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妊娠中絶は10代女子の問題ではありません

「10代女子が1日40人中絶する現実にも、アフターピルが広まらない理由」っていう記事がちょっと話題になってたんですが、この手の話が十代女子の問題であるとか、それが「男性優位社会」の問題だってっていうように誤解されちゃうかもしれないのでちょっとだけコメントしておきたいと思います。

中絶関係の授業をするときはかならずこのグラフ見せるようにしているんですわ。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/16/ ここのデータ使って平成28年度の妊娠中絶の実施の年代別。

妊娠中絶実施における女性の年代、平成28年、厚労省統計より

実は平成20年もたいしてかわらない。

とはいえ、実際には人口比を見ないとならんので、それはもちろんさっきの厚労省出してます。平成28年の。

あとなぜピルが普及しないのか、という問題はこれは統計では出てこないわけで、これからの女性学とか医療社会学とかそういうのの課題ですよね。

古い本だけどこの本は基本書です。

あと相澤先生が短い文章を書いてるこれもチェックしてください。それに対する私のコメントはこちら

 

ファインバーグは重要だった (3)

前のエントリなんですが、ちょっと解説しておきます。

「パーソン論は新生児や障害者殺してもかまわんとする邪悪な思想だ」みたいな批判があるわけですわ。ちょっと古いけど、さっき見てた菅野盾樹先生の「胎児の道徳的身分について」(1998)って論文ではこんな感じになってる。(たまたま見てただけで、国内の多くの生命倫理の論文はこんな感じになってる。)

何回も書いてるけどこれは誤解というかひどい言い掛かりというか、まあこういうふうに理解してはいかんのです。

理由はまさに、パーソン論というのは基本的に「生命に対する重大な権利」についての議論ではあるのですが、我々の生活では権利っていうのは道徳的生活の一部にすぎず、他にも社会的効用とか善意とか愛とかケアとか幸福とか自由とか平等とか、権利以外にもさまざまな考慮すべき事柄があるからです。権利の侵害はもちろん不正ですが、権利の侵害ではないけれども不正なこと、正当な権利の行使ではああっても望ましくないこと、などいろいろあるわです。この点は実は、国内で初めてパーソン論をとりあげた飯田亘之先生も「可能なことと望ましいこと」(『理想』第631号、1985)っていう、記念碑的論文で論じているのです。

権利っていうのは法的概念、あるいは疑似法的概念であって、われわれの道徳生活のすべてではない。ファインバーグはそこらへんよくわかっていて(っていうかファインバーグ先生ほどわかってる人はいないわけですが)、仮に胎児や新生児が生命に対する重大な権利をもっていないとしても、もっと考えるべきことはありますよ、と主張しているわけです。そしてそれは主に社会的効用だ。赤ちゃんや弱者を簡単に死なせるような社会は、その赤ちゃんや弱者たちにとっても望ましくないし、パーソンである我々自身にとっても望ましくない。だから権利もってない存在者だからといって菅野先生がいうようになんでもしてよいなんてことにはならんのです。だいたい犬猫だって好きに殺してもかまわんとかそういうことにはならんでしょ。何を言ってるのですか。

問題は非常に重篤な障害を送ることになりそうな新生児などで、これは障害や病状によっては、ひょっとすると本人が非常に苦しむ将来が予想されることがあって、こういうときに新生児の安楽死とかの問題が生じてくるわけです。ここではそうした非常に大きな苦しみをかかえた人を生みだすことが「不正」であるかどうかというファインバーグが気にしている問いをつめて考えることはできませんが、かなり重い障害を負った新生児であっても、そんな簡単に治療を差し控えようとか安楽死させようとか言えるものではない、っていうのがファインバーグ先生の結論だと思います。

このあと、もうちょっと続くんですわ。この新生児などについての議論が、中絶の議論にどういう影響があるか、という部分。

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人工妊娠中絶問題への含意

現実所有基準説が胎児の道徳的パーソンとしての身分の問題に対して持つ含意は単純である。胎児は、我々がさきほど生存権を所有するための必要十分条件として列挙したうちの特徴(C)を現実に持っていないため、胎児はその権利を所有していない。したがって、この基準を考えるなら、人工妊娠中絶は決して胎児の生存権に対する侵害を伴わない。そして、胎児に生まれることを許容することは、我々が*しなければならない*ことでは決してない。*そうであってしかるべき*何かではありえないのだ。

しかしだからとって、中絶は不正ではありえないということにはならない。先に見たように、新生児は現実所有基準を満してはおらず、したがって道徳的な意味でのパーソンではないとはいえ、少なくともそれがひどい異常をもっていないかぎりは、それを殺すことが不正であるという功利主義的な理由が与えられるるのである。それゆえ、胎児が生まれたときにひどい異常をもってない見込みがあれば、これと同じ理由がその発達後期の段階で胎児を中絶することに反対するものとして与えられうる。

これまで考察してきた功利主義的な理由は非常に重要であって、ことによると、こうした理由は、非パーソンであるとしても本物のパーソンに非常に類似した存在者であればいかなるものでも、それに対して暴力的・破壊的な取り扱いを禁じるに十分であるかもしれない。そうした存在者には、たとえばすでに物故した元パーソンや小さな赤ん坊だけでなく、オトナの類人猿や妊娠の最終トリセメスターのヒト胎児も含まれるかもしれない。そうした考慮事項が、ブラックマン判事がRoe v. Wade判決で多数派意見を述べたときに彼の念頭にあったのかもしれない。多数派意見によれば、胎児は殺人に関する方によって保護される法的な意味でのパーソンではないが、それでも最終トリセメスターのあいだは「国は人間の生命の潜在性における利益を促進することにおいて、中絶を規制または法によって禁止することを選択できる」とされている。「人間の生命の潜在性」に国がどのような利益をもっているにせよ、それは*現実の*人間の生命に対する敬意を維持し促進することについてもつ利益から派生したものにちがいない。我々の派生的な敬意から利益を受けるのは、潜在的なパーソンたちだけではなく、高等動物、死者、新生児、かなり発達した胎児など、本物のパーソンによく類似していて、「本物」の聖なるシンボルを与えてくれるような、すべての近似的パーソン (near-person)なのである。

こうした考慮事項に照らしてみると、先に論じたような漸進主義的アプローチの方が、道徳的な意味でのパーソン性の基準をさぐるという狭い問題設定よりも、中絶の道徳的正当化という一般的問題への回答としてはもっともらしいように思われる。もし胎児は単なる潜在的なパーソンであり今現在の生命権はもっていないとしても、また、それゆえ胎児を殺すことは殺人(ホミサイド)ではないとしても、それに潜在的パーソン性があることはそれを殺すことに反対するひとつの理由になるのであって、それはさらに、中絶が正当化されるとすれば、反対の側にもっと強い理由を要求するということになる。もしこれが正しければ、パーソン性の潜在力がより先に進めばそれだけ、それを殺すにことに対する反対意見はより厳格なものになる。すでに見たように、「権利」の他にも我々の道徳的決定に重要な考慮事項は多々存在するために、誰の権利も侵害しないとしても道徳的に不正であると判断されうる行為がありえる。そうすると、胎児を殺すことは、それが胎児の権利を侵害せず、胎児が道徳的な意味でパーソンでもなく、またけっして殺人(マーダー)ではないしても、一定の状況下では不正となりうるかもしれない。

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どうでしょう。権利とその担い手としてのパーソンの基準の話は重要ではあるのですが、そっからすぐに中絶はいつでもOKとか障害者は抹殺しろとかそういう話にはならんのです。生命倫理学者はもっとまじめに勉強するべきだ。

え、功利主義者のシンガーは障害新生児は安楽死させろって言ってるんじゃないの?それとこのファインバーグという人のはどういう関係なの?という人に向けてはまたそのうち書きます。

 

ファインバーグは重要だった (2)

ファインバーグ先生が「新生児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出。


(前略)

正常の新生児の殺害

現実所有基準説の提唱者たちは、この反論に対する答をもっている。彼らの信じるところでは、道徳的な意味でのパーソンの殺害(マーダー)ではないとしても、新生児殺は不正であり他の根拠から禁じられるのが適切である。この点をクリアにするために、次の二つを区別するのがよいだろう。すなわち、(1) ハンディキャップが価値ある将来の生活を不可能にするほど深刻ではないような、正常で健康な幼児や新生児を殺すケースと、(2) 重度の奇形や不治の病をもった新生児を殺す場合の二つである。

現実所有基準説の提唱者のほとんどは、第一の(正常な)ケースの新生児殺に対して強く反対する。母親が身体的に正常な自分の新生児を殺すならば、それが誰の生命権を侵害していないとしても非常に不正なことである、と彼らは主張する。正常なケースでの新生児殺を不正なものとする理由が、まさに刑法における新生児殺の禁止を正当化するものである。こうした殺害(キリング)を非難する道徳的ルールや、それを可罰にする法的ルールは、どちらも「功利主義的理由」によって支持される。つまり、いわゆる「社会的効用」あるいは「公益common good」「公共の利益 public interest」などによっているのである。自然が私たちに新生児に対する本能的なやさしさを植え付けているのはあきらかである。それは種のために非常に有用であることは明らかだ。だがそれは、我々に幼い人々を死から守って、我々の人口を維持するためだけではない。幼児はふつうは大人へと育つのであり、ベンの言葉にあるように、「もし新生児としての*彼ら*への扱いに最低限度のやさしさと考慮すら欠けていたら、後に彼らはパーソンとしてそのことに苦しむだろう」からでもある。それに付け加えて、彼らが大人になったとき、身近にいる他の人々もその仇を受け苦しむことになるだろう、と言ってもいい。よって、赤子への自発的な温かみと共感には明らかに莫大な社会的効用があり、そうした社会的に価値ある応答を弱めてしまいかねないという点から新生児殺は功利主義的根拠から道徳的な不正となる。

誰の権利も侵害しないとはいえ不正であり、禁止するのが適切な行為は、他にも例がある。例えば、おじいさんが自然死した後に、彼の遺体を切り刻んで、冬の寒い朝にその肉片をゴミ箱に捨ててしまうのは不正であろう。これが不正であるのは、*おじいさんの*権利を侵害するからではない。彼はすでに死んでおり、もはや我々と同じ種類の権利を持つことはない。事例を少し工夫して、彼は生前に死後にそうした扱いを受けることを理解しており、実際前もってそれに同意すらしていたので、おじいさんはそれをなんら気にしない、としておくこともできる。だが、もしこうした行為が禁止されていないならば、この種の行為は、生きている人々に対する我々の敬意を(こうした敬意がなければまともな社会など不可能である)、最大限強烈に脅かし打ち砕いてしまうだろう。(またこうした行為は非衛生的であるしゴミ回収業者にとってショッキングでもある――これらもさほど重要ではないにせよ、同じく功利主義的な考慮に関連している。)

重度の奇形児の殺害

一般的な功利主義的理由は、通常の(そしてあまり異常ではない)幼児のケースでの新生児殺に反対するかなり厳格な規則を支持するが、それは幼児が重度の奇形であったり重病に罹っている場合の(きわめて特殊で限定的な状況下での)新生児殺を禁止するほど十分に強いものではないかもしれない。確かに、殺人反対の規則が純粋に功利主義に基づいているなら、その規則は極度に異常な新生児に関する例外条項を持つだろう。こうした例外を認める点で、そうした〔功利主義的〕規則は、新生児に生まれながらの生存権を認めることに由来する新生児殺反対の規則とはまったく異なる。もし奇形の新生児が道徳的な意味でパーソンであるなら、彼または彼女は本稿の読者諸君と同じように、殺人禁止の規則によって保護される資格を十全に有している。もし新生児が道徳的な意味でパーソンでなければ、極端なケースでは、全体としてみれば彼を死なせることに賛成する論拠があるということになるかもしれない。道徳的な意味でのパーソン性の現実所有基準説論者は実際に、この非パーソン性がもたらす結論を、自分の見解の難点ではなくむしろ利点とみなしている。彼の見解が正しいとすれば、我々は絶望的に形成異常のある幼児を、道徳的パーソンへと成長する*前に*破壊することで、「生きるに値しない」ほど恐ろしいもっと長い人生から彼らを救うことができる。そしてこれは、彼らの権利を侵害することなく実行できるのである。

この見解にしたがえば、実際このような幼児が道徳な意味でのパーソン性に至る前に死なせ*ない*こと、そのこと自体が彼らの権利の侵害になるかもしれない。なぜなら、もしそうした子どもたちの最も基礎的な将来の利益を実現するための条件が既に破壊されていると十分に知っていながら、彼らが道徳的パーソン性に成長することを許してしまえば、我々はこれらのパーソンに対して、(パーソンとして)存在するようになる前に不正なおこないをした(wronged)ことになる。そして彼らがパーソンになった時、彼らは、自分たちは不正なおこないをされた、と主張できる(あるいは彼らの代理にそう主張されうる)。他の場所で論じたが、私はこの論点から誕生権というアイディアの大枠を提案している。もし我々が、ある胎児または新生児が誕生権を持つことがらを獲得することが不可能であると知っていながら、それにもかかわらず、彼を誕生させたら、あるいはパーソン性に到達するまで生き残らせるなら、その胎児または新生児は不正なおこないをされた(wronged)ことになり、我々は彼の権利を侵害した加害者になってしまうのである。

もちろん、なにか身体的ハンディキャップや精神的ハンディキャップを背負っているというだけで「生きるに値しない」ことになるわけではない。実際、成人にまで成長した幾人かのサリドマイド児の証言は、腕や足や完全な視力がなかったとしても、価値ある人生を送ることが(ごく特別なケアが与えられれば)可能であることを示している。だが、幸福の追求における単なる「ハンディキャップ」ではなく、幸福の追求が失敗せざるをえないことさえ保証してしまうような奇形という極端なケースもありうる。生得的に耳も聞こえず、目も見えず、部分的には麻痺していて、コンスタントに苦痛に苛まれざるをえない精神的遅れをともなった(retarded)脳損傷児は、そうしたケースかもしれない。しかしながら、新生児殺に反対する強力な一般的功利主義事由を考えると、「死ぬ権利」の立場を擁護する者は次のことを認めなければならない。疑わしきケースでは、価値ある人生が不可能であると示す立証責任は、新生児に早急かつ無痛の死を引き起こすであろう人の方にあるのだと。そして、なんらかの疑いのほとんど常に存在するものである。


ちゃんと書いてますね。つまり新生児を殺してはいけないし殺したら法で罰するべきなのは、「功利主義的理由」なのです。

これは当然で、トゥーリーやウォレンらによるパーソン論の最初から「功利主義的理由」や「親やまわりの人々の感情」などは重視されています。

ショッキングなのは、加藤先生がこの部分を読んでいなことに加え、前エントリで引用した次の部分では先生はエンゲルハートの「功利主義的理由」による「みなしパーソン」を紹介し強く批判するわけです。しかしそれならこのファインバーグのも批判するべきだったろうと思う。でもまあ当時としてはしょうがないかもしれない。

でもさらに問題がある。このファインバーグの文章の初出は1980年のはず 1)私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。 。よく批判されるエンゲールハートの議論は、オリジナルでも1986年。つまり、このファイバーグの方が先なのです。それなのに国内では、ここらへんの加藤先生や森岡正博先生がつくりあげたテンプレにしたがって、「トゥーリーがパーソン論やったけど文句がついたので、エンゲルハートが功利主義的な理由から新生児もパーソンと認めようって提案しました。でもその功利主義的発想が許せん」みたいなのがいまだに書き続けられている。

なにが問題かって? それはつまり、ここからわかることは、国内の生命倫理学者のほとんどは、このファインバーグ論文を読んでいないだけでなく、『バイオエシックスの基礎』に収められた貧弱な抄訳に何も疑問を抱かず満足し、そして先生たちが使ったテンプレのままにずーっと伝言ゲームをしているのです。そしてたしかめもせずにみんな文献リストにのっけて、さもオリジナルな発想であるかのようにしてエンゲルハートを批判しているのです。

私はこれはとてもよくないと思う。へたすると研究不正、とはいかないまでも疑問のある研究方針。前のパーソン論論文でもそういうのは批判したんですが、もう国内の学者先生はほんとうに勉強してないのです。そんな学問の世界ってある?それも人の生命を左右するような政策にもかかわるかもしれない分野ですよ? 「生命の尊重」とか言ってる人々がですよ?私は考えられない。まず学問の最低限のマナーを守るべきだ。みんな一度に滅びればいいと思います 2)私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

あとこの論文は80年代以降に問題になる「ロングフルバース/ロングフルライフ」問題の先駆けになってる重要論文ですわね。これは私も気づいていなかった。恥ずかしいです。

 

References   [ + ]

1. 私もってるのは1986の2nd ed.なので不安がないではないけど。
2. 私自身はだいたい英語で読んでたし、このファインバーグのも論文でも講義でも参照したことがない。

ファインバーグは重要だった (1)

12月に学会でワークショップだかシンポだかをやろうっていう話に誘われて、またパーソン論や道徳的地位の問題を漁っているわけです。今回はそれなりに徹底的にやってここらへんのに自分のなかでケリをつけておきたい。

たいして新しいアイディアがあるわけではないので、サーベーぐらいはそこそこ徹底的にやっておきたいと思っていろいろめくっているわけです。生命倫理学の大家であり、恩師ともいえる加藤尚武先生が著作集を出していて、それもチェックしなければならない。っていうか、この問題における加藤先生の貢献は非常に大きいんですよね。

「方法としての「人格」」っていう書籍には収録してなかった論文がおさめられているので、とりあえずこれを。初出は『看護セレクト』1989ですか。見たことなかったわー。

内容はいわゆるパーソン論を紹介してその重要性を指摘するとともに批判する、というよくある形で、まあ国内テンプレ様式。でも1989年なのでテンプレにしたがったのではなく、加藤先生自身がテンプレを作ったわけです。ものすごく偉い。

この論文では主にファインバーグとエンゲルハートが紹介され論じられてるんですわ。この組み合わせはわりとめずらしくて、普通はトゥーリーとエンゲルハートなんですが、ファインバーグ先生はほんとに賢い偉い先生なんすよね。法哲学・倫理学の巨人。

んでこういうページがある。

注目してほしいのは、うしろの方の「人格・生存権という概念をもちいることなく幼児殺しを避妊する理由が何であるかをファインバーグは語らない」のところ。これ読んだとき、「ファインバーグ先生ほどの人がそんなことするかな、なんでも明晰に書く人だから」って直観的に思いました。んで当然確認。手間かかるんすよね。

このファインバーグの “Abortion” (または”The Problem of Abortion”)は、加藤先生たちの『バイオエシックスの基礎』(1988)に抄訳が収録されているんですが、あくまで抄訳で、全体の1/4もないのね。収録されているのはT. L. ReganのMatters of Life and Deathって本で、これ10年ぐらい前の例のパーソン論論文書くために入手しておいたし、抄訳がどれくらい抄訳になってるかはチェックしていたんですが、実は全体は読んでなかった。恥ずかしい。

んで発見したことはかなりショッキングだったんですわ。

ファインバーグ先生が「幼児殺しを否認する理由」はちゃんと書いてありました。その部分を訳出したので(っていうかちょっとやって明日やろうと思って寝てたら、夜中に妖精さんがやってくれてました。ありがとう妖精さん)

前置きなのに長くなってしまったので続きます。

 

高橋昌一郎先生の「胎児はいつから人間か」の議論

なんか高橋昌一郎先生のへんな文章を見たので指摘だけ。

助手 そもそも胎児は、どの時点から「人間」とみなされるのでしょうか?

教授 「母体保護法」では、母親の身体的あるいは経済的理由などにより、妊娠二十二週未満の胎児の人工中絶手術が認められている。つまり、二十二週未満の胎児は、法的に人間とはみなされていないことになるね。

これはおかしな論法で、胎児を堕胎しても、堕胎罪に該当はするが殺人罪(「人を殺したものは〜」)には該当しない。したがって、出生までは胎児であって「人」ではない。ちなみに堕胎罪に妊娠月の規定はないと思う。母体保護法にも「22週以下の胎児は人/人間じゃない」のような文言はない。

しかし、たとえばキリスト教原理主義は、受精卵の時点ですでに神が人間の生命を与えているとみなし、人工中絶を殺人に相当する大きな罪と考える。そこで欧米では、女性の自己決定権を重視する「プロチョイス」派と、胎児の人権を重視する「プロライフ」派の二つの対極的立場が、大きな対立を続けている。

こまかいけど、この説明もよくない。「原理主義」は基本的にはけなし言葉だし、受精卵の時点から人(person)であり個人(indiviual) 1)個体=分割できないもの、ね。実際は受精14日ぐらいまでは分割して双子になる可能性がある。 あるという考え方はローマカトリックなども採用している。さすがにカトリックをキリスト教原理主義と呼ぶのは適切ではないだろう。

助手 受精卵から胎児になっていく過程は、どのようになっているんですか?

教授 精子が卵子と結合して「受精卵」になると、(中略)五、六週目には、脳内に電気的な活動が始まる。

助手 ということは、知覚が始まっているのかしら?

教授 いやいや、この時期の神経活動は、ニューロンが無秩序に電気信号を発するだけで、エビの神経系よりも未熟だ。

私はこの「知覚が始まっている」の意味がわからなかった。知覚や感覚をもつというのはどういうことなのだろうか。なんらかの刺激に反応することだろうか。エビに知覚ありやなしや。

(略) 十三週目にはそれらの脳半球をつなぐ「脳梁」と呼ばれる線維の束が作られる。この頃の胎児は、一種の「反射神経の塊」となって、刺激に対して身体を動かすようになるが、まだ何かを知覚しているとはいえない。
十六週目になると、「前頭葉・側頭葉・後頭葉・頭頂葉」が形成され、大脳皮質の表面にしわが寄り始める。十七週目には、ニューロンとニューロンを結合するシナプスが形成され、これによってニューロン間の情報交換が可能になる。

刺激に反応することでははなく、このニューロン間の情報交換が可能になることが、「知覚がはじまる」ことなのだろうか。なぜ刺激に対して反応するだけでは「知覚している」とはいえないのだろうか。まあ好意的に解釈して、脳のなかであるていど大規模な神経の接続があってはじめて知覚や感覚という内的な心的状態が形成されるのだ、それは受精後17週目以降だ、ということなのだろうが、それならそうとはっきり書いてくれないとわからん。

しかしこう好意的に解釈しても、まだ「知覚をもつ」ことと「人間である」(あるいは「人である」)ことの間の関係はわからない。

教授 二十二週目には、胎児が不快な刺激に対して明確に反応するようになり、現代医療のサポートさえあれば、母体の子宮から出て、保育器の中でも正常な脳を備えた人間として生存できるようになる。そこで先進諸国では、胎児を「人間としての尊厳を備えた存在」として法律で保護すべきなのは、「二十二週」以降が妥当だとみなしている。日本の「母体保護法」も、この見解と一致しているわけだ。

胎児の母体外生存可能性が重要であるという指摘なのだろうが、どこから生存可能かということは技術の進歩に依存する。現在の技術であればおそらくがんばれば20週や21週ぐらいでも生存可能なのだろうが、予後が悪いことが予想されるのであんまり攻撃的な生命維持はしていないように聞いている。

母体外生存可能性がなぜ重要なのか、ということも立証されていない。10週の胚も、15週の胎児も、母体のなかで正常に育てば当然正常な脳をそなえた人間として生存できるようになる。なぜ母体外で生存できるということがそれほど特別なことなのだろうか。また22週でも母体外で生存できない胎児も多いはずだ。

「先進諸国では、胎児を「人間としての尊厳を備えた存在」として法律で保護すべき」という表現もおかしくて、こうした表現をしている国としてどこがあるか私は自信がない。

助手 いずれにしても、科学的事実に基づく「生命」の議論に、「祟り」のようなオカルトが入り込む余地はないですよね。

オカルトがいらんのはその通りだと思うが、これまでの議論がなにも関係していない。まあそらたとえば、胚や胎児には神様が魂やスピリットを吹き込んでくれていて、それが流産や中絶しても残存して祟る、とかって議論をする人がいるならまあわからんでもないけど、そんな話しているわけではないし。知らんけど少なくとも今のカトリックはそういう話はしないと思う。

最初の問いは、「いつから人間なのか」という問いだった。この教授は、知覚・感覚の有無か、あるいは、母体外での生存可能性かのどちらかを「人間」の基準としているようで、このどちらかの基準そのものは科学的事実にもとづくと認めてよいとしよう。しかし、それが「人間」の基準であるかどうかは科学的事実の問題ではない。そもそも最初は法の話、あるいは道徳の話だったはず。

もし、最初の問いが、いつから「人間の個体か」(human individual)という問いであれば、受精の最初から個体であると考えるのが妥当だろう。感覚がないから個体ではない、というのは無理そうだ。では、母親の体から分離して生存できないから個体ではないと言えるだろうか。どの時点から母体の外で生きられるかは技術に依存するし、おそらく22週の胎児はNICUから分離されると生きていけないが、それでも個体と言うならば、母親の体につながっていても個体ではないだろうか。

書籍の方も見たけど、ほぼ同じだった。全体として言いたいことはわかるような気もするけど、他の論点も論じ方が正しいかどうか。

反オカルト論 (光文社新書)
高橋 昌一郎
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References   [ + ]

1. 個体=分割できないもの、ね。実際は受精14日ぐらいまでは分割して双子になる可能性がある。

妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


 

京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。

まず反妊娠中絶論で最も普及している形(A)は、「前提1―罪のない人を殺す(死なせる)ことは不正である。」および「前提2―胎児は罪のない人である。」ことから、「結論―胎児を殺すこと(=中絶)は不正である。」という論法を取る。

これに対して、マーキス (1989)を初めここ20年注目されている反妊娠中絶論(B)は、「前提1―殺人が不正なのは、被害者から我々と同じ価値ある未来を奪うからである」および「前提2―中絶は他事から我々と同じ価値ある将来を奪う」ことから、「結論―中絶は殺人とまったく同じ程度に(あるいはそれ以上に)不正である」と論じる。

もう一つ、有望な反妊娠中絶論(C)は、Hare (1975)やGensler (1986)による黄金律型の推論である。そこでは、「あなたがしてほしくないことを他の人にするな」および「あなたのしてほしいように他の人にせよ」との黄金律に基づき、「我々は中絶されずに生まれてきたことを喜ばしいと思う」すなわち「胎児の立場に立てば、中絶されないことを望む」、それゆえ(特に特別の理由がない場合は)中絶しないべきである、と論じる。これら中絶反対論はどれも一見して強力なものである。

一方、妊娠中絶を正当化する論理としては、女性たちの感情や感覚に基づくもの、功利主義、進退に対する権利論、パーソン(「人」、権利主体)論などがある。このうち「胎児はまだ他人として感じられないので他人ではない」などと論じる単なる感情や感覚に基づいた議論は、たとえば「動物は人だとは思えないから苦しめてもよい」とか、「女性は同じ人間だとは思えないから平等に扱わなくてもよい」という議論がおかしいのと同様に説得力に欠ける。妊娠中絶を正当化するには、単なる感情や感覚以上の根拠が必要である。

一方、帰結主義・功利主義による妊娠中絶正当化の議論の方がまだしも説得力がある。たとえばSingerは親(特に母親)と未発達な胎児の利益を比較衡量して母親の利益の方が重大だとする。Hareは胎児を代替可能な存在とみなしたうえで、後にもっとよい条件でより幸福に生きられる子どもがいるならば中絶は正当化されるという。ただし、これは法的に中絶を合法化するかどうかの議論にすぎず、道徳的な議論ではない。

他方、Thomson(1971)は、自分の身体に対する権利を主張して、バイオリニストとつながれたままになる義務はない、胎児は母親の身体を使用する権利はもっていないのだから中絶しても胎児の権利を侵害したとは言えないと論じる。ただしトムソンの議論のうち、「AがBに対して善行することが道徳的な義務であっても、BがAに対して善行される権利をもつわけではない」ことや、女性にだけ「善きサマリア人」であることを求めるのは不平等であり不正義だという主張は見落としてはならない。

しかし、トムソンの「胎児の生命に対する権利」への反論は不十分であり、また「自発的に産むことを選択し妊娠した胎児にのみ責任がある」と想定しているのは、Beckwithの「家族(肉親)は選ぶことができないが義務を負う関係にある」とする自発主義批判を乗り越えられない。結局、「身体に対する権利」の議論も、法的な規制に対する反対する議論としては悪くないが、倫理的な議論としては不十分である。

他にWarren (1973)に代表される(国内でよく知られているTooley 1972は代表的ではない)パーソン論は、典型的な「人」(権利をもつ存在)の条件を列挙するが、これでは新生児や重度意識障碍者まで「人々」ではないことになるという難点がある。

結論としては、リプロダクティブ・ライツに含まれる「中絶の権利」を主張するのはかなり困難であり、「自分の身体に対する権利」だけでは法的にはクリアできても倫理的には不十分である。基本的にはパーソン論を取るか、功利主義を取るかの二択である。もしくはそれ以外の選択肢を考えるべきである。


Beckwith, Francis J. (1998) “Arguments from Bodily Rights: A Critical Analysis,” in Louis Pojman and Francis J. Beckwith eds. The Abortion Controversy, Wadworth, 2nd edition.
Gensler, Harry J. (1986) “A Kantian Argument against Abortion,” Philosophical Studies, Vol. 49. Reprinted in as “The Golden Rule Argument against Abortion”.
Hare, R. M. (1975) “Abortion and the Golden Rule,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 4, No. 3. (R. M. ヘア,「妊娠中絶と黄金律」,奥野満里子訳,江口聡編監訳『妊娠中絶の生命倫理学』,勁草書房,2011).
Marquis, Don (1989) “Why Abortion Is Immoral,” The Journal of Philosophy, Vol. 86, No. 4. (ドン・マーキス,「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」,山本圭一郎訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Singer, Peter (1993) Practical Ethics, Cambridge University Press, 2nd edition. (ピーター・シンガー, 『実践の倫理』新版, 山内友三郎・塚崎智監訳, 昭和堂, 1999).
Thomson, Judith Jarvis (1971) “A Defense of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 1. (ジュディス・トムソン,「妊娠中絶の擁護」,塚原久美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Tooley, Michael (1972) “Abortion and Infanticide,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 2, No. 1. (マイケル・トゥーリー,「妊娠中絶と新生児殺し」,神崎宣次訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Warren, Mary Anne (1973) “The Moral and Legal Status of Abortion,” The Monist, Vol. 57. (メアリ・アン・ウォレン,「妊娠中絶の法的・道徳的位置づけ」,鶴田尚美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).

 

おまけの妊娠中絶本ブックガイド

順不同で。常に書きかけです。

  • パウロ六世 (1969)『フマーネ・ヴィテ(人間の生命):適切な産児の調整について』、神林宏和訳、中央出版社。ヴァチカンの公式見解です。入手難しいかもしれないからPDFでばらまきたいような気もするけど、だめだろうなあ。ネットに http://japan-lifeissues.net/writers/doc/hv/hv_01humanaevitae-ja1.html があるのですが、このページを運用している団体「聖母献身宣教会」がどういう団体であるか私はわかっていません。
  • 田中美津『いのちの女たち:とり乱しのウーマン・リブ論』(パンドラ、2010)。70年代の国内のウーマンリブ運動に強烈なインパクトを与えた1冊です。必読。
  • キャロル・ギリガン (1986) 『もう一つの声』(川島書店)。女性にとっての中絶という体験を分析した非常に重要な本です。しかし翻訳がちょっと……
  • 加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』(東海大学出版会、1988)。国内の生命倫理学の出発点となった一冊。トムソンとトゥーリーの論文に加え、エンゲルハートの「医学における人格の概念」、プチェッティの「〈ひと〉のいのち」、ファインバーグの「人格性の概念」、ワーノックの「体外受精をめぐる倫理的問題」などの有名論文が収録されています。
  • 森岡正博『生命学への招待』(勁草書房、1988)、 『生命学に何ができるか』(勁草書房、2001)。どちらも「パーソン論」についての国内の理解に非常に強い影響力をもちました。必読ですが、非常にオリジナルな著者ですので注意が必要。
  • 佐藤和夫・伊坂青司・竹内章郎(1988)『生命の倫理を問う』(大月書店)。あまり読まれてないかもしれませんが、妊娠中絶や優生思想について独自の立場から議論されています。
  • 島田〓(アキ、火偏に華)子(1988)『生命の倫理を考える:バイオエシックスの思想』(北樹出版)。カトリックの立場から生命や人格について論じています。1995年に増補改訂版。
  • 加茂直樹・塚崎智編『生命倫理学の現在』(世界思想社、1989)。まだ売れているらしい驚異の1冊。大きなインパクトがありました。だいたい国内の生命倫理学の論調の基本を作った感じ。収録されている平石敏隆「人工妊娠中絶」、水谷雅彦「生命の価値」などが国内の標準的な理解を形成しました。
  • マイケル・J・ゴーマン『初代教会と中絶』(すぐ書房、1990)。キリスト教初期における中絶のあつかいを研究しています。
  • マイケル・ロックウッド編『現代医療の道徳的ジレンマ』(晃洋書房、1990)。これに掲載されているロックウッドの「生命はいつ始まるか」も国内の初期の生命倫理学に大きな影響を及ぼしました……はずなのですがそうでもないかも。
  • ピーター・シンガー(1991)『実践の倫理』。第1版。これが誤解されてシンガーが典型的な「パーソン論者」にされてしまいました。重要ですが、パーソン論としてはあんまり典型ではありません。1999年に第2版。読むなら第2版を。
  • 加茂直樹(1991)『生命倫理と現代社会』(世界思想社)。「生命の価値についてのノート:シンガーの議論をめぐって」などが収録されています。
  • 荻野美穂、『生殖の政治学』(山川出版社、1994)および『中絶論争とアメリカ社会』(岩波書店、2001)。米国においてフェミニストたちがどのようにして中絶の権利を獲得したのかを詳述。どちらも良書、必読。『中絶とアメリカ社会』ではロー対ウェイドについても触れられています。
  • 浅井美智子・柘植あづみ編(1995)『つくられる生殖神話』(制作同人社)。土屋貴志「産まれてこなかった方がよかったいのち」とは:障害新生児の治療停止を支える価値観」が収録されています。
  • ロジャー・ローゼンブラット『中絶:生命をどう考えるか』,(晶文社、1996)。それほど深くない。あんまり記憶にありません。荻野先生ので充分だろう。……いや、読み直すとけっこう重要なことも言ってます。歴史的な考察とかはすぐれてる。
  • 江原由美子編『生殖技術とジェンダー』。1990年代に中絶反対派の井上達夫氏と女性の権利の擁護派の加藤秀一氏の間で行なわれた論戦が収録されている。
  • 立岩真也『私的所有論』(勁草書房, 1997)。トムソンの議論が紹介されているが、新訳と比較してほしい。
  • ロナルド・ドゥオーキン『ライフズ・ドミニオン:中絶と尊厳死そして個人の自由』(信山社, 1998)。難解ですが重要。しかし胎児は憲法上「人」じゃないってところから出発してしまっている。
  • ピーター・シンガー『実践の倫理』(昭和堂、1999)。必読。1章を妊娠中絶の問題にあてています。ただしシンガー自身は中絶の問題そのものにはそれほどオリジナルな貢献はしていません。(動物の問題との連続性を指摘した点では高く評価されます)またいわゆる「パーソン論」を直接に採用しているわけではありません。
  • 中谷瑾子『21世紀につなぐ生命と法と倫理:生命の始期をめぐる諸問題』(有斐閣、1999)。
  • 高橋隆雄編(1999) 『遺伝子時代の倫理』(九州大学出版会)。八幡英幸「「生命倫理」の課題としての「人の誕生」」が収録されています。
  • 加藤尚武(1999)『脳死・クローン・遺伝子治療』(PHP出版)。一部で妊娠中絶を扱っていますが、いろいろミスリーディングなので注意。「……人工妊娠中絶を正当化しようとしても、アメリカの人工妊娠中絶反対論は非常に橋梁で、相次いで反論が発表された。その代表的な議論に「トゥーリィの理論が正しいとしても、胎児は潜在的には人格なのだから、その生存を否定すれば、未来の人格を否定することになる」というものがある。それに応じたのがファインバーグの潜在性否定論であった。」(p.177)など、歴史的にはっきりまちがっています。
  • 村松聡『ヒトはいつ人になるのか:生命倫理から人格へ』(日本評論社、2001)。パーソン論を検討しています。本書のトゥーリーやウォレンの議論と比較してみてください。
  • 長島隆・盛永審一郎編(2001)『生殖医学と生命倫理』(太陽出版)。高畑明尚「生殖医療と女性の権利:人工妊娠中絶を転回点として」、盛永審一郎「着床前診断に対する倫理的視座」、秋葉悦子「「ヒト胚」の法的地位と尊厳」、尾崎恭一「胚研究における人間概念」ほかこの時期の重要な論文が収録されています。このシリーズ(生命倫理コロッキウム)は良質です。
  • 岡本裕一朗『意義あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版、2002)。トゥーリーの議論が紹介されている。トゥーリーのもとの論文と注意深く読み比べてほしい。
  • 斉藤有紀子編『母体保護法とわたしたち』(明石書店、2002)。フェミニストが中絶の問題について微妙な立場におかれていることがわかりやすい。
  • 江原由美子『自己決定権とジェンダー』(岩波書店, 2002)。日本のフェミニストの代表的な立場であると思われる。
  • 高橋隆雄編(2002)『ヒトの生命と人間の尊厳』(九州大学出版会)。このシリーズ(熊本大学生命倫理論集)は一般に良質です。八幡英幸「「人の生命の萌芽」は「尊厳」を持つか」などが収録されています。
  • 徳永哲也『はじめて学ぶ生命・環境倫理』(ナカニシヤ出版,2003)。1章を妊娠中絶の問題にあてています。穏健で標準的。
  • 山根純佳『産む産まないは女の権利か』(勁草書房, 2004)。トムソンの議論を紹介しているが、新訳と比較してほしい。トムソンの重要な論点が抜けていると思われる。
  • 小林亜津子(2004)『看護のための生命倫理』(ナカニシヤ出版)。やや保守よりの良書。減胎手術や選択的妊娠中絶が論じられています。2010年に第二版。
  • 葛生栄二郎・河見誠『いのちの法と倫理』(法律文化社、2004)。法学の観点から中絶についてけっこうな量を割いて論じています。あれ、私がもっているのは版が古いようです。
  • 宮坂道夫『医療倫理学の方法』(医学書院、2005)。目新しい「ナラティブアプローチ」で非常におもしろいですが、やはり「人格を持つ」という用語法を使ってしまっています。
  • ウィリアム・R・ラフルーア『水子〈中絶〉をめぐる日本文化の底流』(青木書店, 2006)。比較宗教学・宗教民俗学アプローチ。中絶の罪悪感などについて興味深い知見あり。
  • ドゥルシラ・コーネル『イマジナリーな領域:中絶,ポルノグラフィ,セクシュアル・ハラスメント』(お茶の水書房, 2006)。難解。他の本先に読んだ方がいいでしょう。
  • 緒方房子『アメリカの中絶問題:出口なき論争』(明石書房, 2006)。荻野先生とだいたい同じ内容を扱っている。
  • 加藤秀一『“個”からはじめる生命論』(NHKブックス、2007)。森岡正博先生と同じく、オリジナルな人です。非常におもしろいですが、注意しながら読んでください。
  • ディアナ・ノーグレン『中絶と避妊の政治学』(青木書店, 2008)。日本の人口政策についての研究。良書。
  • 村上喜良『基礎から学ぶ生命倫理学』(勁草書房、2008)。中絶に1章使っています。基本的に良書なのですが、「人格を持つ」のような表現を使ってしまっていますので注意。
  • アルバート・ジョンセン、『生命倫理学の誕生』(勁草書房、2009)。生命倫理学がどのようにして成立したのかを詳細に論じた一冊。研究者必読。
  • 岩田重則『いのちをめぐる近代史:堕胎から人工妊娠中絶へ』(吉川弘文堂,2009)。歴史学・歴史社会学的なアプローチ。第二次大戦ぐらいまで。
  • 秋葉悦子『人の始まりをめぐる真理の考察』(毎日新聞社、2010)。カトリックの代表的な立場をわかりやすく紹介しています。
  • 小林亜津子『看護のための生命倫理』(改訂版)(ナカニシヤ出版、2010)。標準的だけどちょっと保守的な感じ。初版は2004年。
  • 日比野由利・柳原良江編『テクノロジーとヘルスケア:女性身体へのポリティクス』(生活書院、2011)。水島希「1970年代における人工妊娠中絶の実態と批判:女性活動家たちによる問題の定位とその含意」、杵淵恵美子「妊娠中絶を希望する女性の心理とケアの状況」他、フェミニストの観点からさまざまな考察が行なわれています。
  • 野崎泰伸(2011)『生を肯定する倫理へ:障害学の視点から』(現代書舘)。障害学の立場からピーター・シンガーらの立場を批判しています。
  • 小林亜津子(2011)『はじめて学ぶ生命倫理:「いのち」は誰が決めるのか』(ちくまプリマー新書)。生命倫理の基本的な問題をやさしく紹介しています。
  • 岩田健太郎(2011)『ためらいのリアル医療倫理』(技術評論社)。中絶の問題は主観的なものにすぎないと主張しており、おすすめできません。しかし現場の医師の感覚としてはこういうものかもしれません。
  • 辻村みよ子『代理母問題を考える』。米国の中絶についての憲法裁判について淡々と書いている。
  • 柘植あづみ(2012)『生殖技術』。女性の身体の自己決定権で押そうとしているようですが、うまくいってるのかどうか。
  • 小林直三(2013) 『中絶権の憲法哲学的研究:アメリカ憲法判例を踏まえて』(法律文化社)。ドゥルシラ・コーネルの議論を援用した中絶容認派。パーソン論の扱いとかは私は納得できません。
  • 塚原久美(2014)『中絶技術とリプロダクティブ・ライツ:フェミニスト倫理の視点から』 (勁草書房)。トムソンの翻訳を担当した塚原さんの力作です。日本の中絶技術の問題や中絶をとりまく議論の問題点が浮き彫りにされています。

続きます。

重要な洋書

  • Mary Anne Warren, Moral Status: Obligations to Persons and other Living Things, Oxford University Press, 1997. 基本書です。
  • Louis Pojman and Francis J. Beckwith (eds.), The Abortion Controversy: 25 Years After Roe V. Wade : A Reader, Wadsworth Publishing, 1998。バランスのよい良書。研究者必読。
  • Susan Dwyer and Joel Feinberg (eds.), The Problem of Abortion, Wadworth Publishing, 1996. 哲学的な中絶議論を紹介するアンソロジー。ちょっと古いかもしれないが、主要なものをおさえられる。
  • David Boonin, A Defense of Abortion, Cambridge University Press, 2003。トムソンのサマリア人の議論はまだイケる、とがんばっています。他の各種のプロチョイス・プロライフの立場も詳細に吟味。おすすめ。
  • Jeff McMahan, The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life, Oxford University Press, 2002. マーキスの議論を反駁しようとすると、中絶の議論がこんな複雑な哲学的議論になってしまうという……重要だが哲学関係者専用。
  • Michael Tooley, Celia Wolf-Devine, Philip E. Devine, & Alison Jagger, Abortion: Three Perspectives, Oxford University Press, 2009. プロライフ、プロチョイス、そしてフェミニズムが真っ向対決。

続く

翻訳出ました。

もう何回も宣伝見せられてうんざりしている人もいると思うけど、ごめんなさい。モロに宣伝なのはここが最後だと思います*1

みんなで翻訳した本出させてもらいました。

妊娠中絶の生命倫理
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勁草書房
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amazon等でも入手可能になったようなので宣伝。買ってくれたらしばらく感謝します。

サポートページはこちら。 https://yonosuke.net/eguchi/abortion/

買ってメールくれたりtwitterでメッセージくれたらおまけつけようかな。

なんでこんな20年~40年も前の古い論文訳すことになったかってのは、kalliklesってペンネームの人のブログのここらへんみるとわかるかもしれません。

日本の生命倫理学の発展に少しでも貢献できるといいなあ。

*1:まあこの宣伝するために露出を増やしたりいろいろ姑息なことをしていたわけですが。