清水晶子先生の「学問の自由とキャンセルカルチャー」講演

言論の自由とかキャンセルカルチャーとかには職業がらどうしても関心をもたずにはいられないので、「フェミ科研と学問の自由」シンポジウムでの清水晶子先生の「学問の自由とキャンセルカルチャー」を見ました。この講演は私はいろいろ問題あると思います。

書き起こしはここにあります。 https://anond.hatelabo.jp/20220805225632 https://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c#67021145-cdee-46f0-adab-d18dcf74099f

まず全体の構成を見ると、

  1. 「学問の自由」の理念を確認
  2. いくつかの国内での学問への政治的圧力を確認
  3. しかし「学問の自由が濫用される」ことがあることを指摘
  4. 「キャンセルカルチャー」が反ポリコレの流れのなかで生まれてきた言葉であることを確認
  5. 父ブッシュ大統領が言論の自由を擁護し、ポリコレの動きに警戒をよびかけた話を紹介
  6. 2003年の右派のホロビッツさんのAcademic Bill of Rights (ABOR)を紹介
  7. ハーパーズレターを紹介
  8. キャンセルカルチャーという呼び方はマイノリティの異議訴えを抑圧するという話
  9. サラ・アーメッド先生の議論を紹介、同意の表明

という感じですか。議論の中心は上の最後の部分のアーメッド先生の議論の紹介にあるのだと思います。非常にわかりにくい議論だと思うのですが、(1) ノープラットフォーミング、キャンセルは危険な思想が広まるのを防ぐためにはやむをえない、しかし(2)「キャンセルされた」という訴えができるのなら実はキャンセルされていない、むしろ異議もうしたてを「キャンセルカルチャー」と呼ぶことでさらに力をつけることになる、(3) そんなやつらとは議論しないという形の抵抗しかありえない、つまりキャンセルできないなら無視し議論を拒否するべきだ、のような形だと思います。

アーメッド・清水先生たちの主張はいかにも奇妙なのですが、ここではそれについては議論しません。むしろ私が指摘したいのは、清水先生のそれまでの議論の流れです。

清水先生は終始「学問の自由が濫用される危険」を訴えているわけですが、それって根拠のあることだろうか?父ブッシュが反ポリコレの態度をとっていたのは学問の自由というより「言論の自由」の話ですし、それがなにか問題だったというのは聞いたことがない。清水先生は同時期に黒人の人々が中心の暴動などが起こっていることを指摘していますが、それとブッシュの発言はなにか関係があるのだろうか?そこはなにも触れられていませんね。

また有名なハーパーズレターがなにか歪んだ使いかたをされたという話も聞いたことがないし、清水先生もそういうことは言ってないように思う。

となると、清水先生が唯一「学問の自由の濫用」に近いものとしてあげているのはホロビッツのABORです。これは私この講演を聞くまで知りませんでした。私の勉強不足もありますが、国内では一般にあんまり知られていないと思う。そもそも2003年のものだし。清水先生はそれが いつの文書か も述べていないのではないかと思います。私はもっと最近のものだと思っていましたが、20年近く前の話じゃないですか。

清水先生はスライドでこう映しているようです。

  • 学問は あらゆる問題について政治的に中立 であるべき
  • 学問の自由は常に複数の観点が提供される環境において成立する
  • 特定の問題について異なる見解があるなら議論の双方の側を教えるべきで、授業内容を調査する仕組みが必要

そして、口頭で次のように述べている(書き起こしありがとうございます!)。

例えばDavid Horowitzによる、学問の権利法案ABORというんですが、これは、学問は あらゆる問題について政治的に中立 の立場を採るべきであり、学問の自由とはそのようにして常に複数の観点が提供される環境において成立する、というふうに主張します。

これだけ見れば、これだけ見れば、リベラルな多文化主義的な主張かなっていうふうに思いかねないんですが、Horowitzの主張は、これが先ほどのXX先生のご発表ともちょっとつながるんですけど、それが当代の学術領域において、 どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと 、特定の問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきであると、実際にそういうような授業になっているかどうかを、授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべきだ、いうふうにHorowitzは主張する。

このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AAUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるか否かにかかわらず、 例えばナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべきだ と、そういう議論なんですね。だから何が学術的な裏付けのある議論であるかについて、学術的コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、ABORは「学問の自由」を唱えつつ実態としては学問の自由を侵害している、いうふうに言うことができる。

これを見て聞いて、このABORというのはものすごく凶悪なもので、学問の自由ところか、はっきり学問の自由の であるので、あとに出てくるハーパーズレターなんかと類比するのは失礼だとさえ思いました。しかし確認してみるとですね。

原文はこれです。 http://la.utexas.edu/users/hcleaver/330T/350kPEEHorowitzAcadBillTable.pdf

おそらくPracticeの4番目のここが「それが当代の学術領域において、どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、特定の問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきである」に対応すると思うんだけど、そんなこと言ってないないじゃないですかね。

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私が訳すと、こうなります。

人文学および社会科学のカリキュラムと読書課題は、これらの領域での人間的知識すべての不確実で不安定な性格を配慮して、適切な場合は、学生に反対意見のソースや観点を示すべきである。教師は自分の見解を示す際に、自分の発見や観点を自由に追求してよいしそうあるべきであるが、学生には他の観点もありえることを気づかせるべきである。学者・研究者は未解決の問題へのアプローチの多様性を歓迎すべきである。

「未解決の問題」unsettled questionsに関して、教員自身とは別の意見を紹介するのはとても大切なことなので、特に問題なさそうですね。清水先生が言ってるように「どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと」異なる意見を教えろなんてことは言ってない。そもそもそんなことできるわけがないし。

また「 学問は 常に政治的に中立であるべき」というようなことも言っていない。AROBが 中立であるべきだ といっているのは、 国家や 大学 などが、政治・宗教的な意見や態度を理由に1、雇用やテニュアや雇止めといった手段をもちいて教員を雇用したり処分したりすることです。

まあ他も、ABORの権利宣言自体はそんな異常なものではなく穏当なものです。清水先生が反対した団体として言及している大学教員の組織AAUPも、基本的なラインには賛成しています。

批判文書はこれです。 https://www.aaup.org/report/academic-bill-rights

“Committee A endorses this principle”ってはっきり言ってますね。AAUPが反対しているのは、それを実施する際に調査しろとかそういう面に対してのようです。ホロビッツさんははっきり保守で、「要注意大学教員リスト」みたいなものもつくってるようなので、他ではいろいろいやなことを言っているのかもしれません。それは私は確認とれてないのですが、少なくともABOR自体はそんな異常なものではない。ABORに対する批判も、「いややっぱりどうしてもキャンセルさせろ」とかそういうのではなく、ABOR自体が運用によっては 学問の自由を侵害することになる 、とそういう議論です2

それでですね、これ発見してしまって、私はがっくり来てしまったのもあるんですが(ほんとうにがっくりきた)、清水先生はまったく信頼できないと思うんですよ。つまり、学問の自由が濫用されているという根拠は実はなにも示されていない。

いくら憎い保守派であろうが、こんなに見解をねじまげてしまっていいのか。それも一般観客もいるような講演会で、どうどうとこういう印象操作のようなことをしていいのか、って私は思います。正直、私はそういうの 堂々とやられてたら怖い ですよ。

清水先生は、結果的に呉座先生が日文研からテニュアをキャンセルされることにあった一員の例の「オープンレター」の起草者の一人だと私は意識しています。このフェミ科研シンポの質疑応答で、質問紙で呉座先生の話についての質問が寄せられたようなのですが、清水先生は「他の方の裁判についてはよく知らない」のようなことをおっしゃっておられます。清水先生たちが呉座先生に債務不存在とかの裁判を起こして、呉座先生がそれに反訴しているらしい、という話はネットでは有名です。でもフェミ科研のシンポに来るような人々は知らないのかもしれませんね。「キャンセルカルチャーという言葉をはじめて聞いた」のような人もいるみたいだし。しかし、上のような事情にあるのに「他の方の裁判」っていうのはどうなんでしょうか。そりゃ呉座先生と日文研のあいだの裁判は労働争議だし、呉座先生のオープンレター起草者の一部の人々とのあいだのは損害賠償や債務不存在の裁判かもしれないのでウソは言ってないのでしょうが(そもそも清水先生は裁判にかかわってないのかもしれない)、態度としてどうなんですか。というかこれも怖いです。私はものすごく怖い。

「定義」についての続きがあります → https://yonosuke.net/eguchi/archives/15739

脚注:

1

もちろん私立の学校とかは、場合によっては教員に宗教や政治的な態度を求めることもあるだろうが、それはその基準をちゃんと明示せよ、と。イエズス会がイエズス会士だけで学校作ったり、真宗が作った学校がトップになるひとに得度を要求したりするのは問題ない。

2

ちなみにAAUPのABORへの反対声明で「進化論」と「ナチズム」が出てくるのは「講義室で何を教え評価をどうするかというのはその講義をまかされている教員の権威によってやっていいことであって、生物学教えてるときに学生に進化論に反対する解答する余地を与えなければならないなんておかしな話だ」という意味のところと、「大学が多様な視点や方法論に開かれているべきだっていったって、ナチ政治哲学の教授を雇わなきゃならんわけではない」と言っているところですね。いくらAAUPだってABORが「すべての対立する意見を教えろ」なんてことを主張しているとは読んでないです。ABORはそんな異常なものではないですが、AAUPの声明もごくまともなものです。教員の権威や良心にまかせて、教室や大学になんらかの圧力がかけるのをやめろ、と言ってます。そしてそれがABORの原則的には問題ものであっても、そっからいろんな強制や規制(たとえば大学の人事問題について)が加えられることを危惧している。「学問/学界/大学の自由」の擁護としてはとてもまともです。「学問の自由はいらない」と言ってるのではない。「学問の自由」を求めるABORが解釈しだいでは「学問の自由」をそこなってしまう可能性を指摘している。では「学問の自由の濫用」はどこにあるのか。

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