八重樫徹先生の「猥褻」論(1) 猥褻の定義

『フィルカル』っていう若手中心の哲学とカルチャーに関するすばらしい雑誌があって、いつも楽しく読ませてもらってます。八重樫徹先生っていうこれまた優秀な先生が性表現の問題を哲学的に分析する話を連載しているのでじっくり読まざるをえないですね。とてもおもしろいです。

第1回と第2回は性表現と「猥褻」の問題を扱ってて、第1回だけだともうひとつ何をしたいのかわからなかったのですが、第2回が出て「なるほど勉強になる」ってな感じでした。でもちょっと最近気になっている「定義」との関係で問題があるなとも思ったのでメモしておきます。

八重樫先生のはちょっと入りくんだ議論になっていてコメントしづらいところもあるんですが。第1回と第2回で性表現のなかでも「猥褻」とされるやつの概念やそれの規制の道徳的正当化みたいな話なんだけど、第1回で「猥褻」の概念分析やって、第2回でそれがなぜ「悪い」かの話をしてるわけです。これは手順としてはこうなるだろう、っていう感じなんだけど、まず「猥褻」っていうのがそういう分析の対象になりえるのかどうかというのが私には疑問でした。

「猥褻」っていうのはあんまり日常語じゃなくて、むしろ人工的な法的な概念ですよね。これは先生も認めてる。それが日常生活に降りてきてる感じで、もちろん刑法とかちゃんと勉強していない我々はぼんやり使ってるけど、法学者のあいだではわりとカチっとした定義がある語のひとつです。

まず、法文や判決で言葉の定義(明確化定義)がなされる場合は、たいてい「法で規制するべき/規制が許される〜」の定義だっていうのはまずおさえておく必要があると思う。「猥褻」の定義をしているというよりは、刑法で罰することができる「猥褻」を定義するわけですね。

法文では刑法第174条が「公然とわいせつな行為をした者は,6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する」、第175条が「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役若しくは250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する」 ということになっているわけですが、んじゃ「わいせつな行為」とか「わいせつな文書」っていうのは何を指していますか、っていうことは、裁判官や学者たちがいろいろ検討して、必要になれば判例で示されるわけです1

んで、法学の世界には「猥褻の三要件」があるのですね。「サンデー娯楽事件」とか「チャタレー事件」とか多くの有名な裁判所判断で踏襲されているものです。少なくとも法学(刑法学)の世界ではほぼ固定されているとっていよいと思います。

  1. 徒に性欲を興奮または刺激させ、かつ
  2. 普通人の正常な性的羞恥心を害し、
  3. 善良な性的道義観念に反するもの

です。これの三つの条件が すべてそろってる ことが必要なんですね。「かつ」つまり「and」でつながれてる。連言的。あと八重樫先生の説明では 「徒に/いたづらに」が抜けてる のがもしかしたらちょっと問題かもしれない。

ところが、こっから出発したはずなのにで、八重樫先生は第2回ではこういう特徴づけを採用してるんだよね。なぜこうなるのか。

さて、前回辿り着いた猥褻概念の特徴づけは以下のものだった。

何であれ、それを受け取る人がそれに対して、性的に興奮し、なおかつそれに興奮している自分を恥ずかしく思う(あるいは共感によって擬似的な恥ずかしさを抱く)という反応をすることが、その社会において平均的な性的感受性を持つ人にとって適切であるものは、猥褻である。

つまり、「猥褻」というほぼ法的な概念を考えるときに、「善良なる性的道義観念に反する」をなぜはずしたのか、ということがよくわからんのですよね。法的な概念から下がってきた我々の日常的な概念を問題にしているのだろうか?それならそれでいいのですが、すると 上のような判例で示されている定義とは別のところから出発するべき だと思う。つまり、私には八重樫先生のやりかたが中途半端だと思うんですね。法的な概念を扱うのであれば明確に定義された法的な概念をそのまま使うべきだし、日常的な概念を扱うのであればまず私たちの日常的な考え方や言葉の用法を見てみるべきだ。

でもまあとにかく(準)法的な話として、もうすこし詳しく見てみたい。

羞恥の感情

なぜ上のような定義での「公然でのわいせつ行為」(ストリップショーとかですね)や「猥褻(物)」(ポルノ)は規制されるべきなのか。ここがちょっと難しい。八重樫先生はチャタレー判決の「性行為非公然の原則」に言及する。ちょっとスクショしながらいきます。「性行為非公然の原則」は「人前でセックスしたり、文書や写真とかばらまいたりしてはなりません」 っていう原則ですね。これがチャタレー判決で述べられているのだ、と。

チャタレー事件最高裁判決ではそれは「性行為非公然の原則」と呼ばれている。つまり、性行為は人前でおこなってはならず、またそれを露骨に表現してもならない、ということである。表現でもアウトとされる理由は、先ほどの山口の説明によるなら、そうした表現の影響を受けて(真似をして)公然と性行為をする者が出てくるかもしれないからである。

「先の山口の説明」は順番前後しますがこれ。

人が性的に興奮することがつねに悪いとは言えない。しかし場合によっては、性的興奮は性道徳を無視した奔放な振る舞いの原因になりうる。そのような道徳的に望ましくない結果が生じるのは、特に、当該の行為や表現がたんに人の性欲を刺激するだけでなく、羞恥の感情を抱かせる場合である。羞恥の感情は人の性に関する良心を麻痺させるからである(真偽の不確かな主張だが、ここではさしあたり気にしない)。

これは八重樫先生自身が指摘しているように、「羞恥の感情は人の性に関する良心を麻痺させる」がぜんぜんわからりませんよね。「恥しい」っていうのから「性に関する良心が麻痺」することになるなんてありえない。と思う。むしろ逆というか、「性に関する良心」みたいなのがあるから「恥ずかしい」って感じるわけじゃないですか。なんか誤植がはいってるのではないかとさえ疑わせる。ここは八重樫先生つっこんでほしかった。

これ、チャタレー裁判判決文の山口厚先生による解説の一部なので、最高裁判決文を確認するとこうです。

猥褻文書は性欲を興奮、刺激し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そして それは 人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視する危険を包蔵している。

この「それは」が何を指すのか不明瞭ですが、八重樫先生はおそらく「羞恥(の)感情」と解釈したわけですね。私は「猥褻文書」かあるいは「刺激・興奮させられた性欲」なんじゃないかと思います。「羞恥の感情」では文意がとれないと思いますね。まあこれが指摘したかったことの一件。

善良な性的道義観念

再度確認すると、刑法での「猥褻」とは(1)いたずらに性欲を刺激興奮させ、(2)一般人の性的羞恥心を害し、(3) 善良な性的道義観念に反するもの、です。上で八重樫先生が言いたかったのは、こうした定義づけの背景には、「セックス非公然性の原則」がある、ってことですね。

んで八重樫先生はこう言う。

……この〔性行為非公然の〕「原則」を猥褻性判断の基準として採用することは、猥褻概念の説明にはならない。公然と性行為をすることや性行為の描写を公然と提示することは、まさに刑法174条と175条が明示的に犯罪として規定していることそのものであり、したがって「猥褻がダメなのは、刑法で猥褻と名付けられているとにあたるからだ」と言っているのと変わらないからである。加えて、そのような「原則」は本当に一般に受け入れられている道徳観念なのか、またそうだとしてもそのような道徳を法が保護する必要と妥当性はあるのか、といったことが気になってくる。

これはわかりにくい。「猥褻がだめなのは刑法で猥褻と 名づけられ ているからだ」というよりは、まさに「猥褻」というのは刑法で「猥褻」を禁じ、裁判所の判断で可罰的な「猥褻」の内実を明らかにしているわけだし。

それに「善良な性的道義観念に反する」っていう条件は、かならずしも「セックス非公開原則」だけを指しているのかどうか。実際セックス描写なんていろんな作品にあるんだから、一部の「善良な性的道義観念に反する」やつは非公開性とは別にあっても不思議はない。

たとえば『チャタレー夫人』に関しては、裁判で「だめ」っていわれたところの典型は女性をひっくりかえしてその部分にそこらで摘んだ花差して花瓶にしたところだっけか。まあ『チャタレー夫人』の全体の筋自体が、戦争やそれによる障害がからんでて、あの時期にはとても道義観念に反していた可能性はあると思う。もっともこれはこれは直接には議論されてないかもしれないけど。

ていうか、私の推測だと、八重樫先生がこの「性的道義観念に反する」を「猥褻」概念から排除してしまうのは、「性的道義観念」が入ってると、「猥褻」を規範的判断から独立したしかたで定義・特徴づけできないからじゃないかなあ。でも猥褻というのはまさにそういう概念なのであって、それを避けるのはよくないんじゃないかと思うのです。私の理解では、「猥褻」の問題はまさに「(性)道徳に反してるからだめです!」「なんでですか、なにが悪いんですか」「だめだからだめです」っていう話なので、そこ抜いて猥褻の話してもしょうがないと思うのですよ。

まあそういうわけで、私は八重樫先生が「性的道義観念に反する」を猥褻の定義から勝手にはずしちゃうのはとても不満なのです。むしろこれはずしちゃうと「猥褻」がごく弱いものになっちゃう。「なんで勝手にそんなことするんですか!」みたいな……ははは。でもよくないと思う。

むしろ、仮にそういう八重樫先生がそういう話をしたかったのならば、「猥褻」じゃなくて、はっきり「私たちの性欲と羞恥心を刺激するほどエロチックで露骨な性描写はなぜ悪いのか、と問いなおしてほしい。あるいは10歩ぐらい譲って、「仮に「猥褻」を性的興奮と羞恥心だけで定義するとすれば」みたいな書き方してほしかったわけです。

んでもし仮に「猥褻」を性的興奮と性的羞恥心をつかって定義するにしても、それは公開されたり売買されたりしないと「猥褻」なものにはならんと思うんよね。この限定も足りないと思う。まあ「表現物」っていうので自明と思ってるかもしれないけど、たとえば(高橋鐡先生のまわりの人のように)自分のセックスライフを克明に文書や図画にしてたりする人がいるかもしれないけど、それを自分の引き出しにしまってる分にはなにも猥褻ではない。御夫婦その他のカップルのセックスや裸体も猥褻ではないと思う。それが公開されたり流通したりするから猥褻になるんであって、だから「公開性」みたいな話はぜったい必要だと思うのよね。

他もコメントしたいことはあるけど今日はこれくらい。第3回は性差別やモノ化の話になるみたいだからそれはものすごく期待してます。

これ書いてて、いろいろ面倒なことに気づいたので続きます。

脚注:

1

八重樫先生は「猥褻」物頒布と公然「猥褻」の二つで使われる「猥褻」をターゲットにしてるけど、刑法第176条に「強制わいせつ」があって、「十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上十年以下の懲役に処する。十三歳未満の者に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする」ってのがあるんですが、この猥褻をどうするか。まあ強制猥褻の「猥褻」は猥褻物の「猥褻」とはおそらく全然ちがうわけですよね。八重樫先生は強制猥褻に関しては、174条と175条の「公然わいせつ」と「わいせつ物」の規制は、現在の刑法学者によって「風俗に対する罪」に分類され、176条の「強制わいせつ」は、強制性交等等罪などとともに「性的自由に対する罪」に分類されるので議論から除外するわけですが、「猥褻」の意味を考えるときにそれでいいのかどうか、私は自信がないです。明治時代に刑法がつくられたときには同じタイプのものって考えられてわけでしょうしね。でもこういうふうに法の解釈を中心にするなら日常語としての「猥褻」の話ではないので、判例とかのものをそのまま使うべきではないかという気がする……ここらへんがよくわからんだよな。法解釈を問題にしているのか、もうすこし一般的な我々の頭のなかにぼんやりある「猥褻」を考えるのか。まあとりあえず174・175条の「猥褻」とは意味や規定が違うだろうってい うのはOKということにしておきます。

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