それでは、バトラーはいったい誰に向って語っているのだろうか。彼女は若いフェミニスト理論家たちにむかって話しているように見えるかもしれない—そのフェミニスト理論家たちというのは、アルチュセールやフロイトやクリプキが本当はなにを言ったのかをちゃんと気にかける哲学の学生でもなければ、問題の本性について情報を必要としており、また自分の価値についてはっきりとしたことを知りたいアウトサイダーたちでもない。ここからすると、読者たちは驚くほど御しやすいと想像されているのだ。バトラーのテキストの預言者的な声にお追従をし、高度な概念の抽象性の緑青に目をくらまされて、想像上の読者たちは質問もせず、議論を要求もせず、言葉の定義も要求しないのである。(Martha Nussbaum, “The Professor of Parody”, The New Republic, Feb 22, 1999. Vol 220 Iss. 8.)
バトラーに関しては、私も同意見だな。そういやドゥルシラ・コーネルという人もいた。彼女も非常に曖昧でカントとラカンだのといった有名人を使ってほとんど意味を把握できないようなことを言っていると思う。日本でバトラーやコーネルをもちあげている人びとは、いったいどういう理解をしているのだろうか。多くの場合、そういう人びとは政治哲学や法哲学や文学の専門家で、バトラーやコーネルを「哲学者」と見ているような気がする。正統の哲学の人びとは彼女たちを哲学者とは認めないだろう。
そういや私はマッキンノンも曖昧で嫌いなのだが、ヌスバウムはそれなりに評価しているようだ。まあマッキノンはバトラーのように有名人たちの名前だけ借りてくるようなことはないからな。マッキノンの議論の迫力と実効性は認めざるを得ない。
Views: 231