若手哲学研究者による『すごい哲学』っていうすごい哲学入門書が出たのでみんな読んであげてください。
一部では「哲学与太話集」とか言われてるけど、そういうのはたいへんおもしろいのでみんな興味もってほしい。哲学者ってどんなこと考えているんだろうっていうのもわかるし、特に若い人々がどういうことに興味関心もっているのかもわかる。議論はいろいろつっこみ入れたくなるところがあると思うけど、そこが哲学のはじまりなので、ぜひそれぞれいろいろ勝手なつっこみ入れるのがよいと思う。「なるほどそうですか」っていうのではおもしろくないし、著者たちもそれは期待してないと思いますね。
大きく存在論、倫理学、美学、論理学、言語哲学みたいな感じの切り口が多いっぽい。認識論と呼ばれる分野がちょっと薄いかもしれない。私の興味近いやつだけとりあげます。他がおもしろくないっていうことではないです。
「サステナブルなファッションを選ぶにはどうしたらいいか?」
お洋服買ってしまうのは環境にやさしくないのでこれからの意識高い系としてはファッションもサステナブルなものを選びましょう、そのためには感性をサステナブルに、みたいな話。うーん、まずは衣類がどれくらい環境負荷があるのかっていうのがまず知りたい。特に他のいろんな我々の行動との比較の上で。それに我々にょって買われたお洋服が最後どうなるのか(ボロ布回収から段ボールなどに生まれかわる?)とか、買われなかったものがどうなるのかとか(アウトレットにいって、それでも売れなかったのは途上国に行く?それとも単に焼却されるだけ?)。
それにバングラデシュのラナプラザの事故みたいなのがはたして我々のファッションの問題なのかどうか……我々が洋服を着るためにバングラデシュの女性が働かされてそのために事故が起こったのだ、みたいなのは単純すぎると思いますね。
んで、「サステナブルなファッションを素敵だと思えるように自分の感性を変える」みたいな発想が私にはいまいちわからない。第一に、自分の「感性」(好み?)を自分の思うように変更することができるものだろうか。これは哲学的問いよね。第二に、感性を変更する必要があるのだろうか。倫理的な好みを美的な好みに優先するのではだめなのだろうか。
もちろん、よいものを見る目を養うことはよいことで、地味に見えるものもよく見たらよいことがわかるようになることはあるだろうけど、地味でもやっぱりよいものはよいのではないか……なんかこう、倫理的な行動のために美的感性まで変更してしまおう、みたいなのになると、どうも「文化大革命」みたいなのを連想しちゃうのですが、そこらへんまで広がりのある話だと思うのでがんばってほしいです。
「マッチングアプリで好みでない人のタイプを書くのは差別か」
これ、好みを書くのは差別じゃないだろうと思うんだけど、好みの(あるいは嫌いな) 人種 を書くのが差別かっていう話なのね。まあ人種とかあるかないかわからないものを直接募集要綱に書くんならなんか差別っぽいところがありますね。偏見ではないのか。
人種っていうものが存在するかどうかっていう問題もあるし、仮に人々の集団のあいだに生物学的な遺伝的要因の偏りみたいなのがあるとして、それを直接に欲求したり嫌悪したりするっていうのはずいぶん奇妙に思えるな。見た目の話なのか、あるいは民族とか文化とかの話なのか。
吉原真理先生の『ドット・コム・ラバーズ』って本があって、彼女の求めるデート相手の募集にはいろいろかなり細かい注文つけてるんですが、さすがに人種は入ってなかったような気がする。でもどういうわけかユダヤ系の人々が気にいった、みたいなことも書いてましたが、広告文にそれは書いてなかった気がするな。まあある種の文化的な好みを注文することは悪くなさそうですが、そういうのと人種というものすごくおおざっぱな人間の分類を結びつけるのはやはり偏見ぽいですわよね。「黒人文化に精通している人に興味があります」みたいなのはかまわんのではないか。っていうかむしろそうした好みの明確化は、マッチングサイトとかでおたがいのコストや摩擦を避ける上で重要なんじゃないかなあ。ルックスの好みもかまわんと思う。
まあこの枚数ではなにも論じられないだろうけど、人種の話をするのかそれ以外なのか、そういう区分けていどはしてみてほしかった気がする。あとで「イエローフィーバー」の話があってかぶってるところがある。
「スポーツとはなんだろうか?」
提案されるスポーツの定義の「非生産的」と「制度化」はおもしろい。「身体的動作を重視しない」っていうのはよくわからない。これはおそらく我々の日常的な「スポーツ」の定義とはずれているので、なんらかの目的のために(典型的にはe-sportsをスポーツにするため)、新しい定義を提案しているわけよね。 そこらへんの説明が必要ではないのかな。
このタイプの「〜なんだろうか」はやはり気になる人がいると思うので、もうすこし「定義」とか「本質」とかってものはどういうものであるか、という話をいれてほしかった感じはある。
「企業がリモートワークを導入しないことは悪いことなのか?」
うーん。そりゃある会社が社員に無駄なことをさせて苦しめるなら「悪い」会社だと思うんだけど、やっぱりよいとか悪いとかっていうときは程度の話もしてほしいし、リモートワークの効用や非効用の話抜きでは弱いと思う。
どうも若い哲学研究者人々は「悪い」という言葉を簡単に使う傾向があって、それはちょっと気になるのよねえ。やっぱり「改善を求めるべき不正だ」ぐらい強くやってほしい。われわれの日常生活は、そりゃ悪いところ見つけようと思ったらいくらでも見つけられるので、どの程度わるいのか、その改善の優先度はどれくらいか、もいっしょに論じてほしい。
「プラトンは経営コンサルタントを追放するか?」
これ、経営コンサルがなにしてるのかっていうのはこの本の読者はほとんど知らないだろうから、それ説明する必要があるのではないか。私もわからん。
「非難は何の役に立つのか?」
ミランダフリッカー先生によれば、非難はおたがいの理解をすりあわせて、共有された理解にあわせて行為を変えていくことです。まあよさげにも見えるけど理想的すぎるとも思う。情動主義に共感的な人は非難が他人を動かそうとするものだ、っていうのは当然同意するわけだけど。私はそっちがわなのでもちろん文句はない。ただ、実際のわれわれの生活のなかでの非難ってものの、やばさ、暗さみたいなのはもうすこし説明してみてほしいというか。これは「理想的には非難ってこうあってほしいですね」っていう話で、我々が実際にそうやって非難してますって話じゃない気がする。ミランダフリッカー先生の論文は気になるのであとで確認しよう(っていうか実はすでにゲットしたけど)。なんでフリッカー先生そんなに人気あるのかな、と思ってちょっと考えて答えの一部を発見した気がしたけど、ここには書けない。
「どこまで「自分のことは自分で決める」ことができるのか」
これは「自分で決めることができる」っていうのが、能力の話をしているのか、権限の話をしているのかはまずはっきりさせる必要があると思うんよね。スロート先生の論文の解釈も難しそうだ。まあ「我々は人間関係のなかでいろいろ影響うけながら決定しているのですよ」っていうのはその通りなわけで、それ否定するのはむずかしい。スロート先生の論文の解釈も難しそうだ。問題は、それと「自分のことは自分で決める」権限との関係よね。
「本当の愛には理由はいらないのか?」
『嵐が丘』からはじまってるのが教養。まあ恋愛と「愛する理由」の話は興味あるひとは多いだろうからがんばってほしい。「本当の/真実の」の方もつっこんでおいてほしかった。愛と理由の関係に言及した日本語文献はこれがはじめてかな?もっとある? → って書いたら、大澤真幸先生の『恋愛の不可能性について』がそうだってコメントもらったけど、たしかにそうだねえ。そうとは読めなかった、っていうかクリプキがどうのこうのって話していてなんの話かわからなかったけど。ははは。
そういやこの本はおもに英語圏の「最新」論文とかを紹介するってかたちだけど、できたらちょっとでもかすってる日本語文献があればあげてもらえたらよかったんじゃないかという気がする。でも少ないからねえ。
「小説を読むことで人はやさしくなれるのか?」
まあ問いは「道徳的になれるのか」っていうことだろうな。フィクションは道徳的に振る舞う理由をもたらしてくれますか、と。まあ「道徳的」の内実にもよるけど、経験的にはまったく偽なのではないかと思う。あげられる候補は(1)「他人の内面を推察したり共感能力を鍛えたりする訓練になります」。うーん。内面の推測にはやくだちそうだけど、共感の方はどうだろうか。まあときどき見る分類では、他人の立場になってその内的な思考や動機とかを理解する感情移入 empathyの方だろうけどね。でもそれってはたして文学読んで身につくもんなのかな。empathyの能力もたないとフィクションおもしろくない、とかはあるだろうけど。
実際に我々が楽しんでいるフィクション作品を見ると、別に登場人物の複雑な内面みたいなのあんまり関係ないやつがほとんどじゃないかと思うんだけどどうだろう。少なくとも現実にいる人間の内面とはずいぶんちがうのではないか。私がおかしいのか。「我々はフィクションから作者の心を推測します、それが訓練になるのです」。これもどうかなあ。まあ理想的なフィクション鑑賞の場合の話だろうか。まあこのカーリーさんのやつはずいぶんあやしげに見える。(だからこれから研究しましょうということなのはわかる)
「動物園で動物の美しさを鑑賞できるのか?」
まあ私は(あんまり調べてないけど)「動物園いくない!」派なので、動物園にいる動物なんて虐待されていて不健康で美しくなんかない派だけど……でも動物園の不正さは動物の美しさと関係あるかなあ。行動の美とかに関してはあるか。動物園の存在意義の一部である「動物の美しさを鑑賞できる」だけを削る感じの議論だね。ぜんぶ(というか大半を)削ってしまってほしい。
「ヘヴィ・メタルを「ヘヴィ」にしているのは何か?」
これ、SleepのDopesmoker聞いてみました。まああんまり好みではないけど、たしかに「ヘヴィ」だわね。名盤と言われてるらしいもわからんでもない。ラウドさ、ディストーション、パワーコードという候補が示されて、次に歌詞、楽曲構造(テンポ、ピッチ、くりかえしの手法)、みたいな順番になるけど、まあそりゃそうなるだろうというか。楽曲の「構造」と呼ばれているものについてはもうすこし分節化してつめてほしい感じがする。個別の特徴に還元できなくても十分特徴をしぼりこむことはできるんじゃないかな。
やっぱり楽曲が「ヘヴィだ」って言われるときは、テンポと質感(特にベース)とかの「重さ」が重要なんじゃないかなあ。Dopesmokerでも「こりゃヘビーだ」って感じられる瞬間はベースがヘビーでラウドに鳴ってると思う。ベース自体はあんまり歪ませない。むしろそうした低音やテンポの「ヘヴィ」っていう重さ・質量を感じる心理的な連想や比喩みたいなのがおもしろいね、とかそういう話になるんじゃないかな。テンポが簡単に変ったりするとヘビーじゃないです。巨大な質量による慣性みたいなのがないと。やっぱツェッペリンが誰かから「ヘヴィーメタル!」って言われたときにはそれなりの理由があると思うんよね。ボンゾのドラムは実は聴覚的なテンポのハーフテンポだったりするから。
「ヘヴィな音楽」というときに、唯一の特徴や本質はとりだせない、っていう話をしたいんだろうけど、まあ家族的類似性とかの話もしたいですね。
「性的でないものをなぜ「ポルノ」と呼ぶのか?」
手軽・手抜きで楽しんだり、見せかけで人々を刺激したりするからポルノです、みたいな。こういうのはまあ哲学者がやるらしい議論でいいですね。ふつうの人々がなにげなく使たりしているものに共通点を見出したりする。
「表現の自由はなぜ重要なのか?」
これはなんか正統派哲学・倫理学・政治哲学。私はミルの議論を「言論の自由市場」につめちゃうのはあんまり賛成できないけど、「表現してみないと自分でもわかってないことあるんですよ」論は好きなのでよい。
「着物文化の担い手は誰か?」
文化盗用 Caltural Appropriationのっappropriationを「私物化」と訳ししょう、みたいな話がある。ここはもうすこし説明してもよかったかなあ。「横取り」もいいかもしれないけど、知的生産物や文化は、リンゴや車みたいに横取りとかできません、みたいな話もあってもよかったかもしれない。紹介されているヤング先生というひとは「文化私物化はあんまり問題ないこと多いですよ」派。
そう、いろいろ倫理的に問題がありそうなのテーマについては、「問題あります」「悪さがあります!」ってやる方が簡単というか、それはそうなので哲学研究者は「〜は悪いと思いまーす!」ってやつに「それほどじゃないんじゃね?」ってやるのも哲学者としては大事だと思うのよね。
「不良が更生したことを称賛してはいけないのか」
長門先生のライフワークといえるこの問題なんだけど、なんかタイトルがおかしい気がする。称賛してはいけないのかっていわれたら称賛する人がいてもいいんじゃないかと思う。「〜してはいけないのか」のかたちの問いはなんかよくない場合が多いという印象。「人をころしてはいけないか」。なんてのかな、「いけない」がいけない。「〜するべきか/しないべきか」とか「〜するのはおかしいか」とかそういうのだったらいいんだけど。両津巡査の名前出した方がよかったのではないか。
この「〜してはいけないのか」っていうのは、だいたいの印象としては「なぜわれわれの社会ではそういうルールになっているのか」っていう問いとして理解されると思うので、そういう問いじゃない場合は別の表現をつかうべきだと思う。「〜してはいけないのか」っていう問いのかたちがなんか外的な権威を想定しているように見えるんよね。必ずしもそうではないのだろうけど。
まあ私自身があんまり更生した不良や帰ってきた放蕩息子が最初からまじめな生活している人より偉いとは思えないのでよくわからない問いでもある。しかしまあ悪の道から正道に戻るのはそれ自体はよいことなのでほめてもいいのではないか。禁煙したヘビースモーカーや禁酒している飲兵衛を褒めるべきか、という話だったら、まあほめててあげれば励みにもなるだろう。
そのうしろで先生が想定しているらしい「美徳カンストの人」みたいな概念は私はほとんど考えたことがなくて、美徳っていろいろあるパラメーターのそれぞれとして見るクセがあるのでよくわからないところがある。
フィリッパ・フットが言う(らしい)「いつもはもってないけどたまたま発揮する美徳」みたいなのもわからず、それ最初から潜在的にもってるのを現実化したんでしょ、とか言いたくなるところがあるんだど、美徳と徳倫理学のバージョンはむずかしねえ。まあこれはもっと長い論説で考えてること読んでみたいな。偉い最新哲学者の先生たちは無視してかまわんと思う。
「レアグッズの転売は道徳的に問題なのか」
これはこの分量では論じるの無理だろうな。サンデルの説明が足りないので「公共心が失なわれる危険があります!」みたいなお説教みたいなのになってしまっている。女子向けアイドルのチケット転売みたいなのも、あれはよく見るとファンどうしのあいだでの財の交換みたいになってる可能性があって、たまたま抽選でよいチケットをゲットした人がそれを*安い*チケット+差額と交換することで旅費を捻出して、お金のあるファンからお金のないファンに再分配されている、みたいな可能性があるんじゃないだろうか。よく知らんけど。「お金を使っているファンはそうでないファンより偉いか」問題はまた独立に論じてほしい。
「施設の建設反対はわがままな考えから生じるのか」
NIMBYが不道徳というより、集合的になると不合理な結果に陥る、という難点はもっと強調してほしい。これは奥田太郎先生が詳しいはずだから対論でもしてほしいな。
「好きなスポーツ選手が不正行為をしたらファンをやめるべきか」
これはおもしろいネタだと怖もう。「友だちが不正行為をしたら友だちをやめるべきか」との関係でも論じてほしい。私は好きなアーティストが鬼畜でもファンはやめない派(R. Kellyさんとか)。発展待ち。
「差別的な冗談を面白いと感じるのは悪いことなのか」
これも「悪い」が気になる。「悪い」「悪さ」撲滅したい。
冗談の一部が道徳的に問題があるのはその通り、というよりむしろ道徳的に問題があるからおもしろいことも多いように思う。スマッツさんのはちょっと行儀がよすぎると思う。ていうか、ここらへんの道徳的に清い感じの道徳に関する議論は私はやっぱり気になるのよね。もちろんそれが道徳的に悪いとか不正だとかっていうことはできないんだけど、人間とか生活とかってそういうもんじゃないでしょ?とか言いたくなる。哲学なんだからもうすこし斜にかまえてほしい、みたいな。というか人々がいやがるようなことを言うのも哲学者の仕事(もうひとつは人々が驚くようなことを言うこと)ていうか、他人を道徳的に非難するのは簡単なんだわよ。自分を非難するのはそれより難しいけどやはり簡単で、それだけではやはりちょっと足らん気がするのよねえ。哲学は人間や人生のだめさっていうものを誰も反論できない形で見せつけて、可能ならさらに「それでもなお!」みたいに勇気づけてくれるといいなあ。我々はくだらない岩をもちあげてるシジフォスだけど、それでもなお岩をもちあげて哄笑することが人生だ。簡単に「道徳的に悪い」とか「悪さ」とか言われてるときに、その「悪い」の指令性が失なわれているというか。理由の内在的動機づけの力がないというか。
「「アジア系フェチ」に何の問題があるのか」
ハルワニvsゼン先生。ハルワニ先生はソーブル先生の影響でぶちゃけた話をするので好きなのよね。私にとってはソーブル先生こそ哲学者だな。ハルワニ先生にとっては「グル」だっけか。「一時期少なからぬ日本人男性が白人パツキン女性を好んでいたことには問題があるだろうか」とかも考えたい。ロシア/ウクライナ/ルーマニア系も人気があったねえ。メーテル……ゼン先生みたいな「なんとかにおける社会的影響」みたいなのに訴えかける議論は、哲学者としてはあんまり簡単にのっからないでよく考えてほしいと思う。
「悪口はどうして悪いのか」
これは何回も書きますが、「悪口」ってどういうものなのか中心的事例だけでも紹介してから議論はじめてほしい。抽象的な「悪口」とかっていうのは私はわからんです。「悪口が他人を劣位におく」ことだとして、なぜそれが悪いことなのか、どの程度悪いことなのかまで述べてほしい。そんなに悪くないのではないか。「悪さ」の話をするときは、プロタントとかセテリスパリブスとか、あそこらにまつわる話もいれてほしい。
私が若い先生たちの「悪い」や「悪さ」についてひっかかってるのがわかりにくいと思うんだけど、つまり「悪い」とかって書いてるけど、君ほんとにそれ悪いと思ってる? それ本気でやるべきじゃないって思って、実際にそれを避ける(強い)動機もってる? 他の理由によって却下される程度の「悪さ」しか感じてないんちゃう? あるいはどうでもいいけど、なんとなく「悪い」って言いたいだけなの?「本気ですごく悪いことで、やっちゃったら一晩布団のなかで悶々としてしまうほど悪いって思ってる? それほどじゃなかなったらどれくらい悪いと思ってるの?みたいなのを考えてしまう。他の条件が同じならそれがない方がいいとか、そういう「悪さ」というのはたしかにあるんだけど、それ言うのはいろんなことがらについてものすごく簡単だと思う。もちろんそのそれ自体としての「悪さ」がどっから来るのか、その理由はなにか、というのはそれ自体は重要な問いではあるんだけど。
たとえば悪口の例をとりあげれば、悪口が他人やその言動の欠点を批判や非難することである場合には、そうした批判や非難にはそれ自体の効用もあることがほとんどなので、単に「批判はよくありません」っていうのはそれ自体としては正しくてもあんまり意味がないと思うのよね。お洋服買いまくるのもなんらかの環境負荷があって悪いことかもしれんけど、それだけじゃお話になってない。やはりどの程度悪いのか、なにを犠牲にしなければならないほど不正であるのか、まで論じてほしい。
「ガンになりやすい遺伝子を着床前診断で選別してもよいか」
これはこの本でこの問いの形になるのはしょうがないと思うけど、むしろサバレスシュ先生の主張どおり「選別するべきか」と強くやってほしかった。あれ、実質的な議論がない……
ちなみにこのネタは私も大昔に書いてます。伊勢田哲治・樫則章編『生命倫理学と功利主義』の「遺伝子操作」。あれ、論評ついてた。もうネットに放流したいんだけど、許されないだろうなあ。サバレスキュの「最善の子どもをつくる義務」についてはそのあと手を出して論文もどきのかたちにもしてないんだった。回収せねば。
「カンニングはどうして悪いのか」
まあテストというゲーム(あるいは「スポーツ」?)でのチートだから、ってんで終りじゃないのかなあ。
記事の長さはまちまちで書き方もまちまちで、全体にはもうすこし分量とって、文献の紹介だけでなくそれぞれの筆者が自分の好きなことをエッセイとして書いてもらってもよかったかとは思いますが、最初の試みとしてはとても成功していると思う。続編も期待します。
下の本もこうしたちまちました話をいろいろやっているのでおすすめです。哲学はちまちました話からはじめるのが正しい。
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コメント
「愛と理由」についての日本語文献としては、これがそうだったと思います。
https://researchmap.jp/hohata/published_papers/35865002
ああそうですね。大畑さんのやつ読んでるのにうっかりしてました。ありがとうございます。