八重樫徹先生の「猥褻」論(3) 「悪い」「悪さ」は少し避けてみたらどうでしょう、あるいは単なるグチ

八重樫先生の「性表現の哲学入門」の第2回は、「猥褻」を性的興奮と性的羞恥心によって定義した上で、その「道徳的悪さ」を検討するというかたちになってます。

まあ「猥褻」をそういうふうに定義するというのが、八重樫先生がそう定義したいというのならば文句を言うつもりはないです。でも今度は「道徳的に悪い」というのが気になる。

前にも書いたんですが、これは批判やコメントというよりは、グチに近くなってしまうんですが、この「悪さ」っていう表現は、ここ5年ぐらいで日本の若手哲学者まわりで突然よく見るようになった表現じゃないかと思うんですよ。もちろん言いたいことはわかりすのでそれはそれでいいんですが、私はもっと適切な表現があるんじゃないかと思って心配してます。

私が気になるのは、たとえばある表現が「道徳的に悪い」と言う場合に、その「悪い」というのはなにと比較して悪いのかとか、あるいはどんな基準に照らして「悪い」のか、っていうのが曖昧になってるんじゃないかということです。そりゃ「悪い」というのはもっとも広い否定的な表現なので使いやすいですが、そんなにぼんやりした表現つかってすますのってなんか怠惰じゃないですか?

たとえば男女の性器を直接に描いたマンガを「道徳的に悪い」って言いたいひとはいるかもしれない。でもここで「悪い」の解釈はいくつかに分かれる。

  1. 性器を直接に描かないマンガと比較した場合に、直接に描いたマンガは道徳的に悪い
  2. 性器を直接的に描いたマンガは、道徳的に非難されるほど悪い
  3. 性器を直接的に描いたマンガは、2.の意味で道徳的に悪く、さらにそれは社会的に非難され規制されるべきで、場合によっては法的に規制されるほど悪い

そもそも「悪い」とか「悪さ」とか書く人々が、「悪い」という語をどういうふうに使っているかもよくわからないんですよね。私はオールドウェーブの勉強したまんまなので、基本的に「よい」とか「悪い」とかっていうのは価値判断であり、なにかを選択する際には「悪い」ものより「よい」ものを おすすめする とか、あるいは「道徳的に悪い」であれば「非難に価すると 私は考えている 」だとかそういうふうに理解してるんですが、「悪さ」「道徳的な悪さ」とかっていう言葉を使うひとびとが、そこらへんがはっきりしているのかどうかよくわからないのです。

「道徳的な悪さ」とかよりももっとはっきりした言葉は他にあって、たとえば、「社会的な非難に値する」≒「みんなで悪口を言うべきだ、場合によっては縁を切るべきだ」とか「法的な制裁に値する」≒ 法的な罰を与えるべきだ、とか、「そうでないものにくらべたら推奨できない」とか、いろいろあると思うんですよ。

すくなくとも、「道徳的に悪い」「道徳的な悪さ」っていう言葉をつかうときは、それが集団的な非難や社会的な規制に値するほど「悪い」のかどうかぐらいははっきりさせてほしいのです。つまり、「道徳的に悪い」「道徳的な悪さがある」みたいなぼんやりした話してないで、どの程度悪いと思ってるのかはっきりさせてほしいのです。

「悪い」にくらべて、「道徳的に不正」っていう言葉を使えば、だいたいそれは社会的に非難され禁じられるべきだ、っていうのがはっきりすると思います。「道徳的に望ましくない」「道徳的に問題がある」だったら、まあ非難されるかどうかはわからんけどできれば避けてほしい、ぐらい。「道徳的懸念がある」だったら「それするならいろいろ考えろよ」。「悪い」「悪さ」なんてぼんやりした表現つかってないで、そういう表現つかいませんか?

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