利益を促進することにおいて、中絶を規制または法によって禁止することを選択できる」とされている。「人間の生命の潜在性」に国がどのような利益をもっているにせよ、それは*現実の*人間の生命に対する敬意を維持し促進することについてもつ利益から派生したものにちがいない。我々の派生的な敬意から利益を受けるのは、潜在的なパーソンたちだけではなく、高等動物、死者、新生児、かなり発達した胎児など、本物のパーソンによく類似していて、「本物」の聖なるシンボルを与えてくれるような、すべての近似的パーソン (near-person)なのである。

こうした考慮事項に照らしてみると、先に論じたような漸進主義的アプローチの方が、道徳的な意味でのパーソン性の基準をさぐるという狭い問題設定よりも、中絶の道徳的正当化という一般的問題への回答としてはもっともらしいように思われる。もし胎児は単なる潜在的なパーソンであり今現在の生命権はもっていないとしても、また、それゆえ胎児を殺すことは殺人(ホミサイド)ではないとしても、それに潜在的パーソン性があることはそれを殺すことに反対するひとつの理由になるのであって、それはさらに、中絶が正当化されるとすれば、反対の側にもっと強い理由を要求するということになる。もしこれが正しければ、パーソン性の潜在力がより先に進めばそれだけ、それを殺すにことに対する反対意見はより厳格なものになる。すでに見たように、「権利」の他にも我々の道徳的決定に重要な考慮事項は多々存在するために、誰の権利も侵害しないとしても道徳的に不正であると判断されうる行為がありえる。そうすると、胎児を殺すことは、それが胎児の権利を侵害せず、胎児が道徳的な意味でパーソンでもなく、またけっして殺人(マーダー)ではないしても、一定の状況下では不正となりうるかもしれない。

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どうでしょう。権利とその担い手としてのパーソンの基準の話は重要ではあるのですが、そっからすぐに中絶はいつでもOKとか障害者は抹殺しろとかそういう話にはならんのです。生命倫理学者はもっとまじめに勉強するべきだ。

え、功利主義者のシンガーは障害新生児は安楽死させろって言ってるんじゃないの?それとこのファインバーグという人のはどういう関係なの?という人に向けてはまたそのうち書きます。

ファインバーグは重要だった (2)

ファインバーグ先生が「新生児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出。


(前略)

正常の新生児の殺害

現実所有基準説の提唱者たちは、この反論に対する答をもっている。彼らの信じるところでは、道徳的な意味でのパーソンの殺害(マーダー)ではないとしても、新生児殺は不正であり他の根拠から禁じられるのが適切である。この点をクリアにするために、次の二つを区別するのがよいだろう。すなわち、(1) ハンディキャップが価値ある将来の生活を不可能にするほど深刻ではないような、正常で健康な幼児や新生児を殺すケースと、(2) 重度の奇形や不治の病をもった新生児を殺す場合の二つである。

現実所有基準説の提唱者のほとんどは、第一の(正常な)ケースの新生児殺に対して強く反対する。母親が身体的に正常な自分の新生児を殺すならば、それが誰の生命権を侵害していないとしても非常に不正なことである、と彼らは主張する。正常なケースでの新生児殺を不正なものとする理由が、まさに刑法における新生児殺の禁止を正当化するものである。こうした殺害(キリング)を非難する道徳的ルールや、それを可罰にする法的ルールは、どちらも「功利主義的理由」によって支持される。つまり、いわゆる「社会的効用」あるいは「公益common good」「公共の利益 public interest」などによっているのである。自然が私たちに新生児に対する本能的なやさしさを植え付けているのはあきらかである。それは種のために非常に有用であることは明らかだ。だがそれは、我々に幼い人々を死から守って、我々の人口を維持するためだけではない。幼児はふつうは大人へと育つのであり、ベンの言葉にあるように、「もし新生児としての*彼ら*への扱いに最低限度のやさしさと考慮すら欠けていたら、後に彼らはパーソンとしてそのことに苦しむだろう」からでもある。それに付け加えて、彼らが大人になったとき、身近にいる他の人々もその仇を受け苦しむことになるだろう、と言ってもいい。よって、赤子への自発的な温かみと共感には明らかに莫大な社会的効用があり、そうした社会的に価値ある応答を弱めてしまいかねないという点から新生児殺は功利主義的根拠から道徳的な不正となる。

誰の権利も侵害しないとはいえ不正であり、禁止するのが適切な行為は、他にも例がある。例えば、おじいさんが自然死した後に、彼の遺体を切り刻んで、冬の寒い朝にその肉片をゴミ箱に捨ててしまうのは不正であろう。これが不正であるのは、*おじいさんの*権利を侵害するからではない。彼はすでに死んでおり、もはや我々と同じ種類の権利を持つことはない。事例を少し工夫して、彼は生前に死後にそうした扱いを受けることを理解しており、実際前もってそれに同意すらしていたので、おじいさんはそれをなんら気にしない、としておくこともできる。だが、もしこうした行為が禁止されていないならば、この種の行為は、生きている人々に対する我々の敬意を(こうした敬意がなければまともな社会など不可能である)、最大限強烈に脅かし打ち砕いてしまうだろう。(またこうした行為は非衛生的であるしゴミ回収業者にとってショッキングでもある――これらもさほど重要ではないにせよ、同じく功利主義的な考慮に関連している。)

重度の奇形児の殺害

一般的な功利主義的理由は、通常の(そしてあまり異常ではない)幼児のケースでの新生児殺に反対するかなり厳格な規則を支持するが、それは幼児が重度の奇形であったり重病に罹っている場合の(きわめて特殊で限定的な状況下での)新生児殺を禁止するほど十分に強いものではないかもしれない。確かに、殺人反対の規則が純粋に功利主義に基づいているなら、その規則は極度に異常な新生児に関する例外条項を持つだろう。こうした例外を認める点で、そうした〔功利主義的〕規則は、新生児に生まれながらの生存権を認めることに由来する新生児殺反対の規則とはまったく異なる。もし奇形の新生児が道徳的な意味でパーソンであるなら、彼または彼女は本稿の読者諸君と同じように、殺人禁止の規則によって保護される資格を十全に有している。もし新生児が道徳的な意味でパーソンでなければ、極端なケースでは、全体としてみれば彼を死なせることに賛成する論拠があるということになるかもしれない。道徳的な意味でのパーソン性の現実所有基準説論者は実際に、この非パーソン性がもたらす結論を、自分の見解の難点ではなくむしろ利点とみなしている。彼の見解が正しいとすれば、我々は絶望的に形成異常のある幼児を、道徳的パーソンへと成長する*前に*破壊することで、「生きるに値しない」ほど恐ろしいもっと長い人生から彼らを救うことができる。そしてこれは、彼らの権利を侵害することなく実行できるのである。

この見解にしたがえば、実際このような幼児が道徳な意味でのパーソン性に至る前に死なせ*ない*こと、そのこと自体が彼らの権利の侵害になるかもしれない。なぜなら、もしそうした子どもたちの最も基礎的な将来の利益を実現するための条件が既に破壊されていると十分に知っていながら、彼らが道徳的パーソン性に成長することを許してしまえば、我々はこれらのパーソンに対して、(パーソンとして)存在するようになる前に不正なおこないをした(wronged)ことになる。そして彼らがパーソンになった時、彼らは、自分たちは不正なおこないをされた、と主張できる(あるいは彼らの代理にそう主張されうる)。他の場所で論じたが、私はこの論点から誕生権というアイディアの大枠を提案している。もし我々が、ある胎児または新生児が誕生権を持つことがらを獲得することが不可能であると知っていながら、それにもかかわらず、彼を誕生させたら、あるいはパーソン性に到達するまで生き残らせるなら、その胎児または新生児は不正なおこないをされた(wronged)ことになり、我々は彼の権利を侵害した加害者になってしまうのである。

もちろん、なにか身体的ハンディキャップや精神的ハンディキャップを背負っているというだけで「生きるに値しない」ことになるわけではない。実際、成人にまで成長した幾人かのサリドマイド児の証言は、腕や足や完全な視力がなかったとしても、価値ある人生を送ることが(ごく特別なケアが与えられれば)可能であることを示している。だが、幸福の追求における単なる「ハンディキャップ」ではなく、幸福の追求が失敗せざるをえないことさえ保証してしまうような奇形という極端なケースもありうる。生得的に耳も聞こえず、目も見えず、部分的には麻痺していて、コンスタントに苦痛に苛まれざるをえない精神的遅れをともなった(retarded)脳損傷児は、そうしたケースかもしれない。しかしながら、新生児殺に反対する強力な一般的功利主義事由を考えると、「死ぬ権利」の立場を擁護する者は次のことを認めなければならない。疑わしきケースでは、価値ある人生が不可能であると示す立証責任は、新生児に早急かつ無痛の死を引き起こすであろう人の方にあるのだと。そして、なんらかの疑いのほとんど常に存在するものである。


ちゃんと書いてますね。つまり新生児を殺してはいけないし殺したら法で罰するべきなのは、「功利主義的理由」なのです。

これは当然で、トゥーリーやウォレンらによるパーソン論の最初から「功利主義的理由」や「親やまわりの人々の感情」などは重視されています。

ショッキングなのは、加藤先生がこの部分を読んでいなことに加え、前エントリで引用した次の部分では先生はエンゲルハートの「功利主義的理由」による「みなしパーソン」を紹介し強く批判するわけです。しかしそれならこのファインバーグのも批判するべきだったろうと思う。でもまあ当時としてはしょうがないかもしれない。

でもさらに問題がある。このファインバーグの文章の初出は1980年のはず 1)私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。 。よく批判されるエンゲールハートの議論は、オリジナルでも1986年。つまり、このファイバーグの方が先なのです。それなのに国内では、ここらへんの加藤先生や森岡正博先生がつくりあげたテンプレにしたがって、「トゥーリーがパーソン論やったけど文句がついたので、エンゲルハートが功利主義的な理由から新生児もパーソンと認めようって提案しました。でもその功利主義的発想が許せん」みたいなのがいまだに書き続けられている。

なにが問題かって? それはつまり、ここからわかることは、国内の生命倫理学者のほとんどは、このファインバーグ論文を読んでいないだけでなく、『バイオエシックスの基礎』に収められた貧弱な抄訳に何も疑問を抱かず満足し、そして先生たちが使ったテンプレのままにずーっと伝言ゲームをしているのです。そしてたしかめもせずにみんな文献リストにのっけて、さもオリジナルな発想であるかのようにしてエンゲルハートを批判しているのです。

私はこれはとてもよくないと思う。へたすると研究不正、とはいかないまでも疑問のある研究方針。前のパーソン論論文でもそういうのは批判したんですが、もう国内の学者先生はほんとうに勉強してないのです。そんな学問の世界ってある?それも人の生命を左右するような政策にもかかわるかもしれない分野ですよ? 「生命の尊重」とか言ってる人々がですよ?私は考えられない。まず学問の最低限のマナーを守るべきだ。みんな一度に滅びればいいと思います 2)私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

あとこの論文は80年代以降に問題になる「ロングフルバース/ロングフルライフ」問題の先駆けになってる重要論文ですわね。これは私も気づいていなかった。恥ずかしいです。

References[ + ]

1. 私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。
2. 私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

ファインバーグは重要だった (1)

12月に学会でワークショップだかシンポだかをやろうっていう話に誘われて、またパーソン論や道徳的地位の問題を漁っているわけです。今回はそれなりに徹底的にやってここらへんのに自分のなかでケリをつけておきたい。

たいして新しいアイディアがあるわけではないので、サーベーぐらいはそこそこ徹底的にやっておきたいと思っていろいろめくっているわけです。生命倫理学の大家であり、恩師ともいえる加藤尚武先生が著作集を出していて、それもチェックしなければならない。っていうか、この問題における加藤先生の貢献は非常に大きいんですよね。

「方法としての「人格」」っていう書籍には収録してなかった論文がおさめられているので、とりあえずこれを。初出は『看護セレクト』1989ですか。見たことなかったわー。

内容はいわゆるパーソン論を紹介してその重要性を指摘するとともに批判する、というよくある形で、まあ国内テンプレ様式。でも1989年なのでテンプレにしたがったのではなく、加藤先生自身がテンプレを作ったわけです。ものすごく偉い。

この論文では主にファインバーグとエンゲルハートが紹介され論じられてるんですわ。この組み合わせはわりとめずらしくて、普通はトゥーリーとエンゲルハートなんですが、ファインバーグ先生はほんとに賢い偉い先生なんすよね。法哲学・倫理学の巨人。

んでこういうページがある。

注目してほしいのは、うしろの方の「人格・生存権という概念をもちいることなく幼児殺しを避妊する理由が何であるかをファインバーグは語らない」のところ。これ読んだとき、「ファインバーグ先生ほどの人がそんなことするかな、なんでも明晰に書く人だから」って直観的に思いました。んで当然確認。手間かかるんすよね。

このファインバーグの “Abortion” (または”The Problem of Abortion”)は、加藤先生たちの『バイオエシックスの基礎』(1988)に抄訳が収録されているんですが、あくまで抄訳で、全体の1/4もないのね。収録されているのはT. L. ReganのMatters of Life and Deathって本で、これ10年ぐらい前の例のパーソン論論文書くために入手しておいたし、抄訳がどれくらい抄訳になってるかはチェックしていたんですが、実は全体は読んでなかった。恥ずかしい。

んで発見したことはかなりショッキングだったんですわ。

ファインバーグ先生が「幼児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出したので(っていうかちょっとやって明日やろうと思って寝てたら、夜中に妖精さんがやってくれてました。ありがとう妖精さん)

前置きなのに長くなってしまったので続きます。

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』を図書館でふと手にとって、クジラ問題のところだけ読んでみたらいろいろ問題を感じたので、いつものように引用とメモ。

小型のクジラがイルカであるといっても誤りでなく、そのため、DNA検査によってイルカの肉かクジラの肉かをみわけることは困難である。 (p.130)

え、そうなの?意味がわからんです。DNA調べたら種の特定ぐらいはできるしょ。だから時々国内で特定種類の鯨肉(調査捕鯨などの)が流通しているって非難されるんでしょ。まあクジラとイルカは種としては近くて、人間が勝手に大きさで区別してるだけ、っていうのならわかるけど。水産庁もDNAで肉がどの種のイルカ・クジラであるか登録しろと指導しているような気がします。

[『ザ・コーヴ』制作者らの]論理破綻こそに食にまつわる問題の意味が詰っているのではないかとおもわせもする。つまり、クジラ・イルカ漁に反対するひとは、まさしくただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのではとおもうからである。(p.133、強調は原文傍点。)

こういう文章を見ると、まあなにかに反対したい人はそれに反対したいから反対しているのでそれはいいんだけど、それが「ただそれだけ」なのか、「それ以外の「意味」」はないのか、そもそも「意味」とはなにか、みたいなこと考えてしまいますね。「反対しているのはまったく勝手な感情にもとづくもので、それ以外に反対する理由や根拠ははない」みたいな文章なんだろうけど。たとえば、奴隷制度に反対しているひとも奴隷制度に反対したいから反対しているわけで、民族浄化や奴隷制度に反対したい、反対すべきだと考えているっていう以上の「意味」なんてないかもしれない。

と。んで本論に入っていくわけだけど、その前に、檜垣先生が『ザ・コーヴ』を非論理的、論理破綻、矛盾、とかなんとか何回も繰り返してディスってることに注意をうながしておきたい。ある人の主張が論理的でない場合にはそれは傷であるわけだけど、『ザ・コーヴ』はドキュメンタリー映画・広報映画であって論文ではないので、必ずしも論述の展開が「論理的」でないかもしれないわけだけど、それって映画やドキュメンタリーの欠点なんかな。もちろん映画での主張が矛盾だらけでよいということではなく、論文のような論理的構成になっていないからといってさほどせめられない、と私は言いたい。ドキュメンタリーで出てくる人々の主張はたいてい論文や書籍や他の場所での発表媒体に掲載されているわけだから、主張の論理的なよしあしを見るには映画ではなく他の媒体のものを見た方がよいのではないか、と思う。

第二に、檜垣先生は論理論理論理破綻矛盾!というわけだけど、私にはさほど主張が矛盾しているとは思えなかったってのがある。これは檜垣先生ができるかぎり『ザ・コーヴ』の主張を整合的な形にした上で、どこに矛盾なり論理破綻なりがあるかを示す責任がある。「論理破綻している!」って何度も言うだけでは破綻していることを示したことにならない。それができているか、これから確かめるわけです。


さて。

……できれば酷い環境のもとで飼われないこと、そもそも人間に飼われないこと、これがいいということは確かだろう。……だが、なぜイルカなのだろうか。……なぜそれがイルカ……に対してだけ向けられるのか、そこの線びきの根拠が、正直明確であるとはいえない。 (p.137)

え、そっちに行くんか。

ある社会運動家が、ある問題に関心をもち、ある局所的な事象をとりあげて問題視することはよくある。個人や団体の力には限界があるので、世界の不正や問題をぜんぶいっしょにとりあつかうことはできないからだ。世界をよくするには、それぞれの人が小さくても局所的な問題をとりあげ活動し改善していく方が全体としてはうまくいく見込みが大きい。

ただし、イルカの飼育に関心をもっている人に対して、豚の工場畜産はどう考えるかたずねてみるのはもちろん悪くない。クジラやイルカに豚とは違うなにか特別なところがあると考えているのかどうか聞いてみたらいい。それに対する答はいろいろありうる。「豚についても懸念しているけど私はイルカに特に興味がある」っていうのもまあ一つの答だし、「豚問題もやりたいけどとにかくイルカから」っていう答もありうるだろう。また、「イルカはかわしいけど豚はかわいくないから」という理由であった場合には、「かわいさってそんなに道徳的に大事なのですか」と聞いてみてもいい。でもこれってそれ自体は論理破綻とかではない。しかしまあ檜垣先生が「なぜイルカなのか」と考えること自体はそれでOK。

あと、一般に、なにかが論題になっているときに、別の話にそらしてしまう論法は、「イグノランチアエレンキ」(論点相違)の詭弁/誤謬推理って呼ばれていてあんまりよいものではない。

たしかにオリバーにとって、……それと同種のイルカも、かけがえなのない「伴侶種」であることは理解できる。しかしながら、……他の無数に存在しうる「伴侶種」にも同じことをしなければならないはずだ。 (p.138)

オリバー先生というひとがイルカはコンパニオンだから救うべきだと主張しているかどうかは未確認(この本でもわからん)。でもこれはこれでいい。

でも、たとえば(「伴侶種」である)イルカを大事にするなら、(伴侶種である)犬も大事にしなければならないはずだ、っていうことから、イルカ漁反対運動と、犬虐待反対運動を同時にやらねばならない、っていうのは出てこない。どっちかかたいっぽうだけでいい。

日本でイルカ漁をおこなっているのは和歌山だけではない。……では、太地町の何が問題なのか。 (p.138)

これも同様。和歌山でもフェロー諸島でもクジラ漁がおこなわれているってことから、「同時に」それらに反対しなければならないってことはない。もちろん「フェロー諸島のにも反対しますか?」って聞かれたらおそらく『ザ・コーヴ』の人々は「(条件が同じなら)反対します」って答えると思うけど、同時に映画とらねばならないわけではない。

「〜に反対するなら〜にも反対しろ」は社会運動家たちに対してよくやられる反論で、意見の整合性を見るために質問するのはよいかもしれないけど、実際の運動をいっしょにやらねばならないわけではない。そもそもそんなのリソース限られてるからできないっしょ。

まあでも、この種の疑問自体はOK。こういう疑問を感じたら、『ザ・コーヴ』の人々がどういう立場なのかよく調べてみればいいと思う。もし私の学生様が『ザ・コーヴ』見ただけで彼らの主張について勝手なことを言おうとしたら、「まずちゃんと調べてみたら」ぐらいの話はしますね。オバリーさんとかの文章は日本語では見つからないかもしれないので、しょうがないからクジラ関係の書籍やweb記事とか調べてもらいますかね。できれば英語その他の外国語でも調べてみたいですね。

食料とする動物に対して穏当な殺し方は構わず、残酷な殺し方はまずいというのは、これもまた、いかなる基準で判断すればよいのかわからないことである。穏当であるというのは、端的にいえば相手に「痛みを与えない」ということであろう。……しかし、どのように考えようとも、これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない。もちろんこの感情移入にはある程度の根拠がないとはいわない。しかし「相応」の根拠しかないといえば、どうなのだろうか。 (p.138)

あらー。ツイッタでよくやられている議論ですね。でもこれはよく考えてみる必要がある。

「食料とする動物に対して〜」なんだけど、いまの先進的な屠畜工場では屠殺は一瞬でおこなわれてかなり苦痛は少なくなってると考えられてるみたいですね。テンプル・グランディン先生とかが動物の心理を推察してなるべく苦痛が少なくなるような施設を設計したり、とか聞きます。

クジラやイルカについて「残酷な殺し方」が問題になるっていうのは、クジラやイルカはそうした施設で苦痛が少ない形で殺すことが難しい、どうしても海で追い込み漁やったり、浮き輪つきのモリを何本も打ち込んだりしなければならない、ってところにあるんだと思ってます。まわりで仲間が殺さてるのも知覚するだろうからそれの恐怖もあるだろうしねえ。まあそういうんでイルカクジラ漁は、牛や馬の屠畜とかに比べて批判が多い。

鹿や兎を鉄砲でとってくるのはどうなんだ、とかの話ですが、まあ鉄砲でさっさと片づけるならそれほど苦痛はない、とか考えられるのか、そうでもないのかはよくわかりません。ただイノシシの罠猟とかはかなり問題があると考えらていて、よく知らないけど24時間以上ほうっておいてはだめ、とかいろいろルールがあるみたいですね。あと鳥のかすみ網とかも苦痛が大きそうだから禁止されてるはず。『山賊ダイアリー』とかで解説してくれてるかな。

んで「これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない」がちょっとわかりにくくて、罠に足挟まれて足の骨くだかれてそれでも半日ジタバタする、みたいなのは人間だろうがイノシシだろうがものすごく苦痛な感じがするんですが、先生これ「人間という種」の感覚器官に依存するもので、イノシシは痛くないと思いますか。イルカが太いモリを打ち込まれてなかなか絶命せずに逃げようともがくのもものすごくたいへんそうですが、先生これ人間の種の感覚器官に特有ですか。特有じゃなくて「依拠」ですか。でもそれってどういう意味なんだろう?

まわりで同類のがばんばん殺されてたら、わりに賢くて将来の見通しがあり、共感能力とかが発達していてグループで活動する種の動物はいろいろ動揺しそうですが、これってどれくらい人間の感覚器官に依存しているんだろう。

「相応の根拠」しかないからどうなのですか。我々が他の人間が苦しんでると思うのでさえ、この意味では相応の根拠しかないではないですか。こんなの動物倫理の初歩の初歩だと思うんだけど、そういうのに興味はないですか?


「数々の誤謬」のところは誤謬といいながら事実認識の話で私はあんまりコメントできないんだけど、檜垣先生の方がおかしいように思う。

コーヴ側をC、檜垣先生をHとして表記すると

C「日本がまだイルカ漁やってることを日本人すら知らなかったよ」← H「食べてることは知らなかったよ、政府が隠してるってことはないと思うよ」(?) 論点ずれてる。

C「肉の種類ごまかして流通してるよ」← H「物々交換や儀礼にかかわるものだよ」 いやそれ以上に流通しているからニュースになったんでは?

C「イルカ肉には水銀たまってるよ」← H「健康被害が出てるってのは確認とれてないよ、水俣病みたいな公害と「自然的な淘汰作用」でたまった水銀は別だよ」なに言ってるかわからない。

でもよくわからない。なんか三つとも論点相違になってる気がするけどはっきりしない。『ザ・コーヴ』の言い分にも問題ありそうなんだけど、あれ見直すのいやなんよね。

ここらへんの話はいろいろあって評価がむずかしい。
http://www.econavi.org/weblogue/webtra/kurita/32.html
から、いろいろリンクがあるので見てみるとよいと思う。


もっと問題が多いところへ。

彼ら自身はヴェジタリアンかもしれないが、そもそも牛肉を山のように喰い、動物を殺すことにかんしてはかくも残虐なヨーロッパ系白人であることは確かである。(p.144)

いやこれは……ちょっとコメントしにくいけど、ヨーロッパ系白人だからなんだというのか。いわゆる対人論法(アドホミネム)であり、人種差別的であると思う。人種じゃなくて個人で話してください。こういうのは本当によくないのでやめてください。本当にやめてください。筆がすべっただけですよね。

ごく好意的に読めば、これは我々が感じるオバリーさんたちに対する嫌悪感の説明で、われわれってこういうふうに考えちゃいますよね、ってな解釈ができる。でもその次は

彼らこそが白人中心主義の独善的価値観にもとづいて、異民族・非ヨーロッパ系民族の風習に「野蛮」というレッテルを貼り付け、晒し者にしているのではないか。

ってな形で疑問文の形ではあれ、かなり一方的な議論をおこなっていて、単なる嫌悪感に関する洞察とも思えない。嫌悪感の因果的・記述的説明であるだけなく、それを正当化しようとしていると読むのが、必然ではないにしてもふつうの読みだと思う。それにしても、これって『美味しんぼ』の雁屋哲先生の議論とまったく同じよねえ。(下に前に書いたののリンク貼っておきます)

知性をもった動物を食べてはいけないならば、ではもたない動物は殺してもいいのか。そこで知性は誰が何の基準で判断するものなのか。 (p.145)

これも『美味しんぼ』論法。この手の基本的なやつを「議論されなければならない問題、どう考えても誤謬としか思えない主張が混在している」の一例にあげるのではどうしようもないのではないか。これらの論点はすでにものすごく大量に論じられていて、ネット上にもいろんなものがころがっているし、書籍も多い。

ふつうのヴェジタリアン系統の主張は「知性」ではなく「苦痛」に注目することが多くて、クジライルカな人々はたしかに知性や共感、コミュニケーション能力、推論能力なんかについてもコメントすることが多い。そうした能力が高いほど苦痛や欲求の挫折を多く感じるのではないか、みたいな発想がある。『ザ・コーヴ』の人々がどうか私はまだ調べてないけど。

うしろの「知性は誰が何の基準で判断するものなのか」もよく見るけど、人間が人間の基準で、あるいは共感してるっぽいなーとか、この刺激あるときこういう行動をとるのでこういう認知してるんだろうなーとかでかまわんのではないか。哲学なんだから疑問文なげっぱなしににしないで、先生もいちおう読んだり考えたりしてみてほしい。

殺し方が残虐だからダメだというのであれば、殺し方が穏当であればいいのか。少数種であるから守るのか、では多数種であれば殺していいのか。 (p.145)

残虐な殺し方より穏当な方が望ましいのはたいていの人が認めると思う。「少数種」ってのはわかららんけど、「種の個体数が少ない」の意味かな。まあ絶滅の危険とかそういうのはあるていど考慮しないと。

『ザ・コーヴ』の映画に登場する誰もが、こうした諸問題を、まさにたたみかけるように主張するだけで、本質的に何が問題なのかをまともに論じているようにはみえない。これ自身は、ヨーロッパ人であろうが誰であろうが、常識的におかしなこととおもえる。

まあ『ザ・コーヴ』で主張とその根拠が映画内で完結しておらず、他の資料を読まねばならないっていうのはその通りなんだろうけど、だからこそ学者先生なんだから映画見ておわりにしないで言い分聞いてやってくださいよ。映画にそんないろんなの詰め込めっていう要求は、誰であろうが常識的におかしなことと思えるはずですわ。

動物種と人間との関連を考え、その暴力性を考えるとき、白人であり、それゆえ紛れもない世界支配者集団の一員であるオバリーやシーシェパードが、日本の和歌山県の太地町の漁民という、経済的にも弱小で日本のなかでさえマイナーな地域の集団を「威嚇」することは、何かがおかしい。しかしこの「何かがおかしいが、それをしないと問題が示せない」点をこそ考えるべきではないのか。 (p.146)

まず白人とかに対する偏見をさらすより、普通の勉強をしたらどうか。なぜ「威嚇」にカッコがついているのか。

私なりにパラフレーズすると、白人は世界の支配階級なので(本当に?)、マイノリティである東洋の島国の村とかの弱者になにも言うべきでない、ぐらい?あっってますか?なんでそんなこと言えるの?

たとえば(壊滅したらしい)イスラム国が他宗教の女子を奴隷にしているときに、イスラム国はまだすごくマイナーな集団で世界的には弱者だからメジャーな白人社会がそれに文句言うべきでない、とか言えないでしょ。

最後のところは意味がわからないんだけど、考えてほしい。っていうかこの問いでこの節が終ってて、その答がどこにあるかっていうのはぱっと見ただけではわからんのですよね。でも本人は書いてるつもりなのはわかる。

なぜオバリーは、イルカの「痛み」を感受するが、太地の漁民の「痛み」は感受しないのか。 (p.149)

そもそも危険人物としてあれほどマークされながらも、太地町に、そして熊野に何度も来る彼は、熊野や太地町のことが、本当は相当に好きなのではないか。そもそもそうでなれば、ここまでの攻撃性は出せないのではないか。 (p.150)

すごいすごい。そう、檜垣先生の解釈では、上の「それをしないと」つまり映画を撮影して上映しないとできないことはなにか、っていうのの答は、オバリーさんの個人的な事情にすべて還元されてしまうのです。オバリーはイルカと太地町が好きだから映画をとったのだ、と。それはそれでいいけど、それだけなんかいな。

まあ制作者の個人史にいろんなものを還元する、っていうのは、解釈の方法としてまったくだめってのではないけど、倫理的な主張の解釈としてよいものではないし(アドホミネム)、映画の鑑賞法としてもさほど優れたものではないと思う。

まあ好意的に読めば、オバリーさんたち「エコテロリスト」たちが、イルカの味方をしているつもりで不法なことや現地の人々が嫌がることをするのは正当化できないのではないか、っていうことだと思うけど、ソロー先生だってガンジー先生だってキング牧師だって、社会の多数派が嫌がることをしているわけです。オバリーさんたちやシーシェパードなどの行動が正当かできるかどうかは微妙で、そんなに簡単に正当化はできないけど、彼らが太地町の人々の痛みをわかってない、と主張するのはそんな簡単ではない。

と。ここまで読んできて、最後の方で私の苦手なポストモダンのデリダ先生が出てきて、予想はしていたのですが驚きました。「やはり出たか!」みたいな感じ。

人間に人間は殺せない。それは顔があるからだ。それはわれわれのロゴス的説明すべてに先だつ。こうした主張をなすレヴィナスに対し、それを正義論の観点から認めながらも、では動物はどうなのかとデリダは問うのである。 (p.151)

ふんふん。んでどうなるんですか。

ちょっとレヴィナス先生にもコメントしておくと、顔(哲学用語)があるから人間に人間は殺せない、っていうのはこれは事実ではないですよね。いったいどういうたぐいの主張なのだろう。人間は人間を殺せないはずだ、もよくわからないし。もちろん私は殺せないけど、殺せるひとはたくさんいるし歴史的には殺す方がふつう? こういうの説明してほしいんですよね。

一見すると揚げ足とりにみえるかもしれない。人間の殺戮と正義の議論をただちに動物に適応[ママ]してもよいのかといわれるかもしれない。だが最晩年のデリダは、かなり素朴に、ある意味では力強く、これらの論点を強調する。 (p.151)

「適応」→「適用」かな。私には「では動物はどうなのか」は揚げ足とりには見えない。まじめに問うべき問いだと思います。

で問題は、「論点を強調する」のはわかりましたが、デリダ先生はさっきの問い「動物はどうなのだ」にどう答えてるんですか? これ説明してもらわないとデリダがなにをしているのかわからないです。デリダ先生のむずかしい文章をわれわれ下々のものが読むのは困難なので、もったいぶらずに教えてください。
(1) 動物にも顔があるから殺してはいけない。
(2) 顔のある動物は殺してもいいのだからレヴィナスの言い分はおかしい。
(3) 動物に顔があるかどうかわからない場合、人間に顔があるかどうかどうやってわかるのか。
とかいろんな議論がありえると思うんだけど、デリダ先生は論点を「強調」してどう話をすすめてるのですか。

もちろんこれらの問いは単純に答えられるものではない。……[デリダの答なし]。

もしかしたらこれがデリダ先生の答?

デリダは「痛み」という主題にも触れている。……デリダが考える痛みは、シンガーとよく似てる……だがデリダとシンガーとではおおきな違いがあるように感じられる。 (p.153)

だからデリダ先生はなんていってるのか教えてくださいよ。もったいぶらないで。

デリダの議論はむしろ、人間と動物とが、そして痛みをもつ動物ももたない生き物も、すべて連続しているのではなういかという混交を目指しているとおもえる。それによって、人間とそれ以外だとか、食べてよいもの/よくないものという区分自体を懐疑に晒そうとしているとみえるのである。 (p.153)

「混交」っていうのはふつうは区別すべきものをいっしょにすること、ぐらいですか。 https://www.weblio.jp/content/%E6%B7%B7%E4%BA%A4

これでおわりっすか。ハゲとフサのあいだにはっきり線がひけないからみんなフサだとかハゲだとかそういう話っすか? それとも、人間も結核菌も同じように殺してよいってこと? 人間と動物が、そしてその他の動物が遺伝的に連続していて、さまざまな能力や感受性、生活様式、生殖などにしても連続しているというのはこれはもう現代人の基本知識ですわよね。デリダ先生はそれを言ってるだけなの?

そして、生物種がこの意味で連続しているからといって区別ができないとか不必要だってことにはならんです。さまざまな点で性質や能力が連続しているとしても、もし人間やイルカやチンパンジーが、他の動物とは違ったレベルで自分の将来を考えたり、苦痛を感じたり、死を恐れたりするなら、他の動物とはちがう配慮が必要だということになるかもしれない。

『ザ・コーヴ』の滅茶滅茶な論理設定を支えるものは、実は最初にオバリーが語った一点だけである。それはオバリーが、自分の友人(「伴侶種」)にほかならないイルカを自死させたことへの自己懺悔である。この映画はある意味で一貫してオバリーの自責の映画なののではないか。 (p.154)

『ザ・コーヴ』がそれほど滅茶苦茶なのかどうかは、ここまでの檜垣先生の記述でよくわからない。それほど滅茶苦茶ではないのではないか。もうすこし好意的に解釈してあげてもいいかもしれない。

そうしてひきおこされるさまざまなことは、確かに他人迷惑である。だが一面では、それこそがオバリーの強味となる。なぜならば、彼にとって結果はどうでもいいからである。 (p.155)

いやあ、そういうのって本当にそう思って書いてるのなら人間ってのを馬鹿にしていると思う。先生の解釈はものすごく勝手ですよ。勝手に製作者の個人史から勝手に製作意図を推測し、「彼にとって結果はどうでもいい」までもってきちゃう。これって本当に哲学なんですか。

オバリーとその仲間が、熊野の海で撮った最大のものは、残忍な漁に抗する政治的指向を含んだ映像というよりも、オバリー自身の悲しみとかさなる「声」なのではないか。……どの特定の生物が声をもつか、という議論をするべきではない。声は生けるすべてのものの声である。特定の生物が、痛みの声をもつかという議論にはいるべきではない。いかなる生物ももつ声がある。 (p.156)

なぜ特定の生物が痛みの声をもつかという問題を考えてはならんのだろうか。みんないっしょだからなにを殺してもいいです、あるいはどれも殺してはならんです、ですか。


読んだ章の前の章は『ブタがいた教室』の論評なんですが、あれはひどい話で、豚を飼うことにした教師が最後は生徒にどうするか決めろ、みたいにして丸投げしちゃうんですよね。これについて檜垣先生はこう言う。

正しく無責任であること、これが食と殺すことを目の前にした人間が、社会のなかで平穏に暮らそうと思ったときになせる唯一のことではないだろうか。(p.120、原文強調)

書店のアオリなんかはこういう感じ。

動物や植物を殺して食べる後ろ暗さと、美味しい料理を食べる喜び。この矛盾を昇華する

まあたしかに植物はともかく動物を食うのはいろいろ後ろ暗いところがあるし、社会のなかで平穏に暮したいし、うまい肉も食いたい。でもその唯一の選択肢が無責任とか、なんでもいっしょだからなんでもいっしょ、ってのではないと思う。まあここはむずかしいですね。

ツイッタで檜垣先生御本人から、「平穏にくらそう」というより「平穏に暮すより致し方がないのではないか」の意であるという趣旨のコメントをもらったんだけど、そら気持ちはわかるんですわ。われわれはやっぱり自分がかわいい、自分の子供はもっとかわいいかもしれない、だからどうしても利己的になるし、危険よりは安全を、苦痛よりは快を、悩みよりは楽しみを求めちゃう。でも同じ論法が、たとえば奴隷制とか民族浄化にもつかえるだろうか。

身近に多くの人が奴隷にされたり、民族浄化ってんで虐殺されたりしているときに、我々は実際には恐怖でなにもできないかもしれない。でもそれしか致し方ない、っていう考えかたはないと思う。危険を冒してそうした悪と闘ったり、そうできなくとも一部こっそり逃したり、屋根裏にかくまったり、まあみんなに要求できることではないかもしれないけど、そういうことをする人々はいるし、そうする彼ら彼女らは英雄だ。少なくとも「平穏に暮したいからなにもしません」っていうのは、我々がとってしまう選択肢ではあるけれどもそれほど正しい選択肢ではないかもしれない、ぐらいは考えておきたいところです。


まあそういうわけで、私は『食べることの哲学』のこの節は、哲学としても評論としても非常によくないと思います。少なくとももっと他の人々の言い分をちゃんと読ん紹介してあげてほしい。

と書いたので、私自身も檜垣先生がなにをやろうとしたのかを最大限好意的に読むとすれば、以下のようになるんだとおもいます。

全体は宮沢賢治その他の文学者や『ザ・コーヴ』や『ブタがいた教室』といった「食う」ことに関する倫理的問題を扱った作品をとりあげて、それと大きなネタ本のレヴィストロースあたりの文化人類学と、それ以降のいろな現代思想を紹介しつつ哲学しよう、だと思うです。そしてそうした「食う」ということにまつわるいろんな問題や、我々の負い目の意識、そして負い目を感じながらも、七条大宮「ゆう」のミソラーメンをうまいうまいと食ってしまう我々のありかたを追求してみたい。直前でも書いたように、そうした目標はよくわかるし、価値があるとおもう。ぜひやってください。

でもそうするときに、他にいろいろ思考しそれぞれ哲学している人々に対する敬意みたいなのを示すつのも大事だとおもうんです。他の人々のまじめな思索や活動を、ほとんどなにも調べないで論理破綻だの矛盾だのとディスりつつ話のツマにする、みたいなのはやっぱりまずいと思います。少なくとも私にはそう見えました。

そして『ザ・コーヴ』のようなものを批判したくなる我々についてよく考えたらいいと思います。彼らはほんとうにそんな「滅茶苦茶」なことを言ってるのだろうか? 私は哲学ってそういうお互いの敬意とか反省とかがあるもんだと思うんですよ。もちろん我々の能力には限界があるからそんなたいしたことはできないわけですが、そういう敬意だけはもちたい。


『美味しんぼ』について昔書いたのはこれ。書きなおしておくべきだったかもしれない。倫理学や応用倫理学の授業でもよく使ってるんだけど。書きなおすとなると面倒なのよね。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

あら、美味しんぼの出典がちがった

ブックガイド:幸福の心理学/ポジティブ心理学まわり

授業用。学生様向け。

とにかくこれからでいいだろう。

堅実だけどちょっと硬い印象。

まずここらへんでいいのではないか。

とりあえずこの本が一番おすすめなんだけど、翻訳に問題がある。

ちょっと古いのだがおもしろい。訳もしっかりしている。

まずまず。

上と同じ筆者。

学部生にはちょっと歯応えがあるかもしれないが重要書。

翻訳に問題がある。

これも翻訳に問題があるが、上よりはまし。

これは訳に問題はないのだが、記述があっさりしすぎている。

ちょっと散慢。上の本の方がよい。

とてもしっかりしている。

上の2冊はおなじようなもの。とてもおもしろい。

最近読んだこれよかったです。

あとはここらへん見てください。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

最近の私は倫理学入門の最初のツカミに何を使っているか

まあ全国の倫理学系教員が、入門講義のツカミをどう入るかなあと考える季節ですね。まあだいたい倫理学系の教員はツカミだけはがんばる。あとは難しくてぐだぐだになっちゃう人は私を含めて多いと思うけど。

一時期導入にはみんな(マイケル・サンデル先生流の)トロッコ問題使ってたんではないかという気がする。私も3年ぐらい使ってたかな。

こんなんです。

【分岐線】一人の男が線路脇立っていると、暴走列車が自分に向かって突進してくるのが目に入る。ブレーキが故障しているのは明らかだ。前方では、5人の人達が線路に縛りつけられている。なにもしなければ、5人は列車に轢かれて死ぬ。幸い、男の傍らには方向指示スイッチがある。そのレバーを倒せば、制御を失った列車を目の前にある分岐線に引き込める。ところが残念ながら、思いがけない障害がある。もう一方の分岐線にはひとりの人が縛りつけられているのだ。列車の進路を変えれば、この人を殺す結果になるのは避けられない。どうすればいいだろうか?(デイヴィッド・エドモンズ、『太った男を殺しますか』、太田出版、2015、pp.19ff.)

私自身はこれ使うのは今は飽きてるし、ちょっといろいろ使いにくいところがあるから避けてる。

まあ「とにかく多くの人数を救うならスイッチ切り替えるんだけどねえ、でもそうじゃない意見があって〜」っていうふうにして、いきなり義務論とかそういうのがあって、みたいな話になってしまうことが多いし。この事例が最初に考えられたときの問題意識の対象の二重結果だの意図と予見だの、消極的義務/積極的義務だのていうのはけっこう抽象的でたいへん。

それに学生様にこの問題考えてもらおうとすると、職務上の責任とか一般人の責任とか、人間の生命の価値だとか、過剰に複雑な問題を含んでいて扱いにくいってのが一つ。「私はそのスイッチ切り替える義務のある仕事してるんですか?それともただの通行人?」みたいなの、たしかにきになるのもわかる。

私が一番こまるのは、仮想的すぎて学生様がそういう選択に場に置かれるっていうのがどういう感じか想像したり実感したりしにくいってことね。エドモンズ先生が、この暴走列車問題に対応する過去の現実の事例としてあげている、「ドイツのミサイルの被害を防ぐために、ロンドン南部の人々を意図的により多くの危険に晒すことは許されるのか」「日本との戦争を終わらせるために核攻撃するのは許されるのか」「海に落ちた乗組員を見捨てて潜水艦に爆雷落としていいか」みたいなのって、われわれ一般人が考えることじゃなくて、えらい人々の話っしょ、みたいな。大統領とか沖田艦長とかそういう人が考える事の世界。

んじゃどうしているかっていうと、ここ2,3年はバッジーニの「誰も傷つかない」つかってる。ははは。

【誰も知らない】スカーレットは自分の運のよさが信じられなかった。物心ついたときから、ブラッド・デップはあこがれの男性だった。それがなんと、スカーレットは今、バハマの人里離れた場所にあるブラッドの別荘にいるのだ。この別荘のことは、パパラッチさえ知らない。ひとりで海岸を歩いていたとき、スカーレットはブラッドから飲み物を勧められた。そして、ふたりで話すうち、彼が想像どおり魅力的な男性であることがわかった。やがて、ブラッドから、この数週間ずっと、少しばかり寂しい思いをしていたことを打ち明けられた。そして、職業柄、秘密にしなければならないが、一晩いっしょに過ごしてくれればすごく嬉しい、とも言われた。問題がひとつだけあった。スカーレットは結婚していて、夫を心から愛している。でも夫は知らないし傷つかないのだし、知られることは絶対にない。スカーレット自身は夢のような一夜を手に入れ、ブラッドはちょっとした楽しみを味わうだろう。それぞれが現状維持か、それ以上に豊かなときを過ごすのだ。苦しむ人は誰もいない。得るものが非常に多く、失うものは少ないというのに、ベッドへと誘うブラッドの魅惑的な瞳に抗う必要など、はたしてあるのだろうか?(ジュリアン・バジーニ、『100の思考実験』、向井和美訳、紀伊國屋書店、2012 pp.360ff)

これはまあどういうひとにもある程度身近な問題としてイメージすることができるんじゃないかと思う。もちろんヒュー・グラントやエミリー・ラタコウスキー先生とそういう感じになることはまずないけど、近い経験ってのはあるかもしれないし、なくてもそういう妄想がするのが好きな人々は少なくないだろう。こういうの使うからセクハラ先生と呼ばれることになるわけだが。

バッジーニ先生はこのシナリオで「信頼」の話をしようとしてるっぽい。
まあ他にも貞操とか性道徳とか、嘘とか、利己性とか、人間としての幸福の話とかにもひっぱっていきやすいので、半期の講義を通して何回か使える。

それから、こういう思考実験シナリオを読むときの注意みたいなのもやりやすいんよね。最初に、「それでは渡した紙に適当でいいので自分だったらなにを考えるかかきとめてください、あとでまとめて紹介します」みたいにやる。

ここで、フランクリンの例の損益表の話もすることが多い。アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン先生が、化学者のプリーストリー君にオヤジアドバイスをした手紙のやつね。この「書き留めて考える」は学生様にはぜひ修得してほしいし。

君がアドバイスをもとめた問題については私は前提条件を十分に知らないので、どうしたらよいか助言することはできない。しかし、もしお望みなら、どうやって決断すればばよいかをお教えしよう。こういう難しいことが起こるとき、問題が難しいのは、賛成と反対のすべての理由を心に一度に思い浮かべておくのが難しいからだ。一つのことが頭に浮かんでいるとき、他のことは視界から消えてしまう。さまざまな目的とか欲望とかが次々に心に現われては心をいっぱいにして、私たちをとまどわせるのだ。こういう困難を克服するために私がやるのは、一枚の紙を二つの列に分けて、片方に賛成意見を、片方に反対意見を書き出すことだ。つぎに数日かけて、いろいろな見出しで賛成の側、反対の側それぞれに、理由を追加していくのである。こうしてすべて書き出したのちに、それぞれの重みを検討してみる。同じくらいの重さのものを両方に見つけたら、両方に線を引いて消していく。2つの理由が反対の3つの理由に見合っていると思えば、その5つ全部を消すのだ。こうして続けていくと、やっと天秤がどちらに傾くかがっわかるのだ。そして、一日二日したあとで、もう何も大事な新しいことが思いつかなくなったら、もう決断することができる。理由の重みは数学の計算のように正確なものではないが、こうして別々に比較してみて、全体を目にすれば、私はまずまずうまく判断できると思うし、せっかちにまちがった判断をせずにすむ。実際私はこうした計算からずいぶん恩恵を受けたものっだ。私はこれを道徳的算数とか思慮の算数とか呼んでいる。君が最善の決断ができることを願っている。

A4紙1枚渡しといて、「縦に線ひいて、左に賛成、右に反対って書いてちょ。ProとConとか書いてやってるの洋画で見たことあるっしょ、Proは賛成でConは反対ね」とか。

「えー、さて、「あなたならどう考えますか」ってさっきお願いしましたが、実はこれ必要な条件足りないことにきづきましたか?なんか思い込みはないですか。」たとえば、スカーレットは何歳だと想像しましたか?20歳?40才?70才?30才と80才だと全然ちがう?なんでちがうの?」「そもそもスカーレットは女性だって書いてないけど、女性ですか?」「うわー!」みたいな。

「旦那との関係は良好なのでしょうか。旦那が常習浮気太郎や風俗マニアだったらどうですか。10年間セックスレスだと判断は変わりますか」「子供の有無が重要なのですか、へえ」とかであおってから、「んじゃ隣の人と相談して、さっき書いたやつにそれを付け加えてください。おもしろい意見は来週みせます。できた人から終了」ぐらいで終了する感じ。「スカーレットはこれ以前にもいろいろ浮気してたらどうですか」もやるな。学生様は「うえー」って顔をしている。セクハラかもなあ。まあ1回生にはできないけど、2,3回生配当だから許されるか。

んでこっからいろんな方向にいけるけど、最近はとりえず利己性の話にもってくかね。ギュゲスの指輪をつなぎにして、心理学的利己性の話にもっていく。ソクラテス先生に向かって、取り巻きのひとりのグラウコン君が、結局人にバレないような条件のもとではどんな正しい人だって自分の好き勝手なことしようととするんじゃないか、悪いことをしないのはバレるのがこわいからなんじゃないか、って主張しているところね。

ギュゲスは、羊飼いとして当時のリュディア王に仕えていましたが、ある日のこと、大雨が降り地震が起こって、大事の一部が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりに、ぽっかりと穴が空きました。彼はこれを見て驚き、その穴の中に入って行きました。物語によれば、彼はそこにいろいろと不思議なものがあるのを見つけましたが、なかでも特に目についたのは、青銅でできた馬でした。これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていました。身をかがめてその窓からのぞきこんでみると中には、人並み以上の大きさの、屍体らしきものがあるのが見えました。それは、他にはなにも身に着けていませんでしたが、ただ指に黄金の指輪をはめていたので彼はその指輪を抜き取って、穴の外に出たのです。

さて、羊飼いたちの恒例の集まりがあったときのことです。それは毎月羊たちの様子を追うに報告するために行なわれるものですが、その集まりにギュゲスも例の指輪をはめて出席しました。彼は他の羊飼いたちといっしょに座っていましたが、そのときふと、指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へ回してみたのです。するとたちまち彼の姿は、かたわらに座っていた人たちの目に見えなくなって、彼らはギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように、彼について話し合っているではありませんか。彼はびっくりして、もう一度指にさわりながら、その玉受けを外側へ回してみました。回してみると、こんどは彼の姿が見えるようになったのです。

このことに気づいた彼は、その指輪が本当にそういう力を持っているかどうかを試してみましたが、結果は同じこと、玉受けを回して内側へ向ければ、姿が見えなくなるし、外側へ向けると、見えるようになるのです。

ギュゲスはこれを知ると、さっそく、王のもとへ報告に行く使者のひとりに自分が加わるように取り計らい、そこへ行って、まず王の妃と通じたのち、妃と凶暴共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして、王権をわがものとしたのです。

さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人の物に手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場からんなんでも好きなものを、何をおそれることもなく取ってくることもできるし、これと思う人々を殺したり、\ruby{縛}{いまし}めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに!{\――}こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。

ひとは言うでしょう、このことは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正を働くことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにほかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のようななんでもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手を付けることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞賛するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。

(プラトン『国家』359D以下、翻訳は藤沢令夫訳の岩波文庫、プラトン『国家』上巻、pp.108-110。)

バレない指輪があれば星野絵音先生や川谷源先生からのお誘いに乗ってもいいだろうか、みたいにして話が続く。んで、その前に、「でもその前に、そもそも人間って利己的なもんで、愛だの恋だの友情だの正義だのっていってるけど、「結局考えているのは金と食い物とセックスのことだけだ」みたいな考え方があるからそっからはじめましょう」とかってのでツカミは十分だと思ってる。

品川哲彦『倫理学の話』書評

(『週刊読書人』第3124号 2016年1月22日掲載の草稿)

倫理学の話

倫理学の話

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品川 哲彦
ナカニシヤ出版
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本書は、読みやすい倫理学概論および学説史である。叙述は歴史的順序には従わず、著者独自の観点からの配列となっているが、しっかりした索引、注および相互参照が付記されているため、事典的に読むことも可能である。

全体の四分の三は、近年の英語圏の標準的なテキストで頻繁に扱われている諸倫理学説の紹介と検討である。第一部でまず、倫理学は、他人を教導しようとする「倫理」ではなく、むしろ自分自身の倫理観を反省する哲学であるとする筆者の立場が明確にされる。第二部では倫理の基礎づけとして、倫理を自己利益にもとづいて説明しようとするプラトンとホッブズ、人々との共感を重視するヒューム、理性にもとづいた義務と尊厳を説くカント、社会全体の幸福の促進を目指す功利主義者たちの理論が説明される。第三部は、特に「正義」をめぐって、ロックの社会契約説、ロールズのリベラリズム、ノージックのリバタリアニズム、サンデルらの共同体主義およびその源流としてのアリストテレスとヘーゲルがとりあげられる。

紹介と解説は総じて平明であり、どの章でも初学者が疑問を感じやすい箇所、誤解しやすい箇所に対して相当の配慮がなされていることは特筆に値する。たとえば、功利主義の考え方を論じる上で、「功利主義は多数の人々の幸福のためならば、少数の罪のない人を殺すことを認めてしまう」といった安直な批判に対しては、ヘアの「道徳的思考のレベル」の区別を紹介し、そうした批判は安直な思考実験と道徳的な直観にもとづいたものであって、現代のエレガントな形の功利主義に対しては十分な批判にはならないという考え方を紹介している。こうした細心な叙述は随所に見られ、基本的学説の正確な理解を必要としている読者に有用なはずである。

「正義」に関する議論の後半部分では、ケアの倫理、ヨナスの責任論、レオポルドの土地倫理、レヴィナスの他者論やデリダの正義の脱構築といった、伝統的な正義論の枠組み自体を疑い問いなおそうとする思想の概略とその魅力が紹介されており、これが本書の特徴的な部分となっている。もちろん、こうした思想群にはわかりにくい部分がある。たとえば、ギリガンらによる「ケアの倫理」は、男女の心理学的な発達に関する事実的主張にすぎないのか、あるいはそれを越えて規範的主張としての説得力を持つのか、ヨナスらが主張する「将来世代に対する責任」の根拠は何か、レヴィナスの言う「他者の無条件な歓待」はどのような内容をもつのか、デリダによって脱構築された「正義」観念は我々の道徳的生活にどのような関係をもつのか等々、読者は多くの疑問を抱くことになるだろう。

しかし、こうした思想を紹介することで「正義」を問いなおそうとする著者の試みは理解できないものではない。我々は往々にして、自分のふるまいや考え方は正しく、自分たちは正義にかなっていると思いこみがちである。歴史的に見てこうした思いこみは、「我々」と見なされる人々以外の存在者に対する政治的抑圧や暴力につなってしまう。アカデミックな倫理学研究でさえ、独善的な取組みをすればそうした側面をもちえる。筆者が「正義」についての標準的とされる倫理学説の検討にとどまらず、上述のような思想家たちの紹介によって「正義とは異なる基礎」や「正義概念の脱構築」の可能性を探るのは、そうした政治的意識の反映でもある。

「あと書き」では、ユダヤ人芸術家メナシェ・カディシュマンのインスタレーションが発する「ノイズ」を聞き「自分は苦しんでいる人々の呼び声もあたかもたんなるノイズのように聞き流してしまっているのではないか?」と自問する筆者の姿が描かれる。多彩な倫理学的な立場それぞれの見解に耳を傾けつつ「じっくり考えなくてはならない問題」について誠実に「ゆっくり話す」という手法は、倫理学という営みへ誘いとして適切な方法であることはまちがいがない。

品川先生その後

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm 。
(もとのレジュメは )

いつもながらとても誠実なリプライ。
私のへんな文章なんか読んでないで、ぜひ先生の本を買ってください。 アマゾンから買っても私には一銭も入らないので安心。皆様の支出がそのまんま哲学出版と研究*1を支えます。

ちなみにその数日前に行なわれた別の研究会での
野崎泰伸さんのコメントは http://www.arsvi.com/2000/0807ny.htm
品川先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentYN.htm 。

品川先生のリプライの最後のところにちょっとだけコメントすると、

私自身はこの手の議論をWeb上で展開するのは、あやうさも感じています。どうも、Web上でひろったジョーホーや、研究会や学会で聞いた耳学問だけで、あれやこれやと判断するひとが増えているように思えるからです。この手のやりとりが、問題となっているテクスト(この場合は拙著ですが)を読まないひと、読んでもわからないひとに利用されることがあるだろうことは、こういうかたちで公開する以上はやむをえないとはいえ、おそろしい気がいたします。

私自身はやっぱりそういう情報はwebでもどんどん流すべきだと思います。国内では
学者や教員が何に興味をもってどんなことをやっているのかもっと公開するべきだし、
もっと人文系の学者もお互いの本を読みあうべきだし、 もっと書評文化が発展するべきだと思っています。そうやってこそ、耳学問であれやこれやな連中を排除することができるんだし、人文系のガクモンのおもしろさや難しさを味わってもらえるんだと思います*2

*1:はてなとアマゾンも支えてしまうけど。

*2:ついでにそういう読んでないのに偉そうなこと言う人間も適切に抽出できるっしょ。そういうのが恥ずかしいとわかってるひとは先生の本買うから大丈夫。読んでもわかんない奴はもとからほっとくしかない。

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)

  • 久しぶりにちゃんとした哲学者が倫理学考えている本という感じ。
  • ヨナスとケアの倫理に関しては十分に紹介検討されていなかったので、この本は貴重。
  • 全体、しっかり真面目に地道にやっててとてもよい。私も見習いたい。
  • ジョン・ロックのところとかも正確だし。たくさん真面目に勉強してるなあ。
  • 注、文献情報なども充実していていかにも学者の作品でとてもよい。
  • 特に第2部は綿密に研究されていて勉強になる。
  • どうしても最近は英米系の政治哲学・倫理学ばっかり議論されていて、独仏の研究・議論の動向を知ることができる。そっち系のひとはもっとがんばってほしい。脱英米倫理学中心主義!
  • 「現象学の他者論」のところはもっと豊かなはずだし品川先生が一番得意なところなんじゃないだろうか。まあまた別の本でやってもらえるのだろうと期待。

注とか。

  • 全体通して、「どこでもいっしょうけんめい考えてるな」と思いました。見習いたいです。
  • p.285の注25は重要そうだ。これは注にまわさずに本文でやってほしかった。
  • p.292注5。うーん、山形浩生先生のフランクファート解説をまにうけてるな・・・いや、大丈夫だけど。
  • p.295注5。品川流の男性学の予告みたい。森岡先生あたりと問題意識がすごく近いのがわかる。
  • 索引や文献リストも好感もてるなあ。研究書はこうあってほしいね。

他雑多な疑問。

  • 配慮としてのケアと具体的な行為としてのケアをちゃんと分けきれてるかな。どうも一冊を通して文脈によってあっちいったりこっちいったりしている気がする。証拠さがさなきゃならんか。
  • よく話題にされる「ケア」と看護や関係とかどうよ。看護という職業に、この本で言ってるような「ケア」を持ちこむのは私にはアレに見えるから。いわゆる感情労働の問題。あ、文献リストに武井麻子さんがいるな。でも索引には出てこないか。
  • ケア労働。ある意味で、労働になっちゃうのはケアじゃない、とか言えそう。
  • アリストテレスもちだすならやっぱりついでに正義と友愛の関係もチェックしてほしかった。
  • 個人の徳としての正義(やケア)と、社会制度における正義(やケア)の区別がなんか曖昧じゃないかな。まあ区別する必要ないのかな。でもギリガンの場合ははっきりと個人の徳性なり道徳思考の特徴なりを指しているわけで。
  • ノディングスの場合も、なにを/どう教育するかがポイントなわけで。
  • あれ、でもここ私もぼんやりしてるな。ヒントはヒュームあたりにありそうだ。
  • 「〈正義〉はポリス的観点とヘクシス的観点の両方から論じなければなならないのである。」(小山義弘「アリストテレス」、『正義論の諸相』)とかも関係あるかな。
  • オーキンも読まないとならんということか。
  • 「献身」とかっていう理想についても考える必要がありそうでもある。ミル功利主義論第2章。「誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の貢献ができるのは、世の中の仕組みが非常に不完全な状態にある場合にかぎられよう。しかし、世の中がこんなに不完全な状態にあるかぎり、いつでも犠牲を払う覚悟をもつことが人間にとって最高の徳であることを私は十分認めるものである。」下線江口。
  • 「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極地である。」これがケアでなくてなんなのだ、と言いたくなるひともいるわな。

よくいわれることだが、功利主義は人間を冷酷無情にするとか、他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を冷やかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を道徳的に評価しないという非難がある。この主張の意味が、功利主義は、行為者の人間的資質に関する意見が行為の正邪の判定に影響することを許さないということであれば、これは功利主義への不満ではなく、およそなんらかの道徳基準をもつことへの不満である。・・・しかも、人間には、行為の善悪のほかにもわれわれの興味をひくものがあるという事実を、功利説は少しも否定しない。

とはいうものの、功利主義者はやはり、長い目でみたときに善い性格をいちばんよく証明するのものは善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶することを私は認める。

この反対論の意味するとこころが、功利主義者の多くは行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり重視していないということだけなら、認めてもよい。道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者は、この過ちを犯している。同じ条件のもとでは、どんな立場の道徳論者であっても同じ過ちを犯すはずである。

  • とか使えそうなのが山ほどある。
  • どうも70~80年代の米国の「正義」に関する議論があまりにも貧弱だっただけじゃないの?
  • キルケゴールが「女性の徳は献身である」とかって馬鹿なこと言ってたのも参照したい。

    第11章

    • あ、11章ちゃんと読んでなかった。
    • 第1節、ベナーのケア論。「全人的に介護」なあ。言葉はいいけど。まあ理想としては大事なのかな。職業としての看護において本当に「全人的に」ケアすることって難しそうだ。ナースにそういうのを要求するのは過大な気がする。まあほんとに「全人的」ってわけではないのかな。

    ベナーは徳の倫理と看護を結びつけながら、しかしナースが職業的役割を意識しすぎると、ケアリングができなくなるおそれを指摘していた。(p.246)

    • どういう議論しているか興味あるなあ。もうちょっと詳しく議論してほしかった。
    • デリダ大先生。

    私たちは何らかの共通性や類似性によってたがいを結びつけ、その内部を治める規則、法をもっている。それはひとつのまとまりをもつ集団内部の法、つまり家(oikos)の法(nomos)である。それゆえ、法はまた経済(oikonomia)を意味している。(p.256)

    • すごいな。「それゆえ」がなんともいえん。もひとつ。

    法の埒外にあるものに応答することこそが正義である。正義とは「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは無縁であり、不均質であり、異なる方向性」をもっている。

    • うーん。理解不能。デリダの正義ってのはまったく原則なしの判断なのかな。でたらめにしか見えない。まあデリダ使って「正義」とか語る人たちは、日常的な意味での「正義」とはぜんぜん違うことを語っているのだということがわかった。これは役に立つ。中山竜一先生の本も読み直すべきなんだろうか。でもこんなに日常的なものから離れているんだったら、だったら読む価値なさそうだ。
    • コーネルのところも読みなおすけどわからん。猛烈に抽象的だし。たとえば

    テクストはつねに開かれており、語の意味は特定のコンテクストによって規定しつくすことはできない。まだ書かれていないものが必ず残っている。この「まだない」は先取りされた未来ではない。先取りされるものならば既知の枠組みに回収されうるものだからだ。既存の女性観から導出されたのではない、まだない女性を、コーネルは女性的なもの(the feminine)と読んで女らしさ(feminity江口補)と対置する。(p.257)

    • ほかでは明晰に書いている品川先生がこういうのになると途端にわけわからんようになるのはなぜだろう。こういうの、私は学部学生や院生に教えたりすることができないように思える。 この文章を授業で読んでいる自分が想像できない。*1

    • 一方で、哲学ってのは真面目に勉強さえすりゃわかるもんだという気もしているし、発想や論理のステップなんかを授業で説明したりすることもできるんじゃないかと思ってる。クリプキとかパトナムとかだって勉強すりゃなんとかなると思ってる。でもデリダとかコーネルとかはできんね。なんでかなあ?なんか話に具体性がないんだよな。
    • あ!そうか、こういうのが気になるのは、文章を読んでそれに対応する事例を思いつくのがすごく難しいから気になるんだな。授業では必ずその場で思いついた例を出すのが楽しみなんだけど、それがポストモダンな人びとについてはできそうにない。それやろうとするとふつうの(「モダン」?)な説明になっちゃうからだな。
    • だめだ。品川先生の本のなかでも大事なところなのになにも納得できない。センスないなあ。でもここで言おうとしているのが、「どう違ってるかは言えないけどとにかく違ってる」とかってことだとすれば、とても納得するわけにはいかんわなあ。まあだから私は「他者」とかわかっとらん。でも誰かもっと親切に教えてくれてもよさそうなものだ。いきなりこんな秘教的になるのはどっか不正だとさえ思う。
    • p.263の男性論はおもしろいよね。前にも書いたけど森岡先生とかと近い。あと蔦森樹先生や宗像恵先生とかと問題意識を共有してるなあ。

    立山善康先生の「正義とケア」はよい

    (リベラリズムは)自然法思想に基づいて、人間の最も根源的な価値を天賦の自由に求め、個々人の自律的な生の保障を政治・社会の構成原理とする理論である。したがって、リベラリズムは本来的には、個人の自由を最大限に確保するために、政府の介入をできるかぎり排除する見地であるが、今日では、個人がその自由を行使するために必要な社会的・経済的に平等な基盤を保障するために、再配分政策の必要性を認めざるをえないところから、そのために政府の積極的な介入も容認するという、一見したところ本来の主張と正反対であるかのような立場も取っている。(p.347)

    • どっちやねん、とか。ふうむ、でもこういうのがふつうの業界(どこ?)でのふつうの理解なんかもしれないなあ。

    正義とケアの二元論を解決する方法は、理論的には次の三通りしかない。つまり、(1)正義がケアを内包した概念であるとみなすか、逆に(2)ケアが正義を抱摂した概念であると考えるか、それとも(3)両立が可能ないっそう包括的な理論的視座を見いだすかである。(p.357)

    • 品川先生も基本的にこの問題の枠組を受けいれてるわけだな。しかしここで言ってる「正義」「ケア」ってのはなんなんだ?思考方法?規範的価値?
    • まあ「どっちが優先するか」とかって問いだと考えるなら、まあ功利主義をとれば(3)で素直にいけるわけだが。
    • あ、役に立つロールズの引用発見。「一貫して、わたしは正義を社会的諸制度、あるいはわたしが実践と呼ぼうとするものの一つの徳性としてのみ考える」そうだよな。ロールズの「正義」は人間の徳ではなく社会制度の徳だ。引用もとは”Justice as Fairness”。
    • アリストテレス、ヒューム、スミス、ルソーときて、

    こうした系譜を念頭におけば、正義の倫理とケアの倫理の対象は、古来の正義と仁愛という二概念に由来し、さらに根本的には、倫理学の二つの中心概念である「正しさ(right)」と「よさ(good)」に対応するものであることは明らかである。(p.359)

    • よい。立山先生はひじょうによくわかっている。

    ~力点の置きかたの違いは、もとをただえば、両者の問題意識の相違にある。つまり、正義が、相互に対立をはらんだ複数の価値判断をいかにして調停し、合意を形成するかという問題に対処するために要請された規範的原理であるのに対して、ケアあるいは仁愛は、個々の価値判断がどのようにしても形成され、共有されるかという、その発生的な起源に関係する概念である。したがって、正義の倫理は、個別的な価値判断の起源やその共有可能性についてはほとんどなにも語っていないし、反対に、ケアの倫理は、複数の個別的な価値判断があって矛盾する要素を含んでいるさいに、いずれの判断を選好すべきかという問題に十分答えうるものではない。(p.360)

    • よい。最初の方ではおどろいたけど、全体として見るとほとんど文句がない。すばらしい。絶賛。そうか、こういう解釈を品川先生は叩きたいわけだ。だんだんわかってきた。やはり勉強は楽しい。

    川本隆史先生は偉かった

    もってるはずなのに1週間探しても出てこなかったので図書館から。

    あ!そうか、この本はとんでもなく重要だったのだな。ここ10数年の倫理学やら社会哲学やらの議論をガイドしてたのは実はこの本だったのだ。国内の社会哲学(倫理学、法哲学、政治学あたり)の議論の骨組を作ったのは、加藤尚武先生でも大庭健先生でも井上達夫先生でも島津格先生でも森村進先生でもない。いまごろ認識した。昔読んだときは「なんかつっこみ足りないなあ」とか思った記憶があるのだが、功利主義、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック、共同体主義、ケア、セン、各種応用倫理とガイドブックとしてはすばらしいできになってんのね。いろんな本や論文でみなれた表現がやまほど出てくる。表現が明晰でコンパクトなところなんかがすばらしい。これちゃんと読まずに国内の議論についていけないと思ってたのはまさに馬鹿。いつも横においといて、国内の標準的な理解がどうなってるかとりあえずこれに当たるべきなんだわな。超反省。しかしなんか開眼したような気がする。

  • *1:私は授業で自分や他人さまの文章を音読するのが好き。