『悪い言語哲学入門』メモ (3) ヘイトスピーチはスピーチではない?

前のエントリの「ランク下げ」の問題はうまく書けなかった。でもいとりあえず最後の大きな問題のヘイトスピーチに。

和泉先生のヘイトスピーチの定義は第7章の最初に出てくるのでわりと安心です。

「ヘイトスピーチとは、人種や民族、性別や宗教といった属性にもとづいて、個人や集団をおとしめ、攻撃する表現です。」(p.196)

でもやっぱり実際の例が少なくて、どれくらいものまでがヘイトスピーチとされるのかはよくわからない。スピーチの内容的なものもわからないし、デモみたいなので罵詈雑言を叫んで歩くようなものは当然考えているとして、Youtubeで人種差別的な発言したり、ツイッターに書いたり、書籍に書いて出版したりすることまでもヘイトスピーチと考えているのかも(故意に?)曖昧にされていると思う。

とにかくヘイトスピーチに関しても和泉先生はかなりオリジナルで、ヘイトスピーチも(アスカの罵倒と同様に)ランクづけであり、それゆえに悪い、っていうことらしいです。

この章でちょっと奇妙なのが、「ヘイトスピーチ」という用語を分析するという作業をおこなっているのですが、そのときに、「ヘイト」と「スピーチ」に分けてそれぞれの意味をはっきりさせようとしている。これ、私ははたして必要な作業なのかどうかよくわからないです。べつに英語の「hate」と「speech」の意味を明らかにしたところで、それを組み合わせたものが現在使われている「hate speech」の観念・概念にぴったり合致するものかどうかわからないし、日本語の「スピーチ」を分析しても(実際している)なおさらわからないことになりそうだからです。しかしちょっとだけコメント。

怒りと憎しみ

私自身は「ヘイトスピーチ」という英語(特にアメリカ産だと思います)は、人間集団に対する(あるいは集団間の)憎しみを表現するとともに憎しみと暴力を煽り立てるような言論だと思っています。和泉先生も、憎しみ・ヘイトは「怒り」とはちがうものだ、っていうのを強調したいようです。これはそれでOKだと思います。憎しみを表現するのは別に罵声や罵倒による必要はない、そういうことを言いたいんだと思います。

ただ、ここでアリストテレス先生の『弁論術』から「怒り」と「憎しみ」の区別をもってきてますが、私これあんまりよくないと思います。もちろんアリストテレス先生の分類は 参考 にはなりますが、古代ギリシア語の怒りや憎しみに対応するものと現在の英語の anger や hate、そして日本語の怒りや憎しみがきれいに対応しているわけじゃないでしょうから、参考程度にしかならない。それにちょっと不正確かもしれないです。私がまとめるとこうかな。

 怒り憎しみ
原因・理由自分への仕打ち(損害、軽蔑等)自分への仕打ち+ その他(人柄等)
相手個人に対する個人 or 集団(類)
時間の経過時間がたつと薄れるずっと薄れない
ゴール相手の苦痛不幸と滅亡
主体の苦痛現に苦痛を感じている苦痛を感じていないことがある
あわれみへの変化状況がかわると相手を憐むことがある憐れまない(むしろ完全な滅亡を願う)

憎しみは集団に対する場合も個人に対する場合もある。怒りは相手を痛めつけたいという欲求で、実際痛めつけて復讐できたら憐れみをかけたくなったりするけど、憎しみは相手を消し去ろうとするのでそういうのはない、とか。まあ憎しみの方がおそろしいですね。でもこれ、アリストテレス先生の時代のアリストテレス先生の世界の言葉での分類で、われわれがこの区別を信じる必要はないと思います。

「スピーチ」をめぐる論証

和泉先生の論述の問題は、「スピーチ」の方です。ここはとても問題が多い。

日本語のスピーチ(パーティーの挨拶など)は構成が必要だとか事実を伝えるとかそういう条件が必要なはずだ、ところが、先生は次のように言う。

ヘイトスピーチがスピーチの内的条件を満たさないケースも数多くあると思われます。典型的なヘイトスピーチでは「出ていけ」などの命令文、「〜しよう」といった意志、「〜するよ」「〜するぞ」といった終助詞で終る形、そして差別表現や卑語の単独の使用が多いからです。……誰かを恫喝し、脅迫することは、スピーチではないのです。(p.207)

しかしこれ、日本語の挨拶なんかの「スピーチ」の話ですよね。ヘイトスピーチに含まれる英語の「スピーチ」とはまったく関係がない。意図的に論点をそらしているように思います。先生はすぐうしろで次のように述べます。

もちろん、「スピーチ」は英語の”speech”であり、いわゆる「言論の自由」”freedom of speech” の “speech”は、借用語としての「スピーチ」より幅広い言語活動に当てはまるように思われます。しかし、「おお、くやしいんか?くやしいんか?なんか言ってみい?」などと大声で市民にからみに行くことが、それが何であれ、擁護に値する「言論」や”speech”に当てはまるようには思えません。(p.208)

これはいったいどういう論証をしているのでしょうか?まず、それまでに日本語の「スピーチ」の話はまったく関係のない論点そらし、「レッドヘリング」です。論証にはなにも関係がない。

そして「おおくやしいんか」などと「大声で 市民にからみに行く 」のはこれは単にいやがらせであり、スピーチではあるが、「保護に値するスピーチ」ではないでしょう。「言論の自由」というのはそんな関係のない一般市民に大声でからみに行くようなことを保護するものではないです。だから、和泉先生は自明なことを言っている。しかし、読者は、前の節からの続きで、あたかも「ヘイトスピーチ」と呼ばれるものは、すべて「スピーチ」の名に値しないものだという印象をもってしまうのではないかと思います。そういうことを本当に意図していませんか?私はここらへんの記述にうたがいを感じてしまいます。

次も問題がある。

哲学者のJ・S・ミルによる有名な言論の自由擁護の論証では、真か偽となる「意見」(opinion)を提示する自由が擁護されます。そして、「ほーらくやしいやろ〜おらぁ!!」などといった発言が、真偽の問える意見ではないことは明らかです。真理条件を持たない言語表現が多数存在することを、私たちはすでに第3章で確認しています。自然言語を用いているからといって、それが主張行為や意見の提示であるかは分かりません。私たちは、意見の提示ではない加害行為を、言論とみなして擁護する必要はないのです。(p.208)

まず、ミルが擁護している「意見」はかならずしも真か偽となるものかどうかは(まさに言語哲学的な立場から)意見がわかれるはずです。「コロナ対策のために税金を増やせ!」や「死刑を廃止するべきだ」のような意見(これはあきらかに意見)は、「1と2を足すと3になる」のような命題と同じように「真か偽となる」と言えるだろうか?私は言えない派です(もちろん言える派がいることも理解しています)。

さざまな命令や規範的主張や価値判断について真偽が言えるかは別にして、われわれの言論、スピーチというものは、スローガン、命令、絵画、音楽、演劇などさまざまな形をとるものであって、それらが真偽が言えるわけでもない。また全体としてひとつの言論を構成するようなもの一部に、さまざまな命令や感嘆のような真偽が言えないものが含まれるのも当然ではないですか。

そりゃ、重大な「加害行為」を、常に 保護すべき 言論とみなして保護する必要はない。加害は加害であり、被害は被害であり、言論のようなものが明白な危害をもたらすなら規制しなければならない。ミルだってそんなことは認めています。でもだからといってそれが言論でないものになるわけではない。 われわれが言論を規制しようとするときに必要なのは、その危害がしっかりした危害であることを立証するだけのことです。

この節の最後に和泉先生は次のように言います。

いずれにせよ、「ヘイトスピーチ」と呼ばれる数多くの活動は、そのに含まれる言語の特徴上、「言論」でも「スピーチ」でもない場合が多いだろう、というのがここでの主な指摘です。(p.209)

ヘイトスピーチの具体例もあげずに、言論でもスピーチでもない場合が多い、とはよく言えるものだと思います。そもそも、和泉先生は自分では「言論」や「スピーチ」の特徴づけもしてないではないですか。そしてそれに「ヘイトスピーチ」があてはまらないという論証もしていない。言語哲学者がいったいなにをしているのですか。私はこういう議論は認められません。

私自身はヘイトスピーチが悪いものであるのは、それが人々のあいだの偏見と憎悪を助長し、それによって差別や暴力を扇動するからだ、っていう立場に立ちたいと思っています。そうした言論を規制しなければならないこともあるでしょう。しかしそれは、こんな「言語哲学」についての安易な論証によるものであってはならないと思います。

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