翻訳ゲリラ:スタンフォード哲学事典「搾取」 (アラン・ウェルトハイマー)

スタンフォード哲学事典「搾取」 (アラン・ウェルトハイマー) http://plato.stanford.edu/entries/exploitation/ のゲリラ訳です。非合法。


他人を搾取するとは、他人からアンフェアな利益を得ることである。「搾取」という言葉はマルクス主義理論においてよく目にする言葉だが、通常の道徳的・政治的言説でも頻繁に使用される。このエントリーは、文献等で用いられる様々な定義をサーベイし、搾取のコアになる要素を同定し、またその道徳的な力を考察することである。

1. はじめに

搾取とされる例をいくつか考察してみよう。

  1. いわゆる3K労働(sweatshop labor)は、長時間労働や危険や極端な低賃金の労働である。批判者たちによれば、3K労働の労働者たちは、多国籍企業によって搾取されており、企業は労働者が生産する財から不当に利益を得ているとされる。(Mayers, 2004)
  2. 臓器(腎臓など)の市場を作ろうという提案は、そうした市場は貧しい人々を搾取することにつながるとして批判される。貧しい人々は、豊かな買い手に体の一部を売るような不当な圧力をかけられることになるとされる。(Hughes, 1998)
  3. 一部の研究者によれば、労働意欲にかかわらずすべての人に支払われる一律ベーシックインカム制度を正義は要求する (Van Parijs, 1995)。しかしながら、こうした提案に対する有力な批判として、そうした制度を実施すれば、納税労働者が、インカムを得ながらも働くつもりのない人々によって搾取されることになるというものがある(White, 1997)。
  4. 一部のフェミニストは、伝統的な結婚制度とそれが生みだす人間関係は、それが男女の間の有害な不平等を食い物にし、強固なものにする限り、搾取的であると批判している。(Sample, 2003, ch. 4)
  5. 弱者に対する臨床研究は搾取的であるとみなされることがある。特に、すでに有効な治療法があることがわかっている病人にプラシボ試験をもちいたり、医薬品を貧しい国で臨床試験を行った上で裕福な国で使用する場合である。(Bayer, 1998; Annas and Grodin, 1998)

我々はしばしばある行為や慣習や取引が搾取的であると主張するが、搾取という概念はたいていの場合はさほど分析や論証なしに用いられる。あたかも、「搾取」の意味や道徳的力は自明であるかのようにあつかわれている。しかしとても自明などではない。いまあげたよう例の主張の一部、あるいはすべてが真であるとして、我々はなぜそれが真であるのかを問わねばならない。またもしそれらが真であるとして、そこからいったいどのような帰結が生じるのだろうか。より正確に言えば、我々は二つの問いを問うことができる。(1) 搾取についての主張の真理条件は何であるか? (2) 搾取の道徳的力は何であるか? 説明を試みてみよう。

この目的のために、「搾取主張」とは、AとBとの関係が、不正に搾取である(あるいは搾取でない)という言明や、そうした主張を前提とした言明を指すこととする。大学がアスリート学生を搾取していると発言することは、搾取主張を行うことである。我々の家族システムは「女性を依存と搾取と虐待を受けやすくする社会的ジェンダーシステムの中心点である」とスーザン・オーキンが言うとき、彼女は搾取主張を行っている。我々はこの彼女の主張の審議を決定するために搾取が何を含むかを知っているはずだからである。(Okin 1989, 135–36)

搾取の理論のための第一の課題は、搾取主張の真理条件を提出することである。少なくとも、そうした条件の一つは道徳的基準である。ある取引り取りが搾取的であるのは、それが不公平(unfair)なときであるときに限られる。しかし興味深いことに、搾取の(道徳的)「事実」は見た目ほど簡単には片づかない。我々は搾取の道徳的力をも考察しなければならない。特に、国家が搾取的な取引を禁止するべきかどうか、搾取的合意を守らせることを拒否するべきかどうかということを我々は問うことができる。搾取の不正さは、こうした道徳的問いがどのように答えられるべきかを命じるものではない。

このエントリーは、「全体的な」つまりマクロレベルの搾取ではなく、搾取的な取引や関係に焦点を向ける。また、搾取についてのマルクス主義の見方についてはほとんど議論しない。こうした方向を取るには二つの理由がある。第一に、搾取についてのマルクス主義的見解の道徳的な核は、マルクス主義独特のものではないからである。マルクス主義が資本階級がプロレタリアートを搾取していると主張するときには、あるグループが別のグループとの取引や関係から不当で不相応な利益を得ている場合には、そのグループは搾取しているという普通の観念が用いられている。こうした普通の観念については、このエントリーは検討するべきことがあるだろう。第二に、マルクス主義に独特のもの──余剰価値の計算によって搾取を測るというアプローチ──はあまりに問題が多いからである。

このエントリーは次のように進む。まず、定義の見通しを調査する。これによって、各種の文献で生じてきた概念についての論争にライトを当て際立たせることになるだろう。次に、搾取の諸要素についてラフに予備的なスケッチを描く。最後に、搾取の道徳的力について手短に見解を述べる。

2. 搾取の説明

もっとも一般的なレベルでは、AがBを搾取するのは、AがBを不正に利用する場合である。(私は以後搾取しているとされる側をA、搾取されているとされる側をBと呼ぶことにする) アーネソンが指摘しているように、こうした広い説明の問題は、構成な扱いによって人が他人に何を負うことになるのかに関する理論と同じくらい、数多くの搾取について対立する概念が存在することになる」ことである(Arneson 1992, 350)。文献に現れる説明をサンプリングしてみれば、我々が考えなければならない問題についてもうすこしよくわかるだろう。

  1. 「人を搾取することは、自分自身の利益や目的のために、その人やその人の能力を、有害で単に道具として用いることを含む」(Buchanan 1985, 87)。

2.強制され、無報酬の、余剰[賃金]労働と、労働者がコントールできない生産物から[資本家の]所得が得られているということが、[賃金労働を]搾取的なものにしているのである(Holmstrom 1997, 357)。

  1. 搾取は必然的に、誰かに対するなにがしかの利益や利潤を含む。……搾取はゼロサムゲームに似ている。つまり、搾取者が得をし、被搾取者は損をする。つまり、最小限、搾取者が得る分だけ、被搾取者は失うのである。(Tormey 1974, 207–08)
  2. [取引における]搾取は、[被搾取者にとって]合理的に選ばれるにふさわしい選択肢がないということを要求する。また、受けとられる報酬や利益についての配慮が、支払われる価格とつりあいがとれないことを要求する。自分が切に必要としているものが、公正で合理的な価格で提供される場合には、その人は搾取されているとはされない。(Benn 1988, 138)

5.「 人を搾取するということは、弱者を守るという道徳的規範を[侵害する]不正な振舞いに存する。」(Goodin 1988a, 147)

  1. 「四つの条件がある。依存関係が搾取的であるには、この四つの条件すべてが成立していなければならない。第一に、関係が非対称的であること……第二に……下位者が、上位者の提供する資源を必要としていること。……第三に、下位者が必要としている資源の提供について、特定の上位者に依存していること。第四に、上位者は下位者が彼らから必要としている資源についての自由裁量をもっていること。(Goodin 1988b, 37)
  2. 「BがAによって搾取されることに共通しているのは、AがBのなんらかの特徴を自分の利益にしていることである。……搾取は被搾取者の利益を害さずに、また搾取的振舞いへの被搾取者の完全に自発的な同意にもかかわらずに、道徳的に不快なかたちで生じることもある。」(Feinberg 1988, 176–79)
  3. 「人が搾取されるといえるのは、(1)他の人が利益を得る (2)それは彼らを道徳や資源として使用することによる (3) その結果彼らに重大な危害が生じる場合である。」 (Munzer 1990, 171)
  4. 社会が搾取的であるのは、無償労働が体系的にある階級にのみ強制され、別の階級には自由裁量にまかされているように社会が組織化されている場合である。……搾取の強制包括的な定義では、搾取的社会は奴隷制の一形態である。(Reiman 1987, 3–4)
  5. あるグループが搾取されているといえるのは、そのグループのメンバーがより暮しむきがよくなる実行可能な選択肢が存在する場合である。 (Roemer 1986, 136)
  6. 搾取とは、労働にその限界生産物を支払わないということと理解できる。(Brewer 1987, 86).
  7. 「搾取的な取引とは……被搾取者が搾取者より少ないものを手にし、搾取者が被搾取者の犠牲によってよりうまくやっている場合である。……取引は不平等な力の社会的関係の結果でなくてはならない。……搾取は自発的に参加されることもある。またある意味では、被搾取者にとって得である場合すらある。(Levine 1988, 66–67).
  8. [資本主義の]社会関係は搾取的である。それは余剰労働をしぼりだすという特定の意味だけでなく、もっと一般的な意味で、誰かを手段として用い、自分自身の善を促進するための手段としてその人に損害を与えるという意味でそうなのである。(Kymlicka 1989, 114).
  9. 労働者は、自分が消費する財を作りだすよりも長い時間労働している場合に搾取されている。(Elster 1986, 121)
  10. 「搾取が財やサービスの交換の一部となっているといえるのは、1) 財やサービスが等価値で交換されていないことがまったく明らかであり、2)交換の一方の当事者が一定程度の強制を使用している場合である。(Moore 1973, 53)
  11. 搾取とは社会的あるいは経済的というよりは、心理学的な概念である。ある提案が搾取的であるとは、それがなんらかの心理的な脆弱性を作りだす、あるいは心理的脆弱性を利用しており、それが被提案者の有効に推論する能力を損なっている場合である。(Hill 1994, 637)

こうした説明はすべて、「Aが不当にBを利用している場合、Aは不正にBを搾取している」という見方と整合的である。しかし、これらの説明のあいだには重要な違いがある。一部の説明(10, 14)は、マルクス主義的アプローチに特有にみられる搾取のテクニカルな定義でである。また、上の説明はどれも搾取が搾取者に利得をもたらすことが必要であるということは否定しないが、一部(3, 8)だけがその基準にはっきり言及している。一部の説明は、他人を道具的に、あるいは単に手段として扱う場合人は不正に搾取しているというカント的考え方を採用している(1, 8, 13)。一部の説明では、搾取されている側は危害を受けている(harmed)必要がある(1, 2, 3, 8, 9, 12)。一方、別の説明では搾取されている側が関係から利益を受けている場合も許容している(4, 7, 11, 12, 15)。一部の説明では、搾取されている側は強制されていなければならない(2, 4, 6, 9, 15)が、別の説明では少なくとも同意の質に欠陥があることが必要とされており(12, 16)、また別の説明では搾取が完全に自発的になされることがある(7)。

少なくとも初めのうちは、なにが搾取とされるかということについてあまり厳しく制約するべきではない。一部の搾取的な取引は被搾取者にとって有害であるが、被搾取者が取引から利益を得ているように思われる事例が搾取的であると呼ばれることもしばしばである。実際のころ、「危害なければ搾取なし」というルールにもとづいてしまえば、搾取というものにはたいした理論的なおもしろみのないものになってしまうだろう。AがBに不当に危害を加えたり、強制したりする行為から利益を得ることが不正であるということはトリヴィアルに真である。またリバタリアンでさえ、有害な搾取を国家が禁止するのは正当であると認めるだろう。もしそれが搾取的であるというよりは有害である(あるいは権利の侵害である)という理由からであるとしても。対照的に、AがBに便益を与え、Bも自発的に同意している行為から利得を得ることがどんな場合にそしてなぜ不正であるのかを説明することは難しい。そして、社会がそうした取引を禁止したり、そうした契約を守らせることを拒否したりすることがなぜ正当化されるのかを説明するのはもっと難しい。

こうした理由から、二つの区別をしておくのが有用だろう。第一に、我々は有害な搾取と互いに有益な搾取を区別することができる。互いに有益な搾取とは、被搾取者も搾取者と同じく取引から利益を得るようなケースを指す。取引の有益さは互恵的であり、搾取ではない。もう少し別の言い方をすれば、搾取が互いに有益であるとされるのは、取引がパレート優越である場合、つまり、取引がどちらの参加者もより暮し向きをよくする場合のみである。同じように、たとえば強制や欺罔によって、被搾取者が自発的な(あるいは有効な)同意を与えていない搾取と、被搾取者が取引に対して自発的で適切な情報にもとづいた同意を与えている搾取とを区別することができる。

搾取が互いに有益であるとか、搾取が同意にもとづいていることがありえると想定することは論点先取であると主張されるかもしれない。この反論はうまくいかない。議論のために、搾取という言葉は被搾取者が害されているケースに制限されるべきだということを認めるとしても、なにも変更されるところがないのである。我々はそれでもなお、互いに有益な搾取として(仮定により)誤って言及されているケースと、そういう仕方(「搾取」)では記述されていない互いに有益な取引との間に重要な違いはないのかと問わねばならない。互いに有益な取り決めが不正かどうか、そしてそれがなぜ不正かという問題は、まだ未解決の問題のままである。もし互いに有益で同意にもとづいた取引が不公平ではありえないと主張したいのであれば、それは言葉についての議論ではない。それは実質的な主張であるが、そうした立場が正しいと考える理由はなにもないのである。

3. 搾取の諸要素

「AがBから不当な利益を得るときAはBを搾取している」という主張からはじめよう。不当な利益を得るということは、二通りの仕方で理解することができる。第一に、こうした表現は、搾取的な行為や取引の結果のなんらかの面に言及している場合がある。つまり、搾取が実質的に不当なのである。そしてこれについては、二つの要素があるように思われる。(1) Aにとっての便益と(2)Bへの影響の二つである。Aへの便益が不当とされるのは、そもそもAがその行為(たとえばBを害する)によって便益を得ることが不正である場合もあれば、Aの受けとる便益がBが受けとる便益に比べて過剰である場合もある。第二に、AがBから不当な利益を得ていると表現することが含意しているのは、不当な結果が生じたプロセスになんらかの欠陥があるということの場合がある。たとえば、AはBに強制したとか、Bを騙したとか、Bを操作したという場合である。こうした三つの要素は最終的な分析においては搾取の説明に必須なものではないということになるかもしれないが、とにかく出発点を提供してくれるものである。

Aにとっての便益

AがBからなんらかの利益を得ないかぎり、AがBから不当な利益を得ているということは言えない。「Aにとっての便益」の重要性を理解するには、搾取をたとえば差別・虐待・抑圧をはじめとする様々な不正行為と比較するのがよいだろう。AがBを差別しているのは、Aの行為にとっては重要ではないBのなんらかの特徴を理由として、AがBからチャンスや便益を不正に奪う場合であるといえる。アメリカの歴史においては、多くの女性が公立学校の教師になった時代があった。女性は法律や医療など他の専門職につくチャンスを否定されていたからである。社会が(一方的に)質の高い公立学校の教師を入手する便益を得た分だけ、意図的ではなかったとしても、この差別は搾取的である。しかしもしAが、Bの人種だけを理由にしてBを雇用することを拒否するならば、AがBを搾取していると表現するのは奇妙である。というのは、AはBに対する不正によってなにも得ていないからである。

虐待を考えてみよう。医学生はしばしば侮辱やけなし言葉によって虐待されており、こうした虐待は長期に渡る感情的な傷を残すことがあるといわれている。インターン生は、低賃金の長時間労働のため、搾取されているともいわれる。コントラストははっきりしている。虐待から誰かが(ふつうの意味では)利益を得ていると考える理由はないが、病院や患者がインターン生を搾取することによって利益を得ていると考えるのは少なくともそれらしいことである。

当然もっているはずの自由やチャンスをAがBから奪うことによって、Bを抑圧しているとしてみよう。もし、AがBを奴隷にしているといったようにして、Aがその抑圧的な関係から利益を受けているならば、AはBを抑圧しておりまた搾取している。しかしAがその抑圧からなにも利益を得ていないのであれば、抑圧は不正ではあるが搾取ではない。失業者は抑圧されているといわれることがあるが、彼らの失業によってなんらかの利得が生じていないかぎり、失業者が搾取されているということはない。マルクス主義者は、被雇用者が競争しなければならない失業者の「予備軍」が存在するからこそ資本家が被雇用者に搾取的な賃金を払っているのだと主張するかもしれない。しかしこのことは、抑圧が資本家階級に利益を生みだすので被雇用者が搾取されているということを確証するにすぎず、搾取されているのは被雇用者であって、そうした搾取を可能にする失業者ではない。

Bへの影響

定義についてのサーベイからわかるように、一部の研究者は搾取はゼロサムゲームに似ており、搾取者は被搾取者が失なった分を得ていると主張している (Tormey, 207)。また、利得と損害が相殺しない場合も搾取は常に被搾取者にとって害悪であると主張する研究者もいる。奴隷制の場合のように、搾取がBにとって害悪でありえるということについては相対的に対立は少ない。他のケースはもっと論争を呼んでいる。AがBを利用することによってBは直接影響を受けない場合がある。これはファインバーグのいう「害のない寄生」というもので、たとえば濃い霧が出ているときにAがBのテールランプのあとを追って自動車を運転するような場合である。AはBを自分の利益のために利用しているが、このことはBの暮し向きを悪くしていない(BがAのヘッドライトに困っていない場合の話だが)(Feinberg, 14)。害を与えない搾取の他のケースでは、取引はAとBの両方に便益を与える。たとえば臓器売買や代理母の事例がこうしたものかもしれない。

さて、Aの行為がBの利害に影響を与えているかどうかを考える場合には、我々はすべての事情を考慮した見方を採用するように注意しなければならない。けっきょくのところ、それほど論争にならないタイプの取引であっても、ほとんどすべてネガティブな要素を含んでいるのである。明らかにある値段がふさわしい商品にお金を払うことでさえ、取引においてはネガティブな要素がある。それを無料で手に入れた方がよいにきまっている。Aにとってたいへん価値があるけれども(コレクションを完成するために),Bにとってはたいして価値のない本があったとしよう.この本1冊のためにAが100ドル払うという協調的な合意にAとBが到達したとして、Bは本を失なったのだから害されたのだと言わないし、同じようにAは100ドル払わなければならないので害されたとも言わない。同じように、労働者が仕事をするよりぶらぶら遊んでいたいからといって、労働者は雇用によって害されたとも言わない。もし雇用によってBが得る便益がBにとってのコストよりも大きければ、すべての事情を考慮するならば、雇用はBにとって便益である。したがって、搾取だと主張されるあるケースが害のある搾取なのか、あるいは互いに便益のある搾取なのかを決定する場合には、我々はBにとっての影響全体を考える必要がある。もし取引の便益がコストを上まわっているのであれば、それが搾取的であるとしても危害ではない。臓器売買やストリッパーとして働くことがこうした事例かもしれない。

ジョエル・ファインバーグは、もし取引が相互に利益があるならば、AはBを犠牲にして利益を得ているわけではないとしている(Feinberg 1988, 178)。これは全面的に正しいとは言えない。「合意の範囲」内での一方に対する差益が、常にもう一方の損失であるといえるような重要な意味が存在する。両者とも、合意なしという解決よりも、合意の範囲内での結果を選好しているとしても、両者がその合意の締結条件について無関心だというわけではない。互いに便益のある搾取は、AとBが非協力的なベースラインよりも多くを得るが、AとBとの間の便益の配分がBにとって不公平な場合に生じる。搾取だとされるさまざまな例を考えてみよう。ある地域を予期せぬ大雪が襲い、人々はホームストアにシャベルを買いに走った。ホームストアの店主はすごい利益を上げるチャンスを見て、シャベルの値段を15ドルから30ドルに値上げした。もしBがシャベルに30ドル払うことに合意すれば、この取引は両者にとって利益になる。もしBが搾取されているとすれば、それはBが多く払いすぎているからである。同じような構造は最初に見た搾取とされている他のケースにも当てはまる。AIDSに対するAZT、代理母、臓器売買などである。我々はBがこうした取引から、全体として見て、便益を得ていることを否定する必要はない。むしろ、もしBが得るもののためにあまりに多くを払いすぎている場合、あるいは、与えたものに十分なほど受けとっていない場合、AはBを搾取している場合がありうる。

互いに利益になる取引は、異論があるところではあるが、その取引の結果が(なんらかのしかたで)Bに不公正な場合にのみ(不正に)搾取的だと言われることがある。とにかく、取引を成立させるためにBの弱みや絶望的な状況につけこんでいる場合にはいつでもその取引は搾取的だと考えられるかもしれない。これは成り立たない。もし、Bの絶望的状況を考えると、Bが受け入れる以外の選択肢がないような理にかなった提案をAが申し出たのならば、AはBを搾取していないからである。もし医者が理にかなった治療費で命を救う手術をすることを提案したら、自分の命が危ういという事実がなければ患者は合意しないとしても、患者が搾取されているということはまずありえない。

「互いに利益になる」搾取は、有害な搾取の一形態として理解されうるし、そう理解するべきだと主張されることがあるかもしれない。もしある取引を、取引なしベースラインと対照されるものとしての公正ベースラインを基準に評価するならば、Bがシャベルに30ドル払わなければならないとすれば、公正ベースライン(たとえばBがシャベルに15ドル払う)と比べれば害されているといことになる。仮にその場合Bが取引なしベースラインと比べれば利を得ているとしてもである。こうしたラベルの張り替えをおこなっても何も変更したことにならない。というのは、我々はまだBが公正ベースラインでも取引なしベースラインでも害されているといえるケースと、Bが取引なしベースラインでは害されていないが公正ベースラインでは害されている場合とを区別しなければならないからである。

また、いま提案されている有害な搾取と互いに便益のある搾取の区別は、「互いに利益になる」搾取がBにとって有害であるもっと深い──カント主義的──ポイントを無視していると反論されるかもしれない。つまり、AはBを、目的それ自体ではなく、自分の利益のために使われる手段として扱っており、もし人をそのように扱うことが害することになるならば、Bは害されている、というのである。アレン・ブキャナンが主張するところでは、「人々が有害な仕方でプライベートな利得のための単なる手段として使用されるときはいつでも」搾取が生じているとされる。そしてブキャナンは、こしたことは二人の裕福な銀行家の間のビジネス取引にも適用できるという──「それぞれは相手を自分の利益のための単なる手段として有害な仕方で使用しているのだ」 (Buchanan, 1984, 44.)。

こうした見解をどう考えるべきかは明らかではない。第一に、カント的な格律の妥当と思われる解釈の一つによれば、「その人がとても同意できないような仕方で」取り扱うときにのみ、人は他人を単なる手段として扱うことになる。たとえば強制や騙しのように、Aが、自律的な意思決定者としてのBの能力を損なおうとしている場合がそれにあたる(Korsgaard 1993, 40)。先の銀行家二人それぞれは、相手からああした仕方で扱われることにとても同意できないだろうと考える理由はない。第二に、AがBを「単なる手段」として「有害なしかたで利用する」場合にAはBを搾取していると表現することは、「有害な仕方で harmfully」が動詞を修飾しているだけなのか限定しているのかという点で両義的である。一つの見方では、「有害な仕方で」は単に補強修飾しているだけであって、Bを単なる手段として利用することがそれだけで独立してBに対する危害を構成していることになる。もう一つの見方では、「有害な仕方で」は動詞を限定しており、AがBを有害な仕方で単なる手段として利用することと、AがBを有害ではない仕方で単なる手段として利用することを対比できることになる。もし第一の解釈を採用することにすれば、Bが単なる手段として扱われることとは独立に害されている場合と、l単なる手段として扱われることから派生する害悪とは別に害されている場合とを区別したいと思うことになるだろう。第二の見方では、二人の銀行家は互いを手段として利用しているものの、独立した危害は存在していないのだから、手段そのものとして利用されることによって害されていると考える理由はなくなる。したがって、カント主義的な搾取と互いに有益な搾取の間の区別を否定するには役立たないのである。

したがって、搾取的だとされる取引が互いに利益があることを認めた上で、互いに便益のある取引を不公正にしているものはなんであるのかを考えた方がよさそうである。これは簡単なことではない。公正な取引というものがどんなものであるかについて、異論の余地のない説明というものが存在しないからである (Wertheimer 1996)。可能性がいくつかある。

交換される財が「つちあわない incommensurable」とき、取引はアンフェアなのだと言いたくなる人がいるかもしれない。たとえば臓器と金銭の交換がそうしたものにあたるかもしれない。これには二つの問題がある。第一に、財が究極的につりあわないことがあるかどうかということは明らかではない(Chang 1997)。第二に、財がつりあわないとしても、それがそうした財の交換が不公正である理由とはならない。

参加者の利得を比較することが可能であると想定した上で、しばしば、AがBよりもずっと多くの利得を得ているのならば、その取引は搾取的だと示唆される。しかし、参加者の利得を取引なしベースラインからの限界効用によって計るならば、被搾取者が搾取者よりも多く利得を得ていることはしばしばある。もし医者が命にかかわる手術に過大な治療報酬を要求したとして、患者の状況を搾取したとしても、医者の利得は患者の利得より少ないだろう。店主がシャベルに30ドルの値段をつけたとしても、買い手は売り手が儲ける分より多くの効用を得るということもあるだろう。実のところ、搾取者が被搾取者に対してもつ力というものは、まさに、搾取者はそれほど多くの得をしないという事実から生じているのである。搾取者はその取引からさっさと立ち去ることができるのだが、被搾取者はそうはできないのだ。

こうしたことからすると、参加者の利得を比較するだけでは取引の公正さを評価することはできない。むしろ、参加者がどれくらいの利得をえるべきかという規範的ベースラインと比較することによって、利得の公正さを計らねばならないのだが、このような規範的ベースラインがどこにあるのかを特定するのは簡単ではない。問題なしとは言えないまでも見込みのある候補は、参加者の利得を、相対的にはより完全な情報が存在する「仮想的競争市場」でならば得るであろう利得と比較することである。この喧嘩では、シャベルや腎臓などの財の「正当な価格」といった独立の基準は存在せず、また、種々の欠点をもった現実の市場がもたらしている価格ならなんでも受けいれねばならないというわけでもない。むしろ、参加者たちが、相対的に完全な市場のもとにおかれたとしたら受けとるであろう利得によって彼らの利得を評価するのである。「公正な市場価格」を決定しようとする際に我々はそうするし、また、その場所で相対的完全市場の条件が成立していたら売れる価格を決めようとする際にもそうする。

搾取は(少なくとも道徳的に反対すべき場合は)、被搾取者が搾取者より暮らし向きが悪い場合に限られると考える人がいるかもしれない。搾取のほとんどのケースはこのパターンにうまくはまるだろうが、搾取はそのようなものに限られるわけではない。たとえば、客の方が店主よりずっと裕福でも、店主が雪掻きシャベルに法外な値段をつけるならばお客を搾取していると考えるだろう。この見方では、搾取は取引に限定的なのである。

我々が必要としている解決を与えてくれるようなフェアな取引の説明があるのかどうかについて私は確信がもてないが、参加者の互いに利益になるとしてもある種の取引は直観的にはまったくアンフェアである。したがって、原則的に、ファンフェアな取引についてなんらかの説明が与えられると仮定することにしよう。すると次に、アンフェアな取引は常に搾取的なのかという問題が生じる。あるいは、結果的にBの決定につながるプロセスになんらかの欠陥がある場合にのみAはBを搾取するということになるのか否か、という問題が生じる。

プロセス

すでに見たように、単に収益の配分がアンフェアだからといってAがBを搾取しているとはいえないと主張するのはもっともらしい。もし、たとえばBがAにギフトとして財や労働を提供することに決めたときのように、Bが自発的に、その他の場合なら利益の不均衡配分になるような取引に合意したのであれば、AがBを搾取していると表現するのは誤っているように見える。たとえば、働いている人々が賃労働者ではなくボランティアであるからといって、その病院がボランティアを搾取していると主張するのは(おそらく不可能ではないにしても)奇妙だろう。したがって、当事者の関係や取引が搾取的なのは、それが成立するプロセスになんらかの欠陥がある場合のみだということになる。

おもしろいことに、マルクス主義者とリバタリアンのどちらも、自発的な取引は搾取的ではありえないという見解を受け入れている。マルクス主義者は搾取の「強制を含んだ定義」を採用する傾向がある。マルクス主義者は、労働者が自発的にその雇用状態に同意しているという事実に反してまで、資本家は労働者を搾取しているとは言わない。彼らが主張するのは、労働者が雇用除隊に自発的に同意しないからこそ労働者は搾取されている、ということである。マルクス主義者はプロレタリアートは奴隷ではないことを認める。なぜなら労働者は特定の雇用主にしばりつけられているわけではないからである。「経済関係によるなまくらな強制」によって労働者は自分の労働を資本家に引き渡しているのである(Elster 1983, 277–78)。リバタリアンも搾取の「強制を含んだ」定義を受けいれていると理解することができるが、まったく反対の結論にたどりつく。彼等は主張するのは、市場取引は強制されたものではないのだから、労働者は搾取されていない、というものである。我々はこの二択を受け入れる必要はない。同意ない搾取と同意のある搾取の間の区別を脇においたのと同じように、Bが強制(あるいは欺罔)されていない場合にも、またBの客観的状況におけるBの決定になにも不適当なことがなくとも、AはBを搾取していると主張することができるのである。

この点をもう少しつっこんでみよう。搾取だとされる事例のなかには、同意の問題が生じないように見えるものが含まれている。被搾取者がまったく受け身のケースがある。AがBの写真をBの承諾なしに売る、眠っているBから財布を盗む、濃い霧のなかでBのテールランプを追う、などのケースである。こうしたケースでは、Bの意志は含まれていない。こうしたものを、意志に関わらない搾取と呼ぶことにしよう。もし意志に関わらない搾取がBの意志の関与なしにおこなわれるとすれば、同意のない搾取はBの意志に反しておこなわれるということになる。これはたとえばAがBを強制したり騙したりしたりするケースである。すると問題は、そうした手続上の欠陥が存在するか否か、ということになる。

一般的には、AがXするようにBを強制するのは、BがXしないことを選択した場合、なんらかのベースラインになる条件を基準としてBの暮しむきを悪くするとAがBに申し出る(脅す)場合である。もちろん、申し出を比較する基準になる適当なベースラインをどう定めるかということは複雑な問題になりえる(Wertheimer, 1987)。もしAが、1週間に100ドル払わないとBの店を爆破すると脅してお金を払わせるとしたら、AはBを週100ドル払うよう強制している。対照的に、Aが、毎晩Bの店を掃除することによって1週間に100ドル払ってもらうとしたら、Aは強制的ではない(あるいは誘導的な)申し出をBに対して行っている。Aは、もしBがAの申し出を断わったらBの状況を悪くするという申し出を行なっているわけではない。この見方では、臓器売買や商業代理母のようなケースではAはBを強制しているわけではない。Aは、BがAの申し出を拒否したらBの状況を悪くすると申し出ているわけではないからである。

詐欺もBの同意の有効性を弱める。AはBに1万ドルで車を売ると申し出たとしよう。AはBに、その車はまだ5万マイルしか走っていないと告げるが、実は走行メーターを9万から5万に戻していた。Bは有効な同意を与えていない。有効な同意は、強制されていないとともに、十分な情報にもとづいている(あるいは、誤った情報を伝えられていない)必要があるからである。

強制や詐欺のケースとは対照的に、搾取だとされているケースのなかには、Bの同意が強制や詐欺のような仕方で欠陥があるとはいえないケースが少なくともいくつか存在する。搾取とされるケースの多くでは、AはBに互いに利益になる取引に合意させるが、その取引はBはもっとよい背景条件でならば、あるいは正義にかなった背景条件でならば合意しないようなものである。そうした背景条件では、Aはそうした状況をつくりだす上でなんの直接的な因果的役割を果たしておらず、そうした条件を修復する特別な義務は負っておらず、またBは各種の選択の結果について十分に情報を知っている。Bは自分に現在とは別の選択肢が開かれていることを望むとしても、とにかく彼女はさまざまな選択肢のなかで完全に合理的な選択を行うことができる。そうした条件は、商業代理母や、臓器売買や、雪かきシャベルといったケースでも成立するかもしれない(あるいはしないかもしれない)。

次のように反論されるかもしれない。完全に合理的で(他の仕方では)強制されていない選択も、同意によると適切には言えない場合がある。それが自暴自棄のもとでなされる場合や、交渉力が等しくない場合、あるいは正義に反した背景条件のもとで行われる場合である、と。しかしもし我々がそうした取引を同意にもとづかないとしたところで、我々はさらに強制や詐欺によって同意にもとづかないものになっているケースと、他の仕方で同意にもとづいていないとされるケースとを対比しなければならない。そしてまた我々はいまだに、そうした搾取の道徳的な力がけっきょく何に帰するのかということを問わねばならない。つまり、我々はAがそうした申し出を行うことを禁止するべきでなのだろうか?我々はそうした条件での合意を実行させることを拒否するべきだろうか?こうしたことが、搾取の道徳的力の問題に我々を引き寄せることになる。

4. 搾取の道徳的力

先に、「搾取」はある取引の道徳的記述であるが、その道徳的力は明確ではないと私は述べた。有害で同意にもとづかない搾取の道徳的力については、相対的に問題は少ない。Bに対する害からAが得る利得によって加えられる道徳的な重要性がなんであれ、AがBを害することは少なくとも他に特段の理由がなければprima facie不正であることは確かであり、また、国家は少なくとも他に特段の理由がなければ、そうした取引を禁止し、履行させることを拒否するべきである。

お互いに利益になる取引はもっと難しい種類の問題群を伴う。AとBの取引がアンフェアだとしても、双方が特をする合意についてなにか深刻に不正なものは存在しない、AがBと取引をしなければならない責務あるときは特にそうだと考えられるかもしれない。少なくとも、(アンフェアではあるが)お互いに利益になる交渉が、まったくの交渉なしよりも道徳的に悪しきものであるということを示すことは難しいように思われる。というのは、仮定により、交渉はどちらにとってもより悪いものではないからである。搾取についての近年の文献では、「非悪化説」(non-worseness claim)として、もっと正確に定式化されている。

非悪化説(NWC): AとBの交渉は、AがBと交渉しなくてもよい権利をもっており、交渉がお互いに利益になり、同意にもとづき、ネガティブな外部性がないとすれば、交渉なしよりも悪いものではありえない。(Wertheimer, 1996, 2011; Zwolinski, 2009; Powell and Zwolinski, 2012)

もし非悪化説が正しければ、自然災害の際に、高い値段で被災者に発電機を売るといった「価格つり上げ(price gouging)」をする人々を非難するのはまちがいだということになりそうである(Zwolinski, 2008)。けっきょく、我々は家にいてなにもしない人々を非難することはないであろう。しかし、人々が高い値を払うつもりがあるかぎり(そして強制や詐欺が含まれていない場合)、当事者双方が取引によって、取引しないときよりもよい状態になる。したがって、顧客に便益を提供することが、なにも便益を提供しないよりも道徳的により悪いということがどうしてありえるのだろうか?

しかしながら、もし非悪化説がもし真であるとしても、これは搾取の不正さについてのデフレ的な説明に行き着くとは限らない。むしろ、交渉しないことの不正さのインフレ的な説明に結びつくかもしれない。言いかえると、お互いに利益になる搾取は交渉なしより悪いことはない、とする非悪化説を説明するために我々は、お互いに利益になる搾取は我々が思っていたよりも悪くないのだと言うこともできれば、交渉なしは我々が思っていたよいも悪いことなのだ、と言うこともできるのである。価格つり上げ屋は我々が思っていたほど非難には値しないと言うか、家にこもって被災者を助けるためになにもしなかった人々は我々が思っているよりももっと非難に値すると言うか、である。

しかしながら、たとえばお互いに利益になる搾取が深刻な道徳的不正であるとしても、その不正さは国家の干渉を正当化するようなものではないかもしれない。雪かきシャベルの例を思いだしてみよう。もしAが不正に行為した、あるいは有徳に行為しなかったとしても、Aは誰にも危害を与えていない、あるいは誰の権利も侵害していない、そして、危害や権利の侵害だけが国家の干渉を正当化するのだ、と主張することが可能である。もし国家がAに、Bにシャベルを売るように強制することができないのならば、AとBが同意のあるお互いに利益になる取引をおこなうことを国家が禁止するということはまったく不合理であると考えられるだろう。 おそらくこの見方は正しい。外部性にもとづく議論で補強すれば、国家が取引に干渉することが正当化されるのは、一方の当事者が他方の権利を侵害している場合のみだ、と主張することは完璧に有効に見える。とはいっても、搾取という概念を用いる人々は、そうした搾取は国家の干渉の理由を提供するとしばしば主張する。たとえば、商業代理母は産みの母親を搾取していると主張される場合、批判者たちは一般に、代理母契約の効力を認めるべきではないとか、完全に禁止されるべきだと主張する。同じようなことが、臓器の売買についても言われる。こうした主張をする人々は、しばしば、取引は同意にもとづいたものではないとか有害であると主張するのだが、取引が同意にもとづきお互いに利益になるものであってもそうした主張をするつもりがあるように見える。

いったいどのような根拠にもとづいて、同意にもとづいたお互いに利益になる搾取的取引に干渉することを正当化することができるだろうか。パターナリスティックな根拠にもとづいて干渉することができると考えられるかもしれない。もし搾取的取引が被搾取者にとって利益になり、また、干渉がBにとってもっと有利な取引につながるものでないならば、パターンリスティックな議論は搾取的取引に干渉することを正当化するものではない。というのは、パターナリズムは誰かの善のための干渉を正当化するのであって、この主の干渉はターゲットの便益にはならないからである。しかし、Bが(取引なしに比較して)自分の便益になる搾取的取引に合意するだけのことは十分に知っているが、参加可能なもっと搾取的でない取引についてはなにも知らない、というケースがありえる。それゆえ、ある種のお互いに利益になる搾取的取引に対する干渉の「ソフトパターナリスト」的正当化がありえるかもしれない。

また、戦略的な根拠にもとづいて搾取的な取引に干渉することを正当化することもできるかもしれない。Aが独占的な立場を享受しているとしよう。たとえば、Bを救助することができるのはAだけである、というケースである。もしAが救助に対して法外な報酬を要求することを禁止すれば、Aは理にかなった程度の値段を申し出るだろう。この議論は高度に競争的な市場に干渉することは正当化しない。というのは、そうした条件のもとでは、Aは自分のサービスに対してもっと有利な値段をつけようとはしないだろうし、できないだろうからであろう。しかし、こうした戦略的な論証がうまくいく状況は数多くある(Wertheimer 1996)。

お互いに利益になり同意にもとづいた取引に対する干渉を、完成主義的根拠や道徳主義的根拠から正当化することはできるだろうか?ジョエル・ファインバーグは、お互いに利益になる搾取は有害ではないのだから、そうした搾取は「宙に浮いた悪 free-floating evil」、誰にとっても悪くない不正であると主張している。「こうしたケースでは、被搾取者にとっての不正な損失はなく、当人自身不満を抱くことはない」(Feinberg 1988, 176)。ここで二つの疑問がある。お互いに利益にある搾取は、宙に浮いた悪なのだろうか。また、宙に浮いていようがなかろうが、我々が不道徳な取引に対して、その不道徳さを根拠に干渉することが正当化されるだろうか。

お互いに利益になる搾取は宙に浮いた悪だろうか?私はそうは思わない。BとCの両方が輸血が必要で、入手可能な血液はBの血液型だけに適合し、Cの血液型には合わないと想定しよう。二つの可能世界しかありえない。(1)輸血しない。BもCも輸血を受けない。(2)輸血する。Bが輸血を受け、Cは受けない。このケースでは、Bに輸血することが——なんらかの意味で——不正であると表現するならば、それは「宙に浮いた悪」を含んでいるように思われる。Bに輸血することはBにとってよいことであり、Cを含め誰にとっても悪いことではない。というのはCが利得を得たであろう実現可能な別の世界が存在しないからである。

しかし、お互いに利益になる搾取の世界はこうしたものではない。「雪かきシャベル」の例を思いだそう。この場合には、たとえば、三つの実現可能な世界がある。(1)取引1、AがBにシャベルを法外な30ドルで売る。(2)取引2、AはBにシャベルを標準的な15ドルで売る。(3)取引なし。取引1はAにとってよりよく、他の誰にとっても悪くはないだろうか?イエスでもありノーでもある。取引なしベースラインと比べれば、イエスである。取引2と比べるならばノーである。取引2と比較すれば、取引1の「不正さ」は宙には浮いていない。Bは取引1では害を与えらえていないが、Aが取引2ではなく取引1にかかわることを選択したことによってBの利益は明らかにネガティブな影響を受けている。お互いに利益になる搾取に含まれる不正さは宙に浮いたものではないと表現することは、その道徳的力をしっかり確立するものではない。国家が干渉することを控えるもっともな理由がありえる。しかし、お互いに利益になる搾取のほとんどのケースについて干渉しないもっともな理由があるとしても、搾取が道徳的にトリヴィアルなことだということにはならない。仲間を不当に利用しないという性向は、より重要な道徳的徳性のひとつであり、また市民生活の必須の条件であるかもしれない。そうした美徳を体現することを罰するもっともな理由があるとしても、そうしたことはありえる。

もし仮に搾取が深刻な不正であるとしても、おそらく不正義や不平等の最悪の形態というわけではないだろう。社会正義が相対的に平等主義的な資源の分配を要求するとしてみよう。AとBの間の不平等が搾取的なのは、AとBの立場になんらかの因果関係がある場合のみだとすれば、不正義の多くは搾取とは関係がない。AがBよりずっと多くをもっているのは不正義かもしれないが、Aがより多く持っていることはBがほとんどもっていないこととは関係がない。労働の搾取を考えてみよう。ある人々は他の人々よりも生産的であるが、それはしばしば道徳には関係のない要因、たとえば社会的背景や生まれつきの才能などによるものである。

もし、我々は生産に貢献する程度の応じてその人々に報いることに失敗しているときはその人々を搾取しているということになれば、あまり貢献していない人々は搾取されないということになる(Nagel 1991, 99–100)。実際のところ、もし多く貢献している人々が貢献度の低い人々のために課税されるとすれば、多く貢献しているは搾取されているのは自分たちだと主張することだろう。失業者のことを考えてみよう。もし失業者が「資本家が占有するための余剰価値を生産していない」ために搾取されているのであれば、労働システムから排除されていることは労働システムにおいて搾取されるよりもずっと悪いことだと結論するのはもっともなことだろう(Kymlicka, 176)。しかし、搾取的不平等が非搾取的不平等よりも常に悪いとしても、搾取から生じる不平等と苦しみが我々の特別な道徳的注目を集めるべきかどうかということは興味深く重要な問いのままである。

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