翻訳ゲリラ:ラジャ・ハルワニ「カジュアル・セックス」

ラジャ・ハルワニ「カジュアル・セックス」。文献参照そのうちちゃんとします。

https://yonosuke.net/eguchi/material/halwani-casual.pdf

ソース

\RequirePackage{plautopatch} \ifx\mybook\undefined \documentclass[uplatex,dvipdfmx]{jsarticle} \usepackage{mystyle} \title{ラジャ・ハルワニ「カジュアルセックス」} \author{宇野佑・江口聡訳} \begin{document} \maketitle \howtocite{} \else\chapter{}\fi % ———————————————————––— % ———————————————————––—

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\begin{mdframed}[roundcorner=5pt]

Raja Halwani (2006) “Casual Sex”, Alan Soble (ed.) \emph{Sex from Plato to Paglia}

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カジュアルセックス. カジュアルセックスは、たとえば生殖のためというよりも、性的快楽それ自体のためのセックスとして特徴づけられることが多い。 また、愛情表現や恋愛という文脈の行為と対照される。カジュアルセックスは、性的欲求と愛の両方ではなく、性的欲求のみを含んでいるとされる。男性は、一般に女性──女性セックスワーカーを除き──よりもカジュアルセックスをすることが多い、あるいは結びたいと望むということになっている。(この差異の進化的説明についてはバスを参照)。ゲイの男性がカジュアルセックスを結ぶときには、彼らは相手が誰だかわからないまま(impersonal)にしておくことが多い。特に、(非単婚であれ)交際関係を維持しているときはそうする(ブルーメンシュタインおよびシュバルツ, 295-97)。カジュアルセックスのさまざななタイプには、ワンナイト、酔っ払っての「ノってる」セックス、バスハウスやバーのバックルーム(大抵はゲイの男性間で)での匿名の出会い、インターネットのチャットルームでの出会い(サイバーセックス)そして、売買春がある。カジュアルセックスには、概念的問いと規範的問いの両方がありうる。まず、概念的問いから取り掛かろう。「カジュアルセックス」を定義するのは簡単なように思われるがそうではない。ただしこれは、「そもそもカジュアルな性行為などというものは存在しないのだ」(アンスコム(1972), p. 24)などということではない。

この問題について、行動的基準だけにもとづく定義はどれもうまくいかない。行動的基準にもとづくカジュアルセックスの定義は、たとえば実際にカジュアルなセックスの一部を捉えることができるかもしれない。たとえば、複数セックスや動物とのセックス(獣姦)、そして死体とのセックス(死姦)、などである。しかし、カジュアルにオーラルセックスを行っているカップルと、カジュアルではなくオーラルセックスを行っているカップルの違いを捉えることはできない。2組の間の行為自体にはなにも違いがないかもしれない。なんらかの信念、ないしは他の心的状態が、カジュアルセックスの定義に加わらねばならない。

ある人は「カジュアルセックス」を「性的快楽のためだけの性的活動」として定義するかもしれない。つまり、生殖が意図されたセックスや愛の交換としてのセックスではなく、もっぱら快楽のためだけのセックスであり、娯楽としてのセックスである。この定義ではうまくいかない。私達は恋愛関係の二人の間でおこなわれるなら、快楽のためだけのセックスを娯楽としてのセックスと記述しうるが、しかしこの場合はカジュアルセックスではない。アンソニー・エリスはカジュアルセックスを「深い関係つまり実質的なパートナーシップでない関係のパートナー間でのセックス」として定義する(エリス(1986), p. 157)。この定義は参加者間に存在する重要な関係のタイプを明示していない。たとえば、その集団が赤の他人であったり、知り合いであったり、友人であったりする。これはよいところである。なぜなら、赤の他人どうしだけがカジュアルセックスをするわけではなく、知り合いどうしの間でなされる場合もあるし、友人の間でなされる場合もある。しかし、上の定義は上手くいかない。参加者の両方が、これからするセックスはコミットした関係につながるものだと信じているとしよう。エリスの定義によれば、たとえこうした信念が存在していても、その性的行為は未だカジュアルなものでになってしまう。しかし、こうした信念の存在していれば、彼女たちのセックスを(完全に)カジュアルではないものにすることは明らかだろう。おそらく、カジュアルセックスの印は、まさに、それが単なる性的な出会いであるという以上の信念はもたずにそれがなされている、ということなのである。

次の定義を試してみよう。「カジュアルセックスは、それが情動的なコミットメントにつながらないという理解や信念をもって結ぶ性的活動である」。この定義の良いところはセックスがカジュアルとなるだろうものに必要なこととして、「消極的」な心的状態のみを含んでいる点にある。「積極的」な心的状態を含めると、直観に反する帰結がもたらされる。たとえば、「性的な快楽のためだけに」という積極的な意図が必要であると考えてみよう。これは売春婦(者)とその客の間の性的活動がカジュアルでないという帰結をもたらす。なぜなら、売春婦はふつうはセックスそれ自体の快楽のためにセックスしたいという動機はもっていないからである。したがって、その集団の動機および意図は未決定にされていなければばならない。我々は、その参加者たちが将来的なコミットメントなどというものはないと理解していると規定すべきである。

「理解」は重要である。モニカがビルと恋愛関係に繋がるだろうことを期待あるいは欲求してセックスするとしよう。しかし、モニカはビルがそのような期待がなく、かつビルが彼女との継続的な関係を望んでいないことを理解しているとしよう。したがって、モニカはビルがカジュアルセックスを結んでいることに気づいているにもかかわらず、それでもどこかで恋愛関係へと繋がることを期待している。彼女の期待にもかかわらず、彼女らの間でのそのセックスはカジュアルである。というのも、互いにそれがセックスのみを目的として結ばれていることを理解しているからである。したがって、心的状態がカジュアルセックスの定義にとって決定的に重要であるけれども、我々はどの心的状態を含めるか慎重に選ばなければならない。ある種の期待や欲求はこの定義へと含まれるべきではない。

この定義はいくつか問題に直面する。まず、当事者両方が上のようなことを理解している上で、セックスしなければならないのか?一人は性的な出逢いが将来的なコミットメントに繋がらないだろうと理解しているが、もう一人はそうでない、あるいは反対のことを信じているとしたらどうだろうか?さらには、参加者の少なくとも一方が、そうしたことをどちらにせよなにも考えていない場合、私達はその性的な出逢いをどのように記述するだろうか。私達はその当事者達があるコミットメントを決して持たないだろうという信念を持つことを必要とするのか、あるいはその当事者たちがそのようなコミットメントをもつようになるだろうという信念を持たないことを必要とするのだろうか。もし前者ならそのような信念はどれほど強くなくてはならないのだろうか。当事者はセックスがコミットメントに繋がらないはずだ、あるいは恐らく繋がらないだろうと信じていなければならないのか?加えて、それらの信念は純粋なつまり真性のものでなければならないのか?あるいは、それらは自己欺瞞的なつまり偽の信念でもありうるのだろうか?そして、私達はある人と信念を持ちえないある種の存在間で起こるセックスをどのように記述すべきだろうか?例えば、何らかの動物やセックスドールや死体とのセックスはどうなるのだろうか。おそらく、これらの性的行為はカジュアルなものではない。というのも、少なくとも後の二つの事例はマスタベーションであり、そしてマスタベーションはパートナーを欠いているため、カジュアルセックスではないだろう。しかし、動物とのセックスはそう簡単には退けられえない。

したがって、上記の定義では私達が「カジュアルセックス」によって意味することを正確には捉えられない。おそらく「カジュアルセックス」は正確な分析のためにはあまりにも曖昧なのだ。そして、それをはっきりと定義しようとすると、私達のカジュアルセックスについての直観について何らかしら捨て去る代償を招いてしまうのかもしれない。無論、カジュアルセックスと乱交(promiscuity)の概念の混同も危険である。乱交のどんな定義も、異なるパートナーと何度も性的活動をするものと定義されなければならない(フレデリック エリストン[1944-1987] , 225-26)。カジュアルセックスは複数のパートナーを含意しないから(ある人の人生における一夜限りの情事もカジュアルセックスだろう)、乱交とカジュアルセックスは同一ではない。さらに、乱交もカジュアルセックスを含意しないかもしれない。ある人が沢山のパートナーとセックスしたにもかかわらず、それがコミットメントを持った関係を維持するのに最善の方法と信じているとしよう。この人の性的行動は乱交のようであるが、その意図のために私達はカジュアルなものとして記述する必要はない(ベネター[193-194])は乱交とカジュアルセックスを同一視しているが、これは彼が乱交を複数のパートナーとのセックスという定義の代わりに、ロマンティックの欠如したセックスないし情動的な意義を欠いたセックスとして定義しているからである)。

さて、規範的問題へ移ろう。それらは3つ論理的に異なる対立軸にしたがって生じる。つまり道徳対不道徳、性的に快をもたらすもの対そうでないもの、正常対逸脱の3つである。

時にカジュアルセックスは、それがカジュアルであるということとはなんの関係もない理由によって道徳的に不正であるとされる。もし二人の既婚者がカジュアルセックスを結んだら(配偶者以外の人と)、それぞれはまた姦淫を犯すことになる。姦淫が不正である限りで、彼らのカジュアルセックスも同様に不正である。カジュアルセックスが悪いのはまた欺瞞や強制を伴うからかの場合もある。もしトムが、ニコルがセックスしてくれたら結婚するというウソの約束したのなら、ニコールの同意は真性のものではない。なぜなら、それはニセの情報に基づいたものだから。トムが彼女を欺いたのであり、その結果として生じたセックスは道徳的に不正であろう。もしサリーが、サリーに対して欲求がない困窮したマークに対して、彼女とセックスするなら彼と彼の子供がアパートを立ち退かなくても良いと伝え、もし結果として彼が彼女とセックスしたならそれは強制であり、道徳的に不正だろう(Mappes, 180-83)。この場合も、不正なのはカジュアルだからではない。カジュアルセックスはまた適切なコミュニケーションをおこなわれないためにに悪いかもしれない。エドナとスキナーがセックスしようとしている。エドナはそのセックスがカジュアルなもの以上になることを望んでいないが、スキナーの意図については不確かであるとする。当事者たちが、欲求によって興奮した状態で、お互いの意図についてよくわかっているというのはむしろ稀かもしれない。もし、自分の意図を明らかにする道徳的責務が存在するなら、その不履行はカジュアルセックスを不正とする。もっとも、それはカジュアルだから不正ということではない。意図についての透明性は性差があるかもしれない点は注意しないといけない。つまり、女性は男性よりも、しばしば性的な出逢いを継続的関係の前兆として使用する(ブルームシュタインおよびシュバルツ, 297)

たとえカジュアルセックスが欺瞞や強制なしに生じ、姦淫でもなく、その当事者たちが明確に彼らの意図を交換していたとしても、その帰結の故に不正とされうる(その帰結が不正についての「外的」な理由とされる)。帰結とはすなわち、当事者たちへの害、および、他の人々での害である。カジュアルセックスで起こりそうな2つの悪い帰結は、病気と望まぬ妊娠である。これらは性的行為の当事者に対する帰結であるが、しかしさらにそれらは他の人々や社会一般にも影響を及ぼす。アンソニーエリスはこれらの影響は道徳的に重要なものではないと主張する。なぜなら、それらはむしろ「医学的問題」だからである。これは正確には真実ではない。ある種の性感染症(e.g., HIV[ヒト免疫不全ウイルス])は深刻な道徳的問題を提示する。妊娠したティーンエイジの女の子が知っているように、望まぬ妊娠もまたある人の人生を劇的に変える。その当事者たちは性的校は道徳的にも実践的にも病気と妊娠に対して事前に警戒すべきである。しかし、望まぬ妊娠あるいは病気につながるカジュアルセックスは道徳的に不正かもしれないが、カジュアルセックスそれ自体が道徳的に不正であることを示していない。

他に、カジュアルセックスがどんな悪い帰結をもつかは明らかでない。一つの可能性は社会が男と女に対してダブルスタンダート〔二重の基準〕を適用する限りにおいて、カジュアルセックスを許す女は軽い(“slut” 尻軽)として見られるが、男は違う(Bluemenstein and Schwartz, 297)ことがある。そのような女性についてな否定的な見方は、一種の害といえるかもしれない(例えば「評判」を地に落とす)。ところが、このダブルスタンダードは単に我々の社会での偶然的で、おそらく消えつつある特徴でしかない。これが、カジュアルセックスが常に否定的に判断されるとはかぎらない理由かもない。カジュアルセックスをする女子大生の多くは否定的に見られないし、それによってダブルスタンダートを逃れている。加えて、ある人々が「尻軽」な女性と判断することによる害は、彼女がそれによってどのような心理的な影響を受けるかに依存する。つまり、ある女性は簡単に無視するし、笑い飛ばしさえするだろう。それに加えて、この〔カジュアルセックスは否定的な評価のもとになるという〕議論は、男性間のカジュアルセックスに対しては効き目がない。

また別可能性がG.E.M. Anscombe (1919-2001) によって次のように示唆されている。カジュアルセックスはある人を「浅薄」(24)にする、と。それはおそらく、カジュアルセックスは、それをする人々を、恋愛関係のような有意義な関係を結べないようにしてしまうからである(Kristjanssonを見よ)。ところが、この議論は主にみさかいのない(promiscuous)セックスには当てははまるが、カジュアルセックスには当てはまらない。なぜな、少しくらいカジュアルセックスをしたという出来事によって、恋愛関係を築くのが不可能となるかは明らかでない。加えて、この議論は、恋愛関係はある人が良き生を送るのに決定的に重要であるという前提に依存している。これは真ではないかもしれない。ある人が論理的にも心理的にもそのような恋愛関係なしで良い人生を送りうるからである(しかしただし、これは友情関係については言えないかもしれない。Halwani ch2,3)。実際、アルバート・エリスの論じるところでは、「パーソナリティーの成長」──啓蒙された自己利益、自己受容、寛容性、柔軟性および曖昧さや不確実性の容認の強化──が「性的な冒険によって先導され、増強される」(95)。カジュアルセックスには、一種の性的冒険として、こうしたの利益 benefit があるかもしれない。ところが、健康でうまくいった性的な冒険は、こうした称賛に値する個人の特性を強化するというよりは前提とするのではないか、という点ははっきりしない。加えて、エリスに拠って称賛される特性のリストは明らかに価値観の負荷がかかっており、他の心理学者によっては完全に受け入れられないものかもしれない。

カジュアルセックスはまた「内在的」理由のために道徳的に不正だとされうるかもしれない。ある種の動機はカジュアルセックスという行為を道徳的不正とする。あとでその貞操の弱さを辱めるために修道士と一夜かぎりの情事をもつことは、不正である。それは侮辱しようという邪悪な意図からおこなわれているからである。あとで恐喝するためにティーネイジャーの少女や既婚女性とセックスすることもまた不正である。しかし、そのような動機はカジュアルセックスそれ自体の要素ではない。当然のことだが、ある種の動機が善いものである。看護師や友人がマスタベーションを望む四肢切断者を親切心からオーガズムへ導いてあげるということがあるかもしれない。だが多くのカジュアルセックスはそのような動機からなされない。カジュアルセックスは典型的には性的快楽のためになされる。カジュアルセックスに対して道徳的な非難をするために示す必要があるのは、性的快楽の獲得という動機が道徳的に悪いものだということである。おそらく、こうした性的快楽の獲得という動機のために、ある人が、パートナーのニーズを無視することになることもあるだろう。もし、これが性的行為のコンテクストの外にあるパートナーのニーズを指しているならば、なぜこれが道徳的に非難されるべきであるかをさらに説明しなければならない。というのは、我々が他の人と交渉するときのたいていは、他のひとのそれ以外のニーズすべてを考慮するわけではないからである。しかしもし、そのニーズが性的なものであり、カジュアルセックスをすることそのものに付随するものであれば、上の議論はおそらく健全soundではないものになる。それは、ある人が典型的にカジュアルセックスにおちて感じることがどのようなことであるかを誤解している。彼あるいは彼女はふつう、相手が受動的な肉体であってほしいなどとは思わず、むしろ相手と完全な性的なインターラクションをしたがるものである。こういうインターラクションはふつうはパートナーの性的なニーズを満たそうとするものであり、それはそれが自分自身のためであってもそうである(Goldman, 268071; Soble, “Sexual Use” 229-32)。売買春は例外であり、それはカジュアルセックスではあるが、客はふつうは売春者を喜ばせるためにわざわざ努力したりはしないものである。

さもしい動機という根拠に基づく決定的な非難は、人は性的欲望によって、パートナーを十全な人として扱おうとしなくなるかもしれないというものである。つまり、性的欲望はある人の、彼ないし彼女の肉体および実際に性的器官についての一面のみに焦点を当てるかもしれない。これが性的モノ化という非難である。カジュアルセックスは動機づけ以外でも不道徳な性的モノ化になるという主張は注意すべきである。たとえもしそれが快楽以外の動機、お金のために見境なくセックスしたとしてもカジュアルセックスは不道徳な性的モノ化となるかもしれない。イマニエル・カント(1724-1804)は次のように主張している。私たちが性的欲求を他者に対して抱くとき、私たちはその人を人として欲求しているのではなく、彼あるいは彼女を性的な部品として求めているのである(講義録,162-168)。これは次のような問題をもたらす。性的欲求のこの説明によれば、セクシュアリティは、カントの定言命法の第二形式「あなたはあなたの人格ないし、他のあらゆる人格の人間性を常に決して単なる手段としてだけではなく同時に目的として扱うように行為せよ」(基礎付け, Ak 4:429)を充足することが困難である。カジュアルセックスはカンティアンの立場からは、ある人 personが相手を一つのモノ(object)として扱うだけではなく、自分自身も同様にモノと扱うということを含む。カントは性的行為がモノ化であるにもかかわらず容認されうるのは、それが婚姻関係内で生じたときのみであると考えた。

現代でのモノ化の議論は(カントと異なり)、焦点は、行為者が自分自身をモノ化するという点ではなく、相手をモノ化するという点におかれている。売春やポルノグラフィ、カジュアルセックスが不道徳と判断されるのは、それらがモノ化を含むからである。つまり、人(person)をモノ(object)として扱うからである。これ不正なのは、人はモノでないから、あるいは人は単なるモノでないからである。モノ化の主要な問題はそれがあるヒトの地位を、動物、あるいは無生物のような、何かしら人間より劣っている対象(object)の地位へと落とす点にある。しかし、私たちは動物でもモノでもなく、それゆえ、私たちは何か特別なものを有している──合理性や固有の価値、尊厳、自律、あるいは不死で永遠の魂などである。しかしここで私たちは注意しなければならない。これらの属性は直接的な方法では経験的なものではない。というのも、不合理で、価値を欠き、尊厳を欠いている人は多いからである。人間は特別な存在論的地位をもち、それゆえ特別な道徳的地位をもつという主張には、なにか説得力ある擁護論が必要である。もしその擁護論が偽であるならば、カジュアルセックスはモノ化的なものではない。なぜなら、そうであれば、カジュアルセックスが私たちが実際にはそうでないものに落しめるということや、実際にはもっていない地位に対する尊敬をしないことだということはありえないからである(see Soble, Pornography, chap. 2)。

2つ目の規範的問題は、カジュアルセックスの非道徳的な意味の善さに関係する。カジュアルセックスは快いか?これに対しては、肯定的な答えが得られるのは明らかに思われるだろう。というのは人々は、多くの、できれば無限の人とするのが望ましいと思っているからである。性的活動は「通常」の条件下ではたしかに楽しめるものである。しかし、これはカジュアルセックスが常に快いものであることを意味しない。あるセックスが刺激的なものだろうという見込みがあるとしても、必ずしもそのセックスが満足のいく快いものとなるとは限らないからである。人によっては、普段のパートナーとのセックスによって経験する快楽と、カジュアルセックスのパートナーが経験する快楽を区別したいと思うかもしれない(Moulton, 538-39; Soble, Sexual Investigation, 87-89)。普段のパートナーとのセックスはルーティンかもしれないが、当事者達は何が期待できるか分かっていて、何らかの満足を計算できる。だがカジュアルセックスのパートナーとでは何が期待できるか分からない。ところが、彼らは期待される興奮(そして事実新しい人との行為による快楽の経験)を求めてセックスしようとするが、その結果なされたセックスは想像していたものほど満足いくものでないかもしれない。なぜなら、カジュアルセックスのパートナーたちには、どうすれば相手のニーズや欲求を満たせるかわからないからである。にもかかわらず、ある種のカジュアルセックスは高い充足をもたらす可能性が高いということも。不特定多数とのセックスと、まったく純粋な性的関係(言うなれば「ヤリ友」の間柄)は2つの例である──なぜなら、前者では期待は最初から最小限であり、後者は期待できるものか既知だからである。ジークムント・フロイト(1856-1939)はかつて、男と女は共に、それぞれ異なる心理的理由からではあるが、配偶者あるいは彼らの愛する人とでは十分な性的満足を達成することが難しいと推測した。男性は特に、愛し愛されている妻との性的活動よりも、カジュアルな性的出逢いの方が満足することがしばしばである。この性的なものと、愛情の心理的潮流の間の分断は、近年性的な問題ないし結婚関係や長期間の関係(無論、いまだにその他の利益はある)には問題がある、あるいは不利な点があるといことを含意する。カントが性関して道徳的にひどく怪しげであると考えたものを、フロイトは満足の点で重要な要素とみたのである。

カジュアルセックスの三つ目の規範的問題は、学における正常性と性的倒錯に関係する。ある種のカジュアルセックスは倒錯的であるとよばれうるかもしれない。それは一部のカジュアルセックスが、姦淫有害であったり的だとか有害だとか等々と呼ばれうるのと同様である。もし、靴フェチや下着フェチが倒錯であるならば、とされる靴や下着をつかった満足をともなう二人でのセックスは倒錯であるということになるだろうが、それはそれがカジュアルだからではない。より興味深い問いは、カジュアルセックスたとえ道徳的に容認され、快(たとえ、それが快の故に)だったとしてもに異常かどうかというものである。もし、性的欲求や性的活動が愛のによる進めるのが自然ないし通常の方法であるなら(Scurton, chaps. 4, 10を参照)、カジュアルセックスはその定義により事実正常ではないだろう。ところが、私たちはしばしばは、それが道徳的に許容可能あるいは回をもたらすものである場合に(あるいは快をもたらすがゆえに)心理学的に異常であるとされるかどうか、というものである。もし、性的欲望や活動が信仰する自然なあるいは正常な仕方というものは、愛を目指すことあるいはその頂点に至ることだとすれば(See Roger Scruton, Chaps. 4, 10)、その場合にはカジュアルセックスは、おそらく定義によって、正常ではないということになるだろう。しかし、我々が、愛など視界に入れずにさまざまな人々に対して性的欲望をもつ経験をする(それも無意識的にですらなく)ことがまったくしばしばであることからすれば、ふつうの場合のカジュアルセックスは完璧に心理学的に正常の範囲にはいるはずだ。多くの人が異常であるとか倒錯であるとかということになるように性的に正常なものを分析するということはもっともらしくない。おそらく、カジュアルセックスは異常であると主張する哲学者たちは、結局のところ、心理学的なテーゼを提出しているのではなく、彼あるいは彼女自身がものごとがそうあることを好むということを述べているにすぎない。

カジュアルセックスを定義することは難しい。カジュアルセックスが感情的・愛情的コミットメントの欠如と関係しており、またそれが快楽それ自体の追求のためだけに深く関係していることということはわかっている。このていどのことを越えては、もっともらしい定義をしても反例を逃れることは難しい。カジュアルセックスはそれ自体としては道徳的な不正ではないように思われる。カジュアルセックスに対してありそうな反対論議の一つの事例は、モノ化を巡る問題だろう。しかし、しかし、それに異議を唱える余地はあり、そしてカジュアルセックスがモノ化するものであるがゆえに欠点の多いものであるなら、性的領域に存在している他のさまざまな行為にもまた欠点があるということになるだろう。そして、ある種のカジュアルセックスは「神の栄光を示すような慈愛の行為」でさえあるかもしれない。

\nocite{halwani06:_caual_sex}

\begin{thebibliography}{99}

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