『悪い言語哲学入門』メモ (4) 悪口を称えて、あるいは悪口の効用

前のエントリーは攻撃的になってしまって反省しています。

どうも読んでると「ヘイトスピーチはまったく価値がない言論、あるいはそもそも言論ではないのでとりしまれ」みたいな乱暴な議論に見えてしまって、自由ってのをほんとに大事にしたいと思ってるもんだから筆が荒くなってしまいました。反省しております。

おそらく先生は「ヘイトスピーチ」というので、ほんとうに粗野でルールもなにもないような、噂によれば在特会とやらがデモのあとにおこなっていたという「お散歩」行動、デモを解散すると見せかけてそのまま付近の街の人々にからみに行く、といったふるまいを中心に考えているのかもしれず、まあそういうのはほんとうに害悪なのでなんらかの形で規制してかまわんと私も思います。でも世間で「ヘイトスピーチ」と呼ばれるものはそういうのばかりではないし、書籍その他の形ととったもっと直接的な危害の小さいものもある。そういうのも考えてほしいと思うわけです。

好意的に読めば、先生は悪口が人間関係のなかでもっている意味、特に地位争い、っていう面に注目しているわけで、これはこれで十分意味のあることだと思います。どんな悪口にもダークな面があるし、ダークの面の方が強い。これは認めたいですね。

そして人種その他の憎悪を煽る言論はたいへん危険なのも同意します。でもその危険を回避する方法は、どんどん言論を規制することではないでしょうね。

同時にヘイトスピーチには至らない日常的な悪口、私の言う意味では他人についてネガティブなことを述べたりすることには効用もたくさんあると思うわけです。まずそもそも地位争い自体は必ずしも悪いことではないかもしれない。人間は集団で生きる動物なので、どうしても集団でいるとその地位を争っちゃいますわね。

でもそうした争いを悪いものだと言えるのは、集団のなかで上の方にいる人だけで、下の方にいる人はいろんな仕方で上にのぼらねばならない。そのとき、いろんな悪口は、上の人をひきずりおろし平等化する力があるかもしれない。

だいたいそもそも、悪口を言ったりすることで地位が変化する関係というのは、地位が対等に近い争いが可能な関係で、どっちかが一方的に強かったり権力をもってたりすれば、強い方が弱い方の悪口など言う必要はないし、弱い方は強い方の悪口言っても強い方はびくともしませんよね。それにやっつけられるかもしれないから陰口ぐらいしかできない。

他の人々、あるいは自分の属している集団内での不正や間違いを指摘するのも最初は悪口や陰口からはじめないとならないということもあると思います。「あれっておかしいんじゃね」と少しずつ意見交換することから、大きな間違いや不正を見つけることもあるでしょう。和泉先生自身が、国王を批判したり風刺したりする国民、という話で悪口のそうした面を評価しているように思います。

それにまた、ある種の悪口が得意な人々、あるいはなんでも悪口でしか表現できないような人だからこそ発見できる不正や間違いというのもあるかもしれない。実際ネガティブな悪口気質の人間しか見えないことってけっこうありそうですよね。

そういうんでいくと、「悪口はたいてい悪い」とか簡単にいわずに、いつも悪口の効用と不効用を天秤にかけながら考えていきたいものです。

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