パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である

 

まえのエントリに続いて、瀬川先生の「人格」に関する論文はもう一本「人格であることと自律的人格であることを区別することの意義」というのがあり、これも気になるところがあるので最初の方だけコメントしておきたいと思います。

問題設定

というのも胎児がすでに人格と見なされるのであれば、胎児には私たち成人と同等の道徳的地位が認められ、それゆえ中絶は定言的に容認不可能となるからである。あるいは反対に、胎児がまだ人格と見なされないのであれば、胎児にはいかなる道徳的地位も認められないがゆえに、中絶は定言的に容認可能となる。(p.33)

これは不用意な書き方だと思う。胎児がすでに人格だとして、そこから成人と同等の道徳的地位が認められるとは限らないし、また中絶が「定言的に容認不可能」になるともかぎらない。死刑囚は人格(人)であるが我々と同じ法的地位が認められないように、胎児が人格だとしてもそこから直接に成人と同じ道徳的地位を持つとはいえない。また、胎児が人であるとしても、母体の生命が危険にさらされているなら中絶が容認されることもありえる。とにかく、こうした論理的関係はどういう前提にもとづいているのかはっきり書いてもらう必要がある。

本稿ではこうした議論を背景に、人格であることは同時に自律的人格を意味するのかという問いに取り組む。もしこの時点ですでに本稿の問いに違和感を覚える人がいれば、その人は場合によっては「人格とは自律的である」ということを出発点に据えているのかもしれない。

「人格とは自律的である」という表現には、日本語としてかなり違和感がある。「ある存在者が人格であるということは、その存在者は自律的であるということを意味する」ということだろうか。

しかしながらこうした人格概念理解は、二つの点で問題がある。第一に、この理解では人格の下したあらゆる決定が自律的と見なされることになり、こうした帰結はとりわけ終末期における死のあり方をめぐる議論を念頭に置いた場合、受け入れ難い。というのも、医師による自殺幇助や要求に基づいて殺すことの容認派の論拠である自律の尊重原理に従えば、もし私が人格であるだけではなく、同時につねに自律的人格であるならば、私が不自然なほど唐突に要求に基づいて殺すことという死のあり方を望んだとしても、その決定は道徳的に容認されることになってしまうからである。

「人格(人)は自律的である」ということがどういうことなのか説明されていないので理解できない。人間の成人は多くの場合自律的であるとみされるが、これはその人が、(いろんなことがらについて)あるていど十分な判断能力があり、また自分の判断にしたがって行為できる、ということを指しているはずだ。

しかし、こういう意味で人間あるいは人が自律的だからといって、「あらゆる決定が自律的である」とみなさねばならないわけではない。私が寝ぼけてるとき、あるいは酒に酔っ払ってるとき、あるいはなんか嫌なことがあってイライラしているときに下した判断は必ずしも十分理性的でもなければ自律的でもない場合がある。「常に自律的」であるような人物など現実には存在しないだろう。それなのに、「人格を自律的だと考えると、常に当人が望む死や自殺幇助を受け入れるべきだ」と考えるのはあまりにも馬鹿げている。

シンガーの議論

認められるのかである。第一の問いに対してシンガーは、ある存在が生物学的に人間という種に属するという理由から、その存在の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできないと断言する。そうした人間的存在とは、例えば胎児などが該当する。

非常にこまかい話だけど、この表現はすこしよくない。できれば「ある存在者が生物学的にホモサピエンスという種に属するという理由だけでは、その存在者の生命に他の生命よりも高い価値を与えることはできない」の方がよい。(1) こういう文脈では、「存在」よりは「存在者」の方がはっきりしている。「生命個体」みたいなのでもいいかもしれない。(2) 「人間」huma beingsがホモサピエンスという種のメンバーだけを指すのか、そうでないのかが明白でない。(3) 「Aという理由からBできない」というタイプの表現は(慣れない読者には)誤読の可能性がある。「AだからBできないのだな」と呼んでしまう人がいる。「「AだからB」というわけにはいきませんよ」というのをはっきり示したい。

シンガーから見ると、人間という生物学的事実に依拠して人間に高い価値を与えるのは、種差別主義にほかならないのである。

これもOKではあるが、誤解を招きやすい。人間であるという生物学的事実が、なんらかの種類の規範的な判断にむすびつくならば、人間に高い道徳的地位を与えることには問題がない。たとえば、人間は高度な判断力をもっているという事実と、高度な判断力をもつ存在者はそうでない存在者とは違った特別な道徳的地位をもつという規範的判断が存在すれば、「人間であるという生物学的事実に依拠して」人間に特別な道徳的地位を与えることは問題がない。誤解のないように表現するとすれば、「その存在者がホモサピエンス個体であるという単なる生物学的事実だけに依拠して特別な道徳的地位を与えるのは〜」のような形になる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。

まあこれはこれでOK。人間の多くは(まずまず)自律的であり、その意味で人格であると呼ばれる。

シンガーは、人格を自律的と理解していると言える。しかしここでの問題は、「人格は自律的である」という言明から、すべての人格が自律的であるという命題を導き出すことができないということである。なぜなら、特殊から普遍を導くのは誤謬推理だからである。

これはそのとおり。しかし表現がわるい。「ある人格(人)が自律的である」から「すべての人格が自律的である」はいえない、と表現してほしい。

「自律」が意味するのは、選択し自分で決断をなし、それにしがたって行為する能力である。理性的で自己意識を持った存在〔人格〕は、 おそらく (presumably) この能力を持っている。
〔〕ならびに傍点は引用者による。

(江口が傍点を下線にした。原文は ‘Autonomy’ here refers to the capacity to choose and to act on one’s own decisions. Rational and self-aware beings presumably have this capacity,……. (Singer. Practical Ethics (p.84))

……注目すべきは、引用にある「おそらく」という副詞である。特定の人間が人格であり、自律的であるという見解は、広く共有されている。例えばそうした人間的存在者としては、シンガー自身が該当するだろう。シンガーがこうした明白な事例を念頭においていたならば、彼は「おそらく」という副詞を用いなかったはずである。しかしよく知られているように、シンガーはチンパンジーをも人格と理解している。そうであるからこそ、彼は「おそらく」という副詞を使用せざるを得ないのである。なぜなら、チンパンジーを人格と見なすという見解が受け入れ可能であったとしても、同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。

いきなりチンパンジーがでてきたので驚いた。このpresumablyがなぜ必要なのかというのは別の説明がある。

presumeというのは、はっきりと真であるとはまだわかっていないけど、だいたい真であると推定する、ぐらいの意味。presumptionとかっていうのは推定、想定ですわね。十分な証拠はないかもしれないけど、とりあえずそうだということにしておこう、ぐらい。たとえば、結婚しているときに子どもができたら、それは結婚している男性の子どもだと推定しておこう、ぐらい。合理的で自己意識をもっている存在者は、必ずそうだとはいえないかもしれないし、場合によってはそうない場合もあるかもしれないけど、だいたい自分で決定し、その決定にしたがって行為する能力をもっていると想定しましょう、ということだ。チンパンジーは必要ない。

まあもちろんチンパンジーも、少なくとも3歳児程度には、十分合理的で自己意識をもち、自分で決定しそれにもとづいて行為する能力をもっているかもしれないけど、それはここでは関係ない。

同時にチンパンジーを自律的と見なせるかどうかには疑問の余地があるからである。引用文にある人格という用語から特定の人格(チンパンジー)を除外させることなく、かつ日常的直観との乖離を無視することもできなかったがゆえに、シンガーは「おそらく」という副詞を付加したと考えられる。すなわち、シンガーは自律的であり、チンパンジーもおそらく自律的なのである。このことから帰結するのは、シンガーがあらゆる人格を自律的人格と理解しているということである。

瀬川先生は「シンガーはチンパンジーをひいきしたいがために「おそらく」といれたのだ、みたいな読みをしたいのかもしれないけど、優秀な哲学の議論はそういうふうにはなってない。へんな意図や陰謀みたいなものを想定しそうになってしまったら、まずはまわりの人と議論してみるのがよいだろうと思うのです。

そして最後のシンガーが「あらゆる人格を自律的人格と理解している」も理解できない、おそらくまちがっている。我々は人格と呼ばれるけど、一時的に合理的でなかったり自己意識をもっていなかったり、まともな判断ができなかったり自律的でなかったりする場合はよくある。そんな当たり前のことをふつうの哲学者がわからないはずがないじゃないですか。もっとふつうに議論しましょうよ。

あと、この論文も翻訳あるものはちゃんと文献リストにあげてほしい。シンガーの『実践の倫理』の第3版は翻訳ないけど、第2版のならあるし、該当箇所は同じなので一応言及してあげてほしい。剽窃とかそういう問題ではなく、読者へのサービスとして。もちろんそういうのは手間かかることだからいつもいつもできるわけじゃないけど、もっと翻訳してくれた人に感謝示すような文化つくりましょうよ。

 


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