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セックス経済論 (10) ちょっとだけコメント

しかし投げっぱなしだと誤解されそうなのでちょっとだけコメント。

バウマイスター & ヴォース先生たちの「セックス経済論」は、社会学でいう「社会的交換理論」の一バージョンですね。まあ経済学も含め、非常に一般的な理論というか考え方なので、名前なんかいらないくらい。バウ先生たちは、経済学者のゲイリー・ベッカー先生の The Economic Approach to Human Behavior (1976) 1 の四つの想定をひきあいに出してます。

  1. 個人は、比較的安定した選好にもとづいて、コスト・ベネフィットに応じた選択をする
  2. 希少資源は価格の調整によって配分される。
  3. 財やサービスの販売者は互いに競争する(購買者も競争することがある)
  4. 個人は結果を最大化しようとする。

まあこうしたシンプルな理論がどんだけ射程が長いか、っていうのがわかる話になってます。

2004年の段階で、バウ先生たちのが 理論として どれくらい新鮮だったかというのはよくわからない。このシリーズ読んでくれたひとの多くは「そんなんあたりまえやろ」ぐらいの印象の人が多いんじゃないかな。わざわざ「セックス経済学理論」みたいな名前つけてあざといですね。でも先生たちはその後ずっとこのラインで議論していて、そこそこいけてると思ってるみたいです。

2004年の時点で、ジェンダー問題については、社会構築主義的なフェミニズム理論(男性支配!)と急速に勃興中の進化心理学が、男女関係を考える主な「セオリー」だったわけですが、どっちも「男性が女性を支配する」っていう形で見る傾向があったわけです。2020年代の心理学はさすがにそんなに単純な形にはなってないですが、バウ先生たちの論文の新鮮さは、進化心理学と同様に男女のあいだの性的関心・性欲の生得的な性差、というのは前提にしながら、男性が単に「支配」を欲求するようなハードワイヤードな傾向をもってるんではなく(もちろん女性が支配されることを望むような欲求をもっているわけでもなく)、状況・環境に応じて戦略を変更するような存在として見るという点、そして男女の間にあるのは支配・従属ではなく、むしろ交易・交換・協力だ、ってなところでしょうな。もちろんその交易や協力が強制的・搾取的になってしまう場合もある。そんでも、男女関係におけるアクターとしての女性の有利さっていうのはまあ常識的(少なくとも私の常識)に合致しているところがあるように思います。

しかしまあ男女の間で交換しているのはもちろん、女からセックス、男から金、だけじゃないのはほぼ自明っすからね。実際には他にもいろんなものを交換し協力しているわけで、まああえてこんな単純にした「理論」というのはなんであるのか、みたいなのはよくわからない。でもまあセックスと性欲(そして生殖)を中心に考えると相当のところが説明できる、っていうのはまあ進化生物学的な発想の強みではありますわね。

ちょっと時間があったので「セクシー化/セクシャル化」と「男性支配」についてだらだらメモ書きましたが、まあここらへんはおもしろいので、みんな(特に若い人は)勉強がんばってください。

実践的に、セックスや恋愛がんばってくださいというつもりはないです。がんばらないでください。でもセックスを中心に男女が交易しているという点にはなにほどかの真理があるでしょうから、モテたいと思う男子はちゃんと交易するための資源用意しといた方がいいだろうな、とは思いますね。素敵なテニス選手の方みたいな人から「私は高価料理メニューなので、あんたたちはそれ払えないでしょ!」とか言われるとつらいですからね。それは現ナマである必要はないはずなので、お金がないひとは海辺できれいな貝殻拾ってくるとか工夫してください。

注意として、進化心理学とかセックス経済論とか、そういうのを勉強すると、すぐに「 悪いのは 女性だ」みたいな発想する人がいるんですよね。こうした人間の「本性」や社会の仕組みみたいなのに関する「理論」や説明、解釈を、すぐに道徳的な善悪の判断や規範的判断(「よい/悪い/不正だ/罰を受けるべきだ/〜するべきだ」)に結びつけてはいかん。

実際のところ、学界でもセックス経済論をそういうふうに解釈して、「バウたちは女性たちに〜という現象の 責任 があるresponsible と主張しているが〜」のような人たちはけっこういます(Laurie Rudman先生とか)。バウ先生もヴォース先生も「女が悪い」とかそういう話はしていないし、道徳的な意味で「責任がある」みたいな話もしていない。まあ「このセックス中心の見方をすると、これこれの事象が他の理論(特にフェミニスト理論)よりはうまく説明できるっぽい」ていどの話で、誰が悪いかとか、よりよい社会(おそらく、公平で多くの人々が幸福に充実して生きられるような社会)をどう作ればいいかとういうのはまた別の話です。いろんな「理論」をすぐにまにうけて善悪の判断したり社会革命とか起こそうとするのは危険なので用心しましょう。それに「理論」っていったって、こういうのはぜんぶ 単なる仮説 だからね。他の理論より事実をうまく説明し、まだ見つけられない他の現象を予測できるかどうか、ぐらいの判断基準しかない。


(追記)

セックス経済論と「セクシー化」や「男性支配」との関係についてうまく書けてないですが、まああんまりよく考えないのでしょうがないです。

「セクシー化」は、セックス経済論が指摘し予想する女性どうしの競争となにか関係があるだろうとは思います。

「男性支配」に関してはヴォース&バウマイスター先生たちがはっきり述べてるとこがあるのでちょっと引用しておきますね。

セックス経済論(SET)は、進化的原理をもとづいた理論だが、この原理を市場という文脈の上においている。この市場という文脈は、定義によって、文化的に構築されたものである。……SETは、男性の相対的に強い性欲と、それを得るためにできるかぎり小さな代償を払おうとするという動機から、男性が女性を支配しようと試みることを説明するのだ。(Vohs & Baumeister 2015)

セックス経済論は、進化心理学的な理論とも、社会構築主義的なフェミニスト理論とも矛盾するものじゃないっすよ、と言いたいようです。ラッドマンさんなんかはセックス経済学を「家父長制的だ!」っていって非難してますが、現状とその原因の解釈としてはそれほど家父長的ではない、というかセックスと性欲という眼鏡で社会を見てみて、どう解決するか考える一歩にはなるかもしれないと私は思っているわけです。まあこの眼鏡はずいぶんとあらっぽいもので、不快に感じる人は多いかもしれませんがねえ。

【シリーズ】

脚注:

1

あれ、この本自体は翻訳ないんすか。

セックス経済論 (9) 女性のセクシュアリティの抑制

女性のセクシュアリティの抑制

多くの文化で女性のセクシュアリティ1が抑制されているとされます。まあ女性の性的な活動は好ましくないとか、性的な魅力をみせびらかすような服装はつつましくないとか、極端なケースでは女性の性的な快楽を削減するために性器に外科手術を施す(FGM)とか。

昨日飯山陽先生の『イスラム教再考』という本めくったんですが、後ろの方はイスラム文化がものすごく女性抑圧的だっていうことを力説していてあそこらの人達たいへんだなとか考えてました。

ふつうの解釈は、そういうふうな女性のセクシュアリティの抑制は、まさに男性の女性支配のあらわれである、っていうふうに解釈される。男性が自分の彼女や妻とかが自分以外の相手を誘ったりセックスしたりするのがいやだから、男性は結託して女性の抑圧している。それはこれはこれでまあ一応筋が通っているように見える。フェミニズム理論でも、(2000年ぐらいまでの)一般的な進化心理学理論でもまあそういう感じ。

こういう発想の背後には、女性のセックスの抑制が 誰の得になるのか 、を考えるという姿勢があります。”cui bono?”ってやつで、犯罪を操作するときなどに、それが誰の利益になるのか考えれば犯人の推定ができる、みたいな発想ですね。女性のセックスの抑制は男性の利益になるのだから、おそらく男性(男性支配)が犯人にちがいない。

ところがバウ先生たちのセックス経済論では、いやいや、女性もお互いのセックスを抑制することで、全体としてけっこう利益を得ていますよ、むしろ女性の利益じゃないっすか、みたいなことを考えるわけです。これは、中東とかの原油産出国が、お互いの輸出量を制限することで原油の値段をつりあげるのに似ている。

証拠はどこにあるのか、っていうと、Baumeister & Twenge 2002ってやつですね。

  • 思春期女子の性的抑制(セクシーな格好の非難とか)は、父親ではなく母親によるものであり、同級生とかの男子ではなく女性どうしによるものである
  • いわゆるヤリマン女子に対する非難も男性より女性によるものが強い
  • ボーイフレンドは自分のガールフレンドとのセックスを抑制せず、むしろ多く求める
  • 婚前セックスを非難する傾向は女性の方が強い
  • 婚外セックスのダブルスタンダード(男性は許されるが女性は許されない)的発想も女性の方が強い、先進国のダブルスタンダードを認めない現代女性も、自分以外の他の女性たちの方が男性よりダブルスタンダードを認める傾向にあると考えている

など。また、FGMの習慣があるような女性の性欲や性的活動を強く抑制する文化では、女性は男性よりはるかに社会的・経済的・政治的地位が低い。これのバウ先生的解釈として、女性は男性よりはるかに劣悪な環境で生活しているので、自分たちの性的能力から最大の利益を獲得しなければならず、そのために他の女性の性的活動を抑制して値段をつりあげる必要があるからだ、ってなことになる。うーん。

まあとにかくセックスを「安い」値段で男性に与える女性は女性から嫌われ制裁を受けちゃうわけですが、それはまさにセックスの価格維持のためだ、みたいな話になるわけですわ。でも個人としてはみんなが堅い行動をとっているときに、ルール破りして柔軟なセックス活動をおこなえば他より先に優秀なお客さんを確保できたりするわけで、ここに女性の性的活動の難しさがある。

まあ前に書いた心理学者たちの「セクシー化」批判みたいなのも、あんまり女性がセクシーなのは好ましくない、という判断が背景にあるのかもしれないですね。

セックス革命

まああとは1970年前後のセックス革命について。避妊技術が一般化して、婚前・婚外セックスが一般的になると、女性のセックスが値崩れおこしてしまい、女性は非常にむずかしい問題に直面することになった。当時のフェミニストの間でもこの革命の評価はさまざまですね。2000年前後でもテレビ Sex and the City でも、結婚を考えながら男性とどうセックスするのかっていう駆け引きやら取引やら戦略やら相談やらでたいへんで、2020年代もそれは変わらんでしょうな。

まあほかにもおもしろいネタはあるんですが、とりあえず「セックス経済論」一回おしまい。バウマイスター先生関係の細かいおもしろいネタは別にあつかうことがあると思います。

【シリーズ】

脚注:

1

ここでは女性の性的な活動や欲求、そして性的な魅力などをひっくるめてセクシュアリティって表現しています。

セックス経済論 (8) セフレ/名誉か汚名か/女性間攻撃/結婚勾配

セックスは(男性にとっては)利得

前の「セックスに対する態度」のところが私にはいちばんおもしろかったのですが、あとは駆け足で。

セックスは女の資源であり、男がそれを他の資源で買う形になっているので、男性があんまり手間かけずにセックスできるというのは利得(benefit)ってことになります。これは男性にとってはあまりにも自明なので言うまでもないことだと思うのですが、女性はそうは考えないわけですわ。(Sedikides, Oliver & Campbell 1994)

何回かツイッタあたりに書いてるんですが、大学で働きはじめたときに、ゼミかなんかでそういう系統の話になってるときに、(性体験の数、特にワンチャンみたいなのをすると)「男は増えるけど「男は増えるけど女はなんかが減る!(のです)」という発言があり、非常に強く印象に残ったのですが、まあそういうことですよね。おもしろいのは、女性はセックスを利得だとは思ってないが、**コストだとも思ってない** とか。バウ先生たちは、女性は特定の相手とならセックスは好きだけど(望めば)簡単に手に入るので利得だともコストだとも思ってないのだろう、とかそういう推測をしています。これはけっこうおもしろい指摘なので、いろんなことを考えるときに頭の片隅に置いとく必要があるかもしれない。「なんで男どもはそんなにセックスセックスって言ってるんだろう?」とか考えている可能性があり、これはもしかしたら将来書くかもしれないシリーズでふりかえることになるかもしれない(なんのシリーズかはまた)。

男性にとっては仲のよい友達とのセックス(いわゆるa friend with benefit、日本でいういわゆるセフレ)はたいへんありがたいものならしいですが、女性は友達とセックスするのは利得だとは思わない。理由はもう自明ですね。

片思いの話なんですが、片思いされてもつきあう気がない場合はそれをあんまりよいことだと思わないのがふつうですが、男性はそれでもつきあう気なくとも告られたらとりあえずセックスする人がいるわけですね。女性はそういうのはない。男性は相手の片思いにつけこんで搾取することがあるけど、女性はないのです。それは単に男とセックスすることにはほとんど価値がないからです。はははは。わかりましたか?

性的経験の多さは誇りか汚名か

まあこれはもういいっしょ。一般に男には名誉であり、女にとっては不名誉です。調査たくさんあります。

女性どうしの攻撃

女性どうしも、優秀な男性をお客として奪いあっている面があるので、競争があります。主に性的な魅力を競うことになり、美容その他努力して性的魅了を向上させて競うわけですが、ライバルを蹴落す努力も大事です。

女性のセックスに価値があるといっても、多くの男性は一般にコストをかけたパートナーが他ともセックスするのを好みません。そこで、ライバルになりそうな女性が性的にルーズであるとか、多くの人に安売りしているとか、そういう噂を流すことによって攻撃します。安売りするひとはローカル市場の相場を落とすのでその意味でも許せませんしね。

社会的地位

だいたいのところ、男女のカップルはなんらかの点でだいたいのところ「つりあっている」ことが広く知られています。学歴・知性・教養とかルックスとか、似たような感じの人々がカップルになります。月とスッポン、じゃなくて割れ鍋に綴じ蓋ってやつですね。

ただ、微妙に「結婚勾配」ってやつがあることが知られていて、これは結婚カップルの男性の方が年齢や社会的地位や学歴や収入その他でちょっと上にあるのが一般的で、これは社会において全体として男性の方が優位な立場にあるからそうなるのだという解釈もあるんですけど、これはあやしい。男女はだいたい同じくらいの数がいるので、もし社会的地位のジェンダー差が原因であるなら、「あぶれる」男女は理想的にはいなくなるのですが、そうなっていない。実際には高学歴高収入女性と低学歴低収入男性が余るというかたちになっています。まあネットではよく論じられてることですよね。

これは結婚だけじゃなくて、カジュアルセックスとかでも見られる現象で、ロックバンドのグルーピー(追っかけ)の人たちとは、自分よりはるかにお金もってるジミーペイジとかロバートプラントさんとかセックスして短期的におつきあいしたりするのですが、この逆のパターンはあんまり見られないみたいです。たしかにマドンナさんやガガさんにグルーピー(グルーパー?)とかと遊んでるって思えないですね。

テニス選手のアンナ・クルニコワさんは追っかけがたくさんいたらしいですが「私はチョーおたかいレストランのメニューみたいなものなの!あんたたちは見てもいいけど、とても払えないでしょ?」(I’m like an expensive menu. You can look at it, but you can’t afford it!)って言ったってんで有名らしいです。ひどいですね。ロバートプラントやジミーペイジ先生はそんなこと言いませんでしたよ!残り読むのがつらくなりした。

あと省略。

【シリーズ】

セックス経済論 (7) セックスに対する態度の性差、特にポルノと売買春

セックスに対する態度の性差

セックスを商品とした男女の交易、っていう観点からすると、男女の間にはセックスに対する態度の差があるはずだ。まあこれもほとんど自明というか常識なわけですが、バウ先生たちはあれやこれや態度の差をあげていきます。セックスの値段が安いと男性が得、高くなると女性が得なので、それぞれそういう態度をとっているだろう、っていうのが理論からの予測になります。んでそういう証拠はたくさんある。

  • カジュアルセックス(すぐにセックスしてぱっと別れる、いわゆるワンチャン)は、圧倒的に男性の方が望むかたち。有名な実験はClark and Hatfield (1989)で、大学キャンパスで魅力的なルックスの男女が異性に対して「今日うちに来てセックスしませんか」って声かけるやつ。ものすごい有名ですね。ひっかかるのは男ばっかり。
  • 男性器は直接にその名前を呼ばれるが、女性器は婉曲的にしか表現されない。おもしろいのは、女性器は、産婦人科学の授業でもあんまり直接には呼ばれないとか。男のは安くてそこらにころがってるけど、女性のは名前を呼べないほど貴重です、とかそういうのだろうか……1

さて、売買春とポルノ。前にも書いたようにヴィクトリア朝時代は女性たちがセックスの値段を非常に高くつりあげた時代なのですが、Cott (1979)によれば、売春とポルノを競争相手として意識して、強い反対運動を行なったわけです。ポルノや売買春が簡単に手に入り、とりあえず男性の性的な欲求が満たされやすくなれば、女性のセックス全体の値段が下がってしまう。そうしたわけで、19世紀後半は非常に強い反売春・反ポルノ運動があったし、それは日本にも輸入されましたね(矯風会とか)。

現代でもポルノに反対したり、禁止したりするべきだという態度は女性の方がかなり強い(もちろん男性にも一定数いますが)。いまだにネットでもよく見る光景です。映画でのヌードとかに反対するのも女性の方が多い。一般に、性的な表現に反対するのは女性の方がかなり多いわけです。

こうしたポルノや売買春といった「性の商品化」(あるいは「性的モノ化」「セクシー化」)に反対する思想的背景というのはなかなか込みいっています。ある種のフェミニストは、女性をポルノ的に描くのは女性に対する侮辱だとか女性を貶めるものだ(degrading)だっていうふうに主張します。でもこれ、なぜヌードやポルノが女性を貶め格下げするのか、というのは私自身けっこう悩まされた問題で、いまだによくわからない。それ以上の説明がない場合が多いから。そこで、バウ先生たちの解釈はこうです。

あるエロティックなフィルムが男女を平等なかたちでセックスしているのを描いているとしよう。なぜそれが女性を格下げするもので、男性についてはそうでない、ということになるだろうか? しかし、仮にセックスが女性の資源だということならばヘテロセックスの描写は、本質的に、男性が女性から何かを得ているという事態の描写ということになる。もし男性が女性におかえしになにかを与えていなければ、そのフィルムが描写しているのは、女性の性的な贈り物がとても低い価値しかないということであり、それはフェミニストの不満が示唆するように、実質的に女性を貶めることになるのだ。(p.354)

わあ、これはおもしろい!ポルノとか(特に現代のものは)セックスしている現場ばっかり(”Gonzo”、ハメ撮り)で、その前後に男性が求愛したり奉仕したりお返ししたりするところが描かれてないので、タダでセックスさせてもらっている形になってるから女性に対する敬意を表現していない!女性だけがあらわれるピンナップとかもタダで見られるので格下げだ!一方、長い恋愛映画とかだとその一部にセックスこみでもかまわん、むしろいい、なんといっても愛とコミットメントがあるから!

ポルノに比較して売買春はもっと強く反対され非難される傾向があるわけです。バウ先生たちがあげてる調査では女性の2/3以上、男性は半分以下。売買春はOKだっていう男性は女性の3倍。何度もいうように、売買春が許容されていることは、ローカルな相場での他の女性のセックスの値段を下げる。

一部の女性の利益ということでは、売買春は合法化した方がその女性たちの利益になる。非合法であるがゆえの大きな危険を減らし、また安全や集客のために世話にならねばならないポン引きたちにむしりとられる分け前を減らすことができるから。んじゃなぜ(当事者ではない)女性たちの多くが売買春の合法化に反対する傾向があるのか。当事者女性の利益を考えるなら、フェミニストたちは合法化に賛成するべきだと思われるけど、なかなかそうはならない。なぜか。

その理由を説明するには、バウ先生たちのセックス経済論がよいだろう、というわけです。女性のセックスの値段が全体に下ってしまうのは女性全体の不利益になるので、価格を下げる可能性のある売買春には賛成しにくいからだろう、と。まあこれはまだまだ研究途上なので、他の解釈もよく考えみる必要はあるけど、セックス経済論は有望でしょ、ってなことでした。おもしろいですね。

【シリーズ】

脚注:

1

榎本俊二先生の下品マンガもわりと好きなんですが、あれも男子のそれは大量に出てくるけど女子のは描けないっぽいですよね。ははは。

生活・メンヘル改善自助本のおすすめ

認知行動療法自助本で「二の矢」をかわす

ツイッタを見ていたら、自己啓発本をディスったりするのが流行みたいですが、私は自己啓発とかハウツーとかセルフヘルプとかわりと好きなんすよね1。まあ人生いろいろうまくいかないことが多い人間なので、藁だろうが鰯の頭だろうがなんでもいい。

毎日なんだか気分がよくない、自尊心というか自己評価が低くてうまくいかない、コミュニケーションに困難をかかえてます、みたいなのは多くの人が困ってることなので、いろんな本がありますわよね。そういうなかでも私が読んで少しは役に立ったと思えるやつを紹介しておきます。

まずは、その手の本の元祖本家であるアルバート・エリス先生のやつ読むのがいいと思う。もうこの先生はえらくえらくて偉すぎて、世界で何十万人を救ったかわからんほどでしょうね。なんといっても、本人の語り口が楽しそうで、こんな楽しい人間になれるんだったらそら認知行動療法ぐらいやります、ってなもんです。

  • アルバート・エリス『性格は変えられない、それでも人生は変えられる』

アルバート・エリス『現実は厳しい、でも幸せにはなれる』。

実はこの2冊は同じ本が原書で、タイトルだけ違うのか中身もすこしいじってるのかわかりませんが、まあエリス先生の本はなに読んでもまったく同じこと書いてるので、どれ読んでもいっしょです。

『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』

この本はタイトルがいいですよね。お釈迦様のお説教に、次のような話(「二の矢」の比喩)があるらしいんですが、まあ我々はそういうことはどうしても学ばないとならんのですな。

「修行者たちよ」釈尊は、次のように弟子達に尋ねた。

「まだ私の教えを知らない者にも、心楽しい時もあれば、苦しい時もある。すでに私の教えを知っている弟子たちにも、心楽しい時もあれば、苦しい時もある。では、まだ私の教えを知らない者と弟子のあいだには、どのような違いがあるだろうか」。

弟子達は謙虚に言った。「分かりません。貴い人よ、どうか教えて下さい。私たちは貴方の教えを根本とし、貴方を眼目として生きているのですから」

釈尊は絶妙の譬えをもって答えた。

「不幸にして、矢に打たれた人があるとしよう。ここで、次にどうするのかに関して、二種に分かれるだろう。一人は、慌てふためき、第二の矢を受けてしまう人。もう一人は、矢に打たれても痛みに耐え動揺せず、第二の矢をかわすことのできる人である」。

仏は続ける。「仏の教えを知らない凡夫は、最初の人である。苦しさに嘆き悲しんで、混迷の心は深まるばかり。楽も、かえって迷いの心を増すばかりである。仏の教えを知る人は、第二の人である。苦しみを受けてもそれに耐え、苦しみに囚われることが無くなり、生死の束縛を脱する事ができる」

「このことが、仏教を知らない者と知る者との違いなのである」

(http://www1.odn.ne.jp/ceu55990/DAININOYA.html)

エリス先生の本読むとどんなことがあってもみじめにならないということはないと思うのですが、まあその対処法の入口はわかるかもしれない。仏教やストア派のエピクテートスやマルクスアウレリウス勉強してもわかるかもしれません。とにかく自助本は、それ以上の御布施が必要ないところがいいですね2

エリス先生は元祖でわるくないけどけっこうクセがあるので(私は好きですが)、日本で基本書みたいな扱いをされているのはバーンズ先生ですか。これはいかにもアメリカンでわかりやすく具体的で実践的な工夫がなされています。ちょっと長くてくどい感じはある。

  • デビッド・バーンズ『フィーリングGoodハンドブック』

ついでに、非モテの人は次のも読んでみましょう。いわゆる「ナンパ本」の元祖でもあります。エリス先生もバーンズ先生も、若いときは非常に内向的でモテなくてかなりつらい時期を送ったらしいのですが、どちらも20代後半ぐらいのある時期にナンパ声かけ100本ノックみたいなのやってみて非モテから解放されて自信がついたみたいなんですよ。どっちにとってもとても大きい経験だったみたい。女性には迷惑でしょうけどねえ。

『孤独な人が認知行動療法で素敵なパートナーを見つける方法』

まあそううんじゃなくてもっと具体的で実践的な方がいい、という人々は次の2冊のどっちか。どちらもとにかくどうしようもないところから、「とりあえず毎日散歩しましょうか」みたいなところからはじまっていて、まあそういう簡単ですぐにできるところからはじめるというのはとてつもなく大事ですね。とにかく、なにする前にも自分をすこし楽にしてあげないとならない。

  • ロバート・セイヤー『毎日を気分よく過ごすために』

メラニー・フェネル『自信をもてないあなたへ:自分でできる認知行動療法』

少し本格的に整理されてるのがいい、って人は次のがおすすめ。本の体裁とか堅そうに見えるけどそうでもないです。運動習慣とか先送り防止とか具体的でたいへんよい。本読むのが好きなわけではない、っていうひとはこれがいいと思う。というか、1冊ですませたいし、あんまり面倒なこと考えたり、それの哲学的な意味はどうなってるのだろうか、とか考えたくない人はとにかくこのクラーク先生の本で十分。

  • ディヴィッド・クラーク『認知行動療法に基づいた気分改善ツールキット』

おまけとしてこれ。ADHDではないとしても、そういう軽薄・うっかり・あわてんぼ・先送り、忘れ物傾向ある人は、身におぼえのある症例がたくさんでてきて泣き笑いみたいになっておもしろいっしょ。

  • サフレン『大人のADHDの認知行動療法』

まあ1990年前後に、メタ倫理学や功利主義の勉強してたころ、リチャードブラント先生とかR. M. ヘア先生とかが本当に道徳的に重要であるとカウントすべき人々の選好や欲求は、単なる欲求すべてではなく、最大限の論理と事実にさらして、いわば「コグニティブサイコセラピー」をおこなった上でそれでももちつづけるような選好・欲求だ、みたいな話をしているのを読んでいて、そのときは「認知療法ってなんじゃいな、なんだかあやしい」みたいに思っていたのですが、その後メタ倫理学とは別に、あるていど本気で勉強せねばならないいことになったわけですわ。学術的とはいえない勉強ですけどね。そんでもまあブラント先生たちが言いたかったことことはよくわかるようになったのです。

脚注:

1

ナンパなんか特に興味もないしやろうと思ってもできるはずがないけど、指南書はけっこう読みました!そして自分にはできないと納得しました。

2

一部の自己啓発本・自助本は、あとで御布施を要求してくることがあります。たとえば「マ○ン○フ○ル」とか、セミナーに参加した方がずっとよくわかるのでぜひ参加しましょう」みたいになっているのをけっこう見ます。

トランスジェンダーについての基礎知識

めくってみているDavid C. Geary (2021) Male, Female: The Evolution of Human Sex Difference, 3rd ed.っていうのにトランスジェンダーの人々についての基礎知識があったので、Emacsのorg2blogってのでwordpressを書くテストをかねてメモあげてみます。

  • ジェンダーアイデンティティ = 自分のジェンダーについての当人の心理的感覚。99%以上は誕生時の性別に一致。
  • トランスジェンダーの人は生まれつきの性別がジェンダーアイデンティティと合ってない人。(ただし男女以外の場合もある。ノンバイナリー、ジェンダー流動的、ジェンダークィアなど)。
  • さまざまな文化で性別に典型的でないふるまいをする人々を記述する言葉がある。
  • ジェンダー違和(gender dysphoria 性別違和)、異性として見られ受けいれられたいという強い欲求をもつ人々がいる。
  • 性別に応じた典型とちがうふるまいをする子供は多い(男児の3%、女児の5%程度)が、これは生まれの性別に対する違和感とはまたちがったもの。
  • 1〜2%の子供が異性になりたいと語ることがあるが、これもトランスジェンダーとはちがう。このなかの85%程度は、思春期から青年期には異性になりたいと望むことがなくなる。一部は生まれの性別にとどまりつつホモセクシュアル・バイセクシュアルと自認するようになる。
  • 子供時代から性別違和を感じている人々は「早期型」性別違和者。子供時代から性別に非典型的な振舞をし、ホモセクシュアルになる傾向がある。
  • 成長してから性別違和を訴える「後期型」は圧倒的に生まれは男性。子供時代にはさほど強い性別違和はなく、しばしばヘテロセクシュアルであり、人生のけっこうな部分をヘテロセクシュアルとして生活した経過をもつ。この種の人々の一部は自分自身が女性であると想像することに関して性的興奮をおぼえることがあり、Blanchardという研究者は自己女性化嗜癖autogynephiliaと名づけたが、これはけっこうな論争になる。
  • 成人期の性別違和は子供時代よりずっと少ない。あるメタアナリシスでは、14,705人に1人がトランス女性。トランス男性はもっと少なく、38,461人に1人。ただしこれは医療機関に相談した人々の数なので、かなり過小評価になっているかもしれない。
  • 近年、性別違和を訴える青少年が増えているが、一般的な認知が普及したから周りの人々ににそうしたことを告げやすくなったためか、あるいはマスコミ等の影響でそう感じる人が増えているのかは不明。

これくらい。あっさりしてますが、まあこの手の情報さえあんまり流れてなかったりするから。

英語圏ではトランスジェンダーの人々や、そうした人々に対する差別みたいなのについての論争がかなり長く続いていて、国内のネットでもここ数ヶ月けっこう激しいやりとりが続いているようですが、セックスなんかについての話は、ネットにあるブログ記事とかあさる前に、まずはちゃんとした教科書やハンドブックみたいなものを見て基本を確認しておきたいように思います。

関連記事はこっち。

Rathus先生たちの「ジェンダーアイデンティティ」解説

2005年の教科書記述で、すでにちょっと古くなってしまっているのですが、Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005のp.175からの項目を江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com が勝手に訳したもの。著作権クリアしておいません。版も古いです。だれかいっしょに訳出しませんかね。出版社はどこに相談したらいいかなあ。医学系のところじゃないとだめだわね。新しい版はずいぶん変わってる。


ジェンダーアイデンティティ

Q: ジェンダーアイデンティティとは何でしょうか? 私たちのジェンダーアイデンティティは、男性であるとか女性であるとかといった意識や感覚であり、私たちの自己概念の最も明白で重要な側面です。あとで見るように、ジェンダーアイデンティティはふつうの人の解剖学的な性と一致しますが、必ずしもそうではない場合があります。性割り当て(ジェンダー割り当てとも呼ばれます)は子どもの解剖学的な性を反映しており、通常は誕生時におこなわれます。子どもの性別は両親にとって重要なので、手や足の指を数える前にまず「男の子?それとも女の子?」と知りたがるものです。

ほとんどの子どもは生後18ヶ月ぐらいのときに自分の解剖学的な性別を意識するようになります。生後36ヶ月までには、ほとんどの子どもはジェンダーアイデンティティについてしっかりした感覚を獲得します(Rathus, 2003)。

ジェンダーアイデンティティにおける生まれと育ち

Q: なにがジェンダーアイデンティティを決定するのでしょうか?生物学的に胎児期の性ホルモンによって、私たちの脳は男性的になるか女性的になるか生物学的にプログラムされているのでしょうか? 出生後の学習経験などの環境が私たちが男性であるとか女性であるといった自己概念を形成するのでしょうか? あるいは、ジェンダーアイデンティティは生物学的影響と環境影響を混ぜあわせたものを反映しているのでしょうか?

ジェンダーアイデンティティはほとんど常に染色体の性別と一致します。しかし、そうした整合性はジェンダーアイデンティティが生物学的に決定されていることを確証するものではありません。私たちは解剖学的な性別にしたがって男性あるいは女性として育てられる傾向もあります。それでは、生まれと育ち、生物学と環境の役割を洗い出すことができるでしょうか?

研究者たちは、手掛かりをインターセクシュアルという稀な人々の経験に見つけだしました。インターセクシュアルの人は、一方の生殖腺をもってはいるものの、外性器が曖昧であったり、反対の性の外性器である人々です(Zucker, 1999)。インターセクシュアルはときどき反対の性(染色体の性とは別の性)として育てられることがあります。研究者が不思議に思ったのは、こうした子供たちのジェンダーアイデンティティは、染色体や生殖腺の性を反映するのか、それとも誕生の際に割り当てられ、それにしたがって育てられた性を反映するのか、という点でした。先に進む前に、真のハーマフロダイト(両性具有)とインターセクシュアルを区別しておくことにしましょう。

遺伝学的な性にかかわりなく、ハーマフロダイトの人は、誕生の際に割り当てられたジェンダーアイデンティティとジェンダー役割を引き受けることがしばしばです。図6.3は、右の精巣と左の卵巣をもった遺伝学的女性(XX)です。この人はしっかりした男性のアイデンティティをもちながら結婚して義理の父親になりました。しかしながら、生物学と環境の役割はもつれあっています。というのは、真のハーマフロダイトの人は、両性の生殖腺をもっているからです。

真のハーマルフォダイトは非常にまれです。もっと普通なのはインターセクシュアルで、新生児1000人に1人ほど存在します。インターセクシュアルの存在は、科学者にジェンダーアイデンティティの形成にあたって生まれ(生物学)と育ち(環境)が果たす役割を確かめる機会をもたらしました。インターセクシュアルの人は睾丸あるいは卵巣のどちらかをもっていますが、両方はもっていません。ハーマフロダイトとはちがい、インターセクシュアルの生殖腺(精巣あるいは卵巣)は、染色体の性に合致しています。しかし、出生前のホルモンのエラーによって、身体内部の生殖器が曖昧であったり、異性のものに似ていたりするのです。

女性のインターセクシュアルで一番よく見られるものは、congenital adrenal hyperplasia (CAH)で、遺伝学的女性(XX)が女性の身体内性的構造(卵巣)をもっており、しかし男性化した外性器をもっている、というものです(Barenbaum & Hines, 1992; Migeon & Donohue, 1991; Zucker, 1999)。クリトリスが肥大して、小さなペニスのようになります。この症状は、男性ホルモンが過剰に分泌されたことによります。一部の例では、胎児自身のアドレナリン腺が過剰な男性ホルモンを作りだすことがあります(アドレナリン腺は通常は男性ホルモンは低いレベルしか作りません)。また別の一部では、妊娠中に母親が合成男性ホルモンを摂取したという場合もあります。副作用が知られる前の1950〜60年代には、流産を繰り返す女性に対して、流産を防ぐために合成男性ホルモンが投与されたことがあります。

スウェーデンの研究者Anna Sevinとその共同研究者たち(2003)は、CAHの2才から10才の26人の少女およびそれと同年齢のCAHをもたない26人の少女を比較して、ジェンダー的行動と関心を調べました。CAHの少女はよりも、自動車などの男の子らしいオモチャを好み、人形のような女の子らしいオモチャを好みませんでした。CAHの少女はまた、男の子を遊び仲間にし、男の子っぽい職業を望んでいました。CAHの娘をもつ親は、そうでない娘をもつ親よりも、娘の行動を「男の子っぽい」と評価しましたた。研究者は、少女の親が子供の遊びに影響を与えた証拠を見いだせませんでした。Servinと共同研究者たちはこの結果を、ホルモンがCAHのある少女とそうでない少女の間の違いに寄与していることを支持するものだと解釈しました。

インターセクシュアルのもう一つのタイプであるアンドロゲン不応症 androgen-insensitivity syndrome にはさまざまなものがあります。一つは、遺伝学的に男性(XY)である人が、遺伝子変異により、胎児期に通常より低い男性ホルモンへの反応性しか示さないことがあります(Adachi et al., 2000; Hughes, 2000)。その結果、性器は正常に男性化しません。こうした人の外性器は出生の時点では女性化されており、小さな膣をもっていたり、精巣が下降していなかったりします。男性ホルモンに反応しないので、こうした男性の輸送管システム(精巣上体、精管、精嚢、排出管★)は発達しません。しかしながら、胎児の精巣はMullerian inhibiting substance (MIS)を作り出し、子宮や輸卵管の形成を阻害します。男性ホルモン不反応症候群の男性は、陰毛や腋毛が薄いか発毛しません。これらの部位の発毛は男性ホルモンに左右されるからです。

不全型アンドロゲン不応症の少女もまたインターセクシュアルとなります。不全型アンドロゲン不応症(PAIS)や完全型アンドロゲン不応症(CAIS)は、女児2000〜5000人に対して1人の割合です。この症状は、X染色体が1本しかないか、あるいはXX染色体構造はもっているがその染色体の一部を失なってしまった女児にあらわれます。CAISの女児は典型的な女性の外性器を発達させますが、内性器は発達しないか、正常に機能しません。対照的に、PAISの女子は男性化した外性器をもち、男の子として、そして時に女の子として育てられます。Melissa Hineと共同研究者による研究では、CAISでX染色体を1本しかもってない22人の女性を、同数の正常なXX染色体構造の女性と比較しました。CAIS症状の人とそうでない人の間には、自己評価、一般的な心理学的幸福感、ジェンダーアイデンティティ、性的指向、ジェンダー的行動パターン、結婚状態、パーソナリティ特性、利き手などについて差はありませんでした。Hinesたちは、X染色体2本と卵巣をもつことは、人間において女性的な行動を発達させるには本質的ではないと結論しました。

ドミニカ症候群 Dominican Republic syndromeがはじめて記録されたのは、ドミニカ共和国の2つの村で18人の少年についてです(Imperato-McGinley et al., 1974)。ドミニカ症候群は、遺伝的な酵素異常で、テストステロンが外性器を男性化するのを阻害します。男児たちは正常な精巣と内性器をもって生まれますが、外性器は正常に形成されません。ペニスは成長せずクリトリスに似ています。陰嚢は完全に形成されず、女性の大陰唇に似ています。男児らは部分的に形成された膣ももっています。男児たちは出生時には女児に似ているため、女性として育てられます。しかし思春期には、精巣が正常にテストステロンを分泌し、驚くような変化が生じます。彼らの睾丸は下り、声変りし、筋肉組織は盛り上がり、「クリトリス」はペニスの大きさになります。女児として育てられた18人の男児のうち、17人は男性としてのジェンダーアイデンティティをもつようにりました。18人のうち16人はステロタイプな男性的性役割を受けいれました。残りの2人のうち、1人は男性としてのジェンダーアイデンティティを採用しましたが、ドレスを着るといった女性的な性役割を維持しつづけました。もう1人は女性としてのジェンダーアイデンティティを維持して、のちに思春期の男性化を「修正する」ために性割り当て手術を求めました。女の子として育てられたのにもかかわらず、これらの人のほとんどすべては男性的な役割に問題なく移行しました。これはジェンダーアイデンティティにおける生物学的要因の本質的な重要性を示唆しています(Bailey, 2003b)。

多くの科学者の結論では、ジェンダーアイデンティティは生物学的要因と心理社会的要因の複雑な相互作用によって影響されていいます。しかし、「複雑な相互作用」アプローチは、生まれ(生物学的要因)と育ち(心理社会的要因)のどちらがより重要か、という難問を避けることができたのでしょうか?生まれに力点をおけば、個人の選択の役割を減らすことになり、多大な政治的含意をもつことになります。心理社会的要因に相対的に大きな比重を置く人もいますが(Bradley et al., 1998; Money, 1994)、生物学的要因の役割を強調する人々もいます(Collaer & Hines, 1995; Diamond, 1996; Legato, 2000; Servin et al., 2003)。しかしながら、「女児として育てられた男児たち」についての「もっとよく見てみよう」コラムにあるように、新生児は心理性科学的に中立であり、ジェンダーアイデンティティは主に環境要因に依存するという理論は、近年「厳しい道」を歩んでいます。

読者が人間の性とジェンダーアイデンティティの起源にまつわる複雑な諸問題を十分学んでしまったと思ったら、クロコダイルのことを考えてみましょう。クロコダイルの卵は性染色体をもっていません。子供の性は、卵が発育する温度によって決定されます(Ackerman, 1991)。オスは暑いのを好み(少なくとも華氏90度)、メスは寒いのを好むわけではないですが、華氏80度以下を好みます。

トランスセクシュアル

1953年に、「性転換手術」を受けるためにデンマークに行った元下士官が新聞記事を飾りました。彼女はクリスティン(もとはジョージ)・ヨーゲンセンとして知られるようになりました。それ以来、何千人ものトランスセクシャル(トランスジェンダーとも呼ばれます)の人が性再割り当て手術を受ています。Q: トランスセクシャルとはなんでしょうか?

トランセクシャル(transsexualism)とは、ある人は異性の解剖学的な特徴をもち、異性として生活したいと願うことです。多くのトランスセクシャルがホルモン治療や、異性の典型的な外性器の見掛けにする手術を受けています。こうした手術は、より性格にいうと、女性から男性のトランスセクシャルよりは男性から女性へのトランスセクシャルでおこなわれることが多くなっています。手術のあとには、性的活動に参加してオーガスムさえ得ることができます。ある研究によると、「ニューウーマン」の2/3のが性的活動の間にオーガスムを得ています(Schroder & Carroll, 1999)。しかし、彼女たちは妊娠したり子供を生んだりすることはできません。

トランスセクシャルの人はなぜ異性として生活したいのでしょうか? John Money (1994)によれば、トランスセクシャルはジェンダー違和感(gender dysphoria)を経験しています。つまり、そうした人たちは、性器の解剖学的特徴と、自分のジェンダーアイデンティティやジェンダー役割の不一致を経験しています。トランスセクシャルの人々は、一方の解剖学的性をもっていますが、異性の一員だと感じるのです。この食い違いから、この人々は自分のもともとも性的特徴(外性器や内性器)を取り除き、異性の一人として生活したいと感じるのです。男性から男性のトランスセクシャルは自分をなんからの運命のいたずらによって、まちがった性器をつけられた女性だと思います。女性から男性のトランスセクシャルは、自分を女性の体に捕われている男性だと感じます。

Ray Blanchard (1988, 1989)とJ. Michael Bailey (2003a, 2003b)は別の見方をしています。トランスセクシャルの人への広範な調査に基づいて、女性になることを求める人々は、さらに別のカテゴリーに分類されると主張しています。つまり、極端に女性的な男性と、女性になるというアイディアによって性的に興奮する人々です。第一のカテゴリーにはBlanchardが「同性愛的トランスセクシャル」と名づける人々——極端に女性的なゲイであり、他の男性との性的活動によっては完全には満足できない人々——も含まれます。第二のカテゴリーは、「オートジネフィリックautogynephilic自分が女であることを好む」、つまり、自分の身体が女性であるという空想によって性的に刺激される人々を指します。

トランスセクシャルがどの程度一般的であるのかは不明のままですが、かなり稀であると考えられています。米国のトランスセクシャルの数は5万人以下と見つもられています。性再割り当て手術を受けた人は2万人未満です(Jones & Hill)。

同性愛的トランスセクシャルは通常、幼い子供のころから遊びや衣服についてジェンダーをクロスした好みを見せます。記憶に残っているかぎり、自分は異性に属していると感じていたと報告する人もいます。男性から女性のトランスセクシャルの人々が回想するところによると、子供のころ、人形で遊ぶのが好きで、フリルのついたドレスを着るのを楽しみ、荒っぽく転がりまわるような遊びを嫌っていました。こうした人々は仲間からしばしば「おんなおとこ sissy boy」とみなされていました。女性から男性へのトランスセクシャルの人々によれば、子供のころはドレスが嫌いで「おてんばtomboy」としてふるまっていたということです。こういう人々は「男の子の遊び」が好きで、男の子といっしょに遊びました。女性のトランスセクシュアルは男性のトランスセクシュアルより適応するのに苦労しないようです(Selvin, 1993)。「おてんば」は「女男」より仲間に受けいれやすいと感じています。大人になってからも、女性のトランスセクシュアルは男性の衣服を着て、ほっそりとした男性だとして「パス」する方が、筋骨たくましい男性が体格のよい女性として「パス」するより簡単かもしれません。

性再割り当て

外科手術は性再割り当ての一要素です。手術は不可逆なので、医療関係者は、再割り当てを求める人がそうした決断をする能力があり、その帰結を徹底的に考えたのかを細心の注意をもって検討します。医療関係者は通常、トランスセクシュアルの人が手術の前に、オープンに異性として生活できないか、さらにしばらくの間試験的に生活することを要求します。

いったん決定に到達したら、生涯にわたるホルモン治療が始まります。男性から女性へのトランスセクシュアルの人は女性ホルモンを受け、それが女性の第二次性徴を発現させます。胸と臀部に脂肪を堆積し、肌を柔らかくし、ヒゲの育毛を抑制します。女性から男性のトランスセクシュアルは男性ホルモンを受け、それが男性の第二次性徴を発現させます。声が低くなり、体毛が男性のパターンにしたがって発毛し、筋肉が増大し、胸と臀部hhhnnnnの脂肪が少なくなります。クリトリスももっと大きくなります。男性から女性へのトランスセクシュアルの場合、声のピッチを上げるために「音声手術」をおこなう場合もあります。

性再割り当て手術は大分美容的(cosmetic)なものです。医学では内性器や生殖腺を構築することはできません。男性から女性への手術は一般に女性から男性への手術よりもうまくいきます。まずペニスと睾丸が除去されます。ペニスからの組織が人工ヴァギナの場所におかれ、感覚神経末端が性的感覚を与えるようにします。治療の間、ペニスの形をしたプラスチックかバルサ材でヴァギナの形を維持するように使われます。

女性から男性への場合、内性器(卵巣、輸卵管、子宮)と胸部の脂肪組織が除去されます。FtMトランスセクシャルのなかには、人工的なペニスを構築するペニス形成術 phalloplasyを受ける人もいます。しかしこのペニスはあまりよく機能せず、手術には高額の費用がかかります。それゆえ、ほとんどのFtMトランスセクシャルは子宮摘出、乳房切除、テストステロン療法で満足します(Bailey, 2003b)。

将来の極端な医療的介入のことを考えて、手術を受けることをためらうトランスセクシャルの人がいます。また、ハイステータスな職業経歴や家族関係を危うくしないために手術を控える人もいます。こういう人々も、手術をしないとしても、自分は異性の一員だと考えつづけます。